2022年03月05日

2022,2,27 さいたま彩発見ぶらり街あるき 八潮市

八潮市は埼玉県の東南端にあり、関東地方のほぼ中央に広がる中川低地にある所。面積は18.02㎢、東西が5.23km、南北が7.45km、地図を見ると花瓶の形をした地形とわかりました。標高は1〜4m、東を中川、西を綾瀬川、南を垳川の三つの河川に囲まれ、古くから河川の恩恵と災いを受けてきた場所とのことでした。八潮市は1953年(昭和28年)に八條、潮止、八幡の三村が合併してできた市で結果的に三村の頭文字をとって「八潮」となったようです。
本日は喜多見先生、池谷TDのもとに17名が集いウォーキングを開始しました。

つくばエキスプレス八潮駅⇒妙法寺⇒真菰田児童公園⇒大原(だいげん)中学校⇒大原橋⇒福寿院⇒大曾根八幡神社⇒新境橋⇒東京葛西用水⇒中馬場橋⇒八潮図書館⇒観音寺橋⇒観音寺⇒番場新橋⇒八潮中央公園⇒足立成和信用金庫⇒和食麺処サガミ八潮店⇒八潮駅

IMG_2740no2.JPG
首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスは秋葉原〜つくば間 58.3kmを最高運転速度130km/h最速45分で結ぶため、高速走行安定性、急曲線・急勾配通過性能を重視した設計で沿線における振動・騒音の軽減など環境面にも配慮している列車で、2005年(平成17年)に開業したとのことです。
八潮駅は市内では唯一の鉄道の駅。1日平均乗車人員は2万人弱。駅周辺は土地区画整理事業が行われておりどんどん変わりつつあるようです。

大曾根八幡神社
IMG_2763no2.JPG

IMG_2766no2.JPG

IMG_2769no2.JPG
この神社は、1502年(文亀2年)に勧請されたとのことですが、その前には源義光が兄源義家援軍のため、1087年(寛治元年)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より、八幡神を奉斎されたとも伝えられているようです。また社殿は大曽根一帯の総鎮守で彫刻が見事な神社として有名だそうです。彫刻は、常州北方・後藤一重の作とのことでした。

東京葛西用水
IMG_2782no2.JPG
江戸時代の初め、江戸幕府が天領開発に一環として関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路。利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として新田開発が行われるたびに延長や取水口の遷移が行われ、現在は市内部分だけでも4kmはありそうです。

八潮市の取り組みとして「八潮ブランド」が認定されています。これは八潮市の資産としてまちの価値や八潮産の製品の知名度を上げ地域活性化に取り組んでいるとのことでした。
令和2年度の認定品は「けやき通りサブレ」と「yamatoのキャリングトートバック」とのこでした。

土地のお祭りとしては八潮オビジャ・蛇ねじりがあります。
埼玉県内の無形民俗文化財とされており、弓矢で元を射ることでその年の吉凶や農作物の豊凶を占いようです。鶴ヶ曽根下久伊豆神社で行われるようです。

IMG_2802no2.JPG
真言宗豊山派寺院の観音寺は、正保山と号します。観音寺は、1534年(天文3年)不動坊として開創、長清律師が1621年(元和7年)に開山したといいます。西新井組中川通四箇領八十八箇所76番です。
IMG_2803no2.JPG
阿弥陀如来立像I・II軀は、観音寺本尊の脇侍として安置されてきた仏像。二十七菩薩の聖衆来迎図厨子安置の阿弥陀如来立像(I軀)は、一木造りの藤原様式を通す鎌倉初期の作、他の阿弥陀如来立像(II軀)は、寄木造りの金切り金様式を遺す鎌倉中期の作で、八潮地方における鎌倉期の阿弥陀如来像は少なくとても貴重なのです。

IMG_2821no2.JPG
八潮中央公園は、八潮市のほぼど真ん中にあり、八潮市役所の南西側に隣接している公園。園内には、浴衣のオブジェや野外ステージなどの設備や木々の緑が多く、平日の昼間や夕方にはのんびりと休憩される方、休みの日には親子連れやグループで楽しまれる方も多く、市民憩いの場として親しまれているようです。また、春には市内でも有数の桜の名所として知られ、満開のソメイヨシノは見事だそうです。

和食麺処サガミ八潮店
IMG_2827no2.JPG

IMG_2828no2.JPG

IMG_2830no2.JPG
和食のランチとしては量が多く、後でお蕎麦も出ましたので満腹。
美味しくいただきました。

そうそう埼玉の本日の逸品として埼玉の逸品 菓子道楽杵屋の「やしおつつじ」をいただきました。地元特産の小松菜入り白餡が、白玉粉を使ったモチモチの求肥で包まれていました。これは美味しかったです。

本日は晴天で16℃とウォーキング日和。しかし自分が先週の新型コロナワクチン3回目接種後かなりそれも3日間発熱したので大事をとって昼食をいただいた後皆さんとお別れし帰路につきました。ということで結局は12000歩で終了しました。
実際のその後の予定は、「恩田家屋敷林ふるさとの森・潮止揚水機場記念ひろば・鶴ケ曽根下久伊豆神社・鶴ケ曽根上久伊豆神社・太田家住宅・大経寺・八条橋・和井田家住宅・清勝院・八潮団地」とありました。これらすべてが参加できませんでした。誠に残念でまた機会があれば参加したいと思いました。特に大経寺と清勝院はぜひ後日行きたいと思っています。
posted by yunofumi at 16:48| あちこちウォーク

2022年01月31日

2022.1.23 さいたま彩発見ぶらり街あるき 三郷市

三郷市は、埼玉県の東南端にあり、都心から約15km、秋葉原まで20分で行けるそうです。市内は東西5.6km、南北9.5km、地形はほとんどまっ平。もともとは関東平野の江戸川と中川に沿った沖積平野とのこと。三郷市になって早や50年で市内にはラッピングしたバスが走っていました。今日はお正月が終わりましたが三郷七福神めぐりも兼ねたウォーキングとなります。

JR武蔵野線新三郷駅⇒新三郷ララシティ⇒みさと団地⇒三郷工業技術高校⇒二郷半領用水路⇒自然派レストラン蕎麦旬⇒玉蔵院(弁財天)⇒蜜蔵院⇒三郷市立彦成小学校記念講堂⇒延命院(寿老人)⇒東光院(毘沙門天)⇒香取神社⇒善照院(布帯尊)⇒上口公園⇒番匠免神社⇒迎摂院(弁財天)⇒三郷市消防団第五分団第3班⇒御菓司匠観音どら焼き饅頭屋⇒円能寺(福禄寿)⇒花和田児童公園⇒西善寺(大黒天)⇒成就院(恵比寿)⇒JR武蔵野線三郷駅

IMG_2531NO2.JPG
JR武蔵野線新三郷駅は1985年に旧国鉄の駅として開業。その頃は武蔵野操車場を挟む形で、上下線のホームが360mも離れて設置されており、ギネス世界記録に「世界一ホームが離れている駅」として掲載されたこともあったそうです。この武蔵野操車場1986年に廃止され今は上下ホームも統合され普通の駅となっていました。そして武蔵野操車場跡は新三郷ららシティとなり、「ららぽーと新三郷」、「 IKEA新三郷」、「コストコ」などの大型商業施設が堂々とありました。いずれも特徴のある施設ですから休日などは遠くから買い物客が集まるようです。

IMG_2543NO2.JPG
みさと団地はもと日本住宅公団(現・UR都市機構)により建設され、1973年(昭和48年)4月より第一次入居開始、続いて1974年(昭和49年)12月に第二次入居開始。総住宅戸数は9,867戸で、ピーク時には2万3千人の人口を擁する国内有数のマンモス団地となったのです。初めから低層と高層の2ブロックで構成されているとのことです。

IMG_2554NO2.JPG
二郷半領用水路(にごうはんりょうようすいろ)は、吉川市、三郷市、北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路。元々、水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領が利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路だそうです。この地域は早場米の産地でもあったのですが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害にも悩まされていたこともあり、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行い良質な穀倉地帯となったのです。
現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っているとのことでした。

IMG_2558NO2.JPG
自然派レストラン蕎麦旬は和食と本格手打ち蕎麦のお店でした。こだわりの食材を使った本格派の蕎麦をメインにした会席膳が味わえる一軒家のレストラン。まずは吟味した石臼引きのそば粉を店内で製麺し、打ち立て.茹でたての十割蕎麦をいただきました。またそばつゆは昆布 かつお さば他でだしを取り、県内.老舗の醬油で作ったかえしを使ったものとのことでした。お膳の作り方は京風でちょっとおしゃれでした。ということでまた来たいお店になりました。
IMG_2561NO2.JPG

玉蔵院(ぎょくぞういん)(弁財天)
IMG_2582NO2.JPG
玉蔵院は、山号を北野山玉蔵院と称し、真言宗豊山派に属します。江戸高田(現在の東京都湯島)の根生院の隠居寺として、1606年(慶長11年)建立されたといわれ、開祖は祐堅和尚とのこと。本尊の阿弥陀如来は、平安末期の作で一木造の仏像。弁財天も含め本堂も閉じられており、境内を見るだけでした。

三郷市立彦成小学校記念講堂
IMG_2595NO2.JPG
この小学校は明治6年に開校。記念講堂は 1926年(大正15年)に建てられ現在郷土資料館分館でとなっていました。
講堂は2016年に大正時代の貴重な木造建築物ということで復元されたのです。 郷土資料館では、農具や農家の暮らしに関わる資料など、地域の歴史について展示しているようです。本日は内部を見られませんでしたが特徴としては天井に蝶(ちょう)・菖蒲(しょうぶ)・鳳凰(ほうおう)の透(す)かし彫(ぼ)りが二か所あること。「折上(おりあ)げ」という手法で壁と天井の境目はカーブを描く造りになっていること、外から見ると 両開きの鎧戸風(よろいどふう)の装飾窓が見えました。そして玄関ポーチを支える二本の柱は建物の外観の中でも特に装飾的で、柱は四本の角柱が半円形の柱を挟むような形に組まれており、半円形の柱材には西洋建築に見られる筋彫(すじぼ)りという装飾がほどこされているようでした。

延命院(えんめいいん)(寿老人)
IMG_2602NO2.JPG
延命院は、明星山如意寺延命院と号し、真言宗豊山派の寺で、1570年頃(元亀年間)に俊秀和尚が開山したということです。本尊は不動明王。境内にある虚空蔵堂(こくぞうどう)は、虚空蔵菩薩が1486年(文明18年)に古刀禰川(現在の中川)に出現したので、村民がお堂を造ってこれを安置したのが始まりとのことです。
境内には様々な大きさの力石がありました。
IMG_2606NO2.JPG
また本堂にあった寿老人がご住職の好意で拝顔できました。
IMG_2609NO2.JPG

東光院(とうこういん)(毘沙門天)
IMG_2628NO2.JPG
真言宗豊山派寺院の東光院は、荒神山薬師寺と号します。東光院の創建年代は不詳。上口香取神社の別当を勤めていたといいます。境内に三郷七福神(彦成めぐり)の毘沙門天がありました。
2627

善照院(ぜんしょういん)(布帯尊)
IMG_2631NO2.JPG
真言宗豊山派寺院の善照寺は、神霊山と号します。善照寺は、1558年ころ(永禄年間)の創建。
境内の布袋尊と埼玉県のHPにあったコバトン布袋尊を並べて記念撮影です。
IMG_2634NO2.JPG

番匠免神社
IMG_2641NO2.JPG
番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したようです。
この神社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免にありました。番匠とは大工の古称で、地名の由来については、このあたりが番匠の免田(税を免除された田)であったことによるという説と、古くは「番匠面」とも書いたようで、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説があるとうかがいました。

迎摂院(こうしょういん)(弁財天)
IMG_2645NO2.JPG
迎攝院は、真言宗豊山派に属し、山号を彦峯山観音寺。ご本尊は不動明王。1596年ころ(慶長年間)に祐貞によって中興され、このとき現在の真言宗豊山派に改宗したということです。この寺の観音堂は室町時代の創設と推定され、三郷市最古の建造物といわれているようですが本日は固く扉が閉まっていました。

IMG_2654NO2.JPG
御菓司匠饅頭屋は大正2年創業の三郷市の篠田製菓饅頭屋とのこと。目玉商品は「観音どら焼き」「三郷インター最中」とのことでした。
「三郷インター最中」は本日の逸品でいただき、「観音どら焼き」は我が家のお土産にしました。
IMG_2687NO2.JPG

円能寺(えんのうじ)(福禄寿)
IMG_2659NO2.JPG
円能寺は、真言宗豊山派に属するお寺で、悲願山正連院円能寺と称している。本尊は不動明王。
当院は、武田信玄の家臣の田中修理という人が、1582年(天正10年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地に来たときに、携帯してきた不動明王立像を本尊として建立したと伝えられている。
IMG_2662NO2.JPG
境内には、かつて松の大木があって、明治維新のときの上野の戦いに破れた兵士が追われてきたとき、この松の木に登って身を隠したことにより、助かったという言い伝えがある。それからこの松を「忍者の松」とか「人助けの松」と称して、信仰の対象になっていたということでした。

西善寺(さいぜんいん)(大黒天)
IMG_2675NO2.JPG
西善院のご本尊は阿弥陀如来立像。像高90p、かや材寄木造、制作年代は鎌倉時代とのこと。この地区花和田周辺に人が住み始めたのは室町時代、西善院が建てられたのが1600年頃(江戸時代慶長年間)、現在まで西善院の代々の人々によって受け継がれてきました。

成就院(じょうじゅういん)(恵比寿)
IMG_2683NO2.JPG
成就院は、神谷山谷口不動尊成就院と号し、真言宗醍醐派の寺で、本尊は不動明王。
寺伝によると、この不動明王は、最初は下総国小金領大谷口城主(現在の千葉県松戸市)が本尊として供養していたもので、天正十八年(一五九〇)に落城した時、家臣の神谷安右衛門が密かに持ち出した。その後、この神谷氏から分家に出た者が当地に移住し本尊としてこの不動明王を供養していたと伝えられる。ある時、不動明王が主人の神谷安兵衛(安右衛門の子孫)の夢まくらに立ち、「村人の願いごとは何でも聞き届けるから、人々にこれを伝えなさい。」と教えた。そこで安兵衛は僧となり、明治初年に一堂を建立し、成田山新勝寺において不動明王の開眼供養をして当堂に安置した。
以来、厄除け、災難除けなど何でも願いごとを聞き届けてくれる霊験あらたかなありがたい不動様であると伝えられ、今日もなお近郷近在の老若男女の信仰の的になっている。

三郷市にはJR武蔵野線の駅として今朝到着した新三郷駅と今到着した三郷駅、それにつくばエキスプレスの三郷中央駅があります。この三郷駅は1973年(昭和48年)国鉄の駅として開業。開業当初に自動改集札機が試験設置された駅でもあります。1992年(平成4年)にはみどりの窓口も開始されましたからそれなりに混雑していたようです。しかしいまは新三郷駅や三郷中央駅が繁盛しており少し地味になってきているようです。
本日は七福神をめぐるウォーキングのはずでしたがお正月が終わっており各々の神様がほとんど見られませんでした。ということでここで整理しておきます。
まず七福神とは室町時代末期から生まれた福の神信仰なのです。埼玉県で有名なのは草加宿・武州与野・越渡川越が有名です。私はこの3つはすでに巡っておりますまた今回の三郷は3つの地区に七福人めぐりがあるそうで、今日は彦成地区七福神めぐりでした。
七福神は恵比寿(えびす)、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)です。以下にざっと概略を示します。
恵比寿(えびす)=日本の神様、漁業の神様、烏帽子帽をかぶり釣竿と鯛を持っています。
大黒天(だいこくてん)=元々はインドのヒンズー教の神様仏法の守護神、打ち出の小槌と大きな袋を持ち米俵の上に載っている、食物・財福の神様。
毘沙門天(びしゃもんてん)=元々インドのヒンズー教の神様、仏教では多聞天という神様、武神・守護神で甲冑を身に着け矛と宝塔を持ち邪鬼を踏んでいる。インドでは財宝の神様。
弁財天(べんざいてん)=女性の神様、琵琶を奏で音楽、弁才、財福をつかさどる神様。
布袋尊(ほていそん)=中国の実在した人物、大きな袋を持って諸国を放浪した方、平和和合、金運招福の神様。
福禄寿(ふくろくじゅ)=中国の同郷の神様の化身、道教の三徳(幸福・封禄・長寿)を具現化した神様、長い頭と長い白髭、杖を突き鶴屋亀を連れている。
寿老人(じゅろうじん)=中国の神様の化身、白髭のおじいさん、長寿のシンボルの桃や鹿を伴っている仙人で長寿、諸病平癒の福の神。
もうひとつ三郷には彦のつく地名が多いと伺いました。「彦」は男の子の名前につくことはよく知っていました。そして三郷には11の彦のつく地名があったのです。ちなみに上彦川戸・上彦名・下彦川戸・彦糸・彦江・彦音・彦川戸・彦倉・彦沢・彦成・彦野です。そしてこれらの地名がある所の立地をみると中川沿いに集中しており、沢や川、江など水に関する字も多いのです。そして調べてみると「彦ってのは古代の方言でヒクのこと。ヒクとは川沿いに堆積した土砂で出来た自然堤防のこと。肥沃な土に人が集まって出来た集落に、彦の字つかったとネットも駆使してわかりました。面白いですね。

ということで本日のウォーキングを終了。喜多見先生の先導で小松TDが後ろを固め、曇天で寒かったですが本日も18名が無事に元気に約19000歩の歩程を無事を終えました。
皆様、来月の次回は三郷市のお隣の八潮市です。またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 14:50| あちこちウォーク

2021年12月29日

2021.12.19 さいたま彩発見ぶらり街あるき 川口市

川口市は埼玉県南部、お隣が東京という位置にあります。人口60万人はとても大きな市というイメージ。川口駅から一歩出ると高層ビルが多い!そして公園が大きそう!が第一印象でした。
JR川口駅は改札が一か所。でもこれが幅広で改札機はざっと見ても15はありそう。
本日も改札口10:00集合。参加者11名、講師喜多見先生とTD林さん。

JR川口駅⇒川口駅東口・リリアパーク・キュポ・ラ広場⇒太郎焼⇒メロディ・ブリッジ⇒永瀬洋二像⇒川口西公園⇒ぶんかようちえん⇒イトーヨーカドウ⇒川口ロボンシティ⇒大徳稲荷神社⇒川口ブルワリー⇒川口樹モール⇒川口町役場跡広場「ココ川」⇒香楽園⇒成田山⇒川口神社・梅ノ木天神社⇒金山神社跡⇒旧鋳物問屋鍋平別邸⇒船戸ひまわり橋⇒川口の渡し・鎌倉橋の碑・川口市立南中学校⇒日光御成道⇒18ポンドカノン砲⇒永瀬家ビル⇒裏町通りと鋳物工場街並⇒川口市立文化財センター⇒錫杖寺⇒JR川口駅

JR川口駅に乗り入れている東北本線における埼玉県内最南端の駅で、この駅から栃木県の豊原駅まで大宮支社の管轄とのこと。ということで、川口駅と赤羽駅の間にある荒川橋梁の埼玉県側入口が大宮支社と東京支社との境界となっているということでした。1910年(明治43年)に川口町駅(かわぐちまちえき)として開業。1934年(昭和9年)川口町の市制施行により川口駅(かわぐちえき)と改称し現在に至っています。1日乗客約6万人。

川口西公園(リリアパーク)は、広域的な市民の憩いの場、また災害避難広場として必要な機能を備えた都市型公園。そばにはリリア(川口総合文化センター)や高層住宅群など周辺施設との景観にも配慮されていて、特に地場産業である緑と鋳物を活用した駅前公園として皆さんに親しまれているとのことです。このリリアパークは、総面積が3.1haで園内には13の彫刻があり、彫刻の公園としても知られているのです。

IMG_2270no2.JPG
川口駅東口すぐのところに「働く歓び像」がありました。この像は1974年(昭和49年)に設置。川口の代表産業鋳物と働く歓びを表しているとのことです。

IMG_2274no2.JPG
川口市東口埼玉りそな銀行前に青いポストがありました。このポストは鋳物で出来ているとのことで普通にポストとして機能しているとのことでした。

IMG_2279no2.JPG
足元の道路面のタイルは川口市の花、鉄砲ユリ(リリア)でした。

IMG_2278no2.JPG
太郎焼は昭和28年創業の川口名物で実はイコール今川焼のようです。

IMG_2287no2.JPG
メロディ・ブリッジと呼ばれる川口駅の西口と東口を結ぶ歩道橋に鉄の木琴(´∀`)がありました。左から叩くと “ふるさと ”を奏でました。この辺りは緑が多くちょっと静かな所でした。

IMG_2299no2.JPG
歴代市長さんのうち永瀬洋治さんは川口市出身。市立浦和高等学校[1]を経て1954年に立教大学を卒業し、川口市役所に就職、1967年に川口市議会議員、その後埼玉県議会議員を経て1981年から1997年まで4期16年川口市長を務めたようです。市長在任中、「文化の香る街づくり」を掲げて川口駅前の公害資源研究所跡地の払い下げを受けて川口リリアを建設、川口市民音楽協会会長に就任、第九の会などを設立したのです。

IMG_2324no2.JPG
現在、アリオ川口や大規模マンション群であるリボンシティがある場所は、かつてサッポロビールの埼玉工場があったところ。以前は、川口駅と工場を結ぶ専用線が敷かれていたようで道の両脇には機関車の部品をモチーフにした鋳物のオブジェが配置されていました。
アリオ前にはかってのビールの蒸留釜らしいものもありました。
IMG_2331no2.JPG

IMG_2339no2.JPG
大徳稲荷神社はかつて、旧サッポロビールの工場だった場所にあった神社で社号標には、日本のビール王と謳われた高橋龍太郎の名が刻まれています。

IMG_2362no2.JPG
川口ブルワリーは埼玉県川口市にあるクラフトビールのお店。店内で醸造したオリジナルクラフトビールと埼玉県産の小麦を使用した釜焼きピザが看板メニューとのことです。
本日はビールで炊いたビール飯が案外にあっさりとして美味しかったです。
IMG_2370no2.JPG

IMG_2373no2.JPG
川口樹モール(川口銀座商店会)は街路樹や街路灯などが一体となり、くつろぎながら買物ができるショッピングモール。

IMG_2378no2.JPG
川口町役場跡広場『ココ川』くつろぎ場となっていました。

IMG_2389no2.JPG
成田山川口分院は真言宗開祖、弘法大師・空海の霊験あらたかな大本山・成田山の正統なる分院として、その由緒ある法流と千年以上絶やすことのない本山の護摩供香煙を受け継いでいるとのことでした。家内安全、交通安全や各種祈祷、厄除などはもちろん、初詣に行くとご利益のあるお不動様として大変人気とのことでした。

IMG_2401no2.JPG
川口神社は平安時代の天慶(てんぎょう・938〜946年)年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請したものと伝えられているとのことです。ですからもとは氷川神社と称し、昔から領主や民の崇敬を集めてきましたのです。江戸時代には産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされたとのこと。明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山権現社を合祀して「川口神社」となったのです。

IMG_2397no2.JPG
梅ノ木天神社 由緒書きによると。往古川口町字新屋敷に天神社が鎮座していたが、明治27年に町の鎮守氷川社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されているとのこと。
昭和11年川口第一尋常高等小学校(現・本町小学校)廿楽校長より児童の勧学の神として天神様を祀りたい旨の要請を受け、道真公の御分霊を校庭の神殿に遷座して「梅ノ木天神社」と称したのです。しかしながら昭和20年代東和戦争敗戦の伴う敵占領軍の指令により、神殿ごと当神社に返還されたので、これを境内神社として奉安しその後、平成4年に新社殿を建設したのです。

IMG_2416no2.JPG
旧鋳物問屋鍋平別邸は明治末期の和風建築。本日は建物を詳しく見られませんでした。また裏手にある庭園が素晴らしいとのお話だけ伺いました。

IMG_2427no2.JPG
市中心部にある鋳物業者の住宅。南正面の木造二階建、入母屋造桟瓦葺で正面東端に切妻造洋瓦葺の別棟が突出して接続する。内部は一階に居間等、二階に客間を配し、別棟に洋風の玄関と応接間を設ける。鋳物産業で発展した川口市街の歴史的景観を伝えています。

IMG_2432no2.JPG
「川口の渡し」とは、将軍が日光社参の際荒川を渡り川口宿の渡船場を「川口の渡し」といったようです。この辺りの日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道です。もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」でした。家康は、その遺言により日光東照宮に祀られました。以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となったので特別な道が「日光御成道」なのです。

IMG_2438no2.JPG
18ポンドカノン砲は幕末の嘉永5年(1852)に、津軽藩より依頼を受けた増田安次朗(川口の鋳物師として名のあった増田家初代)が、後の砲術奉行を務めた高島秋帆と協力して作り上げたも。これは復元品で、当時は製作不可能とされていた大型大砲。嘉永5年から安政5年(1852〜1857)の5年間で213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本国を守るために全国各地に配備されたのです。全長:3.5m 重量:2.5t 口径:15p、射程距離:2500m

IMG_2450no2.JPG
永瀬孝男家住宅旧発電所。もともと自家発電施設で敷地東南隅に建つっていました。木骨煉瓦造平屋建、東西棟の切妻造鉄板葺で、東西二室に分けて北面に各出入口を設けたとのことです。躯体はフランス積で、東室の出入口をアーチ形とするなど丁寧なつくりで類例の少ない住宅附属の発電施設の遺構として貴重な存在なのです。

IMG_2459no2.JPG
かっては裏町通りと鋳物工場が並ぶ街並だったとのことです。今は普通の住宅街に見えました。

IMG_2501no2.JPG
川口市立文化財センターは川口の発掘調査の出土品をはじめとした文化遺産の収集・保管・展示を行っているとのこと。とても資料が多くゆっくり時間をかけてみるようでした。

IMG_2510no2.JPG
錫杖寺(しゃくじょうじ)は宝珠山と称しご本尊の地蔵菩薩(写真下)の由緒に「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあるようです。錫杖とは僧侶・修験者の持つ杖です。頭部は錫(すず)で作り、数個の鐶を掛けるのです。開基は740年(天平12年)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられているようです。1838年(天保9年)本堂焼失。1841年(天保12年)本堂再建。1852年(嘉永5年)川口の大火により堂宇類焼。1855年(安政2年)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は1975年(昭和50年)に新築されたとのこと。本堂屋根の頂上にある寺紋は徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章なのです。
また墓地には大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤め、大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行ったのです。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日へ移ったのです。その駕籠も錫杖寺に保存されているのです。実は滝山に仕えていた侍女の生家を頼ってこちらに来たとのこと。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせ、1876年(明治9年)72歳で逝去。 墓石には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」 と刻まれているとのことでした。

本日は風もなく晴天、9℃と絶好のウォーキング日和でした。ところが午後になり数日前に痛めた右足首捻挫が嫌に痛むはじめ、とうとう錫杖寺でギブアップ!ここで皆さんとサヨナラして川口駅に戻り帰宅しました。ということで私は16000歩を一応完歩。
その後の歩程は平柳蔵人居館跡・旧田中家住宅・日光御成街道一里塚碑・川口元郷駅と伺っておりました。誠に残念で、後日再訪しようと思います。
posted by yunofumi at 17:15| あちこちウォーク

2021年12月15日

2021.12.10 2巡目第11回東京新発見「品川区」

1か月ぶりの東京23区ウォーキングです。JR品川駅に集合してみると久しぶりに牧先生と間宮TDが見えました。早速10:00スタートで16人が出発です。

JR品川駅⇒港区立汐の公園・品川セントラルガーデン⇒天婦羅うえじま⇒屋形船平井⇒北品川橋⇒品川浦と船たまり⇒北品川通り商店街⇒北品川どうぶつ病院・問答河岸⇒清水横町⇒土蔵相模⇒歩行新宿裏町⇒袋井宿の街道松⇒黒門横町⇒品海公園⇒法禅寺⇒於春稲荷大明神⇒虚空地蔵⇒成田山⇒品川一心寺⇒聖蹟公園⇒添浦高札⇒寄木神社⇒品川橋⇒品川神社⇒品川宿交流館本宿お休み処⇒北馬場参道通り⇒品川神社・富士塚・板垣退助墓⇒御殿山・ザ・フォレスト庭園⇒ゲートウエイ大崎⇒デルソールショップ⇒容器文化ミュージアム⇒東京デザインスクール⇒五反田公園⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館⇒池田山公園⇒常光寺⇒宝蔵寺⇒国立科学博物館附属自然教育園⇒庭園美術館⇒JR目黒駅

品川浦と船たまり。
IMG_1895no2.JPG
かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため1962年(昭和37年)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のものとのことでした

IMG_1904no2.JPG
北品川どうぶつ病院の角には問答河岸跡の石柱があります。寛永の昔、徳川三代家光将軍は明君。沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建立。その時の問答があったことを示しているようです。

土蔵相模。
IMG_1918no2.JPG
旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られています。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのです。

IMG_1935no2.JPG
品海公園(ひんかいこうえん)は東海道五十三次の第一宿・品川宿の有った場所。公園入口に【品川宿】の石碑が立っていました。

IMG_1959no2.JPG
於春稲荷大明神は江戸時代からこの地にお祀りされてきたお稲荷さま。旗本板倉家の屋敷神であったとも、その後できた長屋に祀られたとも云われており、創建年代は定かではないようです。

デルソールSHOP
IMG_2109no2.JPG
リトアニアはかってのロシア革命中の1918年に独立を宣言した国。第2次世界大戦中はソビエト連邦に併合されていたようです。ランチはリトアニア発のパンDOMIPANとサラダ、マカロニグラタンのメニューでした。パンはバターなどを塗るのではなく上に他の食材を載せていただくようでした。
IMG_2113no2.JPG

ねむの木の庭。
IMG_2166no2.JPG
上皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地を整備し、2004年に開園した品川区立公園。公園名は美智子さまが高校生時代に作られた詩「ねむの木の子守歌」に由来。美智子さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木や草花約50種が植えられており、四季折々の表情が楽しめます。公園中央のシンボルツリー「ねむの木」は6月中旬頃に可憐な花を咲かせます。鮮やかなオレンジ色のバラ「プリンセスミチコ」は美智子さまが皇太子妃時代にイギリスのバラ育種会社から捧げられた品種で、春と秋に見頃を迎えます。
今日はエンブレスミチコがとてもきれいに咲いていました。
IMG_2160no2.JPG

池田山公園。
IMG_2176no2.JPG
この付近の高台は、江戸時代初期に備前国岡山藩池田家の下屋敷となり、次第に「池田山」と呼ばれるようになりました。大正時代末期から次第に宅地として開発され、都内でも有数の高級住宅地として知られています。品川区立の公園として1985年(昭和60年)に開園。起伏に富んだ地形を生かし高台から池をのぞき見るような形に造られた池泉回遊式庭園。梅(2月中旬〜3月中旬)、椿(2月下旬〜3月)、つつじ(4月中旬〜5月中旬)、花菖蒲(5月下旬〜6月上旬)、紫陽花(6月〜7月中旬)、紅葉(11月下旬〜12月上旬)など、四季折々の花が美しい公園として知られています。

常光寺は品川区上大崎1丁目周辺には9ケ所の寺が固まって建っているうちの一つ。福沢諭吉先生永眠の地碑や幼稚舎創立者和田義郎碑があります。
IMG_2186no2.JPG

IMG_2187no2.JPG

国立科学博物館附属自然教育園。
IMG_2209no2.JPG
園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹が広がり、ススキやヨシの草はら、池や小川などがあります。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。

IMG_2216no2.JPG
東京都庭園美術館は、1933年(昭和8年)に朝香宮邸として建てられ、アール・デコ様式の建物の空間を活かし、緑豊かな庭園が調和した美術館として1983年(昭和58年)に開館。2014年(平成26年)には新館が完成。2015年(平成27年)には本館、正門、茶室等などが重要文化財に指定され、「歴史的建造物」「美術作品の鑑賞」「緑豊かな庭園」を同時に楽しめる美術館として、ユニークな創造発信の場となることを目指しているとのことです。

本日はなんといっても昼食がはじめてのリトアニア料理ということで印象的でした。天候は曇り、気温12℃、無風でしたからまずますの気分でしたが後半がアップダウンの多い場所を訪れましたから、かなりの疲労を覚え2万歩超えはちょっときつかったです。でもまあ無事終了ですから一段落でほっとして終了でした。皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:11| あちこちウォーク

2021年12月13日

2021.12.5 さいたま彩発見ぶらり街あるき 深谷市

本日は11℃とやや冷え込んでいましたが集合がJR深谷駅10:15集合ということで朝8:00に自宅出発。東上線〜埼京線〜高崎線へと乗り換え、結局は1:30で到着。自分としては深谷は3回目の訪問ですが本日の目玉は渋沢栄一さんのアンドロイドと深谷大河ドラマ館なのです。

JR深谷駅⇒駅前広場清淵広場⇒古伝飴濱岡屋⇒カフェ花見⇒東白菊蔵元・藤崎藤三郎商店⇒深谷シネマ⇒ときわ園⇒旅館きん藤⇒笛を吹く武者⇒北川千代文学碑⇒深谷城址公園⇒深谷大河ドラマ館――路線バスーー誠之堂・清風亭⇒割烹楓⇒尾高惇忠生家⇒鹿島神社⇒渋沢栄一記念館・八基公民館⇒睦橋⇒青淵公園・青淵由来之跡碑⇒渋沢栄一生家・中の家――路線バスーー⇒JR深谷駅

IMG_1620no2.JPG
深谷市の玄関口であるJR深谷駅は、東京駅を模したデザインの駅舎。東京駅が深谷市産のレンガを大量に用いている縁から「レンガの街」をアピールする意味を込めて1996年に改築されたのです。明治期、新たな建築材料だったレンガが日本国内に普及するうえで渋沢が果たした役割は大きく、その重要な供給元として発展を遂げたのが深谷であり、そして出荷を支えたのが鉄道だったのです。昔は深谷にレンガ製造の工場もあったとのことです。
駅舎を下りると深谷のイメージキャラクターふっかちゃんと交代で渋沢さんのからくり時計が作動し、渋沢さんが愛嬌を振りまいていました。
IMG_1615no2.JPG

IMG_1607no2.JPG
ふっかちゃんの頭についているのは名産の深谷ネギ。結構人気者なのです。
駅前には町の偉人の渋沢さんの銅像があり駅前青淵広場と書いてありました。
IMG_1605no2.JPG
この像は1999年(平成8年)に田中昭により制作された2代目の銅像。1代目は後程伺う記念館にあるとのことです。

IMG_1628no2.JPG
古伝飴濱岡屋は明治に創業以来130年「あんこ」にこだわってきたお店のようです。北海道の小豆が原材料とのことでした。ここで本日の逸品で「明治大福」を美味しくいただきました。

IMG_1636no2.JPG
藤崎藤三郎商店は東平菊の蔵元。江戸時代の末期、1848年(嘉永元年)越後柿崎より現在の場所に移転して酒造りを始めたそうです。代表銘柄「東白菊」は関東の東に酒の清らかな白、清酒の香りを菊で表現しているとのことでした。お店の裏に回ると昔の景色が少し残っているようでした。
IMG_1644no2.JPG

すぐそばには昔の建物七ッ梅所蔵跡地に深谷シネマがありました。現在NPOの運営でもう18年間も頑張っているそうです。上映スケジュールも決まっているようでしたから機会を見つけて一度伺おうと思いました。
IMG_1650no2.JPG

IMG_1638no2.JPG
ここには深谷本陣があったそうです。

IMG_1671no2.JPG
旅館きん藤(きんとう)は中仙道沿いに江戸時代より営業している180年経つ老舗旅館。懐石料理、鴨料理等で人気あり。各種宴会可能。無線でコンピューター作業も出来る。風呂は人工温泉でゆっくり疲れがとれるのでスポーツ関係の合宿が多いとのことです。市内は無料で送迎バスがあります。

IMG_1683no2.JPG
「笛を吹く武者」は、平成7年に旧深谷市の市制40周年記念で建立されたもので、深谷城があった時代の武者の姿をイメージしてつくられたようです。 この像が立つ大手口公園は、かつての深谷城の正面口付近といわれていると伺いました。

IMG_1688no2.JPG
北川千代文学碑。大正から昭和期を代表する児童文学作家である北川千代は、1894年(明治27年に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)の日本煉瓦工場内の社宅で生まれました。
『世界同盟』など社会の現実を直視したテーマで多くの作品を発表。『みつばちマーヤの冒険』や『アンクルトム物語』などの翻訳。春やいずこや父の乗る汽車などを著しています。

IMG_1700no2.JPG
深谷市本住町にある『深谷城址公園』は、「深谷市民文化会館」「深谷市保険センター」と同じ敷地内にある、緑と瓦つくりが特徴の公園です。
春には桜を楽しむ事ができ、隣には深谷図書館もあるようでした。

IMG_1705no2.JPG
大河ドラマ館は、深谷生涯学習センター・深谷公民館の1階に展示されていました。
深谷大河ドラマ館は2021年2月下旬、埼玉県深谷市と東京都北区で「青天を衝け」NHK大河ドラマ館をオープンしたのです。コロナ禍ではありますが、約1か月間の運営で、来場者が10,000人を超えたとのことです。2022年1月10日までの設置だそうです。
埼玉県深谷市は、渋沢栄一生誕の地であり、青年期まで過ごした故郷でもあるのです。
ドラマ館では、ドラマで実際に使用された小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示、さらにはセット展示や記念撮影ポイントなど、大河ドラマの世界観を存分に体験できるようになっていました。
IMG_1714no2.JPG
台所の様子や衣装も面白かったですが私的に一番は惇忠さんの書でした。昔の方って筆が立つのですよね。
IMG_1724no2.JPG
面白かったのは建物の外に大きく張ってあった新1万円札。
IMG_1726no2.JPG

IMG_1736no2.JPG
誠之堂(せいしどう)は1916年(大正5年)渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちにより建築されたとのこと。設計は田辺淳吉。煉瓦造り平屋建、外観は英国農家風ながら室内は中国・朝鮮・日本の意匠がとりいれられているのです。喜寿を迎えたのを機に栄一は頭取を辞任しています。

IMG_1744no2.JPG
清風亭(せいふうてい)は1926年(大正15年)当時の第一銀行頭取佐々木勇之介の古希を祝って建てられた。設計は銀行建築の第一人者の西村好時で南欧の田園趣味、鉄筋コンクリート造り。

割烹 「楓」(かえで)で昼食でした。
IMG_1764no2.JPG

IMG_1766no2.JPG
煮ぼうとうコースをおいしくいただきました。

その後はご覧の通りのネギ畑を通ってウォーキング。
IMG_1772no2.JPG

尾高惇忠(おだかあつただ)の生家。
IMG_1776no2.JPG
惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えたとのこと。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟だったのです。惇忠は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めたのです。

IMG_1786no2.JPG
鹿島神社は下手計の鎮守社で境内には、渋沢栄一の師である尾高藍香りの偉業を称える頌徳碑が建立されていました。この碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号、中洲)の撰文によるものとのこと。 今では朽木となったが、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がっています。昔は根元に湧いた神水で共同風呂が設けられ、栄一の母、栄は、これを汲み、らい患者の背を流したと伝えられています。

IMG_1793no2.JPG
渋沢栄一記念館の1階資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていました。その後2階講義室で渋沢栄一アンドロイドによる講義を見学しました。
IMG_1800no2.JPG
昔の講演を現在の言葉に直した音声で「道徳経済合一説について」の講義、身振り手振り、瞬きも見事でイヤー結構びっくりしました。アンドロイドは大阪大学大学院基礎工学研究科石黒浩教授の技術指導があってできあがったようです。

IMG_1823no2.JPG
青淵公園は昭和12年に皇太子明仁親王の生誕奉祝記念事業として、八基村青年団により建てられましたのがこの青淵由来之跡の碑。清浦奎吾揮毫、栄一の甥にあたる渋沢治太郎撰書とのこと。このすぐそばに旧渋沢邸・中の家(なかんち)がありました。
IMG_1834no2.JPG
当時としては豪農だったと思われます。屋根にある鬼瓦がすごかったです。
IMG_1838no2.JPG

こちらは奥のお部屋で我々をお出迎え中のアンドロイド栄一さん。お辞儀などをしていました。
IMG_1829no2.JPG

その後スタート地点の深谷駅で解散。その後数人が例の濱岡屋さんへ行ってお土産をゲット。
私は「ふっかちゃんのたまご、渋栗、駅舎最中、塩豆明治大福」を購入しました。
IMG_1847no2.JPG

そうそう最後にやっとふっかちゃんマンホールを見つけ大満足でした。
IMG_1846no2.JPG
本日は喜多見先生、TD小松さんと共に18名が参加。天候は晴れ、11℃、微風でしたからウォーキング日和でした。途中、論語の里循環バスを2回利用し、16000歩とあまり疲れを感じないコース作りで大いに楽しめました。心残りは深谷大河ドラマ館がちょっと忙しかったのでもう一度、閉館になる前に伺いたいと思いました。
何しろ埼玉って面白いのです。
posted by yunofumi at 16:22| あちこちウォーク

2021年12月08日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午前の部

メトロ日比谷線築地駅⇒築地本願寺⇒備前橋跡⇒堺橋跡⇒聖路加国際大学⇒慶應義塾大学発祥の地・蘭学の泉はここ⇒浅野内匠頭邸跡⇒東京メトロ新富町駅⇒入船橋信号⇒靴業発祥の地⇒新大橋通り⇒新富町交番⇒築地橋信号⇒東京ハヤシライス⇒中央区役所⇒銀座ブロッサム⇒三吉橋⇒漫莉キッチン⇒あさり河岸跡⇒銀座1丁目⇒白魚橋IC⇒中央区立水谷橋公園⇒京橋親柱⇒銀座通り口信号⇒警察博物館⇒京橋大根河岸青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥之地⇒京橋3丁目⇒東京スクウェアガーデン⇒千葉定吉道場跡⇒嶋村――午後の部に続く

前夜は東京では大雨だったそうで、今朝の電車の各路線のダイヤが大きく混乱していたようです。私は自宅から1時間30分以内に到着予定でしたが2時間もかかり、有楽町線新富町駅到着時には少しお疲れ気味。しかし有難いことに東京メトロ日比谷線築地駅は有楽町線新富町駅と通路でつながっており、お陰様で築地駅にはちょっと歩きましたが無事に集合時間前に到着。講師土屋さん、TD新井さん、参加物10人はそれでも定刻9:30スタートしました。
 
東京メトロ日比谷線築地駅。
築地駅の副駅名は文字通り本願寺前。1963年(昭和38年)に開業。1995年(平成7年)3月20日に地下鉄サリン事件が発生した時この駅は営団地下鉄の駅として最も多くの被害者を出した駅だそうです。発車メロディは1番線が「オールマイティー」(塩塚博作曲)、2番線が「潮騒」(福嶋尚哉作曲)ということで面白いと思いました。

IMG_1337no2.JPG
築地本願寺(つきじほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院。ここは江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失しその後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになったのです。なお、この時の本堂は今と違い西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていたとのことでした。
1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたけれどすぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となったのです。

IMG_1348no2.JPG
昭和60年頃までは、岡山藩をしのばせる「備前橋:びぜんばし」が近くの築地川に架かっていたのですがその後、川は埋め立てられ、橋名のプレートが埋め込まれた親柱と欄干が中央区築地6丁目残るだけとなってしまっていました。

IMG_1351no2.JPG
築地川の暁川の下流側(本願寺方面)で工事をしていた時に草むらの中にこの石が見つかったことから堺橋跡とわかったのです。

IMG_1365no2.JPG
聖路加国際大学はキリスト教精神に基づき、社会の情勢に適応する医療・看護・保健福祉・公衆衛生にかかわる教育を授ける私立大学および医療施設でその他の教育研究施設の設置・運営を通じ、人類へ奉仕することを目的としています。

IMG_1359no2.JPG

IMG_1360no2.JPG
慶應義塾大学発祥の地。
慶應義塾の起源は、1858年(安政5年)に、福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことが始まり。中屋敷は江戸の築地鉄砲洲にあったようで中央区明石町の一部で、聖路加国際病院のあたりとのこと。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に、慶應義塾創立百年を記念して、聖路加国際病院敷地内に建立されました。設計は谷口吉郎。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていました。慶應義塾の開校記念日である4月23日に除幕式が行われ、式後すぐに中央区に寄贈され、昭和32年に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の現在の場所に移転されたとのことです。中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、その記念碑(「蘭学の泉はここに」)も隣接してありました。この二基は、合わせて日本近代文化事始の地記念碑と称されています。

IMG_1372no2.JPG
浅野内匠頭邸跡は、1645年(正保2年)に笠間から赤穂へ領地替となった浅野長直の江戸上屋敷があった地で、その子赤穂内匠頭長距が、1701年(元禄14年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に供されていました。赤穂浅野藩とその家臣大石内蔵助の仇討は有名で、昭和6年東京都旧跡に指定されたのです。

IMG_1380no2.JPG
地下鉄有楽町線 新富町駅のある“入船橋”交差点の 北東側の建物脇に立っているのが「靴業発祥の地」の石碑。日本で西洋式の靴が履かれるようになったのは, 江戸時代末期乃至明治の初めのころでしたが当初は軍靴が最初。また、築地の明石町一帯は明治初期には外国人居留地で 多くの外国人が居住することになり、靴の需要が多くなった場所でもあったのです。

IMG_1390no2.JPG
中央区役所は1947年の京橋区・日本橋区の統合で中央区が発足し、旧京橋区役所庁舎をそのまま中央区役所本庁舎として利用し、その後建て替えが行われた建物です。中央区役所の入るビルの地下1階・2階は、中央区立京橋図書館となっているとのことでした。

IMG_1394no2.JPG
中央区銀座・中央区築地・中央区新富と築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、1929年(昭和4年)12月に三叉の橋、三吉橋が架けられたのです。中央区では、平成4〜5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、また一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。

IMG_1404no2.JPG
蜊(あさり)河岸跡は中央区新富1-1・4のあたりで今は案内板があるばかりでした。 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川(かえでかわ)で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつで、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」がありました。嘉永6年(1853年)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。

「京橋」の地名の由来は、かつて存在した京橋川に架けられていた中央通り(東海道)の橋。これがかっての京橋の親柱。
IMG_1429no2.JPG
昔は運河が生活に重要な役割を果たしていたため、橋は地域の象徴的な場所だったのです。東京15区時代に区名となり、今日でも地名として使用されています。現在、橋は存在しません。しかしかつての橋としての京橋は、日本橋と並ぶ名橋で東海道にて日本橋を出発して京都方向に向かう場合、最初に渡る橋であったため重要な意味合いをもっていたのです。街としての京橋は橋の北側に位置し、銀座線京橋駅を中心とした地域なのです。これが今残っている京橋です。
IMG_1436no2.JPG

京橋大根河岸青物市場蹟。
IMG_1438n02.JPG
江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、青物市場が存在し通称「大根河岸」といわれました。もとをたどれば1661年(寛文元年)、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりだったようです。京橋に建つ大根河岸記念碑によると、遠近から多くの作物が集まり、数年も経たぬうちに店数が増加して市場としての形が整い、江戸の人々にとってなくてはならないものとなったのです。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で、かつ水運の便がいい京橋川に移転したのです。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれたのです。積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったということでした。
京橋川はもともと、天下普請で日比谷入江を埋め立てた代替として開削され、江戸城への物資供給経路として使われていたと思われます。京橋地区には江戸城下の港湾整備で10本の舟入堀があったし、外濠川の河岸も建築資材の倉庫として機能していたのです。そのため、京橋川は江戸城建設の基地にならず、河岸の移転が実現したのでした。

IMG_1440no2.JPG
江戸歌舞伎発祥之地。
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇にあり、すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑もあります。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。
近くでは十月桜が咲いていました。
IMG_1441no2.JPG

IMG_1450no2.JPG
千葉定吉道場跡。千葉定吉は、北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟。坂本龍馬は嘉永6年(1853年)、剣術修行のため故郷の土佐を出て、江戸の千葉定吉道場に入門した。千葉定吉道場があった場所は、東京駅からほど近い鍛冶橋交差点角・八重洲三井ビルのあたりと言われているが、異説もあるようです。
坂本龍馬が千葉定吉道場で修行を始めてまもなく、ペリー艦隊が浦賀沖に現れた。龍馬は藩命により品川の土佐藩下屋敷の防備の任にあたる。「いくさになれば異人の首を取って帰ります」と家族宛に手紙を送っている。日本中を揺るがすこの大事件に直接遭遇したことは、後の龍馬の生き方に大きな影響を与えたということです。
定吉の息子の重太郎は、龍馬の一回りも年長だったけれど、よき相談相手で親友でもあったのです。開国派の勝海舟を暗殺するため、文久2年(1862年)11月、龍馬とともに勝海舟邸に出かけたが、龍馬のほうが勝の論に心服しその場で門人になってしまったという逸話もあるのです。

IMG_1463no2.JPG
割烹嶋村は幕末の味まで愉しませてくれる日本橋ならではの割烹。嘉永3年(1850年)に日本橋の仕出し店として開業したのです。後に料理人としての確かな腕が認められて江戸城西の丸御用も務めたということでした。
 
午前は何しろ見聞することが多く、また昼食予約時間も迫っておりウォーキングしながらも大忙しの半日でした。まずは晴天の中順調に半日が無事に終わりました。
posted by yunofumi at 17:07| あちこちウォーク

2021年11月17日

2021.11.12 2巡目第10回東京の新発見「渋谷区」

JR信濃町駅⇒慶應義塾大学病院⇒信濃町煉瓦館⇒聖徳記念絵画館⇒新国立競技場⇒オリンピックミュージアム⇒法雲山仙寿院⇒将棋会館⇒鳩森八幡神社⇒渋谷千駄ヶ谷郵便局⇒千駄ヶ谷児童遊園地⇒国立能楽堂⇒神宮北参道PREX⇒JPR千駄ヶ谷ビル⇒DAIKYOビル⇒山手線裏参道ガード⇒明治神宮崇敬会⇒北参道⇒明治神宮本殿⇒西参道⇒代々木ポニー公園・東京乗馬倶楽部⇒代々木倶楽部⇒国立オリンピック記念青少年総合センター⇒バス停代々木5丁目⇒代々木公園動物病院⇒春の小川歌碑⇒公衆トイレ⇒代々木公園西門⇒十四烈士之碑⇒日本初飛行の地⇒代々木公園渋谷門⇒NHK⇒二二六事件供養碑⇒国木田独歩住居跡⇒AMWAYビル⇒松濤界隈・戸栗美術館⇒JR渋谷駅

JR信濃町駅(しなのまちえき)は、信濃町にある中央本線の駅で中央・総武線各駅停車のみが停車。面白いと思ったのは駅舎が信濃町、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町に、四ツ谷駅寄りは南元町となっていることでした。

慶應義塾大学病院は明治25年北里柴三郎博士を所長とする伝染病研究所設立が最初。今では約1000床の大病院で特定機能病院となって先進的医療を開発し質の高い安全な医療を提供しているのです。

IMG_0800no2.JPG
信濃町煉瓦館は慶応義塾大学病院の敷地の一部、旧食養研究所跡に建てられたそうです。1995年と最近造られた建物だがデザインとレンガという素材が、レトロな雰囲気のビルです。設計者は清水建設の大山尚男氏。このビルに使われた煉瓦は韓国から輸入されたままのを使ったとのことでした。

IMG_0817no2.JPG
聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された、神宮外苑のシンボル。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の在世中の事蹟を伝える大壁画(縦3m横2.5〜2.7m)が、画題の年代順に展示されており、当時の出来事で時代の流れを感じながら見ることができます。
すぐそばにはなんじゃもんじゃ(ひとつばたご)がありました。
IMG_0812no2.JPG
なんじゃもんじゃの木はこちらで3代目。花の時期は4月で4枚の白い花びらの小さな花がびっしり咲きとてもきれいとのことでした。

IMG_0821no2.JPG
絵画館前の白松。松といえば黒松、赤松が普通ですが、絵画館正面の池の両側に三本ずつ植えられています。白松(シロマツ、ハクショウ)は中国では神聖な木とされ、王宮や墳墓、寺院などに植栽されているとのことです。樹皮は光沢のある淡灰色。葉は3本づつ付いており、縁起が良いということで拾って帰りました。

IMG_0826no2.JPG
御鷹の松は江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったという言い伝えがあります。家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたということです。時代が下ってからは「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称されるようになったようです。昭和54年8月に絵画館前庭西側の現在地に移設されたようです。

IMG_0834no2.JPG
新国立競技場は2020年東京オリンピック・パラリンピックにはオリンピックスタジアム(英: Olympic Stadium)の名称で、主会場として使用された。1958年(昭和33年)に開場した国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧・国立競技場)の老朽化対応で建てられた施設で、仮称は新国立競技場。2016年12月に着工し、2019年7月3日に開場後の正式名称が『国立競技場』となったのです。

日本オリンピックミュージアム。
IMG_0838no2.JPG
この建物自体は、岸記念体育会館から移転したスポーツ競技団体の事務室のほか、日本オリンピックミュージアム、会議室、記者クラブ、岸清一メモリアルルーム(14階大会議室) などが入っているようです。
本日は外にあるオリンピックマークなどを見ました。
IMG_0840no2.JPG
第11回札幌オリンピック聖火台
IMG_0843no2.JPG
第18回東京オリンピックの聖火台、
IMG_0847no2.JPG
オリンピックの父クーベルタン男爵像
IMG_0850no2.JPG

IMG_0867no2.JPG
法雲山仙寿院は江戸時代、正保元年(1644年)に創建されたお寺。紀伊の太守・徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により、里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山としているとのことです。

IMG_0886no2.JPG
将棋会館。
将棋界は、江戸時代の約260年間、徳川幕府の庇護を受けて初代の大橋宗桂以来、 「家元制度」の元で三家(大橋家・大橋分家・伊藤家)より世襲の名人が出て、 伝統と歴史を積み重ねてきたようです。将棋会館1階の売店は色々なグッズであふれていました。現在は藤井聡太さんの大活躍で大いに盛り上がっているようです。

IMG_0894no2.JPG
鳩森八幡神社鳩森八幡神社は、御祭神に応神天皇・神功皇后をお祀りし、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を受けた神社。 境内には都の有形民俗文化財指定の築山富士があります。
IMG_0896no2.JPG
富士塚は寛政元年(1789)の築造で、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また冨士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませているとのことです。
IMG_0901no2.JPG
1986年日本将棋連盟の大山康晴十五世名人から王将の大駒が奉納されたことでできたのがこの将棋堂とのことでした。

さすが渋谷です。千駄ヶ谷郵便局そばにはこのようなマンホールがありました。
IMG_0908no2.JPG

IMG_0914no2.JPG
国立能楽堂は、日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場。1983年8月竣工。設計は大江宏。591席。まだこの中でお能をみたことはありません。

神宮北参道から本殿、西参道を通りました。
本殿斜め前には夫婦楠があります。
IMG_0945no2.JPG
途中の並木も秋めいておりとてもきれいでした。
IMG_0935no2.JPG

東京乗馬倶楽部では優雅に乗馬を楽しむ方が見えました。
IMG_0958no2.JPG

IMG_0967no2.JPG
代々木倶楽部は日本製鉄の福利厚生施設のようですが、一般人も利用できるようです。料理はどれも無難でリーズナブルの感じで、おいしかったです。
IMG_0974no2.JPG
これは、かなりの穴場で、知る人ぞ知る便利なレストランだと思いました。

IMG_0992no2.JPG
国立オリンピック記念青少年総合センターは第18回オリンピック競技大会(昭和39年)のレガシーとして設立された、青少年及び青少年教育指導者等の各種研修や文化・芸術、スポーツ、国際交流等、幅広い活動の場と機会を提供する国内最大の都市型青少年教育施設。渋谷・新宿からのアクセスがよく緑豊かな立地に、大小の研修室、ホール、体育館、プール、テニスコートや宿泊施設があるとのことでした。全国規模〜少人数の集会・講演会、サークル活動や部活動(スポーツ、音楽、演劇など)の練習、修学旅行の宿泊先、企業の社員研修等、さまざまな活動の場として、利用できるようです。

春の小川歌碑は代々木5丁目には歌碑が立っています。
IMG_1004no2.JPG
渋谷区を流れる宇田川(うだがわ)の上流、明治神宮・代々木公園の西縁、小田急線沿いを流れていたのが河骨川(こうほねがわ)で、戦前はのどかな農村風景が広がっており、国文学者・高野辰之は、春に花咲く河骨川を散策し、有名な『春の小川』を作詞、大正元年に発表、文部省唱歌となりました。

渋谷に出現した透明トイレ。世界的クリエイターが手掛けた「THE TOKYO TOIRET」プロジェクトの一環とのことです。
IMG_1007no2.JPG

代々木公園には西門から入り十四烈士之碑を見ました。
IMG_1014no2.JPG
十四烈士が所属していた大東塾(だいとうじゅく)は1939年(昭和14年)に影山正治が中心となって結成された右翼団体。終戦後の昭和25年に14人の方々が自決されたところのようです。

IMG_1019no2.JPG
日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・代々木公園)において明治43年12月11日〜20日に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功してのです。代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本初飛行の地としてこの日本航空発始之地記念碑が立っているのです。

代々木公園ではバラがきれいに咲いていました。
ケアフリーワンダー。
IMG_1027no2.JPG
パパメイアン。
IMG_1030no2.JPG

二二六事件供養碑。
IMG_1045no2.JPG
昭和11年2月26日〜2月29日、北一輝らの影響を受けた天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが起こしたクーデター未遂事件が有名な「二・二六事件」。二・二六事件慰霊碑は、昭和11年7月12日に東京陸軍刑務所敷地(現・東京都渋谷区宇田川町)で行なわれた銃殺のあった地に立っています。

松濤界隈は渋谷区の南西部に位置し、町域内の多くは住宅地となっています。東京都心を代表する高級住宅地の一つとしても知られています。「松濤」はかつてこの地に茶園「松濤園」があったことに因み、茶園の名が町名となっているとのことでした。

IMG_1052no2.JPG
戸栗美術館は、創設者戸栗亨が長年に渡り蒐集しました陶磁器を中心とする美術品を永久的に保存し、広く公開することを目的として1987年11月に鍋島家屋敷跡にあたる渋谷区松濤の地に開館。コレクションは伊万里、鍋島などの肥前磁器および中国・朝鮮などの東洋陶磁を主体として約7000点を所蔵し、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として活動し、年4回の企画展も開催しているとのことでした。

本日の渋谷界隈ウォーキングは10:00〜15:00まで晴天の空の元、講師大山先生、TD尾崎さん、参加者6名で優雅に25000歩は進みました。特に食事がのんびりした雰囲気でおいしくいただけたこともありがたかったです。コースが都心まっただ中でちょっとコロナ禍もある心配しましたが難なく終わりました。また今後のウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 19:22| あちこちウォーク

2021年11月14日

2021.11.7 さいたま彩発見ぶらり街あるき 吉川市

JR吉川美南駅⇒美南1・2丁目調整池⇒美南2丁目公園⇒美南中央公園⇒吉川中学校⇒高久大橋⇒けやき通り⇒蕎高神社⇒蜜厳院⇒観龍院⇒清浄寺⇒木売第2公園⇒JR吉川駅⇒天然温泉あゆみ⇒月の公園⇒智勝院⇒ますや⇒平沼信号⇒芳川神社⇒延命寺⇒さくら通り⇒まつざわ煎餅⇒かき川銘茶⇒甫中橋上第二大場川⇒鯰の里公園⇒鯰養殖場⇒JR吉川美南駅

JR吉川美南(よしかわみなみ)駅。
2012年(平成24年)に吉川駅と新三郷駅の中間で旧むさしの操車場跡地につくられた駅。
武蔵野線では、越谷レイクタウン駅開業以来4年振りの新駅開業となったとのこと。
駅周辺は今から開発が進みそう。そこに早々とイオンタウンができていました。また改札そばにはマスコットの「なまりん」がお出迎えをしていました。
IMG_0578nn2.JPG

吉川市 (よしかわし)は、 埼玉県の南東部に位置する 市で 人口は約7万人。 東京都心から約20 km 、 江戸川 と 中川・元荒川 に挟まれた水と緑が豊かなまちとのこと。
IMG_0587n02.JPG
これは美南1・2丁目調整池。

利根川を水源とした豊かな稲作地帯である吉川美南周辺は、同時に、浸水被害にも悩まされてきたようです。埼玉県では被害を減らすため、吉川美南エリアに注ぐ水の大半を貯めて浸水を防ぐ調整池を、約20年かけて造り、5丁目の「吉川美南調整池」をつくり、この1・2丁目のこの池は、13万㎥超の貯水力を持ち、吉川美南エリアを浸水から守るようです。いずれにしても、池の周囲には遊歩道をつくり、水と緑の光景を楽しみながら散策のできるスポットとして街に潤いをもたらしているようでした。

美南2丁目公園。
IMG_0594nn2.JPG
吉川美南駅から300mくらいの所にある公園。旧むさしの操車場があったことが分かるように貨車の制御弁やヤード輸送方式などが分かるようにしてありました。
IMG_0596nn2.JPG

美南中央公園は、吉川駅南特定土地区画整理事業によって整備され、平成22年に開園した公園。公園には、多目的広場や健康遊具などを整え、中でも小高い丘からは、調整池や多目的広場などを見渡せ、眺望も楽しむことができます。隣接する緑地を合わせ、市内で一番広い公園とのことです。
IMG_0607nn2.JPG
本日は近隣の消防関係者が集って救急などの訓練をしているようでした。
IMG_0611nn2.JPG

IMG_0627nn2.JPG

IMG_0632nn2.JPG
蕎高神社(そばたかじんじゃ)は『風土記稿』に「蕎高明神社 村の鎮守なり、祭神は龍神、密蔵院持末社 八大龍王 稲荷 疱瘡神 庵 大日を安ず、密蔵院より庵主を置けり」とあるとのこと。神社の祭神の龍神は、水神信仰による祭祀をうかがわせています。また、密蔵院については末寺四か寺、門徒寺一二か寺を支配した大寺であったことを載せています。二郷半領に鎮座する蕎高神社を同書に拾うと、こちらとに保村と高富村に各一社があり、いずれも密蔵院支配下の寺が管理していることから、蕎高神社の勧請に密蔵院がかかわっていたことが推察できるようでした。

IMG_0633nn2.JPG
真言宗系の寺院である密厳院は、正式には医王山錫杖寺。密厳院の創建年代は不詳のようですが、近隣に数多くの末寺門徒寺を擁する本寺格の寺院であったといい、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を拝領したということです。西新井組中川通四箇領八十八箇所57番、武蔵国三十三ヶ所霊場7番だそうです。また境内には八幡太郎義家と共に後三年の役(1087年)に奮戦した鎌倉権五郎景政の子孫一族の墓があるとのことでした。
庭の大イチョウは推定樹齢800年で埼玉県指定の天然記念物。
IMG_0635nn2.JPG

IMG_0659nn2.JPG
清浄寺(しょうじょうじ))の開基西念法師は、源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州(長野県)高井郡井上城主井上盛長の子として生を受け、三郎貞親と名づけられました。貞親5歳の時、父盛長が奥州の乱で討ち死にし、また29歳の時に母と別れ世の無常を感じ、当時流刑地越後(新潟県)におられた親鸞聖人を訪ね門弟とり西念称したのです。西念は31歳の時、聖人と供に武蔵国足立郡野田(さいたま市)に西念寺起立。その後、二郷半木売川戸(吉川市木売)に西光院(現在の清浄寺)を起立。西光院には親鸞聖人もたびたび足を運ばれ、有縁の人々に説法され、寺の縁起には『参詣市の如く群集せり』と当時のことが記されているのです。
現在、清浄寺には西念が親鸞聖人から賜ったとされる親鸞聖人木像が本堂に安置されており「おむくさま」と呼ばれています。西念亡き後 三代目の西順が御木像の失われることを恐れ、御木像を埋め隠したのです。やがて世の中は落着き、第四代了西の時代になり、御木像を埋めたところがむくむくと動き出し、この御木像が出現したということで、いつの間にか「おむくさま」と呼ばれ、掘り出した跡は池をつくり「おむくの池」として現在も寺の門前に残っているのです。
IMG_0658nn2.JPG

IMG_0664nn2.JPG
清浄寺にある宝塔。六角形の塔身石屋根は、鎌倉時代のこの種の石造物としては県内唯一のもの。塔身前面に西念法師と刻んでありました。 清浄寺はかつて西光院と称し、親鸞に命ぜられて西念法師が建てた寺と伝えらています。西念は信州高井の生まれで、親鸞の弟子二十四輩の一人。

IMG_0665nn2.JPG
本堂の手前に立つ板碑。頭部は山形、下に二条線、身部は二重線の輪郭を巻き、碑面中央に「南无(無)佛」、下方に紀年銘と光明真言を刻む。「南无仏(なむぶつ)と」は、仏に対し心から帰依することをいうようです。

IMG_0678no2.JPG
1995年(平成7年)に設置された金色の鯰(なまず)はJR武蔵野線吉川駅前南口にありました。吉川市は鯰の里としてPRしていて、シンボル的モニュメントとなっているようです。

吉川駅そばにはラッピーランドという観光案内兼売店がありました。
IMG_0679no2.JPG
足元には「なまりん」のマンホールもありました。
IMG_0682nn2.JPG

IMG_0686nn2.JPG
天然温泉あゆみはゆったりのんびり、天然かけ流しの温泉。源泉は43,6℃、泉質はナトリウム・塩化物強塩の中性。外には足湯もありました。

ますや。
IMG_0718nn2.JPG
吉川は、江戸川と中川に囲まれた川の街のため、約400年の昔から川魚料理の伝統があるのです。「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」の言葉どおり、今でも割烹・料亭が数多く、伝統の味を伝えています。
IMG_0716nn2.JPG
なまずは淡白でやわらかな味わいで、刺身でよし、焼いてよし、揚げてよしということでしたが私は今日だけで御馳走様の気分でした。私たちは「ますや」で食しましたが、吉川福寿家や料亭 糀家も有名だそうです。

IMG_0726nn2.JPG
芳川神社 の創建は1187年(文治3年)鎌倉時代初期とのこと。時の武士団「吉川氏」が、諏訪神社として再興。現在の拝殿は、1850年(嘉永3年)に再建され、吉川の総鎮守として現在に至っているようです。

IMG_0739nn2.JPG
真言宗智山派寺院の延命寺は、正式には寶光山地蔵院。延命寺は、1295年(永仁3年5)清仙が開山したようです。古河公方足利義氏逝去後に土着した西卜(戸張氏)が天正年間(1573-1593)に堂宇を再建して中興開基したのです。1648年(慶安元年)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、近郷に末寺・門徒寺22ヶ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ヶ寺と称されていました。西新井組中川通四箇領八十八箇所56番、武蔵国三十三ヶ所霊場初番です。

まつざわ煎餅。
IMG_0749nn2.JPG
本日の埼玉の逸品として名物の「なまずせんべい」をいただきました。
IMG_0764nn2.JPG
味は格段に普通でした。

鯰の里公園はちょっと見ただけでは普通の公園。災害に強いように色々工夫してあるようです。池が鯰の形でした。
IMG_0762nn2.JPG

鯰養殖場。
IMG_0778nn2.JPG
農事組合法人吉川受託協会が管理する鯰の養殖場です。平成8年(1996年)になまずの養殖が成功し今では吉川産なまずを生産・出荷しているのです。
網を上げてなまずを見せていただきました。ちょっと見はうなぎのようでしたが、うなぎよりは太めでした。
IMG_0786nn2.JPG

本日はまたしても晴天!19℃とベストコンディションの中、23名は全員元気にウォーキング。23000歩といつもより多めの歩程でしたがここのところウォーキングが続きましたので次第に歩きなれてきたように思いました。また色々楽しみます。
posted by yunofumi at 11:16| あちこちウォーク

2021年11月13日

2021.11.4 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたり=前回の続きで同日午後の部

江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校・公立本所小学校跡・勝海舟居住地・江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒東京スカイツリー⇒JR錦糸町駅

IMG_0359no2.JPG
松根屋扇子(せんす)は大正初期に創業。問屋街浅草橋で、扇子・団扇を専門に取り扱っているとのこと。末広がりの扇子は、福を呼ぶ縁起物で各種お祝いや記念品にまたお祭りの大うちわ、芸事に使われる扇子をはじめ、庶民の夏の涼となる扇子・団扇等色々あるようです。

この近くには有名ブランドの人形店がありました。
IMG_0361n02.JPG

IMG_0362no2.JPG

浅草見附け跡。
IMG_0366no2.JPG
神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が浅草見附と呼ばれ、1636年(寛永13年)に作られ江戸防衛の要だったのです。1657年(明暦3年)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出したことから、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近なのです。現在は橋のたもとに碑がありました。

IMG_0382no2.JPG
初音森は「江戸七森」に数えられており、多くの御神徳により1471年(文明3年)大田道灌公の寄進で社殿が建立され、田部氏が神主となって奉仕したのです。その頃は「美加度(ミカド)二社稲荷」等といわれたとのことです。すぐそばに資料館があり古い浅草御門の一部や古い神輿がありました。
IMG_0394no2.JPG

IMG_0397no2.JPG

明暦の大火の碑。
IMG_0407no2.JPG
明暦の大火(めいれきのたいか)は、1657年(明暦3年旧暦1月18日から20日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだようです。その後、防災への取り組みが行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されこれが現在でも上野広小路などと地名としても残っているのです。

両国橋。
IMG_0415no2.JPG
明治のころ両国橋の西側で橋の北側を東西に流れる川は神田川。左下は外堀、日本橋川。橋の南側は、「千歳の渡し」となっていたようです。両国橋が架けられた年には2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)。「千住大橋」に続いて隅田川では二番目の橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。当初の名称は「大橋」。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれたのです。
江戸幕府は隅田川の架橋は千住大橋以外認めてきませんでしたが1657年(明暦3年)の明暦の大火の際、橋が無くて逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人の死傷者が出たことから事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断、架橋後は本所・深川方面の発展に大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担ったのでした。

IMG_0425no2.JPG
両国花火と百本杭は武線鉄橋あたりの隅田川の東側に打たれていた護岸のための杭。湾曲して激しい流れだった川筋を和らげ土手を保護する役目を負っていました。風光明媚な上、明治中期まで鯉の釣り場として有名でした。

IMG_0437no2.JPG
両国花火資料館(りょうごくはなびしりょうかん)は、東京都墨田区両国二丁目にある博物館。花火の歴史や技術に関する展示がある様子でした。初めて気が付きましたのでまた後日機会を見て訪れてみたいものです。

IMG_0438no2.JPG
回向院は、今からおよそ360年前の1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土となり、10万人以上の尊い人命が奪われたのです。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々だったので当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりということです。

IMG_0468no2.JPG
本所松坂町公園 は、区立公園。高家肝煎を引退した後に吉良義央が暮らした邸宅があった跡地。赤穂浪士によって吉良義央ら二十余人が討たれた「吉良邸討ち入り」の現場。近くには吉良邸表門、裏門の案内もありました。

IMG_0477no2.JPG
近所の大川屋で初めて吉良まんじゅうを購入しました。

IMG_0484no2.JPG
両国公園は勝海舟の生誕地。由来碑や案内図がありました。

IMG_0488no2.JPG
両国小学校の角地に芥川龍之介の文学碑があり、杜子春の一節が刻まれていました。

IMG_0495no2.JPG
榛稲荷神社(はじばみいなりじんじゃ)は、墨田区両国にある稲荷神社。榛稲荷神社の創建年代は不詳。江戸時代当地周辺には榛馬場と呼ばれた武術練習場があり、練習場の土手に榛の木が植えてあり、この榛の木の傍に祀られて榛稲荷神社と呼ばれていたということです。また江戸時代には、当地周辺に葛飾北斎や勝海舟などが居を構えていたとのことでした。

東京東信用金庫両国支店(ひがしん)
IMG_0502no2.JPG502
こちらの銀行は建物の周囲に北斎の版画が所狭しと展示されていました。
一番面白いと思ったのはATMでした。
IMG_0507no2.JPG

IMG_0513no2.JPG

八角部屋。
IMG_0523no2.JPG
八角親方は第61代横綱北勝海。現役時代は幕内優勝8回となかなか活躍した方。今は部屋に30人以上の現役力士を抱えている様子です。

野見宿弥神社。
IMG_0540no2.JPG
日本相撲協会が管理所属している神社。かつてこの地の東側に相撲の高砂部屋があり、1885年(明治18年)親方あった高砂浦五郎の尽力で、元津軽家上屋敷跡に相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのがはじまり。境内に歴代横綱の名前を刻んだ石碑が建っています。

公立本所小学校跡。
IMG_0553no2.JPG
こちらはもともと久保尊保(田安徳川家旧臣)が1871年(明治4年)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)があったようです。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となったのです。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けたので尾張学校とも呼ばれていたようです。このあたりには勝海舟も居住したことがあるようです。

IMG_0566no2.JPG
津軽稲荷神社は、墨田区錦糸にある稲荷神社。津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたということです。

IMG_0572no2.JPG
電波塔を含め周辺施設は「東京スカイツリータウン」として2012年5月22日にオープンした、地上デジタル放送などの電波を送信する世界一高い自立式電波塔。伝統的日本建築などに見られる「そり」や「むくり」を意識したデザインや、五重塔になぞらえた心柱制でできているのです。東武鉄道及び東武グループのシンボル的存在で高さは634m。

本日は10:00JR浅草橋東口スタート。講師は東京シティガイドの小川先生、TD井上さんのもとに8名が参加。最後まで晴天で風もなく20℃、気持ち良く2万歩をウォーキング。また途中講師が気を利かせて吉良まんじゅうと東あられをゲットし、お土産ができました。
IMG_0575no2.JPG
古地図歩きは今の街並みを見ながら、昔のお屋敷や道路を重ねて想像しながらのウォーキングですからそれなりに面白みがあります。このシリーズは全10回です。本日は3回目の参加ですからまだまだ先が楽しみなのです。
posted by yunofumi at 09:26| あちこちウォーク

2021年11月10日

2021.114 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたりー午前の部

JR浅草橋駅東口⇒銀杏岡八神社⇒柳橋2丁目⇒元祖つくだ煮鮒佐本店⇒須賀神社⇒閻魔同跡⇒須賀橋交番前信号⇒旧浅草蔵前町名案内板⇒天文台跡⇒蔵前1丁目信号⇒且R縣商店⇒かじ取稲荷神社⇒蔵前工業高校⇒東京都下水道局⇒浅草御蔵跡⇒すみだテラス⇒北斎首尾の松の碇舟椎木の夕蝉⇒首尾の松⇒くらまえ橋郵便局⇒御蔵前公園⇒榊神社⇒東京工業大学⇒江戸そば蕎麦手打處 ここまで午前の部

これより午後の部 江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒両緑敬神⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校⇒効率本所小学校跡・勝海舟居住地⇒江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒スカイツリー⇒JR錦糸町駅

ここではまず午前の部の記事を書くことにいたします。

JR浅草橋駅は台東区の駅で最も南にある駅でJR東日本の運転系統は中央・総武線各駅停車と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている駅。

銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)。
IMG_0249no2.JPG
浅草橋駅のすぐそばにありました。その昔、源義家公が奥州征伐の際にこの場所で休憩中に川上より銀杏の枝が流れてきたのでその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願したそうです。そして奥州平定の後再びこの地に帰った時、銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが1062年(康平5年)とのことでした。

元祖つくだ煮鮒佐本店。
IMG_0255no2.JPG
鮒佐は、1862年(文久2年)に創業。159年の伝統を持つ佃煮の製造・販売の老舗。 鮒佐の名は、創業者である初代 大野佐吉が、醤油で『鮒』を付け焼きした「鮒のすずめ焼」を商っていた事と、佐吉の名前の『佐』に由来するとのことで、いまでは『鮒佐』が『佃煮の元祖』といわれているようです。

須賀神社。
IMG_0257no2.JPG
ご祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)。創建は601年(推古天皇9年)とのこと。この当時、この辺りで疫病が流行し、困った人々が牛頭天王(ごずてんのう)に病気平癒を祈ったところ、疫病が快気したことで当地に祠が創建されたということでした。江戸時代には「祇園社」「蔵前牛頭天王」「団子天王」「笹団子天王」などと称され、明治時代に「須賀神社」へと改名されたのです。社殿は関東大震災と第二次世界大戦で焼失しその後再建され、現在の社殿は昭和36年に造営された鉄筋コンクリートのものとなります。

閻魔堂(えんまどう)跡。
IMG_0264no2.JPG
閻魔堂石碑は須賀神社のそば、江戸時代の華徳院のご本尊だった閻魔堂のことのようです。華徳院は今では杉並に移転したのでこの石碑が残っているようです。

天文台跡。
IMG_0270no2.JPG
浅草天文台跡は、1782年(天明2年)に牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された江戸幕府の役所機関「天文方」の施設「頒暦所御用屋敷」のことで、1869年(明治2年)に廃止されるまで、暦を作るための天体観測などが行われていた所。日本地図を徒歩で測量した伊能忠敬もここに通っていたということでした。

IMG_0278no2.JPG
楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は江戸幕府米倉造営用の石材を船で運搬する際の遭難を避けることを祈願して創建された神社とのことです。

東京都下水道局がありました。ここには蔵前水の館という見学場所があるようですが今はコロナ禍で非公開でした。

浅草御蔵跡石碑。
IMG_0285no2.JPG
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買い上げ 米などを収納・保管した江戸最大の米蔵。 その敷地は、今の蔵前橋を中心に柳橋 2 丁目4番から厩橋手前に至る一帯の約 12万uもの広さでした。酒田からの幕府直轄領の米もここに運ばれ たのです。 隅田川岸の北から順に一番掘りから八番堀まで串のように堀が掘られ、弘化年 間(1844〜48)には、67棟356戸前(とまえ)の蔵が立ち並び、30 〜40万石の米が出入りしていたということです。ここで収納された米は旗本・御家 人への支給米や、幕府の非常備蓄米で勘定奉行支配下にあったのです。 御蔵の8筋の掘割は大正初期まであったがその後、護岸工事のため埋められ、蔵前一帯に当時の面影はほとんど残っていないのです。

IMG_0308no2.JPG
隅田川テラスに設置された、北斎の「首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」。御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていたので、御蔵前は釣りの名所でもあったようです。
これが現在の「首尾の松」。
IMG_0317no2.JPG

榊神社【第六天榊神社】。
IMG_0338no2.JPG
景行天皇の御宇四十年(110)日本武尊が、勅命により東国の鎮定に下向の折この地に国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮としたとのこと。古来より「第六天神宮」と称され公武衆庶の崇敬を受けてきた。明治6年榊神社と改称したのです。
浅草文庫跡碑が榊神社の境内にありました。明治の初めには浅草文庫と言われる国立の図書館があり、当時の太政大臣三条実美の筆による浅草文庫の朱印が押された蔵書が公開されたていたのです。その書物は今、国立国会図書館等にあるようです。
またこの境内には「蔵前工業学園之蹟」と刻まれた大きな石碑と碑文の説明板がありました。
IMG_0344no2.JPG
この地は1881年(明治14年)に「東京職工学校」が開設され、1890年(明治23年)に「東京工業学校」、1901年(明治34年)には「東京高等工業学校」と改称した。1923年(大正12年)関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒区大岡山に移転。1929年(昭和4年)に現在の「東京工業大学」となったのです。

IMG_0349no2.JPG
江戸蕎麦手打處「あさだ」は創業 江戸安政元年。その昔、中野で穀物商を営んでいた 初代・浅田甚右衛門がこの地に手打蕎麦屋を開いて150余年で現在、江戸前の伝統技術と心意気を受け継ぎ続けて八代目となりました。蕎麦粉は、主に北海道・茨城・福井の純国産の蕎麦の実。新蕎麦の時期には一年分の玄蕎麦を仕入れ、真空保存で鮮度を維持するように努めています。あさだの蕎麦は、毎朝石臼で挽き立ての粉を用いた、「練り・延し・切り」の全ての行程を手作業で行う、つなぎを一切加えない手打ちの十割蕎麦。ということでおいしくいただきました。
IMG_0355no2.JPG
ということで本日の午前の部を終了。約1時間の食事の後、午後の部に再び出発しました。
次回の記事もお楽しみに!!
posted by yunofumi at 20:44| あちこちウォーク

2021年10月25日

2021.10.17 さいたま彩発見ぶらり街あるき 鴻巣市

鴻巣宿は江戸時代の五街道の一つ中山道の七つ目の宿場でした。鴻巣の地名はかってこの地には国府が置かれ、「国府の洲」から「こうのす」に転じ、「鴻(こうのとり)伝説のことから現在の漢字「鴻巣」が充てられたとのことです。

JR鴻巣駅⇒御成町商栄会商店街⇒御成町東照宮⇒大正家⇒鴻巣寄席・西洋料理メイキッス⇒鴻巣御殿⇒鴻巣本陣跡⇒鴻巣駅入口信号⇒鴻巣宿おおとり公園⇒鴻神社⇒法要寺⇒菓子処大和屋⇒鴻巣保健所⇒法務局⇒鴻巣市役所⇒せせらぎ公園⇒鴻巣文化センター・クレアこうのす⇒埼玉県運転免許センター⇒鴻巣フラワーセンター・かねはち(昼食)⇒宝持寺⇒箕田小学校⇒箕田氷川八幡神社⇒箕田追分⇒JR北鴻巣駅

鴻巣駅(こうのすえき)は、高崎線と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが通っている特急なども停車する駅。発車メロディには、鴻巣市出身のシンガーソングライター・美根ゆり香の曲である「HANDS-大きな手から小さな手へ-」が流れているとのことでした。

東口広場には色々なお花と共に「ひな人形とはなの街こうのす」と《四尺玉煙火筒モニメュント》がありました。
DSCN7896no2.JPG

DSCN7897no2.JPG
鴻巣市は、古くから「人形のまち」として知られており、江戸時代から約380年の歴史を重ねる「鴻巣雛(こうのすびな)」はすべて手作業でつくられる美しいひな人形で、埼玉県の伝統的手工芸品に指定されています。鴻巣駅の近くに、人形店などが軒を並べ、伝統を現在に伝えてくれるエリアがあるとのこと。旧中山道が貫くこのエリアの町名は「人形」。これは「鴻巣宿」の時代から人形づくりが盛んであったことを伝えてくれる地名です。そういえば、「人形」という言葉が入る正式な地名は、日本全国にたった2つ。東京の「中央区日本橋人形町」と、こちらの「鴻巣市人形」だけとのことでした。
人形づくりの伝統を伝え、2005年から「鴻巣びっくりひな祭り」が桃の節句である3月3日の前後に、2週間以上にもわたって開催されています。メイン会場と複数のサテライト会場を合わせて、飾られるひな人形の数は、約1万体。メイン会場の鴻巣駅直結のショッピングモール「エルミこうのす」では「日本一高いピラミッドひな壇」の展示が見られるとのことでした。
《四尺玉煙火筒モニメュント》は2015年(平成27年)に設置されたとのことです。これは2014年(平成26年)10月11日に開催された花火大会で「世界最大の打ち上げ花火」として世界記録をギネスに登録された記念の、実際に使用した本物の筒だそうで、四尺玉の重さは464Kgもあるそうです。
鴻巣市の花の生産は寺谷地区から始まり、パンジーに引き続き色々な花々に挑戦し今ではプリムラ、サルビア、マリーゴールドの出荷量は日本一だそうです。お花は時期ものですが本日はウォーキング中にマリーゴールドが見られました。
DSCN7904no2.JPG

DSCN7905no2.JPG
御成町商栄会商店街に日本一小さい東照宮として「御成町東照宮」がありました。祠のそばの石碑には「東照宮 敷地奉納記念碑」とあるようです。

小さな東照宮のそばに鴻巣御殿の案内板がありました。
鴻巣御殿は徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所として使われたようなので地名としては御成町となっているようです。
ウォーク途中で100年以上続いている和食のお店「大正家」を見ました。
DSCN7908no2.JPG

西洋料理メイキッスの2階で鴻巣寄席が奇数月に開催されるようです。絨毯敷で100席はあるようですから本格的な落語を聞くにはよいところのようです。

鴻巣本陣跡は今では石碑だけがありました。桶川宿の次ということでいわゆる「間の宿」(あいのしゅく)だったようです。
DSCN7917no2.JPG

道路面には「こうのとり」の絵タイルがありました。
DSCN7925no2.JPG

中仙道沿いに「鴻巣宿おおとり公園」がありました。ここのモニュメントはコウノトリの羽をモチーフにしてありました。

DSCN7927no2.JPG
鴻神社(こうじんじゃ)はこうのとりのお宮ということで元は「国府の宮」。
鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました。明治40年4月8日に鴻三社から社号を改め『鴻神社』となったようです。三狐稲荷神社、幸の宮弁天社、宿神社、夫婦銀杏、なんじゃもんじゃ稲荷などがありました。
DSCN7931no2.JPG

DSCN7938no2.JPG
真言宗智山派寺院の「法要寺」は、正式には慈雲山医王院。長禄元年(1457)亮恵上人が開基。江戸期には加賀藩前田家の宿所となっていたとのことです。

DSCN7943no2.JPG
菓子処大和屋は昭和48年に創業。当初から原材料を吟味し、味や品質にこだわった季節毎の和菓子を変わらぬ味で守り続けているようです。製品としてはつきたて杵つき餅、川幅どらやき、ひな小町、栗どら焼き、ゆずまんじゅう、ぶどう大福、いがまんじゅう等があるとのことです。

せせらぎ公園は人気のSLの展示やコンビネーション遊具などが楽しめそうな公園。園内には小川のせせらぎや噴水もあるようでした。

DSCN7959no2.JPG
「鴻巣文化センター・クレアこうのす」には大ホール、小ホールをはじめ様々なコーナーがあるようです。歴史民俗資料コーナーには埴輪の展示がありました。

埼玉県運転免許センターは元々旧農林水産省農事試験場跡地に、1989年(平成元年)に設置された施設で埼玉県警察が管理する運転免許試験場。運転免許の学科試験や技能試験や限定解除審査、運転免許証の発行・更新・再交付、国際運転免許証の発行など多岐にわたる業務をしている所。普段私共は近隣の警察署で運転免許更新などを行っていますので滅多に伺うことがないのです。

25no2.jpg
鴻巣フラワーセンターは鴻巣市寺谷にある花卉(かき)市場。市場の運営は、鴻巣花き(株)によって行われているようでした。休日なのに施設内を案内していただきました。
昼食は2階のかねはちで海鮮丼をいただきました。
21no2.jpg

16no2.jpg
宝持寺はおよそ1000年前に渡辺綱が、祖父(箕田源氏の祖・源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に建立したと伝えられており、境内には全国の「渡辺さん」有志でつくる「全国渡辺会」が建立した顕彰碑も存在します。渡辺綱は平安時代中期から後期の武将で、坂田金時、卜部季武、碓井貞光らと源頼光の四天王の一人として活躍したのです。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋では付近に出没する鬼の腕を切り落とした逸話で有名です。

箕田氷川神社は渡辺綱が988年(永延2年)に当地に八幡宮を勧請したとのこと。この氷川八幡神社そばに渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったそうです。
18no2.jpg

11no2.jpg
箕田追分(みだおいわけ)は箕田源氏(みだげんじ)のゆかりの地である鴻巣市箕田(みだ)、中山道(旧中山道)の鴻巣宿と熊谷宿のあいだにある追分で、ここで北に向かって忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道と分かれました。
追分の交差点の南西の角には真新しい解説板が立てられ、きれいに整備されていました。

JR北鴻巣駅(きたこうのすえき)は、埼玉県鴻巣市赤見台一丁目にある、JR東日本高崎線の駅。上野駅発着系統と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車します。開業は1984年(昭和59年)。1日乗降客は約5000人とのことでした。

本日は午前中は雨降り。昼食と花き市場見学後の午後は雨も上がりひまわりやコスモスも楽しみました。
6no2.jpg
気温は22℃までありまずは上々で17名のウォーキングは22000歩で終了。
本日の埼玉の逸品は本手焼きおおとりの「川幅せんべい」。これは鴻巣市内を流れる荒川にかかる御成橋が対岸の吉見町まで2537mありこの川幅が日本一なんだそうです。
おせんべいそのものが大きく家族3人でいただきました。
2no2.jpg
ということで本日も喜多見先生、TD小松さんのおかげで無事終了。次回も頑張ります。
posted by yunofumi at 15:16| あちこちウォーク

2021年10月08日

2021 2021.10.2 古地図巡り 神田・湯島あたり

JR御茶ノ水駅聖橋口⇒神田川・聖橋⇒相生坂⇒湯島聖堂⇒都バス神田明神前⇒神田明神⇒妻恋神社⇒三組坂上信号⇒湯島天満宮⇒湯島中坂下信号⇒うなぎ神田久保田⇒外神田5丁目信号⇒東京メトロ末広町駅⇒神田キリスト教会⇒アキバ商店街⇒神田万世橋・ecute⇒藪そば⇒珈琲ショパン⇒神田連雀亭⇒六文そば⇒竹むら⇒出世稲荷神社⇒まつや⇒須田町歩道橋⇒多町大通り⇒神田青果市場発祥石碑⇒二十二代庄之助最中⇒松本家住宅⇒JR神田駅

JR御茶ノ水駅は神田川(外堀)南側(千代田区側)にあります。ここ何年も駅近辺の改良工事が行われています。古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていましたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が作られたとのことです。また同じ頃、その北側にあった高林寺(現在は文京区向丘に移転)から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったということでした。
そうそう、この駅には近頃JR御茶ノ水駅限定でお茶と水だけの自動販売機が設置されたようです。今日は聖口から出ましたので見逃してしまいました。
本日は古地図をもとにしたウォーキングですから古地図と現在の地図をいただき見方の説明がありました。
DSCN7668.JPG

神田川(かんだがわ)は、実は一級河川で荒川水系の支流で、三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流しています。流路延長24.6km。東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることはいまでは極めて稀とのことでした。
DSCN7674no2.JPG
聖橋は千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり、本郷通り(都道403号)を結んでいる橋。外堀通り、神田川、JR御茶ノ水駅を跨いでおり、駅の東端にあります。全長79.3mのうち、神田川の上部の36.3mが放物線を描くアーチ橋で[1]、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成したのです。聖橋の名前は両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことからきているようです。

湯島聖堂(ゆしませいどう)は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。
仰高門(ぎょうこうもん)
DSCN7688no2.JPG

孔子像
DSCN7695no2.JPG

大成殿(たいせいでん)
DSCN7704no2.JPG

神田明神(かんだみょうじん)は、外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)。神田祭を行う神社として有名です。神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっています。また旧准勅祭社の東京十社の一社でもあります。
随神門
DSCN7713no2.JPG

神殿
DSCN7716no2.JPG

獅子山
DSCN7722no2.JPG

銭形平次の碑
DSCN7725no2.JPG
この界隈を歩くと時代小説が思い出されます。岡本綺堂による「半七捕物帳」、野村胡堂による「銭形平次捕物控」、池波正太郎による「鬼平犯科帳」などがよく知られています。

湯島と外神田の境目にあるのが三組坂。ここは1616年(元和2年)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者が当地に屋敷地を賜りこのあたり一帯を駿河町と呼んだようです。その後、1696年(元禄9年)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改め、この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられたようです。しかし元禄以来、呼びなれた三組町は、1965年(昭和40年)4月以降、今の湯島3丁目となったとのことでした。

湯島天満宮の銅鳥居。
DSCN7743no2.JPG
鳥居の横には湯島神社、普段はみな湯島天神などと言っています。
458年雄略天皇2年に勅命で創建されたとのこと。その後太田道灌や家康公、菅原道真などの後押し、そして綱吉公が崇拝したことから大いににぎわったようです。また1703年には火災で全焼したが将軍綱吉公寄進が功を奏し再建。何度かその後も改築されたがもっとも最近では平成7年に総檜造りで造営されて今日の姿のようです。
本殿
DSCN7747no2.JPG

うなぎ神田久保田。
DSCN7763no2.JPG
こちらは1897年(明治30年)創業に老舗。地元の神田市場や秋葉原電気街の方々からも人気のお店とのことです。本日私たちはうな重をいただきました。
DSCN7767no2.JPG

DSCN7779no2.JPG
神田キリスト教会の最初の聖堂は、1877年10月、米国聖公会から派遣されたH.B.クーパー宣教師、クレメントT.ブランシェー宣教師によって建てられ、C.M.ウイリアムス監督(主教)臨席の下、献堂されました。しかし関東大震災で倒壊、第二次世界大戦では焼失しました。現在の礼拝堂は、1991年に建設されたもので、内部にはパイプオルガンが備えらえているとのことでした。

アキバ商店街
DSCN7781no2.JPG
秋葉原の電気街のあたりは江戸時代には下級武士の居住区。もっともと江戸は火事が多かったので静岡の沈下の神様秋葉神社を勧請したのが地名の始まりのようです。1890年(明治23年)上野からの鉄道延長で駅名が秋葉原となったのが今日に続いているとのことです。
 一般に、秋葉原電気街は、太平洋戦争後、駿河台/小川町界隈の闇市が、徐々にラジオ部品を専門に扱うようになり、進駐軍の露店整理令によって、1951年(昭和26年)ガード下に収容されたことが始まり。その後高度成長期、オイルショックの時代の後には家電全盛期やPC時代に入り、今ではオタク文化の殿堂みたいになっており、ごちゃごちゃした街には人があふれていました。あちらこちらにメイド喫茶がありまいsた。

DSCN7795no2.JPG
中央線神田〜御茶ノ水間には1912(明治45年)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋がありました。そのころを振り返り階段、壁面、プラットホームなどの遺構をよみがえらせ、今は嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設になっています。旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を『2013プラットホーム』として整備、デッキとして見物できるようになっていました。高架橋にある旧万世橋駅のふたつの階段は1912段と1935段ありこれを上ると、線路階にあるホームに出て、実際に駅構内を歩く気分で回遊できます。ホームではガラスに囲まれた展望デッキがあり、 中央線がすぐ両脇を行き交うのは結構な楽しみでした。

DSCN7824no2.JPG
藪そばは1880年に創業。作家池波正太郎もよく通ったお店。木造2階建ての現店舗は、関東大震災後の1923年に建築された。佐々木芳次郎の設計による数寄屋造りで、東京都選定歴史的建造物でもある。加山雄三の主演映画『帰ってきた若大将』のロケもこの店で行われた。2013年2月19日夜出火し、店舗のほか隣接する建物と合わせて焼けるという火事に見舞われた[9]。以後1年8ヶ月に渡って休業し、重要文化財などの文化財指定以外では初となる東京都選定歴史的建造物の解除(事実上の取り消し)となった。2014年10月20日に新家屋が再建され、営業再開したのです。

DSCN7828no2.JPG
珈琲ショパンは昭和8年創業の老舗喫茶店。美しいステンドグラスが映える店内には、創業当時から使われているアンティークの調度品が並び、自慢のブレンドコーヒーは通常の3倍の豆を使用して濃厚で贅沢な味を楽しめまるとのこと。

DSCN7832no2.JPG
神田連雀亭(かんだれんじゃくてい)とは、東京都千代田区神田須田町にある寄席。二ツ目の落語家・講談師専用の定席として運営されている。
2014年10月11日に落語家古今亭志ん輔のプロデュースにより開設されたコンパクトな寄席。オーナーは加藤伸。座席数は38名。立ち見は不可。高座は、奥に向かって狭くなる3角形をしており、上手側(客席から見て右側)が楽屋になっている。席亭やスタッフはおらず、出演者自身が呼び込み、受け付け、開演時の案内などを行う。高座と客席が極めて近く、臨場感がある会場として知られる。また二つ目や若手真打が会を開くのにちょうどよい収容客数であるため、独演会や勉強会などが行われることも多い。

DSCN7845no2.JPG
竹むらは1930年創業の歴史ある建屋と趣き。池波正太郎も愛した揚げ饅頭が有名な、神田淡路町の甘味処。 人気はやはり揚げ饅頭と、粟ぜんざい。 戦災を逃れた木造三階建てのお店は、東京都選定歴史的建造物にも選定されています。

出世稲荷神社
DSCN7852no2.JPG

7854
神田まつや
DSCN7854no2.JPG
蕎麦の激戦区、東京都千代田区神田にあります老舗のお蕎麦さん。 店構えが歴史を感じさせます。

神田青果市場発祥石碑は靖国通りの 裏通りの“老川ビル”の前から、靖国通りから多田通りに入ったすぐの歩道上にありました。この神田須田町付近には 江戸時代の初めごろから 青物商が集まっていたのです。その後 徳川幕府は各所に散在していた青物商を この地域に呼び集め,御用市場として育成した結果, 駒込・千住と並び「江戸三大市場」として栄えたとのことです。明治となってからも政府公認の市場として引き継がれましたが,関東大震災で全滅し 外神田(秋葉原駅北側)に移転。東京市中央卸売市場神田分場として 東京の台所をあずかる重要な市場となったのです。しかし戦後の東京の膨張にともない 秋葉原のこの場所も手狭となり,1989年(平成元年)には大田区の大田市場に移転したようです。

DSCN7868no2.JPG
二十二代庄之助最中。
角界御用達で、贈り物にぴったりの商品を置いているという和菓子店。大相撲の行司の最高位である「立行司」をつとめた、二十二代木村庄之助にちなんだお店で、その長男が昭和24年に開業したとのこと。これで3度目くらいの訪問ですが本日はまたしてもお休みでした。

DSCN7876no2.JPG
松本家住宅は神田多町問屋街に残る震災復興町家で、多町大通りに面した角地に東面して建つ。木造3階建、切妻造、平入で、正面は出桁造の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとする。東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重である。

本日の古地図巡りは御茶ノ水駅を中心としたコース。最後は東京復活大聖堂(ニコライ堂)を見る予定でしたが終了後の予定がありこちらはエスケープ。
講師小崎先生、TD久森さん、参加者10名、晴天で気温29℃、微風の中でのウォーキングでしたから気持ちの良いコンデションでした。おかげで14:00にJR神田駅終了とし、12000歩、約5km。ちなみにこのシリーズは全10回。本日は2回目ですから先は長い!!またがんばります。
posted by yunofumi at 15:36| あちこちウォーク

2021年07月11日

2021.7.4 さいたま彩発見ぶらり街あるき 行田市

埼玉という名前の由来のさきたま古墳のある行田です。室町時代に築城の忍城の城下町として発展し、今も足袋つくりの街なのです。

秩父鉄道行田市駅⇒栗代蔵⇒時田蔵⇒足袋とくらしの博物館⇒ぷらっとぎょうだ⇒高札場跡⇒武蔵野銀行⇒埼玉りそな銀行⇒行田郵便局⇒小川源蔵右衛門蔵・カネマル商店⇒行田八幡神社⇒そばてんぷら田丸屋⇒清善寺⇒十万石まんじゅう⇒水城公園⇒佐間天神社⇒天真山高源寺⇒行田佐間郵便局⇒県営行田佐間団地⇒イタリアン トラットリア ラノッキオ⇒日本航空館⇒元成田橋⇒埼玉県立さきたま史跡の博物館⇒前玉神社⇒金澤製菓⇒稲荷山古墳⇒古代蓮の里⇒JR行田駅

秩父鉄道は1899年(明治32年)、「上武鉄道株式会社」として設立。1901年(明治34年)熊谷〜寄居間(18.9キロ)が開業。1930年(昭和5年)、現在の秩父本線 羽生〜三峰口間全線が営業しています。1916年(大正5年)、現在の秩父市が名称変更となり社名も「秩父鉄道株式会社」に改称したとのことです。ということで2019年には創立120周年を迎えたのです。熊谷を過ぎると行田市駅でした。改札前には「足袋蔵のまち行田」の幕が掲げられていました。

DSCN7087no2.JPG
栗代蔵は1906年(明治39年)建設の元栗原代八商店の土蔵造りの足袋蔵。現在はNPO運営の観光案内所兼まちづくり情報センターに活用されており、2階には日本遺産ガイダ ンスセンターもありました。

DSCN7091no2.JPG
こちらは時田蔵。明治36年築と大正初期頃建設の2棟の土蔵造りの足袋蔵で、外観のみ見学可能。行田では珍しい表通りに面した袖蔵形式の土蔵で、日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にもなっています。

DSCN7095no2.JPG
「足袋とくらしの博物館」は元、牧野本店の足袋工場。建物が使われなくなった後、2005年10月、工場の面影をほぼそのまま残した博物館として生まれ変わったのです。 博物館では展示物や元足袋職人さんによる実演を見学できます。

DSCN7099no2.JPG
「ぷらっと♪ぎょうだ」は行田市の観光物産館で令和3年4月より観光物産館としてリニューアルオープン。店内は日本遺産に認定されている行田らしい和モダンな雰囲気でおしゃれなデザインの足袋やアフリカなどの海外のカラフルな生地を使用した南河原スリッパ等地場産品をはじめ、行田の地粉を使った「行田の餃子」、奈良漬、十万石まんじゅう、わたぼく牛乳など約50社350種類の商品が揃っていました。

2020年春よりコロナウィルスによる自粛生活が続いており行田八幡神社で「花手水」がはじまったとのことです。
今では地域全体で花手水を飾る「花手水week」が始まっており本日はあちらこちらできれいな花手水をみられました。
DSCN7102no2.JPG

DSCN7118no2.JPG
県道128号線の市役所前〜栄橋の860mの間に昔ながらの遊んでいる童の銅像がみられました。この間には電柱がなく、童の姿にちょっとほっこりしました。

DSCN7113no2.JPG
高札場は江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所で、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げている所だったのです。

DSCN7115no2.JPG
鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建の武蔵野銀行行田支店は1934年忍貯金銀行として建設。外壁はスクラッチタイル張とし,開口部周りやコーニスには装飾を施した「カストストン」が張ってありました。

DSCN7124no2.JPG
小川源蔵右衛門蔵は酒屋の現役の石造蔵。昭和7年に建てられた商品倉庫。大谷石の壁面に取りつけられた看板と、軒の屋根瓦とのバランスが見事。現在はお隣でお店をやっていました。

DSCN7130no2.JPG
行田八幡神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失しています。天文年中に、現在の地に移り、忍城主成田下総守長泰公が社殿を修補し城下総鎮守となったようです。現在の社殿は、皇紀2650年を記念して造営が進められ、平成元年11月の竣功、平成12年には参集殿が竣功したのです。

DSCN7146no2.JPG
曹洞宗寺院の清善寺は、正式には平田山清善寺。清善寺は、1440年(永享12年)に当地の豪族成田刑部少輔顯忠(清善斎全中)により平田精舎として創建されたとのことです。成田刑部少輔顯忠は1519年(永正16年)に亡くなったのですが、時の城主成田氏15代親泰がその死を悼み、一寺を建立して平田山清善寺と称したということです。1533年(天文2年)成田氏16代長泰により再興、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎えて忍城内に開山したのです。慶長9年には寺領30石の御朱印状を拝領したと伺いました。

DSCN7120no2.JPG
十万石まんじゅうの行田本店の建物は、国の登録有形文化財で、築100年で江戸様式蔵づくりです。平成29年には県内初、「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定され、行田の美味しいお菓子を目指し、「うまい、うますぎる『十万石まんじゅう』」をはじめ、安心安全な商品が色々あります。
秩父線行田市駅より徒歩4分 旧国道125号線沿いの本店には立ち寄れず、水城公園店で色々購入しました。

水城公園。
忍城そばのお堀の跡にかっては忍沼と呼ばれる大きな沼がありそこは埋め立てられて現在は市役所や市立体育館となったとのこと。そしてその末端が「水城公園」として昭和39年に開園したのです。広さ約10.3ha。桜が200本もあるとのことですから春は見事なことでしょう。公園入口に大正時代の建物が今、VertCafe(旧忍町信用組合店舗)となっていました。
DSCN7180no2.JPG

DSCN7189no2.JPG
佐間天神社(さまてんじんしゃ)の創建は、成田氏15代目忍城主成田親泰が、1491年(延徳3年)忍城築城の折、谷郷春日神社西を、城の外堀へ川の水を導水する際の取水口とし、天神坊を出口としたと伝えられています。その天神坊を「慈眼山安養院」とし、その守護神として天神社を勧請したのが始まりとのことでした。

DSCN7193no2.JPG
天真山高源寺は、忍城主成田氏ゆかりのお寺。忍城水攻めの際、石田三成が忍城に総攻撃をかけたが守将正木丹波守利英公が撃退したそうです。正木丹波守利英公は、この戦いで命を落としたすべての侍や農民の菩提を弔うため、この寺を建立したとのことです。
DSCN7216no2.JPG

DSCN7219no2.JPG
昼食は「イタリアン トラットリア ラノッキオ」の行田古代米カレー、ミニサラダ、ゼリーフライのセット。古代米は古墳の形に盛り付けられておりちょっと面白い!ゼリーフライはちょっと見はコロッケと似ていますが、おからを主原料としてじゃがいもと野菜を入れたパン粉を使わない揚げ物。しっとりもちもちとした食感の美味しい一品でした。

DSCN7224no2.JPG
武蔵用水路沿いの所にある埼玉スバルの「さきたまガーデン」内に「日本航空館」を設け、「一式戦闘機 隼」ほか中島飛行機が生みだした名機の模型展示、富士重工業製で初の国産ジェット練習機「T-1初鷹」の実機も一般公開しているとのことでした。

DSCN7236no2.JPG
埼玉県立さきたま史跡の博物館はさきたま古墳公園(9基の大型古墳からなる埼玉古墳群(国の史跡)を整備した公園)内にある博物館で1969年(昭和44年)に開館したとのことです。展示施設は本館と将軍山古墳展示館からなっているとのこと。国宝展示室では「金錯銘鉄剣」(国宝)などのさきたま古墳群やその周辺の遺跡の出土品が展示されていましたが写真撮影は禁止でしたけれど実際に見て大いに感激しました。
博物館の前庭には埼玉県名由来の石碑がありました。
DSCN7244no2.JPG

前玉神社(さきたまじんじゃ)はさきたま古墳群に隣接する神社です。その昔、「幸魂神社」と書いたようです。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱で、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られているとのことでした。
DSCN7271no2.JPG

DSCN7265no2.JPG
本殿
DSCN7270no2.JPG
前玉神社本殿に登る階段をはさむように、1697年(元禄10年)に当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した燈籠がありました。高さは180p。この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれているとのことでした。
DSCN7269no2.JPG

DSCN7277no2.JPG
前玉神社門前には金澤製菓があり古墳最中の旗が出ていましたが今日は「元祖塩あん餅(塩あんびん)・元祖甘あん餅(あまあんびん)」をお土産にしました。

DSCN7284no2.JPG
この後は古墳群公園をウォーキング。前方後円墳の二子山古墳、将軍山古墳を見た後、稲荷山古墳に行き、ここは上まで登れるようになっていました。
その後これより2kmの表示通りに歩け!歩け!で「古代蓮の里」に到着でした。
DSCN7290no2.JPG
古代蓮の里はもともとこの地そばで偶然出土した蓮の種がそれも偶然開花し、発見されてできたようです。今では天然記念物「行田蓮」(古代蓮)は行田市のシンボルです。蓮の花は4日間の命ですがそれにしても見事に咲いていました。
古代蓮会館前には世界の蓮園があり42種、約12万株を見ました。
DSCN7382no2.JPG
紅万々 
DSCN7354no2.JPG
剣舞蓮
DSCN7356no2.JPG
誠蓮
DSCN7387no2.JPG
また古代蓮会館の後ろには古代蓮池が広々とありそれは見事でした。
DSCN7400no2.JPG
行田蓮が花盛りでした。
DSCN7410no2.JPG

DSCN7416no2.JPG
その後古代蓮会館の50m展望タワーに上り、眺望を堪能しました。蓮池の全体も見えましたがなんといっても広大な水田をキャンパスにした「田んぼアート」が見事でした。
DSCN7425no2.JPG
今年は6月12日にボランティアも含め総勢377名で田植えをしたそうです。本年の令和3年度デザインテーマは『田んぼに甦るジャポニズム〜浮世絵と歌舞伎〜』。ちょうど今日は見ごろの時期だったようでとても堪能しました。そして来年も見に来たいと思いました。
こうして本日は古代蓮会館前15:49のバスでJR行田駅に戻り、解散でした。

本日は上福岡〜川越〜大宮〜熊谷〜秩父鉄道行田市駅までが遠かった!そして10:15小雨の中、講師の喜多見先生、TD小松さんと共に19名が出発。途中の写真はちょっと雨降りの為、余裕もなく、あまり満足しないものが多かったのです。それでも帰宅すれば24000歩でしたから、まずは満足した1日でした。しかしです。蓮の花を充分に楽しめなかったこと、忍城を垣間見たけれど写真を写せなかったことが「残念!」という気持ちが残った一日でもありました。ということで数日後の行田市再訪を試みることにしました。

                     
2021.7.7 行田市再訪ドライブ
3日前の行田市ウォーキングは小雨の中でのウォーキング。本日は「晴天」ということで仕事をお休みし、行田市再訪のドライブです。

古代蓮の里⇒水城公園⇒十万石まんじゅう⇒行田市郷土博物館・忍城

「古代蓮の里」はとっても良かったです。展望タワーから見た蓮池や田んぼアートは本当に堪能しました。この日の蓮の写真は上記の7/4の記事の写真にしてあります。
行田市役所の駐車場に車を入れてから水城公園を散歩。芝生広場の反対側の池にラッキーなことにホテイアオイが咲いていました。
DSCN7441no2.JPG

DSCN7442no2.JPG
ホテイアオイは南米原産の外来種。非常に繁殖力が強い水草だそうで、あちこちで生態系を壊していて、世界中で問題になっているらしいです。日本では、「世界の外来侵入種ワースト100」などというありがたくない称号をいただいているようです。でも、花はきれいです。8月が最盛期と聞いていましたが、今回撮影できてラッキーでした。ホテイアオイの花は普段は葉の下にいて、咲くときに一日だけ顔を出すそうです。

街をウォーキング中に行田市ならではのマンホールも見つけました。
DSCN7455no2.JPG

行田市産業文化会館のそばに貴婦人と呼ばれる「蒸気機関車C5726」が鎮座していました。
DSCN7453no2.JPG

いよいよ忍城(おしじょう)に向かいました。
世間的には映画「のぼうの城」の舞台となったところです。
「忍城(おしじょう)」は、古く文明年間(1469〜1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされており、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられているようです。
1590年、豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で、石田三成らによる水攻めを受けたけれどこの水攻めは失敗に終わっており、このことから「浮き城の町 行田」とのキャッチフレーズとなって今に残っているようです。
この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれたけれど、明治6年に競売されて解体されてしまったそうです。その後、復元された御三階櫓は現在では資料館になっていて最上階の4階は展望台でした。郷土博物館から廊下で続いていました。
まずは忍城御三階櫓のきれいな姿を見ながら浮き城の径を行くと門がありそこから入りました。
DSCN7463no2.JPG

DSCN7468no2.JPG

とてもきれいな花手水がお出迎え。
DSCN7477no2.JPG

DSCN7474no2.JPG

DSCN7470no2.JPG

DSCN7480no2.JPG
行田市郷土博物館は、忍城(おしじょう)の本丸跡地に位置する博物館で住所が本丸になっていました。多くの実物資料が展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化が見られました。周辺は城址公園として整備され、自然に囲まれた憩いの場のようでした。
また博物館の中から御三階櫓につながっており、中を見ることができました。
こうしてようやく行田市見て歩きに満足した次第です。もちろん行田市郷土博物館では続日本の100名城スタンプをいただきました。ということで本日は約10000歩。どうやら日頃の歩数を達成し満足な1日となりました。
posted by yunofumi at 12:16| あちこちウォーク

2021年06月23日

2021.6.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 桶川市

JR桶川駅⇒西口公園⇒埼玉文学館⇒第六川越街道踏切⇒武村旅館⇒べにっこ⇒桶川市南1丁目歩道橋⇒手打ちうどんいしづか⇒桶川駅前信号⇒島村家住宅⇒矢部家住宅⇒小林家住宅⇒桶川本陣遺構⇒中山道商店街⇒中山道宿場館⇒桶川市観光協会⇒中山道桶川宿手洗い処・お茶博士辻村みちよ顕彰碑⇒稲荷通り⇒稲荷神社⇒平屋(昼食)⇒桶川西一郵便局⇒松山以奈り道の道しるべ⇒桶川小学校⇒桶川市役所⇒泉二丁目信号⇒スーパーBENIBANA WALK⇒桶川の美女⇒農家の店新桶川店⇒愛宕神社⇒ローソン⇒富士塚⇒桶川市川田谷生涯センター・歴史民俗資料館⇒城山公園⇒川田谷信号⇒べに花畑⇒JR桶川駅

桶川市内を流れる川には荒川(あらかわ)、江川(えがわ)、鴨川(かもがわ)、芝川(しばかわ)、元荒川(もとあらかわ)、赤堀川(あかほりがわ)、高野戸川(たかやどがわ)、綾瀬川(あやせがわ)などがあります。また桶川の名前の由来(ゆらい)はいくつかあるようですが「沖側(おきがわ)」説で、「沖(おき)」を「広々とした田畑」の意とし、 その方向を意味する「沖側(おきがわ)」がなまって【おけがわ】になったのが有力。 ほかには、湿地(しっち)が多く、芝川や鴨川の水源(すいげん)があることから、「川が起(お)こる」意で「起き川(おきがわ)」とする説などがあるとのことです。
桶川市は25.26km2。昭和45年に県内31番目の市となったとのこと。もともとは69の宿場があった中山道の宿場町で紅花宿といわれた街。桶川宿は江戸から10里で6番目の宿場。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒を含め、347軒の家々があったといわれています。そういえば桶川宿本陣には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したとのことも聞きました。ちなみに埼玉県内の宿場は蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の9宿場がありました。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781年〜1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂」(おけがわえんじ)の名で全国に知られるようになりました。出羽国・最上地方では7月に紅花が収穫されますが、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができますので、「早庭(早場=はやば)もの」として重宝されたのです。幕末には出羽国に次ぐ産地になっていました。明治時代に化学染料の導入で、紅花産業は衰退、現在では『桶川祇園祭り』などに全盛期の繁栄を偲ぶのみとなっているのです。ちなみに、紅花の花を摘んで発酵、乾燥させたものが、紅色の染料、口紅になり、京、江戸などに運ばれたのです。そのため米は1反あたり平均2両で取引されましたが、紅花はその倍の4両にもなり、桶川の繁栄の土台となったのです。

DSCN6817no2.JPG
桶川駅すぐそば若宮1-5にあるのが西口公園。ここには四つのテスト像がありこれは桶川ロータリークラブ設置で大切な約束が四つ書かれていました。
1真実かどうか 2みんなに公平か 3好意と友情を深めるか 4みんなのためになるかどうか
今から60年以上も前の大恐慌のさなか、一人のロータリアンが4項目からなる簡明な倫理指針を考案しこの指針は、窮地にあった彼の会社を救うのに役立ったとのことです。この指針が表現していた内容や信条はまた、ほかの多くの人たちに対しても、倫理的羅針盤を提供することになったのです。今日では、ロータリーの基本理念の一つとなっているとのことです。

また喜多見先生からは埼玉のミッドエリアを知ってほしいと「IKOKA」(いこか)を教えていただきました。 埼玉ミッドエリア「IKOKA」(いこか)は、埼玉県の中央に位置する4市1町(「I」=伊奈町、「K」=北本市、「O」=桶川市、「K」=鴻巣市、「A」=上尾市)からなる地域の総称(造語)で都心へのアクセスが良く、自然に恵まれ、住環境にも優れているため子育て世代の生活満足度が高く、住み替えを考えている人に注目のエリアなのです。

DSCN6822no2.JPG

DSCN6825no2.JPG
さいたま文学館は、文学に関する資料の収集、展示、調査研究や文学の振興を図るために、埼玉県によって設置された施設。開館は1997年(平成9年)。埼玉県に縁のある文学作品や文学者の作品や資料を収蔵するとともに文芸講演会なども行われているとのことです。桶川市民ホールと同じ建物にある複合施設で、一体的な運用ということでした。埼玉ゆかりの文学者として田山花袋や武者小路実篤は知っていましたが安藤鶴夫、長谷川かな女、永井荷風は知らなかったのでまた作品を見てみようと思いました。

桶川はさすがにベニ花の街。マンホールにも登場です。
DSCN6828no2.JPG

武村旅館。
DSCN6843no2.JPG
JR桶川駅東口から桶川駅通り商店会を進み5分ほど、中山道を右折したところに建つ登録有形文化財の旅館。明治時代に板橋宿から移転してきた旅館で、現在もビジネス旅館を営んでいるとのことでした。建物内部を見学することはできませんでしたが、1852年建築の木とブリキの外観と瓦屋根、格子窓の建物は歴史が感じられ趣がありました。旅館と書かれた大きな看板が目印でした。

べに花まんじゅうは良質な小麦から作られた小麦まんじゅうに、べに花の色素を練り込みほんのり黄色みがかった皮になっていました。 こしあんやつぶあんをその皮で包んでいます。本日は鰍ラにっこさんのお饅頭を本日の埼玉銘菓としていただきました。

島村家住宅土蔵。
DSCN6860no2.JPG
武村旅館から旧中山道を北に150mほど行った右側にありました。ここも国登録有形文化財となっているとのことでした。島村家住宅土蔵は天保の頃の建物だそうです。中が資料館になっているようですが、今日は見られませんでした。

DSCN6863no2.JPG
矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されているようです。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでおりまた紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねていました。現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかっているようです。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われており、周辺地域でも数少ない珍しい意匠だそうです。中山道に面したこの土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4年〜大正9年)が明治38年に建立。桁行五間、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねているようです。桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとのことでした。

DSCN6866no2.JPG
小林家住宅はもと旅籠の建物を,材木商が幕末より店舗に用いてきたようです。切妻造,桟瓦葺,平入の2階建で,正面に下屋庇を設ける。2階の軒は出桁造で,2階開口部は横一杯に繊細な格子を建て込んでいます。街路に面して建っており,かつての宿場の面影が伝わっています。

桶川本陣遺構。
DSCN6874no2.JPG
桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣。本陣とは、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿のこと。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが格式として認められていたようです。また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役としては脇本陣がありました。本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われたようです。桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期の頃。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっており。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めたようです。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めたのです。

中山道宿場館・桶川市観光協会。
DSCN6881no2.JPG
桶川市の宿場情報や市内の史跡・観光情報の案内がありました。中山道情報コーナーでは、日本橋から大宮宿、桶川宿、埼玉県内の最後の宿場本庄宿まで、地図を用いて紹介。
中山道桶川宿散策コーナーでは、中山道 桶川宿周辺の文化財や史跡、寺社などスタッフ手作りのマップと写真で紹介。 かなり山盛りで色々おいてありました。
そうそう入口にあったべに花の鉢からギザギザのとげ葉は従来からの品種、丸葉は改良種とわかりました。

DSCN6898no2.JPG
中山道桶川宿手洗い処の案内通りに入ると石碑「渋味」と書かれた「式紙塚顕彰碑」がありました。日本最初の女性農学博士で緑茶の「ビタミンC」や「カテキン」を発見した桶川生まれの辻村みちよの功績をたたえた顕彰碑です。

DSCN6910no2.JPG
桶川稲荷神社は、嘉禄年間(1225-1227)に創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎したとのことでした。明治6年村社に列格、明治40年桶川宿に鎮座していた宿の鎮守神明社・字西ノ裏白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社を合祀、その後雷電社・浅間社・八雲社(市神)を合祀したようです。

DSCN6915no2.JPG
稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いとのことです。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれているとのことです。

DSCN6916no2.JPG
稲荷神社拝殿の正面には一対の大きな石燈籠がありました。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えており、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものとのことでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたとのことです。燈籠には紅花商人中として計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあるのです。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。これがきっかけで今また桶川をべに花盛り上げようと機運が高まってきているとのことでした。

DSCN6928no2.JPG
平屋では昼食時にべに花まんじゅうもいただきました。

DSCN6942no2.JPG
松山以奈り道(まつやまいなりみち)の道しるべは桶川小学校の敷地内にありました。これは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、1836年(天保7年)に建てられ、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印となったようです。このことがわかるのは、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれており、「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとても昔としてはユニークな道しるべなのです。

DSCN6962no2.JPG
桶川の美少女 大工 岡野靖夫がコンクリを固めて作った手作りの作品とのことでちょっと怖いですね。

DSCN6987no2.JPG
愛宕神社は百日咳の守護神といわれ、昔から婦女子の参拝が多く、庭に大きなイチョウがあり、その木の枝に、乳の形をしたものがあり、お参りすると乳が出るようになると言われていたようです。

DSCN6990no2.JPG
川田谷の富士塚は地元では浅間様と呼ばれ、大正末年まで毎年7月1日の山開きの日には先達を中心に信者が集まったということでした。

DSCN7001no2.JPG

DSCN7004no2.JPG
桶川市歴史民俗資料館は、川田谷生涯学習センター内にある市立の博物館。桶川の歴史と文化を今に伝える文化財の収集・保管及び調査研究、さらには公開普及活動を実施する地域文化財保護拠点施設とのことで、本日は館長さんが説明をしてくださいました。

DSCN7016no2.JPG
JR桶川駅から約3.5kmに位置する城山公園は、14世紀に築城された東西120m南北110mの平山城の「三ツ木城」の城跡横に造園された公園。「三ツ木城」は、太田氏岩槻城の支城のひとつとのことです。本日はそこまで見に行きませんでしたが、現在の城址はこんもりとした樹木に覆われ、小高い丘となっていて少しはお堀らしきものが見られる程度とのことでした。公園南側に約300本の桜が見られましたからきっと春のお花見に良いと思いました。

べに花畑。
DSCN7035no2.JPG
昔、染料や口紅として使われたべに花は江戸時代の終わり頃、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」の名で全国的に有名でした。 現在、桶川市では、マスコットキャラクター『オケちゃん』をはじめ、「べに花」をシンボルとしたまちをづくりを行っているとのことです。昨年同様、コロナ禍でべにばな祭りは中止とのことです。そこで桶川市歴史民俗資料館そばのべにばな畑を見せていただいた後、お花を2枝お土産に本日の行程が終了となりました。お陰様で家族でべにばなを楽しみました。
DSCN7060no2.JPG

本日は思いがけず青空の元、お馴染みの喜多見先生、TD林さんと19名の仲間が参加。AM10:00〜PM3:00前までのウォーキングで最後はバスで駅に戻り、ちょっと元気が回復して帰路につきました。気温も上昇、日差しが強く、約2万歩超はちょっときつかったです。本日のお土産だった「べに花まんじゅう」はちゃっかり昼食時にいただいてしまい、「べにばな」のみのお持ち帰りでした。でも家族には好評でヤレヤレでした。
posted by yunofumi at 15:16| あちこちウォーク

2021年06月11日

2021.6.6 さいたま彩発見ぶらり街あるき 蕨市

JR蕨駅⇒ぶぎん通り商店会⇒蕨駅前郵便局⇒武蔵野銀行⇒駅前通り⇒蕨ピアロード⇒パンの樹⇒COUTURE KAWAMURA⇒蕨高校通り⇒蕨公園⇒北町コミュニティセンター⇒北町コミュニティ通り⇒金亀山三学院⇒萬寿屋⇒近江屋⇒四国屋⇒蕨本陣跡・蕨市立歴史民俗資料館⇒蕨市立歴史民俗資料館分館⇒蕨町道路元票⇒朝日湯⇒甘露山長泉院⇒和楽備神社⇒蕨城跡⇒Coffee Bell⇒要害通り⇒金峰山宝樹院⇒蕨市民公園⇒塚越稲荷神社⇒機神社⇒JR蕨駅

蕨市は人口約75000人、面積が埼玉県内で一番小さい市とのことで人口密度は14679人/1km2 。蕨の地名は植物の「蕨」が由来、または「藁の火」から名付けられてとの説があるようです。

JR蕨駅は明治26年に日本鉄道の駅として開業。現在は京浜東北線が停車する駅。昔は宿場としても栄えていた証拠でしょうか。「蕨駅開設記念碑」が階段を降りたところにありました。
DSCN6548no2.JPG

駅前広場の「若き日」像は2人の裸婦像で蕨画塾の彫刻家長谷秀雄さん作で1982年蕨青年会議所が設置したということでした。
DSCN6544no2.JPG

最近、蕨市が舞台の女子サッカーアニメ「さよなら私のクラマー」が映画にもなったそうです。このアニメに描かれているのがぶぎん通り商店会。ぶぎんとは1952設立の武蔵野銀行の略称。
DSCN6556no2.JPG
街中で見られた「サヨナラ私のクリッパー」のポスター。
DSCN6567no2.JPG

「パンの樹」はあんドーナツと小倉あんぱんがお勧めとのことでした。本日は残念ながらお休み。

COUTURE KAWAMURA(クチュールカワムラ)は蕨双子織(わらびふたごおり)を中心にオリジナルバッグや洋服を販売していました。
DSCN6576no2.JPG

DSCN6579no2.JPG
蕨双子織はかって機織り(はたおり)の町として栄えた宿場蕨で江戸時代末期にファッショナブルな色彩と縦縞柄から人気を博した綿の着物地。歴史を振り返り2004年に文献を元に復元され現在の蕨市の地域資源となったのです。細い2本の糸をより合わせた双糸を使用して織られる双子織は超高度密度で滑らかな手触りと綿の素朴さ、美しい縦縞柄が特徴の綿織物なのです。

蕨市は小さな市でコンパクトシティと言われているそうですが公園は多いようです。この蕨公園は遊具などもありますが「わらびりんご」の木が見られました。わらびりんごは日本一早く6月には実をつけるとのことで今日もいくつかの実を確認できました。
DSCN6589no2.JPG

DSCN6596no2.JPG

DSCN6597no2.JPG
わらびりんごは錦町の農家の故・吉澤正一さんが約20年がかりで研究・開発した極早生種。吉澤さんがリンゴ作りを始めたのは昭和38年のことでリンゴの種を庭にまくと、約200本が発芽。そのうち1本を育て始めると数年後に白い花が咲き、その2年後、6月末に赤い実をつけ「突然変異では」と直感した吉澤さん。「リンゴのない季節に病人や子どもに新鮮なリンゴを」と研究を重ねました。そして昭和56年。ついに市の名前を付けた「わらびりんご」が新品種登録されたのです。
4月上旬、桜の花と入れ替わるように、白い可憐な花を咲かせ、満開から60日程度の6月下旬にはその実を赤く染めるのです。直径7p前後、重さ150〜200gほどの小ぶりで酸味のきいた味は、ジュースやジャム、アップルパイなどにして味わうのが一番とのことです。
現在は蕨市内のあちらこちらや「わらびりんご公園」でこの「わらびりんご」の木が見られまた収穫は皆さんですると伺いました。

金亀山極楽寺三学院(ごんきさんごくらくじさんがくいん)は新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちざんは)の寺院。平安時代の創建で蕨市内最大の寺院。
DSCN6617no2.JPG
本尊の木造十一面観音菩薩立像があるとのことです。
焔魔堂です。
DSCN6611no2.JPG
三学院梵字馬頭観音塔です。
DSCN6619no2.JPG
六地蔵と目疾地蔵です。
DSCN6627no2.JPG
蕨宿関係墓石群です。
DSCN6640no2.JPG
境内にはハスの花も咲いていました。
DSCN6637no2.JPG

はね橋。
DSCN6645no2.JPG
蕨宿は周囲を用水堀で囲まれていたため家の裏手に「はね橋」を設けて出入りしたとのことです。はね橋を写真のように引き上げると家への出入りができなくなるので防犯にはよかったようです。

天保年間創業、「萬寿屋」は本手焼きの煎餅屋です。
DSCN6660no2.JPG
歴史を守りながら、新しい感覚も取り入れているとのことで薄めで食べやすい、しょうゆ味の懐かしい煎餅はとても手ごろでしたからお土産に買い求めました。
たまたま店頭には今朝開花したサボテンが歓迎してくれました。
DSCN6663no2.JPG

中山道沿いには「景観建築物」ということで古い建物が見られました。近江屋です。
DSCN6669no2.JPG

昼食は四国屋で天ぷらとうどんのセットをいただき、デザートは甘酸っぱい「わらびりんご」のシャーベットでした。
DSCN6684no2.JPG

蕨本陣跡は今、蕨市立歴史民俗資料館になっていました。
DSCN6690no2.JPG
ちょうど6/5から「さよなら私のクラマー」展が開催中でした。
DSCN6693no2.JPG
奥の方では従来の展示がありました。
DSCN6699no2.JPG

またすぐ近くに明治時代の織物買継商の建物だった蕨市立歴史民俗資料館分館もありました。
DSCN6708no2.JPG
立派な庭園もあり、また座敷には話題の渋沢栄一さんの書が飾られていました。
DSCN6717no2.JPG

今日の道中は中山道沿いのルートが多いです。そういえば江戸時代に江戸と京都を結ぶ街道は「中山道」と表記されており、たまに「中仙道」も使われているようです。
途中で蕨町道路元標を見つけました。
DSCN6723no2.JPG

DSCN6742no2.JPG
甘露山長泉院(ちょうせんいん)は」真言律院宗霊寺派の寺院で1753年(宝暦3年)に創建され檀家を持たない祈願寺。ご本尊は大威徳明王像(だいいとくみょうおうぞう)とのことです。梵鐘は通称「おしゃみの鐘」といわれています。梵鐘には乳のかわりに梵字が鋳出され、撞座を4個持つ特徴があるようです。なぜかこの梵鐘は本堂の屋上にありました。

DSCN6749no2.JPG
和楽備神社(わらびじんじゃ)は1911年(明治44年)に蕨にあった18の鎮守社を合祀してできた神社で万葉仮名の表記で「和楽備神社」と名付けられたとのこと。
合祀以前は八幡神社が鎮座し、中世に蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝えられているのです。
DSCN6751no2.JPG
和楽備神社のすぐ隣に蕨城跡がありました。
DSCN6757no2.JPG
またすぐそばに「成年式発祥の地記念像」の碑がありました。
DSCN6761no2.JPG
蕨市の成年式は、終戦の翌年である昭和21年に、日本中が敗戦による虚脱状態にある中で、「次代を担う青年達を、まちをあげて激励しよう」と開催されたもので、それが全国に広がり、 2年後の昭和23年、国民の祝日に関する法律で「成人の日」が制定され、国民的な行事として定着したとのことです。この像は市制施行20周年と成人の日制定30周年を記念して昭和54年1月15日に城址公園に建立されたのです。

DSCN6770no2.JPG
要害通りは戦国時代、蕨城を守る要害の地で、今では住宅街の中で緑と水を湛えた憩いの場、「要害通りせせらぎ遊歩道」として国交省の「生活の中にいきる水辺三十選」にも指定されているとのことです。

DSCN6774no2.JPG
金峰山宝樹院(きんぶさんほうじゅいん)は臨済宗の寺院。開基は渋川氏ということから創建は中世以前のようです。ご本尊は地蔵菩薩像。
DSCN6776no2.JPG
裏手の墓所には1567年(永禄10年)に上総国(かずさのくに)の三舟山合戦で戦死した蕨城主渋川公とその夫人を祀った石碑は夫妻の250数年忌に造立されたようです。

DSCN6785no2.JPG
塚越稲荷神社(つかごしいなりじんじゃ)は1500年頃(明応年間)に創建のようです。社殿が約6mの塚の上にあり名前が塚越となったようです。
境内に機神社(はたじんじゃ)がありました。
DSCN6782no2.JPG
こちらは蕨の双子織などの織物業を発展させた5代目高橋新五郎と妻いせうを「機神様(はたがみさま)」として祀っているとのことです。反物や糸取りの道具もおかれており、木綿糸がみられました。こちらの前身は関東大権現社の神像である徳川家康座像もともに祀られているとのことでした。
DSCN6791no2.JPG
正観世音菩薩のお堂もありました。

本日はお馴染みの喜多見先生、TD小松さんと19名の仲間がAM10:00〜PM3:00までのウォーキングでした。スタート時は曇天でしたが昼食前にポツリ、ポツリ。午後はさすがに合羽を着ましたがこれが蒸し暑い!といいつつまあ、無事に終了。帰宅してみれば2万歩超ですから、まずまずの成果!
お土産はわらびもちと手作り煎餅、それに蕨双子織のサンプルと塚越稲荷神社からいただいたアマビエのお守り。
DSCN6797no2.JPG
ということで皆様、また次回もお会いしましょう。
posted by yunofumi at 13:31| あちこちウォーク

2021年05月14日

2021.5.9 さいたま彩発見ぶらり街あるき 久喜市

JR久喜駅⇒米津氏御陣山神社⇒天王院⇒八雲神社⇒光明寺⇒御嶽神社⇒甘棠院⇒甘棠院史跡公園⇒古久喜南歩道橋⇒東武伊勢180号踏切⇒葛西用水路⇒下河原橋⇒コスモスふれあいロード⇒上河原橋⇒河原神社⇒すぎのや本陣鷲宮店⇒東鷲宮駅入口信号・県道さいたま栗橋線⇒西大輪神社⇒霞ヶ関橋⇒郷土資料館⇒霊樹寺⇒大酉茶屋わしのみや⇒鷲宮神社・光天之池⇒東武伊勢崎線鷲宮駅

JR久喜駅。
DSCN6270no2.JPG
久喜市は「風の見える街」がキャッチフレーズのようです。駅前には風に吹かれている女性像のモニュメントがありました。
JR久喜駅にはJR東日本の東北本線と、東武鉄道の伊勢崎線の2路線が乗り入れており、また東武鉄道伊勢崎線の乗換駅でもあります。JRは1885年(明治18年)に開業、1899年(明治32年)には東武鉄道駅が開業とのことでした。歴史の長さにびっくりです。

DSCN6275no2.JPG
街のウォーキングが始まるとすぐ電柱がなく、路肩には大きなボックスがほとんど2個組で鎮座。側面には大きく「久喜の提燈祭り」とあり勇壮な神輿を担いでいる写真がありました。お祭りはこれから伺う天王様の行事で町を挙げての行事とのことでした。

御陣山神社。
DSCN6285no2.JPG
広い公園と小高い丘の上に神社がありました。わかっているだけで徳川16神将と言われた米津常春(よねきつつねはる)、米津家初代で2代目徳川秀忠に仕えた米津田政(よねきつたまさ)、米津家2代で大阪定番の大名だった米津田盛(よねきつたもり)、そして武蔵国久喜藩初代藩主米津 政武(よねきつ まさたけ)がここに陣屋を構えていたようです。

天王院。
DSCN6294no2.JPG
本山は山梨県に所在する広厳寺で、1523年(大永3年)に妙鑑によって開かれた曹洞宗の寺院。過去には境内にお籠堂が所在し、清久地区・江面地区などから老人が集い、飲み食いをして楽しむことも行われていたとのことです。

八雲神社。
DSCN6295no2.JPG
八雲神社は天王院の境内に所在する神社で旧久喜町の総鎮守。元は天王院の別院として祭られ「天王宮」と称されていたのが、明治初期の神仏分離によって1873年(明治6年)3月に祭神は天王院より氏子へ移され、その際「天王宮」より「八雲神社」へと改称されたようです。ということで7月12日・18日に行われる勇壮な久喜の提灯祭り・天王様はこの八雲神社の祭典なのです。

光明寺。
DSCN6305no2.JPG
薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)ともいうようです。光明寺に薬師如来がまつられたのは、今から約1300年前のこと。そのとき、この地に流行していた疫病を鎮めるために、徳の高い僧侶、行基が、久喜の地の一番の高台に薬師如来を安置し、疫病退散を祈願したのです。行基は、孫悟空が付き従った三蔵法師のモデル、中国の唐代の三蔵法師玄奘の愛弟子道昭の、そのまた愛弟子とのことです。彼の安置した薬師如来の霊験(れいけん)によって、疫病は無事おさまったと伝わっております。そこでこの地に光明寺が建てられたということでした。もちろん薬師瑠璃光如来は秘仏でしょうから見ることができませんでした。
DSCN6320no2.JPG
1873年(明治6年)に近代的な学校制度の導入と共に「久喜学校」が光明寺に開設され、1913年(大正2年)に小学校新築移転となるまで光明寺は久喜の人々の学び舎となっていたようです。
光明寺の墓所にある中島撫山の墓。
DSCN6318no2.JPG
幕末から明治期の教育者である中島撫山は、1873年(明治6年)に私塾「幸魂教舎」を開くなど、埼玉東部地域の教育に大きく貢献した方です。光明寺にあるのは撫山の神道式の墓で、撫山の妻子や兄弟とともに葬られているとのことでした。

DSCN6309no2.JPG
この御嶽神社(おんたけじんじゃ)は1887年(明治20年)に南埼玉郡久喜本町(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本字荒鎌)に祀られたのが始まりとのこと。
境内施設として本殿、鳥居、「御嶽教 寿幹教会 御嶽神社」と彫られた標柱、樫の木(御神木)、灯籠、狛犬が見られました。

DSCN6331no2.JPG
甘棠院(かんとういん)は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺(えんがくじ)派の寺院。甘棠院の総門を入ると、中門前面から院の東西に100m、南北に250mの空堀が見られました。1925年(大正14年)には「足利政氏館跡及び墓」として埼玉県指定史跡となったとのことでした。
足利政氏は、父の死後、明応6年(1497)古河公方と称しいったんは小山(栃木県小山市)に移ったあとここ甘棠院に隠居したということです。1519年(永正16年)館を寺院として永安山甘棠院と称し開山したとのことでした。
DSCN6344no2.JPG
甘棠院の境内に「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がありました(享禄4年は1531年)。

DSCN6351no2.JPG
甘棠院史跡公園は、甘棠院の北側にあった養護老人ホームの移転に伴って跡地を整備して作られた公園。園内には、戦国時代に活躍した足利政氏が隠退した館(甘棠院)から続く堀の一部が残っている他、雑木林や竹林、梅の古木などの自然がそのまま残っていました。竹藪には鷺が巣作りをしており優雅に飛んでいる様子も見られました。

鷲宮地区の中央を流れる葛西用水路沿いの両岸約10kmを整備し、春は「ポピー」、秋は「コスモス」が咲き誇るとのことでした。
DSCN6400no2.JPG

DSCN6456no2.JPG
実際にはポピーはあと1週間ほどで満開かもしれなかったです。
途中の下河原橋、上河原橋を過ぎるあたりには「コスモスふれあいロード」の案内もありました。

DSCN6420no2.JPG
河原神社はJR東北本線『東鷲宮駅』から西へ300mに鎮座。県道3号を越え、「すぎのや」脇の路地を入り葛西用水沿いにあります。以前は白山神社といわれたようで、2000年代になると河原神社と表記されたようです。

DSCN6426no2.JPG
昼食は「すぎのや本陣鷲宮店」のレディスセットでした。イヤー!量が多くて満腹!!

西大輪神社(雷電神社)。
DSCN6445no2.JPG
御祭神は別雷之大神というようです。向かって左の石灯篭は文化12年の作とのこと。例祭日は7月25日ころの日曜日で獅子舞が有名。五穀豊穣と悪疫退散の願いが奉納されるようです。
海のない埼玉県ですが大落古利根川((おおおとしふるとねがわ)や会の川(あいのかわ)などがありそれらにより河畔砂丘ができたようです。久喜市には西大輪砂丘と高柳砂丘が形成されており、ここが西大輪砂丘だそうです。

郷土資料館。
DSCN6471no2.JPG

DSCN6476no2.JPG
もともとは平成10年に鷲宮町立郷土資料館として開館。
平成22年に久喜市、菖蒲町、栗橋町及び鷲宮町の合併により、久喜市立郷土資料館となったとのことでした。歴史的資料の収集・保存や調査研究を生かした企画展・特別展や各種講座等が盛んに行われている様でした。

霊樹寺には、平安初期の一木造りの伝統を受け継いだ釈迦如来の案内がありましたが実物は見られませんでした。また参道の両側に本堂側から左右で16体の像がありました。
DSCN6493no2.JPG

鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称され天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神としているようです。
入口には大鳥居があったようですが老朽化で倒れたようで基礎だけが見られました。
DSCN6506no2.JPG
拝殿。
DSCN6512no2.JPG
本殿。
DSCN6514no2.JPG
拝殿手前には光天之池がありました。
DSCN6511no2.JPG

大酉茶屋田田(おおとりちゃやでんでん)。
DSCN6500no2.JPG
鷲野宮神社前の御休み処。京都で修業した店主が食材にもこだわり体と心に優しい食を提供しているようです。2007年12月2日にアニメ『らき☆すた』にて、旧・鷲宮町内が舞台モデルの一つとなったことが縁となり聖地といわれているようです。

本日はカラフルマンホールを2つ見ました。
DSCN6274no2.JPG
こちらは久喜駅西口にありました。久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは久喜市商工会マスコットキャラクター「来久ちゃん」です。「来久ちゃん」は関東一といわれる久喜の「提燈」と市の木「イチョウ」がモチーフ。「LIKE CHAN」とあるように「らいくちゃん」と読むらしいです。
DSCN6501no2.JPG
鷲宮神社そばの路上にありました。
こちらも久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは「らき☆すた」の主要人物「柊つかさ」と双子の姉の「柊かがみ」。右下に刻まれている文字は「ⓒ美水かがみ/KADOKAWA」。『らき☆すた』は、美水かがみによる4コマ漫画とそれを元にしたゲーム、アニメ、小説作品で、柊姉妹の父親が宮司を務める「鷹宮神社」のモデルが「鷲宮神社」だそうです。

本日の喜多見先生からのおすすめ埼玉の逸品は島田菓子舗の「いがまんじゅう」。
DSCN6532no2.JPG
いがまんじゅうはこしあんの饅頭の周りに赤飯がまぶしてあるのが特徴で、赤飯をまぶした姿が栗のイガのように見えることから名づけられたと言うことです。

本日は喜多見先生・TD池谷さんの引率で18名が参加。天候はほぼ晴れでしたが昼食前後にパラパラ雨が降りちょっと慌てました。しかし全体的にはのんびりゆっくり約21000歩、約10kmを完歩できたことに感謝!感謝!!
今日は暑かったので郷土資料館の見学をほどほどにそばのコンビニに駆け込んで今年はじめてのガリガリ君を食しました。本当に暑さがすごかったのです。
本日のもう一つのびっくりはスタート前集合時に東海道五十三次でご一緒したNさんとバッタリ!思い起こせば東海道五十三次が2013年10月に完歩していますので、まったく懐かしい!!ということで解散後、久しぶりにお茶をし、またの再会を約束しました。またしても次回も楽しみなのです。
DSCN6531no2.JPG
posted by yunofumi at 15:25| あちこちウォーク

2021年05月05日

2021.5.2 さいたま彩発見ぶらり街あるき 草加市

草加市はすぐ隣がもう東京という位置にあります。本日は自宅から武蔵野線の乗り換え、その後東武スカイツリーラインで谷塚駅にやっと到着。思ったより住民も多い様子で町全体がきれいな感じでした。

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅⇒富士浅間神社⇒火あぶり地蔵尊⇒今様草加宿⇒浅古家地蔵堂⇒草加市役所⇒道標「葛西道」⇒八幡神社⇒藤城家住宅⇒草加駅⇒草加神社⇒氷川中公園⇒ARK PLAZA「夢や芭蕉亭」⇒大川本陣跡⇒清水本陣跡⇒おせん茶屋⇒草加市立歴史民俗資料館⇒東福寺⇒草加宿神明庵⇒神明宮⇒草加せんべい発祥の地「おせん公園」⇒札場河岸公園⇒草加松原⇒松原綾瀬川公園⇒草加市伝統産業展示室⇒松原大橋⇒獨協大学前(草加松原)駅

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅。
この路線は以前、東武鉄道伊勢崎線といったのです。1925年(大正14年)開業の駅と伺ってびっくり。なぜってこの草加は日光街道の2番目の宿場ですから当然か!と納得。
DSCN5994no2.JPG
谷塚駅東口広場にハープ像がありました。草加市は1993年(平成5年)「音楽都市宣言」をし、音楽振興推進中だそうです。

DSCN6000no2.JPG
同じく谷塚駅東口広場にあるモニュメント。タイトルは「循環」で永遠に繰り返される自然の営みと人の営みを表しているそうです。

DSCN6014no2.JPG
富士浅間神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をお祀りしています。
現本殿は1842年(天保13年)に再建されたとのこと。本殿の建物は、前面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、随所に彫刻を配したものでした。手洗い石には几号(きごう)水準点がありました。
DSCN6013no2.JPG6013
几号(きごう)水準点とは明治初期に土地の高低測量を行うために設けられた基準となる測量点で、イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたのです。

冨士塚。
DSCN6029no2.JPG
富士山を信仰する人々の組織、冨士講は富士行ともいわれ富士登山の代わりに誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚としているのです。この富士塚は高さ約4m、横幅10.4m、奥行8.6mとのことです。

火あぶり地蔵尊。
DSCN6038no2.JPG
地蔵堂のある所は昔の処刑場跡だそうです。昔々、借金まみれの貧しい母娘がいてその母が病に倒れたことから娘としては大金持ちの奉公先に看病したいと申し出ても認められず、思い余って奉公先に火をつけたそうです。当時、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定っていましたので、娘はこの地で処刑されたのです。でも村人たちはこの哀れな罪人の霊を慰めるために処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養したとのことでした。

今様草加宿。
DSCN6048no2.JPG
江戸時代初期、日光街道2番目の宿場町として誕生した「草加宿」を旧街道の風情、街なみ、川なみが残っているうちに、再生していきたいと街づくり活動が行われているのです。写真左側が旧日光街道とのことです。

DSCN6054no2.JPG
草加市役所傍にある浅古家地蔵堂は別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたということで地蔵堂があるようです。

道標「葛西道」。
DSCN6062no2.JPG
ここは草加宿から葛西道が分岐していた場所。葛西道はここ草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道だということでした。

DSCN6067no2.JPG
八幡神社はほぼ草加市の市街地の中心部に社殿を構える神社。江戸時代の正徳年間に神主長太夫が、八幡の神体を稲荷社に合殿としたようです。
DSCN6073no2.JPG
社殿には、草加宿七福神の恵比寿が祀られまた、江戸時代に造られたという高さ83cmの大型の雌雄一対の獅子頭が社殿内に鎮座していました。

藤城家住宅。
DSCN6077no2.JPG
旧日光道中に面して建つ「店舗」は木造2階建ての桟瓦葺(さんがわらぶき)。2階部分は開口部を障子と雨戸、縦格子とする座敷で、1階部分は大きく持ち出した庇(ひさし)部分を巧みに店舗部分に取り込み、畳敷の張り出た売場は商家の佇まいそのものです。外観は主屋根の軒先の出桁造(だしげたづくり)と縦格子が往時の風格を伝えています。

おせんさん。
DSCN6090no2.JPG
日光街道沿いに栄えた草加宿の茶屋でおせんさんが当初はお団子を作って売っていたところお団子の次の新製品として武者修行の侍から教えられてお団子をつぶして天日で乾かし焼きもちを作ったのが草加せんべいの始まりだったようです。
そして今、草加駅東口に「おせんさん」が見られるのです。
さらにちょっと離れて草加せんべいをおいしそうに食べている「あこちゃん」がいます。
DSCN6094no2.JPG
実はすぐ近くに「アコス」という商業ビルがあり、それから命名したそうです。
像の作者は草加市生まれの彫刻家、麦倉忠彦氏とのことでした。

DSCN6098no2.JPG
草加神社(旧社名・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴きたことが元とのこと。享保2年神階正一位の宣旨を受け、明治6年村社に列し、同40年政令により草加町内の諸神社十一社を当社に合祀し、同42年社号を氷川神社改め、草加神社となりました。現本殿は天保年間の造営とのことです。その後定期的に本殿周囲の玉垣設置、手水舎、拝殿補修、拝殿屋根葺き替え、神輿倉の造営など行っているとのことです。本殿は二間社流造りで、多彩な彫刻がありました。

草加宿には2軒の本陣があったことから旧日光街道に面して大川本陣と清水本陣の石碑がありました。
DSCN6117no2.JPG

DSCN6119no2.JPG

草加市立歴史民俗資料館。
DSCN6132no2.JPG
当館の建物は、2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録された歴史ある建物。もとは、1926年(大正15年)、草加小学校西校舎として、建築家・大川勇氏の設計により建てられた、埼玉県初の鉄筋コンクリート(RC)造校舎とのことです。その後草加小学校校舎としての利用は1979年(昭和54年)で終了し、その後現在の資料館になったとのことでした。
沢山の展示の中でも綾瀬川から出土した丸木船が印象的でした。本日は2階で端午の節句展が開催中でした。
DSCN6147no2.JPG

DSCN6165no2.JPG
東福寺は草加宿の開宿に尽力した大川図書(おおかわずしょ)が1606年(慶長11年)に創建。本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物。山門や欄間に彫刻がありました。墓処には大川図書の墓がありました。

DSCN6191no2.JPG
草加宿神明庵は、旧日光街道沿いの古民家(旧久野家)を使った観光案内所のような施設でした。中に入ると暖かいお茶をいただきました。

DSCN6193no2.JPG
神明宮は1713年(正徳3年)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたということです。現在の社殿は1847年(弘化4年)に再建されたものだそうです。
DSCN6194no2.JPG
鳥居横の大きな石には几号(きごう)水準点が読み取れました。午前中に三田富士浅間神社の几号(きごう)水準点よりははっきり読み取れました。

おせん公園には河合曽良の像がありました。
DSCN6203no2.JPG
草加せんべい発祥の地「おせん公園」には自然石で作られた石碑がありました。
DSCN6204no2.JPG

伝右川を渡ると札場河岸公園です。ここは草加松原の南端にあたり、園内には芭蕉像、望楼、かっての河岸場、お休み処草加宿芭蕉庵がありました。
DSCN6210no2.JPG
珍しかったのは甚右衛門堰(じんざえもんぜき)。
DSCN6222no2.JPG
伝右川の2連アーチ型煉瓦造りの水門で明治7年に再構築されたとのことでした。

草加松原遊歩道は約1.5km、旧日光街道沿いに松が634本(むさし)植えられているのです。風景としてはとてもきれい。
DSCN6232no2.JPG
途中に太鼓の型で矢立橋と百代橋があり上からの松並木も見事なのです。
DSCN6231no2.JPG

松並木途中に小さなハープが飾られたハープ橋がありそれを渡ると松原綾瀬川公園に入り草加市伝統産業展示室「ぱりっせ」に到着です。
DSCN6246no2.JPG
ここは草加の3大地場産業の煎餅・ゆかた染・皮革の歴史や製造工程の紹介と製品販売をしていました。
DSCN6259no2.JPG

ウォーキングゴールは獨協大学前(草加松原)駅。東武スカイツリーラインの駅。元は東洋一のマンモス団地といわれた草加松原団地があったことから松原団地駅だったそうですが、1964年(昭和39年)そばに獨協医科大学ができたことから現在の「獨協大学前(草加松原)」に駅名が変更となったとのことです。

本日は喜多見先生・TD林さんの引率で18名が参加でした。今日は草加市の産物が草加せんべいはもちろん、本染めゆかた、皮革製品と改めて認識し、大いにうれしくなりました。ウォーキング中のルートだけでも十数軒の煎餅屋さんがありました。ちなみに市内では100軒以上ありそうでした。
喜多見先生おすすめのお土産はもちろん、「草加せんべい」。私は追加でお店ごとの味が違うということで詰め合わせも購入しました。
DSCN6265no2.JPG

今日一日のコースの中では昼食前後にパラパラ雨が降りましたが21000歩、約10kmはまずまずで終えられました。また次回もどんな街並みに出会うか楽しみにしています。
posted by yunofumi at 13:13| あちこちウォーク

2021年04月22日

2021.4.15 江戸古地図で巡る東京の街並み 第1回新橋・銀座・丸の内

我が家の地植の君子欄が今年も見事に咲いてくれました。この花を見ると「元気で今年も頑張ろう」と思う私です。
DSCN5545no2.JPG

JR新橋駅⇒GINZA9⇒土橋⇒静岡新聞ビル⇒出世街道⇒見番通り⇒金春通り・煉瓦遺構の碑・ノーブルパール⇒金春湯⇒寿司久兵衛⇒銀座博品館⇒新橋親柱⇒銀座柳2世歌碑⇒芝口御門跡⇒鉄道歴史展示室・旧新橋停車場⇒汐留シティセンター⇒日本テレビ・江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡⇒新橋駅鉄道唱歌の歌碑⇒旧読売ビル⇒烏森神社⇒末げん(昼食)⇒新橋駅・D51機関車⇒新橋駅高架煉瓦⇒渡邉木版美術画舗⇒潟Cシグロ⇒新橋会館⇒豊岩稲荷神社⇒交詢社⇒旧朝日新聞社屋・啄木歌碑⇒空也もなか⇒BAR LUPIN⇒みゆき通り⇒鳩居堂⇒安藤七寶店・悠久の翔⇒TERMES⇒TOYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒銀座ミキモト⇒銀座2丁目・銀座発祥の地碑⇒ヨネイビル・GINZA MAISON⇒奥野ビル⇒京橋跡・交番⇒東京大根河岸・青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥の地碑⇒GRAHMS CAFE⇒千葉定吉道場跡⇒福岡アンテナショップ⇒鍛冶橋門跡⇒三菱美術館⇒日本郵便・タラヨウの木⇒JR駅

新橋を出発すると土橋と表示した交差点がありました。土橋はかつてお濠であった汐留川に架かっていた土の橋で、橋というより土塁に穴が開いてて水が流れるものだったようです。1962年に開通する首都高速道路の京橋〜芝浦の3年前にこの土橋と城辺橋の間が開通し、日本最初の首都高速道路の入り口の場所となったようです。
今日はこの銀座8丁目からスタートです。

静岡新聞ビル。
DSCN5558no2.JPG
文字通り静岡新聞と静岡放送。そのほか山梨日日新聞・山梨放送などが入居しているビル。丹下健三さんの設計による、メタボリズムの思想を取り入れた建物ということです。

銀座にはビルとビルとの間を通り抜けられる路地が50以上あるそうです。その中で銀座8丁目にある見番通りと並木通りを結ぶ「出世街道」と呼ばれる路地がありました。かつて、故田中角栄氏が議員時代この界隈で飲食している時、国会へ呼び出された際に、この路地を通り抜けて国会まで続く道を駆け付けたこと、角栄氏が議員から総理大臣にまで上り詰めたこと、また、この路地から国会までほぼ真っすぐに続く道が次第に広くなっていることから、「出世街道」と呼ばれるようになったということです。この路地には、京風おでんなどの店「ぎんざ魁」、「出世街道ギャラリー銀座わたなべ」、有名店「小笹寿し」などが並んでいました。
見番通りはかなめ屋の前の通り。かなめ屋の斜前には「新橋見番」 るようです。
金春通りは江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しているようです。
DSCN5588no2.JPG
江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後も、この地にその名を留めているとのことでした。

煉瓦遺構の碑。
DSCN5584no2.JPG
明治になり江戸の大火を恐れた明治政府が銀座に延べ約10kmに亘る煉瓦街を造っつたとのことです。残念ながら煉瓦街は関東大震災で消失しましたが、昭和63年に幻と言われた煉瓦街遺構が発掘され江戸東京博物館に収蔵されました。この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえて収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、写真にある「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」なのです。
この碑のそばにあるノーブルパールは1946年(昭和21年)の創業以来、古き良き銀座の面影を今に残す金春通りにある「オートクチュール(高級注文服)」のお店。こちらの入り口傍には今もひっそりと昔の水道に使われていた木樋がおかれていました。

金春湯。
DSCN5599no2.JPG
現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)があるそうです。この金春通りにある「金春湯」はそのうちの一軒。銀座に残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の1863年(文久3年)ということですからもう150年以上の歴史があるとのことです。昭和32年に現在の建物に改築されたとのことですが、江戸時代から存続している都内の銭湯の3軒の内の1軒ということです。

新橋親柱。
DSCN5613no2.JPG5613
江戸時代は、汐留川に「新橋」が架けられおり、芝口御門が出来た段階で、芝口橋と名前が変わりました。その後、芝口御門の焼失に伴い、新橋の名前に戻されたとのことでした。

銀座柳二世の歌碑。
DSCN5616no2.JPG
銀座には昔は松・桜・まき・柳が、その後はイチョウが植えられたようです。そして今、最終的に柳並木を銀座に復活させているようで東京大空襲による多くの木が焼失されたなかからの復活なので、銀座の柳二世と言われているようです。

芝口御門跡。
DSCN5625no2.JPG
この辺りの高速道路の下には、もと汐留川が流れ、旧東海道には、昭和39年まで新橋が架かっていました。1710年(宝永7年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の意見で国の威光を示しために、この新橋の北詰に、城門が建設されて、芝口御門と呼ばれたのです。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられたのです。その後、この芝口御門は1724年(享保9年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去されたのです。

鉄道歴史展示室。
DSCN5648no2.JPG
1872年(明治5年)、新橋(東京都)−横浜(神奈川県)間に日本初の鉄道が開通したこと。この時の新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に再現したのがこちらの施設。建物の裏には旧新橋停車場があります。

新橋駅鉄道唱歌の歌碑。
DSCN5693no2.JPG
新橋駅烏森口のそばにあります。作詞は大和田 建樹、作曲は多 梅稚。ちなみに「汽笛一声新橋を---」に始まる歌詞は66番まであるそうです。

烏森神社(からすもりじんじゃ)。
烏森のこのあたりは武蔵の国桜田村と呼ばれていた頃、松林が多く鳥が多く集まりであった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。

末げん( すえげん)は、1909年(明治42年)創業の老舗料理屋。創業者の丸源一郎が修行した店「末廣」と、彼の名前「源一郎」から「末げん」と称したのが起源とのこと。
本日は親子丼セットをいただきました。
三島由紀夫が自決前日の1970年(昭和45年)11月24日に楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と最後の晩餐をした場所として知られるとのことでした。

渡邉木版美術画舗。
DSCN5726no2.JPG
珍しい浮世絵専門のお店。明治42年東京、京橋で創業とのこと。浮世絵専門の画商として、オリジナル浮世絵と浮世絵復刻版を国内外に販売しているとのことでした。

豊岩稲荷神社。
DSCN5743no2.JPG
ギンザ108ビル右横の路地入り口に目印の旗がありました。路地の奥に入ったところにあった神社。ビルの壁に張りついた平面神社で縁結びの神様としても知られており女性の参拝者が多く訪れるとのことでした。

DSCN5753no2.JPG
交詢社(こうじゅんしゃ)は明治初期、福澤諭吉先生の主唱により、「銀座の地に創られた日本最古の社交機関。学校教育を終えて社会人となった人たちが、めざましく変化する実社会にたいおうするため、各人が互いの知識を交換し合って、流動する社会の実務に対処する機会を提供しようとの主旨で「知識を交換し、世務を諮詢する」ことを目的に1880年(明治13年)にもうけられたとのことです。

銀座6丁目並木通りあったのが啄木歌碑。
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
このころは朝日新聞社に校正係として勤めていたようです。
この碑の裏にはキツツキ(啄木鳥)が造られていました。
DSCN5764no2.JPG

DSCN5767no2.JPG

DSCN5773no2.JPG
空也もなかは東京銀座6丁目にありました。
漱石が好んだ和菓子として有名で明治17年創業の老舗「空也」です。
サクッとした最中の中に上品なしっとり餡子が入っていて、とてもおいしい。普段は予約なしでは難しいらしいのですが新型コロナの影響でしょうか、幸い求めることができました。

DSCN5776no2.JPG
BAR LUPINは太宰治の小説が好きな方が死ぬまでに一度は行きたいというバーだそうです。林忠彦、織田作之助、坂口安吾などの文人が多く通っていたお店だそうです。


安藤七宝店の窓辺に「悠久の翔」というからくり人形がありました。夢童由里子さんの作品で作動は 13:30・15: 30・17:30・19:30だそうです。
今日は動くところは見られませんでした。

DSCN5882no2.JPG
銀座2丁目には「銀座発祥の地碑」があります。ここは江戸時代に銀貨を製造する銀座役所(銀貨幣鋳造所)あり、今の銀座のはじまりなのです。

DSCN5902no2.JPG
奥野ビルは昭和初期に建てられた当時としては最先端の高級アパートだったようです。有名ギャラリーやアンティークショップなどがビルの雰囲気を生かしているのです。今も手動のEVが使われているのが驚きでした。
DSCN5906no2.JPG

江戸歌舞伎発祥の地碑。
DSCN5937no2.JPG
1624年(寛永元年)猿若中村勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間あたり)に猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりとのことです。当時は中村座のほかに市村座、森田座山村座がお上から許されていた芝居小屋だったそうです。役者としては市川団十郎や尾上菊五郎などが人気者だったようです。

JR東京駅八重洲口前を通る外堀通りは、かつて江戸城の外濠だった場所。鍛冶橋門は、1629(寛永6)年に秋月藩主黒田長興らによってつくられ他とのことですが今は「鍛冶橋門跡」という説明版があるだけでした。門前には御用絵師として江戸城本丸の襖絵を描いた加納探幽の屋敷があったようです。

DSCN5972no2.JPG
「三菱一号館」は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された建物。ここは全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられているとのことです。この建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地に2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として再出発したのです。

DSCN5977no2.JPG
この木は東京駅そばのKITTEにある「タラヨウの木」です。これは郵便局のシンボルの木で「はがきの木」とも言われ、実際に郵便はがきとして使えるのです。

DSCN5983no2.JPG
東京駅(とうきょうえき)はJR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、地下鉄丸ノ内線が発着するターミナル駅。いつ見ても美しい駅舎は辰野金吾設計で完成まで8年かかったようです。

今日は晴天の下、それも微風で心地よい日和の中のウォーキングでした。21人の仲間と共に、何度も訪れている銀座中心のウォーキングでした。古い街なので色々ありましたが知らないことも多く、とても面白かったです。
ゴールの東京駅に着いた頃は17000歩くらいでしたから距離としてはそんなでもなかったのです。さてこのシリーズは今後、神田ー湯島ー両国ー浅草ー上野ー六本木と6回シリーズで展開予定なのです。いずれも行ったことがあるといえばそれまで! やはり本日のように新発見があるはずですから楽しみにいたします。
皆様も楽しみにして待っていてください。そしてこのブログを参考に皆様も街歩きを楽しんでいただきたいです。
posted by yunofumi at 13:59| あちこちウォーク

2021年04月17日

2021.4.11 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第12回桜区

JR埼京線南与野駅--路線バス-埼玉大学⇒大久保の大ケヤキ⇒えの本(昼食)⇒秋ヶ瀬公園⇒鴨川堤桜通り公園⇒新開タワー(しびらきたわー)⇒さくらそうウ公園・田島ケ原さくらそう自生地⇒鴨川・昭和水門⇒JR西浦和駅

南与野駅(みなみよのえき)は、埼京線の駅。、埼京線は大崎駅から新宿駅、池袋駅、赤羽駅、武蔵浦和駅を経由し、大宮駅までを直通運転しています。常日頃は乗りなれていない路線なので列車のスピードがとても早く感じました。1985年開業の駅ですがまだまだ乗客は少なそうでした。東口前には広々とした鈴谷東公園がありました。
桜区はさいたま市の南西にあり、荒川を渡れば志木市などに接しています。ということでこの区のシンボルのサクラソウを訪ねるウォーキングとなりそうです。

まずは南与野駅から埼玉大学まで路線バスで移動。
DSCN5298no2.JPG
埼玉大学は国立の大学。官立浦和高等学校、埼玉青年師範学校、埼玉師範学校を統合し1949年国立大学として設置されたとのことです。現在は5学部(教養・教育・経済・理・工)、3大学院研究科(人文社会科学・教育学・理工学)を有する総合大学で、埼玉県で唯一の国立大学。ノーベル賞の梶田 隆章(かじた たかあき)先生はこちらの卒業生とのことです。

大久保領家公園を通り過ぎると大久保日枝神社がありました。
DSCN5307no2.JPG
この社は大山咋命を祭神としており地元では「領家の山王様」と呼ばれており、お産の神様としてして知られているのです。妊婦が安産を願ってお参りしその後、無事出産を終えると、母親は自分の頭髪を一房切って神前に備えてお礼参りをするのが習わしのようです。
DSCN5313no2.JPG
社頭にはある大欅(おおけやき)は、目通りの周囲が9.7mもある樹齢千年という老木。幹には空洞が見られました。
DSCN5321.JPG
この大欅は、若狭の八百比丘尼(やおびくに)が植えたと伝えるもので、「はばきさま」と呼ばれている。比丘尼は特別なもの(人魚の肉など)を食べたことで不老長寿を獲得した方とのことです。

えの本ではそば膳をいただきました。
DSCN5334no2.JPG

DSCN5337no2.JPG

これより埼玉大学キャンパスを散策しながら南区役所に向かいました。さすがに国立大学は広々していました。
DSCN5347no2.JPG

埼玉大学を通り抜けると鴨川堤桜通り公園との案内があり浦和工業団地、サイデン化学の社屋がありました。この会社は接着剤・粘着剤・塗料など化学製品を作っているようです。区役所そばにある大きな「さいたま市記念総合体育館」は「サイデン化学アリーナ」というようです。
DSCN5360no2.JPG
桜区はさいたま市内南西部にありもともとは大久保地区と土合地区の一部からなっています。大久保地区は、明治22年、上大久保村、下大久保村、五関村、植田谷領領家村、植田谷領在家村、塚本村、宿村、神田村、白鍬村の九か村が合併して大久保村となったのです。
桜区は現在人口約9万5千人、区の花はサクラソウ、区の木はサクラ、区の色はさくら色と桜一色です。
庁舎は2003年(平成15年)に開庁ですからとても新しくきれいでした。すぐ隣のプラザウエストに図書館がありました。
DSCN5392no2.JPG
近くの別所沼古墳から犀形埴輪がでたということで大きな復元がオブジエで飾られていました。
DSCN5397no2.JPG

図書館を通り抜けるといよいよ秋ヶ瀬公園です。
DSCN5401no1.JPG

荒川の手前の鴨川堤は桜通り公園というそうで、今はソメイヨシノは終わり八重桜が見られました。
DSCN5433no2.JPG

DSCN5426no2.JPG

新開タワー(しびらきたわー)は平野原送信所(ひらのはらそうしんじょ)といい、正式には「NHK平野原FM放送所」と「テレビ埼玉・浦和テレビ送信所」というそうです。埼玉県の地上デジタルテレビジョン放送およびFMラジオ放送を送信する高さ約173mの電波塔(送信所)で埼玉では最も高いタワーだそうです。電波塔としては埼玉県南部、県央地域、東部、利根地域、東京23区北部・北多摩郡市北部、千葉県北西部、茨城県南西部および群馬県南部を放送エリアとしてカバーしているようです。
DSCN5439no2.JPG

鴨川の土手を河原のほうに 浦和ゴルフ倶楽部がありました。
DSCN5468no2.JPG
浦和ゴルフ倶楽部は1962年(昭和37年)に開場したゴルフ場で長年地元にも親しまれているようです。

国道40号のさくらそう橋に着き荒川の大きな昭和水門手前を右折でいよいよ田島地区に入り、田島ケ原サクラソウ自生地です。
DSCN5524no2.JPG

DSCN5495no2.JPG

DSCN5505no2.JPG
珍しい白色のサクラソウ
DSCN5500no2.JPG
ノウルシ
DSCN5511no2.JPG
ここでちょっと休憩。埼玉の一品「シュガーバターの木」をいただきました。
DSCN5520no2.JPG
どうやらこのお菓子の製造工場が埼玉にあるらしいのです。

桜区は2003年(平成15年)に政令指定都市となったさいたま市に一区として誕生した新しい区で住民もどんどん増えているようです。区役所ができた後、その前にきれいな道ができ、さいたま市の中心に向かうのが非常に便利になったのです。私もこの道を毎朝通って埼玉県庁傍まで通勤しています。

本日は南与野駅10:00集合。その後路線バスで埼玉大学に行きここをスタートとして、いつも見ている風景の中をひたすらウォーキングを15:00西浦和駅まで約10km、2万歩超えのウォーキング。微風に撫でられながら青空とぽっかり浮かぶ雲を見、大いに楽しみました。やはりウォーキングはお天気が一番の御馳走なのでした。これからも晴天の下、ウォーキングしたいものです。
posted by yunofumi at 14:09| あちこちウォーク

2021年04月08日

2021.3.30 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第11回緑区

さいたま市内の緑区ウォーキングです。JRで浦和がつく駅は8か所、浦和・東浦和・西浦和・南浦和・北浦和・中浦和・武蔵浦和・浦和美園があります。今日はそのひとつ東浦和駅に始めて降車です。

JR東浦和駅⇒見沼通船堀公園⇒附島氷川女体神社⇒稲荷社⇒鈴木家住宅⇒水神社⇒稲荷社⇒日本料理ふじ⇒木曽呂の富士塚⇒見沼通船堀⇒一休⇒赤山街道⇒大間木氷川神社⇒清泰寺・本殿・庚申塔・見性院の墓⇒見沼氷川公園⇒氷川女體神社⇒宮本二丁目バス停⇒戸田公園駅

東浦和駅(ひがしうらわえき)は、武蔵野線の駅で1973年(昭和48年)にJR(昔は国鉄)の駅として開業当初には自動改集札機が試験設置された駅。ということは当時はほぼ無人駅だったようです。しかし今は1日乗車約3万人で、しかも駅の周囲には多くの民家などがありました。
10:00春の日差しいっぱいの元で喜多見先生と共にウォーキング開始です。

DSCN4929no2.JPG
見沼通船堀公園は1731年(享保16年)に井沢弥惣兵為永(いざわそべいためなが)により開削された我が国最古といわれる閘門式運河、見沼通船堀のある公園。中ほどに芝川が流れ、その東側に見沼大用水東縁(ひがしべり)、西側には見沼大用水西縁(にしべり)がありその流れの両側には桜回廊と呼ばれる桜並木が総延長は20kmあると伺いました。本日は桜がほぼ満開で大いに楽しめそうです。

DSCN4933no2.JPG
附島氷川女体神社(つきしまひかわにょたいじんじゃ)は見沼通船堀の舟運で栄えた大間木村(おおまぎむら)の鎮守社。附島(つきしま)という地名は、かつて江戸湾(東京湾)が内陸まで侵入していた時代に島だったという名残ということです。

DSCN4946no2.JPG
この稲荷社は八丁(はっちょう)に見沼通船堀の会所があり重要な荷上場があったことで多くの人々により勧請されたお宮とのことです。

鈴木家住宅。
DSCN4952no2.JPG

見沼通船堀には、通船差配役であった鈴木家の住宅がありました。鈴木家は、幕府から見沼通船堀の差配(各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う業務)役を命じられていたようです。文政年間(1818年から1830年)以降は、差配を執り行う事務所(八丁会所)に出向いて差配にあたり、住まいも江戸からこの地に移したということです。現在残る鈴木家の建物(母屋・米倉・その他の建造物)は、その頃に建てられたと考えられています。当時を思い、船がありました。
DSCN4957no2.JPG

水神社。
DSCN4970no2.JPG
見沼通船堀ができた翌年の1732年(享保17年)に、見沼通舟堀が開通した江戸期に、舟の事故がないようにと祈願してできたもののようです。その堀は境内のすぐそばを流れており、大正時代くらいまでは使われていたとのことです。本殿は大正12年の大地震で全壊しその後再建されたようです。

稲荷社。
DSCN4980no2.JPG
こちらは女体権現御旅所跡だったようです。

木曽呂の富士塚。
DSCN4996no2.JPG
江戸時代に通船堀を望むように作られた富士山信仰の塚。以前は胎内巡りもできたようです。 台地上からの標高差は5.4m、直径20mの大きさ。上から見るととても高い印象で高所恐怖症の私は足がすくみました。

これより通船堀東縁の桜をしばし眺め、食事場所に向かいました。
DSCN5020no2.JPG

DSCN5065no2.JPG

DSCN5102no2.JPG

一休ではすばらしくおいしいランチをいただきました。
DSCN5115no2.JPG

大間木氷川神社そばに「赤山街道」の案内板がありました。ただただ普通の道ですがどうやら以下のようなことらしいのです。
赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が1629年(寛永6年)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道。街道の起点は与野市あたりらしく、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていたようです。伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んでいたことから伊奈氏と称したとのこと。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石をいただき、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだのです。三代目半十郎忠治は、関東郡代となって、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し赤山に陣屋を移したようです。忠治は治水、感慨、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手したのです。現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれています。

大間木氷川神社の創建年代は不詳。
DSCN5129no2.JPG
旧別当寺三光院の先祖がこの地に土着してこの神社の祭祀を司るようになったものと思われ、三光院で所蔵していた笈が室町時代の漆工芸晶であることからこの神社の創建も室町期ではないかということです。年代不明ながら稲荷社二社と石神井社を合祀したとも伺いました。また、1667年(寛文7年)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したということです。
DSCN5134no2.JPG
正面に鳳凰、左右は牡丹の彫刻が色彩豊かに残っていました。

清泰寺(せいたいじ)。
DSCN5151no2.JPG
清泰寺は、足立坂東三十三観音霊場6番札所。平安時代初期に慈覚大師円仁が開山したと伝承されているとのことです。敷地内にはおびただしい庚申塔がありました。
墓地の奥には見性院の墓がありました。
DSCN5156no2.JPG
見性院(けんしょういん)は、戦国時代から江戸時代初期の方で甲斐国武田家家臣の穴山信君(梅雪)の正室。もともとは武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人ということです。

そしていよいよ見沼大用水西縁(にしべり)の桜回廊と呼ばれる桜並木を存分に楽しみました。
DSCN5189no2.JPG

DSCN5222no2.JPG

DSCN5229no2.JPG

DSCN5237no2.JPG
見沼氷川公園は氷川女体神社の眼下に作られた公園。園内にあるハーブ園には、ラベンダーやミントなどのハーブが植えられており、良い香りがほのかに漂う憩いの空間で、人気スポットのようです。
DSCN5238no2.JPG
童謡「案山子」の歌詞は「 山田の中の一本足のかかし 天気のよいのにみの笠着けて 朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田のかかし」「 山田の中の一本足のかかし 弓矢でおどして力んで居れど 山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田のかかし」
このあたりは、国定教科書の編さん官であった武笠 三(むかさ さん)の生誕地とのこと。公園の正面近くに、高さ3mブロンズ製の「案山子像」がありました。記念碑の揮毫者は国文学者である金田一春彦とのこと。平成5年4月29日に建立されたようです。台座は六角形で建立趣意書と武笠 三の略歴が刻まれていると説明を伺いました。 

またこのさいたま市には多くの竜神伝説があるとの案内がありました。
DSCN5244no2.JPG
だからでしょうか、東浦和駅前には竜神の像がありました。
DSCN5282no2.JPG

氷川女體神社。
DSCN5268no2.JPG
武蔵国有数の古社で、見沼の谷に突き出した小舌状台地の上にあるとのことです。クス、モチ、シラカシなどの暖地性植物が繁茂しており、埼玉県の「ふるさとの森」にも指定されているとのこと。
所蔵する文化財に古鈴、三鱗文兵庫鎖太刀、牡丹文瓶子、大般若経波羅蜜多経五百九十三巻 など他多数があることから「埼玉の正倉院」とも呼ばれているようです。
今から2000年前の昔、第10代崇神天皇の時代に勧請をしたと伝えられているようですが、実際は奈良時代(710〜794)の建立とのこと。氷川女體神社の「女體」は、御祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと)に由来し、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされているのです。
また、一説には、当社(女體社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、武蔵国一宮と称されていたとも伝えられています。実際に三社は一直線場に配置されており、氷川女體神社の拝殿には、武蔵国一宮の扁額が掲げられています。
中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されています。現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られ、拝殿と相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物です。

氷川女體神社にお参り後は宮本2丁目バス停から路線バスで東浦和駅に戻りました。
本日は桜を堪能し、先生から埼玉の一品として「浦和ポテト」と「ちりめんじゃこ」をお土産に帰宅しました。「浦和ポテト」は花月庵つくばの甘くてサツマイモ風味がいっぱいの和菓子でした。「ちりめんじゃこ」は一休のランチでいただいたのでこのおいしさを家族にも味わわせたいと思い求めたものです。
DSCN5286no2.JPG
本日は晴天の下、24℃にもなったようでしたが約2万歩超えながら、本当に気持ちよく、桜を愛で、幸せな1日でした。喜多見先生、7人の仲間の皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 16:11| あちこちウォーク