2018年01月05日

2018.1.3 mbt初詣ウォーク 世田谷線を歩く

東急世田谷線は、都内でも数少ない路面電車のひとつ。カラフルな可愛い2両編成の電車が約5kmを10駅に停車しながらのんびり走っていました。
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この電車は都電荒川線と同様の路面電車。豪徳寺、松陰神社などの名所、世田谷区役所をはじめ行政施設も多いようで乗客はそれなりの様子でした。ということで本日はこの路線に沿ってのウォーキングです。

東急世田谷線三軒茶屋駅⇒西太子堂⇒若林⇒松陰神社前⇒松陰神社⇒松下村塾学び館⇒Boulangerie Sudou⇒世田谷駅⇒上町商店街⇒鹿港⇒上町駅⇒烏山川緑道⇒宮の坂駅⇒豪徳寺⇒豪徳寺商店街⇒やきいも専門店ふじ⇒小田急豪徳寺駅⇒山下駅⇒松原駅⇒赤松公園⇒下高井戸商店街⇒下高井戸駅

松陰神社のあるこの地はもと長州藩主の別邸があった所。安政の大獄で刑死した吉田松陰を4年後の1863年(文久3年)に高杉晋作などの門人が小塚原回向院の松陰の墓をこの地に改葬したのです。そして1882年(明治15年)墓の傍に松陰を祀る神社が創建されたのです。松陰50年祭には伊藤博文などが寄進した灯籠26基、鳥居は木戸孝允寄進したとのことです。
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Boulangerie Sudou(ブーランジェリースドウ)。
焼き菓子とパンのお店。ちょっと高めのお値段のようですがとっても評判や良いそうです。
本日はお正月でお休み。もっとも毎週日月、不定期に火曜も休むことがあるそうです。
それでも成り立つわけですから、一度うかがってみるようです。

鹿港(Lu-Gang)。
肉まん、あんまんのお店。材料の豚肉、ネギ、味付けなどとことんこだわっているようです。
すぐに売れ切れになるようで予約も可とか。面白いと思ったのは台湾スタイルの自家製豆乳はじめました!とのこと。ここもお正月で本日は休み。再度うかがうようです。

この緑道に沿って、豪徳寺、世田谷城址公園、松陰神社、太子堂円泉寺等があるようです。
世田谷区では、昭和44年以降暗渠化された中小河川の上部を有効利用する方法として緑道の造成に力をいれてきたとのことです。緑道は自然を取り戻し、歩行者の安全と緊急避難通路の確保などを目的として作られ、烏山川緑道をはじめ8本の緑道が昭和54年度に完成したのです。烏山川緑道は延長約7km、千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いているとのことでした。
私たちは豪徳寺橋や清涼橋の案内があった所を楽しくウォーキングしました。
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江ノ電601号。
世田谷線の前身は玉電(渋谷〜二子玉川園、二子玉川園〜砧本村)。昭和44年に廃止されたとのこと。601は相棒の651と共に、平成2年春と、大型車の中では一番最後に廃車になっています。601は、世田谷線の宮の坂駅前にある宮の坂区民会館に鎮座、651は運転台のみが、江ノ電江ノ島駅近くの扇屋という和菓子屋さんの店頭にあるそうです。ちなみに扇屋は、「江ノ電もなか」の販売元だそうです。
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大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)。
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この寺院付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされているとのこと。1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結び当初は臨済宗に属していたのが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じたようです。
豪徳寺仏殿。
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豪徳寺本殿。
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梵鐘は1679年(延宝7年)完成以来ここにあるのです。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したのです。彦根藩井伊家墓所、井伊直弼墓があります。
豪徳寺は、台東区「浅草今戸神社」、新宿区落合南長崎「自性院」と並び、「招き猫発祥の地」としても有名です。江戸藩邸に暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰りにこの付近を通りがかった時に見かけたネコが自分を招いているように感じた井伊直孝が門内に入ると、急に天候が雷雨に!ネコのおかげで、雷雨を避けることができ、和尚さんのありがたい法話も聞くこともできて喜んだ直孝はネコとの偶然の出会いを喜んだのが「招きネコ」伝説のはじまりとのこと。豪徳寺では招きネコのことを「招福猫児(まねぎねこ)」と呼んでいるようです。
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豪徳寺の売店で購入できる招き猫は小判を持ったりすることもなくシンプルな意匠で、すべて「右手」で招いています。

やきいも専門店ふじ。
東京では珍しい焼き芋の専門店です。甘〜い安納芋、それより甘い紅はるか。紫芋やハロウィンスウィートなどの変わり種もあるとのこと。私はにんじん芋をいただきました。これも甘かったです。
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本日の集合は三軒茶屋駅8:45ということで5:00起床、上福岡駅7:00過ぎに乗車、やれやれと思っていたらふじみ野駅過ぎてすぐ停車!!人身事故発生!!これより1時間10分車中に缶詰に。とても集合に間に合わないと思い、皆さんには出発していただきました。そして池袋に到着後、携帯メールでやり取りし、松陰神社で合流、予定通りにウォーキングを楽しみました。
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そうそう終点の下高井戸駅で一旦解散。でもお昼です!と三軒茶屋に戻りました。
この時、注目の猫電車に乗れてラッキー!
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つり革もかわいい。
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そして車内床には猫の足跡。
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三軒茶屋では世田谷区立スカイキャロット26階に上りまずは展望ロビーへ。
FM世田谷サテライトスタジオではゲストの小室等さんがにこやかに話しておられました。
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富士山もばっちりです。
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御馳走はさすがホテルオークラ!とっても美味しかったです。
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今朝はスタート時気温2℃、日中は9℃で次第に風が強くなりましたが総勢13名はお正月早々大いに楽しみました。
皆さま!またご一緒しましょう!
posted by yunofumi at 10:48| あちこちウォーク

2018年01月01日

2018.1.1初詣

今年もお陰様で穏やかに年が明けました。
次女の手作りのお節料理でまずはおめでとう!!
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その後は、年賀状を見ながらのんびりまったり。
玄関先にはその雰囲気をいかんなく漂わせている我が家です。
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午後になり町内の八雲神社と高齢になっている所沢市中富にある三富富岡総鎮守の多聞院(毘沙門天)と神明社に初詣へ。

神明社の拝殿。
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多聞院、毘沙門堂。
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「身がわり寅(とら)」は、毘沙門天の化身とされる寅に、身に降りかかる災いを託して奉納するというものです。いつも三が日で堂の欄干部までが小さな黄色でびっしりと埋め尽くされる光景となります。
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境内の蠟梅。
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1696年(元禄9年)に柳沢吉保(当時川越藩主)が三富新田として上富・中富・下富村を開村した際、一寺一社の制に基づき、開拓農家の檀家寺として上富に多福寺を、また中富に祈願所・鎮守の宮として毘沙門社(・多聞院)を創建しました。その後同境内に近隣地域より神明社を勧請し、同地域一帯の産土神として祀り、1868年(明治元年)の神仏分離令によって同院境内の西側は神社(神明社)として、東側は寺院としてそれぞれ独立し、今日に至っているのです。多聞院本堂の本尊は大日如来、 また毘沙門堂には、かつて武田信玄の守り本尊であったとされる黄金の小さな毘沙門天像が本尊として奉られています。 この像は、伝承によれば、像高一寸四分(約4センチメートル)、信玄が生前川中島などの戦に際し戦勝を祈願し兜の内に納めて戦場に赴いていたと伝えられるもので、1582年(天正10年)の武田家の滅亡後、同家縁の僧を介し 血縁のある柳沢吉保の手に渡り、毘沙門社の本尊として祀ったとされています。
毎年伺うにつれ境内が整備されています。季節により牡丹を見るなどの散歩コースもあるようです。また花の季節に伺いたいものです。
そして今年も日々元気に過せるように頑張ります。
posted by yunofumi at 20:30| ドタバタ日記

2017年12月29日

2017.12.26 屋久島ぐるり一周の旅3日目

JRホテル屋久島スタート8:30→千尋滝→安房港→屋久島空港→宮之浦港→鹿児島港→鹿児島空港→羽田空港

今朝はやや曇りの天候、気温10℃。皆元気に出発です。

千尋滝(せんぴろのたき)。
滝を正面に見て左手には約400m×200mの巨大な花崗岩の1枚岩が渓谷を作り正面には落差66mの滝が2段になって見えました。岩肌と木々の緑、そして滝の勢いを眼前に見て感嘆!!
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お土産は焼酎やグァバ茶も良さそうでしたが自分の好みでたんかん、杉細工のストラップ、フルーツジャムとトビウオのあごだし、そして焼きあご。やはり家族全員が食することが一番ですから、、、。それにしても荷物は膨らむ!!ということでザックひとつで帰路としたいため宅急便をお願いしましたら何と!3日間!それでもお願いして身軽に出発しました。
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心残りはもちろん縄文杉を見られなかったことですがこれは山深く入らねばならず初めからあきらめていました。しかし屋久杉の知識をまとめて知るには屋久杉自然館が見る価値があったと思いこちらは残念。

さて長い行程ながらほとんど歩くことなく軽々で高齢者の旅行には最適でした。一番の収穫はお天気に恵まれたこと。ヤクシギランドの木道を進むにつれ気温は5℃まで下がり寒かったですがマイナスイオンいっぱいでとても満足。島の生活は東西南北により気候や風土が違い面白いと思いました。やはり厳しい現実もあるようでした。島の皆様が自然を大切に今後も過ごされることを祈りサヨナラしました。感謝!!
posted by yunofumi at 20:32| あちこちウォーク

2017.12.25 屋久島ぐるり一周の旅2日目

JRホテル屋久島スタート→安房→紀元杉→ヤクスギランド→安房港 屋久杉の郷杉匠→屋久島空港→小瀬田→屋久島大社→宮之浦港→志戸子→一湊→永田いなか浜→永田岬・屋久島灯台→川原・西部林道→大川の滝→中間・中間ガジュマル→ 16:00ホテル到着

朝目覚めると晴天の様子。意気揚々とお出かけしました。気温12℃、朝にしては暖かい。
ホテルの外周を一回り。すっかり元気になっていました。
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紀元杉。
細い安房林道をバスがやっと入り、ゆっくり上り標高1230m辺りにありました。木の先端は枯れており20種類以上の着生植物があるとのこと。初夏にはヤクシマシャクナゲ、秋はナナカマドが紅葉するとのこと。推定樹齢約3000年、胸高周囲8.1m、横に張り出した枝が折れそうで太いベルト?で釣り上げていました。
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ヤクスギランドは杉やツガの大木が多く立ち並んだ原生林。木道ができており、私たちはときめきの径30分コースをゆっくり1時間弱でウォーキングしました。
杉は一般的には樹齢500年前後でそもそも屋久杉とは樹齢1000年以上の杉をいい、数百年の杉は小杉というとのことです。屋久島の杉の樹齢が長いのは雨量が多いこと、花崗岩の地盤のため栄養が乏しく時間をかけて生育しているからなのです。この森では植物が岩や樹に根を這わせる着生、倒木となった過ぎに若い杉が育つ倒木上更新、切株更新、樹脂が多い屋久杉が伐採後も腐らずにそのまま倒れているのは土埋木、数本の杉が癒合した合体木など色々見ることができました。原生林の奥に進むにつれ気温が下がり、折り返し地点では5℃になっていました。切株はほとんど江戸時代に切られたようです。
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安房港にある屋久杉の郷「杉匠」で昼食と買い物。
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屋久島のトビウオ漁獲量は日本一とのこと。2階レストランでの昼食はトビウオのから揚げがメインの定食御膳。
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トビウオは一匹まるごと羽がついたままの姿で唐揚げになっており、頭からしっぽまですべて食べられるとの説明がありました。私は初めてでしたが身は白身、羽はこりこり。背骨以外は本当にたべられそうでした。私もいつもよりは結構きれいに食しました。吸い物はトビウオ出汁のあごだしを使っていました。この味はちょっと魚っぽい味でしたが珍しかったこと、粉末になっていたのでお土産に購入しました。
1階は土産物店。杉材の品物が多かったです。高価でちょっと手が出ませんでした。そうそう、これらは江戸時代に伐採された切株から作られているとのことでした。
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これまでにはこの島内で景色とお花を十分に堪能。
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永田いなか浜はどこまでも続く海面と約800mはある白砂の浜でした。今日は波が大きくうねり口永良部島は見えませんでした。ここは国内随一のウミガメ産卵地として有名で5〜7月に産卵のためにウミガメが上陸するとのことでした。
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屋久島灯台は永田岬の断崖に真っ白な姿を見せていました。地上から約20m、光到達距離41km、1897年建設。今日は晴天でしたからここから沈む夕日を見たかったです。
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西部林道は島の外周道路の一部で世界遺産に登録されているエリア。山間部ではカシ、イスノキ、シなどの照葉樹林をはじめ亜熱帯から亜寒帯までの植物があるそうです。ここは道幅狭く、ヤクザルやヤマシカも出ることから小型の自動車やバスでないと通行が難しそうでした。ヤクザルは人に慣れているのか車が近づいても悠然としていました。でも2回ほど見かけたヤマシカはすぐに逃げていきました。
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大川の滝(おおこのたき)。
高さ88m、日本の滝百選のひとつだそうです。岩肌と水しぶきはダイナミックな感じ。
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中間川沿いに進むとアーチ状になった樹齢300年以上の中間ガジュマルがありました。
個人宅の門の役目に見えました。この家の近所にはガジュマルが幾本も見えました。ガジュマルはクワ科の常緑高木で屋久島が北限だそうです。
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ここで無人の販売店でタンカン6個100円をゲット。

島内で製造されている「恵命我神散」は老舗恵命堂製造のOTC薬。生薬ガジュツ末が主成分の胃もたれなどに皆さんが気軽に使っているようです。昭和8年創業。創始者、柴 昌範は「病に苦しむ人を助け、命を救うことほど尊い事業はない」との理念から胃腸薬 恵命我神散を創製し、老舗恵命堂を設立。生薬ガジュツは屋久島や種子島産。屋久島と種子島に工場があり本社は東京とのことでした。

そして途中には徳洲会病院がデーンとありました。創立者徳田虎雄さんは鹿児島県大島郡徳之島町出身。いつでもどこでもだれでも最善の医療を受けられることをスローガンにした大病院グループの創設者。現在も筋萎縮性側索硬化症(ALS)ながら存命のようです。

本日は朝8:30スターから16:00ホテル帰着まですべてまつばんだ交通のガイド羽生さんが先導、CD福井さんが面倒を見たことで無事に1日の行程を安全に元気に終了。
本日は晴天で気温16℃と過ごしやすかったです。
ホテルの夕食は本日も素晴らしく満腹!満腹!
ホテルの温泉も柔らかい源泉。おまけに満点の星空でした。ウン十年ぶりに星が降り注ぐような感じでした。
posted by yunofumi at 19:20| あちこちウォーク

2017.12.24 屋久島ぐるり一周の旅1日目

本日より2泊3日の屋久島の旅のはじまりです。
本日はとにかく屋久島のホテルを目指す行程。
参加者女性のみ6名、CDは女性の福井さん。最後まで元気に頑張りましょうと挨拶しました。

羽田空港9:00ANA078便→鹿児島空港16:05
鹿児島空港→バス→鹿児島港(約1時間)
鹿児島港13:20→ジエット高速船Rocket2→屋久島宮之浦港15:10
屋久島宮之浦港→まつばんだ交通バス→JRホテル屋久島16:00

曇り空の羽田空港9:00からホテル到着16:00、もっともその前に自宅5:00出発でしたから実質11時間。それぞれ待ち時間が十分あるように動いていたとはいえ、やはりちょっと長かった!
初めてのジェット高速船は時速80kmとのこと。揺れはほとんどありませんでした。
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鹿児島は小雨。気温14℃、やや暖め。傘をさすこともなくホテル到着。
JRホテル屋久島は素晴らしい立地、お部屋も素晴らしい!食事も素晴らしい!
以下島内の案内はまつばんだ交通のガイド羽生さんからの受け売りです。
屋久島(やくしま)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町で面積504.29 km、周囲130km(東西約28km、南北24km)[2]。円形に近い五角形で、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では7番目の面積。島の90%は森林。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%がユネスコの世界遺産に登録されている(登録は1993年)。
島民は14000人、小学校8校、中学校3校、公立高校1校。島内の発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式。平素は島内の電力は水力発電で賄われ、火力発電は緊急時に限って活用されるとのこと。
島のほぼ全域が山地。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) 。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳といわれているのです。
海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳があるのです。
屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後隆起して形成された様子。
屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140もあるといい、主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つ。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝(おおこのたき)、千尋の滝(せんぴろのたき)などがをみました。
屋久島は月のうち、三十五日は雨」といわれるほどの所。年間降水量は平地で約4,500mm、山地では8,000mm〜12,000mm。特にヤクスギランドで2012年に11,129.5mmを記録、毎年10,000mm前後の降水量が観測されているとのこと。
また、山頂付近の年間平均気温は約6-7℃で積雪が観測され、日本国内での積雪観測最南端、60cm以上の積雪もありとのこと。
これらのことから豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれ2007年には日本の地質百選にも選定されているのです。

JRホテル屋久島。
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お部屋のベランダからの景色。
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お部屋はスタンダードツインに一人で宿泊し大いに贅沢。宿泊費2万円?
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夕食は和洋折衷コースで満腹。皆さんがオーダーしたお酒はどれも美味だったようです。
本日はクリスマスイブなのでデザートは特別でした。
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大浴場は天然温泉。アルカリ単純温泉。PH9.7。とろりとしたお湯でお肌はしっとりすべすべになり大満足。
今日は遠い屋久島まで来たのにテレビドラマ「陸王」最終回を見て大満足で就寝しました。
posted by yunofumi at 01:25| あちこちウォーク

2017年12月21日

2017.12.13 横浜散策第6回 磯子区

JR根岸線磯子駅⇒Barilla City 横浜磯子⇒中村孝明貴賓館⇒汐見台ストア前バス停留所⇒久良岐公園⇒久良岐能舞台⇒藤の木中学校⇒岡村6丁目⇒天神前バス停留所⇒とんかつ美とんさくらい(昼食)⇒岡村天満宮⇒横浜学園前⇒岡村共栄会⇒滝頭2丁目・岩瀬商店街⇒横浜滝頭郵便局⇒たきがしら芭蕉苑⇒丸山市場・魚増跡⇒滝頭第三住宅⇒横浜市電保存館⇒坂下橋・掘割川⇒磯子橋東詰⇒根岸なつかし公園・旧柳下邸⇒根岸八幡神社⇒米国政府専用区域・根岸森林公園⇒馬の博物館⇒レストランドルフィン⇒根岸駅

磯子駅からすぐ見上げるばかりの崖をとても立派な専用エレベーターで上に上りました。
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上には「Brilla City 横浜磯子」があり、ここは平成25年竣工で、東に横浜湾、西に富士山、北にみなとみらい、南に三浦半島が望める高台にある全13棟、1230戸のマンション群でした。
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元は昭和天皇の義弟、東伏見邦英伯爵の療養のために1937年に建てられた貴賓館を含む広大な用地だったようです。貴賓館は現在、日本料理の鉄人、中村孝明さんのレストランとなっていました。
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久良岐公園(くらきこうえん)は、横浜市港南区と磯子区にまたがる、横浜市立の都市公園(総合公園)で面積は、約23万m2。汐見台団地の造成にあわせて整備され、1973年(昭和48年)に開園したのです。名称はこの一帯の古い地名である久良岐郡から採られたとのこと。
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中央付近に池があり、北側は散策路のある雑木林の先に久良岐能舞台がありました。南側は運動広場や芝生広場、桜の林、横浜市電の保存車両などがあり、春には花見客でにぎわうようです。
横浜市電1156号は1972年に廃止された横浜市電の車両。久良岐公園に保存されていました。1952年に製造された1150型のうち、2012年現在現存している唯一の車両とのことです。
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久良岐能舞台(くらきのうぶたい)。
1917年(大正6年)に東京日比谷の帝国ホテル裏に建てられ、1931年(昭和6年)に東京芸術大学の前身である東京音楽学校邦楽科に寄贈されたとのこと。同大学には1964年(昭和39年)に能舞台が新設されたため解体保存されていたのを、宮越賢治が譲り受け、ここに移築したのです。1984年(昭和59年)に横浜市に寄贈され、現在は市民の能楽・茶道・日本舞踊などの活動に使われているようです。部隊の鏡板には、日本画の大家平福百穂による老松が描かれていました。
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フォークデュオの「ゆず」は北川悠仁と岩沢厚治の二人で1996年3月に結成したとのこと。最初は路上ミュージシャンからのスタートで、横浜でライブを行っていたようです。「ゆず」の出身地はこの磯子区岡村で岡村中学卒業とのこと。磯子警察の岡村交番で「ゆず」のゆかりの地などが記された「ゆずマップ」が1998年12月に完成したとのことです。彼らは2003年には「NHK紅白歌合戦」に初出場。只今も人気者です。ということでこの交番のすぐ傍の「とんかつ美とんさくらい」で昼食。有名人の色紙などが一杯ありました。もちろん「ゆず」の写真などもありました。私は絵葉書をいただきました。
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岡村天満宮は源頼朝の家臣が京都北野天満宮の分霊をいただき、この地に創建したといわれる天満宮。大きな石の大鳥居をくぐり石段を上るといきなり「ゆずの壁画」がデーン!これって彼らがライブをしていた木町・松坂屋屋上に飾られていたのが閉店を機にこちらに移築され、ゆずの聖地巡りのスポットになっているとのことでした。
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境内には針塚や筆塚の碑、なでるとご利益があるという「天神様の撫で牛」もありました。

滝頭2丁目に入り岩瀬商店街を行くと丸山市場がありました。
ここには美空ひばりの父、加藤増吉さんが始めた魚屋『魚増」が営まれていたとのこと。市場の中を通ると今もお魚屋さんがあり、従兄弟の方が引き継いで営んでいるとのことでした。 お店は横浜市電保存館やひばりさんの出身校滝頭小学校もすぐそばにありました。

横浜市電保存館。
明治37年から昭和47年まで約70年間"ちんちん電車"の愛称で横浜市民の足として親しまれた市電が当時の姿で見られました。「横浜市電」は、明治37(1904)年から昭和47(1972)年までの約70年間、“ちんちん電車”の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍したのです。横浜市電保存館は、市電が廃止された翌年の1973年(昭和48年)に滝頭車両工場跡地に開館し、その後、昭和58(1983)年には、現在の市営住宅1階に建て直されました。
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館内には、7両の市電車両、停留所標識、敷石などが昔の姿で保存され市電が走っていた時代を再現しているようでした。
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歴史展示コーナーでは、「横浜の発展と交通」をテーマとして、横浜の発展の礎となった吉田新田の干拓から、横浜開港、関東大震災、戦後の復興、市電の最盛期を経て廃止に至る経過、その後の横浜の都市計画の基となる6大事業や地下鉄への移行などが解説されていました。
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堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川で大岡川の分流でもあります。この川は明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たしたようです。1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募り、吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行ったのです。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定されたとのことです。
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根岸なつかし公園・旧柳下邸。
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旧柳下邸(きゅうやぎしたてい)の建物は明治〜大正期の有力商人であった柳下氏により大正中頃に建設され、1923年(大正12年)の関東大震災では一部倒壊したが大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を、柳下家の人々に受け継がれてきたのです。横浜市では1996年(平成8年)に敷地を取得し「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として一般公開しているのです。建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されていました。洋館の屋根は、周辺の町並みから突出しており、近隣のランドマーク的存在でした。 東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺き。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっているのです。洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついていました。柳下家はもともと明治初頭より、横浜でも有数の「銅鉄引取商」として弁天通に「鴨井屋」の屋号で店を構え、金属の輸入業を営んでいました。平次郎、達蔵兄弟の二家がありました。旧柳下邸の表玄関の横には、鴨井屋の屋号が彫られた鉄製の天水桶がありました。
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根岸八幡神社は、551年(欽明天皇12年)に海上に出現した八幡宮神体を祀り、八幡橋八幡神社の地に創祀、1766年(明和3年)この地に遷座したといわれているようです。明治8年村社に列格、伊勢社、宇佐八幡神社、山王社を合祀したとのことです。
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根岸森林公園は横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地。公園は根岸住宅地区の施設を挟んで馬場内エリアとスタンドエリアがあり、馬場内エリアには広大な芝生エリアが広がっており、特に桜は有数の見所で、花見シーズンには人出が多いとのことでした。スタンドエリアには、現在でも横浜競馬場の遺構である旧一等馬見所が現存しており、横浜競馬場の説明文などがありました。高台にあるため、みなとみらいや、晴れた日には富士山なども見えるようです。
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横浜競馬場は1866年(慶応2年)に開設。1867年(慶応3年)に日本初の洋式競馬が行われた横浜競馬場の跡地で、現在も残る「旧一等馬見所」は関東大震災後に建築家のJ・H・モーガンの設計で再建されたもの。戦前には「帝室御賞典(現:天皇賞)」や「横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)」などの大レースが行われるなど、日本における洋式競馬の黎明期を代表する競馬場で、各地に設立された競馬場のモデルともなったようです。戦争が激化した1942年(昭和17年)に競馬の開催を中止。翌1943年(昭和18年)には海軍により接収され閉鎖。終戦後の1945年(昭和20年)9月、他の軍事施設と同様にアメリカ軍により接収され、1947年(昭和22年)からはアメリカ軍の管理下に置かれたのです。接収中、馬場内エリアは米軍専用のゴルフ場となっており、現在の芝生はその名残でもあるのです。1969年(昭和44年)に旧スタンドなど一部を除き接収が解除され、国有地となった敷地の大部分を横浜市が無償で借り受けて整備し、1977年(昭和52年)10月に根岸森林公園として開放されたのです。その他のエリアも1969年(昭和44年)より日本中央競馬会が整備を進め、1977年(昭和52年)に「根岸競馬記念公苑」として開設。馬の博物館もここに含まれていました。1982年(昭和57年)には旧スタンドも返還され、「旧一等馬見所」の裏手にはモーガンの設計図や竣工当時の写真パネルが展示されています。
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ユーミンの曲に出てくる根岸森林公園の高台にあるカフェ・ドルフィン。
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1974年(昭和49年)に荒井由実でリリースされたアルバム『MISSLIM』。そのA面4曲目に収録されている『海を見ていた午後』に♪山手のドルフィンは静かなレストラン、、とあるようです。
リリースから42年経った今でも、この曲の面影を求めて多くの人が店を訪れるとのことです。「ドルフィン」が店を構えるこの根岸旭台は、高級住宅地の様子でした。

今日は参加者28名、講師浅井先生、CD清水さん。晴天で気温12℃、歩程7km超、ほぼ無風だったことが幸いでした。まさに今年最後の紅葉を楽しんだ感がありました。しかし競馬場跡は広大でやや草臥れました。また根岸森林公園すぐわきに「米国政府専用区域」とあったのがなんとも複雑。終戦後70年以上たっても戦争の跡があるということです。
横浜は広い!18区もあるのです。今日はこれでやっと1/3を終了しました。今後も何が見られるか楽しみです。
posted by yunofumi at 22:17| あちこちウォーク

2017年12月15日

2017.12.7 第20回東京の新発見「新宿区」

副都心線西早稲田駅3番出口⇒タリーズコーヒー⇒早稲田大学西早稲田キャンパス⇒新宿コズミックセンター・戸3丁目⇒箱根山・箱根山陸軍戸山学校址⇒都立戸山公園⇒箱根山通り⇒早稲田大学正門⇒穴八幡宮・馬場下交番⇒木組博物館⇒高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑⇒甘泉園公園⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒大隈通り⇒観音寺⇒早稲田大学・大隈講堂・会津八一記念博物館・坪内博士記念演劇博物館「シェークスピア」完訳記念⇒トラード早稲田⇒
成文堂⇒鶴巻公園⇒牛込弁天町・幸和印刷⇒宗参寺・牛込氏墓・山鹿素行墓⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒草間彌生・草間彌生ミュージアム⇒晴和病院⇒林羅山墓地・北山伏町⇒市谷小学校⇒市ヶ谷加賀町アパート⇒峰隆太氏宅⇒牛込第三中学校⇒なんど児童遊園⇒中華料理月下炉(げっかろ)(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒フルオンザヒル⇒神楽加賀⇒善国寺⇒寺内公園⇒本多横丁⇒神楽坂通り⇒JR飯田橋駅

都立戸山公園は箱根山を中心とした箱根山地区と、明治通りを隔てた広場・大久保地区に分かれていました。箱根山(はこねやま)は、都立戸山公園内にあり、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)とのこと。山頂の水準点の標高は44.6m。紅葉が美しく近所の保育園児が多くお散歩に来ていた。また本日はこれmでのウォーキングでご一緒になった叔父様3人組と記念撮影をしました。
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箱根山は尾張徳川家のシミ屋敷があったところ。そこには見事な大名庭園戸山荘があったとのことですがこれがのちに陸軍戸山学校になり、今は記念碑がありました。この学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)の一つで、歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していたとのこと。現在、歩兵戦技・体育の教官育成と研究は自衛隊体育学校に、軍楽は陸上自衛隊中央音楽隊教育科に引き継がれているとのことでした。
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穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、旧称は高田八幡宮。
1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのがはじまりとのこと。1636年(寛永13年)に的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称したのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としその後も歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したのでした。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれているとのことです。
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木組博物館は西早稲田2-3-26ホールエイト3階にあり、清水建設の関連施設です。木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを展示していました。 約40年に渡り数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた方々ではじめたとのこと。伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化が、危機的状態に向かっているのを肌で感じ必要性を感じたのです。また木組み博物館は、従来の展示中心型、五感体験型からより能動的で深く心に刻まれる参画型の生きた博物館にしたいとの趣旨のようです。
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高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)。
早稲田大学のすぐ西側にある水稲荷神社の石段を登ったところに、この石碑がありました。
建碑年は1910年(明治43)とのことです。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場があり、元禄7(1694)年に「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いがあり、助太刀をした堀部安兵衛は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。そんな彼のことを記したのが、この石碑で題額は、西園寺公望で清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴。文章を書いたのは信夫粲当時有名な漢学者。所在地】新宿区西早稲田3-5-43 
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水稲荷神社には太田道灌「道渡つかみさしの榎」を植え、榎の空洞から水が湧き出たのです。
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甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は江戸中期の清水家の大名屋敷跡につくられた日本庭園で新宿区立唯一の回遊式庭園。「甘泉園」の名は、ここの山吹の井から出る湧き水がお茶に適していたところからきたとのことです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなしているのです。
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早稲田大学(わせだだいがく)は1920年に設置。江戸時代末期の蘭学校であった北門義塾(柳田藤吉の創設)が明治5年閉校後、その意思を受継ぎ隣地に大隈重信が明治14年の政変で下野した後に設立した東京専門学校が前身。日本の私立大学としては慶應義塾大学(「早慶」の慶)などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となったのです。2011年現在、10の学術院のもと13学部・21研究科(大学院)を設置している。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。また大隈重信が明治を代表する政治家であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの逸材を輩出している。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。 正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」。 早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめ、建築学科の教員らを中心に設計された。
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会津八一記念博物館。
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会津八一は東洋美術史の研究者、歌人、初夏でもあり、早大卒で教鞭も取ったようです。
ここには早大創立以来の学術研究成果、大隈重信遺品、富岡重憲コレクションなど収蔵品は2万件あるとのこと。本日は幸運にも横山大観・下村観山による名画「明暗」が見られました。

坪内博士記念演劇博物館。
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演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。
以来、演劇博物館には日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えているとのこと。錦絵46,800枚、舞台写真400,000枚、図書255,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点など。
演劇博物館の建物自体が、ひとつの劇場で、舞台正面にはTotus Mundus Agit Histrionem“全世界は劇場なり”というラテン語が掲げられているとのこと本日は工事中で詳しくみられませんでした。

トラード早稲田
早稲田大学の大隈講堂の南側の道路を挟んだはす向かい辺りに、この奇想天外な建物がありました。1983年早稲田大学理工学部建築学科を卒業した梵寿綱(ぼんじゅこう、本名田中俊郎)という「日本のガウディ」と呼ばれる建築家の作品だそうです。
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宗参寺(そうさんじ)は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことが始まり。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたということです。
宗参寺内には牛込氏累代の墓がありました。また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありました。

漱石公園には夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、漱石山房記念館に再現されていました。
本年9月に都立の施設として開館したのです。
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草間彌生ミュージアムでは今、草間彌生美術館開館記念展をこけらおとしとして開催中のようでした。近くには彼女のスタジオもあるようでした。
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宮城道雄記念館は宮城道雄の偉業を顕彰するとともに、今後の日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日、故人が晩年まで  住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館。宮城道雄の生涯や楽器もみられました。館内には名曲「春の海」が流れていました。
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毘沙門天で有名な善國寺は創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年前に麹町に創建。1793年(寛政5年)にこの地に移転。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与え、さらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となったのです。
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本日は見るところが多く歩程11km、16000歩だったのですがやや疲れました。日本晴れで気温12℃、絶好のコンディションの中、講師信野先生、CD菅野さんで参加者20人は最後までどうにか元気でした。本日でこの23区めぐりは一応完結。しかし私はお休みしたのが3回あり、来年に持ち越しです。一巡完歩されたお二人におめでとう!の拍手を送りました。
posted by yunofumi at 20:45| あちこちウォーク

2017年12月03日

2017.11.19〜12.3 紅葉を楽しむ

11/19 代々木公園にてノルディックウォーキング。紅葉が始まっていました。
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この青空も素晴らしかったです。

11/20大島小松川公園にてノルディックウォーキング。こちらの紅葉はいよいよ本格的でした。
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坂道の紅葉に癒されました。

11/26駒沢公園の紅葉。オリンピックの準備も本格的になっている様子。広々した中での紅葉は美しかったです。
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12/2国立西洋美術館の「北斎とジャポニズム」、東京都美術館の「ゴッホ展」へ。
北斎、モネ、ゴッホで頭と心が満杯になり、広々した上野公園で大いに紅葉を楽しみました。
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12/3 代々木公園にてノルディックウォーキング。いよいよ紅葉は終盤でした。
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この秋は遠出をせずに大いに紅葉を楽しみました。
posted by yunofumi at 21:31| ドタバタ日記

2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
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青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
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文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
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光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
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駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
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南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
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吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
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昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
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榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
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天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
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駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
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一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
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東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
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Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
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東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
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旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
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旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
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本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク

2017年11月11日

2017.11.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

久しぶりにMBT仲間と代々木公園でのノルディックウォーキングに参加。
思いがけずほとんど晴天、21℃。朝の内はほとんど風なし。
8:30〜11:00まで楽しく、のんびり、木々の紅葉を見ながら約10000歩を達成。
その後はもちろん、明治神宮のカフェ「杜のテラス」でお茶をして解散。
休日の早起きは三文の徳!午後は買い物など大いに楽しみました。
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日頃の疲れも何処へやら、また元気に歩き回れることに感謝!!
皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 15:52| あちこちウォーク