2016年11月26日

2016.9.28 第13回 富士山すそのウォーク

割石峠〜精進湖民宿村

JR川越駅→談合坂SA→なるさわ道の駅→割石峠・喫茶パラマウントフジ・天徳宮入口⇒バス乗り場県境⇒国道139号⇒本栖ハイランド⇒林道逢坂線起点⇒林道竜ケ岳線起点⇒東海道自然歩道⇒ヴィラ本栖・本栖湖オートキャンプ場⇒本栖湖⇒湖仙壮(昼食)・与謝野晶子歌碑⇒食事処松風⇒渡辺氏屋敷跡⇒煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓⇒旧中道往還⇒本栖簡易郵便局⇒武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神⇒両替屋敷跡⇒町立上九一色中学校(廃校)⇒本栖城跡⇒富士山樹海・精進湖民宿村そば→いずみの湯→JR川越駅

天徳宮入口からすぐウォーキング開始。
ここ割石峠は静岡県と山梨県の県境。山梨県側は河口湖町上九一色村だった所。オーム真理教の施設があったところで少し変な感じ。国道139号から林道逢坂線起点を横目にズンズン進む。すっかり景色は秋!
本栖ハイランドの看板があった辺りは正月ころにはダイヤモンド富士のビューポイントだそうです。

青木ヶ原樹海の東海道自然歩道に入るとやはり溶岩がゴロゴロで足元注意でした。
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本栖湖が見えてほっと一息。
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本栖湖は富士五湖の中で最も水深が深く127m、透明度も高そうで水はきれい。面積4.7ku、周囲10.4km、湖面の標高は902m。もともと周囲23kmの「セの海」といわれた湖が800年(延暦19年)と864年(貞観6年)の噴火で西湖・精進湖・本栖湖になったそうです。したがってこの三つの湖面の海抜は今でも同じだそうです。

10分ほどで昼食場所の湖仙壮に到着。
昼食中に小雨がパラパラきたので雨具を装着で午後の部を開始。
本栖のあたりは甲斐から駿河への国境の宿場として賑わった時期もあったとのこと。武田家はここに国境警備隊を置き、隊長は渡邊囚獄門佑だったとのこと。そしてここが渡辺氏屋敷跡、煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓など苔むしている所を見ました。栄華盛衰ですね。
またしばらく行くと武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神などを集めてまつったお堂がありました。
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その後さらに両替屋敷跡、町立上九一色中学校(廃校)、本栖城跡はいずれも富士山樹海に呑まれている感じでした。
そしてようやく樹海を抜け精進湖民宿村そばに到着で本日はこれにて終了。

本日は落合講師と菊池ツアーディレクターと共に37名が参加。
落合先生の植物への造詣が深いのは相変わらず。
本日はヤマボウシ、ウリカエデ、レイジンソウ、イヌシベ、ミツバウツギなどなど。.
そうそうアケビが実をつけているのを初めてみました。
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朝出発時は曇り、午後一時小雨ながら18000歩を無事に終了。
富士山には吊るし雲やかさ雲がかかり裾野から中ほどまでは見えたのですが、少し残念。
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下界は32℃と後で知ったのですが私たちは25℃くらいの中をウォーキング。
これは標高が9000m辺りをウォーキングしていたお陰なのです。
本日は水曜日、夕方には川越到着でラッキーでした。
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2016年11月25日

2016.11.10 第8回東京の新発見旅「目黒区」

〜大円寺〜目黒不動〜天空公園〜旧前田侯爵邸〜

JR目黒駅中央改札⇒ホリプロビル⇒目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」⇒行人坂・目黒川架橋供養勢至菩薩石像⇒大圓寺・大黒天⇒目黒雅叙園⇒太鼓橋・目黒川⇒海福寺⇒五百羅漢寺⇒目黒比翼塚⇒目黒不動尊⇒甘藷先生墓所⇒大鳥神社⇒玉川屋・目黒仁王餅⇒目黒区民センター・目黒区美術館⇒田道庚申塔群・田道町会事務所⇒田道橋⇒庚申塔⇒目黒警察署⇒目黒区清掃事務所⇒目黒歴史資料館⇒東京共済病院⇒p樹橋⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽神社・猿楽塚⇒デンマーク大使館⇒エジプト大使館⇒都立第一商高⇒西郷橋⇒目黒区立西郷山公園⇒菅刈公園・復元庭園⇒目黒橋⇒CROSS AIR TOWER・目黒天空庭園⇒東邦大大橋病院⇒目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」⇒警視庁第三機動隊⇒駒場東邦中学校・高等学校⇒御用屋敷跡案内板⇒朝日マンション駒場⇒目黒区立駒場野公園・水田の碑⇒駒場東大前1号踏切⇒駒場公園和館・旧前田邸・洋館・日本近代文学館⇒井の頭線駒場東大前駅

今日は目黒不動後に寄生虫博物館に立ち寄る予定でしたが休館日のため急遽、めぐろ歴史資料館に変更となりました。
それでもお天気なので元気に出発です。

目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」
目黒駅から目黒川に向かって行人坂を下る途中にこの案内がありました。
この丘にはむかし富士見茶屋がありこの付近は富士山が見えたのです。江戸時代、富士見茶屋では大勢の参詣客や旅人がここで一服し、秀麗な富士の眺めを楽しみ、繁盛したいたのではないでしょうか。広重行人坂部分や富士見茶亭(長谷川雪旦画江戸名所図会)として絵があるそうです。

行人坂(ぎょうにんざか)は目黒駅から上大崎にまたがる坂。急な勾配の所で江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があります。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝として、富士見の名所としても知られおります。また、八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもあるのです。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像。
行人坂の案内板の横に勢至堂(せいしどう)があります。台座97cm、蓮華20cm、勢至菩薩52cmから成り、勢至菩薩は両手を合掌し、片膝を立てて座っておられました。台座の前面と両側面には、江戸時代中期の目黒川架橋に関する銘文が刻まれており、文からは、1704年(宝永元年)に僧西運が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の報謝を受け、これをもとに目黒川の両岸に石壁を造り、石製の太鼓橋を架けたことが示されているようです。
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大圓寺はもう数回伺っているお寺さん。ご本尊は釈迦如来。大黒天も祀られており、元祖山手七福神のひとつでもあります。また石仏群、生身釈迦如来立像、阿弥陀三尊などもあります。
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目黒雅叙園は結婚式場・レストラン・ホテルなどで有名な複合施設。
木造建築物にある百段階段を利用した百段ひな祭りを見に来たことがあります。
前庭に『お七の井戸』があります。八百屋八兵衛一家が大火に遭い、菩提寺に避難したときお七、16歳はその寺の小野吉三郎とであい恋に落ちたのです。そしてその後、好きな人にもう一度逢いたくて、家に火を放ったという悲しくて切ないラブストーリーなのです。幸い、小火ですんだのですが、付け火は当時の大罪であった為、お七は火あぶりの刑に処せられました。それから吉三郎はこの井戸で水垢離をしまた供養のために明王院(現在の目黒雅叙園)に常念仏堂を建立したとのことです。
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太鼓橋は1769年(明和6年)に完成し当時建設された当時としては珍しい石造りで長さ8間3尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)の「太鼓橋」の形状をしていたとのことです。
江戸時代の様子は歌川広重『江戸名所百景』(1857年)に描かれているとのことです。
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四脚門(しきゃくもん)は門の中央にある親柱2本の前後に2本ずつある4本の控え柱がある門。海福寺(かいふくじ)の赤い四脚門は、明治期に廃寺になった上落合の泰雲寺(たいうんじ)より明治後期に移築したものだそうです。
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海福寺の梵鐘は近世の中国風の鐘に似ながら、日本上代の鐘の形態を手本にした特異な考案で、江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ないものです。また、天和2年(1682)鋳造で梵鐘の裾がスカートのように波打っており、形状は端正で鋳技も精巧な優品とのことです。
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五百羅漢寺。
元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたお寺で五百体以上の群像が完成してからもう三百年以上たっています。しかし現存は305体とのことでした。天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄したようです。ということで今も将軍の腰掛石がありました。
そし、明治維新とともに寺は没落、二度移転後、明治41年に目黒のこの地に移っており昭和56年に今の近代的なお堂が完成し、「目黒のらかんさん」として今も親しまれているとのことでした。
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比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のこと。悲恋と共に伝わる例が多いとのこと。一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭ったモノも多く、古事記の時代から江戸時代のものまで各地に残ってるようです。これは目黒比翼塚といわれ、平井権八と遊女小紫の比翼塚です。
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目黒不動尊(滝泉寺)。
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808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗だったようです。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」も行われています。
入口にあるのは仁王門。三間一戸の朱塗りの楼門で、1962年(昭和37年)再建の鉄筋コンクリート造。
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水かけ不動明王。
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さらに野村宗十郎銅像、独鈷の滝、鷹居の松跡、銅造り役の行者像、前不動堂、勢至堂、銅造大日如来坐像など多くみるものがありました。

最後に本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に甘藷先生墓所として青木昆陽の墓が見られました。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたおり、実は昆陽が生前に立てさせたものということでした。
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大鳥神社は、大同元年(806)創建された区内最古の神社だといい、古江戸9社の一社に数えられ、目黒村の総鎮守社となっていたといいます。この神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことが始まったとのことで今での11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ねるので今日は準備に大わらわのようでした。
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切支丹灯篭はもと千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつての肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたもののようです。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものとのことでした。
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玉川屋・目黒仁王餅
第二次世界大戦で焼失した目黒不動尊は戦後まず本堂の再建に始まました。そして昭和29年玉川屋三代目小川雄一夫妻が仁王像を寄進を申し出、約6年で完成。そしてこの仁王様にちなんだのがこのお店の看板商品となったとのことです。
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけてありました。ほかにはバターどら焼き、熊手の舞などがみられました。
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田道庚申塔群(でんどうこうしんとうぐん)は、延宝(えんぽう)元年(1673年)の銘文のある地蔵1基、延宝(えんぽう)5年(1677年)から正徳(しょうとく)3年(1713年)の銘文のある庚申塔6基からなり、当時の民間信仰を今に伝えています。屋根が作られていて保存状態は良好、青面金剛(しょうめんこんごう)、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれに確認できました。庚申塔は、庚申待(こうしんまち)を3年かけて18回続けた後に、記念として建てたものです。庚申待(こうしんまち)とは、庚申の日には命が縮められないよう寝ないで過すという民間信仰なのです。江戸時代には、飲んだり食べたりしながら一晩中語りあかす集まりが盛んに行われていたようです。今ある庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊(めぐろふどうそん)への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所なのです。
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めぐろ歴史資料館。
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現在の目黒地域は、どのような地形や自然、地理的条件の中にあって、そこではどのように人びとの暮らしが営まれてきたのかなどを歴史がわかるようになっていました。
常設展示室では、旧石器時代から、中世、近世、近代、そして現代まで。企画展示室もその年4回ほどするようです。目黒の歴史を身近に感じました。

猿楽神社。
この場所にはもともと2基の古墳があったそうで、大型の古墳は猿楽塚で直径約20m、高さ約5mです。
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この土地の所有者は朝倉家は甲州武田家の家臣だった旧家とのこと。大正時代、古墳のひとつを壊したところ多数の武具が出土したのですがその後朝倉家当主や作業人が病気になったのです。そこで急いで武具を埋め猿楽神社を建立し現在の姿になっているとのことです。
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西郷山公園は江戸時代には豊後竹田城主・中川氏の抱え屋敷であったところ。明治時代には西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入したのですが西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されるようになったとのことです。
そうそう、ドラマの東京ラブストーリーのロケ地でもあったとうかがいました。
また西郷山公園とほぼ隣接で菅刈公園(すげかりこうえん)がありました、西郷隆盛の弟従道の、和洋折衷式の邸宅と、「東都一の名園」と謳われた庭園があった場所です。
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目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)は、首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した屋上庭園で2013年3月30日にオープンしたとのことです。ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11mから35m、延長距離は約400mで、平均勾配約6%のループ状。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じているようです。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられているそうです。全く不思議な感覚でした。
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目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」
江戸時代初期、鷹狩りの為の休憩所・街道筋の宿泊施設としての将軍家は御殿を作った場所なのです。

駒場野公園の辺りは、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていたとのことです。明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒により今でも行われているとのことです。駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園なのです。「水田の碑」と田んぼがありました。
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駒場公園は加賀百万石の旧前田邸の跡。前田侯爵が邸宅を構えたのはなんと昭和のはじめ。書院造りの和館、化粧煉瓦やタイル張りがある洋館、また公園内に日本近代文学館がありました。
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本日参加者は18名、牧講師と伊藤CDと共にウォーキングして約28000歩を元気に歩きました。天候は晴れ、16℃は気持ちよくご機嫌で15:30には終了できました。終点の井の頭駒場東大前駅は初めてでしたがゆっくりもせず電車に乗ってしまい、少し残念。こんな時は駅周辺をゆっくり自由に散策するとまた土地柄がわかるのです。まずはまたの機会をつくります。
posted by yunofumi at 00:02| あちこちウォーク

2016年11月22日

2016.11.17 さんさん会 横浜ウォーク

〜横浜三都物語と横浜港の歴史〜
JR根岸線桜木町駅南改札口⇒鉄道創業の地 記念碑⇒桜木町入口交差点⇒CROSS GATE⇒桜木町1丁目陸橋⇒日本丸交差点⇒港三号橋梁(旧大岡川橋梁)⇒NAVIOS YOKOHAMA4451⇒赤レンガ倉庫⇒横浜税関遺構⇒旧横浜港駅プラットホーム⇒海上保安庁工作船資料館⇒象の鼻テラス⇒横浜税関資料展示室⇒旧神奈川県産業組合館⇒開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構⇒横浜町会所跡・岡倉天心生誕之地⇒横浜市開港記念会館⇒県庁前交差点⇒みなとみらい線日本大通り駅⇒神奈川運上所跡⇒神奈川県庁⇒神奈川県庁分庁舎⇒横浜開港資料館・玉楠の木⇒横浜マリンクラブ海洋会横浜支部⇒大さん橋ふ頭ビル・大さん橋ホール屋上送迎デッキ⇒横浜水上警察署⇒インド水塔・公園・赤い靴はいてた女の子像・GADEN WATER像・かもめの水兵さん歌碑⇒氷川丸⇒リカルテ将軍記念碑⇒うちゅう保育園⇒ヘボン博士邸記念碑⇒元町貝塚⇒アメリカ山公園・山手町⇒横浜地方気象台⇒岩崎ミュージアム⇒山手警察署港の見える丘前交番⇒ホテルKKR PORTHILL YOKOHAMA(昼食)⇒港が見える丘公園⇒生麦事件犠牲者の墓⇒ウチキパン⇒元町中華駅

本日は以前東海道五十三次をご一緒した仲間とのウォーキング兼同窓会。浅井先生・CD向井田さんを含め22名が参加。お天気も気分良く、気分はサイコー!!

鉄道創業の地 記念碑が桜木町駅そばの広場にありました。
ここは日本で初の鉄道設置のため1870年(明治3年)この地にイギリスから資材を購入後、陸揚げされた場所。1872年(明治5年)ここに横浜駅(初代)を設置し、横浜・品川間の鉄道が開業。
1915年(大正4年)、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)を開業(旅客駅)。そのため横浜駅(初代)を桜木町駅に改称。1928年(昭和3年) 横浜駅がさらに北側、現在地に移転(3代目。東海道本線を現在のルートに変更。
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汽車道は桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用して1997年に開通したプロムナード。港湾環境整備施設(港湾緑地)として整備されており[1]、2002年に設定された散策コース「開港の道」の起点側でした。
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赤レンガ倉庫。
1859年(安政6年)黒船を率いてペリーが来航。日米和親条約、日米修好通商条約の締結を経て、江戸時代の長く続いた鎖国時代が終わりました。100 戸人口500人ほどの小さい村だった横浜村が開港の場所と定められ、横浜の都市としての歴史が始まったのです。
1896年(明治29年)に鉄さん橋(大さん橋の前身)が完成、1899年(明治32年)、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が開始。そしてその一環として保税倉庫として現在の横浜赤レンガ倉庫がつくられたとのことです。2 号倉庫は1907年(明治40年)に着工、1911年(明治44年)に竣工、設計者は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄 でした。開港当初の横浜には船舶が着くことのできる岸壁がなく、本格的な波止場を建設することが必要だったのです。
1号倉庫は1908年(明治41年)着工、1913年(大正2年)竣工。レンガはすべて国産品、2号倉庫だけで約318万個使用われたとのこと。その後、関東大震災、終戦、アメリカ接収、アメリカ軍港湾司令部としての利用などを経て1989年(平成元年)倉庫としての用途は廃止。2002年(平成14年)に保存し、活用工事が終了。1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設となったのです。
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赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」が朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑に埋もれていました。「旧税関事務所(右突堤中央事務所)」は、港湾施設の一つで、1914年(大正3年)に竣工し、船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行っていたとのことです。煉瓦造スレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物で、ガラス張りの天井ホールもあったとのことです。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失。昭和63年〜平成13年にかけて行われた「赤レンガパーク」の整備の際に発見され、現在は「旧税関事務所遺構」として保存されるとともに花壇として利用されているのです。
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旧横浜港駅プラットホームそばに以下の説明碑がありました。
「横浜港駅」は、1911年(明治44年)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、1920年(大正9年)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、1928年(昭和3年)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
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2001年(平成13年)、奄美大島沖で国籍不明の不審船が、自衛隊の航空機によって発見され、不審船はその後20時間ほど逃走を続け、最後には自沈という形で、証拠隠滅をはかったとのこと。この不審船を引き上げて展示してあるのが、赤レンガパークの奥にある、「海上保安資料館横浜館」。我が国の島国固有の事情と、海上保安の必要性を体感することができる施設でした。
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横浜税関資料展示室
横浜税関は、1934年竣工、「クイーン」の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気でした。庁舎(本関)の1階に税関資料室があり、横浜税関の歴史や役割、ホンモノ・ニセモノコーナー、ワシントン条約コーナー、密輸の手口など盛りだくさんの内容でした。
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「開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構」という以下のような解説板が傍にある煉瓦の塀がありました。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。 建物は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。2014年(平成26年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。 大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、1877年(明治10年)1月に創立された「開通社」の社名を1891年(明治24年)「開通合名会社」に改名。当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられるのです。 写真は明治38年(1905年)頃のものと推定とのことでした。
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横浜町会所跡
1874年(明治7年)、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設され、石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていとのことです。
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また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところとのことで、岡倉天心生誕之地の碑がありました。
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横浜市開港記念会館。
横浜の開港50周年を記念して市民の寄付金により建設され、大正6年に竣工。赤れんがの時計塔が特徴で、昭和34年から中区の公会堂として利用されているとのことです。
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神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が設けられ、 神奈川奉行の支配下にあったようです。1866年(慶応2年)類焼、翌年新築、横浜役所となり、1868年(明治元年)明治政府に移管され、1872年(明治5年)横浜税関に改められたのです。
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神奈川県庁は「キングの塔」の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎。表面に溝を刻んだスクラッチタイルと、独自の幾何学的な装飾模様が特色のライト様式。ライト様式とは旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、スクラッチタイルと大理石を用い、幾何学的な装飾模様が特色。昭和初期に大流行したのでした。
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正面玄関車寄せの柱に施された装飾や矢印の様な連続装飾など、ほとんどの模様が直線のみで構成されているアール・デコ風の装飾でした。玄関ホールには唐草文の極楽浄土で咲く宝相華という幻しの花がモチーフで見られ、また中央階段の球形照明はやはり宝相華のモチーフでした。

横浜開港資料館
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、日本の開国を約した日米和親条約が締結された地において開館。開国につづく開港により、横浜は日本の玄関、貿易都市として発展したことが多くの資料から見ることができます。
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横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれているとのこと。「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854年(嘉永7年)のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」などでも描かれています。
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象の鼻パーク(ぞうのはなパーク)は、波止場で明治中期の形状に復元して、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園したとのこと。
象の鼻には防波堤、開港波止場 、ピア象の鼻(桟橋)、開港の丘、象の鼻テラスなどがあり夜景も楽しめそうなスポットでした。
屋上送迎デッキからの眺めは素晴らしく、ここで本日の記念撮影!全員が笑顔いっぱい、元気いっぱいでした。
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山下公園にはインド水塔、赤い靴はいてた女の子像・かもめの水兵さん歌碑・リカルテ将軍記念碑・などがありました。

ヘボン博士邸記念碑
J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn:1815年3月13日〜1911年(明治44年)9月21日)はヘボン式ローマ字の考案者。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日し30年余りに亘って日本で活躍したのです。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここに移り、住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられ、その後山手に移ったようです。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸とのことです。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で1870年(明治3年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は1887年(明治20年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任したのでした。
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横浜地方気象台は1896年(明治29年)に、神奈川県測候所として、海岸通一丁目(山下公園付近)に設立。大正12年の関東大震災によって建物が焼失し、現在(山手町)の建物は昭和2年に建設され、その年11月より業務を開始しているとのことです。

港が見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘の公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。
本日も素晴らしい眺めでした。
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生麦事件犠牲者リチャードソンの墓
山手町の横浜外人墓地にありました。
生麦事件は1862年(文久2年)8月21日、鶴見の生麦で起こりました。島津久光の大名行列の一行が、下馬に応じず行列の中を逆走したイギリス人のリチャードソンを含む4人を斬りつけ死亡させた事件のことです。4人は、川崎大師へ乗馬で向かう途中だったのです。その後幕府は10万ポンドの賠償金を支払ったのです。しかし尊王攘夷運動の機運が高まっていた時だったので、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こっています。
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今日は素晴らしい日和の中、ワイワイとお話ししながらのウォーキングでした。
相変わらず速足の浅井先生でしたが気温18℃、無風でしたから少し汗ばむくらいのペース。約18000歩はちょうどよかったです。
お食事のメインはお好みで肉と魚に別れました。私のように魚を選んだのはほとんどアルコールがダメな人たちだったのも面白かったです。
本日は2次会を横浜中華街で行うプランでしたが私は自分の都合で参加できなかったのがちょっぴり残念!!
又の再会を約して、サヨナラしました。皆様!ではまたね!!
posted by yunofumi at 22:08| あちこちウォーク

2016年11月13日

2016.11.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第4回深川

〜江戸勧進相撲発祥の地“富岡八幡宮”〜

東京メトロ門前仲町駅⇒永代寺⇒深川不動堂⇒富岡八幡宮・横綱力士碑・大関力士碑・伊能忠敬銅像・三等三角点⇒和倉橋⇒清澄通り・深川2丁目⇒葛西橋通り⇒陽岳寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒心行寺⇒深川1丁目⇒採茶庵跡⇒海辺橋⇒都立清澄公園(昼食)⇒深川図書館⇒清澄防災倉庫⇒中村学園通り⇒清澄庭園⇒本誓寺・村田春海の墓⇒清澄児童遊園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒・勢至丸さま・銅造地蔵菩薩坐像・松平定信公の墓⇒出世不動尊⇒不動寺・三好1丁目⇒成等院・紀伊国屋文左衛門の墓⇒深川江戸資料館⇒東京メトロ清澄白河駅

深川不動堂は、千葉県にある大本山成田山新勝寺の東京別院。永く「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年で、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まりです。この御尊像不動明王は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂にある御本尊はその御分霊とのことです。本日も護摩法が行われており厳かな雰囲気でした。
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本堂左手からご本尊の真下を通る祈りの回廊があり、約1万体のクリスタル五輪塔が奉安されていました。
また2階に上がると四国八十八カ所霊場のお砂を納めた四国八十八カ所巡拝所がありました。

富岡八幡宮は1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されたとのこと。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて約60500坪の社有地になりました。今も「深川の八幡様」といわれ「江戸最大の八幡様」なのです。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神をことのほか尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新には朝廷が当宮を准勅祭社にし、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されたのです。本日は七五三の参拝が多くなるようでテントを張り、皆さんが万全の準備をされていました。
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富岡八幡宮にある横綱力士碑は歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰しています。12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、1900年(明治33年)に完成したとのことです。縦3.5m、厚さ1m、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並んでいます。
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歴代の大関力士を顕彰する大関力士碑(おおぜきりきしひ)もありました。
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また同じ境内ながら富岡八幡宮境内大鳥居横に江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁の銅像が平成13年に建立されています。製作は酒井道久、監修を忠敬翁より7代目の子孫伊能 洋さんがされたとのことです。
50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ伊能忠敬翁です。彼は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず当宮を参拝していたことからこの八幡宮に銅像が建てられたとのことでした。
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また、銅像の横に見えるのは新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」です。

油堀川に架かっていた和倉橋の親柱がありました。和倉橋は、震災復興橋梁のひとつとして、昭和4年(1929)7月に竣工。この親柱は、竣工当時のものとのことです。昭和50年、油堀川の埋め立てにより、橋は撤去され、親柱2基は現在地に移され、保存がはかられました。正面は3段にせり出すように形づくられ、両側面は、縦長に、ひとつは長く、ひとつは短く彫り込まれています。アールデコ調の直線を多用する、パターン化したデザインで、震災後の都市デザインの潮流をうかがうことができるようです。
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法乗院・深川えんま堂
日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5t、寄木造り)で平成元年 に今のゑんま座像が建立されたとのこと。
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本堂一階にある16枚の地獄・極楽図は、天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれた作でこの絵は、悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの必要性、御仏の慈愛、命の尊さを説いているとのことです。 冥途では、死後の人々は閻魔大王を中心に十人の王によって裁きを受けるのです。十王の本来の姿は菩薩ですが、裁判中は柔和な姿を隠して憤怒の身を現し、初七日から七十七日、一周忌、三周忌に至るまで、次々に亡者を受け取りその罪業を考査し未来に生まれるところを決めるのです。 御仏の教えの根本理念は、因果応報。悪行を積めば悪い結果に、善行はよい結果になるように、人間は生きている時の行いが全ての原因になるということでした。

採茶庵跡(さいとあんあと)
松尾芭蕉は、1689年(元禄2年3月27日)採茶庵から「おくの細道」の旅に出発しました。正確には(仙台藩の蔵屋敷があった仙台堀から船に乗り、隅田川をさかのぼって千住まで行ったのです。「おくの細道」の出発は船旅だったのです。採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であったとのこと。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた芭蕉庵を手放し、門人、杉山杉風に世話になったのです。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたとのことでした。 
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採茶庵跡のそばに海辺橋がありました。しかし芭蕉のころはまだ築かれていなかったとのことです。

清澄庭園(きよすみていえん)は、現在は都立庭園で、池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。
この地はもともと元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったということです。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと思われます。1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成させたのです。その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園したのです。
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庭園内に芭蕉の古池の句碑もありました。
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清澄庭園の道路を挟んで対面にある、本誓寺の境内に江戸時代中期の国学者で歌人村田春海の墓があるとのことでした。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の権急に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられたとのこと。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸元由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれています。著書は 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数あるようです。

江戸みやげ屋たかはし
東京の下町、江東区深川地区内に位置する清澄白河は、清澄庭園や松尾芭蕉、また深川めしなどといった歴史あふれる町として知られる一方、隅田川と運河に囲まれた豊かな自然が残る都会のオアシスとして、人々や生き物たちの安らぎの地として親しまれています。今回は、江戸風情が残る街並み深川江戸資料館通りに面した、これぞ下町のみやげ屋!! といえる真心あふれる「江戸みやげ屋たかはし」を見つけました。
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霊厳寺(れいがんじ)
浄土宗の寺院で山号は道本山、院号は東海院、御本尊は阿弥陀如来。
1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったようです。1657年(明暦3年)の明暦の大火により霊巌寺も延焼。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転し現在に至っているようです。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉の老中で寛政の改革を行った松平定信の墓、今治藩主松平家や膳所藩主本多家などの多くの大名の墓があります。
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また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されていました。
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成等院は寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建、万治元年(1658)に現在地に移転してきたとのことです。境内に紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)の墓がありました。文左衛門は江戸時代、元禄期の商人です。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われたようです。紀伊国湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身で文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられています。晩年は浅草寺内で過ごしたのち1734年(享保19年)に死去したとされているとのことです。
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深川江戸資料館は江戸時代の深川へタイムスリップできる場所でした。館内は江戸時代の深川が再現されており、町並みや家屋、やぐらなどが見学できました。他にも展示室では深川江戸の歴史や文化に触れることが出来ました。
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横綱大鵬関の功績も一区画ありました。
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本日のウォーキングは阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかったですが参加者総勢76人、2班に分けての行動でした4。
1日晴天で19℃、風なし、スタート9:30、ゴールは深川江戸資料館前到着までで、約12000歩は気持ちよかったです。そうそう昼食は清澄公園で深川めしの弁当でしたがこのようなやり方は雨天ではどうなのかな?とか、街中のウォーキングにしては人数が多くてどうなのかしら?とか余計な心配をしました。では本日も無事終了でありがとうございました。
posted by yunofumi at 22:27| あちこちウォーク

2016年11月12日

2016.11.10 第7回東京の新発見旅「文京区」

〜水道橋〜伝通院〜小石川植物園〜旧岩崎邸〜

JR水道橋駅西口改札⇒後楽園ブリッジ⇒東京ドームシティ⇒外堀通り⇒後楽橋交差点⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望台⇒源覚寺・こんにゃくえんま⇒えんま通り商店街⇒六角堂調剤薬局⇒善光寺坂⇒慈眼寺・沢蔵司稲荷⇒善光寺坂ムクノキ・幸田氏宅⇒傳通院・於大の方墓⇒浪士隊結成の地・処静院跡⇒都立竹早高校⇒三百坂⇒千川通り⇒チャイルド本社
⇒小石川植物園⇒御殿坂⇒愛星幼稚園・小石川白山教会⇒龍野川信用金庫⇒東京富山会館⇒旧白山通り⇒白山下交差点⇒白山神社⇒東洋大学・井上圓了記念博物館⇒旧駒込東片方町案内板⇒白山上交差点⇒向丘2丁目交差点⇒魚邦(昼食)⇒栄松院・初代松本幸四郎の墓⇒清林寺⇒光源寺・明珍本家の墓・逢華梅⇒旧駒込蓬莱町案内板⇒駒込学園前交差点⇒向丘高齢者在宅サービスセンター⇒日本医科大学健診医療センター⇒夏目漱石旧居跡・日本医科大学橘桜会館⇒雄飛堂薬局⇒日本調剤根津薬局⇒根津裏門坂⇒根津神社⇒旧根津須賀町案内板⇒弥生坂⇒弥生2丁目⇒弥生式土器発掘ゆかりの地碑⇒東京大学弥生門⇒弥生美術館⇒竹久夢二美術館⇒暗闇坂⇒覚性寺⇒宗賢寺⇒日本退公連会館⇒旧岩崎邸⇒上野合同庁舎⇒上野公園⇒JR上野駅

水道橋駅から後楽園に向かうとき、神田川の向こうに青い橋が見えました。これが水道橋とのこと。
江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まり。はじめは現在よりやや下流に位置していたようです。『江戸図屏風』には江戸時代初期の水道橋が描かれており、橋の下側に描かれているのが懸樋だそうです。
従って水道橋の名は、この橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来しているということでしょう。
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小石川後楽園
江戸時代初期の1629年(寛永6年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷の庭として造り、二代藩主の光圀の代にようやく完成した庭園とのこと。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見から、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけたのです。
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広大な庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」。枝垂れ櫻や花しょうぶなどが見事とのこと。花の季節にまた伺いたいものです。
それにもまして水面に映る形が満月のように見える円月橋は素敵でした。
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文京区役所展望台(文京シビックセンター25階)25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されていました。無料でした。展望ラウンジの高さは、地上約105m、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がっていました。
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まるでジオラマのように見えました。

源覚寺は1624年(寛永元年)定誉随波上人により開創。その後1657年の明暦の大火、1762年お薬園大火、1774年戸崎町火事、1884年富坂火事などの火事に見舞われましたがご本尊、閻魔様ともども無事だったとのこと。また東京大空襲でも本堂は無事だったのです。
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源覚寺門前はこんにゃくえんま門前として江戸時代から賑わっているようです。

慈眼寺(じげんいん)・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)
伝通院の修行の場であった学寮の沢蔵司という修行僧が3年で浄土宗の奥義を極めたことから伝通院の住職郭山上人がこの沢蔵司稲荷を境内に祀り慈眼寺を別当院としたとのことです。
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沢蔵司は蕎麦が好物で門前の蕎麦屋さんで良く蕎麦を食べ、その日の売り上げにはムクの葉が入っていたとのこと。ということで傍の善光寺坂ムクノキには沢蔵司稲荷が宿っているといわれています。
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ムクノキのすぐ傍に幸田露伴の娘・幸田文(小説家)、孫の青木玉さんの住いがあるとのことでした。幸田文の作品は多く接しています。また青木玉の作品では「小石川の家」などを読んでいます。またさらにひ孫の青木奈緒さんも物書きとのことですからどこの家も血筋は続くのですね。

傳通院は正式には無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)といい普段は小石川伝通院ともいわれています。徳川将軍家の菩提寺で江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所とのこと。
室町時代の1415年(応永22年)に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創したのがはじまり。
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ここには家康の生母の於大の方、千姫(2代将軍秀忠の娘)の墓、孝子の墓(3代将軍家光に正室)がありました。
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また眠狂四郎で有名な歴史小説家柴田錬三郎の碑と墓もありました。
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浪士隊結成の地・処静院跡の案内が傳通院前にありました。
ここは新選組の元となった浪士隊の結成が処静院(しょじょういん)で行われとのこと。新選組のことはその後長い物語が知られています。

東京はいずこも坂が多いのです。ここで前述の善光寺坂以外の本日通った坂をあげてみましょう。

三百坂(さんびゃくざか)別名三貊坂(さんみゃくざか)は小石川3〜4丁目竹早高校傍を通り約250mの緩やかな坂。近くに松平播磨守の屋敷があったそうです。

御殿坂(ごてんさか)は白山2丁目と3丁目の間。案内板には御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂とあります。その昔この上に白山御殿があったから。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれとのことです。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園、その後、小石川養生所、今は東京大学の付属植物園となったのです。

弥生坂(やよいざか)(別名鉄砲坂)はかつて「向ヶ岡弥生町」といわれていたあたり。元和年間(1615〜24)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)や、小笠原信濃守の屋敷、加賀藩前田家の屋敷(現在の東京大学)があった。また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからということです。

暗闇坂(くらやみざか)は本郷7丁目と弥生2丁目の間にある坂。
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったようです。 この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
また傍には東大弥生門、弥生美術館、竹久夢二美術館があります。

小石川植物園は正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園。つまり植物学の研究・教育を目的とする東京大学の教育実習施設。よく知られている歴史は約320年前の貞享元年(1684)に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がこの前身ということです。面積は161,588m2(48,880坪)と広い。
ここは確か2010年だったでしょうか、ショクダイオオコンニャクの開花がニュースとなり」見に来た覚えがあります。
本日はヒッコリーの黄葉した姿が見事でした。
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浄土宗寺院の光源寺は、遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、1589年(天正17年)神田四軒町に創建、1648年(慶安元年)この地へ移転したとのこと。丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、大和国長谷寺の観音の写しという著名な観音像でしたが、太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。東京三十三観音霊場27番札所です。
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平安時代京都の甲冑師宗介の技術が優れていることから近衛天皇から明珍の姓が与えられこの寺には代々の方々のお墓があるようです。
樹齢300年の蓬莱梅(ほうらいばい)もありました。

日本医科大学橘桜会館の横に夏目漱石旧居跡の石碑がありました。
石碑は川端康成の筆でした。漱石は東大講師のころ約4年弱、この地に住み、「吾輩は猫である」を著したので、漱石文学の発祥地ともいえます。
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根津神社は昔、根津権現ともいわれていたようです。
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社。境内はツツジの名所として有名。近所に森鴎外や夏目漱石など日本を代表する文豪が住んでいたこともあり旧跡もあるようです。
現在の社殿は1706年(宝永3年)の創建。その前の年に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養嗣子に家宣(第6代将軍)が入ったため、元の屋敷地が献納され、「天下普請」と言われる大工事で社殿が造営されたようで、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされています。

表参道鳥居
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唐門
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社殿
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弥生式土器発掘ゆかりの地碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人が根津の貝塚から赤焼きのつぼを発見したのが始まりでこれが後に縄文式土器と異なるため発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられたのです。でも、「弥生式土器」の発見地は、都市化の講師ではっきりわからなくなり結局、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されたのでした。
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旧岩崎邸は1896年(明治9年)岩崎弥太郎の長男久弥の本邸として建てられたとのこと。元々は庭園を含め約15000坪で20棟の建物があったようです。
戦後GHQに接収後1952年(昭和27年)に返還、その後色々変遷があり現在は東京都が管理。洋館はジョサイア・コンドルの設計。この方は東京駅を設計した辰野金吾の先生。イギリスルネッサンス様式で贅を尽くした建物でした。
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ビリーヤード場はスイスの山小屋風でおしゃれ!!
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庭園は日本式の手水鉢、庭石もありながら洋式の芝庭もありました。
外に出て袖塀が印象的でした。袖塀にある岩崎家の家紋の「重ね三階菱」は現在の三菱の社章となっています。
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本日参加者は22名、はじめての渡辺講師と伊藤CDと共に順調に24000歩を元気に歩きました。
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天候は曇りでしたがよく持ちこたえてくれてよかったです。風は午後少し弱くなりましたが、気温13℃くらいで空気が冷たかった!やや寒いので参加者は今年始めての厚着でした。それでもいつものように16:00前には終了。上野駅の傍で温かい珈琲をまったり飲んでから電車に乗ったらポカポカで、ついつい乗り過ごし、予定より小一時間遅く帰宅。まずはご愛敬!!
このシリーズは既に知っている所もありますが思いがけず発見することもあり、かなり面白い!!今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:40| あちこちウォーク

2016年11月08日

2016.11.6 第39回日本スリーデーマーチ3日目

都幾川・千年谷公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒鰍aOSCH⇒東松山ケーブルテレビ⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒市立南中学校(チェックポイント)⇒氷川社⇒ゴール(市立松山第一小学校)

唐子中央公園は6km地点にありました。ここは唐子市民活動センター(旧唐子公民館)の南側につくられた公園で、体育館、多目的広場、子供広場等が整備されており、広々とした公園なのです。本日は第39回唐子地区商工祭が開催中だったため豚汁・稲荷ずしをいただき小一時間休憩。野菜、果物など販売もあり、すっかりリラックスしました。

天の園記念碑
打木村治の作品「天の園」は、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全6部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われているとのことです。主人公の成長過程が学年ごとによくわかるようです。随分前に読んだような気もしますが再度読み直そうと記念碑を見ながら思いました。
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市立南中学校はノーベル物理学賞の梶田隆章先生の出身校とのことで校舎前には記念碑がありました。本日の実質歩程12kmということでここは9km地点のチェックポイント。後3kmの表示を見ながら元気を出してウォーキングをしました。
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本日は快晴、気温18℃ながらかなりの強風で体感温度は低かったです。多くの方は風を通さない防寒の衣類を着込み歩け!歩けでした。暑がりの私もさすがに風通さないベストを着用。唐子中央公園で小一時間の休憩とゴール前に来てお祭り騒ぎのアトラクションなどを大いに楽しみゴールには4時間で到達。

埼玉県警音楽隊のパレードの様子。
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松葉町のお囃子。
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ゲットしたお土産の色々。
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今回で3日間連続ウォーキングを5年間達成でき、大いに満足しました。
元気が何よりなのです。また来年も参加できるように頑張ります。
そうそう参加者集計を見ましたところ、1日目23225人、2日目30247人、3日目33678人、合計参加者延べ人数87150人とありました。傾向としては私のように10kmの参加者が一番多かったようです。道理で狭い道路ではラッシュアワーのような込み合い方でした。
無事に終了し、関係者の皆様、中学生のボランティアの方々もお疲れさまでした。お世話になりました。感謝!!
posted by yunofumi at 00:13| あちこちウォーク

2016年11月07日

2016.11.5 第39回日本スリーデーマーチ2日目

吉見百穴・森林公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒上沼公園⇒砂田第一公園⇒市野川⇒岩室観音堂⇒吉見百穴⇒常盤苑⇒東京農業大学第三高校・附属中学校⇒市民病院入口交差点⇒市の川小学校(チェックポイント)⇒JA埼玉中央本店⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート前に梶田先生のパネルと記念撮影
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岩室観音堂。
吉見百穴手前にありました。すぐ裏手に広がる山は、武州松山城の跡地で、松山城の搦め手の一部にも位置しているとのことです。右と左に岩穴があり仏様が多くあるとのことでした。今日は急ぐためあまり探検しませんでした。
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吉見百穴(よしみひゃくあな)は古墳時代後期の横穴墓群の遺跡。ここは凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡。穴の数は219個もありこのような遺跡としては日本一の規模だとのこと。穴の入り口は直径1m程度、でも内部はもう少し広くなっていることが多いとのことです。
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途中ののどかな風景。
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ゴール前のよさこい陣屋祭の様子。
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市の川小学校は本日の歩程が実質10kmながらチェックポイントが8kmのこの地点でしたからやや遠かった印象でした。でも朝はやや曇りでしたが途中から晴れたので気持ちよく楽しみながら約3時間、21000歩でゴールしました。
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2016.11.4 第39回日本スリーデーマーチ1日目

和紙の里・武蔵嵐山ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒県立松山高校⇒みどりとふれあいの路⇒東武東上線森林公園駅南口⇒北口⇒みやこ橋⇒新郷公園(チェックポイント)⇒東松山工業団地⇒八雲神社⇒虎御石⇒箭弓稲荷神社⇒東上線アンダーパス⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート付近の様子
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森林公園駅は2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎となっている。傍に森林公園があるので始発や終点駅でもある。朝夕は東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線・副都心線直通列車がまた2016年から元町・中華街からもメトロ車・東急車も乗り入れている。
森林公園は埼玉県比企郡滑川町と熊谷市(北口周辺のみ)にまたがる比企北丘陵にある国定武蔵丘陵の公園。国の明治百年記念事業の一環として1974年に開設された。広さは304haと広大で四季折々も楽しめますから埼玉県民は遠足をはじめ一度は訪れていると思います。

新郷公園は芝生も広々しており、テニスコート、トイレ、駐車場が完備しておりチェックポイントとしては最適。ここまでで4km地点なのでほっと一息。和やかに暖かいお茶の接待などあり、持参のおやつを食べてほっと一息しました。

箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)。
この神社は牡丹園で有名。はじまりは1923年(大正12年)に東武東上線坂戸・東松山間の延線竣功を祝し、東武鉄道初代社長・根津嘉一郎さんが牡丹並びに藤、松を奉納されたことだそうです。現在は約3500uの園内に、1300余株の牡丹があり、毎年4月中旬頃より、つつじや藤の花と合わせて見事なのです。

ステージでの歓迎の演奏の様子
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本日は快晴、気温18℃、微風。ウォーキング日和でした。実質歩程10km、約20000歩をスタートから終了まで約3時間を要しました。おやつを食べたり花々を楽しんだり、十分道草をしましたので元気なウォーキングができた1日でした。
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2016年11月03日

2016.11.1 第6回東京の新発見旅「品川区」

〜品川駅〜旧東海道〜御殿山〜目黒川〜池田山〜

JR品川駅北口改札⇒品川セントラルガーデン⇒東京都交通局品川自動車営業所・北品川1丁目⇒八山通り栄歩道橋⇒東海道品川宿・北品川本通商店会⇒栄亀庵⇒問答河岸跡石碑⇒北品川郵便局⇒土蔵相模跡⇒藤沢宿の兄弟松⇒品海公園・坂下宿の御道松⇒一心寺⇒聖跡公園(本陣跡)⇒東海道北品川交差点⇒品川宿交流館⇒北馬場参道通り商店街⇒品川神社板垣退助の墓⇒御殿山ヴィラ⇒北品川社宅⇒権現坂⇒権現山公園・北品川3丁目⇒北品川郵政官舎⇒陸橋⇒御殿山庭園・御殿山の頂上⇒東京マリオットホテル⇒セルビア共和国大使館⇒原美術館⇒御殿山通り⇒翡翠原石館⇒御殿山の坂⇒居木橋(いるきばし)⇒イーストタワー⇒大崎ゲートシティ⇒O美術館⇒ザ・パークタワー・荘川桜⇒容器文化ミュージアム⇒大崎フォレスト⇒品川消防団地域活動センター⇒Dou Feel島津山・東五反田3丁目⇒島津山眼科⇒都営地下鉄五反田駅⇒東京デザインセンター⇒Repas de Naoshima(昼食)⇒五反田公園の桜並木⇒池田山地域安全センター⇒駐日ベラルーシ共和国大使館⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館官邸⇒池田山公園⇒上大崎郵便官舎⇒本願寺⇒常光寺・福沢諭吉石碑⇒隆崇寺・伊東深水天井絵⇒子守地蔵・白金5丁目⇒国立科学博物館附属自然教育園・大蛇の松・館跡⇒JR目黒駅

品川セントラルガーデンは、品川駅東口地区再開発地区計画の開発区域のうち A1地区(品川インターシティ)、B1地区(品川グランドコモンズ)の建物の間に南北に広がる幅約45m、長さ約400m、面積約2haの広大な歩行者大空間の名称とのこと。久しくこちら側に来ていなかったので びっくりでした。
品川セントラルガーデンの基本テーマはみちもり広場で、「みち(道)空間」とは、人と人とが直面してコミュニケーションをとる広場型ではなく、そぞろ歩きの合間、買物の合間に好きな場所に立ち寄れる区間を意味し、「もり(杜)空間」とは、人と人とが自然を介して出会う心安まる空間を意味しているとのことでした。

東海道品川宿・北品川本通商店会。
品川宿は、江戸からでる様々な街道のうち最も重要視された東海道の1番目の宿場(1601年指定)である。目黒川を挟んだ南・北品川宿と享保期にできた歩行新宿(北品川)とで構成されており、宿場の家々は1600軒、住む人7000という活気ある土地柄でした。 また、北の吉原と比べ品川は南といわれた遊興の場所として有名。数年前に東海道五十三次を歩き終えた者としては懐かしく、相変わらず今でも、江戸時代と同じ道幅の所がありました。

問答河岸跡石碑。
無理問答(むりもんどう)は、言葉遊びの一種。
確か、問う側が「○○なのに××とはこれいかに」というと答え側が「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるという形。
このような無理問答は、江戸時代からあったとのこと。ここで1640年、徳川家光が附近にある東海寺_(品川区)を訪れた際、ここで沢庵和尚と問答をしたとのことです。
    家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
    沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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土蔵相模跡は、高杉晋作など幕末の志士たちの会合場所としてよく登場する妓楼とのこと。桜田門外の変で大老・井伊直弼を襲撃した浪士たちも、前夜ここに投宿し、浮き世で最後の宴を張ったと伺いました。

品海公園は八ツ山と目黒川の間の旧東海道に面した細長い公園。日本橋から二里の距離にあるので道標がありました。また、「品川宿の松」が植えられています。
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一心寺は、今から160年ほど前(安政2年1855年)に井伊直弼により開山したと伝えられています。明治初期に火災で消失した寺を再興した後、昭和になって「中僧正弘道大和尚」によって成田山分身の不動明王を本尊として興したことから通称は「品川成田不動尊」と言われているとのこと。そしてここは「東海七福神」の一寺としても有名。昭和7年に大東京市に品川が編入となったことで「一心寺」には、七福神の寿老人を祀ったのです。
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聖跡公園(本陣跡)
品川宿は江戸四宿のひとつ。東海道五十三次では一番目の宿場。ここは本陣があった所で品川三宿の中央部にあたり、東海道の参勤交代の大名、公家、門跡などが往来し大にぎわいだったようです。宿駅制度は1872年(明治5年)に廃止。ここは1868年(明治元年)明治天皇の行幸がありその時御在所となった場所なので聖跡公園となったのです。

品川宿交流館は、品川宿が所有する建物をこのまちで21年間まちづくり活動に取り組んでいる「旧東海道周辺まちづくり協議会」が管理、運営する施設で2009年(平成21年)にオープン。「旧東海道周辺まちづくり協議会」は「品川宿交流館」をまちづくりの拠点として、品川宿の情報発信基地として、地域住民と観光やビジネスで品川宿を訪れる人々が交流し、品川宿に新しい活力が生まれることを願い運営しているとのことです。また、この建物にあわせ周辺景観を整備し、品川宿らしい歴史性を感じる街並み作りはこちらのおかげのようです。
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品川神社
後鳥羽天皇の御世、1187年(文治3年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神、天比理乃 命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は品川神社と改めたのです。
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敷地内には富士山を見立てて作られた人工の山、高さ15mの「富士塚(ふじづか)」があります。日本では昔から富士山を登ると、ご利益(ごりやく:幸運・仏や神のもたらす恵み)を受けられると考えられてきましたが実際に富士山に登るのはとても大変などで富士塚が作られたのです。
富士塚を登れば、富士山を登ったのと同じご利益があるとのことです。
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品川神社の「双龍鳥居」がとても立派です。鳥居の右側には「昇り龍(のぼりりゅう)」、左側には「降り龍(おりりゅう)」が彫られています。日本には多くの神社がありますが、鳥居に龍が彫られている神社はっても珍しいでのす。巻きつくように彫られていました。
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品川神社境内裏手に、板垣退助の墓が夫人の墓と並んで建っていました。墓の傍に、遊説中に刺客に襲われた際に言ったと伝えられている有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」が刻まれた石碑もありました。板垣は、明治7年、日本で最初の政党である愛国公党を結成。日本に国会の開設を促し、自由民権運動の父と呼ばれる政治家。自由党(現/自由民主党)の初代総裁を務め、晩年は、社会事業にも尽くした方だそうです。
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原美術館は、私邸として1938年に建造された建物を改装し、1979年に現代美術専門館の草分け的存在として開館。年間5−6回の展覧会に加え、講演会、パフォーマンス等各種イベントを通して国内外の現代美術を紹介しているとのことです。入館者のみが利用できる中庭に面したカフェやミュージアムショップもある。
只今は篠山紀信展「快楽の館」が年明けまで開催中とのことでした。
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翡翠原石館
縄文時代から勾玉として珍重され、元祖パワーアイテムとも呼べそうな翡翠(ヒスイ)の原石を常時100個以上展示している個性的な博物館。館長の鶴見信行氏は自動車部品製造会社を経営する傍ら、約30年かけて翡翠を収集。世界有数の産地である新潟県糸魚川の翡翠を後世に残すべく、2004年に博物館をオープンさせたとのことでした。中をじっくりみたいものです。再訪を心にきざみました。
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容器文化ミュージアム。
東洋製罐グループ新本社ビル1Fに新設された、容器包装の文化を発信するミュージアムです。太古の昔から最新の容器包装まで、その歴史や技術・工夫を紹介していました。東洋製罐は1917年の創業以来、「包む」技術を通じて社会に貢献をしてきたとのことです。本施設は、資料館であり、ショールームであり、更には企業と市民の新たなコミュニケーションを生み出す場を目指した施設でした。
入口すぐにインバーテッドボディメーカーがありましたこれは。約100年前の自動製缶機とのことです。その優れた製缶能力により、缶容器製造の発展に大いに貢献したとのことでした。自動製缶機が開発されるまでは、中身を詰める缶詰会社の職人が手作業で缶を作っていたのです。
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ねむの木の庭はもともと皇后美智子の生家として知られる正田家の邸宅があった所。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した趣きのある建物だったが、故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納されたのです。建物の老朽化が激しく、建物は2002年(平成14年)に解体されたとのこと。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得し整備のうえ、2004年(平成16年)に「ねむの木の庭」として開園したのです。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因んでいるとのことでした。様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので特別広くはないのですが、皇后・美智子に因むバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられていました。
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池田山公園のあたりは江戸時代は岡山城主・池田氏の下屋敷があったところ。付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれていたとのことで、廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていたのです。戦後しばらく私人の邸宅があったが、品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備、1985年に区立公園として開園したのです。現在でも江戸時代の回遊式庭園が良好に整備・保存されており、一般公開もされています。
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常光寺には福沢諭吉先生永眠の地の石碑がありました」。
お墓は、もともとはこのお寺にあったのですが、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
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また常光寺には幼稚舎創立者の和田義郎碑もありました。
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隆崇寺は寛文9年(1669)に増上寺山内の山下谷に創建され、明治37年(1904)に伊皿子(港区)にあった長善寺を合わせて現在地に移ってきたとのこと。隣接地にあった善長寺は、寛永年間(1624〜44)に創建後、寛文8年(1668)からこの地にあったが、明治になって無住となっていたため、明治38年(1905)に隆崇院に合併されたのです。
深水一門の天井絵は1962年(昭和37年)竣工の本堂の天井に、日本画の巨匠伊東深水と、子息万耀、および一門の画家によって描かれた鮮やかな彩色の花の絵。天井の中央に深水の「牡丹唐獅子図」、周囲に大小各20面の花の絵を配置しており1967年(昭和42年)に完成と伺いました。
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国立科学博物館附属自然教育園は、大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地。白金台地は、洪積世(20〜50万年前)海食によって作られたようです。園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されています。
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平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと思われます。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明。白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。江戸時代になると、増上寺の管理下となったが、1664年(寛文4年)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残だろうと思われます。
昭和24年文部省の所管、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っているとのこと。
園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹、ススキやヨシの草はら、池や小川などがありました。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察もできるようです。
園内の植物には種名表示板や解説板が整備されており、工夫がされておりました。

本日参加者は17名、信野講師、伊藤CDで順調に2万歩を闊歩。天候は10:00出発時小雨でしたが1時間経過辺りからほぼ止みはじめ、午後は日差しもまぶしいくらいでした。いつものように16:00前には終了し、元気に帰宅しました。
そうそう、本日は以前、東海道五十三次でご一緒した方に久しぶりにお会いしました。懐かしく以前のウォーキング仲間のお話しでき、これも嬉しいことでした。また次回も頑張ります。
posted by yunofumi at 21:14| あちこちウォーク

2016年10月23日

2016.10.22 第5回東京の新発見旅「中野区」

〜林芙美子記念館〜哲学堂公園〜宝仙寺〜

西武新宿線中井駅⇒寺斉橋・妙正寺川⇒中井商工会・中落合1丁目⇒四の坂⇒林芙美子記念館⇒中井2丁目⇒坂上通り⇒土筆堂書店⇒中落合4丁目⇒中井出世不動尊⇒北原橋⇒上高田5丁目⇒光徳院⇒道しるべ石柱⇒四村橋・妙正寺川⇒新宿区立・中野区立・妙正寺川公園⇒哲学堂公園⇒水の塔公園・野方配水塔⇒連華寺・井上円了の墓所⇒中野通り・松が丘1丁目⇒松が丘シニアプラザ⇒中野区清掃事務所⇒新井小学校⇒新井薬師梅照院⇒薬師公園歩道橋⇒新井天神北野神社⇒新井五差路交差点⇒新井交差点⇒中野ブロードウェイ⇒サンモール⇒天ぷら天喜代(昼食)⇒中野区役所・中野サンピラザ・中野の犬屋敷⇒JR中野駅⇒中野2丁目交差点⇒新渡戸記念中野総合病院⇒桃園川緑道⇒本牧三宮前町会⇒山政醤油醸造所のレンガ塀⇒宝仙寺・堀江家の墓・中野町役場跡⇒宝仙寺前交差点⇒イーストンホテル⇒中野区朝日が丘公園・象小屋⇒成願寺・鍋島家墓所⇒地下鉄丸の内線中野坂上駅

妙正寺川(みよしょうじがわ)。
中井駅前でのいきなりの川の説明。杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流するとのこと。
教は中井駅前の寺斉橋、その後北原橋、四村橋など、清らかな流れを見ながらのウォーキングでした。

四の坂。
中井には“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂名が並んでいるとのこと。東から 四番目の坂だから四の坂。四の坂通りを上っていくと林芙美子記念館に行きつきました。
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林芙美子記念館。
ここは林芙美子が1941年(昭和16年)から1951年(昭和26年)に死去するまで住んでいた家。その後、改築・整備し、記念館として公開したのです。生前実際に使用されていた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先からみせていただきました。
画家だった夫・林緑敏の旧アトリエは展示室となっていました。またお庭は芙美子の思い入れが感じられました。
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中井出世不動尊。
江戸時代僧円空作の不動尊像(像高128cm)が祀られ、毎月28日午後に開帳されているとのこと。像は、不動明王ほか二体からなり、彫法は素木を生かした作風とのこと。
実は、都内で実際に信仰されている円空仏としては唯一のものだそうです。
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光徳院。
お堂の中はかなりの暗さでしたがなんと寺宝の千手観世音様は木像で高さ3尺3寸とのことでしたが何となくお姿をみられました。これは子育観音といい、第60代醍醐天皇の御代、延喜元年、右大臣・菅原道真公が筑紫へ左遷の時、自ら刻んで供養礼拝したとのことでした。

新宿区立中野区立妙正寺川公園。
妙正寺川の洪水調節池に設けられた公園で、川の水位が上がると公園に水が入り込むことになっている中野区立・新宿区立という公園でサッカーなどの運動ができる公園になっていました。すぐに中野区立哲学堂公園に続いていました。
哲学堂公園は、明治37年に哲学者で東洋大学の創立者、哲学者の故・井上円了博士によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された個性的な公園。井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまり。この場所は源頼朝の重臣である和田義盛の城址だったとのこと。昭和50年に中野区立公園となってから、古建築物の修復、整備を重ね、また中野区内でも有数の花の名所として親しまれる公園でもあるとのこと。広大な敷地内には野球場・庭球場・弓道場もありました。
六賢台は明治42年建立。東洋的哲学人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙の六人を「六賢」として祀ってあります。赤色塗り、六角形の周囲六間の建物で、四聖堂の西に建っています。屋根の上に相輪と九つの法輪(九輪)があり、最上部に宝珠を付け屋根の棟瓦の一端に天狗がついているとのこと。本日は中に入れました。
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色々古い建物がありました。再度じっくり見に来るようです。

野方配水塔(のがたはいすいとう)荒玉水道の野方給水場の配水塔。
野方配水塔は、1929年に竣工、配水塔としては1966年に使用を停止。現在は中野区の災害用給水槽。地元では江古田川・妙正寺川に向かって高台にあたる。
塔に空襲時の弾丸の痕跡が見られました。今は中野区の平和史跡で、周囲は中野区立みずのとう公園・みずのとう幼稚園となっています。
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連華寺の円了の墓所がありました。
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井上円了は、安政5年(1858年)現在の新潟県三島郡越路町生まれの哲学者。教育者としては明治の中頃から大正に多彩な活動をした方。とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動をしたとのこと。また、哲学館と哲学堂をつくり円了としては「護国愛理」をもとに学校教育と社会教育の振興をはかり、国民道徳の普及と向上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったのです。

新井薬師梅照院(あらいやくしばいしょういん)。
1586年(天正4年)創建。開祖は僧行春。ご本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるといわれており、12年に一度、寅年のみのご開帳とのこと。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、たちまち回復したことから、特に眼病治癒のご利益に関して有名、また子育てなどにも利益があるといわれているのです。
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新井天神北野神社は天満宮として天正・天和(十六世紀)の頃には新井の里の鎮守であったようです。豊かな水に恵まれた新井の村は、 妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願したのです。天神様として祀られた菅原道真公は優れた学者でまた右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め、 学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなったのです。境内に稲荷神社、大鳥神社、なで牛、力石などありました。

中野ブロードウェイ。
この土地はもとから小さな木造密集地帯。それと乃木希典のゆかりの地でもあったとのこと。1966年(昭和41年)、中野駅北口開発の一環として中野サンモール商店街に続くショッピングコンプレックス(商業住宅複合施設)、中野ブロードウェイが開業。オープン当時は食品、服飾、雑貨、食堂、理美容室、町医者、宝飾、書店、占い業などの商店街がそのままビルに入ったような小売・サービス業の個人営業の店が大半。元々この辺りは、中央線文化といわれるアニメ制作会社や大学、学校、若者といったマニア向け商品の顧客層が多い土地柄で、特に中野はお笑いを中心とした芸人、高円寺はミュージシャンが多く住むと言われ、住人層や街の雰囲気は、「サブカルの殿堂化」しオタク・サブカル文化が浸透したようです。混沌とした雰囲気から「オタクビル」「魔の巣窟」「日本の九龍城」などの異名を持つ。近年「オタクの聖地」としてマスメディアが取り上げる秋葉原とは一味違った独自の文化を形成している。アニメ商材の多い秋葉原に比べ、古本・プレミア玩具などレトロ商品の販売店舗が多いのが特色といえる。ビルの入居店は、漫画古本などのマニア・おたく向け商品店の「まんだらけ」、高級オーディオ・ビジュアル機器専門店の「フジヤエービック」、大型書店の「明屋書店」、サブカルチャー関連書籍・ミニコミ・同人誌専門書店「タコシェ」など。またマニア向け専門店のほかに、輸入雑貨店、美容院、ネイルサロン、飲食店、洋服店、寝具店、ゲームセンターなども入店しているので女性客の利用も多く、老若男女、世代性別を問わず、多くの買い物客で賑わっていました。正直目が回りそうでした。

中野サンプラザは、宿泊・音楽などの複合施設で、特にコンサート会場として、またアイドルの「聖地」として有名。1973年(昭和48年に開業。最近のニュースで
老朽化による建て替えを検討とのことです。
隣の中野区役所そばに中野の犬屋敷があったようです。
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1695年(元禄8年)にこの辺りの16万坪の土地に犬小屋が造られたとのこと。25坪の犬小屋が290棟、7坪半の日除け場が295棟、子犬養育所が459か所、そのほかに役人の住居や付属施設がありましたのです。
そして元禄15年には約29万坪(道路も含む)に拡張されたのです。
1709年(宝永6年)、綱吉の死とともに「生類憐みの令」は撤廃され、中野犬小屋も廃されたのでした。

新渡戸記念中野総合病院は、昭和7年に故新渡戸稲造博士(旧5000円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院。地域医療の中枢病院として、“誠実”を理念とし、患者サービス・医療技術の向上に努める、70年の歴史をもつ総合病院。今は東京医療生活協同組合の病院です。

桃園川緑道(ももぞのがわりょくどう)。
桃園川は、杉並区と中野区を流れる河川。全区間暗渠化されており川の上が緑道なのです。約2.8kmはあったようです。

山政醤油醸造所のレンガ塀。
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これは明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側の一部を移設したもの。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とレンガを交互に積み重ねるフランス積みといわれる工法で造られています。建造は、1899年(明治32年)。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれ、石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られ ています。当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。

宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087〜94)源義家によって創建。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのです。その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去りました。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺としたと伝えられます。その後、今の地に移り、江戸初期の1636年(寛永13年)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失。現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものです。
明治28年から昭和の初期まで中野町役場や区役所が境内に置かれていました。

中野区朝日が丘公園と象小屋。
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼おせられし」とある象小屋は、中野区朝日が丘公園にあったといわれています。当時、象は大変珍しい動物で人々の好奇心をそそり、書物や象にちなんだ調度品などが盛んに作られました。中野の象は、1728年(享保13年)中国人貿易商鄭大威が安南(今のベトナムあたり)から連れて来たもので京都では中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸で将軍吉宗が上覧した後、しばらく浜御殿に飼われていました。後にこの像を下げ渡された中野村の源助は、成願寺近くに象小屋を建てて飼育を続けたのです。1742年(寛保2年)に像は病死し、皮は幕府に献上され、牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現、中央2丁目)に保存され、戦災にあったのです。

成願寺(じょうがんじ)は、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られています。
ここには佐賀藩主だった鍋島家墓所がありました。
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本日のツーリズムのウォーキングツアーの案内は元気な牧講師とCDは佐藤さん。参加者は19名で程よい大きさの集団となりました。気象状況は曇天無風、20℃とベストコンデション。約19000歩はまずますの距離。本日のメインはやはり林芙美子記念館と哲学堂公園、新井薬師寺。はじめての中野区でしたのでオモシロイ体験が一杯でした。感謝!!
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2016.10.19 第4回東京の新発見旅「墨田区」

向島百花園〜復興記念館〜相撲博物館

東武スカイツリーライン東向島駅改札口⇒東向島粋いき通り⇒東武博物館⇒東向島4丁目・百花園入口交差点⇒向島百花園⇒和カフェみづき⇒墨田区露伴児童遊園⇒向島達鮨⇒
鳩の街・東向島1丁目⇒榎本武揚旧居跡・向島5丁目⇒ライオンズマンション言問⇒墨田公園少年野球場⇒墨堤通り・墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進⇒正岡子規仮寓の地⇒長命寺桜もち山本や⇒長命寺・城島柳北之碑・芭蕉雪見の句碑⇒出羽三山の碑⇒須崎会館⇒弘福寺⇒向島5丁目・美家古⇒桜橋通り⇒見番通り⇒三囲神社・三角石鳥居⇒小梅小学校⇒墨田郷土文化資料館⇒佐多稲子旧居跡⇒言問橋東交差点⇒言問だんご⇒牛島神社・二峯先生之碑⇒堀辰雄ゆかりの地⇒小梅牛島通り⇒東武橋⇒日本料理なりひら(昼食)⇒業平橋・業平1丁目⇒大横川親水公園・紅葉橋・ほうおんじばし・清平橋⇒甘味処北斎茶房⇒亀沢3丁目⇒北斎通り⇒野見宿や神社・歴代横綱の石碑⇒緑町公園(津軽家上屋敷跡)⇒青芽橋跡⇒亀沢1丁目・渡辺パイプ梶ヒ江戸東京博物館⇒徳川家康銅像・日本大学第一学園⇒置いてけ堀御竹蔵跡⇒第一ホテル両国⇒横網公園⇒旧安田庭園・水門跡⇒国技館・相撲博物館⇒JR両国駅

東武博物館。
東武スカイツリーライン東向島駅の高架下にある博物館。1989年(平成元年)に東武鉄道が開設しており、電車運行のしくみや運転操作シミュレーション、実物車両などの展示がありました。さいたま市にある鉄道博物館はJR東日本の博物館でとても大規模。それに引き換え東武の博物館ですからややこじんまりですが十分楽しめました。パンフがいっぱいでしたが「地方民鉄旅ガイド」はとても楽しい小冊子でしたのでいただいてきました。
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向島百花園は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、佐原鞠塢で旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園したのです。開園当初は、360本のウメが主、その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしてあります。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとのことです。
その後ずっと民営として昭和13年まで続き、その後京市に寄付され今日にいたっているようです。
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もう花は終わっていましたが、萩のトンネルが有名です。
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墨田区露伴児童遊園。
幸田露伴住居跡に1950年に作られた児童公園。幸田露伴は、1908年から1924年までの16年間、蝸牛庵と名づけた住居で数々の名作を書きました。作品を書くかたわら、庭で門弟を相手に剣道、旧道、相撲などをして遊んだと伝わっていりその話をもとに児童遊園となったようです。園内には、「幸田露伴文学碑」やカタツムリのオブジェもありました。
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榎本武揚は幼い頃から学才に長け、儒学、蘭語、英語など恵まれた環境で洋学の素養をはじめ、樺太探検や長崎海軍伝習所での蘭学や造船学、航海術などを身につけたとのこと。また、文久2年(1862年)には幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方で、国際法や軍学も修めました。戊辰戦争では官軍と戦い、五稜郭で降伏して3年間投獄されていたのが、その後、新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任したのです。下町情緒を好み、明治38年から73歳で没する明治41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたとのことです。旧居跡にはマンションになっており説明板のみがありました。
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墨田公園少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年 に明日への希望」をスローガンとして, 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場。目測では 60m x 40mぐらいのグラウンドで, 周囲は高いフェンスで囲まれていました。今や日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治さんもこの 球場から育った一人とのことです。
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墨堤通り(ぼくていどおり)は都道461号の一部で沿道には墨田区役所、墨田公園や牛嶋神社、東白髭公園や隅田川神社などがあります。
私たちは墨田川七福神・都鳥の歌・墨堤植桜之碑と桜勧進などの説明板を見ました。
墨田川七福神は多聞院(毘沙門天)、白鬚神社(寿老神)、向島百花園(福禄寿尊)、長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、三囲神社(大国神、恵比寿神)です。
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「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」の都鳥の歌は日本童謡民謡の先駆者野口雨情が昭和8年に詠んだ歌。都民の心のふるさとである隅田川沿いを」飾るにふさわしい作品として記念碑が建てられたとのことです。
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墨堤植桜之碑と桜勧進。
1883年(明治16年)成島柳北、大倉喜八郎たちが、墨堤に約1000本の桜を植えたのを記念して、1887年(明治20年)建てられた碑。植桜碑によると、墨堤の桜は4代将軍家綱の時に始まり、1725年(享保10年)には将軍吉宗が植えることにかかわり1732年(享保17年)には、寺島村境から木母寺前まで土手の並木がつくられたのです。さらに1790年(寛政2年)、将軍家斉が植えかえ、文化年間には百花園の佐原鞠塢・浅川黙翁が、白鬚神社付近に150本の八重桜を植えたのです。その後も災害があっても隅田村名主坂田三七郎、三囲神社、須崎村の宇田川総兵衛などがどんどん桜を植えていったようです。また1854年(嘉永7年)、百花園2代目鞠塢・中山胡民・田中抱二たちが発起人となり「花勧進」を行い、多くの補植をしました。またさらに明治7年には、三囲の其角堂永機が1000本を植え、明治13年水戸徳川家が邸宅前に植えてついに枕橋にまで桜が並木がつながったのです。そして明治16年、大倉喜八郎と成島柳北たちが、1000本を補い、このことがきっかけで植桜碑の建立となったそうです。この植桜碑も明治29年現在地に岸より移したのです。
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正岡子規仮寓の地。
「向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉」
正岡子規は、向島周辺の景色を好み、歌を数多く残しています。
隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階に3か月ほど滞在したそうです。
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長命寺桜もちは、山本やの創業者山本新六が1717年(享保2年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前で売り始めたことがはじまり。 その頃より桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集り、桜もちが大いに喜ばれたのです。これが江戸の桜もちの始まりだそうです。
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長命寺の創建は不詳ながら、平安時代円仁の開山による創建と伝わっているようです。天台宗の寺院で山号は宝寿山、院号は遍照院といいご本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神では弁財天が安置されていますが本日は見られませんでした。
芭蕉雪見の句碑「いざさらば 雪見にころぶ所まで」、実業家城島柳北之碑など多くの碑がありました。
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見番通り
墨堤通りと水戸街道に挟まれて見番通りが走っています。道の中ほどに 置屋の見番所があったのでこの名雨がついたようです。

三囲神社(みめぐりじんじゃ)の祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。
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閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されている。 三越各店に分社があるが、なぜか日本橋本店(屋上)ではなく銀座店(9階屋上)に社務所がある。
三角石鳥居には「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されています。三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がありました。
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牛島神社は860年(貞観2年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を勧請して創祀、のち天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨があわせてお祀りし「王子権現」としたとのこと。1180年(治承4年)源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水のために渡ることができなかったが祈厳したところ、神明の加護によって全員無事に渡ることができたことから、頼朝は1180年(養和元年)社殿を造営し、多くの神領を寄進した。1538年(天文7年)に後奈良院より「牛御前社」という勅号を賜わったといわれているのです。江戸時代は鬼門守護の社として将軍家の崇敬があつく、将軍家光は本所石原に社地を賜わりお旅所とした。明治初年以後牛嶋神社と称し、本所総鎮守として崇敬されている。大正12年関東大震災で社殿等が炎上し、次いで帝都復興計画で隅田公園ができたため、向島一丁目(旧水戸邸跡)に移転、昭和7年現在の社殿が完成したのです。
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大横川親水公園(おおよこがわしんすいこうえん)は墨田区立の公園。
墨田区内を流れている大横川の多くの部分を埋め立てて造られた総延長約1800mの大規模な親水公園です。中には釣り堀や児童遊園をはじめ様々な施設がある。公園内の川は汲み上げ式のようできれいな水が流れている。
橋は現在、業平橋、平川橋、横川橋、紅葉橋、法恩寺橋、清平橋、江東橋があり、長崎橋は今はないとのこと。特に清平橋は亀沢四丁目と太平一丁目を結ぶ橋で約39m、平成24年に架け替えられました。昔は亀沢4丁目に清水町があり、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられたようです。今この橋は両脇に水道管があり、すさまじい状況になっています。この橋の構造がオブジェになってありました。
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また業平橋から見下ろす公園の端には大きなミラーを設置してあり、自分自身とスカイツリーを一緒に撮影できるようなビューポイントがありました。

北斎通りは、西は江戸東京博物館前の清澄通りから横十間川までまっすぐに伸びる道路。ちょうど京葉道路と蔵前橋通りの中間にあります。地下に電柱を埋めたことで歩道も広く整備され、両国と錦糸町を結ぶ通りとして地元の人々に利用されています。
江戸東京博物館の反対側の緑町公園そばに北斎生誕の地があります。ということで傍に北斎の美術館が建設中とのことでした。

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)は、相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会が管理しているようです。
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建された神社。元の社殿は東京大空襲によって焼失したので1953年に再建され、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているのです。
歴代横綱の名前が刻まれた石碑がありました。
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東京都江戸東京博物館(とうきょうとえどとうきょうはくぶつかん)は、墨田区横網(すみだくよこあみ)にある東京都立の博物館。
指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループなどで管理運営をしているとのこと。ここは失われていく江戸、東京の歴史と文化についての資料を収集、保存、展示することを目的に、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として1993年(平成5年)に開館しました。大きな建物で展示も多くゆっくり時間をかけて楽しみたいところです。
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江戸東京博物館への遊歩道の途中に徳川家康銅像がありました。亀の上に鷹狩り姿の徳川家康です。江戸なので家康はわかりますが、どういうことなのか、講師もわからないようでした。
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横網町公園は東京都の公園。
中には東京都慰霊堂、朝鮮人犠牲者追悼碑、震災遭難児童弔魂像、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑、子供の遊び場、幽冥鐘と鐘楼、東京都復興記念館などがありました。
教は東京都復興記念館
旧安田庭園・水門跡をじっくりみました。ここは関東大震災のことをつたえるべく当時の写真、絵画、遺品など多数あり、胸が痛くなりました。
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すぐそばに工事中の巨大な建物が見えました。「すみだ北斎美術館」とのこと。11月22日オープンということですからもうすぐ!!きっと伺います。

国技館はまだ入ったことがない私です。本日はたまたま相撲博物館には入れました。
写真撮影ができないのは残念ですがかなり面白いです。また行きたいと思います。事前に開館予定を見ておくことがコツのようでした。
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東武スカイツリーライン東向島駅に初めて下車しました。向島百花園は花の季節はさぞや素晴らしいと思いました。
墨田公園から長命寺桜餅の山本やで一休みは珍しく、おいしいひと時でした。
24℃、晴天と過ごしよい中のウォーキングは楽しく、16000歩を終了できました。
今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:28| あちこちウォーク

2016年10月18日

2016.10.16江戸ぶらり古地図ウォーキング第1回両国

〜明暦の大火がもたらした変動〜
JR浅草橋駅⇒浅草見附公園⇒浅草橋⇒郡代屋敷跡⇒小松屋・柳橋⇒柳橋大川端通り⇒亀清楼⇒旧跡両国広小路⇒両国橋西交差点⇒やげん堀・中央区立産業会館⇒日本山妙法寺⇒薬研堀不動尊(大本山川崎大師東京別院)・納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑・不動院通り⇒中央区立日本橋中学校⇒区立日本橋中学校前歩道橋⇒御幸通り⇒両国橋⇒両国広小路⇒墨田区立両国橋児童遊園⇒ももんじゃ⇒駒留橋跡・藤代町跡・片葉の葦・石尊垢離場跡・赤穂浪士休息の地・旧両国橋・広小路⇒春日野部屋⇒式守家⇒相生町跡・両国2丁目⇒井筒部屋⇒前原伊助宅跡⇒・両国3丁目⇒吉良邸正門跡⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑・錨の碑⇒両国公園・勝海舟生誕地の碑⇒千歳公園⇒飯澄稲荷社⇒松 稲荷大明神・本所松坂町公園⇒墨田両国三郵便局⇒東京パフ梶ヒ両国シティコア・旧国技館跡⇒回向院・力塚・鼠小僧の墓・塩地蔵⇒両国駅そばオブジエ⇒JR両国駅⇒国技館⇒旧安田庭園・水門⇒JR両国駅

浅草見附公園。
江戸城の警護のために36か所設けられていた見附のひとつ・桝形だった門は「浅草御門」といわれ、警護の人を置き浅草観音や奥州街道の往来を取り締まったとのことです。
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浅草橋。
神田川にかかる江戸通り (奥州街道) の橋で地名にもなっていました。この辺りには玩具,文房具などの問屋が並び,住宅と混在しているようです。
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郡代屋敷跡。
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理したのが関東郡代でこの方の役宅跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時、伊奈忠次が関東郡代でした。その後、伊奈氏が十二代にわたって世襲。もともとは江戸城の常盤橋御門内にあった屋敷ですが、1657年の明暦の大火で焼失し、この地に移ったのです。

小松屋
柳橋のたもとにある佃煮屋。
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柳橋のあたりは江戸時代中期には花街でした。元々は柳原堤の端になったことから矢之倉橋といわれたとか、橋のたもとに柳の木があったからとかの説が聞かれるようです。
今、柳橋の欄干にはかんざしのレリーフが見受けられました。
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亀清楼の創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等、有名な文学作品にも登場する料亭。ランチもあるようです。
国技館に近い場所で古くから横綱審議会が行われていることでも有名なのです。

旧跡両国広小路。
1657年(明暦3年)の大火事後、防災上両国橋が架かり火事の類焼を喰い遂げるべきとのことで火除け地として設けられたのが広小路。今でも広々した空間でした。
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現在の東日本橋にかつて存在した運河で、堀周辺の通称が薬研堀といわれる場所。
薬研堀不動尊は真言宗智山派大本山川崎大師平間寺(川崎大師)の東京別院で目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている所なのです。
境内は都会らしく狭いですが、納の年の市之碑・順天堂発祥の地碑も見られました。
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両国橋。
千住大橋の次に隅田川に架けられた橋。創設は1659年(万時治2年)または1661年(寛文元年)といわれているとか。西の武蔵の国と東の下総国をつなぐ橋なので両国橋としたとのことです。
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橋の途中には土俵の大きさがわかるように描かれていました。
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両国橋の東詰たもとに墨田区立両国橋児童遊園があり、子供用の遊具は見当たらず、立派な『表忠碑』がありました。『表忠碑』は日露戦争で出征され、護国の為に身命を捧げられた方々をお奉りしており、碑の裏面にはこの戦争で戦病死された方たちの名が刻まれていました。
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百獣屋の字をあてたももんじや(ももんじ屋)とは、江戸時代に近郊の農民が鉄砲などで捕獲した猪や鹿を利根川の利用で江戸へ運び、その他では牛肉や馬肉等を売っていた店のこととのこと。
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当時は表向き、肉食忌避だったのでこれらを「薬喰い」と呼んだそうです。猪肉は山鯨(やまくじら)、鹿肉は紅葉(もみじ)と呼んだのは花札の絵柄からとのことでした。
江戸ではこの両国広小路のお店が有名で、獣肉を鍋物や鉄板焼にしたことは今のすき焼きや桜鍋の元とも考えられるそうです。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名で呼ばれたともうかがいました。また、新撰組の人たちは豚肉を常食していたとのことで、このようなことが明治初期の牛鍋の人気につながり、今日の食事文化につながっているようです。

赤穂浪士休息の地。
赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名。この方はちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは同じ俳人仲間だったとのことです。1702年(元禄15年)12月14日、本所松坂町の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛ると、この場所が乳熊屋味噌店の上棟の日だったことから作兵衛が一同を店に招き入れ、甘酒粥を振る舞い、労を労ったとのことです。大高源吾は棟木に由来を認め、そして看板を書き残し、泉岳寺へ引き上げて行ったとのことです。
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春日野部屋(かすがのべや)は、日本相撲協会に所属する出羽海一門の相撲部屋。
1925年(大正14年)に引退した出羽海部屋の横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡を継承して年寄・8代春日野を襲名し、当時「分家独立を許さない」という不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設したのです。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げたとのことです。
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式守家が春日野部屋のお向かいにありました。
式守家(しきもりけ)は、大相撲の行司家の一つ。式守家の創設は、1767年(明和4年)の番付から名前がのっており、初代式守伊之助が式守姓最初の行司。
今日でも大相撲の行司さんでは式守伊之助、木村庄之助の名前をよく耳にします。

赤穂浪士の討ち入りは大石内蔵助ら表門隊23名が、吉良邸の表門が頑丈だったため、梯子を門の屋根にかけて登り、それから屋敷内に縄梯子を使って降りて門を開けたとのことです。
本所松坂町公園(吉良邸跡)はなまこ壁に囲まれ、裏門跡、正門跡からは、高家筆頭の吉良氏屋敷はかなり広大な屋敷だったことがわかりました。
吉良上野介氏の座像、みしるし洗い井戸、吉良家家臣二十士碑、上野介追慕碑などがありました。
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芥川龍之介文学碑
芥川龍之介は、1892年(明治25年)京橋区入船町生まれ。生後7ヶ月で母が病気になり、本所区小泉町(現両国3丁目)の母の兄、芥川道章に引き取られ、その後13歳の時芥川家の養子となったのです。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家。義父の道章は江戸趣味豊かな方だったようです。
龍之介は1898年(明治31年)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、1899年(明治32年)現両国小学校、現両国高等学校、第一高等学校第一部乙類、東京大国大学英文科と経由して、1916年(大正5年)東大卒業。東大在学中に夏目漱石の門に入り、同人雑誌「新思想」「新小説」に短編を発表し文壇に華やかに登場したのです。
この文学碑は龍之介の代表作の「杜子春」の一節を引用したもの。芥川龍之介の人生感を学び彼の文才を偲ぶということで両国小学校創立百十五周年の記念事業として、1990年(平成2年)に建立とのことです。
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勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)両国公園のここで誕生。にあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。剣術は島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて修行。1843年(天保14年)21歳の時、蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事。1850年(嘉永3年)に「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめています。1853年(嘉永6年)米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航した時、海舟は幕府首脳部に独自の海防論を示しこれがきっかけで異国応接掛手附蘭書翻訳御用、講武所砲術師範役、軍艦操練所教授方頭取などの役職に就き活躍が始まっています。そして、1860年(安政7年)には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断しています。また、帰国後は軍艦操練所頭取や軍艦奉行となっています。1868年(慶応4年)の西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となったのです。1899年(明治32年)に77歳で亡くなりお墓は洗足池畔にあるとのことです。
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両国国技館は、東京都墨田区横網(よこあみ)にある大相撲の興行のための施設。
正式には単に国技館だそうです。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもあるとのことです。1985年に建設され現在収容人員は11,098 人とのことでした。
同じ建物の横の入り口に相撲博物館がありました。ここは酒井忠正初代相撲博物館館長が長年にわたって収集した資料を基礎に、国技としての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年(1954)9月、蔵前国技館の完成と同時に開館したとのことです。昭和60年(1985)1月、両国国技館の開館に伴い移転し、現在の場所になったとのことです。歴代の横砂などの肖像画も見られかなり面白かったです。本日はたまたま開館していましたが見たいときは事前に調べてからお出かけするとよいようです。

回向院(えこういん)は、墨田区本所地域内にあることから「本所回向院」とも呼ばれています。振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれた明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍の徳川家綱が命じて葬った万人塚が始まりとのこと。その後、安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されている。
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墓山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉のお墓もありました。ここへの 参拝客のために両国橋が架けられたともいわれているとのことです。
門を入るとすぐに「力塚」がありました。これは1936年(昭和11年)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
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旧安田庭園。
江戸時代は、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に本庄宗資により大名庭園として築造され、安政年間には隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となったのです。明治22年(1889年)、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。大正11年(1922年)、には東京市に寄贈されたのですが、1923年の関東大震災によりほとんど旧態を失ったのを東京市が復元し、1927年より市民に解放されたのです。現在は墨田区が管理しているようです。
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1日晴天で22℃、風なし、約1300歩は気楽で心地よかったです。説明の先生が丁寧だったのがまたよかった。でも私のグループ34名、という調子で全部では4グループでしたから曜日?それとも場所?あまりの大人数でびっくりしました。四宮先生、CD青木さんに感謝。今後も楽しみです。
posted by yunofumi at 21:50| あちこちウォーク

2016年10月16日

2016.10.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第3回湯島

〜将軍家献上の水・江戸の用水を学ぶ〜
JR御茶ノ水⇒お茶の水石碑⇒杏雲堂病院・大久保彦左衛門屋敷跡⇒法政大学発祥の地碑⇒日本大学病院・甲賀通り⇒小栗上野介ここに生まれる説明板⇒さくら薬局⇒コトブキ調剤薬局⇒日本大学理工学部⇒紫紺館・駿河台道灌道⇒ミズノ東京本社⇒太田姫稲荷神社⇒池田坂・日本大学歯学部⇒日本大学歯学部付属歯科病院⇒日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋⇒神田神社・獅子山・銭形平次の碑・国学発祥之地・浮世絵師水野年方顕彰碑・神田神社裏参道⇒妻恋坂交差点⇒鳴門鯛焼本舗⇒三組塚下交差点⇒メトロ湯島駅⇒湯島中坂下交差点⇒中坂(仲坂)⇒鉄二健保会館⇒湯島中坂上交差点⇒湯島神社・新派碑⇒教證寺・柳瀬美仲墓⇒湯島四郵便局⇒旧湯島切通町⇒湯島地方合同庁舎⇒平野屋⇒鱗禅院・春日局墓⇒南山堂ビル⇒旧龍岡町・文京総合体育館⇒龍岡門バス停⇒東京大学本部棟・池之端門⇒東大薬学部創薬機構⇒赤門⇒東大赤門前交差点⇒大山堂書店⇒文光堂書店⇒本郷三丁目交差点⇒かねやす⇒本郷3丁目駅前バス停⇒第一医科梶ヒりそな銀行⇒壱岐坂通り⇒東京都水道歴史館・馬水槽・木樋⇒順天堂大学⇒お茶の水坂⇒元町公園⇒JR水道橋駅

お茶の水石碑
御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口交番横にありました。慶長の時代にこの辺りは神田山の麓で高林寺があり、庭から水が湧き出たので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶にはとても良い水と褒められた。そこで毎日この水を差し上げたことからこの辺りをお茶の水というようになったそうです。石碑横には今も水が涌いているようでした。
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杏雲堂病院はがんなどの予防法・診断法・治療法に関する臨床を中心とした調査や研究開発の事業を実施している佐々木研究所が経営している病院で明治15年に設置されたようです。この病院の植え込みに大久保彦左衛門屋敷跡碑がありました。時代劇でお馴染みの天下のご意見番の大久保彦左衛門です。徳川家康の家臣として関ヶ原の戦いで活躍し、徳川秀忠、家光にも仕えたそうです。
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しばらく行くと千代田区が設置した「小栗上野介ここに生まれる」の説明板がありました。
どうやら正しくは小栗上野介忠順(1827〜1868)。もともとは幕臣で勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行などを務めたとのこと。安政7年(1860年)には日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国し、江戸幕府の財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行ったとのこと。しかし人生最後は混乱期と重なり悲惨な最後となったようです。

太田姫稲荷神社
太田姫は太田道灌の娘。娘が重度の疱瘡にかかり一口稲荷の故事に「ならって祈願したところ回復したので社を立てたのが始まり。元々は江戸城内に、その後聖橋のそばに、そして今の所に移ったようです。江戸時代の将軍が崇敬したことあるからでしょうか、小さいながら立派な社殿でした。
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日本ハリスト正教会東京復活大聖堂・紅梅坂⇒井上眼科病院⇒聖橋⇒湯島聖堂・孔子像・大成殿⇒本郷通り⇒湯島聖堂前交差点⇒甘酒茶屋天堅屋は先日伺ったばかりなのでここでは省略。
神田神社は表にある社殿などはお馴染み。今日は周囲もよく解説していただきました。
銭形平次の碑、国学発祥之地、浮世絵師水野年方顕彰碑を見てはじめて神田神社裏参道から出ました。
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湯島神社は梅の名所。菅原道真の霊を祭る北野天満宮が元で広がった神社。学問の神様ということでいつも訪れる方が多いようです。

教證寺は、徳川忠長に嫁いだ教證院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教證院と号して起立したのです。
教證院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教證寺と改めたといわれています。
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境内に柳瀬美仲墓があるということで見せていただきました。
柳瀬美仲(1685-1740)は徳川時代中期、宝永2年遠江国浜松に生まれた歌人。
「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首により有名になったようです。元文5年5月56歳で没し、墓石は「隠口先生美仲甫之墓」とあるとのことでしたが素人目には判別はむつかしかったです。 

麟祥院(りんしょういん)は1624年(寛永元年)に春日局の願いによって二代将軍秀忠が建立させた寺。初めは報恩山天沢寺でしたが、寛永11年、三代将軍家光の命により麟祥院と改称して天沢山と号することになります。春日局は1604年(慶長9年)に家光の乳母となり、家光の将軍就任に並々ならぬ尽力をして方です。
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春日局墓石と台石の四方に丸い穴があいていました。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっているとのことです。  
ちなみに文京区の「春日」の地名は。春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来しており、昔は春日殿町と呼ばれていたとのことでした。

かねやすは現在、雑貨屋さん。
享保年間(1716〜1736)にはこの本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出したのが大当たりでお店は大繁盛。
その後の1730年(享保15年)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守がここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じたとのこと。
ところが北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたのでも有名なのです。
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東京都水道歴史館は江戸時代から現在までの400年、近現代の水道、江戸時代の上水、をきちんと学べる施設。水に関する学習施設ということでしたがもったいないくらい立派でした。またゆっくり来てみるようです。
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新宿駅にある馬水槽と同じのがあり、解説つきでよくわかりましした。
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本日のウォーキングは初めての阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。各社のウォーキングツアー催行の情報を耳にし、現在あちらこちらと、ちょっと気ままに研究しているのです。
たまたまこのツアーを見つけ、参加するのに日程調整をしたところいきなり3回目だったのは致し方なし、なのです。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかった。
1日晴天で24℃、風なし、約15000歩は気持ちよかったです。ということでこのシリーズに継続的に参加しようと思いました。
ウォーキング終了、水道橋駅14:40頃に総武線乗車、市ヶ谷から川越行きの有楽町線に乗り替え、いつものように車中でコックリと舟をこぎながら帰宅。その後夕方のニュースを見てビックリ!東京都内大規模停電!
埼玉県新座市野火止の洞道に敷設されている東電の送電ケーブルから出火、58万軒に影響、列車ももちろん各線が止まったとのこと。私の帰宅は水道橋から約1時間ですから途中で止まらなかったことが不思議。たまたま幸運だったのですね、ありがたいことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 23:13| あちこちウォーク

2016年10月14日

2016.10.10 旧中山道を行く 第8回上尾宿

大宮駅〜上尾駅
JR大宮駅⇒高島屋デパート・紀州藩鷲場本陣跡⇒すずらん通り・旅籠長次郎・臼倉本陣跡⇒メガネのヨコタ・栗原脇本陣跡⇒イワイビル・山崎本陣跡⇒大栄橋⇒宮町大栄会・御影堂⇒JA共済埼玉ビル⇒土手の椎の木⇒埼玉日本語学校⇒官幣大社の石柱⇒土手町地下道⇒北大宮住宅⇒大宮警察署入口交差点⇒東大成葬祭センター⇒大宮郵便局⇒藤和銀行⇒安政7年の道しるべ⇒八百姫大明神そば⇒くらづくり本舗⇒富士フィルム大宮事務所入口バス停⇒大成屋菓子舗⇒石上神社⇒馬頭観音.三界萬霊塔⇒東埼玉マイネッツさいたま北⇒喜多山製菓⇒さいたま市水道総合センター⇒大宮警察署加茂宮交番⇒北区役所入口交差点⇒北区役所・大宮競馬場建設記念碑⇒東大成の庚申塔⇒宮原1丁目バス停⇒武久金物⇒仲屋前バス停⇒サイゼリア⇒橋供養塔⇒埼玉りそな銀行宮原支店⇒宮原駅入口交差点⇒鮨・豆腐料理おがわ(昼食)⇒武蔵野銀行⇒大宮宮原郵便局⇒天神社⇒加茂神社⇒宮原小学校・センダンの木⇒神山商店⇒うなぎ清水家⇒徳樹庵⇒南方神社⇒河村屋・漬物カフェ〜これより上尾宿〜庚申塔・栄町1丁目⇒今村整形外科病院⇒下上尾バス停⇒上尾運動公園バス停⇒ヤマダデンキ⇒上尾陸橋⇒愛宕神社⇒上尾原市新道バス停・川越道⇒鍾馗羊羹・井上脇本陣⇒藤村病院・林本陣跡⇒白石脇本陣⇒氷川鍬神社・聖徳太子像・富士塚⇒ベルーナアネックスビル⇒うなぎ恵比寿亭⇒遍照院⇒JR上尾駅

大宮宿は氷川神社の門前町、明治時代には鉄道が通ったこと、縄文時代の遺跡があるという古い街。宿場としては南北約5.5km、東西約3.7km、本陣1軒、脇本陣9軒、問屋場4軒。旅籠25軒で大いに栄えたのです。

紀州藩鷲場本陣跡は高島屋デパートの辺りとのこと。1776年(安永4年)の大火事で近辺85軒が類焼しました。
また高島屋デパート屋上には北沢家から出た近代漫画家の先駆者北沢楽天を祭った北沢稲荷がありました。
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御影堂(栗原堂)は甲州武田の家臣だった栗原内記保逢が建てたお堂。栗原脇本陣と松本右衛門一族の墓があるとのことです。
土手の椎の木のそばを大名行列が通ったようです。大正時代には木の下で桶屋などが商売をしたり、旅芸人の芸がされたりと賑わったようです。
官幣大社の石柱は氷川神社の裏参道入口にありました。こちら側から初めてみました。
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少し行くと1860年(安政7年)に建立の石碑は「大山・御嶽山・よの・引また・かわ越」とあり道しるべでした。

石上神社(いそのかみじんじゃ)は疱瘡の神様として信仰されたようです。疱瘡は伝染病ですからとても人々は恐れたのです。
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しばらく行くと橋供養塔があり、昔この辺りに橋があったことを示しています。建立は1759年(宝暦9年)ということでした。

創建は京都の上賀茂神社を勧請したのがこの加茂神社。ここの地名は宮原。加茂宮村と吉野原から一字づつとった名前。村の鎮守様なのです。
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宮原小学校の正門横にセンダンの木がありました。明治初年宮原小学校開校時に赴任した先生が郷里の高知から移植した木で校歌にも歌われているとのことです。

南方神社(みなかたじんじゃ)はお諏訪様と親しまれており、吉野原村の鎮守様です。
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河村屋は江戸時代文化文政期の創業。酒粕を使った漬物を創作し、今はさいたま市の伝統産業です。
店舗の建物は新しく、お隣にある少し古い感じの建物は漬物カフェとなっていました。
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上尾宿は交通の要として栄えた宿場。宿場の街並みは南北に約1.1km、次の桶川宿まで3.7km、本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、旅籠41軒。中山道にクロスする脇道が原市・岩槻・蓮田・菖蒲・騎西・秋葉・平方・川越に通じていたのです。

愛宕神社はもともと東町にあったようです。この辺りで遊びに来ていた川越藩士と飯盛り女が別れを惜しんだというさよなら横丁もあったそうです。
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3軒あった脇本陣のひとつが井上脇本陣。昔の屋根瓦が入口の塀にオブジェのように飾られていました。お隣は鍾馗羊羹でした。
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お隣の藤村病院は昔は林本陣だった跡。現在の病院駐車場の端に赤い鳥居の稲荷神社が残っているのが少し見えました。

氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は上尾宿の総鎮守様。小鍬が御神体ということで五穀豊穣をを司る農耕神がご祭神。明治時代に氷川女体社と合祀され現在の名前となったようです。
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聖徳太子像碑と富士塚もありました。

遍照院(へんじょういん)の開山は、1394年(室町時代の応永元年)。
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御本尊は大聖不動明王。罪深い衆生のために怒りの姿に化身して救道するということで、諸願を成就し、災害を除き、財宝をえしめる仏様として厚く信仰されているとのことでした。
本堂に上がらせていただき、ご本尊の不動明王像や十一面千手観音菩薩を間近で見せていただけたのが大感激でした。
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また境内を入るとすぐに孝女お玉の墓がありました。
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お玉は越後の貧しい家に生まれ、親の生活を楽にしようと11歳で上尾宿の大村楼に身売りしたのです。生まれつきの美貌と賢さでたいへん評判になり、病で20歳の時なくなったのです。大村楼の主人が、お玉の孝行心に心を打たれ、手厚く葬ったということのようです。

本日は朝日旅行の第8回目の旧中山道を歩くに21名が参加。ガイドは浦和ガイド会の2名。
曇天で気温は低く、21℃はありがたかったです。しかしパンフに歩程9kmとあったのですが自分の万歩計は2万歩越えでしたから、ややお疲れという次第です。どうやら自分の限界もわかってきた今日この頃なのです。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2016年10月09日

2016.10.4 第3回東京の新発見旅「葛飾区」

JR金町駅改札口⇒金町駅前団地⇒朝日信用金庫・金町しょうぶ通り商店会⇒昌明通り商店街⇒金蓮院⇒東金町4丁目バス停⇒かなまち会館⇒東水元2丁目バス停・岩月街道⇒南蔵院・しばられ地蔵⇒水元公園・水元大橋・バードサンクチュア・金魚展示飼育地⇒葛西神社前信号⇒江戸川河川敷・柴又公園・矢切の渡し・金町浄水場・とんがり帽子の取水塔⇒葛西神社⇒ルンビニ幼稚園⇒題教寺柴又帝釈天・庭園・参道・船橋屋(昼食)⇒寅さん記念館・京成柴又駅

真言宗豊山派の金蓮院は、正式には法護山金剛寺、1504〜20年(永正年間)に賢秀和尚により創建とのこと。1591年(天正19年)徳川家から10石の御朱印を拝領しており、水戸徳川家の祈願所でもあるのです。
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南蔵院は正式には業平山東泉寺南蔵院。約600年前に林能胞子が開創。開創当時は在原業平東下りの縁地墨堤の畔にり寛永年間に、そして大正12年関東大震災にあったことから昭和4年に現在の水元に移転したとのことでした。
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しばられ地蔵。
享保年間将軍吉宗の時代に南蔵院門前で起きた反物を盗んだ事件を解決するために大岡越前が「犯人は南蔵院の門前で泥棒の仕業を黙ってみていた地蔵はけしからん」と地蔵を縄で縛り南町奉行所へ連行。奉行所になだれ込んだ野次馬に罰として反物を差し出すように申し渡したのです。そしてその中に盗まれた反物があり「犯人逮捕!」。ということで越前守が地蔵に感謝しお堂を建立、縄を解き供養したのが始まり。ということで今では「しばられ地蔵」は盗難除け、厄除け、縁結びなどの願い事のために縛り、願いが叶うと縄解きをするのです。
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水元公園は葛飾区にあり、東京23区中でも最大規模の面積(92.2ha)とのこと。 公園そばには公園の名前が町名にもなっていました。
小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。
まず小合溜とは、で調べてみると「小鮎」の名前で歴史に登場、その後は小合(こあい)と称せられたとのこと。そして、「溜井」とは、河道を利用した貯水施設のことで、小合溜井(こあいためい)が本当の名前ということでした。
昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園で、 小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしていました。広い園内はポプラ並木やメタセコイアの森・ハンノキなど水辺に強い樹木、ハナショウブ・スイレン・コウホネなど水生植物を多く見ることができるとのことです。
水元大橋を渡りながら小合溜を眺めました。
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自然の森や水辺があるので鳥も多いようです。園内には3か所の鳥たちを観察できるバードサンクチュアがあるとのことです。
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生きている化石といわれるメタセコイアが1800本で大きな森となっていました。
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そのほかかなしょうぶ園、ポプラ並木、彗星植物園、様々な広場があり一日中、また季節ごとで楽しめそうな公園でした。

金魚展示飼育地。
水元公園の端にありました。
ここではリュウキン、ワキン等の優秀な観魚を作り、江戸時代から続いてる伝統的な地場産業として金魚養殖振興に役立てているとのことです。我が国で古くから飼育されている金魚や珍しい中国産金魚を展示、また品種改良や品質保持の試験研究を行っているとのことでした。
各池には江戸茜、琉金、コメット、珍珠鱗、などどれも初めてでしたが一番は、金魚ではなく銀魚が印象深かったです。
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柴又公園
江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場として利用されており柴又公園となっていました。またこの公園は、日本庭園のある山本亭や寅さん記念館を含み、葛飾区の観光名所の一つとのことです。
矢切の渡しは柴又と対岸の千葉県を結ぶ渡し船で江戸時代初期から続く、都内に唯一残る貴重な渡し場です。小説や歌謡曲にも登場し、現在は片道200円で乗船することができるとのことでした。

金町浄水場は1926年8月に竣工。原水は江戸川の表流水を導入した。水系上流の水質悪化や、取水口の上流の対岸に千葉県松戸市の下水処理場の排水口があった影響で、低品質水道水だったのです。特に昭和40年代はカビ臭がひどく、活性炭処理が間に合わず、高速沈でん池にスカム(水中の有機物が腐敗し、この時に発生するガスによって浮上した有機物の「かす」)が発生する事態まで発生し、1984年には厚生省が発足させた「おいしい水研究会」に「日本一まずい水道水」と指摘されている。そこで東京都水道局は、1992年にオゾンによる高度浄水処理を開始し、また高度浄水処理施設(オゾン処理)の完成で水系上流の下水処理能力が向上したのです。今、この高度浄水処理された水道水は、残留塩素を除去し、ボトルウォーター『東京水』として、東京都庁舎をはじめ東京都の施設等で市販されています。

とんがり帽子の取水塔はフーテンの寅さん(映画「男はつらいよ」)の中に結構な頻度で登場するとのこと。二つの塔はともにレンガ作りですが少しデザインが違うようです。近頃の剣突物などは機能とコストパーフォーマンスだけを重視ですから昔は優雅でした。
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葛西神社(かさいじんじゃ)は、創建は平安時代末期、1185年(元暦2年)とのこと。昔は上葛西、下葛西合わせて三十三郷の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により 香取神宮の分霊を祀ったのが始まり。(現在の東京都葛飾区、江戸川区の全部と墨田区、江東区、足立区の一部地域)
その後この香取宮が明治8年に郷社となり、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社となったのです。ということで、金町、東金町を合わせた11町会の総氏神様。祭囃子発祥の神社でもあるのです。
また、葛西神社は祭囃子発祥の地と言われているとのことでした。
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題教寺柴又帝釈天の開創は390年ほど前の寛永年間に禅那院日忠上人。またその昔から日蓮聖人の親刻の帝釈天の板本尊があるとのことだったのが見つかっていなかったのが240年前の本堂修理で発見されたのです。こうして仏法守護神としての帝釈天信仰がはじまったようで今も参拝の人々が引きも切らない感じでした。

帝釈堂の内外には、数多くの木彫がほどこされています。特に帝釈堂内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものとのこと。 この法華経説話彫刻は、当山第十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次朗氏の丹精協力を得て、大正末期より昭和9年に至る十数年の歳月を費して完成したのです。本日見ましたところガラス張りの彫刻ギャラリーになっていました。
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参道は相変わらず賑わっておりました。参道の中ほどの船橋屋でニュー麺の昼食をいただきました。
本日は時間がなく題教寺柴又帝釈天の庭園、寅さん記念館、山本亭、山田洋次ミュージアムは見られませんでした。
ということで京成柴又駅前の寅さんを見て帰宅しました。
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本日の葛飾区めぐりは幾度も伺っていたのですが本日参加者13名は江戸川べりを歩いたので暑さのせいでやや疲れていました。私も御多分に漏れず、ここ数日涼しい日が続いた後の晴天、32℃、18000歩はちょっとね!という気分でした。でもウォーキングには晴れが一番ですから、今次自摸感謝、感謝で終了!!
posted by yunofumi at 00:59| あちこちウォーク

2016年09月25日

2016.9.21 のんびりゆったり山手線一周散歩

第1回 東京〜田町
JR東京駅日本橋口⇒北町奉行所跡⇒江戸城外堀跡石垣・八重洲中央口前⇒グランループビアラウンジ⇒八重洲交番前⇒JR高速バスのりば⇒八重洲通り・呉服橋⇒鍜治橋交差点⇒鍜治橋門跡⇒外堀通り⇒東京高速道路事務所⇒東京メトロ有楽町駅⇒銀座インズ⇒メトロ銀座1丁目駅⇒JR有楽町駅⇒南町奉行所跡⇒銅造彫刻「燈臺」⇒数寄屋橋公園⇒東急プラザ⇒東京メトロ銀座駅・晴海通り⇒第1有楽町架道橋⇒ゴジラ像・東宝シネマ⇒日比谷シャンテ⇒東宝日比谷ビル⇒東京宝塚劇場⇒帝国ホテル⇒日生劇場⇒日比谷公園⇒鹿鳴館跡⇒みずほ銀行⇒日比谷ダイビル⇒第一ホテル東京・フレンチアンジャンテ(昼食)⇒新橋駅⇒新橋1丁目交差点⇒新橋2丁目・パナソニック東京汐留ビル⇒旧新橋停車場鉄道歴史展示室⇒ゆりかもめ新橋駅⇒江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡⇒日本テレビタワー⇒東銀座1丁目交差点⇒日比谷神社⇒旧新橋停車場機関車転車台跡⇒汐留南交差点⇒Hotel Villa Fontaine⇒汐留芝離宮ビル⇒文化放送⇒芝離宮址⇒JR浜松町駅・浜松町1丁目⇒芝大神宮⇒芝大門交差点⇒増上寺⇒芝公園郵便局⇒都立芝公園⇒芝園橋⇒ORIXビル⇒薩摩屋敷跡⇒日立ビル⇒港区勤労福祉会館⇒西郷・海舟会見の地碑・第一田町ビル⇒JR田町駅

本日より今までとは一味違う感じの山手線一周に期待しながらのツアー開始です。

北町奉行所跡。
北町奉行所跡の石碑が2ヶ所あることに本日気付かされました。
一つは丸の内トラストシティN館東側にあり、トラストシティの名が石碑にありました。
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丸の内トラストシティは、もとは東京駅の側線や東京鉄道管理局等のあった東京駅八重洲口に隣接したJRの鉄道用地。そこに森トラストが購入して建てた高層ビルです。
もう一つは東京駅八重洲北口の端にありました。これは東京都教育委員会が設置のようです。
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南町奉行所跡。
ビジネスや商業の中心地として栄えている有楽町。イトシアの前、地下に降りる大きな円形屋根の反対側に石垣の名残とプレート。実はここに広さが約2620坪(8640u)の南町奉行所がったようです。表門は東側ということは有楽町イトシアの方角のようです。発掘された奉行所の石組でベンチが出来ており端には史跡碑がはめ込まれています。また今回、横に模造の石に見せたボックス形この碑は「有楽町マリオン」前にあったそうだが再開発後に移設。また本日はこの横に模造の石に似せた箱があり、「東京都指定旧跡 南町奉行所跡」と記されていました。東京都は史跡の保存に本腰を入れているのですね。
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銅造彫刻「燈臺」
燈臺は石造台座の上に作られた北村西望作の銅造彫刻。昭和6年に制作され、帝国美術院第12回美術展覧会に出品されたものだそうです。
「燈臺」は兜を装い力に満ちた青年が炬火を捧げて獅子を従えている像で昭和8年9月1日に関東大震災10周年記念塔として台座上に設置され、数寄屋橋公園内に設置されたのです。石造の台座設計、台座にあるブロンズ製の鋳造銘板も北村西望制作。
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北村西望の代表作には昭和30年制作の長崎市の「平和祈念像」があるとのことでした。

地下鉄丸ノ内線の銀座駅の上に出ると見える西銀座デパート脇の小さな公園は数寄屋橋公園。ここにはかつては外堀にかかる数寄屋橋がありこれを埋め立てたのです。
中程に不思議な時計塔がありこれは岡本太郎の作品で「若い時計台」。このオブジェは夜になると光り輝くとのことです。
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東急プラザ銀座。
屋上に上がると銀座など360°ぐるりと見渡せます。水と緑をテーマとし、都心の風景を見ながらくつろぐオープンテラスなのです。気軽にお茶ができる「櫻ノ茶屋」がありました。
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第一有楽町架道橋。
第一高架橋には 山手線の内側(皇居側)から外側(銀座側)に抜ける自由通路。山手線最古のレンガアーチも含め、東京駅開業当時のレンガつくりと思われます。
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日比谷の再開発で日比谷シャンテや宝塚劇場、東宝本社などがこの辺りに集中的にありました。
シャンテの前にある「合歓の広場」にはスターたちの手形がズラリ。お馴染みの方の手形もありました。
そしてさらに進むと「ゴジラ像」。初代ゴジラは身長50mとか。今の新シリーズは身長70mということでこの像は1/10かしら。台座の銘板には有名な映画のセリフがありました。ぜひ見ていただきたいです。そうそう、只今上映中のシンゴジラは私も見ました。面白かったです。
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帝国ホテル。
隣接した鹿鳴館と関連したホテルとして井上馨、渋沢栄一と大倉喜八郎らが設立に貢献したようです。
当初は渡辺譲 設計、その後煉瓦造、3階建だった建物は1919年に全焼。
フランク・ロイド・ライト設計、一部完成で建築が遠藤新に引き継がれ1923年完成。
関東大震災で一部の損傷のみ、東京大空襲では約4割損傷。
しかしながらGHQ痛手を受けながらも実際にはGHQが接収したことで修理がなされ、今日の発展の元となったようです。
1890年(明治23年)開業で今では日本の代表する高級ホテルでホテルオークラ、ニューオータニとともに「(ホテル)御三家」といわれており、東京のほか、大阪、上高地にもあるようです。
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1883年に完成した鹿鳴館(ろくめいかん)は、外務卿の井上馨が発案し、国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として明治政府によって建てられた社交場。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼び当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在だったとのこと。建物は後に華族会館となり、1940年(昭和15年)には取り壊されたとのこと。
現在、跡地にはNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が立っているおり「鹿鳴館跡」のプレートがあるのみです。

日生劇場(にっせいげきじょう)は、日本生命日比谷ビルの中にある劇場で、現在の座席数は1,330。重厚な外観と幻想的な内装を持つ建物として知られています。建築家村野藤吾の代表作のひとつで、1963年に完成。
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日比谷ダイビル。
以前の第1号館はネオロマネスク様式で、7階壁面には「お面」のテラコッタが125個(鬼面104個、獣面21個)取り付けられていたとのこと。また壁面には大国貞蔵作の「女神像」及び「勇士像」の青銅像も飾られていたとのこと。第2号館はネオゴシック様式だったそうです。
第1号館・第2号館共に大阪商船関係の会社が入居していのです。また、二・二六事件の時は大阪ビルヂング東京支店の事務所に3日間鎮定部隊宿営幕僚本部がおかれたことも語り草。
もともと大阪ビルヂング(現ダイビル)では「東京分館」の建設用地としてここを購入し、1927年(昭和2年)に旧の第1号館、2号館が竣工したのです。
現在の建物は1989年(平成元年)のI期工事、1991年(平成3年)のII期工事を経て現在の建物になったようです。以前飾られていた鬼面や獣面が飾られておりとても珍しかったです。
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江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡
江戸時代、諸大名は江戸に藩邸を設けており、伊達政宗は江戸城に近い外桜田や愛宕下などに仙台藩の江戸屋敷を構えておりその後、幕末まで上屋敷として機能していたとのこと。ここは東京都の調査で伊達家屋敷跡の遺構群が御殿や庭園、舟入堀などとともに発見されています。また庭園は、仙台藩の御用絵師菊田伊洲による絵図「江戸藩邸芝口上屋敷庭園図」にあるように、複数の池や遣り水、橋脚、石積みなどからなっていたとのこと。
日本テレビの協力により説明板が. 上屋敷跡として本テレビ本社敷地内「ゼロスタ広場」に、また 表門跡として浜屋敷の表門では、元禄15(1702)年12月15日、本所吉良邸への討ち入り後主君浅野匠頭長矩の墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士たちを仙台藩士が呼び止め、粥を振舞ったとのお話も残っているのです。このときの米は糒(ほしいい、粳米を蒸して乾燥させたもの)で、軍糧として作られていたもので、仙台糒として特に製造所を定めていた藩の特産品でもあったようです。 
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日比谷神社
伊勢神宮外宮に祀られる神さま。五穀の主宰神として、稲荷神と並ぶ農業神。
日比谷神社は、古くは旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座。
1606年(慶長11年、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動。
次に1630年(寛永7年)、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へ改称したが神社の社号はそのまま。芝口の地に御鎮座して四百有余年。
1872年(明治5年)に村社になり、関東大震災での都市計画区割整理により愛宕下町二丁目に換地。こうして現在の新橋4丁目に日比谷神社の御社殿が造営。以降、新橋の鎮守様として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建。
平成21年に、都市道路計画(環状2号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造。
現在では新橋4丁目町会・新橋5丁目町会・汐留町会・新橋2丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋1丁目町会及び汐留シオサイト地区の氏神様として崇敬されているとのこと。
あちこち引っ越しを繰り返した神社ですが日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験あらたとなったことから旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えたのです。 新橋に遷った後に魚の鯖に変わり、鯖稲荷ともいわれました。また昔、虫歯虫封じに苦しむ人が御祈祷をうけると霊験があるとされて、鯖を食べることを断ち祈誓をかけると治ったそうです。それ以降、治った人々は鯖を奉納するといわれてきたのです。
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旧新橋停車場跡地は、1965年(昭和40年)5月12日に「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として保存。新橋駅0哩標識がありました。表には旧新橋停車場鉄道歴史展示室があります。
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1972年(明治5年)、日本の近代化の象徴ともいえる新橋と横浜を結ぶ鉄道が開業し「新橋停車場(新橋駅)」は、日本最初の鉄道の始発駅となったのです。1914年(大正3年)に東京駅が開業し新橋駅は日本最大の貨物駅「汐留駅」となり、1986年(昭和61年)に国鉄民営化に伴い廃止されるまで重要な貨物駅としてその役割を担っていたのです。
汐留地区の開発計画が進む中、遺蹟発掘調査により地中に駅舎の基礎である石積みと135mのホームが残されていることがわかるとともに、機関車方向転換用の転車台の基礎がイタリア広場で発見されたのです。
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芝大神宮は、伊勢神宮の天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしているとのこと。平安時代の1005年(寛弘2年)一条天皇の時代に創建された社。飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代には、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受けた。また江戸時代には、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々から崇敬されたのです。その後、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期の苦難も乗り越え現在の繁栄があるようです。
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1853年(嘉永6年)、ペリーが来航した年に薩摩本国から、島津斉彬の養女篤姫が13代将軍家定に輿入れするために江戸入り。篤姫はこの薩摩藩上屋敷に入り江戸暮らしを始めたのです。その後、1855年(安政2年)に安政の大地震が起こり、この屋敷が倒壊したため、渋谷の別邸に移ったようです。また、外様大名の女子が将軍正室となることに反対する声も多く、婚儀が行われたのは、翌年でしかも右大臣・近衛忠煕の養女になった後だったとのこと。ここには薩摩屋敷のことなど示されていました。
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西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑。
JR田町駅の三田口をでて第一京浜沿い行くと西郷南洲の孫西郷吉之助の筆による丸い碑があります。江戸城総攻撃を目前にした1868年(慶応4年)3月13日、14日の2日間、薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城が決められたのです。1日目は予備的会談で高輪の薩摩屋敷、2日目は最終会談ということでこの地にあった薩摩藩蔵屋敷で行われたと伝えられているのです。
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本日のツアーは朝日旅行の主催。各名所等の説明はNPO東京シティガイドクラブの方々。
ツアー参加21名に対し3名のガイド。なんと贅沢な!私のグループは何度かお目にかかったことのある落合さんで、思わず「お久しぶり!」とご挨拶。
山手線一周ウォークは過去にも行ったことがありますが案内人によりその都度、古くて新しい事実を知ることができ、改めてオモシロイ!と思いました。
本日は朝から曇り空、結果的にはほとんど雨に合わず、23℃とやや涼しく、17000歩を完了できたのは幸運でした。
posted by yunofumi at 23:39| あちこちウォーク

2016年09月19日

2016.9.16 旧中山道を行く第7回

北浦和駅〜大宮駅
JR北浦和駅⇒梅林堂⇒北浦和歩道橋・郭信寺・紅赤の発祥の地⇒一本松の仇討ち跡⇒六国見⇒Villas Des Mariagrs⇒埼玉県農業共済会館⇒どでん⇒高台橋跡⇒cocoon⇒武蔵野銀行⇒JRさいたま副都心駅⇒和食処銀蔵(昼食)⇒片倉工業葛L念植樹⇒Un Gfand Pas⇒これより氷川神社・一の鳥居⇒さいたま市大宮消防署氷川参道出張所⇒自家焙煎珈琲店南回帰線⇒スタアレコード⇒大宮小学校⇒久世造花工芸⇒二の鳥居⇒手焼きせんべい小林屋⇒氷川だんご⇒三の鳥居⇒楼門⇒拝殿⇒戦艦武蔵石碑⇒御宮宮善商店⇒東光寺⇒本陣跡旅籠屋次郎・すずらん通り⇒高島屋デパート⇒JR大宮駅東口


郭信寺(かくしんじ)。
御本尊は阿弥陀仏(あみだぶつ)(阿弥陀如来(あみだにょらい))。本日は付属の幼稚園の行事で見られませんでした。
開山は臺蓮社光誉上人満霊大和尚。開基は中村弥右衛門尉吉照(浦和領代官。開創は慶長14年(1609年)。
徳川家康の重臣だった高力河内守清長は、家康の江戸入城とともに、駿河の田中城から転じて岩槻城主(2万石)となり、あわせて足立郡浦和郷の1万石もまかされました。清長は、その家人中村弥右衛門尉吉照を浦和の大官に命じたことからこの地方の年貢は吉照によって直接江戸に納められるようになったのです。吉照は、主君清長の死後、その高恩に報い、その冥福を祈る意味で念仏堂を建て、その後新たに二代将軍秀忠の1609年(慶長14年)臺蓮社光誉上人満霊大和尚(檀林鴻巣勝願寺)を開山として廓信寺を建立したのでした。
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仁王門の手前に六地蔵がありました。
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郭信寺門前には「サツマイモの女王、紅赤の発祥地」の説明版がありました。
明治31年にこの傍に居住されていた山田いちさんが発見者。今に続くおいしいサツマイモなのです。
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一本松の仇討ち跡。
ここは1864年(文久4年)1月23日の朝、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、千葉周作門下の元・丸亀藩浪人・河西祐之助を父の仇として討ち、4年越しに本懐を遂げたという、「一本杉の仇討ち」の現場と伝えられる。 河西は乗り合わせた舟中で宮本の父と口論となり、その命を奪ってしまった者であったが、その後、僧となるために江戸へ下る途中であった。 河西を哀れんだ村人が供養の墓を廓信寺に建てたのが見られました。
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六国見(ろっこくみ)
与野駅を過ぎたあたりは、かつて小高い野原で、日光や秩父など諸国の山々が見渡せたので、「六国見」と呼ばれていたとのこと。現在は、新都心のビル群が立ち並び遠くの景色は見えませんでした。
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高台橋のそば大宮区北袋町1の歩道にお堂がありました。
高沼用水は見沼代用水の西縁(ここから西方へ約1Km)から取水する農業用水路。
お堂内には右に地蔵菩薩立像。寛政12(1800) 解説板によるとお女郎地蔵というそうです。
左に不動明王像坐像。天保6(1835) こちらは火の玉不動尊とのこと。
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さいたま新都心駅を潜っている高沼用水にあるのが高台橋。すぐそばには合同庁舎があり、  関東信越国税局、関東農政局、関東地方整備局などが入っています。
 
コクーンシティ (COCOON CITY) は、大宮区吉敷町にあるショッピングモール。コクーン1、コクーン2、コクーン3およびパークサイドビルの4棟でできており、さいたま新都心の大きな位置を占めている。片倉工業大宮製作所跡地の再開発地で、同社が施設の管理等を行っているようです。
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武蔵一宮氷川神社(大宮氷川神社)。
現在より2000年以上前第5代孝昭天皇のころに創立。
東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三神。境内は約3万坪と広い。
氷川神社の参道は中山道から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居、楼門まで南北に2km。両側のケヤキ並木が美しい。昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われていて「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていたとのことです。杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因があるようです。それ以前は松並木の時代もあったようです。現在の参道の樹勢状況は約650本の高木、そのうちケヤキが約65%、次ぎがスダジイ約10%、その他クスノキ、エノキ、サクラなど37種類の樹木だそうです。なお並木十八丁と歌われた通り、三の鳥居まで石柱で距離を確認できました。
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ちなみに初詣参拝者数ランキングでみると、@明治神宮319万人A伏見稲荷大社277万人B住吉大社260万人C鶴岡八幡宮251万人D熱田神宮235万人E大宮氷川神社205万人。びっくりです。

スタアレコード。
氷川参道を進むとマニアックな感じのレコード屋がありました。
本日は休業のようでしたが、講師の案内では珍しいレコードがあるとのことでした。
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手焼きせんべい小林屋。
次に見つけたのが氷川参道沿い、二の鳥居付近に、60年続く老舗『手焼き岩せんべい 小林屋』。手焼き岩せんべいがとくに人気で、遠方からも買いに来られる方や先代からのファンの方も多いとのこと。量り売りもあるようでした。
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氷川だんご。
ここは焼き団子が有名なお店。お客の顔を見て焼きたてをいただけるのがいいです。
酒まんじゅうもありました。
隠れた人気メニューは、信州の氷を取寄せて使っている夏季限定のふわふわ天然かき氷だそうです。
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神橋を渡った先に朱塗りの美しい楼門がありました。楼門を入ると空気が変わる感じでした。
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太平洋戦争中、フィリピン近海で沈んだ戦艦武蔵の顕彰碑。が2015年10月に宮氷川神社境内に建立された。戦艦武蔵が沈没したのは、1944年10月24日。それから71年たち元乗組員や遺族の悲願であった顕彰碑がようやく建てられたのです。武蔵乗組員の慰霊碑や顕彰碑は、これまでフィリピンのルソン島や前橋市に建てられている。しかし、戦没者全員を顕彰したものはいままでなかったのです。武蔵艦内には大宮氷川神社を分祀したという縁があり慰霊碑の場所になったようです。
またこの慰霊碑建立式典には武蔵の元乗組員や遺族のほか、2015年3月に沈没した武蔵を発見したヨット「オクトパス号」のヤニック・オルソン船長も参列されたとのことでした。
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東光寺は大本山永平寺(福井)と大本山総持寺(横浜)の流れを汲む、草創880余年の歴史を有するお寺とのこと。
『新編武蔵風土記稿』巻153にもとりあげられていて、中仙道を行き来する文人墨客が足を留めた所でもあるとのこと。漢学者の上山寿山、近代漫画の祖といわれる北沢楽天、大宮市発展の礎を築く駅の誘致に努めた白井助七などの墓碑も東光寺にあるとうかがいました。
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本陣跡旅籠屋次郎
大宮宿は武蔵国第一の宮である氷川神社(大いなる宮居といわれた)があるので大宮というのです。宿の規模は、浦和宿、上尾宿よりやや大きい宿場で、本陣1、脇本陣9、旅籠25あったとのこと。脇本陣9軒は中山道69次の中で最高の軒数。本陣ははじめは臼倉新右衛門がつとめ、次の文政期以降山崎喜左衛門がつとめたとのこと。
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現在高島屋が建っている場所は、大宮宿の草分け、寿能城家老北沢家の屋敷跡である。同家は紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣と兼ねたとのとこです。
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雨が降りそうでも持ちこたえてくれた日和、26℃とかなり楽なウォーキングでした。
参加者は17人、浦和ガイドの会の皆様が説明してくださいました」
10:30〜15:00、約15000歩はちょうどお手頃でした。
日ごろから馴染みのある大宮近辺ですが説明役が変わると案内場所も変わり、面白い。
中山道は69次、532km。とても京都まではいけないでしょうがまずはあまり先を考えず、ぼちぼち歩を進めるのみです。
posted by yunofumi at 00:01| あちこちウォーク

2016年09月16日

2016.9.15 第2回東京の新発見旅「千代田区」

JR東京駅丸の内北口⇒丸ビル⇒新丸ビル⇒メトロ大手町駅⇒大手門・これより皇居⇒三の丸尚蔵館⇒同心番所⇒百人番所⇒二の丸雑木林⇒菖蒲田⇒二の丸庭園⇒二の丸池⇒諏訪の茶屋⇒梅林坂⇒汐見坂⇒天守台・江戸城本丸御殿⇒桃華楽堂⇒北桔橋門(きたはねばしもん)⇒東御苑そば⇒みたけ橋⇒東京学生会館⇒北の丸公園⇒東京国立近代美術館工芸館⇒旧近衛師団司令部庁舎⇒国立公文書館⇒東京国立近代美術館⇒竹橋⇒毎日新聞社⇒パレスサイドビル⇒一ツ橋⇒一ツ橋河岸⇒一橋講堂・如水館⇒学術総合センター⇒東京大学発祥の地・学士会館(昼食)⇒日本野球発祥の地⇒小学館⇒神田すずらん通り商店街・神田神保町⇒神保町ラドリオ・ミロンガ⇒神保町シアター⇒三省堂神保町本店⇒漢陽楼⇒明治大学博物館・阿久悠記念館⇒杏雲堂病院⇒日本大学歯学部付属歯科病院⇒日本ハリスト正教会・ニコライ堂⇒紅梅坂⇒井上眼科病院⇒東京メトロ新御茶ノ水駅⇒一口太田姫神社⇒湯島大聖堂⇒昌平坂⇒天堅屋喫茶⇒神田神社⇒JR御茶ノ水駅

10:00東京駅に20名が集合。
やはり最初は1914年開業、辰野金吾設計の東京駅駅舎と改札を出た所のドーム天井を鑑賞。
2012年に復元工事のおかげで本当に美しい姿です。
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皇居へは大手門から入る。
昭和天皇の収集品や代々皇室に伝わる美術工芸品が収められているという三の丸尚蔵館は本日休館、残念。
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汐見坂から天守台の所に上がると海だったあたりの解説を伺い、昔の姿がしのばれました。

桃華楽堂は、音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう)の還暦記念として昭和41年に建設、完成た200名収容の音楽堂。「桃華」の由来は、香淳皇后の御誕生日が三月、桃の節句にちなんで桃、華の字形は十が六個と一で構成されていることから還暦(数え年61歳)を意味するということで命名されたとのことです。
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東京国立近代美術館は英略称はMOMAT。
最初は昭和27年に京橋に作られ、昭和44年にはブリヂストン創業者の石橋正二郎さん個人が、工学博士谷口吉郎の設計による建物を新築し「寄贈」したと紹介がありました。
美術館の本館、フィルムセンター(京橋本館・相模原分館)、工芸館があるようです。収蔵品は9000点超ということで駆け足でしたが作品をいくつか見ることができました。

東京大学発祥の地。
学士会館横に解説板がありました。
1877年(明治10年)に 神田錦町3丁目にあった東京開成学校と 神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し, 東京大学が創立されたとのこと。創立当所は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部。1885年(明治18年) までに学部や学科の再編などを繰り返し、明治18年までに本郷へ移転したとのことです。
学士会館。
 1877年(明治10)にできた東京大学の総理だった加藤弘之先生退任謝恩会を機にできたのが「学士会」。その後、現在の現在の国立七大学出身者の親睦と知識交流を目的とした場として発展。学士会に施設は何度も火災、関東大震災などを経て1928年にこの地に建設されたのです。2.26事件、東京大空襲、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の接収を経て1956年に返還されたとのことです。
初めて中まで入りレストランでの食事にもいただき歴史も味わいました。現在、レストラン、ホテル、結婚式などの利用もあり、また一般の利用者も多い様子でお昼時は賑やかな感じがしました。
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日本野球発祥の地。
学士会館のすぐそばにこの碑がありました。平成15年に行われた除幕式は、「野球の神様」といわれた元巨人軍川上哲治さんも出席されたとのことです。そもそもこの地が東京大学発祥の地であり、東大の前身開成学校が創設された場所で、1872年にアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が生徒達に野球を教えたからだそうです。そして1873年には校舎とともに立派な運動場が整備され、本格的な試合ができるまでになったとのこと。これが「日本の野球の始まり」なのです。ボールを握る右手をかたどった碑は ブロンズ製で、高さ2.4m。ボール上には世界地図が描かれ、日本と米国を縫い目によって結ぶことで「野球の国際化を表現」しているとのことでした。
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ラドリオ。
神保町は古本屋、作家、出版社などがある町。
ラドリオは神保町A7出口から「至福の小路」といわれる路地にある昭和24年創業の喫茶店。店名はスペイン語で「レンガ」という言葉。店内は静かで落ち着いた雰囲気で木製の調度品に囲まれた伝統的な英国のパブのようだとのこと。
珈琲に生クリームをのせた「ウィンナー・コーヒー」を日本で初めて提供したお店だそうです。
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ミロンガ・ヌォーバではタンゴのライブ・コンサートも行われており、炭火焙煎珈琲、ミロンガピザ、ケーキ、そして世界のビールが時間帯によっては飲めるというお店とのこと。
一度は立ち寄りたいおすすめの所。
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漢陽楼は、創業1911年。近くに明治大学があったことも現在に続くということでしょうか、中国の留学生たちがお世話になった老舗 中華料理店。孫文や周恩来、魯迅などなどにはふるさとの味はうれしかったでしょうね。
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明治大学博物館は、2004年(平成16年)に開館。
それ以前の戦前に学生教育のために資料を集めていたことからはじまった様子です。
現在は新築された生涯教育棟アカデミーコモン地下にあり、法律の刑事関係、伝統的工芸品、考古学資料など30万点もの多くの資料がありました。
また阿久悠記念館もありました。
こちらもまたゆっくり伺いたい施設でした。
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日本ハリスト正教会日本ハリストス正教会の聖堂は正しくは東京復活大聖堂というとのこと。1891年(明治24)年に建立され当時からニコライ堂とよばれ、煉瓦造の建築。十字架はスラヴ系正教会で使われているという「八端十字(はったんじゅうじ)」。初めて拝見しました。
中央には約38mのドームがあり、尖塔状の鐘楼がついていること、現在の建物は関東大震災後,昭和4年に修復されたものと説明をうかがいました。
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井上眼科病院は1881年に創立し、135周年を迎えた有名眼科病院。
「眼の総合病院の確立」を目指していると、もうウン十年前、母がお世話になったときに伺いました。

一口太田姫神社。
神田駿河台東側の一口坂(いもあらいさか)がもともとの社地だったとのこと。
1931年(昭和6年)に、お茶の水〜両国駅間の総武線建設のため、社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定され、一切の建築物をそのまま移転したとのことでした。聖橋の反対側には湯島大聖堂がある場所で現在、古い椋の御神木だけが残っていて、そこに元宮木札、神札、“太田姫神社”の由緒書き、さらに「ご自由にお持ち下さい」と書いてある半透明なボックスがあり、中には、“太田姫一口稲荷 風邪咳封治御守”が括り付けてありました。
本家本元の“太田姫一口稲荷“は神田駿河台1-2とのことでしたからまたの機会にお参りします。
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湯島大聖堂(ゆしませいどう)は、聖橋の反対側なので文京区。まずは目の前にあるので見に行きました。
江戸時代の1690年(元禄3年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟。のちには幕府直轄の学問所となった所。「日本の学校教育発祥の地」の掲示は見つけられませんでした。年中、合格祈願ということで訪れる方は多いようです。
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天堅屋(天野屋)は、神田神社の前に1846年(弘化3年)に創業。
ここでは全く化学添加物の無い、米と糀だけで作る、伝統的製法で作った甘酒があるようです。甘酒は暑い時は冷やして、寒いときは暖めて、一年中楽しめる健康飲料です。
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神田神社(神田明神)。
神田はもともと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称されたとのこと。神田祭は有名。
神田・日本橋(日本橋川以北)・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。
現社殿は昭和9年権現つくりの鉄筋コンクリート、総漆朱塗でとても綺麗。
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境内にあった大きな大黒様像。
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波間よりイルカや亀に守られている少彦名命像(恵比須様)。
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本日の千代田区めぐりは何度も見て歩いている所でしたが上野先生の説明が詳しいこと、はじめて中まで入ったニコライ堂や湯島大聖堂など知ることができて、楽しかったです。
参加者20名、10:00〜15:00のウォーキングは曇天、22℃、雨にも合わずこの季節にしてはラクラクと約16000歩。元気に帰宅しました。
この「東京の新発見旅」は東京23区すべてをめぐります。この9月に開始したばかりで月2としたのが良い経験となりましたので今後もこの調子で頑張ることにいたします。
posted by yunofumi at 23:42| あちこちウォーク

2016年09月12日

2016.9.10 ノルディックウォーキング参加

本日は友人から教えていただいたイベントに参加。
アウトドアフィットネスTOKYO EAST PARK大島小松川公園での開催。
インストラクターの青木さんは真っ黒に日焼けしスリムな青年。
本日の参加は浦和で顔なじみの3人が集いました。
大島小松川公園は都営の公園で素晴らしい環境で荒川に沿って公園が整備されてました。
自宅から都営地下鉄新宿線東大島(ひがしおじま)駅までは1時間10分。
まずは公園のサービスセンターで受け付け。
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桜大橋の姿が美しい。
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坂井橋(さかさいばし)の脇には坂井の渡し跡の石碑がありました。
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約1時間のノルディックウォーキングでしたがしっかり気持ちの良い汗もかき、適度の運動になりました。
公園内の風景も素晴らしいこと、ロッカーやシャワーもあり、何かとうれしい環境でした。
また参加したいと思いました。
そうそう、「亀戸あさくさ古道」の案内図もいただきました。また後日、探検し
posted by yunofumi at 06:43| あちこちウォーク

2016年09月11日

2016.9.6 第1回東京の新発見旅「台東区」

地下鉄千代田線根津駅千駄木方面出口⇒言問通り⇒根津1丁目交差点⇒Pain de Mie Cafe ⇒根津2丁目⇒手焼きせんべい大黒屋⇒谷中1丁目⇒天眼禅寺⇒玉林寺・横綱千代の富士像⇒信行寺⇒妙情寺⇒上聖寺⇒佛心寺⇒妙泉寺⇒妙福寺⇒本妙院・谷中4丁目⇒日本美術院⇒延壽寺・日荷堂⇒蓮華寺⇒宗善寺⇒大名時計博物館⇒旅館澤の屋・谷中2丁目⇒大圓寺⇒谷中小学校⇒日乃本帆布⇒指人形笑吉・谷中3丁目⇒下谷警察署初音交番⇒三崎坂⇒全生庵⇒三崎坂上バス停⇒興禅寺⇒安立寺・下村観山墓⇒養傳寺⇒加納院⇒朝倉彫塑館⇒延命院⇒夕焼けだんだん⇒トルコ料理店ザクロ(昼食)⇒本授寺⇒ひみつ堂⇒岡倉天心記念公園⇒長明寺⇒七面坂⇒菓招庵かみくら⇒本行寺・御殿坂⇒谷中霊園⇒天王寺⇒天王寺五重塔跡⇒下谷警察署天王寺駐在所⇒徳川慶喜墓⇒御隠殿坂⇒Patissier INAMURA SHOZO⇒浄名院⇒寛永寺・寛永寺幼稚園⇒上野中学校⇒社会教育実践研究センター⇒国際こども図書館⇒黒田記念館⇒国立西洋美術館⇒上野動物園⇒JR上野駅公園口


本日より東京23区めぐりを開始。
10:00集合の根津駅でびっくり!
講師の上野先生は若い!TDは伊藤さん!東海道五十三次でお世話になった方!お久しぶり、ということで楽しく出発。
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玉林寺。
本堂のそばには横綱千代の富士像がありました。
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千代の富士はほんの少し前の本年7月31日に亡くなりました。
北海道松前郡福島町出身で58代横綱。現役当時はウルフといわれ、小さな横綱でとても人気がありました。本名が秋元 貢(あきもと みつぐ)さんでお墓もありました。
玉林寺の開山は吉祥寺5世用山元照和尚で1591年(天正19年)に創建。
本堂の裏側には古木の椎木がありました。
幹周6.5m、樹高16.8m、樹齢は約700年とのこと。
玉林寺が創建から約400年ということはその前からここに生えていた木ということです。都天然記念物で幹周りは23区内で2番目とのことでした。
ちなみに都一番はすぐそばの大雄寺のクスノキだとのことでした。

全生庵(ぜんしょうあん)
ここは山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した所。そして亡くなられた方々との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所もありました。
ちなみにこちらのお寺には円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が保存されているとのことでした。
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日本美術院は、東京美術学校長の職を退いた岡倉天心が、大学の上に大学院があるように、美術学校においても美術院の設置が必要と考え、明治31年7月、橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと創設した研究団体。
また谷中初音町に研究所を建設し、ここは現在、岡倉天心記念公園として岡倉天心旧宅趾・日本美術院発祥之地碑、六角堂があり、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されていました。
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大正2年9月、岡倉天心逝去後、横山大観を中心に、谷中上三崎南町に研究所を建設し(現在、公益財団法人日本美術院の場所)、日本美術院を再興。現在は春の院展などレベルの高い展覧会が開催されているとのことです。またここの歴代代表として横山大観、安田靫彦、奥村土牛、小倉遊亀、平山郁夫などの著名な画家の名前が見受けられます。平成26年には再興100周年とのことで特別展もあったようです。

安立寺(あんりゅうじ)。
ここは、京都本法寺鶴林院日養が、自身の隠居寺として寛永7年(1630)に創建したとのこと。
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裏の墓所には下村観山の墓がありました。
彼は明治から昭和初期にかけての画家。東京美術学校卒業後、同校助教授となり岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍したとのことです。

朝倉彫塑館(あさくらちょうそかん)は明治 - 昭和の彫刻・彫塑家であった朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館。
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鉄筋コンクリート作りの旧アトリエ部分と、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部分があり、その和洋折衷の建築は朝倉文夫本人が自ら設計したとのことです。
展示は彫塑作品を展示する旧アトリエ部分、遺品や蔵書を納めた書斎、コレクション品を収めた応接室等、掛軸、陶磁器などがありました。
また中庭は日本庭園で池は谷中の湧水を利用しているとのこと。また日本で最初の屋上緑化で花壇もあるようでした。

夕焼けだんだん。
東京都荒川区西日暮里三丁目にあり、日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂(階段)で御殿坂の延長線上にあたる。階段の傾斜は15度で緩やかであり、高低差は4mで36段でした。幅は4.4mあり、長さは15m。階段上から谷中銀座を見下ろす風景が雑誌などで紹介され有名とまり、夕焼けの絶景スポットということです。階段の下には「谷中銀座」のゲートがありました。
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ちなみに谷中銀座はレトロな町並みで全長175m・幅員5〜6m、70店舗が両側にひしめいて商いをしていました。安価なコロッケなど、ぶらり食べ歩きによさそうな雰囲気でした。

トルコ料理店ザクロ。
谷中銀座ゲートそばにあるイラン・トルコ・ウズベキスタン料理のお店。
机ではなく、絨毯の上に板と座布団を置いただけのスペースで食事。
1000円の幸せランチということでどんどんお料理が出てきました。特に食べられないものはなくおなかはいっぱいになりました。
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店頭にはいろいろな雑貨。天井にはトルコランプがいっぱい。トルコランプを作る教室もやっているようです。

谷中霊園。
今は都立霊園。江戸時代はそばにある天王寺の寺域であったのが、1874年(明治7年)青山、雑司が谷(ぞうしがや)、染井(そめい)とともに市民の共同墓地として開園したとのこと。面積約10万3000u。サクラ並木の中央参道を囲んできちんと区画割がなされており約6500基の墓碑があるそうです。今回は渋沢栄一、佐佐木信綱(のぶつな)、鳩山(はとやま)一郎、横山大観、獅子文六(ししぶんろく)、宮城道雄ら著名人の墓も目にしました。

寛永寺。
寛永寺は、1625年(寛永2年)慈眼大師天海大僧正に創建されたとのこと。
敷地が広大で春の桜が有名。徳川家康、秀忠、家光公の三代の将軍から信頼されていた天海大僧正が、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願して、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立したのが大切に語り継がれています。
このことは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈ったことにならったとのことです。
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国際こども図書館は、児童書専門の国立国会図書館の支部図書館。
2000年に日本初の児童書に関わる文献の収集・保存・提供をしている国立図書館。
建物は、1906年建設の旧帝国図書館庁舎ということでとても立派。いつでも見学を兼ねて入れるとのことでした。
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黒田記念館は、洋画家黒田清輝(1866-1924)の遺言で建てられ、1928年(昭和3年)に竣工、2年後に帝国美術院附属美術研究所として開所したとのこと。館内に黒田清輝の油彩画約130点、デッサン約170点、写生帖などを所蔵しているようです。
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黒田清輝といえば夫人を描いた「湖畔」が有名。本日は展示されておらず、10月に公開とのお知らせがありました。ということでまた伺いましょう。

国立西洋美術館は大正から昭和にかけて川崎造船所の松方幸次郎がヨーロッパ各地で集めた絵画、彫刻等(松方コレクション)を収蔵するために作られた施設。1959(昭和34)年4月に発足。
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松方コレクションは戦争後フランスに所有されていたのをサンフランシスコ平和条約調印の時、吉田茂の尽力により現在ここにあるとのことでした。
本館は1959年ル・コルビュジエ設計、新館は1979年前川國男設計で建築されました。
2016年7月17日、ユネスコ第40回世界遺産委員会は、フランス政府が日本を含む7か国と共同で推薦していた「ル・コルビュジエの建築作品」につき、世界文化遺産への登録を決定したのです。この時の構成資産は、国立西洋美術館を含む7か国17作品で、正式名称は「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」とのことでした。
国立西洋美術館が日本に残した唯一のル・コルビュジエ建築作品だったこと、ル・コルビュジエが提唱した近代建築の五原則を具体的に表現していること、「無限発展美術館」の思想を体現していること、日本における近代建築運動に大きく貢献したこと、が評価されたということでした。
このように国境をまたいだ世界遺産(トランス・バウンダリー・サイト)としては日本では初登録、大陸をまたいだ世界遺産(トランス・コンチネンタル・サイト)としては世界で初登録とのことでよく情報をみるとこの登録に至るまでの年月の長さに関係した方々の苦労がしのばれます。

本日は大名時計博物館が休館だったので代わりに国立西洋美術館の常設展をはじめて鑑賞しました。モネの「スイレン」が素晴らしかったです。
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本日は晴天、気温34℃、ペットボトル3本を空けながらも約15000歩は無事終了。
台東区は何度も見て歩いていますが新発見もあり、結構楽しめました。
今回の記事は知っていたところなどは省略しました。
東京は空襲にあっているのですがまだまだ昔を偲ぶ場所も多くあります。
今後も都内を巡り、それなりに新発見を期待しながら参加していくことにいたします。
posted by yunofumi at 00:06| あちこちウォーク