2017年11月09日

2017.11.8 第19回東京の新発見「板橋区」

都営三田線高島平駅東口改札⇒高島平団地⇒高島平8丁目交差点⇒熱帯環境植物園⇒高島第一中学校⇒徳丸ヶ原公園⇒徳丸ヶ原公園前交差点⇒高島平2丁目⇒高島平図書館⇒高島平児童館⇒高島特別支援学校⇒赤塚公園⇒諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城跡⇒郷土資料館⇒赤塚トンボ池⇒板橋区立美術館⇒不動の滝公園⇒麦の子保育園⇒大仏そば萬吉禎(昼食)⇒赤塚植物園⇒乗蓮寺・東京大仏⇒麺工場幸住⇒松月院・大堂⇒東武東上線下赤塚駅

以前、板橋区は川越街道歩きで通りましたが本日はまったく別の地区という感じ。板橋区はマップを見ると板橋・上板橋・志村・赤塚の地区がありますが本日は高島平団地のそばと赤塚地区を重点的に見て歩きました。

高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸にあり、北側は新河岸、西側は三園、南側は大門・四葉・徳丸・西台、東側は蓮根と接しているようです。高島平は1丁目から高島平9丁目までありそのほとんどが高島平団地とのこと。昭和40年過ぎに団地ができる前は徳丸ヶ原といわれた地区で約2万人超の住人がいるようです。
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熱帯環境植物園は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれた温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館とのことでした。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設として平成6年9月に誕生したのです。
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徳丸ヶ原公園。
「徳丸ケ原」は、板橋区中西部、高島平、新河岸、三園など、荒川の南岸一帯を指すとのこと。ここはもともと幕府の鷹場だったのが、8代将軍吉宗の時代から鉄砲の稽古場として使われるようになったとのこと。明治時代になると民間に払い下げられて開墾が進められ、「徳丸たんぼ」・「赤塚たんぼ」と呼ばれる一大水田地帯が出来上がったのです。昭和40年代になると高島平団地や地下鉄の建設や住宅地ができ公園となったです。
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東京都立赤塚公園は、その昔、赤塚城があった所。運動施設を中心とする中央地区、自然林に覆われた丘陵地など変化に富んでおり、高島平団地と首都高速5号池袋線に沿って東西に連なっているようです。
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諏訪神社の創建は文明年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたとのことです。本日は伺わなかった徳丸北野神社とともに、国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区無形民俗文化財の「獅子舞」が伝承されています。田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事で、稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りのことのようです。
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板橋区大門にある竹の子公園には、鳳凰竹、金明竹など13種類の竹が植えられているようです。
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赤塚城跡は戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕など遺構がわずかに残っていました。ここを居とした千葉自胤は、太田道灌と結んで勢力を伸ばしていました。その後、小田原の北条氏に従ったところ、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。徳川家康の江戸入府に伴い、赤塚城も廃城となったのです。
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赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行い、郷土に関する講習会・講座・体験学習を行っているとのことでした。
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赤塚溜池公園赤塚トンボ池 は通称「溜池公園」。公園入り口にある梅林と美術館の間にひっそりと赤塚トンボ池が有りました。殆ど水は湧いていないようで、いつも濁り気味だそうで近頃は秋でも赤とんぼはみられないようでした。

赤塚公園の城址地区、赤塚溜池公園からすぐの所に不動の滝公園がありました。此処は東京都名湧水57選にも選ばれているようです。木々に覆われた崖から、わずかにちょろちょろと湧水が流れていて、昼間でも薄暗く、一種独特の雰囲気があり、パワースポット的な場所にも見えました。不動の滝は江戸時代の中頃、地元の人たちが富士山や大山(神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていたそうです。
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大仏そば萬吉禎(昼食)
今まで食べた蕎麦の中で一番美味い蕎麦屋さんでした。おそばの香りが漂っていました。どうやら自家製の石臼挽きを使っているらしいです。
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赤塚植物園は、武蔵野の面影もある赤塚の丘陵地にありました。1981年(昭和56年)に開園とのこと。構成は本園と万葉・薬用園からなり、本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草もありました。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられ、解説も十分でした。本日は花が少なく残念。また春でも来てみたいと思いました。
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乗蓮寺は浄土宗の寺院で東京大仏が有名。この辺りの郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺で人々から信仰されていたようです。1591年(天正19年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となったようです。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。この地に移ったのは1973年(昭和48年)でここは赤塚城の二の丸跡とのこと。山号は赤塚山。
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1977年(昭和52年)、東京の関東大震災や東京大空襲などが再び起きないように願いを込めて東京大仏が建立されたとのことです。
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麺工場幸住は製造販売を直に行っているお店で、TVでも有名らしいです。お値段はリーズナブルで工場直売の生ラーメンですからとても人気があるとのことでした。私はラーメンが苦手なのでちょっと眺めていただけでした。
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松月院(しょうげついん)は、曹洞宗の寺院。山号は萬吉山(ばんきざん)。正式名称は、萬吉山宝持寺松月院とのこと。元々は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1459年(康正2年)に今の市川から赤塚城に移り、その後1492年に此処にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのこと。江戸時代には、徳川家康より40石の朱印地が与えられ、また歴代の将軍からも保護を受け発展してきたようです。
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幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(今の高島平あたり。高島平の名は高島秋帆にちなんでいるようです)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたのです。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、さらに松月院も有名になったのです。また明治時代には、一時期旧赤塚村の村役場が境内に置かれていたとのことです。

松月院大堂は松月院から少し離れたところにありました。石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘がありました。
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鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」とありました。

本日は朝10:00〜15:10、実質4時間、約15000歩のウォーキングでした。何よりだったのは曇り空で風もなく18℃、今にも雨が落ちてきそうでしたが木々の紅葉が見られ、まずは良かったです。赤塚地区は板橋の文化を感じさせる施設が多かったのが印象的でした。今後も時々お散歩方々来てみたいところでした。
posted by yunofumi at 23:35| あちこちウォーク

2017年11月06日

2017.11.3〜5 第40回日本スリーデーマーチ

11/3吉見百穴・森林公園コース
11/4和紙の里・武蔵嵐山コース
11/5都幾川・千年公園コース
今年は40回の記念大会、私にとっては6回目の10kmへの参加でした。

1日目(11/3) スタート松山第一小学校⇒市ノ川地蔵尊⇒市ノ川橋・市ノ川⇒下橋・滑川⇒西明寺⇒西明寺沼⇒森林公園南口⇒森林公園駅⇒ゴール松山第一小学校
本日の10kmコースは実質13km。中間のチェックポイントが森林公園南口で7km地点。朝9:30〜14:00のウォーキング。休憩などしたので実質3時間30分のスローペース。久しぶりの長距離でしたのでかなり草臥れました。気温27℃、晴天、風もなくかなり暑かったです。

スタート地点はまるで駅の混雑と同じでした。
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西明寺で一休み。このお寺さんの隣には河童がいたという沼がありました。
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森林公園の樹木はすっかり紅葉していました。
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ゴール地点傍では参加者を歓迎する風景があちらこちらで見られました。
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2日目(11/4)スタート松山第一小学校⇒県立松山高校⇒椿地蔵⇒みどりとくれあいの路⇒森林公園駅北口⇒森林公園駅南口⇒新郷公園⇒東松山工業団地⇒宿青い鳥・八雲神社⇒青鳥城跡・虎御石⇒小林歩道橋⇒東松山ゴルフセンター⇒紫雲閣⇒箭弓稲荷神社⇒ゴール松山第一小学校
昨夜はストレッチを十分にしてから就寝したので元気に目覚めました。
本日の10kmコースはそのまんま10km。新堀公園が4km、チェックポイントで昼食にしたのでかなり余裕、
朝9:30〜13:30のウォーキング。実質3時間は上出来でした。
スタート時は中学生ボランティアがお見送りでした。
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椿地蔵も見守っていました。
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新堀公園では湯茶のお接待もありました。
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ゴールでは沢山のお店が賑わっていました。
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本日も気温22℃、晴天、風なしでおお助かり。休憩などしたので実質3時間のまずまずのぺースでした。終わってみればかなりの余裕でした。
そうそう、今日はゴール近くのボッシュ工場の駐車場で休憩した時、84歳の男性とおしゃべり。第1回からずっと参加しておられるとのこと。感服しました。見習わないといけません。
                                   
3日目(11/5)スタート松山第一小学校⇒松葉町商栄会⇒ボッシュ工場⇒虎御石⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒南中学校⇒上野本歩道橋⇒上野本氷川神社⇒東松山駅⇒ゴール松山第一小学校
最終日なのでゴール会場のイベントが見たいので意識的にスタート時間を遅らせて出発しました。
本日の10kmコースは実質12kmとのこと。昼食は唐子中央公園で出店や太鼓などの演奏を楽しみました。
朝10:30〜14:30のウォーキング。休憩は十分で実質3時間のぺース。気温21℃、晴れ、朝は風がありましたがそのうちに感じないほどでラクチン。とうとう27000歩で最終日も終了。
途中では栗の実も見つけ、秋を実感しました。
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唐子中央公園ではクイズや太鼓の演奏などで大にぎわい。
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ゴールでは町内のお囃子も出ており、有難い。
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3日間が終わってみれば清々しく達成感があり、疲れを感じませんでした。ゲンキンなものです。
今回は第40回記念大会だったので振り返りの写真展も開催されていました。
自分もこの6年間にバッヂをはじめ色々いただいたことをあらためて感謝しました。そしてこのイベントが町を挙げてのことなので地元の商店街の方々にも感謝です。特に毎日立ち寄ったのがこのパン屋さん。おやつをいつも購入していました。
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この3日間の参加者数が今朝の新聞に出ていました。3日間でトータル10万人超。ちなみにコースは5・10・020・30・40・50kmとありましたが私も参加した10kmコースは3日間で約7万人ですって。道理でずっと混雑の中を歩いたわけです。でもまた来年も頑張れるように今後も日々心がけることにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 22:16| あちこちウォーク

2017年11月01日

2017.10.28 横浜散策第5回 保土ヶ谷区

相鉄本線天王町駅⇒シルクロード天王町・江戸方見附跡⇒橘樹神社⇒帷子川⇒天王町駅⇒旧帷子橋跡-天王町駅前公園⇒横浜岩間郵便局⇒大門通り交差点⇒神明社⇒古東海道石碑⇒神戸保育園⇒大蓮寺⇒旧中橋跡⇒反則センター交差点⇒帷子会館⇒旧新義塾前バス停留所⇒保土ヶ谷宿場通り・保土ヶ谷駅西口商店街⇒助郷(すけごう)会所跡⇒帷子町・問屋場跡⇒保土ヶ谷税務署⇒金沢横町道標四基⇒上岩間踏切⇒かなさわかまくら道・政子の井戸⇒横浜清風高校⇒北向地蔵⇒いわな坂⇒福聚禅寺⇒岩井町自治会館⇒宿場そば桑名屋⇒金子本陣跡・保土ヶ谷一丁目⇒脇(水屋)本陣跡⇒茶屋本陣跡⇒旅籠屋(本金子屋)跡⇒大仙寺踏切⇒大仙寺・軽部家墓所⇒今井川⇒一里塚跡・上方見附跡

相鉄本線天王町駅。
相模鉄道本線にははじめて乗車。横浜が起点の2.4kmの路線とのこと。駅名は鎌倉時代に創建された「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」から由来しているようです。歌川広重作『東海道五十三次』の「程ヶ谷」では、駅そばを流れている帷子川に架かる橋が描かれています。ウォーキング途中の商店のシャッターに描かれていた絵かと思います。
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江戸方見附跡
「見附」は「見張り所」「警備所」の役割をしており宿場の境を示し、見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印だったとのこと。また見附では参勤交代の大名が来ると宿場役人は見附まで出迎えに行き、「下にぃ、下にぃ」という大名行列は宿内で行われたこと。大名行列は宿場を出ると、結構なスピードで移動したことなど講師からお話がありました。
東海道の宿場の入口と出口が見附で、江戸の方は江戸方見附、京都の方は上方見附といったようです。
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橘樹(たちばな)神社は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守様で「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれているとのこと。文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝わっているようです。祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、こちらも「祇園社」と称されているのです。祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事でしたが、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっているのです。
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旧帷子橋跡-天王町駅前公園
江戸時代、天王町駅付近は東海道の「保土ヶ谷宿」(程ヶ谷宿)という宿場でした。保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』川が流れており東海道を往来する旅人がこの川を渡るために使った橋が『帷子橋』なのです。
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1964年に、暴れ川だった帷子川の流れを天王町駅南側から北側に付けかえられたので帷子橋の位置も変わったのです。この公園にあるのが記念碑で現在の川は下の写真です。
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神明社(旧伊勢神宮領榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建で横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとのこと。鎌倉時代の始め、神様のお告げで現在地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる本社と豊受大神宮や境内神社がまつられたようです。先年「平成の大造営」が行われ、社殿が新しくなったのです。
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大蓮寺。
仁治三年、日蓮聖人が21歳の際、鎌倉へ遊學の途中、保土ヶ谷宿にて淨土宗の民家に宿泊したところ、その家の子供が釋迦尊像で遊んでいるのを見て仏様のことをヘ示し、それにより後年この家の主が改宗して、家の宅地を法華堂としたのが始まり。これが日蓮宗に改宗した帷子里宗祖宿泊の靈場になったのです。法華堂は当初帷子橋畔にあったのが、ェ永2年、正住院日圓が神戸の小丘の半腹に移し西孝院大蓮寺と名付けたとのことです。
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徳川家康の側室養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がありました。
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助郷(すけごう)会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷といったようです。
保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよび指定された郷村にかなり負担がかかったようですが村々では助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていたのです。明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃止されています。
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問屋場(といやば)跡は宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのです。問屋を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などの宿役人がいたとのことです。
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金沢横町道標四基
東海道・程ヶ谷宿の帷子町金沢横丁の辻に4基の道標が並んでいました。向かって右側から「円海山之道」(天明3年(1783年)銘)、「かなさわ かまくら 道」(天和2年(1682年)銘)、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(文化11年(1814年)銘)、「富岡山芋大明神江乃道」(弘化2年(1845年)銘)の4基。解説によれば以下のようです。ほとんど読めませんでした。
 「円海山之道」道標の右側面には「○×か奈沢みち」。
 「かなさわ かまくら 道」道標の左側面には「ぐめうじ道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」句碑の左側面には「是より杉田道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」道標には「富岡山」。
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上岩間踏切はJRの海道線と横須賀線が並走している踏切。開いている時間の方が少ないように思いました。
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源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られたとのこと。保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校(旧明倫高校)方面へ向かう”かなざわかまくら道”の途中の急な坂道(磐名坂(いわなさか)を上る途中に政子の井戸とも呼ばれる「御所台(ごしょだい)の井戸」がありました。 政子は、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のこと。 この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあるのです。
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坂道(いわな坂)を上りきった交差点の脇に「北向(きたむき)地蔵」がありました。お地蔵様が見守るこの道は「かなざわかまくら道」。
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この地蔵は享保2年(1717)に建立。昔話で伝わっているのは、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことで、それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したのです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったようです。またこの地点は「かなざわかまくら道」の分岐点で、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と 弘明寺方面への道案内も兼ねているのです。

福聚禅寺は建武2年(1335年)南北朝時代初期の創立。当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西巳久保町)の山腹に在ったとのこと。世に知られる様になったので光庵和尚を中興開山としたとのことです。その後も移転を繰り返したようですが境内山林の開拓とともに明治21年には本堂、庫裡、山門を建立したようです。
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墓所には東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九の弟子の五返舎半九の墓誌がありました。
この名前は、師匠の十返舎一九の半分だからと命名したようです。半九の娘が横浜港崎町で芸妓を経営する[橋本楼]の後妻であったことから、橋本家菩提寺である福聚寺に墓誌が建立されたとの推測があるとのことです。
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宿場そば桑名屋は創業明治19年。東海道五十三次保土ヶ谷宿を基調に、宿場風な店作りで八割蕎麦を提供しているとのこと。お店のたたずまいは昔風。ご主人は宿場を盛り立てようとの熱意が伝わってきました。
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保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を利用したのです。
金子本陣跡
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茶屋本陣跡は休息専用だったようです。
脇本陣は本陣だけでは収容できない時に利用した所。脇本陣(水屋)跡は案内のみでした。
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一般の旅行者は旅籠屋を利用。旅籠屋(本金子屋)跡は建物が残っていました。
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大仙寺踏切は大仙寺に向かう参道の途中にありました。
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大仙寺は高野山真言宗のお寺。天禄年中(970年〜973年)の起立。往古は神戸山持院神宮寺と号し伊勢皇大神宮の別当を務めたとも伺いました。参勤交代等、東海道を往来して保土ヶ谷宿に休泊する際は、こちらに道中安全を祈願したようです。
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こちらは宿場の本陣、脇本陣、茶屋本陣等の全ての菩提寺で、境内に軽部家墓所がありました。
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軽部家はもともと苅部家だったようです。明治天皇がこちらで休息された時、軽部と表示されたことでやむを得ずその後も軽部を名乗っているとのことでした。

一里塚跡・上方見附跡。
現在の位置に見附のモニュメントができたのは2009年3月とのこと。デザインを優先して現在 L型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は本来、江戸方、上方とも |型だったとのこと。
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横浜市のマンホール「おすい」の文字入り。横浜市保土ヶ谷区国道1号沿い(保土ヶ谷1丁目本陣跡前から権太坂の市児童公園入口の間) に見られます。
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本日は数日前からの風邪が完全に回復していない中での参加でした。やはり少し体調がすぐれず、一里塚でギブアップ。保土ヶ谷駅に一人バスで移動し、湘南新宿ラインで帰宅しました。
本日の歩程約5km、歩数1万歩超。曇り空のもと、気温16℃、Am10:00〜14:00のウォーキングはまずまずのコンディション日和。でもその後は雨降りだったかも、、、、。
この後は以下の予定でした。
一里塚跡⇒外川神社⇒京方見附⇒樹源寺(軽部家ゆかりの寺)⇒帝釈天と旧元町橋跡⇒ゑびすや軽部商店⇒権太坂⇒権太坂小学校⇒鉾立商店⇒投げ込み寺塚の碑⇒菓匠栗山⇒境木・境木地蔵尊⇒武相国境モニュメント⇒JR東戸塚駅
また日を改めて一人ウォーキングをする予定です。
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク

2017年10月20日

2017.10.14 関西ぶらり旅

今年は秋が短く、アッという間に寒さがやってきました。
それにもめげず骨休めで「関西ぶらり旅」を3泊4日で楽しんできました。
10/13 高齢者用のJRジパング倶楽部に少し前に入会し、「ひかり」で悠々京都下車。その後は枚方市内の従姉宅へ。
そうそう、これから3日間は運動不足が見込まれるので「カーブス楠葉」にお邪魔して体操をしてすっきり、快調なスタートをきりました。
自宅の近くのジムとは雰囲気が違いました。でも皆さん、明るく、元気!かなり若い方も多かったです。
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10/14 今回の旅行の目玉です。
あべのハルカス美術館で「大英博物館国際プロジェクト 北斎-富士を超えて」を鑑
賞。入口には《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》が飾られ雰囲気が十分。
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稀代の浮世絵師、北斎。ゴッホやモネにも影響を与えたそうです。「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「The Great Wave」として世界でも有名。そういえば日本の新パスポートに「富嶽三十六景」が採用されたようです。北斎好きとしてはパスポート書き換えをしようかと思いました。此処の展示では、肉筆画が中心でまた還暦以降の30年に焦点を当て、90歳まで描き続けた北斎の世界が見られました。そうそう和綴の動物・植物が筆一本で描かれたのもめったに見られるものではありませんでした。
中はカメラ禁止。残念!当然すごい混雑でした。
売店で絵葉書などのお土産を購入。
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一回り後はハルカスガーデンで一息つき、その後野菜やめいで昼食。「焼茄子ソースの豆腐つくねハンバーグ」をいただきました。
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その後、四天王寺へ。足元には自慢の大阪城がくっきり。
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四天王寺の参道には明治433年創業の釣鐘屋があり、こちらの名物は「釣鐘まんじゅう」。
屋根に釣鐘がありとても目立っていました。
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四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立で今から1400年以上も前です。
『日本書紀』では、物部守屋と蘇我馬子の合戦の際、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓いその通りに勝利したので建立したとのことでした。
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境内は広く、入口には石の鳥居。
創建時の木の鳥居を1294年に石造りにあらためたとのこと。

今日はウン十年ぶりにJR大阪環状線に乗りました。昔に比べ各駅舎、車両がとても綺麗でした。
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10/15 雨降りが激しかったので京都高島屋へお出かけ。
四条大橋を抜けて京都高島屋7階グランドホールにて「生誕90年 加山又造展〜生命の煌めき」を鑑賞。
加山又造(1927年〜2004)、京都市立美術工芸学校から東京芸術大学へ進み、日本画からピカソ、ルソーなどの西洋画まで制作したようです。年代でどんどん作風が変化しているのがとても面白かったです。
散々歩き回った後は「おめん」でランチ。おそばが薄味で美味しかったです。
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その後は美味しい珈琲を求めて「フランソア」へ。
絶品でした。
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10/16最終日は京都駅で乗車前に「京漬物味わい処 西利」で軽くランチ。
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もちろん自分だけでは申し訳ないので家族にもお土産をゲット。

今回の旅は雨降りがついて回りましたがそれなりにのんびりし、従姉と女子トークで大いに盛り上がりました。このような旅もたまにはいいですね。また明日から元気に働けそうです。
posted by yunofumi at 00:08| ドタバタ日記

2017年10月10日

2017.10.9  OUT DOOR FITNESSおでかけノルディック隅田川テラス

本日はOUT DOOR FITNESSの渡邊コーチ、青木コーチのリードでおでかけノルディックウォーキングです。

猿江恩賜公園⇒野見宿彌神社⇒両国東あられ本舗⇒MERIKOTI⇒両国テラス⇒かじ取稲荷神社⇒DANDELION CHOCOLATE⇒釜めし春⇒浅草駅

猿江恩賜公園。
住吉駅からすぐの公園。現在は野球場やテニスコートもあります。かつては官営の貯木場だったそうですが昭和天皇が皇太子だったころ、その成婚を記念して猿江貯木場の一部を東京市に下賜されたのが始まりで今では全面が恩賜公園として開園しています。
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野見宿彌神社(のみのすくねじんじゃ)相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建されたのがはじまりとのこと。元の社殿は東京大空襲によって焼失し、1953年に再建、、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているようです。両国国技館の近隣なので、日本相撲協会が管理しているようです。
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歴代の横綱の名を刻んだ石碑は2つありました。こちらは新しいほうです。
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両国東あられ本舗。
ここは東京下町・両国の北斎通にあり、営業時間が午前9:00からと早く、皆で立ち寄り試食やお買い物ができました。明治43年開業とのこと。近頃は揚げおかき「北斎揚げ」がヒットしているようです。
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MERIKOTI。
「MERI」は、北国で伝わるおばあちゃんの知恵から生まれた、新しいルームシューズで肌触りのよい柔らかなメリヤスを使って、一足一足、ふかふかに編み上げています。夏は素足で、涼しく気持ちよく。冬はお気に入りの靴下と合わせて、楽しく暖かく、1年を通してずっと使えるようです。そうそう洗濯機でも洗えるそうです。店内には鮮やかな色合いと、ふかふかした質感が目を惹くルームシューズが並んでいて見ているだけで楽しかったです。実際に作るワークショップも定期開催されているとのことでした。機会を見つけて伺うつもりです。
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両国テラスは両国国技館の裏、安田庭園近くのピッツアなどがあるお店。以前に伺ったことがあり、懐かしかったです。
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揖取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は、慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て、屡々遭難あったけれど或る時稲荷の神の示現を得てから後は航海安全を得る事が出来たとのこと。その神徳奉賽の為め、稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷としたとのこと。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めていると案内がありました。
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DANDELION CHOCOLATE(ダンデライオンチョコレート)は、シングルオリジンのカカオ豆からチョコレートを作っている、世界でも数少ないお店。北はハワイから南はマダガスカルまで、世界中のカカオ農園から良質な豆を直接買い付け、選別、ロースティング(焙煎)、テンパリング、成型、ラッピングまですべての工程を自分達のファクトリーで行っているとのことです。ファクトリーの中は作っている行程も見られ、香りも十分堪能でき、とても素敵なお店でした。作りたてのチョコレートも試食できました。
この前の公園には以前墨田区ウォークで伺ったことがありました。こちらのお店は最近できたようです。
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釜めし春は大正15年の創業。歴史と素材の旨味が詰まった元祖釜めし屋さん。出汁は不使用。お客の注文を聞いてから厳選の幸で魅せる味わいと立ち昇るコク深い薫りで勝負しているようです。私達は松茸、鯛、牡蠣など色々注文し、出来立てを完食。御馳走様でした。
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東京スカイツリーが輝いて見えました。
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本日は10月になっているのに日差しも強く、汗ばむ中での2時間越えでした。25℃、晴天。でも日陰に入ればそよ風が心地よかったです。ノルディックウォーキングは通常ですと10000歩くらいですが本日はスペシャルなので15000歩超。それでも全員が元気に終了し、引き続いての美味しい食事とおしゃべりでしたから大満足の1日となりました。皆さん、今後も元気に楽しく!!またお会いしましょう!!
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク

2017年10月05日

2017.10.1 山手線歴史探訪ウォーク 第1回

東京駅〜上野駅

東京駅日本橋口⇒TRST TOWER⇒江戸城外堀石垣⇒北町奉行所跡⇒呉服橋交差点⇒夢二・港屋ゆかりの地・みづほ住友信託銀行⇒一石橋・一石橋迷子しらせ石標⇒メトロ三越前駅⇒常盤橋⇒貨幣博物館⇒日本銀行⇒江戸桜通り⇒日本橋三越⇒COREDO室町1⇒室町2丁目交差点⇒奈良まほろば館⇒日本橋・道路元標⇒日本橋魚河岸跡⇒福徳神社⇒古河市兵衛石碑⇒第一三共梶ヒ小津和紙の起源案内板⇒史跡於竹大一如来井戸⇒えびす通り⇒宝田恵比寿神社⇒十思スクエア前⇒身延別院⇒十思公園・松陰供養石碑⇒メトロ小伝馬町駅⇒お玉ヶ池と手種所跡・お玉稲荷神社⇒メトロ岩本町駅⇒柳森神社⇒神田ふれあい橋・東北線柳原通ガード⇒萬世橋⇒千代田万世会館⇒昌平橋⇒JRお茶の水駅⇒お茶の水水源⇒御茶ノ水郵便局⇒東京ガーデンパレス・つきじ植むら(昼食)⇒日本薬科大学お茶の水はりきゅう専門学校⇒湯島聖堂⇒天堅屋⇒神田神社⇒清水坂下交差点⇒妻恋神社⇒三組坂上交差点⇒面羊会館⇒湯島天満宮⇒旧湯島切通坂町案内板⇒鱗祥院・春日局墓所⇒三菱史料館⇒講安寺⇒無縁坂⇒旧岩崎邸庭園⇒教証寺・柳瀬美伴墓⇒上野恩賜公園・不忍池⇒JR上野駅

江戸城外堀石垣
都内にはあちらこちらに遺跡のごとく石垣が残っていますが東京駅日本橋口のそばTRST TOWERの所にあり、プレートにその所以が記されています。
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石垣の続きに北町奉行所跡がありました。
江戸時代の奉行所は北と南の2カ所とのこと。町の奉行は町人の行政・裁判・警察の役割を担っていたようです。お芝居やTVで馴染みの「遠山の金さん」正式な名前は遠山景元(とうやまかげもと)はこの方と写真を見せられましたが目がやたらに鋭い、太ったおじさんでTVとは大違いでした。

夢二・港屋ゆかりの地
外堀通りの呉服橋交差点から、日本橋方向に少し入った左側、東京メトロ日本橋駅A1出口の近くに竹久夢二港屋ゆかりの地記念碑がありました。場所はみずほ信託銀行が入っている新呉服橋ビルディングの前。竹久夢二が自らのデザインによる版画や封筒やカードを売る店があったようで、商業美術史上重要な意味を持つ場所とのことでした。

一石橋迷子しらせ石標。
1857年建立された江戸時代の尋ね人探しの石標。
右側には「しらする方」、左側には「たずぬる方」とあり、張り紙をしたとのこと。此処のほか湯島と浅草寺にもあったようです。
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貨幣博物館は、日本銀行金融研究所内の2階フロアに設置されている博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館した。館内には日本の貨幣史、世界のさまざまな貨幣が見られます。1億円分の紙幣の重さを体験出来るのですがいつ来ても皆さん興味をもって持ち上げています。

日本銀行は1882年(明治15年)に設立。今でも日本で唯一の発券する銀行。本館はルネサンス様式の花崗岩造りで辰野金吾設計、6年かけて1896年(明治29年)完成。本日は耐震補強工事?か何かでパネルで遮蔽されていました。

日本橋は1590年(天承18年)徳川家康が江戸へ入城後、江戸の町が造成され、1604年(慶長9年)五街道の起点となった橋。現在の橋は1911年(明治44年)それまでの木橋から石橋に架け変えられたものですでに100年以上たっているのです。標柱や橋中央の「日本橋」の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆。橋中央には日本国道路原標が、また橋脇にはこれのレプリカがあります。

福徳神社(芽吹神社は)は旧福徳村の稲荷神社として奉斎され、平安時代前期の859年〜876年(貞観年間)には創建されていたとの推測があるようです。古くは源義家が深く崇敬、江戸城を築城した太田道灌もしばしば参詣したようです。そして江戸幕府開府以前に太田道灌が合祀され、その兜・矢・鏃などが奉納されたようです。また、徳川家康のよく参詣、二代将軍・徳川秀忠が1614年(慶長19年)の正月に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛し、この時に樹皮付きの椚(くぬぎ)製鳥居に若芽が萌え出ているのを見て「芽吹神社」との別称を命名したとのことです。1619(元和5)年2月に江戸城内から弁天宮が合祀されています。幕末期の多くの火災で被災、社殿・施設修復費用捻出のため、富くじ興行が許された社寺のひとつでもあった。
天保の改革、明治維新、関東大震災、東京大空襲など社殿の焼失などを繰り返し2014年(平成26年)にこの地に竣工されたのです。また、2016(平成28)年9月、境内東側に「福徳の森」ができました。
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古河市兵衛石碑がCOREDO室町2の裏手にありました。
古河市兵衛は古河財閥創始者。幼少時より丁稚奉公や行商を行いのちには小野組で生糸貿易に手腕をふるったとのこと。1874年(明治7年)の小野組破産後で独立し、翌年東京で古河本店を開設。渋沢栄一らの資金援助で鉱山経営を行い、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などを経営したことから鉱山王とも言われその後の古河財閥の基礎を築いたようです。しかし後には、足尾銅山の急激な発展で鉱毒事件が起きています。
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小津和紙の起源案内板
小津和紙は、1653年創業の老舗。和紙の専門店としては、日本で有数の規模を誇り、書道用の半紙から美術工芸用の高級手漉き和紙まで、全国各地のあらゆる和紙を取り揃えています。
今年からは和紙の文化を広く知ってもらおうと、手漉き和紙の体験もできる博物舗も併設されているようです。
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於竹大一如来井戸。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である。」とされたのがはじまり。この井戸は於竹が日頃使った所とのこと。於竹は行者の訪問後、亡くなりその後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養したのです。働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」への心づかいなどの話から「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を多くの人が参詣しまたブームにあやかり江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたとようです。また 回向院では数度にわたる羽黒山行者により、出開帳も行われたとのこと。 五代将軍 徳川綱吉の母「桂昌院」も於竹如来を信仰し於竹を歌に詠みまた、小林一茶の俳句や坪内逍遥の芝居でも上演されたとのこと。
奉公先の夫婦の菩提寺、親族の菩提寺、ゆかりの地である山形県羽黒山に於竹をまつる施設が、今も残っているとのことです。  羽黒山正善院には、於竹の奉公先夫婦によって作られ、後に江戸から移された於竹の等身大の大日如来が安置されているようです。また於竹大日如来のお墓は、東京都北区の善徳寺にあるとのことです。
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宝田恵比寿神社の創建は不詳。だが家康入城以前にすでに宝田村の鎮守さまだったとのこと。その後今の大伝馬町に遷座しここでは金銀為替、駅伝、水陸運輸などの役割を担い賑わったとのこと。今東京の風物市としての「べったら市」は商売繁盛の行事なのです。
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身延別院
この地は伝馬町牢屋敷跡。創建は明治16年。明治になって取り壊された伝馬町牢屋敷に身延山別院として多くの獄死者の霊を慰め理想の国土を、ということで現在に至っているようです。
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十思公園の辺りは伝馬町牢屋敷跡。在牢者は200〜400人、多い時は1000人もつながれていた場所。
安政の大獄で捉えられていた吉田松陰はここで刑死。供養石碑が公園の端にありました。
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お玉稲荷神社は「桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る神社。
[現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
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お玉ヶ池種痘所。
お玉が池のほとりに1858年(安政5年)伊東玄朴、大槻俊斎などの江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったとのことです。しかし半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移っったとのこと。しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えて現在の東京大学医学部につながったとのことです。

柳森神社は長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとのこと。1659年(万治2年)に神田川堀割の際に現在地に移転し柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になったのです。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したもの。境内には13個の力石群がありました。
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お茶の水の碑
この辺りにあった高林寺に湧いていた水で将軍にお茶を差し上げた所。これが語源でお茶の水と地名が付いたようです。石碑は1957年(昭和32年)に建立。
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湯島聖堂。
徳川五代将軍綱吉により儒学振興のために1690年(元禄3年)に創建。その後幕府直轄の「昌平坂学問所となったのです。
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神田神社(神田明神)は730年(天平2年)創建。もとは日比谷入江そばの豊島郡柴崎村から駿河台へ、さらに現在地に移ったのです。江戸時代には江戸の総鎮守として将軍家の崇敬を受けたとのこと。祭礼は「天下祭り」と称され、日枝神社の「山王祭」と共に盛大なようです。社殿は権現造りで1934年(昭和9年)の再建、隋身門は1976年(昭和51年)に朱塗りの木造建築に再建されたものです。
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妻恋神社の創建は不詳とのことですが日本武尊が東征の時、三浦半島から房総へ渡る際に大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救いその後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したのです。そこでこの地の郷民達が尊の妃を慕われる心を哀れに思い尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝わっているとのことです。江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったと伝わっているようです。
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湯島天満宮(湯島天神)は458年(雄略天皇2年)に勅命で創建とのこと。神紋は「加賀梅鉢紋」。古来より江戸の代表的な天満宮。学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには受験生が合格祈願に訪れる。
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鱗祥院(りんしょういん)は、大奥に仕えた春日局の法号がそのまま寺院の名前になっています。中には春日局のお墓があります。この辺りは元々徳川家から賜った春日局のお屋敷があった場所なのです。
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春日局の墓のはまん中に穴が空いています。これは、春日局が、「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたものだのようです。

無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂。
坂の横にあった無縁寺(現在講安寺)が名前の由来と伝えられています。本日は逆に下りで歩きましたが不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登っており、東京大学に突き当たると理解しました。

旧岩崎邸庭園。
三菱の創始者岩崎弥太郎の長男、久弥の住宅として1896年(明治29年)に完成。
洋館などはニコライ堂の設計者でもあるイギリス人ジョサイヤ・コンドルの設計。
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今日は東京都民の日で大混雑のため建物外観と庭園のみを見て帰路へ。

本日は気持ちよく晴れた1日でした。微風が時々あり、25℃ではウォーキング中、少し汗ばむ程度で、歩程約12km、22000歩を終了。結局5時間はあっという間でした。
講師ははじめての井上先生、CDは阿部さん。ということで仲間30人は全員元気で終了できましたからこの10回コースも無事終了できるようにがんばります。
posted by yunofumi at 00:09| あちこちウォーク

2017年10月01日

2017.9.29 横浜散策第4回 鶴見区

今朝は青空、快適なウォーキング日和です。

JR鶴見駅西口⇒西口エスカレーター⇒総持学園鶴見大学⇒大本山総持寺⇒鶴見駅⇒ホテルBEST Western Café Aletta⇒お菓子司清月⇒ベルロード・旧東海道⇒京急鶴見駅⇒ベーカリー&スイーツ・エスプラン(旧覇王樹(さぼてん)茶屋)⇒下野谷町入口交差点⇒村田屋酒店⇒JR国道駅⇒味童天金⇒生麦魚河し通り⇒明神社⇒生麦事件発生現場⇒関口米店⇒生麦公園⇒生麦事件碑⇒キリン横浜ビアビレッジ⇒明神前交差点⇒生麦病院⇒生麦駅前交差点⇒生麦駅前通り・手打ちそば味楽⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅

大本山総持寺。
曹洞宗は中国より道元禅師により伝えられまず、福井県の永平寺を開山。また4代目瑩山善治が石川県輪島に総持寺を開山。総持寺は明治31年の大火を契機に石川素童禅師の英断でこの鶴見ケ丘15万坪の地に移転したとのこと。教育にも熱心でお隣の鶴見大学も経営しており、今では総合大学となっているようです。

総門をくぐり、七堂伽藍の最初に出会うのが「三門」。この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和44年に落成した建物。鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさとのこと。三門には、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている金剛力士(仁王)像が納められていました。左右に阿吽の仁王像三門楼上には、開創時からの因縁で、観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られ、毎月2日と16日には羅漢供養の法要が修行。これらの像は彫刻家・阿部正基氏の作とのことでした。 三門正面の扁額「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師が書かれたものとのことです。
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仏殿は七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」の額がありました。ここには、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)が祭られているとのこと。豪華絢爛の様子を少し見られました。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には「金鶏門」、「中雀門」、「玉兔門」という脇門(通用門)がありました。
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向唐門(むかいからもん)
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれており、「勅使門」があるのです。禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の御移転記念日の時に開扉されるようです。
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境内には、昭和の大スターである「石原裕次郎」のお墓もありました。
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境内の奥に大きな浅野家の墓所があった。
実業家浅野総一郎一族のものとわかりました。彼は富山県出身、1848年生まれ。医家に生まれながら商人を目指し、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋などをした後、横浜に出て贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋、薪炭商、そして最後は一代で浅野財閥を築いた方。映画『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』2006年、『弁天通の人々』2009年があるとのことです。
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総持寺の宝蔵館「嫡々庵」(旧、宝物殿)は昭和49年(1974)に總持寺開山瑩山禅師650回大遠忌の記念事業として建立され、同51年(1976)より總持寺所蔵の文化財を一般公開しています。収蔵資料は絵画・彫刻・工芸・書跡・古文書と多岐にわたり、重要文化財5件・横浜市指定文化財5件をはじめ、宗教的・美術的・学術的に重要なものが多く含まれているとのこと。しかし本日は休館。また伺うようです。
昼食はホテルBEST Western Café Alettaで美味しくいただき、その後はホテルのお隣のお菓子司清月で「よねまんじゅう」を購入。
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「よねまんじゅう」は、江戸時代に鶴見の東海道沿いのお店で売られていた名物のお菓子で、「〜お江戸日本橋、七つ立ち〜」の歌いだしで知られる民謡『お江戸日本橋』の中で「六郷渡りて川崎のまんねんや 鶴と亀とのよねまんじゅう こちゃ 神奈川急いで保土ヶ谷へ」と歌われているほど有名なお菓子だったようです。 しかし、明治時代になって鉄道が開通すると、そのお店が廃業し、幻のお菓子となってしまったのです。その後、かつての名物を復活させようと、1982年(昭和57年)に清月さんが発起人となって、鶴見の菓子組合30周年を機に発売されたとのこと。1985年(昭和60年)、神奈川県が選定する名産百選にも選ばれ、今や鶴見を代表する和菓子になっているようです。

ベルロードつるみ駅前商店街という旧東海道に面した場所で旧東海道に入るとすぐ「ベーカリー&スイーツ・エスプラン」がありました。ここは以前、覇王樹(さぼてん)茶屋といわれていたお店で横浜では初めてとなる「スペイン風石釜」導入したとのこと。富士山の溶岩石を使用し、遠赤効果は他に類を見ないと云われているものだそうです。パン屋になったのは、1952年からで現在の社長さんは2代目(覇王樹茶屋からは11代目)とのことだそうです。石碑とサボテンがありました。
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製菓・製パンなど野生自然酵母、植物性乳酸菌、天然塩、那須産の卵など、自然の素材にこだわっているとのこと。一度買い物をしたいと思いました。

JR国道駅(こくどうえき)の開業は1930年(昭和5年)。鶴見線の高架の無人駅。1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』、2007年の『華麗なる一族』など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用されるとのこと。本当に高架下が異様なムードの駅でした。
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建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦末期におけるアメリカ軍機による機銃掃射の銃弾の痕で今も残っていました。
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生麦魚河し通り「味童天金(あじわらべてんきん)」
丼物が美味しいとのこと。ウニ、アナゴなど生麦魚河の旨いものがどっさりあるようでした。
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道念稲荷神社。
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生麦神明社。
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この二社とも創建年代は不詳とのことですが、新編武蔵風土記稿に記載があるとのことですから江戸時代末期には創建されていたようです。
両社は「蛇も蚊も祭(じゃもかもまつり)」で有名。
蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まるといわれています。この行事は、端年の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、本宮(道念稲荷神社)と原(生麦神明社)で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、原のものが雌蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していたようですが現在は、両社別々の行事となっているとのことです。生麦神明社の境内には公園があり遊具になった蛇がいました。
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以前はなかった首都高神奈川1号横羽線と7号線横浜北線が生麦JCTで交差している傍に「生麦事件発生現場」の案内と「生麦事件碑」が以前の場所と少し違う所に設置されていました。
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生麦事件は、幕末の文久2年(1862年9月14日)に、当時の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えたのです。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立したのです。
生麦事件参考館は、18年かけて集めた生麦事件に関する国内外の資料140余点を展示している私設の資料館とのこと。
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私的にはこの地は2011年9月東海道五十三次の街道歩きで訪れた地です。あの時は猛暑で軽い熱中症になり、バテバテでした。近くの氷屋さんで「カチワリ氷」をCDさんが買ってきてくださり、ようやく回復。当日の歩程をやっと終えられた思い出の地なのです。最近出来上がったばかりの高速道を見上げながら大いに様変わりした景色を見まわしていたところ、例の氷屋さんがあり、思い出したのです。

キリン横浜ビアビレッジ。
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大々的に見学者を受け入れるようになっていました。約80分で終了でしたが最新の設備などが見られて有意義でした。
また最後に試飲があり出来立ての「新一番搾り」やノンアルコール類もいただきました。メチャクチャ美味しかったです。
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本日は24℃、晴天。30名が参加。講師浅井先生、CD金子さんの案内で心地よく過ごしました。
またお土産はビールやお菓子司清月の和菓子など。
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本日は総持寺やキリンビバレッジ内を歩き回ったこともあり約20000歩をクリア。それでも昼食とおやつを美味しいくいただき、帰りは元気いっぱいでした。
posted by yunofumi at 22:13| あちこちウォーク

2017年09月25日

2017.9.24 高尾山9回目

京王線高尾山口駅⇒稲荷山コース⇒高尾山山頂⇒1号路⇒薬王院⇒山上駅〜エコーリフト〜山麓駅⇒王線高尾山口駅

朝8:30京王線高尾山口駅5人で待ち合わせ。やや曇り、Mさんと二人で稲荷山コースの上りを開始。
ここ数日雨が多かったせいで山道はぬかるんでおり、所々には水たまりもありました。
連休の最終日でしたから小さな子供さんも元気に登る姿が可愛かったです。でも運動靴はまだしもサンダルはどうなんでしょうね。一応登山ですから、、、、。

ケーブルカーの駅では天狗さんが睨みを利かせていました。
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上り始めるとそろそろ秋の気配でした。
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山頂ではあいにく富士山はみえませんでした。
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そろって山頂での記念撮影。
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帰りはリフトで存分に自然を楽しみました。
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今日は曇りから徐々に青空も見え、良い日和でした。
山頂では21℃でそよ風もあり、気持ちが良かったです。下界に降りてみると24℃。
お陰様で天候はもとより、心身ともに良いコンデションで登山を楽しみました。
それにしても5カ月ぶりの登山でしたから体力の低下をいやというほど感じました。
帰宅してみると17000歩、今日も頑張りました。それにしても高齢者の体力低下と維持は日々が大切を実感した1日でした。
posted by yunofumi at 09:22| あちこちウォーク

2017年09月19日

2017.9.17 MBT walk-style JIYUGAOKA オープン!!

数年前よりウォーキングシューズは「MBT」を使用しています。
こちらは2014年11月に仲間と一緒にウォーキング終了後の記念撮影。
当時から色や種類が様々ありました。
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この靴底は船のように丸くカーブしており自然と足が前に出るのです。
ということで相変わらず脚力に自信がない私ですが、現在は10km前後のウォーキングもこなせるようになっております。

この度顔なじみのゆきこさんが新しくお店をこの9月にOpen!
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お祝いを兼ねて友人とともにお出かけ、お買い物をしました。
初めての場合、サイズ合わせはもちろんですが歩き方の指導もしていただけます。
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ということでここでは初心者向けのお散歩会も開催するとのことでした。
私は以前お世話になっていた浦和のスタジオでもそうでしたが歩き方の確認で時々、今後も参加するつもりです。

そして久しぶりに仲間が集い、お買い物の後はもちろんお茶です。
お店の近所の「fete café」はわがままを聞いていただけ、ケーキはハーフ・ハーフでいただきました。
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いくつになっても仲間はありがたい。

そうそう、自由が丘駅到着がちょうどお昼だったので「Mariscos Boo」でランチをいただきました。ちょっとこじゃれたお店でパスタ&サラダが美味しかったです。
ということで今後は自由が丘のお買い物はこのコースが定番になるかも!!
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みなさん!またゆっくり遊びましょう。
posted by yunofumi at 22:44| ドタバタ日記

2017年09月17日

2017.9.16 第18回東京の新発見「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒魚津本店⇒長屋門・荻窪4-30-16⇒上州屋質店⇒西効(せいこう)ロッヂング⇒東京こども図書館・石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻窪東保育園⇒荻外荘(てきがいそう)⇒大谷戸さくら緑地⇒角川庭園・幻戯山房(げんぎさんぼう)・すぎなみ詩歌館⇒大谷戸かえで緑地⇒都立杉並高校⇒成宗弁財天社⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒杉並第二小学校⇒尾崎熊野神社⇒宝昌寺⇒交通公園入口交差点⇒尾崎橋⇒成田上橋⇒成田下橋⇒成園橋⇒成宗白山神社⇒大成橋⇒御供米橋⇒和田堀公園⇒大宮遺跡⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒珠杏(じゅあん)カフェ(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社⇒旧井口家住宅長屋門・杉並区郷土博物館・杉並文学館⇒済美台遺跡⇒大圓寺⇒京王電鉄井の頭線永福町駅

大型の巨大台風18号が日本に近づきつつある今朝です。空には薄黒い雲が一面に広がっていますが何とか終了予定の15:30までは雨が降らないように心に念じながら10:00には出発。

中田家長屋門。
昔の杉並あたりは善福寺池を中心として野鳥が多かったとのことです。江戸時代には鷹狩りの地とされていたとのことで将軍が鷹狩りに来られるとこの中田家が休息所となったようです。この家は普段は百姓屋ですから将軍の威厳を損なわないようにと門だけ武家長屋門を建てたのです。このような経緯だったので明治期には天皇も休息所を訪れたとのことです。
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西効(せいこう)ロッヂングは1938年(昭和13年)建築の洋風建築。
2001年(平成13年)の改修後、新館が西郊ロッヂングと呼ばれており、賃貸住宅となっている。本館は「西郊」という旅館になっているようでした。
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東京子ども図書館は子どもの本と読書を専門とする私立の図書館。1950年代から60年代にかけて都内4カ所ではじめられた【石井桃子のかつら文庫】、【土屋滋子のふたつの土屋児童文庫】、および【松岡享子の松の実文庫】を母体として1974年に設立し、2010年に、公益財団法人になったようです。子どもたちへの直接サービスのほかに、“子どもと本の世界で働くおとな”のために、資料室の運営、出版、講演・講座の開催、人材育成など、さまざまな活動を行っているのです。
石井 桃子さん(1907年〜2008年)は、日本の児童文学作家・翻訳家。数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した方。代表作は『ノンちゃん雲に乗る』(1951年)、『子どもの図書館』(1965年)、『幻の朱い実』(1994年)など。翻訳としては『熊のプーさん』(1950年)、『ピーターラビット』(1971年)が有名。我が家でも随分親しみました。
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大田黒公園は、杉並区荻窪にある区立の都市公園。音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年(昭和56年)に開園した区立の公園。
正門は総檜の切妻作り、屋根は桟瓦ぶき、塀は築地塀。
入るとすぐに70m御影石が敷かれており両サイドには27本のイチョウが見事。
住居だった記念館は昭和8年建築された西洋風の建物。室内には多くの資料のほか黒田氏のスタインウェイのピアノ、蓄音機、多くの資料がありました。
お庭は高低差を利用して水が豊かに流れ、季節ごとに楽しめそうなところでした。とくに東屋と池が素晴らしく絵になりました。
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荻外荘(てきがいそう)は近衛文麿の別邸だった所。昭和戦前に総理大臣を3度務めた近衛文麿はここで重要な会談を行ったようです。
有名なのは昭和15年7月19日に近衛文麿、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が参加した荻窪会談。そして昭和16年10月12日の荻外荘会談。ここから開戦になっていますね。
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荻外荘と名付けたのは西園寺公望、設計は築地本願寺も設計した伊東忠太。
現在は奥のほうに見える玄関や客間棟のみがあり、手前は公園でした。本来は居住棟と別棟があったようで今後こちらに元のように移築する計画があるとのことでした。

ウォーキング中、大谷戸さくら緑地、大谷戸かえで緑地がありました。
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形をいうとのことです。また、このような地形は谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られるとのことです。

角川庭園は俳人で角川書店の創設者の角川源義の旧宅を区立公園。
建物は1955年竣工の木造2階建て瓦葺近代数寄屋造り。設計は俳人で建築家の加倉井昭夫。
中に入ると京土壁、面皮柱が見られとても広々と開放的。旧応接間の展示室は角川源義の俳句や所蔵品が見られました。
奥の茶室・水家・茶道具室も見て楽しみました。
庭園は緩やかな斜面にあり大きな芭蕉、荻窪の由来になった荻(おぎ)など400本の樹木があるようです。
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成宗弁財天社の創建年代は不詳。成宗村の開村と同時期に、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池)のほとりに建立されたのが始まりとのこと。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある素焼きの曼荼羅像とのことです。
鳥居前に残る石橋・水路跡は新堀用水(天保用水)の名残りだということでした。
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成宗須賀神社の創建年代は不詳といいつつ天慶4年(941)に創建、慶長4年(1599)に再建されたと伝えられているとのことです。成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊。社名は祭神が同じ素盞嗚尊である出雲の須賀社にちなんだものとのことです。
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尾崎熊野神社は別当寺であった宝昌寺境内から出土した板碑などによると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基づくと言われているとのこと。
境内にそびえるクロマツの大木は、この神社の御神木で、樹齢約400年と言われ、杉並区指定天然記念物の巨木です
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白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像。開創者は文禄3年(1594)頃、中野成願寺5世葉山宗朔。曹洞宗となる前は、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しているとのことです。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころで、村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもあったようです。
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善福寺川は善福寺池が水源で神田川に合流するまで一級水系 荒川水系で杉並区、中野区を流れる約10kmの一級河川。
今日は川が蛇行していることを実感。あとは天王橋、尾崎橋、成田上橋、成田下橋、成園橋大成橋、御供米橋などの多くの橋を見ました。
御供米橋(おくまいばし)の少し下流で自然湧水が流れ込みその湧水を利用して、この近辺で御供米(米を奉納すること)のための米を洗ったというエピソードからの命名だそうです。

成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守。創建に関しては近隣の大宮八幡宮と同じ頃と言われているとのこと。別当寺は宝昌寺。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、杉並区にある都立公園で善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。住民の憩いの場としてはもちろん、遠方からの来訪者も多い。春には桜の名所として知られているようです。

大宮遺跡。
緑の森の丘に大宮八幡があり、このあたりは数多くの遺跡が発掘されているのです。
1969年(昭和44年)には、弥生時代末の「方形周溝墓」3基が見つかったのです。この墓は、弥生時代特有の墳墓で集落のリーダー級の墓とのこと。発掘された墓の周辺から勾玉やガラス玉などが発見され、被埋葬者が生前使用していたと思われる装飾品が副葬されていたのです。方形周溝墓は、弥生時代の社会的背景、集落構造を知る上で欠くことの出来ない貴重な資料であることから、埋め戻され保存されているのです。1979年3月に都指定史跡となり出土した土器等は郷土博物館に展示されているのです。
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昼食は珠杏(じゅあん)カフェ。こちらは鶏の焼肉に特製のミソダレを付けロースターで焼く焼肉スタイルで食べられるレストランでした。丼には焼いた野菜が載せてありましたが結構油ぽかったです。

大宮八幡宮は源頼義が京都の石清水八幡宮より分霊をいただいて建てた、応神天皇を主祭神とする神社。大空に八条の白雲がたなびいて源頼義の軍を勝利に導いたという縁起から、厄除開運の信仰があります。また応神天皇が母・神功皇后の胎内に有る時から神威を発揮されたことから、縁結び、安産、子育ての信仰もあるのです。神域が広大であったことから鎮座地の大宮という地名が名づけられ、現在の境内も15000坪を誇る。かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、東京の重心「東京のへそ」として多くの参拝客が訪れるのです。
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本日は大宮八幡祭り(秋の大祭)で大いににぎわっていました。私たちの訪問の後15:00よりお祭りは開始とのことでした。
清涼殿には菊の着綿が見られました。
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この菊の着綿(きくのきせわた)とは重陽の節句に行われる宮中の習慣とのこと。平安時代の貴族の習慣で、重陽の日に菊の花に植物染料で染めた黄色の真綿を被せ、翌日の早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、その綿で体を拭えば菊の薬効により無病であるということが伝わっているとのこと。中国の伝説に、上流に菊の花園がある滝の菊の花びらが漬かった水を飲んだ人が長寿を得たというものがあり、また能の「枕慈童」に中国の故事として菊の露を飲んで不老不死になった少年が登場するなど、菊を服用するなどして薬効を得るのはもとは中国の習慣であったようです。また、室町時代には菊酒という菊を浸した酒を飲むことも行われるようになっていたとのこと。

旧井口家住宅長屋門
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長屋門を入ると杉並区郷土博物館がありました。
ここは杉並に4人が住み始めて以来の暮らしや文化の資料などが多くありました。
旧石器時代から古墳時代の土器など、また鎌倉時代から戦国時代の文書、江戸時代の杉並の景観、明治維新、関東大震災前後の様子など興味深い展示がありました。

杉並文学館。
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済美台遺跡は、旧石器時代の終わり頃(15,000年前頃〜23,000年前頃)、縄文時代前期から後期(6,000年前頃〜4,200年前頃)、弥生時代後期(1,800年前頃)、古墳時代後期(1,400年前頃)、中世、近世といったさまざまな時代の資料が発掘されているとのこと。本遺跡付近では善福寺川が大きく蛇行することによって、田畑を耕作するといった、各時代のライフスタイルの最適な環境を提供していたようなのです。

大圓寺(だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院で山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。
薩摩藩島津家の江戸での菩提所でした。
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本日の参加者は18名、そのうち男性は6名。講師はお馴染みの牧先生、CDははじめての長田さん。
結局、雨には会わずにぴったり15:30に終了。歩程約11km、約18000歩は1か月ぶりのウォーキングながら全員が元気に終了でき、上出来でした。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク