2019年04月28日

2019.4.20 2巡目第1回 東京の新発見旅「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒仲通り商店街⇒クロダ薬局⇒杉並区薬剤師会⇒長屋門⇒西郊旅館⇒東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻外荘・荻外荘公園⇒角川庭園・幻戯山房・杉並詩歌館⇒CHALEUREUX OGIKUBO⇒共立女子学園研修センター⇒都立杉並高校⇒成宗五色弁財天⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒相生橋⇒杉二小前広場⇒尾崎橋⇒成宗白山神社⇒和田堀公園⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒鶏の焼肉珠杏(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社・大宮稲荷神社⇒大宮八幡神社参道⇒馬塔観音⇒杉並区郷土博物館⇒源義家公鞍掛けの松⇒大圓寺⇒京王井の頭線永福町駅

4月13日に完歩した東京23区めぐりですが再度、参加して2巡目に挑むことにしました。理由は各区が広くまだ一部しか見ていないと思っているからです。多分同じ場所も伺うでしょうが年月が経ちまた違うことを感じ取れるかもしれないからです。
ということで本日は2巡目の第1回なのです。

10:00 JR荻窪駅東改札集合。参加者22名。案内人は信野先生、TDは伊谷さん。空は晴れ上がり昼頃には微風ながら19℃と絶好のコンディションの中のウォーキングでした。

長屋門は宮前5丁目、井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈されたようです。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804〜1829)頃。中央を通路、右手は土間の納屋、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納したようです。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式は高かったようです。
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西郊旅館(西郊ロッヂング、せいこうロッヂング)。
1938年(昭和13年)建築の洋風建築。、2001年(平成13年)の改修後は賃貸住宅となっているとのことです。また、西郊ロッヂングは当初は本館のみ、後に新館が増築された。現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業している。
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東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫。
かつら文庫は、地域の子どもたちが、くつろいで自由に本が読めるようにと願い、作家、翻訳家、編集者として活躍さした故石井桃子さん(1907〜2008)により1958年に開館。その後改修工事を行い、2014年4月より、おとなも利用いただける施設となったのです。石井桃子さんの書斎のほか、故渡辺茂男さんの蔵書を見られる公開書庫、エドワード・アーディゾーニ資料を収めた展示室、全国の子どもの読書推進グループの活動を紹介する「マップのへや」があります。
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大田黒公園は大田黒元雄さんの屋敷跡です。ご本人が亡くなられた後、一部を区立公園に整備して昭和56年開園とのこと。檜の門は総檜、切妻づくりで、屋根は棧瓦ぶき。左右に築地塀のあるどっしりした構えでした。
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門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびており、長さは70m。左右には樹齢100年を経た大イチョウの並木でした。
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園内には東屋・池・茶室や記念館がありゆっくり桜やつつじを楽しみました。
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荻外荘(てきがいそう)・荻外荘公園。
荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至るまでの期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。荻外荘の建物傍には行けなくて金網越しに見ました。
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庭園を含めて公園になっておりました。
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角川庭園・幻戯山房(杉並詩歌館)。
俳人で、角川書店創設者の角川源義(かどかわげんよし)の邸宅が区へ寄贈されその後改修し、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として区民に利用されているとのことです。庭は日本庭園でウメやサツキ、サルスベリなど四季折々の草木や花が楽しめるようです。
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幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は加倉井昭夫氏が設計した、近代数奇屋造りの建物。源義氏にちなんだ展示室と、句会などを催せる詩歌室や茶室の貸室として活用されているとのことです。

成宗五色弁財天。
昔、この辺りは成宗村といい、水神様のご加護を願って湧水池(弁天池)の傍に建立されたのです。ご神体は鎌倉時代に江の島弁財天で焚いた護摩の灰で作った素焼きの曼荼羅像とのこと。ここは水信仰の中心地で雨乞いのためにここにお参り後、弁天池の水を持ち帰ったそうです。鳥居前の石橋と水路は天保用水の名残でそばに板型の用水路記念碑がありました。
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成宗須賀神社は旧成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊(すさのうのみこと)。社名は祭神が素盞嗚尊なので出雲の須賀社にちなんだようです。社殿は941年(天慶4年創建。その後1599年(慶長4年)再建と伝わっているが安政年間に記録を焼失し詳かではないようです。
江戸時代にはここは牛頭天王社と呼ばれていたようです。これは素盞嗚尊が牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えからと伺いました。明治維新後には成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和33年に社殿を新築し現在のようになったようです。
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成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守で、祭神は伊弉册命。『新編武蔵風土記稿』で地名の「白幡」について「往古人王七十代後冷泉院(在位1045〜1068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請し、その時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えているとのことです。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。この辺りは地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史があるので氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地であったのを戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園。現在では武蔵野の自然が調和した公園となっているようです。
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大宮八幡宮(おおみや はちまんぐう)は、杉並区大宮にあり、明治時代以降は大宮八幡神社と呼ばれていたのが、1981年(昭和56年)に「大宮八幡宮」に改められたとのことです。もともとは源頼義により建立。武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は約15,000坪と都内でも3番目の広さ。子育て・安産に特に御利益がいわれている。東京のほぼ中央にあるので「東京のへそ」という異名もあるそうです。善福寺川に接し、かつて湧出していた御神水は「多摩乃大宮水」といわれたのです。現在は自然には湧出していないため、ポンプで汲み上げているとのことでした。
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この馬塔観音は昭和3年、陸軍将校が乗っていた名馬宮春号がここで足を骨折して急逝し、この供養塔が建立されたそうです。
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杉並区立郷土博物館は、1989年(平成元年)に、 都立和田堀公園の中に開館。杉並区には、およそ3万年前に人々が住み始めています。 郷土博物館では、このときから現在までの杉並の歴史、 人々の生活や文化について資料を集め、 調査・研究をし、わかったことを展示していました。また古民家もありこちらではお茶のお接待をいただきました。
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源義家公鞍掛けの松は大宮八幡宮の参道の脇にありました。義家が奥州征伐に向かう途中、ここで一休みしてこの松の枝に馬の鞍を架けたとの言い伝えがあるとのことです。
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大圓寺(大円寺、だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院。山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。薩摩藩島津家の江戸での菩提所でもある。1603年(慶長8年)、徳川家康によって赤坂溜池(現在の東京都港区赤坂溜池町)に徳川家の香華院として建立。開山は諦厳桂察(武田信玄の弟)。この縁から飯野藩保科氏の菩提寺でもあるようです。この時に、旗本五井、松平、坂井、本多、土方の諸家を檀徒と定めたようです。 延宝元年(1673年)、薩摩藩(七十七万石)世子・島津綱久が江戸で没した時にその葬儀をこの寺で執り行い、以後薩摩藩の菩提寺ともなったのです。明治維新後の廃仏毀釈及び大檀越であった島津氏の神道改宗に伴い、以後庇護を失い衰微し1906年(、明治41年)に現在地に移転。現在も西郷隆盛の娘・菊子など鹿児島県出身明治維新関係者の墓が多く築かれているとのことです。
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明治元年戊辰の役戦死者没者の墓
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本日は晴天でしたから歩程約11kmをAM10:00〜PM15:00で気持ちよくウォーキングしました。ほとんどは一巡目の時と同じでしたが講師が違うことと2年ほどの時間経過があるので改めて見聞を広めた感じでした。
今後も2巡目の都内をそれなりに新発見を期待しながら参加していくことにいたします。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2019年04月15日

2019.4.13. 山手線歴史探訪ウォーク 第2回

上野駅〜西日暮里駅
JR上野駅公園口⇒JR上野駅中央口⇒JR上野駅広小路口⇒「あゝ上野駅」碑⇒上野恩賜公園--黒門--獨山人の碑--西郷隆盛像--彰義隊の墓--天海僧正毛髪塔--寛永寺清水観音堂--不忍池弁財天--花園稲荷神社--時の鐘--上野大仏--パゴダ薬師堂--お化け灯籠--東照宮--東照宮唐門--グラントヒノキ--時忘れじの塔--東京文化会館フォレスティーユ精養軒--ボードワン博士像⇒旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)⇒黒田記念館⇒東京文化財研究所⇒上野東照宮⇒寛永寺第二霊園・徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所⇒寛永寺・根本中堂・了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦⇒谷中霊園---DEPUIS PATISSIER INAMURA SHOZO--御隠殿坂−明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑−徳川慶喜公墓所−渋沢栄一墓所−川上音二郎碑−天王寺五重塔跡⇒観音寺築地塀⇒初音の森⇒岡倉天心記念公園⇒谷中銀座・夕焼けだんだん⇒延命院の大椎⇒経王寺山門⇒善福寺・仁王門⇒富士見坂⇒淨光寺⇒諏方神社⇒太平洋美術⇒荒川区立第一日暮里小学校⇒西日暮里公園⇒JR西日暮里駅

JR上野駅中央改札のすぐ横の切符売り場の上にステンドグラスがありました。「昭和六十年春 ふる里・日本の華」でデータを調べると原画。監修:平山郁夫、設置:1985年3月、ステンドグラス、3.7m×18.6m、キーワード:扇、水、花ということでした。このような壁画などはパブリックアートというそうです。
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JR上野駅広小路口外には「あゝ上野駅」歌碑がありました。
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この歌碑は2003年建立。この歌は1964年に井沢八郎さんが歌った東北地方の集団就職者の応援歌として大ヒットした歌謡曲。歌碑は大きく機関車と多くの集団就職者が描かれており私たち世代だけではなくこれを見て昔を偲ぶこともいいことではないでしょうか。

上野恩賜公園は明治6年太政官布達で日本が初めて公園に指定。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いたとのことです。

西郷隆盛像は明治31年設置、作者は高村光雲、身長3.7m・胸囲2.6m・足55cm。できた時の様子は昨年のNHK大河ドラマ第1回で見られてとても印象的でした。
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天海僧正毛髪塔。
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧。なかなかの名僧でのちに江戸崎不動院(茨城県江稲敷市)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受け、1616年(元和2年)家康が没すると、その神格化のため権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導したのです。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、1625年(寛永2年)に寛永寺を創建し、1643年(寛永20年)に子院の本覚院で108歳でなくなっているのです。遺命により日光山に葬られたため本覚院跡には供養塔が建てられ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになったとのことでした。
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「彰義隊の墓」がありました。江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻ったことから東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論された。慶喜の一橋家時代の側近が慶喜の助命を求め、1868年(慶応4年)に彰義隊を結成。慶喜が水戸退隠後も上野山(東叡山寛永寺)にたてこもったのです。1868年((慶応4年)、新政府軍が、上野寛永寺周辺にたてこもる彰義隊を包囲し彼らは滅亡したのです。これは上野戦争といわれています。その後、彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたのを、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されたとのことでした。正面の小墓石は、1869年(明治2年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出されたもの。大墓石は、1881年(明治14年)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、改府をはばかって彰義隊の文字はなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれています。
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清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立。比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門を守護すると伝えられている事に倣い、天海大僧正は1625年(寛永2年)に江戸城の鬼門を守護するため、寛永寺を創建したのです。そして比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立。そのひとつとして清水観音堂は京都清水寺に倣って建立されたのです。清水観音堂は、江戸時代から庶民に親しまれる名所で特に境内に配された月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」に「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれているとのことです。
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不忍弁天堂は寛永寺の創設者天海僧正。現在の八角形の御堂は昭和33年に再建されたもの。ご本尊は八臀大弁財天で長寿・福徳・芸能の神様。普段見受ける芸能人のお名前が書かれた提灯がいっぱいありました。
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上野大仏とパゴダ薬師堂は大仏山にあります。1631年(寛永8年)堀直寄が寄進。元々、大仏様は全身あったようですが地震や火災が度々ありこの顔面だけが残り大仏再建を願い仏塔(パコダ)が作られたとのことでした。
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お化け灯籠(おばけどうろう)は、佐久間勝之(さくまかつゆき)が奉納したもの。銅灯籠や石灯籠と離れたところにある。おばけというのは、おばけのように大きく、高さが6.06mもあるからそのような名前がついたようです。また、笹石の周囲は3.36mで非常に大きかったです。
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時忘れじの塔は故林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが2004年(平成16年)に東京大空襲を忘れないでという趣旨で設立。林家一門で慰霊の会が開かれるようです。
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公演内をグルグル動き回った後振出の上野駅前に戻り昼食は、東京文化会館2階のフォレスティーユ精養軒でおしゃれなランチをいただきました。
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メイン前にはスープやパン、それにデザートと珈琲が出ましたので大満足でした。

ボードワン博士像。
明治政府が上野の山を別の目的で使用することを決めていたのを近代的な公園にすべきとボードワン博士が提言し現在の上野公園ができたそうです。いわば上野公園の生みの親でオランダの一等軍医だったとのことです。
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正岡子規記念球場は公園の外れに見えました。これは明治20年ごろ、正岡子規が上野公園内で草創期の野球を楽しんでいたことから、名前がついたのです。そばに「春風や まりを投げたき 草の原」の句を刻んだ碑があるとのことでした。

旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)がありました。解説によると1932年日暮里と上野公園間の営業のため工事開始し1933年開業。1945年戦争のため運転休止。1953年この駅の営業を再開するも1997年駅が小さいことなどがあり営業休止。2018年リニュウアルして記念に残されたようです。

上野東照宮
もともと徳川家康公を祀った社。家康が1616年に死去し1618年には日光東照宮に祀られています。その後家康を敬心していた藤堂高虎が1627年(寛永4年)にこの上野東照宮を造営。現在の社殿は徳川家光が作り替えたもの。文化財保護の為、社殿内は非公開。 金色殿とも呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造り。
唐門は1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価されています。 内側の透彫は諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、 太鼓に鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいています。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられています。
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唐門両側の6基の銅灯籠は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものとのことです。
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銅灯籠の間に見えるのは菱透塀。格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名だとのことです。 社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、 色鮮やかに生き生きと表現されているとのことでした。

寛永寺第二霊園に入るとすぐ徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所の案内がありました。五代将軍綱吉は、1680年(延宝8年)に将軍となり1709年(宝永6年)に63才で死去。綱吉ははじめ、善政を行ったが後には「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名です。 1698年(元禄11年)に綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されたとのことです。綱吉の霊廟は宝永6年に竣工したが、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したのです。この勅額門と水盤舎は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構とのこと。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
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寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。徳川家光が創立者、初代住職は天海大僧正。ご本尊は薬師如来。本堂にあたる根本中堂を見ました。
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この周りには了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦など見所が一杯でした。

谷中霊園は日暮里駅と鴬谷駅の崖上に広がる墓地。ここはもともと寛永寺と天王寺の寺領だった所。1875年(明治7年)東京都の公共墓地となり一般にも公開されている。
本日は明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑、徳川慶喜公墓所、渋沢栄一墓所、川上音二郎碑、天王寺五重塔跡などを見て回りました。
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観音寺築地塀(つきじべい)とは土塀のこと。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものをいうようです。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。
はじめは土のみで作られたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるようになってきたようです。
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岡倉天心記念公園は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立にかかわり、また日本美術院を創設した岡倉天心の旧居跡。五浦のものを模した六角堂があり、中には天心坐像が据えられています。また公園のなかのいたるところに六角形が潜んでいます。
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谷中銀座は地元の方々は元より、定期的に商店街に足を運んでくださる広域の方々、遠方や海外からお越しくださる観光の方々に商店街を時代の流れに適応しながら古き良き商習慣を大切にして異世代に残していきたいと頑張っている商店街だそうです。本日は休日のため非常な混雑で有名なメンチコロッケのお店など行列ができていました。私は谷中満点ドーナツを買い、大いに満足しました。
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御殿坂と谷中銀座の間には「夕焼けだんだん」と呼ばれる階段があります。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。夕方になると、階段に座って夕焼けを待つ方もいそうです。夕焼けだんだんを降りると「谷中銀座」の入口です。
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延命院は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局を開基とする日蓮宗の寺院。家綱の安産祈願をした日長が甲州身延山の七面大明神を勧請し、慶安4年(1651)にその別当として開創されたのです。境内には、樹齢600年を越える大椎がありました。
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経王寺(きょうおうじ)は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られており、旧谷中七福神のひとつ。1868年(慶応4年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っていました。
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善福寺・仁王門。
谷中は奇跡的に戦災を免れた為、古い民家と下町風情が残る稀少の場所で、善福寺・仁王門の金剛力士像もけなげに残っていました。
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淨光寺は真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があるようです。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていたようです。江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。
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諏方神社は鎌倉時代に豊島佐衛門尉経泰によって創建されたと伝えられ、信濃国上諏訪大社と同じ建御方命を祀っておるようです。現在も日暮里(旧:新堀)・谷中の総鎮守。 諏方神社は、JR山手線の線路沿いの諏訪台にあり、江戸時代には、筑波や日光の連山などが見えたことから、景勝の地として知られていました。

諏訪神社の道を挟んで反対側に太平洋美術会がありました。太平洋美術会は明治22年に日本最初の洋画団体「明治美術会」として誕生。同35年、太平洋画会と改称し、さらに昭和32年に太平洋美術会と名称を改め今日に至っているとのことです。2011年、120周年を迎えこの間、幾多の英才、奇才を世に送り出し、日本近代洋画史に燦然たる足跡を残したのです。併設の太平洋美術学校(現・研究所)からも多くの才能を輩出し今日、多数ある美術団体の源流で、今もこの歴史と伝統を守るとともに、新しい潮流に向けて歩み続けていると伺いました。

荒川区立第一日暮里小学校門前に「正直親切」の石碑がありました。この記念碑は高村光太郎直筆で荒川区立第一日暮里小学校の創立百周年の記念碑とのことです。高村光太郎は明治23年に旧下谷区練塀小学校から日暮里小学校に転校しており、この地にはずいぶんとゆかりがあるのです。この「正直親切」の文字は昭和26年、岩手県山口小学校のためにかかれたものが、日暮里小学校の百周年記念の際、財団法人高村記念会の好意で使わせてもらうことになったという経緯があるようです。ちなみに隣にいるフクロウはこの第一日暮里小学校の校歌の歌詞に由来しているとのことです。学校の立地が日暮里の高台、緑がいっぱいの諏訪神社のすぐ隣にあり、「森の知者」であるフクロウをシンボルにして子供たちに親しまれるように、という想いが込められているそうです。
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西日暮里公園は西日暮里駅から坂を上がった高台にありました。すぐ近くには諏方神社や多くのお寺があります。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として、高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていたのでこれらの案内を変わった形の案内板で示していました。
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本日は14℃と温かで晴天の元、約10km、歩程17000歩を結局実質5時間で完歩。参加者のほとんどは本日2回目で初々しい雰囲気が満載でした。私は初回が2017年10月でしたから約1年半かかっての完歩でした。昼食時に完歩認定証と山手線駅スタンプの一覧をいただきおまけに皆様の拍手はとても光栄でした。このようなシリーズのウォーキングツァーのいい所です。
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振り返れば全10回のうち雨は1回でしたから、なかなか幸運でした。これからも機会を見つけてまたシリーズのウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2019年04月07日

2019.4.7 MBT代々木公園ウォーク

すっかり本格的な春!!
本日は久しぶりに代々木公園でのMBTノルディックウォークにお出かけ。
代々木公園はすっかりお花見気分の方でいっぱい。
桜と緑と小さな花たちが眩しい!
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温かだったので久しぶりに仲間も7人勢ぞろい。
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本日は日中20℃、晴天の元、大いにウォーキングを楽しみました。
ウォーキングを終了後ハッと見渡せば、明治神宮、神宮橋、原宿駅はごった返していました。皆さんが大いに楽しんでいてとても嬉しい風景でした。
お陰様で今年は桜を大いに楽しみました。
posted by yunofumi at 17:37| あちこちウォーク

2019年04月03日

2019.3.31第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜2日目

「見沼たんぼ北コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒武蔵一宮氷川神社一の鳥居⇒氷川参道⇒大宮消防署氷川参道出張所⇒南堀之内バス停⇒丸昌⇒自治医科大学附属さいたま医療センター⇒合併記念公園⇒大宮南部浄化センター・みぬま見聞館⇒さいたま新都心公園

昨日の疲れが残っていそうなので大事をとって本日は歩程5kmコースに参加。今日は知人が一緒でしたのでのんびりムード。またしてもゆるきゃらがお見送りに登場です。
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さいたま新都心駅前を過ぎるとすぐ武蔵一宮氷川神社に向かう氷川参道です。
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武蔵一宮氷川神社は2400年以上の歴史をもつといわれ、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社。武蔵一宮として関東一円の信仰を集め、初詣には多くの参拝者で賑わいます。氷川神社名の社は大宮を中心に、埼玉県および東京都下、神奈川県下におよびその数は280数社を数えるとのことです。

氷川参道のこと。
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氷川神社の参道は中山道から南北に2km伸び、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われていて「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていました。杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因が考えられます。更に古い時代には松並木の時代もあったとのことです。現在の参道の樹勢状況は平成22年に作成された『氷川参道のまちづくり』によると、およそ650本の高木があり、そのうちケヤキが約65%、次いでスダジイが約10%、そのほかクスノキ、エノキ、サクラなど37種類の樹木があるとのことです。
自治医科大学附属さいたま医療センターを過ぎるとすぐ合併記念公園でした。ここはほんじつのチェックポイントでしたからお弁当を食べた後はのんびりとあちらこちらと動き回り、色々な植物を見ました。
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大宮南部浄化センターは大きな建物でした。
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ここは、汚泥再生処理センターとして、平成13年3月に最新鋭の膜処理と高度処理方式を採用し稼働が始まったそうです。し尿・浄化槽汚泥の一日の処理能力は179kL。施設の特徴は、限外ろ過膜を使用した高負荷運転で汚れを除去しているとのことです。その後、活性炭吸着塔を通し、殺菌・消毒して無色・無臭の環境にやさしい処理水として芝川に放流しているようです。今日は私たちウォーカーのために色々説明をしておられました。また環境学習施設としてみぬま見聞館・自然庭園を紹介されました。自然庭園は外側から少し見ました。
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みぬま見聞館には後日是非来てみたいと思いました。

結局ウォーキングはスタート11:00,ゴール13:00、実質6.2kmを約15000歩で終了。本日の参加者3663人。5kmコース参加者が少ないと思っていましたが空模様が怪しかったことや休日2日目ですからちびっこの参加が多く、とても賑やかでした。
今日は余裕でウォーキングを終了しましたので2人でアイスを食べて悠々と帰路につきました。
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また来年も参加しまーす。
posted by yunofumi at 01:00| あちこちウォーク

2019.3.30第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜1日目

「見沼たんぼ南コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒さいたま赤十字病院⇒さいたま新都心郵便局⇒新都心大橋⇒上木崎小学校⇒洋服の青山⇒上木崎7丁目⇒見沼代用水・芝川土手⇒浦和西高校第2グラウンド⇒木崎3丁目保存緑地⇒見沼代用水路西縁⇒本木崎橋⇒木崎橋⇒御嶽大神⇒足袋屋橋⇒忠兵衛橋⇒北宿橋⇒みむら桜広場⇒米原橋⇒さいたま市立病院・見沼臨時グラウンド(チェックポイント)⇒芝川・北宿大橋⇒首都高速さいたま見沼入口高架下⇒見沼たんぼ首都高ビオトープ⇒山口橋⇒東京成徳短期大学運動場⇒北袋橋⇒さいたま新都心公園

第7回さいたマーチに本日初参加。朝10:00スタートの歩程10kmコースに挑戦。
今朝は気温6℃!かなり寒く手は凍えそう!
この大会は主催がさいたま市の関連団体、協賛は武蔵の銀行や埼玉信用金庫、ということでゆるきゃらのしんちゃんやヌウが応援に来てくれました。
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出発式は清水さいたま市長のあいさつではじまり15分で終了。早速スタート!
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さいたま新都心とは埼玉県さいたま市で東京都心機能の「新都心」となるべく企図された業務地区の名称。現在は「さいたま新都心土地区画整理事業」として大規模な再開発が行われ、官公庁の関東地方出先機関などが進出しておりコクーンなどの商業施設やさいたまスーパーアリーナもありイベント時には大にぎわいのまちとなってきました。
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スタートから小一時間で見沼代用水の辺りまで来ました。桜をはじめ色々な花が見られました。
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木崎3丁目保存緑地は自然な環境が素晴らしい。
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足袋屋橋、忠兵衛橋などの名前が面白いと思いました。またさいたま市立病院の向かい側の見沼臨時グラウンドがチェックポイント。ここでは大勢の方がおやつやお弁当を広げていました。

芝川の北宿大橋はさいたま市の緑区から見沼区へ見沼田んぼを横断するときによく渡る橋で如何にも写真には絶好のスポット。写真の好きな方はきっと何度でも通う場所でしょう。
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首都高速さいたま見沼入口高架下を歩き、はじめて詳しく見沼たんぼ首都高ビオトープのことを理解しました。
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説明では多くの小鳥や動物が描かれていましたが今日のこの寒さでは何も出てきてくれませんでした。

今日はお陰様でほぼ満開の桜を堪能しました。桜はさいたま市の花木で、春には市内のさまざまな場所で花が咲き誇ります。実は「目指せ日本一!サクラサク見沼田んぼプロジェクト」というのが立ち上がっているようで、見沼代用水の西縁、東縁の桜を増やし、見沼田んぼをステージに日本一の桜回廊づくりに取組んでいるとのことです。そして今日では総延長が20kmを超え、桜の下を散策できる日本一の桜回廊となっているのです。今日の出発式での清水市長さんの話ではまだまだ延長が期待できそうです。
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結局、本日の参加者は5026人!コースは5kmから30kmに分かれてありましたがどうやら10kmのコースが一番参加者が多かったようです。桜並木が見事だったこと、雨に会わなかったことが幸いでした。失敗はチェックポイントでお弁当などの販売がなく、自分で準備していたおやつのみでちょっと寂しかったこと。歩程10kmのところ実質12.4km。おかげでこの余分の2.4kmがちょっと負担だった。ちなみにスタート10:00、ゴール14:00、実質3時間、約27000歩はかなり堪えました。帰宅後ゆっくり入浴やストレッチをして早寝をし、明日に備えました。

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そうそうお土産に参加賞のマグカップのほかに思いがけず特別賞をいただきました。これはさいたま市見沼たんぼで収穫された「彩のきずな」2kgでした。このお米は平成29年度産米の食味ランキングで最高の「特A」を獲得したお米なのです。
食べるのが楽しみです。
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2019年03月25日

2019.3.23. 東京新発見旅第23回 北区

今日はいよいよこのシリーズの最終回。
第1回台東区を2016年9月に開始以来、実に2年7カ月が過ぎ去りました。
この間には私的には色々なことがありましたがまずは元気で過ごせたからの最終回です。感謝!
今日はJR田端駅北口10:00集合、気温9℃、曇天でやや冷たい風もありましたが参加者21名講師は後藤先生、TDは小玉さんで一同元気に出発です。

JR田端駅北口⇒田端文士村記念館⇒東台橋⇒童橋⇒芥川龍之介旧居跡⇒田端八幡神社⇒東覚寺⇒田端文士村の散歩道⇒ポプラ坂・田端保育園/児童館⇒北区立田端公園⇒劇団文化座⇒村の鎮守の八幡神社⇒大龍寺⇒中里橋⇒山手線第二中里踏切⇒円勝寺・伊仕家の墓⇒日本植物防疫協会⇒聖学院⇒滝野川教会⇒滝野川図書館⇒旧古河庭園⇒無量寺⇒平塚神社⇒農務省農事試験場跡⇒滝野川公園⇒東京高等蚕糸学校発祥之地⇒花と森の東京病院⇒東京メトロ西ヶ原駅⇒国立印刷局東京工場⇒滝野川警察署⇒西ヶ原一里塚⇒七社神社⇒渋沢史料館⇒北区飛鳥山博物館⇒飛鳥山公園⇒豫園飯店⇒旧醸造試験所第一工場⇒北区役所第二庁舎⇒王子神社⇒玉子扇屋⇒中央工学校⇒王子稲荷大明神⇒東北線稲荷前ガード⇒北とぴあ⇒JR王子駅

田端文士村記念館は1887年(明治20年)上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校して、田端に芥川龍之介、菊池寛、小杉放庵、板谷波山など小説家や作家(=文士)が集まり住むようになったことを記念して、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供することを目的として1993年11月開館。
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芥川龍之介旧居跡は更地になっていました。ここは芥川龍之介(1892〜1927年)はが1914年に転入後、亡くなるまでの約13年を暮らしたこの旧居跡地で北区が2023年「芥川龍之介記念館」の開館をめざしているとのことです。芥川の業績を単独で顕彰する施設は全国で初めてということでした。
 
田端八幡神社は文治五年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社とのこと。
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東覚寺(とうがくじ)は真言宗の寺院。1491年(延徳3年)に創建。堂宇は第2次世界大戦で戦災焼失し、戦後再建されたようです。
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明王殿前には赤壁仁王という金剛力士像があります。病人が自分の患部と同じ位置に赤紙を貼ると治癒するという民間信仰があるとのこと。そしてその後、治癒したら草履を奉納するとのことでした。
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田端文士村の散歩道の案内板があり、そのあたりの散歩道やそのあたりに住んでいた文士たちのことが紹介されていました。散歩道Bの案内板では板谷波山(いたやはざん)のことが紹介されていました。

田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなんでいます。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったのです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいたのです。
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村の鎮守の八幡神社。
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現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。

大龍寺(だいりゅうじ)の創立は明らかでないようですが、慶長年間(1596〜1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781〜1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伺いました。
この寺の境内には、俳人正岡子規のお墓がありました。
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こちらは板谷波山のお墓。
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このほかチェリスト清水勝雄の記念碑、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があるということでした。

円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山し、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近にあったとのことです。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていたとのこと。
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円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれているとのことです。

日本植物防疫協会は、植物防疫に関する技術や知識の進歩を図り、農業生産の安定に寄与することを目的として1953年に設立。設立以来、病害虫防除に必要な資材の開発と登録の支援に向けた調査研究をはじめ、研修会やシンポジウムの開催など普及教育活動、書籍の発行や各種資材の提供など、植物防疫関連事業を多方面から展開しているとのことです。
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聖学院は1903年、米国基督教会外国伝道協会とアメリカ人宣教師H・H・ガイ博士によって聖学院神学校が設立。その後、キリスト教信仰による人格教育が始まり聖学院中学校(旧制)及び女子聖学院普通学部としてそれぞれ発展し、現在は幼稚園から大学院まで一貫教育体制を整えているとのことです。
滝野川教会は閉まっていて中を伺い知れませんでした。女子聖学院中・高校と 聖学院中・高校の東側の細い道路“聖学院通り”に面した、聖学院の男子校と女子校の境界附近に 石碑があるようです。 聖学院は、アメリカのプロテスタント・キリスト教の一派であるディサイプルス派が派遣した 宣教師によって、1903(明治36)年に「聖学院神学校」として設立され、女子聖学院は 1905(明治38)年に設立された学校です。滝野川教会は当初 聖学院神学校の校内の教会として創設され現在地は、発祥碑のある場所から北に200mほどの所で、美しい尖塔を持つ教会が建っているようです。

旧古河庭園。
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都立文化財庭園は現在9カ所あります。今ではほとんど訪れたことがありますがやはり季節が巡るわけでなかなかすべてを堪能しているわけではありません。まだ3月ですが桜が咲き、椿、雪柳、スミレ、山吹があちらこちらに見られました。
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無量寺の創建年代は不詳。それでも平安時代後期あたりからこの地にあったようです。境内に は、14世紀頃に作られた板碑が多数あるとのことです。 創建当時から長い間、寺号は長福寺だったようですが、9代将軍徳川家重の幼名・長福丸と同じだったことから現在の無量寺にしたとうかがいました。本堂にある不動明王像の前で忍び込んだ盗賊が動けなくなって捕まったことから、この像は「足止め不動」として信仰されるようになったとのことです。現在普段は公開されていないようです。

平塚神社。
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奈良時代荒墓郷「平塚」の地名の由来の“塚”は、神社社殿裏にある「甲冑塚古墳」が元とのこと。 その頃ここには豊嶋郡の郡衙があったのです。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築き、平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしをしたようです。そこで義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれたこと、塚の高さがなくて平たかったことから「平塚」とよばれ、これがこの辺りの地名となったようです。

農務省農事試験場跡の石碑が城山公園入口にありました。
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ここには東京府が明治33年(1900)に設立した最初の府立農事試験場が置かれていたとのことです。江戸時代末頃から農業改良が行われていたようですがここでは新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実地指導に生かして普及することをしていた様子です。試験場の活動は、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に影響を与えたのです。農業試験場は1924年(大正13年)には立川へ移転したのです。

東京高等蚕糸学校(とうきょうこうとうさんしがっこう)発祥之地。
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大正時代, 全国各地に“蚕糸学校”が作られたとのことで, 東京蚕糸学校もその一つ。 太平洋戦争後 東京農林専門学校と合併して 東京農工大となったようです。

西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの位置にあるとのことです。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功したのです。大正11年3月8日には、国史跡に指定されました。
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西ヶ原一里塚そばの七社神社は、古くから西ヶ原村の鎮守として由緒ある神社とのこと。七柱の神である天児屋根命は祝詞の神とも言われ、安産や厄除などの御利益があるそうです。

渋沢史料館はむしろ博物館で、日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一に関する資料を収蔵しているとのことです。
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1998年に建設された「本館」には、渋沢栄一の生涯にわたる業績が展示。 敷地内には大正年間に渋沢栄一が使っていた建物が当時のまま公開されているようです。 「晩香廬」は賓客を迎えるレセプション・ルーム、「青淵文庫」は書庫として使われていたとのこと。

北区飛鳥山博物館。
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北区の郷土資料を扱っている。紙の博物館、渋沢史料館とともに「飛鳥山3つの博物館」のひとつ。 2階部分が入口、受付と講堂、それに企画展示室。3階に飛鳥山アートギャラリー、資料の閲覧コーナー、体験学習室、軽食コーナー。1階部分が常設展示室で1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示、そして荒川の生態系を取り上げた展示があるとのことでした。

中国料理豫園飯店 (よえんはんてん)は王子界隈で評判の上海料理のお店とのことでした。入り口では、獅子の石像がありました。味付けはあっさりでしたがなかなかおいしかったです。
お料理待ちの間に後藤先生より完歩認定証をいただきヤレヤレ。
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独立行政法人酒類総合研究所東京事務所にあった旧醸造試験所第一工場(通称「赤煉瓦酒造工場」といいます。)は、明治37年の試験所の創設以来、酒類の醸造試験、酒類醸造講習の実習工場として活躍してきたとのことです。建物は、明治期の貴重な赤煉瓦建築物として平成26年12月に国の重要文化財に指定されています。
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王子神社。
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御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称を「王子大神」と呼ぶとのことです。創建は不詳ながら、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事があります。そしてさらにその後、1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたとのことでそれよりこの地を王子という地名にし、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれているとのことでした。

中央工学校は1909年(明治42年)創立で工業立国を目指す当時の政策に対応するかたちで、建築・機械工学・給排水衛生設備・空調設備・電気設備を、翌年には土木工学を加え4学科体制による夜間の工業学校(各種学校)としてスタートしたようです。田中角栄さんの母校とのことで記念の石碑が校舎前にありました。
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王子稲荷大明神は東国三十三国稲荷総司の伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名で古くは岸稲荷と号したようです。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられまた、治承四年に源頼朝より奉納を得たということでした。
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願掛けの石や狐の穴跡を見ました。

北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボルで、本格的なホール、多数の平床多目的スペース、各種会議室、音楽スタジオ等、多彩な施設があるとのことでした。最上階の17階は展望ロビーとなっており、北区を一望することはもちろん、東京スカイツリー、はては埼玉まで見ることができました。
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今日は桜がチラホラ咲き始めていましたが、正に「花冷え」の1日でした。それでも空模様が持ちこたえてくれて有難かったです。本日、このシリーズのウォーキングは23回目で実質4時間、約17000歩で完歩出来ました。今後もまた機会があれば元気にあちらこちらと見分を深めたいと思っております。色々ご一緒させていただいた皆様、お世話になりました。
posted by yunofumi at 23:30| あちこちウォーク

2019年03月21日

2019.3.16. 山手線歴史探訪ウォーク 第7回

渋谷駅〜五反田駅
JR渋谷駅ハチ公⇒東京メトロ銀座線渋谷駅⇒SIBUYA MARK CITY⇒豊栄稲荷神社⇒金王八幡宮⇒金王神社前信号⇒魚屋・渋谷3丁目2⇒六本木通り⇒渋谷ファーストタワー⇒青山トンネル⇒実践女子大⇒青山学院初等部⇒常陸宮邸⇒常盤松の碑・渋谷区東4丁目4-9⇒国学院大学⇒国学院大学前信号⇒常磐松(ときわまつ)小学校⇒渋谷図書館入口信号⇒渋谷氷川神社⇒塙保巳一史料館⇒区立広尾中学校⇒都立広尾高等学校⇒福昌寺⇒庚申橋⇒東恵比寿商栄会⇒恵比寿1丁目信号⇒JR恵比寿駅西口⇒JR恵比寿駅東口⇒恵比寿ガーデンプレイス⇒アメリカ橋⇒TOP of EBISU⇒銀平(昼食)⇒エビスビール記念館⇒三田橋⇒目黒三田郵便局⇒三田春日神社⇒茶屋坂⇒アルジェリア民主人民共和国大使館⇒JR目黒駅⇒大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅

JR渋谷駅ハチ公は渋谷駅の待ち合わせ場所として最も有名な銅像。
ハチの飼い主は東京大学の上野栄三郎教授。上野先生が大学で急死した後10年後にハチも死去したようです。お墓は青山墓地の上野博士のお墓の傍。現在の像は2代目。初代は本田晋作でしかもハチの存命中に制作されていたようです。八の市はその翌年だったのも何となく不思議。剥製が現在の国立科学博物館にあるとのことでした。
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渋谷は再開発が真っ最中!!東京メトロ銀座線渋谷駅はいままで地下にあったと思いますが山手線のさらに上がホームになっていました。びっくり!!
SIBUYA MARK CITYは地上25階建て。ホテル、オフィス、バスターミナル、京王渋谷駅、東京メトロ車庫などがあり、綺麗に立派にできたようです
渋谷マークシティの連絡通路で一般公開されている岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を見ました。縦5m、横30mは圧巻でした。
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「明日の神話」は1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁での米・水爆実験で被爆したマグロ漁船「第五福竜丸」をテーマとした作品。1960年代後半、メキシコのホテルに設置するために制作され、その後行方が分からなかったのが2003年にメキシコ資材置き場で発見され、「明日の神話」再生プロジェクトが発足。1年余りの修復作業を経て2008年に渋谷区を恒久設置先に決定し、同年11月17日より同所で一般公開がスタート。以来、NPO法人「明日の神話保全継承機構」の主導で、毎年秋に壁画の清掃・修復・補強作業が行われ、今年で3回目を迎えたとのことでした。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)。
1092年(寛治6年)現在の渋谷に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとのこと。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとのことでした。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東n宦i天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡とよばれていたようです。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したからだそうです。
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金王丸が植えたという金王桜がありました。
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宝物殿にはとても古い御神輿があり、これは鎌倉八幡宮七神輿の一基で都内西湖の物だそうです。
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常盤松(ときわまつ)の碑。
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「常盤松」は、氷川神社の神域にあった名木で、『江戸名所図会』の「渋谷 氷川明神社」の絵に「神木」として描かれている木がそうです。伝説では、源義朝の側室である常盤御前(ときわごぜん)が植えたとされており下記のような和歌があります。
わがきみの こゝろのまゝに ゆくすえも ときわの松の はなにこそみめ
またこの歌は義朝が常盤御前を想って詠ったものともいわれています。常盤御前は、有名な牛若丸こと源義経の母親で、義朝の死後は公家の一条長成に嫁いだそうです。

渋谷氷川神社。
渋谷地区の最古の神社で古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であったとのことです。創始は1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあるようです。
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その昔9月29日(現在は9月15・16日)の祭礼に金王相撲が行われ大変な人気だったそうでその時の土俵が今も残っています。
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塙保巳一(はなわほきいち)史料館。
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塙 保己一(1746〜1821)は盲目の学者。現在の埼玉県本庄市児玉町の農家に生まれ、7歳のとき肝(疳?)の病がもとで失明、15歳で江戸に出て盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門鍼・按摩・灸、琴・三味線などの修行をするが上達せず、雨富師匠の支援で学問を始めて文学・医学・律令・神道などを、さらには賀茂真淵にも入門し『六国史』などを学び、安永8年(1779)34歳から『群書類従』の編纂に取り組み、40年後の74歳で完成させた方だそうです。本日は中に入りませんでしたが館内には書物の元となった版木などが保管されているとのことです。またここを昭和12年に訪れたヘレン・ケラーが「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語ったという話を聞きました。
更に埼玉県本庄市には平成27年にリニューアルされたばかりの塙保己一記念館があり、国史跡の旧宅や666冊の本となった群書類従が見られるとのことでした。

福昌寺(ふくしょうじ)。
近代的な建物がいきなりありましたが実は天正・文禄の頃の寺院だとのことです。
入口左手に石棺仏の石刻阿弥陀像がありました。
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彫刻が少ない十五世紀頃の石仏でしかも石材は6世紀頃の古墳型石棺の蓋に使われていた和泉砂岩だそうです。
またすぐ傍に花供養塔があり、説明の碑もありました。
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花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり   昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会

庚申橋供養碑は渋谷区東3丁目の庚申橋のたもとにありました。1799年に建てられたこの碑は四面すべてに橋講中の世話役や万人講および個人の名が渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことを示しているのです。
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恵比寿ガーデンプレイスは、渋谷区と目黒区に跨る複合施設で、サッポロビール工場跡地の再開発事業として1994年(平成6年)に開業したとのことです。
東京都写真美術館手前の高層ビルはTOP of EBISU 38階の銀平で昼食。
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煮魚定食はさすがに美味でした。
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エビスビール記念館。
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サッポロビール本社やヱビスビール記念館がある恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)。そこには、かつてヱビスビールを造る工場がありました。1887(明治20)年、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)が設立され、1890(明治23)年に「恵比寿ビール」が誕生。1901(明治34)年には恵比寿停車場という名の積み卸し専用の駅ができ、そこから「恵比寿ビール」を各地へと出荷。恵比寿という地名ができたのは、その後の話。そう、恵比寿という街の名は、ヱビスビールが発祥なのです
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茶屋坂と爺々が茶屋。
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江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋がり徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったとのこと。そしてある時、遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍が、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じて出されたのが目黒のサンマ。こうして「さんまは目黒に限る」という落語がいまもつたわっているようです。爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられたとのことで目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、今はもうやめたようです。しかし島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されているとの話は面白いですね。

アルジェリア民主人民共和国大使館。
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目黒区三田2-10-67にありました。ホームページで見るとアルジェリアは、アフリカの北に位置し様々な風景を楽しむ事が出来る国。国土面積は、2 381 741 Km2、国境を接する国々は、チュニジア、リビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラそしてモロッコの7か国。アルジェリアを取り巻く国境線の距離は6000kmとのこと島国の日本では想像できないことが一杯と思いました。
緩い登りの権之助坂を上りきるとJR目黒駅。
この後の歩程が大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅とわかっていました。これらのコースは何度か歩いたことがあるため空模様が気になり、本日はこれにて自主的に終了とさせていただきました。
結果として渋谷〜目黒で7km、歩程約15000歩。お陰様で翌日の「MBTノルディックウォークin 代々木公園」に元気に参加し、春の花々を大いに楽しみ仲間と過ごすことができました。感謝!
これで山手線はあと1回、また4月に頑張ります。
それではここでこの翌日(3/17)に伺った代々木公園の春を感じた花をアップしておきます。

ミモザです。
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ユキヤナギです。
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彼岸桜です。
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コブシです。
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posted by yunofumi at 07:26| あちこちウォーク

2019年03月09日

2019.3.3. 東京新発見旅第22回 大田区

今日の大田区は大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採った合成地名。東京都に23ある特別区の一つ。人口約73万人。東京都区部の最南端。大田区は多摩川を挟んで神奈川県川崎市と接する交通の要地で、東京都心と神奈川県を結ぶ鉄道(JR東海道線・京浜東北線や都営地下鉄浅草線と相互乗り入れする京急線など)の本数が多い。区東部には羽田空港があり、大田区の面積の約3分の1を占める。
大田区でのキーポイントの一つは大森貝塚。1877年(明治10年)横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見したのが大森貝塚。これは日本で考古学が発達していった最初だそうです。大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道の線路側に石碑があるとのことでしたが今日は雨降りで見に行きませんでした。
もうひとつのキーポイントは文士村。石坂洋次郎、宇野千代、尾ア士郎、川端康成、 川端龍子、北原白秋、、子母沢寛、高見順、萩原朔太郎、三島由紀夫、室生犀星、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉屋信子、和辻哲郎などなどが日常を過ごし楽しく暮らしていたようです。
これらは山王会館や郷土博物館で色々知識を得られるとのことで楽しみにして出発しました。

JR大森駅⇒天祖神社⇒大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)・大田区山王2丁目14⇒山王公園⇒山王会館・馬込文士村資料展示室⇒いにしへの東海道石碑・明神橋・大田区中央1丁目14⇒龍子記念館⇒熊谷恒子記念館⇒尾崎士郎碑⇒宇野千代碑⇒ネパール料理タンセンビュー(昼食)⇒真船豊碑⇒南馬込五丁目公園⇒佐藤朝山碑⇒郷土博物館⇒湯殿神社⇒池上梅園⇒村田商店⇒池上本門寺⇒萬屋酒店⇒東急池上駅

本日はしばらくぶりに東京23区のウォーキングツアーです。あいにくの雨降りですが参加者21人はJR大森駅に早々に集合。渡辺先生とTD小玉さんの先導で10:00出発。

JR大森駅に降りたのは初めて。山手線から京浜東北線に乗り換えて到着。1日平均乗降客は10万人弱。道理で駅舎もきれいでしたし人が一杯でした。
天祖神社は大森駅のすぐ傍で正式には神明山天祖神社。享保年間(1716〜1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織して、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建といわれているとのこと。神仏分離令にともない、1872(明治5)年に円能寺から分離し「神明山天祖神社」と改称したとのことでした。
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大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)。
大森射的場のあった跡地はテニスコートとなっており、入口付近の駐車場の角に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がありました。この射的場は1889年(明治22年)から1937年(昭和12年)ごろまで使用されていたとのこと。敷地は窪んだところにあり谷間に作られた様でした。1899年(明治32年)明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立されたのです。大森射的場は周囲の住宅化により1937年(昭和12年)に横浜鶴見の東寺尾に移転してとのことでした。
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大田区立山王会館。
馬込文士村資料展示室が1階に設けられており、山王ゆかりの文士を紹介する展示がありました。平成7年5月に「馬込文士村散策コース」中の拠点施設の一つとして開設され馬込ウォークのパンフレットもいただきました。
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馬込文士村散策マップがあるとのことでした。
これを見ながら再び気候の良い日に再度伺いたいと思いました。

環七通りの陸橋をくぐった先に「いにしへの東海道」と書かれた石碑がありました。「此の道は 時代により奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還などと呼ばれていた古道です」と彫られていたとのことでした。
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大田区立龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(かわばたりゅうし)(日本画家)(1885-1966)により、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立。当初は青龍社が関与、1991年から大田区となり現在にいたっているようです。館内には大正初期から戦後にかけての約140点の龍子作品を所蔵。多角的な視点から龍子の画業を紹介しているとのことでした。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品が多くありました。
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龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されていました。
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ボケが立派な実を付けていました。
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熊谷恒子記念館。
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美智子皇后陛下にご進講されたことでも知られる現代女流かな書道家、熊谷恒子(1893年から1986年)の旧居を改修し、作品を展示しています。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われています。
作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載しています。

尾崎士郎邸跡、宇野千代邸跡、真船豊碑、藤朝山碑と次々に説明を書いた石碑があり、如何に文士たちの住まいや活躍の場が多かったかがしのばれました。

ネパール料理タンセンビューで昼食。はじめてのネパール料理でした。カレーは相当辛かったですが美味しくて皆が笑顔になりました。
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大田区立郷土博物館。
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中の展示は大田区の地中の歴史、昔の道具、海苔養殖、大田の物つくり、麦わら細工などみるものが沢山ありました。馬込が発祥の地といわれる馬込大太三寸人参がプランターで育てられていました。

湯殿神社。
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池上梅園。
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ここはもともと日本画家伊東深水の自宅兼アトリエだった「月白山壮」がありましたが戦災で焼失。戦後は築地の料亭の小倉氏の別邸だったとのこと。その後庭園を残して大田区に譲られたとのことでした。現在大田区の花である白梅150本、紅梅220本が植えられているとのこと。今日は雨模様でしたがほぼ満開状態で散策を楽しみました。

村田商店は天草100%の寒天はほんのり甘くお土産にも最適という池上で評判の甘味処。
店先に大きくみつまめ、あんみつ、ところてんと書いてありました。
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池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、日蓮宗の大本山。日蓮の入滅の霊場であり日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつでありまた大本山のひとつにも挙げられている寺院です。
1282年(弘安5年)、病身の日蓮が身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着し、生涯最後の20数日間を過ごしたのです。またこの時、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源ということでした。

総門は元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立とのこと。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるとのことでしたが、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵されているのです。
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大坊には日蓮が亡くなられたお部屋があるとのことでした。
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多宝堂は境内の西方にあり、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建っていました。
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経堂は東京空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部に回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていたとのこと。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地にありました。
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本殿は、本師(釈尊)のおられる殿堂。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。
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五重塔高はさ31.8m。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築されたようです。
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力道山の墓。この方は大相撲出身だったのがプロレスラーで有名になった方。お酒の上での殺傷事件で命を落としたようです。
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大野伴睦の墓。
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昭和39年に亡くなった政治家。典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した大物政治家。

日蓮像。
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宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された像。制作は、斯界の権威 北村西望。北村西望は平長崎の平和祈念像.の制作者でもあります。

萬屋酒店。
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池上本門寺参道沿いで、もとは茶屋を営んだのがはじまりとのこと。つし二階建,出桁造りで江戸時代以来の町家の形式で、上げ下げ戸を含め、旧状を良く残しているようです。門前町の代表的な建物のひとつで棟梁は加藤甚五郎とのことでした。

東急池上線は蒲田から五反田までに15駅があります。1922年(大正11年)に池上本門寺へ参拝客を運ぶ目的で開業。はじめは蒲田から池上、その後、現在の五反田まで開通。沿線では現在も池上本門寺と洗足池が有名。私的には星薬科大学のある戸越銀座駅や昭和大学がある旗の台駅が馴染みです。

本日は出発時から終了まで雨降り。朝は4℃、日中も10℃はなかったかもしれません。
久しぶりにゴアテックスの上下を着こんでいたので特に寒さは感じませんでした。やはり街歩きとはいえ装備は大切なのです。歩程8km、150000歩をこなし、まずますのウォーキングでした。この東京新発見もあと1回の北区を残すのみとなりました。次回は3/23です。晴天になりますように!!
posted by yunofumi at 23:16| あちこちウォーク

2019年02月27日

2019.2.26 さんさん会ウォーク 総持寺から・・・

本日は旧東海道五十三次有志の集まり「さんさん会」からのお誘いでウォーキングに参加。
幹事千代田さん、講師の浅井先生含め19名が参加。
私は2013年(平成25年)10月の32期での完歩でしたがこの集まりは33期の集り。私はこの2つのグループの行程で都合の良い時に参加していたのでどちらの方々とも仲良しになったのです。

JR京浜東北線鶴見駅⇒鶴見西口歩道橋⇒鶴見大学歯学部附属病院⇒総持寺⇒京急鶴見駅−京急電車−生麦駅⇒キリンビール横浜工場⇒生麦事件碑⇒明神前信号⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅⇒京急横浜駅

総持寺は曹洞宗の大本山。曹洞宗は中国より坐禅を中心とする仏法を日本にもたらした道元禅師と、その教えを全国に広めた四代目榮山禅師を両祖とし、それぞれが開いた永平寺と総持寺の二つを大本山としています。もともと石川県輪島市門前町にあった総持寺ですが1898年(明治31年)の大火災で多くの伽藍が焼失しこれをきっかけに横浜の現在地に移転してきたのです。
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総持寺の三門(さんもん)は 1969年(昭和44年)落成。鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさとのこと。三門の左右には金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の湖の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる。三門楼上には、瑩山が能登に開山するにあたり三門楼上に僧形の観世音菩薩像、地蔵菩薩像を安置したことにちなみ、観音・地藏の放光菩薩像と十六羅漢像および四天王像が祀られているとのことです。三門正面の扁額には總持寺の山号「諸嶽山(しょがくさん)」と書かれていました。
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香積台(こうしゃくだい)は 総受付で拝観・墓地・法要・参拝等の受付を行っている所。売店や休憩所もありご朱印もこちらでいただきました。玄関には日本最大といわれる木彫の大黒尊天が祀られていました。
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香積台から入り迷路のように案内されて食事場所に伺いました。途中の案内でホテルのように宿泊施設もあることがわかりました
食事は精進料理膳で味付けは薄くとても美味しかったです。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には朝をあらわす「金鶏門」(東)、昼をあらわす「中雀門」(中央)、夜をあらわす「玉兔門」(西)という脇門(通用門)がありました。1日2回雑巾がけをしているとのことでツルツル、ピカピカでした。
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大僧堂は、雲水僧が集まり来るということから「雲堂」、また仏祖を選出する道場の意から「選佛場」と書かれた額がありました。私たちは中を見ることはできません。
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仏殿は 1915年(大正4年)に竣工され本尊釈迦如来像が安置されているとのことです。
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方光堂(ほうこうどう)は1911年(明治44年)に総持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物とのことです。もともとこのお堂は安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立され、その後、総持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしていたとのことです。現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しているようで、中には沢山のお位牌が見られました。
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墓所に入ると日比野雷風のお墓がそびえたっていました。
日比野雷風とは、幕末の剣術家で神刀流道場を開いたようです。ここは剣術以外に槍術や柔術等も指導する総合武術道場のようだったと伺いました。
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石原裕次郎さんのお墓はいつきてもお花が絶えないようです。
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キリンビール横浜工場は以前にも伺いました。
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工場見学が参加者にわかりやすくさらにパワーアップしていました。映像の見せ方や機械など行程のなどかなり新しいヴァージョンでした。何よりも工場長が女性で驚きました。この方はビール製造大手、キリンビールで初めての女性工場長となった方だそうです。彼女自身はキリンビールに入社後、品質保証や醸造担当、醸造部長などを経て、神戸工場長に就任、そして現在に至るとのことです。きっとものすごい頑張り屋さんだと思います。
また見学コース途中にビールづくり体験教室のお部屋とパンフを見ました。できれば体験したいところですがすごい人気だそうです。
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試飲コーナーでは出来立ての一番搾りを含め3種類のビールとソフトドリンクの試飲ができました。お酒をいただかない私はノンアルコールビールや珈琲、紅茶などいただきましたが見事に美味しかったです。
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生麦事件碑は案内板も新しくなりわかりやすくなっていました。
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生麦事件参考館は浅海武夫さんが開設されている史料館です。今回初めて見せていただきました。
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中には貴重な資料がいっぱいあり驚きました。約1時間浅海武夫さんの講演をビデオで見せていただき事件の真相をとても詳しく理解しました。まるで大河ドラマにでもなりそうな筋書きでとても驚きました。また事件の解決というか結末が日本的で、昔も今も日本人って変わってない!とも思いました。「ドキュメント生麦事件」という冊子にサインをしていただきまた皆で記念撮影もしました。本当に貴重なひと時でした。
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朝9:30スタートですべての予定を16:45に終了。その後は有志で旧交を温めました。
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横浜駅西口エキニア横浜2階「北海道」はとても美味しく堪能しました。
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お土産はキリンビール工場限定の一番搾りビールゼリーチョコレートと浅海武夫さんのサイン入り冊子「ドキュメント生麦事件」です。
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今日は曇りながら約12℃。少し寒さが厳しいかと思いましたがまずまずのコンディション。
心配した雨にもほとんど会わずに済みました。懐かしい面々とご一緒に浅井先生の先導で1日楽しくウォーキングでした。途中、電車移動もありましたが帰宅してみると歩数は約20000歩。元気に皆さんとお会いできたことに感謝!そしてまたご一緒しましょうと約束しました。感謝!!
posted by yunofumi at 23:42| あちこちウォーク

2019年02月25日

2019.2.23 横浜散策 第15回神奈川区

JR東神奈川駅⇒京急仲木戸駅⇒東神奈川駅前郵便局⇒金蔵院⇒熊野神社⇒松並木・御殿町公園・高札場⇒神奈川地区センター⇒成佛寺⇒慶運寺⇒浄瀧寺⇒神奈川の大井戸・宗興寺⇒滝の橋⇒理容滝の橋・神奈川町本陣跡⇒横浜福音教会⇒笠間稲荷大明神⇒神奈川台場跡⇒青木町本陣跡⇒幸ヶ谷小学校⇒宮前商店街⇒洲ア大神⇒神奈川宮前郵便局⇒普門寺⇒甚行寺⇒萬新菜館(昼食)⇒京急神奈川駅⇒青木橋⇒本覚寺⇒三宝寺⇒高島山公園⇒東横フラワー緑道⇒大綱金毘羅神社⇒料亭田中屋⇒神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所⇒上台橋⇒鶴屋町歩道橋・鶴屋町クレインズ歩道橋⇒JR横浜駅

神奈川区では「かながわ歴史亀さんぽ」というパンフレットが横浜市歴史博物館の協力で作られており本日はこれを見ながらウォーキングです。片面が地図になっており旧東海道と神奈川宿歴史の道が色付けでわかるようになっていました。
とても良い工夫の一つ目の発見は車道と歩道境目の車止めは亀のモチーフがずらり。
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二つ目の発見は街路灯のてっぺんに亀のモチーフが街灯大きさにより2種類。
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三通目に発見は観光史跡や名所の入口には青紋が扇形でありました。
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JR東神奈川駅自由通路東口通路には歌川広重の東海道五十三次の「神奈川台の景」があり茶屋立ち並ぶ風景と湊の様子がわかるとのことでした。惜しいことに本日の集合待ち合わせが西口デッキあたりだったので見損ないました。

金蔵院は京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹とのこと。その後、徳川家康から十石の朱印地を許されています。その昔の参道は街道まで伸び、金蔵院と今はお隣の熊野神社が境内に並び立っていたとのことです。本堂前には徳川家康の「御手折梅」といわれる梅があり当時は毎年一月にご住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしだったとのことです。本日は閉門しており熊野神社の方から垣間見ました。
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熊野神社の創建は1087年(寛治元年)、醍醐三宝院勝覚僧正68代が紀伊国牟婁郡熊野坐神社を分祀、神奈川権現山に勧請、熊野三社大権現としたとのことです。1582年(天正10年徳川家康公武州小机領神奈川郷の内御朱印高10石を賜ったのです。
拝殿は銅板葺入母屋造。扁額には「熊野大神」と記されており拝殿背後の本殿は、美しい流造です。現在の社殿は戦後に再建されたものとのことでした。
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境内入口は南東向いており、石の大鳥居の左右におおきな立派な狛犬がありました。
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本殿右手後方には樹齢四百年の公孫樹の木がありました。
木の中央部に洞があり、少し焦げたあとのようでした。
この公孫樹は1868年(慶応4年)の神奈川大火や1945年(昭和20年)の戦災で焼失したのにその後、再生したため「火伏のイチョウ」と呼ばれているとのことでした。
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御殿町公園から神奈川地区センターの先まで神奈川宿を偲ぶことができる松並木になっていました。松並木は夏は木陰を作り福や吹き付ける風や雪から旅人を守ったといわれています。この風景は町おこしで新たに松が育ちつつあるようです。
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傍には昔のお知らせを掲げた高札場がありました。
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そうそう、神奈川地区センターには広重の東海道五十三次八十二万歩の旅のジオラマがありました。

成佛寺(じょうぶつじ)(外国宣教師宿舎跡)。
成佛寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺院。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移されたとのことです。1859年(安政6年)の横浜開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ジェームス・カーティス・ヘボン博士は本堂に、宣教師のブラウンは庫裡に住んだということを伺いました。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られおり日本最初の和英辞典を完成ました。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力、ここでは通訳として活躍したアーネスト・サトウも学んだようです。
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写真中央の石の模様が浪のようなのが「浪石」。言い伝えでは満ち始めると湿気を持ち、満潮になると夜露がしたたるようになりまた、引き潮になるとぬぐったように乾くので潮の時刻がわかるということでした。浦島太郎が竜宮から帰ってきて両親の墓に参り、呆然とたたずんだあと再び竜宮へ行こうとしたが、それは出来なくて、この石に腰を下ろして過ぎし日を偲んで思わず大きな涙をこの石にはらはらと落としたことから「浦島太郎の涙石」「泣き石」とも言われているようです。

慶運寺(けいうんじ)(フランス領事館跡)
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横浜・神奈川区に江戸末期明治時代に観福寿寺という寺院に浦島太郎が竜宮より持ち帰った観音像を本尊としていたため「浦島寺」と呼ばれていたということです。ただ明治初年に浦島寺が焼失して以降、観音像と浦島大明神像・亀化龍女神像(乙姫像)は慶運寺に移されて祀られたのです。東京芝・増上寺元禄8年の記録に「浦島太郎所持之観音像」と記されているそうで、浦島寺の観音像は、江戸時代のはじめから浦島太郎ゆかりの観音さまとされていたのです。
浦島観音の扁額があるお堂内には観音様がはっきり見えました。
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浦島太郎の山車は浦島町浜公園で年数回展示されるとのことでした。
また浦島太郎の絵本ができており浦島太郎伝説を子供たちに伝える努力がされているとのことでした。

滝の川を挟んで浄瀧寺(じょうりゅうじ)(イギリス領事館跡)がありました。
日蓮宗に寺院、1260年(文応元年)妙湖尼が日蓮に出会い法華経の道場とした寺院だとのこと。
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「神奈川の大井戸」は徳川将軍や明治天皇が来れた時にも使われた井戸だそうです。井戸の水量が増えると次の日にはお天気といわれ「お天気井戸」とも呼ばれていたとのことでした。
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宗興寺(そうこうじ)は曹洞宗のお寺で正式には開塔山日輪院宗興寺。創建年代は不詳とのことですが、伊豆海島風土記によると永享12年(1440年)に開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとのこと。臨済宗さらに曹洞宗寺院となったようです。
幕末になると横浜が開港され、ヘボン式ローマ字の宣教医ヘボン博士がこの宗興寺に施療所を開設したのです。
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境内には「ヘボン博士施療所」碑がありました。
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神奈川宿の本陣は今は閉店したらしい理容滝の橋の所に神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の2カ所に説明板がありました。

横浜開港当時、港の警備のために権現山の土を使ってできたのが神奈川台場。これは勝海舟が設計した8000坪の台場だったようです。今は埋め立てられ石垣のみが一部残っていました。
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洲ア大神(すざきおおかみ)は源頼朝が作った神社とのこと。この神社にご神木のアハキがあったことからこの辺りは青木町となったようです。
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甚行寺(じんぎょうじ)(フランス公使館跡)
横浜開港当時ここの本堂は土蔵作りだったのを改築して公使館として使われたようです。

青木橋から本覚寺と権現山を見ると東海道本線の辺りがぐっとへこんでいます。しかしこの権現山(現在の幸ヶ谷公園)と本覚寺の辺りはもともと尾根続きだったそうで、戦国時代にはそれぞれ隣接して権現山城と高島台には青木城があったのです。この両者の間を削りこの土を色々なところの埋め立てに使ったようです。右手に見える権現山は見事にてっぺんが削られています。
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また鉄道を通したことから青木橋の下は谷積みよう壁という頑丈な壁になっているのです。

本覚寺(ほんがくじ)(アメリカ領事館跡)
もと臨済宗で、1226年に宗祖栄西により創建されたと伝わっています。
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横浜開港時アメリカ領事ドーアが庭木を切り払い4星条旗を掲げ寺の正門には白いペンキを塗ったとのことです。その後このペンキを剥がすことが大変だったようでまだ山門の一部が白くなったままでした。文化の違いは恐ろしいですね。
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この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。横浜開港の恩人への感謝として有志により昭和57年に建立されたとのことです。 岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍をした人物。日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震なのでした。その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのです。しかし、開港の前年に岩瀬忠震は左遷され、更には安政の大獄により永蟄居を命ぜられ、その後、1861年、44歳で死去したとのことです。
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このペンキ剥がしが縁なのでしょうか。全国塗装業者の慰霊碑がありました。
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高島山公園には「望欣台の碑」と「弁玉の歌碑」がありました。
高島山は高島嘉右衛門の屋敷があった所。この方は明治初期に鉄道を通すために尽力した方。埋め立ては野毛浦石崎から神奈川停車場までの1.5km、幅76mの海面を埋め立てたのです。この時使われた土が権現山と本覚寺手前の所、ということで今は東海道線がとっているのです。
「望欣台の碑」は横浜の都市形成期の恩人高島嘉右衛門の顕彰碑。
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「弁玉(べんぎょく)の歌碑」にある弁玉は幕末の僧侶・歌人。浅草の生まれ、晩年はこの公園そばの三宝寺の住職でもあったとのことです。
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東横フラワー緑道は、東急東横線の地下化により生じた東白楽駅 - 横浜駅間の線路跡に横浜市によって整備された延長約1.4kmの緑道(公園)です。AM6:00〜PM9:00までの通行可能なのが面白いと思いました。
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広重の「東海道五十三次」の神奈川・台之景に描かれており、坂の上から三軒目に「さくらや」とあるのが、現在の田中家。幕末の頃、1863年(文久3年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしたとのことです。
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幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうが夫亡き後に仲居として働いており、明治時代には、幕末の偉人達や要人、各国の大使、文化人などが利用したようです。
ちなみに坂本龍馬の妻・おりょうは、寺田屋騒動の折、龍馬の危機を救った女性として広く知られています。龍子は横須賀で再婚し、西村ツルの名で最初は大津、次に米が浜に住んでいました。人生の後半生33年間を横須賀で過ごしたおりょうのお墓は、現在、大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあり、毎年秋に龍子を偲んで墓前祭など、「おりょうさんまつり」が催されているとのことでした。

神奈川台関門跡。
横浜開港後色々事件が起こったため関門や番所を作り外人さんの行動範囲に制限を架けたようです。関門か神奈川宿には東西にあったようです。
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袖ヶ浦見晴所。
昔はこの石碑があるお向かい、田中屋の後ろはもう海でしたからきっとこの辺りの台地からは見晴らしがよいということで見晴らし所があったことでしょう。

現在の横浜駅は三代目の駅舎。初代は桜木町駅に改称されています、二代目の「横浜駅」は現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近にありました。現在は国道1号「高島町交差点」脇に駅舎基礎部分の遺構が残っており、横浜市認定歴史的建造物となっています。

本日はスタート10:00、ゴール15:50。からりとした青空で気温13℃はちょうどよかったのですがかなりの強風でちょっと大変でした。でも浅井先生TD金子さんの支えがあって参加者17名は無事に約15000歩、11kmを完歩。
横浜駅前で解散時お土産は高島屋でいかが!とお声掛けをいただきました。
早速7階の横浜001コーナーで勝海舟が設計した台場をイメージした「勝サブレ」と名物「横浜崎陽軒のシュウマイ」をゲットしました。
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居合わせた店員さんから「勝サブレ」をどうして求めたかの質問をいただき、事情を話したところとても喜んでいただきました。
さてさてこれで横浜散策はあと3区となりました。
またスケジュールを見ながら18区完歩を目指します。
posted by yunofumi at 21:39| あちこちウォーク