2017年03月12日

2017.3.11 高尾山6回目

京王線高尾山口駅⇒清滝駅ケーブルカー→高尾山駅⇒山門(四天王門)⇒薬王院⇒ケーブルカー高尾山駅→清滝駅⇒京王線高尾山口駅

今朝目覚めると晴天!日中は気温12℃くらいになるとのことで、いつもは必死になっての“上り下り”なのですが、今日はお散歩気分で高尾山へお出かけしました。結果的には相変わらずの混雑ぶりでした、、、。
ケーブルカーは満員、一度に135人が乗車可能、約6分間の乗車。山頂よりの駅そばは傾斜31度8分という日本一の急こう配。最後尾の座席にいたのでこの急こう配を実感しました。
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お茶屋さんや猿園・野草園を横目に見た後、次のたこ杉に到着。
相変わらずの人気で記念撮影している方が多かったです。
この辺りで椿の花を楽しみました。
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浄心門、神変堂もゆっくり鑑賞。
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そしてめったに上らない108段の男坂に挑戦。
これはちょっと一気上りはできず、途中、休みながらでした。
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それからは俳句や和歌が刻まれている石碑が多くあり、よくよく見て回り、最後には北原白秋の歌碑を見ました。
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ようやく山門を入り天狗さんにご挨拶。
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それからふっと方丈で精進料理を出すはず、と思いつき、のぞいてみようと歩き出した時、なんとバッタリ、Iさん、Sさんに遭遇。
いやー奇遇!
お二人はMBTの仲間、そして山登りではベテラン。ということでしばし合流。
薬王院お詣り後は下りの道中では花を教えていただき、スミレも見つけました。こんなに小さく可憐で、一人では見落としていましたね。
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完全に下山してTAKAO599MUSEUMでお茶をし、ガールズトークをたっぷり満喫。
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その後、私はトリックアート美術館鑑賞と氷川神社へお参り。
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いずれも高尾山口駅から見えており、かねてより気にかかっていた場所です。
そしてお土産はすごい名前のお菓子。
帰宅した後いただいてみるとついつい手が伸びて、、、。食べすぎました。
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そんなこんなで気ままな気分で一日過ごしました。感謝!感謝!!
posted by yunofumi at 21:48| あちこちウォーク

2017年03月05日

2017.3.4 OUT DOOR FITNESSイベント

亀戸あさくさ古道巡りノルディックウォーキング

都立大島小松川公園⇒逆井の渡し跡⇒亀戸浅間神社・亀戸の富士塚⇒中川新橋⇒旧中川水辺公園⇒亀戸中央公園・亀戸スポーツセンター⇒丸八通り⇒亀戸水神駅⇒亀戸水神宮⇒亀戸梅屋敷⇒亀戸4丁目交差点⇒亀戸香取神社・亀戸大根之碑⇒十間橋⇒東京スカイツリー

都立小松川公園は、江東地区の防災市街地再開発事業で設置された公園。江東デルタ地域の東端に位置し、平常時はレクリエーションの場と して利用、災害時には避難広場となるはずの所です。普段は運動施設を中心としたスポーツ広場、季節の広場、風の広場、わんさか広場があります。公園の真ん中を旧中川が流れ、もみじ大橋やさくら大橋があり、今日は気持ちの良いそよ風が吹いていました。
この中川筋には「平井の渡し」「逆井の渡し」「中川の渡し」の三つの渡船場があったとのことです。そばの逆井橋は平成11年(1999)の架橋のもの。現在ここには逆井の渡し跡と石碑がありました。
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亀戸浅間神社は亀戸の住人甘露寺元長が大永7年(1527)に創建したとのこと。霊峰富士山の守護神で木花咲耶比売(コノハナサクヤヒメ)が祭られています。平成29年は、室町時代 大永7年(1527)に鎮座してから490年とのことです。本殿は安政2年(1855)の江戸大地震、大正12年(1923)の関東大震災で被災。現在の本殿は昭和初年に建立され、平成10年(1998)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動したようです。
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傍には今風の亀戸の富士塚がありました。
参加者全員集合で記念撮影をしました。
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旧中川水辺公園は旧中川が、「江東内部河川整備計画」で約40年かけた河川改修工事により整備された河川敷が今の「旧中川水辺公園」となって平成23年に開園したとのことです。
サクラ、アジサイなどお花見にはとてもよさそう!!
今日の目的地の東京スカイツリーが次第に大きく見え、とても素敵な景色でした。春にはまた伺いたいものです。
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都立亀戸中央公園はA・B・Cの3地区にわかれた大きな。A地区には中央広場に時計塔があり中央広場は春にはさサクラのお花見客で賑わいようです。 B地区には夏休み中には人工の池で水遊び。 C地区は運動広場として、サッカー、テニスなどができるようです。 またここにはサザンカが50種4、000本ほどあるので冬はきれいな花を楽しめそうです。
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亀戸水神宮の創建は古く、各種の文献を総合すると室町幕府十二代将軍足利義晴の治世の頃(1521〜1546)と推定されているようです。土民が水害から免れん為の祈願とし、大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神。この神宮の付近には鈴 木姓、田中姓の方が多く、何れも土着の古い農家の流れをくむ方達の様で亀戸の中でも特に歴史が古い地区だそうです。昭和20年のの大空襲の被害に遭いましたが昭和35年に再建されたとのことです。
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亀戸梅屋敷はもともと江戸時代の呉服商・伊勢屋(いせや)彦右衛門(ひこうえもん)の別荘「清香庵(せいきょうあん)」があった所で庭には見事な梅の木々多くあったようです。今は梅の庭園、江戸切子、寄席、お土産など楽しめる施設となっているようです。

亀戸香取神社は、藤原鎌足が東国下向の時に勧請したとか、応安4年(1371)鎮座などと伝えられています。境内には亀戸七福神の大国神、恵比寿神、天祖神社、大国神と恵比寿神が興した井戸、大根の碑があり、またスポーツ振興の神として知られています。
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北十間川と南十間川が交差しているあたりにある十間橋からの東京スカイツリーは川面に移る姿と共にとても綺麗でした。
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今朝9:00に都立大島小松川公園を出発しストレッチやトレーニングした後、ウォーキング開始。途中の神社などで説明も伺い12:00頃東京スカイツリー7に到着。晴天で約13℃、ほぼ無風で佳いコンディションのウォーキングイベントでした。何より参加者8名にインストラクター2名体制は大変ありがたかったです。
解散後、Uさんと東京ソラマチうまやの楽屋で昼食。私は三代目猿之助の楽屋めしをいただきました。程よい味と量で大満足。
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ようやくノルディックウォーキングの良さを実感しだした今日この頃です。
posted by yunofumi at 22:39| あちこちウォーク

2017年03月04日

2017.2.25 MBTウォーキング日光街道

千間台〜春日部宿
東武スカイツリー線千間台駅⇒戸井橋⇒歓喜院⇒称名寺⇒志村酒店⇒蔵出し味噌田所商店⇒東八幡神社⇒古利根川・大落古利根川⇒春日部駅→藤の牛島駅⇒お菓子の家SWAN⇒広島流お好み焼き七夜

今日はMBTシューズの仲間で街道ウォーキング。
元々、浦和の調神社傍になったお店のお客仲間です。
日光街道は江戸時代の五街道のひとつです。すでに私は一度完歩したコース。
江戸から宇都宮を経て日光に至る街道で千住(せんじゅ)から宇都宮までは奥州街道も兼ねています。仲間は既に日本橋から数度に分けて本日の千間台あたりまで到着していたのです。いつの間にか!ということで30kmは終了していた次第です。
さて本日は晴天、朝は0℃あたりの感じでしたが昼近くには10℃越を実感。
ということで仲間が集合。
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お久しぶりの挨拶が交わされました。
季節は確実にめぐっており、道中では桜も見物!
ホンにいい日和!
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古利根川に出ると向こうに古利根川橋が見えました。
埼玉県鳥シラコバトをデザインした風見鶏に、麦わら帽子をイメージしたアーチが中程にあり、光と風をテーマにした全長79mの橋上公園となっており、市制30周年記念事業として昭和59年に建設されたとのことでした。
春日部市は麦わら帽子、押絵羽子板、桐箪笥、桐箱などが特産だったことも思い出しました。
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春日部市の住人だった臼井儀人の代表作のマンガ「クレヨンしんちゃん」は有名で街中にこのような看板がありました。生意気でいたずら好きな幼稚園児が巻き起こす騒動を描く漫画は多くの人々を楽しませたのです。
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春日部駅で本日の歩程約6kmを終了。春日部から一駅の藤の牛島にMBT仲間の方がいるとのことでそこまでお出かけ。SWANというお菓子屋さんでした。
このお店はアレルギーのある子供たちに配慮したお菓子作りをしているとのことでかなり遠方からも顧客が見えるそうです。伺った時も混雑していました。絶品のプリンに皆で舌づつみを打ちました。
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そして駅前の七夜で広島焼お好み焼きを久しぶりに頂き満足して帰宅しました。
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今後も楽しみながらのウォーキングを心がけます。
posted by yunofumi at 22:21| あちこちウォーク

2017年02月08日

2017.2.4 第13回東京の新発見旅 「荒川区」後半

前半の記録に続き、後半の記録です。

漢江(ハンガン)(昼食)⇒日暮里中央通り交差点⇒日暮里中央通り⇒ホテルラングウッド⇒善性寺⇒隼人稲荷神社⇒羽二重団子⇒いも坂⇒谷中霊園⇒安立寺⇒天王寺⇒御殿坂⇒本行寺⇒経王寺⇒諏訪台通り⇒啓運寺⇒諏訪台ひろば館⇒富士見坂⇒浄光寺⇒諏方神社⇒太平洋美術会⇒荒川区立第一日暮里小学校さくら門・高村光太郎正直親切の碑⇒西日暮里公園・道灌山⇒西日暮里駅

東京荒川区の日暮里駅から延びる日暮里中央通り(バス通り)は80店以上の生地や皮、ドレス、洋裁関係など色々な店が集まっているという全国でも珍しい繊維街エリアです。
秋葉原といえば電気街、繊維といえば、ここ日暮里中央通り、通称バス通りというそうです。
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善性寺は、1487年(長亨元年)尊重院日嘉を開山として創建したとのこと。1664年(寛文4年)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、徳川将軍家ゆかりのお寺となっています。また境内には安土桃山時代の作と言われる不二大黒天像、相撲の双葉山や政治家・石橋湛山のお墓もありました。
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羽二重団子は文政2年、初代庄五郎が、音無川のほとり芋坂のこの場所に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を出したのが始まりとのこと。このお団子が、きめ細かく羽二重のようだといわれたことで菓名ともども商号も「羽二重団子」としたようです。現在創業以来六代目、180年の歴史を刻んでいるとのことでした。
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羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上とのことで形は丸めて扁たく串にさし、昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類を求め帰宅後いただきましたがお茶によく合いました。
また夏目漱石や正岡子規、司馬遼太郎といった文豪たちの作品の中にたびたび登場していると伺いました。店内にも古い資料が置いてありました。
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夏目漱石の「我が輩は猫である」に登場するのがいも坂と羽二重団子。
緩やかな長い坂でした。
私たちは羽二重団子からいも坂を経て日暮里駅に向かいました。日暮里駅そばは東京スカイツリーのビューポイントでした。
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啓運寺は、円住院日立聖人が開山で1644年(元和元年)下谷1丁目に創建。その後下谷2丁目、そして現在地に明治18年に移転したとのことです。木造毘沙門天像がお堂の中にかすかに見受けられました。
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坂の下の北側にその昔、花見寺といわれた妙隆寺(みょうりゅうじ)があったことからこの坂も花見坂(富士見坂)とよばれたとのこと。ほんの少し前まで見事な富士山が見えたそうです。
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浄光寺境内からの雪見が有名で雪見寺と呼ばれていたようです。境内左手には1691年(元禄4年)に空無上人が勧請した地蔵菩薩像、1809年(文化6年)に再建した地蔵菩薩立像、江戸六地蔵、そして福神漬け発明者野田清右衛門の碑がありました。
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福神漬けの起こりは、1885年(明治18年)、東京上野の漬物屋「山田屋」(現在の酒悦)が、福神漬け始まりの地で当時の店主・野田清右衛門が10年の歳月をかけ、福神漬けを開発したとのことです。
当時の食品業界を「アッ!」と言わせた野田清右衛門は表彰され、その記念でこの碑が建立されたとのことでした。

諏方神社、1202年(元久2年)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したことがはじまり。江戸期には1649年(慶安2年)には日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守となったのです。日暮の里<ひぐらしの里>として江戸有数の景勝地として有名だったようです。神社のある諏訪台は、筑波山や日光の山々が見晴らせる眺めの良い景勝地で文人墨客や風流人がよく集った所とのこと。境内社としては末廣稲荷神社、銭降稲荷神社、三宝荒神社、三峰神社がみられました。
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荒川区立第一日暮里小学校校門前のフクロウの像と石碑。
創立百周年の際に造られたもので、石碑『正直親切』は卒業生の高村光太郎直筆。
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西日暮里公園・道灌山。
ここはかって太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にした舟繁松があり荒川(隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地で道灌山として多くの人が訪れたとのことです。花見寺のひとつ青雲寺の境内の一部で金毘羅社もあった様子。明治7年に加賀前田家の墓所となったようですがその後、昭和47年に墓所は加賀に移り、現在の公園となったそうです。園内には高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどが行われたことを示す案内がありました。
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冬真っ最中の気温11℃、でも陽ざしは温かく、ウォーキングに最適でした。おかげで17名が信野先生の講釈を楽しく伺い、16000歩を闊歩。またこのシリーズでは珍しく都電に乗り、とても愉快でした。そうそう、昼食の韓国料理はおいしくいただきました。
今後も何が体験できるかと楽しみです。
posted by yunofumi at 23:09| あちこちウォーク

2017年02月05日

2017.2.4 第13回東京の新発見旅 「荒川区」前半

今日も盛り沢山の内容!!
ということでまずは午前の部の記録です。

JR南千住駅⇒松尾芭蕉像⇒常磐線南千住通り架道橋⇒延命寺⇒小塚原回向院⇒栗本商店・コツ通り⇒日光街道⇒素盞雄神社(すさのうじんじゃ)⇒誓願寺⇒千住大橋⇒熊野神社⇒天王公園⇒荒川ふるさと文化館・瑞光小学校跡⇒円通寺⇒浄閑寺⇒三ノ輪橋⇒常磐線通り新町ガード⇒南千住商友会⇒三ノ輪橋商店街・都電荒川線入口⇒三ノ輪駅停留場→荒川2丁目停留場⇒三河島水再生センター⇒荒川自然公園⇒荒川区がん予防・健康づくりセンター⇒荒川区役所⇒荒川公園⇒荒川郵便局⇒荒川警察署⇒中野酸工梶ヒ荒川仲町通り商店街⇒荒川区立生涯学習センター⇒尾竹橋通り⇒三河島駅前交差点⇒JR三河島駅⇒常磐線第一三河島ガード⇒親交睦商店街⇒漢江(ハンガン)(昼食)

松尾芭蕉像。
奥の細道矢立初めの地である荒川区では、平成27年に、松尾芭蕉の業績顕彰を図り「奥の細道サミット」を開催しました。そしてこれを記念して南千住駅西口ロータリーに松尾芭蕉像を建立したのです。
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延命寺は昭和57年に小塚原回向院から分院独立して開山。首切り地蔵(延命地蔵尊)が祀られています。首切り地蔵は、小塚原刑場の刑死者の菩提をとむらうために寛保元年(1741)に造立されたとのことです。
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小塚原回向院。
小塚原刑場は、江戸時代に大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた所。明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と伺いました。
小塚原刑場での死体はぞんざいに扱われていたため回向院の住職が、刑死者を供養するため創建したのが現在の小塚原回向院なのです。
裏手には井伊直弼の“安政の大獄”で処刑された人たち、「吉田松陰」、開国派だった「橋本左内」、幕末期の儒学者「頼三樹三郎」などの墓所がありました。また“悪役4人組”といわれる『鼠小僧次郎吉』、『片岡直次郎』、『高橋お伝』、『腕の喜三郎』のお墓も。
回向院の壁には、前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑がありました。“ターヘル・アナトミア”の人体解剖図を検証するため、腑分けをしたことで人体の中を実際に見られたのです。
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南千住駅から千住大橋に向かう商店街は「コツ通り」と呼ばれているとのこと。由来は中世以来の地名「小塚原(こつかっぱら)」の略。途中に栗本商店と書かれた建物がありました。これは東京漫才発祥の地・演芸場栗友亭跡だそうです。すぐそばを日光街道が通っていました。

素盞雄神社(すさのうじんじゃ)は地元では天王様と呼ばれているとのことです。
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南千住、三ノ輪、三河島、町屋などの区域の総鎮守で、旧郷社。例祭「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをする事で知られているようです。境内にはその様子を示す沢山の写真が飾られていました。
素盞雄大神(すさのおおおかみ)と飛鳥大神(あすかおおかみ)がご祭神。社殿は合体してできていました。

熊野神社は、源義家が永承5年(1050)勧請したと伝えられているようです。北千住と南千住を結ぶ大橋を架けた1594年(文禄3年)伊奈備前守がこの神社に成就祈願したことから橋の架け替えは祈願と社殿修理をすることが慣例のようです。
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天王公園
千住大橋のほど近く、江戸時代に下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉主計昌照の屋敷、「米倉屋敷」とも呼ばれた跡地の公園。桜やけやきなどの樹木、中央あたりにどっしりとした大きな岩から水が流れ落ちる大滝、アスレチック遊具などそろっている大きな公園でした。

荒川ふるさと文化館は平成10年に開館の荒川に関する考古・歴史・民俗資料を展示公開していました。
荒川ふるさと文化館の前に瑞光小学校跡の案内板を見つけました。
「瑞光小」の名前の由来は、明治20年の創立当時学校敷地があった素盞雄神社にある「瑞光石」からとられたとのこと。瑞光石のようにかがやく人「人瑞」になれという願いがこめられているようでした。

円通寺。
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ご本尊は聖観音菩薩で791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝わっているようです。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行ったことから、火葬を行った場所近くの上野寛永寺の総門(黒門)がここに移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓が傍にずらりとありました。

浄閑寺は吉原遊廓の近くにあったことから、遊女の投げ込み寺といわれたとのこと。これは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡したのでこの寺に投げ込んで葬ったことによるのでした。山門前には小夜衣供養地蔵尊がありました。「悪い部分を撫でると良くなる」と言い伝えがあるとのことで私も頭などを撫でました。
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三ノ輪橋商店街・都電荒川線入口と表示があり、そこから商店街を抜けると都電が止まっていました。
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今日はウォーキングツアーですが特別に三ノ輪駅から荒川2丁目まで乗車。停留所間が短いことや一番前での景色を楽しみました。それにしても乗客が多いことに驚きました。

荒川自然公園は三河島水再生センターの施設の上に新たに人工地盤を造ってそのスペースに造られた公園。1974年開園で、面積は約6万m2で荒川区立公園の中ではもっとも面積が広いとのこと。公園には3ブロックあり、人工的な池と樹木などが多い南側地区、野球場やテニスコートなどがある中央地区、子供が交通ルールを学ぶ交通園などがある北側地区となっています。また三河島水再生センターは日本で最初の本格的な下水処理場だそうです。
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荒川区役所の正面玄関の東南に荒川公園がありました。春は人気のお花見スポットとのことです。本日はもう桜の開花が見られました。
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荒川仲町通り商店街はかつて「小さなアメ横」と言われた所。全長500mほどの細い路地に、精肉店や鮮魚店、洋品店など、昔ながらの個人商店が並び、平日でも買い物客が多く訪れるようで、街並みの散策をしました。
そして腹ペコとなった私たちは漢江(ハンガン)に行き着き、ようやく昼食となりました。
ではこの続きはまた後日!!お楽しみに!!
posted by yunofumi at 23:21| あちこちウォーク

2017年01月31日

2017.1.25 第12回東京の新発見旅 「中央区」後半

草庵(昼食)⇒地下鉄月島駅⇒佃公園⇒佃小橋⇒つり船折本⇒住吉神社⇒佃島渡船場跡⇒つくだに天安・佃源田中屋・丸久⇒石川島公園・灯台・住吉小橋⇒中央大橋⇒一等水準点交無号⇒越前堀の間知石⇒南高橋⇒築地警察署湊交番⇒鉄砲洲稲荷神社⇒中央小学校北交差点⇒新富1丁目⇒新金橋⇒首都高速京橋入口⇒京橋ウラザ⇒新京橋交差点⇒京橋親柱⇒築地警察署銀座1丁目交番⇒警察博物館⇒京橋大根河岸青物市場蹟⇒常盤橋⇒江戸歌舞伎禄之地⇒京橋3丁目⇒銀座線京橋駅⇒東京国立近代美術館⇒地下鉄室町駅⇒ニコスコーヒーショップ⇒西日本シティ銀行⇒歌川広重住居跡・京橋1丁目9⇒吉野鮨本店⇒日本橋高島屋⇒MARUZEN⇒日本橋2丁目交差点⇒地下鉄日本橋駅⇒東京日本橋タワー⇒COREDO日本橋⇒日本橋交差点⇒日本橋長崎館⇒八重洲1丁目交差点⇒交通銀行⇒呉服橋交差点⇒一石橋・一石橋迷子しらせ石標⇒地下鉄三越前駅⇒日本銀行本店⇒貨幣博物館⇒地下鉄

佃公園は隅田川沿いの佃大橋と中央大橋の間にある公園で地下鉄有楽町線月島駅の北、旧石川島播磨重工業跡地に開発された「リバーシティ21」の北側、隅田川に面して細長く広がる区立公園で約2万uの広さ。

1590年(天正18年)、徳川家康が関東下降の際、関西の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになったこの島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建されたのです。
境内の鳥居には有栖川宮幟仁親王の筆による珍しい陶製の扁額が見えました。
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住吉神社の神輿は関東では珍しい八角形で、「八角神輿」と呼ばれています。しまわれている神輿を見ることができました。
佃島渡船場跡そばには佃煮御三家といわれる「天安」「佃源田中屋」「丸久」がありました。
お味はそれぞれとのことで店先をのぞき見しました。

石川島公園は晴海運河、隅田川沿いの区立公園で1990年(平成2年)4月に開設したとのことです。
中央大橋から相生橋の先までの細長い公園で大川端リバーシティ21の一部。“石川島”は佃二丁目の江戸時代からの旧名で、この地を領した石川家の名に由来し、この地に設立された造船所を起源とするIHIの旧社名「石川島播磨重工業」と同様の命名とのことです。
復元された灯台も素敵でした。
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中央大橋から見るスカイツリーはなかなかきれいでした。
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一等水準点交無号
中央大橋北詰(中央区新川側)の西側で道路から階段を降りて川の方に行くとこの水準点と説明板がありました。平成18年からここにあり、日本の高さの基準(標高0m)になっているそうです。
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鉄砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は平安時代の承和8年4月15日(ユリウス暦841年5月9日)、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことが始まりとのこと。江戸の水路網の入り口に位置することから、全国からの船乗りの崇敬を集めた。1790年(寛政2年)には富士塚が築造され、人気を博したようです。
安政期に歌川広重が描いた『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」には朱塗りの壁と社殿が見えます。
1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害を蒙ったが、1935年(昭和10年)以降本殿や神楽殿が再興され、現在の形が整いました。1945年(昭和20年)の東京大空襲では被害を免れ、昭和初期の神社の形式を今に伝えています。
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京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、1959年(昭和34年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、1875年(明治8年)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎばし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
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築地警察署銀座1丁目交番
交番の屋根は、京橋のたもとにあった「ガス灯」の頭部を生かして大正11年に竣工され、昔の面影を残しています。
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警察博物館
警察博物館は、警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している博物館で築地警察署銀座1丁目交番の真向かいにありました。本日はリニューアルで休館中でした。

銀座と京橋の間の首都高速の下に、京橋大根河岸青物市場跡の石碑がありました。
1664年(寛文4年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えたのです。 冬になると10本まとめにした沢山の大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたとのことです。
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江戸歌舞伎禄之地の碑
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)、京都から下ってきた猿若勘三郎が中橋南地に、猿若座の櫓をあげたのが始まりとのことです。猿若勘三郎は後に名前を変えて中村勘三郎となり、座の名前も中村座としたのです。
これが江戸歌舞伎の始まりです。
この碑は、猿若座が興業を開始したのを記念して1957年(昭和32年)に建立されたのです。
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東京国立近代美術館フィルムセンターは、1952年(昭和27年)に設置された国立近代美術館の映画部門として開設、1970年(昭和45年)には機能を拡充する形でフィルムセンターとして開館されたのです。1995年(平成7年)には建物をリニューアルされ、まだまだとても綺麗でした。
年間スケジュールがあり過去の名画がみられるそうです。
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ニコスコーヒーショップ
京橋にある昭和12年(1937年)創業の老舗コーヒー店。外観は昭和の雰囲気ただよう普通の喫茶店でした。昭和27年には「宮内庁ご用達」に指定された由緒あるお店だそうです。
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「歌川広重住居跡」は、ブリヂストン美術館の南側にありました。
「歌川広重」は「安藤広重」の名前で知られていますが浮世絵師としての正式な名前は「歌川広重」とのことです。
ここは、浮世絵師歌川広重が、1849年(嘉永2年)から 1858年(安政5年)に 61歳で亡くなるまでの約十年間を過ごした住居跡だそうです。今は案内板のみでした。

一石橋・一石橋迷子しらせ石標
 江戸時代の日本橋〜一石橋界隈は盛り場で、迷子や尋ね人が多かったようです。当時迷子は町内が責任を持つことになっており、1857年(安政4 年)近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました。
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正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「志(し)らす類(る)方」と刻まれています。両側の上部に方形の窪みがあり、左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪みに貼りました。いわば江戸庶民の告知板でした。湯島天神(現存) や浅草寺(復元)、両国橋等、往来の多い場所に同様のものがあったとのことです。
一石橋の北に金座支配・後藤庄三郎、南に呉服町頭取・後藤縫殿助の屋敷があり、後藤(五斗)を二つ足して一石橋の名が付いたといわれています。

日本銀行本店
本店の建物は、旧館(本館、2号館、3号館)、新館、分館と3つの部分で構成されています
ちなみに本館は石積みレンガ造で花崗岩貼り。設計は辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考に1896年(明治29年)に竣工したとのこと。

貨幣博物館は、日本銀行金融研究所内の2階フロアにある博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館したとのことです。館内には古代から現在に至るまでの「日本の貨幣史」、世界の貨幣・紙幣を紹介する「さまざまな貨幣」、および「テーマ展示コーナー」がありました。発掘された貨幣や、軍票、記念硬貨などが順路毎に約4000点展示、また、1億円分の紙幣の重さを体験出来るコーナーはオモシロイと思いました。
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今日は強風の中でしたが元気に21名が約20000歩のウォーキングを終了。気温11℃とのことでしたがもっと寒いと感じました。愛宕神社は3回目でしたが本日はお詣りの方が多く、社務所も開いており、華やかな印象でした。また青山墓地は色々話題を耳にしていましたがあまりに広大なこと、有名人の墓所も多いことを再認識しました。
またこの東京新発見の旅では東京は広く、戦争などを体験したのに随分古い建物などが大切に保存されていることに改めて感心しております。
また次回からも楽しみです。
posted by yunofumi at 21:43| あちこちウォーク

2017年01月27日

2017.1.25 第12回東京の新発見旅「中央区」前半

本日のウォーキングは盛り沢山の内容だったためまずは午前の部を記録いたします。
朝10:00歌舞伎座前に集合。建物が新しくなっているので最初は中の見物からはじまりました。

地下鉄東銀座駅⇒歌舞伎座⇒築地川銀座公園⇒東劇⇒万年橋東交差点⇒京橋郵便局⇒うりきり家⇒築地場外市場⇒波除稲荷神社⇒圓正寺⇒築地4丁目交差点⇒築地本願寺⇒築地川公園⇒築地居留地⇒聖路加国際大学・芥川龍之介生誕の地・旧浅野内匠頭邸跡・トイスラー記念館⇒カトリック築地教会・暁星学園発祥の地⇒クレストンホテル⇒アメリカ行使館跡⇒中央区立明石町区民館⇒明石町河岸公園⇒治作・運上所跡⇒明石町ポンプ所⇒電信創業之地⇒月島4の渡し跡⇒築地7丁目バス停⇒中央区立はとば公園⇒勝鬨の渡し跡⇒勝鬨橋⇒プラザ勝どき⇒都営勝どき1丁目アパート⇒西仲橋⇒西仲通り⇒月島西仲通り四番街⇒月島西仲通り三番街⇒月島開運観音堂⇒月島警察署⇒西仲通地域安全センター⇒月島西仲通り二番街⇒月島西仲通り一番街⇒草庵(昼食)

歌舞伎座の開場は明治22年(1889年)。その後4度の改築を経て現在のように出来上がったのは第5期。100年以上歌舞伎を上演し続けており、数々の名優が舞台に立った名実ともに代表的な歌舞伎の劇場です。座席数は約2000席弱、改築後、座席の幅が広くなり、バリアフリーも取り入れられたとのこと。
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「歌舞伎座タワー」が併設され、屋上には庭園がありました。
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また5階に「歌舞伎座ギャラリー」もありました。
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築地市場は、都内に11ある東京都中央卸売市場のうち最も古い歴史を持つ、水産物、青果物を取り扱う総合市場。特に、水産物は世界でも最大の取り扱い量だそうです。
場内では、主に競りや卸売り用の生鮮食品などの販売が行われ、競りでは、売り手(卸売業者)が買い手(仲卸業者など)に海で獲れた魚などを売買しているのです。
築地市場の場外は、一般の人が買い物や食事が楽しめるような場所です。場内と比べ、店舗数が多く、飲食店も広くスペースがある店舗が多く見られました。お客さんは外人さんも多いようでした。
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波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)の御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)。明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事はとても難航したようです。しかしその頃、光を放ち漂う御神体が見つかり、1659年(万治2年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、以降厄除けの神様として信仰を集めることとなったとの話を伺いました。
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築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で京都にある西本願寺の直轄寺院です。住職は門主の大谷光淳氏。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。もともとは江戸時代(1617年)に、西本願寺の別院として横山町に建立され「江戸海岸御坊」などと呼ばれていたようです。その後明暦の大火で本堂を焼失。さらにその後、江戸幕府の区画整理で八丁堀沖の海上が割り当てられたため佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立ててこの築地の土地を築き、1679年に本堂などを再建し「築地御坊」と呼ばれたのです。1923年9月の関東大震災では火災により再び伽藍を焼失したのでした。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとした建物は、東京帝国大学伊東忠太教授の設計。当時は珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられています。浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月)に伴い、正式名が「築地本願寺」になり、今、この築地本願寺は全国唯一の直轄寺院なのです。
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築地居留地は1868年(明治元年)から1899年、外人の内地雑居許可までの期間,東京築地明石町にあった外国人居留地のこと。
居留地は,そこだけ外国人の居住・営業を許し,治外法権を認めた特別地域で東京の中の外国という扱い。この間に教会やミッション・スクール等が開設されたり、近くに外国人専用ホテルができるなど,居留地周辺は独特の開化風俗がただよい,錦絵の題材ともなったのです。今は案内板が設置されているだけでした。
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聖路加国際大学(英語: St. Luke's International University)は、1964年に設置された日本聖公会系のキリスト教主義ミッションスクール。大学名は「ルカ福音書」の聖ルカ(St. Lukes)に由来しているとのこと。私立大学として日本で初めて看護学部を設置、さらに日本で初めて看護の大学院博士後期課程を設置するなど、設立当初から日本の看護界のリーダーと指導的人材を多数育成してきた有名大学です。
聖路加国際大学の敷地にトイスラー記念館がありました。ここは1933年(昭和8年)に聖路加国際病院の宣教師館として建設されたとのことです。設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィ。建物は、鉄筋コンクリート造一部木造の2階建てで、ヨーロッパの山荘のような重厚な風格がありました。
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聖路加看護大学の西側の道路脇には播州赤穂藩浅野家の上屋敷があったことを示す「都旧跡 浅野内匠頭神邸跡」と記された石柱がありました。
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松の廊下の刃傷事件の後、この屋敷は幕府に没収されたのです。四十七士が討ち入りをした後、泉岳寺へ引き上げる途中で、この上屋敷の近くを通ったことは有名な話です。  
中央区教育員会発行の「中央区沿革図集」に掲載されている延宝7年(1673)の「江戸方角安見図鑑」では、現在の聖路加看護大学と聖路加国際病院の敷地全体が、浅野又一と書かれているとのこと。浅野又一とは浅野内匠頭のことです。 

芥川龍之介生誕の地の案内板が聖路加国際大学の敷地脇(明石町10)にありました。
1883年(明治16年)頃、この付近には「耕牧舎」という乳牛の牧場があり、ここで芥川龍之介は、明治25年にその経営者新原敏三の長男として生まれたのです。龍之介は誕生後七ヶ月で母の長兄芥川道章に引き取られ、本所区小泉町に移り、12歳の時、芥川家の養子になったのです。東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺し、昭和2年35歳で自害したのです。
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カトリック築地教会は、キリスト教(カトリック)の教会と聖堂。教会堂名は「聖ヨゼフ」とのこと。1869年(明治2年)築地鉄砲洲が外国人居留地となった。このころキリスト教は禁教だったので、1866年(慶応元年)から横浜に滞在していたパリ外国宣教会の宣教師ジャン・マリエ・マランが、1871年(明治4年)、京橋区八丁堀鉄砲洲の稲荷橋付近に商家を借り、語学塾を開いたのです。そして1873年(明治6年)、キリシタン禁制がでたことでパリ外国宣教会は行動を開始。1874年(明治7年)、マランは日本政府より築地居留地の一部を借り、翌月より聖堂建設に着手し、1874年11月東京で最初のカトリック教会として築地教会の献堂式が行われ、東京以北の宣教の中心地となったとのことです。現在の聖堂は、当時の東京大司教ジャン・ピエール・レイの要望で古代ギリシャのドーリア式神殿を忠実に模して木造モルタル造にて建設されているのです。
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旧聖堂時代の石膏の聖ペトロ像は、震災の被害を免れて現在も安置されているとのことでした。本日は中には立ち入らなかったのでみられませんでした。
すぐ傍に「暁星学園発祥の地」の碑がありました。

料亭治作の門前に「運上所跡」の石碑があり、その下には「東京税関発祥の地」とありました。
鎖国が廃止後1859年(安政6年)長崎・横浜・函館に運上所が開設し、外交や運上の事務を扱ったとのことです。江戸の運上所は1868年(慶応3年)にここ築地鉄砲洲に設けられたのです。「税関」という役所名は 1872年((明治5)年から。 関東地方では 最初に横浜に設置されました。戦後 1953年(昭和28年)に 「横浜税関東京税関支署」が廃止され, 新たに「東京税関」に生まれ変わったのです。
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電信創業之地。
明石町・あかつき公園の向かい側,公団住宅の植え込みの中に この碑が建っていました。
明治2年9月19日(太陽暦10月23日) 横浜裁判所と 東京築地 運上所内に設けられた 「電信機役所」を結ぶ 約32kmの電信線架設工事が開始され, その年12月25日に業務が開始されたとのこと。これが, 日本における 公衆電気通信の最初だったのです。
この記念碑は, 先駆者の業績を後世に伝えるため, 昭和15年に建立され, 昭和53年, 南南東約40mの地点から この場所に移設されたとのことでした。
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「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない1892年(明治25年)、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、明石町14)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことがこの渡しの始まり。
1901年(明治34年)、月島への交通の重要性を考慮し東京市が市営化を決め、1902年(明治35年)、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となったのです。以後、月島は東京の臨海工業地帯として発展したので、1911年(明治44年)には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船も行われていたとのこと。
そして、昭和15年(1940年)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されたのでした。
今は案内板のみでした。

勝鬨橋(かちどきばし)は、隅田川に架かる橋で晴海通りの道路が通っており、1940年6月14日に完成しています。
日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)ですが、1980年に機械部への送電を取り止め、可動部もロックされ、今も跳開することはありません。

当時、陸運よりも水運を優先するということでさせるべく、3,000トン級の船舶が航行するするために可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航が可能となったのです。
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橋を渡り切ると「勝鬨橋とかちどき橋の資料館」がありました。

1905年(明治38年)、築地と、月島を結ぶ渡し舟である「勝鬨の渡し」が設置されました。月島の埋め立てにより石川島造船所の工場などが多く完成したことで多数の交通需要により、1929年(昭和4年)架橋が実現したのです。
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月島の勝どき地区と西仲通り方面を結ぶ橋が「西仲橋」。
西仲通りに入るともんじゃ焼きのお店がずらりと並ぶ月島西仲通り四番街、月島西仲通り三番街を抜けると温泉があり、その1階に月島開運観音堂がありました。
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昭和26年に長野県善光寺の別院として建立され、平成13年9月、再開発事業完成のときに、現在の場所に設置されたそうです。お参りすると「いつの間にか運が開けあらゆる念願が成就する」と言われているようです。

草庵(昼食)は月島の日本料理店です。もんじゃの提供はありませんでしたがとてもおいしくいただきました。これでようやく本日の午前の部は終了したのです。
では続きはまた次回にアップします。お楽しみに!!
posted by yunofumi at 23:32| あちこちウォーク

2017年01月24日

2017.1.21 第11回 東京の新発見旅「港区」

東京メトロ銀座線外苑前駅⇒梅窓院⇒旧赤坂青山南町案内板⇒港区立青山公園⇒龍泉寺⇒青山霊園⇒南青山陸橋⇒桂由美ブライダルハウス東京本店⇒旧乃木邸⇒乃木神社⇒正松神社⇒乃木坂⇒成長の家いのちの樹林⇒東京ミッドタウン⇒檜坂⇒赤坂氷川神社⇒転坂⇒勝海舟邸跡⇒日大三中・三高跡地⇒アオザイ(昼食)⇒メトロ千代田線赤坂駅⇒国際新赤坂ビル⇒ダンディハウス⇒勝海舟・坂本龍馬の師弟像・港区立赤坂子ども中高生プラザ⇒赤坂教会⇒南部坂⇒アメリカ大使館⇒JTビル⇒虎の門病院⇒虎の門2丁目西交差点⇒築地虎ノ門トンネル・虎ノ門ヒルズ⇒真福寺⇒愛宕神社⇒TOKYO REI HOTEL⇒NHK放送博物館⇒青松寺⇒御成門⇒御成門駅⇒増上寺⇒JR浜松町駅

梅窓院
外苑前駅1b出口のすぐそばにありました。
1643年(寛永20年)徳川家康公以来の家臣、老中青山大蔵少輔幸成公が逝去の時、 青山公の下屋敷内に13,247坪の地を画して側室を 大檀越として建立されたとのこと。
現在の梅窓院は約3000坪ということです。
山門に向かい見事な竹林です。孟宗金明竹(もうそうきんめいちく)というそうで節と節の間に緑色が鮮やかに見えました。
また寺院棟は近代的な高層ビル。墓地は広く効率よく作られており、有名人のお墓がたくさんありました。
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港区立青山公園は、青山霊園の周縁にあり、赤坂御用地や明治神宮外苑側にある北地区と新国立美術館や六本木ヒルズ側にある南地区に分かれているとのこと。
開園は昭和45年で旧陸軍の射撃場跡地と引揚者住宅跡地を整備してできたようです。
青山霊園は1872年(明治5年)、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主だった青山家の下屋敷だった所。1926年(大正15年)、斎場の建物などのすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となったとのことです。
現在は東京都の所管。霊園は、桜並木の名所。明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くありました。維新の三傑である大久保利通、細井和喜蔵の『女工哀史』の印税で建てられた「解放運動無名戦士墓」も存在、忠犬ハチ公の墓も見受けられました。附属立山墓地には、永田鉄山、木村兵太郎、相楽総三なども眠っていました。
霊園内には外人墓地もありました。
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桂由美ブライダルハウス東京本店はブライダルファッションのトータルショップ。花嫁の夢、希望に合った最高のドレスを 用意できるといわれているようです。
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旧乃木邸は乃木希典が住んでいた邸宅でこの建物は乃木が留学中に見たフランス連隊本部を参考に設計したもので、明治35年に改築されたとのことです。
邸内は入り口横の階段を上がり通路に沿って見ることができました。奥のほうに乃木夫妻が殉死した部屋がありました。夫妻が亡くなった場所に木札が置かれていました。
邸内入口横にレンガ造りの厩もがありました。旅順開城後にステッセルから贈られた愛馬「壽号」の厩舎だったとのことです。
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乃木神社
東京市長が同志を集めて中央乃木会を組織し、乃木邸内に夫妻の御霊を祀ったことが始まり。昭和20年の空襲で本殿などが焼失しましたが、昭和37年に復興したそうです。千代田線乃木坂駅のすぐ近くにあります。神社境内の展示室(写真右側の建物)には、乃木の書幅や自刃の際に使用した刀が展示されています
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乃木神社の境内には正松神社(せいしょうじんじゃ)がありました。ここには玉木文之進と吉田松陰が祀られています。乃木希典は吉田松陰を追慕し、16歳の時、松陰の叔父であり、松下村塾の創始者である玉木文之進の門に入り薫陶を受けたようです。吉田松陰を深く敬い玉木から教育を受けこれが乃木大将の人格形成に大きな影響を与えたということで、乃木神社戦災復興の際、萩の松陰神社から二柱の分霊を請い受け摂政社として境内に鎮守されたのです。

東京ミッドタウンは2007年3月30日、六本木に開業。ホテル(ザ・リッツ・カールトン東京)、文化施設(サントリー美術館など)、130に及ぶ商業店舗、オフィス、住居、病院、公園などが集約された複合施設。
ここは、江戸時代は萩藩の毛利家下屋敷だった所。明治時代には陸軍駐屯地、終戦後には米軍将校の宿舎、日本に返還された後は防衛庁の檜町庁舎と、実400年の間、一般には閉ざされた土地として使われていたのです。そして2000年、防衛庁本庁が檜町から市ヶ谷に移転したことから、この街の新しい都市計画が始まり、広大な緑を臨む港区立檜町公園を含めた再開発事業をはじめ、2001年9月、コンソーシアム6社がこの土地を落札。民間都市再生の事業認定を受け、現在にいたったようです。

赤坂氷川神社は昔の赤坂区第1の鎮守社。石段のそばの左右2基の石灯籠は享保9年のもの。鳥居は花崗石。拝殿は、銅瓦葺。拝殿、本殿とも中をよく見られませんでしたがHPを見るとかなり立派なようでした。
現社地は、忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人 瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれているところ。「雪の別れ」で有名な「南部坂」が近くにあります。
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勝海舟邸跡 
幕臣・勝海舟の旧宅跡。勝海舟は、1859年(安政6年)から1868年(明治元年)までこの地で過ごしたとのこと。今は案内の表示のみでした。
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旧港区立氷川小学校跡地、現在の港区立赤坂子ども中高生プラザに勝海舟・坂本龍馬の師弟像がありました。
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勝海舟(1823〜1899年)は幕末に江戸城の無血開城に尽力し江戸のまちを戦火から救った方です。またそばには弟子の坂本龍馬(1836〜1867年)も一緒に立っていました。銅像建設には多くの地元の方々が尽力したとのことでした。

東京都は2014年に「マッカーサー道路」の通称で知られる都市計画道路環状2号線のうち、港区内の新橋―虎ノ門間の供用を開始。延長約1.4kmの区間は、「新虎通り」の愛称が付く幅員40m(歩道部を含む)の地上部と、幅員24mで自動車専用の「築地虎ノ門トンネル」に分かれているとのことでした。 
築地虎ノ門トンネルは延長約0.9kmで、森ビルが2014年開業の虎ノ門ヒルズの地下を貫通しています。
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真福寺は、1591年(天正19年)中興照海上人が出府して鉄砲洲に庵室を構え、1605年(慶長10年)に愛宕下の地所を拝領して開創したといいます。
長い歴史の中で度重なる火災や震災などにより堂宇も焼失、その後再建された本堂や庫裡も老朽化し、平成7年4月に近代的な「真福寺・愛宕東洋ビル」として再生されたのです。
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愛宕神社は1603年、慶長8年、徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。
ここには傾斜約37度、86段の出世の階段があります。これは寛永11年、江戸三代将軍、家光公が愛宕山に源平の梅が満開だったのを見て 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられ、それにこたえて、四国丸亀藩の家臣だった曲垣平九郎(まがき・へいくろう)が成し遂げというお話がありそれ以後出世の階段といわれているのです。
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どうやら今でも途中休むことなく階段を上るとご利益がありそうです。

NHK放送博物館
1925年(大正14年)東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が発せられ当時はJOAKといっていたようです。そしてこの年の7月、この愛宕山で本放送が始まり、このことから愛宕山を“放送のふるさと”といっているとのことでした。
NHK放送博物館は、1956年に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、“放送のふるさと”愛宕山に開館しました。
日本の放送が始まってから90余年、放送は、ラジオからテレビへ、さらに衛星放送、ハイビジョン、デジタル放送へ。8K画面はとてもきれいでした。
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青松寺(せいしょうじ)は江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建したようです。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転した。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されていた。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用されたとのことです。
境内に「獅子窟学寮」があり1875年(明治8年)には、曹洞宗大学林専門本校を開校。翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展した由緒ある場所です。

御成門。
近くの虎ノ門が江戸城の外郭門(がいかくもんに対し、御成門は実は芝増上寺の北方馬場にあった裏門の別称だそうです。
増上寺は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣(さんけい)する際にこの裏門がもっぱら用いられましたので、御成門と呼ばれるようになったようです。もともと御成門交差点にあったのですが、1892年(明治25年)東京市区改正計画で日比谷通りの道路が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転して現存されているのです。ちなみに虎ノ門は1873年((明治 6年)撤去されたと伺いました。
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増上寺
増上寺は、1393年(明徳4年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれたとのこと。
徳川将軍家との深いゆかりがある増上寺は、江戸時代には日本有数の大寺院へと発展してきました。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所があります。また墓所には各公の正室と側室の墓も設けられています。また家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮様も含まれています。現存の徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。
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港区は坂の多い街でした。ここでは見かけた四つの坂を紹介します。
「乃木坂」は港区の赤坂8丁目と9丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂。江戸時代には幽霊坂とか行合坂、膝折坂などともいわれたようです。
「檜坂(ひのきざか)」は港区赤坂6丁目と同9丁目の間、檜町公園の北脇を北西から南東に上る坂道。江戸時代には、檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸に添う坂であったとのことです。
「転坂(ころびざか)」は赤坂6丁目5番、6丁目9番の間にある坂。江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだためにこのように呼んだそうです。
「南部坂(なんぶざか)」は赤坂2丁目と六本木2丁目の境界にある坂道。坂のそばに南部屋敷があったことからこのように呼ばれたようです。

今日は強風の中でしたが元気に21名が約20000歩のウォーキングを終了。気温11℃とのことでしたがもっと寒いと感じました。愛宕神社は3回目でしたが本日はお詣りの方が多く、社務所も開いており、華やかな印象でした。また青山墓地は色々話題を耳にしていましたがあまりに広大なこと、有名人の墓所も多いことで、改めて東京!を感じました。今後も楽しくウォーキングを目指します。
posted by yunofumi at 21:46| あちこちウォーク

2017年01月15日

2017.1.15 ポールウォーキング代々木公園

昨年閉店した浦和のMBTウォーキングスタジオですが、相変わらずMBTシューズを愛用している仲間で時々ウォーキングをしています。
本日は何度目かの代々木公園でのポールウォーキングです。
9:00集合で今年一番の冷え込みは−2℃。6人の懐かしい顔が揃い、早速ストレッチ後ポールウォーキング。
公園内は霜柱、そして池には氷が張っていました。
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公園内の様子は冬真っ只中!
このような時期は駅伝が盛んなようです。園内では渋谷区民駅伝大会が開催中。中学生らしい元気な方々を頼もしく思いました。
寒さが厳しくても風がほとんどなく陽ざし十分で、とても気持ちよくウォーキングできたので皆、大満足。
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きっと日中も天気予報通りで5℃以上にはなりそうにありません。やはり冬真っ盛り。
本日は大学センター試験2日目、裏日本などは大雪とのこと。
今年も色々あるでしょうが元気で過ごしたいと強く思いました。

posted by yunofumi at 17:11| あちこちウォーク

2017年01月09日

2017.1.9 鎌倉散歩−鶴岡八幡宮

鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒神苑ぼたん庭園⇒鎌倉和総菜近藤⇒鎌倉駅

年明けにNHKテレビで鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園の見事な牡丹が咲いているとの情報が流れました。
さすがに三が日ではとっても混雑だろう思い、今朝空模様を気にしながら家を出発しました。
約2時間後、鎌倉駅にはほぼ昼頃の到着となりました。早速参道を進んでお詣り。
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次に神苑ぼたん庭園に伺いました。
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ここは昭和55年に鶴岡八幡宮創建800年記念で開園されたとのこと。
色々な植物がしっかり根付き、とても見ごたえがありました。

その後鎌倉駅そばで見つけた鎌倉和総菜近藤で健康的なお食事をいただき、帰宅しました。
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鎌倉が湘南新宿ラインで池袋に一本となっており、本当に楽々の道のりです。
道中EVやエスカレーターを使わず、歩け歩けで動き回り目標の1万歩達成で満足できた一日でした。
本日、これでお正月気分は終わり。明日からまた日々元気に頑張ります。
posted by yunofumi at 21:57| あちこちウォーク

2017年01月04日

2017.1.3 高尾山5回目

京王線高尾山口駅⇒清滝駅⇒稲荷山コース⇒旭稲荷⇒山頂⇒山門(四天王門)⇒仁王門⇒大法堂⇒薬王院⇒エコーリフト→清滝駅→京王線高尾山口駅→高尾駅

今日は暖かく下界は14℃、山頂は11℃くらい。
お正月早々ですがMBT仲間にお願いして私を含め3人で登山。

電車で高尾山口駅に向かうときも白雪で輝く富士山を堪能。
上り始めてまずは旭稲荷で記念撮影。
前回に比べ恰好だけはばっちりの山ガールです。
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山頂手前には約200段の階段があり、これが最後の難関なのです。
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ようやく着いた山頂で3人でまず記念撮影。
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そして山頂では少し霞がかった富士山ですが見晴らし台から、くっきりばっちり仰ぎ見ました。
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それにしてもすごい混雑ぶり。恐るべし!高尾山!です。新宿や渋谷に勝るとも劣らずの混雑ぶり!!事故防止のためにお巡りさんも加わり、境内は一方通行。こんなことがお山であるなんて!とびっくりでした。
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その後、体力的にいっぱいいっぱいの私はリフトで下山。整理券が発行され、30分待ちで乗り、やっと下山。清滝駅に着くと徒歩で下山した2人とバッタリ一緒になりました。
そして定番の高尾駅前の「たまの里」で鍋焼きうどんをいただき元気回復の後、解散。
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それにしても稲荷山コース3.1km、道幅は広く、ありがたいコースですがこの不慣れで体力不足はまだまだスタコラとはいきません。まあこの年での登山ですから!とあまり気にしない!気にしない!
まずは今後も懲りずに挑戦することを新年の抱負のひとつに掲げます。
ヤレヤレと言いつつ、満足!満足!無事下山を喜んでいます。皆さんありがとう。
posted by yunofumi at 21:46| あちこちウォーク

2017.1.2 川越七福神めぐり

今日はお正月らしく、小江戸とよばれる川越の七福神めぐりをしました。

東武東上線川越駅⇒@妙善寺⇒米穀港町屋商店⇒菅原神社⇒朝日生命⇒川越駅入口(東)交差点⇒サイクルパーク⇒久茂登⇒金子園芸⇒A天然寺⇒川越第一中学校⇒光西寺⇒中院⇒川越総合高校⇒仙波東照宮⇒B喜多院⇒C成田山⇒熊野神社⇒D蓮馨寺⇒蔵造りの街並み⇒時の鐘⇒ライトニングカフェ⇒札の辻交差点⇒E見立寺⇒F妙昌寺⇒東武東上線川越市駅

@妙善寺(毘沙門天)
創建は1626年(寛永3年)。その後火災で焼失したが昭和末に再建。本殿にご本尊の不動明王と共に木造の毘沙門天が祀られていました。門前には川越さつまいも地蔵尊もありました。
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A天然寺(寿老人)
創建は1554年(天文23年)。ご本尊は無病息災の大日如来。ここの寿老人は昔、彦根智教寺にあったといわれています。
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B喜多院(大黒天)
平安時代よりある古くて有名な寺院で歴史としては1200年以上。1638年(寛永15年)徳川家光により、家光誕生の間や春日局の化粧の間を移築再建された。境内はお正月でごった返し、お詣りするために山門前から並んでいました。おかげで五百羅漢やだるま市をゆっくり見る時間も無くなってしまいました。
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大黒天は本堂とは別のお堂に祀られていました。

C成田山(恵比寿天)
本山は成田山新勝寺。ご本尊は不動明王。
本堂右手前のお堂に恵比寿天とともに大黒天も祀られていました。
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D蓮馨寺(れんけいじ)(福禄寿神)
北条時代の川越城将の大道寺正繁が母のために建立した寺。
触ってなでると病気が治る「おびんつる様」と共に福禄寿神が祭られていました・
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E見立寺(けんりゅうじ)(布袋尊)
札の辻から川に向かい石原橋の手前左折でようやく見つけました。
現在の本堂は1881年(明治14年)に再建されたもの。本堂とは別のお堂に布袋尊が祀られていました。
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F妙昌寺(弁財天)
大本山は池上本門寺。1375年(永和元年)開創。城下町の整備で現在地に移転。
本堂とは別に経ヶ嶋弁財天のお堂に祀られていました。
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天候は快晴、気温13℃、歩き回っていると少し汗ばむくらいでした。
お正月、真っ只中!ということで人出が多く、親子、夫婦での七福神めぐりの姿も多く見受けました。ガイドブックでは歩行時間約100分、約6kmをたよりにウォーキングしました。しかし実際にはライトニングカフェでの休憩1時間,、道に迷ったことも含め約4時間、17000歩は予想外でした。主たる原因はすべてのお寺が混んでいてお詣りするのが大変だったこと。本当にびっくりしたのです。
でもどうにか七福神めぐりの色紙は完成です。
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ライトニングカフェでのキッシュはおいしかったです。またゆっくりランチで伺います。
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はじめて七福神めぐりをしましたがこれはなかなか面白い!
新たな発見です。またあちらこちらで試みることにいたします。
基本は元気にウォーキングです。
posted by yunofumi at 11:57| あちこちウォーク

2016年12月17日

2016.12.15 第10回東京の新発見旅「渋谷区」

〜信濃町〜明治神宮〜代々木八幡神社〜代官山〜

JR信濃町駅⇒明治神宮外苑・聖徳記念絵画館・なんじゃもんじゃ・お鷹の松⇒国立競技場工事中⇒法雲山仙壽院・お萬の方墓⇒瑞圓寺・庚申塔⇒観音坂⇒将棋会館⇒鳩の森八幡宮・千駄ヶ谷富士塚・将棋堂⇒千駄ヶ谷4丁目児童遊園地⇒国立能楽堂⇒千駄ヶ谷4丁目交差点⇒北参道交差点⇒山手線(18)裏参道ガード⇒明治神宮⇒東京乗馬倶楽部⇒参宮橋⇒代々木倶楽部⇒国立オリンピック記念青少年総合センター⇒代々木公園参宮橋門⇒春の小川歌碑・代々木5丁目⇒代々木八幡宮・石器時代住居⇒代々木八幡駅入り口⇒井上病院⇒山手通り・神山町⇒モンゴル国大使館・松濤1丁目⇒鍋島松濤公園⇒松濤美術館⇒デンソー渋谷ビル⇒松濤2丁目交差点⇒西郷山公園⇒西郷橋⇒都立第一商高交差点⇒エジプト大使館⇒代官山交番⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽町歩道橋⇒東急東横線代官山駅

今朝は4℃くらいか、かなり冷え込みました。いよいよ冬が到来です。
天候晴れ、風がほとんどなくウォーキング日和。
信野講師、赤川CDの付き添いで12名が10:00に信濃町駅を出発

聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の出来事などを後世に伝えるために造営されたた所。
館内には、大壁画(縦3m横2.5〜2.7m)が、明治天皇のご生誕から崩御までの出来事を、「画題」の年代順に前半を日本画40枚、後半を洋画40枚で展示。
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新国立競技場は、国立霞ヶ丘陸上競技場の全面建替工事によって建設される予定の競技場。工事中の所を垣間見ました。
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法雲山仙壽院・お萬の方墓
仙寿院(せんじゅいん)は、日蓮宗の寺院。仙寿院は徳川家康の側室、養珠院(お萬の方)の墓がありました。
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瑞圓寺・庚申塔
瑞円寺はそばにある鳩森八幡神社の別当寺だったとのこと。よく整備された境内は広く、梅林があるほか[1]、ツバキ、ツツジ、ハギなども植えられているとのことでした。墓地のそばには庚申塔がありました。
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将棋会館は1976年に建設。棋士および女流棋士の公式戦などのタイトル戦や奨励会の対局、棋士のための「宿泊室」、「研修室」、一般の人が参加できる将棋道場など将棋教室などあるとのことでした。初めて中に入りましたが売店にも珍しい品がズラリとありました。

鳩の森八幡神社の御祭神は応神天皇・神功皇后。弘化2年(1845)に上棟した欅造りの社殿で昭和20年の戦災で消失したが、昭和56年末に完成した社殿とのこと。
境内には富士塚と将棋堂がありました。
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国立能楽堂は、能楽の保存と普及を図るのを目的で1983年9月に開場。日本の伝統芸能の一つである能楽を公演している。自主公演として「定例公演」、「普及公演」、「狂言の会」や「能楽鑑賞教室」、能楽の後継者養成として、ワキ方、囃子方(笛・小鼓・大鼓・太鼓)、狂言方の新人養成研修をなどを行っているとのこと。一度は公演を見に来るようです。
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明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
内苑と外苑があり、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられたとのこと。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。この中には通常都心では見られないような生物が生息し続けており、動物学・昆虫学的にも非常に貴重な例となっているのです。
広大な境内なので東西南北どの門からも出入り出来、本日は北参道を経て北門から入りました。
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新日鉄代々木倶楽部は新日鉄のの人材育成センターとのことです。会社関係の会議などが主なのでしょうが1階のレストランは普通に利用できるようです。
本日の昼食は上品なランチをいただきました。
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国立オリンピック記念青少年総合センターは普段は「立オリンピックセンター」と呼ばれています。1964年東京オリンピックの代々木選手村の集合住宅を改修して、オリンピック翌年の1965年(昭和40年)に開業したのです。

春の小川歌碑・代々木5丁目
「春の小川」は、1912年に発表された文部省唱歌。高野辰之が作詞、岡野貞一が作曲。現代まで100年以上にわたって教えられ続けている偉大な唱歌です。
高野辰之が作詞当時、現在の代々木3丁目に居を構えていたのです。当時この一帯は一面の田園地帯で、宇田川の支流のひとつである河骨川(こうほねがわ)と呼ばれる小川[3]が田を潤していたのです。河骨川は1964年(昭和39年)に暗渠化されたのです。この歌碑は現在川の岸辺あたりには小田急線の代々木八幡駅にほど近い線路沿い(代々木5丁目65番地)にあります。
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代々木八幡宮・石器時代住居
鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近だった近藤三郎是茂(これもち)の家来の荒井外記(げき)智明(ともあきら)が頼家公暗殺の後、この代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていたが、1212年(建暦2年)にお告げがあり元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とのこと。代々木八幡宮がお祀りしている神さまは応神(おうじん)天皇。 国家鎮護、破邪顕正、厄除開運の神様。
境内には石器時代の住居が作られ子供たちの学習に役立っているようです。
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元々、江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられたのです。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名でお茶の販売も行ったようです。茶園は1932年(昭和7年)に廃止。湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移り鍋島松濤公園となったのです。
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松濤美術館は松濤二丁目にある渋谷区立の美術館で渋谷区に関連する公募展、絵画展のほか、音楽会や美術教室などが行われているとのこと。建物の設計は白井晟一研究所、施行は竹中工務店。紅味を帯びた韓国産の花崗岩(紅雲石)の外壁にブロンズ製のグリルと化粧垂木、銅板葺きの屋根からなり、建物中央に噴水のある外部吹抜を展示室が円形に囲むとのこと。本日は中に入れませんでしたが、一度は見に来たいところです。
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西郷山公園は11月の目黒区ウォーキングでも訪れた所。
冬の富士山が見える所なので本日も立ち寄りましたが、午後のこの時間では見えませんでした。

旧朝倉家住宅は、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏により 大正8年に建てられました建物。大正ロマンの趣のある2階建ての建物内と回遊式庭園がとてもよかったです。
虎治郎は1871(明治4)、愛知県碧南の富商杉浦太一の次男として生まれ、小学校を終える間もなく上京。深川の木場の材木店で働いていました。そのころ朝倉家では、2人の息子を疫病で亡くし当主徳次郎さんは跡取り問題に悩み、次女タキの婿として虎治郎を迎えたのです。朝倉家の養子となった虎治郎さんは、家業の精米業を、木場の問屋筋に注文を取るなど顧客を広げ、数年を得ずに、個人営業の白米商としては東京随一の米屋にした方です。
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渋谷区といえば渋谷駅周辺を思い浮かべますがまったく違う方向からのウォーキング開始で意外性があり、面白いウォーキングでした。
高級住宅地の松濤あたりは普段訪れることもないので物珍しく、同じ東京でもいろいろあることを実感できました。皆様、お疲れさまでした。
posted by yunofumi at 15:59| あちこちウォーク

2016年12月14日

2016.12.7 第9回東京の新発見旅「江東区」

〜深川新明宮〜清澄庭園〜富岡八幡宮〜

都営地下鉄大江戸線森下駅清澄通り改札⇒清澄通り・森下駅前交差点⇒馬豚鍋みの家⇒カトレア元祖カレーパン⇒大衆酒場魚三・森下1丁目5⇒伊東深水誕生の地⇒深川神明宮⇒深川めし本家割烹みやこ⇒江東区芭蕉記念館⇒芭蕉庵史跡庭園・正木稲荷神社・芭蕉稲荷神社⇒川船番所跡⇒深川萬年橋⇒深川萬年橋南交差点⇒潟nーモニースクエア⇒山響部屋⇒大嶽部屋⇒三野村梶E清澄2丁目⇒中村学園⇒清澄庭園⇒村田春海墓⇒江戸みやげ屋たかはし⇒深川釜匠⇒深川江戸資料館⇒霊厳寺・銅造地蔵菩薩坐像・松平定信墓・勢至丸さま⇒出世不動尊⇒本立院・間宮林蔵碑・歯神様⇒深川ふれあいセンター・滝沢馬琴誕生の地⇒海辺橋⇒採茶庵⇒小津安二郎誕生の地・深川1-8⇒心行寺⇒法乗院えんま堂⇒深川1丁目交差点⇒旧富岡橋親柱⇒門前仲町1丁目会館⇒深川モダン館通り⇒旧東京市深川食堂・深川東京モダン館⇒門前仲町交差点⇒成田山東京別院深川不動堂⇒深川不動堂前交差点⇒亀戸大根まんじゅう⇒富岡八幡宮・伊能忠敬像・大関力士像・横綱力士像・花本社⇒深川公園⇒深川不動⇒永代寺⇒都営地下鉄門前仲町駅

本日はツーリズムによる江東区のウォーキング。
同じようなコースを11/12に見て回ったばかりですが、また別の訪れもあるだろうと参加した次第。ということで以前に伺わなかったところを中心に書きます。
森下駅そばの「馬豚鍋みの家」、「カトレア元祖カレーパン」、「大衆酒場魚三」の紹介がいきなりでした。
いずれも人気のお店。今回のウォーキングとは別に一度お客で行くのがよろしいようです。

深川神明宮。
徳川家康公がまだ名もないこの地を訪れた際、深川八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたことがこの地名のはじまり。その後、深川の開拓を進めた八郎右衛門が小さな祠に伊勢神宮の大神の分霊を祀り、信仰したのがこの深川神明宮。今では深川総鎮守神明宮いわれているのです。
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江東区芭蕉記念館
芭蕉は1680年(延宝8年)に江戸日本橋からこの深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開したとのことです。多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文が残ったようです。この草庵は、芭蕉の株が生い茂っていたので「芭蕉庵」と呼ばれたとのことでした。
江東区は1981年(昭和56年)に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館したのです。
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隅田川と小名木川の別れ目の少し高くなった所に芭蕉庵史跡庭園があり芭蕉の像がありました。
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日本橋から移り住んだ庵の跡には芭蕉稲荷神社がありました。
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川船番所(かわふねばんしょ)は幕府により設けられた番所で、深川萬年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
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山響部屋はもともと北の湖部屋だったのが親方がなくなったので後を山響親方が継いだことで現在に至っています。現在、所属力士16人・行司2人・呼出3人・床山1人とのこと。またすぐ傍には大嶽部屋がありました。引退後の大鵬さんが独立して作った部屋で当初は大鵬部屋、今は大嶽部屋で看板が二つ掲げられていました。
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清澄庭園は11/12にウォーキング記事をアップしてありますのでここでは省略。
深川釜匠で昼食は深川めしが大丼であり、その他のおかずもあったのでとても食べきれず、サランラップで大きなおにぎりを作り持ち帰りました。
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深川江戸資料館は相変わらず面白かったです。お相撲の大鵬さんの資料を本日もじっくり見ました。

出世不動尊(長専院)は、コ川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建。万治元年(1658)に霊巌寺とともにこちらに移転、その後1928年(昭和3年)に不動寺を合併したということでした。
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妙栄山本立院は、本立院日覚上人が開山となって貞享四年(1687)に創建。清水半身衛顕恒氏が宝永年間(1704-1711)に開基となったとのことです。正面本堂脇に間宮林蔵の石碑がありました。お墓は裏手の墓地にあるようです。
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圓隆院の本堂脇に古くから伝わるという“歯神さま”がありました。歯ブラシがおいてありお地蔵様の歯を磨いてお詣りしました。年老いた我々には歯が大切です。
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深川ふれあいセンターの建物の表には「滝沢馬琴誕生の地」の案内板がありました。滝沢馬琴の代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家だそうです。
深川1-8には「小津安二郎誕生の地」の案内板。
小津安二郎といえば原節子主演の映画「東京物語」。記念館は別荘だった無芸壮が長野県の茅野に、またお墓は北鎌倉の円覚寺だそうです。
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旧東京市深川食堂・深川東京モダン館
深川東京モダン館は、2009年(平成21年)に開館。江東区は、本日も見て歩いたのは一部ですが、富岡八幡宮・深川不動尊のある門前仲町、深川江戸資料館や東京都現代美術館などがある清澄白河、亀戸天神・香取神社などの神社仏閣が集まる亀戸、それから豊洲などがあるのです。ということでここはさながら観光と文化の紹介の場所。
そういえばここはもともと1932年(昭和7年)に東京市営の食堂として建築され、平成20年に国登録有形文化財として指定されたとのことです。この足りの街歩きには大いに活用したい施設です。美味しい珈琲が100円で飲めました。

富岡八幡宮で伊能忠敬像、大関力士像、横綱力士像、花本社を見た後、成田山東京別院深川不動堂に伺いました。お正月の準備が始まっており、少しあわただしい感じでした。
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今日は旧本堂の後ろにある内仏殿の1階、2階と様々な仏様を拝見、4階では日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」と大日如来を拝むことができました。

永代寺は1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えたようですが明治初年の神仏分離により廃寺となったのです。広大な跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになり、深川一帯でも指折りの寺院だったとのこと。その後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺なのです。
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このあたりの地名である門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられたとのことです。

本日の参加者は17名。信野講師と吉瀬CDが付き添い約15000歩をウォーキング。
天候は曇りで11℃くらいでしたからやや肌寒く感じました。しかし清澄庭園辺りでは青空も見え、とても良い風景を見られました。それにしても改めてウォーキングツアーは企画する会社により色々あるのでこのことも面白かったです。
posted by yunofumi at 22:13| あちこちウォーク

2016年12月08日

2016.12.4 高尾山4回目

京王線高尾山口駅⇒清滝駅⇒稲荷山コース⇒旭稲荷⇒道しるべ0.6km⇒道しるべ1.2km⇒稲荷山⇒道しるべ1.6km⇒道しるべ2.0km⇒道しるべ2.8km⇒道しるべ3.18km⇒山頂⇒
⇒十一丁目茶屋⇒高尾自然動植物園⇒たこ杉⇒浄心門⇒神変堂⇒北原白秋歌碑⇒もみじや⇒山門(四天王門)⇒北島三郎歌碑⇒仁王門⇒大法堂⇒薬王院⇒飯縄権現堂⇒奥の院不動堂⇒冨士浅間社⇒エコーリフト→清滝駅→京王線高尾山口駅→高尾駅

ここ数日朝は10℃以下になっています。それでも雨に心配がないのは幸い。
MBTの山歩きの特異な仲間にお願いし、本日の山歩きとなりました。
本日の気温朝は7℃、登山途中は13℃くらい。しかし晴天なのでとても心地よかったです。
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仲間は6人、私を引率のチームは3人で前後を守ってくださいました。
本日は稲荷山コース3.1km。道幅は広く、6号路に比べ取り組みやすそう。
道しるべがあり、エッまだこんなくらいとびっくり。そして登山者が多いからでしょうか。
木の根っこがむき出しの路もありました。
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紅葉は終わりかけていましたがまだまだ綺麗。
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八王子の市街地もややかすんではいますが眺めはまずまず。
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このコースは距離を示す道しるべのほかに桜、蛇などの説明もありました。

結局3.1kmを2.5時間で上り、大いに感謝。しかし最後の階段がきつかった!!
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それでも富士山が見えて元気回復、頂上で記念撮影。
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下山を始めてすぐに江川スギ展示林がありました。
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そして紅葉を存分に楽しむためにエコーリフト乗り場へ。すごい混雑!!
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本日はどこもかしこも大混雑でした。

リフトからの眺めはサイコー!!気持ちよかった!!
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そして下界の高尾山駅前「たまの里」で再び全員集合で乾杯!
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そうそう本日で高尾山健康登山の証のスタンプは4個目。ちょっと嬉しい。
下りは楽をしたので本日は約15000歩。紅葉を堪能でき大満足。
また私の歩みを見守ってくださった男性お二人に感謝、感謝!!
後日談としてはこれより2日間はかなりの筋肉痛!久しぶり!でも元気です。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2016年11月28日

2016.11.30 「富士山すそのウォーク」振り返り

数日前に1年7か月かかって「富士山すそのぐるり一周ウォーク」を無事終了しました。
下記は自分なりにまとめたものです。
今後、このようなウォーキングツアーに参加される場合、ご参考にしていただければ幸いです。
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〇私の参加状況から
・お天気に恵まれ土砂降りに会わず幸いでした。
・富士山が見えることが大きな喜びでした。
・大事をとって冬季は参加しませんでした。
・できるだけ第1回の方々とご一緒になるようにスケジュールを組むと一人参加でも顔なじみができるので楽しくなります。また講師の先生やCDさんとも顔なじみになります。
・都合で参加できない回がある場合はなるべく早く穴埋めをするとよいのです。

〇これから参加の方へ
・富士山すそのぐるり一周のコースは1回約10km、アップダウンはそれ程大きくなく、長距離を歩きなれてない場合には程よいコースです。
アップダウンが気になる場合はスタート地点、ゴール地点の標高をネットで事前に調べるとだいたい目途が立ちます。上記の17回のうち第5回が大変でした。
・真夏や冬は自分の体力に合わせて日程を選ぶとよいです。
 日常暮らしている場所に比べ、すそのの標高が高いので気温は低めです。よく100m上がると0.6℃下がると聞いています。
・体力に合わせてストックを持つと随分楽です。
・荷物には雨具を必ず入れます。ポンチョが軽くすっぽり被れるのでとても楽です。
・飲み物はスポーツドリンクが良く、暑い時期は500mlを2本準備しておくとよいです。
 自販機のない場所も多々あります。
・途中でのエネルギー補給のために一口羊羹や飴を持ちましょう。
・履物は履きなれた靴、スニーカーよりトレッキングシューズがおすすめです。
・回数を重ねるごとに脚力、筋肉がつきます。完歩された時は街道歩きをお勧めします。

では皆様、ウォーキングをお楽しみください。

posted by yunofumi at 22:18| あちこちウォーク

2016年11月27日

2016.11.20 第8回 富士山すそのウォーク

村山浅間神社〜山宮浅間神社〜北山本門寺

JRさいたま新都心駅→足柄SA→村山浅間神社⇒西見附⇒山宮浅間神社⇒浅間橋⇒山宮薬師寺⇒八幡神社⇒勝又製材⇒北山大橋⇒北山本門寺⇒富士山本宮浅間大社⇒花の湯→JRさいたま新都心駅

村山浅間神社のラザフォード・オールコックの碑をみたのは確か2015.10.25の第7回。その次の第8回としては川越発では日程調整ができず、本日のさいたま新都心発に参加したのです。
私の場合、第1回は2015.4.26で第17回の最終回は2016.8.28に仲間の方々とすでに終了していました。この間にはいくつかの穴空き状態がありコツコツ埋めし、本日、第8回で完歩ということなのです。本日は朝出発時から快晴でありがたい1日となりました。

足柄SA
朝出発時から晴天でバスの進行に合わせて富士山がくっきり!車窓の眺めも素晴らしい。
そして足柄SAの屋上、展望テラスからは見事な富士山が見えました。まさにこのシリーズツアー完歩にふさわしい眺めでした。感謝!
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村山浅間神社。
富士根本宮と号するとのこと。全国にある浅間神社のひとつで「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている寺社です。
はじまりは孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建。崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701年)に現在地へ遷座とのことでした。
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西見附。
国道469号を横断して小高くなっている方向に西見附の案内がありました。見附とは山中取締りのために、東西に見附を設けて不審者を取り締ったとのことです。
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山宮浅間神社は富士山を遥拝するための遥拝所がある寺社で社殿はありませんでした。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているとのことです。遥拝所は溶岩流の先端部に位置しており、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っていました。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いているのです。本日は木の間から太陽に光り輝く富士山が鎮座し、神々しいばかりでした。
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山宮浅間神社の創建年代は不詳とのことでしたが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土していることから、文献史料では16世紀から確認できるとのことでした。
世界遺産になったことから参道などが綺麗になっていました。
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北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つとのこと。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。
日蓮上人の一番弟子だった日興上人が1293年(永仁元年)にこの北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成したようです。
仁王門
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本堂
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境内は広く、開山堂、鐘楼堂、客殿、大庫裡などを外から見た後少し裏手に回り、開山にあたって日興上人がお題目を唱えながら植えた「題目杉」が7本の所3本だけ残っているのを見ました。

富士山本宮浅間大社。
806年(大同元年)平城天皇の命により坂上田村麻呂が社殿を造営し、山宮から遷座したのが始まり。富士山信仰とともに門前町がにぎわい、駿河の国の一ノ宮であり富士宮が大宮と呼ばれる元となったようです。全国に1300あまりある浅間神社の総本社とのことです。
楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。
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楼門の両サイドにある大きな絵馬は天皇・皇后の歌が掲げられているのです。

拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっており、正面は入母屋造、背面は切妻造で、正面に向拝が1間出ています。正面に扉があり、左右には蔀戸、正面左右には濡縁が見られました。
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脇から境内を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池がありました。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物の指定です。 清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社がありました。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあったようです。
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そして大鳥居の斜め前には富士山がくっきり。
ということで私の完歩記念の記念品贈呈と撮影をしていただきました。
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花の湯は日帰り温泉としては大きな施設。ナトリウム-塩化物泉で大浴場、露天風呂、檜風呂など至れり尽くせり。この富士山すそのウォークはその日の歩程終了後は必ず温泉で汗を流します。17回のシリージでは紅富士の湯、富士山溶岩泉水、須走天恵、御胎内温泉、ヘルシーパーク裾野、ゆらり、いずみの湯、ふじやま温泉、そして花の湯を利用しました。
いかに富士山の恩恵を受けているかがわかります。

本日ははじめての西講師と顔なじみの近江ツアーディレクターと共に参加者は36名でした。
ウォーキング途中ではタカサゴユリ、オオバヤシャブシ、ホトケノザ、クサギ、フヨウなど講師より解説をいただきながらの進行でした。
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そしてウォーキング途中はさまざまに雲で見え隠れする富士山を堪能した後、花の湯駐車場で本日最後の富士山を仰ぎ見ました。
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今日これまでのシリーズツアーでは富士山の形が見る位置で随分違うことも知りました。
本日のコースは緩やかな下り、歩程約20000歩は何の苦も無く終了でした。しかし、本日が日曜日で秋の行楽シーズン真っ只中、ということで渋滞を避け、高速道路はやめて、下の狭い道を飛ばしての帰路でした。しかし花の湯16:30出発、さいたま新都心22:00到着。それでも車中で爆睡した私たちに比べ、講師・CD・ドライバーは大変ご苦労様でした。本当にお世話になりました。皆様の今後のご活躍をお祈りし、感謝、感謝で終了!!ありがとうございました。
posted by yunofumi at 00:43| あちこちウォーク

2016年11月26日

2016.9.28 第13回 富士山すそのウォーク

割石峠〜精進湖民宿村

JR川越駅→談合坂SA→なるさわ道の駅→割石峠・喫茶パラマウントフジ・天徳宮入口⇒バス乗り場県境⇒国道139号⇒本栖ハイランド⇒林道逢坂線起点⇒林道竜ケ岳線起点⇒東海道自然歩道⇒ヴィラ本栖・本栖湖オートキャンプ場⇒本栖湖⇒湖仙壮(昼食)・与謝野晶子歌碑⇒食事処松風⇒渡辺氏屋敷跡⇒煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓⇒旧中道往還⇒本栖簡易郵便局⇒武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神⇒両替屋敷跡⇒町立上九一色中学校(廃校)⇒本栖城跡⇒富士山樹海・精進湖民宿村そば→いずみの湯→JR川越駅

天徳宮入口からすぐウォーキング開始。
ここ割石峠は静岡県と山梨県の県境。山梨県側は河口湖町上九一色村だった所。オーム真理教の施設があったところで少し変な感じ。国道139号から林道逢坂線起点を横目にズンズン進む。すっかり景色は秋!
本栖ハイランドの看板があった辺りは正月ころにはダイヤモンド富士のビューポイントだそうです。

青木ヶ原樹海の東海道自然歩道に入るとやはり溶岩がゴロゴロで足元注意でした。
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本栖湖が見えてほっと一息。
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本栖湖は富士五湖の中で最も水深が深く127m、透明度も高そうで水はきれい。面積4.7ku、周囲10.4km、湖面の標高は902m。もともと周囲23kmの「セの海」といわれた湖が800年(延暦19年)と864年(貞観6年)の噴火で西湖・精進湖・本栖湖になったそうです。したがってこの三つの湖面の海抜は今でも同じだそうです。

10分ほどで昼食場所の湖仙壮に到着。
昼食中に小雨がパラパラきたので雨具を装着で午後の部を開始。
本栖のあたりは甲斐から駿河への国境の宿場として賑わった時期もあったとのこと。武田家はここに国境警備隊を置き、隊長は渡邊囚獄門佑だったとのこと。そしてここが渡辺氏屋敷跡、煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓など苔むしている所を見ました。栄華盛衰ですね。
またしばらく行くと武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神などを集めてまつったお堂がありました。
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その後さらに両替屋敷跡、町立上九一色中学校(廃校)、本栖城跡はいずれも富士山樹海に呑まれている感じでした。
そしてようやく樹海を抜け精進湖民宿村そばに到着で本日はこれにて終了。

本日は落合講師と菊池ツアーディレクターと共に37名が参加。
落合先生の植物への造詣が深いのは相変わらず。
本日はヤマボウシ、ウリカエデ、レイジンソウ、イヌシベ、ミツバウツギなどなど。.
そうそうアケビが実をつけているのを初めてみました。
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朝出発時は曇り、午後一時小雨ながら18000歩を無事に終了。
富士山には吊るし雲やかさ雲がかかり裾野から中ほどまでは見えたのですが、少し残念。
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下界は32℃と後で知ったのですが私たちは25℃くらいの中をウォーキング。
これは標高が9000m辺りをウォーキングしていたお陰なのです。
本日は水曜日、夕方には川越到着でラッキーでした。
posted by yunofumi at 00:48| あちこちウォーク

2016年11月25日

2016.11.10 第8回東京の新発見旅「目黒区」

〜大円寺〜目黒不動〜天空公園〜旧前田侯爵邸〜

JR目黒駅中央改札⇒ホリプロビル⇒目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」⇒行人坂・目黒川架橋供養勢至菩薩石像⇒大圓寺・大黒天⇒目黒雅叙園⇒太鼓橋・目黒川⇒海福寺⇒五百羅漢寺⇒目黒比翼塚⇒目黒不動尊⇒甘藷先生墓所⇒大鳥神社⇒玉川屋・目黒仁王餅⇒目黒区民センター・目黒区美術館⇒田道庚申塔群・田道町会事務所⇒田道橋⇒庚申塔⇒目黒警察署⇒目黒区清掃事務所⇒目黒歴史資料館⇒東京共済病院⇒p樹橋⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽神社・猿楽塚⇒デンマーク大使館⇒エジプト大使館⇒都立第一商高⇒西郷橋⇒目黒区立西郷山公園⇒菅刈公園・復元庭園⇒目黒橋⇒CROSS AIR TOWER・目黒天空庭園⇒東邦大大橋病院⇒目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」⇒警視庁第三機動隊⇒駒場東邦中学校・高等学校⇒御用屋敷跡案内板⇒朝日マンション駒場⇒目黒区立駒場野公園・水田の碑⇒駒場東大前1号踏切⇒駒場公園和館・旧前田邸・洋館・日本近代文学館⇒井の頭線駒場東大前駅

今日は目黒不動後に寄生虫博物館に立ち寄る予定でしたが休館日のため急遽、めぐろ歴史資料館に変更となりました。
それでもお天気なので元気に出発です。

目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」
目黒駅から目黒川に向かって行人坂を下る途中にこの案内がありました。
この丘にはむかし富士見茶屋がありこの付近は富士山が見えたのです。江戸時代、富士見茶屋では大勢の参詣客や旅人がここで一服し、秀麗な富士の眺めを楽しみ、繁盛したいたのではないでしょうか。広重行人坂部分や富士見茶亭(長谷川雪旦画江戸名所図会)として絵があるそうです。

行人坂(ぎょうにんざか)は目黒駅から上大崎にまたがる坂。急な勾配の所で江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があります。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝として、富士見の名所としても知られおります。また、八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもあるのです。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像。
行人坂の案内板の横に勢至堂(せいしどう)があります。台座97cm、蓮華20cm、勢至菩薩52cmから成り、勢至菩薩は両手を合掌し、片膝を立てて座っておられました。台座の前面と両側面には、江戸時代中期の目黒川架橋に関する銘文が刻まれており、文からは、1704年(宝永元年)に僧西運が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の報謝を受け、これをもとに目黒川の両岸に石壁を造り、石製の太鼓橋を架けたことが示されているようです。
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大圓寺はもう数回伺っているお寺さん。ご本尊は釈迦如来。大黒天も祀られており、元祖山手七福神のひとつでもあります。また石仏群、生身釈迦如来立像、阿弥陀三尊などもあります。
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目黒雅叙園は結婚式場・レストラン・ホテルなどで有名な複合施設。
木造建築物にある百段階段を利用した百段ひな祭りを見に来たことがあります。
前庭に『お七の井戸』があります。八百屋八兵衛一家が大火に遭い、菩提寺に避難したときお七、16歳はその寺の小野吉三郎とであい恋に落ちたのです。そしてその後、好きな人にもう一度逢いたくて、家に火を放ったという悲しくて切ないラブストーリーなのです。幸い、小火ですんだのですが、付け火は当時の大罪であった為、お七は火あぶりの刑に処せられました。それから吉三郎はこの井戸で水垢離をしまた供養のために明王院(現在の目黒雅叙園)に常念仏堂を建立したとのことです。
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太鼓橋は1769年(明和6年)に完成し当時建設された当時としては珍しい石造りで長さ8間3尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)の「太鼓橋」の形状をしていたとのことです。
江戸時代の様子は歌川広重『江戸名所百景』(1857年)に描かれているとのことです。
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四脚門(しきゃくもん)は門の中央にある親柱2本の前後に2本ずつある4本の控え柱がある門。海福寺(かいふくじ)の赤い四脚門は、明治期に廃寺になった上落合の泰雲寺(たいうんじ)より明治後期に移築したものだそうです。
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海福寺の梵鐘は近世の中国風の鐘に似ながら、日本上代の鐘の形態を手本にした特異な考案で、江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ないものです。また、天和2年(1682)鋳造で梵鐘の裾がスカートのように波打っており、形状は端正で鋳技も精巧な優品とのことです。
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五百羅漢寺。
元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたお寺で五百体以上の群像が完成してからもう三百年以上たっています。しかし現存は305体とのことでした。天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄したようです。ということで今も将軍の腰掛石がありました。
そし、明治維新とともに寺は没落、二度移転後、明治41年に目黒のこの地に移っており昭和56年に今の近代的なお堂が完成し、「目黒のらかんさん」として今も親しまれているとのことでした。
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比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のこと。悲恋と共に伝わる例が多いとのこと。一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭ったモノも多く、古事記の時代から江戸時代のものまで各地に残ってるようです。これは目黒比翼塚といわれ、平井権八と遊女小紫の比翼塚です。
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目黒不動尊(滝泉寺)。
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808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗だったようです。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」も行われています。
入口にあるのは仁王門。三間一戸の朱塗りの楼門で、1962年(昭和37年)再建の鉄筋コンクリート造。
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水かけ不動明王。
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さらに野村宗十郎銅像、独鈷の滝、鷹居の松跡、銅造り役の行者像、前不動堂、勢至堂、銅造大日如来坐像など多くみるものがありました。

最後に本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に甘藷先生墓所として青木昆陽の墓が見られました。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたおり、実は昆陽が生前に立てさせたものということでした。
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大鳥神社は、大同元年(806)創建された区内最古の神社だといい、古江戸9社の一社に数えられ、目黒村の総鎮守社となっていたといいます。この神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことが始まったとのことで今での11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ねるので今日は準備に大わらわのようでした。
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切支丹灯篭はもと千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつての肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたもののようです。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものとのことでした。
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玉川屋・目黒仁王餅
第二次世界大戦で焼失した目黒不動尊は戦後まず本堂の再建に始まました。そして昭和29年玉川屋三代目小川雄一夫妻が仁王像を寄進を申し出、約6年で完成。そしてこの仁王様にちなんだのがこのお店の看板商品となったとのことです。
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけてありました。ほかにはバターどら焼き、熊手の舞などがみられました。
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田道庚申塔群(でんどうこうしんとうぐん)は、延宝(えんぽう)元年(1673年)の銘文のある地蔵1基、延宝(えんぽう)5年(1677年)から正徳(しょうとく)3年(1713年)の銘文のある庚申塔6基からなり、当時の民間信仰を今に伝えています。屋根が作られていて保存状態は良好、青面金剛(しょうめんこんごう)、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれに確認できました。庚申塔は、庚申待(こうしんまち)を3年かけて18回続けた後に、記念として建てたものです。庚申待(こうしんまち)とは、庚申の日には命が縮められないよう寝ないで過すという民間信仰なのです。江戸時代には、飲んだり食べたりしながら一晩中語りあかす集まりが盛んに行われていたようです。今ある庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊(めぐろふどうそん)への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所なのです。
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めぐろ歴史資料館。
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現在の目黒地域は、どのような地形や自然、地理的条件の中にあって、そこではどのように人びとの暮らしが営まれてきたのかなどを歴史がわかるようになっていました。
常設展示室では、旧石器時代から、中世、近世、近代、そして現代まで。企画展示室もその年4回ほどするようです。目黒の歴史を身近に感じました。

猿楽神社。
この場所にはもともと2基の古墳があったそうで、大型の古墳は猿楽塚で直径約20m、高さ約5mです。
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この土地の所有者は朝倉家は甲州武田家の家臣だった旧家とのこと。大正時代、古墳のひとつを壊したところ多数の武具が出土したのですがその後朝倉家当主や作業人が病気になったのです。そこで急いで武具を埋め猿楽神社を建立し現在の姿になっているとのことです。
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西郷山公園は江戸時代には豊後竹田城主・中川氏の抱え屋敷であったところ。明治時代には西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入したのですが西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されるようになったとのことです。
そうそう、ドラマの東京ラブストーリーのロケ地でもあったとうかがいました。
また西郷山公園とほぼ隣接で菅刈公園(すげかりこうえん)がありました、西郷隆盛の弟従道の、和洋折衷式の邸宅と、「東都一の名園」と謳われた庭園があった場所です。
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目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)は、首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した屋上庭園で2013年3月30日にオープンしたとのことです。ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11mから35m、延長距離は約400mで、平均勾配約6%のループ状。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じているようです。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられているそうです。全く不思議な感覚でした。
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目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」
江戸時代初期、鷹狩りの為の休憩所・街道筋の宿泊施設としての将軍家は御殿を作った場所なのです。

駒場野公園の辺りは、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていたとのことです。明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒により今でも行われているとのことです。駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園なのです。「水田の碑」と田んぼがありました。
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駒場公園は加賀百万石の旧前田邸の跡。前田侯爵が邸宅を構えたのはなんと昭和のはじめ。書院造りの和館、化粧煉瓦やタイル張りがある洋館、また公園内に日本近代文学館がありました。
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本日参加者は18名、牧講師と伊藤CDと共にウォーキングして約28000歩を元気に歩きました。天候は晴れ、16℃は気持ちよくご機嫌で15:30には終了できました。終点の井の頭駒場東大前駅は初めてでしたがゆっくりもせず電車に乗ってしまい、少し残念。こんな時は駅周辺をゆっくり自由に散策するとまた土地柄がわかるのです。まずはまたの機会をつくります。
posted by yunofumi at 00:02| あちこちウォーク

2016年11月22日

2016.11.17 さんさん会 横浜ウォーク

〜横浜三都物語と横浜港の歴史〜
JR根岸線桜木町駅南改札口⇒鉄道創業の地 記念碑⇒桜木町入口交差点⇒CROSS GATE⇒桜木町1丁目陸橋⇒日本丸交差点⇒港三号橋梁(旧大岡川橋梁)⇒NAVIOS YOKOHAMA4451⇒赤レンガ倉庫⇒横浜税関遺構⇒旧横浜港駅プラットホーム⇒海上保安庁工作船資料館⇒象の鼻テラス⇒横浜税関資料展示室⇒旧神奈川県産業組合館⇒開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構⇒横浜町会所跡・岡倉天心生誕之地⇒横浜市開港記念会館⇒県庁前交差点⇒みなとみらい線日本大通り駅⇒神奈川運上所跡⇒神奈川県庁⇒神奈川県庁分庁舎⇒横浜開港資料館・玉楠の木⇒横浜マリンクラブ海洋会横浜支部⇒大さん橋ふ頭ビル・大さん橋ホール屋上送迎デッキ⇒横浜水上警察署⇒インド水塔・公園・赤い靴はいてた女の子像・GADEN WATER像・かもめの水兵さん歌碑⇒氷川丸⇒リカルテ将軍記念碑⇒うちゅう保育園⇒ヘボン博士邸記念碑⇒元町貝塚⇒アメリカ山公園・山手町⇒横浜地方気象台⇒岩崎ミュージアム⇒山手警察署港の見える丘前交番⇒ホテルKKR PORTHILL YOKOHAMA(昼食)⇒港が見える丘公園⇒生麦事件犠牲者の墓⇒ウチキパン⇒元町中華駅

本日は以前東海道五十三次をご一緒した仲間とのウォーキング兼同窓会。浅井先生・CD向井田さんを含め22名が参加。お天気も気分良く、気分はサイコー!!

鉄道創業の地 記念碑が桜木町駅そばの広場にありました。
ここは日本で初の鉄道設置のため1870年(明治3年)この地にイギリスから資材を購入後、陸揚げされた場所。1872年(明治5年)ここに横浜駅(初代)を設置し、横浜・品川間の鉄道が開業。
1915年(大正4年)、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)を開業(旅客駅)。そのため横浜駅(初代)を桜木町駅に改称。1928年(昭和3年) 横浜駅がさらに北側、現在地に移転(3代目。東海道本線を現在のルートに変更。
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汽車道は桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用して1997年に開通したプロムナード。港湾環境整備施設(港湾緑地)として整備されており[1]、2002年に設定された散策コース「開港の道」の起点側でした。
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赤レンガ倉庫。
1859年(安政6年)黒船を率いてペリーが来航。日米和親条約、日米修好通商条約の締結を経て、江戸時代の長く続いた鎖国時代が終わりました。100 戸人口500人ほどの小さい村だった横浜村が開港の場所と定められ、横浜の都市としての歴史が始まったのです。
1896年(明治29年)に鉄さん橋(大さん橋の前身)が完成、1899年(明治32年)、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が開始。そしてその一環として保税倉庫として現在の横浜赤レンガ倉庫がつくられたとのことです。2 号倉庫は1907年(明治40年)に着工、1911年(明治44年)に竣工、設計者は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄 でした。開港当初の横浜には船舶が着くことのできる岸壁がなく、本格的な波止場を建設することが必要だったのです。
1号倉庫は1908年(明治41年)着工、1913年(大正2年)竣工。レンガはすべて国産品、2号倉庫だけで約318万個使用われたとのこと。その後、関東大震災、終戦、アメリカ接収、アメリカ軍港湾司令部としての利用などを経て1989年(平成元年)倉庫としての用途は廃止。2002年(平成14年)に保存し、活用工事が終了。1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設となったのです。
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赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」が朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑に埋もれていました。「旧税関事務所(右突堤中央事務所)」は、港湾施設の一つで、1914年(大正3年)に竣工し、船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行っていたとのことです。煉瓦造スレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物で、ガラス張りの天井ホールもあったとのことです。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失。昭和63年〜平成13年にかけて行われた「赤レンガパーク」の整備の際に発見され、現在は「旧税関事務所遺構」として保存されるとともに花壇として利用されているのです。
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旧横浜港駅プラットホームそばに以下の説明碑がありました。
「横浜港駅」は、1911年(明治44年)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、1920年(大正9年)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、1928年(昭和3年)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
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2001年(平成13年)、奄美大島沖で国籍不明の不審船が、自衛隊の航空機によって発見され、不審船はその後20時間ほど逃走を続け、最後には自沈という形で、証拠隠滅をはかったとのこと。この不審船を引き上げて展示してあるのが、赤レンガパークの奥にある、「海上保安資料館横浜館」。我が国の島国固有の事情と、海上保安の必要性を体感することができる施設でした。
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横浜税関資料展示室
横浜税関は、1934年竣工、「クイーン」の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気でした。庁舎(本関)の1階に税関資料室があり、横浜税関の歴史や役割、ホンモノ・ニセモノコーナー、ワシントン条約コーナー、密輸の手口など盛りだくさんの内容でした。
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「開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構」という以下のような解説板が傍にある煉瓦の塀がありました。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。 建物は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。2014年(平成26年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。 大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、1877年(明治10年)1月に創立された「開通社」の社名を1891年(明治24年)「開通合名会社」に改名。当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられるのです。 写真は明治38年(1905年)頃のものと推定とのことでした。
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横浜町会所跡
1874年(明治7年)、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設され、石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていとのことです。
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また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところとのことで、岡倉天心生誕之地の碑がありました。
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横浜市開港記念会館。
横浜の開港50周年を記念して市民の寄付金により建設され、大正6年に竣工。赤れんがの時計塔が特徴で、昭和34年から中区の公会堂として利用されているとのことです。
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神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が設けられ、 神奈川奉行の支配下にあったようです。1866年(慶応2年)類焼、翌年新築、横浜役所となり、1868年(明治元年)明治政府に移管され、1872年(明治5年)横浜税関に改められたのです。
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神奈川県庁は「キングの塔」の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎。表面に溝を刻んだスクラッチタイルと、独自の幾何学的な装飾模様が特色のライト様式。ライト様式とは旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、スクラッチタイルと大理石を用い、幾何学的な装飾模様が特色。昭和初期に大流行したのでした。
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正面玄関車寄せの柱に施された装飾や矢印の様な連続装飾など、ほとんどの模様が直線のみで構成されているアール・デコ風の装飾でした。玄関ホールには唐草文の極楽浄土で咲く宝相華という幻しの花がモチーフで見られ、また中央階段の球形照明はやはり宝相華のモチーフでした。

横浜開港資料館
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、日本の開国を約した日米和親条約が締結された地において開館。開国につづく開港により、横浜は日本の玄関、貿易都市として発展したことが多くの資料から見ることができます。
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横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれているとのこと。「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854年(嘉永7年)のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」などでも描かれています。
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象の鼻パーク(ぞうのはなパーク)は、波止場で明治中期の形状に復元して、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園したとのこと。
象の鼻には防波堤、開港波止場 、ピア象の鼻(桟橋)、開港の丘、象の鼻テラスなどがあり夜景も楽しめそうなスポットでした。
屋上送迎デッキからの眺めは素晴らしく、ここで本日の記念撮影!全員が笑顔いっぱい、元気いっぱいでした。
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山下公園にはインド水塔、赤い靴はいてた女の子像・かもめの水兵さん歌碑・リカルテ将軍記念碑・などがありました。

ヘボン博士邸記念碑
J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn:1815年3月13日〜1911年(明治44年)9月21日)はヘボン式ローマ字の考案者。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日し30年余りに亘って日本で活躍したのです。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここに移り、住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられ、その後山手に移ったようです。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸とのことです。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で1870年(明治3年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は1887年(明治20年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任したのでした。
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横浜地方気象台は1896年(明治29年)に、神奈川県測候所として、海岸通一丁目(山下公園付近)に設立。大正12年の関東大震災によって建物が焼失し、現在(山手町)の建物は昭和2年に建設され、その年11月より業務を開始しているとのことです。

港が見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘の公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。
本日も素晴らしい眺めでした。
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生麦事件犠牲者リチャードソンの墓
山手町の横浜外人墓地にありました。
生麦事件は1862年(文久2年)8月21日、鶴見の生麦で起こりました。島津久光の大名行列の一行が、下馬に応じず行列の中を逆走したイギリス人のリチャードソンを含む4人を斬りつけ死亡させた事件のことです。4人は、川崎大師へ乗馬で向かう途中だったのです。その後幕府は10万ポンドの賠償金を支払ったのです。しかし尊王攘夷運動の機運が高まっていた時だったので、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こっています。
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今日は素晴らしい日和の中、ワイワイとお話ししながらのウォーキングでした。
相変わらず速足の浅井先生でしたが気温18℃、無風でしたから少し汗ばむくらいのペース。約18000歩はちょうどよかったです。
お食事のメインはお好みで肉と魚に別れました。私のように魚を選んだのはほとんどアルコールがダメな人たちだったのも面白かったです。
本日は2次会を横浜中華街で行うプランでしたが私は自分の都合で参加できなかったのがちょっぴり残念!!
又の再会を約して、サヨナラしました。皆様!ではまたね!!
posted by yunofumi at 22:08| あちこちウォーク