2018年01月16日

2018.1.13 山手線歴史探訪ウォーク 第5回

目白駅〜新宿駅
JR目白駅⇒学習院大学⇒豊島消防署⇒目白警察署⇒千登世大橋・千登世小橋⇒高田1丁目⇒宿坂道・目黒不動・金乗院⇒南蔵院⇒山吹の里の碑⇒面影橋⇒甘泉園公園⇒堀部安兵衛の碑⇒西早稲田交差点・高田馬場跡・八幡鮨⇒グランド坂通り⇒都電荒川線早稲田停留所⇒豊橋・神田川⇒高田第二公園⇒肥後細川庭園⇒水神社・胸突坂・関口芭蕉庵⇒椿山壮⇒神田川桜並木⇒江戸川公園⇒大滝橋⇒旧関口町⇒東京外国語学校早稲田校⇒リーガロイヤルホテル(昼食)⇒大隈庭園⇒早稲田大学・演劇博物館⇒龍泉院⇒おそば三朝庵⇒早稲田高校・中学校⇒夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑⇒東京メトロ早稲田駅⇒穴八幡宮⇒放生寺⇒都立戸山公園・箱根山・戸山教会⇒戸山生涯学習館⇒抜辨天北公園⇒大聖院・紅皿の墓⇒西向天神社⇒新宿文化センター⇒日清食品⇒花園神社⇒新宿ゴールデン街⇒JR新宿駅新南改札口

本日は山手線5回目、都内ウォーキングで伺ったことがある所も幾つか含まれていますがまた違った趣もあるかと思い、参加しました。

学習院大学
1847年京都御所のそばに公家の教育機関として創立。1849年孔明天皇が学習院と命名。
1877年東京に華族学校が開設。明治天皇より学習院の名称を継承とのことで現在に至っているようです。1949年に新制の学習院が開学。現在5学部17学科、大学院は6研究科があるとのこと。門は昔のままのようでした。
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目白警察署は1923年に創設され豊島区を中心に受け持っている警察署。目白警察署の入口に掲げられている旭日章は、旭日を桜が囲んでいる図柄でした。この図柄は、警視庁管内に102署ある警察署の中でも目白警察署だけとのこと。これって旧近衛師団(皇居守護や儀仗に任じた旧陸軍の師団)が用いていたもので、学習院大学警備を担当する目白警察署が、昭和2年の庁舎移築の際に、その使用を特別に認められたものとのことでした。
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千登世橋(ちとせばし)は目白1丁目と雑司が谷との境界にある跨道橋。橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいました。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されています。戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初のもので、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つなのです。 1990年(平成2年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されたとのことです。

宿坂道(しゅくざかみち)は鎌倉街道に面していたようです。今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸などがいて通行人を化かしたなどという話もあるようです。
この左手には目黒不動のある金乗院です。
目黒不動・金乗院(こんじょういん)は、1573年(天正年間)あたりの創建ではないかと推定されているようです。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院といったようですが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となったようです。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたもの。また目白不動尊は、元々はこの寺にあったのではなく、1kmほど離れた文京区関口の新長谷寺にあったということです。
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南蔵院は三遊亭円朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になったお寺。境内には、植物園のように、いたるところに鉢植えが置いてありました。本堂の階段にも鉢植えがびっしり。本堂はコンクリート造りで新しそうでした。花が咲く時期に訪れたいものです。
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山吹の里の碑。
都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つが都電荒川線。その荒川線の駅を終点の早稲田駅から出発して次の駅が「面影橋」。そのすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っていました。
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「山吹の里」は太田道灌が、鷹狩りに出かけた際ににわか雨にあって付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出したのです。道灌は意味がわからず怒ってしまったのですが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914〜87)が詠んだ和歌、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき 」という和歌を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだということです。この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうで、それもやはりこの伝説にちなんだもののようです。近くには「山吹の里公園」もあるとのことです。この「山吹の碑」は1686年(貞享3年)に建てられたもので、最初は面影橋の辺にあったようです。

甘泉園公園は、区立唯一の回遊式庭園です。
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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたといわれています。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなすのです。ここは、江戸時代宝永年間(1704-1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に初代清水家の江戸下屋敷があったとのこと。明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けその後昭和44年には区立公園となったのです。この公園は現在、ツツジの花、アジサイの花、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として人々に親しまれているとのことでした。

堀部安兵衛助太刀の場所の碑。
1694年(元禄7年2月11日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒したのです。この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄15年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、1910年(明治43年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたとのこと。その後、昭和46年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されたようです。
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新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道はグランド坂通りとあり、新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道とのこと。早稲田大学早稲田キャンパス(旧称:西早稲田キャンパス)の中を通り、坂名の由来となったグランドがあった所に位置する早稲田大学総合学術情報センター(大学図書館等がある)は、この坂道の北側に接しています。道筋は逆S字型ですが、坂中央部が長い直線になっています。

都電荒川線早稲田停留所は、西早稲田一丁目の新目白通り上にあり、都電荒川線の停留場で同線の終点でもあります。

豊橋(ゆたかばし)・神田川。
都電早稲田駅から北に入ってすぐのところにかかる橋。逆に南に進めば早稲田大学脇の「大隈通り」に入ります。橋の北側を少し行くと豊川稲荷があり、その脇に日本女子大前につながる「豊坂」という坂道があるのです。橋の名前は直接にはこれらにちなんだものかと思われます。 橋自体は変哲のないコンクリート橋ですが、周囲の景観は変化に富んでいて散歩向き。付近の両岸は桜の名所で、初夏の緑もなかなかのもので、南側の学生街、北側の高田1丁目あたり、いずれも町並みに特色があってちょっと楽しいのです。

肥後細川庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。
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目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂、胸突坂があります。神田川にかかる駒塚橋から見ると、左手の水神社の白い鳥井と、右手の関口芭蕉庵の塀に挟まれた細い道が、生い茂る木々の間を上っていくのが見えます。坂下には水神社(神田上水の守護神)があります。坂道を挟んで向かい側には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵がありました。

関口芭蕉庵。
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいました。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているのです。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたのが現在の芭蕉庵につながっているとのこと。現在のものは第2次大戦後の建築だそうです。

椿山壮はホテルとして1992年(平成4年)に開業。2万坪の日本庭園で知られる老舗結婚式場が敷地内にあります。

リーガロイヤルホテル東京に隣接しているのが大隈庭園。
広い芝生が広がる和洋折衷式の庭園。作者は佐々木可村とのこと。大隈邸の竣工した明治20年に庭園も完成していたようです。
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夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子の安倍能成氏によるもの。漱石は1867年(慶応3年)、この地に生まれ、誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克とのこと。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしたようです。
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穴八幡宮。
蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされていわれています。旧称は高田八幡宮。1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったということです。1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称し、3代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたのです。
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歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されているのです。江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名とのこと。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているとのことです。

都立戸山公園・箱根山。
都立戸山公園は尾張藩の下屋敷。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万uの広大な敷地には池や山のほか、多くの寺社もあったようです。第2次世界大戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の接収を経て、一部が都立公園として整備されたのです。公園は明治通りをはさみ「箱根山地区」「大久保地区」の2エリアに分かれています。春から夏にかけてはサクラやツツジ、秋は紅葉が見ごろ。箱根山に登り「登頂証明書」をもらうことができました。
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箱根山は標高44.6mで山手線の内側で最高峰。江戸時代、この地には尾張藩の広大な下屋敷があったので2代藩主の徳川光友が庭園を造った際、池を掘った土で築かれた人造の山が今もその姿をとどめています。明治維新後、土地の所有が政府に移ると、庭園は壊され、陸軍戸山学校が設けら、射撃場、軍医学校……。軍事面で近代国家を支える拠点となったのです。

抜辨天。
白河天皇の時代、1086年(応徳3年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのがこの厳島神社の始めと伝えられています。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。また山之手七福神を構成する弁財天でもあるとのことです。
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大聖院・紅皿の墓。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成されています。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられていました。
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西向天神社。
1282年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。旧・東大久保村鎮守。祭神菅原道真。この方は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ったのです。
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花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。戦争を経て1947年(昭和22年)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。
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新宿ゴールデン街は新宿区の飲食店街でおよそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。昼間なのでどうやら巡り歩くことができました。

本日はセンター試験初日で多くの若者を見受けました。私どもの参加者は16名、そのうち珍しく男性が6名含まれていました。案内は岡本先生とTD長田さん。朝自宅出発時は気温はマイナス、日中も7℃くらいでしたが晴天で風もなく、9:30〜15:30過ぎまで大いに楽しみながらのウォーキングでした。本日で歩程は約半分。今後もがんばります。
posted by yunofumi at 00:42| あちこちウォーク

2018年01月14日

2018.1.11 山手線歴史探訪ウォーク 第4回

巣鴨駅〜目白駅

JR巣鴨駅⇒巣鴨橋⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡⇒染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り⇒真性寺・銅造地蔵菩薩坐像⇒都立染井霊園⇒慈眼寺⇒本妙寺⇒東京都中央卸市場豊島市場⇒高岩寺・とげぬき地蔵⇒巣鴨地蔵通商店街・みずの⇒猿田彦大神・庚申堂⇒都電荒川線庚申塚駅=都電荒川線向原駅⇒東池袋3丁目都バス停留所⇒豊島消防署⇒豊島郵便局⇒サンシャインシティ・プリンスホテル・レストランバイエルン(昼食)⇒東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地⇒帝京平成大学⇒都電荒川線東池袋4丁目(サンシャイン前)停留所⇒大塚5丁目⇒日本大学豊山高校⇒護国寺惣門⇒護国寺⇒雑司ヶ谷霊園⇒雑司が谷旧宣教師館⇒都下水道局雑司ヶ谷庁舎⇒清立院・毘沙門天⇒南池袋4丁目⇒大鳥神社・七曲りの水⇒鬼子母神大門欅通り⇒鬼子母神・武芳稲荷大明神・上川口屋・おせんだんご⇒鬼子母神西参道⇒目白小学校⇒川村学園⇒学習院⇒JR目白駅

徳川慶喜巣鴨屋敷跡。
巣鴨駅の向かい側に石柱と案内板があります。
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徳川慶喜は、明治維新のどさくさの際、新政府から慶喜追討令が出され、寛永寺、水戸講道館で謹慎後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。その後、転居したのですがこれは、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだったとのこと。その翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。 しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。 徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。 徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。

染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り。
今は冬なので木々の並木をみました。「ソメイヨシノ」は巣鴨(染井エリア)の発祥なのです。

真性寺・銅造地蔵菩薩坐像。
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江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像。一番品川寺、二番太宗寺、三番真性寺、四番東禅寺、五霊厳寺、六番永代寺があるとのこと。江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進を得て、江戸の出入口6箇所の地蔵菩薩坐像を造立したのです。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したのです。但し、江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったのが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されたようです。ということで第六番の仏様が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目6-4)に祀られているとのことです。

染井霊園(そめいれいえん)は都営霊園。旧称は染井墓地。水戸徳川家墓所、水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓、徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓があります。面積は67,911u、およそ5500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さいとのことです。園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として知られています。高村光雲、光太郎、智恵子のお墓を見ました。

慈眼寺はもともと深川六間掘猿子橋に創建。色々移転後1912年(明治45年)谷中妙伝寺と合併の上、この地へ移転、山号を正寿山と改号しました。現境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎等の墓がありました。

本妙寺(ほんみょうじ)は、巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移り、その後1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移ったのです。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移転。1657年(明暦3年)の明暦の大火はこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられるため現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がありました。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。千葉周作、森山多吉郎、遠山景元のお墓を見ました。
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東京都中央卸市場豊島市場.
豊島市場の起源は、16世紀頃の「辻のやっちゃ場」駒込土物店(つちものだな)。駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺境内にあった「さいかち」の大樹に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であるといわれています。江戸時代には、神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えたようです。その後東京市となり、関東大震災後の帝都復興事業を経て、大東京市域に散在していた私設市場も統合され、昭和12年3月東京中央卸売市場豊島分場としてこの地に開業し今に至っているようです。

高岩寺・とげぬき地蔵
高岩寺は1596年(慶長元年)に江戸湯島に開かれ約60年後、下谷屏風坂に移り巣鴨には1891年(明治24年)に移転してきました。ご本尊は「とげぬき地蔵」とよばれる延命地蔵菩薩。こちらの地蔵菩薩様は秘仏で見ることはできません。
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1657年江戸時代の明暦の大火で、檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。  この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行、新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義江氏で今はタワシを廃止し布で洗うことになっています。今日も長い行列ができていました。またこの門前の巣鴨地蔵通商店街では「みずの」の塩大福を購入しました。

猿田彦大神・庚申堂。
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1502(文亀2年)、高さ八尺(約2.4m)の庚申塔をこの地に造立したのが創祀といわれているとのこと。1657年(明暦3年)、明暦の大火(振り袖火事)が発生した時、上州・秩父・川越方面より復興に使用される木材がここに多く集積されたのです。ある時、庚申堂の碑に立て掛けられた竹木が重心を失って倒れ、庚申塔に当り、塔は五つに砕け、村中で協議し、丈を縮めた塔を再建し、砕けた塔はその塚の土中に埋めたとのこと。この場所は旧中山道(現・地蔵通り)と旧王子道(現・折戸通り)が交差しており、板橋宿に至る途中の立場(たてば・休憩所)として、賑わった場所でもあったのです。明治初期には、千葉県銚子市の猿田神社の御分霊を勧請、その後色々の経緯があったようですが1982年(昭和57年)に庚申堂奉賛会が発足、1991年(平成3年)に山門の改築に至っているとのことでした。

都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋〜早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが多くあるようです。本日は庚申塚駅から向原駅まで乗車。お客さんが多くて驚きました。また東京都交通局では、都電荒川線を「東京さくらトラム」という愛称にしているとのことでした。
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東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地。
ここはかつての巣鴨刑務所跡地。後に東京拘置所と改称、さらに1945年の第二次大戦後にはGHQに接収されて「スガモプリズン」と呼ばれた所。さらにその後、巣鴨刑務所とされたが1958年に閉鎖されたようです。端のほうに「永久平和を願って」と彫られた石碑があり、背面には以下の文言がありました。「第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月」

護国寺惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という、性格をあわせもっているとのこと。 形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容で当時が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映しているようです。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財となっているのです。
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護国寺は1681年(天和元年)に徳川綱吉が母、桂昌院の願いで桂昌院の祈願寺として建立したとのこと。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあるとのこと。江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったようです。
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雑司ヶ谷霊園は、東京都立の霊園で面積は約115,400u。夏目漱石をはじめジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くありました。
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雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。マッケーレブは、1941年(昭和16年)に帰国するまでの34年間この家で生活をしたのです。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築とのこと。建物は、木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式、細部のデザインはカーペンターゴシック様式、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅なのです。
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七曲りとは、鬼子母神の参道から大鳥神社に抜ける路地の名前。クネクネと7回曲がることからこう呼ばれているのです。この七曲りの中ほどに昔から近所の共同井戸として使われていた井戸がありこれを七曲りの水と呼んでいます。
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大鳥神社
もともとは正徳年間に鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀されたのが始まり。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称し、仮遷座したのです。その後旧幕臣矢嶋昌郁氏が自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地として定まり、現在に至っているようです。
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鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂。
鬼子母神は1578年(天正6年)の創建で現在の本殿は1664年(寛文4年)に、加賀・前田利常の息女自昌院殿の寄進により建立されたとのこと。
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その前田家から、境内での営業を許された「あめ屋」から始まったお店が「上川口家」。家紋が看板に刻まれていましたがこれは「鶴丸」とのこと。森蘭丸などが使用した家紋らしいのです。今の店主は13代目とのこと。お店には、数々の昔懐かしい駄菓子が並んでいました。
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また境内にはおせん団子もありました。鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるようにという願いに由来しているようです。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれましたのです。

本日は晴天で風もなく気温10℃はウォーキングにぴったり。岡本先生、TD大木さんの付き添いで8km 20000歩。朝9:30から約5時間。のんびりペースでしたので16人は和気あいあいと無事完歩。昼食がバイキングと気ままに過ごせたこともよかったと思いました。
posted by yunofumi at 21:20| あちこちウォーク

2018年01月05日

2018.1.3 mbt初詣ウォーク 世田谷線を歩く

東急世田谷線は、都内でも数少ない路面電車のひとつ。カラフルな可愛い2両編成の電車が約5kmを10駅に停車しながらのんびり走っていました。
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この電車は都電荒川線と同様の路面電車。豪徳寺、松陰神社などの名所、世田谷区役所をはじめ行政施設も多いようで乗客はそれなりの様子でした。ということで本日はこの路線に沿ってのウォーキングです。

東急世田谷線三軒茶屋駅⇒西太子堂⇒若林⇒松陰神社前⇒松陰神社⇒松下村塾学び館⇒Boulangerie Sudou⇒世田谷駅⇒上町商店街⇒鹿港⇒上町駅⇒烏山川緑道⇒宮の坂駅⇒豪徳寺⇒豪徳寺商店街⇒やきいも専門店ふじ⇒小田急豪徳寺駅⇒山下駅⇒松原駅⇒赤松公園⇒下高井戸商店街⇒下高井戸駅

松陰神社のあるこの地はもと長州藩主の別邸があった所。安政の大獄で刑死した吉田松陰を4年後の1863年(文久3年)に高杉晋作などの門人が小塚原回向院の松陰の墓をこの地に改葬したのです。そして1882年(明治15年)墓の傍に松陰を祀る神社が創建されたのです。松陰50年祭には伊藤博文などが寄進した灯籠26基、鳥居は木戸孝允寄進したとのことです。
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Boulangerie Sudou(ブーランジェリースドウ)。
焼き菓子とパンのお店。ちょっと高めのお値段のようですがとっても評判や良いそうです。
本日はお正月でお休み。もっとも毎週日月、不定期に火曜も休むことがあるそうです。
それでも成り立つわけですから、一度うかがってみるようです。

鹿港(Lu-Gang)。
肉まん、あんまんのお店。材料の豚肉、ネギ、味付けなどとことんこだわっているようです。
すぐに売れ切れになるようで予約も可とか。面白いと思ったのは台湾スタイルの自家製豆乳はじめました!とのこと。ここもお正月で本日は休み。再度うかがうようです。

この緑道に沿って、豪徳寺、世田谷城址公園、松陰神社、太子堂円泉寺等があるようです。
世田谷区では、昭和44年以降暗渠化された中小河川の上部を有効利用する方法として緑道の造成に力をいれてきたとのことです。緑道は自然を取り戻し、歩行者の安全と緊急避難通路の確保などを目的として作られ、烏山川緑道をはじめ8本の緑道が昭和54年度に完成したのです。烏山川緑道は延長約7km、千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いているとのことでした。
私たちは豪徳寺橋や清涼橋の案内があった所を楽しくウォーキングしました。
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江ノ電601号。
世田谷線の前身は玉電(渋谷〜二子玉川園、二子玉川園〜砧本村)。昭和44年に廃止されたとのこと。601は相棒の651と共に、平成2年春と、大型車の中では一番最後に廃車になっています。601は、世田谷線の宮の坂駅前にある宮の坂区民会館に鎮座、651は運転台のみが、江ノ電江ノ島駅近くの扇屋という和菓子屋さんの店頭にあるそうです。ちなみに扇屋は、「江ノ電もなか」の販売元だそうです。
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大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)。
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この寺院付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされているとのこと。1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結び当初は臨済宗に属していたのが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じたようです。
豪徳寺仏殿。
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豪徳寺本殿。
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梵鐘は1679年(延宝7年)完成以来ここにあるのです。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したのです。彦根藩井伊家墓所、井伊直弼墓があります。
豪徳寺は、台東区「浅草今戸神社」、新宿区落合南長崎「自性院」と並び、「招き猫発祥の地」としても有名です。江戸藩邸に暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰りにこの付近を通りがかった時に見かけたネコが自分を招いているように感じた井伊直孝が門内に入ると、急に天候が雷雨に!ネコのおかげで、雷雨を避けることができ、和尚さんのありがたい法話も聞くこともできて喜んだ直孝はネコとの偶然の出会いを喜んだのが「招きネコ」伝説のはじまりとのこと。豪徳寺では招きネコのことを「招福猫児(まねぎねこ)」と呼んでいるようです。
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豪徳寺の売店で購入できる招き猫は小判を持ったりすることもなくシンプルな意匠で、すべて「右手」で招いています。

やきいも専門店ふじ。
東京では珍しい焼き芋の専門店です。甘〜い安納芋、それより甘い紅はるか。紫芋やハロウィンスウィートなどの変わり種もあるとのこと。私はにんじん芋をいただきました。これも甘かったです。
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本日の集合は三軒茶屋駅8:45ということで5:00起床、上福岡駅7:00過ぎに乗車、やれやれと思っていたらふじみ野駅過ぎてすぐ停車!!人身事故発生!!これより1時間10分車中に缶詰に。とても集合に間に合わないと思い、皆さんには出発していただきました。そして池袋に到着後、携帯メールでやり取りし、松陰神社で合流、予定通りにウォーキングを楽しみました。
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そうそう終点の下高井戸駅で一旦解散。でもお昼です!と三軒茶屋に戻りました。
この時、注目の猫電車に乗れてラッキー!
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つり革もかわいい。
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そして車内床には猫の足跡。
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三軒茶屋では世田谷区立スカイキャロット26階に上りまずは展望ロビーへ。
FM世田谷サテライトスタジオではゲストの小室等さんがにこやかに話しておられました。
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富士山もばっちりです。
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御馳走はさすがホテルオークラ!とっても美味しかったです。
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今朝はスタート時気温2℃、日中は9℃で次第に風が強くなりましたが総勢13名はお正月早々大いに楽しみました。
皆さま!またご一緒しましょう!
posted by yunofumi at 10:48| あちこちウォーク

2017年12月29日

2017.12.26 屋久島ぐるり一周の旅3日目

JRホテル屋久島スタート8:30→千尋滝→安房港→屋久島空港→宮之浦港→鹿児島港→鹿児島空港→羽田空港

今朝はやや曇りの天候、気温10℃。皆元気に出発です。

千尋滝(せんぴろのたき)。
滝を正面に見て左手には約400m×200mの巨大な花崗岩の1枚岩が渓谷を作り正面には落差66mの滝が2段になって見えました。岩肌と木々の緑、そして滝の勢いを眼前に見て感嘆!!
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お土産は焼酎やグァバ茶も良さそうでしたが自分の好みでたんかん、杉細工のストラップ、フルーツジャムとトビウオのあごだし、そして焼きあご。やはり家族全員が食することが一番ですから、、、。それにしても荷物は膨らむ!!ということでザックひとつで帰路としたいため宅急便をお願いしましたら何と!3日間!それでもお願いして身軽に出発しました。
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心残りはもちろん縄文杉を見られなかったことですがこれは山深く入らねばならず初めからあきらめていました。しかし屋久杉の知識をまとめて知るには屋久杉自然館が見る価値があったと思いこちらは残念。

さて長い行程ながらほとんど歩くことなく軽々で高齢者の旅行には最適でした。一番の収穫はお天気に恵まれたこと。ヤクシギランドの木道を進むにつれ気温は5℃まで下がり寒かったですがマイナスイオンいっぱいでとても満足。島の生活は東西南北により気候や風土が違い面白いと思いました。やはり厳しい現実もあるようでした。島の皆様が自然を大切に今後も過ごされることを祈りサヨナラしました。感謝!!
posted by yunofumi at 20:32| あちこちウォーク

2017.12.25 屋久島ぐるり一周の旅2日目

JRホテル屋久島スタート→安房→紀元杉→ヤクスギランド→安房港 屋久杉の郷杉匠→屋久島空港→小瀬田→屋久島大社→宮之浦港→志戸子→一湊→永田いなか浜→永田岬・屋久島灯台→川原・西部林道→大川の滝→中間・中間ガジュマル→ 16:00ホテル到着

朝目覚めると晴天の様子。意気揚々とお出かけしました。気温12℃、朝にしては暖かい。
ホテルの外周を一回り。すっかり元気になっていました。
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紀元杉。
細い安房林道をバスがやっと入り、ゆっくり上り標高1230m辺りにありました。木の先端は枯れており20種類以上の着生植物があるとのこと。初夏にはヤクシマシャクナゲ、秋はナナカマドが紅葉するとのこと。推定樹齢約3000年、胸高周囲8.1m、横に張り出した枝が折れそうで太いベルト?で釣り上げていました。
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ヤクスギランドは杉やツガの大木が多く立ち並んだ原生林。木道ができており、私たちはときめきの径30分コースをゆっくり1時間弱でウォーキングしました。
杉は一般的には樹齢500年前後でそもそも屋久杉とは樹齢1000年以上の杉をいい、数百年の杉は小杉というとのことです。屋久島の杉の樹齢が長いのは雨量が多いこと、花崗岩の地盤のため栄養が乏しく時間をかけて生育しているからなのです。この森では植物が岩や樹に根を這わせる着生、倒木となった過ぎに若い杉が育つ倒木上更新、切株更新、樹脂が多い屋久杉が伐採後も腐らずにそのまま倒れているのは土埋木、数本の杉が癒合した合体木など色々見ることができました。原生林の奥に進むにつれ気温が下がり、折り返し地点では5℃になっていました。切株はほとんど江戸時代に切られたようです。
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安房港にある屋久杉の郷「杉匠」で昼食と買い物。
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屋久島のトビウオ漁獲量は日本一とのこと。2階レストランでの昼食はトビウオのから揚げがメインの定食御膳。
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トビウオは一匹まるごと羽がついたままの姿で唐揚げになっており、頭からしっぽまですべて食べられるとの説明がありました。私は初めてでしたが身は白身、羽はこりこり。背骨以外は本当にたべられそうでした。私もいつもよりは結構きれいに食しました。吸い物はトビウオ出汁のあごだしを使っていました。この味はちょっと魚っぽい味でしたが珍しかったこと、粉末になっていたのでお土産に購入しました。
1階は土産物店。杉材の品物が多かったです。高価でちょっと手が出ませんでした。そうそう、これらは江戸時代に伐採された切株から作られているとのことでした。
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これまでにはこの島内で景色とお花を十分に堪能。
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永田いなか浜はどこまでも続く海面と約800mはある白砂の浜でした。今日は波が大きくうねり口永良部島は見えませんでした。ここは国内随一のウミガメ産卵地として有名で5〜7月に産卵のためにウミガメが上陸するとのことでした。
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屋久島灯台は永田岬の断崖に真っ白な姿を見せていました。地上から約20m、光到達距離41km、1897年建設。今日は晴天でしたからここから沈む夕日を見たかったです。
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西部林道は島の外周道路の一部で世界遺産に登録されているエリア。山間部ではカシ、イスノキ、シなどの照葉樹林をはじめ亜熱帯から亜寒帯までの植物があるそうです。ここは道幅狭く、ヤクザルやヤマシカも出ることから小型の自動車やバスでないと通行が難しそうでした。ヤクザルは人に慣れているのか車が近づいても悠然としていました。でも2回ほど見かけたヤマシカはすぐに逃げていきました。
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大川の滝(おおこのたき)。
高さ88m、日本の滝百選のひとつだそうです。岩肌と水しぶきはダイナミックな感じ。
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中間川沿いに進むとアーチ状になった樹齢300年以上の中間ガジュマルがありました。
個人宅の門の役目に見えました。この家の近所にはガジュマルが幾本も見えました。ガジュマルはクワ科の常緑高木で屋久島が北限だそうです。
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ここで無人の販売店でタンカン6個100円をゲット。

島内で製造されている「恵命我神散」は老舗恵命堂製造のOTC薬。生薬ガジュツ末が主成分の胃もたれなどに皆さんが気軽に使っているようです。昭和8年創業。創始者、柴 昌範は「病に苦しむ人を助け、命を救うことほど尊い事業はない」との理念から胃腸薬 恵命我神散を創製し、老舗恵命堂を設立。生薬ガジュツは屋久島や種子島産。屋久島と種子島に工場があり本社は東京とのことでした。

そして途中には徳洲会病院がデーンとありました。創立者徳田虎雄さんは鹿児島県大島郡徳之島町出身。いつでもどこでもだれでも最善の医療を受けられることをスローガンにした大病院グループの創設者。現在も筋萎縮性側索硬化症(ALS)ながら存命のようです。

本日は朝8:30スターから16:00ホテル帰着まですべてまつばんだ交通のガイド羽生さんが先導、CD福井さんが面倒を見たことで無事に1日の行程を安全に元気に終了。
本日は晴天で気温16℃と過ごしやすかったです。
ホテルの夕食は本日も素晴らしく満腹!満腹!
ホテルの温泉も柔らかい源泉。おまけに満点の星空でした。ウン十年ぶりに星が降り注ぐような感じでした。
posted by yunofumi at 19:20| あちこちウォーク

2017.12.24 屋久島ぐるり一周の旅1日目

本日より2泊3日の屋久島の旅のはじまりです。
本日はとにかく屋久島のホテルを目指す行程。
参加者女性のみ6名、CDは女性の福井さん。最後まで元気に頑張りましょうと挨拶しました。

羽田空港9:00ANA078便→鹿児島空港16:05
鹿児島空港→バス→鹿児島港(約1時間)
鹿児島港13:20→ジエット高速船Rocket2→屋久島宮之浦港15:10
屋久島宮之浦港→まつばんだ交通バス→JRホテル屋久島16:00

曇り空の羽田空港9:00からホテル到着16:00、もっともその前に自宅5:00出発でしたから実質11時間。それぞれ待ち時間が十分あるように動いていたとはいえ、やはりちょっと長かった!
初めてのジェット高速船は時速80kmとのこと。揺れはほとんどありませんでした。
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鹿児島は小雨。気温14℃、やや暖め。傘をさすこともなくホテル到着。
JRホテル屋久島は素晴らしい立地、お部屋も素晴らしい!食事も素晴らしい!
以下島内の案内はまつばんだ交通のガイド羽生さんからの受け売りです。
屋久島(やくしま)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町で面積504.29 km、周囲130km(東西約28km、南北24km)[2]。円形に近い五角形で、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では7番目の面積。島の90%は森林。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%がユネスコの世界遺産に登録されている(登録は1993年)。
島民は14000人、小学校8校、中学校3校、公立高校1校。島内の発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式。平素は島内の電力は水力発電で賄われ、火力発電は緊急時に限って活用されるとのこと。
島のほぼ全域が山地。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) 。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳といわれているのです。
海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳があるのです。
屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後隆起して形成された様子。
屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140もあるといい、主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つ。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝(おおこのたき)、千尋の滝(せんぴろのたき)などがをみました。
屋久島は月のうち、三十五日は雨」といわれるほどの所。年間降水量は平地で約4,500mm、山地では8,000mm〜12,000mm。特にヤクスギランドで2012年に11,129.5mmを記録、毎年10,000mm前後の降水量が観測されているとのこと。
また、山頂付近の年間平均気温は約6-7℃で積雪が観測され、日本国内での積雪観測最南端、60cm以上の積雪もありとのこと。
これらのことから豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれ2007年には日本の地質百選にも選定されているのです。

JRホテル屋久島。
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お部屋のベランダからの景色。
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お部屋はスタンダードツインに一人で宿泊し大いに贅沢。宿泊費2万円?
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夕食は和洋折衷コースで満腹。皆さんがオーダーしたお酒はどれも美味だったようです。
本日はクリスマスイブなのでデザートは特別でした。
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大浴場は天然温泉。アルカリ単純温泉。PH9.7。とろりとしたお湯でお肌はしっとりすべすべになり大満足。
今日は遠い屋久島まで来たのにテレビドラマ「陸王」最終回を見て大満足で就寝しました。
posted by yunofumi at 01:25| あちこちウォーク

2017年12月21日

2017.12.13 横浜散策第6回 磯子区

JR根岸線磯子駅⇒Barilla City 横浜磯子⇒中村孝明貴賓館⇒汐見台ストア前バス停留所⇒久良岐公園⇒久良岐能舞台⇒藤の木中学校⇒岡村6丁目⇒天神前バス停留所⇒とんかつ美とんさくらい(昼食)⇒岡村天満宮⇒横浜学園前⇒岡村共栄会⇒滝頭2丁目・岩瀬商店街⇒横浜滝頭郵便局⇒たきがしら芭蕉苑⇒丸山市場・魚増跡⇒滝頭第三住宅⇒横浜市電保存館⇒坂下橋・掘割川⇒磯子橋東詰⇒根岸なつかし公園・旧柳下邸⇒根岸八幡神社⇒米国政府専用区域・根岸森林公園⇒馬の博物館⇒レストランドルフィン⇒根岸駅

磯子駅からすぐ見上げるばかりの崖をとても立派な専用エレベーターで上に上りました。
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上には「Brilla City 横浜磯子」があり、ここは平成25年竣工で、東に横浜湾、西に富士山、北にみなとみらい、南に三浦半島が望める高台にある全13棟、1230戸のマンション群でした。
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元は昭和天皇の義弟、東伏見邦英伯爵の療養のために1937年に建てられた貴賓館を含む広大な用地だったようです。貴賓館は現在、日本料理の鉄人、中村孝明さんのレストランとなっていました。
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久良岐公園(くらきこうえん)は、横浜市港南区と磯子区にまたがる、横浜市立の都市公園(総合公園)で面積は、約23万m2。汐見台団地の造成にあわせて整備され、1973年(昭和48年)に開園したのです。名称はこの一帯の古い地名である久良岐郡から採られたとのこと。
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中央付近に池があり、北側は散策路のある雑木林の先に久良岐能舞台がありました。南側は運動広場や芝生広場、桜の林、横浜市電の保存車両などがあり、春には花見客でにぎわうようです。
横浜市電1156号は1972年に廃止された横浜市電の車両。久良岐公園に保存されていました。1952年に製造された1150型のうち、2012年現在現存している唯一の車両とのことです。
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久良岐能舞台(くらきのうぶたい)。
1917年(大正6年)に東京日比谷の帝国ホテル裏に建てられ、1931年(昭和6年)に東京芸術大学の前身である東京音楽学校邦楽科に寄贈されたとのこと。同大学には1964年(昭和39年)に能舞台が新設されたため解体保存されていたのを、宮越賢治が譲り受け、ここに移築したのです。1984年(昭和59年)に横浜市に寄贈され、現在は市民の能楽・茶道・日本舞踊などの活動に使われているようです。部隊の鏡板には、日本画の大家平福百穂による老松が描かれていました。
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フォークデュオの「ゆず」は北川悠仁と岩沢厚治の二人で1996年3月に結成したとのこと。最初は路上ミュージシャンからのスタートで、横浜でライブを行っていたようです。「ゆず」の出身地はこの磯子区岡村で岡村中学卒業とのこと。磯子警察の岡村交番で「ゆず」のゆかりの地などが記された「ゆずマップ」が1998年12月に完成したとのことです。彼らは2003年には「NHK紅白歌合戦」に初出場。只今も人気者です。ということでこの交番のすぐ傍の「とんかつ美とんさくらい」で昼食。有名人の色紙などが一杯ありました。もちろん「ゆず」の写真などもありました。私は絵葉書をいただきました。
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岡村天満宮は源頼朝の家臣が京都北野天満宮の分霊をいただき、この地に創建したといわれる天満宮。大きな石の大鳥居をくぐり石段を上るといきなり「ゆずの壁画」がデーン!これって彼らがライブをしていた木町・松坂屋屋上に飾られていたのが閉店を機にこちらに移築され、ゆずの聖地巡りのスポットになっているとのことでした。
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境内には針塚や筆塚の碑、なでるとご利益があるという「天神様の撫で牛」もありました。

滝頭2丁目に入り岩瀬商店街を行くと丸山市場がありました。
ここには美空ひばりの父、加藤増吉さんが始めた魚屋『魚増」が営まれていたとのこと。市場の中を通ると今もお魚屋さんがあり、従兄弟の方が引き継いで営んでいるとのことでした。 お店は横浜市電保存館やひばりさんの出身校滝頭小学校もすぐそばにありました。

横浜市電保存館。
明治37年から昭和47年まで約70年間"ちんちん電車"の愛称で横浜市民の足として親しまれた市電が当時の姿で見られました。「横浜市電」は、明治37(1904)年から昭和47(1972)年までの約70年間、“ちんちん電車”の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍したのです。横浜市電保存館は、市電が廃止された翌年の1973年(昭和48年)に滝頭車両工場跡地に開館し、その後、昭和58(1983)年には、現在の市営住宅1階に建て直されました。
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館内には、7両の市電車両、停留所標識、敷石などが昔の姿で保存され市電が走っていた時代を再現しているようでした。
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歴史展示コーナーでは、「横浜の発展と交通」をテーマとして、横浜の発展の礎となった吉田新田の干拓から、横浜開港、関東大震災、戦後の復興、市電の最盛期を経て廃止に至る経過、その後の横浜の都市計画の基となる6大事業や地下鉄への移行などが解説されていました。
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堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川で大岡川の分流でもあります。この川は明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たしたようです。1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募り、吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行ったのです。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定されたとのことです。
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根岸なつかし公園・旧柳下邸。
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旧柳下邸(きゅうやぎしたてい)の建物は明治〜大正期の有力商人であった柳下氏により大正中頃に建設され、1923年(大正12年)の関東大震災では一部倒壊したが大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を、柳下家の人々に受け継がれてきたのです。横浜市では1996年(平成8年)に敷地を取得し「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として一般公開しているのです。建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されていました。洋館の屋根は、周辺の町並みから突出しており、近隣のランドマーク的存在でした。 東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺き。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっているのです。洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついていました。柳下家はもともと明治初頭より、横浜でも有数の「銅鉄引取商」として弁天通に「鴨井屋」の屋号で店を構え、金属の輸入業を営んでいました。平次郎、達蔵兄弟の二家がありました。旧柳下邸の表玄関の横には、鴨井屋の屋号が彫られた鉄製の天水桶がありました。
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根岸八幡神社は、551年(欽明天皇12年)に海上に出現した八幡宮神体を祀り、八幡橋八幡神社の地に創祀、1766年(明和3年)この地に遷座したといわれているようです。明治8年村社に列格、伊勢社、宇佐八幡神社、山王社を合祀したとのことです。
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根岸森林公園は横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地。公園は根岸住宅地区の施設を挟んで馬場内エリアとスタンドエリアがあり、馬場内エリアには広大な芝生エリアが広がっており、特に桜は有数の見所で、花見シーズンには人出が多いとのことでした。スタンドエリアには、現在でも横浜競馬場の遺構である旧一等馬見所が現存しており、横浜競馬場の説明文などがありました。高台にあるため、みなとみらいや、晴れた日には富士山なども見えるようです。
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横浜競馬場は1866年(慶応2年)に開設。1867年(慶応3年)に日本初の洋式競馬が行われた横浜競馬場の跡地で、現在も残る「旧一等馬見所」は関東大震災後に建築家のJ・H・モーガンの設計で再建されたもの。戦前には「帝室御賞典(現:天皇賞)」や「横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)」などの大レースが行われるなど、日本における洋式競馬の黎明期を代表する競馬場で、各地に設立された競馬場のモデルともなったようです。戦争が激化した1942年(昭和17年)に競馬の開催を中止。翌1943年(昭和18年)には海軍により接収され閉鎖。終戦後の1945年(昭和20年)9月、他の軍事施設と同様にアメリカ軍により接収され、1947年(昭和22年)からはアメリカ軍の管理下に置かれたのです。接収中、馬場内エリアは米軍専用のゴルフ場となっており、現在の芝生はその名残でもあるのです。1969年(昭和44年)に旧スタンドなど一部を除き接収が解除され、国有地となった敷地の大部分を横浜市が無償で借り受けて整備し、1977年(昭和52年)10月に根岸森林公園として開放されたのです。その他のエリアも1969年(昭和44年)より日本中央競馬会が整備を進め、1977年(昭和52年)に「根岸競馬記念公苑」として開設。馬の博物館もここに含まれていました。1982年(昭和57年)には旧スタンドも返還され、「旧一等馬見所」の裏手にはモーガンの設計図や竣工当時の写真パネルが展示されています。
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ユーミンの曲に出てくる根岸森林公園の高台にあるカフェ・ドルフィン。
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1974年(昭和49年)に荒井由実でリリースされたアルバム『MISSLIM』。そのA面4曲目に収録されている『海を見ていた午後』に♪山手のドルフィンは静かなレストラン、、とあるようです。
リリースから42年経った今でも、この曲の面影を求めて多くの人が店を訪れるとのことです。「ドルフィン」が店を構えるこの根岸旭台は、高級住宅地の様子でした。

今日は参加者28名、講師浅井先生、CD清水さん。晴天で気温12℃、歩程7km超、ほぼ無風だったことが幸いでした。まさに今年最後の紅葉を楽しんだ感がありました。しかし競馬場跡は広大でやや草臥れました。また根岸森林公園すぐわきに「米国政府専用区域」とあったのがなんとも複雑。終戦後70年以上たっても戦争の跡があるということです。
横浜は広い!18区もあるのです。今日はこれでやっと1/3を終了しました。今後も何が見られるか楽しみです。
posted by yunofumi at 22:17| あちこちウォーク

2017年12月15日

2017.12.7 第20回東京の新発見「新宿区」

副都心線西早稲田駅3番出口⇒タリーズコーヒー⇒早稲田大学西早稲田キャンパス⇒新宿コズミックセンター・戸3丁目⇒箱根山・箱根山陸軍戸山学校址⇒都立戸山公園⇒箱根山通り⇒早稲田大学正門⇒穴八幡宮・馬場下交番⇒木組博物館⇒高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑⇒甘泉園公園⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒大隈通り⇒観音寺⇒早稲田大学・大隈講堂・会津八一記念博物館・坪内博士記念演劇博物館「シェークスピア」完訳記念⇒トラード早稲田⇒
成文堂⇒鶴巻公園⇒牛込弁天町・幸和印刷⇒宗参寺・牛込氏墓・山鹿素行墓⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒草間彌生・草間彌生ミュージアム⇒晴和病院⇒林羅山墓地・北山伏町⇒市谷小学校⇒市ヶ谷加賀町アパート⇒峰隆太氏宅⇒牛込第三中学校⇒なんど児童遊園⇒中華料理月下炉(げっかろ)(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒フルオンザヒル⇒神楽加賀⇒善国寺⇒寺内公園⇒本多横丁⇒神楽坂通り⇒JR飯田橋駅

都立戸山公園は箱根山を中心とした箱根山地区と、明治通りを隔てた広場・大久保地区に分かれていました。箱根山(はこねやま)は、都立戸山公園内にあり、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)とのこと。山頂の水準点の標高は44.6m。紅葉が美しく近所の保育園児が多くお散歩に来ていた。また本日はこれmでのウォーキングでご一緒になった叔父様3人組と記念撮影をしました。
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箱根山は尾張徳川家のシミ屋敷があったところ。そこには見事な大名庭園戸山荘があったとのことですがこれがのちに陸軍戸山学校になり、今は記念碑がありました。この学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)の一つで、歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していたとのこと。現在、歩兵戦技・体育の教官育成と研究は自衛隊体育学校に、軍楽は陸上自衛隊中央音楽隊教育科に引き継がれているとのことでした。
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穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、旧称は高田八幡宮。
1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのがはじまりとのこと。1636年(寛永13年)に的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称したのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としその後も歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したのでした。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれているとのことです。
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木組博物館は西早稲田2-3-26ホールエイト3階にあり、清水建設の関連施設です。木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを展示していました。 約40年に渡り数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた方々ではじめたとのこと。伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化が、危機的状態に向かっているのを肌で感じ必要性を感じたのです。また木組み博物館は、従来の展示中心型、五感体験型からより能動的で深く心に刻まれる参画型の生きた博物館にしたいとの趣旨のようです。
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高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)。
早稲田大学のすぐ西側にある水稲荷神社の石段を登ったところに、この石碑がありました。
建碑年は1910年(明治43)とのことです。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場があり、元禄7(1694)年に「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いがあり、助太刀をした堀部安兵衛は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。そんな彼のことを記したのが、この石碑で題額は、西園寺公望で清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴。文章を書いたのは信夫粲当時有名な漢学者。所在地】新宿区西早稲田3-5-43 
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水稲荷神社には太田道灌「道渡つかみさしの榎」を植え、榎の空洞から水が湧き出たのです。
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甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は江戸中期の清水家の大名屋敷跡につくられた日本庭園で新宿区立唯一の回遊式庭園。「甘泉園」の名は、ここの山吹の井から出る湧き水がお茶に適していたところからきたとのことです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなしているのです。
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早稲田大学(わせだだいがく)は1920年に設置。江戸時代末期の蘭学校であった北門義塾(柳田藤吉の創設)が明治5年閉校後、その意思を受継ぎ隣地に大隈重信が明治14年の政変で下野した後に設立した東京専門学校が前身。日本の私立大学としては慶應義塾大学(「早慶」の慶)などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となったのです。2011年現在、10の学術院のもと13学部・21研究科(大学院)を設置している。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。また大隈重信が明治を代表する政治家であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの逸材を輩出している。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。 正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」。 早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめ、建築学科の教員らを中心に設計された。
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会津八一記念博物館。
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会津八一は東洋美術史の研究者、歌人、初夏でもあり、早大卒で教鞭も取ったようです。
ここには早大創立以来の学術研究成果、大隈重信遺品、富岡重憲コレクションなど収蔵品は2万件あるとのこと。本日は幸運にも横山大観・下村観山による名画「明暗」が見られました。

坪内博士記念演劇博物館。
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演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。
以来、演劇博物館には日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えているとのこと。錦絵46,800枚、舞台写真400,000枚、図書255,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点など。
演劇博物館の建物自体が、ひとつの劇場で、舞台正面にはTotus Mundus Agit Histrionem“全世界は劇場なり”というラテン語が掲げられているとのこと本日は工事中で詳しくみられませんでした。

トラード早稲田
早稲田大学の大隈講堂の南側の道路を挟んだはす向かい辺りに、この奇想天外な建物がありました。1983年早稲田大学理工学部建築学科を卒業した梵寿綱(ぼんじゅこう、本名田中俊郎)という「日本のガウディ」と呼ばれる建築家の作品だそうです。
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宗参寺(そうさんじ)は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことが始まり。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたということです。
宗参寺内には牛込氏累代の墓がありました。また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありました。

漱石公園には夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、漱石山房記念館に再現されていました。
本年9月に都立の施設として開館したのです。
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草間彌生ミュージアムでは今、草間彌生美術館開館記念展をこけらおとしとして開催中のようでした。近くには彼女のスタジオもあるようでした。
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宮城道雄記念館は宮城道雄の偉業を顕彰するとともに、今後の日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日、故人が晩年まで  住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館。宮城道雄の生涯や楽器もみられました。館内には名曲「春の海」が流れていました。
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毘沙門天で有名な善國寺は創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年前に麹町に創建。1793年(寛政5年)にこの地に移転。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与え、さらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となったのです。
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本日は見るところが多く歩程11km、16000歩だったのですがやや疲れました。日本晴れで気温12℃、絶好のコンディションの中、講師信野先生、CD菅野さんで参加者20人は最後までどうにか元気でした。本日でこの23区めぐりは一応完結。しかし私はお休みしたのが3回あり、来年に持ち越しです。一巡完歩されたお二人におめでとう!の拍手を送りました。
posted by yunofumi at 20:45| あちこちウォーク

2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
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青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
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文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
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光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
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駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
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南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
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吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
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昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
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榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
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天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
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駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
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一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
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東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
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Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
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東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
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旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
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旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
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本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク

2017年11月11日

2017.11.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

久しぶりにMBT仲間と代々木公園でのノルディックウォーキングに参加。
思いがけずほとんど晴天、21℃。朝の内はほとんど風なし。
8:30〜11:00まで楽しく、のんびり、木々の紅葉を見ながら約10000歩を達成。
その後はもちろん、明治神宮のカフェ「杜のテラス」でお茶をして解散。
休日の早起きは三文の徳!午後は買い物など大いに楽しみました。
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日頃の疲れも何処へやら、また元気に歩き回れることに感謝!!
皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 15:52| あちこちウォーク

2017年11月09日

2017.11.8 第19回東京の新発見「板橋区」

都営三田線高島平駅東口改札⇒高島平団地⇒高島平8丁目交差点⇒熱帯環境植物園⇒高島第一中学校⇒徳丸ヶ原公園⇒徳丸ヶ原公園前交差点⇒高島平2丁目⇒高島平図書館⇒高島平児童館⇒高島特別支援学校⇒赤塚公園⇒諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城跡⇒郷土資料館⇒赤塚トンボ池⇒板橋区立美術館⇒不動の滝公園⇒麦の子保育園⇒大仏そば萬吉禎(昼食)⇒赤塚植物園⇒乗蓮寺・東京大仏⇒麺工場幸住⇒松月院・大堂⇒東武東上線下赤塚駅

以前、板橋区は川越街道歩きで通りましたが本日はまったく別の地区という感じ。板橋区はマップを見ると板橋・上板橋・志村・赤塚の地区がありますが本日は高島平団地のそばと赤塚地区を重点的に見て歩きました。

高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸にあり、北側は新河岸、西側は三園、南側は大門・四葉・徳丸・西台、東側は蓮根と接しているようです。高島平は1丁目から高島平9丁目までありそのほとんどが高島平団地とのこと。昭和40年過ぎに団地ができる前は徳丸ヶ原といわれた地区で約2万人超の住人がいるようです。
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熱帯環境植物園は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれた温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館とのことでした。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設として平成6年9月に誕生したのです。
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徳丸ヶ原公園。
「徳丸ケ原」は、板橋区中西部、高島平、新河岸、三園など、荒川の南岸一帯を指すとのこと。ここはもともと幕府の鷹場だったのが、8代将軍吉宗の時代から鉄砲の稽古場として使われるようになったとのこと。明治時代になると民間に払い下げられて開墾が進められ、「徳丸たんぼ」・「赤塚たんぼ」と呼ばれる一大水田地帯が出来上がったのです。昭和40年代になると高島平団地や地下鉄の建設や住宅地ができ公園となったです。
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東京都立赤塚公園は、その昔、赤塚城があった所。運動施設を中心とする中央地区、自然林に覆われた丘陵地など変化に富んでおり、高島平団地と首都高速5号池袋線に沿って東西に連なっているようです。
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諏訪神社の創建は文明年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたとのことです。本日は伺わなかった徳丸北野神社とともに、国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区無形民俗文化財の「獅子舞」が伝承されています。田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事で、稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りのことのようです。
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板橋区大門にある竹の子公園には、鳳凰竹、金明竹など13種類の竹が植えられているようです。
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赤塚城跡は戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕など遺構がわずかに残っていました。ここを居とした千葉自胤は、太田道灌と結んで勢力を伸ばしていました。その後、小田原の北条氏に従ったところ、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。徳川家康の江戸入府に伴い、赤塚城も廃城となったのです。
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赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行い、郷土に関する講習会・講座・体験学習を行っているとのことでした。
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赤塚溜池公園赤塚トンボ池 は通称「溜池公園」。公園入り口にある梅林と美術館の間にひっそりと赤塚トンボ池が有りました。殆ど水は湧いていないようで、いつも濁り気味だそうで近頃は秋でも赤とんぼはみられないようでした。

赤塚公園の城址地区、赤塚溜池公園からすぐの所に不動の滝公園がありました。此処は東京都名湧水57選にも選ばれているようです。木々に覆われた崖から、わずかにちょろちょろと湧水が流れていて、昼間でも薄暗く、一種独特の雰囲気があり、パワースポット的な場所にも見えました。不動の滝は江戸時代の中頃、地元の人たちが富士山や大山(神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていたそうです。
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大仏そば萬吉禎(昼食)
今まで食べた蕎麦の中で一番美味い蕎麦屋さんでした。おそばの香りが漂っていました。どうやら自家製の石臼挽きを使っているらしいです。
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赤塚植物園は、武蔵野の面影もある赤塚の丘陵地にありました。1981年(昭和56年)に開園とのこと。構成は本園と万葉・薬用園からなり、本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草もありました。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられ、解説も十分でした。本日は花が少なく残念。また春でも来てみたいと思いました。
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乗蓮寺は浄土宗の寺院で東京大仏が有名。この辺りの郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺で人々から信仰されていたようです。1591年(天正19年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となったようです。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。この地に移ったのは1973年(昭和48年)でここは赤塚城の二の丸跡とのこと。山号は赤塚山。
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1977年(昭和52年)、東京の関東大震災や東京大空襲などが再び起きないように願いを込めて東京大仏が建立されたとのことです。
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麺工場幸住は製造販売を直に行っているお店で、TVでも有名らしいです。お値段はリーズナブルで工場直売の生ラーメンですからとても人気があるとのことでした。私はラーメンが苦手なのでちょっと眺めていただけでした。
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松月院(しょうげついん)は、曹洞宗の寺院。山号は萬吉山(ばんきざん)。正式名称は、萬吉山宝持寺松月院とのこと。元々は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1459年(康正2年)に今の市川から赤塚城に移り、その後1492年に此処にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのこと。江戸時代には、徳川家康より40石の朱印地が与えられ、また歴代の将軍からも保護を受け発展してきたようです。
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幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(今の高島平あたり。高島平の名は高島秋帆にちなんでいるようです)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたのです。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、さらに松月院も有名になったのです。また明治時代には、一時期旧赤塚村の村役場が境内に置かれていたとのことです。

松月院大堂は松月院から少し離れたところにありました。石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘がありました。
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鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」とありました。

本日は朝10:00〜15:10、実質4時間、約15000歩のウォーキングでした。何よりだったのは曇り空で風もなく18℃、今にも雨が落ちてきそうでしたが木々の紅葉が見られ、まずは良かったです。赤塚地区は板橋の文化を感じさせる施設が多かったのが印象的でした。今後も時々お散歩方々来てみたいところでした。
posted by yunofumi at 23:35| あちこちウォーク

2017年11月06日

2017.11.3〜5 第40回日本スリーデーマーチ

11/3吉見百穴・森林公園コース
11/4和紙の里・武蔵嵐山コース
11/5都幾川・千年公園コース
今年は40回の記念大会、私にとっては6回目の10kmへの参加でした。

1日目(11/3) スタート松山第一小学校⇒市ノ川地蔵尊⇒市ノ川橋・市ノ川⇒下橋・滑川⇒西明寺⇒西明寺沼⇒森林公園南口⇒森林公園駅⇒ゴール松山第一小学校
本日の10kmコースは実質13km。中間のチェックポイントが森林公園南口で7km地点。朝9:30〜14:00のウォーキング。休憩などしたので実質3時間30分のスローペース。久しぶりの長距離でしたのでかなり草臥れました。気温27℃、晴天、風もなくかなり暑かったです。

スタート地点はまるで駅の混雑と同じでした。
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西明寺で一休み。このお寺さんの隣には河童がいたという沼がありました。
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森林公園の樹木はすっかり紅葉していました。
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ゴール地点傍では参加者を歓迎する風景があちらこちらで見られました。
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2日目(11/4)スタート松山第一小学校⇒県立松山高校⇒椿地蔵⇒みどりとくれあいの路⇒森林公園駅北口⇒森林公園駅南口⇒新郷公園⇒東松山工業団地⇒宿青い鳥・八雲神社⇒青鳥城跡・虎御石⇒小林歩道橋⇒東松山ゴルフセンター⇒紫雲閣⇒箭弓稲荷神社⇒ゴール松山第一小学校
昨夜はストレッチを十分にしてから就寝したので元気に目覚めました。
本日の10kmコースはそのまんま10km。新堀公園が4km、チェックポイントで昼食にしたのでかなり余裕、
朝9:30〜13:30のウォーキング。実質3時間は上出来でした。
スタート時は中学生ボランティアがお見送りでした。
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椿地蔵も見守っていました。
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新堀公園では湯茶のお接待もありました。
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ゴールでは沢山のお店が賑わっていました。
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本日も気温22℃、晴天、風なしでおお助かり。休憩などしたので実質3時間のまずまずのぺースでした。終わってみればかなりの余裕でした。
そうそう、今日はゴール近くのボッシュ工場の駐車場で休憩した時、84歳の男性とおしゃべり。第1回からずっと参加しておられるとのこと。感服しました。見習わないといけません。
                                   
3日目(11/5)スタート松山第一小学校⇒松葉町商栄会⇒ボッシュ工場⇒虎御石⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒南中学校⇒上野本歩道橋⇒上野本氷川神社⇒東松山駅⇒ゴール松山第一小学校
最終日なのでゴール会場のイベントが見たいので意識的にスタート時間を遅らせて出発しました。
本日の10kmコースは実質12kmとのこと。昼食は唐子中央公園で出店や太鼓などの演奏を楽しみました。
朝10:30〜14:30のウォーキング。休憩は十分で実質3時間のぺース。気温21℃、晴れ、朝は風がありましたがそのうちに感じないほどでラクチン。とうとう27000歩で最終日も終了。
途中では栗の実も見つけ、秋を実感しました。
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唐子中央公園ではクイズや太鼓の演奏などで大にぎわい。
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ゴールでは町内のお囃子も出ており、有難い。
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3日間が終わってみれば清々しく達成感があり、疲れを感じませんでした。ゲンキンなものです。
今回は第40回記念大会だったので振り返りの写真展も開催されていました。
自分もこの6年間にバッヂをはじめ色々いただいたことをあらためて感謝しました。そしてこのイベントが町を挙げてのことなので地元の商店街の方々にも感謝です。特に毎日立ち寄ったのがこのパン屋さん。おやつをいつも購入していました。
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この3日間の参加者数が今朝の新聞に出ていました。3日間でトータル10万人超。ちなみにコースは5・10・020・30・40・50kmとありましたが私も参加した10kmコースは3日間で約7万人ですって。道理でずっと混雑の中を歩いたわけです。でもまた来年も頑張れるように今後も日々心がけることにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 22:16| あちこちウォーク

2017年11月01日

2017.10.28 横浜散策第5回 保土ヶ谷区

相鉄本線天王町駅⇒シルクロード天王町・江戸方見附跡⇒橘樹神社⇒帷子川⇒天王町駅⇒旧帷子橋跡-天王町駅前公園⇒横浜岩間郵便局⇒大門通り交差点⇒神明社⇒古東海道石碑⇒神戸保育園⇒大蓮寺⇒旧中橋跡⇒反則センター交差点⇒帷子会館⇒旧新義塾前バス停留所⇒保土ヶ谷宿場通り・保土ヶ谷駅西口商店街⇒助郷(すけごう)会所跡⇒帷子町・問屋場跡⇒保土ヶ谷税務署⇒金沢横町道標四基⇒上岩間踏切⇒かなさわかまくら道・政子の井戸⇒横浜清風高校⇒北向地蔵⇒いわな坂⇒福聚禅寺⇒岩井町自治会館⇒宿場そば桑名屋⇒金子本陣跡・保土ヶ谷一丁目⇒脇(水屋)本陣跡⇒茶屋本陣跡⇒旅籠屋(本金子屋)跡⇒大仙寺踏切⇒大仙寺・軽部家墓所⇒今井川⇒一里塚跡・上方見附跡

相鉄本線天王町駅。
相模鉄道本線にははじめて乗車。横浜が起点の2.4kmの路線とのこと。駅名は鎌倉時代に創建された「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」から由来しているようです。歌川広重作『東海道五十三次』の「程ヶ谷」では、駅そばを流れている帷子川に架かる橋が描かれています。ウォーキング途中の商店のシャッターに描かれていた絵かと思います。
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江戸方見附跡
「見附」は「見張り所」「警備所」の役割をしており宿場の境を示し、見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印だったとのこと。また見附では参勤交代の大名が来ると宿場役人は見附まで出迎えに行き、「下にぃ、下にぃ」という大名行列は宿内で行われたこと。大名行列は宿場を出ると、結構なスピードで移動したことなど講師からお話がありました。
東海道の宿場の入口と出口が見附で、江戸の方は江戸方見附、京都の方は上方見附といったようです。
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橘樹(たちばな)神社は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守様で「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれているとのこと。文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝わっているようです。祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、こちらも「祇園社」と称されているのです。祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事でしたが、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっているのです。
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旧帷子橋跡-天王町駅前公園
江戸時代、天王町駅付近は東海道の「保土ヶ谷宿」(程ヶ谷宿)という宿場でした。保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』川が流れており東海道を往来する旅人がこの川を渡るために使った橋が『帷子橋』なのです。
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1964年に、暴れ川だった帷子川の流れを天王町駅南側から北側に付けかえられたので帷子橋の位置も変わったのです。この公園にあるのが記念碑で現在の川は下の写真です。
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神明社(旧伊勢神宮領榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建で横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとのこと。鎌倉時代の始め、神様のお告げで現在地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる本社と豊受大神宮や境内神社がまつられたようです。先年「平成の大造営」が行われ、社殿が新しくなったのです。
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大蓮寺。
仁治三年、日蓮聖人が21歳の際、鎌倉へ遊學の途中、保土ヶ谷宿にて淨土宗の民家に宿泊したところ、その家の子供が釋迦尊像で遊んでいるのを見て仏様のことをヘ示し、それにより後年この家の主が改宗して、家の宅地を法華堂としたのが始まり。これが日蓮宗に改宗した帷子里宗祖宿泊の靈場になったのです。法華堂は当初帷子橋畔にあったのが、ェ永2年、正住院日圓が神戸の小丘の半腹に移し西孝院大蓮寺と名付けたとのことです。
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徳川家康の側室養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がありました。
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助郷(すけごう)会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷といったようです。
保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよび指定された郷村にかなり負担がかかったようですが村々では助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていたのです。明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃止されています。
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問屋場(といやば)跡は宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのです。問屋を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などの宿役人がいたとのことです。
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金沢横町道標四基
東海道・程ヶ谷宿の帷子町金沢横丁の辻に4基の道標が並んでいました。向かって右側から「円海山之道」(天明3年(1783年)銘)、「かなさわ かまくら 道」(天和2年(1682年)銘)、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(文化11年(1814年)銘)、「富岡山芋大明神江乃道」(弘化2年(1845年)銘)の4基。解説によれば以下のようです。ほとんど読めませんでした。
 「円海山之道」道標の右側面には「○×か奈沢みち」。
 「かなさわ かまくら 道」道標の左側面には「ぐめうじ道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」句碑の左側面には「是より杉田道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」道標には「富岡山」。
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上岩間踏切はJRの海道線と横須賀線が並走している踏切。開いている時間の方が少ないように思いました。
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源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られたとのこと。保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校(旧明倫高校)方面へ向かう”かなざわかまくら道”の途中の急な坂道(磐名坂(いわなさか)を上る途中に政子の井戸とも呼ばれる「御所台(ごしょだい)の井戸」がありました。 政子は、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のこと。 この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあるのです。
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坂道(いわな坂)を上りきった交差点の脇に「北向(きたむき)地蔵」がありました。お地蔵様が見守るこの道は「かなざわかまくら道」。
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この地蔵は享保2年(1717)に建立。昔話で伝わっているのは、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことで、それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したのです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったようです。またこの地点は「かなざわかまくら道」の分岐点で、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と 弘明寺方面への道案内も兼ねているのです。

福聚禅寺は建武2年(1335年)南北朝時代初期の創立。当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西巳久保町)の山腹に在ったとのこと。世に知られる様になったので光庵和尚を中興開山としたとのことです。その後も移転を繰り返したようですが境内山林の開拓とともに明治21年には本堂、庫裡、山門を建立したようです。
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墓所には東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九の弟子の五返舎半九の墓誌がありました。
この名前は、師匠の十返舎一九の半分だからと命名したようです。半九の娘が横浜港崎町で芸妓を経営する[橋本楼]の後妻であったことから、橋本家菩提寺である福聚寺に墓誌が建立されたとの推測があるとのことです。
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宿場そば桑名屋は創業明治19年。東海道五十三次保土ヶ谷宿を基調に、宿場風な店作りで八割蕎麦を提供しているとのこと。お店のたたずまいは昔風。ご主人は宿場を盛り立てようとの熱意が伝わってきました。
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保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を利用したのです。
金子本陣跡
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茶屋本陣跡は休息専用だったようです。
脇本陣は本陣だけでは収容できない時に利用した所。脇本陣(水屋)跡は案内のみでした。
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一般の旅行者は旅籠屋を利用。旅籠屋(本金子屋)跡は建物が残っていました。
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大仙寺踏切は大仙寺に向かう参道の途中にありました。
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大仙寺は高野山真言宗のお寺。天禄年中(970年〜973年)の起立。往古は神戸山持院神宮寺と号し伊勢皇大神宮の別当を務めたとも伺いました。参勤交代等、東海道を往来して保土ヶ谷宿に休泊する際は、こちらに道中安全を祈願したようです。
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こちらは宿場の本陣、脇本陣、茶屋本陣等の全ての菩提寺で、境内に軽部家墓所がありました。
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軽部家はもともと苅部家だったようです。明治天皇がこちらで休息された時、軽部と表示されたことでやむを得ずその後も軽部を名乗っているとのことでした。

一里塚跡・上方見附跡。
現在の位置に見附のモニュメントができたのは2009年3月とのこと。デザインを優先して現在 L型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は本来、江戸方、上方とも |型だったとのこと。
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横浜市のマンホール「おすい」の文字入り。横浜市保土ヶ谷区国道1号沿い(保土ヶ谷1丁目本陣跡前から権太坂の市児童公園入口の間) に見られます。
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本日は数日前からの風邪が完全に回復していない中での参加でした。やはり少し体調がすぐれず、一里塚でギブアップ。保土ヶ谷駅に一人バスで移動し、湘南新宿ラインで帰宅しました。
本日の歩程約5km、歩数1万歩超。曇り空のもと、気温16℃、Am10:00〜14:00のウォーキングはまずまずのコンディション日和。でもその後は雨降りだったかも、、、、。
この後は以下の予定でした。
一里塚跡⇒外川神社⇒京方見附⇒樹源寺(軽部家ゆかりの寺)⇒帝釈天と旧元町橋跡⇒ゑびすや軽部商店⇒権太坂⇒権太坂小学校⇒鉾立商店⇒投げ込み寺塚の碑⇒菓匠栗山⇒境木・境木地蔵尊⇒武相国境モニュメント⇒JR東戸塚駅
また日を改めて一人ウォーキングをする予定です。
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク

2017年10月10日

2017.10.9  OUT DOOR FITNESSおでかけノルディック隅田川テラス

本日はOUT DOOR FITNESSの渡邊コーチ、青木コーチのリードでおでかけノルディックウォーキングです。

猿江恩賜公園⇒野見宿彌神社⇒両国東あられ本舗⇒MERIKOTI⇒両国テラス⇒かじ取稲荷神社⇒DANDELION CHOCOLATE⇒釜めし春⇒浅草駅

猿江恩賜公園。
住吉駅からすぐの公園。現在は野球場やテニスコートもあります。かつては官営の貯木場だったそうですが昭和天皇が皇太子だったころ、その成婚を記念して猿江貯木場の一部を東京市に下賜されたのが始まりで今では全面が恩賜公園として開園しています。
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野見宿彌神社(のみのすくねじんじゃ)相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建されたのがはじまりとのこと。元の社殿は東京大空襲によって焼失し、1953年に再建、、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているようです。両国国技館の近隣なので、日本相撲協会が管理しているようです。
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歴代の横綱の名を刻んだ石碑は2つありました。こちらは新しいほうです。
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両国東あられ本舗。
ここは東京下町・両国の北斎通にあり、営業時間が午前9:00からと早く、皆で立ち寄り試食やお買い物ができました。明治43年開業とのこと。近頃は揚げおかき「北斎揚げ」がヒットしているようです。
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MERIKOTI。
「MERI」は、北国で伝わるおばあちゃんの知恵から生まれた、新しいルームシューズで肌触りのよい柔らかなメリヤスを使って、一足一足、ふかふかに編み上げています。夏は素足で、涼しく気持ちよく。冬はお気に入りの靴下と合わせて、楽しく暖かく、1年を通してずっと使えるようです。そうそう洗濯機でも洗えるそうです。店内には鮮やかな色合いと、ふかふかした質感が目を惹くルームシューズが並んでいて見ているだけで楽しかったです。実際に作るワークショップも定期開催されているとのことでした。機会を見つけて伺うつもりです。
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両国テラスは両国国技館の裏、安田庭園近くのピッツアなどがあるお店。以前に伺ったことがあり、懐かしかったです。
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揖取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は、慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て、屡々遭難あったけれど或る時稲荷の神の示現を得てから後は航海安全を得る事が出来たとのこと。その神徳奉賽の為め、稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷としたとのこと。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めていると案内がありました。
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DANDELION CHOCOLATE(ダンデライオンチョコレート)は、シングルオリジンのカカオ豆からチョコレートを作っている、世界でも数少ないお店。北はハワイから南はマダガスカルまで、世界中のカカオ農園から良質な豆を直接買い付け、選別、ロースティング(焙煎)、テンパリング、成型、ラッピングまですべての工程を自分達のファクトリーで行っているとのことです。ファクトリーの中は作っている行程も見られ、香りも十分堪能でき、とても素敵なお店でした。作りたてのチョコレートも試食できました。
この前の公園には以前墨田区ウォークで伺ったことがありました。こちらのお店は最近できたようです。
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釜めし春は大正15年の創業。歴史と素材の旨味が詰まった元祖釜めし屋さん。出汁は不使用。お客の注文を聞いてから厳選の幸で魅せる味わいと立ち昇るコク深い薫りで勝負しているようです。私達は松茸、鯛、牡蠣など色々注文し、出来立てを完食。御馳走様でした。
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東京スカイツリーが輝いて見えました。
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本日は10月になっているのに日差しも強く、汗ばむ中での2時間越えでした。25℃、晴天。でも日陰に入ればそよ風が心地よかったです。ノルディックウォーキングは通常ですと10000歩くらいですが本日はスペシャルなので15000歩超。それでも全員が元気に終了し、引き続いての美味しい食事とおしゃべりでしたから大満足の1日となりました。皆さん、今後も元気に楽しく!!またお会いしましょう!!
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク

2017年10月05日

2017.10.1 山手線歴史探訪ウォーク 第1回

東京駅〜上野駅

東京駅日本橋口⇒TRST TOWER⇒江戸城外堀石垣⇒北町奉行所跡⇒呉服橋交差点⇒夢二・港屋ゆかりの地・みづほ住友信託銀行⇒一石橋・一石橋迷子しらせ石標⇒メトロ三越前駅⇒常盤橋⇒貨幣博物館⇒日本銀行⇒江戸桜通り⇒日本橋三越⇒COREDO室町1⇒室町2丁目交差点⇒奈良まほろば館⇒日本橋・道路元標⇒日本橋魚河岸跡⇒福徳神社⇒古河市兵衛石碑⇒第一三共梶ヒ小津和紙の起源案内板⇒史跡於竹大一如来井戸⇒えびす通り⇒宝田恵比寿神社⇒十思スクエア前⇒身延別院⇒十思公園・松陰供養石碑⇒メトロ小伝馬町駅⇒お玉ヶ池と手種所跡・お玉稲荷神社⇒メトロ岩本町駅⇒柳森神社⇒神田ふれあい橋・東北線柳原通ガード⇒萬世橋⇒千代田万世会館⇒昌平橋⇒JRお茶の水駅⇒お茶の水水源⇒御茶ノ水郵便局⇒東京ガーデンパレス・つきじ植むら(昼食)⇒日本薬科大学お茶の水はりきゅう専門学校⇒湯島聖堂⇒天堅屋⇒神田神社⇒清水坂下交差点⇒妻恋神社⇒三組坂上交差点⇒面羊会館⇒湯島天満宮⇒旧湯島切通坂町案内板⇒鱗祥院・春日局墓所⇒三菱史料館⇒講安寺⇒無縁坂⇒旧岩崎邸庭園⇒教証寺・柳瀬美伴墓⇒上野恩賜公園・不忍池⇒JR上野駅

江戸城外堀石垣
都内にはあちらこちらに遺跡のごとく石垣が残っていますが東京駅日本橋口のそばTRST TOWERの所にあり、プレートにその所以が記されています。
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石垣の続きに北町奉行所跡がありました。
江戸時代の奉行所は北と南の2カ所とのこと。町の奉行は町人の行政・裁判・警察の役割を担っていたようです。お芝居やTVで馴染みの「遠山の金さん」正式な名前は遠山景元(とうやまかげもと)はこの方と写真を見せられましたが目がやたらに鋭い、太ったおじさんでTVとは大違いでした。

夢二・港屋ゆかりの地
外堀通りの呉服橋交差点から、日本橋方向に少し入った左側、東京メトロ日本橋駅A1出口の近くに竹久夢二港屋ゆかりの地記念碑がありました。場所はみずほ信託銀行が入っている新呉服橋ビルディングの前。竹久夢二が自らのデザインによる版画や封筒やカードを売る店があったようで、商業美術史上重要な意味を持つ場所とのことでした。

一石橋迷子しらせ石標。
1857年建立された江戸時代の尋ね人探しの石標。
右側には「しらする方」、左側には「たずぬる方」とあり、張り紙をしたとのこと。此処のほか湯島と浅草寺にもあったようです。
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貨幣博物館は、日本銀行金融研究所内の2階フロアに設置されている博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館した。館内には日本の貨幣史、世界のさまざまな貨幣が見られます。1億円分の紙幣の重さを体験出来るのですがいつ来ても皆さん興味をもって持ち上げています。

日本銀行は1882年(明治15年)に設立。今でも日本で唯一の発券する銀行。本館はルネサンス様式の花崗岩造りで辰野金吾設計、6年かけて1896年(明治29年)完成。本日は耐震補強工事?か何かでパネルで遮蔽されていました。

日本橋は1590年(天承18年)徳川家康が江戸へ入城後、江戸の町が造成され、1604年(慶長9年)五街道の起点となった橋。現在の橋は1911年(明治44年)それまでの木橋から石橋に架け変えられたものですでに100年以上たっているのです。標柱や橋中央の「日本橋」の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆。橋中央には日本国道路原標が、また橋脇にはこれのレプリカがあります。

福徳神社(芽吹神社は)は旧福徳村の稲荷神社として奉斎され、平安時代前期の859年〜876年(貞観年間)には創建されていたとの推測があるようです。古くは源義家が深く崇敬、江戸城を築城した太田道灌もしばしば参詣したようです。そして江戸幕府開府以前に太田道灌が合祀され、その兜・矢・鏃などが奉納されたようです。また、徳川家康のよく参詣、二代将軍・徳川秀忠が1614年(慶長19年)の正月に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛し、この時に樹皮付きの椚(くぬぎ)製鳥居に若芽が萌え出ているのを見て「芽吹神社」との別称を命名したとのことです。1619(元和5)年2月に江戸城内から弁天宮が合祀されています。幕末期の多くの火災で被災、社殿・施設修復費用捻出のため、富くじ興行が許された社寺のひとつでもあった。
天保の改革、明治維新、関東大震災、東京大空襲など社殿の焼失などを繰り返し2014年(平成26年)にこの地に竣工されたのです。また、2016(平成28)年9月、境内東側に「福徳の森」ができました。
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古河市兵衛石碑がCOREDO室町2の裏手にありました。
古河市兵衛は古河財閥創始者。幼少時より丁稚奉公や行商を行いのちには小野組で生糸貿易に手腕をふるったとのこと。1874年(明治7年)の小野組破産後で独立し、翌年東京で古河本店を開設。渋沢栄一らの資金援助で鉱山経営を行い、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などを経営したことから鉱山王とも言われその後の古河財閥の基礎を築いたようです。しかし後には、足尾銅山の急激な発展で鉱毒事件が起きています。
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小津和紙の起源案内板
小津和紙は、1653年創業の老舗。和紙の専門店としては、日本で有数の規模を誇り、書道用の半紙から美術工芸用の高級手漉き和紙まで、全国各地のあらゆる和紙を取り揃えています。
今年からは和紙の文化を広く知ってもらおうと、手漉き和紙の体験もできる博物舗も併設されているようです。
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於竹大一如来井戸。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である。」とされたのがはじまり。この井戸は於竹が日頃使った所とのこと。於竹は行者の訪問後、亡くなりその後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養したのです。働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」への心づかいなどの話から「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を多くの人が参詣しまたブームにあやかり江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたとようです。また 回向院では数度にわたる羽黒山行者により、出開帳も行われたとのこと。 五代将軍 徳川綱吉の母「桂昌院」も於竹如来を信仰し於竹を歌に詠みまた、小林一茶の俳句や坪内逍遥の芝居でも上演されたとのこと。
奉公先の夫婦の菩提寺、親族の菩提寺、ゆかりの地である山形県羽黒山に於竹をまつる施設が、今も残っているとのことです。  羽黒山正善院には、於竹の奉公先夫婦によって作られ、後に江戸から移された於竹の等身大の大日如来が安置されているようです。また於竹大日如来のお墓は、東京都北区の善徳寺にあるとのことです。
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宝田恵比寿神社の創建は不詳。だが家康入城以前にすでに宝田村の鎮守さまだったとのこと。その後今の大伝馬町に遷座しここでは金銀為替、駅伝、水陸運輸などの役割を担い賑わったとのこと。今東京の風物市としての「べったら市」は商売繁盛の行事なのです。
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身延別院
この地は伝馬町牢屋敷跡。創建は明治16年。明治になって取り壊された伝馬町牢屋敷に身延山別院として多くの獄死者の霊を慰め理想の国土を、ということで現在に至っているようです。
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十思公園の辺りは伝馬町牢屋敷跡。在牢者は200〜400人、多い時は1000人もつながれていた場所。
安政の大獄で捉えられていた吉田松陰はここで刑死。供養石碑が公園の端にありました。
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お玉稲荷神社は「桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る神社。
[現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
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お玉ヶ池種痘所。
お玉が池のほとりに1858年(安政5年)伊東玄朴、大槻俊斎などの江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったとのことです。しかし半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移っったとのこと。しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えて現在の東京大学医学部につながったとのことです。

柳森神社は長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとのこと。1659年(万治2年)に神田川堀割の際に現在地に移転し柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になったのです。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したもの。境内には13個の力石群がありました。
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お茶の水の碑
この辺りにあった高林寺に湧いていた水で将軍にお茶を差し上げた所。これが語源でお茶の水と地名が付いたようです。石碑は1957年(昭和32年)に建立。
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湯島聖堂。
徳川五代将軍綱吉により儒学振興のために1690年(元禄3年)に創建。その後幕府直轄の「昌平坂学問所となったのです。
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神田神社(神田明神)は730年(天平2年)創建。もとは日比谷入江そばの豊島郡柴崎村から駿河台へ、さらに現在地に移ったのです。江戸時代には江戸の総鎮守として将軍家の崇敬を受けたとのこと。祭礼は「天下祭り」と称され、日枝神社の「山王祭」と共に盛大なようです。社殿は権現造りで1934年(昭和9年)の再建、隋身門は1976年(昭和51年)に朱塗りの木造建築に再建されたものです。
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妻恋神社の創建は不詳とのことですが日本武尊が東征の時、三浦半島から房総へ渡る際に大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救いその後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したのです。そこでこの地の郷民達が尊の妃を慕われる心を哀れに思い尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝わっているとのことです。江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったと伝わっているようです。
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湯島天満宮(湯島天神)は458年(雄略天皇2年)に勅命で創建とのこと。神紋は「加賀梅鉢紋」。古来より江戸の代表的な天満宮。学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには受験生が合格祈願に訪れる。
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鱗祥院(りんしょういん)は、大奥に仕えた春日局の法号がそのまま寺院の名前になっています。中には春日局のお墓があります。この辺りは元々徳川家から賜った春日局のお屋敷があった場所なのです。
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春日局の墓のはまん中に穴が空いています。これは、春日局が、「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたものだのようです。

無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂。
坂の横にあった無縁寺(現在講安寺)が名前の由来と伝えられています。本日は逆に下りで歩きましたが不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登っており、東京大学に突き当たると理解しました。

旧岩崎邸庭園。
三菱の創始者岩崎弥太郎の長男、久弥の住宅として1896年(明治29年)に完成。
洋館などはニコライ堂の設計者でもあるイギリス人ジョサイヤ・コンドルの設計。
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今日は東京都民の日で大混雑のため建物外観と庭園のみを見て帰路へ。

本日は気持ちよく晴れた1日でした。微風が時々あり、25℃ではウォーキング中、少し汗ばむ程度で、歩程約12km、22000歩を終了。結局5時間はあっという間でした。
講師ははじめての井上先生、CDは阿部さん。ということで仲間30人は全員元気で終了できましたからこの10回コースも無事終了できるようにがんばります。
posted by yunofumi at 00:09| あちこちウォーク

2017年10月01日

2017.9.29 横浜散策第4回 鶴見区

今朝は青空、快適なウォーキング日和です。

JR鶴見駅西口⇒西口エスカレーター⇒総持学園鶴見大学⇒大本山総持寺⇒鶴見駅⇒ホテルBEST Western Café Aletta⇒お菓子司清月⇒ベルロード・旧東海道⇒京急鶴見駅⇒ベーカリー&スイーツ・エスプラン(旧覇王樹(さぼてん)茶屋)⇒下野谷町入口交差点⇒村田屋酒店⇒JR国道駅⇒味童天金⇒生麦魚河し通り⇒明神社⇒生麦事件発生現場⇒関口米店⇒生麦公園⇒生麦事件碑⇒キリン横浜ビアビレッジ⇒明神前交差点⇒生麦病院⇒生麦駅前交差点⇒生麦駅前通り・手打ちそば味楽⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅

大本山総持寺。
曹洞宗は中国より道元禅師により伝えられまず、福井県の永平寺を開山。また4代目瑩山善治が石川県輪島に総持寺を開山。総持寺は明治31年の大火を契機に石川素童禅師の英断でこの鶴見ケ丘15万坪の地に移転したとのこと。教育にも熱心でお隣の鶴見大学も経営しており、今では総合大学となっているようです。

総門をくぐり、七堂伽藍の最初に出会うのが「三門」。この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和44年に落成した建物。鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさとのこと。三門には、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている金剛力士(仁王)像が納められていました。左右に阿吽の仁王像三門楼上には、開創時からの因縁で、観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られ、毎月2日と16日には羅漢供養の法要が修行。これらの像は彫刻家・阿部正基氏の作とのことでした。 三門正面の扁額「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師が書かれたものとのことです。
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仏殿は七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」の額がありました。ここには、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)が祭られているとのこと。豪華絢爛の様子を少し見られました。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には「金鶏門」、「中雀門」、「玉兔門」という脇門(通用門)がありました。
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向唐門(むかいからもん)
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれており、「勅使門」があるのです。禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の御移転記念日の時に開扉されるようです。
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境内には、昭和の大スターである「石原裕次郎」のお墓もありました。
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境内の奥に大きな浅野家の墓所があった。
実業家浅野総一郎一族のものとわかりました。彼は富山県出身、1848年生まれ。医家に生まれながら商人を目指し、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋などをした後、横浜に出て贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋、薪炭商、そして最後は一代で浅野財閥を築いた方。映画『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』2006年、『弁天通の人々』2009年があるとのことです。
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総持寺の宝蔵館「嫡々庵」(旧、宝物殿)は昭和49年(1974)に總持寺開山瑩山禅師650回大遠忌の記念事業として建立され、同51年(1976)より總持寺所蔵の文化財を一般公開しています。収蔵資料は絵画・彫刻・工芸・書跡・古文書と多岐にわたり、重要文化財5件・横浜市指定文化財5件をはじめ、宗教的・美術的・学術的に重要なものが多く含まれているとのこと。しかし本日は休館。また伺うようです。
昼食はホテルBEST Western Café Alettaで美味しくいただき、その後はホテルのお隣のお菓子司清月で「よねまんじゅう」を購入。
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「よねまんじゅう」は、江戸時代に鶴見の東海道沿いのお店で売られていた名物のお菓子で、「〜お江戸日本橋、七つ立ち〜」の歌いだしで知られる民謡『お江戸日本橋』の中で「六郷渡りて川崎のまんねんや 鶴と亀とのよねまんじゅう こちゃ 神奈川急いで保土ヶ谷へ」と歌われているほど有名なお菓子だったようです。 しかし、明治時代になって鉄道が開通すると、そのお店が廃業し、幻のお菓子となってしまったのです。その後、かつての名物を復活させようと、1982年(昭和57年)に清月さんが発起人となって、鶴見の菓子組合30周年を機に発売されたとのこと。1985年(昭和60年)、神奈川県が選定する名産百選にも選ばれ、今や鶴見を代表する和菓子になっているようです。

ベルロードつるみ駅前商店街という旧東海道に面した場所で旧東海道に入るとすぐ「ベーカリー&スイーツ・エスプラン」がありました。ここは以前、覇王樹(さぼてん)茶屋といわれていたお店で横浜では初めてとなる「スペイン風石釜」導入したとのこと。富士山の溶岩石を使用し、遠赤効果は他に類を見ないと云われているものだそうです。パン屋になったのは、1952年からで現在の社長さんは2代目(覇王樹茶屋からは11代目)とのことだそうです。石碑とサボテンがありました。
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製菓・製パンなど野生自然酵母、植物性乳酸菌、天然塩、那須産の卵など、自然の素材にこだわっているとのこと。一度買い物をしたいと思いました。

JR国道駅(こくどうえき)の開業は1930年(昭和5年)。鶴見線の高架の無人駅。1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』、2007年の『華麗なる一族』など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用されるとのこと。本当に高架下が異様なムードの駅でした。
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建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦末期におけるアメリカ軍機による機銃掃射の銃弾の痕で今も残っていました。
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生麦魚河し通り「味童天金(あじわらべてんきん)」
丼物が美味しいとのこと。ウニ、アナゴなど生麦魚河の旨いものがどっさりあるようでした。
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道念稲荷神社。
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生麦神明社。
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この二社とも創建年代は不詳とのことですが、新編武蔵風土記稿に記載があるとのことですから江戸時代末期には創建されていたようです。
両社は「蛇も蚊も祭(じゃもかもまつり)」で有名。
蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まるといわれています。この行事は、端年の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、本宮(道念稲荷神社)と原(生麦神明社)で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、原のものが雌蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していたようですが現在は、両社別々の行事となっているとのことです。生麦神明社の境内には公園があり遊具になった蛇がいました。
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以前はなかった首都高神奈川1号横羽線と7号線横浜北線が生麦JCTで交差している傍に「生麦事件発生現場」の案内と「生麦事件碑」が以前の場所と少し違う所に設置されていました。
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生麦事件は、幕末の文久2年(1862年9月14日)に、当時の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えたのです。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立したのです。
生麦事件参考館は、18年かけて集めた生麦事件に関する国内外の資料140余点を展示している私設の資料館とのこと。
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私的にはこの地は2011年9月東海道五十三次の街道歩きで訪れた地です。あの時は猛暑で軽い熱中症になり、バテバテでした。近くの氷屋さんで「カチワリ氷」をCDさんが買ってきてくださり、ようやく回復。当日の歩程をやっと終えられた思い出の地なのです。最近出来上がったばかりの高速道を見上げながら大いに様変わりした景色を見まわしていたところ、例の氷屋さんがあり、思い出したのです。

キリン横浜ビアビレッジ。
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大々的に見学者を受け入れるようになっていました。約80分で終了でしたが最新の設備などが見られて有意義でした。
また最後に試飲があり出来立ての「新一番搾り」やノンアルコール類もいただきました。メチャクチャ美味しかったです。
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本日は24℃、晴天。30名が参加。講師浅井先生、CD金子さんの案内で心地よく過ごしました。
またお土産はビールやお菓子司清月の和菓子など。
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本日は総持寺やキリンビバレッジ内を歩き回ったこともあり約20000歩をクリア。それでも昼食とおやつを美味しいくいただき、帰りは元気いっぱいでした。
posted by yunofumi at 22:13| あちこちウォーク

2017年09月25日

2017.9.24 高尾山9回目

京王線高尾山口駅⇒稲荷山コース⇒高尾山山頂⇒1号路⇒薬王院⇒山上駅〜エコーリフト〜山麓駅⇒王線高尾山口駅

朝8:30京王線高尾山口駅5人で待ち合わせ。やや曇り、Mさんと二人で稲荷山コースの上りを開始。
ここ数日雨が多かったせいで山道はぬかるんでおり、所々には水たまりもありました。
連休の最終日でしたから小さな子供さんも元気に登る姿が可愛かったです。でも運動靴はまだしもサンダルはどうなんでしょうね。一応登山ですから、、、、。

ケーブルカーの駅では天狗さんが睨みを利かせていました。
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上り始めるとそろそろ秋の気配でした。
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山頂ではあいにく富士山はみえませんでした。
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そろって山頂での記念撮影。
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帰りはリフトで存分に自然を楽しみました。
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今日は曇りから徐々に青空も見え、良い日和でした。
山頂では21℃でそよ風もあり、気持ちが良かったです。下界に降りてみると24℃。
お陰様で天候はもとより、心身ともに良いコンデションで登山を楽しみました。
それにしても5カ月ぶりの登山でしたから体力の低下をいやというほど感じました。
帰宅してみると17000歩、今日も頑張りました。それにしても高齢者の体力低下と維持は日々が大切を実感した1日でした。
posted by yunofumi at 09:22| あちこちウォーク

2017年09月17日

2017.9.16 第18回東京の新発見「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒魚津本店⇒長屋門・荻窪4-30-16⇒上州屋質店⇒西効(せいこう)ロッヂング⇒東京こども図書館・石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻窪東保育園⇒荻外荘(てきがいそう)⇒大谷戸さくら緑地⇒角川庭園・幻戯山房(げんぎさんぼう)・すぎなみ詩歌館⇒大谷戸かえで緑地⇒都立杉並高校⇒成宗弁財天社⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒杉並第二小学校⇒尾崎熊野神社⇒宝昌寺⇒交通公園入口交差点⇒尾崎橋⇒成田上橋⇒成田下橋⇒成園橋⇒成宗白山神社⇒大成橋⇒御供米橋⇒和田堀公園⇒大宮遺跡⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒珠杏(じゅあん)カフェ(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社⇒旧井口家住宅長屋門・杉並区郷土博物館・杉並文学館⇒済美台遺跡⇒大圓寺⇒京王電鉄井の頭線永福町駅

大型の巨大台風18号が日本に近づきつつある今朝です。空には薄黒い雲が一面に広がっていますが何とか終了予定の15:30までは雨が降らないように心に念じながら10:00には出発。

中田家長屋門。
昔の杉並あたりは善福寺池を中心として野鳥が多かったとのことです。江戸時代には鷹狩りの地とされていたとのことで将軍が鷹狩りに来られるとこの中田家が休息所となったようです。この家は普段は百姓屋ですから将軍の威厳を損なわないようにと門だけ武家長屋門を建てたのです。このような経緯だったので明治期には天皇も休息所を訪れたとのことです。
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西効(せいこう)ロッヂングは1938年(昭和13年)建築の洋風建築。
2001年(平成13年)の改修後、新館が西郊ロッヂングと呼ばれており、賃貸住宅となっている。本館は「西郊」という旅館になっているようでした。
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東京子ども図書館は子どもの本と読書を専門とする私立の図書館。1950年代から60年代にかけて都内4カ所ではじめられた【石井桃子のかつら文庫】、【土屋滋子のふたつの土屋児童文庫】、および【松岡享子の松の実文庫】を母体として1974年に設立し、2010年に、公益財団法人になったようです。子どもたちへの直接サービスのほかに、“子どもと本の世界で働くおとな”のために、資料室の運営、出版、講演・講座の開催、人材育成など、さまざまな活動を行っているのです。
石井 桃子さん(1907年〜2008年)は、日本の児童文学作家・翻訳家。数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した方。代表作は『ノンちゃん雲に乗る』(1951年)、『子どもの図書館』(1965年)、『幻の朱い実』(1994年)など。翻訳としては『熊のプーさん』(1950年)、『ピーターラビット』(1971年)が有名。我が家でも随分親しみました。
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大田黒公園は、杉並区荻窪にある区立の都市公園。音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年(昭和56年)に開園した区立の公園。
正門は総檜の切妻作り、屋根は桟瓦ぶき、塀は築地塀。
入るとすぐに70m御影石が敷かれており両サイドには27本のイチョウが見事。
住居だった記念館は昭和8年建築された西洋風の建物。室内には多くの資料のほか黒田氏のスタインウェイのピアノ、蓄音機、多くの資料がありました。
お庭は高低差を利用して水が豊かに流れ、季節ごとに楽しめそうなところでした。とくに東屋と池が素晴らしく絵になりました。
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荻外荘(てきがいそう)は近衛文麿の別邸だった所。昭和戦前に総理大臣を3度務めた近衛文麿はここで重要な会談を行ったようです。
有名なのは昭和15年7月19日に近衛文麿、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が参加した荻窪会談。そして昭和16年10月12日の荻外荘会談。ここから開戦になっていますね。
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荻外荘と名付けたのは西園寺公望、設計は築地本願寺も設計した伊東忠太。
現在は奥のほうに見える玄関や客間棟のみがあり、手前は公園でした。本来は居住棟と別棟があったようで今後こちらに元のように移築する計画があるとのことでした。

ウォーキング中、大谷戸さくら緑地、大谷戸かえで緑地がありました。
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形をいうとのことです。また、このような地形は谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られるとのことです。

角川庭園は俳人で角川書店の創設者の角川源義の旧宅を区立公園。
建物は1955年竣工の木造2階建て瓦葺近代数寄屋造り。設計は俳人で建築家の加倉井昭夫。
中に入ると京土壁、面皮柱が見られとても広々と開放的。旧応接間の展示室は角川源義の俳句や所蔵品が見られました。
奥の茶室・水家・茶道具室も見て楽しみました。
庭園は緩やかな斜面にあり大きな芭蕉、荻窪の由来になった荻(おぎ)など400本の樹木があるようです。
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成宗弁財天社の創建年代は不詳。成宗村の開村と同時期に、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池)のほとりに建立されたのが始まりとのこと。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある素焼きの曼荼羅像とのことです。
鳥居前に残る石橋・水路跡は新堀用水(天保用水)の名残りだということでした。
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成宗須賀神社の創建年代は不詳といいつつ天慶4年(941)に創建、慶長4年(1599)に再建されたと伝えられているとのことです。成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊。社名は祭神が同じ素盞嗚尊である出雲の須賀社にちなんだものとのことです。
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尾崎熊野神社は別当寺であった宝昌寺境内から出土した板碑などによると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基づくと言われているとのこと。
境内にそびえるクロマツの大木は、この神社の御神木で、樹齢約400年と言われ、杉並区指定天然記念物の巨木です
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白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像。開創者は文禄3年(1594)頃、中野成願寺5世葉山宗朔。曹洞宗となる前は、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しているとのことです。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころで、村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもあったようです。
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善福寺川は善福寺池が水源で神田川に合流するまで一級水系 荒川水系で杉並区、中野区を流れる約10kmの一級河川。
今日は川が蛇行していることを実感。あとは天王橋、尾崎橋、成田上橋、成田下橋、成園橋大成橋、御供米橋などの多くの橋を見ました。
御供米橋(おくまいばし)の少し下流で自然湧水が流れ込みその湧水を利用して、この近辺で御供米(米を奉納すること)のための米を洗ったというエピソードからの命名だそうです。

成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守。創建に関しては近隣の大宮八幡宮と同じ頃と言われているとのこと。別当寺は宝昌寺。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、杉並区にある都立公園で善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。住民の憩いの場としてはもちろん、遠方からの来訪者も多い。春には桜の名所として知られているようです。

大宮遺跡。
緑の森の丘に大宮八幡があり、このあたりは数多くの遺跡が発掘されているのです。
1969年(昭和44年)には、弥生時代末の「方形周溝墓」3基が見つかったのです。この墓は、弥生時代特有の墳墓で集落のリーダー級の墓とのこと。発掘された墓の周辺から勾玉やガラス玉などが発見され、被埋葬者が生前使用していたと思われる装飾品が副葬されていたのです。方形周溝墓は、弥生時代の社会的背景、集落構造を知る上で欠くことの出来ない貴重な資料であることから、埋め戻され保存されているのです。1979年3月に都指定史跡となり出土した土器等は郷土博物館に展示されているのです。
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昼食は珠杏(じゅあん)カフェ。こちらは鶏の焼肉に特製のミソダレを付けロースターで焼く焼肉スタイルで食べられるレストランでした。丼には焼いた野菜が載せてありましたが結構油ぽかったです。

大宮八幡宮は源頼義が京都の石清水八幡宮より分霊をいただいて建てた、応神天皇を主祭神とする神社。大空に八条の白雲がたなびいて源頼義の軍を勝利に導いたという縁起から、厄除開運の信仰があります。また応神天皇が母・神功皇后の胎内に有る時から神威を発揮されたことから、縁結び、安産、子育ての信仰もあるのです。神域が広大であったことから鎮座地の大宮という地名が名づけられ、現在の境内も15000坪を誇る。かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、東京の重心「東京のへそ」として多くの参拝客が訪れるのです。
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本日は大宮八幡祭り(秋の大祭)で大いににぎわっていました。私たちの訪問の後15:00よりお祭りは開始とのことでした。
清涼殿には菊の着綿が見られました。
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この菊の着綿(きくのきせわた)とは重陽の節句に行われる宮中の習慣とのこと。平安時代の貴族の習慣で、重陽の日に菊の花に植物染料で染めた黄色の真綿を被せ、翌日の早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、その綿で体を拭えば菊の薬効により無病であるということが伝わっているとのこと。中国の伝説に、上流に菊の花園がある滝の菊の花びらが漬かった水を飲んだ人が長寿を得たというものがあり、また能の「枕慈童」に中国の故事として菊の露を飲んで不老不死になった少年が登場するなど、菊を服用するなどして薬効を得るのはもとは中国の習慣であったようです。また、室町時代には菊酒という菊を浸した酒を飲むことも行われるようになっていたとのこと。

旧井口家住宅長屋門
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長屋門を入ると杉並区郷土博物館がありました。
ここは杉並に4人が住み始めて以来の暮らしや文化の資料などが多くありました。
旧石器時代から古墳時代の土器など、また鎌倉時代から戦国時代の文書、江戸時代の杉並の景観、明治維新、関東大震災前後の様子など興味深い展示がありました。

杉並文学館。
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済美台遺跡は、旧石器時代の終わり頃(15,000年前頃〜23,000年前頃)、縄文時代前期から後期(6,000年前頃〜4,200年前頃)、弥生時代後期(1,800年前頃)、古墳時代後期(1,400年前頃)、中世、近世といったさまざまな時代の資料が発掘されているとのこと。本遺跡付近では善福寺川が大きく蛇行することによって、田畑を耕作するといった、各時代のライフスタイルの最適な環境を提供していたようなのです。

大圓寺(だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院で山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。
薩摩藩島津家の江戸での菩提所でした。
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本日の参加者は18名、そのうち男性は6名。講師はお馴染みの牧先生、CDははじめての長田さん。
結局、雨には会わずにぴったり15:30に終了。歩程約11km、約18000歩は1か月ぶりのウォーキングながら全員が元気に終了でき、上出来でした。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2017年07月24日

2017.7.22 横浜散策第3回 都筑区

本日は横浜市都筑区のウォーキング。
講師は浅井先生、CDは金子さん。ということでまずは先生から都筑区についての説明がありました。
都筑区は横浜市の北部に位置し、平成6年、港北区と緑区の再編成により誕生した新しい区。 区域の北部と中央部は港北ニュータウン地域で、豊かな自然と緑を残しており、都市と農業が調和した新しい街づくりが進んでいるとのこと。区の中心となるタウンセンター地区は横浜の副都心として、商業・業務・サービスの集積や、文化施設の整備が計画されているようです。現在、総合公園の整備が進み、区総合庁舎・警察署・病院・郵便局・銀行・商業施設などはすでに開業すみ。また、区内には市営地下鉄が開通しています。また区内には農地が多くあり、野菜を中心に都市農業がさかん。また、数多くの企業の本社・研究所・研修所が進出しており、鶴見川沿いに工業地帯が形成されてきているようです。人口は18区中8番目で、平成26年に21万人を超え、今でも人口の増加が著しく、平均年齢が市内で最も若い区だそうです。

横浜市営地下鉄ブルーライン中川駅⇒くさぶえの道⇒山ア公園⇒牛久保西公園⇒ふじやとの道⇒徳生公園⇒南山田小学校⇒城山東急バス停⇒堀之内稲荷神社⇒山田神社⇒中央大学附属横浜中学校高等学校⇒牛久保東町⇒都筑民家園横浜市歴史博物館⇒大塚歳勝土遺跡公園⇒横浜市営地下鉄ブルーラインセンター北駅

私は東京メトロの副都心線で渋谷に出て東急田園都市線であざみ野まですんなり来ました。そして横浜市営地下鉄ブルーラインの中川駅で下車。
横浜市営地下鉄ブルーラインは横浜市青葉区のあざみ野駅から藤沢市の湘南台駅までを結ぶ横浜市営地下鉄の路線で32駅、約40kmあるとのこと。本日は初めて乗りました。

「くさぶえのみち」は都筑区にある北ルートの緑道のこと。
中川駅そばの烏山公園や山ア公園から、牛久保公園をぬけて、徳生公園へつながっていました。
くさぶえのみちスタートの表示
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まさに緑道です。
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山ア公園には池もあり、本当に憩いの場所になっていました。
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牛久保西公園では花が咲き、大きな竹林もありました。筍の産地なのです。
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徳生公園からは、なつみかん公園までつながる道と、山田富士公園を通り、のちめ不動前の交差点あたりまでつながる道、「ふじやとのみち」があります。ふじやとのみちには、十二支の文字が彫られた石が点在していました。この辺りでは十二支の石を探しながらウォーキングしました。
徳生公園の池はなるほど涼しげでした。
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「ふじやとのみち」では最初に「とら」の石。
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その後、ボチボチ石を探しながら歩を進め「さる」はちょっと意外なところに。
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また「いぬ」は石ではなく城山歩道橋の上に鉄を細工して鎮座していました。
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最後の「ゐ」はゴール地点の傍にありました。ここまでで4.1km.
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山田神社(やまたじんじゃ)には裏手から上りました。
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金網で保護されていた竜や鳳凰などの精巧な彫刻が施されている本殿は、市の有形文化財。 また、市の民俗芸能に指定されている、7月の「虫送り」行事は、この境内が出発点とのことです。長く続く階段が多い参道の両側には、12月ごろサザンカの花が見事だそうです。
1910年に近隣の神社が合併し、妙見社という神仏習合の神社が建っていた場所に山田神社が建立された。釣鐘は妙見社のころから設置されていたとのことでした。
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横浜市歴史博物館は1995年(平成7年)開館。20年を経過しました。活動のポリシーは「ムラと人々のくらし」。博物館の使命は、地域の文化資源、つまり文化財を収集、保存、研究し、展示や講座などでその成果を多くの市民に公開していくべきということで住民、特に小学生の教育に深くかかわっているようです。施設、学芸員ともとても充実しているよで市の施設としては今まで見た中でも一番の充実ぶりでした。
博物館入口。
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展示の様子。
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歴史博物館は隣接地に国史跡の弥生時代の大塚・歳勝土遺跡公園があり、大規模環濠集落跡が見られました。
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横浜市営地下鉄ブルーラインセンター北駅は商業施設も多く、ゆったり休憩の後、帰路につきました。
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本日は34℃、晴天。それでも午前は10:00から緑道のウォーキングが主で心地よく過ごしました。昼食は「つくし」で昼膳をいただき、満たされました。
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午後は炎天下でかなり状況は厳しくへばりました。しかし参加者22名、途中リタイアもなく約20000歩を15:30には完歩。いかに日影やそよ風が有難いかを実感した半日でした。
次は9月のウォーキングとなりますので脚力が落ちないように適度に運動をしながら暑さを乗り切りたいと思います。
posted by yunofumi at 21:06| あちこちウォーク

2017年07月19日

2017.7.15 第17回東京の新発見「世田谷区」

東急田園都市線駒沢大学駅⇒駒沢大学駅前商店街⇒駒沢大学⇒駒沢大学耕雲館⇒向井潤吉アトリエ館⇒親和橋商店会⇒世田谷1丁目⇒松崎煎餅⇒松陰神社通り⇒松陰神社前駅⇒櫻井米店⇒松陰神社・吉田松陰先生他烈士墓所・松下村塾⇒国士館大学⇒勝国寺⇒世田谷区役所城山分庁舎⇒城山小学校⇒豪徳寺2丁目⇒豪徳寺・本殿・六地蔵・井伊直弼墓⇒世田谷城跡⇒旧玉電踏切⇒SAIGON(昼食)⇒大場家住宅・郷土資料館・世田谷ボロ市⇒桜小学校バス停⇒世田谷警察署松ヶ丘交番⇒東京農大第一高校⇒東京農大食と農の博物館⇒馬事公苑⇒桜新町駅

東急田園都市線駒沢大学駅から約10分で駒沢大学到着。
駒沢大学は日本の仏教宗派の一つである曹洞宗が1592年(文禄元年)に設立した吉祥寺の学寮(吉祥寺会下学寮)を起源とする旃檀林(1657年命名)が発展した大学。曹洞宗の開祖は道元禅師。駒澤大学の建学の精神は、「仏教」の教えと「禅」の心を現代的教育に活かしてゆくこと。このことは「行学一如」と「信誠敬愛」の言葉で示されているとのこと。
現在、コメディアンの萩本欽一さんが学生となっていることは有名なことです。
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駒澤大学禅文化歴史博物館は、1928年(昭和3年)に菅原榮蔵によって図書館として建築されたのが「耕雲館」。2002年(平成14年)6月からは、禅文化関係の文物を収集・保存・展示する博物館となったとのこと。図書館が所蔵していた貴重書や禅堂の彫刻などを移転して再構成し、その特徴的な建築は東京都選定歴史的建造物に認定されており、また世田谷芸術百華にも参加しているとのことです。本日はお化粧直しで布に覆われており外観はよくわかりませんでした。
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修行僧の食事です。
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天井のステンドグラスが綺麗でした。
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向井潤吉先生は、戦後より一貫して、日本の風土に根ざした茅葺き屋根の民家をモティーフとして、制作してきた画家。戦後の高度経済成長の中で次々にその姿を消していく民家を求め、つねに現場におもむき、誇張のない的確な写実表現によって、民家のありのままの姿を生き生きととらえ、日本の美しい風土そのものを描き残してきたのです。
向井潤吉アトリエ館は、向井先生と家族が昭和8年より住まわれてきた世田谷区・弦巻の閑静な住宅地にありました。クヌギ・コナラ・ケヤキなど、武蔵 野の面影を今に残す樹木に囲まれたアトリエ館は、瀟洒な雰囲気を醸し出し、潤いのある憩いの場と感じさせました。アトリエ館は、昭和37年に建てられた、アトリエと住まいを兼ねた建築と、昭和44年に岩手県一関より移築された土蔵が対になっていました。 
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松陰神社の鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった所。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓がここに改葬されたのです。1882年(明治15年)、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。松陰神社はこの世田谷区と山口県萩市にあります。
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松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前があります。松下村塾を模造した建物や頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もありました。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されましたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備しています。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居があります。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあります。桂自身の遺言により、この地に埋葬されたとのことです。

吉田松陰先生他烈士墓所
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松下村塾
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勝国寺(しょうこくじ)は、新義真言宗の寺院。この地が世田谷城の裏鬼門に位置しており、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとのことです。
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豪徳寺(ごうとくじ)は招き猫発祥の地といわれ、境内には招き猫が一杯でした。
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この辺りは中世の武蔵吉良氏が館を構え、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったようです。
1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を作ったのです。当初は臨済宗に属していましたが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じています。
1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し、整備したとのこと。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によるとのことでした。
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なお、徳富蘆花の「謀反論」にもあるとのことですが、松陰神社とは谷を挟んで目と鼻の先でした。豪徳寺は吉田松陰を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺であることも不思議でした。

三重塔
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井伊直弼墓
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世田谷城跡。
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた場所。世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が流れ天然の堀を成していたとのこと。豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているとのこと。世田谷城址公園内から北に向けて延びる、空堀及び土塁が現存していました。
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仲良し3人のおじ様は本日も元気に参加されていました。
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大場家住宅は世田谷代官屋敷といわれ、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸と役宅でした。敷地内には、表門と主屋、お白洲の玉砂利が白洲跡として残っていました。表門はボロ市の開かれるボロ市通りに面して建つっており、主屋は約70坪で茅葺、寄棟造りでした。世田谷ボロ市は世田谷区で毎年1月15・16日と12月15・16日に開かれるボロ市のこと。また本日はホタル祭りとサギ草市の日で表門も開いており、賑わっていました。
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サギ草
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大場家住宅に隣接して郷土資料館がありました。さまざまな資料や模型で世田谷の歴史が細かく説明されており、世田谷にも古墳があったことも示されていました。
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入口傍には擂臼、麦打ちコロ、狐の石像、地蔵菩薩など集めてありました。
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1578年、北条氏政の「楽市掟書」により世田谷城下で始まった楽市を嚆矢としているとのこと。江戸と小田原の間にある世田谷宿において伝馬の確保のため、宿場を繁栄させようという目的があったと思われるようです。その後、北条氏が豊臣秀吉により1590年の小田原征伐で没落し、北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されたことから、楽市は急速に衰えたのですが、その後も近郊農村の需要を満たすため、農具市として年末に開かれる歳市に形を変えて現在につながっているのです。
ボロ市名物は味があんこ、きなこ、からみの3種類の代官餅だそうです。

東京農大食と農の博物館は食と農を通して、生産者と消費者、シニア世代と若い世代、農村と都市を結ぶことがコンセプト。 様々なイベントや隣接する展示温室“バイオリウム”では、楽しい学びの場を提供しているようです。ということで“見る、聞く、触る、味わう”という食と農、そして環境について見分できました。
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カフェ プチ・ラディッシュではビタミンCが豊富なカムカムドリンクをいただきました。
珍しい味だったのでとちのはちみつと共にお土産にゲットしました。
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帰路の終点は東急田園都市線桜新町でした。ここではサザエさん一家のお見送りをいただきました。
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本日も14名が参加。講師は牧さん、CDは長身の小玉さん。晴天のもと、暑さは厳しく34℃でしたので施設に伺っては調子を整え、一気にウォーキングというパターンを繰り返し、朝10:00〜15:00で約11km、歩程20000歩を全員が完歩。
少し残念だったのは世田谷美術館が改修工事のため休館中で見られなかったことです。でもきちんとそれを補うべく向井潤吉アトリエ館を組み込んでいたのはサスガ!!と思いました。
本日で都内23区中17区終了。まだまだ先が長いので気長に楽しく回を重ねたいと思っております。
posted by yunofumi at 04:09| あちこちウォーク