2017年01月04日

2017.1.2 川越七福神めぐり

今日はお正月らしく、小江戸とよばれる川越の七福神めぐりをしました。

東武東上線川越駅⇒@妙善寺⇒米穀港町屋商店⇒菅原神社⇒朝日生命⇒川越駅入口(東)交差点⇒サイクルパーク⇒久茂登⇒金子園芸⇒A天然寺⇒川越第一中学校⇒光西寺⇒中院⇒川越総合高校⇒仙波東照宮⇒B喜多院⇒C成田山⇒熊野神社⇒D蓮馨寺⇒蔵造りの街並み⇒時の鐘⇒ライトニングカフェ⇒札の辻交差点⇒E見立寺⇒F妙昌寺⇒東武東上線川越市駅

@妙善寺(毘沙門天)
創建は1626年(寛永3年)。その後火災で焼失したが昭和末に再建。本殿にご本尊の不動明王と共に木造の毘沙門天が祀られていました。門前には川越さつまいも地蔵尊もありました。
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A天然寺(寿老人)
創建は1554年(天文23年)。ご本尊は無病息災の大日如来。ここの寿老人は昔、彦根智教寺にあったといわれています。
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B喜多院(大黒天)
平安時代よりある古くて有名な寺院で歴史としては1200年以上。1638年(寛永15年)徳川家光により、家光誕生の間や春日局の化粧の間を移築再建された。境内はお正月でごった返し、お詣りするために山門前から並んでいました。おかげで五百羅漢やだるま市をゆっくり見る時間も無くなってしまいました。
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大黒天は本堂とは別のお堂に祀られていました。

C成田山(恵比寿天)
本山は成田山新勝寺。ご本尊は不動明王。
本堂右手前のお堂に恵比寿天とともに大黒天も祀られていました。
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D蓮馨寺(れんけいじ)(福禄寿神)
北条時代の川越城将の大道寺正繁が母のために建立した寺。
触ってなでると病気が治る「おびんつる様」と共に福禄寿神が祭られていました・
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E見立寺(けんりゅうじ)(布袋尊)
札の辻から川に向かい石原橋の手前左折でようやく見つけました。
現在の本堂は1881年(明治14年)に再建されたもの。本堂とは別のお堂に布袋尊が祀られていました。
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F妙昌寺(弁財天)
大本山は池上本門寺。1375年(永和元年)開創。城下町の整備で現在地に移転。
本堂とは別に経ヶ嶋弁財天のお堂に祀られていました。
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天候は快晴、気温13℃、歩き回っていると少し汗ばむくらいでした。
お正月、真っ只中!ということで人出が多く、親子、夫婦での七福神めぐりの姿も多く見受けました。ガイドブックでは歩行時間約100分、約6kmをたよりにウォーキングしました。しかし実際にはライトニングカフェでの休憩1時間,、道に迷ったことも含め約4時間、17000歩は予想外でした。主たる原因はすべてのお寺が混んでいてお詣りするのが大変だったこと。本当にびっくりしたのです。
でもどうにか七福神めぐりの色紙は完成です。
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ライトニングカフェでのキッシュはおいしかったです。またゆっくりランチで伺います。
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はじめて七福神めぐりをしましたがこれはなかなか面白い!
新たな発見です。またあちらこちらで試みることにいたします。
基本は元気にウォーキングです。
posted by yunofumi at 11:57| あちこちウォーク

2016年12月17日

2016.12.15 第10回東京の新発見旅「渋谷区」

〜信濃町〜明治神宮〜代々木八幡神社〜代官山〜

JR信濃町駅⇒明治神宮外苑・聖徳記念絵画館・なんじゃもんじゃ・お鷹の松⇒国立競技場工事中⇒法雲山仙壽院・お萬の方墓⇒瑞圓寺・庚申塔⇒観音坂⇒将棋会館⇒鳩の森八幡宮・千駄ヶ谷富士塚・将棋堂⇒千駄ヶ谷4丁目児童遊園地⇒国立能楽堂⇒千駄ヶ谷4丁目交差点⇒北参道交差点⇒山手線(18)裏参道ガード⇒明治神宮⇒東京乗馬倶楽部⇒参宮橋⇒代々木倶楽部⇒国立オリンピック記念青少年総合センター⇒代々木公園参宮橋門⇒春の小川歌碑・代々木5丁目⇒代々木八幡宮・石器時代住居⇒代々木八幡駅入り口⇒井上病院⇒山手通り・神山町⇒モンゴル国大使館・松濤1丁目⇒鍋島松濤公園⇒松濤美術館⇒デンソー渋谷ビル⇒松濤2丁目交差点⇒西郷山公園⇒西郷橋⇒都立第一商高交差点⇒エジプト大使館⇒代官山交番⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽町歩道橋⇒東急東横線代官山駅

今朝は4℃くらいか、かなり冷え込みました。いよいよ冬が到来です。
天候晴れ、風がほとんどなくウォーキング日和。
信野講師、赤川CDの付き添いで12名が10:00に信濃町駅を出発

聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の出来事などを後世に伝えるために造営されたた所。
館内には、大壁画(縦3m横2.5〜2.7m)が、明治天皇のご生誕から崩御までの出来事を、「画題」の年代順に前半を日本画40枚、後半を洋画40枚で展示。
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新国立競技場は、国立霞ヶ丘陸上競技場の全面建替工事によって建設される予定の競技場。工事中の所を垣間見ました。
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法雲山仙壽院・お萬の方墓
仙寿院(せんじゅいん)は、日蓮宗の寺院。仙寿院は徳川家康の側室、養珠院(お萬の方)の墓がありました。
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瑞圓寺・庚申塔
瑞円寺はそばにある鳩森八幡神社の別当寺だったとのこと。よく整備された境内は広く、梅林があるほか[1]、ツバキ、ツツジ、ハギなども植えられているとのことでした。墓地のそばには庚申塔がありました。
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将棋会館は1976年に建設。棋士および女流棋士の公式戦などのタイトル戦や奨励会の対局、棋士のための「宿泊室」、「研修室」、一般の人が参加できる将棋道場など将棋教室などあるとのことでした。初めて中に入りましたが売店にも珍しい品がズラリとありました。

鳩の森八幡神社の御祭神は応神天皇・神功皇后。弘化2年(1845)に上棟した欅造りの社殿で昭和20年の戦災で消失したが、昭和56年末に完成した社殿とのこと。
境内には富士塚と将棋堂がありました。
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国立能楽堂は、能楽の保存と普及を図るのを目的で1983年9月に開場。日本の伝統芸能の一つである能楽を公演している。自主公演として「定例公演」、「普及公演」、「狂言の会」や「能楽鑑賞教室」、能楽の後継者養成として、ワキ方、囃子方(笛・小鼓・大鼓・太鼓)、狂言方の新人養成研修をなどを行っているとのこと。一度は公演を見に来るようです。
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明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
内苑と外苑があり、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられたとのこと。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。この中には通常都心では見られないような生物が生息し続けており、動物学・昆虫学的にも非常に貴重な例となっているのです。
広大な境内なので東西南北どの門からも出入り出来、本日は北参道を経て北門から入りました。
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新日鉄代々木倶楽部は新日鉄のの人材育成センターとのことです。会社関係の会議などが主なのでしょうが1階のレストランは普通に利用できるようです。
本日の昼食は上品なランチをいただきました。
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国立オリンピック記念青少年総合センターは普段は「立オリンピックセンター」と呼ばれています。1964年東京オリンピックの代々木選手村の集合住宅を改修して、オリンピック翌年の1965年(昭和40年)に開業したのです。

春の小川歌碑・代々木5丁目
「春の小川」は、1912年に発表された文部省唱歌。高野辰之が作詞、岡野貞一が作曲。現代まで100年以上にわたって教えられ続けている偉大な唱歌です。
高野辰之が作詞当時、現在の代々木3丁目に居を構えていたのです。当時この一帯は一面の田園地帯で、宇田川の支流のひとつである河骨川(こうほねがわ)と呼ばれる小川[3]が田を潤していたのです。河骨川は1964年(昭和39年)に暗渠化されたのです。この歌碑は現在川の岸辺あたりには小田急線の代々木八幡駅にほど近い線路沿い(代々木5丁目65番地)にあります。
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代々木八幡宮・石器時代住居
鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近だった近藤三郎是茂(これもち)の家来の荒井外記(げき)智明(ともあきら)が頼家公暗殺の後、この代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていたが、1212年(建暦2年)にお告げがあり元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とのこと。代々木八幡宮がお祀りしている神さまは応神(おうじん)天皇。 国家鎮護、破邪顕正、厄除開運の神様。
境内には石器時代の住居が作られ子供たちの学習に役立っているようです。
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元々、江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられたのです。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名でお茶の販売も行ったようです。茶園は1932年(昭和7年)に廃止。湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移り鍋島松濤公園となったのです。
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松濤美術館は松濤二丁目にある渋谷区立の美術館で渋谷区に関連する公募展、絵画展のほか、音楽会や美術教室などが行われているとのこと。建物の設計は白井晟一研究所、施行は竹中工務店。紅味を帯びた韓国産の花崗岩(紅雲石)の外壁にブロンズ製のグリルと化粧垂木、銅板葺きの屋根からなり、建物中央に噴水のある外部吹抜を展示室が円形に囲むとのこと。本日は中に入れませんでしたが、一度は見に来たいところです。
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西郷山公園は11月の目黒区ウォーキングでも訪れた所。
冬の富士山が見える所なので本日も立ち寄りましたが、午後のこの時間では見えませんでした。

旧朝倉家住宅は、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏により 大正8年に建てられました建物。大正ロマンの趣のある2階建ての建物内と回遊式庭園がとてもよかったです。
虎治郎は1871(明治4)、愛知県碧南の富商杉浦太一の次男として生まれ、小学校を終える間もなく上京。深川の木場の材木店で働いていました。そのころ朝倉家では、2人の息子を疫病で亡くし当主徳次郎さんは跡取り問題に悩み、次女タキの婿として虎治郎を迎えたのです。朝倉家の養子となった虎治郎さんは、家業の精米業を、木場の問屋筋に注文を取るなど顧客を広げ、数年を得ずに、個人営業の白米商としては東京随一の米屋にした方です。
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渋谷区といえば渋谷駅周辺を思い浮かべますがまったく違う方向からのウォーキング開始で意外性があり、面白いウォーキングでした。
高級住宅地の松濤あたりは普段訪れることもないので物珍しく、同じ東京でもいろいろあることを実感できました。皆様、お疲れさまでした。
posted by yunofumi at 15:59| あちこちウォーク

2016年12月14日

2016.12.7 第9回東京の新発見旅「江東区」

〜深川新明宮〜清澄庭園〜富岡八幡宮〜

都営地下鉄大江戸線森下駅清澄通り改札⇒清澄通り・森下駅前交差点⇒馬豚鍋みの家⇒カトレア元祖カレーパン⇒大衆酒場魚三・森下1丁目5⇒伊東深水誕生の地⇒深川神明宮⇒深川めし本家割烹みやこ⇒江東区芭蕉記念館⇒芭蕉庵史跡庭園・正木稲荷神社・芭蕉稲荷神社⇒川船番所跡⇒深川萬年橋⇒深川萬年橋南交差点⇒潟nーモニースクエア⇒山響部屋⇒大嶽部屋⇒三野村梶E清澄2丁目⇒中村学園⇒清澄庭園⇒村田春海墓⇒江戸みやげ屋たかはし⇒深川釜匠⇒深川江戸資料館⇒霊厳寺・銅造地蔵菩薩坐像・松平定信墓・勢至丸さま⇒出世不動尊⇒本立院・間宮林蔵碑・歯神様⇒深川ふれあいセンター・滝沢馬琴誕生の地⇒海辺橋⇒採茶庵⇒小津安二郎誕生の地・深川1-8⇒心行寺⇒法乗院えんま堂⇒深川1丁目交差点⇒旧富岡橋親柱⇒門前仲町1丁目会館⇒深川モダン館通り⇒旧東京市深川食堂・深川東京モダン館⇒門前仲町交差点⇒成田山東京別院深川不動堂⇒深川不動堂前交差点⇒亀戸大根まんじゅう⇒富岡八幡宮・伊能忠敬像・大関力士像・横綱力士像・花本社⇒深川公園⇒深川不動⇒永代寺⇒都営地下鉄門前仲町駅

本日はツーリズムによる江東区のウォーキング。
同じようなコースを11/12に見て回ったばかりですが、また別の訪れもあるだろうと参加した次第。ということで以前に伺わなかったところを中心に書きます。
森下駅そばの「馬豚鍋みの家」、「カトレア元祖カレーパン」、「大衆酒場魚三」の紹介がいきなりでした。
いずれも人気のお店。今回のウォーキングとは別に一度お客で行くのがよろしいようです。

深川神明宮。
徳川家康公がまだ名もないこの地を訪れた際、深川八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたことがこの地名のはじまり。その後、深川の開拓を進めた八郎右衛門が小さな祠に伊勢神宮の大神の分霊を祀り、信仰したのがこの深川神明宮。今では深川総鎮守神明宮いわれているのです。
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江東区芭蕉記念館
芭蕉は1680年(延宝8年)に江戸日本橋からこの深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開したとのことです。多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文が残ったようです。この草庵は、芭蕉の株が生い茂っていたので「芭蕉庵」と呼ばれたとのことでした。
江東区は1981年(昭和56年)に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館したのです。
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隅田川と小名木川の別れ目の少し高くなった所に芭蕉庵史跡庭園があり芭蕉の像がありました。
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日本橋から移り住んだ庵の跡には芭蕉稲荷神社がありました。
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川船番所(かわふねばんしょ)は幕府により設けられた番所で、深川萬年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
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山響部屋はもともと北の湖部屋だったのが親方がなくなったので後を山響親方が継いだことで現在に至っています。現在、所属力士16人・行司2人・呼出3人・床山1人とのこと。またすぐ傍には大嶽部屋がありました。引退後の大鵬さんが独立して作った部屋で当初は大鵬部屋、今は大嶽部屋で看板が二つ掲げられていました。
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清澄庭園は11/12にウォーキング記事をアップしてありますのでここでは省略。
深川釜匠で昼食は深川めしが大丼であり、その他のおかずもあったのでとても食べきれず、サランラップで大きなおにぎりを作り持ち帰りました。
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深川江戸資料館は相変わらず面白かったです。お相撲の大鵬さんの資料を本日もじっくり見ました。

出世不動尊(長専院)は、コ川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建。万治元年(1658)に霊巌寺とともにこちらに移転、その後1928年(昭和3年)に不動寺を合併したということでした。
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妙栄山本立院は、本立院日覚上人が開山となって貞享四年(1687)に創建。清水半身衛顕恒氏が宝永年間(1704-1711)に開基となったとのことです。正面本堂脇に間宮林蔵の石碑がありました。お墓は裏手の墓地にあるようです。
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圓隆院の本堂脇に古くから伝わるという“歯神さま”がありました。歯ブラシがおいてありお地蔵様の歯を磨いてお詣りしました。年老いた我々には歯が大切です。
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深川ふれあいセンターの建物の表には「滝沢馬琴誕生の地」の案内板がありました。滝沢馬琴の代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家だそうです。
深川1-8には「小津安二郎誕生の地」の案内板。
小津安二郎といえば原節子主演の映画「東京物語」。記念館は別荘だった無芸壮が長野県の茅野に、またお墓は北鎌倉の円覚寺だそうです。
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旧東京市深川食堂・深川東京モダン館
深川東京モダン館は、2009年(平成21年)に開館。江東区は、本日も見て歩いたのは一部ですが、富岡八幡宮・深川不動尊のある門前仲町、深川江戸資料館や東京都現代美術館などがある清澄白河、亀戸天神・香取神社などの神社仏閣が集まる亀戸、それから豊洲などがあるのです。ということでここはさながら観光と文化の紹介の場所。
そういえばここはもともと1932年(昭和7年)に東京市営の食堂として建築され、平成20年に国登録有形文化財として指定されたとのことです。この足りの街歩きには大いに活用したい施設です。美味しい珈琲が100円で飲めました。

富岡八幡宮で伊能忠敬像、大関力士像、横綱力士像、花本社を見た後、成田山東京別院深川不動堂に伺いました。お正月の準備が始まっており、少しあわただしい感じでした。
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今日は旧本堂の後ろにある内仏殿の1階、2階と様々な仏様を拝見、4階では日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」と大日如来を拝むことができました。

永代寺は1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えたようですが明治初年の神仏分離により廃寺となったのです。広大な跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになり、深川一帯でも指折りの寺院だったとのこと。その後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺なのです。
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このあたりの地名である門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられたとのことです。

本日の参加者は17名。信野講師と吉瀬CDが付き添い約15000歩をウォーキング。
天候は曇りで11℃くらいでしたからやや肌寒く感じました。しかし清澄庭園辺りでは青空も見え、とても良い風景を見られました。それにしても改めてウォーキングツアーは企画する会社により色々あるのでこのことも面白かったです。
posted by yunofumi at 22:13| あちこちウォーク

2016年12月08日

2016.12.4 高尾山4回目

京王線高尾山口駅⇒清滝駅⇒稲荷山コース⇒旭稲荷⇒道しるべ0.6km⇒道しるべ1.2km⇒稲荷山⇒道しるべ1.6km⇒道しるべ2.0km⇒道しるべ2.8km⇒道しるべ3.18km⇒山頂⇒
⇒十一丁目茶屋⇒高尾自然動植物園⇒たこ杉⇒浄心門⇒神変堂⇒北原白秋歌碑⇒もみじや⇒山門(四天王門)⇒北島三郎歌碑⇒仁王門⇒大法堂⇒薬王院⇒飯縄権現堂⇒奥の院不動堂⇒冨士浅間社⇒エコーリフト→清滝駅→京王線高尾山口駅→高尾駅

ここ数日朝は10℃以下になっています。それでも雨に心配がないのは幸い。
MBTの山歩きの特異な仲間にお願いし、本日の山歩きとなりました。
本日の気温朝は7℃、登山途中は13℃くらい。しかし晴天なのでとても心地よかったです。
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仲間は6人、私を引率のチームは3人で前後を守ってくださいました。
本日は稲荷山コース3.1km。道幅は広く、6号路に比べ取り組みやすそう。
道しるべがあり、エッまだこんなくらいとびっくり。そして登山者が多いからでしょうか。
木の根っこがむき出しの路もありました。
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紅葉は終わりかけていましたがまだまだ綺麗。
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八王子の市街地もややかすんではいますが眺めはまずまず。
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このコースは距離を示す道しるべのほかに桜、蛇などの説明もありました。

結局3.1kmを2.5時間で上り、大いに感謝。しかし最後の階段がきつかった!!
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それでも富士山が見えて元気回復、頂上で記念撮影。
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下山を始めてすぐに江川スギ展示林がありました。
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そして紅葉を存分に楽しむためにエコーリフト乗り場へ。すごい混雑!!
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本日はどこもかしこも大混雑でした。

リフトからの眺めはサイコー!!気持ちよかった!!
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そして下界の高尾山駅前「たまの里」で再び全員集合で乾杯!
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そうそう本日で高尾山健康登山の証のスタンプは4個目。ちょっと嬉しい。
下りは楽をしたので本日は約15000歩。紅葉を堪能でき大満足。
また私の歩みを見守ってくださった男性お二人に感謝、感謝!!
後日談としてはこれより2日間はかなりの筋肉痛!久しぶり!でも元気です。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2016年11月28日

2016.11.30 「富士山すそのウォーク」振り返り

数日前に1年7か月かかって「富士山すそのぐるり一周ウォーク」を無事終了しました。
下記は自分なりにまとめたものです。
今後、このようなウォーキングツアーに参加される場合、ご参考にしていただければ幸いです。
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〇私の参加状況から
・お天気に恵まれ土砂降りに会わず幸いでした。
・富士山が見えることが大きな喜びでした。
・大事をとって冬季は参加しませんでした。
・できるだけ第1回の方々とご一緒になるようにスケジュールを組むと一人参加でも顔なじみができるので楽しくなります。また講師の先生やCDさんとも顔なじみになります。
・都合で参加できない回がある場合はなるべく早く穴埋めをするとよいのです。

〇これから参加の方へ
・富士山すそのぐるり一周のコースは1回約10km、アップダウンはそれ程大きくなく、長距離を歩きなれてない場合には程よいコースです。
アップダウンが気になる場合はスタート地点、ゴール地点の標高をネットで事前に調べるとだいたい目途が立ちます。上記の17回のうち第5回が大変でした。
・真夏や冬は自分の体力に合わせて日程を選ぶとよいです。
 日常暮らしている場所に比べ、すそのの標高が高いので気温は低めです。よく100m上がると0.6℃下がると聞いています。
・体力に合わせてストックを持つと随分楽です。
・荷物には雨具を必ず入れます。ポンチョが軽くすっぽり被れるのでとても楽です。
・飲み物はスポーツドリンクが良く、暑い時期は500mlを2本準備しておくとよいです。
 自販機のない場所も多々あります。
・途中でのエネルギー補給のために一口羊羹や飴を持ちましょう。
・履物は履きなれた靴、スニーカーよりトレッキングシューズがおすすめです。
・回数を重ねるごとに脚力、筋肉がつきます。完歩された時は街道歩きをお勧めします。

では皆様、ウォーキングをお楽しみください。

posted by yunofumi at 22:18| あちこちウォーク

2016年11月27日

2016.11.20 第8回 富士山すそのウォーク

村山浅間神社〜山宮浅間神社〜北山本門寺

JRさいたま新都心駅→足柄SA→村山浅間神社⇒西見附⇒山宮浅間神社⇒浅間橋⇒山宮薬師寺⇒八幡神社⇒勝又製材⇒北山大橋⇒北山本門寺⇒富士山本宮浅間大社⇒花の湯→JRさいたま新都心駅

村山浅間神社のラザフォード・オールコックの碑をみたのは確か2015.10.25の第7回。その次の第8回としては川越発では日程調整ができず、本日のさいたま新都心発に参加したのです。
私の場合、第1回は2015.4.26で第17回の最終回は2016.8.28に仲間の方々とすでに終了していました。この間にはいくつかの穴空き状態がありコツコツ埋めし、本日、第8回で完歩ということなのです。本日は朝出発時から快晴でありがたい1日となりました。

足柄SA
朝出発時から晴天でバスの進行に合わせて富士山がくっきり!車窓の眺めも素晴らしい。
そして足柄SAの屋上、展望テラスからは見事な富士山が見えました。まさにこのシリーズツアー完歩にふさわしい眺めでした。感謝!
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村山浅間神社。
富士根本宮と号するとのこと。全国にある浅間神社のひとつで「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている寺社です。
はじまりは孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建。崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701年)に現在地へ遷座とのことでした。
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西見附。
国道469号を横断して小高くなっている方向に西見附の案内がありました。見附とは山中取締りのために、東西に見附を設けて不審者を取り締ったとのことです。
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山宮浅間神社は富士山を遥拝するための遥拝所がある寺社で社殿はありませんでした。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているとのことです。遥拝所は溶岩流の先端部に位置しており、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っていました。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いているのです。本日は木の間から太陽に光り輝く富士山が鎮座し、神々しいばかりでした。
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山宮浅間神社の創建年代は不詳とのことでしたが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土していることから、文献史料では16世紀から確認できるとのことでした。
世界遺産になったことから参道などが綺麗になっていました。
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北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つとのこと。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。
日蓮上人の一番弟子だった日興上人が1293年(永仁元年)にこの北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成したようです。
仁王門
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本堂
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境内は広く、開山堂、鐘楼堂、客殿、大庫裡などを外から見た後少し裏手に回り、開山にあたって日興上人がお題目を唱えながら植えた「題目杉」が7本の所3本だけ残っているのを見ました。

富士山本宮浅間大社。
806年(大同元年)平城天皇の命により坂上田村麻呂が社殿を造営し、山宮から遷座したのが始まり。富士山信仰とともに門前町がにぎわい、駿河の国の一ノ宮であり富士宮が大宮と呼ばれる元となったようです。全国に1300あまりある浅間神社の総本社とのことです。
楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。
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楼門の両サイドにある大きな絵馬は天皇・皇后の歌が掲げられているのです。

拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっており、正面は入母屋造、背面は切妻造で、正面に向拝が1間出ています。正面に扉があり、左右には蔀戸、正面左右には濡縁が見られました。
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脇から境内を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池がありました。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物の指定です。 清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社がありました。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあったようです。
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そして大鳥居の斜め前には富士山がくっきり。
ということで私の完歩記念の記念品贈呈と撮影をしていただきました。
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花の湯は日帰り温泉としては大きな施設。ナトリウム-塩化物泉で大浴場、露天風呂、檜風呂など至れり尽くせり。この富士山すそのウォークはその日の歩程終了後は必ず温泉で汗を流します。17回のシリージでは紅富士の湯、富士山溶岩泉水、須走天恵、御胎内温泉、ヘルシーパーク裾野、ゆらり、いずみの湯、ふじやま温泉、そして花の湯を利用しました。
いかに富士山の恩恵を受けているかがわかります。

本日ははじめての西講師と顔なじみの近江ツアーディレクターと共に参加者は36名でした。
ウォーキング途中ではタカサゴユリ、オオバヤシャブシ、ホトケノザ、クサギ、フヨウなど講師より解説をいただきながらの進行でした。
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そしてウォーキング途中はさまざまに雲で見え隠れする富士山を堪能した後、花の湯駐車場で本日最後の富士山を仰ぎ見ました。
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今日これまでのシリーズツアーでは富士山の形が見る位置で随分違うことも知りました。
本日のコースは緩やかな下り、歩程約20000歩は何の苦も無く終了でした。しかし、本日が日曜日で秋の行楽シーズン真っ只中、ということで渋滞を避け、高速道路はやめて、下の狭い道を飛ばしての帰路でした。しかし花の湯16:30出発、さいたま新都心22:00到着。それでも車中で爆睡した私たちに比べ、講師・CD・ドライバーは大変ご苦労様でした。本当にお世話になりました。皆様の今後のご活躍をお祈りし、感謝、感謝で終了!!ありがとうございました。
posted by yunofumi at 00:43| あちこちウォーク

2016年11月26日

2016.9.28 第13回 富士山すそのウォーク

割石峠〜精進湖民宿村

JR川越駅→談合坂SA→なるさわ道の駅→割石峠・喫茶パラマウントフジ・天徳宮入口⇒バス乗り場県境⇒国道139号⇒本栖ハイランド⇒林道逢坂線起点⇒林道竜ケ岳線起点⇒東海道自然歩道⇒ヴィラ本栖・本栖湖オートキャンプ場⇒本栖湖⇒湖仙壮(昼食)・与謝野晶子歌碑⇒食事処松風⇒渡辺氏屋敷跡⇒煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓⇒旧中道往還⇒本栖簡易郵便局⇒武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神⇒両替屋敷跡⇒町立上九一色中学校(廃校)⇒本栖城跡⇒富士山樹海・精進湖民宿村そば→いずみの湯→JR川越駅

天徳宮入口からすぐウォーキング開始。
ここ割石峠は静岡県と山梨県の県境。山梨県側は河口湖町上九一色村だった所。オーム真理教の施設があったところで少し変な感じ。国道139号から林道逢坂線起点を横目にズンズン進む。すっかり景色は秋!
本栖ハイランドの看板があった辺りは正月ころにはダイヤモンド富士のビューポイントだそうです。

青木ヶ原樹海の東海道自然歩道に入るとやはり溶岩がゴロゴロで足元注意でした。
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本栖湖が見えてほっと一息。
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本栖湖は富士五湖の中で最も水深が深く127m、透明度も高そうで水はきれい。面積4.7ku、周囲10.4km、湖面の標高は902m。もともと周囲23kmの「セの海」といわれた湖が800年(延暦19年)と864年(貞観6年)の噴火で西湖・精進湖・本栖湖になったそうです。したがってこの三つの湖面の海抜は今でも同じだそうです。

10分ほどで昼食場所の湖仙壮に到着。
昼食中に小雨がパラパラきたので雨具を装着で午後の部を開始。
本栖のあたりは甲斐から駿河への国境の宿場として賑わった時期もあったとのこと。武田家はここに国境警備隊を置き、隊長は渡邊囚獄門佑だったとのこと。そしてここが渡辺氏屋敷跡、煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓など苔むしている所を見ました。栄華盛衰ですね。
またしばらく行くと武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神などを集めてまつったお堂がありました。
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その後さらに両替屋敷跡、町立上九一色中学校(廃校)、本栖城跡はいずれも富士山樹海に呑まれている感じでした。
そしてようやく樹海を抜け精進湖民宿村そばに到着で本日はこれにて終了。

本日は落合講師と菊池ツアーディレクターと共に37名が参加。
落合先生の植物への造詣が深いのは相変わらず。
本日はヤマボウシ、ウリカエデ、レイジンソウ、イヌシベ、ミツバウツギなどなど。.
そうそうアケビが実をつけているのを初めてみました。
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朝出発時は曇り、午後一時小雨ながら18000歩を無事に終了。
富士山には吊るし雲やかさ雲がかかり裾野から中ほどまでは見えたのですが、少し残念。
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下界は32℃と後で知ったのですが私たちは25℃くらいの中をウォーキング。
これは標高が9000m辺りをウォーキングしていたお陰なのです。
本日は水曜日、夕方には川越到着でラッキーでした。
posted by yunofumi at 00:48| あちこちウォーク

2016年11月25日

2016.11.10 第8回東京の新発見旅「目黒区」

〜大円寺〜目黒不動〜天空公園〜旧前田侯爵邸〜

JR目黒駅中央改札⇒ホリプロビル⇒目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」⇒行人坂・目黒川架橋供養勢至菩薩石像⇒大圓寺・大黒天⇒目黒雅叙園⇒太鼓橋・目黒川⇒海福寺⇒五百羅漢寺⇒目黒比翼塚⇒目黒不動尊⇒甘藷先生墓所⇒大鳥神社⇒玉川屋・目黒仁王餅⇒目黒区民センター・目黒区美術館⇒田道庚申塔群・田道町会事務所⇒田道橋⇒庚申塔⇒目黒警察署⇒目黒区清掃事務所⇒目黒歴史資料館⇒東京共済病院⇒p樹橋⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽神社・猿楽塚⇒デンマーク大使館⇒エジプト大使館⇒都立第一商高⇒西郷橋⇒目黒区立西郷山公園⇒菅刈公園・復元庭園⇒目黒橋⇒CROSS AIR TOWER・目黒天空庭園⇒東邦大大橋病院⇒目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」⇒警視庁第三機動隊⇒駒場東邦中学校・高等学校⇒御用屋敷跡案内板⇒朝日マンション駒場⇒目黒区立駒場野公園・水田の碑⇒駒場東大前1号踏切⇒駒場公園和館・旧前田邸・洋館・日本近代文学館⇒井の頭線駒場東大前駅

今日は目黒不動後に寄生虫博物館に立ち寄る予定でしたが休館日のため急遽、めぐろ歴史資料館に変更となりました。
それでもお天気なので元気に出発です。

目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」
目黒駅から目黒川に向かって行人坂を下る途中にこの案内がありました。
この丘にはむかし富士見茶屋がありこの付近は富士山が見えたのです。江戸時代、富士見茶屋では大勢の参詣客や旅人がここで一服し、秀麗な富士の眺めを楽しみ、繁盛したいたのではないでしょうか。広重行人坂部分や富士見茶亭(長谷川雪旦画江戸名所図会)として絵があるそうです。

行人坂(ぎょうにんざか)は目黒駅から上大崎にまたがる坂。急な勾配の所で江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があります。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝として、富士見の名所としても知られおります。また、八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもあるのです。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像。
行人坂の案内板の横に勢至堂(せいしどう)があります。台座97cm、蓮華20cm、勢至菩薩52cmから成り、勢至菩薩は両手を合掌し、片膝を立てて座っておられました。台座の前面と両側面には、江戸時代中期の目黒川架橋に関する銘文が刻まれており、文からは、1704年(宝永元年)に僧西運が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の報謝を受け、これをもとに目黒川の両岸に石壁を造り、石製の太鼓橋を架けたことが示されているようです。
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大圓寺はもう数回伺っているお寺さん。ご本尊は釈迦如来。大黒天も祀られており、元祖山手七福神のひとつでもあります。また石仏群、生身釈迦如来立像、阿弥陀三尊などもあります。
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目黒雅叙園は結婚式場・レストラン・ホテルなどで有名な複合施設。
木造建築物にある百段階段を利用した百段ひな祭りを見に来たことがあります。
前庭に『お七の井戸』があります。八百屋八兵衛一家が大火に遭い、菩提寺に避難したときお七、16歳はその寺の小野吉三郎とであい恋に落ちたのです。そしてその後、好きな人にもう一度逢いたくて、家に火を放ったという悲しくて切ないラブストーリーなのです。幸い、小火ですんだのですが、付け火は当時の大罪であった為、お七は火あぶりの刑に処せられました。それから吉三郎はこの井戸で水垢離をしまた供養のために明王院(現在の目黒雅叙園)に常念仏堂を建立したとのことです。
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太鼓橋は1769年(明和6年)に完成し当時建設された当時としては珍しい石造りで長さ8間3尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)の「太鼓橋」の形状をしていたとのことです。
江戸時代の様子は歌川広重『江戸名所百景』(1857年)に描かれているとのことです。
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四脚門(しきゃくもん)は門の中央にある親柱2本の前後に2本ずつある4本の控え柱がある門。海福寺(かいふくじ)の赤い四脚門は、明治期に廃寺になった上落合の泰雲寺(たいうんじ)より明治後期に移築したものだそうです。
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海福寺の梵鐘は近世の中国風の鐘に似ながら、日本上代の鐘の形態を手本にした特異な考案で、江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ないものです。また、天和2年(1682)鋳造で梵鐘の裾がスカートのように波打っており、形状は端正で鋳技も精巧な優品とのことです。
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五百羅漢寺。
元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたお寺で五百体以上の群像が完成してからもう三百年以上たっています。しかし現存は305体とのことでした。天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄したようです。ということで今も将軍の腰掛石がありました。
そし、明治維新とともに寺は没落、二度移転後、明治41年に目黒のこの地に移っており昭和56年に今の近代的なお堂が完成し、「目黒のらかんさん」として今も親しまれているとのことでした。
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比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のこと。悲恋と共に伝わる例が多いとのこと。一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭ったモノも多く、古事記の時代から江戸時代のものまで各地に残ってるようです。これは目黒比翼塚といわれ、平井権八と遊女小紫の比翼塚です。
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目黒不動尊(滝泉寺)。
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808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗だったようです。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」も行われています。
入口にあるのは仁王門。三間一戸の朱塗りの楼門で、1962年(昭和37年)再建の鉄筋コンクリート造。
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水かけ不動明王。
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さらに野村宗十郎銅像、独鈷の滝、鷹居の松跡、銅造り役の行者像、前不動堂、勢至堂、銅造大日如来坐像など多くみるものがありました。

最後に本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に甘藷先生墓所として青木昆陽の墓が見られました。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたおり、実は昆陽が生前に立てさせたものということでした。
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大鳥神社は、大同元年(806)創建された区内最古の神社だといい、古江戸9社の一社に数えられ、目黒村の総鎮守社となっていたといいます。この神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことが始まったとのことで今での11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ねるので今日は準備に大わらわのようでした。
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切支丹灯篭はもと千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつての肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたもののようです。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものとのことでした。
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玉川屋・目黒仁王餅
第二次世界大戦で焼失した目黒不動尊は戦後まず本堂の再建に始まました。そして昭和29年玉川屋三代目小川雄一夫妻が仁王像を寄進を申し出、約6年で完成。そしてこの仁王様にちなんだのがこのお店の看板商品となったとのことです。
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけてありました。ほかにはバターどら焼き、熊手の舞などがみられました。
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田道庚申塔群(でんどうこうしんとうぐん)は、延宝(えんぽう)元年(1673年)の銘文のある地蔵1基、延宝(えんぽう)5年(1677年)から正徳(しょうとく)3年(1713年)の銘文のある庚申塔6基からなり、当時の民間信仰を今に伝えています。屋根が作られていて保存状態は良好、青面金剛(しょうめんこんごう)、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれに確認できました。庚申塔は、庚申待(こうしんまち)を3年かけて18回続けた後に、記念として建てたものです。庚申待(こうしんまち)とは、庚申の日には命が縮められないよう寝ないで過すという民間信仰なのです。江戸時代には、飲んだり食べたりしながら一晩中語りあかす集まりが盛んに行われていたようです。今ある庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊(めぐろふどうそん)への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所なのです。
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めぐろ歴史資料館。
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現在の目黒地域は、どのような地形や自然、地理的条件の中にあって、そこではどのように人びとの暮らしが営まれてきたのかなどを歴史がわかるようになっていました。
常設展示室では、旧石器時代から、中世、近世、近代、そして現代まで。企画展示室もその年4回ほどするようです。目黒の歴史を身近に感じました。

猿楽神社。
この場所にはもともと2基の古墳があったそうで、大型の古墳は猿楽塚で直径約20m、高さ約5mです。
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この土地の所有者は朝倉家は甲州武田家の家臣だった旧家とのこと。大正時代、古墳のひとつを壊したところ多数の武具が出土したのですがその後朝倉家当主や作業人が病気になったのです。そこで急いで武具を埋め猿楽神社を建立し現在の姿になっているとのことです。
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西郷山公園は江戸時代には豊後竹田城主・中川氏の抱え屋敷であったところ。明治時代には西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入したのですが西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されるようになったとのことです。
そうそう、ドラマの東京ラブストーリーのロケ地でもあったとうかがいました。
また西郷山公園とほぼ隣接で菅刈公園(すげかりこうえん)がありました、西郷隆盛の弟従道の、和洋折衷式の邸宅と、「東都一の名園」と謳われた庭園があった場所です。
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目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)は、首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した屋上庭園で2013年3月30日にオープンしたとのことです。ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11mから35m、延長距離は約400mで、平均勾配約6%のループ状。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じているようです。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられているそうです。全く不思議な感覚でした。
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目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」
江戸時代初期、鷹狩りの為の休憩所・街道筋の宿泊施設としての将軍家は御殿を作った場所なのです。

駒場野公園の辺りは、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていたとのことです。明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒により今でも行われているとのことです。駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園なのです。「水田の碑」と田んぼがありました。
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駒場公園は加賀百万石の旧前田邸の跡。前田侯爵が邸宅を構えたのはなんと昭和のはじめ。書院造りの和館、化粧煉瓦やタイル張りがある洋館、また公園内に日本近代文学館がありました。
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本日参加者は18名、牧講師と伊藤CDと共にウォーキングして約28000歩を元気に歩きました。天候は晴れ、16℃は気持ちよくご機嫌で15:30には終了できました。終点の井の頭駒場東大前駅は初めてでしたがゆっくりもせず電車に乗ってしまい、少し残念。こんな時は駅周辺をゆっくり自由に散策するとまた土地柄がわかるのです。まずはまたの機会をつくります。
posted by yunofumi at 00:02| あちこちウォーク

2016年11月22日

2016.11.17 さんさん会 横浜ウォーク

〜横浜三都物語と横浜港の歴史〜
JR根岸線桜木町駅南改札口⇒鉄道創業の地 記念碑⇒桜木町入口交差点⇒CROSS GATE⇒桜木町1丁目陸橋⇒日本丸交差点⇒港三号橋梁(旧大岡川橋梁)⇒NAVIOS YOKOHAMA4451⇒赤レンガ倉庫⇒横浜税関遺構⇒旧横浜港駅プラットホーム⇒海上保安庁工作船資料館⇒象の鼻テラス⇒横浜税関資料展示室⇒旧神奈川県産業組合館⇒開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構⇒横浜町会所跡・岡倉天心生誕之地⇒横浜市開港記念会館⇒県庁前交差点⇒みなとみらい線日本大通り駅⇒神奈川運上所跡⇒神奈川県庁⇒神奈川県庁分庁舎⇒横浜開港資料館・玉楠の木⇒横浜マリンクラブ海洋会横浜支部⇒大さん橋ふ頭ビル・大さん橋ホール屋上送迎デッキ⇒横浜水上警察署⇒インド水塔・公園・赤い靴はいてた女の子像・GADEN WATER像・かもめの水兵さん歌碑⇒氷川丸⇒リカルテ将軍記念碑⇒うちゅう保育園⇒ヘボン博士邸記念碑⇒元町貝塚⇒アメリカ山公園・山手町⇒横浜地方気象台⇒岩崎ミュージアム⇒山手警察署港の見える丘前交番⇒ホテルKKR PORTHILL YOKOHAMA(昼食)⇒港が見える丘公園⇒生麦事件犠牲者の墓⇒ウチキパン⇒元町中華駅

本日は以前東海道五十三次をご一緒した仲間とのウォーキング兼同窓会。浅井先生・CD向井田さんを含め22名が参加。お天気も気分良く、気分はサイコー!!

鉄道創業の地 記念碑が桜木町駅そばの広場にありました。
ここは日本で初の鉄道設置のため1870年(明治3年)この地にイギリスから資材を購入後、陸揚げされた場所。1872年(明治5年)ここに横浜駅(初代)を設置し、横浜・品川間の鉄道が開業。
1915年(大正4年)、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)を開業(旅客駅)。そのため横浜駅(初代)を桜木町駅に改称。1928年(昭和3年) 横浜駅がさらに北側、現在地に移転(3代目。東海道本線を現在のルートに変更。
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汽車道は桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用して1997年に開通したプロムナード。港湾環境整備施設(港湾緑地)として整備されており[1]、2002年に設定された散策コース「開港の道」の起点側でした。
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赤レンガ倉庫。
1859年(安政6年)黒船を率いてペリーが来航。日米和親条約、日米修好通商条約の締結を経て、江戸時代の長く続いた鎖国時代が終わりました。100 戸人口500人ほどの小さい村だった横浜村が開港の場所と定められ、横浜の都市としての歴史が始まったのです。
1896年(明治29年)に鉄さん橋(大さん橋の前身)が完成、1899年(明治32年)、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が開始。そしてその一環として保税倉庫として現在の横浜赤レンガ倉庫がつくられたとのことです。2 号倉庫は1907年(明治40年)に着工、1911年(明治44年)に竣工、設計者は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄 でした。開港当初の横浜には船舶が着くことのできる岸壁がなく、本格的な波止場を建設することが必要だったのです。
1号倉庫は1908年(明治41年)着工、1913年(大正2年)竣工。レンガはすべて国産品、2号倉庫だけで約318万個使用われたとのこと。その後、関東大震災、終戦、アメリカ接収、アメリカ軍港湾司令部としての利用などを経て1989年(平成元年)倉庫としての用途は廃止。2002年(平成14年)に保存し、活用工事が終了。1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設となったのです。
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赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」が朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑に埋もれていました。「旧税関事務所(右突堤中央事務所)」は、港湾施設の一つで、1914年(大正3年)に竣工し、船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行っていたとのことです。煉瓦造スレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物で、ガラス張りの天井ホールもあったとのことです。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失。昭和63年〜平成13年にかけて行われた「赤レンガパーク」の整備の際に発見され、現在は「旧税関事務所遺構」として保存されるとともに花壇として利用されているのです。
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旧横浜港駅プラットホームそばに以下の説明碑がありました。
「横浜港駅」は、1911年(明治44年)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、1920年(大正9年)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、1928年(昭和3年)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
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2001年(平成13年)、奄美大島沖で国籍不明の不審船が、自衛隊の航空機によって発見され、不審船はその後20時間ほど逃走を続け、最後には自沈という形で、証拠隠滅をはかったとのこと。この不審船を引き上げて展示してあるのが、赤レンガパークの奥にある、「海上保安資料館横浜館」。我が国の島国固有の事情と、海上保安の必要性を体感することができる施設でした。
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横浜税関資料展示室
横浜税関は、1934年竣工、「クイーン」の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気でした。庁舎(本関)の1階に税関資料室があり、横浜税関の歴史や役割、ホンモノ・ニセモノコーナー、ワシントン条約コーナー、密輸の手口など盛りだくさんの内容でした。
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「開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構」という以下のような解説板が傍にある煉瓦の塀がありました。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。 建物は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。2014年(平成26年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。 大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、1877年(明治10年)1月に創立された「開通社」の社名を1891年(明治24年)「開通合名会社」に改名。当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられるのです。 写真は明治38年(1905年)頃のものと推定とのことでした。
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横浜町会所跡
1874年(明治7年)、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設され、石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていとのことです。
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また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところとのことで、岡倉天心生誕之地の碑がありました。
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横浜市開港記念会館。
横浜の開港50周年を記念して市民の寄付金により建設され、大正6年に竣工。赤れんがの時計塔が特徴で、昭和34年から中区の公会堂として利用されているとのことです。
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神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が設けられ、 神奈川奉行の支配下にあったようです。1866年(慶応2年)類焼、翌年新築、横浜役所となり、1868年(明治元年)明治政府に移管され、1872年(明治5年)横浜税関に改められたのです。
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神奈川県庁は「キングの塔」の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎。表面に溝を刻んだスクラッチタイルと、独自の幾何学的な装飾模様が特色のライト様式。ライト様式とは旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、スクラッチタイルと大理石を用い、幾何学的な装飾模様が特色。昭和初期に大流行したのでした。
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正面玄関車寄せの柱に施された装飾や矢印の様な連続装飾など、ほとんどの模様が直線のみで構成されているアール・デコ風の装飾でした。玄関ホールには唐草文の極楽浄土で咲く宝相華という幻しの花がモチーフで見られ、また中央階段の球形照明はやはり宝相華のモチーフでした。

横浜開港資料館
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、日本の開国を約した日米和親条約が締結された地において開館。開国につづく開港により、横浜は日本の玄関、貿易都市として発展したことが多くの資料から見ることができます。
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横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれているとのこと。「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854年(嘉永7年)のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」などでも描かれています。
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象の鼻パーク(ぞうのはなパーク)は、波止場で明治中期の形状に復元して、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園したとのこと。
象の鼻には防波堤、開港波止場 、ピア象の鼻(桟橋)、開港の丘、象の鼻テラスなどがあり夜景も楽しめそうなスポットでした。
屋上送迎デッキからの眺めは素晴らしく、ここで本日の記念撮影!全員が笑顔いっぱい、元気いっぱいでした。
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山下公園にはインド水塔、赤い靴はいてた女の子像・かもめの水兵さん歌碑・リカルテ将軍記念碑・などがありました。

ヘボン博士邸記念碑
J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn:1815年3月13日〜1911年(明治44年)9月21日)はヘボン式ローマ字の考案者。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日し30年余りに亘って日本で活躍したのです。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここに移り、住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられ、その後山手に移ったようです。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸とのことです。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で1870年(明治3年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は1887年(明治20年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任したのでした。
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横浜地方気象台は1896年(明治29年)に、神奈川県測候所として、海岸通一丁目(山下公園付近)に設立。大正12年の関東大震災によって建物が焼失し、現在(山手町)の建物は昭和2年に建設され、その年11月より業務を開始しているとのことです。

港が見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘の公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。
本日も素晴らしい眺めでした。
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生麦事件犠牲者リチャードソンの墓
山手町の横浜外人墓地にありました。
生麦事件は1862年(文久2年)8月21日、鶴見の生麦で起こりました。島津久光の大名行列の一行が、下馬に応じず行列の中を逆走したイギリス人のリチャードソンを含む4人を斬りつけ死亡させた事件のことです。4人は、川崎大師へ乗馬で向かう途中だったのです。その後幕府は10万ポンドの賠償金を支払ったのです。しかし尊王攘夷運動の機運が高まっていた時だったので、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こっています。
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今日は素晴らしい日和の中、ワイワイとお話ししながらのウォーキングでした。
相変わらず速足の浅井先生でしたが気温18℃、無風でしたから少し汗ばむくらいのペース。約18000歩はちょうどよかったです。
お食事のメインはお好みで肉と魚に別れました。私のように魚を選んだのはほとんどアルコールがダメな人たちだったのも面白かったです。
本日は2次会を横浜中華街で行うプランでしたが私は自分の都合で参加できなかったのがちょっぴり残念!!
又の再会を約して、サヨナラしました。皆様!ではまたね!!
posted by yunofumi at 22:08| あちこちウォーク

2016年11月13日

2016.11.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第4回深川

〜江戸勧進相撲発祥の地“富岡八幡宮”〜

東京メトロ門前仲町駅⇒永代寺⇒深川不動堂⇒富岡八幡宮・横綱力士碑・大関力士碑・伊能忠敬銅像・三等三角点⇒和倉橋⇒清澄通り・深川2丁目⇒葛西橋通り⇒陽岳寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒心行寺⇒深川1丁目⇒採茶庵跡⇒海辺橋⇒都立清澄公園(昼食)⇒深川図書館⇒清澄防災倉庫⇒中村学園通り⇒清澄庭園⇒本誓寺・村田春海の墓⇒清澄児童遊園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒・勢至丸さま・銅造地蔵菩薩坐像・松平定信公の墓⇒出世不動尊⇒不動寺・三好1丁目⇒成等院・紀伊国屋文左衛門の墓⇒深川江戸資料館⇒東京メトロ清澄白河駅

深川不動堂は、千葉県にある大本山成田山新勝寺の東京別院。永く「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年で、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まりです。この御尊像不動明王は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂にある御本尊はその御分霊とのことです。本日も護摩法が行われており厳かな雰囲気でした。
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本堂左手からご本尊の真下を通る祈りの回廊があり、約1万体のクリスタル五輪塔が奉安されていました。
また2階に上がると四国八十八カ所霊場のお砂を納めた四国八十八カ所巡拝所がありました。

富岡八幡宮は1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されたとのこと。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて約60500坪の社有地になりました。今も「深川の八幡様」といわれ「江戸最大の八幡様」なのです。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神をことのほか尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新には朝廷が当宮を准勅祭社にし、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されたのです。本日は七五三の参拝が多くなるようでテントを張り、皆さんが万全の準備をされていました。
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富岡八幡宮にある横綱力士碑は歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰しています。12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、1900年(明治33年)に完成したとのことです。縦3.5m、厚さ1m、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並んでいます。
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歴代の大関力士を顕彰する大関力士碑(おおぜきりきしひ)もありました。
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また同じ境内ながら富岡八幡宮境内大鳥居横に江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁の銅像が平成13年に建立されています。製作は酒井道久、監修を忠敬翁より7代目の子孫伊能 洋さんがされたとのことです。
50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ伊能忠敬翁です。彼は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず当宮を参拝していたことからこの八幡宮に銅像が建てられたとのことでした。
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また、銅像の横に見えるのは新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」です。

油堀川に架かっていた和倉橋の親柱がありました。和倉橋は、震災復興橋梁のひとつとして、昭和4年(1929)7月に竣工。この親柱は、竣工当時のものとのことです。昭和50年、油堀川の埋め立てにより、橋は撤去され、親柱2基は現在地に移され、保存がはかられました。正面は3段にせり出すように形づくられ、両側面は、縦長に、ひとつは長く、ひとつは短く彫り込まれています。アールデコ調の直線を多用する、パターン化したデザインで、震災後の都市デザインの潮流をうかがうことができるようです。
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法乗院・深川えんま堂
日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5t、寄木造り)で平成元年 に今のゑんま座像が建立されたとのこと。
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本堂一階にある16枚の地獄・極楽図は、天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれた作でこの絵は、悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの必要性、御仏の慈愛、命の尊さを説いているとのことです。 冥途では、死後の人々は閻魔大王を中心に十人の王によって裁きを受けるのです。十王の本来の姿は菩薩ですが、裁判中は柔和な姿を隠して憤怒の身を現し、初七日から七十七日、一周忌、三周忌に至るまで、次々に亡者を受け取りその罪業を考査し未来に生まれるところを決めるのです。 御仏の教えの根本理念は、因果応報。悪行を積めば悪い結果に、善行はよい結果になるように、人間は生きている時の行いが全ての原因になるということでした。

採茶庵跡(さいとあんあと)
松尾芭蕉は、1689年(元禄2年3月27日)採茶庵から「おくの細道」の旅に出発しました。正確には(仙台藩の蔵屋敷があった仙台堀から船に乗り、隅田川をさかのぼって千住まで行ったのです。「おくの細道」の出発は船旅だったのです。採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であったとのこと。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた芭蕉庵を手放し、門人、杉山杉風に世話になったのです。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたとのことでした。 
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採茶庵跡のそばに海辺橋がありました。しかし芭蕉のころはまだ築かれていなかったとのことです。

清澄庭園(きよすみていえん)は、現在は都立庭園で、池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。
この地はもともと元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったということです。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと思われます。1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成させたのです。その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園したのです。
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庭園内に芭蕉の古池の句碑もありました。
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清澄庭園の道路を挟んで対面にある、本誓寺の境内に江戸時代中期の国学者で歌人村田春海の墓があるとのことでした。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の権急に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられたとのこと。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸元由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれています。著書は 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数あるようです。

江戸みやげ屋たかはし
東京の下町、江東区深川地区内に位置する清澄白河は、清澄庭園や松尾芭蕉、また深川めしなどといった歴史あふれる町として知られる一方、隅田川と運河に囲まれた豊かな自然が残る都会のオアシスとして、人々や生き物たちの安らぎの地として親しまれています。今回は、江戸風情が残る街並み深川江戸資料館通りに面した、これぞ下町のみやげ屋!! といえる真心あふれる「江戸みやげ屋たかはし」を見つけました。
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霊厳寺(れいがんじ)
浄土宗の寺院で山号は道本山、院号は東海院、御本尊は阿弥陀如来。
1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったようです。1657年(明暦3年)の明暦の大火により霊巌寺も延焼。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転し現在に至っているようです。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉の老中で寛政の改革を行った松平定信の墓、今治藩主松平家や膳所藩主本多家などの多くの大名の墓があります。
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また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されていました。
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成等院は寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建、万治元年(1658)に現在地に移転してきたとのことです。境内に紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)の墓がありました。文左衛門は江戸時代、元禄期の商人です。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われたようです。紀伊国湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身で文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられています。晩年は浅草寺内で過ごしたのち1734年(享保19年)に死去したとされているとのことです。
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深川江戸資料館は江戸時代の深川へタイムスリップできる場所でした。館内は江戸時代の深川が再現されており、町並みや家屋、やぐらなどが見学できました。他にも展示室では深川江戸の歴史や文化に触れることが出来ました。
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横綱大鵬関の功績も一区画ありました。
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本日のウォーキングは阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかったですが参加者総勢76人、2班に分けての行動でした4。
1日晴天で19℃、風なし、スタート9:30、ゴールは深川江戸資料館前到着までで、約12000歩は気持ちよかったです。そうそう昼食は清澄公園で深川めしの弁当でしたがこのようなやり方は雨天ではどうなのかな?とか、街中のウォーキングにしては人数が多くてどうなのかしら?とか余計な心配をしました。では本日も無事終了でありがとうございました。
posted by yunofumi at 22:27| あちこちウォーク

2016年11月12日

2016.11.10 第7回東京の新発見旅「文京区」

〜水道橋〜伝通院〜小石川植物園〜旧岩崎邸〜

JR水道橋駅西口改札⇒後楽園ブリッジ⇒東京ドームシティ⇒外堀通り⇒後楽橋交差点⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望台⇒源覚寺・こんにゃくえんま⇒えんま通り商店街⇒六角堂調剤薬局⇒善光寺坂⇒慈眼寺・沢蔵司稲荷⇒善光寺坂ムクノキ・幸田氏宅⇒傳通院・於大の方墓⇒浪士隊結成の地・処静院跡⇒都立竹早高校⇒三百坂⇒千川通り⇒チャイルド本社
⇒小石川植物園⇒御殿坂⇒愛星幼稚園・小石川白山教会⇒龍野川信用金庫⇒東京富山会館⇒旧白山通り⇒白山下交差点⇒白山神社⇒東洋大学・井上圓了記念博物館⇒旧駒込東片方町案内板⇒白山上交差点⇒向丘2丁目交差点⇒魚邦(昼食)⇒栄松院・初代松本幸四郎の墓⇒清林寺⇒光源寺・明珍本家の墓・逢華梅⇒旧駒込蓬莱町案内板⇒駒込学園前交差点⇒向丘高齢者在宅サービスセンター⇒日本医科大学健診医療センター⇒夏目漱石旧居跡・日本医科大学橘桜会館⇒雄飛堂薬局⇒日本調剤根津薬局⇒根津裏門坂⇒根津神社⇒旧根津須賀町案内板⇒弥生坂⇒弥生2丁目⇒弥生式土器発掘ゆかりの地碑⇒東京大学弥生門⇒弥生美術館⇒竹久夢二美術館⇒暗闇坂⇒覚性寺⇒宗賢寺⇒日本退公連会館⇒旧岩崎邸⇒上野合同庁舎⇒上野公園⇒JR上野駅

水道橋駅から後楽園に向かうとき、神田川の向こうに青い橋が見えました。これが水道橋とのこと。
江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まり。はじめは現在よりやや下流に位置していたようです。『江戸図屏風』には江戸時代初期の水道橋が描かれており、橋の下側に描かれているのが懸樋だそうです。
従って水道橋の名は、この橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来しているということでしょう。
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小石川後楽園
江戸時代初期の1629年(寛永6年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷の庭として造り、二代藩主の光圀の代にようやく完成した庭園とのこと。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見から、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけたのです。
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広大な庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」。枝垂れ櫻や花しょうぶなどが見事とのこと。花の季節にまた伺いたいものです。
それにもまして水面に映る形が満月のように見える円月橋は素敵でした。
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文京区役所展望台(文京シビックセンター25階)25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されていました。無料でした。展望ラウンジの高さは、地上約105m、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がっていました。
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まるでジオラマのように見えました。

源覚寺は1624年(寛永元年)定誉随波上人により開創。その後1657年の明暦の大火、1762年お薬園大火、1774年戸崎町火事、1884年富坂火事などの火事に見舞われましたがご本尊、閻魔様ともども無事だったとのこと。また東京大空襲でも本堂は無事だったのです。
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源覚寺門前はこんにゃくえんま門前として江戸時代から賑わっているようです。

慈眼寺(じげんいん)・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)
伝通院の修行の場であった学寮の沢蔵司という修行僧が3年で浄土宗の奥義を極めたことから伝通院の住職郭山上人がこの沢蔵司稲荷を境内に祀り慈眼寺を別当院としたとのことです。
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沢蔵司は蕎麦が好物で門前の蕎麦屋さんで良く蕎麦を食べ、その日の売り上げにはムクの葉が入っていたとのこと。ということで傍の善光寺坂ムクノキには沢蔵司稲荷が宿っているといわれています。
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ムクノキのすぐ傍に幸田露伴の娘・幸田文(小説家)、孫の青木玉さんの住いがあるとのことでした。幸田文の作品は多く接しています。また青木玉の作品では「小石川の家」などを読んでいます。またさらにひ孫の青木奈緒さんも物書きとのことですからどこの家も血筋は続くのですね。

傳通院は正式には無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)といい普段は小石川伝通院ともいわれています。徳川将軍家の菩提寺で江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所とのこと。
室町時代の1415年(応永22年)に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創したのがはじまり。
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ここには家康の生母の於大の方、千姫(2代将軍秀忠の娘)の墓、孝子の墓(3代将軍家光に正室)がありました。
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また眠狂四郎で有名な歴史小説家柴田錬三郎の碑と墓もありました。
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浪士隊結成の地・処静院跡の案内が傳通院前にありました。
ここは新選組の元となった浪士隊の結成が処静院(しょじょういん)で行われとのこと。新選組のことはその後長い物語が知られています。

東京はいずこも坂が多いのです。ここで前述の善光寺坂以外の本日通った坂をあげてみましょう。

三百坂(さんびゃくざか)別名三貊坂(さんみゃくざか)は小石川3〜4丁目竹早高校傍を通り約250mの緩やかな坂。近くに松平播磨守の屋敷があったそうです。

御殿坂(ごてんさか)は白山2丁目と3丁目の間。案内板には御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂とあります。その昔この上に白山御殿があったから。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれとのことです。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園、その後、小石川養生所、今は東京大学の付属植物園となったのです。

弥生坂(やよいざか)(別名鉄砲坂)はかつて「向ヶ岡弥生町」といわれていたあたり。元和年間(1615〜24)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)や、小笠原信濃守の屋敷、加賀藩前田家の屋敷(現在の東京大学)があった。また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからということです。

暗闇坂(くらやみざか)は本郷7丁目と弥生2丁目の間にある坂。
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったようです。 この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
また傍には東大弥生門、弥生美術館、竹久夢二美術館があります。

小石川植物園は正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園。つまり植物学の研究・教育を目的とする東京大学の教育実習施設。よく知られている歴史は約320年前の貞享元年(1684)に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がこの前身ということです。面積は161,588m2(48,880坪)と広い。
ここは確か2010年だったでしょうか、ショクダイオオコンニャクの開花がニュースとなり」見に来た覚えがあります。
本日はヒッコリーの黄葉した姿が見事でした。
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浄土宗寺院の光源寺は、遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、1589年(天正17年)神田四軒町に創建、1648年(慶安元年)この地へ移転したとのこと。丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、大和国長谷寺の観音の写しという著名な観音像でしたが、太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。東京三十三観音霊場27番札所です。
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平安時代京都の甲冑師宗介の技術が優れていることから近衛天皇から明珍の姓が与えられこの寺には代々の方々のお墓があるようです。
樹齢300年の蓬莱梅(ほうらいばい)もありました。

日本医科大学橘桜会館の横に夏目漱石旧居跡の石碑がありました。
石碑は川端康成の筆でした。漱石は東大講師のころ約4年弱、この地に住み、「吾輩は猫である」を著したので、漱石文学の発祥地ともいえます。
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根津神社は昔、根津権現ともいわれていたようです。
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社。境内はツツジの名所として有名。近所に森鴎外や夏目漱石など日本を代表する文豪が住んでいたこともあり旧跡もあるようです。
現在の社殿は1706年(宝永3年)の創建。その前の年に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養嗣子に家宣(第6代将軍)が入ったため、元の屋敷地が献納され、「天下普請」と言われる大工事で社殿が造営されたようで、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされています。

表参道鳥居
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唐門
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社殿
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弥生式土器発掘ゆかりの地碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人が根津の貝塚から赤焼きのつぼを発見したのが始まりでこれが後に縄文式土器と異なるため発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられたのです。でも、「弥生式土器」の発見地は、都市化の講師ではっきりわからなくなり結局、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されたのでした。
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旧岩崎邸は1896年(明治9年)岩崎弥太郎の長男久弥の本邸として建てられたとのこと。元々は庭園を含め約15000坪で20棟の建物があったようです。
戦後GHQに接収後1952年(昭和27年)に返還、その後色々変遷があり現在は東京都が管理。洋館はジョサイア・コンドルの設計。この方は東京駅を設計した辰野金吾の先生。イギリスルネッサンス様式で贅を尽くした建物でした。
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ビリーヤード場はスイスの山小屋風でおしゃれ!!
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庭園は日本式の手水鉢、庭石もありながら洋式の芝庭もありました。
外に出て袖塀が印象的でした。袖塀にある岩崎家の家紋の「重ね三階菱」は現在の三菱の社章となっています。
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本日参加者は22名、はじめての渡辺講師と伊藤CDと共に順調に24000歩を元気に歩きました。
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天候は曇りでしたがよく持ちこたえてくれてよかったです。風は午後少し弱くなりましたが、気温13℃くらいで空気が冷たかった!やや寒いので参加者は今年始めての厚着でした。それでもいつものように16:00前には終了。上野駅の傍で温かい珈琲をまったり飲んでから電車に乗ったらポカポカで、ついつい乗り過ごし、予定より小一時間遅く帰宅。まずはご愛敬!!
このシリーズは既に知っている所もありますが思いがけず発見することもあり、かなり面白い!!今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:40| あちこちウォーク

2016年11月08日

2016.11.6 第39回日本スリーデーマーチ3日目

都幾川・千年谷公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒鰍aOSCH⇒東松山ケーブルテレビ⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒市立南中学校(チェックポイント)⇒氷川社⇒ゴール(市立松山第一小学校)

唐子中央公園は6km地点にありました。ここは唐子市民活動センター(旧唐子公民館)の南側につくられた公園で、体育館、多目的広場、子供広場等が整備されており、広々とした公園なのです。本日は第39回唐子地区商工祭が開催中だったため豚汁・稲荷ずしをいただき小一時間休憩。野菜、果物など販売もあり、すっかりリラックスしました。

天の園記念碑
打木村治の作品「天の園」は、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全6部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われているとのことです。主人公の成長過程が学年ごとによくわかるようです。随分前に読んだような気もしますが再度読み直そうと記念碑を見ながら思いました。
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市立南中学校はノーベル物理学賞の梶田隆章先生の出身校とのことで校舎前には記念碑がありました。本日の実質歩程12kmということでここは9km地点のチェックポイント。後3kmの表示を見ながら元気を出してウォーキングをしました。
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本日は快晴、気温18℃ながらかなりの強風で体感温度は低かったです。多くの方は風を通さない防寒の衣類を着込み歩け!歩けでした。暑がりの私もさすがに風通さないベストを着用。唐子中央公園で小一時間の休憩とゴール前に来てお祭り騒ぎのアトラクションなどを大いに楽しみゴールには4時間で到達。

埼玉県警音楽隊のパレードの様子。
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松葉町のお囃子。
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ゲットしたお土産の色々。
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今回で3日間連続ウォーキングを5年間達成でき、大いに満足しました。
元気が何よりなのです。また来年も参加できるように頑張ります。
そうそう参加者集計を見ましたところ、1日目23225人、2日目30247人、3日目33678人、合計参加者延べ人数87150人とありました。傾向としては私のように10kmの参加者が一番多かったようです。道理で狭い道路ではラッシュアワーのような込み合い方でした。
無事に終了し、関係者の皆様、中学生のボランティアの方々もお疲れさまでした。お世話になりました。感謝!!
posted by yunofumi at 00:13| あちこちウォーク

2016年11月07日

2016.11.5 第39回日本スリーデーマーチ2日目

吉見百穴・森林公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒上沼公園⇒砂田第一公園⇒市野川⇒岩室観音堂⇒吉見百穴⇒常盤苑⇒東京農業大学第三高校・附属中学校⇒市民病院入口交差点⇒市の川小学校(チェックポイント)⇒JA埼玉中央本店⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート前に梶田先生のパネルと記念撮影
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岩室観音堂。
吉見百穴手前にありました。すぐ裏手に広がる山は、武州松山城の跡地で、松山城の搦め手の一部にも位置しているとのことです。右と左に岩穴があり仏様が多くあるとのことでした。今日は急ぐためあまり探検しませんでした。
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吉見百穴(よしみひゃくあな)は古墳時代後期の横穴墓群の遺跡。ここは凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡。穴の数は219個もありこのような遺跡としては日本一の規模だとのこと。穴の入り口は直径1m程度、でも内部はもう少し広くなっていることが多いとのことです。
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途中ののどかな風景。
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ゴール前のよさこい陣屋祭の様子。
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市の川小学校は本日の歩程が実質10kmながらチェックポイントが8kmのこの地点でしたからやや遠かった印象でした。でも朝はやや曇りでしたが途中から晴れたので気持ちよく楽しみながら約3時間、21000歩でゴールしました。
posted by yunofumi at 23:19| あちこちウォーク

2016.11.4 第39回日本スリーデーマーチ1日目

和紙の里・武蔵嵐山ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒県立松山高校⇒みどりとふれあいの路⇒東武東上線森林公園駅南口⇒北口⇒みやこ橋⇒新郷公園(チェックポイント)⇒東松山工業団地⇒八雲神社⇒虎御石⇒箭弓稲荷神社⇒東上線アンダーパス⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート付近の様子
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森林公園駅は2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎となっている。傍に森林公園があるので始発や終点駅でもある。朝夕は東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線・副都心線直通列車がまた2016年から元町・中華街からもメトロ車・東急車も乗り入れている。
森林公園は埼玉県比企郡滑川町と熊谷市(北口周辺のみ)にまたがる比企北丘陵にある国定武蔵丘陵の公園。国の明治百年記念事業の一環として1974年に開設された。広さは304haと広大で四季折々も楽しめますから埼玉県民は遠足をはじめ一度は訪れていると思います。

新郷公園は芝生も広々しており、テニスコート、トイレ、駐車場が完備しておりチェックポイントとしては最適。ここまでで4km地点なのでほっと一息。和やかに暖かいお茶の接待などあり、持参のおやつを食べてほっと一息しました。

箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)。
この神社は牡丹園で有名。はじまりは1923年(大正12年)に東武東上線坂戸・東松山間の延線竣功を祝し、東武鉄道初代社長・根津嘉一郎さんが牡丹並びに藤、松を奉納されたことだそうです。現在は約3500uの園内に、1300余株の牡丹があり、毎年4月中旬頃より、つつじや藤の花と合わせて見事なのです。

ステージでの歓迎の演奏の様子
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本日は快晴、気温18℃、微風。ウォーキング日和でした。実質歩程10km、約20000歩をスタートから終了まで約3時間を要しました。おやつを食べたり花々を楽しんだり、十分道草をしましたので元気なウォーキングができた1日でした。
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posted by yunofumi at 23:12| あちこちウォーク

2016年11月03日

2016.11.1 第6回東京の新発見旅「品川区」

〜品川駅〜旧東海道〜御殿山〜目黒川〜池田山〜

JR品川駅北口改札⇒品川セントラルガーデン⇒東京都交通局品川自動車営業所・北品川1丁目⇒八山通り栄歩道橋⇒東海道品川宿・北品川本通商店会⇒栄亀庵⇒問答河岸跡石碑⇒北品川郵便局⇒土蔵相模跡⇒藤沢宿の兄弟松⇒品海公園・坂下宿の御道松⇒一心寺⇒聖跡公園(本陣跡)⇒東海道北品川交差点⇒品川宿交流館⇒北馬場参道通り商店街⇒品川神社板垣退助の墓⇒御殿山ヴィラ⇒北品川社宅⇒権現坂⇒権現山公園・北品川3丁目⇒北品川郵政官舎⇒陸橋⇒御殿山庭園・御殿山の頂上⇒東京マリオットホテル⇒セルビア共和国大使館⇒原美術館⇒御殿山通り⇒翡翠原石館⇒御殿山の坂⇒居木橋(いるきばし)⇒イーストタワー⇒大崎ゲートシティ⇒O美術館⇒ザ・パークタワー・荘川桜⇒容器文化ミュージアム⇒大崎フォレスト⇒品川消防団地域活動センター⇒Dou Feel島津山・東五反田3丁目⇒島津山眼科⇒都営地下鉄五反田駅⇒東京デザインセンター⇒Repas de Naoshima(昼食)⇒五反田公園の桜並木⇒池田山地域安全センター⇒駐日ベラルーシ共和国大使館⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館官邸⇒池田山公園⇒上大崎郵便官舎⇒本願寺⇒常光寺・福沢諭吉石碑⇒隆崇寺・伊東深水天井絵⇒子守地蔵・白金5丁目⇒国立科学博物館附属自然教育園・大蛇の松・館跡⇒JR目黒駅

品川セントラルガーデンは、品川駅東口地区再開発地区計画の開発区域のうち A1地区(品川インターシティ)、B1地区(品川グランドコモンズ)の建物の間に南北に広がる幅約45m、長さ約400m、面積約2haの広大な歩行者大空間の名称とのこと。久しくこちら側に来ていなかったので びっくりでした。
品川セントラルガーデンの基本テーマはみちもり広場で、「みち(道)空間」とは、人と人とが直面してコミュニケーションをとる広場型ではなく、そぞろ歩きの合間、買物の合間に好きな場所に立ち寄れる区間を意味し、「もり(杜)空間」とは、人と人とが自然を介して出会う心安まる空間を意味しているとのことでした。

東海道品川宿・北品川本通商店会。
品川宿は、江戸からでる様々な街道のうち最も重要視された東海道の1番目の宿場(1601年指定)である。目黒川を挟んだ南・北品川宿と享保期にできた歩行新宿(北品川)とで構成されており、宿場の家々は1600軒、住む人7000という活気ある土地柄でした。 また、北の吉原と比べ品川は南といわれた遊興の場所として有名。数年前に東海道五十三次を歩き終えた者としては懐かしく、相変わらず今でも、江戸時代と同じ道幅の所がありました。

問答河岸跡石碑。
無理問答(むりもんどう)は、言葉遊びの一種。
確か、問う側が「○○なのに××とはこれいかに」というと答え側が「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるという形。
このような無理問答は、江戸時代からあったとのこと。ここで1640年、徳川家光が附近にある東海寺_(品川区)を訪れた際、ここで沢庵和尚と問答をしたとのことです。
    家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
    沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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土蔵相模跡は、高杉晋作など幕末の志士たちの会合場所としてよく登場する妓楼とのこと。桜田門外の変で大老・井伊直弼を襲撃した浪士たちも、前夜ここに投宿し、浮き世で最後の宴を張ったと伺いました。

品海公園は八ツ山と目黒川の間の旧東海道に面した細長い公園。日本橋から二里の距離にあるので道標がありました。また、「品川宿の松」が植えられています。
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一心寺は、今から160年ほど前(安政2年1855年)に井伊直弼により開山したと伝えられています。明治初期に火災で消失した寺を再興した後、昭和になって「中僧正弘道大和尚」によって成田山分身の不動明王を本尊として興したことから通称は「品川成田不動尊」と言われているとのこと。そしてここは「東海七福神」の一寺としても有名。昭和7年に大東京市に品川が編入となったことで「一心寺」には、七福神の寿老人を祀ったのです。
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聖跡公園(本陣跡)
品川宿は江戸四宿のひとつ。東海道五十三次では一番目の宿場。ここは本陣があった所で品川三宿の中央部にあたり、東海道の参勤交代の大名、公家、門跡などが往来し大にぎわいだったようです。宿駅制度は1872年(明治5年)に廃止。ここは1868年(明治元年)明治天皇の行幸がありその時御在所となった場所なので聖跡公園となったのです。

品川宿交流館は、品川宿が所有する建物をこのまちで21年間まちづくり活動に取り組んでいる「旧東海道周辺まちづくり協議会」が管理、運営する施設で2009年(平成21年)にオープン。「旧東海道周辺まちづくり協議会」は「品川宿交流館」をまちづくりの拠点として、品川宿の情報発信基地として、地域住民と観光やビジネスで品川宿を訪れる人々が交流し、品川宿に新しい活力が生まれることを願い運営しているとのことです。また、この建物にあわせ周辺景観を整備し、品川宿らしい歴史性を感じる街並み作りはこちらのおかげのようです。
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品川神社
後鳥羽天皇の御世、1187年(文治3年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神、天比理乃 命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は品川神社と改めたのです。
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敷地内には富士山を見立てて作られた人工の山、高さ15mの「富士塚(ふじづか)」があります。日本では昔から富士山を登ると、ご利益(ごりやく:幸運・仏や神のもたらす恵み)を受けられると考えられてきましたが実際に富士山に登るのはとても大変などで富士塚が作られたのです。
富士塚を登れば、富士山を登ったのと同じご利益があるとのことです。
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品川神社の「双龍鳥居」がとても立派です。鳥居の右側には「昇り龍(のぼりりゅう)」、左側には「降り龍(おりりゅう)」が彫られています。日本には多くの神社がありますが、鳥居に龍が彫られている神社はっても珍しいでのす。巻きつくように彫られていました。
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品川神社境内裏手に、板垣退助の墓が夫人の墓と並んで建っていました。墓の傍に、遊説中に刺客に襲われた際に言ったと伝えられている有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」が刻まれた石碑もありました。板垣は、明治7年、日本で最初の政党である愛国公党を結成。日本に国会の開設を促し、自由民権運動の父と呼ばれる政治家。自由党(現/自由民主党)の初代総裁を務め、晩年は、社会事業にも尽くした方だそうです。
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原美術館は、私邸として1938年に建造された建物を改装し、1979年に現代美術専門館の草分け的存在として開館。年間5−6回の展覧会に加え、講演会、パフォーマンス等各種イベントを通して国内外の現代美術を紹介しているとのことです。入館者のみが利用できる中庭に面したカフェやミュージアムショップもある。
只今は篠山紀信展「快楽の館」が年明けまで開催中とのことでした。
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翡翠原石館
縄文時代から勾玉として珍重され、元祖パワーアイテムとも呼べそうな翡翠(ヒスイ)の原石を常時100個以上展示している個性的な博物館。館長の鶴見信行氏は自動車部品製造会社を経営する傍ら、約30年かけて翡翠を収集。世界有数の産地である新潟県糸魚川の翡翠を後世に残すべく、2004年に博物館をオープンさせたとのことでした。中をじっくりみたいものです。再訪を心にきざみました。
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容器文化ミュージアム。
東洋製罐グループ新本社ビル1Fに新設された、容器包装の文化を発信するミュージアムです。太古の昔から最新の容器包装まで、その歴史や技術・工夫を紹介していました。東洋製罐は1917年の創業以来、「包む」技術を通じて社会に貢献をしてきたとのことです。本施設は、資料館であり、ショールームであり、更には企業と市民の新たなコミュニケーションを生み出す場を目指した施設でした。
入口すぐにインバーテッドボディメーカーがありましたこれは。約100年前の自動製缶機とのことです。その優れた製缶能力により、缶容器製造の発展に大いに貢献したとのことでした。自動製缶機が開発されるまでは、中身を詰める缶詰会社の職人が手作業で缶を作っていたのです。
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ねむの木の庭はもともと皇后美智子の生家として知られる正田家の邸宅があった所。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した趣きのある建物だったが、故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納されたのです。建物の老朽化が激しく、建物は2002年(平成14年)に解体されたとのこと。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得し整備のうえ、2004年(平成16年)に「ねむの木の庭」として開園したのです。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因んでいるとのことでした。様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので特別広くはないのですが、皇后・美智子に因むバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられていました。
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池田山公園のあたりは江戸時代は岡山城主・池田氏の下屋敷があったところ。付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれていたとのことで、廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていたのです。戦後しばらく私人の邸宅があったが、品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備、1985年に区立公園として開園したのです。現在でも江戸時代の回遊式庭園が良好に整備・保存されており、一般公開もされています。
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常光寺には福沢諭吉先生永眠の地の石碑がありました」。
お墓は、もともとはこのお寺にあったのですが、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
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また常光寺には幼稚舎創立者の和田義郎碑もありました。
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隆崇寺は寛文9年(1669)に増上寺山内の山下谷に創建され、明治37年(1904)に伊皿子(港区)にあった長善寺を合わせて現在地に移ってきたとのこと。隣接地にあった善長寺は、寛永年間(1624〜44)に創建後、寛文8年(1668)からこの地にあったが、明治になって無住となっていたため、明治38年(1905)に隆崇院に合併されたのです。
深水一門の天井絵は1962年(昭和37年)竣工の本堂の天井に、日本画の巨匠伊東深水と、子息万耀、および一門の画家によって描かれた鮮やかな彩色の花の絵。天井の中央に深水の「牡丹唐獅子図」、周囲に大小各20面の花の絵を配置しており1967年(昭和42年)に完成と伺いました。
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国立科学博物館附属自然教育園は、大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地。白金台地は、洪積世(20〜50万年前)海食によって作られたようです。園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されています。
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平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと思われます。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明。白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。江戸時代になると、増上寺の管理下となったが、1664年(寛文4年)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残だろうと思われます。
昭和24年文部省の所管、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っているとのこと。
園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹、ススキやヨシの草はら、池や小川などがありました。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察もできるようです。
園内の植物には種名表示板や解説板が整備されており、工夫がされておりました。

本日参加者は17名、信野講師、伊藤CDで順調に2万歩を闊歩。天候は10:00出発時小雨でしたが1時間経過辺りからほぼ止みはじめ、午後は日差しもまぶしいくらいでした。いつものように16:00前には終了し、元気に帰宅しました。
そうそう、本日は以前、東海道五十三次でご一緒した方に久しぶりにお会いしました。懐かしく以前のウォーキング仲間のお話しでき、これも嬉しいことでした。また次回も頑張ります。
posted by yunofumi at 21:14| あちこちウォーク

2016年10月23日

2016.10.22 第5回東京の新発見旅「中野区」

〜林芙美子記念館〜哲学堂公園〜宝仙寺〜

西武新宿線中井駅⇒寺斉橋・妙正寺川⇒中井商工会・中落合1丁目⇒四の坂⇒林芙美子記念館⇒中井2丁目⇒坂上通り⇒土筆堂書店⇒中落合4丁目⇒中井出世不動尊⇒北原橋⇒上高田5丁目⇒光徳院⇒道しるべ石柱⇒四村橋・妙正寺川⇒新宿区立・中野区立・妙正寺川公園⇒哲学堂公園⇒水の塔公園・野方配水塔⇒連華寺・井上円了の墓所⇒中野通り・松が丘1丁目⇒松が丘シニアプラザ⇒中野区清掃事務所⇒新井小学校⇒新井薬師梅照院⇒薬師公園歩道橋⇒新井天神北野神社⇒新井五差路交差点⇒新井交差点⇒中野ブロードウェイ⇒サンモール⇒天ぷら天喜代(昼食)⇒中野区役所・中野サンピラザ・中野の犬屋敷⇒JR中野駅⇒中野2丁目交差点⇒新渡戸記念中野総合病院⇒桃園川緑道⇒本牧三宮前町会⇒山政醤油醸造所のレンガ塀⇒宝仙寺・堀江家の墓・中野町役場跡⇒宝仙寺前交差点⇒イーストンホテル⇒中野区朝日が丘公園・象小屋⇒成願寺・鍋島家墓所⇒地下鉄丸の内線中野坂上駅

妙正寺川(みよしょうじがわ)。
中井駅前でのいきなりの川の説明。杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流するとのこと。
教は中井駅前の寺斉橋、その後北原橋、四村橋など、清らかな流れを見ながらのウォーキングでした。

四の坂。
中井には“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂名が並んでいるとのこと。東から 四番目の坂だから四の坂。四の坂通りを上っていくと林芙美子記念館に行きつきました。
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林芙美子記念館。
ここは林芙美子が1941年(昭和16年)から1951年(昭和26年)に死去するまで住んでいた家。その後、改築・整備し、記念館として公開したのです。生前実際に使用されていた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先からみせていただきました。
画家だった夫・林緑敏の旧アトリエは展示室となっていました。またお庭は芙美子の思い入れが感じられました。
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中井出世不動尊。
江戸時代僧円空作の不動尊像(像高128cm)が祀られ、毎月28日午後に開帳されているとのこと。像は、不動明王ほか二体からなり、彫法は素木を生かした作風とのこと。
実は、都内で実際に信仰されている円空仏としては唯一のものだそうです。
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光徳院。
お堂の中はかなりの暗さでしたがなんと寺宝の千手観世音様は木像で高さ3尺3寸とのことでしたが何となくお姿をみられました。これは子育観音といい、第60代醍醐天皇の御代、延喜元年、右大臣・菅原道真公が筑紫へ左遷の時、自ら刻んで供養礼拝したとのことでした。

新宿区立中野区立妙正寺川公園。
妙正寺川の洪水調節池に設けられた公園で、川の水位が上がると公園に水が入り込むことになっている中野区立・新宿区立という公園でサッカーなどの運動ができる公園になっていました。すぐに中野区立哲学堂公園に続いていました。
哲学堂公園は、明治37年に哲学者で東洋大学の創立者、哲学者の故・井上円了博士によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された個性的な公園。井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまり。この場所は源頼朝の重臣である和田義盛の城址だったとのこと。昭和50年に中野区立公園となってから、古建築物の修復、整備を重ね、また中野区内でも有数の花の名所として親しまれる公園でもあるとのこと。広大な敷地内には野球場・庭球場・弓道場もありました。
六賢台は明治42年建立。東洋的哲学人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙の六人を「六賢」として祀ってあります。赤色塗り、六角形の周囲六間の建物で、四聖堂の西に建っています。屋根の上に相輪と九つの法輪(九輪)があり、最上部に宝珠を付け屋根の棟瓦の一端に天狗がついているとのこと。本日は中に入れました。
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色々古い建物がありました。再度じっくり見に来るようです。

野方配水塔(のがたはいすいとう)荒玉水道の野方給水場の配水塔。
野方配水塔は、1929年に竣工、配水塔としては1966年に使用を停止。現在は中野区の災害用給水槽。地元では江古田川・妙正寺川に向かって高台にあたる。
塔に空襲時の弾丸の痕跡が見られました。今は中野区の平和史跡で、周囲は中野区立みずのとう公園・みずのとう幼稚園となっています。
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連華寺の円了の墓所がありました。
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井上円了は、安政5年(1858年)現在の新潟県三島郡越路町生まれの哲学者。教育者としては明治の中頃から大正に多彩な活動をした方。とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動をしたとのこと。また、哲学館と哲学堂をつくり円了としては「護国愛理」をもとに学校教育と社会教育の振興をはかり、国民道徳の普及と向上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったのです。

新井薬師梅照院(あらいやくしばいしょういん)。
1586年(天正4年)創建。開祖は僧行春。ご本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるといわれており、12年に一度、寅年のみのご開帳とのこと。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、たちまち回復したことから、特に眼病治癒のご利益に関して有名、また子育てなどにも利益があるといわれているのです。
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新井天神北野神社は天満宮として天正・天和(十六世紀)の頃には新井の里の鎮守であったようです。豊かな水に恵まれた新井の村は、 妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願したのです。天神様として祀られた菅原道真公は優れた学者でまた右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め、 学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなったのです。境内に稲荷神社、大鳥神社、なで牛、力石などありました。

中野ブロードウェイ。
この土地はもとから小さな木造密集地帯。それと乃木希典のゆかりの地でもあったとのこと。1966年(昭和41年)、中野駅北口開発の一環として中野サンモール商店街に続くショッピングコンプレックス(商業住宅複合施設)、中野ブロードウェイが開業。オープン当時は食品、服飾、雑貨、食堂、理美容室、町医者、宝飾、書店、占い業などの商店街がそのままビルに入ったような小売・サービス業の個人営業の店が大半。元々この辺りは、中央線文化といわれるアニメ制作会社や大学、学校、若者といったマニア向け商品の顧客層が多い土地柄で、特に中野はお笑いを中心とした芸人、高円寺はミュージシャンが多く住むと言われ、住人層や街の雰囲気は、「サブカルの殿堂化」しオタク・サブカル文化が浸透したようです。混沌とした雰囲気から「オタクビル」「魔の巣窟」「日本の九龍城」などの異名を持つ。近年「オタクの聖地」としてマスメディアが取り上げる秋葉原とは一味違った独自の文化を形成している。アニメ商材の多い秋葉原に比べ、古本・プレミア玩具などレトロ商品の販売店舗が多いのが特色といえる。ビルの入居店は、漫画古本などのマニア・おたく向け商品店の「まんだらけ」、高級オーディオ・ビジュアル機器専門店の「フジヤエービック」、大型書店の「明屋書店」、サブカルチャー関連書籍・ミニコミ・同人誌専門書店「タコシェ」など。またマニア向け専門店のほかに、輸入雑貨店、美容院、ネイルサロン、飲食店、洋服店、寝具店、ゲームセンターなども入店しているので女性客の利用も多く、老若男女、世代性別を問わず、多くの買い物客で賑わっていました。正直目が回りそうでした。

中野サンプラザは、宿泊・音楽などの複合施設で、特にコンサート会場として、またアイドルの「聖地」として有名。1973年(昭和48年に開業。最近のニュースで
老朽化による建て替えを検討とのことです。
隣の中野区役所そばに中野の犬屋敷があったようです。
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1695年(元禄8年)にこの辺りの16万坪の土地に犬小屋が造られたとのこと。25坪の犬小屋が290棟、7坪半の日除け場が295棟、子犬養育所が459か所、そのほかに役人の住居や付属施設がありましたのです。
そして元禄15年には約29万坪(道路も含む)に拡張されたのです。
1709年(宝永6年)、綱吉の死とともに「生類憐みの令」は撤廃され、中野犬小屋も廃されたのでした。

新渡戸記念中野総合病院は、昭和7年に故新渡戸稲造博士(旧5000円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院。地域医療の中枢病院として、“誠実”を理念とし、患者サービス・医療技術の向上に努める、70年の歴史をもつ総合病院。今は東京医療生活協同組合の病院です。

桃園川緑道(ももぞのがわりょくどう)。
桃園川は、杉並区と中野区を流れる河川。全区間暗渠化されており川の上が緑道なのです。約2.8kmはあったようです。

山政醤油醸造所のレンガ塀。
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これは明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側の一部を移設したもの。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とレンガを交互に積み重ねるフランス積みといわれる工法で造られています。建造は、1899年(明治32年)。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれ、石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られ ています。当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。

宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087〜94)源義家によって創建。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのです。その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去りました。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺としたと伝えられます。その後、今の地に移り、江戸初期の1636年(寛永13年)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失。現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものです。
明治28年から昭和の初期まで中野町役場や区役所が境内に置かれていました。

中野区朝日が丘公園と象小屋。
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼おせられし」とある象小屋は、中野区朝日が丘公園にあったといわれています。当時、象は大変珍しい動物で人々の好奇心をそそり、書物や象にちなんだ調度品などが盛んに作られました。中野の象は、1728年(享保13年)中国人貿易商鄭大威が安南(今のベトナムあたり)から連れて来たもので京都では中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸で将軍吉宗が上覧した後、しばらく浜御殿に飼われていました。後にこの像を下げ渡された中野村の源助は、成願寺近くに象小屋を建てて飼育を続けたのです。1742年(寛保2年)に像は病死し、皮は幕府に献上され、牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現、中央2丁目)に保存され、戦災にあったのです。

成願寺(じょうがんじ)は、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られています。
ここには佐賀藩主だった鍋島家墓所がありました。
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本日のツーリズムのウォーキングツアーの案内は元気な牧講師とCDは佐藤さん。参加者は19名で程よい大きさの集団となりました。気象状況は曇天無風、20℃とベストコンデション。約19000歩はまずますの距離。本日のメインはやはり林芙美子記念館と哲学堂公園、新井薬師寺。はじめての中野区でしたのでオモシロイ体験が一杯でした。感謝!!
posted by yunofumi at 23:39| あちこちウォーク

2016.10.19 第4回東京の新発見旅「墨田区」

向島百花園〜復興記念館〜相撲博物館

東武スカイツリーライン東向島駅改札口⇒東向島粋いき通り⇒東武博物館⇒東向島4丁目・百花園入口交差点⇒向島百花園⇒和カフェみづき⇒墨田区露伴児童遊園⇒向島達鮨⇒
鳩の街・東向島1丁目⇒榎本武揚旧居跡・向島5丁目⇒ライオンズマンション言問⇒墨田公園少年野球場⇒墨堤通り・墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進⇒正岡子規仮寓の地⇒長命寺桜もち山本や⇒長命寺・城島柳北之碑・芭蕉雪見の句碑⇒出羽三山の碑⇒須崎会館⇒弘福寺⇒向島5丁目・美家古⇒桜橋通り⇒見番通り⇒三囲神社・三角石鳥居⇒小梅小学校⇒墨田郷土文化資料館⇒佐多稲子旧居跡⇒言問橋東交差点⇒言問だんご⇒牛島神社・二峯先生之碑⇒堀辰雄ゆかりの地⇒小梅牛島通り⇒東武橋⇒日本料理なりひら(昼食)⇒業平橋・業平1丁目⇒大横川親水公園・紅葉橋・ほうおんじばし・清平橋⇒甘味処北斎茶房⇒亀沢3丁目⇒北斎通り⇒野見宿や神社・歴代横綱の石碑⇒緑町公園(津軽家上屋敷跡)⇒青芽橋跡⇒亀沢1丁目・渡辺パイプ梶ヒ江戸東京博物館⇒徳川家康銅像・日本大学第一学園⇒置いてけ堀御竹蔵跡⇒第一ホテル両国⇒横網公園⇒旧安田庭園・水門跡⇒国技館・相撲博物館⇒JR両国駅

東武博物館。
東武スカイツリーライン東向島駅の高架下にある博物館。1989年(平成元年)に東武鉄道が開設しており、電車運行のしくみや運転操作シミュレーション、実物車両などの展示がありました。さいたま市にある鉄道博物館はJR東日本の博物館でとても大規模。それに引き換え東武の博物館ですからややこじんまりですが十分楽しめました。パンフがいっぱいでしたが「地方民鉄旅ガイド」はとても楽しい小冊子でしたのでいただいてきました。
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向島百花園は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、佐原鞠塢で旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園したのです。開園当初は、360本のウメが主、その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしてあります。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとのことです。
その後ずっと民営として昭和13年まで続き、その後京市に寄付され今日にいたっているようです。
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もう花は終わっていましたが、萩のトンネルが有名です。
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墨田区露伴児童遊園。
幸田露伴住居跡に1950年に作られた児童公園。幸田露伴は、1908年から1924年までの16年間、蝸牛庵と名づけた住居で数々の名作を書きました。作品を書くかたわら、庭で門弟を相手に剣道、旧道、相撲などをして遊んだと伝わっていりその話をもとに児童遊園となったようです。園内には、「幸田露伴文学碑」やカタツムリのオブジェもありました。
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榎本武揚は幼い頃から学才に長け、儒学、蘭語、英語など恵まれた環境で洋学の素養をはじめ、樺太探検や長崎海軍伝習所での蘭学や造船学、航海術などを身につけたとのこと。また、文久2年(1862年)には幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方で、国際法や軍学も修めました。戊辰戦争では官軍と戦い、五稜郭で降伏して3年間投獄されていたのが、その後、新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任したのです。下町情緒を好み、明治38年から73歳で没する明治41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたとのことです。旧居跡にはマンションになっており説明板のみがありました。
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墨田公園少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年 に明日への希望」をスローガンとして, 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場。目測では 60m x 40mぐらいのグラウンドで, 周囲は高いフェンスで囲まれていました。今や日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治さんもこの 球場から育った一人とのことです。
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墨堤通り(ぼくていどおり)は都道461号の一部で沿道には墨田区役所、墨田公園や牛嶋神社、東白髭公園や隅田川神社などがあります。
私たちは墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進などの説明板を見ました。
墨田川七福神は多聞院(毘沙門天)、白鬚神社(寿老神)、向島百花園(福禄寿尊)、長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、三囲神社(大国神、恵比寿神)です。
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「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」の都鳥の歌は日本童謡民謡の先駆者野口雨情が昭和8年に詠んだ歌。都民の心のふるさとである隅田川沿いを」飾るにふさわしい作品として記念碑が建てられたとのことです。
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墨堤植桜之碑と桜勧進。
1883年(明治16年)成島柳北、大倉喜八郎たちが、墨堤に約1000本の桜を植えたのを記念して、1887年(明治20年)建てられた碑。植桜碑によると、墨堤の桜は4代将軍家綱の時に始まり、1725年(享保10年)には将軍吉宗が植えることにかかわり1732年(享保17年)には、寺島村境から木母寺前まで土手の並木がつくられたのです。さらに1790年(寛政2年)、将軍家斉が植えかえ、文化年間には百花園の佐原鞠塢・浅川黙翁が、白鬚神社付近に150本の八重桜を植えたのです。その後も災害があっても隅田村名主坂田三七郎、三囲神社、須崎村の宇田川総兵衛などがどんどん桜を植えていったようです。また1854年(嘉永7年)、百花園2代目鞠塢・中山胡民・田中抱二たちが発起人となり「花勧進」を行い、多くの補植をしました。またさらに明治7年には、三囲の其角堂永機が1000本を植え、明治13年水戸徳川家が邸宅前に植えてついに枕橋にまで桜が並木がつながったのです。そして明治16年、大倉喜八郎と成島柳北たちが、1000本を補い、このことがきっかけで植桜碑の建立となったそうです。この植桜碑も明治29年現在地に岸より移したのです。
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正岡子規仮寓の地。
「向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉」
正岡子規は、向島周辺の景色を好み、歌を数多く残しています。
隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階に3か月ほど滞在したそうです。
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長命寺桜もちは、山本やの創業者山本新六が1717年(享保2年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前で売り始めたことがはじまり。 その頃より桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集り、桜もちが大いに喜ばれたのです。これが江戸の桜もちの始まりだそうです。
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長命寺の創建は不詳ながら、平安時代円仁の開山による創建と伝わっているようです。天台宗の寺院で山号は宝寿山、院号は遍照院といいご本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神では弁財天が安置されていますが本日は見られませんでした。
芭蕉雪見の句碑「いざさらば 雪見にころぶ所まで」、実業家城島柳北之碑など多くの碑がありました。
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見番通り
墨堤通りと水戸街道に挟まれて見番通りが走っています。道の中ほどに 置屋の見番所があったのでこの名雨がついたようです。

三囲神社(みめぐりじんじゃ)の祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。
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閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されている。 三越各店に分社があるが、なぜか日本橋本店(屋上)ではなく銀座店(9階屋上)に社務所がある。
三角石鳥居には「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されています。三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がありました。
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牛島神社は860年(貞観2年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を勧請して創祀、のち天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨があわせてお祀りし「王子権現」としたとのこと。1180年(治承4年)源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水のために渡ることができなかったが祈厳したところ、神明の加護によって全員無事に渡ることができたことから、頼朝は1180年(養和元年)社殿を造営し、多くの神領を寄進した。1538年(天文7年)に後奈良院より「牛御前社」という勅号を賜わったといわれているのです。江戸時代は鬼門守護の社として将軍家の崇敬があつく、将軍家光は本所石原に社地を賜わりお旅所とした。明治初年以後牛嶋神社と称し、本所総鎮守として崇敬されている。大正12年関東大震災で社殿等が炎上し、次いで帝都復興計画で隅田公園ができたため、向島一丁目(旧水戸邸跡)に移転、昭和7年現在の社殿が完成したのです。
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大横川親水公園(おおよこがわしんすいこうえん)は墨田区立の公園。
墨田区内を流れている大横川の多くの部分を埋め立てて造られた総延長約1800mの大規模な親水公園です。中には釣り堀や児童遊園をはじめ様々な施設がある。公園内の川は汲み上げ式のようできれいな水が流れている。
橋は現在、業平橋、平川橋、横川橋、紅葉橋、法恩寺橋、清平橋、江東橋があり、長崎橋は今はないとのこと。特に清平橋は亀沢四丁目と太平一丁目を結ぶ橋で約39m、平成24年に架け替えられました。昔は亀沢4丁目に清水町があり、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられたようです。今この橋は両脇に水道管があり、すさまじい状況になっています。この橋の構造がオブジェになってありました。
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また業平橋から見下ろす公園の端には大きなミラーを設置してあり、自分自身とスカイツリーを一緒に撮影できるようなビューポイントがありました。

北斎通りは、西は江戸東京博物館前の清澄通りから横十間川までまっすぐに伸びる道路。ちょうど京葉道路と蔵前橋通りの中間にあります。地下に電柱を埋めたことで歩道も広く整備され、両国と錦糸町を結ぶ通りとして地元の人々に利用されています。
江戸東京博物館の反対側の緑町公園そばに北斎生誕の地があります。ということで傍に北斎の美術館が建設中とのことでした。

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)は、相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会が管理しているようです。
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建された神社。元の社殿は東京大空襲によって焼失したので1953年に再建され、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているのです。
歴代横綱の名前が刻まれた石碑がありました。
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東京都江戸東京博物館(とうきょうとえどとうきょうはくぶつかん)は、墨田区横網(すみだくよこあみ)にある東京都立の博物館。
指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループなどで管理運営をしているとのこと。ここは失われていく江戸、東京の歴史と文化についての資料を収集、保存、展示することを目的に、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として1993年(平成5年)に開館しました。大きな建物で展示も多くゆっくり時間をかけて楽しみたいところです。
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江戸東京博物館への遊歩道の途中に徳川家康銅像がありました。亀の上に鷹狩り姿の徳川家康です。江戸なので家康はわかりますが、どういうことなのか、講師もわからないようでした。
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横網町公園は東京都の公園。
中には東京都慰霊堂、朝鮮人犠牲者追悼碑、震災遭難児童弔魂像、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑、子供の遊び場、幽冥鐘と鐘楼、東京都復興記念館などがありました。
教は東京都復興記念館
旧安田庭園・水門跡をじっくりみました。ここは関東大震災のことをつたえるべく当時の写真、絵画、遺品など多数あり、胸が痛くなりました。
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すぐそばに工事中の巨大な建物が見えました。「すみだ北斎美術館」とのこと。11月22日オープンということですからもうすぐ!!きっと伺います。

国技館はまだ入ったことがない私です。本日はたまたま相撲博物館には入れました。
写真撮影ができないのは残念ですがかなり面白いです。また行きたいと思います。事前に開館予定を見ておくことがコツのようでした。
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東武スカイツリーライン東向島駅に初めて下車しました。向島百花園は花の季節はさぞや素晴らしいと思いました。
墨田公園から長命寺桜餅の山本やで一休みは珍しく、おいしいひと時でした。
24℃、晴天と過ごしよい中のウォーキングは楽しく、16000歩を終了できました。
今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:28| あちこちウォーク

2016年10月18日

2016.10.16江戸ぶらり古地図ウォーキング第1回両国

〜明暦の大火がもたらした変動〜
JR浅草橋駅⇒浅草見附公園⇒浅草橋⇒郡代屋敷跡⇒小松屋・柳橋⇒柳橋大川端通り⇒亀清楼⇒旧跡両国広小路⇒両国橋西交差点⇒やげん堀・中央区立産業会館⇒日本山妙法寺⇒薬研堀不動尊(大本山川崎大師東京別院)・納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑・不動院通り⇒中央区立日本橋中学校⇒区立日本橋中学校前歩道橋⇒御幸通り⇒両国橋⇒両国広小路⇒墨田区立両国橋児童遊園⇒ももんじゃ⇒駒留橋跡・藤代町跡・片葉の葦・石尊垢離場跡・赤穂浪士休息の地・旧両国橋・広小路⇒春日野部屋⇒式守家⇒相生町跡・両国2丁目⇒井筒部屋⇒前原伊助宅跡⇒・両国3丁目⇒吉良邸正門跡⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑・錨の碑⇒両国公園・勝海舟生誕地の碑⇒千歳公園⇒飯澄稲荷社⇒松 稲荷大明神・本所松坂町公園⇒墨田両国三郵便局⇒東京パフ梶ヒ両国シティコア・旧国技館跡⇒回向院・力塚・鼠小僧の墓・塩地蔵⇒両国駅そばオブジエ⇒JR両国駅⇒国技館⇒旧安田庭園・水門⇒JR両国駅

浅草見附公園。
江戸城の警護のために36か所設けられていた見附のひとつ・桝形だった門は「浅草御門」といわれ、警護の人を置き浅草観音や奥州街道の往来を取り締まったとのことです。
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浅草橋。
神田川にかかる江戸通り (奥州街道) の橋で地名にもなっていました。この辺りには玩具,文房具などの問屋が並び,住宅と混在しているようです。
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郡代屋敷跡。
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理したのが関東郡代でこの方の役宅跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時、伊奈忠次が関東郡代でした。その後、伊奈氏が十二代にわたって世襲。もともとは江戸城の常盤橋御門内にあった屋敷ですが、1657年の明暦の大火で焼失し、この地に移ったのです。

小松屋
柳橋のたもとにある佃煮屋。
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柳橋のあたりは江戸時代中期には花街でした。元々は柳原堤の端になったことから矢之倉橋といわれたとか、橋のたもとに柳の木があったからとかの説が聞かれるようです。
今、柳橋の欄干にはかんざしのレリーフが見受けられました。
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亀清楼の創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等、有名な文学作品にも登場する料亭。ランチもあるようです。
国技館に近い場所で古くから横綱審議会が行われていることでも有名なのです。

旧跡両国広小路。
1657年(明暦3年)の大火事後、防災上両国橋が架かり火事の類焼を喰い遂げるべきとのことで火除け地として設けられたのが広小路。今でも広々した空間でした。
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現在の東日本橋にかつて存在した運河で、堀周辺の通称が薬研堀といわれる場所。
薬研堀不動尊は真言宗智山派大本山川崎大師平間寺(川崎大師)の東京別院で目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている所なのです。
境内は都会らしく狭いですが、納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑も見られました。
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両国橋。
千住大橋の次に隅田川に架けられた橋。創設は1659年(万時治2年)または1661年(寛文元年)といわれているとか。西の武蔵の国と東の下総国をつなぐ橋なので両国橋としたとのことです。
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橋の途中には土俵の大きさがわかるように描かれていました。
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両国橋の東詰たもとに墨田区立両国橋児童遊園があり、子供用の遊具は見当たらず、立派な『表忠碑』がありました。『表忠碑』は日露戦争で出征され、護国の為に身命を捧げられた方々をお奉りしており、碑の裏面にはこの戦争で戦病死された方たちの名が刻まれていました。
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百獣屋の字をあてたももんじや(ももんじ屋)とは、江戸時代に近郊の農民が鉄砲などで捕獲した猪や鹿を利根川の利用で江戸へ運び、その他では牛肉や馬肉等を売っていた店のこととのこと。
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当時は表向き、肉食忌避だったのでこれらを「薬喰い」と呼んだそうです。猪肉は山鯨(やまくじら)、鹿肉は紅葉(もみじ)と呼んだのは花札の絵柄からとのことでした。
江戸ではこの両国広小路のお店が有名で、獣肉を鍋物や鉄板焼にしたことは今のすき焼きや桜鍋の元とも考えられるそうです。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名で呼ばれたともうかがいました。また、新撰組の人たちは豚肉を常食していたとのことで、このようなことが明治初期の牛鍋の人気につながり、今日の食事文化につながっているようです。

赤穂浪士休息の地。
赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名。この方はちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは同じ俳人仲間だったとのことです。1702年(元禄15年)12月14日、本所松坂町の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛ると、この場所が乳熊屋味噌店の上棟の日だったことから作兵衛が一同を店に招き入れ、甘酒粥を振る舞い、労を労ったとのことです。大高源吾は棟木に由来を認め、そして看板を書き残し、泉岳寺へ引き上げて行ったとのことです。
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春日野部屋(かすがのべや)は、日本相撲協会に所属する出羽海一門の相撲部屋。
1925年(大正14年)に引退した出羽海部屋の横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡を継承して年寄・8代春日野を襲名し、当時「分家独立を許さない」という不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設したのです。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げたとのことです。
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式守家が春日野部屋のお向かいにありました。
式守家(しきもりけ)は、大相撲の行司家の一つ。式守家の創設は、1767年(明和4年)の番付から名前がのっており、初代式守伊之助が式守姓最初の行司。
今日でも大相撲の行司さんでは式守伊之助、木村庄之助の名前をよく耳にします。

赤穂浪士の討ち入りは大石内蔵助ら表門隊23名が、吉良邸の表門が頑丈だったため、梯子を門の屋根にかけて登り、それから屋敷内に縄梯子を使って降りて門を開けたとのことです。
本所松坂町公園(吉良邸跡)はなまこ壁に囲まれ、裏門跡、正門跡からは、高家筆頭の吉良氏屋敷はかなり広大な屋敷だったことがわかりました。
吉良上野介氏の座像、みしるし洗い井戸、吉良家家臣二十士碑、上野介追慕碑などがありました。
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芥川龍之介文学碑
芥川龍之介は、1892年(明治25年)京橋区入船町生まれ。生後7ヶ月で母が病気になり、本所区小泉町(現両国3丁目)の母の兄、芥川道章に引き取られ、その後13歳の時芥川家の養子となったのです。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家。義父の道章は江戸趣味豊かな方だったようです。
龍之介は1898年(明治31年)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、1899年(明治32年)現両国小学校、現両国高等学校、第一高等学校第一部乙類、東京大国大学英文科と経由して、1916年(大正5年)東大卒業。東大在学中に夏目漱石の門に入り、同人雑誌「新思想」「新小説」に短編を発表し文壇に華やかに登場したのです。
この文学碑は龍之介の代表作の「杜子春」の一節を引用したもの。芥川龍之介の人生感を学び彼の文才を偲ぶということで両国小学校創立百十五周年の記念事業として、1990年(平成2年)に建立とのことです。
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勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)両国公園のここで誕生。にあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。剣術は島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて修行。1843年(天保14年)21歳の時、蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事。1850年(嘉永3年)に「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめています。1853年(嘉永6年)米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航した時、海舟は幕府首脳部に独自の海防論を示しこれがきっかけで異国応接掛手附蘭書翻訳御用、講武所砲術師範役、軍艦操練所教授方頭取などの役職に就き活躍が始まっています。そして、1860年(安政7年)には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断しています。また、帰国後は軍艦操練所頭取や軍艦奉行となっています。1868年(慶応4年)の西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となったのです。1899年(明治32年)に77歳で亡くなりお墓は洗足池畔にあるとのことです。
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両国国技館は、東京都墨田区横網(よこあみ)にある大相撲の興行のための施設。
正式には単に国技館だそうです。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもあるとのことです。1985年に建設され現在収容人員は11,098 人とのことでした。
同じ建物の横の入り口に相撲博物館がありました。ここは酒井忠正初代相撲博物館館長が長年にわたって収集した資料を基礎に、国技としての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年(1954)9月、蔵前国技館の完成と同時に開館したとのことです。昭和60年(1985)1月、両国国技館の開館に伴い移転し、現在の場所になったとのことです。歴代の横砂などの肖像画も見られかなり面白かったです。本日はたまたま開館していましたが見たいときは事前に調べてからお出かけするとよいようです。

回向院(えこういん)は、墨田区本所地域内にあることから「本所回向院」とも呼ばれています。振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれた明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍の徳川家綱が命じて葬った万人塚が始まりとのこと。その後、安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されている。
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墓山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉のお墓もありました。ここへの 参拝客のために両国橋が架けられたともいわれているとのことです。
門を入るとすぐに「力塚」がありました。これは1936年(昭和11年)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
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旧安田庭園。
江戸時代は、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に本庄宗資により大名庭園として築造され、安政年間には隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となったのです。明治22年(1889年)、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。大正11年(1922年)、には東京市に寄贈されたのですが、1923年の関東大震災によりほとんど旧態を失ったのを東京市が復元し、1927年より市民に解放されたのです。現在は墨田区が管理しているようです。
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1日晴天で22℃、風なし、約1300歩は気楽で心地よかったです。説明の先生が丁寧だったのがまたよかった。でも私のグループ34名、という調子で全部では4グループでしたから曜日?それとも場所?あまりの大人数でびっくりしました。四宮先生、CD青木さんに感謝。今後も楽しみです。
posted by yunofumi at 21:50| あちこちウォーク

2016年10月16日

2016.10.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第3回湯島

〜将軍家献上の水・江戸の用水を学ぶ〜
JR御茶ノ水⇒お茶の水石碑⇒杏雲堂病院・大久保彦左衛門屋敷跡⇒法政大学発祥の地碑⇒日本大学病院・甲賀通り⇒小栗上野介ここに生まれる説明板⇒さくら薬局⇒コトブキ調剤薬局⇒日本大学理工学部⇒紫紺館・駿河台道灌道⇒ミズノ東京本社⇒太田姫稲荷神社⇒池田坂・日本大学歯学部⇒日本大学歯学部付属歯科病院⇒日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋⇒神田神社・獅子山・銭形平次の碑・国学発祥之地・浮世絵師水野年方顕彰碑・神田神社裏参道⇒妻恋坂交差点⇒鳴門鯛焼本舗⇒三組塚下交差点⇒メトロ湯島駅⇒湯島中坂下交差点⇒中坂(仲坂)⇒鉄二健保会館⇒湯島中坂上交差点⇒湯島神社・新派碑⇒教證寺・柳瀬美仲墓⇒湯島四郵便局⇒旧湯島切通町⇒湯島地方合同庁舎⇒平野屋⇒鱗禅院・春日局墓⇒南山堂ビル⇒旧龍岡町・文京総合体育館⇒龍岡門バス停⇒東京大学本部棟・池之端門⇒東大薬学部創薬機構⇒赤門⇒東大赤門前交差点⇒大山堂書店⇒文光堂書店⇒本郷三丁目交差点⇒かねやす⇒本郷3丁目駅前バス停⇒第一医科梶ヒりそな銀行⇒壱岐坂通り⇒東京都水道歴史館・馬水槽・木樋⇒順天堂大学⇒お茶の水坂⇒元町公園⇒JR水道橋駅

お茶の水石碑
御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口交番横にありました。慶長の時代にこの辺りは神田山の麓で高林寺があり、庭から水が湧き出たので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶にはとても良い水と褒められた。そこで毎日この水を差し上げたことからこの辺りをお茶の水というようになったそうです。石碑横には今も水が涌いているようでした。
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杏雲堂病院はがんなどの予防法・診断法・治療法に関する臨床を中心とした調査や研究開発の事業を実施している佐々木研究所が経営している病院で明治15年に設置されたようです。この病院の植え込みに大久保彦左衛門屋敷跡碑がありました。時代劇でお馴染みの天下のご意見番の大久保彦左衛門です。徳川家康の家臣として関ヶ原の戦いで活躍し、徳川秀忠、家光にも仕えたそうです。
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しばらく行くと千代田区が設置した「小栗上野介ここに生まれる」の説明板がありました。
どうやら正しくは小栗上野介忠順(1827〜1868)。もともとは幕臣で勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行などを務めたとのこと。安政7年(1860年)には日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国し、江戸幕府の財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行ったとのこと。しかし人生最後は混乱期と重なり悲惨な最後となったようです。

太田姫稲荷神社
太田姫は太田道灌の娘。娘が重度の疱瘡にかかり一口稲荷の故事に「ならって祈願したところ回復したので社を立てたのが始まり。元々は江戸城内に、その後聖橋のそばに、そして今の所に移ったようです。江戸時代の将軍が崇敬したことあるからでしょうか、小さいながら立派な社殿でした。
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日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋は先日伺ったばかりなのでここでは省略。
神田神社は表にある社殿などはお馴染み。今日は周囲もよく解説していただきました。
銭形平次の碑、国学発祥之地、浮世絵師水野年方顕彰碑を見てはじめて神田神社裏参道から出ました。
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湯島神社は梅の名所。菅原道真の霊を祭る北野天満宮が元で広がった神社。学問の神様ということでいつも訪れる方が多いようです。

教證寺は、徳川忠長に嫁いだ教證院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教證院と号して起立したのです。
教證院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教證寺と改めたといわれています。
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境内に柳瀬美仲墓があるということで見せていただきました。
柳瀬美仲(1685-1740)は徳川時代中期、宝永2年遠江国浜松に生まれた歌人。
「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首により有名になったようです。元文5年5月56歳で没し、墓石は「隠口先生美仲甫之墓」とあるとのことでしたが素人目には判別はむつかしかったです。 

麟祥院(りんしょういん)は1624年(寛永元年)に春日局の願いによって二代将軍秀忠が建立させた寺。初めは報恩山天沢寺でしたが、寛永11年、三代将軍家光の命により麟祥院と改称して天沢山と号することになります。春日局は1604年(慶長9年)に家光の乳母となり、家光の将軍就任に並々ならぬ尽力をして方です。
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春日局墓石と台石の四方に丸い穴があいていました。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっているとのことです。  
ちなみに文京区の「春日」の地名は。春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来しており、昔は春日殿町と呼ばれていたとのことでした。

かねやすは現在、雑貨屋さん。
享保年間(1716〜1736)にはこの本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出したのが大当たりでお店は大繁盛。
その後の1730年(享保15年)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守がここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じたとのこと。
ところが北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたのでも有名なのです。
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東京都水道歴史館は江戸時代から現在までの400年、近現代の水道、江戸時代の上水、をきちんと学べる施設。水に関する学習施設ということでしたがもったいないくらい立派でした。またゆっくり来てみるようです。
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新宿駅にある馬水槽と同じのがあり、解説つきでよくわかりましした。
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本日のウォーキングは初めての阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。各社のウォーキングツアー催行の情報を耳にし、現在あちらこちらと、ちょっと気ままに研究しているのです。
たまたまこのツアーを見つけ、参加するのに日程調整をしたところいきなり3回目だったのは致し方なし、なのです。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかった。
1日晴天で24℃、風なし、約15000歩は気持ちよかったです。ということでこのシリーズに継続的に参加しようと思いました。
ウォーキング終了、水道橋駅14:40頃に総武線乗車、市ヶ谷から川越行きの有楽町線に乗り替え、いつものように車中でコックリと舟をこぎながら帰宅。その後夕方のニュースを見てビックリ!東京都内大規模停電!
埼玉県新座市野火止の洞道に敷設されている東電の送電ケーブルから出火、58万軒に影響、列車ももちろん各線が止まったとのこと。私の帰宅は水道橋から約1時間ですから途中で止まらなかったことが不思議。たまたま幸運だったのですね、ありがたいことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 23:13| あちこちウォーク

2016年10月14日

2016.10.10 旧中山道を行く 第8回上尾宿

大宮駅〜上尾駅
JR大宮駅⇒高島屋デパート・紀州藩鷲場本陣跡⇒すずらん通り・旅籠長次郎・臼倉本陣跡⇒メガネのヨコタ・栗原脇本陣跡⇒イワイビル・山崎本陣跡⇒大栄橋⇒宮町大栄会・御影堂⇒JA共済埼玉ビル⇒土手の椎の木⇒埼玉日本語学校⇒官幣大社の石柱⇒土手町地下道⇒北大宮住宅⇒大宮警察署入口交差点⇒東大成葬祭センター⇒大宮郵便局⇒藤和銀行⇒安政7年の道しるべ⇒八百姫大明神そば⇒くらづくり本舗⇒富士フィルム大宮事務所入口バス停⇒大成屋菓子舗⇒石上神社⇒馬頭観音.三界萬霊塔⇒東埼玉マイネッツさいたま北⇒喜多山製菓⇒さいたま市水道総合センター⇒大宮警察署加茂宮交番⇒北区役所入口交差点⇒北区役所・大宮競馬場建設記念碑⇒東大成の庚申塔⇒宮原1丁目バス停⇒武久金物⇒仲屋前バス停⇒サイゼリア⇒橋供養塔⇒埼玉りそな銀行宮原支店⇒宮原駅入口交差点⇒鮨・豆腐料理おがわ(昼食)⇒武蔵野銀行⇒大宮宮原郵便局⇒天神社⇒加茂神社⇒宮原小学校・センダンの木⇒神山商店⇒うなぎ清水家⇒徳樹庵⇒南方神社⇒河村屋・漬物カフェ〜これより上尾宿〜庚申塔・栄町1丁目⇒今村整形外科病院⇒下上尾バス停⇒上尾運動公園バス停⇒ヤマダデンキ⇒上尾陸橋⇒愛宕神社⇒上尾原市新道バス停・川越道⇒鍾馗羊羹・井上脇本陣⇒藤村病院・林本陣跡⇒白石脇本陣⇒氷川鍬神社・聖徳太子像・富士塚⇒ベルーナアネックスビル⇒うなぎ恵比寿亭⇒遍照院⇒JR上尾駅

大宮宿は氷川神社の門前町、明治時代には鉄道が通ったこと、縄文時代の遺跡があるという古い街。宿場としては南北約5.5km、東西約3.7km、本陣1軒、脇本陣9軒、問屋場4軒。旅籠25軒で大いに栄えたのです。

紀州藩鷲場本陣跡は高島屋デパートの辺りとのこと。1776年(安永4年)の大火事で近辺85軒が類焼しました。
また高島屋デパート屋上には北沢家から出た近代漫画家の先駆者北沢楽天を祭った北沢稲荷がありました。
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御影堂(栗原堂)は甲州武田の家臣だった栗原内記保逢が建てたお堂。栗原脇本陣と松本右衛門一族の墓があるとのことです。
土手の椎の木のそばを大名行列が通ったようです。大正時代には木の下で桶屋などが商売をしたり、旅芸人の芸がされたりと賑わったようです。
官幣大社の石柱は氷川神社の裏参道入口にありました。こちら側から初めてみました。
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少し行くと1860年(安政7年)に建立の石碑は「大山・御嶽山・よの・引また・かわ越」とあり道しるべでした。

石上神社(いそのかみじんじゃ)は疱瘡の神様として信仰されたようです。疱瘡は伝染病ですからとても人々は恐れたのです。
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しばらく行くと橋供養塔があり、昔この辺りに橋があったことを示しています。建立は1759年(宝暦9年)ということでした。

創建は京都の上賀茂神社を勧請したのがこの加茂神社。ここの地名は宮原。加茂宮村と吉野原から一字づつとった名前。村の鎮守様なのです。
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宮原小学校の正門横にセンダンの木がありました。明治初年宮原小学校開校時に赴任した先生が郷里の高知から移植した木で校歌にも歌われているとのことです。

南方神社(みなかたじんじゃ)はお諏訪様と親しまれており、吉野原村の鎮守様です。
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河村屋は江戸時代文化文政期の創業。酒粕を使った漬物を創作し、今はさいたま市の伝統産業です。
店舗の建物は新しく、お隣にある少し古い感じの建物は漬物カフェとなっていました。
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上尾宿は交通の要として栄えた宿場。宿場の街並みは南北に約1.1km、次の桶川宿まで3.7km、本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、旅籠41軒。中山道にクロスする脇道が原市・岩槻・蓮田・菖蒲・騎西・秋葉・平方・川越に通じていたのです。

愛宕神社はもともと東町にあったようです。この辺りで遊びに来ていた川越藩士と飯盛り女が別れを惜しんだというさよなら横丁もあったそうです。
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3軒あった脇本陣のひとつが井上脇本陣。昔の屋根瓦が入口の塀にオブジェのように飾られていました。お隣は鍾馗羊羹でした。
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お隣の藤村病院は昔は林本陣だった跡。現在の病院駐車場の端に赤い鳥居の稲荷神社が残っているのが少し見えました。

氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は上尾宿の総鎮守様。小鍬が御神体ということで五穀豊穣をを司る農耕神がご祭神。明治時代に氷川女体社と合祀され現在の名前となったようです。
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聖徳太子像碑と富士塚もありました。

遍照院(へんじょういん)の開山は、1394年(室町時代の応永元年)。
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御本尊は大聖不動明王。罪深い衆生のために怒りの姿に化身して救道するということで、諸願を成就し、災害を除き、財宝をえしめる仏様として厚く信仰されているとのことでした。
本堂に上がらせていただき、ご本尊の不動明王像や十一面千手観音菩薩を間近で見せていただけたのが大感激でした。
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また境内を入るとすぐに孝女お玉の墓がありました。
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お玉は越後の貧しい家に生まれ、親の生活を楽にしようと11歳で上尾宿の大村楼に身売りしたのです。生まれつきの美貌と賢さでたいへん評判になり、病で20歳の時なくなったのです。大村楼の主人が、お玉の孝行心に心を打たれ、手厚く葬ったということのようです。

本日は朝日旅行の第8回目の旧中山道を歩くに21名が参加。ガイドは浦和ガイド会の2名。
曇天で気温は低く、21℃はありがたかったです。しかしパンフに歩程9kmとあったのですが自分の万歩計は2万歩越えでしたから、ややお疲れという次第です。どうやら自分の限界もわかってきた今日この頃なのです。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク