2018年07月04日

2018.7.3.NHK大河ドラマ特別展 「西郷どん」へ

近年あまり熱心ではなかったTV大河ドラマ鑑賞でしたが今回は人気の高い「西郷さん」なので初回より放映を見ております。そして西郷さんに関する書物もいくつか読みました。ということで本日、東京芸出題学大学美術館での特別展にお出かけした次第です。
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そもそも1回目放映で妻糸子さんが上野公園の西郷像除幕式で「エーッ」とびっくりして叫んだシーンに少なからず驚いたのが発端なのです。
誰でも知っている上野公園の銅像は高村光雲の作で1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まったのだそうです。全国2万5千人余の有志の寄付金で建立され、問題の除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日に行われたとのこと。この除幕式での公開の際に招かれていた西郷夫人の糸子さんが「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉を漏らし、周囲の人に窘められたということはどうやら真実だったことも今日実感。しかも西郷の死後21年もたっており明治新政府の思惑も垣間見えました。
ちなみに西郷さんの銅像は聞くところによれば有名なのはこの上野公園と、鹿児島市立美術館近くの軍装(陸軍大将)姿の銅像(1937年(昭和12年)安藤照作。それに霧島市溝辺町麓の鹿児島空港近くにある西郷公園の銅像のようです。この3番目の銅像は古賀忠雄が1976年(昭和51年)にひととおり完成していたのがそのまま置かれておりその後作者の子息の古賀晟や多くの方々の尽力で現在の紋付羽織袴の姿で見られるようです。
大河ドラマで大久保利通役の俳優・瑛太さんによる音声ガイドがありましたので大いに助かりました。
展示会場では直筆の座右の銘を記した書「敬天愛人(けいてんあいじん)」、篤姫の婚礼のために西郷さんが尽力したという調度品、徳川幕府瓦解のきっかけとなった「討幕の密勅」などかなりの資料がありました。
歴史に疎い私ですがこの幕末から明治の時代変遷は大変なことだったと大いに感じました。それにしても3人の妻に慕われ、多くの人に慕われ、また別の意味で利用もされたのではないかとも思われる西郷さんはやはり偉大だったと思いました。そしてもうひとつ、幼馴染の大久保利通と結果的に敵対する中となっていったことは個人のつながりとは別の社会のしがらみみにまみれたことでもあったのかもしれません。
今後このドラマで生麦事件など多くの史実が描かれますが今日の展示を見たことでまた少し理解が深まるかなとも思いました。
そうそう、展示会場の外にはショップがあり多くの西郷書籍がありました。そして私が近頃読んだ「西郷の首(伊東潤)」、「西郷の貌(加治将一)」は出版が古いですが相当な書籍だったと実感をもちました。歴史は掘り起こし方で解釈が色々になるようです。今回のドラマは原作林真理子、脚本中園ミホのお二人です。今後の展開はおおむねこの展示が基本でしょうから期待できそうで、さらに楽しめそうです。
今日は10:00すぎに会場に入り約4時間見て回り、フラフラ!
館内のミュージアムカフェで西郷さんに因み「鹿児島産黒豚煮込み御膳」をいただき、また鹿児島のお土産モゲット!
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外に出ればほぼ快晴!気温33℃!すぐお隣の上野動物園のパンダを見ようかしらと思いましたが炎天下30分待ちとありましたのでまたね!と退散しました。
お陰様で中々充実した1日となりました。たまの骨休めも大切!日々明るく!元気に!過ごします。
posted by yunofumi at 00:22| ドタバタ日記

2018年07月01日

2018.7.1 いよいよ7月です

今日から7月!数日前に梅雨明けし今日はまた暑い!
午前は代々木公園でのMBTポールウォーキングに参加。
いつもの仲間といつものように和気あいあいで9:00〜11:00ころまで過ごしました。
近頃はポールウォーキングの合間にベルトを使ったストレッチをしたり、明治神宮の喫茶でお茶をしたりします。また明治神宮の森にタシロランが咲いているらしいとのことで仲間と見に行きました。
ありました!!
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そして帰宅後ネットで調べてみるとタシロラン(田代蘭)は環境省のレッドデータブック準絶滅危惧種に分類される希少なラン科の植物であることを知りました。
ということで来週、もう一度見に行こうと思います。
posted by yunofumi at 21:32| ドタバタ日記

2018.6.30 フレッシュコンサートへ

私が住人であるふじみ野市は現在人口11万の市民がいます。2005年に上福岡市と大井町が合併して出来た街です。旧住宅公団(今のUR)の霞ヶ丘団地と上野台団地が高層住宅になり、住民はぐっと若返った印象です。市長が2009年から変わり市民へのサービスも変わってきた印象です。
今日は産業文化センターで市内に関係している若い音楽家のコンサートなので出かけました。
今日のコンサートはソプラノの小西佑里香、河野柚子、二宮紀子、上石知加子、水野友貴、ピアノの伊藤正騎の若手が中心のプログラム。さらにピアニスト青木しのぶ、篠宮久徳、堀家徳子、テノールの東海林尚史が応援で出演や演奏をアシストしておられました。
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プログラムは一人ずつのミニコンサート形式でしたが熱意が伝わり、とても良かったです。
市内の住人にもこのような芸術家が育っていることは本当に喜ばしいことです。これからもできるだけ機会を見つけて取り組みに参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 15:39| ドタバタ日記

2018年06月26日

2018.6.22. 足利フラワーパークへドライブ

自宅⇒川島IC⇒東北自動車道⇒佐野藤岡IC⇒足利フラワーパーク⇒栗田美術館⇒佐野厄除け大師⇒東北自動車道⇒川島IC⇒自宅

足利フラワーパークは栃木県足利市堀込町に 「早川農園」 として1968年に開園。それ以来 「250畳の大藤」 として知られていたとのこと。1997年に都市開発の為に現在の足利市迫間町 ( はさまちょう ) に移設し、「あしかがフラワーパーク」 としてオープンしたのです。元々湿地帯だった場所だったため園内に炭を敷き、土壌を浄化しすべての生命体の活性化を図ったと伺いました。園内の拡張整備も進み、現在は 94,000u の敷地面積となっているのです。
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園のシンボルは大藤で日本の女性樹木医第一号の塚本こなみさんが移植に尽力し、現在の姿になっているとのことでした。

大藤 4本 ( 野田九尺藤 3本、八重黒龍藤 1本 ) と 80m の白藤のトンネルはそれは立派でした。今日は花の時期は終わっていましたが、また来年が楽しみです。そして先日テレビで紹介されたイルミネーション は10月とのことでしたからまた伺いましょう。
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ということで入口ではまずは花しょうぶ。
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園内にもあふれるほどの花菖蒲でした。
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そして薔薇の花がこれも見事でした。
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パローレ
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ソルベフラン・ボワーズ
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大きな池には蓮が咲いていました。
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また百合も色々の花が見られました。
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まずは広い園内を歩き回り花々を堪能した後はレストラン「ウエステリア」で食べられるお花エディフラワーをあしらったローズパフェをいただきました。バラの香りも美味しさを引き立てていました。

次はこの園から徒歩約10分の栗田美術館に伺いました。
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創設者は栗田英男(故人)さん。彼が半世紀にわたり収集した伊萬里、鍋島のコレクションを土台として昭和43年に栗田美術館東京本館を開館、昭和50年にこの足利本館を設立したとのことです。
敷地は2万坪の景勝の地でそれは広々とし、緑豊かですっかり焼き物を堪能しました。
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赤松の道
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ミュージアムショップ
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佐野厄よけ大師は朱雀天皇の944年(天慶7年)奈良の僧宥尊上人が開いたお寺で最初は日本仏教で最も古い南都六宗の法相に属し、正式には春日岡山転法輪院惣宗官寺というとのことでした。
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厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された「金銅(きんづくり)大梵鐘」
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足尾銅山鉱毒素事件を世間に知らしめた田中正造翁の墓。
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3カ所も一人でじっくり見て回ったのでとっくにお昼過ぎとなり、佐野厄よけ大師前の佐野市観光物産会館で紹介いただいた「鰻魚豊」へ。ちょっぴり贅沢なうな重をいただきました。折角の御馳走なので、敢えて小さいのにお願いしました。近頃になく国産鰻と新潟佐渡のコシヒカリとのことで近年になくふっくら美味しかったです。
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今日は露の真っただ中ですが天気予報に後押しされ朝早くに出発。東北自動車道を走り佐野ICで下に降り、約80kmで足利フラワーパーク到着。カーナビの御蔭で何ら迷うことなく爽快な気分のドライブでした。途中休憩なしでは1時間30分くらいですからちょっと気分転換にはよい距離なのです。
一日中ほぼ快晴で気温28℃は少し汗ばむくらいでした。本日訪れた所はいずれも初めてでしたので見て歩きはとても楽しかったです。特に足利フラワーパークは季節によってはまた別の風景も楽しめそうと思いました。そうそう足利フラワーパーク駅が正門のすぐ傍にできておりこれまたお客さんには一段と便利になったようでした。
posted by yunofumi at 00:05| ドタバタ日記

2018年06月22日

2018.6.17 横浜散策 第12回戸塚区

JR戸塚駅⇒オーロラシティ⇒福寿歩道橋⇒福寿観音⇒柴田農園⇒旧東海道・品濃坂上⇒品濃坂歩道橋⇒品濃坂・品濃町⇒楓の風⇒東戸塚駅入口交差点⇒旧東海道・海道橋⇒旧東海道・赤関橋・川上川⇒上柏尾交差点⇒柏尾歩道橋⇒瑞穂神社⇒柏尾バス停⇒柏尾小学校入口交差点⇒王子神社⇒四つ杭跡⇒護良親王首洗井戸⇒戸塚警察署不動坂交番⇒益田家のモチの木⇒大山前不動・柏尾の大山道道標⇒史跡への小径⇒斉藤ハム製造本舗⇒舞岡川・元舞橋⇒舞岡町入口バス停⇒舞岡入口交差点⇒五太夫橋⇒宝蔵院会館⇒江戸方見附跡⇒読売新聞戸塚東部⇒妙秀寺⇒旧東海道・吉田一里塚跡⇒森永牛乳店⇒吉田大橋⇒横浜矢部郵便局⇒伊東医院⇒戸塚駅・TOTSUKANA漁師料理海ぶね⇒戸塚大踏切デッキ⇒南向山清源院・芭蕉の句碑⇒SACLASS⇒バスセンター前交差点⇒大和証券戸塚支店⇒内田本陣跡⇒戸塚郵便局⇒問屋場跡⇒澤邊本陣跡・羽黒神社⇒戸塚消防署⇒消防署前バス停⇒歯科佐藤⇒保田動物病院⇒日立入口バス停⇒八坂神社⇒かまくら道道標⇒八坂神社前交差点⇒冨塚八幡宮・冨塚天満宮⇒上方見付跡⇒大坂下バス停⇒日立入口バス停⇒柏尾川桜並木道・桜橋⇒豊塚堰⇒JR戸塚駅

福寿観音
JR東戸塚駅からすぐの福寿歩道橋そばにありました。建立した願主は福原政二郎氏。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い、土地造成を担当した新一開発の社長さん。昭和38年(1963年)以来、この東戸塚の開発の旗振りをやってきた人で信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したとのことでした。
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品濃坂(しなのざか)には環状2号線の上を跨いでいる“品濃坂歩道橋”の西端に 高さ1m弱の小さな祠のような家型の標識がありました。
坂名の由来は不明とのこと。戸塚区平戸の台地から 急坂を下る 古い歴史のある坂道で、現在は 坂の途中が環状2号線によって分断されてしまい,東西が「品濃坂歩道橋」でかろうじてつながっているだけなので,これらが もともと つながった一つの坂だという知識がないとわかりにくい感じでした。
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品濃坂を下り旧東海道に沿って歩くと柏尾川沿いに海道橋、赤関橋を通過、柏尾小学校を通過して王子神社に到着。
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王子神社は後醍醐天皇の第一皇子護良親王(もりながしんのう)が祭られているようです。侍者が、護良親王の御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、密かに現本殿の位置に埋葬したと伝えられています。四抗とは、御首を洗う為の四本杭の簀の子のことで、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛ともいうようです。また、首を一時隠し奉った所を「御墓」といい、老松がありました。
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近くに親王の御首を洗い清めた井戸とされる「首洗(くびあらい)井戸」がありました。
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益田家のモチの木は通称「相模モチ」といわれ、不動坂交差点北東側の旧「益田家」の敷地内に樹立、2本の雄株が寄り添うようにそびえ、片方は高さ18m・根回り3.1m、もう片方は高さ19m・根回り4.9mあったそうです。樹齢約300年と推定され、江戸時代以来、東海道沿いにその威容を誇ってきた歴史的価値のある樹木として、1981年(昭和56年)に神奈川県指定天然記念物となったのでした。ところが2017年2月に倒木の危険があると切って今の状態になったそうです。いやはや歴史を知らないと大変なことになるのですね。びっくりしました。
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大山不動尊・柏尾の大山道道標。
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大山には大山阿夫利神社と追分不動尊が祀られていて、江戸時代からよく信仰されているとのこと。参拝者は旧東海道から大山街道を利用して伊勢原に入り大山産廃に向かうのでした。この大山街道の入り口がこの柏尾にあることから追分不動尊が建立されたようです。

斉藤ハム製造本舗の隣は鎌倉ハムの倉庫で日本人によるハム製造発祥の地。この倉庫は今でも持主が貯蔵庫として使用しているようです。
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ブリジストン工場前の国道(東海道)には五太夫橋」が舞岡川に架かっていました。
橋にはプレートがあり、以下のように書かれていました。
「石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏 の家臣で豊臣秀吉 の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正一八(一五九〇)年江戸に入る徳川家康 をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓があります。」

江戸方見附跡。
以前東海道五十三次でこの地を訪れた時はイオンだった所が工事の塀で囲われ江戸方見附跡の碑は窮屈そうでした。見附は宿場町の出入り口で、戸塚宿の入口を示しています。
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妙秀寺は日蓮宗のお寺で身立山妙秀寺。鎌倉の小町にある妙厳山本覚寺の末寺で、題目である「南無妙法蓮華経」の弘道の拠点として延文元年(1356年)に創建されたとのこと。開基は豊島氏一門の妙秀禅尼、開山は身立院日修(しんしゅういんにっしゅう)聖人。ご本尊は宗祖・日蓮大聖人折伏像で、寄木造りで玉眼彩色された高さが34.2cmの像。
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境内には2つに折れたものを繋いだ「(かま)くらみち」道標がありました。上部は剥離して字が読めないけれど、歌川広重作の浮世絵「東海道五拾三次」の「戸塚宿」に描かれた「左かまくら道」道標とする説や大正時代に大橋の袂にあった2つに折れた道標を移設した等の伝承があるようです。しかし、裏面に「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の題目が彫られていることからこの道標は妙秀寺から真っ直ぐ行った柏尾川の土手の寺側あたりにあった鎌倉道道標ではないかとうかがいました。
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旧東海道・吉田一里塚跡。
吉田の一里塚は明治に入り早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40km。昔は、40kmは一日で歩く距離、したがってこの辺りで旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所だったのです。今は案内板だけでした。

吉田大橋。
正式名称は「大橋(おおはし)」。
江戸時代の浮世絵にも描かれている歴史ある橋ですが、現在の橋は昭和61年に架け替えられた橋です。
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この辺りの路面にはこの広重を元にしたマンホールがありました。
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南向山清源院。
浄土宗寺院の清源院は、南向山長林寺と号し、かつて安達藤九郎盛長の一族長林某が創建した獅子王山林長寺があったこの地に清源院尼が元和元年(1615)に開基、小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建したといわれています。
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芭蕉の句碑、心中句碑、徳川家康の側室の於萬の方(清源院殿)の火葬跡もありました。
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内田本陣跡。
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本陣は、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があったのです。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったということです。

問屋場跡。
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戸塚宿には大小あわせて75の旅籠(はたご)、本陣が2軒、脇本陣3軒がありました。そしてこの辺りが宿の手配等を行う問屋場だったようです。どうやらこの通りを挟んで斜め前の大きなビルの辺りとのことでした。

澤邊本陣跡。
澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つ。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者で明治天皇の東下の際には行在所になったようです。
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敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社がありました。1556年(弘治2年)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
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戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建したとのことです。その後1688年(元禄3年)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたといいます。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたといいます。
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お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったということです。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されているのです。

八坂神社前の交差点を渡った所にかまくら道道標がありました。
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冨塚八幡宮・冨塚天満宮
富塚八幡宮は社殿後方の山上には富属彦命の鎮堂を奉った富塚が、境内には松尾芭蕉の句碑があります。戸塚の地名は、この「富塚八幡宮」の「富塚」からきていると言われているようすで戸塚の氏神様として市民の信仰を集めているのです。
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拝殿・本殿に向かい右手前側に裏山へ上る山道をたどると「富塚の碑」という石碑があるとのことでした。「富塚」は戸塚区内に現存する唯一の前方後円墳なのです。
学問の神様でもある、天満宮の社殿が神社社殿の脇に建っており、合格祈願に訪れる人も多いとのことです。さらにその横には庚申塔が沢山ありました。
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上方見付跡。
東海道の各宿場の出入口には見付がおかれ、ここで大名行列などを出迎えました。ここは戸塚宿の京都の方で上方見付なのです。モニュメントが作られていました。
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柏尾川桜並木道。
柏尾川は、戸塚区柏尾町の阿久和川と平戸永谷川の合流点から藤沢市の境川合流点までの延長約11kmの二級河川。流域面積は約84km2、横浜市内では2番目の大きさ。この川は、昔は暴れ川と呼ばれ、たびたび洪水を繰り返していたのです。その治水対策として本格的な河川改修が行われたのは昭和55年からで、流域での1時間あたりの降雨量50mmに対応する整備が進められてきました。 また、上流側のブリヂストンに隣接する柏尾橋から栄区飯島橋までの区間には、河川管理用通路を活用した緑豊かな親水空間であるプロムナードもあるとのことです。堤防や高水敷を利用した広場やイベントステージ等があり、水辺でのレクリェーションを楽しむことができる憩いの空間なのです。柏尾川の桜の歴史は古く、安政年間からで、大正〜昭和初期には、戸塚駅から大船までの両岸に見事な桜のトンネルができ、関東屈指の桜の名所として知られるようになりました。その後、戦争や改修による伐採と新たな植樹を繰り返し現在に至っているのです。 現在、区内の柏尾川プロムナードに現存する桜は約700本で、その約8割がソメイヨシノ。その他には、オオシマザクラ、ヤマザクラなど9品種が確認できているとのことでした。
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戸塚区は自治体の取り組みが良く、あちらこちら見るところはほとんど案内があり、感心しました。しかし昔の風情がほとんど残っていない場合が多く、これは少し残念に思われました。
本日は曇り、気温22℃、風はほとんどなく、ウォーキングにはまずまずの日和。参加者22名は講師浅井先生、TD関さんのお世話でAm10:00〜PM4:00までに歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。まだまだこのシリーズは続きます。頑張ります。
posted by yunofumi at 22:33| あちこちウォーク

2018年06月16日

2018.6.10. 山手線歴史探訪ウォーク 第10回

新橋駅〜東京駅
JR新橋駅烏森口改札⇒新橋駅D51機関車の動輪・鉄道唱歌の碑⇒スペースFS汐留⇒汐留シティセンター⇒旧新橋駅停車場・鉄道歴史展示室⇒ゆりかもめ新橋駅⇒汐留駅⇒はまかぜの階段⇒旧浜離宮恩賜庭園⇒ベルサール汐留⇒銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機⇒銀座郵便局・検査業務開始の地⇒中銀カプセルタワーホテル⇒建築の礎石(汐留遺跡)⇒昭和通り銀座歩道⇒銀座三井ビルディング⇒とらや⇒ライオン⇒交詢社通り⇒スズラン通り⇒銀座千疋屋⇒COACH⇒TOKYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒泰明小学校・銀座の柳2世⇒山下橋跡⇒山下橋架道橋⇒帝国ホテル⇒鹿鳴館跡⇒日比谷公園・馬の水のみ・大岡越前守忠相屋敷跡⇒検察庁⇒法曹会館⇒皇居坂下門⇒桜田門⇒汐見坂⇒二の丸庭園⇒平川門⇒将門塚⇒GUERANICA⇒JR東京駅

JR新橋駅烏森口改札。
古くからの商店街や中小様々な雑居ビルが混在する、ビジネスマンの歓楽街、それに烏森神社が傍にあるのでこの改札名になったようです。

新橋駅D51機関車の動輪。
JR新橋駅の汐留口を出て左側、ゆりかもめ新橋駅の入り口の正面にあるモニュメント。またすぐ隣には鉄道唱歌の碑がありました。
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2018(平成30)年は、日本の元号が「明治」と改められて満150 年の節目の年にあたります。 幕末期に日本が開国へと動き始めた頃、日本にもたらされたのが蒸気機関車です。1869年(明治2年)、明治政府は鉄道建設を決定しましたが、技術も物資も資金もなかったため、外国人を招聘し、その指導のもとに鉄道建設を開始。1872年(明治5年)に日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業したのです。
今発掘された旧新橋停車場駅舎やプラットホームの石積み、基礎の構造が鉄道歴史展示室の裏で見られます。
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旧浜離宮恩賜庭園。
元々は江戸幕府の老中だった大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで回遊式庭園。その後宮内庁管理の離宮を経て1924年(大正13年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として現在公開されています。
藤棚、雪見灯籠、、州浜、、枯滝 、石柱、西湖堤、大島、中島 、浮島、大山、根府川山、唐津山、三百年の松など見るところが沢山ありました。
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銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機。
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この信号機は、昭和6年から昭和62年までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されたものとのことです。現在は汐留駅の廃止で、引込線も撤去されていますが、この踏切だけ残っていて、少し不思議な光景でした。

銀座郵便局の前に「検査業務開始の地」石碑がありました。ここには電信用機材である硝子の検査を行った「硝子試験所」があったそうです。
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中銀カプセルタワービル(なかぎんカプセルタワービル)とは、黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)。1972年(昭和47年)竣工。黒川紀章の初期の代表作。それぞれの部屋の独立性が著しく高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっているようですが、実際には一部のカプセルのみを交換することが困難であることから、現在に至るまで一度も交換されていないとのこと。鳥の巣箱を積み重ねたような特異な外観は、ユニット製のマンションであることの機能をダイレクトに表現し、そのメタボリズムの設計思想を明確に表現したデザイン性は高く評価されているとのこと。また、ビジネスマンのセカンドハウス・オフィスとして想定されたその内装は、ベッド、エアコン、冷蔵庫、テレビ、収納などが作りつけで完備されており、洗濯機などの日用品は配されているのでした。2006年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれています。現在、老朽化のため取り壊し・建て替えなどの提案があるようです。
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建築の礎石(汐留遺跡)。
浜離宮庭園から築地の方向に歩いた歩道橋の下にありました。説明板によると仙台藩伊達家上屋敷の土台として使われていた礎石だとのことです。

ウォーキング途中で交詢社通りに出ました。
交詢社は1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブのこと。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案。1880年に青松寺(東京芝区愛宕下)で発足。その後大正元年に財団法人化されて正式名称は財団法人交詢社。現在も一般財団として存在しているとのことです。

数寄屋橋公園は2016年にオープンした東急プラザ銀座と合わせてリニューアルされ綺麗になっています。ここは江戸時代、江戸城に初めて架けられた数寄屋橋があった所で石碑もあります。また岡本太郎作の「若い時計台」も見られます。
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泰明小学校は東京都中央区銀座の小学校。
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1878年(明治11年) 東京府立泰明小学として創立。校舎は、1923年の関東大震災の教訓から、通常の壁厚が15cm程度であるのに対し22cmを有する堅牢なつくりとし、第二次世界大戦の東京大空襲の爆撃にも耐えて現在に至っています。外観は、ツタの絡まる校舎の外壁や、連なる3階の半円形の窓、円形に張り出した講堂、緑を伴うアーチ型の開口を有する塀、“フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有しています。
島崎藤村、朝丘雪路や近衛文麿など卒業生には著名人が多いとのことです。

帝国ホテル。
1883年現在のホテルの続きで鹿鳴館が完成。1887年当ホテル設立が決まり1890年に帝国ホテルとして開業。建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層で室料は最下等50銭、2食付き2円50銭09円だったとのことです。今日はこの街歩きシリーズの最終回のため帝国ホテル内なだ万で点心のランチでした。
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日比谷通りを挟み日比谷公園の向かのNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の左の塀に、「鹿鳴館跡」のプレートがあります。鹿鳴館はイギリス人ジョサイア・コンドルが設計したレンガ造り二階建ての洋風建築で、1883年(明治16年)年落成。1894年(明治27年)華族会館に払い下げられ、1927年(昭和2年)には 現在の大和生命保険に売却, 1940年(昭和15年)に解体されたのです。プレートには以下の要に記されていました。
「鹿鳴館跡   ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった.その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった  千代田区」
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日比谷公園は霞が関、有楽町などと隣接し都心部にある都立公園。公園面積は161,636.66u。 後楽園球場や東京ドームと並んで、広さを誇っています。江戸城日比谷御門のすぐ外にあり、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれたところでもあります。中にはいるとすぐに「馬の水のみ」がありました。
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東京メトロ丸の内線霞が関駅近く、弁護士会館の角に大岡越前守忠相屋敷跡の案内がありました。時代劇で有名な大岡越前は実在の人物です。彼は徳川8代将軍吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めました。そしてこの当地が町奉行の大岡家の上屋敷跡が弁護士会館というのも面白いですね。
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桜田門(さくらだもん)は、江戸城の内堀に造られた門。1860年(安政7年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きたことはよく知られています。

汐見坂は江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名の由来とのこと。往時には坂の上には、汐見坂門があったようです。また坂の横には白鳥濠があって、防御が堅いことがわかります。

江戸城二の丸は本丸の東側にあり、3代将軍家光の命で1630年(寛永7年)に小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成。家光と秀忠との茶会が催されたとのことです。2代将軍・徳川秀忠が死去した後の1636年(寛永13年)には二の丸御殿が建てられ東側に庭園を配置したのです。現存する庭園は当時の庭園を昭和43年に復元したものだということでした。コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、赤坂御用地の池から移したアサザ、菖蒲田には昭和41年に明治神宮神苑から株を譲り受けた84品種の花菖蒲と季節ごとに色々な花が見られます。
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平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)は、平将門の首を祀っている塚。伝承では、将門の首は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されていたのが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたといわれています。伝承地は数か所もあるようで、いずれも平将門の首塚とされているとのことでした。その中でも最も有名なのが、この大手町1丁目、三井物産本社ビル傍にある首塚。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったようですがこれは、古墳であったともいわれているようです。

東京駅丸の内北口、丸の内オアゾ1階の○○(オオ)広場にピカソの「ゲルニカ」複製陶板壁画がありました。
GUERANICA(ゲルニカ、Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画です。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としているとのことです。20世紀を象徴する絵画であるといわれています。今では反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられたのです。 ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われているようです。

本日はこのコースの最終回。とはいえ、このコースでは初めての雨降り。それも一時はかなりの風雨でカッパの中は汗でぐっちょり。久しぶりでした。気温22℃もここ数日にしては低め。また講師井上先生、TD阿部さんの添乗は初回と同様でご縁を感じました。今日も歩程10km、22000歩を達成。帝国ホテルでの御馳走の後、完歩式がありました。参加者26名中完歩は24名。私は10回中2回がまだ穴あき状態なので残念ながらシリーズ終了とはいきませんでした。後日の催行を待ち、完歩を目指すことにいたします。
posted by yunofumi at 22:30| あちこちウォーク

2018年06月11日

2018.6.5. 信州バス旅行

今日はステップトラベルのお買い物ツアーに参加。
片道約200kmをひたすら山梨県笛吹市〜長野蓼科〜長野県茅野市を往復したドライブ旅行でした。天候は晴れ、気温は約24℃、平日で空いている高速道路を縦横無尽にバスは走り、なかなか爽快な一日でした。

川越ウェスタ前⇒甲州わさび漬物センター⇒御射鹿池(みしゃかいけ)⇒遊楽庵⇒横谷峡・横谷温泉旅館・霧降の滝⇒蓼科高原チーズケーキ工房⇒丸井伊藤商店

甲州わさび漬物センター
山梨県笛吹市のわさびの漬物工場。種類が多く、また様々なレシピの紹介もあり興味深かったです。
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御射鹿池(みしゃかいけ)。
長野県茅野市 豊平奥蓼科にありました。大自然が静かに、けれど雄々しく息づく場所です。神秘的に包まれた湖に鮮やかな緑を映していました。
ここは県道191号・通称「湯みち街道」のすぐ脇にある小さなため池で、日本画家・東山魁夷が好んで描いたといわれている所で静かな水面にくっきりと映る美しい木木立はまさに絵画の世界でした。きっと紅葉の時期には多くの観光客が訪れると思われました。
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信州手打ちそば工房の遊楽庵で昼食でした。
こちらは長野県茅野市にあり、手打ち十割そば専門店でメニューは全て自家製粉の手打ち。横谷峡の天然の湧き水を使用した、挽きたて、打ちたて、茹でたての蕎麦は清々しいのど越し。十割そばのそば打ち体験もできるとのことでした。
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横谷峡の横谷温泉旅館は大正12年創業。奥蓼科から流れる渋川がつくる景勝・横谷峡の入り口に佇む和風モダンの静かな一軒宿。このエリアには“信玄の隠し湯”と語り継がれる温泉が点在しているとのことでした。宿では2種の泉質を堪能でき、ひとつは空気に触れると透明から茶褐色、黄金色に変わる含鉄泉。また、6種の湯船があり、巨石を積み上げた「渓流露天」は広々とした露天風呂で、眼下に渓流を見ることができます。秋の紅葉が素晴らしいと思われました。今日は昼間から温泉に入り、その後は瓶入りの八ヶ岳牛乳を美味しくいただきました。
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また入浴後のそぞろ歩きで霧降の滝も見ました。
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蓼科高原チーズケーキ工房はちよっとオシャレな外観でした。
濃厚チーズソフトクリームが人気のケーキ店でまさに出来立てチーズをたくさん試食しました。

最後のお立ち寄りは丸井伊藤商店。
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天然蔵などの見学をした後、みそソフトクリームをいただきました。
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午後は薄曇りとなりましたので身体はかえってラクチン!バス車内で爆睡し元気に帰宅しました。たまのバス旅行ものんびりしてよい気分でした。
posted by yunofumi at 21:50| ドタバタ日記

2018年06月07日

2018.6.2. 東京新発見旅第21回 練馬区

大江戸線光が丘駅⇒光が丘東大通り⇒光が丘消防署前交差点⇒田柄5丁目バス停⇒北野八幡宮神社⇒光が丘美術館⇒光が丘警察署前⇒光が丘郵便局⇒光が丘公園・花とみどりの相談所⇒一橋セミナー⇒高松4丁目交差点⇒高松地区区民館入口交差点⇒高松小学校⇒御嶽神社⇒高松ゴルフセンター⇒谷原1丁目交差点⇒練馬青果市場⇒神新田橋⇒こぶし橋⇒谷原三之橋⇒練馬区医師会医療健診センター⇒高野台1丁目交差点⇒氷川神社⇒長命寺⇒順天堂練馬病院⇒長光寺橋公園⇒石神井川・和田前歩道橋⇒葵寿司(昼食)⇒南田中団地西交差点⇒都立石神井公園⇒稲荷諏訪合神社⇒池渕史跡公園・ふるさと文化館⇒石神井氷川神社⇒石神井城の中心郭跡⇒三宝寺池沼沢植物群落⇒パークロード⇒石神井公園駅入口交差点⇒西武池袋線石神井公園駅

大江戸線光が丘駅
大江戸線は1991年(平成3年)に都営12号線の駅として開業。2000年(平成12年)に今の大江戸線と改称したとのこと。この駅は光が丘団地のほぼ中心軸で、駅周辺には大規模な商業施設(光が丘IMA)がありました。光が丘団地内に多くの公園がありました。2017年(平成29年)現在、光が丘1〜7丁目には約13000世帯、約30000人が暮らして居るとのことでした。
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北野八幡宮神社は、練馬区田柄にありました。創立年代不詳とのことながら、康平年間(1058-1065)に創祀したと伺いました。上田柄の氏神として地元の崇敬を集め、田柄の北野八幡さまと一般的にはいわれているようです。
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光が丘美術館。
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都営大江戸線光が丘駅から徒歩で5分のところにありました。ここは日本画や陶芸、版画など、日本芸術と伝統が融けあった美術館とうたっています。平成5年に開館した私設の静かな佇まいの美術館。森田りえ子、中野嘉之をはじめとした、新進気鋭の作家の作品や、人間国宝の田村耕一の陶芸、井上員男の全長76mに及ぶ版画の大作「平家物語」など、大変バラエティに富んだ作品を楽しむことができました。
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また、伺ったところではウィーン・ベーゼンドルファー社製の特別ピアノを使用したコンサートを、月1回程度開催。また美術鑑賞の後には、敷地内に緑が美しい空間に古民家のおしゃれな蕎麦屋が併設されており、美しい景色の中ランチが楽しめるとのことでした。

光が丘団地の周囲には、春の風公園・四季の香公園・夏の雲公園・秋の陽公園の4つの大きな公園がそれぞれ特徴を持たせて作られています。
四季の香公園は約42,100uの公園。園内には、四季折々の花があふれていました。公園の中心に「区立 花とみどりの相談所」があり、盆栽などの展示や植物の情報が見受けられました。
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春の風公園は自然豊かで多くの樹木があります。特に桜の木は多く、春のお花見スポットとしても有名とのことです。人工的な川や雨水を水源とするかえる池にはさまざまな水生植物が植えられ、鯉・亀・カルガモなどが暮らしています。
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光が丘公園は、光が丘、旭町、板橋区赤塚新町にある都立の都市公園(総合公園)。
光が丘団地に隣接する練馬区最大の公園。ここは、戦前には特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場および神田區武蔵健兒學園(花岡学院)があったとのこと。戦後は米軍グラントハイツとして利用されたとのことでした。

高松御嶽神社は江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたと伝えられており1878年(明治11年)当地に遷ったとのことです。ご祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したもの。新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、1781年あたり(天明の頃)ということです。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは山行者たちのようです。むかし、ここから約150m北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺があり、明治初年廃寺となたため墓地は愛染院に合併、ご本尊の薬師如来はその時この地に移されたのです。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものだそうです。
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鳥居脇の石仁王二体は1706年(宝永3年)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄逢したもの。背面に半歳の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていたのです。
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練馬青果市場は、昭和21年6月に、東京都中央卸売市場淀橋分場の練馬配給所として業務を開始、その後いろいろ形を変えながら平成17年には卸売事業部門を分割統合して、新会社東京新宿べジフル(株)となっているとのことでした。

石神井川遊歩道。
石神井川は流路延長25kmほどの、荒川水系の一級河川。小平市が源流域で、西東京市、練馬区、板橋区、北区と、東京都北部を東へと流れ、北区で隅田川へと注ぐ。この石神井川の、板橋区中板橋辺りから東へ、北区滝野川へ至る区間の河岸は桜の並木になっており、春には見事な景観を見せてくれるのです。今日はもう花はありませんでしたが散策をしました。
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氷川神社は江戸時代初期の創建とのこと。傍にある長命寺は元々はこちらの別当だったようです。
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長命寺(ちょうめいじ)は、高野台にある真言宗豊山派の寺院。山号は東高野山。江戸時代から「東の高野山」として関東地方でも有数の霊場として広く人々から信仰を得ていたようです。
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南大門はこの寺の山門で四天王像が安置されていました。
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順天堂練馬病院。
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練馬区は23特別区の中では5番目に広く、人口は第2位。そして人口10万人あたりの一般・療養病床数は23区内で最低。昭和61年11月に地域医療振興協会練馬光が丘病院)が開設したがそれでも病床数の不足は解消しなかったようです。順天堂が2005年に開院、それでも病床数不足。現在この病院は400床の病院とのことでした。

都立石神井公園。
三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で、園内は起伏に富み、武蔵野の自然がよく残っていました。木々に囲まれ静寂な趣の三宝寺池と、ボートで賑わう石神井池のほかに、石神井城跡とこれに関する幾つかの遺跡がありました。20万uの広さがあり十二分に緑を満喫できる公園です。
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茅葺の旧内田家
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ふるさと文化館
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池渕史跡公園石神井氷川神社は石神井の郷の総鎮守社。
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現在の町名では、石神井台から石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む全域の鎮守(守り神)。今日、一般には「石神井のお氷川さま」と呼ばれているとのこと。神社の創建は、古く室町時代にさかのぼり、室町時代の応永年間(1394-1428)に、このあたりに勢力の大きかった豊嶋氏がこの地を護る石神井城の中に、城の守護神として祀ったのが創まり。武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのです。石神井城落城後も氷川神社に対する村民の尊崇は篤く、鎮守の神として仰がれて現在に至っているのです。 社殿は本殿・拝殿ともに流れ造りです。社殿に向かい右手にある神楽殿は、昭和12年の建立。

石神井城の中心郭跡。
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石神井城は鎌倉後期に秩父平氏の豊島氏とされている。三宝寺池からの水の支配のために、この地に建てたとされているのです。 武蔵関公園から流れる石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状(せんじょう)台地上に位置しています。
この石神井城は文明9年(1477)の4月、扇谷上杉家宰、太田道灌によって落城し、廃城となっています。

三宝寺池沼沢植物群落。
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今日も27℃、晴れ渡った青空の元、参加者5名は信野講師、小玉TDの付き添いで気持ちよくウォーキングしました。歩程10km、約2万歩でしたが練馬区、それも石神井の公園巡りという感じのウォーキングで都心とはいえ、緑の中を十二分に歩き回り気持ちよく終了でした。
今回で東京23区中、21区終了。後は都合で参加できなかった北区と大田区を残すのみです。
この東京新発見旅23区めぐりはこれで3巡目だそうです。まだ不参加の所は何時催行なのかわかっておりませんが気長にチャンスを待つことにいたします。とにかくこれで一段落。ヤレヤレと思いつつ面白いシリーズでした。
posted by yunofumi at 22:46| あちこちウォーク

2018年05月27日

2018.5.27 横浜で旧交を温めました


大学を卒業以来一時期一緒に仕事をした友人です。本日は彼女の地元、横浜を散歩しました。
埼玉から乗り換えなしで馬車道駅に10:00すぎに到着。改めてなんて便利!と感嘆!
約35年ぶりということだったのに一目でわかるなんて、人って変わらないのです!!

まずは赤レンガ倉庫へ。横浜18区散策を2017年4月から始めている私ですから何かと知っているつもりでも結果的にはウロウロお供をしながらのお散歩でした。
赤レンガ倉庫は横浜明治末期から大正初期に国の模範倉庫として建設された所。激動の20世紀を潜り抜け、2002年に当時の面影を残したまま文化・商業施設として生まれ変って今日もイベントがある様子で人が多かったです。
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次は象の鼻パークへ。
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赤レンガパークと山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼ばれているのです。 横浜の港はここ象の鼻地区が確か、始まりとのことです。 横浜市では、この貴重な地区の歴史性や象徴性を活かしながら賑わいや交流の場を生み出すため、広場や緑地を基本とした段階的な整備を進め、開港150周年の平成21年6月2日(開港記念日)に象の鼻パークとしてオープンしたのです。
開国博Y150マスコットキャラクター「たねまる」を御影石で復元した記念碑もありました。
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アートスペースを兼ね備えたレストハウス「象の鼻テラス・象の鼻カフェ」ではイベントやパンの販売をしていました。
傍には横浜港湾労働者供養塔もありました。
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その後、ほぼ快晴で気温27℃、暑くて!直射日光の日差しも強い!ということで近くの横浜美術館でコレクション展2018を鑑賞。フラッシュ無しなら写真を撮ってもよいとのことで幾つか印象に残ったものを撮影。
入口すぐ宮川香山作の眞葛焼の大きな花瓶を発見!素晴らしい!
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荒井寛方《一遍上人》は実際に村々で教えを広めていた様子がしのばれました。
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下村観山《闍維(じゃい)》は初めて目にする様子。少しびっくり。
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佐々木豊《ものみな彼岸へ》はかなり強烈。
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美術音痴の私ですがまずは目の保養でした。
その後はお茶をいただき友人とサヨナラ!若い頃の知り合いはおしゃべりをすればもうその時代に逆戻り!ということで話は尽きなかったです。もちろんまた再会を。そう、次は川越散策を約束しました。とってもリラックスした楽しい一日でした。
posted by yunofumi at 23:14| ドタバタ日記

2018年05月26日

2018.5.19. 山手線歴史探訪ウォーク 第9回

品川駅〜新橋駅
JR品川駅・品川駅創業記念碑⇒高輪交番⇒ザプリンスタワー東京⇒港区立高輪公園⇒東禅寺⇒洞坂⇒桂坂⇒高野山東京別院⇒高輪消防署二本榎出張所⇒承教寺⇒東海大学⇒虎屋⇒都営高輪一丁目アパート⇒細川家下屋敷跡・大石切腹の庭⇒保安寺⇒高輪中学校・高校⇒泉岳寺・赤穂浪士記念館⇒泉岳寺駅⇒高輪大木戸跡⇒東京トヨタ本社ビル⇒高輪郵便局⇒笹川記念会館⇒御田八幡神社⇒都営御田駅⇒田町西口交差点⇒江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地⇒港区勤労福祉会館⇒三田眼科⇒慶応仲通り商店街⇒水野監物邸跡⇒茶の木稲荷⇒三田中国飯店⇒春日神社⇒慶大東門前交差点⇒慶応大学⇒綱坂⇒三井倶楽部⇒綱の手引坂⇒伏見寶稲荷神社⇒赤羽橋⇒ザプリンスパークタワー東京⇒伊能忠敬測地遺功表⇒芝東照宮⇒芝公園⇒旧台徳院霊廟惣門⇒三解脱門⇒増上寺⇒御成門⇒青松寺⇒愛宕神社⇒愛宕山下バス停留所⇒浅野内匠頭終焉の地碑・新橋4丁目⇒新正堂・切腹最中⇒新橋4丁目交差点⇒JR新橋駅

JR 品川駅東口の駅前ロータリーに品川駅創業記念碑があります。
日本最初の商用の鉄道は, 明治5年に 品川(汐留)〜横浜(桜木町) 間に開通したとされていますが、 実は 正式開業の半年ほど前に 品川〜横浜 間で仮開業しています。 つまり, 品川駅は 日本で最初の鉄道駅なのです。
碑文の表面には品川駅創業記念碑 明治五年五月七日品川横浜間鉄道開通。
裏面には 鉄道列車出発時刻及賃金表 定 明治五年五月七日、賃金表  車ノ等級上等片道壹円五拾銭、中等同壹円、下等同五拾銭。
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現在の 品川駅のある場所は 実は港区で, 品川区ではないとのことです。鉄道建設当時, 品川駅は 本来の“品川”である東海道品川宿地区に置かれる計画でしたが, 「鉄道駅ができると 宿場がすたれる」という危機感から地元が強硬に反対し, やむなく 品川区に隣接する港区高輪地区に置かれることになったということでした。

東禅寺(とうぜんじ)は港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。江戸四箇寺の1つ。寺名は開基の日向飫肥藩主伊東祐慶の法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていたのです。初代英国公使はラザフォード・オールコック。この方の著書「大君の都」に水戸藩士が東禅寺を襲ったことが記されているとのことです。
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洞坂(ほらざか)は高輪3丁目16番、3丁目19番の間の坂。法螺坂、鯔坂とも書くとのこと。この辺りの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言ったようです。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、くぼ地のため洞というなど様々な説があるようです。

桂坂(かつらざか)は、高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂。かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれているとのこと。桂はよい字を当てたものらしいです。

高野山東京別院は江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年〜1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創されたとのこと。
本日は工事中で外観が見られませんでした。
1655年(明暦元年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、1673年(延宝元年)高野山江戸在番所高野寺として完成。その後1702年(元禄15年)火災により焼失したが、翌16年に復興。御府内八十八箇所の1番札所になり、白金にあった文殊院が88番の結願所になったようです現在、宗派は高野山真言宗。本尊は弘法大師。境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等があり、お遍路の受入も万全。隣に建つのは高輪警察署。地下には東京電力の変電所があるとのことでした。

高輪消防署二本榎出張所。
建物がまるで灯台のようなレトロな建物でした。ここは1933年(昭和8年)以来78年の長きにわたって高輪の街を見守り続けている現役の消防署。建物は地上3階建てで、躍動感溢れる曲線と曲面で構成された、第一次世界大戦後の「ドイツ表現主義」というデザインだそうです。3階以上のひときわ高く空に突き出した円柱部分は望楼(ぼうろう)と言って火の見櫓の役目をしていた部分とのことです。
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また消防車が数台ある中で昔のままの「ニッサン180」が車庫にありました。
これは本格的な国産消防ポンプ自動車の第一号だそうです。
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承教寺(じょうきょうじ)は日蓮宗の寺院。山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院で本尊は曼荼羅、英一蝶筆の釈迦如来像。旧本山は大本山池上本門寺ということでした。山門を入るととっても変わった狛犬がデン!
顔は獅子か虎、体は牛か猪か。とにかくはっきりしません。中国から伝わって来たようです。
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肥後 熊本藩細川家下屋敷跡。
ここは大石良雄外十六人忠烈の跡」として説明板がありました。
この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷のほんの一部でこの庭先で切腹があったようです。赤穂事件とは、1701年(元禄14年)3月14日に起こった殿中刃傷事件、それから翌年12月14日から15日にかけての吉良邸討ち入りを含めた一連の事件のことを言います。細川家は、大藩の威厳と識見をもって浪士たちを優遇し、お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけだったようです。1703年(元禄16年)2月4日午後2時、上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べたということです。切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だったとのことでした。
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泉岳寺(せんがくじ)は、曹洞宗の寺院で青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられるとのことでした。1612年(慶長17年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したけれど、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されたとのことです。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られています。もう数回伺っていますがそのたびにあちらこちらと綺麗になっています。やはりそれだけ多くの参拝客が訪れるのです。
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高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)は、1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡のことです。木戸は最初、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ、札の辻に設けられたのが、700m南のこの場所に移転し高札場として大木戸が設けられたようです。
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木戸は、最初は街道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしたのでした。現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9m) 、幅四間(7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。

江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地。
ここは、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされていました。現在は、鉄道も敷かれ、更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。この会見により、人口100万人を超える世界最大規模の都市だった江戸とその住民は戦火に巻き込まれずに済んだのです。
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水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したと伝わっています。
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慶応大学東門。
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1858年(安政5年)福沢諭吉が蘭学塾「一小家塾(いちかじゅく)」を開いたのが始まり。その後築地から芝新銭座へ移り1868年(明治元年)当時の年号に因み慶応義塾大学と名付けられたとのことです。慶應義塾三田キャンパスには、国の重要文化財である三田演説館や赤レンガの図書館旧館があり、明治の息吹を今の時代に存続させ、アカデミックな雰囲気を漂わせています。構内には「福澤諭吉終焉之地」の記念碑や佐藤春夫の詩碑など数多くの文学碑や美術作品が散在しています。慶應義塾の代表的な応援歌のひとつが「丘の上」と題されているように、キャンパスへ続く道はすべて坂道。登りきったところに学問の庭があります。
今、三田キャンパスには、文学部の2〜4年生、経済・法・商学部の3・4年生、文学・経済学・法学・社会学・商学・法務研究科の大学院生の学び舎があります。女子高等学校、中等部もキャンパスに隣接しているとのことでした。

綱坂は三田2丁目にありました。平安時代の武将渡辺綱がこの辺りで生まれたということが坂の名前の由来だそうです。

綱の手引坂。
平安時代の武将で源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の時、姥に手を引かれて行き来したという伝説により坂の名前としたとのこと。別名、馬場坂ともいうようです。

伊能忠敬測地遺功表が丸山古墳にありました。丸山古墳は 都内最大の前方後円墳で5世紀ごろに築造されたものとのことです。この古墳の頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がありました。これは、日本全国を測量し、はじめての日本地図を製作した伊能忠敬の功績をたたえたものです。
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この碑がここに建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。

芝東照宮は、当初、増上寺内境内に勧請されたようです。増上寺は1590年(天正18年)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められたのです。当時は日比谷にあったのが、1598年(慶長3年)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転したのです。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ったのです。この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称されました。安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮と称し、御神像を本殿に安置・奉斎したのです。1873年(明治6年)には郷社に列し、社殿は1633年(寛永18年)の造替当時のものが維持されていましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。1969年(昭和44年)社殿の完成を見て今日に至っている。
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芝公園は都立芝公園と港区立芝公園の総称。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたとのことでした。

台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営されました。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったのが、一部の建物を除き、戦災で焼失したとのことです。
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江戸幕府第2代将軍徳川秀忠は1632年(寛永9年)正月24日に死去。すぐに増上寺境内南側で霊廟を建立。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失しました。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられているのです。

増上寺三解脱門。
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三門(さんもん)は、元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものです。 仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶとのことです。 また三解脱門(さんげだつもん)とも呼ぶのです。 山門とも呼ぶのですがこれは、寺院がもっぱら山林にあり山号を持つからということです。
増上寺三解脱門は1622年に建築され現存する数少ない立派な山門で三解脱門が正式名称。この門の2階釈迦三尊・十六羅漢像があるそうです。

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470年(文明2年)には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
徳川家康は1590年(天正18年)江戸入府にあたり菩提寺と定めたようです。1598年(慶長3年に寺領20万坪を寄進し寺基を拝領し現在地に移って来たとのことです。
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御成門は増上寺の裏門で将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになったとのことです。もともと御成門交差点にあったが、明治25年(1882年)に東京市区改正計画に基づいて現在では日比谷通りと呼ばれる道路が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転したのです。
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増上寺の表門である大門のように背の高い白塗りの門である。しかし、鏡柱の根元が金属飾りもろとも腐りかかっていました。高麗門ですが、そこここの切妻屋根の裾に8つの飾り瓦が上がっている。浪の飾り瓦ですが、3種類の意匠があるようだ。中には、左右対称に見える浪の飾り瓦もあります。これまでの浪の飾り瓦は左右非対称に作られ、左右で対称になる場合ばかりであったのです。しかし、左右2つある鏡柱と控え柱の間の切妻屋根にそれぞれ2つずつの裾に上がる4つの飾り瓦のうち、一番外側の2つの浪の飾り瓦だけを左右対称にしているようだ。鏡柱間の切妻屋根に上がる浪の飾り瓦は表側の左右と裏側の左右がそれぞれ対称になるようにしてあり、表側と裏側とで浪の意匠を変えている。なるほど、裏門とはいえ、徳川家、それも将軍が用いる門であるだけのことはある。飾り瓦さえも個っていました。

青松寺
江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されています。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用したのです。境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出、1875年(明治8年)には、獅子窟学寮内に曹洞宗大学林専門本校を開校し、翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展したのです。入口門の四天王がとても立派でした。
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愛宕神社は1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月、関東大震災では、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。
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愛宕神社がある愛宕山は標高25.7m。出世の石段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としては23区内で一番の高さの山です。
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事です。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられ、平九郎が見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。

浅野内匠頭終焉の地碑が新橋4丁目交差点傍にありました。こちらは忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹をした最期の場所あそうで、石碑と看板がありました。
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新正堂(しんしょうどう)は大正元年創業の御菓子司。
元禄14年3月14日、殿中「松の廊下」で後の「忠臣蔵」へと発展する刃傷事件は起こり、巳の上刻(午前十時)から六つ刻(午後六時)過ぎにかけて、刃傷・・・・田村邸お預け・・・・評定・・・・切腹・・・・と、その日のうちに矢継ぎ早に執り行われたと言われています。「切腹」、殿中での刃傷とあれば無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、人々の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させた御菓子なのです。
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今日は26℃、曇り、風もなく午前はやや蒸し暑かったのですがまずまずのウォーキング日和りでした。AM9:30〜PM16:15、昼食時間1時間を除けばそれなりのウォーキングとなり
歩程12km、約2万歩でしたがあまり距離を感じないで終了でした。歴史を感じながらのウォーキングは次第に面白みが判ってきている私です。お土産に購入した切腹最中は餅入りであんがはみ出しており程よい甘さ。娘と半分づつでいただいてちょうどよかったです。
次回は終着の東京駅です。またがんばります。
posted by yunofumi at 23:37| あちこちウォーク