2017年12月21日

2017.12.13 横浜散策第6回 磯子区

JR根岸線磯子駅⇒Barilla City 横浜磯子⇒中村孝明貴賓館⇒汐見台ストア前バス停留所⇒久良岐公園⇒久良岐能舞台⇒藤の木中学校⇒岡村6丁目⇒天神前バス停留所⇒とんかつ美とんさくらい(昼食)⇒岡村天満宮⇒横浜学園前⇒岡村共栄会⇒滝頭2丁目・岩瀬商店街⇒横浜滝頭郵便局⇒たきがしら芭蕉苑⇒丸山市場・魚増跡⇒滝頭第三住宅⇒横浜市電保存館⇒坂下橋・掘割川⇒磯子橋東詰⇒根岸なつかし公園・旧柳下邸⇒根岸八幡神社⇒米国政府専用区域・根岸森林公園⇒馬の博物館⇒レストランドルフィン⇒根岸駅

磯子駅からすぐ見上げるばかりの崖をとても立派な専用エレベーターで上に上りました。
DSCF2294no2.JPG
上には「Brilla City 横浜磯子」があり、ここは平成25年竣工で、東に横浜湾、西に富士山、北にみなとみらい、南に三浦半島が望める高台にある全13棟、1230戸のマンション群でした。
DSCF2302no2.JPG
元は昭和天皇の義弟、東伏見邦英伯爵の療養のために1937年に建てられた貴賓館を含む広大な用地だったようです。貴賓館は現在、日本料理の鉄人、中村孝明さんのレストランとなっていました。
DSCF2323no2.JPG

久良岐公園(くらきこうえん)は、横浜市港南区と磯子区にまたがる、横浜市立の都市公園(総合公園)で面積は、約23万m2。汐見台団地の造成にあわせて整備され、1973年(昭和48年)に開園したのです。名称はこの一帯の古い地名である久良岐郡から採られたとのこと。
DSCF2364no2.JPG
中央付近に池があり、北側は散策路のある雑木林の先に久良岐能舞台がありました。南側は運動広場や芝生広場、桜の林、横浜市電の保存車両などがあり、春には花見客でにぎわうようです。
横浜市電1156号は1972年に廃止された横浜市電の車両。久良岐公園に保存されていました。1952年に製造された1150型のうち、2012年現在現存している唯一の車両とのことです。
DSCF2351no2.JPG

久良岐能舞台(くらきのうぶたい)。
1917年(大正6年)に東京日比谷の帝国ホテル裏に建てられ、1931年(昭和6年)に東京芸術大学の前身である東京音楽学校邦楽科に寄贈されたとのこと。同大学には1964年(昭和39年)に能舞台が新設されたため解体保存されていたのを、宮越賢治が譲り受け、ここに移築したのです。1984年(昭和59年)に横浜市に寄贈され、現在は市民の能楽・茶道・日本舞踊などの活動に使われているようです。部隊の鏡板には、日本画の大家平福百穂による老松が描かれていました。
DSCF2404no2.JPG

フォークデュオの「ゆず」は北川悠仁と岩沢厚治の二人で1996年3月に結成したとのこと。最初は路上ミュージシャンからのスタートで、横浜でライブを行っていたようです。「ゆず」の出身地はこの磯子区岡村で岡村中学卒業とのこと。磯子警察の岡村交番で「ゆず」のゆかりの地などが記された「ゆずマップ」が1998年12月に完成したとのことです。彼らは2003年には「NHK紅白歌合戦」に初出場。只今も人気者です。ということでこの交番のすぐ傍の「とんかつ美とんさくらい」で昼食。有名人の色紙などが一杯ありました。もちろん「ゆず」の写真などもありました。私は絵葉書をいただきました。
DSCF2445no2.JPG

岡村天満宮は源頼朝の家臣が京都北野天満宮の分霊をいただき、この地に創建したといわれる天満宮。大きな石の大鳥居をくぐり石段を上るといきなり「ゆずの壁画」がデーン!これって彼らがライブをしていた木町・松坂屋屋上に飾られていたのが閉店を機にこちらに移築され、ゆずの聖地巡りのスポットになっているとのことでした。
DSCF2453no2.JPG

DSCF2459no2.JPG
境内には針塚や筆塚の碑、なでるとご利益があるという「天神様の撫で牛」もありました。

滝頭2丁目に入り岩瀬商店街を行くと丸山市場がありました。
ここには美空ひばりの父、加藤増吉さんが始めた魚屋『魚増」が営まれていたとのこと。市場の中を通ると今もお魚屋さんがあり、従兄弟の方が引き継いで営んでいるとのことでした。 お店は横浜市電保存館やひばりさんの出身校滝頭小学校もすぐそばにありました。

横浜市電保存館。
明治37年から昭和47年まで約70年間"ちんちん電車"の愛称で横浜市民の足として親しまれた市電が当時の姿で見られました。「横浜市電」は、明治37(1904)年から昭和47(1972)年までの約70年間、“ちんちん電車”の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍したのです。横浜市電保存館は、市電が廃止された翌年の1973年(昭和48年)に滝頭車両工場跡地に開館し、その後、昭和58(1983)年には、現在の市営住宅1階に建て直されました。
DSCF2507no2.JPG
館内には、7両の市電車両、停留所標識、敷石などが昔の姿で保存され市電が走っていた時代を再現しているようでした。
DSCF2517no2.JPG
歴史展示コーナーでは、「横浜の発展と交通」をテーマとして、横浜の発展の礎となった吉田新田の干拓から、横浜開港、関東大震災、戦後の復興、市電の最盛期を経て廃止に至る経過、その後の横浜の都市計画の基となる6大事業や地下鉄への移行などが解説されていました。
DSCF2511no2.JPG

堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川で大岡川の分流でもあります。この川は明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たしたようです。1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募り、吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行ったのです。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定されたとのことです。
DSCF2548no2.JPG

根岸なつかし公園・旧柳下邸。
DSCF2561no2.JPG
旧柳下邸(きゅうやぎしたてい)の建物は明治〜大正期の有力商人であった柳下氏により大正中頃に建設され、1923年(大正12年)の関東大震災では一部倒壊したが大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を、柳下家の人々に受け継がれてきたのです。横浜市では1996年(平成8年)に敷地を取得し「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として一般公開しているのです。建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されていました。洋館の屋根は、周辺の町並みから突出しており、近隣のランドマーク的存在でした。 東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺き。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっているのです。洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついていました。柳下家はもともと明治初頭より、横浜でも有数の「銅鉄引取商」として弁天通に「鴨井屋」の屋号で店を構え、金属の輸入業を営んでいました。平次郎、達蔵兄弟の二家がありました。旧柳下邸の表玄関の横には、鴨井屋の屋号が彫られた鉄製の天水桶がありました。
DSCF2567no2.JPG

根岸八幡神社は、551年(欽明天皇12年)に海上に出現した八幡宮神体を祀り、八幡橋八幡神社の地に創祀、1766年(明和3年)この地に遷座したといわれているようです。明治8年村社に列格、伊勢社、宇佐八幡神社、山王社を合祀したとのことです。
DSCF2577no2.JPG

根岸森林公園は横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地。公園は根岸住宅地区の施設を挟んで馬場内エリアとスタンドエリアがあり、馬場内エリアには広大な芝生エリアが広がっており、特に桜は有数の見所で、花見シーズンには人出が多いとのことでした。スタンドエリアには、現在でも横浜競馬場の遺構である旧一等馬見所が現存しており、横浜競馬場の説明文などがありました。高台にあるため、みなとみらいや、晴れた日には富士山なども見えるようです。
DSCF2609no2.JPG
横浜競馬場は1866年(慶応2年)に開設。1867年(慶応3年)に日本初の洋式競馬が行われた横浜競馬場の跡地で、現在も残る「旧一等馬見所」は関東大震災後に建築家のJ・H・モーガンの設計で再建されたもの。戦前には「帝室御賞典(現:天皇賞)」や「横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)」などの大レースが行われるなど、日本における洋式競馬の黎明期を代表する競馬場で、各地に設立された競馬場のモデルともなったようです。戦争が激化した1942年(昭和17年)に競馬の開催を中止。翌1943年(昭和18年)には海軍により接収され閉鎖。終戦後の1945年(昭和20年)9月、他の軍事施設と同様にアメリカ軍により接収され、1947年(昭和22年)からはアメリカ軍の管理下に置かれたのです。接収中、馬場内エリアは米軍専用のゴルフ場となっており、現在の芝生はその名残でもあるのです。1969年(昭和44年)に旧スタンドなど一部を除き接収が解除され、国有地となった敷地の大部分を横浜市が無償で借り受けて整備し、1977年(昭和52年)10月に根岸森林公園として開放されたのです。その他のエリアも1969年(昭和44年)より日本中央競馬会が整備を進め、1977年(昭和52年)に「根岸競馬記念公苑」として開設。馬の博物館もここに含まれていました。1982年(昭和57年)には旧スタンドも返還され、「旧一等馬見所」の裏手にはモーガンの設計図や竣工当時の写真パネルが展示されています。
DSCF2620no2.JPG

ユーミンの曲に出てくる根岸森林公園の高台にあるカフェ・ドルフィン。
DSCF2624no2.JPG
1974年(昭和49年)に荒井由実でリリースされたアルバム『MISSLIM』。そのA面4曲目に収録されている『海を見ていた午後』に♪山手のドルフィンは静かなレストラン、、とあるようです。
リリースから42年経った今でも、この曲の面影を求めて多くの人が店を訪れるとのことです。「ドルフィン」が店を構えるこの根岸旭台は、高級住宅地の様子でした。

今日は参加者28名、講師浅井先生、CD清水さん。晴天で気温12℃、歩程7km超、ほぼ無風だったことが幸いでした。まさに今年最後の紅葉を楽しんだ感がありました。しかし競馬場跡は広大でやや草臥れました。また根岸森林公園すぐわきに「米国政府専用区域」とあったのがなんとも複雑。終戦後70年以上たっても戦争の跡があるということです。
横浜は広い!18区もあるのです。今日はこれでやっと1/3を終了しました。今後も何が見られるか楽しみです。
posted by yunofumi at 22:17| あちこちウォーク

2017年12月15日

2017.12.7 第20回東京の新発見「新宿区」

副都心線西早稲田駅3番出口⇒タリーズコーヒー⇒早稲田大学西早稲田キャンパス⇒新宿コズミックセンター・戸3丁目⇒箱根山・箱根山陸軍戸山学校址⇒都立戸山公園⇒箱根山通り⇒早稲田大学正門⇒穴八幡宮・馬場下交番⇒木組博物館⇒高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑⇒甘泉園公園⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒大隈通り⇒観音寺⇒早稲田大学・大隈講堂・会津八一記念博物館・坪内博士記念演劇博物館「シェークスピア」完訳記念⇒トラード早稲田⇒
成文堂⇒鶴巻公園⇒牛込弁天町・幸和印刷⇒宗参寺・牛込氏墓・山鹿素行墓⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒草間彌生・草間彌生ミュージアム⇒晴和病院⇒林羅山墓地・北山伏町⇒市谷小学校⇒市ヶ谷加賀町アパート⇒峰隆太氏宅⇒牛込第三中学校⇒なんど児童遊園⇒中華料理月下炉(げっかろ)(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒フルオンザヒル⇒神楽加賀⇒善国寺⇒寺内公園⇒本多横丁⇒神楽坂通り⇒JR飯田橋駅

都立戸山公園は箱根山を中心とした箱根山地区と、明治通りを隔てた広場・大久保地区に分かれていました。箱根山(はこねやま)は、都立戸山公園内にあり、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)とのこと。山頂の水準点の標高は44.6m。紅葉が美しく近所の保育園児が多くお散歩に来ていた。また本日はこれmでのウォーキングでご一緒になった叔父様3人組と記念撮影をしました。
DSCF1978no2.JPG

箱根山は尾張徳川家のシミ屋敷があったところ。そこには見事な大名庭園戸山荘があったとのことですがこれがのちに陸軍戸山学校になり、今は記念碑がありました。この学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)の一つで、歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していたとのこと。現在、歩兵戦技・体育の教官育成と研究は自衛隊体育学校に、軍楽は陸上自衛隊中央音楽隊教育科に引き継がれているとのことでした。
DSCF1968no2.JPG

穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、旧称は高田八幡宮。
1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのがはじまりとのこと。1636年(寛永13年)に的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称したのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としその後も歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したのでした。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれているとのことです。
DSCF1996no2.JPG

DSCF2002no2.JPG

木組博物館は西早稲田2-3-26ホールエイト3階にあり、清水建設の関連施設です。木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを展示していました。 約40年に渡り数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた方々ではじめたとのこと。伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化が、危機的状態に向かっているのを肌で感じ必要性を感じたのです。また木組み博物館は、従来の展示中心型、五感体験型からより能動的で深く心に刻まれる参画型の生きた博物館にしたいとの趣旨のようです。
DSCF2038no2.JPG

高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)。
早稲田大学のすぐ西側にある水稲荷神社の石段を登ったところに、この石碑がありました。
建碑年は1910年(明治43)とのことです。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場があり、元禄7(1694)年に「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いがあり、助太刀をした堀部安兵衛は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。そんな彼のことを記したのが、この石碑で題額は、西園寺公望で清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴。文章を書いたのは信夫粲当時有名な漢学者。所在地】新宿区西早稲田3-5-43 
DSCF2072no2.JPG
水稲荷神社には太田道灌「道渡つかみさしの榎」を植え、榎の空洞から水が湧き出たのです。
DSCF2080no2.JPG

甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は江戸中期の清水家の大名屋敷跡につくられた日本庭園で新宿区立唯一の回遊式庭園。「甘泉園」の名は、ここの山吹の井から出る湧き水がお茶に適していたところからきたとのことです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなしているのです。
DSCF2100no2.JPG

早稲田大学(わせだだいがく)は1920年に設置。江戸時代末期の蘭学校であった北門義塾(柳田藤吉の創設)が明治5年閉校後、その意思を受継ぎ隣地に大隈重信が明治14年の政変で下野した後に設立した東京専門学校が前身。日本の私立大学としては慶應義塾大学(「早慶」の慶)などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となったのです。2011年現在、10の学術院のもと13学部・21研究科(大学院)を設置している。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。また大隈重信が明治を代表する政治家であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの逸材を輩出している。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。 正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」。 早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめ、建築学科の教員らを中心に設計された。
DSCF2145no2.JPG

会津八一記念博物館。
DSCF2130no2.JPG
会津八一は東洋美術史の研究者、歌人、初夏でもあり、早大卒で教鞭も取ったようです。
ここには早大創立以来の学術研究成果、大隈重信遺品、富岡重憲コレクションなど収蔵品は2万件あるとのこと。本日は幸運にも横山大観・下村観山による名画「明暗」が見られました。

坪内博士記念演劇博物館。
DSCF2122no2.JPG
演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。
以来、演劇博物館には日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えているとのこと。錦絵46,800枚、舞台写真400,000枚、図書255,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点など。
演劇博物館の建物自体が、ひとつの劇場で、舞台正面にはTotus Mundus Agit Histrionem“全世界は劇場なり”というラテン語が掲げられているとのこと本日は工事中で詳しくみられませんでした。

トラード早稲田
早稲田大学の大隈講堂の南側の道路を挟んだはす向かい辺りに、この奇想天外な建物がありました。1983年早稲田大学理工学部建築学科を卒業した梵寿綱(ぼんじゅこう、本名田中俊郎)という「日本のガウディ」と呼ばれる建築家の作品だそうです。
DSCF2153no2.JPG

宗参寺(そうさんじ)は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことが始まり。
DSCF2168no2.JPG
牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたということです。
宗参寺内には牛込氏累代の墓がありました。また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありました。

漱石公園には夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、漱石山房記念館に再現されていました。
本年9月に都立の施設として開館したのです。
DSCF2186no2.JPG

草間彌生ミュージアムでは今、草間彌生美術館開館記念展をこけらおとしとして開催中のようでした。近くには彼女のスタジオもあるようでした。
DSCF2198no2.JPG

宮城道雄記念館は宮城道雄の偉業を顕彰するとともに、今後の日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日、故人が晩年まで  住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館。宮城道雄の生涯や楽器もみられました。館内には名曲「春の海」が流れていました。
DSCF2247no2.JPG

DSCF2243no2.JPG

毘沙門天で有名な善國寺は創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年前に麹町に創建。1793年(寛政5年)にこの地に移転。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与え、さらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となったのです。
DSCF2263no2.JPG

本日は見るところが多く歩程11km、16000歩だったのですがやや疲れました。日本晴れで気温12℃、絶好のコンディションの中、講師信野先生、CD菅野さんで参加者20人は最後までどうにか元気でした。本日でこの23区めぐりは一応完結。しかし私はお休みしたのが3回あり、来年に持ち越しです。一巡完歩されたお二人におめでとう!の拍手を送りました。
posted by yunofumi at 20:45| あちこちウォーク

2017年12月03日

2017.11.19〜12.3 紅葉を楽しむ

11/19 代々木公園にてノルディックウォーキング。紅葉が始まっていました。
DSCF1167no2.JPG
この青空も素晴らしかったです。

11/20大島小松川公園にてノルディックウォーキング。こちらの紅葉はいよいよ本格的でした。
DSCF1185no2.JPG
坂道の紅葉に癒されました。

11/26駒沢公園の紅葉。オリンピックの準備も本格的になっている様子。広々した中での紅葉は美しかったです。
DSCF1802no2.JPG

12/2国立西洋美術館の「北斎とジャポニズム」、東京都美術館の「ゴッホ展」へ。
北斎、モネ、ゴッホで頭と心が満杯になり、広々した上野公園で大いに紅葉を楽しみました。
DSCF1889no2.JPG

12/3 代々木公園にてノルディックウォーキング。いよいよ紅葉は終盤でした。
DSCF1929no2.JPG

この秋は遠出をせずに大いに紅葉を楽しみました。
posted by yunofumi at 21:31| ドタバタ日記

2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
DSCF1224no2.JPG

青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
DSCF1268no2.JPG

文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
DSCF1283no2.JPG

光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
DSCF1294no2.JPG

駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
DSCF1334no2.JPG

南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
DSCF1361no2.JPG

吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
DSCF1377no2.JPG
昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
DSCF1397no2.JPG
榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
DSCF1401no2.JPG

天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
DSCF1414no2.JPG

駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
DSCF1417no2.JPG
一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
DSCF1446no2.JPG

東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
DSCF1475no2.JPG

Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
DSCF1486no2.JPG

六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
DSCF1590no2.JPG

東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
DSCF1633no2.JPG

旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
DSCF1656no2.JPG

旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
DSCF1763no2.JPG

本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク

2017年11月11日

2017.11.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

久しぶりにMBT仲間と代々木公園でのノルディックウォーキングに参加。
思いがけずほとんど晴天、21℃。朝の内はほとんど風なし。
8:30〜11:00まで楽しく、のんびり、木々の紅葉を見ながら約10000歩を達成。
その後はもちろん、明治神宮のカフェ「杜のテラス」でお茶をして解散。
休日の早起きは三文の徳!午後は買い物など大いに楽しみました。
DSCF1109no2.JPG

DSCF1135no2.JPG

DSCF1115no2.JPG
日頃の疲れも何処へやら、また元気に歩き回れることに感謝!!
皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 15:52| あちこちウォーク

2017年11月09日

2017.11.8 第19回東京の新発見「板橋区」

都営三田線高島平駅東口改札⇒高島平団地⇒高島平8丁目交差点⇒熱帯環境植物園⇒高島第一中学校⇒徳丸ヶ原公園⇒徳丸ヶ原公園前交差点⇒高島平2丁目⇒高島平図書館⇒高島平児童館⇒高島特別支援学校⇒赤塚公園⇒諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城跡⇒郷土資料館⇒赤塚トンボ池⇒板橋区立美術館⇒不動の滝公園⇒麦の子保育園⇒大仏そば萬吉禎(昼食)⇒赤塚植物園⇒乗蓮寺・東京大仏⇒麺工場幸住⇒松月院・大堂⇒東武東上線下赤塚駅

以前、板橋区は川越街道歩きで通りましたが本日はまったく別の地区という感じ。板橋区はマップを見ると板橋・上板橋・志村・赤塚の地区がありますが本日は高島平団地のそばと赤塚地区を重点的に見て歩きました。

高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸にあり、北側は新河岸、西側は三園、南側は大門・四葉・徳丸・西台、東側は蓮根と接しているようです。高島平は1丁目から高島平9丁目までありそのほとんどが高島平団地とのこと。昭和40年過ぎに団地ができる前は徳丸ヶ原といわれた地区で約2万人超の住人がいるようです。
DSCF0788no2.JPG

熱帯環境植物園は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれた温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館とのことでした。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設として平成6年9月に誕生したのです。
DSCF0810no2.JPG

徳丸ヶ原公園。
「徳丸ケ原」は、板橋区中西部、高島平、新河岸、三園など、荒川の南岸一帯を指すとのこと。ここはもともと幕府の鷹場だったのが、8代将軍吉宗の時代から鉄砲の稽古場として使われるようになったとのこと。明治時代になると民間に払い下げられて開墾が進められ、「徳丸たんぼ」・「赤塚たんぼ」と呼ばれる一大水田地帯が出来上がったのです。昭和40年代になると高島平団地や地下鉄の建設や住宅地ができ公園となったです。
DSCF0838no2.JPG

東京都立赤塚公園は、その昔、赤塚城があった所。運動施設を中心とする中央地区、自然林に覆われた丘陵地など変化に富んでおり、高島平団地と首都高速5号池袋線に沿って東西に連なっているようです。
DSCF0867no2.JPG

諏訪神社の創建は文明年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたとのことです。本日は伺わなかった徳丸北野神社とともに、国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区無形民俗文化財の「獅子舞」が伝承されています。田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事で、稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りのことのようです。
DSCF0889no2.JPG

板橋区大門にある竹の子公園には、鳳凰竹、金明竹など13種類の竹が植えられているようです。
DSCF0895no2.JPG

赤塚城跡は戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕など遺構がわずかに残っていました。ここを居とした千葉自胤は、太田道灌と結んで勢力を伸ばしていました。その後、小田原の北条氏に従ったところ、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。徳川家康の江戸入府に伴い、赤塚城も廃城となったのです。
DSCF0924no2.JPG

赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行い、郷土に関する講習会・講座・体験学習を行っているとのことでした。
DSCF0932no2.JPG
赤塚溜池公園赤塚トンボ池 は通称「溜池公園」。公園入り口にある梅林と美術館の間にひっそりと赤塚トンボ池が有りました。殆ど水は湧いていないようで、いつも濁り気味だそうで近頃は秋でも赤とんぼはみられないようでした。

赤塚公園の城址地区、赤塚溜池公園からすぐの所に不動の滝公園がありました。此処は東京都名湧水57選にも選ばれているようです。木々に覆われた崖から、わずかにちょろちょろと湧水が流れていて、昼間でも薄暗く、一種独特の雰囲気があり、パワースポット的な場所にも見えました。不動の滝は江戸時代の中頃、地元の人たちが富士山や大山(神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていたそうです。
DSCF0948no2.JPG

大仏そば萬吉禎(昼食)
今まで食べた蕎麦の中で一番美味い蕎麦屋さんでした。おそばの香りが漂っていました。どうやら自家製の石臼挽きを使っているらしいです。
DSCF0963no2.JPG

赤塚植物園は、武蔵野の面影もある赤塚の丘陵地にありました。1981年(昭和56年)に開園とのこと。構成は本園と万葉・薬用園からなり、本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草もありました。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられ、解説も十分でした。本日は花が少なく残念。また春でも来てみたいと思いました。
DSCF0981no2.JPG

乗蓮寺は浄土宗の寺院で東京大仏が有名。この辺りの郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺で人々から信仰されていたようです。1591年(天正19年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となったようです。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。この地に移ったのは1973年(昭和48年)でここは赤塚城の二の丸跡とのこと。山号は赤塚山。
DSCF1068no2.JPG
1977年(昭和52年)、東京の関東大震災や東京大空襲などが再び起きないように願いを込めて東京大仏が建立されたとのことです。
DSCF1031no2.JPG

麺工場幸住は製造販売を直に行っているお店で、TVでも有名らしいです。お値段はリーズナブルで工場直売の生ラーメンですからとても人気があるとのことでした。私はラーメンが苦手なのでちょっと眺めていただけでした。
DSCF0966no2.JPG

松月院(しょうげついん)は、曹洞宗の寺院。山号は萬吉山(ばんきざん)。正式名称は、萬吉山宝持寺松月院とのこと。元々は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1459年(康正2年)に今の市川から赤塚城に移り、その後1492年に此処にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのこと。江戸時代には、徳川家康より40石の朱印地が与えられ、また歴代の将軍からも保護を受け発展してきたようです。
DSCF1096no2.JPG
幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(今の高島平あたり。高島平の名は高島秋帆にちなんでいるようです)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたのです。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、さらに松月院も有名になったのです。また明治時代には、一時期旧赤塚村の村役場が境内に置かれていたとのことです。

松月院大堂は松月院から少し離れたところにありました。石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘がありました。
DSCF1106no2.JPG
鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」とありました。

本日は朝10:00〜15:10、実質4時間、約15000歩のウォーキングでした。何よりだったのは曇り空で風もなく18℃、今にも雨が落ちてきそうでしたが木々の紅葉が見られ、まずは良かったです。赤塚地区は板橋の文化を感じさせる施設が多かったのが印象的でした。今後も時々お散歩方々来てみたいところでした。
posted by yunofumi at 23:35| あちこちウォーク

2017年11月06日

2017.11.3〜5 第40回日本スリーデーマーチ

11/3吉見百穴・森林公園コース
11/4和紙の里・武蔵嵐山コース
11/5都幾川・千年公園コース
今年は40回の記念大会、私にとっては6回目の10kmへの参加でした。

1日目(11/3) スタート松山第一小学校⇒市ノ川地蔵尊⇒市ノ川橋・市ノ川⇒下橋・滑川⇒西明寺⇒西明寺沼⇒森林公園南口⇒森林公園駅⇒ゴール松山第一小学校
本日の10kmコースは実質13km。中間のチェックポイントが森林公園南口で7km地点。朝9:30〜14:00のウォーキング。休憩などしたので実質3時間30分のスローペース。久しぶりの長距離でしたのでかなり草臥れました。気温27℃、晴天、風もなくかなり暑かったです。

スタート地点はまるで駅の混雑と同じでした。
DSCF0523no2.JPG

西明寺で一休み。このお寺さんの隣には河童がいたという沼がありました。
DSCF0564no2.JPG

森林公園の樹木はすっかり紅葉していました。
DSCF0590no2.JPG

ゴール地点傍では参加者を歓迎する風景があちらこちらで見られました。
DSCF0610no2.JPG
                                            
2日目(11/4)スタート松山第一小学校⇒県立松山高校⇒椿地蔵⇒みどりとくれあいの路⇒森林公園駅北口⇒森林公園駅南口⇒新郷公園⇒東松山工業団地⇒宿青い鳥・八雲神社⇒青鳥城跡・虎御石⇒小林歩道橋⇒東松山ゴルフセンター⇒紫雲閣⇒箭弓稲荷神社⇒ゴール松山第一小学校
昨夜はストレッチを十分にしてから就寝したので元気に目覚めました。
本日の10kmコースはそのまんま10km。新堀公園が4km、チェックポイントで昼食にしたのでかなり余裕、
朝9:30〜13:30のウォーキング。実質3時間は上出来でした。
スタート時は中学生ボランティアがお見送りでした。
DSCF0623no2.JPG

椿地蔵も見守っていました。
DSCF0632no2.JPG

新堀公園では湯茶のお接待もありました。
DSCF0660no2.JPG

ゴールでは沢山のお店が賑わっていました。
DSCF0687no2.JPG

本日も気温22℃、晴天、風なしでおお助かり。休憩などしたので実質3時間のまずまずのぺースでした。終わってみればかなりの余裕でした。
そうそう、今日はゴール近くのボッシュ工場の駐車場で休憩した時、84歳の男性とおしゃべり。第1回からずっと参加しておられるとのこと。感服しました。見習わないといけません。
                                   
3日目(11/5)スタート松山第一小学校⇒松葉町商栄会⇒ボッシュ工場⇒虎御石⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒南中学校⇒上野本歩道橋⇒上野本氷川神社⇒東松山駅⇒ゴール松山第一小学校
最終日なのでゴール会場のイベントが見たいので意識的にスタート時間を遅らせて出発しました。
本日の10kmコースは実質12kmとのこと。昼食は唐子中央公園で出店や太鼓などの演奏を楽しみました。
朝10:30〜14:30のウォーキング。休憩は十分で実質3時間のぺース。気温21℃、晴れ、朝は風がありましたがそのうちに感じないほどでラクチン。とうとう27000歩で最終日も終了。
途中では栗の実も見つけ、秋を実感しました。
DSCF0708no2.JPG

唐子中央公園ではクイズや太鼓の演奏などで大にぎわい。
DSCF0723no2.JPG

ゴールでは町内のお囃子も出ており、有難い。
DSCF0759no2.JPG

DSCF0695no2.JPG

3日間が終わってみれば清々しく達成感があり、疲れを感じませんでした。ゲンキンなものです。
今回は第40回記念大会だったので振り返りの写真展も開催されていました。
自分もこの6年間にバッヂをはじめ色々いただいたことをあらためて感謝しました。そしてこのイベントが町を挙げてのことなので地元の商店街の方々にも感謝です。特に毎日立ち寄ったのがこのパン屋さん。おやつをいつも購入していました。
DSCF0756no2.JPG

この3日間の参加者数が今朝の新聞に出ていました。3日間でトータル10万人超。ちなみにコースは5・10・020・30・40・50kmとありましたが私も参加した10kmコースは3日間で約7万人ですって。道理でずっと混雑の中を歩いたわけです。でもまた来年も頑張れるように今後も日々心がけることにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 22:16| あちこちウォーク

2017年11月01日

2017.10.28 横浜散策第5回 保土ヶ谷区

相鉄本線天王町駅⇒シルクロード天王町・江戸方見附跡⇒橘樹神社⇒帷子川⇒天王町駅⇒旧帷子橋跡-天王町駅前公園⇒横浜岩間郵便局⇒大門通り交差点⇒神明社⇒古東海道石碑⇒神戸保育園⇒大蓮寺⇒旧中橋跡⇒反則センター交差点⇒帷子会館⇒旧新義塾前バス停留所⇒保土ヶ谷宿場通り・保土ヶ谷駅西口商店街⇒助郷(すけごう)会所跡⇒帷子町・問屋場跡⇒保土ヶ谷税務署⇒金沢横町道標四基⇒上岩間踏切⇒かなさわかまくら道・政子の井戸⇒横浜清風高校⇒北向地蔵⇒いわな坂⇒福聚禅寺⇒岩井町自治会館⇒宿場そば桑名屋⇒金子本陣跡・保土ヶ谷一丁目⇒脇(水屋)本陣跡⇒茶屋本陣跡⇒旅籠屋(本金子屋)跡⇒大仙寺踏切⇒大仙寺・軽部家墓所⇒今井川⇒一里塚跡・上方見附跡

相鉄本線天王町駅。
相模鉄道本線にははじめて乗車。横浜が起点の2.4kmの路線とのこと。駅名は鎌倉時代に創建された「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」から由来しているようです。歌川広重作『東海道五十三次』の「程ヶ谷」では、駅そばを流れている帷子川に架かる橋が描かれています。ウォーキング途中の商店のシャッターに描かれていた絵かと思います。
DSCF0355no2.JPG

江戸方見附跡
「見附」は「見張り所」「警備所」の役割をしており宿場の境を示し、見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印だったとのこと。また見附では参勤交代の大名が来ると宿場役人は見附まで出迎えに行き、「下にぃ、下にぃ」という大名行列は宿内で行われたこと。大名行列は宿場を出ると、結構なスピードで移動したことなど講師からお話がありました。
東海道の宿場の入口と出口が見附で、江戸の方は江戸方見附、京都の方は上方見附といったようです。
DSCF0250no2.JPG

橘樹(たちばな)神社は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守様で「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれているとのこと。文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝わっているようです。祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、こちらも「祇園社」と称されているのです。祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事でしたが、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっているのです。
DSCF0262no2.JPG

旧帷子橋跡-天王町駅前公園
江戸時代、天王町駅付近は東海道の「保土ヶ谷宿」(程ヶ谷宿)という宿場でした。保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』川が流れており東海道を往来する旅人がこの川を渡るために使った橋が『帷子橋』なのです。
DSCF0268no2.JPG
1964年に、暴れ川だった帷子川の流れを天王町駅南側から北側に付けかえられたので帷子橋の位置も変わったのです。この公園にあるのが記念碑で現在の川は下の写真です。
DSCF0265no2.JPG

神明社(旧伊勢神宮領榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建で横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとのこと。鎌倉時代の始め、神様のお告げで現在地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる本社と豊受大神宮や境内神社がまつられたようです。先年「平成の大造営」が行われ、社殿が新しくなったのです。
DSCF0287no2.JPG

大蓮寺。
仁治三年、日蓮聖人が21歳の際、鎌倉へ遊學の途中、保土ヶ谷宿にて淨土宗の民家に宿泊したところ、その家の子供が釋迦尊像で遊んでいるのを見て仏様のことをヘ示し、それにより後年この家の主が改宗して、家の宅地を法華堂としたのが始まり。これが日蓮宗に改宗した帷子里宗祖宿泊の靈場になったのです。法華堂は当初帷子橋畔にあったのが、ェ永2年、正住院日圓が神戸の小丘の半腹に移し西孝院大蓮寺と名付けたとのことです。
DSCF0312no2.JPG
徳川家康の側室養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がありました。
DSCF0315no2.JPG

助郷(すけごう)会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷といったようです。
保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよび指定された郷村にかなり負担がかかったようですが村々では助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていたのです。明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃止されています。
DSCF0347no2.JPG

問屋場(といやば)跡は宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのです。問屋を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などの宿役人がいたとのことです。
DSCF0354no2.JPG

金沢横町道標四基
東海道・程ヶ谷宿の帷子町金沢横丁の辻に4基の道標が並んでいました。向かって右側から「円海山之道」(天明3年(1783年)銘)、「かなさわ かまくら 道」(天和2年(1682年)銘)、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(文化11年(1814年)銘)、「富岡山芋大明神江乃道」(弘化2年(1845年)銘)の4基。解説によれば以下のようです。ほとんど読めませんでした。
 「円海山之道」道標の右側面には「○×か奈沢みち」。
 「かなさわ かまくら 道」道標の左側面には「ぐめうじ道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」句碑の左側面には「是より杉田道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」道標には「富岡山」。
DSCF0364no2.JPG

上岩間踏切はJRの海道線と横須賀線が並走している踏切。開いている時間の方が少ないように思いました。
DSCF0369no2.JPG

源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られたとのこと。保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校(旧明倫高校)方面へ向かう”かなざわかまくら道”の途中の急な坂道(磐名坂(いわなさか)を上る途中に政子の井戸とも呼ばれる「御所台(ごしょだい)の井戸」がありました。 政子は、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のこと。 この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあるのです。
DSCF0383no2.JPG

坂道(いわな坂)を上りきった交差点の脇に「北向(きたむき)地蔵」がありました。お地蔵様が見守るこの道は「かなざわかまくら道」。
DSCF0394no2.JPG
この地蔵は享保2年(1717)に建立。昔話で伝わっているのは、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことで、それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したのです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったようです。またこの地点は「かなざわかまくら道」の分岐点で、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と 弘明寺方面への道案内も兼ねているのです。

福聚禅寺は建武2年(1335年)南北朝時代初期の創立。当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西巳久保町)の山腹に在ったとのこと。世に知られる様になったので光庵和尚を中興開山としたとのことです。その後も移転を繰り返したようですが境内山林の開拓とともに明治21年には本堂、庫裡、山門を建立したようです。
DSCF0406no2.JPG
墓所には東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九の弟子の五返舎半九の墓誌がありました。
この名前は、師匠の十返舎一九の半分だからと命名したようです。半九の娘が横浜港崎町で芸妓を経営する[橋本楼]の後妻であったことから、橋本家菩提寺である福聚寺に墓誌が建立されたとの推測があるとのことです。
DSCF0402no2.JPG

宿場そば桑名屋は創業明治19年。東海道五十三次保土ヶ谷宿を基調に、宿場風な店作りで八割蕎麦を提供しているとのこと。お店のたたずまいは昔風。ご主人は宿場を盛り立てようとの熱意が伝わってきました。
DSCF0421no2.JPG

DSCF0415no2.JPG

保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を利用したのです。
金子本陣跡
DSCF0431no2.JPG

茶屋本陣跡は休息専用だったようです。
脇本陣は本陣だけでは収容できない時に利用した所。脇本陣(水屋)跡は案内のみでした。
DSCF0446no2.JPG
一般の旅行者は旅籠屋を利用。旅籠屋(本金子屋)跡は建物が残っていました。
DSCF0455no2.JPG

大仙寺踏切は大仙寺に向かう参道の途中にありました。
DSCF0460no2.JPG
大仙寺は高野山真言宗のお寺。天禄年中(970年〜973年)の起立。往古は神戸山持院神宮寺と号し伊勢皇大神宮の別当を務めたとも伺いました。参勤交代等、東海道を往来して保土ヶ谷宿に休泊する際は、こちらに道中安全を祈願したようです。
DSCF0461no2.JPG
こちらは宿場の本陣、脇本陣、茶屋本陣等の全ての菩提寺で、境内に軽部家墓所がありました。
DSCF0471no2.JPG
軽部家はもともと苅部家だったようです。明治天皇がこちらで休息された時、軽部と表示されたことでやむを得ずその後も軽部を名乗っているとのことでした。

一里塚跡・上方見附跡。
現在の位置に見附のモニュメントができたのは2009年3月とのこと。デザインを優先して現在 L型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は本来、江戸方、上方とも |型だったとのこと。
DSCF0482no2.JPG

横浜市のマンホール「おすい」の文字入り。横浜市保土ヶ谷区国道1号沿い(保土ヶ谷1丁目本陣跡前から権太坂の市児童公園入口の間) に見られます。
DSCF0484no2.JPG

本日は数日前からの風邪が完全に回復していない中での参加でした。やはり少し体調がすぐれず、一里塚でギブアップ。保土ヶ谷駅に一人バスで移動し、湘南新宿ラインで帰宅しました。
本日の歩程約5km、歩数1万歩超。曇り空のもと、気温16℃、Am10:00〜14:00のウォーキングはまずまずのコンディション日和。でもその後は雨降りだったかも、、、、。
この後は以下の予定でした。
一里塚跡⇒外川神社⇒京方見附⇒樹源寺(軽部家ゆかりの寺)⇒帝釈天と旧元町橋跡⇒ゑびすや軽部商店⇒権太坂⇒権太坂小学校⇒鉾立商店⇒投げ込み寺塚の碑⇒菓匠栗山⇒境木・境木地蔵尊⇒武相国境モニュメント⇒JR東戸塚駅
また日を改めて一人ウォーキングをする予定です。
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク

2017年10月20日

2017.10.14 関西ぶらり旅

今年は秋が短く、アッという間に寒さがやってきました。
それにもめげず骨休めで「関西ぶらり旅」を3泊4日で楽しんできました。
10/13 高齢者用のJRジパング倶楽部に少し前に入会し、「ひかり」で悠々京都下車。その後は枚方市内の従姉宅へ。
そうそう、これから3日間は運動不足が見込まれるので「カーブス楠葉」にお邪魔して体操をしてすっきり、快調なスタートをきりました。
自宅の近くのジムとは雰囲気が違いました。でも皆さん、明るく、元気!かなり若い方も多かったです。
DSCF0112no2.JPG

10/14 今回の旅行の目玉です。
あべのハルカス美術館で「大英博物館国際プロジェクト 北斎-富士を超えて」を鑑
賞。入口には《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》が飾られ雰囲気が十分。
DSCF0127no2.JPG

DSCF0140no2.JPG
稀代の浮世絵師、北斎。ゴッホやモネにも影響を与えたそうです。「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「The Great Wave」として世界でも有名。そういえば日本の新パスポートに「富嶽三十六景」が採用されたようです。北斎好きとしてはパスポート書き換えをしようかと思いました。此処の展示では、肉筆画が中心でまた還暦以降の30年に焦点を当て、90歳まで描き続けた北斎の世界が見られました。そうそう和綴の動物・植物が筆一本で描かれたのもめったに見られるものではありませんでした。
中はカメラ禁止。残念!当然すごい混雑でした。
売店で絵葉書などのお土産を購入。
DSCF0234no2.JPG
一回り後はハルカスガーデンで一息つき、その後野菜やめいで昼食。「焼茄子ソースの豆腐つくねハンバーグ」をいただきました。
DSCF0142no2.JPG

その後、四天王寺へ。足元には自慢の大阪城がくっきり。
DSCF0144no2.JPG

四天王寺の参道には明治433年創業の釣鐘屋があり、こちらの名物は「釣鐘まんじゅう」。
屋根に釣鐘がありとても目立っていました。
DSCF0148no2.JPG

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立で今から1400年以上も前です。
『日本書紀』では、物部守屋と蘇我馬子の合戦の際、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓いその通りに勝利したので建立したとのことでした。
DSCF0151no2.JPG
境内は広く、入口には石の鳥居。
創建時の木の鳥居を1294年に石造りにあらためたとのこと。

今日はウン十年ぶりにJR大阪環状線に乗りました。昔に比べ各駅舎、車両がとても綺麗でした。
DSCF0182no2.JPG

10/15 雨降りが激しかったので京都高島屋へお出かけ。
四条大橋を抜けて京都高島屋7階グランドホールにて「生誕90年 加山又造展〜生命の煌めき」を鑑賞。
加山又造(1927年〜2004)、京都市立美術工芸学校から東京芸術大学へ進み、日本画からピカソ、ルソーなどの西洋画まで制作したようです。年代でどんどん作風が変化しているのがとても面白かったです。
散々歩き回った後は「おめん」でランチ。おそばが薄味で美味しかったです。
DSCF0208no2.JPG

その後は美味しい珈琲を求めて「フランソア」へ。
絶品でした。
DSCF0216no2.JPG

10/16最終日は京都駅で乗車前に「京漬物味わい処 西利」で軽くランチ。
DSCF0221no2.JPG
もちろん自分だけでは申し訳ないので家族にもお土産をゲット。

今回の旅は雨降りがついて回りましたがそれなりにのんびりし、従姉と女子トークで大いに盛り上がりました。このような旅もたまにはいいですね。また明日から元気に働けそうです。
posted by yunofumi at 00:08| ドタバタ日記

2017年10月10日

2017.10.9  OUT DOOR FITNESSおでかけノルディック隅田川テラス

本日はOUT DOOR FITNESSの渡邊コーチ、青木コーチのリードでおでかけノルディックウォーキングです。

猿江恩賜公園⇒野見宿彌神社⇒両国東あられ本舗⇒MERIKOTI⇒両国テラス⇒かじ取稲荷神社⇒DANDELION CHOCOLATE⇒釜めし春⇒浅草駅

猿江恩賜公園。
住吉駅からすぐの公園。現在は野球場やテニスコートもあります。かつては官営の貯木場だったそうですが昭和天皇が皇太子だったころ、その成婚を記念して猿江貯木場の一部を東京市に下賜されたのが始まりで今では全面が恩賜公園として開園しています。
DSCF0052no2.JPG

野見宿彌神社(のみのすくねじんじゃ)相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建されたのがはじまりとのこと。元の社殿は東京大空襲によって焼失し、1953年に再建、、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているようです。両国国技館の近隣なので、日本相撲協会が管理しているようです。
DSCF0057no2.JPG

歴代の横綱の名を刻んだ石碑は2つありました。こちらは新しいほうです。
DSCF0056no2.JPG

両国東あられ本舗。
ここは東京下町・両国の北斎通にあり、営業時間が午前9:00からと早く、皆で立ち寄り試食やお買い物ができました。明治43年開業とのこと。近頃は揚げおかき「北斎揚げ」がヒットしているようです。
DSCF0063no2.JPG

MERIKOTI。
「MERI」は、北国で伝わるおばあちゃんの知恵から生まれた、新しいルームシューズで肌触りのよい柔らかなメリヤスを使って、一足一足、ふかふかに編み上げています。夏は素足で、涼しく気持ちよく。冬はお気に入りの靴下と合わせて、楽しく暖かく、1年を通してずっと使えるようです。そうそう洗濯機でも洗えるそうです。店内には鮮やかな色合いと、ふかふかした質感が目を惹くルームシューズが並んでいて見ているだけで楽しかったです。実際に作るワークショップも定期開催されているとのことでした。機会を見つけて伺うつもりです。
DSCF0072no2.JPG

両国テラスは両国国技館の裏、安田庭園近くのピッツアなどがあるお店。以前に伺ったことがあり、懐かしかったです。
DSCF0077no2.JPG

揖取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は、慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て、屡々遭難あったけれど或る時稲荷の神の示現を得てから後は航海安全を得る事が出来たとのこと。その神徳奉賽の為め、稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷としたとのこと。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めていると案内がありました。
DSCF0085no2.JPG

DANDELION CHOCOLATE(ダンデライオンチョコレート)は、シングルオリジンのカカオ豆からチョコレートを作っている、世界でも数少ないお店。北はハワイから南はマダガスカルまで、世界中のカカオ農園から良質な豆を直接買い付け、選別、ロースティング(焙煎)、テンパリング、成型、ラッピングまですべての工程を自分達のファクトリーで行っているとのことです。ファクトリーの中は作っている行程も見られ、香りも十分堪能でき、とても素敵なお店でした。作りたてのチョコレートも試食できました。
この前の公園には以前墨田区ウォークで伺ったことがありました。こちらのお店は最近できたようです。
DSCF0092no2.JPG

DSCF0090no2.JPG

釜めし春は大正15年の創業。歴史と素材の旨味が詰まった元祖釜めし屋さん。出汁は不使用。お客の注文を聞いてから厳選の幸で魅せる味わいと立ち昇るコク深い薫りで勝負しているようです。私達は松茸、鯛、牡蠣など色々注文し、出来立てを完食。御馳走様でした。
DSCF0106no2.JPG

DSCF0111no2.JPG

東京スカイツリーが輝いて見えました。
DSCF0103no2.JPG

DSCF0104no2.JPG
本日は10月になっているのに日差しも強く、汗ばむ中での2時間越えでした。25℃、晴天。でも日陰に入ればそよ風が心地よかったです。ノルディックウォーキングは通常ですと10000歩くらいですが本日はスペシャルなので15000歩超。それでも全員が元気に終了し、引き続いての美味しい食事とおしゃべりでしたから大満足の1日となりました。皆さん、今後も元気に楽しく!!またお会いしましょう!!
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク