2019年03月21日

2019.3.16. 山手線歴史探訪ウォーク 第7回

渋谷駅〜五反田駅
JR渋谷駅ハチ公⇒東京メトロ銀座線渋谷駅⇒SIBUYA MARK CITY⇒豊栄稲荷神社⇒金王八幡宮⇒金王神社前信号⇒魚屋・渋谷3丁目2⇒六本木通り⇒渋谷ファーストタワー⇒青山トンネル⇒実践女子大⇒青山学院初等部⇒常陸宮邸⇒常盤松の碑・渋谷区東4丁目4-9⇒国学院大学⇒国学院大学前信号⇒常磐松(ときわまつ)小学校⇒渋谷図書館入口信号⇒渋谷氷川神社⇒塙保巳一史料館⇒区立広尾中学校⇒都立広尾高等学校⇒福昌寺⇒庚申橋⇒東恵比寿商栄会⇒恵比寿1丁目信号⇒JR恵比寿駅西口⇒JR恵比寿駅東口⇒恵比寿ガーデンプレイス⇒アメリカ橋⇒TOP of EBISU⇒銀平(昼食)⇒エビスビール記念館⇒三田橋⇒目黒三田郵便局⇒三田春日神社⇒茶屋坂⇒アルジェリア民主人民共和国大使館⇒JR目黒駅⇒大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅

JR渋谷駅ハチ公は渋谷駅の待ち合わせ場所として最も有名な銅像。
ハチの飼い主は東京大学の上野栄三郎教授。上野先生が大学で急死した後10年後にハチも死去したようです。お墓は青山墓地の上野博士のお墓の傍。現在の像は2代目。初代は本田晋作でしかもハチの存命中に制作されていたようです。八の市はその翌年だったのも何となく不思議。剥製が現在の国立科学博物館にあるとのことでした。
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渋谷は再開発が真っ最中!!東京メトロ銀座線渋谷駅はいままで地下にあったと思いますが山手線のさらに上がホームになっていました。びっくり!!
SIBUYA MARK CITYは地上25階建て。ホテル、オフィス、バスターミナル、京王渋谷駅、東京メトロ車庫などがあり、綺麗に立派にできたようです
渋谷マークシティの連絡通路で一般公開されている岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を見ました。縦5m、横30mは圧巻でした。
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「明日の神話」は1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁での米・水爆実験で被爆したマグロ漁船「第五福竜丸」をテーマとした作品。1960年代後半、メキシコのホテルに設置するために制作され、その後行方が分からなかったのが2003年にメキシコ資材置き場で発見され、「明日の神話」再生プロジェクトが発足。1年余りの修復作業を経て2008年に渋谷区を恒久設置先に決定し、同年11月17日より同所で一般公開がスタート。以来、NPO法人「明日の神話保全継承機構」の主導で、毎年秋に壁画の清掃・修復・補強作業が行われ、今年で3回目を迎えたとのことでした。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)。
1092年(寛治6年)現在の渋谷に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとのこと。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとのことでした。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東n宦i天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡とよばれていたようです。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したからだそうです。
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金王丸が植えたという金王桜がありました。
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宝物殿にはとても古い御神輿があり、これは鎌倉八幡宮七神輿の一基で都内西湖の物だそうです。
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常盤松(ときわまつ)の碑。
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「常盤松」は、氷川神社の神域にあった名木で、『江戸名所図会』の「渋谷 氷川明神社」の絵に「神木」として描かれている木がそうです。伝説では、源義朝の側室である常盤御前(ときわごぜん)が植えたとされており下記のような和歌があります。
わがきみの こゝろのまゝに ゆくすえも ときわの松の はなにこそみめ
またこの歌は義朝が常盤御前を想って詠ったものともいわれています。常盤御前は、有名な牛若丸こと源義経の母親で、義朝の死後は公家の一条長成に嫁いだそうです。

渋谷氷川神社。
渋谷地区の最古の神社で古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であったとのことです。創始は1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあるようです。
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その昔9月29日(現在は9月15・16日)の祭礼に金王相撲が行われ大変な人気だったそうでその時の土俵が今も残っています。
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塙保巳一(はなわほきいち)史料館。
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塙 保己一(1746〜1821)は盲目の学者。現在の埼玉県本庄市児玉町の農家に生まれ、7歳のとき肝(疳?)の病がもとで失明、15歳で江戸に出て盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門鍼・按摩・灸、琴・三味線などの修行をするが上達せず、雨富師匠の支援で学問を始めて文学・医学・律令・神道などを、さらには賀茂真淵にも入門し『六国史』などを学び、安永8年(1779)34歳から『群書類従』の編纂に取り組み、40年後の74歳で完成させた方だそうです。本日は中に入りませんでしたが館内には書物の元となった版木などが保管されているとのことです。またここを昭和12年に訪れたヘレン・ケラーが「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語ったという話を聞きました。
更に埼玉県本庄市には平成27年にリニューアルされたばかりの塙保己一記念館があり、国史跡の旧宅や666冊の本となった群書類従が見られるとのことでした。

福昌寺(ふくしょうじ)。
近代的な建物がいきなりありましたが実は天正・文禄の頃の寺院だとのことです。
入口左手に石棺仏の石刻阿弥陀像がありました。
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彫刻が少ない十五世紀頃の石仏でしかも石材は6世紀頃の古墳型石棺の蓋に使われていた和泉砂岩だそうです。
またすぐ傍に花供養塔があり、説明の碑もありました。
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花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり   昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会

庚申橋供養碑は渋谷区東3丁目の庚申橋のたもとにありました。1799年に建てられたこの碑は四面すべてに橋講中の世話役や万人講および個人の名が渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことを示しているのです。
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恵比寿ガーデンプレイスは、渋谷区と目黒区に跨る複合施設で、サッポロビール工場跡地の再開発事業として1994年(平成6年)に開業したとのことです。
東京都写真美術館手前の高層ビルはTOP of EBISU 38階の銀平で昼食。
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煮魚定食はさすがに美味でした。
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エビスビール記念館。
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サッポロビール本社やヱビスビール記念館がある恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)。そこには、かつてヱビスビールを造る工場がありました。1887(明治20)年、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)が設立され、1890(明治23)年に「恵比寿ビール」が誕生。1901(明治34)年には恵比寿停車場という名の積み卸し専用の駅ができ、そこから「恵比寿ビール」を各地へと出荷。恵比寿という地名ができたのは、その後の話。そう、恵比寿という街の名は、ヱビスビールが発祥なのです
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茶屋坂と爺々が茶屋。
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江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋がり徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったとのこと。そしてある時、遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍が、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じて出されたのが目黒のサンマ。こうして「さんまは目黒に限る」という落語がいまもつたわっているようです。爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられたとのことで目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、今はもうやめたようです。しかし島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されているとの話は面白いですね。

アルジェリア民主人民共和国大使館。
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目黒区三田2-10-67にありました。ホームページで見るとアルジェリアは、アフリカの北に位置し様々な風景を楽しむ事が出来る国。国土面積は、2 381 741 Km2、国境を接する国々は、チュニジア、リビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラそしてモロッコの7か国。アルジェリアを取り巻く国境線の距離は6000kmとのこと島国の日本では想像できないことが一杯と思いました。
緩い登りの権之助坂を上りきるとJR目黒駅。
この後の歩程が大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅とわかっていました。これらのコースは何度か歩いたことがあるため空模様が気になり、本日はこれにて自主的に終了とさせていただきました。
結果として渋谷〜目黒で7km、歩程約15000歩。お陰様で翌日の「MBTノルディックウォークin 代々木公園」に元気に参加し、春の花々を大いに楽しみ仲間と過ごすことができました。感謝!
これで山手線はあと1回、また4月に頑張ります。
それではここで日比谷公園の春を感じた花をアップしておきます。

ミモザです。
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ユキヤナギです。
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彼岸桜です。
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コブシです。
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posted by yunofumi at 07:26| あちこちウォーク

2019年03月09日

2019.3.3. 東京新発見旅第22回 大田区

今日の大田区は大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採った合成地名。東京都に23ある特別区の一つ。人口約73万人。東京都区部の最南端。大田区は多摩川を挟んで神奈川県川崎市と接する交通の要地で、東京都心と神奈川県を結ぶ鉄道(JR東海道線・京浜東北線や都営地下鉄浅草線と相互乗り入れする京急線など)の本数が多い。区東部には羽田空港があり、大田区の面積の約3分の1を占める。
大田区でのキーポイントの一つは大森貝塚。1877年(明治10年)横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見したのが大森貝塚。これは日本で考古学が発達していった最初だそうです。大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道の線路側に石碑があるとのことでしたが今日は雨降りで見に行きませんでした。
もうひとつのキーポイントは文士村。石坂洋次郎、宇野千代、尾ア士郎、川端康成、 川端龍子、北原白秋、、子母沢寛、高見順、萩原朔太郎、三島由紀夫、室生犀星、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉屋信子、和辻哲郎などなどが日常を過ごし楽しく暮らしていたようです。
これらは山王会館や郷土博物館で色々知識を得られるとのことで楽しみにして出発しました。

JR大森駅⇒天祖神社⇒大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)・大田区山王2丁目14⇒山王公園⇒山王会館・馬込文士村資料展示室⇒いにしへの東海道石碑・明神橋・大田区中央1丁目14⇒龍子記念館⇒熊谷恒子記念館⇒尾崎士郎碑⇒宇野千代碑⇒ネパール料理タンセンビュー(昼食)⇒真船豊碑⇒南馬込五丁目公園⇒佐藤朝山碑⇒郷土博物館⇒湯殿神社⇒池上梅園⇒村田商店⇒池上本門寺⇒萬屋酒店⇒東急池上駅

本日はしばらくぶりに東京23区のウォーキングツアーです。あいにくの雨降りですが参加者21人はJR大森駅に早々に集合。渡辺先生とTD小玉さんの先導で10:00出発。

JR大森駅に降りたのは初めて。山手線から京浜東北線に乗り換えて到着。1日平均乗降客は10万人弱。道理で駅舎もきれいでしたし人が一杯でした。
天祖神社は大森駅のすぐ傍で正式には神明山天祖神社。享保年間(1716〜1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織して、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建といわれているとのこと。神仏分離令にともない、1872(明治5)年に円能寺から分離し「神明山天祖神社」と改称したとのことでした。
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大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)。
大森射的場のあった跡地はテニスコートとなっており、入口付近の駐車場の角に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がありました。この射的場は1889年(明治22年)から1937年(昭和12年)ごろまで使用されていたとのこと。敷地は窪んだところにあり谷間に作られた様でした。1899年(明治32年)明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立されたのです。大森射的場は周囲の住宅化により1937年(昭和12年)に横浜鶴見の東寺尾に移転してとのことでした。
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大田区立山王会館。
馬込文士村資料展示室が1階に設けられており、山王ゆかりの文士を紹介する展示がありました。平成7年5月に「馬込文士村散策コース」中の拠点施設の一つとして開設され馬込ウォークのパンフレットもいただきました。
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馬込文士村散策マップがあるとのことでした。
これを見ながら再び気候の良い日に再度伺いたいと思いました。

環七通りの陸橋をくぐった先に「いにしへの東海道」と書かれた石碑がありました。「此の道は 時代により奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還などと呼ばれていた古道です」と彫られていたとのことでした。
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大田区立龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(かわばたりゅうし)(日本画家)(1885-1966)により、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立。当初は青龍社が関与、1991年から大田区となり現在にいたっているようです。館内には大正初期から戦後にかけての約140点の龍子作品を所蔵。多角的な視点から龍子の画業を紹介しているとのことでした。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品が多くありました。
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龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されていました。
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ボケが立派な実を付けていました。
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熊谷恒子記念館。
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美智子皇后陛下にご進講されたことでも知られる現代女流かな書道家、熊谷恒子(1893年から1986年)の旧居を改修し、作品を展示しています。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われています。
作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載しています。

尾崎士郎邸跡、宇野千代邸跡、真船豊碑、藤朝山碑と次々に説明を書いた石碑があり、如何に文士たちの住まいや活躍の場が多かったかがしのばれました。

ネパール料理タンセンビューで昼食。はじめてのネパール料理でした。カレーは相当辛かったですが美味しくて皆が笑顔になりました。
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大田区立郷土博物館。
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中の展示は大田区の地中の歴史、昔の道具、海苔養殖、大田の物つくり、麦わら細工などみるものが沢山ありました。馬込が発祥の地といわれる馬込大太三寸人参がプランターで育てられていました。

湯殿神社。
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池上梅園。
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ここはもともと日本画家伊東深水の自宅兼アトリエだった「月白山壮」がありましたが戦災で焼失。戦後は築地の料亭の小倉氏の別邸だったとのこと。その後庭園を残して大田区に譲られたとのことでした。現在大田区の花である白梅150本、紅梅220本が植えられているとのこと。今日は雨模様でしたがほぼ満開状態で散策を楽しみました。

村田商店は天草100%の寒天はほんのり甘くお土産にも最適という池上で評判の甘味処。
店先に大きくみつまめ、あんみつ、ところてんと書いてありました。
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池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、日蓮宗の大本山。日蓮の入滅の霊場であり日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつでありまた大本山のひとつにも挙げられている寺院です。
1282年(弘安5年)、病身の日蓮が身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着し、生涯最後の20数日間を過ごしたのです。またこの時、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源ということでした。

総門は元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立とのこと。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるとのことでしたが、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵されているのです。
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大坊には日蓮が亡くなられたお部屋があるとのことでした。
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多宝堂は境内の西方にあり、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建っていました。
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経堂は東京空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部に回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていたとのこと。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地にありました。
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本殿は、本師(釈尊)のおられる殿堂。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。
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五重塔高はさ31.8m。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築されたようです。
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力道山の墓。この方は大相撲出身だったのがプロレスラーで有名になった方。お酒の上での殺傷事件で命を落としたようです。
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大野伴睦の墓。
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昭和39年に亡くなった政治家。典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した大物政治家。

日蓮像。
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宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された像。制作は、斯界の権威 北村西望。北村西望は平長崎の平和祈念像.の制作者でもあります。

萬屋酒店。
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池上本門寺参道沿いで、もとは茶屋を営んだのがはじまりとのこと。つし二階建,出桁造りで江戸時代以来の町家の形式で、上げ下げ戸を含め、旧状を良く残しているようです。門前町の代表的な建物のひとつで棟梁は加藤甚五郎とのことでした。

東急池上線は蒲田から五反田までに15駅があります。1922年(大正11年)に池上本門寺へ参拝客を運ぶ目的で開業。はじめは蒲田から池上、その後、現在の五反田まで開通。沿線では現在も池上本門寺と洗足池が有名。私的には星薬科大学のある戸越銀座駅や昭和大学がある旗の台駅が馴染みです。

本日は出発時から終了まで雨降り。朝は4℃、日中も10℃はなかったかもしれません。
久しぶりにゴアテックスの上下を着こんでいたので特に寒さは感じませんでした。やはり街歩きとはいえ装備は大切なのです。歩程8km、150000歩をこなし、まずますのウォーキングでした。この東京新発見もあと1回の北区を残すのみとなりました。次回は3/23です。晴天になりますように!!
posted by yunofumi at 23:16| あちこちウォーク

2019年02月27日

2019.2.26 さんさん会ウォーク 総持寺から・・・

本日は旧東海道五十三次有志の集まり「さんさん会」からのお誘いでウォーキングに参加。
幹事千代田さん、講師の浅井先生含め19名が参加。
私は2013年(平成25年)10月の32期での完歩でしたがこの集まりは33期の集り。私はこの2つのグループの行程で都合の良い時に参加していたのでどちらの方々とも仲良しになったのです。

JR京浜東北線鶴見駅⇒鶴見西口歩道橋⇒鶴見大学歯学部附属病院⇒総持寺⇒京急鶴見駅−京急電車−生麦駅⇒キリンビール横浜工場⇒生麦事件碑⇒明神前信号⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅⇒京急横浜駅

総持寺は曹洞宗の大本山。曹洞宗は中国より坐禅を中心とする仏法を日本にもたらした道元禅師と、その教えを全国に広めた四代目榮山禅師を両祖とし、それぞれが開いた永平寺と総持寺の二つを大本山としています。もともと石川県輪島市門前町にあった総持寺ですが1898年(明治31年)の大火災で多くの伽藍が焼失しこれをきっかけに横浜の現在地に移転してきたのです。
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総持寺の三門(さんもん)は 1969年(昭和44年)落成。鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさとのこと。三門の左右には金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の湖の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる。三門楼上には、瑩山が能登に開山するにあたり三門楼上に僧形の観世音菩薩像、地蔵菩薩像を安置したことにちなみ、観音・地藏の放光菩薩像と十六羅漢像および四天王像が祀られているとのことです。三門正面の扁額には總持寺の山号「諸嶽山(しょがくさん)」と書かれていました。
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香積台(こうしゃくだい)は 総受付で拝観・墓地・法要・参拝等の受付を行っている所。売店や休憩所もありご朱印もこちらでいただきました。玄関には日本最大といわれる木彫の大黒尊天が祀られていました。
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香積台から入り迷路のように案内されて食事場所に伺いました。途中の案内でホテルのように宿泊施設もあることがわかりました
食事は精進料理膳で味付けは薄くとても美味しかったです。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には朝をあらわす「金鶏門」(東)、昼をあらわす「中雀門」(中央)、夜をあらわす「玉兔門」(西)という脇門(通用門)がありました。1日2回雑巾がけをしているとのことでツルツル、ピカピカでした。
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大僧堂は、雲水僧が集まり来るということから「雲堂」、また仏祖を選出する道場の意から「選佛場」と書かれた額がありました。私たちは中を見ることはできません。
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仏殿は 1915年(大正4年)に竣工され本尊釈迦如来像が安置されているとのことです。
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方光堂(ほうこうどう)は1911年(明治44年)に総持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物とのことです。もともとこのお堂は安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立され、その後、総持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしていたとのことです。現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しているようで、中には沢山のお位牌が見られました。
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墓所に入ると日比野雷風のお墓がそびえたっていました。
日比野雷風とは、幕末の剣術家で神刀流道場を開いたようです。ここは剣術以外に槍術や柔術等も指導する総合武術道場のようだったと伺いました。
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石原裕次郎さんのお墓はいつきてもお花が絶えないようです。
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キリンビール横浜工場は以前にも伺いました。
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工場見学が参加者にわかりやすくさらにパワーアップしていました。映像の見せ方や機械など行程のなどかなり新しいヴァージョンでした。何よりも工場長が女性で驚きました。この方はビール製造大手、キリンビールで初めての女性工場長となった方だそうです。彼女自身はキリンビールに入社後、品質保証や醸造担当、醸造部長などを経て、神戸工場長に就任、そして現在に至るとのことです。きっとものすごい頑張り屋さんだと思います。
また見学コース途中にビールづくり体験教室のお部屋とパンフを見ました。できれば体験したいところですがすごい人気だそうです。
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試飲コーナーでは出来立ての一番搾りを含め3種類のビールとソフトドリンクの試飲ができました。お酒をいただかない私はノンアルコールビールや珈琲、紅茶などいただきましたが見事に美味しかったです。
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生麦事件碑は案内板も新しくなりわかりやすくなっていました。
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生麦事件参考館は浅海武夫さんが開設されている史料館です。今回初めて見せていただきました。
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中には貴重な資料がいっぱいあり驚きました。約1時間浅海武夫さんの講演をビデオで見せていただき事件の真相をとても詳しく理解しました。まるで大河ドラマにでもなりそうな筋書きでとても驚きました。また事件の解決というか結末が日本的で、昔も今も日本人って変わってない!とも思いました。「ドキュメント生麦事件」という冊子にサインをしていただきまた皆で記念撮影もしました。本当に貴重なひと時でした。
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朝9:30スタートですべての予定を16:45に終了。その後は有志で旧交を温めました。
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横浜駅西口エキニア横浜2階「北海道」はとても美味しく堪能しました。
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お土産はキリンビール工場限定の一番搾りビールゼリーチョコレートと浅海武夫さんのサイン入り冊子「ドキュメント生麦事件」です。
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今日は曇りながら約12℃。少し寒さが厳しいかと思いましたがまずまずのコンディション。
心配した雨にもほとんど会わずに済みました。懐かしい面々とご一緒に浅井先生の先導で1日楽しくウォーキングでした。途中、電車移動もありましたが帰宅してみると歩数は約20000歩。元気に皆さんとお会いできたことに感謝!そしてまたご一緒しましょうと約束しました。感謝!!
posted by yunofumi at 23:42| あちこちウォーク

2019年02月25日

2019.2.23 横浜散策 第15回神奈川区

JR東神奈川駅⇒京急仲木戸駅⇒東神奈川駅前郵便局⇒金蔵院⇒熊野神社⇒松並木・御殿町公園・高札場⇒神奈川地区センター⇒成佛寺⇒慶運寺⇒浄瀧寺⇒神奈川の大井戸・宗興寺⇒滝の橋⇒理容滝の橋・神奈川町本陣跡⇒横浜福音教会⇒笠間稲荷大明神⇒神奈川台場跡⇒青木町本陣跡⇒幸ヶ谷小学校⇒宮前商店街⇒洲ア大神⇒神奈川宮前郵便局⇒普門寺⇒甚行寺⇒萬新菜館(昼食)⇒京急神奈川駅⇒青木橋⇒本覚寺⇒三宝寺⇒高島山公園⇒東横フラワー緑道⇒大綱金毘羅神社⇒料亭田中屋⇒神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所⇒上台橋⇒鶴屋町歩道橋・鶴屋町クレインズ歩道橋⇒JR横浜駅

神奈川区では「かながわ歴史亀さんぽ」というパンフレットが横浜市歴史博物館の協力で作られており本日はこれを見ながらウォーキングです。片面が地図になっており旧東海道と神奈川宿歴史の道が色付けでわかるようになっていました。
とても良い工夫の一つ目の発見は車道と歩道境目の車止めは亀のモチーフがずらり。
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二つ目の発見は街路灯のてっぺんに亀のモチーフが街灯大きさにより2種類。
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三通目に発見は観光史跡や名所の入口には青紋が扇形でありました。
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JR東神奈川駅自由通路東口通路には歌川広重の東海道五十三次の「神奈川台の景」があり茶屋立ち並ぶ風景と湊の様子がわかるとのことでした。惜しいことに本日の集合待ち合わせが西口デッキあたりだったので見損ないました。

金蔵院は京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹とのこと。その後、徳川家康から十石の朱印地を許されています。その昔の参道は街道まで伸び、金蔵院と今はお隣の熊野神社が境内に並び立っていたとのことです。本堂前には徳川家康の「御手折梅」といわれる梅があり当時は毎年一月にご住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしだったとのことです。本日は閉門しており熊野神社の方から垣間見ました。
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熊野神社の創建は1087年(寛治元年)、醍醐三宝院勝覚僧正68代が紀伊国牟婁郡熊野坐神社を分祀、神奈川権現山に勧請、熊野三社大権現としたとのことです。1582年(天正10年徳川家康公武州小机領神奈川郷の内御朱印高10石を賜ったのです。
拝殿は銅板葺入母屋造。扁額には「熊野大神」と記されており拝殿背後の本殿は、美しい流造です。現在の社殿は戦後に再建されたものとのことでした。
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境内入口は南東向いており、石の大鳥居の左右におおきな立派な狛犬がありました。
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本殿右手後方には樹齢四百年の公孫樹の木がありました。
木の中央部に洞があり、少し焦げたあとのようでした。
この公孫樹は1868年(慶応4年)の神奈川大火や1945年(昭和20年)の戦災で焼失したのにその後、再生したため「火伏のイチョウ」と呼ばれているとのことでした。
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御殿町公園から神奈川地区センターの先まで神奈川宿を偲ぶことができる松並木になっていました。松並木は夏は木陰を作り福や吹き付ける風や雪から旅人を守ったといわれています。この風景は町おこしで新たに松が育ちつつあるようです。
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傍には昔のお知らせを掲げた高札場がありました。
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そうそう、神奈川地区センターには広重の東海道五十三次八十二万歩の旅のジオラマがありました。

成佛寺(じょうぶつじ)(外国宣教師宿舎跡)。
成佛寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺院。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移されたとのことです。1859年(安政6年)の横浜開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ジェームス・カーティス・ヘボン博士は本堂に、宣教師のブラウンは庫裡に住んだということを伺いました。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られおり日本最初の和英辞典を完成ました。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力、ここでは通訳として活躍したアーネスト・サトウも学んだようです。
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写真中央の石の模様が浪のようなのが「浪石」。言い伝えでは満ち始めると湿気を持ち、満潮になると夜露がしたたるようになりまた、引き潮になるとぬぐったように乾くので潮の時刻がわかるということでした。浦島太郎が竜宮から帰ってきて両親の墓に参り、呆然とたたずんだあと再び竜宮へ行こうとしたが、それは出来なくて、この石に腰を下ろして過ぎし日を偲んで思わず大きな涙をこの石にはらはらと落としたことから「浦島太郎の涙石」「泣き石」とも言われているようです。

慶運寺(けいうんじ)(フランス領事館跡)
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横浜・神奈川区に江戸末期明治時代に観福寿寺という寺院に浦島太郎が竜宮より持ち帰った観音像を本尊としていたため「浦島寺」と呼ばれていたということです。ただ明治初年に浦島寺が焼失して以降、観音像と浦島大明神像・亀化龍女神像(乙姫像)は慶運寺に移されて祀られたのです。東京芝・増上寺元禄8年の記録に「浦島太郎所持之観音像」と記されているそうで、浦島寺の観音像は、江戸時代のはじめから浦島太郎ゆかりの観音さまとされていたのです。
浦島観音の扁額があるお堂内には観音様がはっきり見えました。
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浦島太郎の山車は浦島町浜公園で年数回展示されるとのことでした。
また浦島太郎の絵本ができており浦島太郎伝説を子供たちに伝える努力がされているとのことでした。

滝の川を挟んで浄瀧寺(じょうりゅうじ)(イギリス領事館跡)がありました。
日蓮宗に寺院、1260年(文応元年)妙湖尼が日蓮に出会い法華経の道場とした寺院だとのこと。
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「神奈川の大井戸」は徳川将軍や明治天皇が来れた時にも使われた井戸だそうです。井戸の水量が増えると次の日にはお天気といわれ「お天気井戸」とも呼ばれていたとのことでした。
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宗興寺(そうこうじ)は曹洞宗のお寺で正式には開塔山日輪院宗興寺。創建年代は不詳とのことですが、伊豆海島風土記によると永享12年(1440年)に開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとのこと。臨済宗さらに曹洞宗寺院となったようです。
幕末になると横浜が開港され、ヘボン式ローマ字の宣教医ヘボン博士がこの宗興寺に施療所を開設したのです。
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境内には「ヘボン博士施療所」碑がありました。
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神奈川宿の本陣は今は閉店したらしい理容滝の橋の所に神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の2カ所に説明板がありました。

横浜開港当時、港の警備のために権現山の土を使ってできたのが神奈川台場。これは勝海舟が設計した8000坪の台場だったようです。今は埋め立てられ石垣のみが一部残っていました。
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洲ア大神(すざきおおかみ)は源頼朝が作った神社とのこと。この神社にご神木のアハキがあったことからこの辺りは青木町となったようです。
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甚行寺(じんぎょうじ)(フランス公使館跡)
横浜開港当時ここの本堂は土蔵作りだったのを改築して公使館として使われたようです。

青木橋から本覚寺と権現山を見ると東海道本線の辺りがぐっとへこんでいます。しかしこの権現山(現在の幸ヶ谷公園)と本覚寺の辺りはもともと尾根続きだったそうで、戦国時代にはそれぞれ隣接して権現山城と高島台には青木城があったのです。この両者の間を削りこの土を色々なところの埋め立てに使ったようです。右手に見える権現山は見事にてっぺんが削られています。
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また鉄道を通したことから青木橋の下は谷積みよう壁という頑丈な壁になっているのです。

本覚寺(ほんがくじ)(アメリカ領事館跡)
もと臨済宗で、1226年に宗祖栄西により創建されたと伝わっています。
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横浜開港時アメリカ領事ドーアが庭木を切り払い4星条旗を掲げ寺の正門には白いペンキを塗ったとのことです。その後このペンキを剥がすことが大変だったようでまだ山門の一部が白くなったままでした。文化の違いは恐ろしいですね。
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この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。横浜開港の恩人への感謝として有志により昭和57年に建立されたとのことです。 岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍をした人物。日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震なのでした。その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのです。しかし、開港の前年に岩瀬忠震は左遷され、更には安政の大獄により永蟄居を命ぜられ、その後、1861年、44歳で死去したとのことです。
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このペンキ剥がしが縁なのでしょうか。全国塗装業者の慰霊碑がありました。
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高島山公園には「望欣台の碑」と「弁玉の歌碑」がありました。
高島山は高島嘉右衛門の屋敷があった所。この方は明治初期に鉄道を通すために尽力した方。埋め立ては野毛浦石崎から神奈川停車場までの1.5km、幅76mの海面を埋め立てたのです。この時使われた土が権現山と本覚寺手前の所、ということで今は東海道線がとっているのです。
「望欣台の碑」は横浜の都市形成期の恩人高島嘉右衛門の顕彰碑。
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「弁玉(べんぎょく)の歌碑」にある弁玉は幕末の僧侶・歌人。浅草の生まれ、晩年はこの公園そばの三宝寺の住職でもあったとのことです。
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東横フラワー緑道は、東急東横線の地下化により生じた東白楽駅 - 横浜駅間の線路跡に横浜市によって整備された延長約1.4kmの緑道(公園)です。AM6:00〜PM9:00までの通行可能なのが面白いと思いました。
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広重の「東海道五十三次」の神奈川・台之景に描かれており、坂の上から三軒目に「さくらや」とあるのが、現在の田中家。幕末の頃、1863年(文久3年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしたとのことです。
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幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうが夫亡き後に仲居として働いており、明治時代には、幕末の偉人達や要人、各国の大使、文化人などが利用したようです。
ちなみに坂本龍馬の妻・おりょうは、寺田屋騒動の折、龍馬の危機を救った女性として広く知られています。龍子は横須賀で再婚し、西村ツルの名で最初は大津、次に米が浜に住んでいました。人生の後半生33年間を横須賀で過ごしたおりょうのお墓は、現在、大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあり、毎年秋に龍子を偲んで墓前祭など、「おりょうさんまつり」が催されているとのことでした。

神奈川台関門跡。
横浜開港後色々事件が起こったため関門や番所を作り外人さんの行動範囲に制限を架けたようです。関門か神奈川宿には東西にあったようです。
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袖ヶ浦見晴所。
昔はこの石碑があるお向かい、田中屋の後ろはもう海でしたからきっとこの辺りの台地からは見晴らしがよいということで見晴らし所があったことでしょう。

現在の横浜駅は三代目の駅舎。初代は桜木町駅に改称されています、二代目の「横浜駅」は現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近にありました。現在は国道1号「高島町交差点」脇に駅舎基礎部分の遺構が残っており、横浜市認定歴史的建造物となっています。

本日はスタート10:00、ゴール15:50。からりとした青空で気温13℃はちょうどよかったのですがかなりの強風でちょっと大変でした。でも浅井先生TD金子さんの支えがあって参加者17名は無事に約15000歩、11kmを完歩。
横浜駅前で解散時お土産は高島屋でいかが!とお声掛けをいただきました。
早速7階の横浜001コーナーで勝海舟が設計した台場をイメージした「勝サブレ」と名物「横浜崎陽軒のシュウマイ」をゲットしました。
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居合わせた店員さんから「勝サブレ」をどうして求めたかの質問をいただき、事情を話したところとても喜んでいただきました。
さてさてこれで横浜散策はあと3区となりました。
またスケジュールを見ながら18区完歩を目指します。
posted by yunofumi at 21:39| あちこちウォーク

2019年02月21日

2019.2.20 大多摩ハム工場見学ウォーク

JR青梅線拝島駅⇒熊川⇒ファミリーマート拝島駅北店⇒玉川上水沿い日光橋⇒玉川上水沿いどんぐり橋⇒玉川上水沿い日光橋公園⇒玉川上水沿いみずくらいどん公園⇒玉川上水沿い五丁橋⇒熊川2号水源⇒福生消防署熊川出張所⇒五丁橋通り入口⇒横田基地第5ゲート⇒わらつけ街道⇒原ヶ谷戸東公園⇒福生街道踏切⇒氷・山上商店⇒大浦歯科医院⇒大多摩ハム⇒JR青梅線福生駅

本日はMBT自由が丘店のイベントで大多摩ハム工場見学ウォークでした。
ずっと昔、大学卒業早々はすぐ傍の羽村町に住み、青梅市立総合病院に勤務していましたので懐かしくて参加しました。
JR青梅線拝島駅には8:45集合。駅が綺麗になっていてびっくり。
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今日はまたしても晴天、朝出がけAM7:00は5℃くらい、でも日中はほぼ無風で陽射しが強く19℃はあった感じ。ウォーキング中はやや汗ばみました。
さて参加者14名は拝島駅から9:00出発。すぐ玉川上水沿いにウォーキング。途中のどんぐり橋で記念撮影。
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全員が4MBTシューズですがほとんど同じ靴の方がいないのがオモシロイ!
日光橋公園では雑木林の中を散策。
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五丁橋あたりも玉川上水の水はとても綺麗。
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ほどなく横田基地第5ゲートに到着。
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この辺りの地元車は八王子ナンバー。そういえばそうか?と長年忘れていた記憶をまさぐっていました。
大多摩ハム、シュトゥーベン・オータマは1921年小林榮次が創業。この方はドイツ人技師アーグスト・ローマイヤに師事してドイツハムの技術を取得したようです。もともと都内にあった工場はこの福生には終戦後の1947年この地の水がご縁で工場を構えたようです。現在は3代目社長が相変わらず国産肉にこだわり手造り低添加ドイツ式を貫いているとのことでした。
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まずはお互いに自己紹介。
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和んだところでの工場見学は手作業でのカット作業を見せていただきました。
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その後レストランでドイツ風の昼食。皆さんはビールをいただき大いに盛り上がっていました。アルコールをいただかない私はハムステーキランチを食しました。
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その後は直売店でお土産を物色。
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すっかりお腹も身満たされましたのでこちらで各々が解散。
私たちはJR青梅線福生駅に出て立川〜西国分寺から武蔵野線で帰路につきました。本日は約10000歩の歩程でしたから十分余裕が残っていたので地元で夕食の買い物をして帰宅しました。皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:21| あちこちウォーク

2019年02月17日

2019.2.16 東京まちさんぽ

メトロ護国寺⇒護国寺⇒大塚三丁目信号⇒大黒湯⇒お茶の水女子大学⇒跡見学園⇒メトロ茗荷谷駅⇒茗台中学校⇒春日2丁目⇒傳通院⇒淑徳学園⇒善光寺のムクノキ⇒慈眼院沢蔵司稲荷⇒えんま通り商店街⇒大亜堂書店⇒こんにゃくえんま⇒善雄寺⇒富坂下信号⇒メトロ後楽園駅⇒小石川後楽園⇒日中友好会館⇒飯田橋職安前信号⇒お茶の水石碑⇒湯島聖堂⇒外神田2丁目信号⇒昌平橋信号⇒三組坂下信号⇒メトロ湯島駅⇒湯島中坂下信号⇒白梅商店会⇒天神下信号⇒旧岩崎邸庭園⇒不忍池西信号⇒横山大観旧宅・庭園⇒池之端1丁目信号⇒上野動物園池之端門⇒忍岡小学校⇒きもの多古や⇒根津神社⇒根津神社裏門坂⇒日本医科大学病院⇒向ヶ丘1丁目信号⇒浄心寺⇒都立向ヶ丘高等学校⇒向ヶ丘2丁目バス停⇒メトロ本駒込駅

護国寺。
メトロ護国寺駅傍、大塚五丁目の真言宗のお寺さん。1681年(天和元年)に徳川綱吉の母である桂昌院が開祖。確か大隈重信さんやジョサイア・コンドルさんのお墓があると以前伺ったことがありました。
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境内はとても綺麗で日本水仙が咲き誇っていました。
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大黒湯。
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とても古そうな銭湯で今も営業している様子でした。屋根には八角形の湯気抜き見えました。

傳通院(でんつういん)
山門がとても立派。
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山門を通ると高くなった位置に本堂がありました。「如是我聞」の石碑横の紅梅が見事でした。
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善光寺のムクノキと説明板があり、痛々しい姿ながら大切にされている樹木のようです。
この場所は現在「善光寺坂」といわれる区道817号とその横の歩道との間に設けられたポケットパーク内とされていました。ここは江戸時代の頃は伝通院境内であったようです。廓山(かくざん)上人(伝通院中興第一世、寛永2年〔1625〕没)によって植栽されたものと伝わっておりまたその後、伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至っているとのことでした
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えんま通り商店街は江戸時代より源覚寺(こんにゃくえんま)の門前町として栄えた商店街のようです。今年から始まった大河ドラマ「いだてん」の主人公金栗四三が走っていた街と旗が掲げられていました。
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こんにゃくえんまの石柱を曲がると源覚寺(げんかくじ)でした。こちらは浄土宗の寺院。お堂の中には像高100.4cmの木造の閻魔王坐像があり、右側の眼が黄色く濁っているのが特徴とのことでしたがちょっとわかりませんでした。お供え物はすべて蒟蒻でした。
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小石川後楽園は、今から約400年前、江戸時代初期の1629年に水戸藩の初代藩主・徳川頼房によって江戸の中屋敷の庭として造られ、二代藩主の光圀の代に完成した所。お庭、特に池の配置などが素晴らしいとわかっているので本格的な春や紅葉の秋にまた伺います。
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コースを外れてお茶の水の湧水と石碑を見に立ち寄りました。
江戸時代、今のJR御茶ノ水駅周辺一体にあった「高林寺」の境内の一角より湧き水が出ていた所。三代将軍家光が鷹狩りで寺へ立ち寄った際にその水でお茶を立てたところ、大変美味しいためお気に入りになりその湧き水を「御茶ノ水」と名づけ将軍専用のお水とされたのです。この話を語り継ぐ史跡として御茶ノ水橋の交番横にありますが実はこの涌き水は現在は水道水とのことです。
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湯島聖堂は江戸湯島(東京都文京区)にあった孔子廟(こうしびょう)大成殿の別称です。1690年(元禄3)上野の忍ヶ岡(しのぶがおか)より移したもの。ここの敷地内に幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)がありました。これらは関東大震災でほぼ全焼し、その後再建された建築物をまとめて湯島聖堂といっているようです。
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メトロ湯島駅の隣にこれはまた年代ものの建物を見つけたので記念に撮影しました。このような発見も面白いのです。
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旧岩崎邸庭園は三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を今は都立公園として整備したもの。今まで数回訪れているので花の少ないこの時期なので中に入らず通過しました。

横山大観旧宅・庭園は、近代日本画の巨匠として有名な横山大観を記念して、1976年(昭和51年)に開設された記念館。この地に大観は、1909年から1958年に亡くなるまでほとんど居住て作品を制作していたようです。記念館には大観を始め、春草、芋銭、観山などの作品や大観の愛用した美術品が展示されているとのことでした。雰囲気は何か厳粛でちょっと入りずらかったので表の説明をじっくり読み、後日見学に来ようと思いました。
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池之端一丁目信号を過ぎると上野動物園池之端門が見えました。この入り口は初めて知りました。いつも混雑の上野動物園です。一度こちらから入ってみたいと思いました。きっと穴場ですね。
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根津神社はもとは根津権現,須賀社といわれていたようです。日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社です。境内はツツジの名所で私も何度か見に来ています。また森鴎外や夏目漱石などの文豪が近辺に住んでいたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されています。
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メトロ本駒込駅はメトロ南北線の東大前の隣の駅。普段そんなに乗降客は多くないと思いますが今日はイベントのゴールだったので改札前のコンコースは大にぎわいでした。おかげで私も無事にゴール出来て大満足でした。
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今日の東京メトロのイベント、AM9:00出発、メトロ護国寺駅〜メトロ本駒込駅の歩程約11kmに参加しゴールメトロ本駒込駅14:00でした。本日は素晴らしい晴天で朝はかなり寒かったですが日中ウォーキングしている時には14℃はあった感じでした。おかげで終わってみれば約24000歩とかなりの歩行で目安の歩行時間は約3時間25分となっていましたが食事やお茶、それにウインドウショッピングも楽しんだので充実したウォーキングでした。
ゴール後南北線本駒込駅からJR駒込駅に移動。駒込駅に来るとすぐ傍のお茶をする洋菓子「アルプス」で休憩。いつもと雰囲気が違うのでふと見ると3月いっぱいで閉店の張り紙が見えました。このお店は本格的な洋菓子と珈琲がとても美味しいお店なのでとても残念に思いました。でも偶然でしたが長年の感謝の気持ちを込めてのお茶タイムはそれなりに過ごせました。
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本日は5000人参加の大イベントでしたが私は抽選に当たり参加できました。今までは手作業での参加やゴールの確認でしたが本日は送られてきたQRコードをかざすだけで何事も進歩が見られてちょっと感心しました。
スタート時にはドリンクのヘルシア、ゴール時には参加証でタオルと缶バッヂ。お土産に買った「きもの多古や」のハンカチ共々記念になります。
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このメトロイベントはほぼ毎月あるようです。自分の都合を踏まえて申し込みをしても当選はなかなかで今回が2回目。ぜひまた参加しようと思っています。
posted by yunofumi at 23:23| あちこちウォーク

2019年01月27日

2019.1.27 高尾山へ(12回目)

ここ数日関東地方はほぼ快晴。
寒さが厳しいですが1月も終わるので高尾山へお出かけ。朝はかなり冷え込みましたが昼近くには8℃くらいになり大助かり。
ケーブルカーで高尾山駅へ。駅前には真新しいお店が沢山出来ていました。
十一丁目茶屋横からの展望もスッキリ!はっきり!東京まで見えました。
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浄心門を通り男坂へ。
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石段横にはもう若芽を出している植物もありました。

薬王院手前に杉の苗木寄贈の方々の木札が一杯。
さらに横には「高尾山健康登山の証」百冊成満者の御芳名が175番まであり、びっくり。
いつ見ても確実に増えているのです。
この手帳はスタンプ集めのようなものですが1回の登山に1回押印いただき、1冊21回分で萬行。
21×100回の登山の方が175人はおられるということです。このスタンプを集めていない方もおられるでしょうから高尾山がいかに人気があるのがわかります。
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薬王院山門。
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天狗も頑張って見えを切っています。
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薬王院仁王門。
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薬王院本堂。
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薬王院権現堂(本社)。
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高尾山不動堂。
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山頂、十三州大見晴台についてホッと一息。
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そしてなんと富士山がいつになくピカピカ!クッキリ!!とてもキレイ!!
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これより下山し、途中で薬王院太子堂にお参り。
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帰りのケーブルカーでは運転席横になりました。
線路向こうまで見るとこのケーブルカーは日本一の最急勾配31度18ということがはっきり実感できました。
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こうして私の12回目の高尾山ウォークは終了。
それにしてもお正月以後、この寒さもあり、ちょっと筋トレ怠け気味がモロに出ました。帰宅までに約16000歩だったのですが、ちょっと疲れていました。年齢も重ねていることが言い訳にもなりませんが、「筋肉は一日一日の積み重ね!三日怠ければ元の木阿弥!」日頃からわかっておりながら、なかなか自己管理が生ぬるく結果が露呈!!反省!!
また明日から何とかします!!
posted by yunofumi at 23:18| あちこちウォーク

2019年01月24日

20190119 鎌倉七福神めぐり

JR北鎌倉駅⇒東慶寺⇒1浄智寺⇒長寿寺・亀ヶ谷坂切通⇒建長寺⇒円応寺⇒巨福呂坂送水菅路ずい道⇒二十五坊遺跡⇒2鶴岡八幡宮⇒近藤(昼食)⇒3宝戒寺⇒土佐坊昌俊邸址⇒4妙隆寺⇒日蓮上人辻説法跡⇒大巧寺⇒5本覚寺⇒鎌倉市農協連即売所⇒下馬交差点⇒和田塚4号踏切⇒六地蔵⇒六地蔵交差点⇒鎌倉彫寸松堂⇒中山刀剣美術店⇒主馬盛久之頸幽⇒文学館入口交差点⇒甘縄明神宮⇒萬屋本店⇒のり真安濟商店⇒旅館對僊閣⇒6長谷寺⇒鎌倉彫白日堂⇒7御霊神社⇒江ノ電長谷駅

朝5時起き!まだ暗闇の中で支度開始。気温1℃?かなり冷え込んでいました。日中は晴天、ほぼ無風、最高気温11℃の予報を確認し、副都心線で約2時間弱、JR北鎌倉駅到着。これまでにも数回伺った北鎌倉駅はこじんまりと可愛い。今朝はいくつものグループが出発準備中。私は駅前の喫茶「門」が営業中だったので温かい珈琲をいただいてからクラブツーリズム「鎌倉和総菜ランチと鎌倉七福神めぐり」ツアーに参加。講師:長坂先生、TD川崎さん、参加者13名で9:45出発。

鎌倉七福神とは大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七つの神様の総称。「七難即滅、七福即生」の説に基づき七福神を参拝すると七つの災難が除かれ七つの幸福が授かるといわれています。近頃はお正月にあちらこちらでよく行われています。本日の鎌倉七福神めぐりは約5kmのコース。

出発後すぐに東慶寺(とうけいじ)の門前に到着。
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ここの山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。開基は北条貞時、開山は覚山尼とのこと。開山以来尼寺で、幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていたようです
「開山潮音院覚山志道和尚」は安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人であったためここは松岡御所ともよばれ格式ある寺だったのです。

1番目・浄智寺(じょうちじ)・布袋尊様(家庭円満の神様)
鎌倉幕府5代執権北条時頼の三男宗政が29歳で1281年に没し、8代執権北条時宗が弟の菩提を弔うために建てた寺院。庭が広く梅や牡丹が有名だそうです。
三門と甘露の井がお出迎えです。
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総門
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仏殿
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お寺の奥のやぐらの中に布袋尊様がおられました。参拝客の皆さんがお腹を撫でたため少し黒ずんでいました。
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建長寺(けんちょうじ)は鎌倉時代の1253年(建長5年)の創建。、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆、鎌倉五山の第一位。今日は門前でのご挨拶のみ。
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巨福呂坂送水菅路ずい道。
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元々は旧海軍施設。日露戦争の勝利により、海軍力増強が推し進められ、横須賀海軍工廠をはじめ海軍施設が拡張されたため、艦隊補給や工廠用水など水需要が増大。走水水源では間に合わなくなった海軍が新たに相模川支流の中津川から水を引くことを計画したのが軍港水道半原系統で、約53km離れた愛川村半原から新設の逸見浄水場まで自然流下式で導き、ろ過した後、各施設に配水するものだったのです。送水線路はほぼ直線に南東に向かい、鎌倉あたりで東南東に少し折れて横須賀・逸見へと続いており、送水線路上にあった河川や丘陵には水道橋や隧道が何箇所か建設されたのです。この水道管が敷設されたルートは「横須賀水道みち」、「横須賀海軍水道みち」と呼ばれたとのことです。

2番目・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・弁財天様(財運を招く神様)
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鎌倉市雪ノ下にある神社で武家源氏、鎌倉武士の守護神で鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が前年の役で奥州の安部氏を平定後、1063年(康平6年)、京の石清水八幡宮を鎌倉由比が浜郷に勧請し社殿を創建。その後、1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉入りするや由比が浜八幡宮(元八幡)をこの地小林郷に移したのです。1191年(建久2年)には武士の守護神の宗社に相応し上下了宮の現在の姿となったとのことでした。

弁財天様は旗上社におられました。
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若宮通り、津多ビル1F創作和料理「近藤」にて昼食。
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寒い時期は温かいことも御馳走のうち。お魚の煮つけの味もよく、野菜も添えられ美味しかったです。こちらは初めて伺ったお店ですがもう一度鎌倉野菜を味わいたいと思いました。

3番目・宝戒寺(ほうかいじ)・毘沙門天様(病魔退散・財宝富貴の神様)
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宝戒寺は天台宗の寺院で開基は後醍醐天皇で1335年(建武2年)に創建。この場所はもともと北条義時が小町邸を造って以来、北条執権の屋敷があった所。1333年(元弘3年)新田義貞に鎌倉攻めで鎌倉幕府は滅亡し北条一族は滅びたのです。北条得宗家九代の霊を慰めまた人材養成修行のために後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの屋敷跡に建立された寺院なのです。本尊は子育経読地蔵大菩薩で本堂にあるようでした。
お庭には可憐な日本水仙が咲いていました。
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聖徳太子を祀る太子堂。
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徳崇大権現者
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ここは白萩が有名で萩寺といわれています。

4番目・妙隆寺(みょうりゅうじ)・寿老人様(長寿の神様)
ここは日蓮宗の総寺院。 
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またこのあたり一帯は千葉常胤の子孫・胤貞の別邸跡といわれており千葉屋敷とも呼ばれているとのことでした。胤貞が1385年(至徳2年)七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建。ご本尊は日蓮上人。

妙隆寺の墓地には丸山定夫の碑がありました。
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丸山定夫は、明治34年5月12日、愛媛県松山市北徒歩町に、丸山常次の四男として生まれました。そして早くから演劇の魅力に憑かれ、大正13年6月3日、築地小劇場が東京築地に開設されるや、その開幕のドラを叩いた方です。昭和3年まで同劇場で働き、昭和4年新築地劇団の創立に加わり、15年まで舞台に立ち、独異の性格俳優として「新劇の団十郎」といわれ、新劇史上不朽の名をとどめた方です。多くの人に愛されましたが、昭和20年8月6日、広島市堀川町99番地、移動演劇桜隊の宿舎でアメリカ軍投下の原爆に遭い、十日間の苦悶の末、16日、厳島存光寺の庫裡で誰にも見取られずに43年のいのちを閉じたのです。その後、埋められた場所さへ知られずにいたのを、最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの協力で新しく記念碑が建てられ碑には由来が記されていました。

日蓮上人辻説法跡。
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昔の鎌倉では地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、不安と恐怖におののく人々を救おうと、38歳の日蓮上人は、松葉が谷の草庵から毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い法華経を教え熱心に説いていたようです。「煩悩菩薩・生死即涅槃」「南妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟りだと思い、法華経を信じる事を説いたのです。「政治が正しくなければ国も庶民の生活も安ずることが出来ない」また「為政者が邪教を信じ、法華経をないがしろにすれば”自界叛逆・他国侵逼難”となって日本は滅亡する」と予言していたとのことでした。

大巧寺はおんめさまとよばれたお寺。 安産を願う妊婦さんが、日本全国や海外からお札を受けに見えるようです。また、境内にて季節ごとに咲く多種類の花々が、訪れる方の心を癒します。
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5番目・本覚寺(ほんがくじ)・恵比寿天様(商売繁盛・五穀豊穣の神様)
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本覚寺は日蓮宗の寺院。日出上人が開山し、1436年(永亨8年)に創建。足利持氏が鎌倉の夷堂があった場所に寺を建て日出上人に寄進した寺院とのこと。
1274年(文永11年)に佐渡の流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人はこの夷堂に滞在して布教していたとのこと。
本覚寺文骨堂には身延山から分骨した日蓮上人の御骨が収まっており、東身延山ともいわれているのです。ご本尊は釈迦三尊。
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境内には樹齢100年以上の百日紅が花をつけるとのことでした。

鎌倉市農協連即売所の発足は昭和3年に、鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の茶屋の休憩所を借りて始まったようです。次に現在丸七商店の場所を経て、戦後の32年に現在の場所に移転してきました。 鎌倉野菜の運搬も、牛車、自転車にリヤカー、オート三輪車、トラックへと変わり、生産者も、3代目、4代目となっているとのことでした。

下馬交差点(げばこうさてん)は昔、鎌倉幕府へ詣(もう)でる武士は、ここで馬を下りてあとは、歩いて行ったと伝わる場所でした。

由比ガ浜大通の中ほどの道の角に六体の地蔵が赤い頭巾をかぶり、よだれかけを首にかけて並んでいて、このあたりの地名にもなっていました。
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この場所からやや北によったところに、鎌倉時代の刑場(けいじょう)があったと言われており、この刑場跡に罪人の霊を弔う(とむらう)ために祀(まつ)ったのが、六地蔵のはじまりとのことで、後に人通りの多い現在の場所に移されたとのことです。

鎌倉彫寸松堂(すんしょうどう)。
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構造規模は木造2階建、搭屋付、和小屋組 。延べ床面積421.22u、屋根は銅板瓦棒葺き、一部亜鉛引鉄板葺き及び桟瓦葺き、外壁は漆喰塗り大壁、一部押縁下見板張り。 この建物は、1936年(昭和11年)、鎌倉彫の彫師佐藤宗岳氏の店舗併用住宅として、市内の大工西井喜一、正二親子によって建てられたとのこと。1階店舗部分のガラス 戸、ショーウインドーなどに近代洋風建築技術が見られ、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような建物。寸松堂は建築当初から 笹目町、長谷界隈のランドマークとして重要な役割を果たし鎌倉の景観重要建築物となっています。
もうひとつ鎌倉彫白日堂(はくじつどう)の建物も有名で1940年(昭和15年)に鎌倉彫の工房兼住宅として建てられたとのこと。こちらも鎌倉の景観重要建築物。概観は、城郭風と寺院風を加味した感じにみえました。。
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旅館 對僊閣は明治末期から120年以上旅館として続き、現在の建物は関東大震災後、昭和2年頃に建てられたもの。長谷寺の参道にあり、必ず對僊閣が目につきます。一部改装が施されており、とてもよく戦前の和風旅館の佇まいを残している貴重な建物です。高浜虚子がホトトギスの会を開き、与謝野晶子が宿泊した当時の雰囲気も残っているようです。
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6番目・長谷寺(はせでら)・大黒天様(出世・開運の神様)
こちらは鎌倉時代以前からある古寺で736年(天平8年)の創建。坂東33カ所観音霊場の4番札所。
ご本尊十一面観世音菩薩。高さ9.18m、楠の木造、全身の金箔は足利尊氏が、光背は足利義満が納めたとのことです。
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長谷寺は紫陽花の花が有名、また秋の紅葉のライトアップも見事なようです。
そのほか藤や牡丹、つつじもよいようです。今日はちらほら白梅や蠟梅も見られました。

7番目・御霊神社(ごりょうじんじゃ)・福禄寿(知恵の神様)
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この社はもともと鎌倉の平氏五氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖先を祀る御霊神社だったようです。その後武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱を祀るようになったようです。
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本日はほぼ16:00すぎにウォーキング終了。歩程約6km、歩数は16000歩超。一カ所づつ、かなり丁寧に見て歩け、なかなか得難い行程でした。
この時期ですからお花が見られませんでした。今後は時期を見てまた伺おうと思いました。
posted by yunofumi at 00:19| あちこちウォーク

2018年11月18日

2018.11.17 横浜散策 第14回金沢区

京浜急行金沢文庫駅⇒金沢文庫駅前交差点⇒称名寺・北条実朝廟⇒中世の隧道⇒金沢文庫⇒KABA’S KICHEN1050⇒金龍寺⇒平潟プロムナード⇒夕照橋・侍従川⇒野島公園・野島の庵体塚・展望台⇒旧伊藤博文邸⇒野島運河の野島橋⇒野島公園駅⇒明治憲法起草の碑⇒洲崎町交差点⇒明治憲法起草の地碑⇒瀬戸橋⇒千代家跡⇒琵琶島神社・福石⇒瀬戸神社⇒・蛇混柏⇒京浜急行金沢八景駅

素晴らしい晴天のもと9:30スタート。
本日の金沢区は横浜市の最南端にあり、歴史的にも古いものが多くあるようです。横浜市では唯一の自然海岸の野島海岸をたっぷり楽しめるとのことなので期待しての出発です。

称名寺(しょうみょうじ)。金沢北条氏一門の菩提寺。鎌倉幕府の要人北条実時が六浦金沢の屋敷内に建てた持仏堂が起源。阿字ヶ池、を中心にした中之島・反橋・平橋がある浄土庭園は秋の風情が素晴らしく大いに楽しめました。
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称名寺を含め市民の森となっていました。ずっと奥に上って進むと北条実朝廟がありました。
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金沢の四石のふたつ「美女石・姥石」がこの阿字ヶ池にあったとのことです。
もともと阿字ヶ池が作られた時ふたつあった石が見当たらず、今は一つだけ見られるようです。残っているこの石が「美女石・姥石」かは、はっきりしないようです。
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また称名寺には金沢八名木のひとつ「青葉楓」がありました。 
昔から紅葉しない楓だったようです。現在にはその後植樹されたもの。
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称名寺とひとつ山を挟んで金沢文庫があり、最初は手彫りの「中世の隧道」を通ったようです。
今は立派なトンネルがあり、陶板でしょうか、金沢八景が飾られていました。

神奈川県立金沢文庫はもともと北条実時が創設した蔵書を核としたいわば図書館だったようです。5回ほど火事などに会いこの近隣で場所を移し、称名寺とは山を挟んだ現在の場所になったようです。図書類は現在県立図書館に移されており、現在、金沢文庫では鎌倉時代の武家文化の文化財が中心にありました。ちょうど昨日から「顕われた神々〜中世の霊場と唱導〜」が開催中でいきなり入口にあったレプリカでしょうが「弥勒菩薩立像」やその周りに彩色を復元した曼荼羅と元のくすんだ曼荼羅は神々しかったです。
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昼食後電車で金沢八景駅に移動し大きな石柱で曲がると金龍寺でした。
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ここは金沢四石のひとつ飛石がありました。
三島明神が伊豆三島からこの石の上に飛び移りそれが瀬戸神社の起源ともいわれているようです。
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金沢八景は江戸時代に僧心禅史が能見堂からみた金沢の美しい景観を故郷の中国を思い八編の漢詩に読んだことが始まり。これに因み広重らが描いた絵が有名になったとのこと。
海岸線に出て平潟プロムナードを進みながら昔の広重などが描いた金沢八景の写真と解説を見せていただきながら金沢八景の今昔をうかがいました。ここでは金沢文庫で購入した絵葉書をお示しします。向かって上の行左から@AB中段左からCDE下段左からFGそして最後の一枚は昔の見晴らし台として知られた能美堂からの八景を見ている図です。
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@洲崎晴嵐(すざきせいらん)は塩田を背景に柳や竹が風に揺れて音をたてている様子。
このアングルは現在の琵琶島を望む様子です。
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A瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)は満月に照らされた野島と料亭や瀬戸橋が見える様子。
同じアングルで、本日最後辺りに見た琵琶島から見た夕映えの風景。
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B小泉夜雨(こずみのやう)は手子神社付近から夜の雨の一本道を見た様子。
C乙艫帰帆(おつとものきはん)は小柴の岬から乙艫海岸に向かって帆を揚げて船が帰ってくる様子。
D称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)は夕暮れの称名寺から聞こえる鐘の音と漁船の上で夕べの祈りをする様子。
これは称名寺の梵鐘。
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E平潟落雁(ひらかたのらくがん)は野島を背景に潮干狩りをする人たちと列になって飛び立った雁の群れ。
F野島夕照(のじまのせきしょう)は野島の漁師村に夕焼けが映えている様子。
平潟橋から見た野島山と夕照橋。
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G内川暮雪(うちかわのぼせつ)は雪の降る切通を過ぎ、内川が六浦の海に流れ込むところまでたどり着いた様子。

野島はほぼ全体が公園になっている感じでした。すぐに「野島の庵体塚(えんたいこう)」が目につきました。
「野島掩体壕」は国内に現存する掩体壕の中では最大規模のもので「太平洋戦争」の終戦直前、1945(昭和20)年の3月から6月にかけて海軍により建設されたとのこと。戦闘機を空襲から守るための防空壕(格納庫)で、他の掩体壕と合わせて小型機100機を格納するため「野島山」の東西を約260mにわたり掘り進められたとのことでした。現在は封鎖されていました。

野島の展望台からは八景島が良く見えました。
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旧伊藤博文金沢別邸。
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初代総理大臣伊藤博文の別邸。1898年(明治31年)建設、茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築。明治初期は金沢の辺りは海浜別荘地として注目されたとのこと。2009年(平成21年)家屋内と庭園も含め現在の形に復元されたとのこと。庭園は牡丹が有名。また庭園からは広々した東京湾が広がっていました。

明治憲法起草の碑。
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1887年(明治20年)伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らがこの辺りにあった料亭{東屋}で草案作りをしたのがこの辺り。その後盗難事故があり最後は伊藤博文別邸でこの作業は行われたようです。

琵琶島神社。
1180年(治承4年)源頼朝が瀬戸神社を創建した時、夫人の北条政子が日頃信仰する竹生島弁財天を勧請したのが始まり。島全体が琵琶の形をしているようです。
ここは金沢四石のひとつ福石がありました。
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この石の前で物を拾うと福を授かるとの伝えがあるようです。

瀬戸神社。
約800年前の鎌倉時代、源頼朝が伊豆三島明神を勧請したのが始まり。
源実朝が使用し、母北条政子が奉納したといわれる「舞楽面二面」がある。
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境内には蛇混柏(じゃびゃくしん、柏槙)が横たわっていました。これは1680年(延宝8年)大風で立枯れた幹をそのまま置いてあるとのことでした。
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この散策は全18回のシリーズです。実は2017年4月に始まり今日が最終回。現在参加希望が多く最大25名で月5回の実施で行われています。本日は24名参加でしたが最初から皆勤の方がいなくて完歩達成者はいなかったです。私も御多分に漏れずあと4回分が残っていますので地道にチャンスがあれば参加して完歩を目指します。
ということで浅井先生、TD吉田さん、来月からの2巡目もよろしくお願いします。
本日のまとめとしてはAm9:30〜PM4:30までに歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。また頑張ります。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2018年11月06日

2018.11.2〜4  第41回スリーデーマーチ

今年もこの一大イベントがはじまりました。
私は7年目の参加です。

1日目(11/2金)和紙の里・武蔵嵐山コース。晴天、日中は20℃、でも陽射しの下を歩きすっかり汗ばみました。
今年は8月から3カ月長距離ウォーキングは控えていたので今日は試運転で5km13000歩を完歩。
こんなに小さな子たちも参加です。
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ゴールの記念写真を初日にとってしまいました。
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2日目(11/3土祝)吉見百穴・森林公園コース。晴、この日も20℃、乾燥しており気持ちよく歩けました。
本日の5kmは実質6kmとのことで今日もこのコースを24000で完歩。
途中でウエディングパレスでのご接待がありました。
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吉見百穴は都会人には珍しかったようです。
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3日目(11/4日)都幾川・千年谷公園コース。曇、時々陽射しあり、今にも泣きだしそうな空模様にもなりましたがどうやら大丈夫でした。
最終日なので仕上げにと思い、10kmコースに挑戦。歩程12km超だったそうで、27000歩を完歩。
松山高校の応援団が応援してくださいました。
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今日は特に参加者が多かったです。
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ゴール後、自分にご褒美で、「富久屋花ス五六(ふくやはなすごろく)」で豆くず餅と珈琲をいただきました。
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参加者は3日間で延8万人越え。印象としては小さな保育園児と高齢者の元気が目立ちました。今年はいつもに比べ外人さんが少なかった印象でした。私も外国の方とは一度もお話しできなかったので残念でした。
まずは今年も元気に参加できたことに感謝!やはり何事にも健康が一番です。
今後も、明るく、楽しく、元気に!!がんばりまーす。
posted by yunofumi at 18:11| あちこちウォーク

2018年10月28日

2018.10.28 ポールウォーキングin 代々木公園

毎日バタバタしていたらいつの間にか10月もほとんど終わり。
ということで日程など調整しやっと、ポールウォーキングに久しぶりに参加しました。
ほぼ3年ぶりの方にもお会いできてラッキー!
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それにしても今年の秋の代々木公園の木々は紅葉というよりは枯れていました!
これって塩害でしょうか。

でも公園内では薔薇が多く見られラッキー。
珍しい色と形の花をパチリ!
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その後久しぶりなので明治神宮へ参拝。
菊花展が開催中で目の保養ができました。
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そして結婚式も見られ、これもほのぼの!お幸せに!!
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ということで久しぶりの13000歩超でしたから自画自賛で明治神宮会館のレストランで昼食。「秋の味覚御膳」を大いに楽しみました。
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またしても馬肥える秋ですからクワバラ、クワバラ!夕食はほぼ抜く覚悟です。
皆さま、また元気にお会いしましょう!!
posted by yunofumi at 20:02| あちこちウォーク

2018年09月17日

2018.9.16 ポールウォーキングin 代々木公園

今日は代々木公園でのMBTウォーキングシューズ使用者のポールウォーキングトレーニングに参加。
毎度月2回開催なのですが今年は酷暑と天候不順で2カ月ぶりの開催でした。
宮重MBTインストラクターの指導で5人が参加しました。
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公園内を軽く周遊後はベルトを使った筋トレです。
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日常使っていない筋肉を目覚めさせるためには時々、必要なのです。
そんなこんなで悲鳴を上げながらも約2時間のトレーニング終了後は定番の明治神宮の鳥居そばにある「Café 杜のテラス」で早めの昼食。
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いつもよりも久しぶりのためおしゃべりも長めとなり、ついつい長居をしました。
これからは秋に向かい、気持ちの良い日々が続くでしょうからまたお会いしましょうと約束して解散。
皆さま、また元気に頑張りましょう。
posted by yunofumi at 17:13| あちこちウォーク

2018年09月10日

2018.9.8 国営昭和記念公園へ

数日前にこの公園で「ケイトウ」が咲き誇っている様子をTVで見ました。
ここは戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地でした。私がはじめて上京して勤務した青梅市立総合病院は立川を起点とした青梅線の河辺という駅にありました。ということで「立川」は東京の手前の街というイメージのままでいました。そして1983年(昭和58年)10月26日、昭和天皇臨席のもとに公園として開園したと聞いてもどうも足が向いていませんでした。
それからウン十年、「ケイトウ」と聞き、「この花って鑑賞するの?」と不思議に思い見に来た次第なのです。
まずはJR西立川下車、西立川ゲートより入場。第一印象は広い!
すぐに水鳥の池があり、またとってもそよ風が気持ち良い!
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本日、私は開門と同時に入場しましたがまあスゴーイ!親子連れ、それも折りたたんだ自転車を持ってきた方が多いのにはびっくり。ちょっとしたブームなのですね。
もみじ橋をわたると「ケイトウ」と「パンパスグラス」が綺麗!
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「ケイトウ」の花がニワトリの鶏冠(とさか)に似ているので子供のころから見慣れていましたがこのように植えられているのははじめてでした。また花は、赤・桃色・黄色など随分いろいろありこれにも驚きました。
「パンパスグラス」はイネ科シロガネヨシ属の多年生植物だとのことです。ススキもイネ科だそうですが全く別物という感じでした。

ずっと見て回っていたら「ホオノキ(朴の木)」には大きな実が沢山ついていました。
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この木の葉はトチノキを思い出させるほど大きかったです。葉は芳香があり、殺菌作用があるため食材を包んで、朴葉寿司、朴葉餅などに使われるとのことです。
ホオノキは実の袋の塊で熟すると中から種子が顔を出すようです。幹はすっくと伸びており曲がりが少ないので下駄の歯、マッチの軸、版木として使われるようです。

途中であまりの広さに一計を案じちょうどやってきたパークトレインのどんぐり号にのって園内を一周。途中でチューリップ号とすれちがいました。
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こもれびの里、日本庭園、みんなの原っぱのオオケヤキ、花木園などまだまだ見たいところはいっぱいありましたが今日は下見に徹してとにかく全体把握ということでめいっぱいパークトレインに乗り続けふれあい広場で下車。百日紅の花やイチョウ並木などなど大いに園内の緑とそよ風を楽しみました。
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それから立川ゲ―トで出て次は「花とみどりの文化センター」そして「昭和天皇記念館」に入場。「昭和天皇記念館」は昭和天皇在位五十周年記念で設置されたとのこと。昭和天皇の生物学研究、昭和天皇と香淳皇后の遺品や写真などがありました。
その後は「花とみどりの文化センター」にあった「花文CAFÉ」でトマトカレーをいただき昼食。
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その後10数分のJR立川駅までウォーキング。
すっかり様変わりした駅前をぶらぶらしました。
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今年の夏がとっても暑かったので8月はまったく戸外のウォーキングをせずジムでの運動ばかりでした。
今日は予報では30℃超とありましたがひとまず足慣らしでお出かけした次第です。
次は来月コスモスを見に来られたら、と思っています。
posted by yunofumi at 21:02| あちこちウォーク

2018年07月09日

2018.7.7 横浜散策 第13回泉区

相鉄いずみ野線いずみ中央駅⇒神奈中泉区総合庁舎前バス停⇒横浜市泉消防団第3分団第3班⇒蚕御霊神塔⇒和泉川あけぼの橋⇒宮澤果樹園⇒長福寺⇒小次郎池⇒泉中央公園⇒石橋⇒桜川公園⇒小林経師店⇒中之宮左馬神社・地神塔⇒関島橋⇒親水公園⇒宝心寺・岩舟地蔵像・旗本能見松平家の墓所⇒ゆめが丘駅入口交差点⇒ゆめが丘駅−いずみ中央駅・サガミ(昼食)-ゆめが丘駅⇒草木橋⇒伊藤造園土木⇒四ツ谷交差点⇒第六天神社⇒鍋屋交差点⇒宝蔵院⇒源流の森保存地区・清水家⇒天王森泉公園・旧清水製糸場本館⇒境川遊水地公園⇒東泉寺⇒琴平神社⇒なむいち⇒大竹屋⇒富士塚公園⇒相鉄いずみ野線ゆめが丘駅

相鉄いずみ野線の路線は神奈川東部方面線計画の一部分を構成する区間で、このうち横浜市西部の区間が1970年代に整備されたのが始まり。1976年(昭和51年に二俣川まで、1990年(平成2年)いずみ中央駅まで開業したようです。かなりの田舎の風景が広がりこれから開発がさらに進みそうです。

泉区和泉町に「蚕御霊神塔」がありました。長後街道からほんの少し入った神明社の横に庚申塚があり、そこに大山道と二本指で方向を示した手の線画が刻まれた道標を兼ねた蚕御霊神塔(明治11年(1878年)銘)や隣には右大山道、左藤沢と刻まされた道標を兼ねた庚申塔(万延元年(1860年)銘)、庚申供養塔(文化5年(1808年)銘)や2体のお地蔵さん、石祠が立っていました。長後街道は明治中期に整備されたのです。神明社があるこの細い通りは旧大山街道だそうです。鎌倉郡に位置した泉区内には、かまくらみちや大山街道が通っているのです。慶応2年(1866年)3月に霜害のために桑が枯れてしまい蚕を育てられず、蚕を地中に埋めてしまったことから1878年(明治11年)になって蚕御霊神塔を建立し蚕の慰霊を行ったのです。養蚕は明治、大正になると盛んになり、横浜港から生糸として輸出され財を蓄えた一人が原三渓で、横浜に残る三渓園がそれを示しているのです。
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和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流として、瀬谷区・泉区をとおり、戸塚区で境川に合流しています。本日は天王森泉公園までこの川に沿ってウォーキングした後、境川遊水地公園で境川との分岐まで見られるとのことです。

宮澤果樹園は和泉川の対岸にあるモチノキの生け垣が立派な果樹園で、春はタケノコ、梅。夏はブドウ、そして、秋は柿を販売しているとのことでした。
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長福寺(ちょうふくじ)は臨済宗で、円覚寺末で本尊は釈迦牟尼仏で泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)が道場として創建したということでっす。泉小次郎は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して北条氏を打倒しようとしたこところこれが失敗し逃亡したと伝わっています。
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隣の須賀神社は小次郎が鎮守神として祀った神社といわれています。

泉中央公園には、「泉小次郎馬洗いの池」がありました。池は一年中湧水が枯れたことがなく、昔からかんばつが続くと土地の人々が集まり、池の水を汲み干して雨乞いの願いをかけてきたとのことです。
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この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年造立の五輪塔があり、池のほとりには数基の板碑もあったとのことでこれらの板碑は、公園開設の工事の時に発見された板碑とともに長福寺に保存されているようです。

和泉川左岸の低い丘陵の先端、長福寺の一帯に、城址といわれている所がある。遺構は、南北400m、東西200mに及ぶもので、東側と南側には、約4〜5mの空堀と、基底が3m、高さが1mの土塁がありました。
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中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ)の祭神は左馬頭源満仲・天照皇大神(さまのかみみなもとのみつなか・あまてらすおおみかみ)で、中和泉地域の鎮守様です。和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で、源家隆盛の頃の勧請ということです。1625年(寛永2年)、和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉が、この神社を村の鎮守として再興し、能見松平家(のみまつだいらけ)の累代の祈願所としたのです。
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本殿は総けやき造り。境内には木食観正碑・庚申塔・西南の役の忠魂碑・地神塔などがあります。
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泉区内の地神塔(じじんとう)は文字塔が多く、「地神塔」と刻まれたものや、地神が仏教と結びついて十二天の一神、地天の別称である「堅牢地神」と刻まれたものもあるとのことでした。
農業などの生産活動の守護を願う「田の神」信仰でその年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀るような行事で昔から地神信仰が盛んに行われたことがわかるようです。

親水公園。
和泉川の旧河川敷を利用した親水広場です。 淵、中洲、蛇行など、自然河川の原型を復元した親水性の高い施設でており、川には、水鳥が多く見られるとのことです。
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手造り郷土賞の記念の石碑がありました。

宝心寺(ほうしんじ)は和泉山松雪院と号し、本尊は阿弥陀仏。もとは泉小次郎親衡が菩提寺として建立した泉龍寺といわれており実は子孫が絶え荒廃していたのを、1651年(慶安4年)に領主の松平勝左衛門昌吉が浄土宗の寺として建立し、宝心寺としたとのことです。境内には
和泉廻化地蔵尊と岩舟地蔵尊や庚申塔があり、参道入口には車塔が建っていました。
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宝心寺の参道入口に立つ石柱は台座階段部分含めた総高4m以上、先のほうに車輪のような石の輪がついていました。どうやら高尾山でも見かける輪蔵のようで1回まわすとご利益があるようです。
側面に歌が刻まれており資料の解説をうかがいました。
『昨日みし人はと問えば今日は無し 明日は我が身も人に問われん』
『末遠く思ふうちにぞ近くなる 身のたねまきよ日の暮れぬ間に』
十八世住職の頃、明治四年に約60名の寄付者によって建立。

奥の墓所には旗本能見松平家のお墓が沢山ありました。
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第六天神社は通称下和泉上分の鎮守さま。鳥居前の水田が開発される前は、和泉川沿いから眺めると、白い御影石の鳥居が背景の緑の森に映えて、古鎌倉道のたたずまいとともに美しかったとのことです。ご祭神は社名の示すように天神第六代の「面足能命(おもたるのみこと)、惶根能命(かしこねのみこと)」の二柱とのこと。
この神社の東側に酒湧地または弁天地と呼ばれる泉があり、島の中に小祠が祀られているとのことでした。

真言宗大覚寺派寺院の宝蔵院は、東峰山といいます。本日は本殿と客殿の工事中でした。宝蔵院は、阿闍梨朝興法印が1547年(天文16年)に創建、東之峯光円寺と号していうことです。寛永年間に朝栄が本堂を大日山附近より吉田町に移し、東峯山金剛寺宝蔵院と改号、幾度かの移転を経て当地には昭和18年に移転したとのことです。
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板碑(いたび)は、石で作った供養塔といわれる石塔婆(せきとうば)の一種で、死者の冥福を祈りまた生前の逆修(生前にあらかじめ自分のために死後の冥福を祈ること)の供養塔だそうです。この板碑はとても古そうでした。

源流の森保存地区は、緑豊かな都市景観を形成し、市民生活に潤いと安らぎを与えているとともに、保水・治水機能の保全と河川の水量の確保に寄与している郊外部の良好な樹林地について、土地所有者の方が協力して樹林地の保存がなされている所です。 ここは旧清水製糸場があったそうです。

天王森泉公園(てんのうもりいずみこうえん)。
和泉川沿いに広がる水田と斜面の緑地が昔懐かしい農村の風景でした。この台地は豊富な湧水があったことから流域には20以上の製糸場あったそうです。この辺りの一角の約35000uのこの公園があるのです。
正面入り口に移築した旧清水製糸場本館がありました。広々としてとても立派でした。
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本館裏には湧水の森(ゆうすいのもり)がありました。
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木々の間ではリスが遊んでいました。

境川遊水地公園は泉区・戸塚区・藤沢市に接しており境川の洪水被害を軽減させるための遊水地を平時は公園として利用しているところです。
野球・テニスなどのスポーツの場所が見られました。
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また様々な生物や水辺の風景も楽しめるビオトープもありました。ちょうどサギが見えました。
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境川の新遊水地橋の下ではアユの遡上が見られ大感激でした。
園内情報センターは遊水地の管理すするとともに境川の自然や遊水地の仕組みや役割を見ることができました。

東泉寺は境川の反乱にあったことから1590年(天正18年)、領主旗本筧為春によりこの地に移転してきたようです。相模の国準四国八十八カ所五十九番目札所で弘法大師石像があるそうです。
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琴平神社のすぐ傍に珍しい男女の双体道祖神がありました。
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富士塚公園に富士塚城址の大きな石碑がありました。この辺りは源頼朝の危機を救った飯田五郎家義の館があった所とのことでした。明治の頃にはこの辺りで五輪塔や納骨瓶などの出土品があったそうです。
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相鉄いずみ野線ゆめが丘駅は島式ホーム1面2線を有する高架駅。斬新な造りの駅で、駅全体をカーブした鉄骨で囲み、鉄骨の間に屋根や風除けの板をはめ込んだ形状となっている。この板は透明なアクリル製。少し古くなってきたようでアクリル板の劣化が進んでいるのか視界は悪くなっていました。2000年(平成12年)には 関東の駅百選に選出されたとのことです。

本日は9:30集合、16:30解散で少し長かった。どうやら食事場所がなく途中で電車で移動もあったからと後で気づきました。私は自宅からいずみ中央駅まで2時間越えでしたからちょっと大変だったのです。それでも雨の合間の曇り空ながら気温29℃、やや風があり誠に気持ちの良く、歩程約10km、20000歩はあまり疲れもないウォーキングができました。やはり自然が多くみられるコースは気持ちが良いのです。次回は9月ですからまた楽しみに待つことにいたします。

本日は曇り、気温29℃、やや風がありウォーキングがとても気持ちよくできました。参加者25名は講師浅井先生、TD関さんのお世話でAm9:30〜PM4:30までと少し長かったのですがこれは昼食のためゆめが丘駅といずみ中央駅を往復したため。ということで歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。まだまだこのシリーズは続きます。頑張ります。
posted by yunofumi at 23:22| あちこちウォーク

2018年06月22日

2018.6.17 横浜散策 第12回戸塚区

JR戸塚駅⇒オーロラシティ⇒福寿歩道橋⇒福寿観音⇒柴田農園⇒旧東海道・品濃坂上⇒品濃坂歩道橋⇒品濃坂・品濃町⇒楓の風⇒東戸塚駅入口交差点⇒旧東海道・海道橋⇒旧東海道・赤関橋・川上川⇒上柏尾交差点⇒柏尾歩道橋⇒瑞穂神社⇒柏尾バス停⇒柏尾小学校入口交差点⇒王子神社⇒四つ杭跡⇒護良親王首洗井戸⇒戸塚警察署不動坂交番⇒益田家のモチの木⇒大山前不動・柏尾の大山道道標⇒史跡への小径⇒斉藤ハム製造本舗⇒舞岡川・元舞橋⇒舞岡町入口バス停⇒舞岡入口交差点⇒五太夫橋⇒宝蔵院会館⇒江戸方見附跡⇒読売新聞戸塚東部⇒妙秀寺⇒旧東海道・吉田一里塚跡⇒森永牛乳店⇒吉田大橋⇒横浜矢部郵便局⇒伊東医院⇒戸塚駅・TOTSUKANA漁師料理海ぶね⇒戸塚大踏切デッキ⇒南向山清源院・芭蕉の句碑⇒SACLASS⇒バスセンター前交差点⇒大和証券戸塚支店⇒内田本陣跡⇒戸塚郵便局⇒問屋場跡⇒澤邊本陣跡・羽黒神社⇒戸塚消防署⇒消防署前バス停⇒歯科佐藤⇒保田動物病院⇒日立入口バス停⇒八坂神社⇒かまくら道道標⇒八坂神社前交差点⇒冨塚八幡宮・冨塚天満宮⇒上方見付跡⇒大坂下バス停⇒日立入口バス停⇒柏尾川桜並木道・桜橋⇒豊塚堰⇒JR戸塚駅

福寿観音
JR東戸塚駅からすぐの福寿歩道橋そばにありました。建立した願主は福原政二郎氏。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い、土地造成を担当した新一開発の社長さん。昭和38年(1963年)以来、この東戸塚の開発の旗振りをやってきた人で信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したとのことでした。
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品濃坂(しなのざか)には環状2号線の上を跨いでいる“品濃坂歩道橋”の西端に 高さ1m弱の小さな祠のような家型の標識がありました。
坂名の由来は不明とのこと。戸塚区平戸の台地から 急坂を下る 古い歴史のある坂道で、現在は 坂の途中が環状2号線によって分断されてしまい,東西が「品濃坂歩道橋」でかろうじてつながっているだけなので,これらが もともと つながった一つの坂だという知識がないとわかりにくい感じでした。
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品濃坂を下り旧東海道に沿って歩くと柏尾川沿いに海道橋、赤関橋を通過、柏尾小学校を通過して王子神社に到着。
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王子神社は後醍醐天皇の第一皇子護良親王(もりながしんのう)が祭られているようです。侍者が、護良親王の御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、密かに現本殿の位置に埋葬したと伝えられています。四抗とは、御首を洗う為の四本杭の簀の子のことで、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛ともいうようです。また、首を一時隠し奉った所を「御墓」といい、老松がありました。
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近くに親王の御首を洗い清めた井戸とされる「首洗(くびあらい)井戸」がありました。
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益田家のモチの木は通称「相模モチ」といわれ、不動坂交差点北東側の旧「益田家」の敷地内に樹立、2本の雄株が寄り添うようにそびえ、片方は高さ18m・根回り3.1m、もう片方は高さ19m・根回り4.9mあったそうです。樹齢約300年と推定され、江戸時代以来、東海道沿いにその威容を誇ってきた歴史的価値のある樹木として、1981年(昭和56年)に神奈川県指定天然記念物となったのでした。ところが2017年2月に倒木の危険があると切って今の状態になったそうです。いやはや歴史を知らないと大変なことになるのですね。びっくりしました。
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大山不動尊・柏尾の大山道道標。
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大山には大山阿夫利神社と追分不動尊が祀られていて、江戸時代からよく信仰されているとのこと。参拝者は旧東海道から大山街道を利用して伊勢原に入り大山産廃に向かうのでした。この大山街道の入り口がこの柏尾にあることから追分不動尊が建立されたようです。

斉藤ハム製造本舗の隣は鎌倉ハムの倉庫で日本人によるハム製造発祥の地。この倉庫は今でも持主が貯蔵庫として使用しているようです。
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ブリジストン工場前の国道(東海道)には五太夫橋」が舞岡川に架かっていました。
橋にはプレートがあり、以下のように書かれていました。
「石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏 の家臣で豊臣秀吉 の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正一八(一五九〇)年江戸に入る徳川家康 をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓があります。」

江戸方見附跡。
以前東海道五十三次でこの地を訪れた時はイオンだった所が工事の塀で囲われ江戸方見附跡の碑は窮屈そうでした。見附は宿場町の出入り口で、戸塚宿の入口を示しています。
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妙秀寺は日蓮宗のお寺で身立山妙秀寺。鎌倉の小町にある妙厳山本覚寺の末寺で、題目である「南無妙法蓮華経」の弘道の拠点として延文元年(1356年)に創建されたとのこと。開基は豊島氏一門の妙秀禅尼、開山は身立院日修(しんしゅういんにっしゅう)聖人。ご本尊は宗祖・日蓮大聖人折伏像で、寄木造りで玉眼彩色された高さが34.2cmの像。
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境内には2つに折れたものを繋いだ「(かま)くらみち」道標がありました。上部は剥離して字が読めないけれど、歌川広重作の浮世絵「東海道五拾三次」の「戸塚宿」に描かれた「左かまくら道」道標とする説や大正時代に大橋の袂にあった2つに折れた道標を移設した等の伝承があるようです。しかし、裏面に「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の題目が彫られていることからこの道標は妙秀寺から真っ直ぐ行った柏尾川の土手の寺側あたりにあった鎌倉道道標ではないかとうかがいました。
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旧東海道・吉田一里塚跡。
吉田の一里塚は明治に入り早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40km。昔は、40kmは一日で歩く距離、したがってこの辺りで旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所だったのです。今は案内板だけでした。

吉田大橋。
正式名称は「大橋(おおはし)」。
江戸時代の浮世絵にも描かれている歴史ある橋ですが、現在の橋は昭和61年に架け替えられた橋です。
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この辺りの路面にはこの広重を元にしたマンホールがありました。
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南向山清源院。
浄土宗寺院の清源院は、南向山長林寺と号し、かつて安達藤九郎盛長の一族長林某が創建した獅子王山林長寺があったこの地に清源院尼が元和元年(1615)に開基、小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建したといわれています。
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芭蕉の句碑、心中句碑、徳川家康の側室の於萬の方(清源院殿)の火葬跡もありました。
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内田本陣跡。
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本陣は、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があったのです。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったということです。

問屋場跡。
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戸塚宿には大小あわせて75の旅籠(はたご)、本陣が2軒、脇本陣3軒がありました。そしてこの辺りが宿の手配等を行う問屋場だったようです。どうやらこの通りを挟んで斜め前の大きなビルの辺りとのことでした。

澤邊本陣跡。
澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つ。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者で明治天皇の東下の際には行在所になったようです。
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敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社がありました。1556年(弘治2年)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
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戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建したとのことです。その後1688年(元禄3年)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたといいます。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたといいます。
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お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったということです。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されているのです。

八坂神社前の交差点を渡った所にかまくら道道標がありました。
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冨塚八幡宮・冨塚天満宮
富塚八幡宮は社殿後方の山上には富属彦命の鎮堂を奉った富塚が、境内には松尾芭蕉の句碑があります。戸塚の地名は、この「富塚八幡宮」の「富塚」からきていると言われているようすで戸塚の氏神様として市民の信仰を集めているのです。
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拝殿・本殿に向かい右手前側に裏山へ上る山道をたどると「富塚の碑」という石碑があるとのことでした。「富塚」は戸塚区内に現存する唯一の前方後円墳なのです。
学問の神様でもある、天満宮の社殿が神社社殿の脇に建っており、合格祈願に訪れる人も多いとのことです。さらにその横には庚申塔が沢山ありました。
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上方見付跡。
東海道の各宿場の出入口には見付がおかれ、ここで大名行列などを出迎えました。ここは戸塚宿の京都の方で上方見付なのです。モニュメントが作られていました。
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柏尾川桜並木道。
柏尾川は、戸塚区柏尾町の阿久和川と平戸永谷川の合流点から藤沢市の境川合流点までの延長約11kmの二級河川。流域面積は約84km2、横浜市内では2番目の大きさ。この川は、昔は暴れ川と呼ばれ、たびたび洪水を繰り返していたのです。その治水対策として本格的な河川改修が行われたのは昭和55年からで、流域での1時間あたりの降雨量50mmに対応する整備が進められてきました。 また、上流側のブリヂストンに隣接する柏尾橋から栄区飯島橋までの区間には、河川管理用通路を活用した緑豊かな親水空間であるプロムナードもあるとのことです。堤防や高水敷を利用した広場やイベントステージ等があり、水辺でのレクリェーションを楽しむことができる憩いの空間なのです。柏尾川の桜の歴史は古く、安政年間からで、大正〜昭和初期には、戸塚駅から大船までの両岸に見事な桜のトンネルができ、関東屈指の桜の名所として知られるようになりました。その後、戦争や改修による伐採と新たな植樹を繰り返し現在に至っているのです。 現在、区内の柏尾川プロムナードに現存する桜は約700本で、その約8割がソメイヨシノ。その他には、オオシマザクラ、ヤマザクラなど9品種が確認できているとのことでした。
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戸塚区は自治体の取り組みが良く、あちらこちら見るところはほとんど案内があり、感心しました。しかし昔の風情がほとんど残っていない場合が多く、これは少し残念に思われました。
本日は曇り、気温22℃、風はほとんどなく、ウォーキングにはまずまずの日和。参加者22名は講師浅井先生、TD関さんのお世話でAm10:00〜PM4:00までに歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。まだまだこのシリーズは続きます。頑張ります。
posted by yunofumi at 22:33| あちこちウォーク

2018年06月16日

2018.6.10. 山手線歴史探訪ウォーク 第10回

新橋駅〜東京駅
JR新橋駅烏森口改札⇒新橋駅D51機関車の動輪・鉄道唱歌の碑⇒スペースFS汐留⇒汐留シティセンター⇒旧新橋駅停車場・鉄道歴史展示室⇒ゆりかもめ新橋駅⇒汐留駅⇒はまかぜの階段⇒旧浜離宮恩賜庭園⇒ベルサール汐留⇒銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機⇒銀座郵便局・検査業務開始の地⇒中銀カプセルタワーホテル⇒建築の礎石(汐留遺跡)⇒昭和通り銀座歩道⇒銀座三井ビルディング⇒とらや⇒ライオン⇒交詢社通り⇒スズラン通り⇒銀座千疋屋⇒COACH⇒TOKYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒泰明小学校・銀座の柳2世⇒山下橋跡⇒山下橋架道橋⇒帝国ホテル⇒鹿鳴館跡⇒日比谷公園・馬の水のみ・大岡越前守忠相屋敷跡⇒検察庁⇒法曹会館⇒皇居坂下門⇒桜田門⇒汐見坂⇒二の丸庭園⇒平川門⇒将門塚⇒GUERANICA⇒JR東京駅

JR新橋駅烏森口改札。
古くからの商店街や中小様々な雑居ビルが混在する、ビジネスマンの歓楽街、それに烏森神社が傍にあるのでこの改札名になったようです。

新橋駅D51機関車の動輪。
JR新橋駅の汐留口を出て左側、ゆりかもめ新橋駅の入り口の正面にあるモニュメント。またすぐ隣には鉄道唱歌の碑がありました。
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2018(平成30)年は、日本の元号が「明治」と改められて満150 年の節目の年にあたります。 幕末期に日本が開国へと動き始めた頃、日本にもたらされたのが蒸気機関車です。1869年(明治2年)、明治政府は鉄道建設を決定しましたが、技術も物資も資金もなかったため、外国人を招聘し、その指導のもとに鉄道建設を開始。1872年(明治5年)に日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業したのです。
今発掘された旧新橋停車場駅舎やプラットホームの石積み、基礎の構造が鉄道歴史展示室の裏で見られます。
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旧浜離宮恩賜庭園。
元々は江戸幕府の老中だった大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで回遊式庭園。その後宮内庁管理の離宮を経て1924年(大正13年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として現在公開されています。
藤棚、雪見灯籠、、州浜、、枯滝 、石柱、西湖堤、大島、中島 、浮島、大山、根府川山、唐津山、三百年の松など見るところが沢山ありました。
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銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機。
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この信号機は、昭和6年から昭和62年までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されたものとのことです。現在は汐留駅の廃止で、引込線も撤去されていますが、この踏切だけ残っていて、少し不思議な光景でした。

銀座郵便局の前に「検査業務開始の地」石碑がありました。ここには電信用機材である硝子の検査を行った「硝子試験所」があったそうです。
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中銀カプセルタワービル(なかぎんカプセルタワービル)とは、黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)。1972年(昭和47年)竣工。黒川紀章の初期の代表作。それぞれの部屋の独立性が著しく高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっているようですが、実際には一部のカプセルのみを交換することが困難であることから、現在に至るまで一度も交換されていないとのこと。鳥の巣箱を積み重ねたような特異な外観は、ユニット製のマンションであることの機能をダイレクトに表現し、そのメタボリズムの設計思想を明確に表現したデザイン性は高く評価されているとのこと。また、ビジネスマンのセカンドハウス・オフィスとして想定されたその内装は、ベッド、エアコン、冷蔵庫、テレビ、収納などが作りつけで完備されており、洗濯機などの日用品は配されているのでした。2006年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれています。現在、老朽化のため取り壊し・建て替えなどの提案があるようです。
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建築の礎石(汐留遺跡)。
浜離宮庭園から築地の方向に歩いた歩道橋の下にありました。説明板によると仙台藩伊達家上屋敷の土台として使われていた礎石だとのことです。

ウォーキング途中で交詢社通りに出ました。
交詢社は1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブのこと。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案。1880年に青松寺(東京芝区愛宕下)で発足。その後大正元年に財団法人化されて正式名称は財団法人交詢社。現在も一般財団として存在しているとのことです。

数寄屋橋公園は2016年にオープンした東急プラザ銀座と合わせてリニューアルされ綺麗になっています。ここは江戸時代、江戸城に初めて架けられた数寄屋橋があった所で石碑もあります。また岡本太郎作の「若い時計台」も見られます。
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泰明小学校は東京都中央区銀座の小学校。
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1878年(明治11年) 東京府立泰明小学として創立。校舎は、1923年の関東大震災の教訓から、通常の壁厚が15cm程度であるのに対し22cmを有する堅牢なつくりとし、第二次世界大戦の東京大空襲の爆撃にも耐えて現在に至っています。外観は、ツタの絡まる校舎の外壁や、連なる3階の半円形の窓、円形に張り出した講堂、緑を伴うアーチ型の開口を有する塀、“フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有しています。
島崎藤村、朝丘雪路や近衛文麿など卒業生には著名人が多いとのことです。

帝国ホテル。
1883年現在のホテルの続きで鹿鳴館が完成。1887年当ホテル設立が決まり1890年に帝国ホテルとして開業。建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層で室料は最下等50銭、2食付き2円50銭09円だったとのことです。今日はこの街歩きシリーズの最終回のため帝国ホテル内なだ万で点心のランチでした。
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日比谷通りを挟み日比谷公園の向かのNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の左の塀に、「鹿鳴館跡」のプレートがあります。鹿鳴館はイギリス人ジョサイア・コンドルが設計したレンガ造り二階建ての洋風建築で、1883年(明治16年)年落成。1894年(明治27年)華族会館に払い下げられ、1927年(昭和2年)には 現在の大和生命保険に売却, 1940年(昭和15年)に解体されたのです。プレートには以下の要に記されていました。
「鹿鳴館跡   ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった.その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった  千代田区」
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日比谷公園は霞が関、有楽町などと隣接し都心部にある都立公園。公園面積は161,636.66u。 後楽園球場や東京ドームと並んで、広さを誇っています。江戸城日比谷御門のすぐ外にあり、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれたところでもあります。中にはいるとすぐに「馬の水のみ」がありました。
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東京メトロ丸の内線霞が関駅近く、弁護士会館の角に大岡越前守忠相屋敷跡の案内がありました。時代劇で有名な大岡越前は実在の人物です。彼は徳川8代将軍吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めました。そしてこの当地が町奉行の大岡家の上屋敷跡が弁護士会館というのも面白いですね。
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桜田門(さくらだもん)は、江戸城の内堀に造られた門。1860年(安政7年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きたことはよく知られています。

汐見坂は江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名の由来とのこと。往時には坂の上には、汐見坂門があったようです。また坂の横には白鳥濠があって、防御が堅いことがわかります。

江戸城二の丸は本丸の東側にあり、3代将軍家光の命で1630年(寛永7年)に小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成。家光と秀忠との茶会が催されたとのことです。2代将軍・徳川秀忠が死去した後の1636年(寛永13年)には二の丸御殿が建てられ東側に庭園を配置したのです。現存する庭園は当時の庭園を昭和43年に復元したものだということでした。コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、赤坂御用地の池から移したアサザ、菖蒲田には昭和41年に明治神宮神苑から株を譲り受けた84品種の花菖蒲と季節ごとに色々な花が見られます。
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平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)は、平将門の首を祀っている塚。伝承では、将門の首は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されていたのが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたといわれています。伝承地は数か所もあるようで、いずれも平将門の首塚とされているとのことでした。その中でも最も有名なのが、この大手町1丁目、三井物産本社ビル傍にある首塚。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったようですがこれは、古墳であったともいわれているようです。

東京駅丸の内北口、丸の内オアゾ1階の○○(オオ)広場にピカソの「ゲルニカ」複製陶板壁画がありました。
GUERANICA(ゲルニカ、Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画です。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としているとのことです。20世紀を象徴する絵画であるといわれています。今では反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられたのです。 ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われているようです。

本日はこのコースの最終回。とはいえ、このコースでは初めての雨降り。それも一時はかなりの風雨でカッパの中は汗でぐっちょり。久しぶりでした。気温22℃もここ数日にしては低め。また講師井上先生、TD阿部さんの添乗は初回と同様でご縁を感じました。今日も歩程10km、22000歩を達成。帝国ホテルでの御馳走の後、完歩式がありました。参加者26名中完歩は24名。私は10回中2回がまだ穴あき状態なので残念ながらシリーズ終了とはいきませんでした。後日の催行を待ち、完歩を目指すことにいたします。
posted by yunofumi at 22:30| あちこちウォーク

2018年06月07日

2018.6.2. 東京新発見旅第21回 練馬区

大江戸線光が丘駅⇒光が丘東大通り⇒光が丘消防署前交差点⇒田柄5丁目バス停⇒北野八幡宮神社⇒光が丘美術館⇒光が丘警察署前⇒光が丘郵便局⇒光が丘公園・花とみどりの相談所⇒一橋セミナー⇒高松4丁目交差点⇒高松地区区民館入口交差点⇒高松小学校⇒御嶽神社⇒高松ゴルフセンター⇒谷原1丁目交差点⇒練馬青果市場⇒神新田橋⇒こぶし橋⇒谷原三之橋⇒練馬区医師会医療健診センター⇒高野台1丁目交差点⇒氷川神社⇒長命寺⇒順天堂練馬病院⇒長光寺橋公園⇒石神井川・和田前歩道橋⇒葵寿司(昼食)⇒南田中団地西交差点⇒都立石神井公園⇒稲荷諏訪合神社⇒池渕史跡公園・ふるさと文化館⇒石神井氷川神社⇒石神井城の中心郭跡⇒三宝寺池沼沢植物群落⇒パークロード⇒石神井公園駅入口交差点⇒西武池袋線石神井公園駅

大江戸線光が丘駅
大江戸線は1991年(平成3年)に都営12号線の駅として開業。2000年(平成12年)に今の大江戸線と改称したとのこと。この駅は光が丘団地のほぼ中心軸で、駅周辺には大規模な商業施設(光が丘IMA)がありました。光が丘団地内に多くの公園がありました。2017年(平成29年)現在、光が丘1〜7丁目には約13000世帯、約30000人が暮らして居るとのことでした。
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北野八幡宮神社は、練馬区田柄にありました。創立年代不詳とのことながら、康平年間(1058-1065)に創祀したと伺いました。上田柄の氏神として地元の崇敬を集め、田柄の北野八幡さまと一般的にはいわれているようです。
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光が丘美術館。
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都営大江戸線光が丘駅から徒歩で5分のところにありました。ここは日本画や陶芸、版画など、日本芸術と伝統が融けあった美術館とうたっています。平成5年に開館した私設の静かな佇まいの美術館。森田りえ子、中野嘉之をはじめとした、新進気鋭の作家の作品や、人間国宝の田村耕一の陶芸、井上員男の全長76mに及ぶ版画の大作「平家物語」など、大変バラエティに富んだ作品を楽しむことができました。
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また、伺ったところではウィーン・ベーゼンドルファー社製の特別ピアノを使用したコンサートを、月1回程度開催。また美術鑑賞の後には、敷地内に緑が美しい空間に古民家のおしゃれな蕎麦屋が併設されており、美しい景色の中ランチが楽しめるとのことでした。

光が丘団地の周囲には、春の風公園・四季の香公園・夏の雲公園・秋の陽公園の4つの大きな公園がそれぞれ特徴を持たせて作られています。
四季の香公園は約42,100uの公園。園内には、四季折々の花があふれていました。公園の中心に「区立 花とみどりの相談所」があり、盆栽などの展示や植物の情報が見受けられました。
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春の風公園は自然豊かで多くの樹木があります。特に桜の木は多く、春のお花見スポットとしても有名とのことです。人工的な川や雨水を水源とするかえる池にはさまざまな水生植物が植えられ、鯉・亀・カルガモなどが暮らしています。
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光が丘公園は、光が丘、旭町、板橋区赤塚新町にある都立の都市公園(総合公園)。
光が丘団地に隣接する練馬区最大の公園。ここは、戦前には特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場および神田區武蔵健兒學園(花岡学院)があったとのこと。戦後は米軍グラントハイツとして利用されたとのことでした。

高松御嶽神社は江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたと伝えられており1878年(明治11年)当地に遷ったとのことです。ご祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したもの。新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、1781年あたり(天明の頃)ということです。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは山行者たちのようです。むかし、ここから約150m北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺があり、明治初年廃寺となたため墓地は愛染院に合併、ご本尊の薬師如来はその時この地に移されたのです。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものだそうです。
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鳥居脇の石仁王二体は1706年(宝永3年)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄逢したもの。背面に半歳の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていたのです。
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練馬青果市場は、昭和21年6月に、東京都中央卸売市場淀橋分場の練馬配給所として業務を開始、その後いろいろ形を変えながら平成17年には卸売事業部門を分割統合して、新会社東京新宿べジフル(株)となっているとのことでした。

石神井川遊歩道。
石神井川は流路延長25kmほどの、荒川水系の一級河川。小平市が源流域で、西東京市、練馬区、板橋区、北区と、東京都北部を東へと流れ、北区で隅田川へと注ぐ。この石神井川の、板橋区中板橋辺りから東へ、北区滝野川へ至る区間の河岸は桜の並木になっており、春には見事な景観を見せてくれるのです。今日はもう花はありませんでしたが散策をしました。
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氷川神社は江戸時代初期の創建とのこと。傍にある長命寺は元々はこちらの別当だったようです。
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長命寺(ちょうめいじ)は、高野台にある真言宗豊山派の寺院。山号は東高野山。江戸時代から「東の高野山」として関東地方でも有数の霊場として広く人々から信仰を得ていたようです。
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南大門はこの寺の山門で四天王像が安置されていました。
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順天堂練馬病院。
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練馬区は23特別区の中では5番目に広く、人口は第2位。そして人口10万人あたりの一般・療養病床数は23区内で最低。昭和61年11月に地域医療振興協会練馬光が丘病院)が開設したがそれでも病床数の不足は解消しなかったようです。順天堂が2005年に開院、それでも病床数不足。現在この病院は400床の病院とのことでした。

都立石神井公園。
三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で、園内は起伏に富み、武蔵野の自然がよく残っていました。木々に囲まれ静寂な趣の三宝寺池と、ボートで賑わう石神井池のほかに、石神井城跡とこれに関する幾つかの遺跡がありました。20万uの広さがあり十二分に緑を満喫できる公園です。
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茅葺の旧内田家
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ふるさと文化館
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池渕史跡公園石神井氷川神社は石神井の郷の総鎮守社。
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現在の町名では、石神井台から石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む全域の鎮守(守り神)。今日、一般には「石神井のお氷川さま」と呼ばれているとのこと。神社の創建は、古く室町時代にさかのぼり、室町時代の応永年間(1394-1428)に、このあたりに勢力の大きかった豊嶋氏がこの地を護る石神井城の中に、城の守護神として祀ったのが創まり。武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのです。石神井城落城後も氷川神社に対する村民の尊崇は篤く、鎮守の神として仰がれて現在に至っているのです。 社殿は本殿・拝殿ともに流れ造りです。社殿に向かい右手にある神楽殿は、昭和12年の建立。

石神井城の中心郭跡。
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石神井城は鎌倉後期に秩父平氏の豊島氏とされている。三宝寺池からの水の支配のために、この地に建てたとされているのです。 武蔵関公園から流れる石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状(せんじょう)台地上に位置しています。
この石神井城は文明9年(1477)の4月、扇谷上杉家宰、太田道灌によって落城し、廃城となっています。

三宝寺池沼沢植物群落。
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今日も27℃、晴れ渡った青空の元、参加者5名は信野講師、小玉TDの付き添いで気持ちよくウォーキングしました。歩程10km、約2万歩でしたが練馬区、それも石神井の公園巡りという感じのウォーキングで都心とはいえ、緑の中を十二分に歩き回り気持ちよく終了でした。
今回で東京23区中、21区終了。後は都合で参加できなかった北区と大田区を残すのみです。
この東京新発見旅23区めぐりはこれで3巡目だそうです。まだ不参加の所は何時催行なのかわかっておりませんが気長にチャンスを待つことにいたします。とにかくこれで一段落。ヤレヤレと思いつつ面白いシリーズでした。
posted by yunofumi at 22:46| あちこちウォーク

2018年05月26日

2018.5.19. 山手線歴史探訪ウォーク 第9回

品川駅〜新橋駅
JR品川駅・品川駅創業記念碑⇒高輪交番⇒ザプリンスタワー東京⇒港区立高輪公園⇒東禅寺⇒洞坂⇒桂坂⇒高野山東京別院⇒高輪消防署二本榎出張所⇒承教寺⇒東海大学⇒虎屋⇒都営高輪一丁目アパート⇒細川家下屋敷跡・大石切腹の庭⇒保安寺⇒高輪中学校・高校⇒泉岳寺・赤穂浪士記念館⇒泉岳寺駅⇒高輪大木戸跡⇒東京トヨタ本社ビル⇒高輪郵便局⇒笹川記念会館⇒御田八幡神社⇒都営御田駅⇒田町西口交差点⇒江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地⇒港区勤労福祉会館⇒三田眼科⇒慶応仲通り商店街⇒水野監物邸跡⇒茶の木稲荷⇒三田中国飯店⇒春日神社⇒慶大東門前交差点⇒慶応大学⇒綱坂⇒三井倶楽部⇒綱の手引坂⇒伏見寶稲荷神社⇒赤羽橋⇒ザプリンスパークタワー東京⇒伊能忠敬測地遺功表⇒芝東照宮⇒芝公園⇒旧台徳院霊廟惣門⇒三解脱門⇒増上寺⇒御成門⇒青松寺⇒愛宕神社⇒愛宕山下バス停留所⇒浅野内匠頭終焉の地碑・新橋4丁目⇒新正堂・切腹最中⇒新橋4丁目交差点⇒JR新橋駅

JR 品川駅東口の駅前ロータリーに品川駅創業記念碑があります。
日本最初の商用の鉄道は, 明治5年に 品川(汐留)〜横浜(桜木町) 間に開通したとされていますが、 実は 正式開業の半年ほど前に 品川〜横浜 間で仮開業しています。 つまり, 品川駅は 日本で最初の鉄道駅なのです。
碑文の表面には品川駅創業記念碑 明治五年五月七日品川横浜間鉄道開通。
裏面には 鉄道列車出発時刻及賃金表 定 明治五年五月七日、賃金表  車ノ等級上等片道壹円五拾銭、中等同壹円、下等同五拾銭。
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現在の 品川駅のある場所は 実は港区で, 品川区ではないとのことです。鉄道建設当時, 品川駅は 本来の“品川”である東海道品川宿地区に置かれる計画でしたが, 「鉄道駅ができると 宿場がすたれる」という危機感から地元が強硬に反対し, やむなく 品川区に隣接する港区高輪地区に置かれることになったということでした。

東禅寺(とうぜんじ)は港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。江戸四箇寺の1つ。寺名は開基の日向飫肥藩主伊東祐慶の法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていたのです。初代英国公使はラザフォード・オールコック。この方の著書「大君の都」に水戸藩士が東禅寺を襲ったことが記されているとのことです。
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洞坂(ほらざか)は高輪3丁目16番、3丁目19番の間の坂。法螺坂、鯔坂とも書くとのこと。この辺りの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言ったようです。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、くぼ地のため洞というなど様々な説があるようです。

桂坂(かつらざか)は、高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂。かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれているとのこと。桂はよい字を当てたものらしいです。

高野山東京別院は江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年〜1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創されたとのこと。
本日は工事中で外観が見られませんでした。
1655年(明暦元年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、1673年(延宝元年)高野山江戸在番所高野寺として完成。その後1702年(元禄15年)火災により焼失したが、翌16年に復興。御府内八十八箇所の1番札所になり、白金にあった文殊院が88番の結願所になったようです現在、宗派は高野山真言宗。本尊は弘法大師。境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等があり、お遍路の受入も万全。隣に建つのは高輪警察署。地下には東京電力の変電所があるとのことでした。

高輪消防署二本榎出張所。
建物がまるで灯台のようなレトロな建物でした。ここは1933年(昭和8年)以来78年の長きにわたって高輪の街を見守り続けている現役の消防署。建物は地上3階建てで、躍動感溢れる曲線と曲面で構成された、第一次世界大戦後の「ドイツ表現主義」というデザインだそうです。3階以上のひときわ高く空に突き出した円柱部分は望楼(ぼうろう)と言って火の見櫓の役目をしていた部分とのことです。
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また消防車が数台ある中で昔のままの「ニッサン180」が車庫にありました。
これは本格的な国産消防ポンプ自動車の第一号だそうです。
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承教寺(じょうきょうじ)は日蓮宗の寺院。山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院で本尊は曼荼羅、英一蝶筆の釈迦如来像。旧本山は大本山池上本門寺ということでした。山門を入るととっても変わった狛犬がデン!
顔は獅子か虎、体は牛か猪か。とにかくはっきりしません。中国から伝わって来たようです。
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肥後 熊本藩細川家下屋敷跡。
ここは大石良雄外十六人忠烈の跡」として説明板がありました。
この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷のほんの一部でこの庭先で切腹があったようです。赤穂事件とは、1701年(元禄14年)3月14日に起こった殿中刃傷事件、それから翌年12月14日から15日にかけての吉良邸討ち入りを含めた一連の事件のことを言います。細川家は、大藩の威厳と識見をもって浪士たちを優遇し、お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけだったようです。1703年(元禄16年)2月4日午後2時、上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べたということです。切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だったとのことでした。
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泉岳寺(せんがくじ)は、曹洞宗の寺院で青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられるとのことでした。1612年(慶長17年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したけれど、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されたとのことです。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られています。もう数回伺っていますがそのたびにあちらこちらと綺麗になっています。やはりそれだけ多くの参拝客が訪れるのです。
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高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)は、1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡のことです。木戸は最初、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ、札の辻に設けられたのが、700m南のこの場所に移転し高札場として大木戸が設けられたようです。
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木戸は、最初は街道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしたのでした。現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9m) 、幅四間(7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。

江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地。
ここは、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされていました。現在は、鉄道も敷かれ、更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。この会見により、人口100万人を超える世界最大規模の都市だった江戸とその住民は戦火に巻き込まれずに済んだのです。
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水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したと伝わっています。
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慶応大学東門。
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1858年(安政5年)福沢諭吉が蘭学塾「一小家塾(いちかじゅく)」を開いたのが始まり。その後築地から芝新銭座へ移り1868年(明治元年)当時の年号に因み慶応義塾大学と名付けられたとのことです。慶應義塾三田キャンパスには、国の重要文化財である三田演説館や赤レンガの図書館旧館があり、明治の息吹を今の時代に存続させ、アカデミックな雰囲気を漂わせています。構内には「福澤諭吉終焉之地」の記念碑や佐藤春夫の詩碑など数多くの文学碑や美術作品が散在しています。慶應義塾の代表的な応援歌のひとつが「丘の上」と題されているように、キャンパスへ続く道はすべて坂道。登りきったところに学問の庭があります。
今、三田キャンパスには、文学部の2〜4年生、経済・法・商学部の3・4年生、文学・経済学・法学・社会学・商学・法務研究科の大学院生の学び舎があります。女子高等学校、中等部もキャンパスに隣接しているとのことでした。

綱坂は三田2丁目にありました。平安時代の武将渡辺綱がこの辺りで生まれたということが坂の名前の由来だそうです。

綱の手引坂。
平安時代の武将で源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の時、姥に手を引かれて行き来したという伝説により坂の名前としたとのこと。別名、馬場坂ともいうようです。

伊能忠敬測地遺功表が丸山古墳にありました。丸山古墳は 都内最大の前方後円墳で5世紀ごろに築造されたものとのことです。この古墳の頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がありました。これは、日本全国を測量し、はじめての日本地図を製作した伊能忠敬の功績をたたえたものです。
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この碑がここに建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。

芝東照宮は、当初、増上寺内境内に勧請されたようです。増上寺は1590年(天正18年)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められたのです。当時は日比谷にあったのが、1598年(慶長3年)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転したのです。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ったのです。この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称されました。安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮と称し、御神像を本殿に安置・奉斎したのです。1873年(明治6年)には郷社に列し、社殿は1633年(寛永18年)の造替当時のものが維持されていましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。1969年(昭和44年)社殿の完成を見て今日に至っている。
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芝公園は都立芝公園と港区立芝公園の総称。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたとのことでした。

台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営されました。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったのが、一部の建物を除き、戦災で焼失したとのことです。
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江戸幕府第2代将軍徳川秀忠は1632年(寛永9年)正月24日に死去。すぐに増上寺境内南側で霊廟を建立。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失しました。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられているのです。

増上寺三解脱門。
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三門(さんもん)は、元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものです。 仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶとのことです。 また三解脱門(さんげだつもん)とも呼ぶのです。 山門とも呼ぶのですがこれは、寺院がもっぱら山林にあり山号を持つからということです。
増上寺三解脱門は1622年に建築され現存する数少ない立派な山門で三解脱門が正式名称。この門の2階釈迦三尊・十六羅漢像があるそうです。

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470年(文明2年)には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
徳川家康は1590年(天正18年)江戸入府にあたり菩提寺と定めたようです。1598年(慶長3年に寺領20万坪を寄進し寺基を拝領し現在地に移って来たとのことです。
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御成門は増上寺の裏門で将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになったとのことです。もともと御成門交差点にあったが、明治25年(1882年)に東京市区改正計画に基づいて現在では日比谷通りと呼ばれる道路が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転したのです。
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増上寺の表門である大門のように背の高い白塗りの門である。しかし、鏡柱の根元が金属飾りもろとも腐りかかっていました。高麗門ですが、そこここの切妻屋根の裾に8つの飾り瓦が上がっている。浪の飾り瓦ですが、3種類の意匠があるようだ。中には、左右対称に見える浪の飾り瓦もあります。これまでの浪の飾り瓦は左右非対称に作られ、左右で対称になる場合ばかりであったのです。しかし、左右2つある鏡柱と控え柱の間の切妻屋根にそれぞれ2つずつの裾に上がる4つの飾り瓦のうち、一番外側の2つの浪の飾り瓦だけを左右対称にしているようだ。鏡柱間の切妻屋根に上がる浪の飾り瓦は表側の左右と裏側の左右がそれぞれ対称になるようにしてあり、表側と裏側とで浪の意匠を変えている。なるほど、裏門とはいえ、徳川家、それも将軍が用いる門であるだけのことはある。飾り瓦さえも個っていました。

青松寺
江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されています。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用したのです。境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出、1875年(明治8年)には、獅子窟学寮内に曹洞宗大学林専門本校を開校し、翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展したのです。入口門の四天王がとても立派でした。
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愛宕神社は1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月、関東大震災では、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。
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愛宕神社がある愛宕山は標高25.7m。出世の石段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としては23区内で一番の高さの山です。
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事です。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられ、平九郎が見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。

浅野内匠頭終焉の地碑が新橋4丁目交差点傍にありました。こちらは忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹をした最期の場所あそうで、石碑と看板がありました。
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新正堂(しんしょうどう)は大正元年創業の御菓子司。
元禄14年3月14日、殿中「松の廊下」で後の「忠臣蔵」へと発展する刃傷事件は起こり、巳の上刻(午前十時)から六つ刻(午後六時)過ぎにかけて、刃傷・・・・田村邸お預け・・・・評定・・・・切腹・・・・と、その日のうちに矢継ぎ早に執り行われたと言われています。「切腹」、殿中での刃傷とあれば無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、人々の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させた御菓子なのです。
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今日は26℃、曇り、風もなく午前はやや蒸し暑かったのですがまずまずのウォーキング日和りでした。AM9:30〜PM16:15、昼食時間1時間を除けばそれなりのウォーキングとなり
歩程12km、約2万歩でしたがあまり距離を感じないで終了でした。歴史を感じながらのウォーキングは次第に面白みが判ってきている私です。お土産に購入した切腹最中は餅入りであんがはみ出しており程よい甘さ。娘と半分づつでいただいてちょうどよかったです。
次回は終着の東京駅です。またがんばります。
posted by yunofumi at 23:37| あちこちウォーク

2018年05月16日

2018.5.12 横浜散策 第11回港南区

横浜市営地下鉄(ブルーライン)港南中央駅⇒桜道入口交差点⇒桜道コミュニティテラス⇒南台小学校⇒笹下(ささげ)中学校⇒天照大神宮⇒日野公園墓地・美空ひばり墓⇒唱導寺(美空ひばり菩提寺)⇒横浜トヨペット港南店⇒鎌倉パスタ⇒港南区総合庁舎前バス停留所⇒岡本橋記念碑⇒上岡大岡西3丁目⇒笹下釜利谷道路・かねさわ道⇒江ノ電バス関の上バス停留所⇒江ノ電バス車庫⇒横浜刑務所⇒江ノ電バス大橋バス停留所⇒大橋・笹下1丁目⇒伸幸自動車工業⇒東樹院・笹下2丁目⇒鰻井戸⇒江ノ電バス打越バス停留所⇒ASA上大岡京急屏風浦店⇒日下(ひした)小学校⇒笹下交番⇒日下小学校歩道橋⇒まがた橋⇒日下小学校運動場⇒成就院・笹下城跡⇒笹下御下(ささげおおしも)公園⇒東福寺⇒笹下中央公園雑色杉本遺跡⇒大岡川取水庭公園⇒横浜刑務所⇒港南区総合庁舎⇒港南中央駅

港南桜道は、鎌倉街道から日野公園墓地を結ぶ全長1.4kmの桜の並木道。地下鉄港南中央駅そばの桜道入口交差点からの坂道で、鎌倉街道と日野公園墓地の高低差は約50mとのことでした。桜道は、もともと日野公園墓地の参道として誕生したのでした。港南桜道の桜は、昭和8年に植樹されたものが多く、桜の寿命が平均60年とのことでかなり弱っている木もあるようです。道標が綺麗に並んでいました。
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港南天照大神の創建年代等は不詳ということですが、天正年間(1573-92)以前の創建で、往古は笹下郷の総社だったと伝わっており、江戸期には太神宮といわれたようです。
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日野公園墓地横は横浜市が運営する公営墓地。上大岡駅と港南台駅の中間程に位置する山一帯が墓地となっている所で開設は昭和8年と古く豊かな緑に覆われていました。
美空ひばりさんのお墓はかなり奥の方でした。
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すぐそばの山の端まで行くと横浜の町が一望できました。

唱導寺(しょうどうじ)は、港南区日野中央一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は延宝山で歌手・美空ひばりさん(慈唱院美空日和清大姉)の菩提寺として知られるとのことでした。
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こちらは江戸時代中期、日蓮宗学僧の妙心院日迅が、現在の茅ヶ崎市浜之郷付近に開創した布教所唱導庵が起源。1955年(昭和30年)に現在地に移転し、1967年(昭和42年)現在の延宝山唱導寺に寺号を改めたようです。

笹下川に架かる岡本橋を渡ると右側に平成5年横浜市登録文化財地域史跡に指定された岡本橋記念碑がありました。この岡本橋の名の由来は、上大岡の「岡」と松本の「本」をとって付けられた名で、この両地区を結ぶ橋でもあるのです。記念碑には、「鎌倉沿道の笹下村と大岡村の間の道が狭く坂もあり、青木台という処は曲りくねって道は険しく、ひとたび雨になると泥寧が激しく、晴れれば道は凸凹して遠回りしなければ歩けない程であったので日野村の高梨林右衛門は近隣の人々を誘い道路を一直線にするため山を切り開き、橋を架けなおしたが、地盤が新しいので雨が激しく降りしきったとき、再び修造前以上に悪くなってしまい、そこで義損金を募って明治21年改修工事をした。その功績を永久に残し伝える。」と記されているのです。
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笹下釜利谷道路(ささげかまりやどうろ)は、港南区関ノ下交差点から金沢区君ヶ崎交差点を結ぶ道路の通称でかねさわ道ともいわれるようです。

東樹院は高野山真言宗寺院で関宮山寂静寺といい沙門順玉が1127年(大治2年)に創建したと伝えられ、その後衰廃していたものを沙門至順が嘆き、笹下城主間宮豊前守の助力を得て再興したということです。
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ここには和尚さんが助けた女の人と狸の民話があり「文福茶釜」が今もこの寺に残っているとのことでお庭にはこの話を伝えるタヌキと女の人の陶製の像があります。
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鰻井戸。
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説明板がありました。それによると、鎌倉幕府を治めていた北条越後守平朝臣実時(ほうじょうえちごのかみあそんさねとき)が、1275年(健治元年)に病にかかりその後も回復しないため家臣が紀伊国那智山の如意輪観音(にょいりんかんのん)に祈念したところ、実時の枕元に観音様が現れて「西北に2里(約7.8km)行った場所に、井戸があるので、その水を飲むと快復する、その井戸には頭の斑紋がある2匹のウナギいて、それが病から救う霊物である」とのお告げ通り井戸の水を飲んだところ、実時は1日1夜で快復したということです。快復後、実時が井戸を訪れるとウナギが泳いでいたので「うなぎの井」と名付けられたのです。その後「うなぎの井」は諸国に知れ渡り、水を汲みに多くの人が訪れたのですが、実時が亡くなった後、2匹のウナギもいつとなく消え失せたとのことでした。その後、この井戸に関する縁起書は、港南区笹下の三河屋にあった、とのこと。現在の鰻井戸はブロック塀と門扉で閉ざされているので中へ入れませんでした。

笹下城跡。
金沢道のバス停「日下小学校前」から、西へ笹下川を曲田橋(まがたばし)で渡ると、成就院へ向かう坂道があり、この付近は、戦国時代小田原北条氏の武将間宮豊前守康俊が、父祖の代から受継いた笹下城跡だった所。ここの台地にはかつて「壇地」と言われていたものがあり、域郭用の削平地で「詰めの城」があったとのこと。今の洋光台武内氏宅付近に内屋敷、御下公園近くに下屋敷があったとのことです。また、成就院脇から南へ上る空堀だったところは埋められて今は道になっていました。さらにその上の高台一帯が本丸の役割を果していたと考えられているとのことです。
「成就院」は山号を梅花山、宗派は浄土真宗、本尊は阿弥陀如来像、山門は前述間宮氏の陣屋を廃止した時、当院に移築したものとのこと。
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この門前に詩人大野林火氏の「猛り鵙(もず)松籟(しょうらい)に今鎮(しず)まりぬ」の鎮魂の句碑が建っていました。
裏手墓地には1864年(元治元年)鎌倉で英国士官を殺害し処刑された間宮一の墓がありました。
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また珍しいムクロジ(無患子)の木と実を見つけました。
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ムクロジは日当りがよく湿りけの多い山中に生え、寺社あるいは屋敷林に植えることも多いとのこと。果実は約2cmの球形で、中に黒い種子が1個あり、数珠や、羽根突きの玉に用いられると伺いました。

東福寺は972年(天禄3年)天台宗の僧護妙法印という方が比叡山より行基作の「薬師像」を背負い、当地に来られ「妙法寺一乗寺」を創建したのがはじまり。 その後親鸞聖人の法弟となった海弁という僧が開基となり浄土真宗に改宗したとのことです。
こちらには珍しい花塚がありました。
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笹下中央公園の雑色杉本遺跡(ぞうしきすぎもといせき)は港南区笹下5丁目にある縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡。縄文時代早期の遺構として土壙(落とし穴)26基、竪穴住居跡1軒、石組炉1基、溝状遺構2条が発見され、縄文時代早期に発生したとみられる地割れの痕跡も見つかったとのこと。遺物として縄文時代早期の土器片(撚糸文土器・条痕文土器)、石器(石斧など)、縄文中期の土器片、弥生時代後期の土器片などが出土したのです。またこの一帯には、中世に笹下城が存在したと伝えられ、雑色杉本遺跡の範囲も城域に含まれるとされていたのですが、曲輪のような城郭遺構と目された平担な場所は、縄文時代以前に形成された埋没谷による地形で、城郭または中世に属する遺構は発見されなかったということでした。発掘調査された範囲は削り落とされ、環状2号線となって消滅。南側に隣接する笹下中央公園一帯では元来の尾根が残っており、遺跡の説明板がありました。
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大岡川取水庭公園。
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この取水庭は、かつて大岡川が東へ大きく迂回して流れ、中程に島の形態を呈していて、代々北見氏の居住地だったのです。「かわじま」の五百数拾年を超える歴史をもつ北見氏居住の地が、分水路施設のために消え去ることは惜しまれましたが、洪水対策として公共のために生かされる意義は大きく、ここに事業の完成を記念した石碑がありました。
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横浜刑務所は敷地がとても広大でした。男性受刑者が収容されており、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んだ者、日本人と異なる処遇が必要な外国人、無期刑および執行刑期10年以上の犯罪傾向が進んだ者など約1200人を収容しているとのことでした。

本日も晴れ、気温27℃、風もほとんどなく、少し暑かったですがウォーキングにはまずまずのひより。参加者25名は講師浅井先生、TD高橋のお世話でAm10:00〜PM3:00までに約2万歩を完歩。そうそう横浜刑務所の作業製品展示場が本日はお休みだったので港南中央駅にて細うどんやそばがら枕を買いました。皆さんの未来を思い、応援したいものです。
posted by yunofumi at 20:50| あちこちウォーク

2018年04月29日

2018.4.21 山手線歴史探訪ウォーク 第8回

五反田駅〜品川駅
JR五反田駅⇒大崎橋・目黒川⇒大崎広小路交差点⇒東急大崎広小路駅⇒立正大学品川キャンパス⇒大崎警察署⇒大崎ひまわり保育園⇒居木神社⇒JR大崎駅⇒GATE CITY OHSAKI⇒居木橋⇒官営品川硝子製造所跡⇒東海寺大山墓所⇒北品川変電所⇒品川学園⇒子供の森公園⇒東海寺⇒品川第二区民集会所⇒品川医師会⇒新馬場駅⇒品川神社⇒北馬場参道通り商店街⇒正徳寺⇒東海道北品川交差点⇒北品川商店街⇒品川宿交流館⇒北浜公園⇒品川浦公園・鯨塚・利田神社⇒台場小学校・御殿山下台場砲台跡⇒リンナイ・東品川1丁目⇒天王洲橋⇒農林中央金庫研修センター⇒楽水橋⇒天王洲ふれあい橋⇒SPHERE TOWER天王寺⇒モノレール天王洲アイル駅⇒第一ホテル⇒天王洲アイル公園⇒新東海橋⇒東海道北品川⇒北品川商店街⇒荏原神社⇒鎮守橋⇒品川宿の松⇒南品川一郵便局⇒品川宿場通り商会⇒そば処宝喜家⇒三岳・南品川2丁目⇒児童遊園⇒富田屋工業所⇒品川宿場通り商会⇒城南小学校⇒天妙国寺⇒青物横丁商店街⇒岡松畳⇒諏方神社⇒旧東海道⇒魚冨士⇒品川寺⇒海雲寺⇒ジュネーブ平和通り⇒南品川5丁目交差点⇒和光食堂⇒品川第二集会所⇒南品川5丁目交差点⇒ゼームス坂⇒高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)⇒品川銀座バス停⇒関森稲荷神社⇒天龍寺⇒妙蓮寺⇒新番場駅⇒心海寺⇒品川宿問屋場・貫目改所跡地・南品川2丁目⇒寄木神社⇒聖蹟公園・品川本陣跡⇒一心寺⇒丸工屋⇒尾張屋⇒品海公園⇒桝翁軒⇒北品川どうぶつ病院・問答河岸跡⇒JR品川駅

すっかり本格的な春です。我が家でも地植えの君子欄が今を盛りと咲いています。
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9:30 JR五反田駅集合。気温がかなり上昇との予報を受け、服装や飲み水をそれなりに準備。
まずは目黒川の大崎橋を渡り居木神社(いるきじんじゃ)に到着。
創建は明らかではないようですが、元々は武蔵国荏原郡居木橋村に鎮座していたとのこと。当時は「雉子ノ宮」といい、境内にはゆるぎの松という大木があったそうです。この頃、村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の4社をあわせてお祀りし、「五社明神」といわれたとも。明治5年の社号を現在の「居木神社」と改めたとのことでした。
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GATE CITY OHSAKI(ゲートシティ大崎)は、地上24階建の業務商業棟(オフィスタワー2棟と低層部の店舗・文化施設)と地上20階建の住宅棟「サウスパークタワー」を中心に多彩な都市機能を集積した複合再開発施設。JR山手線「大崎」駅直結 徒歩1分という利便性と施設内の恵まれた空間は、ビジネスの拠点として、憩いの地としてイベント、レストラン、ショップなど幅広くビジネスマンからファミリー層まで利用できるところです。この近くに友人宅があることから時々立ち寄り、お茶をする馴染みの所でもあります。

官営品川硝子製造所跡は東海寺大山墓地の入口に碑がありました。日本のガラス工業の発展に貢献した品川硝子製造所の前身・興業社が東海寺境内に建っていたことから、今の地に碑が作られたとのことです。建物は明治村に移築されており、ここにはガラスの原料・珪石も飾られていました。
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東海寺は臨済宗大徳寺派の寺院。徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど、幕府による手厚い保護を受けていたようです。500石の朱印領と47,666坪に及ぶ広大な寺域を有していたとのことです。
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梵鐘は 1693年(元禄5年)制作のようでした。

寺から少し離れた所、官営品川硝子製造所跡の脇を入ると東海寺大山墓所がありました。様々な歴史に名を残した方々のお墓などがありました。
江戸時代に作られた沢庵和尚墓。
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賀茂真淵、服部南郭、そして初代鉄道頭の井上勝の墓
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渋川春海、そして島倉千代子さんの墓
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品川神社(しながわじんじゃ)は、東京十社のひとつ。 また東海七福神の一社として、大黒天を祀られているとのことです。1187年(文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのがはじまりとのこと。
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境内入り口の階段前の門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」があり、左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されています。双龍鳥居は杉並区の高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、こちらと合わせて「東京三鳥居」ともいわれているようです。拝殿手前には浅間神社があり傍には富士塚があります。
また本殿裏には板垣退助墓がありました。
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品川浦公園・鯨塚・利田神社(かがたじんじゃ)。
利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとのこと。当地一帯は1774年(安永3年)から1834年(天保5年)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、神社は利田神社また洲崎弁天ともいわれ浮世絵師歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれているそうです。利田神社の横には鯨塚がありました。この鯨碑(鯨塚)は、1798年(寛政十年)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑です。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)があるようですが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)とのことでした。
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台場小学校・御殿山下台場砲台跡。
1853年(嘉永6年)アメリカ合衆国のマシュー・カルブレース・ペリーが、4隻の軍艦(黒船)をひきいて、浦賀沖に来航。鎖国中の幕府はすぐに江戸湾の海防強化の検討に入り、急いで品川沖から深川須崎にかけて11基の台場を造ったのです。現存するのは「第3台場」(都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみ。そして陸続きで五角形の砲台が建造され、これが御殿山下台場(砲台)とのことです。
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荏原神社。
709年(和銅2年)、奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請して創建されたようです。
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品川寺(ホンセンジ)は大同年間(806年〜810年)に開創された品川で最も古いお寺。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、1395年(応永2年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられまたのです。「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しています。品川寺では、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の三つを、お寺の三宝(さんぼう)としているとのことです。
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江戸六地蔵のひとつの大きな地蔵様です。
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海雲寺。
品川の千躰三宝荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきたとのことです。それで台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされているのです。
品川の千躰荒神。今を去る三百七十余年前、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公が出陣の折、天草の荒神が原におられた荒神様で必勝祈願したところ、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現、流石の暴徒も敵し得ず鎮定されたとのいいつたえがあるようです。以後鍋島家ではこの尊像を守護とし東都高輪二本榎木の屋敷に遷座し篤い信心のもとにお祀りしていたのです。その後明和七年寅三月に海雲寺に勧請となっているのです。
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ジュネーブ平和通り。
品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーブ市(スイス)から、"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られたがきっかけ。この通りは都道なのですが、同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられたとのことです。

ゼームス坂・高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)。
ゼームス坂はもと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれ、あまりにも急な坂道で、通行人が難儀していたのを見るに見かねたゼームスさんが、私財を投じ、現在のような緩やかな坂に改修したそうです。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたとのことです。明治時代、この坂の途中に英国人のJ・M・ゼームスさんが住んでいたのです。このゼームスさんは慶応2年(1866)にジャーデン・マディソン商会長崎支社の社員として来日し、1872年(明治5年)に海軍省に入り、造船技術、測量調査、船舶の航行などについて指導した方だそうです。日本が大好きで、生前から熱心な日蓮宗信徒だったため、1908年(明治41年)、71歳で亡くなった後、「遺骨は身延に」と言う遺言に従い、山梨県身延町にある日蓮宗の総本山・久遠寺に埋葬され、現在もそのお墓が残っているとのことです。ゼームス邸は、1927年(昭和2年)、土地と一緒に三越が買い取り、この地には三越縫製工場が建てられ、現在はマンションになっていました。
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そして、この石碑を背にした道路の反対側を見上げると、彫刻家であり詩人でもある高村光太郎の妻、智恵子が亡くなったゼームス坂病院の跡地があり、そこには、智恵子の最期の様子を描いた「レモン哀歌」の直筆原稿の写しを拡大して刻んだ詩碑がありました。
レモン哀歌   高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱつとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの気管はそれなり止まつた/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう 〜詩集「智恵子抄」より〜
智恵子は、昭和10年、このゼームス坂病院に入院。昭和13年、退院することなく、この世を去ったのです。その後、智恵子が亡くなった10月5日を「レモンの日」としたとのことです。また石碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻んであるとのことです。
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寄木神社の創建年代等は不詳ですが、日本武尊が御東征の折、走水の海を渡る際に、海が大いに荒れ舟が進まず、時に弟橘姫が渡に入り海神をなだめた為、無事に対岸木更津に着くことができたが其御乗船の一部は砕けて、此洲にも流れた木片を納めて祀ったのがこの神社とのことでした。
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聖蹟公園・品川本陣跡
品川宿は、江戸四宿の1つで、東海道53次の第一番目の宿駅(しゅくえき)として発達し、 ここはその本陣跡で品川三宿の中央に位置していたのです。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、 公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところです。1872年(明治5年)お宿駅制度廃止後は、 警視庁病院などに利用されたとも。現在、跡地は公園となり、1868年(明治元年)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、 聖蹟公園と命名されているのです。
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問答河岸(もんどうがし)跡。
北品川どうぶつ病院の脇に石柱がありました。ここはかって海岸先の波止場で、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむとのことです。
将軍--「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚--「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
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今日は27℃!暑かったです。急な気温上昇に体が慣れていないことを実感。空気はからりとし、風があったことで救われました。
講師岡本先生、TDは阿部さんと長田さん。26名が9:30集合、16:15全員完歩で終了。正味約6時間はやや長く、歩程12km、約22000歩を無事に終えられてホツ!帰りの電車では爆睡し、帰宅後はいつもの様に過ごせたことは幸せなことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 10:06| あちこちウォーク