2022年01月31日

2022.1.23 さいたま彩発見ぶらり街あるき 三郷市

三郷市は、埼玉県の東南端にあり、都心から約15km、秋葉原まで20分で行けるそうです。市内は東西5.6km、南北9.5km、地形はほとんどまっ平。もともとは関東平野の江戸川と中川に沿った沖積平野とのこと。三郷市になって早や50年で市内にはラッピングしたバスが走っていました。今日はお正月が終わりましたが三郷七福神めぐりも兼ねたウォーキングとなります。

JR武蔵野線新三郷駅⇒新三郷ララシティ⇒みさと団地⇒三郷工業技術高校⇒二郷半領用水路⇒自然派レストラン蕎麦旬⇒玉蔵院(弁財天)⇒蜜蔵院⇒三郷市立彦成小学校記念講堂⇒延命院(寿老人)⇒東光院(毘沙門天)⇒香取神社⇒善照院(布帯尊)⇒上口公園⇒番匠免神社⇒迎摂院(弁財天)⇒三郷市消防団第五分団第3班⇒御菓司匠観音どら焼き饅頭屋⇒円能寺(福禄寿)⇒花和田児童公園⇒西善寺(大黒天)⇒成就院(恵比寿)⇒JR武蔵野線三郷駅

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JR武蔵野線新三郷駅は1985年に旧国鉄の駅として開業。その頃は武蔵野操車場を挟む形で、上下線のホームが360mも離れて設置されており、ギネス世界記録に「世界一ホームが離れている駅」として掲載されたこともあったそうです。この武蔵野操車場1986年に廃止され今は上下ホームも統合され普通の駅となっていました。そして武蔵野操車場跡は新三郷ららシティとなり、「ららぽーと新三郷」、「 IKEA新三郷」、「コストコ」などの大型商業施設が堂々とありました。いずれも特徴のある施設ですから休日などは遠くから買い物客が集まるようです。

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みさと団地はもと日本住宅公団(現・UR都市機構)により建設され、1973年(昭和48年)4月より第一次入居開始、続いて1974年(昭和49年)12月に第二次入居開始。総住宅戸数は9,867戸で、ピーク時には2万3千人の人口を擁する国内有数のマンモス団地となったのです。初めから低層と高層の2ブロックで構成されているとのことです。

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二郷半領用水路(にごうはんりょうようすいろ)は、吉川市、三郷市、北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路。元々、水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領が利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路だそうです。この地域は早場米の産地でもあったのですが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害にも悩まされていたこともあり、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行い良質な穀倉地帯となったのです。
現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っているとのことでした。

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自然派レストラン蕎麦旬は和食と本格手打ち蕎麦のお店でした。こだわりの食材を使った本格派の蕎麦をメインにした会席膳が味わえる一軒家のレストラン。まずは吟味した石臼引きのそば粉を店内で製麺し、打ち立て.茹でたての十割蕎麦をいただきました。またそばつゆは昆布 かつお さば他でだしを取り、県内.老舗の醬油で作ったかえしを使ったものとのことでした。お膳の作り方は京風でちょっとおしゃれでした。ということでまた来たいお店になりました。
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玉蔵院(ぎょくぞういん)(弁財天)
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玉蔵院は、山号を北野山玉蔵院と称し、真言宗豊山派に属します。江戸高田(現在の東京都湯島)の根生院の隠居寺として、1606年(慶長11年)建立されたといわれ、開祖は祐堅和尚とのこと。本尊の阿弥陀如来は、平安末期の作で一木造の仏像。弁財天も含め本堂も閉じられており、境内を見るだけでした。

三郷市立彦成小学校記念講堂
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この小学校は明治6年に開校。記念講堂は 1926年(大正15年)に建てられ現在郷土資料館分館でとなっていました。
講堂は2016年に大正時代の貴重な木造建築物ということで復元されたのです。 郷土資料館では、農具や農家の暮らしに関わる資料など、地域の歴史について展示しているようです。本日は内部を見られませんでしたが特徴としては天井に蝶(ちょう)・菖蒲(しょうぶ)・鳳凰(ほうおう)の透(す)かし彫(ぼ)りが二か所あること。「折上(おりあ)げ」という手法で壁と天井の境目はカーブを描く造りになっていること、外から見ると 両開きの鎧戸風(よろいどふう)の装飾窓が見えました。そして玄関ポーチを支える二本の柱は建物の外観の中でも特に装飾的で、柱は四本の角柱が半円形の柱を挟むような形に組まれており、半円形の柱材には西洋建築に見られる筋彫(すじぼ)りという装飾がほどこされているようでした。

延命院(えんめいいん)(寿老人)
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延命院は、明星山如意寺延命院と号し、真言宗豊山派の寺で、1570年頃(元亀年間)に俊秀和尚が開山したということです。本尊は不動明王。境内にある虚空蔵堂(こくぞうどう)は、虚空蔵菩薩が1486年(文明18年)に古刀禰川(現在の中川)に出現したので、村民がお堂を造ってこれを安置したのが始まりとのことです。
境内には様々な大きさの力石がありました。
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また本堂にあった寿老人がご住職の好意で拝顔できました。
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東光院(とうこういん)(毘沙門天)
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真言宗豊山派寺院の東光院は、荒神山薬師寺と号します。東光院の創建年代は不詳。上口香取神社の別当を勤めていたといいます。境内に三郷七福神(彦成めぐり)の毘沙門天がありました。
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善照院(ぜんしょういん)(布帯尊)
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真言宗豊山派寺院の善照寺は、神霊山と号します。善照寺は、1558年ころ(永禄年間)の創建。
境内の布袋尊と埼玉県のHPにあったコバトン布袋尊を並べて記念撮影です。
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番匠免神社
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番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したようです。
この神社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免にありました。番匠とは大工の古称で、地名の由来については、このあたりが番匠の免田(税を免除された田)であったことによるという説と、古くは「番匠面」とも書いたようで、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説があるとうかがいました。

迎摂院(こうしょういん)(弁財天)
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迎攝院は、真言宗豊山派に属し、山号を彦峯山観音寺。ご本尊は不動明王。1596年ころ(慶長年間)に祐貞によって中興され、このとき現在の真言宗豊山派に改宗したということです。この寺の観音堂は室町時代の創設と推定され、三郷市最古の建造物といわれているようですが本日は固く扉が閉まっていました。

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御菓司匠饅頭屋は大正2年創業の三郷市の篠田製菓饅頭屋とのこと。目玉商品は「観音どら焼き」「三郷インター最中」とのことでした。
「三郷インター最中」は本日の逸品でいただき、「観音どら焼き」は我が家のお土産にしました。
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円能寺(えんのうじ)(福禄寿)
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円能寺は、真言宗豊山派に属するお寺で、悲願山正連院円能寺と称している。本尊は不動明王。
当院は、武田信玄の家臣の田中修理という人が、1582年(天正10年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地に来たときに、携帯してきた不動明王立像を本尊として建立したと伝えられている。
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境内には、かつて松の大木があって、明治維新のときの上野の戦いに破れた兵士が追われてきたとき、この松の木に登って身を隠したことにより、助かったという言い伝えがある。それからこの松を「忍者の松」とか「人助けの松」と称して、信仰の対象になっていたということでした。

西善寺(さいぜんいん)(大黒天)
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西善院のご本尊は阿弥陀如来立像。像高90p、かや材寄木造、制作年代は鎌倉時代とのこと。この地区花和田周辺に人が住み始めたのは室町時代、西善院が建てられたのが1600年頃(江戸時代慶長年間)、現在まで西善院の代々の人々によって受け継がれてきました。

成就院(じょうじゅういん)(恵比寿)
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成就院は、神谷山谷口不動尊成就院と号し、真言宗醍醐派の寺で、本尊は不動明王。
寺伝によると、この不動明王は、最初は下総国小金領大谷口城主(現在の千葉県松戸市)が本尊として供養していたもので、天正十八年(一五九〇)に落城した時、家臣の神谷安右衛門が密かに持ち出した。その後、この神谷氏から分家に出た者が当地に移住し本尊としてこの不動明王を供養していたと伝えられる。ある時、不動明王が主人の神谷安兵衛(安右衛門の子孫)の夢まくらに立ち、「村人の願いごとは何でも聞き届けるから、人々にこれを伝えなさい。」と教えた。そこで安兵衛は僧となり、明治初年に一堂を建立し、成田山新勝寺において不動明王の開眼供養をして当堂に安置した。
以来、厄除け、災難除けなど何でも願いごとを聞き届けてくれる霊験あらたかなありがたい不動様であると伝えられ、今日もなお近郷近在の老若男女の信仰の的になっている。

三郷市にはJR武蔵野線の駅として今朝到着した新三郷駅と今到着した三郷駅、それにつくばエキスプレスの三郷中央駅があります。この三郷駅は1973年(昭和48年)国鉄の駅として開業。開業当初に自動改集札機が試験設置された駅でもあります。1992年(平成4年)にはみどりの窓口も開始されましたからそれなりに混雑していたようです。しかしいまは新三郷駅や三郷中央駅が繁盛しており少し地味になってきているようです。
本日は七福神をめぐるウォーキングのはずでしたがお正月が終わっており各々の神様がほとんど見られませんでした。ということでここで整理しておきます。
まず七福神とは室町時代末期から生まれた福の神信仰なのです。埼玉県で有名なのは草加宿・武州与野・越渡川越が有名です。私はこの3つはすでに巡っておりますまた今回の三郷は3つの地区に七福人めぐりがあるそうで、今日は彦成地区七福神めぐりでした。
七福神は恵比寿(えびす)、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)です。以下にざっと概略を示します。
恵比寿(えびす)=日本の神様、漁業の神様、烏帽子帽をかぶり釣竿と鯛を持っています。
大黒天(だいこくてん)=元々はインドのヒンズー教の神様仏法の守護神、打ち出の小槌と大きな袋を持ち米俵の上に載っている、食物・財福の神様。
毘沙門天(びしゃもんてん)=元々インドのヒンズー教の神様、仏教では多聞天という神様、武神・守護神で甲冑を身に着け矛と宝塔を持ち邪鬼を踏んでいる。インドでは財宝の神様。
弁財天(べんざいてん)=女性の神様、琵琶を奏で音楽、弁才、財福をつかさどる神様。
布袋尊(ほていそん)=中国の実在した人物、大きな袋を持って諸国を放浪した方、平和和合、金運招福の神様。
福禄寿(ふくろくじゅ)=中国の同郷の神様の化身、道教の三徳(幸福・封禄・長寿)を具現化した神様、長い頭と長い白髭、杖を突き鶴屋亀を連れている。
寿老人(じゅろうじん)=中国の神様の化身、白髭のおじいさん、長寿のシンボルの桃や鹿を伴っている仙人で長寿、諸病平癒の福の神。
もうひとつ三郷には彦のつく地名が多いと伺いました。「彦」は男の子の名前につくことはよく知っていました。そして三郷には11の彦のつく地名があったのです。ちなみに上彦川戸・上彦名・下彦川戸・彦糸・彦江・彦音・彦川戸・彦倉・彦沢・彦成・彦野です。そしてこれらの地名がある所の立地をみると中川沿いに集中しており、沢や川、江など水に関する字も多いのです。そして調べてみると「彦ってのは古代の方言でヒクのこと。ヒクとは川沿いに堆積した土砂で出来た自然堤防のこと。肥沃な土に人が集まって出来た集落に、彦の字つかったとネットも駆使してわかりました。面白いですね。

ということで本日のウォーキングを終了。喜多見先生の先導で小松TDが後ろを固め、曇天で寒かったですが本日も18名が無事に元気に約19000歩の歩程を無事を終えました。
皆様、来月の次回は三郷市のお隣の八潮市です。またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 14:50| あちこちウォーク

2022年01月04日

2022.1.4 新年おめでとう

皆様 新年おめでとうございます。
北海道、北陸は大雪のお正月の中、皆様いかがお過ごしでしたか。
関東地方は申し訳ないほどの青空が広がり、ふじみ野市からは真っ白な富士山が見えてすっかりありがたい気分で過ごしたお正月でした。
元旦は家族で食事後、地元の八雲神社に初詣をしました。ここ数日、コロナのオミクロン株が拡大気味なので今年は地元のみのお詣りとしました。
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元旦はまったく子供も大きくなりますと大人、特に老人は手持無沙汰ですね。
テレビも新聞もつまんない。ということで本日は娘に教わりネットフリックスでタケシさんの「浅草キット」を見ました。なかなか深い映画でした。
ということで今年も大いに楽しく、遊びも仕事も頑張ります。皆様もよろしくお付き合いください。
posted by yunofumi at 12:12| ドタバタ日記

2021年12月31日

2021.12.31 1年の振り返り

皆様 お疲れ様です。もうすぐ2021年が終わります。
今年もコロナ禍の中、本当に色々ありましたね。
私の職場、埼玉県病院薬剤師会事務局もかなり1年間バタバタとすぎさりました。
前年にも増してpc駆使の仕事が多く、こちらは頭をフル回転状態でした。
40回以上行えた研修会は集合することなく、ZOOMとPeatixを利用しました。皆が集合して顔を見ながらではないのでどうしても真実味というか、まあ物足りない感じになったことは否めません。実際、回を重ねると参加者は減少気味でした。でも良い点は時間と経費節約で手軽に参加できたのではとも思うのですが、、、。
また会議はほとんど集合することなくリモートでしたから時間や手間の節約が明らかで能率があがりました。

私的な過ごし方ではウォーキングツアー参加は15回ほど。読書は約30冊をほとんど図書館のお世話になり、大助かりでした。湊かなえさんや新田次郎さんのが結構お気に入りでした。
また映画はどっぷりという感じで18回も見たことを記録で確かめ流石にちょっと多かった,と少し反省。でもHOKUSAIやキネマの神様はちょっと考え込むこともありました。
そうそう筋肉トレのジム通いですがコロナ禍で思うように通えず半年以上休会し、10月後半からまた週2回ぺースでできるだけ通っています。というのも日々の歩数が仕事と自宅往復では足りない!のです。やはり8000歩はクリアしたいのです。やはり身体、特に足が大事!!ということで、コロナにもかからず、仕事も遊びも十分できたことを感謝です。

この年末年始もお休みはせいぜいウォーキングと筋トレを怠けずやりたいと心がけるつもりです。
皆様も良いお年をお迎えください。
posted by yunofumi at 21:06| ドタバタ日記

2021年12月29日

2021.12.19 さいたま彩発見ぶらり街あるき 川口市

川口市は埼玉県南部、お隣が東京という位置にあります。人口60万人はとても大きな市というイメージ。川口駅から一歩出ると高層ビルが多い!そして公園が大きそう!が第一印象でした。
JR川口駅は改札が一か所。でもこれが幅広で改札機はざっと見ても15はありそう。
本日も改札口10:00集合。参加者11名、講師喜多見先生とTD林さん。

JR川口駅⇒川口駅東口・リリアパーク・キュポ・ラ広場⇒太郎焼⇒メロディ・ブリッジ⇒永瀬洋二像⇒川口西公園⇒ぶんかようちえん⇒イトーヨーカドウ⇒川口ロボンシティ⇒大徳稲荷神社⇒川口ブルワリー⇒川口樹モール⇒川口町役場跡広場「ココ川」⇒香楽園⇒成田山⇒川口神社・梅ノ木天神社⇒金山神社跡⇒旧鋳物問屋鍋平別邸⇒船戸ひまわり橋⇒川口の渡し・鎌倉橋の碑・川口市立南中学校⇒日光御成道⇒18ポンドカノン砲⇒永瀬家ビル⇒裏町通りと鋳物工場街並⇒川口市立文化財センター⇒錫杖寺⇒JR川口駅

JR川口駅に乗り入れている東北本線における埼玉県内最南端の駅で、この駅から栃木県の豊原駅まで大宮支社の管轄とのこと。ということで、川口駅と赤羽駅の間にある荒川橋梁の埼玉県側入口が大宮支社と東京支社との境界となっているということでした。1910年(明治43年)に川口町駅(かわぐちまちえき)として開業。1934年(昭和9年)川口町の市制施行により川口駅(かわぐちえき)と改称し現在に至っています。1日乗客約6万人。

川口西公園(リリアパーク)は、広域的な市民の憩いの場、また災害避難広場として必要な機能を備えた都市型公園。そばにはリリア(川口総合文化センター)や高層住宅群など周辺施設との景観にも配慮されていて、特に地場産業である緑と鋳物を活用した駅前公園として皆さんに親しまれているとのことです。このリリアパークは、総面積が3.1haで園内には13の彫刻があり、彫刻の公園としても知られているのです。

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川口駅東口すぐのところに「働く歓び像」がありました。この像は1974年(昭和49年)に設置。川口の代表産業鋳物と働く歓びを表しているとのことです。

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川口市東口埼玉りそな銀行前に青いポストがありました。このポストは鋳物で出来ているとのことで普通にポストとして機能しているとのことでした。

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足元の道路面のタイルは川口市の花、鉄砲ユリ(リリア)でした。

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太郎焼は昭和28年創業の川口名物で実はイコール今川焼のようです。

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メロディ・ブリッジと呼ばれる川口駅の西口と東口を結ぶ歩道橋に鉄の木琴(´∀`)がありました。左から叩くと “ふるさと ”を奏でました。この辺りは緑が多くちょっと静かな所でした。

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歴代市長さんのうち永瀬洋治さんは川口市出身。市立浦和高等学校[1]を経て1954年に立教大学を卒業し、川口市役所に就職、1967年に川口市議会議員、その後埼玉県議会議員を経て1981年から1997年まで4期16年川口市長を務めたようです。市長在任中、「文化の香る街づくり」を掲げて川口駅前の公害資源研究所跡地の払い下げを受けて川口リリアを建設、川口市民音楽協会会長に就任、第九の会などを設立したのです。

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現在、アリオ川口や大規模マンション群であるリボンシティがある場所は、かつてサッポロビールの埼玉工場があったところ。以前は、川口駅と工場を結ぶ専用線が敷かれていたようで道の両脇には機関車の部品をモチーフにした鋳物のオブジェが配置されていました。
アリオ前にはかってのビールの蒸留釜らしいものもありました。
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大徳稲荷神社はかつて、旧サッポロビールの工場だった場所にあった神社で社号標には、日本のビール王と謳われた高橋龍太郎の名が刻まれています。

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川口ブルワリーは埼玉県川口市にあるクラフトビールのお店。店内で醸造したオリジナルクラフトビールと埼玉県産の小麦を使用した釜焼きピザが看板メニューとのことです。
本日はビールで炊いたビール飯が案外にあっさりとして美味しかったです。
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川口樹モール(川口銀座商店会)は街路樹や街路灯などが一体となり、くつろぎながら買物ができるショッピングモール。

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川口町役場跡広場『ココ川』くつろぎ場となっていました。

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成田山川口分院は真言宗開祖、弘法大師・空海の霊験あらたかな大本山・成田山の正統なる分院として、その由緒ある法流と千年以上絶やすことのない本山の護摩供香煙を受け継いでいるとのことでした。家内安全、交通安全や各種祈祷、厄除などはもちろん、初詣に行くとご利益のあるお不動様として大変人気とのことでした。

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川口神社は平安時代の天慶(てんぎょう・938〜946年)年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請したものと伝えられているとのことです。ですからもとは氷川神社と称し、昔から領主や民の崇敬を集めてきましたのです。江戸時代には産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされたとのこと。明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山権現社を合祀して「川口神社」となったのです。

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梅ノ木天神社 由緒書きによると。往古川口町字新屋敷に天神社が鎮座していたが、明治27年に町の鎮守氷川社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されているとのこと。
昭和11年川口第一尋常高等小学校(現・本町小学校)廿楽校長より児童の勧学の神として天神様を祀りたい旨の要請を受け、道真公の御分霊を校庭の神殿に遷座して「梅ノ木天神社」と称したのです。しかしながら昭和20年代東和戦争敗戦の伴う敵占領軍の指令により、神殿ごと当神社に返還されたので、これを境内神社として奉安しその後、平成4年に新社殿を建設したのです。

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旧鋳物問屋鍋平別邸は明治末期の和風建築。本日は建物を詳しく見られませんでした。また裏手にある庭園が素晴らしいとのお話だけ伺いました。

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市中心部にある鋳物業者の住宅。南正面の木造二階建、入母屋造桟瓦葺で正面東端に切妻造洋瓦葺の別棟が突出して接続する。内部は一階に居間等、二階に客間を配し、別棟に洋風の玄関と応接間を設ける。鋳物産業で発展した川口市街の歴史的景観を伝えています。

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「川口の渡し」とは、将軍が日光社参の際荒川を渡り川口宿の渡船場を「川口の渡し」といったようです。この辺りの日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道です。もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」でした。家康は、その遺言により日光東照宮に祀られました。以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となったので特別な道が「日光御成道」なのです。

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18ポンドカノン砲は幕末の嘉永5年(1852)に、津軽藩より依頼を受けた増田安次朗(川口の鋳物師として名のあった増田家初代)が、後の砲術奉行を務めた高島秋帆と協力して作り上げたも。これは復元品で、当時は製作不可能とされていた大型大砲。嘉永5年から安政5年(1852〜1857)の5年間で213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本国を守るために全国各地に配備されたのです。全長:3.5m 重量:2.5t 口径:15p、射程距離:2500m

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永瀬孝男家住宅旧発電所。もともと自家発電施設で敷地東南隅に建つっていました。木骨煉瓦造平屋建、東西棟の切妻造鉄板葺で、東西二室に分けて北面に各出入口を設けたとのことです。躯体はフランス積で、東室の出入口をアーチ形とするなど丁寧なつくりで類例の少ない住宅附属の発電施設の遺構として貴重な存在なのです。

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かっては裏町通りと鋳物工場が並ぶ街並だったとのことです。今は普通の住宅街に見えました。

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川口市立文化財センターは川口の発掘調査の出土品をはじめとした文化遺産の収集・保管・展示を行っているとのこと。とても資料が多くゆっくり時間をかけてみるようでした。

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錫杖寺(しゃくじょうじ)は宝珠山と称しご本尊の地蔵菩薩(写真下)の由緒に「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあるようです。錫杖とは僧侶・修験者の持つ杖です。頭部は錫(すず)で作り、数個の鐶を掛けるのです。開基は740年(天平12年)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられているようです。1838年(天保9年)本堂焼失。1841年(天保12年)本堂再建。1852年(嘉永5年)川口の大火により堂宇類焼。1855年(安政2年)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は1975年(昭和50年)に新築されたとのこと。本堂屋根の頂上にある寺紋は徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章なのです。
また墓地には大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤め、大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行ったのです。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日へ移ったのです。その駕籠も錫杖寺に保存されているのです。実は滝山に仕えていた侍女の生家を頼ってこちらに来たとのこと。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせ、1876年(明治9年)72歳で逝去。 墓石には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」 と刻まれているとのことでした。

本日は風もなく晴天、9℃と絶好のウォーキング日和でした。ところが午後になり数日前に痛めた右足首捻挫が嫌に痛むはじめ、とうとう錫杖寺でギブアップ!ここで皆さんとサヨナラして川口駅に戻り帰宅しました。ということで私は16000歩を一応完歩。
その後の歩程は平柳蔵人居館跡・旧田中家住宅・日光御成街道一里塚碑・川口元郷駅と伺っておりました。誠に残念で、後日再訪しようと思います。
posted by yunofumi at 17:15| あちこちウォーク

2021年12月25日

2021.12.17 再び深谷へ

この前12・5にさいたまウォークで深谷市を終了していますが、本日は知人のKさんが深谷訪問は“まだ”とのことで一緒に出掛けました。私の愛車利用でしたが自宅〜浦和〜深谷がかなり遠くて片道70km超えだったのにはちょっとびっくり。出発時は雨上がりのなか次第に太陽も顔をだし、とても気分の良い天候の一日でしたから運転が大好きな私はルンルンの気分で過ごせました。

自宅=浦和=渋沢栄一記念館=割烹楓=中ん家(渋沢栄一生家)=尾高惇忠生家=道の駅おかべ=大河ドラマ館=浦和=自宅

渋沢栄一記念館。
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渋沢栄一は1840年(天保11年)3月16日生まれ、死去は1931年(昭和6年)11月11日。
渋沢 栄一は、江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の実業家で、近代日本資本主義の立役者。彼は日本初の銀行を設立しただけでなく、様々な種類の会社設立にも携わったのです。
深谷市は渋沢栄一の生誕地で、生前の功績を讃えて渋沢栄一に関する資料等を展示しているのがこの記念館。渋沢栄一は 2024 年に発行の新一万円 札の肖像にもなります。
今日も渋沢栄一アンドロイドは立派に講演をしました。
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こちらは昭和2年に日米友好で日本にやってきたメリーちゃんとアメリカに渡ったみやこちゃんです。
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割烹楓(かっぽうかえで)は深谷市の名物「煮ぼうとう」や「カレー焼きそば」、深谷ネギ料理などがいただけるお店。本日はまたも「煮ぼうとうコース」をお願いし、大満足しました。
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旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物で、渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所なのです。現在は深谷市に帰属し県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡となっています。
奥の栄一さんお座敷だったところには80歳頃の姿をイメージして制作した和装姿の渋沢栄一アンドロイドが羽織袴の正装で来客をお出迎えしているはずでしたが今日は本庄市に出張とのことでお留守でした。渋沢栄一アンドロイドは、株式会社ドトールコーヒー名誉会長 鳥羽博道氏(深谷市出身)からの寄付を財源に、寄付者の意向を踏まえ制作されたとのことでした。お庭には関係の方々の顕彰碑がありました。
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尾高惇忠生家。
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尾高惇忠は渋沢栄一の従兄でまた、学問の師でもあったのです。明治維新後は富岡製糸場の初代場長を務めました。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあります。隣にはレンガ造りの蔵?がありました。
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道の駅おかべには深谷市の特産品・農産物・郷土料理・歴史・観光・イベントの発信基地として、作られているようです。何しろ日本有数の野菜王国でありまたお花王国深谷でもあるのです。
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ということでいっぱいお土産を手にしました。
ブナシメジ・ゆり根・スチュ−ベンが県外産、椎茸・カリーのケール・紫キャベツ・米味噌・玉こん・麦麹は県内産と持ちきれんばかりに買いました。

渋沢栄一晴天を衝け 深谷大河ドラマ館。
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2021年大河ドラマ「青天を衝け」の舞台は、主人公・渋沢栄一の生誕地である埼玉・深谷市が舞台ということで深谷大河ドラマ館が2022年1月10日(月)まで年中無休で開館中なのです。実はこちらはもともと深谷公民館ですから車のナビ設定にちょっと苦労でした。
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ということで前回にも増した丁寧に資料を見て歩きました。驚いたのは本日が平日だったからでしょうか。高齢者が多く見えており、皆さんが展示やハイビジョンの画面に釘付けで満っていたことでした。まずは知識欲旺盛でいいことと思いました。

本日は自由気ままに深谷の街を行ったり来たりで楽しみました。ウォーキングと車異動では見える風景が少し違いますのでこれも面白い体験なのです。日中は1日中晴天で日差しもあり穏やかない日となりました。しかし往復140kmのドライブは近頃にはなかったことなので帰宅後は頭が疲れていると実感。無事故無違反は大事なことなのです。
ではまた今後も大いに楽しく日々を過ごすことにいたします。
posted by yunofumi at 15:34| ドタバタ日記

2021年12月15日

2021.12.10 2巡目第11回東京新発見「品川区」

1か月ぶりの東京23区ウォーキングです。JR品川駅に集合してみると久しぶりに牧先生と間宮TDが見えました。早速10:00スタートで16人が出発です。

JR品川駅⇒港区立汐の公園・品川セントラルガーデン⇒天婦羅うえじま⇒屋形船平井⇒北品川橋⇒品川浦と船たまり⇒北品川通り商店街⇒北品川どうぶつ病院・問答河岸⇒清水横町⇒土蔵相模⇒歩行新宿裏町⇒袋井宿の街道松⇒黒門横町⇒品海公園⇒法禅寺⇒於春稲荷大明神⇒虚空地蔵⇒成田山⇒品川一心寺⇒聖蹟公園⇒添浦高札⇒寄木神社⇒品川橋⇒品川神社⇒品川宿交流館本宿お休み処⇒北馬場参道通り⇒品川神社・富士塚・板垣退助墓⇒御殿山・ザ・フォレスト庭園⇒ゲートウエイ大崎⇒デルソールショップ⇒容器文化ミュージアム⇒東京デザインスクール⇒五反田公園⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館⇒池田山公園⇒常光寺⇒宝蔵寺⇒国立科学博物館附属自然教育園⇒庭園美術館⇒JR目黒駅

品川浦と船たまり。
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かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため1962年(昭和37年)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のものとのことでした

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北品川どうぶつ病院の角には問答河岸跡の石柱があります。寛永の昔、徳川三代家光将軍は明君。沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建立。その時の問答があったことを示しているようです。

土蔵相模。
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旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られています。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのです。

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品海公園(ひんかいこうえん)は東海道五十三次の第一宿・品川宿の有った場所。公園入口に【品川宿】の石碑が立っていました。

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於春稲荷大明神は江戸時代からこの地にお祀りされてきたお稲荷さま。旗本板倉家の屋敷神であったとも、その後できた長屋に祀られたとも云われており、創建年代は定かではないようです。

デルソールSHOP
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リトアニアはかってのロシア革命中の1918年に独立を宣言した国。第2次世界大戦中はソビエト連邦に併合されていたようです。ランチはリトアニア発のパンDOMIPANとサラダ、マカロニグラタンのメニューでした。パンはバターなどを塗るのではなく上に他の食材を載せていただくようでした。
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ねむの木の庭。
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上皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地を整備し、2004年に開園した品川区立公園。公園名は美智子さまが高校生時代に作られた詩「ねむの木の子守歌」に由来。美智子さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木や草花約50種が植えられており、四季折々の表情が楽しめます。公園中央のシンボルツリー「ねむの木」は6月中旬頃に可憐な花を咲かせます。鮮やかなオレンジ色のバラ「プリンセスミチコ」は美智子さまが皇太子妃時代にイギリスのバラ育種会社から捧げられた品種で、春と秋に見頃を迎えます。
今日はエンブレスミチコがとてもきれいに咲いていました。
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池田山公園。
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この付近の高台は、江戸時代初期に備前国岡山藩池田家の下屋敷となり、次第に「池田山」と呼ばれるようになりました。大正時代末期から次第に宅地として開発され、都内でも有数の高級住宅地として知られています。品川区立の公園として1985年(昭和60年)に開園。起伏に富んだ地形を生かし高台から池をのぞき見るような形に造られた池泉回遊式庭園。梅(2月中旬〜3月中旬)、椿(2月下旬〜3月)、つつじ(4月中旬〜5月中旬)、花菖蒲(5月下旬〜6月上旬)、紫陽花(6月〜7月中旬)、紅葉(11月下旬〜12月上旬)など、四季折々の花が美しい公園として知られています。

常光寺は品川区上大崎1丁目周辺には9ケ所の寺が固まって建っているうちの一つ。福沢諭吉先生永眠の地碑や幼稚舎創立者和田義郎碑があります。
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国立科学博物館附属自然教育園。
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園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹が広がり、ススキやヨシの草はら、池や小川などがあります。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。

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東京都庭園美術館は、1933年(昭和8年)に朝香宮邸として建てられ、アール・デコ様式の建物の空間を活かし、緑豊かな庭園が調和した美術館として1983年(昭和58年)に開館。2014年(平成26年)には新館が完成。2015年(平成27年)には本館、正門、茶室等などが重要文化財に指定され、「歴史的建造物」「美術作品の鑑賞」「緑豊かな庭園」を同時に楽しめる美術館として、ユニークな創造発信の場となることを目指しているとのことです。

本日はなんといっても昼食がはじめてのリトアニア料理ということで印象的でした。天候は曇り、気温12℃、無風でしたからまずますの気分でしたが後半がアップダウンの多い場所を訪れましたから、かなりの疲労を覚え2万歩超えはちょっときつかったです。でもまあ無事終了ですから一段落でほっとして終了でした。皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:11| あちこちウォーク

2021年12月13日

2021.12.5 さいたま彩発見ぶらり街あるき 深谷市

本日は11℃とやや冷え込んでいましたが集合がJR深谷駅10:15集合ということで朝8:00に自宅出発。東上線〜埼京線〜高崎線へと乗り換え、結局は1:30で到着。自分としては深谷は3回目の訪問ですが本日の目玉は渋沢栄一さんのアンドロイドと深谷大河ドラマ館なのです。

JR深谷駅⇒駅前広場清淵広場⇒古伝飴濱岡屋⇒カフェ花見⇒東白菊蔵元・藤崎藤三郎商店⇒深谷シネマ⇒ときわ園⇒旅館きん藤⇒笛を吹く武者⇒北川千代文学碑⇒深谷城址公園⇒深谷大河ドラマ館――路線バスーー誠之堂・清風亭⇒割烹楓⇒尾高惇忠生家⇒鹿島神社⇒渋沢栄一記念館・八基公民館⇒睦橋⇒青淵公園・青淵由来之跡碑⇒渋沢栄一生家・中の家――路線バスーー⇒JR深谷駅

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深谷市の玄関口であるJR深谷駅は、東京駅を模したデザインの駅舎。東京駅が深谷市産のレンガを大量に用いている縁から「レンガの街」をアピールする意味を込めて1996年に改築されたのです。明治期、新たな建築材料だったレンガが日本国内に普及するうえで渋沢が果たした役割は大きく、その重要な供給元として発展を遂げたのが深谷であり、そして出荷を支えたのが鉄道だったのです。昔は深谷にレンガ製造の工場もあったとのことです。
駅舎を下りると深谷のイメージキャラクターふっかちゃんと交代で渋沢さんのからくり時計が作動し、渋沢さんが愛嬌を振りまいていました。
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ふっかちゃんの頭についているのは名産の深谷ネギ。結構人気者なのです。
駅前には町の偉人の渋沢さんの銅像があり駅前青淵広場と書いてありました。
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この像は1999年(平成8年)に田中昭により制作された2代目の銅像。1代目は後程伺う記念館にあるとのことです。

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古伝飴濱岡屋は明治に創業以来130年「あんこ」にこだわってきたお店のようです。北海道の小豆が原材料とのことでした。ここで本日の逸品で「明治大福」を美味しくいただきました。

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藤崎藤三郎商店は東平菊の蔵元。江戸時代の末期、1848年(嘉永元年)越後柿崎より現在の場所に移転して酒造りを始めたそうです。代表銘柄「東白菊」は関東の東に酒の清らかな白、清酒の香りを菊で表現しているとのことでした。お店の裏に回ると昔の景色が少し残っているようでした。
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すぐそばには昔の建物七ッ梅所蔵跡地に深谷シネマがありました。現在NPOの運営でもう18年間も頑張っているそうです。上映スケジュールも決まっているようでしたから機会を見つけて一度伺おうと思いました。
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ここには深谷本陣があったそうです。

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旅館きん藤(きんとう)は中仙道沿いに江戸時代より営業している180年経つ老舗旅館。懐石料理、鴨料理等で人気あり。各種宴会可能。無線でコンピューター作業も出来る。風呂は人工温泉でゆっくり疲れがとれるのでスポーツ関係の合宿が多いとのことです。市内は無料で送迎バスがあります。

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「笛を吹く武者」は、平成7年に旧深谷市の市制40周年記念で建立されたもので、深谷城があった時代の武者の姿をイメージしてつくられたようです。 この像が立つ大手口公園は、かつての深谷城の正面口付近といわれていると伺いました。

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北川千代文学碑。大正から昭和期を代表する児童文学作家である北川千代は、1894年(明治27年に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)の日本煉瓦工場内の社宅で生まれました。
『世界同盟』など社会の現実を直視したテーマで多くの作品を発表。『みつばちマーヤの冒険』や『アンクルトム物語』などの翻訳。春やいずこや父の乗る汽車などを著しています。

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深谷市本住町にある『深谷城址公園』は、「深谷市民文化会館」「深谷市保険センター」と同じ敷地内にある、緑と瓦つくりが特徴の公園です。
春には桜を楽しむ事ができ、隣には深谷図書館もあるようでした。

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大河ドラマ館は、深谷生涯学習センター・深谷公民館の1階に展示されていました。
深谷大河ドラマ館は2021年2月下旬、埼玉県深谷市と東京都北区で「青天を衝け」NHK大河ドラマ館をオープンしたのです。コロナ禍ではありますが、約1か月間の運営で、来場者が10,000人を超えたとのことです。2022年1月10日までの設置だそうです。
埼玉県深谷市は、渋沢栄一生誕の地であり、青年期まで過ごした故郷でもあるのです。
ドラマ館では、ドラマで実際に使用された小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示、さらにはセット展示や記念撮影ポイントなど、大河ドラマの世界観を存分に体験できるようになっていました。
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台所の様子や衣装も面白かったですが私的に一番は惇忠さんの書でした。昔の方って筆が立つのですよね。
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面白かったのは建物の外に大きく張ってあった新1万円札。
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誠之堂(せいしどう)は1916年(大正5年)渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちにより建築されたとのこと。設計は田辺淳吉。煉瓦造り平屋建、外観は英国農家風ながら室内は中国・朝鮮・日本の意匠がとりいれられているのです。喜寿を迎えたのを機に栄一は頭取を辞任しています。

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清風亭(せいふうてい)は1926年(大正15年)当時の第一銀行頭取佐々木勇之介の古希を祝って建てられた。設計は銀行建築の第一人者の西村好時で南欧の田園趣味、鉄筋コンクリート造り。

割烹 「楓」(かえで)で昼食でした。
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煮ぼうとうコースをおいしくいただきました。

その後はご覧の通りのネギ畑を通ってウォーキング。
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尾高惇忠(おだかあつただ)の生家。
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惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えたとのこと。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟だったのです。惇忠は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めたのです。

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鹿島神社は下手計の鎮守社で境内には、渋沢栄一の師である尾高藍香りの偉業を称える頌徳碑が建立されていました。この碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号、中洲)の撰文によるものとのこと。 今では朽木となったが、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がっています。昔は根元に湧いた神水で共同風呂が設けられ、栄一の母、栄は、これを汲み、らい患者の背を流したと伝えられています。

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渋沢栄一記念館の1階資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていました。その後2階講義室で渋沢栄一アンドロイドによる講義を見学しました。
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昔の講演を現在の言葉に直した音声で「道徳経済合一説について」の講義、身振り手振り、瞬きも見事でイヤー結構びっくりしました。アンドロイドは大阪大学大学院基礎工学研究科石黒浩教授の技術指導があってできあがったようです。

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青淵公園は昭和12年に皇太子明仁親王の生誕奉祝記念事業として、八基村青年団により建てられましたのがこの青淵由来之跡の碑。清浦奎吾揮毫、栄一の甥にあたる渋沢治太郎撰書とのこと。このすぐそばに旧渋沢邸・中の家(なかんち)がありました。
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当時としては豪農だったと思われます。屋根にある鬼瓦がすごかったです。
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こちらは奥のお部屋で我々をお出迎え中のアンドロイド栄一さん。お辞儀などをしていました。
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その後スタート地点の深谷駅で解散。その後数人が例の濱岡屋さんへ行ってお土産をゲット。
私は「ふっかちゃんのたまご、渋栗、駅舎最中、塩豆明治大福」を購入しました。
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そうそう最後にやっとふっかちゃんマンホールを見つけ大満足でした。
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本日は喜多見先生、TD小松さんと共に18名が参加。天候は晴れ、11℃、微風でしたからウォーキング日和でした。途中、論語の里循環バスを2回利用し、16000歩とあまり疲れを感じないコース作りで大いに楽しめました。心残りは深谷大河ドラマ館がちょっと忙しかったのでもう一度、閉館になる前に伺いたいと思いました。
何しろ埼玉って面白いのです。
posted by yunofumi at 16:22| あちこちウォーク

2021年12月11日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午後の部

昼食後⇒日本橋プラザビル前広場⇒丸善⇒高島屋⇒旧ツムラビル⇒ヤンヨースチン記念碑⇒日本橋3丁目信号⇒KPP八重洲ビル⇒楓川久安橋公園⇒東京建設会館⇒麺屋七彩⇒秋山三五郎商店⇒八丁堀の与力同心組屋敷跡⇒鍛冶橋通り⇒桜川公園⇒八丁堀(桜川)跡⇒中央区立女性センター・桜川屋上公園・桜橋第二ポンプ所⇒築地警察署湊交番⇒鉄砲洲稲荷神社⇒稲荷橋⇒高橋⇒日比谷稲荷神社⇒亀島橋⇒中央区立新川児童館⇒越前堀跡⇒明生通り⇒霊厳島⇒新川大神宮⇒河村瑞賢屋敷跡⇒新川1丁目信号⇒永代通り⇒霊岸橋⇒日本橋水門⇒茅場町駅

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キリンの銅像ををふもとに置くビルは、今はスターツコーポレーション株式会社の本社。でも元々は漢方薬の(株)ツムラのビルだったのです。1988年に「津村順天堂」が「中将湯ビル」という名で地上8階建で落成。高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏。大きなキリンの銅像をここに設置の理由⓵津村順天堂が漢方薬で業績が順調だったこと⓶キリンは漢方の王様と言われていたこと⓷ビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことだそうです。

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ヤンヨースチン記念碑。
JR「東京」駅から伸びる八重洲通りには、日蘭修好380周年を記念し、両国の架け橋となった「ヤン・ヨーステン」の記念碑が置かれています。ヤン・ヨーステンはオランダ人で、慶長5年(1600)、日本に漂着し、徳川家康に仕えた人物。彼の日本名「耶楊子(やようす)」は「八重洲」の地名の由来となりました。オランダとの友好関係を永遠に誓う、平和都市宣言のモニュメントとして「平和の鐘」があります。
隣にある「平和の鐘」は、中央区が1988年(昭和63)に「平和都市宣言」を行い、それを記念して設置したもの。オランダ製で26個のベルが四季折々のメロディを奏でるとのことです

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楓川久安橋公園(かえでがわくあんばしこうえん)は八丁堀と八重洲を繋ぐ久安橋沿いの公園。楓川久安橋公園の改修工事が終わり、リニューアルしたようです。見下ろすと首都高、見上げるとオフィスビルという、まさに都会のオアシスと呼ぶにふさしい公園となっていました。

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秋山三五郎商店は新大橋通りから平成通り、鍛冶橋通りから八重洲通りへ抜ける2本の横丁の交差点そばにありました。八丁堀は平成になってから急激にビル化が進み、今では空襲で焼けた後に建った木造家屋は珍しいようです。このあたりの祭りは日枝神社の山王祭をしているのです。秋山商店は神具仏具の店で神輿の製作もするようです。角の飾り窓には「神佛師/秋山三五郎商店/神具・佛具」と書かれていました。

八丁堀の与力同心組屋敷跡は中央区八丁堀一〜二丁目、日本橋茅場町一〜三丁目の一帯をいうようです。江戸初期に埋め立てられた八丁堀は、はじめは寺町だったのが1635年(寛永12年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺が郊外に移転、そこに与力・同心組屋敷の町が成立したのです。初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。

中央区立女性センター・桜川屋上公園・桜橋第二ポンプ所。
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公共施設の屋上を利用した人工地盤上の公園がありました。園内には、ゲートボール場をはじめ子供用遊具や池、和風庭園を模した休憩所などがあり、地域のご年配の方から子どもまで楽しめるようです。周囲には、みかんやザクロ、ブルーベリーなどの様々な樹木が植えられており、四季折々の風景を楽しむことができます。公園内の小川はとてもきれいな水でした。

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鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。さかのぼること841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したのです。 その後、埋立てが進み室町時代の末期に新京橋に遷座し八町堀稲荷神社と称したのです。その後、現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称したのが室町時代の末期のことであります。寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を遷座、現在の鐵砲洲稲荷神社となったのです。

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高橋(たかばし)は東京都江東区、小名木川にかかる橋。江戸時代に岡場所として知られた常盤と清澄とを結ぶ橋です。

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日比谷稲荷神社は、中央区八丁堀にある稲荷神社です。日比谷稲荷神社の創建年代等は不詳ですが、当地(八丁堀)に社地を拝領して当社を勧請した際に、旧地名日比谷に因み日比谷稲荷と称したといいます

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越前堀とは、江戸時代において現在の新川1〜2丁目のエリアにあった松平越前守屋敷の三方を囲む入堀を指す通称でした。その堀の幅はなんと20〜30m程もあり、荷を積んだ小舟が行き来する等、運河としての機能も果たしていたということです。このあたりお屋敷跡も含め公園になっていました。

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霊厳島(れいがんじま)は中央区東部,隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川1,2丁目にあたる。江戸時代初期には北の箱崎島 (現日本橋箱崎町) とともに江戸中島と呼ばれ,新川の開削により分離。地名は1624年(寛永1年)霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来 しているようです。

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江戸時代の1625(寛永2)年に創建された「新川大神宮」は酒問屋の守護神として遍く崇敬を集めています。明暦の大火による社殿消失を受け、現在の新川の地を賜り360年を経た2017(平成29)年、崇敬者有志によりHPもできているようです。沢山の寄進された薦被りがありました。
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日本橋川とその分流である亀島川の接続点に設置されているのが日本橋水門。日本橋川と亀島川はいずれも潮の干満の影響を受ける感潮河川なので、高潮や津波の被害から流域の街を守るために高い堤防に囲まれ、亀島川は両端に防潮水門があるのです。

今日はトウキョウシティガイドの七尾さんの先導、TD新井さんで10人が楽しくウォーキングし16000歩をクリアしました。東京という街は変化が激しく、おまけに案内人により、細かな所でも気づきがあり、いつもとても面白いのです。ということで本日も無事に終了。また次回も楽しみたいと思います。
posted by yunofumi at 16:40| ドタバタ日記

2021年12月08日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午前の部

メトロ日比谷線築地駅⇒築地本願寺⇒備前橋跡⇒堺橋跡⇒聖路加国際大学⇒慶應義塾大学発祥の地・蘭学の泉はここ⇒浅野内匠頭邸跡⇒東京メトロ新富町駅⇒入船橋信号⇒靴業発祥の地⇒新大橋通り⇒新富町交番⇒築地橋信号⇒東京ハヤシライス⇒中央区役所⇒銀座ブロッサム⇒三吉橋⇒漫莉キッチン⇒あさり河岸跡⇒銀座1丁目⇒白魚橋IC⇒中央区立水谷橋公園⇒京橋親柱⇒銀座通り口信号⇒警察博物館⇒京橋大根河岸青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥之地⇒京橋3丁目⇒東京スクウェアガーデン⇒千葉定吉道場跡⇒嶋村――午後の部に続く

前夜は東京では大雨だったそうで、今朝の電車の各路線のダイヤが大きく混乱していたようです。私は自宅から1時間30分以内に到着予定でしたが2時間もかかり、有楽町線新富町駅到着時には少しお疲れ気味。しかし有難いことに東京メトロ日比谷線築地駅は有楽町線新富町駅と通路でつながっており、お陰様で築地駅にはちょっと歩きましたが無事に集合時間前に到着。講師土屋さん、TD新井さん、参加物10人はそれでも定刻9:30スタートしました。
 
東京メトロ日比谷線築地駅。
築地駅の副駅名は文字通り本願寺前。1963年(昭和38年)に開業。1995年(平成7年)3月20日に地下鉄サリン事件が発生した時この駅は営団地下鉄の駅として最も多くの被害者を出した駅だそうです。発車メロディは1番線が「オールマイティー」(塩塚博作曲)、2番線が「潮騒」(福嶋尚哉作曲)ということで面白いと思いました。

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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院。ここは江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失しその後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになったのです。なお、この時の本堂は今と違い西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていたとのことでした。
1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたけれどすぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となったのです。

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昭和60年頃までは、岡山藩をしのばせる「備前橋:びぜんばし」が近くの築地川に架かっていたのですがその後、川は埋め立てられ、橋名のプレートが埋め込まれた親柱と欄干が中央区築地6丁目残るだけとなってしまっていました。

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築地川の暁川の下流側(本願寺方面)で工事をしていた時に草むらの中にこの石が見つかったことから堺橋跡とわかったのです。

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聖路加国際大学はキリスト教精神に基づき、社会の情勢に適応する医療・看護・保健福祉・公衆衛生にかかわる教育を授ける私立大学および医療施設でその他の教育研究施設の設置・運営を通じ、人類へ奉仕することを目的としています。

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慶應義塾大学発祥の地。
慶應義塾の起源は、1858年(安政5年)に、福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことが始まり。中屋敷は江戸の築地鉄砲洲にあったようで中央区明石町の一部で、聖路加国際病院のあたりとのこと。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に、慶應義塾創立百年を記念して、聖路加国際病院敷地内に建立されました。設計は谷口吉郎。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていました。慶應義塾の開校記念日である4月23日に除幕式が行われ、式後すぐに中央区に寄贈され、昭和32年に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の現在の場所に移転されたとのことです。中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、その記念碑(「蘭学の泉はここに」)も隣接してありました。この二基は、合わせて日本近代文化事始の地記念碑と称されています。

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浅野内匠頭邸跡は、1645年(正保2年)に笠間から赤穂へ領地替となった浅野長直の江戸上屋敷があった地で、その子赤穂内匠頭長距が、1701年(元禄14年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に供されていました。赤穂浅野藩とその家臣大石内蔵助の仇討は有名で、昭和6年東京都旧跡に指定されたのです。

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地下鉄有楽町線 新富町駅のある“入船橋”交差点の 北東側の建物脇に立っているのが「靴業発祥の地」の石碑。日本で西洋式の靴が履かれるようになったのは, 江戸時代末期乃至明治の初めのころでしたが当初は軍靴が最初。また、築地の明石町一帯は明治初期には外国人居留地で 多くの外国人が居住することになり、靴の需要が多くなった場所でもあったのです。

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中央区役所は1947年の京橋区・日本橋区の統合で中央区が発足し、旧京橋区役所庁舎をそのまま中央区役所本庁舎として利用し、その後建て替えが行われた建物です。中央区役所の入るビルの地下1階・2階は、中央区立京橋図書館となっているとのことでした。

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中央区銀座・中央区築地・中央区新富と築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、1929年(昭和4年)12月に三叉の橋、三吉橋が架けられたのです。中央区では、平成4〜5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、また一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。

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蜊(あさり)河岸跡は中央区新富1-1・4のあたりで今は案内板があるばかりでした。 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川(かえでかわ)で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつで、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」がありました。嘉永6年(1853年)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。

「京橋」の地名の由来は、かつて存在した京橋川に架けられていた中央通り(東海道)の橋。これがかっての京橋の親柱。
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昔は運河が生活に重要な役割を果たしていたため、橋は地域の象徴的な場所だったのです。東京15区時代に区名となり、今日でも地名として使用されています。現在、橋は存在しません。しかしかつての橋としての京橋は、日本橋と並ぶ名橋で東海道にて日本橋を出発して京都方向に向かう場合、最初に渡る橋であったため重要な意味合いをもっていたのです。街としての京橋は橋の北側に位置し、銀座線京橋駅を中心とした地域なのです。これが今残っている京橋です。
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京橋大根河岸青物市場蹟。
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江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、青物市場が存在し通称「大根河岸」といわれました。もとをたどれば1661年(寛文元年)、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりだったようです。京橋に建つ大根河岸記念碑によると、遠近から多くの作物が集まり、数年も経たぬうちに店数が増加して市場としての形が整い、江戸の人々にとってなくてはならないものとなったのです。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で、かつ水運の便がいい京橋川に移転したのです。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれたのです。積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったということでした。
京橋川はもともと、天下普請で日比谷入江を埋め立てた代替として開削され、江戸城への物資供給経路として使われていたと思われます。京橋地区には江戸城下の港湾整備で10本の舟入堀があったし、外濠川の河岸も建築資材の倉庫として機能していたのです。そのため、京橋川は江戸城建設の基地にならず、河岸の移転が実現したのでした。

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江戸歌舞伎発祥之地。
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇にあり、すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑もあります。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。
近くでは十月桜が咲いていました。
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千葉定吉道場跡。千葉定吉は、北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟。坂本龍馬は嘉永6年(1853年)、剣術修行のため故郷の土佐を出て、江戸の千葉定吉道場に入門した。千葉定吉道場があった場所は、東京駅からほど近い鍛冶橋交差点角・八重洲三井ビルのあたりと言われているが、異説もあるようです。
坂本龍馬が千葉定吉道場で修行を始めてまもなく、ペリー艦隊が浦賀沖に現れた。龍馬は藩命により品川の土佐藩下屋敷の防備の任にあたる。「いくさになれば異人の首を取って帰ります」と家族宛に手紙を送っている。日本中を揺るがすこの大事件に直接遭遇したことは、後の龍馬の生き方に大きな影響を与えたということです。
定吉の息子の重太郎は、龍馬の一回りも年長だったけれど、よき相談相手で親友でもあったのです。開国派の勝海舟を暗殺するため、文久2年(1862年)11月、龍馬とともに勝海舟邸に出かけたが、龍馬のほうが勝の論に心服しその場で門人になってしまったという逸話もあるのです。

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割烹嶋村は幕末の味まで愉しませてくれる日本橋ならではの割烹。嘉永3年(1850年)に日本橋の仕出し店として開業したのです。後に料理人としての確かな腕が認められて江戸城西の丸御用も務めたということでした。
 
午前は何しろ見聞することが多く、また昼食予約時間も迫っておりウォーキングしながらも大忙しの半日でした。まずは晴天の中順調に半日が無事に終わりました。
posted by yunofumi at 17:07| あちこちウォーク

2021年12月03日

2021.11.24 東京そとあるき 三菱1号館美術館とその周辺

本日は三菱1号館美術館で開催中の美術展とこの美術館の生い立ちなどを見ながら東京駅周辺を歩くツアーに参加です。11月の終盤ですから寒さが少し厳しくなりつつありましたがお天気も良く、十分街歩きを堪能できそうです。

JR東京駅丸の内南口⇒三菱1号館美術館⇒丸の内国際ビルヂィング⇒明治生命館⇒リーフデ号模型像⇒KITTE⇒JR東京駅丸の内南口

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まずは三菱1号館美術館で開催中の「イスラエル博物館所蔵の印象派・光の系譜展」を鑑賞。作品は水面をたたえた風景、自然の中での人の営みの風景、近代都市の風景、そして自画像などで構成されていました。印象的だったのはモネの水連が今まで見たことのない構図のものだったこと、フィンセント・ファン・ゴッホの「プロヴァンスの収穫期」と「麦畑とポピー」が素晴らしくてとても印象に残りました。
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展示を見る時間が1時間と短く、大急ぎで中庭に集合すると確かこちらの庭は10年前に植樹された木々だとか。今ではとてもすくすく成長し葉は茂り素敵な場所になっていました。
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その後、ミュージアムカフェCafe1894で ガーデンプレートランチ(ハーブティーつき)で昼食。ほとんどの席が予約でいっぱいでした。食事内容は見た目より豪華ですっかりおなかがいっぱいになりました。
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美術館内裏側見学ということで職員の方が現れてあちらこちらを見ました。
まずはこの建物の模型。
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面白かったのは1階、2階、3階と窓の大きさや形が微妙に違っていたこと。これは遠近法を意識した見せ方を用いての建て方だそうです。
この建物はもともと銀行のお店。そして後は貸事務所だったようです。1階の銀行のお店風景は面白かったです。
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奥には岩崎弥太郎さんがお客さんの接遇に笑顔ということで好んで飾った「おかめ」も見えました。

別の部屋にはこの建物の設計者ジョサイン・コンドル像がありました。
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さらに地下におりますともっと建物の素の姿が見えました。実はレンガの積み方は色々あるようです。この建物はイギリス式だそうです。
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この建物を開設するにあたっての色々な説明板が作られていました。
そして復元模型。これは木で作られた建物の骨組み模型。
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これは復元前のもともとの避雷針とのことでした。
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19世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として生まれ変わったとのことです。
三菱の元祖は今、大河ドラマで登場している岩崎弥太郎さんが1代目、次は2代目弥之助、3代目久弥、4代目小弥太。それぞれが各世代で活躍し、事業を大きくしたようです。

丸の内国際ビルヂィングは1911年(明治44年)に建造されたとのこと。1階にはいるとエレベータホールは細かなタイルを張った見事な場所でした。
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明治生命館(めいじせいめいかん)の設計は岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計が内藤多仲。今では重要文化財です。太平洋戦争後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用されとのこと。5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザインでした。
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リーフデ号模型像。
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リーフデ号がオランダを出たときは五隻の船団でしたが途中で難破したり、引き返したりしたため、無事、目的地の日本に到着できたのはこの一隻だけ。
乗組員も当初は100人以上いたのに、日本に着いたときには20数名だったというほどの戦争並に厳しい生存率だったのです。彼らの目的は当時「極東」と呼ばれていた東アジアとの交易でした。成功すれば莫大な利益を手にすることができるとはいえ、ここまでする根性は凄まじいですよね。

丸ビルの松杭。
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今やビジネスの中心地になった東京丸の内。この地に旧丸ビルが建ったのが、今から94年前。1999年に旧丸ビルが取り壊された時に地下から無数の松の丸太が発見されました。旧丸ビルの基礎にはアメリカ北オレゴンの松が杭として使われていたのです。木杭は全部で5443本打ち込まれましたが、長さは2種類で、15mのものが1350本、13.5mのものが4093本使用されたそうです。松が地下から引き抜かれた時の松の状態はほぼ当時のままだったようで、松の生命力は脅威的。そんな旧丸ビルに使われた松杭が、2002年に完成した現在の丸ビルの行幸通り側のオフィス通用口にありました。丸太はガラス板に塞がれて展示してありました。

三連アーチのステンドグラス。
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旧丸ビル(1923年竣工)の外観を象徴する独特の三連のアーチは、昭和10年に改修。旧丸ビルでは東京駅側と行幸通り側に設置されていた三連アーチを図面に忠実に復元し丸の内エリアの象徴軸である行幸通り側に配置したのです。ステンドグラスはオリジナルのものを再利用しているようです。

KITTE。
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2013年3月21日開業。地下1階から地上6階まで7つのフロアには全国各地のご当地銘品を扱う食物販店舗や日本のモノづくりへのこだわりと日本ならではの美意識を感じさせる物販店舗、地域で愛される老舗の味、地元で話題の飲食店舗など、心地よさ、奥深さ、愉しさを伝えるショップ&レストランを揃えました。

KITTE敷地内に多羅葉(たらよう)の木があります。これははがきの木ともいいます。日本では平安時代に多羅葉(たらよう)の葉に傷をつけて、伝えたい言葉を相手に書いて渡した事が始まりと言われたいます。
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多羅葉が実をつけていたのをはじめてみました。
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KITTEの上からの東京駅。
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JR東京駅丸の内南口のドーム天井。
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秀吉の兜がモチーフの部分。
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そのほかドーム下の八角コーナーには、左を向く八羽の勇猛な鷲が取り付けられています。
また干支の彫刻は、ドーム内の8カ所のコーナーに、その干支の方位に従って十二支のうち八支の彫刻が配置されています。残りの四支、子(ねずみ/北)、卯(うさぎ/東)、午(うま/南)、酉(とり/西)は省かれています。いずれも灰緑色をバックにガラス繊維強化石膏(GRG)で作られているようです。

今日は冬晴れの空のもと,9:45東京駅南口に集合。12人の参加者はそれなりに楽しくウォーキング。私は職場の友人Kさんと参加でしたが約8000歩の街歩きは特別編として参加しましたがなかなか楽しめました。TD神内さん、講師は東京シティガイドの方でしたがいずれもお元気そうでとても刺激になりました。また皆様お会
いしましょう。
posted by yunofumi at 15:41| ドタバタ日記