2022年10月22日

2022.10.16さいたま新発見 ぶらり街あるき 本庄市

2022.10.16さいたま新発見 ぶらり街あるき 本庄市
本日は「雨はなし」との予報で意気揚々と自宅を出発。しかし上福岡〜川越が東武東上線、川越〜大宮がJR川越線。大宮〜本庄が高崎線、ということでほぼ2時間を要しました。そしてようやく22名で10:00本庄駅をスタートしました。

JR本庄駅⇒本庄駅北口信号⇒本町三交商店街⇒城立寺⇒バレガルニエ⇒旧本庄仲町郵便局跡⇒仲町愛宕神社⇒仲町会館・あたご山小公園⇒開善寺通り⇒開善寺⇒うなぎ藤井⇒寺坂橋⇒賀美橋⇒若泉第一公園⇒阿夫利天神社⇒普寛霊場⇒安養院⇒御菓子司せきね⇒田村本陣の門⇒旧本庄警察署⇒旧本庄商業銀行煉瓦倉庫⇒はにぽんプラザ⇒本庄のチンチン電車⇒ハナファームキッチン(昼食)⇒本庄早稲田ミュージアム⇒マリーゴールドの丘公園⇒本庄早稲田駅

JR本庄駅は1883年開業。駅に着くとアナウンスが「ほんじょう」と一本調子。実はこれって「根性」と発音するイントネーションではなく「温情」のイントネーションが正しいとのこと。地元愛にびっくりでした。
本庄は江戸から数えて10番目の「本庄宿」、中山道では最大の宿場だったそうで、皇女和宮が降嫁の際に田村本陣に宿泊されたとのことです。
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改札前には本庄市を盛り上げた有名人をはじめ色々な花々や名所が描かれた額がありました。人としては普寛上人、塙保己一、木村九蔵などが見られました。

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城立寺(じょうりゅうじ)は日蓮宗系の寺院。正式には鉢形山浄眼院。普寛霊場とともに武州本庄七福神めぐりの大黒尊天が祀られているとのことでした。

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黒木メイサさん主演の「昴−スバル」という映画で使われたのがこのバレガルニエ。
宮本すばる(黒木メイサ)がバレエと出会い のめり込んでゆく場末の小劇場「パレ・ガルニエ」が正にここ「寿ホール」だそうです。

旧本庄仲町郵便局は昭和9年に建築されたアールデコ調の装飾がされていた局舎で今は国登録有形文化財に登録されているとのことでした。ちょっとほったらかしという感じで、もう少し何とかしてもらいたい!せめて「旧本庄仲町郵便局」の案内板が欲しい!

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仲町愛宕神社。
古墳を利用して建立された愛宕神社の小さな社殿の石段脇にはご神木のケヤキの大木がありました。南北の二本立ちとなっており、いずれも目通りは4mを超え、根回りも迫力があるようです。神社の御神木となっている他、本庄市の天然記念物に指定されているとのことです。

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開善寺(かいぜんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。武州本庄七福神めぐりの布袋尊が祀られているとのこと。1591年(天正19年)、小笠原信嶺が開基。信嶺は前年に主君の徳川家康より本庄領1万石を封ぜられ、信嶺自身の菩提寺として創建したのがこちらとのこと。寺号の「開善寺」は、父の信貴が再興した開善寺(長野県飯田市)に由来するようです。小笠原氏はその後も転封を繰り返し、最終的に越前国勝山藩に落ち着き、勝山にも開善寺を創建しているとのことでした。
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小笠原掃部太夫信嶺公夫妻墓は古墳の上に築かれているようです。小笠原信嶺は旧武田氏配下の徳川氏の家臣で、天正18年豊臣氏の関東攻めにより本庄氏滅亡後本庄城を賜り、本庄領1万石を領しました。天正19年に開基となって開善寺を建立したのです。

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本庄かるたは市制30年を記念して1984年にできたようで92枚はあるようです。今日は訪れた寺院でよく石碑になっているのを見かけました。

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寺坂橋は伊勢崎と本庄を結ぶ旧伊勢崎道に建設され、元小山川に架かっている橋。橋長7.6m、幅員3.3mで、ライズ比約1/5の扁平なアーチからなる石造単アーチ橋。現在使われている石造アーチ橋としては埼玉の橋で 最古の橋だそうです。

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賀美橋は伊勢崎と本庄を結ぶ伊勢崎振動に建設され、元小山川に架る、橋長6.3m、幅院9.0mの鉄筋コンクリート造単桁橋。高欄に白タイル貼の連続アーチをあしらい、親柱の各面に三角ペディメントを表すなど、装飾的に凝ったつくりとなっているのです。

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若泉第一公園は桜の名所で市民の憩いの公園。約100本の桜がありそうです。

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阿夫利天神社(あふりてんじんじゃ)は山の神、雨乞いの神、天神社は火雷天神の神で、合社したので阿夫利天神社といわれています。また、9月には水を恵む神様に御神酒をあげ感謝する「御神酒あげ神事」が行なわれるということです。

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普寛霊場には木曽御嶽山開闢祖・普寛上人の墓があります。普寛上人は、木曽御嶽表山道王滝口開山の密教行者で数々の奇跡に恵まれた人物です。武州本庄七福神めぐりの一つで大黒尊天が祭られています。

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安養院山門は江戸中期の1702年建立。本庄市指定有形文化財です。屋根のてっぺんの鬼瓦がすごい迫力でした。
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安養院(あんよういん)は、曹洞宗の寺院。山号は若泉山。寺号は無量寺。本尊は阿弥陀如来。武州本庄七福神めぐりの毘沙門天が祀られています。この寺は、室町時代中期の1475年(文明7年)本庄信明の開基により兄行重(入道して伊安)が結んだ庵を上州沼田から招いた玉岑慶珠が開山となって寺としたのに始まるということです。戦国時代には本庄氏の衰退とともにこの寺も荒廃し、その後、泰山が入寺して中興されたようです。本堂は江戸後期の1790年建立とのことでした。

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御菓子司せきね。
大正5年創業以来地元に因んだ菓子づくりに専念。看板商品の武州栗羊羹は上皇后両陛下に召し上がって頂き、全国菓子博に於いて内閣総理大臣賞を受賞。他に普寛最中、ほんじょうそだち、はにぽんわっふる(3種類)等も販売しているようです。

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田村本陣は本庄宿の北本陣と呼ばれていたとのこと。1642年(寛永19年)より記録が残されており、同家の古さが偲ばれます。市の文化財に指定されており、現在、門が旧本庄警察署の前に移築されていました。

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旧本庄警察署は、1883年(明治16年)に建築されたコリント式西洋建築。2階のベランダにはアカンサスの葉を彫刻した柱が並び、半円窓や天井の灯火掛けのレリーフなど、随所に明治期の洋風建築の特徴が見られました。
警察署が移転した後は、本庄消防団本部、簡易警察署、区検察庁、本庄公民館、図書館として様々に利用された後の1972年(昭和47年)に県指定有形文化財に指定。昭和54年から翌年にかけて解体・復元修理。現在は県指定有形文化財の旧本庄警察署として、大切に保存されています。

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旧本庄商業銀行煉瓦倉庫(本庄レンガ倉庫)。
120年以上前に建てられ、かつて本庄の絹産業と経済を支えた旧本庄商業銀行煉瓦倉庫が、約2年間の耐震補強工事を終え、平成29年4月1日から交流施設として新たに生まれ変わったのです。 1階が交流・展示スペース、2階が多目的ホールになり、赤煉瓦の壁や木組み(キングポストトラス)の美しさ、その歩んできた歴史を感じながら、人と人、人と歴史が触れ合う施設となっています。

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はにぽんプラザ、正式には本庄市市民活動交流センター。様々な市民活動に使われているようです。
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お祭りの山車の展示があるので見に来ました。ゆるキャラ「はにぽん」もいました。

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本庄のチンチン電車の案内板には大正4年から昭和5年まで本庄・児玉間7.1km走っていた路面電車のこと。この場所は正式には本庄電気軌道線七軒町停車場の跡地。電車の速度は時速22kほどで自転車並みだったようで、片道25分かかったようです。

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ハナファームキッチンではサスティナブルをテーマに、今よりもっと豊かで楽しい食生活をご提案しているとのこと。野菜を最も美味しく食べる方法は、新鮮で美味しい野菜を仕入れる事、その素材が持つ力を知る事、そして、その素材が活きるシンプルな方法で料理する事。農業と真剣に向き合い、最も良い方法を考え続けており、多く人々に喜んでもらえるワクワクするレストランを作りたいとのことでした。
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山盛り野菜の美味しいこと!!堪能しました。

塙保己一像「旅立ちの朝」が本庄早稲田駅前にありました。
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塙保己一は江戸時代後期に活躍した全盲の方で、7歳の時、病気で失明。15歳で江戸に出て、学問の道に進んだ国学者。多くの困難の中、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版。48歳で、「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うしたのです。本庄市内に記念館、東京渋谷に温故学会があり膨大なすべての資料があったと思います。

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本庄早稲田の杜ミュージアムは本庄市と早稲田大学が共同で開設しているミュージアム。本庄早稲田駅ができる頃に様々な歴史的な考古学の資料が発掘され2020年にオープンし、ここで展示なども行われているのです。「盾持ち人物埴輪」などびっくりするくらいの発掘品の数々でした。
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マリーゴールドの丘公園には11000株のマリーゴールドが咲き誇っていました。この小高い丘からは晴れていれば男体山や浅間山などが見えるとのことでした。

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本庄早稲田駅があるのは、新幹線で言えば熊谷駅と高崎駅のちょうど中間くらい。駅名に本庄と付くからには、埼玉県本庄市の駅であることはわかりますが、早稲田とは?駅のある住所も本庄市早稲田の杜だということでした。 本庄早稲田駅は新幹線しか通っていないため、新幹線「あさま」や「たにがわ」に乗って目指すことになります。停車する列車の数が少なく本庄早稲田駅に停車する新幹線は日中おおよそ毎時1本。「あさま」は東京駅から約45分で本庄早稲田駅に到着です。南口には早稲田リサーチパークがあるとのこと。また 1日乗降客は約2200人。本庄早稲田駅の開業は2004年3月13日。地元本庄市と早稲田大学が建設費などのコストを負担したようです。駅の周りには早稲田大学のほか、北口は、広々としたロータリーの先にベイシアゲート本庄早稲田、蔦屋書店やホームセンターのカインズもありました。そうそうカインズの本社が本庄早稲田の駅前にありました。本庄駅まで2kmをつなぐのは「はにぽんバス」というシャトルバスが走っていました。

本日は曇り空ながらウォーキングには楽な日和でした。本庄市の街並みはのんびりした感じで歩きやすかったです。喜多見先生、TD巣田さんと共に22名は完歩。私は帰宅して約2万歩は上出来でした。
本庄市街中のマンホールは2つ目に付きました。
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そして途中で11月2〜3日の本庄まつりの準備をされている山車に出会い、ちょっと得した気分でお話も伺いました。
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本日の埼玉の逸品は「はにわ煎餅」。お土産がこれだけではさみしいので本庄駅で追加としてせきねさんのお菓子も購入。ということで本日はこれにて終了!
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そして帰宅途中で塙保己一さんの旧宅などがある児玉地区は全く見てないなあ、と気づいたのでまた伺うことにしたいと思いました。
ではまた皆様、次回も元気でお会いしましょう。
posted by yunofumi at 21:58| あちこちウォーク

2022年09月28日

2022.9.27 三度目の日高市へ

今朝から晴天、そこで三度目の日高市を訪問。前回までの不足分を補うため車でお出かけです。
自宅⇒聖天院⇒あぐれっしゅ日高中央⇒栗こま娘本舗亀屋⇒自宅

帰ってみれば片道25kmは巾着田あたりで少し渋滞でしたが、まずまずの行程で進みました。

聖天院の雷門と将軍標の位置がはっきりわかりました。
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馬頭観音は雷門そばにありました。
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中門では拝観料をおさめ、御朱印をいただきました。
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庭園は池と庫裏を一緒に眺めるとなかなか風情がありました。
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白い曼殊沙華を見つけました。どうやら普通の赤い曼殊沙華と黄色の曼殊沙華の掛け合わせで白いのができるそうです。
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ネットで曼殊沙華の色で検索してみると実に様々な色がありとても驚きました。

書院を見るためにぐるりとまわると雪山(石灰岩)がありました。
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阿弥陀堂では扉も開いており阿弥陀様を見ることが出来ました。
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101段の石段をのぼると仁王尊の全身が見られました。
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本堂は仏像も多く、中もきらびやかでした。
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鐘堂は新しくなったようです。
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鐘堂のそばに高麗王若光像がありました。
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こうして聖天院はほぼ納得できたので、下山しました。

あぐれっしゅ日高中央。
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こちらは地元JAの農産物直売場。地元の特産品が所狭しと並んでいました。ちなみに大粒の日高マロン、新高梨、里芋、ぶどうをゲット!大満足!!
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JAのお隣には豆腐厨房があり、ざる蕎麦と豆腐セットをいただきました。
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栗こま娘本舗亀屋は日高市市役所そばにありました。かなり大きなお店でどれも大粒栗が入っていそうな和菓子が多く、気分良く買い込みました。
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元来、私は執着心がない性格と自分では思っていたのですが、ここのところの日高市訪問に限って考えると、納得できるまで執着するみたい!気づきました!まあ年を重ねてこうなったかも!と、、、。。ということで日高市訪問は納得!また明日から日々楽しく過ごします。
posted by yunofumi at 14:18| あちこちウォーク

2022年09月25日

2022.9.22 さいたま新発見 ぶらり街あるき 日高市

この日高市ウォーキングの参加は実は2回目。1回目は4日前でした。
1回目の日、何しろ台風の影響で大雨。久しぶりのウォーキングでしたがちょっと天候の予測を見誤り装備が不足。おかげで食事処に着いた時には“ずぶぬれ”でこのままでは風邪をひくと思いました。コロナ禍で風邪をひいたり、発熱はマズイ!ということで食後、皆さんと別れて帰路についた次第です。
そして本日の空模様は曇り!雨は避けられそう!実は高麗氏の歴史などを見分したかったので再度の申込での参加でした。

本日10:00集合の西武池袋線高麗駅⇒高麗村石器時代住居跡⇒高札場跡⇒水天の碑⇒巾着田曼殊沙華公園⇒あいあい橋⇒鹿台橋⇒ドレミファ橋⇒中島照光先生顕彰碑⇒高麗郷民族資料館⇒高麗川遊歩道⇒和食処芳月⇒聖天院・高麗王廟⇒高麗神社・高麗家住宅⇒JR八高線高麗川駅

西武池袋線高麗駅(こまえき)は1929年(昭和4年)に開業したようです。普段は約2000人の利用客のようですがこの時期、曼殊沙華が咲くので近くの巾着田曼殊沙華公園への見物でとても賑わうようです。本日駅前広場には、高麗神社にちなみ、「天下大将軍」「地下女将軍」と表記された、朝鮮半島の道祖神「将軍標」が建てられていました。これは「チャンスン(将軍標)といわれ韓国では村の入り口や道端に魔除けや道しるべとして置かれているとのことです。
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駅前広場にはまた「渡来人の里高麗」の説明案内板がありました。
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案内板によるとこの辺りは668年に高句麗から来た多くの人々がいて、716年に設置されたのが武蔵国高麗郡高麗郷の地。当時の高麗郡大領に任命された、朝鮮半島の高句麗の王族「高麗王若光」や多くの高句麗人が渡来してきたとのこと。この方々の子孫などがこの地に現在まで住み、その足跡が聖天院や高麗神社としてこの地に根付いているようです。

高麗村石器時代住居跡(こまむらせっきじだいじゅうきょあと)
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1929年(昭和4年)に埼玉県内で初めて縄文時代の竪穴式住居跡を発掘調査した遺跡です。

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水天の碑は、旱魃(かんばつ)の被害を受けやすかった台村の地で、天明の飢饉(1781-1789・浅間山の噴火)に続いて天保の飢饉(1830-1844)に見舞われ、台村の人々が天災や水難事故を鎮めるために建立したとのことです。

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巾着田の殊沙華を見る手前にある高麗本郷付近を流れる高麗川にかかる鹿台橋(ろくだいばし)は、県道15号川越日高線が通っていました。

巾着田曼殊沙華公園(きんちゃくだまんじゅしゃげこうえん)。
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高麗川が蛇行(だこう)した形が「巾着(きんちゃく)」の形に似ているところから「巾着田(きんちゃくだ)」なのです。昭和40年代にこの地の用地を日高町が買取り、藪や竹林、葦(あし)におおわれていた地を整備したところ9月頃には一斉に曼殊沙華が咲き始めたようです。どうやら高麗川の増水などで漂着した球根などが根付き、今では500万本が赤い絨毯を敷き詰めたように咲き誇るのです。本日はほぼ満開で見事な風景が広がっていました。
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これはドレミファ橋。平成22年設置の木橋。巾着田から高麗丘陵ハイキングコースに向かう橋で桁がかかっておらず、橋脚をぴょんぴょんと飛び越えて渡っていたことから「ドレミファ」と歌いながら渡ったということで「ドレミファ橋」となったようです。本日は通行禁止でした。

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曼殊沙華の咲き誇る有料地域を出るとすぐのあいあい橋は平成8年に設置された木製トラス橋。橋長は91.20mで日本最長級の木製トラス橋で、周辺の緑と調和した巾着田の観光シンボルとなっているようです。

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あいあい橋のすぐそば、高麗川の川岸そばに中島照光先生顕彰碑がありました。この先生は高麗川の流れを利用して地元の子供たちに「水泳を教育として」教えた方だそうです。

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高麗郷民族資料館は旧石器時代からこの地に住み始めた先人の農業、漁業、林業などの用具なども展示していました。特に養蚕、お茶、稲作、畑作などが盛んだったようです。特に製茶機の研究を重ねた高林謙三の紹介や大きな花火筒が目を引きました。

埼玉県では、平成24年度から、市町村のまちづくりと一体となり、一つの川の上流から下流までをまるごと再生する「川のまるごと再生プロジェクト」を推進しているとのことです。そこで日高市が誇る清流、高麗川の河川沿いの葦や竹をきれいにし、水辺に近づける遊歩道を整備し、高麗川とふれあいながら、日頃のお散歩や健康づくりに利用できる高麗川遊歩道がのどかに続いていました。

隠家のような和食処芳月でミニ会石ランチの昼食でした。特に鯛の蒸し焼きは初めてでとても美味しかったです。
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ご夫婦で切り盛りされているとのことでしたが、きめ細かく手が込んでおりとても美味しかったです。

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聖天院(しょうでんいん)。
創建751年、高麗王若光の子、聖雲(しょううん)と孫、弘仁(こうにん)が、王の侍念僧であった勝楽の冥福を祈り建立したとのこと。勝楽はもともと若光の冥福を祈り、菩薩を弔うためにこの寺の草創を思い立ちました。しかし志なかばで没したため、聖雲と弘仁がこの意思を引き継いだといわれています。いわば若光の菩提寺といえます。

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これは高麗王廟。5個の砂岩を重ねた多重塔で下部に四仏が刻まれていたとのことですが今はわからないとのこと。鎌倉期以前の建立でしたが境内が後方に移動したので山門右手になったようです。昭和46年に周囲を修復し現在の様子になったとのことでした。

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これは雷門(風神雷神門)。瓦葺総欅木造二層楼閣、大きさ建築様式共に近郷稀にみる優美さと重厚さを備えた建造物。天保初年~3年に完成、棟梁は北足立郡立村立川氏と小瀬戸安藤直蔵氏とのこと。楼閣二階の山号額は江戸の住人中村入道景蓮の書。天上画は龍、鳳凰共に江戸の画師南沢。門左右に風神、雷神を祀り、階上に大日如来、七観音、十六羅漢が配祀されているとのことでした。

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山水を取り入れ山の傾斜を利用した庭園。本来東側にある書院・茶室より望むように設計されたようです。改修で池と庭を広げ植栽と庭石の配置を工夫して、中門をくぐった南側正面からと、本堂前舞台より見下ろす北側の三方より楽しむことができるようになっているとのことでした。

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阿弥陀堂は足利時代の国宝的建築と稲村担元氏によって証明されている当山最古の木造建築。寺記に「宝永年間高岡村金子六左衛門為父母菩提再建之」とあるとのこと。本尊は阿弥陀如来三尊(行基作)、左手に武蔵野観音霊場本尊聖観音、他に十王尊を祀っているとのことです。

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阿弥陀堂横から101段上がると仁王様がお出迎えです。

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本堂は平成12年、京都神護寺をモデルにしており、平茂寺立川流宮大工九代目石川吉登渾身の作、総欅造り・三手先出組とし軒先の出二軒半・内陣には最大直径2尺3寸の大柱を用い、古式に則り造営された百余坪の重厚な伽藍。本尊に不動明王を祀り大日如来、釈迦如来、地蔵菩薩、愛染明王、観音・勢至菩薩を配祀、堂内左手に若光守護仏聖天尊が祀られているとのこと。本堂前からの眺望はすばらしく、高麗郷を一望、遠く東方には埼玉新都心のビル群、南西方に丹沢・奥多摩の山並み富士山も見える眺めのようでした。

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鐘楼は完成したばかりのようでした。希望すれば鐘もつけるようでした。

雪山(石灰岩)は本堂造成時に出現した石灰岩の大塊。釈尊の前世譚「雪山童子」にちなみ名付く。7月には岩肌をはうノウゼンカズラの花が美しいとのことでした。

在日韓民族慰霊塔は終戦前36年間に亡くなった在日韓民族無縁仏の慰霊・供養を願い、尹炳道氏が私財を投じ造成建立。基壇を合わせ高さ16mの石塔は日本最大級、下部に納骨室を備えているようです。塔の周りには朝鮮様式の八角亭、檀君、広開土大王、王仁博士など韓民族の偉人の石像が並び、異国情緒豊かな霊域となっているとのことでした。

聖天院のお宝は鐘楼や不動明王座像等たくさんあるようですが普段は見られないようです。また本堂横の雪山(石灰岩)在日韓民族慰霊碑などもあるとのことでしたがこの二つは見損ないました。境内は自然豊かで春の桜に始まり、つつじ、そして秋の紅葉は見ごたえがありそうです。ということからまた後日機会があれば伺いたいものです。

次は高麗神社(こまじんじゃ)。716年(霊亀2年)武蔵国に1799人の高麗人が入植して未開の原野を開墾。大和朝廷はこの戸を「高麗郡」と名付け高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)を首長としたのです。高麗とはかって朝鮮半島から中国大陸にかけ領有した大陸「高句麗」のことでした。668年に滅びた高句麗からは多くの人々が日本に渡り土着したということからなのです。若光没後、群民はその徳を偲び、御霊を高麗神社として祀ったのです。逆境に立ち向かって道を切り開いた精神を慕って多くの人がこの地を訪れるのです。参拝した6人の政治家が総理大臣に就任したことから出世海運、事業繁栄の神として崇拝されているのです。また御祭神若光の末裔が現在も宮司を務め、60代も続いていることから子孫繁栄のご利益もあるということです。2016年(平成28年)に高麗郡建郡1300年を迎えたということでした。

一ノ鳥居に掛けられている扁額は、熊谷宿の野口雪江筆によるもので、「大宮大明神」と書かれているとのこと。 大宮とは地域の重要な神社に許された称号。 高麗神社は江戸時代まで、高麗郡の大宮として「高麗大宮大明神」・「大宮社」などと称されていたようです。本日は参道の途中から入ったようで見損ないました。

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芳名板には、明治18年以降に参拝された著名な方のお名前がありました。 古くは政治家、文豪などの参拝が多く、近年では俳優、タレントなども多いとのことでした。上の方から太宰治、坂口安吾、上原正吉、モト冬樹などなど有名人のお名前がズラリでした。

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二ノ鳥居に掛けられている扁額「高麗神社」は、第59代高麗家当主・宮司の高麗澄雄筆によるもの。

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御神門の中央に掛けられている扁額には「高句麗神社」とありました。明治33年にここを参拝した朝鮮王朝の貴族 趙重応の筆によるものとのこと。 御祭神の故国 高句麗と後に興った高麗を区別するため、そのまま額にしてあるとのことでした。

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本殿の建立は、3つの時代に分けられます。正面手前の外拝殿は、平成27年の増改築により建てられたとのこと。本殿は、一間社流れ造りで中世、安土・桃山時代の建立と伝えられています。

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高麗家住宅(こまけじゅうたく)は慶長年間(1596〜1614年)頃の建築と伝えられ、御祭神の末裔である高麗氏の旧住居。 茅葺きの入母屋造りで東日本に残る民家の中では古い形を遺しているとのこと。住宅脇には樹齢400年のシダレザクラがあり、例年3月下旬頃に開花し、住宅と桜の風情は素晴らしいとのことでした。

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神楽殿では、年間に様々に行われる祭事や催しなどで、舞や楽器演奏、芸能などが奉納されます。今日は高麗の民族衣装が飾られていました。

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車おはらい処の隣に将軍標(しょうぐんひょう)(チャンスン)がありました。
高麗神社の御祭神 高麗王若光の母国 高句麗が存在した朝鮮半島には、「チャンスン・長丞」と言われる標柱を立てる風習があるようです。 将軍標(しょうぐんひょう)と呼び、日本の道祖神にも似た習俗のようです。朝鮮半島では村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割を荷なっているのです。 大きな花崗岩の将軍標がご参拝の皆様をお迎えするかのように立てられていました。

自販機にあった「くりっかー・くりっぴー」は日高市マスコットキャラクター。
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本日の日高市内ウォーキングで見つけたマンホールのデザインです。
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これは巾着田。そのほかにカワセミのマンホールも見ました。
路面のタイルには日高市の鳥、日高市の花ハギもありました。
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こちらはカワセミ。
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そして本日の埼玉の逸品は栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」。
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そのほかのお菓子は皆、栗が入っていました。日高市は県内随一の栗の産地であり、「高麗川マロン」、「日高ぽロン」といったブランド栗も有名とのことです。また、加工品も充実しており、栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」は大粒の「栗」が入って入りおり、ほくほくとしてとてもおいしかったです。
日高市の特産は栗のほかにはお茶も有名なようでそういえば民俗資料館前でお茶のお接待がありました。。

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JR八高線高麗川駅を通る八高線は八王子〜高崎の路線。
高麗川駅前ロータリーには「日韓交流の塔」がありました。
本日は朝から曇り、午後には思いがけず日差しもあり、24℃で絶好のウォーキング日和でした。喜多見先生、小松TDと参加者9人は和やかに一日を過ごせました。私は4日前のリベンジで再度の参加でしたが大成功でニコニコしながら無事終了。そして久しぶりの2万歩超はほぼ限界でしたが皆さんに付かず離れずのウォーキングができました。感謝!!来月は本庄市のウォーキングを予定していますので日々、怠けないで精進しておきます。では皆様!また来月!
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2022年07月20日

2022.7.13 福井県への3日間の旅 B東尋坊〜一乗谷朝倉氏遺跡

今日は旅行最終日。ここ2日間は食事量が多めだったので今朝のバイキングは抑え目にしました。
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ホテル前に成田山福井別院があったのでお参りしました。
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そばにあったみくに龍翔館は長期休館中とのこと。姿かたちも良いのでまた見学が再開したら伺いたいと思いました。
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三国は九頭竜川の河口にあって日本海に面することから、古代から越前国の玄関口としての役割を担い、物資が集散し人々が往来する港町として大いに栄えました。 その地理的条件や歴史的な背景の中で育まれた三国ならではの独特な文化を紹介し、学術的な研究によって位置づけ、文化遺産を一堂に集めた博物館として建設されたのが、「みくに龍翔館」。 その外観は、白亜の洋館のようで、三国の代表的な建物とのことでした。
三国湊が最も栄えた1879年(明治12年)オランダ人エッセルによってデザインされた木造五階建八角形というユニークな形状の小学校「龍翔小学校」の外観を模して復元し、三国全体を見渡せ白山を遠望し坂井平野を眼下に見下ろす緑ヶ丘の高台に鉄骨鉄筋コンクリート造で完成、1981年(昭和56年)に開館したとのことでした。
三国ホテルを10:00出発、これより東尋坊までかなりの雨降り。ところが東尋坊到着あたりから雨が上がり順調!!

東尋坊は、今から約1,200〜 1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動で、マグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が、日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされているとのことでした。ですから東尋坊は日本海に面した海食崖で、険しい岩壁が続き、最も高い場所で約25mの垂直の崖があるのです。東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、これほどの規模を持つものは世界に3ヶ所だけということで、地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物および名勝になっているのです。昔と違い観光地として、遊歩道や遊覧船、展望用のタワーや商店街などもありました。地名の由来は、乱暴あるいは恋愛関係で恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺(勝山市)の僧の名前によるとのことでした。
東尋坊は子供のころ遠足できた時とはすごく変わっていました。
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お土産東尋坊横丁もとても賑やかでした。
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その後一乗谷へ出発。お昼は一乗谷レストランでこれまた美味しいランチでした。
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こちらは朝倉氏一乗谷朝倉遺跡。四角い囲いは井戸の跡です。
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一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)。すなわち戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなっていました。遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けているようです。一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備され、道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していたようです。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であったようです。
復原町並は約200mに整然と並ぶ街並みで発掘調査で見つかった塀の石垣や建物礎石を忠実に再現をしているようでした。また暮らしぶりもわかるように人形も使っていました。
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一乗谷川の「おやかたばし」を渡ると朝倉館の入り口の唐門でした。
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朝倉義景氏の墓所がありましたのでお詣り。
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そして一段落で休憩所あさくらギャラリーの展示室で昔の街並みなどを見ました。
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そうそう、一乗谷城の御城印もゲットしてこちらの見学は終了しいよいよ帰路です。
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米原手前ではいったん「賤ケ岳SA」で休憩。東京到着が遅いので夕食用のお弁当をゲット。
米原17:33発に乗車。ところが岐阜羽島手前で列車がストップ。大雨の影響で約1時間ストップ。お陰で到着は東京20:48の約1時間遅れで到着。ということで自宅到着は23:30。まずまず無事に帰宅できて感謝!本日も10000歩。帰宅してみれば大雨にも合わなかったこと、食事もおいしくゆったり一人旅が出来たこと、お土産も買って楽しんだことに感謝。
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道中コロナ対策も皆さんが徹底してくださり、無事に皆さんも元気で終了出来たことが一番でした。
また皆様お会いしましょう。お元気で!
posted by yunofumi at 22:04| あちこちウォーク

2022年07月19日

2022.7.13 福井県への3日間の旅 A永平寺〜白山平泉寺

温泉ホテル水月花の朝食では福井名産「厚揚げ焼き」もいただき、曇り空の下でしたが元気に9:30バスで出発。
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永平寺門前の商店街は昔に比べ賑やかでビックリ!
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いよいよ永平寺に到着。
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永平寺(えいへいじ)は、曹洞宗の仏教寺院。神奈川にある總持寺と並ぶ日本の曹洞宗の大本山。山号は吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)。座禅修行などをする多くの修行僧がおられる寺院。修行僧は座禅をはじめ、朝のお勤め(朝課)、食事(行鉢)、掃除などの作務と毎日とても忙しいとのことでした。境内は何処もかしこもこの時期、苔がきれいでした。建物手前には観音様が神々しかったです。
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僧侶の方から見学の概略説明を受けた後まず吉祥閣へ。こちらは天井絵がすばらしいかったです。
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僧堂は修行の根本である伽藍で座禅、食事、就寝する所とのことです。
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承陽殿は道元禅師を奉祀する御真廟がある所。
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瑞雲閣。
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全国からのお位牌が安置されている大祝詞堂殿。
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永平寺の見学を終えた後は料理茶屋「寿楽山」で昼食。
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山の幸と海の幸、それと焼いた鮎がのったご飯。珍しかったでので美味しくいただきました。

バスで走っている途中、天空の城、大野城が見えましたが車窓からは残念ながら見るだけ。写真は撮れませんでした。
その後、白山神社平泉寺に到着。小雨の中散策へ。まずは歴史探遊館「まほろば」で事前にビデオで知識を吸収。
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参道の階段は小幅な石段でまずは70段。次に幅広の石段が約70段。雨でぬれており、ちょっと大変。
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本社・拝殿に到着。
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大楠公墓塔と三之宮のそばまで行きました。
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ということで雨の中の散策は道も石も濡れており一段と気を付けながらの歩行となりかなり大変でした。

こうして16:30すぎに三国ホテル到着。
この日の夕食もたっぷり。特にアワビの踊り食いには、、、、。ビックリ!
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食事後は温泉を楽しみバタン!キュー!本日の10000歩は疲れが残りそうな予感がしました。
posted by yunofumi at 21:07| あちこちウォーク

2022年07月18日

2022.7.13 福井県への3日間の旅 ⓵三方五湖は霧の中

今日より3日間はツーリズムのゆったり旅に参加。TD志賀さんのもとに12名が参加。東京駅8:57こだま711号で出発。何年振りかの「こだま」、米原に12:10到着、ちょっと長い時間がかかりました。
米原駅はすぐそばの米原市役所共々きれいでそれなりに少し賑やかになったいました。
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その後、志賀中央観光バスに1人2席でゆったり乗車。バスが走り出せば山と田んぼには眩しいくらいの緑がいっぱい!旅行気分がいっぱい!
北陸自動車道から若狭三方ICを抜けてレインボーラインを通り一路、三方五湖を見るべくまずはレインボーライン第一駐車場へ。リフトとケーブルがあり楽しみでしたがこの頃より霧が出て標高400mの梅丈岳の山頂公園からの三方五湖は霧の中、真っ白な世界で下界の三方五湖はうっすらとしか見えませんでした。
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本当は山頂公園からは、名勝三方五湖や若狭湾が360度一望できるはず。周囲は天空の足湯のほか、大きなソファーテラスや2階展望台など、5つのテラスで雄大な景色が楽しめるとのこと。しかたなくカフェで珈琲をいただきました。ちょっと脇を見ると晴雨兼用の「レインボー傘」の無料貸し出しや春・秋には約110種600株のバラ園もあるとの案内があり、時期ではなくて残念。
頂上には和合神社がありました。
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そして福井の星、五木ひろしさんの「五木の園」、楽曲「ふるさと」が流れるようになっていました。
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ケーブルカーで下山。少しガスが薄れてきました。
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記念で大名たぬき「角兵エ」と記念撮影。
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ちなみに三方五湖(みかたごこ)とは、5つの湖の総称で、若狭湾国定公園の一部。
三方五湖は五つの湖で構成されており、五つの湖はすべてつながっているとのこと。
⓵三方湖(みかたこ)A水月湖(すいげつこ)B菅湖(すがこ)C久々子湖(くぐしこ)D日向湖(ひるがこ)
各湖は晴天の下でははっきり水の色の違いが判るとのことです。
15:00と早めにA水月湖に隣接した若狭きらら温泉ホテル水月花に到着。
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そしてゆったりまったりと過ごし、温泉と夕食をいただきました。さすがに海の幸が多かったです。
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こうして1日目を終了。本日の歩程は6500歩。ほとんど雨にも合わず、まずは優雅な一日目でした。
また明日も天気になあれ!!
posted by yunofumi at 20:59| ドタバタ日記

2022年07月12日

2022.7.9 東京で世界の食卓めぐり「スペイン料理」

また暑さが戻ってきた感じの今朝、埼玉から清澄白河までは池袋と大手町で2回乗り換え、約1時間10分で到着。乗り慣れてない半蔵門線ではキョロキョロするばかり。でも日本の乗り物はすごいですね。駅案内や乗り換えなどいまさらのように実感。
さて本日は藤原先生・TD松田さんの付き添いで18名が参加。行程のしおりでは歩程5km。とにかく暑さにめげず最後までがんばります。

東京メトロ清澄白河駅⇒清澄3丁目⇒本誓寺⇒清澄庭園⇒清澄公園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒深川江戸資料館⇒紀伊国屋文左衛門墓所⇒深川ふれあいセンター・曲亭馬琴誕生の地⇒海辺橋⇒採茶庵⇒深川2丁目⇒心行寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒富岡橋⇒赤札堂⇒門前仲町駅⇒辰巳新道⇒深川公園⇒大栄山・永代寺⇒成田山深川不動堂⇒富岡八幡宮⇒牡丹2丁目信号⇒関口橋⇒古石堀川親水公園・雀橋・牡丹園⇒古石場一丁目⇒妙栄稲荷第善神⇒越中島2丁目⇒東京海洋大学⇒明治天皇聖蹟の碑⇒築地本願寺佃分院⇒月島スぺインクラブ⇒東京メトロ月島駅

東京メトロ清澄白河駅(きよすみしらかわえき)は、都営地下鉄の大江戸線と、東京メトロの半蔵門線が乗り入れ、接続駅となっている所で、改札口がわかりにくいかしらとちょっと心配でしたが清澄通り改札口にとにかく無事に10:00前に到着できました。

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浄土宗寺院の本誓寺(ほんせいじ)は当智山重願院というようです。小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より1595年(文禄4年)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったということです。1606年(慶長11年)馬喰町上町へ、1682年(天和2年)この地(深川大工町)に移転、1699年(元禄12年)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったようです。1873年(明治6年)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったのです。
本堂前に石造迦楼羅立像(せきぞうかるろうりゅうぞう)がありました。
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迦楼羅は「インド神話の神鳥ガルーダ」に由来する「鳥頭人身に翼を持った異形の神」で、八部衆、あるいは千手観音の眷属である二十八部衆の一員とのこと。奈良・興福寺の迦楼羅像(脱活乾漆造)や京都・蓮華王院 三十三間堂の迦楼羅像(寄木造)が有名ですが、石造というのはとても珍しいとのことでした。そしてこの「石造迦楼羅立像」は、朝鮮・高麗時代の作と推定されているようです。像の石質は花崗岩で、丸彫りに近い浮彫りです。くちばしがあり、背には翼もありました。今まさに笛を吹こうとする一瞬の姿を切り取った造型で笛の音が聞こえてきそうでした。

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清澄庭園は、江戸時代に大名の下屋敷だった一帯を三菱の創始者・岩崎彌太郎が取得し造園、1891年(明治24年)に社員の慰安や貴賓を招待するための「深川親睦園」として開園したのです。1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲では避難場所となるなど地域の歴史に深く関わり、現在も緑豊かな下町のオアシスとして親しまれている「回遊式林泉庭園」で、野鳥が遊ぶ「大泉水」の周りには、全国から取り寄せた名石や築山が配されているのです。
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これは富士山を模していました。

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藤原先生がおすきだという保津川石の水鉢です。

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佐渡赤玉石はきれいな石でした。

清澄公園は、1977年(昭和52年)にできた開放されている公園。三菱財閥の創業家・岩崎家から深川親睦園、今の清澄庭園の西側半分を東京都が買い取り、整備後に開園した近隣住民の憩いの場となっている公園で庭園のすぐ横にありました。

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霊厳寺(れいがんじ)は、白河一丁目にある浄土宗の寺院。山号は道本山。院号は東海院。ご本尊は阿弥陀如来とのことです。もともとは1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったとのことです。
1657年(明暦3年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったのです。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転したのです。こちらには11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓がありました。
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江戸六地蔵の第5番が安置されていました。
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ちょっと残念なことは深川江戸資料館は7月末まで改修工事のため休館でした。

江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門墓所。
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紀州出身の紀伊国屋文左衛門(紀文)は、若くして江戸に出て材木業を営み、幕府と関わることで豪商となりました。後年は、富岡八幡宮一の鳥居付近(門前仲町1)に住み、1734年(享保19年)4月に66歳で没したといわれ、成等院に葬られました。墓は左隅にあり、正面の碑は、昭和33年(1958)に建てられたということです。

深川ふれあいセンター前に「曲亭馬琴誕生の地」の碑がありました。これは『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴誕生の地ということです。
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『南総里見八犬伝』で有名な馬琴は、1767年(明和4年 )6月9日、深川浄心寺門前の松平信成邸内で生まれ、成人したのちは山東京伝に師事し、『椿説弓張月』をはじめ1,400余の著書を残したようです。1848年(嘉永元年)11月に82歳で死去し、文京区茗荷谷の深光寺に葬られているとのことでした。
記念碑として著書がモニュメントとしてありました。

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採荼庵(さいとあん)は、江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋(こいや)、俳号を採荼庵、五雲亭(ごうんてい)などとし、隠居したのちは一元(いちげん)と名乗りました。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町1丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、『常盤屋句合』(ときわやくあわせ)『角田川紀行』(すみだがわきこう)などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても有名だそうです。
採荼庵があった場所については、杉風の娘婿である隨夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれているとのこと。平野町は、海辺橋南詰から万年町(まんねんちょう)2丁目(深川1-8)をはさんだ一画で現在の説明板が建っている海辺橋のたもとより140mほど南西に位置します。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採荼庵で過ごし、門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていったのです。

法乗院・深川えんま堂の平成元年に建立の閻魔大王座像は、寄木造で、高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tという巨大な閻魔様。名実ともに日本一の閻魔大王像になっています。
しかも、この閻魔大王像、コンピューターで制御。大王像の前に、「家内安全」、「交通安全」、「夫婦円満」、「合格祈願」、「ぼけ封じ」、「いじめ除け」など19のご祈願が別個に記された、賽銭の投入口が用意され、自らの希望するご祈願に賽銭を入れると、仏様の様々な説法が音声で流れるシステムでした。
閻魔大王の「除けと封じ」の力を生かしたものとかで、こちらも日本初のユニークな機能となっています。
本堂1階には、全16枚からなる『地獄・極楽図』が展示されています。

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高野山真言宗寺院の永代寺は、大栄山金剛神院と号します。永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺、江戸六地蔵の一つとして栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。現在の永代寺は、明治29年に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたといいます。御府内八十八ヶ所霊場68番札所です。

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成田山深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。古くより「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まり。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身とのことです。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念しているのです。

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富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。通称を「深川八幡宮」ともいう。
江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。
また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

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古石堀川親水公園は門前仲町駅」から石島橋を渡って徒歩5分の場所にある公園です。「牡丹町公園」と隣接して整備されています。「水辺の香り」をテーマにしている公園内には水路が流れ、夏場にはじゃぶじゃぶ池で水遊びも楽しめます。水路にはあさりやザリガニなども生息し、水辺の生き物を観察することもできます。バラ園や紫陽花なども美しく、季節の花々の鑑賞をしながらお散歩してみるのもおすすめです。

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妙栄稲荷第善神は門前仲町駅から徒歩5分程度、江東区古石場1丁目の清澄通り近くに鎮座している稲荷神社です。江戸時代の寛永年間に松平越中守の屋敷内に安置されていて、関東大震災後の区画整理で現在の場所に遷座したそうです。わかりづらい場所にありますが、近くを通った際に参拝してみてはいかがでしょうか! 

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東京海洋大学は平成15年10月1日、東京商船大学と東京水産大学を統合して設置された大学。平成16年4月1日からは国立大学法人東京海洋大学として、「競争的環境下での個性輝く大学」を目指して教育・研究・社会連携を一層進めながら変革に取り組んでいるとのことです。

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第一観測台と第二観測台は1903(明治36)年に建設された貴重な明治期の天文台建築。第一観測台は現存する日本最古のドーム屋根形状の天体観測室である(観象台、天文台、観測所、また第一観測台は赤道儀室、第二観測台は経緯儀室、子午儀室とも呼ばれた)

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明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航されたそうです。
一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍したのです。なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。また、 明治9年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年に国民の祝日「海の日」となりました。現在の姿は平成25年12月より修復され平成27年3月に竣工したものです。

そばに明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)がありました。これは明治天皇が行幸で訪れた場所や建物。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定されたとのこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年に指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのことです。

築地本願寺は、浄土真宗のみ教えを伝え広める活動拠点として、東京に5つの分院があるようです。築地本願寺の墓所である和田堀廟所、関東大震災被災者追悼の場として開設された慈光院、都市開教の願いのもと開設された東久留米会館とあきる野本願寺、2020年4月新たに佃島分院です。本日傍を通った時はまだ外の整備をしていました。

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月島スぺインクラブは艶やかさを纏った老舗スペイン料理店。本場さながらの情熱を体感できるように重厚な扉を開けると、天井高の巨大なスペイン空間がありました。エントランス前の1階中央は大理石の大型カウンター席、それを挟んで左右にフロア席、2階はスペインの美術品もみられるようでした。
まずは前菜です。
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次はお魚料理。
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次はお肉料理。
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最後はデザート。
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久しぶりのコース料理でした。おいしくてすっかりフアンになりました。また来たいです。

こうしてウォーキングを午前にし、その後昼食をのんびりいただき、午後3時に解散。
滅多に味わえないスペイン料理は案外口あたりがよく、十分満足しました。
クラブツーリズムのシリーズものにしては異色ですのでまた案内を見つけて参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 14:58| あちこちウォーク

2022年07月11日

2022022.7.6 誕生日を祝いました

6月末にいつもの如く誕生日が来てしまいました。78歳とはびっくりですけど。
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今年はまだコロナ禍ではありますが、さすがに昨年はできなかったお祝いを友人としました。
そう、いつもの10歳違いの同日の誕生日ですから、いつものパターンなのです。
会えば近況報告をし、友情を温め、美味しいものをいただき、何ということもなくおしゃべり三昧です。
でも体調も大きく変わらず、家庭環境や職場環境もさほど変化なく、この年にもなりますと”アリガタイ!”と感謝、感謝なのです。
今年もおしゃべりのメインは健康保持の体操や食品のこと。お互いにいつまでも元気でいたい!の願望です。
ではまたお会いしましょうと解散!!すべてに感謝で終了です。
posted by yunofumi at 13:43| ドタバタ日記

2022年06月27日

2022.6.19 さいたま新発見 ぶらり街あるき 幸手市

幸手のはじまりはアイヌ語の乾いているの語源「さッテク」、倭建命(やまとたけるのみこと)が訪れた「薩天ヶ島」からなどがあるようです。古くは下総の国に属し、のちに大半が武蔵野国に編入され「田宮町」や「薩手」(幸手)といわれたのです。幸手宿は日光道が整備される前から利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道での人の往来が盛んで交通の要衝だったとのことです。特に中世では古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所だったのです。江戸時代になると日光街道が整備され、1616年(元和2年)に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿に発展。幸手宿は日光道だけではなく、将軍家の日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったのです。

東武日光線幸手駅⇒南3丁目⇒たいらや⇒石井酒造⇒幸手南住宅⇒上高野神社⇒東武丸山病院⇒幸手さくら団地⇒志手橋⇒神明神社⇒明治天皇行幸在所⇒幸手駅入口信号⇒ペットショップカトウ⇒担景寺⇒永文商店⇒割烹蒲焼義語家⇒本陣知久家跡⇒中央商店街ポケットパーク⇒山崎歯科クリニック⇒そば処大村庵⇒幸手小学校⇒関薬局⇒文具雲寿堂⇒日光御回り道⇒成田呉服店⇒荒宿信号⇒幸手基督教会⇒聖福寺⇒正福寺⇒幸手蔵賑窮餓之碑⇒石太菓子店⇒蓮沼⇒北2丁目陸橋⇒北側用水路⇒権現堂堤修復絵馬⇒熊野権現社⇒権現堂公園⇒八幡神社⇒北側用水路⇒幸手桜高校・橘守部翁遺跡碑⇒寶持寺⇒幸手中学校⇒田宮の雷電神社⇒妙観寺⇒幸宮神社⇒ときわや⇒幸手観音・講福寺⇒天神神社⇒グリーン歯科医院⇒東武日光線幸手駅

東武日光線幸手駅は1929年(昭和4年)4月に 東武日光線杉戸駅 - 新鹿沼駅間の開業と同時に開設された駅。2019年3月に 橋上駅舎と東西自由通路、西口駅前広場などが完成したとのことでとても新しくてきれいな駅でした。

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石井酒造梶B創業1840年(天保11年)。170年の歴史を誇る幸手の地酒 「 初緑 」や「豊明」が有名とのことです。

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上高野神社(かみたかのじんじゃ)は八坂神社を中心に合祀されたかつての上高野村の村社の一つ。もともと1909年(明治42年)10月の合祀では八坂神社の他、稲荷神社(4社)、神明社、胡録社、香取社、日枝社、愛宕社、羽黒社が集められたようです。1600年(慶長5年)創建の八坂神社の「天王様の祭り」では神輿が出るのです。境内社として天満宮、浅間社、第六天社が祀られていると伺いました。珍しいコンクリートの滑り台がありました。

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志手橋は県道65号 岩槻幸手線が、国道4号線の旧道へ合流する地点に架かる橋で昔から交通の要衝。歴史的には日光御成道と日光街道の追分に架かる橋なのでいわば日光街道の幸手宿(江戸から6番目の宿場)への入口とのこと。人の往来も多く、高札場も設けられていたようです。今はコンクリートですが元は木製、長さ30.6m、幅5.4mと大きな橋だったのです。よく見ると親柱の側面と下部には、レリーフ状の突起、親柱と欄干が57cm角で高さは2.2mだそうです。

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神明神社は1755年(宝暦5年)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社で、1873年(明治6年)4月より旧幸手町の村社の一つとなっていたようです。
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境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されているとのこと。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされているようです。
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拝殿前の狛犬は珍しいことに子犬ではなく牡丹の花を持っていました。
台座の銘は「大正十一年戌三月十七日 太々御神楽奏行 幸手太々講」とあり、伊勢参りをした五人の名が刻まれているのです。当時は盛んだった伊勢参りと田螺不動尊、信仰の形態も時代や医術の進歩と共に変わり、そのことを伝えるのは狛犬や石碑のみになってしまったようです。

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明治天皇行幸在所は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物のこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそぐわない」とみなされ1948年聖蹟の指定を一斉に解除されたようですが少しは聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合もあり、これもその一つのようです。

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永文商店は、明治36年に埼玉県幸手市で創業。以来100年以上にわたって食一筋に流通業を営んでおり、流通業の役割は、お客様が必要な物を、必要な時に、必要な量だけ提供することにあるので、プロの視点で商品を厳選する目利き力が、最も大切なことだということで、確かな原材料を使って、確かな製造方法で作った、品質の高いものばかりで商いをしているとうかがいました。
永文商店の壁面に芭蕉の旅姿がありました。お供は確か曽良ですね。
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本日はお休みだったお店の横にトロッコのレールが見えました。こちらのお店の「トロッコ」は、全長約40mのレールの上を、約1トンの商品を楽々と運搬するとのことです。戦前・戦中・戦後の激動の時代を乗り切って、今も現役で働いているようです。
何しろ街道沿いの商家は昔から、間口が狭く奥行が長い「ウナギの寝床型」が一般的。江戸時代から日光街道の宿場町である幸手の「永文商店」は、そのような店の一つだったのです。道に面して、一番手前が店舗、その次が住居、一番奥が倉庫という作りなので、商品の入出荷の運搬に活躍してきたのが「トロッコ」ということでした。

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割烹蒲焼義語家そばに本陣知久家跡の説明がありました。知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手でも最も重要な役割を果たした家柄だったようです。 明治3年に本陣が廃止されるまで代々幸手宿の繁栄に尽くしたのです。 明治6年に知久家の書院で小学校が開設され明治天皇が東北巡行の折には宿泊されたとも伺いました。

そば処大村庵紀の川で松花堂弁当の昼食をいただきました。
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日光御廻道とは、徳川将軍の日光社参の時、水害の難を避けるために幸手宿と栗橋宿までの迂回路を整備したもの。幸手・栗橋間の日光道中は2里3町(約8.2q)、しかしこの御廻道は3里(約11.8q)だったのです。道が整備されたとされる江戸後期は、将軍の日光社参はほとんど行われなくなったこともあり、実際に将軍が通行したことは一度もなかったようです。 

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聖福寺(しょうふくじ)は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)と称する浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作ということでした。徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩したようです。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
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勅使門の前に「御殿所勅使門」の石碑があり、菊のご紋の入った扉が付いていました。
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往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうですが、今は開いていました

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芭蕉と曽良の句碑がありました。
幸手を行ば栗橋の関(芭蕉)
松風をはさみ揃ゆる寺の門(曽良)

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正福寺(しょうふくじ)は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。こちらは、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、昔は四十九ヶ寺の末寺を持っていたようです。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っているのです。また、樹齢450年、根回り5mもある槙の大木が以前はあったようです。今は若木のみでした。
そして門前には巨大な石灯篭がありましたがいわれなどはわかりませんでした。
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幸手義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)は正福寺(しょうふくじ)の境内にありました。これは高さ173cm 横88cm 厚56cm 碑文面 「表 縦120.5cm 横76.5cm 裏 縦92.0cm 横77.0cm」。天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生し、翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てたのです。

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石太菓子店(いしたかしてん)は、江戸時代(文久年間)初代 中村石太郎により創業。以来伝統の味を守りつつ、幸手らしさにこだわった商品を提供しているのです。こちらで本日の埼玉の逸品「あじさい饅頭」をいただきました。とても穏やかな甘さで美味でした。

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北側用水路は埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)ともいわれているようです。埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑しているのです。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となるのです。

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熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもありもとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったようです。この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されているとのことです。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いているのです。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっているとのことです。また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものでもあるようです。 

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県営権現堂公園は、桜の名所として親しまれている幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して埼玉県が整備を進めているのです。 この公園は4つのゾーンで構成されており、そのうち多目的運動広場の1号公園と、歴史と文化と緑の3号公園、幸手権現堂桜堤の4号公園の3つのゾーンがあるとのことでした。
幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲くようで今は緑の森でした。また下方には曼殊沙華も季節になるとキレイとのことです。本日はJAのお店前から峠の茶屋を通りアジサイを色々見ました。アジサイ(紫陽花)は花の色は色々でしたが実は種類も多いそうです。白いのはアナベルでとてもきれい、そして紫などのガクアジサイも見られとても楽しかったです。
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内国府間八幡神社は、幸手市内中心部から権現堂堤の方に向かう途中。街はずれのような場所にある神社で、なにげなく寄ってみると鳥居から境内は余裕があるし、社殿とか意外に立派。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益もあるそうです。

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橘守部翁遺跡碑(たちばなもりおおういせきひ)。
守部は、天明元年(1781年)伊勢国小向村(三重県朝日町)に生まれ、17歳で江戸へ出て、国学研究を志し29歳の時に、内国府間村(現在の北二丁目)に転居。1829年(文政12年)に江戸へ戻るまでの20年間を幸手で過ごしました。 守部は、当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め、「天保の国学四大人」の1人に数えられるほど古典研究の著作を残しています。 守部の住居跡(県立幸手桜高校内)に「橘守部翁遺蹟碑」があります。また、幸手中学校・西中学校、幸手桜高の校章には「たちばな」が用いられ、守部の偉業を称えているのです。

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田宮の雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったとのことですが、明治維新後の1873年(明治6年)4月以後は村社に指定されているとのこと。本殿は1844年(天保15年)11月に上棟の再建が行われており、また1856年(安政3年)6月にも再建が行われているようです。雷電神社の由緒としては、「第11代垂仁天皇の10年のある日に天地が振動雷鳴し、水田中に身の丈7寸余りの黄金の御神像が天から降り、村民のだれもが驚いた。村民は一社を建立したが、当時周囲には水田が広がるのみで民家はなく、わずかに当神社が建つのみでした。ゆえに「水田の中にある社宮」ということから、世の人々はこの地一帯を「田宮」と呼んだ」というものだそうです。また、雷神は水との関わりが深いため、特に農民からの信仰を集めたのです。社殿の裏手に「瘤神社」・「疣権現」・「疱瘡宮」と彫られた石があるようで、皮膚病の人々の信仰が伝わっているようです。
このような狛犬は珍しかったです。
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幸宮神社は幸手市総鎮守。 創祀は不明。日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守として広く崇敬されたようです。 本殿は全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されており、信仰の深さがうかがわれるとのことでしたが本日はみられませんでした。 祭神は誉田別尊、経津主神、菅原道真公(ほんだわけのみこと、ふつぬしのかみ、すがわらみちざねこう、)神徳は文武両道、商売繁盛、除災招福などとのことでした。
彫り物が立派な本殿でした。
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割烹ときわやには日光社参の折に八代将軍徳川吉宗が、聖福寺で食べた昼食の献立を再現した「吉宗弁当」が提供されているとのことです。内容は「焼き豆腐・ヤマトイモ・レンコン煮しめ」など、かなりヘルシーなようです。また事前予約が必要のようですがちょっと食したいものです。

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天神神社はかつて裏町天神とも称されていたとのこと。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがあるようです。境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)が目につきました。

こうして午後は権現堂公園から何やかやと見分しながら約1時間30分で東武日光線幸手駅に到着。喜多見先生、佐藤TDの導きも良く24名は最後の紫陽花見物で大いに満足した1日となりました。日中は30℃、晴れとはいえ雲も時々かかり直射日光を遮ってくれたのは幸いでした。おかげで自宅につくと22000歩は大満足の歩程。さいたまウォークは本日で29回目、まだまだ続きますので今後も頑張ります。
posted by yunofumi at 14:08| あちこちウォーク

2022年06月12日

2022.6.5 さいたま新発見 ぶらり街あるき 越谷市

埼玉県内で最大の宿場だった越ケ谷宿。元荒川を挟んで南側が昔は越ケ谷町、北側は大沢町といったようです。ここは徳川家康がたびたび鷹狩で訪れた所でもあるようです。今は昔にも負けず大きな市になっており、人口約34万人、世帯数15万は県内でも有数の大きさ。ということでほぼ平坦な土地柄のようなので楽しみながらウォーキングできそうな予感がしていました。

東武スカイツリーライン北越谷駅⇒大沢香取神社⇒元荒川大沢橋⇒鍛冶倉⇒はかり屋⇒越谷本町⇒元荒川橋⇒越ヶ谷御殿跡⇒越谷元年板碑⇒御殿町自治会館⇒越谷アリタキ植物園⇒久伊豆神社⇒そば処久伊豆⇒東越谷4丁目信号⇒こしがや能楽堂⇒花田苑⇒越谷市立病院⇒大聖寺⇒虹だんご⇒元荒川土手⇒瓦曽根溜井⇒しらこばと橋⇒葛西用水⇒越谷市役所⇒がーやちゃん蔵屋敷⇒JR越谷駅

東武スカイツリーライン北越谷駅は東武鉄道の開通当初から設けられた駅の一つ。宿場町である南埼玉郡越ヶ谷町の最寄駅として、開業当初は越ヶ谷駅と名付けられたのです。1919年に、ここより南方に越ヶ谷駅(現在の越谷駅)の開業を迎えることを受けて名前を譲り、所在する町名(南埼玉郡大沢町)に従って武州大沢駅に改称、さらに、1954年に越ヶ谷町・大沢町などが合併し越谷町が発足した後、1956年に北越谷駅に改称されたのです。
開業時の駅舎は貴賓室があり、皇族が埼玉鴨場へ来場される時に利用されていたとのことです。その後、1962年に帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線との直通運転が開始されることを機に、この駅は東武鉄道初の橋上駅となり、西口が開設されました。連続立体交差事業により1999年には高架駅となり、2001年、当駅から越谷駅までが複々線化されたとのことでした。

大沢香取神社。
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香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社としています。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っているようです。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓され、元は低湿地だった土地である。
ちなみに香取神社は主に利根川・江戸川沿いを中心に分布。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布ということでした。
大沢香取神社の創建は永年間(1394〜1428年)とのこと。五穀豊穣や日常生活をお護りする神様として土地の方々から深い信仰を得ています。
大沢香取神社の本殿には彫物師浅草山谷町長谷川竹良の手による高砂の翁、大黒天、龍などが見られました
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旧日光街道越ケ谷宿の街並みは江戸時代に整備された宿場で江戸日本橋から数えて3つ目の宿場。
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街道沿いに「はかり屋」というお店が昔のままで営業していました。私たちはまだウォーキングを開始したばかりでしたが蒸し暑いので昔の味がしたアイスキャンディをいただきました。

越ヶ谷御殿跡。
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越ヶ谷御殿は徳川家康によって1604年(慶長9年)に設けられた御殿。御殿の建物に関する詳細は不明とのことですが広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されているとのことです。ここはもとは越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所だったのを、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれているのです。家康・秀忠などがしばしば訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残っているとのことです。
その後、越ヶ谷御殿は1657年(明暦3年)の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移され、その跡地は畑地として開発され、現在に至っているのです。

越谷元年板碑。
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建長元年の板碑は元荒川右岸の御殿町地内にありました。今から750年以上前の鎌倉時代の中頃、1249年(建長元年)の銘が刻まれています。市内最古で最大の板碑で、高さ155cm、幅56 cm。材質は平板に割れやすい緑泥片岩で、山形の頂部に二段の切り込み(二条線)があり、中心には阿弥陀尊をあらわす大きな梵字(キリーク)が刻まれていました。

越谷アリタキ植物園。
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越谷アリタキ植物園は、市に寄贈された故有瀧龍雄氏の植物園を整備し、新たに市の植物園として開園したものです。面積:約9000u、園内には市の天然記念物に指定されている北米原産の「ラクウショウ」をはじめ、幹周り4m以上もある巨樹「シナサワグルミ」や多種の「ツバキ」など、暖温帯性の樹木を中心に約320種、約1000本の樹木が植えられているとのことです。その他、希少な草花や野鳥、昆虫も観察することもできるということです。今日は立ち寄れませんがいつかまた来てみたいものです。

祖霊社。
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久伊豆神社の入り口にありました。ここには長年久伊豆神社を崇敬された、医師矢野太刀也氏の御霊を矢野太刀也大人命として祖霊社に合祀されているとのことです。

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久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)が主祭神。また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱が奉斎されています。創建の年代は不詳。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝っています。この神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされています。

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久伊豆神社の手水舎は1675年(延宝三年)に建てられたと伝えられるもので天井の龍の絵がすごかったです。

力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石。 三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物です。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されています。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

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家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、拝殿前の狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれているようです。

本堂裏には力石がぽつんとありました。
そういえば「越谷七不思議」のひとつということです。
ちなみにこの七不思議は@ぎょうだい様(蒲生茶屋通り)A白山神社の原貞掛け石塔(増林)B大祖模不動尊の亀碑(相模町)C稲荷神社「菅原荘」の石碑(新川町)D久伊豆神社本殿後ろの力石(越ケ谷)E会田金物店の壁画(越ケ谷本町)F聖徳寺と光明院の塩地蔵(北川崎)とわかりましたのでまた見に伺いたいものです。

そば処久伊豆。
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こしがや鴨ねぎ鍋が売りのお店でした。
鴨の脂がすごかったです。

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越谷市日本文化伝承の館 こしがや能楽堂目的は伝統芸術文化の振興と市民文化の向上のために建てられたとのことです。埼玉県内唯一の野外の能楽堂は総檜造り。建築面積は約1187u、能舞台には舞台が5.9m四方のほか、地謡座・後座・橋懸り、鏡の間・溜の間がありました。敷地内には能舞台のほか中庭、和室、大広間、応接室等がありました。能楽はもちろん日本舞踊や詩吟、茶道といった伝統芸術の拠点にもなっておりまた一般向けのイベント開催もあるとのことでした。
展示で能の面や衣装がありました。
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花田苑。
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こしがや能楽堂に隣接している廻遊式池泉式庭園。正門は市内の宇田家長屋門が復元されたもの。敷地内には茶室もありました。かつては畑地であったのが、区画整理事業と連動して計画が持ち上がり、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度にかけて整備されたようです。14,000本の樹木が植えられています。
長屋門です。
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アジサイなど色とりどりで花が咲いていました。
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大相模不動尊眞大山大聖寺は真言宗豊山派の寺で、本尊は不動明王。天平勝宝2年(750)に良弁僧正が開基した越谷最古の寺院。山門の「真大山」の額は老中松平定信の筆とされています。なお、「山門」や「北条氏繁掟書」、「徳川家康の夜具」、「タブノキ」は市指定文化財になっています。
今風のぴんころ地蔵がありました。
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素朴な「虹だんご」があり、お土産にゲットしました。

元荒川土手にでるとアジサイが見ごろでした。
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瓦曽根溜井(かわらそねいためい)。
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1600年頃に瓦曽根堰が元荒川に設置され溜井ができ、農業用水のための溜井として江戸期から利用されていたようです。西部の一部が埋め立てられ、越谷市役所などが建設されたようです(主に越ヶ谷4丁目にあたる部分)。葛西用水、谷古田用水、八条用水が分水しており、岸沿いに葛西親水緑道が整備され、花菖蒲やアジサイが植えられているのです。
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斜張橋は、しらこばと橋(平成6年竣工、長さ145m、 八潮越谷線)。橋名は越谷市の市の鳥である、しらこばとに 由来する。橋のデザインは、しらこばとが羽を広げた姿を イメージしてあるのだという。

花菖蒲がとてもきれいでした。
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「ガーヤちゃんの蔵屋敷」は、こしがやを「案内する」「食する」「持ち帰る」「体験する」をコンセプトとした、越谷の魅力を発信する観光物産拠点施設。越谷市だけではなく、近隣市町や阿波踊りで交流のある徳島市、日光街道の連携都市などの人気商品を販売し、広域的な観光PRを行います
店内では色々目移りしそうでしたが珍しい「苺カレー」もゲットしました。
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ということでお土産は大聖寺の境内にあった虹だんごの「焼き団子」。これは素朴で美味しかったです。また本日の逸品の「がーやちゃん煎餅」と「苺カレー」は今からいただくのが楽しみです。
今日はいつものように喜多見先生の先導、TDは池谷さん、参加者22名は楽しく参加。
越ケ谷の土地が元荒川や用水をふんだんに縦断しておりなるほど水郷の街でした。また今日は伺わなかった大林地区にある埼玉鴨場では,野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されているとのことでした。以前日光街道ウォークで前を通りましたので今もイメージが残っています。
posted by yunofumi at 11:11| あちこちウォーク