2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
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青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
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文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
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光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
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駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
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南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
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吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
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昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
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榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
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天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
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駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
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一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
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東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
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Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
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東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
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旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
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旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
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本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク

2017年11月11日

2017.11.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

久しぶりにMBT仲間と代々木公園でのノルディックウォーキングに参加。
思いがけずほとんど晴天、21℃。朝の内はほとんど風なし。
8:30〜11:00まで楽しく、のんびり、木々の紅葉を見ながら約10000歩を達成。
その後はもちろん、明治神宮のカフェ「杜のテラス」でお茶をして解散。
休日の早起きは三文の徳!午後は買い物など大いに楽しみました。
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日頃の疲れも何処へやら、また元気に歩き回れることに感謝!!
皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 15:52| あちこちウォーク

2017年11月09日

第19回東京の新発見「板橋区」

都営三田線高島平駅東口改札⇒高島平団地⇒高島平8丁目交差点⇒熱帯環境植物園⇒高島第一中学校⇒徳丸ヶ原公園⇒徳丸ヶ原公園前交差点⇒高島平2丁目⇒高島平図書館⇒高島平児童館⇒高島特別支援学校⇒赤塚公園⇒諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城跡⇒郷土資料館⇒赤塚トンボ池⇒板橋区立美術館⇒不動の滝公園⇒麦の子保育園⇒大仏そば萬吉禎(昼食)⇒赤塚植物園⇒乗蓮寺・東京大仏⇒麺工場幸住⇒松月院・大堂⇒東武東上線下赤塚駅

以前、板橋区は川越街道歩きで通りましたが本日はまったく別の地区という感じ。板橋区はマップを見ると板橋・上板橋・志村・赤塚の地区がありますが本日は高島平団地のそばと赤塚地区を重点的に見て歩きました。

高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸にあり、北側は新河岸、西側は三園、南側は大門・四葉・徳丸・西台、東側は蓮根と接しているようです。高島平は1丁目から高島平9丁目までありそのほとんどが高島平団地とのこと。昭和40年過ぎに団地ができる前は徳丸ヶ原といわれた地区で約2万人超の住人がいるようです。
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熱帯環境植物園は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれた温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館とのことでした。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設として平成6年9月に誕生したのです。
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徳丸ヶ原公園。
「徳丸ケ原」は、板橋区中西部、高島平、新河岸、三園など、荒川の南岸一帯を指すとのこと。ここはもともと幕府の鷹場だったのが、8代将軍吉宗の時代から鉄砲の稽古場として使われるようになったとのこと。明治時代になると民間に払い下げられて開墾が進められ、「徳丸たんぼ」・「赤塚たんぼ」と呼ばれる一大水田地帯が出来上がったのです。昭和40年代になると高島平団地や地下鉄の建設や住宅地ができ公園となったです。
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東京都立赤塚公園は、その昔、赤塚城があった所。運動施設を中心とする中央地区、自然林に覆われた丘陵地など変化に富んでおり、高島平団地と首都高速5号池袋線に沿って東西に連なっているようです。
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諏訪神社の創建は文明年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたとのことです。本日は伺わなかった徳丸北野神社とともに、国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区無形民俗文化財の「獅子舞」が伝承されています。田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事で、稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りのことのようです。
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板橋区大門にある竹の子公園には、鳳凰竹、金明竹など13種類の竹が植えられているようです。
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赤塚城跡は戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕など遺構がわずかに残っていました。ここを居とした千葉自胤は、太田道灌と結んで勢力を伸ばしていました。その後、小田原の北条氏に従ったところ、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。徳川家康の江戸入府に伴い、赤塚城も廃城となったのです。
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赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行い、郷土に関する講習会・講座・体験学習を行っているとのことでした。
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赤塚溜池公園赤塚トンボ池 は通称「溜池公園」。公園入り口にある梅林と美術館の間にひっそりと赤塚トンボ池が有りました。殆ど水は湧いていないようで、いつも濁り気味だそうで近頃は秋でも赤とんぼはみられないようでした。

赤塚公園の城址地区、赤塚溜池公園からすぐの所に不動の滝公園がありました。此処は東京都名湧水57選にも選ばれているようです。木々に覆われた崖から、わずかにちょろちょろと湧水が流れていて、昼間でも薄暗く、一種独特の雰囲気があり、パワースポット的な場所にも見えました。不動の滝は江戸時代の中頃、地元の人たちが富士山や大山(神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていたそうです。
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大仏そば萬吉禎(昼食)
今まで食べた蕎麦の中で一番美味い蕎麦屋さんでした。おそばの香りが漂っていました。どうやら自家製の石臼挽きを使っているらしいです。
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赤塚植物園は、武蔵野の面影もある赤塚の丘陵地にありました。1981年(昭和56年)に開園とのこと。構成は本園と万葉・薬用園からなり、本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草もありました。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられ、解説も十分でした。本日は花が少なく残念。また春でも来てみたいと思いました。
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乗蓮寺は浄土宗の寺院で東京大仏が有名。この辺りの郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺で人々から信仰されていたようです。1591年(天正19年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となったようです。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。この地に移ったのは1973年(昭和48年)でここは赤塚城の二の丸跡とのこと。山号は赤塚山。
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1977年(昭和52年)、東京の関東大震災や東京大空襲などが再び起きないように願いを込めて東京大仏が建立されたとのことです。
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麺工場幸住は製造販売を直に行っているお店で、TVでも有名らしいです。お値段はリーズナブルで工場直売の生ラーメンですからとても人気があるとのことでした。私はラーメンが苦手なのでちょっと眺めていただけでした。
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松月院(しょうげついん)は、曹洞宗の寺院。山号は萬吉山(ばんきざん)。正式名称は、萬吉山宝持寺松月院とのこと。元々は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1459年(康正2年)に今の市川から赤塚城に移り、その後1492年に此処にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのこと。江戸時代には、徳川家康より40石の朱印地が与えられ、また歴代の将軍からも保護を受け発展してきたようです。
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幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(今の高島平あたり。高島平の名は高島秋帆にちなんでいるようです)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたのです。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、さらに松月院も有名になったのです。また明治時代には、一時期旧赤塚村の村役場が境内に置かれていたとのことです。

松月院大堂は松月院から少し離れたところにありました。石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘がありました。
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鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」とありました。

本日は朝10:00〜15:10、実質4時間、約15000歩のウォーキングでした。何よりだったのは曇り空で風もなく18℃、今にも雨が落ちてきそうでしたが木々の紅葉が見られ、まずは良かったです。赤塚地区は板橋の文化を感じさせる施設が多かったのが印象的でした。今後も時々お散歩方々来てみたいところでした。
posted by yunofumi at 23:35| あちこちウォーク

2017年11月06日

2017.11.3〜5 第40回日本スリーデーマーチ

11/3吉見百穴・森林公園コース
11/4和紙の里・武蔵嵐山コース
11/5都幾川・千年公園コース
今年は40回の記念大会、私にとっては6回目の10kmへの参加でした。

1日目(11/3) スタート松山第一小学校⇒市ノ川地蔵尊⇒市ノ川橋・市ノ川⇒下橋・滑川⇒西明寺⇒西明寺沼⇒森林公園南口⇒森林公園駅⇒ゴール松山第一小学校
本日の10kmコースは実質13km。中間のチェックポイントが森林公園南口で7km地点。朝9:30〜14:00のウォーキング。休憩などしたので実質3時間30分のスローペース。久しぶりの長距離でしたのでかなり草臥れました。気温27℃、晴天、風もなくかなり暑かったです。

スタート地点はまるで駅の混雑と同じでした。
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西明寺で一休み。このお寺さんの隣には河童がいたという沼がありました。
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森林公園の樹木はすっかり紅葉していました。
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ゴール地点傍では参加者を歓迎する風景があちらこちらで見られました。
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2日目(11/4)スタート松山第一小学校⇒県立松山高校⇒椿地蔵⇒みどりとくれあいの路⇒森林公園駅北口⇒森林公園駅南口⇒新郷公園⇒東松山工業団地⇒宿青い鳥・八雲神社⇒青鳥城跡・虎御石⇒小林歩道橋⇒東松山ゴルフセンター⇒紫雲閣⇒箭弓稲荷神社⇒ゴール松山第一小学校
昨夜はストレッチを十分にしてから就寝したので元気に目覚めました。
本日の10kmコースはそのまんま10km。新堀公園が4km、チェックポイントで昼食にしたのでかなり余裕、
朝9:30〜13:30のウォーキング。実質3時間は上出来でした。
スタート時は中学生ボランティアがお見送りでした。
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椿地蔵も見守っていました。
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新堀公園では湯茶のお接待もありました。
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ゴールでは沢山のお店が賑わっていました。
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本日も気温22℃、晴天、風なしでおお助かり。休憩などしたので実質3時間のまずまずのぺースでした。終わってみればかなりの余裕でした。
そうそう、今日はゴール近くのボッシュ工場の駐車場で休憩した時、84歳の男性とおしゃべり。第1回からずっと参加しておられるとのこと。感服しました。見習わないといけません。
                                   
3日目(11/5)スタート松山第一小学校⇒松葉町商栄会⇒ボッシュ工場⇒虎御石⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒南中学校⇒上野本歩道橋⇒上野本氷川神社⇒東松山駅⇒ゴール松山第一小学校
最終日なのでゴール会場のイベントが見たいので意識的にスタート時間を遅らせて出発しました。
本日の10kmコースは実質12kmとのこと。昼食は唐子中央公園で出店や太鼓などの演奏を楽しみました。
朝10:30〜14:30のウォーキング。休憩は十分で実質3時間のぺース。気温21℃、晴れ、朝は風がありましたがそのうちに感じないほどでラクチン。とうとう27000歩で最終日も終了。
途中では栗の実も見つけ、秋を実感しました。
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唐子中央公園ではクイズや太鼓の演奏などで大にぎわい。
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ゴールでは町内のお囃子も出ており、有難い。
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3日間が終わってみれば清々しく達成感があり、疲れを感じませんでした。ゲンキンなものです。
今回は第40回記念大会だったので振り返りの写真展も開催されていました。
自分もこの6年間にバッヂをはじめ色々いただいたことをあらためて感謝しました。そしてこのイベントが町を挙げてのことなので地元の商店街の方々にも感謝です。特に毎日立ち寄ったのがこのパン屋さん。おやつをいつも購入していました。
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この3日間の参加者数が今朝の新聞に出ていました。3日間でトータル10万人超。ちなみにコースは5・10・020・30・40・50kmとありましたが私も参加した10kmコースは3日間で約7万人ですって。道理でずっと混雑の中を歩いたわけです。でもまた来年も頑張れるように今後も日々心がけることにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 22:16| あちこちウォーク

2017年11月01日

2017.10.28 横浜散策第5回 保土ヶ谷区

相鉄本線天王町駅⇒シルクロード天王町・江戸方見附跡⇒橘樹神社⇒帷子川⇒天王町駅⇒旧帷子橋跡-天王町駅前公園⇒横浜岩間郵便局⇒大門通り交差点⇒神明社⇒古東海道石碑⇒神戸保育園⇒大蓮寺⇒旧中橋跡⇒反則センター交差点⇒帷子会館⇒旧新義塾前バス停留所⇒保土ヶ谷宿場通り・保土ヶ谷駅西口商店街⇒助郷(すけごう)会所跡⇒帷子町・問屋場跡⇒保土ヶ谷税務署⇒金沢横町道標四基⇒上岩間踏切⇒かなさわかまくら道・政子の井戸⇒横浜清風高校⇒北向地蔵⇒いわな坂⇒福聚禅寺⇒岩井町自治会館⇒宿場そば桑名屋⇒金子本陣跡・保土ヶ谷一丁目⇒脇(水屋)本陣跡⇒茶屋本陣跡⇒旅籠屋(本金子屋)跡⇒大仙寺踏切⇒大仙寺・軽部家墓所⇒今井川⇒一里塚跡・上方見附跡

相鉄本線天王町駅。
相模鉄道本線にははじめて乗車。横浜が起点の2.4kmの路線とのこと。駅名は鎌倉時代に創建された「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」から由来しているようです。歌川広重作『東海道五十三次』の「程ヶ谷」では、駅そばを流れている帷子川に架かる橋が描かれています。ウォーキング途中の商店のシャッターに描かれていた絵かと思います。
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江戸方見附跡
「見附」は「見張り所」「警備所」の役割をしており宿場の境を示し、見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印だったとのこと。また見附では参勤交代の大名が来ると宿場役人は見附まで出迎えに行き、「下にぃ、下にぃ」という大名行列は宿内で行われたこと。大名行列は宿場を出ると、結構なスピードで移動したことなど講師からお話がありました。
東海道の宿場の入口と出口が見附で、江戸の方は江戸方見附、京都の方は上方見附といったようです。
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橘樹(たちばな)神社は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守様で「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれているとのこと。文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝わっているようです。祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、こちらも「祇園社」と称されているのです。祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事でしたが、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっているのです。
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旧帷子橋跡-天王町駅前公園
江戸時代、天王町駅付近は東海道の「保土ヶ谷宿」(程ヶ谷宿)という宿場でした。保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』川が流れており東海道を往来する旅人がこの川を渡るために使った橋が『帷子橋』なのです。
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1964年に、暴れ川だった帷子川の流れを天王町駅南側から北側に付けかえられたので帷子橋の位置も変わったのです。この公園にあるのが記念碑で現在の川は下の写真です。
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神明社(旧伊勢神宮領榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建で横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとのこと。鎌倉時代の始め、神様のお告げで現在地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる本社と豊受大神宮や境内神社がまつられたようです。先年「平成の大造営」が行われ、社殿が新しくなったのです。
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大蓮寺。
仁治三年、日蓮聖人が21歳の際、鎌倉へ遊學の途中、保土ヶ谷宿にて淨土宗の民家に宿泊したところ、その家の子供が釋迦尊像で遊んでいるのを見て仏様のことをヘ示し、それにより後年この家の主が改宗して、家の宅地を法華堂としたのが始まり。これが日蓮宗に改宗した帷子里宗祖宿泊の靈場になったのです。法華堂は当初帷子橋畔にあったのが、ェ永2年、正住院日圓が神戸の小丘の半腹に移し西孝院大蓮寺と名付けたとのことです。
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徳川家康の側室養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がありました。
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助郷(すけごう)会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷といったようです。
保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよび指定された郷村にかなり負担がかかったようですが村々では助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていたのです。明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃止されています。
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問屋場(といやば)跡は宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのです。問屋を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などの宿役人がいたとのことです。
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金沢横町道標四基
東海道・程ヶ谷宿の帷子町金沢横丁の辻に4基の道標が並んでいました。向かって右側から「円海山之道」(天明3年(1783年)銘)、「かなさわ かまくら 道」(天和2年(1682年)銘)、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(文化11年(1814年)銘)、「富岡山芋大明神江乃道」(弘化2年(1845年)銘)の4基。解説によれば以下のようです。ほとんど読めませんでした。
 「円海山之道」道標の右側面には「○×か奈沢みち」。
 「かなさわ かまくら 道」道標の左側面には「ぐめうじ道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」句碑の左側面には「是より杉田道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」道標には「富岡山」。
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上岩間踏切はJRの海道線と横須賀線が並走している踏切。開いている時間の方が少ないように思いました。
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源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られたとのこと。保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校(旧明倫高校)方面へ向かう”かなざわかまくら道”の途中の急な坂道(磐名坂(いわなさか)を上る途中に政子の井戸とも呼ばれる「御所台(ごしょだい)の井戸」がありました。 政子は、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のこと。 この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあるのです。
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坂道(いわな坂)を上りきった交差点の脇に「北向(きたむき)地蔵」がありました。お地蔵様が見守るこの道は「かなざわかまくら道」。
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この地蔵は享保2年(1717)に建立。昔話で伝わっているのは、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことで、それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したのです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったようです。またこの地点は「かなざわかまくら道」の分岐点で、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と 弘明寺方面への道案内も兼ねているのです。

福聚禅寺は建武2年(1335年)南北朝時代初期の創立。当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西巳久保町)の山腹に在ったとのこと。世に知られる様になったので光庵和尚を中興開山としたとのことです。その後も移転を繰り返したようですが境内山林の開拓とともに明治21年には本堂、庫裡、山門を建立したようです。
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墓所には東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九の弟子の五返舎半九の墓誌がありました。
この名前は、師匠の十返舎一九の半分だからと命名したようです。半九の娘が横浜港崎町で芸妓を経営する[橋本楼]の後妻であったことから、橋本家菩提寺である福聚寺に墓誌が建立されたとの推測があるとのことです。
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宿場そば桑名屋は創業明治19年。東海道五十三次保土ヶ谷宿を基調に、宿場風な店作りで八割蕎麦を提供しているとのこと。お店のたたずまいは昔風。ご主人は宿場を盛り立てようとの熱意が伝わってきました。
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保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を利用したのです。
金子本陣跡
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茶屋本陣跡は休息専用だったようです。
脇本陣は本陣だけでは収容できない時に利用した所。脇本陣(水屋)跡は案内のみでした。
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一般の旅行者は旅籠屋を利用。旅籠屋(本金子屋)跡は建物が残っていました。
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大仙寺踏切は大仙寺に向かう参道の途中にありました。
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大仙寺は高野山真言宗のお寺。天禄年中(970年〜973年)の起立。往古は神戸山持院神宮寺と号し伊勢皇大神宮の別当を務めたとも伺いました。参勤交代等、東海道を往来して保土ヶ谷宿に休泊する際は、こちらに道中安全を祈願したようです。
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こちらは宿場の本陣、脇本陣、茶屋本陣等の全ての菩提寺で、境内に軽部家墓所がありました。
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軽部家はもともと苅部家だったようです。明治天皇がこちらで休息された時、軽部と表示されたことでやむを得ずその後も軽部を名乗っているとのことでした。

一里塚跡・上方見附跡。
現在の位置に見附のモニュメントができたのは2009年3月とのこと。デザインを優先して現在 L型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は本来、江戸方、上方とも |型だったとのこと。
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横浜市のマンホール「おすい」の文字入り。横浜市保土ヶ谷区国道1号沿い(保土ヶ谷1丁目本陣跡前から権太坂の市児童公園入口の間) に見られます。
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本日は数日前からの風邪が完全に回復していない中での参加でした。やはり少し体調がすぐれず、一里塚でギブアップ。保土ヶ谷駅に一人バスで移動し、湘南新宿ラインで帰宅しました。
本日の歩程約5km、歩数1万歩超。曇り空のもと、気温16℃、Am10:00〜14:00のウォーキングはまずまずのコンディション日和。でもその後は雨降りだったかも、、、、。
この後は以下の予定でした。
一里塚跡⇒外川神社⇒京方見附⇒樹源寺(軽部家ゆかりの寺)⇒帝釈天と旧元町橋跡⇒ゑびすや軽部商店⇒権太坂⇒権太坂小学校⇒鉾立商店⇒投げ込み寺塚の碑⇒菓匠栗山⇒境木・境木地蔵尊⇒武相国境モニュメント⇒JR東戸塚駅
また日を改めて一人ウォーキングをする予定です。
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2017年10月10日

2017.10.9  OUT DOOR FITNESSおでかけノルディック隅田川テラス

本日はOUT DOOR FITNESSの渡邊コーチ、青木コーチのリードでおでかけノルディックウォーキングです。

猿江恩賜公園⇒野見宿彌神社⇒両国東あられ本舗⇒MERIKOTI⇒両国テラス⇒かじ取稲荷神社⇒DANDELION CHOCOLATE⇒釜めし春⇒浅草駅

猿江恩賜公園。
住吉駅からすぐの公園。現在は野球場やテニスコートもあります。かつては官営の貯木場だったそうですが昭和天皇が皇太子だったころ、その成婚を記念して猿江貯木場の一部を東京市に下賜されたのが始まりで今では全面が恩賜公園として開園しています。
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野見宿彌神社(のみのすくねじんじゃ)相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社
1884年この東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建されたのがはじまりとのこと。元の社殿は東京大空襲によって焼失し、1953年に再建、、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めているようです。両国国技館の近隣なので、日本相撲協会が管理しているようです。
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歴代の横綱の名を刻んだ石碑は2つありました。こちらは新しいほうです。
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両国東あられ本舗。
ここは東京下町・両国の北斎通にあり、営業時間が午前9:00からと早く、皆で立ち寄り試食やお買い物ができました。明治43年開業とのこと。近頃は揚げおかき「北斎揚げ」がヒットしているようです。
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MERIKOTI。
「MERI」は、北国で伝わるおばあちゃんの知恵から生まれた、新しいルームシューズで肌触りのよい柔らかなメリヤスを使って、一足一足、ふかふかに編み上げています。夏は素足で、涼しく気持ちよく。冬はお気に入りの靴下と合わせて、楽しく暖かく、1年を通してずっと使えるようです。そうそう洗濯機でも洗えるそうです。店内には鮮やかな色合いと、ふかふかした質感が目を惹くルームシューズが並んでいて見ているだけで楽しかったです。実際に作るワークショップも定期開催されているとのことでした。機会を見つけて伺うつもりです。
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両国テラスは両国国技館の裏、安田庭園近くのピッツアなどがあるお店。以前に伺ったことがあり、懐かしかったです。
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揖取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は、慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て、屡々遭難あったけれど或る時稲荷の神の示現を得てから後は航海安全を得る事が出来たとのこと。その神徳奉賽の為め、稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷としたとのこと。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めていると案内がありました。
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DANDELION CHOCOLATE(ダンデライオンチョコレート)は、シングルオリジンのカカオ豆からチョコレートを作っている、世界でも数少ないお店。北はハワイから南はマダガスカルまで、世界中のカカオ農園から良質な豆を直接買い付け、選別、ロースティング(焙煎)、テンパリング、成型、ラッピングまですべての工程を自分達のファクトリーで行っているとのことです。ファクトリーの中は作っている行程も見られ、香りも十分堪能でき、とても素敵なお店でした。作りたてのチョコレートも試食できました。
この前の公園には以前墨田区ウォークで伺ったことがありました。こちらのお店は最近できたようです。
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釜めし春は大正15年の創業。歴史と素材の旨味が詰まった元祖釜めし屋さん。出汁は不使用。お客の注文を聞いてから厳選の幸で魅せる味わいと立ち昇るコク深い薫りで勝負しているようです。私達は松茸、鯛、牡蠣など色々注文し、出来立てを完食。御馳走様でした。
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東京スカイツリーが輝いて見えました。
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本日は10月になっているのに日差しも強く、汗ばむ中での2時間越えでした。25℃、晴天。でも日陰に入ればそよ風が心地よかったです。ノルディックウォーキングは通常ですと10000歩くらいですが本日はスペシャルなので15000歩超。それでも全員が元気に終了し、引き続いての美味しい食事とおしゃべりでしたから大満足の1日となりました。皆さん、今後も元気に楽しく!!またお会いしましょう!!
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2017年10月05日

2017.10.1 山手線歴史探訪ウォーク 第1回

東京駅〜上野駅

東京駅日本橋口⇒TRST TOWER⇒江戸城外堀石垣⇒北町奉行所跡⇒呉服橋交差点⇒夢二・港屋ゆかりの地・みづほ住友信託銀行⇒一石橋・一石橋迷子しらせ石標⇒メトロ三越前駅⇒常盤橋⇒貨幣博物館⇒日本銀行⇒江戸桜通り⇒日本橋三越⇒COREDO室町1⇒室町2丁目交差点⇒奈良まほろば館⇒日本橋・道路元標⇒日本橋魚河岸跡⇒福徳神社⇒古河市兵衛石碑⇒第一三共梶ヒ小津和紙の起源案内板⇒史跡於竹大一如来井戸⇒えびす通り⇒宝田恵比寿神社⇒十思スクエア前⇒身延別院⇒十思公園・松陰供養石碑⇒メトロ小伝馬町駅⇒お玉ヶ池と手種所跡・お玉稲荷神社⇒メトロ岩本町駅⇒柳森神社⇒神田ふれあい橋・東北線柳原通ガード⇒萬世橋⇒千代田万世会館⇒昌平橋⇒JRお茶の水駅⇒お茶の水水源⇒御茶ノ水郵便局⇒東京ガーデンパレス・つきじ植むら(昼食)⇒日本薬科大学お茶の水はりきゅう専門学校⇒湯島聖堂⇒天堅屋⇒神田神社⇒清水坂下交差点⇒妻恋神社⇒三組坂上交差点⇒面羊会館⇒湯島天満宮⇒旧湯島切通坂町案内板⇒鱗祥院・春日局墓所⇒三菱史料館⇒講安寺⇒無縁坂⇒旧岩崎邸庭園⇒教証寺・柳瀬美伴墓⇒上野恩賜公園・不忍池⇒JR上野駅

江戸城外堀石垣
都内にはあちらこちらに遺跡のごとく石垣が残っていますが東京駅日本橋口のそばTRST TOWERの所にあり、プレートにその所以が記されています。
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石垣の続きに北町奉行所跡がありました。
江戸時代の奉行所は北と南の2カ所とのこと。町の奉行は町人の行政・裁判・警察の役割を担っていたようです。お芝居やTVで馴染みの「遠山の金さん」正式な名前は遠山景元(とうやまかげもと)はこの方と写真を見せられましたが目がやたらに鋭い、太ったおじさんでTVとは大違いでした。

夢二・港屋ゆかりの地
外堀通りの呉服橋交差点から、日本橋方向に少し入った左側、東京メトロ日本橋駅A1出口の近くに竹久夢二港屋ゆかりの地記念碑がありました。場所はみずほ信託銀行が入っている新呉服橋ビルディングの前。竹久夢二が自らのデザインによる版画や封筒やカードを売る店があったようで、商業美術史上重要な意味を持つ場所とのことでした。

一石橋迷子しらせ石標。
1857年建立された江戸時代の尋ね人探しの石標。
右側には「しらする方」、左側には「たずぬる方」とあり、張り紙をしたとのこと。此処のほか湯島と浅草寺にもあったようです。
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貨幣博物館は、日本銀行金融研究所内の2階フロアに設置されている博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館した。館内には日本の貨幣史、世界のさまざまな貨幣が見られます。1億円分の紙幣の重さを体験出来るのですがいつ来ても皆さん興味をもって持ち上げています。

日本銀行は1882年(明治15年)に設立。今でも日本で唯一の発券する銀行。本館はルネサンス様式の花崗岩造りで辰野金吾設計、6年かけて1896年(明治29年)完成。本日は耐震補強工事?か何かでパネルで遮蔽されていました。

日本橋は1590年(天承18年)徳川家康が江戸へ入城後、江戸の町が造成され、1604年(慶長9年)五街道の起点となった橋。現在の橋は1911年(明治44年)それまでの木橋から石橋に架け変えられたものですでに100年以上たっているのです。標柱や橋中央の「日本橋」の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆。橋中央には日本国道路原標が、また橋脇にはこれのレプリカがあります。

福徳神社(芽吹神社は)は旧福徳村の稲荷神社として奉斎され、平安時代前期の859年〜876年(貞観年間)には創建されていたとの推測があるようです。古くは源義家が深く崇敬、江戸城を築城した太田道灌もしばしば参詣したようです。そして江戸幕府開府以前に太田道灌が合祀され、その兜・矢・鏃などが奉納されたようです。また、徳川家康のよく参詣、二代将軍・徳川秀忠が1614年(慶長19年)の正月に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛し、この時に樹皮付きの椚(くぬぎ)製鳥居に若芽が萌え出ているのを見て「芽吹神社」との別称を命名したとのことです。1619(元和5)年2月に江戸城内から弁天宮が合祀されています。幕末期の多くの火災で被災、社殿・施設修復費用捻出のため、富くじ興行が許された社寺のひとつでもあった。
天保の改革、明治維新、関東大震災、東京大空襲など社殿の焼失などを繰り返し2014年(平成26年)にこの地に竣工されたのです。また、2016(平成28)年9月、境内東側に「福徳の森」ができました。
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古河市兵衛石碑がCOREDO室町2の裏手にありました。
古河市兵衛は古河財閥創始者。幼少時より丁稚奉公や行商を行いのちには小野組で生糸貿易に手腕をふるったとのこと。1874年(明治7年)の小野組破産後で独立し、翌年東京で古河本店を開設。渋沢栄一らの資金援助で鉱山経営を行い、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などを経営したことから鉱山王とも言われその後の古河財閥の基礎を築いたようです。しかし後には、足尾銅山の急激な発展で鉱毒事件が起きています。
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小津和紙の起源案内板
小津和紙は、1653年創業の老舗。和紙の専門店としては、日本で有数の規模を誇り、書道用の半紙から美術工芸用の高級手漉き和紙まで、全国各地のあらゆる和紙を取り揃えています。
今年からは和紙の文化を広く知ってもらおうと、手漉き和紙の体験もできる博物舗も併設されているようです。
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於竹大一如来井戸。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である。」とされたのがはじまり。この井戸は於竹が日頃使った所とのこと。於竹は行者の訪問後、亡くなりその後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養したのです。働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」への心づかいなどの話から「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を多くの人が参詣しまたブームにあやかり江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたとようです。また 回向院では数度にわたる羽黒山行者により、出開帳も行われたとのこと。 五代将軍 徳川綱吉の母「桂昌院」も於竹如来を信仰し於竹を歌に詠みまた、小林一茶の俳句や坪内逍遥の芝居でも上演されたとのこと。
奉公先の夫婦の菩提寺、親族の菩提寺、ゆかりの地である山形県羽黒山に於竹をまつる施設が、今も残っているとのことです。  羽黒山正善院には、於竹の奉公先夫婦によって作られ、後に江戸から移された於竹の等身大の大日如来が安置されているようです。また於竹大日如来のお墓は、東京都北区の善徳寺にあるとのことです。
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宝田恵比寿神社の創建は不詳。だが家康入城以前にすでに宝田村の鎮守さまだったとのこと。その後今の大伝馬町に遷座しここでは金銀為替、駅伝、水陸運輸などの役割を担い賑わったとのこと。今東京の風物市としての「べったら市」は商売繁盛の行事なのです。
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身延別院
この地は伝馬町牢屋敷跡。創建は明治16年。明治になって取り壊された伝馬町牢屋敷に身延山別院として多くの獄死者の霊を慰め理想の国土を、ということで現在に至っているようです。
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十思公園の辺りは伝馬町牢屋敷跡。在牢者は200〜400人、多い時は1000人もつながれていた場所。
安政の大獄で捉えられていた吉田松陰はここで刑死。供養石碑が公園の端にありました。
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お玉稲荷神社は「桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る神社。
[現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
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お玉ヶ池種痘所。
お玉が池のほとりに1858年(安政5年)伊東玄朴、大槻俊斎などの江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったとのことです。しかし半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移っったとのこと。しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えて現在の東京大学医学部につながったとのことです。

柳森神社は長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとのこと。1659年(万治2年)に神田川堀割の際に現在地に移転し柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になったのです。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したもの。境内には13個の力石群がありました。
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お茶の水の碑
この辺りにあった高林寺に湧いていた水で将軍にお茶を差し上げた所。これが語源でお茶の水と地名が付いたようです。石碑は1957年(昭和32年)に建立。
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湯島聖堂。
徳川五代将軍綱吉により儒学振興のために1690年(元禄3年)に創建。その後幕府直轄の「昌平坂学問所となったのです。
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神田神社(神田明神)は730年(天平2年)創建。もとは日比谷入江そばの豊島郡柴崎村から駿河台へ、さらに現在地に移ったのです。江戸時代には江戸の総鎮守として将軍家の崇敬を受けたとのこと。祭礼は「天下祭り」と称され、日枝神社の「山王祭」と共に盛大なようです。社殿は権現造りで1934年(昭和9年)の再建、隋身門は1976年(昭和51年)に朱塗りの木造建築に再建されたものです。
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妻恋神社の創建は不詳とのことですが日本武尊が東征の時、三浦半島から房総へ渡る際に大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救いその後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したのです。そこでこの地の郷民達が尊の妃を慕われる心を哀れに思い尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝わっているとのことです。江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったと伝わっているようです。
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湯島天満宮(湯島天神)は458年(雄略天皇2年)に勅命で創建とのこと。神紋は「加賀梅鉢紋」。古来より江戸の代表的な天満宮。学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには受験生が合格祈願に訪れる。
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鱗祥院(りんしょういん)は、大奥に仕えた春日局の法号がそのまま寺院の名前になっています。中には春日局のお墓があります。この辺りは元々徳川家から賜った春日局のお屋敷があった場所なのです。
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春日局の墓のはまん中に穴が空いています。これは、春日局が、「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたものだのようです。

無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂。
坂の横にあった無縁寺(現在講安寺)が名前の由来と伝えられています。本日は逆に下りで歩きましたが不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登っており、東京大学に突き当たると理解しました。

旧岩崎邸庭園。
三菱の創始者岩崎弥太郎の長男、久弥の住宅として1896年(明治29年)に完成。
洋館などはニコライ堂の設計者でもあるイギリス人ジョサイヤ・コンドルの設計。
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今日は東京都民の日で大混雑のため建物外観と庭園のみを見て帰路へ。

本日は気持ちよく晴れた1日でした。微風が時々あり、25℃ではウォーキング中、少し汗ばむ程度で、歩程約12km、22000歩を終了。結局5時間はあっという間でした。
講師ははじめての井上先生、CDは阿部さん。ということで仲間30人は全員元気で終了できましたからこの10回コースも無事終了できるようにがんばります。
posted by yunofumi at 00:09| あちこちウォーク

2017年10月01日

2017.9.29 横浜散策第4回 鶴見区

今朝は青空、快適なウォーキング日和です。

JR鶴見駅西口⇒西口エスカレーター⇒総持学園鶴見大学⇒大本山総持寺⇒鶴見駅⇒ホテルBEST Western Café Aletta⇒お菓子司清月⇒ベルロード・旧東海道⇒京急鶴見駅⇒ベーカリー&スイーツ・エスプラン(旧覇王樹(さぼてん)茶屋)⇒下野谷町入口交差点⇒村田屋酒店⇒JR国道駅⇒味童天金⇒生麦魚河し通り⇒明神社⇒生麦事件発生現場⇒関口米店⇒生麦公園⇒生麦事件碑⇒キリン横浜ビアビレッジ⇒明神前交差点⇒生麦病院⇒生麦駅前交差点⇒生麦駅前通り・手打ちそば味楽⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅

大本山総持寺。
曹洞宗は中国より道元禅師により伝えられまず、福井県の永平寺を開山。また4代目瑩山善治が石川県輪島に総持寺を開山。総持寺は明治31年の大火を契機に石川素童禅師の英断でこの鶴見ケ丘15万坪の地に移転したとのこと。教育にも熱心でお隣の鶴見大学も経営しており、今では総合大学となっているようです。

総門をくぐり、七堂伽藍の最初に出会うのが「三門」。この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和44年に落成した建物。鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさとのこと。三門には、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている金剛力士(仁王)像が納められていました。左右に阿吽の仁王像三門楼上には、開創時からの因縁で、観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られ、毎月2日と16日には羅漢供養の法要が修行。これらの像は彫刻家・阿部正基氏の作とのことでした。 三門正面の扁額「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師が書かれたものとのことです。
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仏殿は七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」の額がありました。ここには、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)が祭られているとのこと。豪華絢爛の様子を少し見られました。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には「金鶏門」、「中雀門」、「玉兔門」という脇門(通用門)がありました。
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向唐門(むかいからもん)
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれており、「勅使門」があるのです。禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の御移転記念日の時に開扉されるようです。
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境内には、昭和の大スターである「石原裕次郎」のお墓もありました。
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境内の奥に大きな浅野家の墓所があった。
実業家浅野総一郎一族のものとわかりました。彼は富山県出身、1848年生まれ。医家に生まれながら商人を目指し、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋などをした後、横浜に出て贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋、薪炭商、そして最後は一代で浅野財閥を築いた方。映画『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』2006年、『弁天通の人々』2009年があるとのことです。
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総持寺の宝蔵館「嫡々庵」(旧、宝物殿)は昭和49年(1974)に總持寺開山瑩山禅師650回大遠忌の記念事業として建立され、同51年(1976)より總持寺所蔵の文化財を一般公開しています。収蔵資料は絵画・彫刻・工芸・書跡・古文書と多岐にわたり、重要文化財5件・横浜市指定文化財5件をはじめ、宗教的・美術的・学術的に重要なものが多く含まれているとのこと。しかし本日は休館。また伺うようです。
昼食はホテルBEST Western Café Alettaで美味しくいただき、その後はホテルのお隣のお菓子司清月で「よねまんじゅう」を購入。
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「よねまんじゅう」は、江戸時代に鶴見の東海道沿いのお店で売られていた名物のお菓子で、「〜お江戸日本橋、七つ立ち〜」の歌いだしで知られる民謡『お江戸日本橋』の中で「六郷渡りて川崎のまんねんや 鶴と亀とのよねまんじゅう こちゃ 神奈川急いで保土ヶ谷へ」と歌われているほど有名なお菓子だったようです。 しかし、明治時代になって鉄道が開通すると、そのお店が廃業し、幻のお菓子となってしまったのです。その後、かつての名物を復活させようと、1982年(昭和57年)に清月さんが発起人となって、鶴見の菓子組合30周年を機に発売されたとのこと。1985年(昭和60年)、神奈川県が選定する名産百選にも選ばれ、今や鶴見を代表する和菓子になっているようです。

ベルロードつるみ駅前商店街という旧東海道に面した場所で旧東海道に入るとすぐ「ベーカリー&スイーツ・エスプラン」がありました。ここは以前、覇王樹(さぼてん)茶屋といわれていたお店で横浜では初めてとなる「スペイン風石釜」導入したとのこと。富士山の溶岩石を使用し、遠赤効果は他に類を見ないと云われているものだそうです。パン屋になったのは、1952年からで現在の社長さんは2代目(覇王樹茶屋からは11代目)とのことだそうです。石碑とサボテンがありました。
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製菓・製パンなど野生自然酵母、植物性乳酸菌、天然塩、那須産の卵など、自然の素材にこだわっているとのこと。一度買い物をしたいと思いました。

JR国道駅(こくどうえき)の開業は1930年(昭和5年)。鶴見線の高架の無人駅。1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』、2007年の『華麗なる一族』など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用されるとのこと。本当に高架下が異様なムードの駅でした。
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建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦末期におけるアメリカ軍機による機銃掃射の銃弾の痕で今も残っていました。
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生麦魚河し通り「味童天金(あじわらべてんきん)」
丼物が美味しいとのこと。ウニ、アナゴなど生麦魚河の旨いものがどっさりあるようでした。
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道念稲荷神社。
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生麦神明社。
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この二社とも創建年代は不詳とのことですが、新編武蔵風土記稿に記載があるとのことですから江戸時代末期には創建されていたようです。
両社は「蛇も蚊も祭(じゃもかもまつり)」で有名。
蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まるといわれています。この行事は、端年の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、本宮(道念稲荷神社)と原(生麦神明社)で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、原のものが雌蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していたようですが現在は、両社別々の行事となっているとのことです。生麦神明社の境内には公園があり遊具になった蛇がいました。
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以前はなかった首都高神奈川1号横羽線と7号線横浜北線が生麦JCTで交差している傍に「生麦事件発生現場」の案内と「生麦事件碑」が以前の場所と少し違う所に設置されていました。
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生麦事件は、幕末の文久2年(1862年9月14日)に、当時の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えたのです。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立したのです。
生麦事件参考館は、18年かけて集めた生麦事件に関する国内外の資料140余点を展示している私設の資料館とのこと。
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私的にはこの地は2011年9月東海道五十三次の街道歩きで訪れた地です。あの時は猛暑で軽い熱中症になり、バテバテでした。近くの氷屋さんで「カチワリ氷」をCDさんが買ってきてくださり、ようやく回復。当日の歩程をやっと終えられた思い出の地なのです。最近出来上がったばかりの高速道を見上げながら大いに様変わりした景色を見まわしていたところ、例の氷屋さんがあり、思い出したのです。

キリン横浜ビアビレッジ。
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大々的に見学者を受け入れるようになっていました。約80分で終了でしたが最新の設備などが見られて有意義でした。
また最後に試飲があり出来立ての「新一番搾り」やノンアルコール類もいただきました。メチャクチャ美味しかったです。
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本日は24℃、晴天。30名が参加。講師浅井先生、CD金子さんの案内で心地よく過ごしました。
またお土産はビールやお菓子司清月の和菓子など。
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本日は総持寺やキリンビバレッジ内を歩き回ったこともあり約20000歩をクリア。それでも昼食とおやつを美味しいくいただき、帰りは元気いっぱいでした。
posted by yunofumi at 22:13| あちこちウォーク

2017年09月25日

2017.9.24 高尾山9回目

京王線高尾山口駅⇒稲荷山コース⇒高尾山山頂⇒1号路⇒薬王院⇒山上駅〜エコーリフト〜山麓駅⇒王線高尾山口駅

朝8:30京王線高尾山口駅5人で待ち合わせ。やや曇り、Mさんと二人で稲荷山コースの上りを開始。
ここ数日雨が多かったせいで山道はぬかるんでおり、所々には水たまりもありました。
連休の最終日でしたから小さな子供さんも元気に登る姿が可愛かったです。でも運動靴はまだしもサンダルはどうなんでしょうね。一応登山ですから、、、、。

ケーブルカーの駅では天狗さんが睨みを利かせていました。
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上り始めるとそろそろ秋の気配でした。
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山頂ではあいにく富士山はみえませんでした。
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そろって山頂での記念撮影。
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帰りはリフトで存分に自然を楽しみました。
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今日は曇りから徐々に青空も見え、良い日和でした。
山頂では21℃でそよ風もあり、気持ちが良かったです。下界に降りてみると24℃。
お陰様で天候はもとより、心身ともに良いコンデションで登山を楽しみました。
それにしても5カ月ぶりの登山でしたから体力の低下をいやというほど感じました。
帰宅してみると17000歩、今日も頑張りました。それにしても高齢者の体力低下と維持は日々が大切を実感した1日でした。
posted by yunofumi at 09:22| あちこちウォーク

2017年09月17日

2017.9.16 第18回東京の新発見「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒魚津本店⇒長屋門・荻窪4-30-16⇒上州屋質店⇒西効(せいこう)ロッヂング⇒東京こども図書館・石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻窪東保育園⇒荻外荘(てきがいそう)⇒大谷戸さくら緑地⇒角川庭園・幻戯山房(げんぎさんぼう)・すぎなみ詩歌館⇒大谷戸かえで緑地⇒都立杉並高校⇒成宗弁財天社⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒杉並第二小学校⇒尾崎熊野神社⇒宝昌寺⇒交通公園入口交差点⇒尾崎橋⇒成田上橋⇒成田下橋⇒成園橋⇒成宗白山神社⇒大成橋⇒御供米橋⇒和田堀公園⇒大宮遺跡⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒珠杏(じゅあん)カフェ(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社⇒旧井口家住宅長屋門・杉並区郷土博物館・杉並文学館⇒済美台遺跡⇒大圓寺⇒京王電鉄井の頭線永福町駅

大型の巨大台風18号が日本に近づきつつある今朝です。空には薄黒い雲が一面に広がっていますが何とか終了予定の15:30までは雨が降らないように心に念じながら10:00には出発。

中田家長屋門。
昔の杉並あたりは善福寺池を中心として野鳥が多かったとのことです。江戸時代には鷹狩りの地とされていたとのことで将軍が鷹狩りに来られるとこの中田家が休息所となったようです。この家は普段は百姓屋ですから将軍の威厳を損なわないようにと門だけ武家長屋門を建てたのです。このような経緯だったので明治期には天皇も休息所を訪れたとのことです。
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西効(せいこう)ロッヂングは1938年(昭和13年)建築の洋風建築。
2001年(平成13年)の改修後、新館が西郊ロッヂングと呼ばれており、賃貸住宅となっている。本館は「西郊」という旅館になっているようでした。
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東京子ども図書館は子どもの本と読書を専門とする私立の図書館。1950年代から60年代にかけて都内4カ所ではじめられた【石井桃子のかつら文庫】、【土屋滋子のふたつの土屋児童文庫】、および【松岡享子の松の実文庫】を母体として1974年に設立し、2010年に、公益財団法人になったようです。子どもたちへの直接サービスのほかに、“子どもと本の世界で働くおとな”のために、資料室の運営、出版、講演・講座の開催、人材育成など、さまざまな活動を行っているのです。
石井 桃子さん(1907年〜2008年)は、日本の児童文学作家・翻訳家。数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した方。代表作は『ノンちゃん雲に乗る』(1951年)、『子どもの図書館』(1965年)、『幻の朱い実』(1994年)など。翻訳としては『熊のプーさん』(1950年)、『ピーターラビット』(1971年)が有名。我が家でも随分親しみました。
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大田黒公園は、杉並区荻窪にある区立の都市公園。音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年(昭和56年)に開園した区立の公園。
正門は総檜の切妻作り、屋根は桟瓦ぶき、塀は築地塀。
入るとすぐに70m御影石が敷かれており両サイドには27本のイチョウが見事。
住居だった記念館は昭和8年建築された西洋風の建物。室内には多くの資料のほか黒田氏のスタインウェイのピアノ、蓄音機、多くの資料がありました。
お庭は高低差を利用して水が豊かに流れ、季節ごとに楽しめそうなところでした。とくに東屋と池が素晴らしく絵になりました。
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荻外荘(てきがいそう)は近衛文麿の別邸だった所。昭和戦前に総理大臣を3度務めた近衛文麿はここで重要な会談を行ったようです。
有名なのは昭和15年7月19日に近衛文麿、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が参加した荻窪会談。そして昭和16年10月12日の荻外荘会談。ここから開戦になっていますね。
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荻外荘と名付けたのは西園寺公望、設計は築地本願寺も設計した伊東忠太。
現在は奥のほうに見える玄関や客間棟のみがあり、手前は公園でした。本来は居住棟と別棟があったようで今後こちらに元のように移築する計画があるとのことでした。

ウォーキング中、大谷戸さくら緑地、大谷戸かえで緑地がありました。
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形をいうとのことです。また、このような地形は谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られるとのことです。

角川庭園は俳人で角川書店の創設者の角川源義の旧宅を区立公園。
建物は1955年竣工の木造2階建て瓦葺近代数寄屋造り。設計は俳人で建築家の加倉井昭夫。
中に入ると京土壁、面皮柱が見られとても広々と開放的。旧応接間の展示室は角川源義の俳句や所蔵品が見られました。
奥の茶室・水家・茶道具室も見て楽しみました。
庭園は緩やかな斜面にあり大きな芭蕉、荻窪の由来になった荻(おぎ)など400本の樹木があるようです。
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成宗弁財天社の創建年代は不詳。成宗村の開村と同時期に、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池)のほとりに建立されたのが始まりとのこと。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある素焼きの曼荼羅像とのことです。
鳥居前に残る石橋・水路跡は新堀用水(天保用水)の名残りだということでした。
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成宗須賀神社の創建年代は不詳といいつつ天慶4年(941)に創建、慶長4年(1599)に再建されたと伝えられているとのことです。成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊。社名は祭神が同じ素盞嗚尊である出雲の須賀社にちなんだものとのことです。
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尾崎熊野神社は別当寺であった宝昌寺境内から出土した板碑などによると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基づくと言われているとのこと。
境内にそびえるクロマツの大木は、この神社の御神木で、樹齢約400年と言われ、杉並区指定天然記念物の巨木です
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白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像。開創者は文禄3年(1594)頃、中野成願寺5世葉山宗朔。曹洞宗となる前は、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しているとのことです。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころで、村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもあったようです。
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善福寺川は善福寺池が水源で神田川に合流するまで一級水系 荒川水系で杉並区、中野区を流れる約10kmの一級河川。
今日は川が蛇行していることを実感。あとは天王橋、尾崎橋、成田上橋、成田下橋、成園橋大成橋、御供米橋などの多くの橋を見ました。
御供米橋(おくまいばし)の少し下流で自然湧水が流れ込みその湧水を利用して、この近辺で御供米(米を奉納すること)のための米を洗ったというエピソードからの命名だそうです。

成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守。創建に関しては近隣の大宮八幡宮と同じ頃と言われているとのこと。別当寺は宝昌寺。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、杉並区にある都立公園で善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。住民の憩いの場としてはもちろん、遠方からの来訪者も多い。春には桜の名所として知られているようです。

大宮遺跡。
緑の森の丘に大宮八幡があり、このあたりは数多くの遺跡が発掘されているのです。
1969年(昭和44年)には、弥生時代末の「方形周溝墓」3基が見つかったのです。この墓は、弥生時代特有の墳墓で集落のリーダー級の墓とのこと。発掘された墓の周辺から勾玉やガラス玉などが発見され、被埋葬者が生前使用していたと思われる装飾品が副葬されていたのです。方形周溝墓は、弥生時代の社会的背景、集落構造を知る上で欠くことの出来ない貴重な資料であることから、埋め戻され保存されているのです。1979年3月に都指定史跡となり出土した土器等は郷土博物館に展示されているのです。
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昼食は珠杏(じゅあん)カフェ。こちらは鶏の焼肉に特製のミソダレを付けロースターで焼く焼肉スタイルで食べられるレストランでした。丼には焼いた野菜が載せてありましたが結構油ぽかったです。

大宮八幡宮は源頼義が京都の石清水八幡宮より分霊をいただいて建てた、応神天皇を主祭神とする神社。大空に八条の白雲がたなびいて源頼義の軍を勝利に導いたという縁起から、厄除開運の信仰があります。また応神天皇が母・神功皇后の胎内に有る時から神威を発揮されたことから、縁結び、安産、子育ての信仰もあるのです。神域が広大であったことから鎮座地の大宮という地名が名づけられ、現在の境内も15000坪を誇る。かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、東京の重心「東京のへそ」として多くの参拝客が訪れるのです。
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本日は大宮八幡祭り(秋の大祭)で大いににぎわっていました。私たちの訪問の後15:00よりお祭りは開始とのことでした。
清涼殿には菊の着綿が見られました。
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この菊の着綿(きくのきせわた)とは重陽の節句に行われる宮中の習慣とのこと。平安時代の貴族の習慣で、重陽の日に菊の花に植物染料で染めた黄色の真綿を被せ、翌日の早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、その綿で体を拭えば菊の薬効により無病であるということが伝わっているとのこと。中国の伝説に、上流に菊の花園がある滝の菊の花びらが漬かった水を飲んだ人が長寿を得たというものがあり、また能の「枕慈童」に中国の故事として菊の露を飲んで不老不死になった少年が登場するなど、菊を服用するなどして薬効を得るのはもとは中国の習慣であったようです。また、室町時代には菊酒という菊を浸した酒を飲むことも行われるようになっていたとのこと。

旧井口家住宅長屋門
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長屋門を入ると杉並区郷土博物館がありました。
ここは杉並に4人が住み始めて以来の暮らしや文化の資料などが多くありました。
旧石器時代から古墳時代の土器など、また鎌倉時代から戦国時代の文書、江戸時代の杉並の景観、明治維新、関東大震災前後の様子など興味深い展示がありました。

杉並文学館。
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済美台遺跡は、旧石器時代の終わり頃(15,000年前頃〜23,000年前頃)、縄文時代前期から後期(6,000年前頃〜4,200年前頃)、弥生時代後期(1,800年前頃)、古墳時代後期(1,400年前頃)、中世、近世といったさまざまな時代の資料が発掘されているとのこと。本遺跡付近では善福寺川が大きく蛇行することによって、田畑を耕作するといった、各時代のライフスタイルの最適な環境を提供していたようなのです。

大圓寺(だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院で山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。
薩摩藩島津家の江戸での菩提所でした。
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本日の参加者は18名、そのうち男性は6名。講師はお馴染みの牧先生、CDははじめての長田さん。
結局、雨には会わずにぴったり15:30に終了。歩程約11km、約18000歩は1か月ぶりのウォーキングながら全員が元気に終了でき、上出来でした。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2017年07月24日

2017.7.22 横浜散策第3回 都筑区

本日は横浜市都筑区のウォーキング。
講師は浅井先生、CDは金子さん。ということでまずは先生から都筑区についての説明がありました。
都筑区は横浜市の北部に位置し、平成6年、港北区と緑区の再編成により誕生した新しい区。 区域の北部と中央部は港北ニュータウン地域で、豊かな自然と緑を残しており、都市と農業が調和した新しい街づくりが進んでいるとのこと。区の中心となるタウンセンター地区は横浜の副都心として、商業・業務・サービスの集積や、文化施設の整備が計画されているようです。現在、総合公園の整備が進み、区総合庁舎・警察署・病院・郵便局・銀行・商業施設などはすでに開業すみ。また、区内には市営地下鉄が開通しています。また区内には農地が多くあり、野菜を中心に都市農業がさかん。また、数多くの企業の本社・研究所・研修所が進出しており、鶴見川沿いに工業地帯が形成されてきているようです。人口は18区中8番目で、平成26年に21万人を超え、今でも人口の増加が著しく、平均年齢が市内で最も若い区だそうです。

横浜市営地下鉄ブルーライン中川駅⇒くさぶえの道⇒山ア公園⇒牛久保西公園⇒ふじやとの道⇒徳生公園⇒南山田小学校⇒城山東急バス停⇒堀之内稲荷神社⇒山田神社⇒中央大学附属横浜中学校高等学校⇒牛久保東町⇒都筑民家園横浜市歴史博物館⇒大塚歳勝土遺跡公園⇒横浜市営地下鉄ブルーラインセンター北駅

私は東京メトロの副都心線で渋谷に出て東急田園都市線であざみ野まですんなり来ました。そして横浜市営地下鉄ブルーラインの中川駅で下車。
横浜市営地下鉄ブルーラインは横浜市青葉区のあざみ野駅から藤沢市の湘南台駅までを結ぶ横浜市営地下鉄の路線で32駅、約40kmあるとのこと。本日は初めて乗りました。

「くさぶえのみち」は都筑区にある北ルートの緑道のこと。
中川駅そばの烏山公園や山ア公園から、牛久保公園をぬけて、徳生公園へつながっていました。
くさぶえのみちスタートの表示
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まさに緑道です。
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山ア公園には池もあり、本当に憩いの場所になっていました。
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牛久保西公園では花が咲き、大きな竹林もありました。筍の産地なのです。
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徳生公園からは、なつみかん公園までつながる道と、山田富士公園を通り、のちめ不動前の交差点あたりまでつながる道、「ふじやとのみち」があります。ふじやとのみちには、十二支の文字が彫られた石が点在していました。この辺りでは十二支の石を探しながらウォーキングしました。
徳生公園の池はなるほど涼しげでした。
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「ふじやとのみち」では最初に「とら」の石。
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その後、ボチボチ石を探しながら歩を進め「さる」はちょっと意外なところに。
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また「いぬ」は石ではなく城山歩道橋の上に鉄を細工して鎮座していました。
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最後の「ゐ」はゴール地点の傍にありました。ここまでで4.1km.
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山田神社(やまたじんじゃ)には裏手から上りました。
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金網で保護されていた竜や鳳凰などの精巧な彫刻が施されている本殿は、市の有形文化財。 また、市の民俗芸能に指定されている、7月の「虫送り」行事は、この境内が出発点とのことです。長く続く階段が多い参道の両側には、12月ごろサザンカの花が見事だそうです。
1910年に近隣の神社が合併し、妙見社という神仏習合の神社が建っていた場所に山田神社が建立された。釣鐘は妙見社のころから設置されていたとのことでした。
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横浜市歴史博物館は1995年(平成7年)開館。20年を経過しました。活動のポリシーは「ムラと人々のくらし」。博物館の使命は、地域の文化資源、つまり文化財を収集、保存、研究し、展示や講座などでその成果を多くの市民に公開していくべきということで住民、特に小学生の教育に深くかかわっているようです。施設、学芸員ともとても充実しているよで市の施設としては今まで見た中でも一番の充実ぶりでした。
博物館入口。
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展示の様子。
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歴史博物館は隣接地に国史跡の弥生時代の大塚・歳勝土遺跡公園があり、大規模環濠集落跡が見られました。
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横浜市営地下鉄ブルーラインセンター北駅は商業施設も多く、ゆったり休憩の後、帰路につきました。
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本日は34℃、晴天。それでも午前は10:00から緑道のウォーキングが主で心地よく過ごしました。昼食は「つくし」で昼膳をいただき、満たされました。
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午後は炎天下でかなり状況は厳しくへばりました。しかし参加者22名、途中リタイアもなく約20000歩を15:30には完歩。いかに日影やそよ風が有難いかを実感した半日でした。
次は9月のウォーキングとなりますので脚力が落ちないように適度に運動をしながら暑さを乗り切りたいと思います。
posted by yunofumi at 21:06| あちこちウォーク

2017年07月19日

2017.7.15 第17回東京の新発見「世田谷区」

東急田園都市線駒沢大学駅⇒駒沢大学駅前商店街⇒駒沢大学⇒駒沢大学耕雲館⇒向井潤吉アトリエ館⇒親和橋商店会⇒世田谷1丁目⇒松崎煎餅⇒松陰神社通り⇒松陰神社前駅⇒櫻井米店⇒松陰神社・吉田松陰先生他烈士墓所・松下村塾⇒国士館大学⇒勝国寺⇒世田谷区役所城山分庁舎⇒城山小学校⇒豪徳寺2丁目⇒豪徳寺・本殿・六地蔵・井伊直弼墓⇒世田谷城跡⇒旧玉電踏切⇒SAIGON(昼食)⇒大場家住宅・郷土資料館・世田谷ボロ市⇒桜小学校バス停⇒世田谷警察署松ヶ丘交番⇒東京農大第一高校⇒東京農大食と農の博物館⇒馬事公苑⇒桜新町駅

東急田園都市線駒沢大学駅から約10分で駒沢大学到着。
駒沢大学は日本の仏教宗派の一つである曹洞宗が1592年(文禄元年)に設立した吉祥寺の学寮(吉祥寺会下学寮)を起源とする旃檀林(1657年命名)が発展した大学。曹洞宗の開祖は道元禅師。駒澤大学の建学の精神は、「仏教」の教えと「禅」の心を現代的教育に活かしてゆくこと。このことは「行学一如」と「信誠敬愛」の言葉で示されているとのこと。
現在、コメディアンの萩本欽一さんが学生となっていることは有名なことです。
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駒澤大学禅文化歴史博物館は、1928年(昭和3年)に菅原榮蔵によって図書館として建築されたのが「耕雲館」。2002年(平成14年)6月からは、禅文化関係の文物を収集・保存・展示する博物館となったとのこと。図書館が所蔵していた貴重書や禅堂の彫刻などを移転して再構成し、その特徴的な建築は東京都選定歴史的建造物に認定されており、また世田谷芸術百華にも参加しているとのことです。本日はお化粧直しで布に覆われており外観はよくわかりませんでした。
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修行僧の食事です。
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天井のステンドグラスが綺麗でした。
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向井潤吉先生は、戦後より一貫して、日本の風土に根ざした茅葺き屋根の民家をモティーフとして、制作してきた画家。戦後の高度経済成長の中で次々にその姿を消していく民家を求め、つねに現場におもむき、誇張のない的確な写実表現によって、民家のありのままの姿を生き生きととらえ、日本の美しい風土そのものを描き残してきたのです。
向井潤吉アトリエ館は、向井先生と家族が昭和8年より住まわれてきた世田谷区・弦巻の閑静な住宅地にありました。クヌギ・コナラ・ケヤキなど、武蔵 野の面影を今に残す樹木に囲まれたアトリエ館は、瀟洒な雰囲気を醸し出し、潤いのある憩いの場と感じさせました。アトリエ館は、昭和37年に建てられた、アトリエと住まいを兼ねた建築と、昭和44年に岩手県一関より移築された土蔵が対になっていました。 
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松陰神社の鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった所。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓がここに改葬されたのです。1882年(明治15年)、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。松陰神社はこの世田谷区と山口県萩市にあります。
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松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前があります。松下村塾を模造した建物や頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もありました。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されましたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備しています。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居があります。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあります。桂自身の遺言により、この地に埋葬されたとのことです。

吉田松陰先生他烈士墓所
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松下村塾
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勝国寺(しょうこくじ)は、新義真言宗の寺院。この地が世田谷城の裏鬼門に位置しており、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとのことです。
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豪徳寺(ごうとくじ)は招き猫発祥の地といわれ、境内には招き猫が一杯でした。
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この辺りは中世の武蔵吉良氏が館を構え、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったようです。
1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を作ったのです。当初は臨済宗に属していましたが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じています。
1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し、整備したとのこと。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によるとのことでした。
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なお、徳富蘆花の「謀反論」にもあるとのことですが、松陰神社とは谷を挟んで目と鼻の先でした。豪徳寺は吉田松陰を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺であることも不思議でした。

三重塔
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井伊直弼墓
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世田谷城跡。
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた場所。世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が流れ天然の堀を成していたとのこと。豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているとのこと。世田谷城址公園内から北に向けて延びる、空堀及び土塁が現存していました。
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仲良し3人のおじ様は本日も元気に参加されていました。
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大場家住宅は世田谷代官屋敷といわれ、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸と役宅でした。敷地内には、表門と主屋、お白洲の玉砂利が白洲跡として残っていました。表門はボロ市の開かれるボロ市通りに面して建つっており、主屋は約70坪で茅葺、寄棟造りでした。世田谷ボロ市は世田谷区で毎年1月15・16日と12月15・16日に開かれるボロ市のこと。また本日はホタル祭りとサギ草市の日で表門も開いており、賑わっていました。
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サギ草
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大場家住宅に隣接して郷土資料館がありました。さまざまな資料や模型で世田谷の歴史が細かく説明されており、世田谷にも古墳があったことも示されていました。
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入口傍には擂臼、麦打ちコロ、狐の石像、地蔵菩薩など集めてありました。
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1578年、北条氏政の「楽市掟書」により世田谷城下で始まった楽市を嚆矢としているとのこと。江戸と小田原の間にある世田谷宿において伝馬の確保のため、宿場を繁栄させようという目的があったと思われるようです。その後、北条氏が豊臣秀吉により1590年の小田原征伐で没落し、北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されたことから、楽市は急速に衰えたのですが、その後も近郊農村の需要を満たすため、農具市として年末に開かれる歳市に形を変えて現在につながっているのです。
ボロ市名物は味があんこ、きなこ、からみの3種類の代官餅だそうです。

東京農大食と農の博物館は食と農を通して、生産者と消費者、シニア世代と若い世代、農村と都市を結ぶことがコンセプト。 様々なイベントや隣接する展示温室“バイオリウム”では、楽しい学びの場を提供しているようです。ということで“見る、聞く、触る、味わう”という食と農、そして環境について見分できました。
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カフェ プチ・ラディッシュではビタミンCが豊富なカムカムドリンクをいただきました。
珍しい味だったのでとちのはちみつと共にお土産にゲットしました。
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帰路の終点は東急田園都市線桜新町でした。ここではサザエさん一家のお見送りをいただきました。
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本日も14名が参加。講師は牧さん、CDは長身の小玉さん。晴天のもと、暑さは厳しく34℃でしたので施設に伺っては調子を整え、一気にウォーキングというパターンを繰り返し、朝10:00〜15:00で約11km、歩程20000歩を全員が完歩。
少し残念だったのは世田谷美術館が改修工事のため休館中で見られなかったことです。でもきちんとそれを補うべく向井潤吉アトリエ館を組み込んでいたのはサスガ!!と思いました。
本日で都内23区中17区終了。まだまだ先が長いので気長に楽しく回を重ねたいと思っております。
posted by yunofumi at 04:09| あちこちウォーク

2017年07月17日

2017.7.11 銀座線ウォーク第4回 

上野広小路〜浅草

銀座線は浅草から渋谷まで19駅、15km、乗車時間は32分。
このシリーズではこのコースを4回として地上部分をウォーキング。
第1回は渋谷・表参道・外苑前・青山1丁目・赤坂見附。
第2回は赤坂見附・溜池山王・虎の門・新橋・銀座・京橋。
第3回は京橋・日本橋・三越前・神田・末広町・上野広小路。
そして本日、第4回目は上野広小路・上野・稲荷町・田原町・浅草まで。

上野広小路駅⇒あすか信用金庫上野支店⇒箭弓稲荷神社⇒湯島中坂下交差点⇒本富士警察署天神町交番⇒湯島駅⇒上野恩賜公園・上野公園野外ステージ・不忍池・彰義隊戦争の黒門跡・西郷隆盛銅像・彰義隊の墓・清水観音堂・上野精養軒・パゴダ薬師堂・上野大仏⇒正岡子規野球場⇒摺鉢山古墳⇒上野駅・パンダ橋⇒東京メトロ銀座線踏切⇒日本警察犬協会⇒広徳公園・広徳禅寺遺跡⇒台東区役所⇒上野消防署⇒下谷神社・寄席発祥の地碑⇒稲荷町駅⇒誓教寺・葛飾北斎の墓⇒光明寺⇒妙音寺⇒聖徳寺・玉川庄右衛門および清右衛門の墓⇒
本覚寺・ガンダーラ仏⇒福徳稲荷神社⇒矢先稲荷神社⇒合羽橋商店街・かっぱ河太郎⇒浅草みよし(昼食)⇒東本願寺⇒西浅草1丁目⇒等光寺・石川啄木碑⇒宗吾霊堂⇒黒船神社⇒浅草消防署前交差点⇒バンダイ⇒駒形1丁目・駒形どぜう⇒世界のカバン博物館・新川柳作記念館⇒都営地下鉄浅草駅⇒雷門そば⇒駒形橋⇒駒形堂⇒雷門郵便局⇒東京メトロ浅草駅⇒松屋浅草7階駅見世・六本木六丁目食堂

今日も朝から陽ざしが厳しく暑い!20人が参加、3グループに分かれ東京シティガイドクラブの女性3人が説明役。私はB班で大和さんが担当。

上野恩賜公園は上野駅下車でいつも桜や動物園、博物館などを見に来る所。元々は江戸城の鬼門だったということで寛永寺などができたようです。オランダ医師アントニウスボードウィンの提案で公園になったとのこと。今日は不忍池の池のスイレンが綺麗に咲いていました。
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上野は1868年1月鳥羽・伏見の戦で始まる旧幕府佐幕派諸藩軍と朝廷側の倒幕軍との内戦だった戊辰戦争で寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅した上野戦争があった場所。彰義隊戦争の黒門跡、西郷隆盛銅像、彰義隊の墓を見ました。
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清水観音堂は寛永8年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建。天海大僧正は寛永2年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開山と同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味したとのことです。その時に建立されたのが清水観音堂です。
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パゴダ薬師堂と上野大仏がある丘に釈迦如来坐像が安置されていました。 
最初の大仏は越後村上藩主堀直寄が寛永8年(1631)に造立し、2.8mの釈迦如来像だったようですが粘土を漆喰で固めたものであった為、1647年(正保4年)の地震により倒壊してしまったのです。その後再建されたようですが1873年(明治6年)上野公園開設時に仏殿が取り壊され、1923年(大正12年)の関東大震災では大仏の面部が落下、また第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出した為、面部のみが寛永寺に遺ったようです。寛永寺では、1972年(昭和47年)丘陵上野左手に壁面を設け、いまのように「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安のです。
時の鐘は上野精養軒の看板傍にありました。
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摺鉢山古墳にはびっくり。上野公園内にある全長約70mの前方後円墳。後円部径約43m・高さ約5m、前方部最大幅約23m、埴輪片が出土しており内部構造は不明とのこと。5世紀頃の築造のようです。
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東京メトロ銀座線唯一の踏切で上野検車区の出口。遮断機の先は、下り勾配になっていて、トンネルに入り、地下鉄の上野駅へ続いているのです。
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広徳禅寺遺跡は区役所に隣接している「広徳児童遊園」に「広徳禅寺遺跡」の碑がありました。広徳禅寺はもとは台東区役所となっている所。
 「びっくり下谷の広徳寺、おそれ入谷の鬼子母神」と入谷の鬼子母神と並び江戸を代表する寺院として知られ、加賀前田家・会津松平家など多くの大名家菩提寺となっていました。墓所には大名家の多宝塔などが林立する壮観な寺院でしたが関東大震災により焼失し、現在は練馬区桜台に移転しています。 
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下谷神社・寄席発祥の地碑
下谷神社は、第45代聖武天皇の730年(天平2年)に峡田稲置らが、日本武尊の神徳を崇め奉って上野忍ケ丘の地にお祀りしたのが創まりとのこと。
東京大空襲では焼失しなかったとのこと。
また、下谷神社は1798年(寛政10年)に初めて寄席が行われた地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑がありました。
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誓教寺・葛飾北斎の墓
葛飾北斎は江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖。本姓は中島、名は時太郎のち鉄蔵。号は春朗、宗理、可候、画狂人、卍翁など三十余あったとのこと。1760年(宝暦10年)江戸本所割下水の生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢とのこと。十四、五才の時彫刻師に学び、十九の時に浮世絵師勝川春章の門に入ったが、ひそかに狩野派の画法を学び破門。以来土佐派、淋派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いたのです。肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富岳三十六景」をはじめ傑作が多い。彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えたのです。
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聖徳寺には玉川庄右衛門および清右衛門の墓がありました。この二人は江戸時代初期に江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を開発したのです。
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本覚寺・ガンダーラ仏
祖師堂はとても雰囲気が良かったです。
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矢先稲荷神社(やさきいなりじんじゃ)には福禄寿が祀られていました。1642年(寛永19年)、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立し、弓の射技練成のために「通し矢」が行われたとのこと。また京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけらたのです。 1698年(元禄11年)浅草の大火や関東大震災、東京大空襲などにもあったのですが現在地に再建されています。
浅草名所七福神(あさくさなどころひちふくじん)は浅草寺(大黒天)・浅草神社(恵比須)・本龍院(毘沙門天)・今戸神社(福禄寿)・不動院(布袋尊)・石浜神社(寿老人)・吉原神社(弁財天)・鷲神社(寿老人)そして矢先稲荷神社(福禄寿)。いつか一巡してみたいものです。
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合羽橋商店街・かっぱ河太郎
東京合羽橋商店街振興組合が平成15年に「合羽橋道具街」が誕生90年を記念してシンボル像「かっぱ河太郎」を建立。「合羽橋道具街」は、明治末期から大正初期に古道具を取り扱う店の集まりから発生、第二次世界大戦後に主に料理飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと発展したのです。現在では、和、洋、中華食器、漆器、和洋菓子機器、厨房設備器具、ショーウインド、和洋家具、店舗装備デザイン施工、サンプル、看板、食料原材料、包装用品等を取り扱う 170店舗、約 800mの専門店街となっています。
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浅草みよし(昼食)は素晴らしく美味しいお店でした。色々次から次のお料理が並び、これは個人で来るとかなり良いお値段かもしれません
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東本願寺(ひがしほんがんじ)は、浄土真宗東本願寺派の本山。ご本尊は阿弥陀如来。2017年現在の住職は、浄土真宗東本願寺派第26世法主である大谷光見(聞如)師。境内は4252坪と広く荘厳な雰囲気が満ちていました。
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等光寺・石川啄木碑
等光寺は、斎藤道三に殺された土岐頼藝の遺子大圓が、父祖を追福するため三河國宝飯郡廣石村に創建、慶長14年(1609)神田旅籠町へ移転、明暦の大火により浅草へ移転したということです。ここには明治時代に活躍した詩人、石川啄木の歌碑があり、啄木の処女歌集「一握の砂」に収められた「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の句が刻まれていました。啄木生誕70年にあたる1955年(昭和30年)に建立されたのです。
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宗吾霊堂は桓武天皇の時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のため建立された真言宗豊山派の寺院。義民といわれる佐倉宗吾(木内惣五郎)は、350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられのです。
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黒船神社は、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営、黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940)に創建。藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したとのこと。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、黒船三社稲荷大明神と称されたのことです。狛犬から見てもっと大きな神社だったと思われました。
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世界のカバン博物館は大手カバンのメーカーのエースが運営する施設。中はカバンに関するパネル展示、現物展示、ビデオ展示など、想像以上におもしろかったです。8階はカバンのエースの創業者・新川柳作氏の記念館とラウンジになっていました。新川柳作さんが石川県旧松任町の出身とはじめて知りました。
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駒形堂
駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つています。628年に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)で発見されたこの地に設けられたお堂。 江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂を拝み、次に浅草寺に参拝したとのことです。
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東京メトロ浅草駅
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銀座線は1927年(昭和2年)に浅草 - 上野間で営業を開始した日本で最初の地下鉄。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線だったのです。今回4回シリーズで路線に沿いウォーキングできて面白かった!!東京は実に名所旧跡が多く、ウォーキングにはとてもよいのです。
今朝は9:30〜15:00、32℃の炎天下の中、すべての参加者がペースも落とさず、完歩。朝日旅行では完歩賞は特になく、ケーキセットがふるまわれました。最近ウォーキング参加者は80歳以上も多く、皆さんが驚くばかりの元気さです。またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 04:51| あちこちウォーク

2017年07月14日

2017.7.8 東京まちさんぽ

メトロ飯田橋駅〜水天宮前駅

本日は友人のUさんに誘われ東京メトロのウォーキングイベントに参加。
朝8:30から5回に分けてのスタート。1回あたり約1000名、ということで合計5000名!にはびっくり。最終スタート11:00、ゴールは15:30までと規定されていました。歩行距離約12.3km、時間とすれば3時間50分とのこと。
参加費無料!私たちは9:30スタート時には特定保健用食品ヘルシアとコース地図をいただきました。またコース途中では、右折、左折のポイントでは誘導係が立ち、進行方向を示しながら励ましてくださいました。
ということで元気にスタート。

メトロ飯田橋駅⇒善国寺⇒安養寺⇒大吉飯店⇒牛込神楽坂駅⇒南蔵院⇒MAISON KAYSER⇒牛込北町交差点⇒法政大学新見附校舎⇒東京市外濠公園⇒一口坂交差点⇒FACTORY⇒靖国神社南門⇒二松学舎大学⇒宝来屋⇒九段坂上交差点⇒千鳥ヶ淵⇒北の丸公園⇒九段坂⇒昭和館⇒九段坂下駅⇒九段郵便局⇒俎橋⇒さばうる2⇒神保町交差点⇒協立女子大学前交差点⇒学士会館⇒興和一橋ビル⇒一ッ橋⇒竹橋駅⇒国際協力銀行⇒大手町駅⇒丸の内永楽ビル⇒東北線呉服橋ガード⇒SAPIA TOWER⇒東京駅日本橋口⇒日本橋駅⇒魚新・コレド日本橋⇒千代田橋⇒茅場町交差点⇒新大橋通り⇒八丁堀交差点⇒堀部安兵衛武庸之碑⇒亀島橋⇒新川バス停⇒新川2丁目交差点⇒永代橋西交差点⇒遠因教育発祥之地⇒隅田川テラス⇒福島橋⇒深川消防署永代出張所⇒陽岳寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒心行寺⇒採茶庵⇒海辺橋⇒パタシュー清澄⇒深川江戸資料館⇒清澄庭園⇒清澄1丁目バス停⇒深川萬年橋南交差点⇒萬年橋・川船番所跡⇒芭蕉稲荷神社⇒旧新大橋跡⇒芭蕉記念館⇒新大橋交差点⇒隅田川・新大橋⇒浜町中ノ橋交差点⇒水天宮前駅

メトロ飯田橋駅を出るとすぐ善国寺、安養寺、大吉飯店、MAISON KAYSERを通過。早々と美味しいと知られているお店ですが通過です。
法政大学新見附校舎を過ぎお濠が見えてきたところに「東京市外濠公園」の石柱、これは初めてみました。
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本日は直射日光も厳しく暑い!早々と涼を求めてFACTORYでおやつタイム。
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千鳥ヶ淵では濃い緑と蓮の花に暑さもひと時忘れました。
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九段下にでると昭和館がデンと登場。昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料が展示とのこと。今までまったく知らなかったので今後機会を見て伺うということで今日は通過です。
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俎橋(まないたばし)を抜け神田神保町の書店街を通過。学士会館前では「日本野球発祥の地」碑はかなりの方が見入っていました。

気象庁1階には気象科学館があるとのこと。ここまでで歩程約4.8km、約1時間半と地図にあり、お茶休憩を1回した私たちですがまずは順調。
大手町交差点辺りでなんとUさんの知人にバッタリ!お互いに健闘を称えあいました。
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東京駅日本橋口はいつもツアーの待ち合わせ場所ですが今日は外から見て随分巨大な建築物と実感。
日本橋に入ったので昼食のため小一時間休憩。魚新さんにててんぷら定食をいただきました。さすがに美味しかったです。

八丁堀駅をすぎ亀島川に架かる亀島橋西詰の公園に「堀部安兵衛武庸之碑」がありました。彼は本所吉良邸に討ち入りし上野介の首級をあげた赤穂浪士四十七士の一人です。
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隅田川に架かる永代橋の西詰南側の歩道の植込みに、船員教育発祥之地碑がありました。
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かって、黒船来航で開国を余儀なくされた江戸幕府が海軍講習所・軍艦操練所などを設置して日本人による軍艦の運航ができる体制を整えようとしたことの現れです。すなわち明治になり日本の商業海運界も国際的には立ち後れていることがわかり、船員教育の制度が必要となったということでしょうか。1875(明治8)年、岩崎弥太郎が大久保利通・内務卿の命により「三菱商船学校」を設立。これがのちの東京商船大学(2003に、その後東京水産大学と合併して現在の東京海洋大学になったとのことです。

法乗院・深川えんま堂は本日は門前でお詣りのみにしました。
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芭蕉は、1689年(元禄2年、採茶庵(さいとあん)から「おくの細道」の旅に出発したのです。 採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅だったとのこと。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた隅田川と小名木川の合流地点あたりの芭蕉庵を手放していたのです。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたとのことです。
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海辺橋、深川江戸資料館、清澄庭園、萬年橋・川船番所跡を過ぎると芭蕉稲荷神社がありました。
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清澄庭園は先日伺ったばかりなので本日は通過です。ここで歩程約10.2km、3時間越となっています。

またそばには芭蕉記念館があります。こちらは街道歩きで見物すみです。
こうしてメトル水天宮前駅に15:00過ぎにゴール。完歩記念はメトロの電車をイメージしたラップでした。
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本日は35℃、ほとんど風なし。とっても熱く、水分はいつになく多めにとっていました。歩程12.3km、ランチ、お茶時間を除けばまずまずのテンポでのウォーキングでした。皆さんががんばっている姿に励まされ、Uさんが調子を合わせてくださり、私も完歩出来た次第です。お世話になりました。ありがとう!!
posted by yunofumi at 21:06| あちこちウォーク

2017年06月15日

2017.6.13 銀座線ウォーク第3回 

京橋〜上野広小路

銀座線は浅草から渋谷まで19駅、15km、乗車時間は32分。
このシリーズではこのコースを4回として地上部分をウォーキング。
第1回は渋谷・表参道・外苑前・青山1丁目・赤坂見附。
第2回は赤坂見附・溜池山王・虎の門・新橋・銀座・京橋。
そして本日、第3回は京橋・日本橋・三越前・神田・末広町・上野広小路の辺りをウォーキングです。

京橋駅A7明治屋出口⇒八重洲平和の鐘⇒日本橋高島屋本店⇒日本橋三越⇒メトロ日本橋駅⇒日本橋交差点⇒コレド日本橋⇒日本橋西川⇒日本橋⇒日本橋北詰交差点⇒八木長本店⇒金沢大学東京オフィス⇒三浦按針屋敷跡⇒鳥萬⇒神茂⇒佃煮日本橋鮒佐⇒黒文字専門店日本橋さるや⇒コレド室町3⇒コレド室町2⇒三越本店⇒福徳神社⇒長崎屋跡⇒JR新日本橋駅・石町時の鐘・鐘摘堂跡・室町4丁目交差点⇒JR神田駅⇒ニューセントラルホテル⇒豆腐店越後屋⇒多田2丁目交差点⇒栄屋ミルクホール⇒和菓子庄之助⇒神田青果市場発祥の地⇒須田町歩道橋⇒生そばまつや⇒ぼたん⇒やぶそば⇒あんこう鍋竹村⇒肉の万世本店(昼食)⇒万世橋⇒maach ecute万世橋⇒神田郵便局前⇒昌平橋⇒外神田1丁目⇒講武稲荷神社⇒二松学舎大学⇒外神田3丁目⇒蔵前通り⇒司うさぎや⇒黒門児童遊園⇒旧黒門町⇒松坂屋デパート⇒黒門小学校・黒門市場⇒湯島聖天心城院⇒白梅商店会⇒春日通り⇒池之端1丁目⇒福成寺⇒教証寺・柳瀬美仲墓⇒池之端仲町商店会・白梅商店会⇒酒悦⇒鈴廣演芸場⇒上野広小路亭⇒上野広小路駅

京橋駅は1932年(昭和7年) 東京地下鉄道、三越前駅 - 当駅間開業に伴い、終着駅として開業しその時の駅建設費用の一部を、明治屋が負担したとのこと。ということで日本最初の鉄道とビルが直結した駅になったとのことです。
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八重洲平和の鐘は東京駅八重洲中央口から、一直線に延びる八重洲通りにある大きな鐘で毎正時に26個の鐘が美しい調べを奏でるとのことです。このモニュメントは、中央区が1980年に日蘭修好380年を記念し、国際都市の一員として世界平和を願い、設置されたもの。その日本とオランダの修好の関係を築き上げたのがオランダ人のヤン・ヨーステン。1600年に豊後(大分)漂着したヤン・ヨーステンの活動により、長崎に出島が作られるなど、日本の国際化の基礎を築いた人物。陸の玄関に相当する「八重洲(ヤエス)」の地名は、
ヤン・ヨーステンの名前にちなんで付けられたそうです。
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日本橋高島屋本店。
江戸時代末期に創業した高島屋が日本橋に全館冷暖房装置を備えた店舗を構えたのは昭和8年のこと。当時のキャッチコピーは「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」。創建時の名称は日本生命館。日本生命が建設し高島屋が借り受け、一部を日本生命東京総局が事務所として使用していたのが、昭和38年に日本生命が転出。戦後復興から高度経済成長期に増築、改築を繰り返し、昭和40年には1街区を占める店舗となったとのこと。 そして平成21年には百貨店建築初の重要文化財の指定を受けたのです。昭和初期から現存する百貨店建築の中で、最大級の規模を誇り、内外装とも当初の姿を保っているようです。
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銀座三越本店。
江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせ、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現。1928年には「株式会社三越」となった。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業でもあるのです。
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『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、東京メトロ三越前駅地下コンコースに設置され、2009年11月30日除幕されました。これは1805年(文化2年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれています。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されました。絵には88軒の問屋が登場しますが、暖簾は屋号が判別できるほど精緻に描かれており、当時の通り西側に出店していた店舖の一覧を知ることができます。1824年(文政7年)の『江戸買物獨案内』にはこのうち4分の1の店舖が掲載されているとのことですが、住所が食い違う所も多く、入れ替わりの激しさを偲ばせます。町屋は庇の有無、土蔵と白漆喰の違いなど外見上の特徴が細かく描き分けられていますが、類似作である『江戸風俗図巻』のように店内部を透視するように描くことはせず、あくまで写実に徹しているのです。町屋の間から裏店に至る路地の存在が示されていることも特徴なのです。有名店舖も多数登場しています。現在も三越として残る呉服店越後屋は道から少し入った駿河町に本店を構えていますが、当地の定番として欠かせなかったためか全体が余す所なく描かれており、通り沿いにも系列店や蔵を多数構えています。現在も室町で打刃物問屋として営業を続ける木屋は室町二丁目に4店舖並んで見えますが、その内木屋幸七は工事中で、「普請之内 蔵ニ而商売仕候」の札を掲げています。大手書肆須原屋も善五郎と市兵衛の2店舗が見えます。正規の店舖のほか、木戸番が非正規に営む商番屋が描かれている点も注目なのです。絵には総計1671人が描かれているとのことです。
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コレドは造語でCORE は中心とか核の意味で EDOをつけてCOREDとしたようです。すべて三井ショッピングパークで、コレド日本橋のテーマは「時を越えて」。百貨店や老舗名店の伝統を活かしまた、現代的スタイルも見られます。コレド室町1は「日本を賑わす、日本橋」をコンセプトに、江戸時代の賑わいを再現する商業ゾーン。コレド室町2は最新設備を導入したシネマコンプレックスがあります。コレド室町3は「食と暮らし」を軸に、質の高いライフスタイルを提案しているとのこと。またすぐ傍には工事中の大きな建物が見えました。どうやらコレド室町4とのこと。すごい勢いです。
近くには鰹節や乾物の老舗の八木長本店、焼き鳥の鳥萬、はんぺんの神茂、佃煮の鮒佐
など老舗がズラリ。珍しいお店では黒文字専門店さるや。爪楊枝専門店があるなんて初めて知りました。
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日本橋は、日本橋川に架かる橋。1911年(明治44年)完成の現行の日本橋は国の重要文化財。五街道の起点。
日本橋の北西詰に整備されている「元標の広場」には道路元標の複製と道路元標の説明書きが設置されており、いつもながら興味深い。
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日本橋の重厚な装飾品は麒麟像と獅子像。先日のクルージングで見た橋げたの像も再度、見られました。

三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指していましたが1600年(慶長5 年0)豊後国(大分県)臼杵に漂着。その後徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、相模国(神奈川県)三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられたのです。姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人という意味とのこと。屋敷地は現在の日本橋室町1 丁目辺りで、昭和初期まで「按針町」と呼ばれており、今でも「按針通り」が残り、「史蹟三浦按針屋敷跡」の碑が海苔店と宝石店の間にありました。
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福徳神社の創祀は古く貞観年間(清和天皇・859〜876年)には既に鎮座していたとのこと。当初は武蔵野の福徳村の稲荷神社。その後、1657年(明暦3年)の大地震により、一里塚は崩壊したとのことで当時の人々が散乱した碑石の残存した破片を集め保存し、 1590年( 天正18年)には入府した徳川家康公も参詣されたようです。また二代将軍秀忠公が1614年の参詣時、社殿の鳥居に、春の若芽の萌えがあったことから別名「芽吹神社」ともいわれています。また初めて富くじをしたことからも福徳の名称となり縁起が良いということのようです。
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豆腐店「越後屋」は多町で三代目の手作り豆腐のお店。関東大震災後に多く建てられた典型的な銅板張りの看板建築。正面から見て屋号の越後屋の「後」しか残っていないのが面白かった。
本日は平日なので栄屋ミルクホールは営業中でした。ここも銅板張りの看板建築でした。
この付近は古い建物が多かったです。

肉の万世本店は肉料理専門レストラン。昭和24年以来、食肉の最高級とされている黒毛和牛を素材として各種ステーキ・ハンバーグ・すきやき・しゃぶしゃぶ等の肉料理全般の営業をしているようで5階までがお店。質量ともに十分でお腹いっぱいになりました。
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maach ecute万世橋。
中央線神田〜御茶ノ水間に あったのが「万世橋駅」。現在の施設は東京駅の前の1912(明治45)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋を歴史や記憶を活かしながら新たにした施設。 階段、壁面、プラットホームなどの遺構が見られました。また新しいショップやカフェが並ぶ商業施設になっていました。数日前のクルージングでも外から見ていましたが初めて中に入りとても納得しました。
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1912(明治45)年、中央線の昌平橋〜万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電(路面電車)の乗換ターミナルとして栄えました。駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長し、神田須田町周辺は、賑わいました。1919(大正8)年、中央線が東京駅に開通し、万世橋駅は中間駅となったのです。
当時の階段が1912階段として残っていました。
1912 (明治45)年初代駅舎は1923(大正12)年9月1日の関東大震災で焼失。残存した基礎を利用し平屋建ての2代目駅舎が1925(大正14)年に完成したけれど須田町交差点が移転したことで駅前が裏通りになってしまったため1936(昭和11)年に鉄道博物館が併設され、万世橋駅は大きな駅舎を鉄道博物館に譲り、大幅に縮小。そして1943(昭和18)年、太平洋戦争激化の中、乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止となったのです。鉄道博物館は、1948(昭和23)年にその名を交通博物館と改め、70年営業しましたが施設老朽化で閉館し、鉄道博物館は埼玉県さいたま市で再出発しています。

昌平橋。
この地に最初に橋が架設されたのは1624〜1645年(寛永年間)。その後「一口橋」、「芋洗橋」「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図では「相生橋」、「昌平橋」「相生橋」、「萬代橋」、「文久橋」、「新萬世橋」と名称共々変遷が激しかったようです。現在の昌平橋は1923年(大正12年)に架け替えられ、神田川における最初の鉄筋コンクリート製アーチ橋。
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講武稲荷神社(こうぶいなりじんじゃ)は秋葉原電気街のビルの谷間にありました。このあたりには江戸末期に講武所という、対外危機に備えて旗本や御家人たちを稽古する武術の講習所がありましたが神社がないということでこれを大貫伝兵衛が、幕府から払い下げてもらい、その一角に稲荷神社を祀ったので「講武稲荷神社」ということとのことです。
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ここで珍しいおでんの自販機があって驚きました。
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和菓子の司うさぎやは大正2年に、西黒門町(現上野1丁目)で創業。喜作最中やどらやきが看板商品。今も日持ちしない商品のため店頭のみでの販売。私はどらやきを求め、帰宅後食しましたがお味はなかなかのものでした。

上野の旧黒門町辺りは元々上野寛永寺の門前町としてできたようです。傍には不忍池もあり風情があることから料理屋とかも多かった様子、また八代目桂文楽さんの住まいがあったようです。
松坂屋は1611年(慶長16年)、 織田家の小姓の子孫であった伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」を創業したのが始まり。上野店は江戸時代からこの地で続いているので1830年 「東都名所上野広小路之図」にも記載があるそうです。歴史的には1855年 安政の大地震の後すぐ再建とか、1868年 彰義隊と官軍による上野戦争 官軍の本営になったとか、歴史が様々あるようです。

湯島聖天心城院が湯島天神男坂下にあり、ここは太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられているとのことでした。
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教証寺・柳瀬美仲墓。
柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出たようです。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首で知られるようになったようです。1740年(元文5年)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教証寺にあるのです。

もうすぐ上野広小路駅という街並みには、酒悦、鈴廣演芸場、上野広小路亭などが目白押しにありました。
本日は小雨が降る中のウォーキングでした。気温が19℃はあったと思われますので雨具の中は汗でじっとり。まあ、こんなこともあるのです。雨が強く降らなかったので写真はまずまずの出来で撮れたのは幸いでした。案内パンフには歩程6kmとありましたが終わってみれば約17000歩。案内人の東京シティガイド藤井さんには丁寧な案内をいただき、何度も歩いた街並ですが色々理解が深まりました。感謝!
さていよいよ次回でこのコースが終了です。最後まで安全に楽しくウォーキングできるようにそれまで、日々元気に過ごします。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2017年06月14日

2017.6.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

1か月ぶりの代々木公園です。春というより夏が近づきつつあるこの頃です。
本日はさわやか!25℃晴天!インストラクターMさんにはいつも楽しくトレーニング指導をいただき、感謝!
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相変わらずトレーニング終了後は明治神宮の前にあるCaféで一休み後、解散。
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その後、明治神宮御苑の花菖蒲を鑑賞!とても見事でした。
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神宮の森はいつも自然が一杯で本当にすがすがしい。
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それにしても明治神宮は参拝者多いこと!外人さんが多いこと!今更のようにびっくりでした。

本日は見事な花菖蒲と森に元気をいただき、明日からの活力を蓄えられた気がしました。
posted by yunofumi at 04:47| あちこちウォーク

2017年06月12日

2017.6.4  OUT DOOR FITNESSノルディックハイキング

猿江恩賜公園⇒大島橋⇒横十間川⇒小名木川⇒クローバー橋⇒マイクロ水力発電⇒横十間川親水公園⇒岩井橋⇒海砂橋⇒千砂橋⇒夾竹橋⇒亀の甲橋⇒横十間川親水公園花菖蒲⇒豊住橋⇒千田橋⇒大栄橋⇒福寿橋⇒扇橋1丁目⇒猿江1丁目⇒江東橋5丁目⇒撞木橋⇒大横川親水公園⇒清平橋⇒紅葉橋⇒SASAYA CAFE

朝9:00猿江恩賜公園スタート
すがすがしい空気が満ちており、眩しいくらいの晴天です。
猿江恩賜公園サービスセンター前の池、ミニ木蔵では水連がすがすがしくきれいな花を咲かせていました。
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マイクロ水力発電は小水力発電のシステムで横十間川親水公園の水門橋にあり、小名木川と横十間川がクロスする場所でした。近くには江東区スポーツ会館や大型商業施設もありました。高低差のない江東区のマイクロ水力発電の導入は東京都では初めてとのこと。
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横十間川親水公園には菖蒲園がありました。花菖蒲が紫・白・ピンクと可憐な花を開き始めたばかりのようでした。
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皆で記念撮影もしました。
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川べりを色々な橋を眺めながらウォーキング。
本日のゴール、大横川親水公園に到着するとフリーマーケットが開催中!とっても賑やか!
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最後に皆でSASAYA CAFEに伺い、昼食タイムをしました。
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こうして東京スカイツリーを眺めながらも楽しいウォーキングを終了。6月になったばかりですが、気温27℃はちょっと厳しくアイスコーヒーがとっても美味しかったです。
江東区は水辺が多く、夏がお似合いの街でした。
posted by yunofumi at 21:03| あちこちウォーク

2017年06月10日

2017.6.3 第16回東京の新発見「江戸川区」

都営新宿線篠崎駅⇒しのざき文化プラザ⇒伊藤信司商店⇒篠原風鈴本舗⇒丸橋運送⇒春江の森公園⇒おそばゑ之本⇒春江町2丁目⇒春江中学校⇒味処やす吉⇒春江町クリニック⇒新堀1丁目⇒春花園⇒いなげや⇒一之江戸名主屋敷⇒椿通り⇒瑞江斎場バス停⇒大雲寺⇒ユニクロ⇒洋服の青山⇒マツモトキヨシ⇒ベルクオーレ(昼食)⇒瑞江駅⇒下鎌田小学校⇒涼風橋⇒仲井堀親水緑道⇒感応寺⇒国柱会⇒佐々木養魚場⇒一之江境川親水公園⇒タワーホール舟堀⇒都営新宿線舟堀駅

篠崎文化プラザは、江戸川区の歴史や文化、産業などを紹介するギャラリー、江戸川区立篠崎図書館、江戸川総合人生大学、伝統工芸カフェ"アルティザン"などがある複合文化施設。地域住民の学習活動の拠点、学習の機会・場・情報の提供と活動支援が地域コミュニティーの醸成を促すという考えのようです。
本日は特別展「干潟の生き物の大集合」が開催されておりました。
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篠原風鈴本舗。
江戸時代から作られていた風鈴です。従来はガラス風鈴,あるいはビードロ風鈴などとよばれていましたが昭和40年頃、「江戸風鈴」と名付けました。ですから、江戸風鈴という名称は篠原儀治のブランド名で今は一門の方のみ江戸風鈴と名乗っているのです。江戸風鈴は一つづつ手作りなので形や絵柄、音もそれぞれ異なるとのことでした。
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江戸川区の小松菜。
江戸時代のころ、徳川八代将軍吉宗をはじめ、代々の将軍が冬になると江戸川区のこの辺りにたびたび鷹狩りに訪れたそうです。そこで昼食時に東・西小松川村あたりでとれた冬菜をすまし汁出だしたのが縁で小松菜の名前が付けられたのです。このようなことから現在でも江戸川区には小松菜のビニールハウスが立ち並び、収穫量は全国トップクラスとなっているとのことでした。
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春花園BONSAI美術館」は盆栽界の巨匠、小林國雄さんが館長を務めています。中には沢山の盆栽が所狭しと並んでいました。 敷地内の奥には立派な日本家屋がありこれが「美術館」でした。職人さん達の作業も見ることができました。
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一之江戸名主屋敷。
この住宅は、江戸時代にこの地に移り住み、一之江新田と呼ばれていた当地の開拓の主導的役割を果たした田島図書(ずしょ)英丈を祖とする田島家の旧居。敷地面積は約2000坪。田島図書はもともと堀田姓を名乗った武士出身でしたが、関ヶ原の戦いに参戦後関東地方へ入り、田島姓に改姓して当地の開拓に携わったと伝えられているとのこと。その後の江戸時代は田島家が代々当地の名主を務めていたのです。現存する主屋は1770年代(安永年間)頃の建立で寄棟造、茅葺、平屋建。敷地には屋敷林や庭園などが備わっっていました。その後整備を繰り返し、2011年には江戸川区の管理となったようです。珍しいお名前の古結(こげつ)さんが案内役でした。
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大雲寺(だいうんじ)は、浄土宗の寺院でご本尊は阿弥陀如来。歌舞伎俳優の墓が多いことから「役者寺(やくしゃでら)」と呼ばれているとのことでお墓にお参りしました。これらの歌舞伎役者墓碑群は江戸川区指定史跡になっており、市村羽左衛門累代墓(初代より17代合葬、13代は五代尾上菊三郎)、坂東彦三郎累代墓(初代より七代合葬)、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺島家門弟一同建立碑、寺島家門弟代々墓、瀬川菊之丞累代墓(初代より六代合葬)(江戸時代の歌舞伎狂言作者、初代瀬川如皐を合葬しています)、中村勘三郎累代墓(初代より十三代合葬)、三代中村勘三郎墓、福地家墓、坂東彦三郎墓(初代より二代合装)などのお名前をHPでも確認できました。どの方々も今に続く歌舞伎役者さんのご先祖なのです。
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ベルクオーレ(昼食)は瑞江駅そばにあったお店。地下の広々空間で本格的イタリア料理でなかなかおいしかったです。
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仲井堀親水緑道。
仲井掘は多くの支流があり、周囲の灌漑用水に利用されてきました。春江樋門から環状7号線までを流れていた農業用水路が地元住民の支援で親水化整備が実現し、平成4年にできた緑道で500mあるようです。今日は入り口だけ見ました。
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国柱会は、純正日蓮主義を信奉する仏教の宗教法人。明治17年(1884)、田中智学により創設。大正半ばに宮澤賢治がこれを知り、傾倒。大正11年に亡くなった賢治の妹トシの遺骨と賢治の遺形は大霊廟に納鎮されており、申孝園には賢治の辞世の歌碑が建立されているとのことです。
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佐々木養魚場は、天保8年(1837年)から続く、江戸川区の金魚屋さん。創業は台東区入谷でその後、先代が大正15年に分家し、江戸川区に移転。現在は、茨城県常総市にある水田で生産し、江戸川の店舗で販売しているとのこと。自家生産のオリジナル品種、はやり物の新種、らんちゅう、鯉、メダカまであるようでした。
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一之江境川親水公園。
平成7年より「自然に近い水辺を」希望する声に後押しされできた豊かな自然を満喫できる親水公園と順次整備されたとのことです。今は3200mあるようです。魚や昆虫、水生植物が生息できるように、新中川の自然水が流されています。ま公園内には小さな子ども達が夏季に水遊びを楽しめる広場が3ヵ所あり、これは本流の流れを迂回させ水道水を循環利用しているとのことでした。
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タワーホール舟堀は、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をイメージして造られ、平成11年にオープン。この建物はコンベンション機能、健康、文化、産業の質的向上を図る機能、くつろぎ、楽しめるアミューズメント機能、ブライダル機能を備え、区民生活を支援しているとのことでした。高さ115mのタワー展望室からの眺めは素晴らしかったです。
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本日は晴天、ちょっと熱く感じる27℃。講師は信野先生、CDは掛園さん。
地元の案内を見ると、江戸川区は緑道が多いこと、小松菜などの野菜直売所も見受けられるエリアのようでした。終わってみると緑道のウォーキングを楽しめなかったことが残念でした。また朝10:00スタートで昼食場所には13:00過ぎ到着でしたからちょっときつい感じ。午後はその分、短めで16:00近くに解散。このように暑い中でのウォーキングですから、効率よくスケジュールが組まれ実行されることが肝心です。
ご一緒になった皆さん共々、これからも楽しくウォーキングしたいものです。
posted by yunofumi at 22:00| あちこちウォーク

2017年06月08日

2017.5.27 横浜散策第2回 中区

JR石川町駅南口⇒石川町駅前歩道橋⇒石川町2丁目⇒大丸谷震災地蔵尊⇒横浜市立元町小学校⇒フェリス女学院⇒外交官の家⇒三育幼稚園前交差点⇒中央大学⇒カトリック山手教会⇒山手公園⇒日本庭球発祥之地碑⇒横浜山手テニス発祥記念館⇒旧山手68番館⇒明治3年日本発の様式公園⇒横浜市立元町小学校⇒公園坂⇒上野町4丁目⇒山手駅入り口交差点⇒大村薬局⇒麦田町バス停⇒Plow Cafe⇒大和町バス停⇒山手駅入り口交差点⇒妙香寺⇒妙香寺前交差点⇒キリン園公園入口交差点⇒千代崎町1丁目⇒キリン園公園⇒北方小学校⇒諏訪町⇒北方小学校前交差点⇒山手本通り⇒ベーリックホール⇒元町公園⇒山手80番館遺跡⇒大正活映撮影所之跡⇒代官坂⇒元町2丁目⇒本丸亭⇒代官坂通り⇒元町プラザ⇒ウチキパン⇒山手外国人墓地⇒元町・中華街駅

駅を離れすぐに石川町駅前歩道橋を上り、早速街の地形を眺めて出発です。
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大丸谷坂震災地蔵尊。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の震源地は相模湾で死者約10万人という大地震。この辺りでも火災が発生し、人々は大丸谷坂を高台へと上ったのです。でも凄まじい火炎が付近の草木も焼き尽くしその結果約50名の方がなくなったそうです。このお地蔵さまは震災50周年に当たり建立されたとのことです。
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外交官の家。
こちらはもともとニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました家。 設計者はアメリカ人のJ.M.ガーディナー。建物は木造2階建て塔屋つき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響があるとのこと。1階は食堂や大小の客間、2階は寝室や書斎などがあり、部屋の家具や装飾はアール・ヌーボー風でした。
1997年(平成9年)横浜市が内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館を寄贈され、山手イタリア山庭園に移築復元されたのです。庭園も素晴らしかったです。
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カトリック山手教会。
聖フラシスコ・ザビエルにより日本宣教が始まった1549年の後、厳しいキリシタン弾圧が続いたけれど、幕末の1859年開港時に日本再宣教のため、パリ外国宣教会のジラール神父らが来日。1862年横浜居留地80番地(現横浜市中区山下町80)に「横浜天主堂」(イエズスの聖心教会)が造られたのです。ちなみに長崎大浦天主堂はこの3年後にできたとのことです。ということでここは日本最初の教会なのです。
1906年、天主堂付近の市街化により現在地に移転し2代目の双塔を持つゴチック風の聖堂ができたが1923年の関東大震災によって崩壊。現在の聖堂は3代目だそうです。
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教会の中庭にある聖母像は、1868年にフランスから贈られたもの。開国後初のキリスト教会として1862年(文久2年)に居留地に建てられたイエズスの聖心教会の入り口の上にありました。1906年(明治39年)に教会が、現在の地(山手町44番地)に移転した際に現在の場所に移されたとのことです。
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山手公園は、日本初の洋風公共庭園。
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山手公園内にある日本庭球発祥之地碑。
山手公園内に、1870年(明治3年)に横浜居留地外国人のレクリエーション施設としてテニスコートが造られたのですということでここが日本における庭球発祥の地とされているのです。
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横浜山手テニス発祥記念館は、横浜インターナショナルテニスクラブ創立120周年を記念して建てられ、テニスの歴史パネルなどが展示されていました。
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旧山手68番館は現在山手公園管理事務所となっていました。

横浜市のマンホール。
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Plow Café(昼食)は麦田町にあったカフェ。さぐが横浜、ウォーキングでは珍しくイタリアンでした。
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妙香寺は814年(弘仁5年)真言宗の開祖弘法大師(空海)の創立で当時は本牧山東海寺と称していたとのこと。その後 日蓮聖人の日蓮宗に改宗し連昌山妙香寺となり、現在は本牧山妙香寺。1923年(大正12年)9月1日関東大震災で焼失、1927年(昭和2年)に失火で焼失、1945年(昭和20年)5月29日に第二次 世界大戦横浜空襲により全山焼失。でも今は再建されているのです。
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境内には君が代発祥の地碑がありました。
君が代の歌詞は古今和歌集第7巻賀歌の部の一部。作曲は明治2年秋に英国陸軍の楽長ジョン・ウィリアム・フェントン。その後この曲を排して宮内省の林広守の曲が現在も使われているとのこと。
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また日本吹奏楽発祥の地もありました。
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1854年(安政元年)ペリー提督と一緒に上陸した楽隊が演奏したのが日本初の洋楽演奏。
その後日本で初の楽隊となった薩摩藩洋楽伝習生がこの妙香寺を寄宿舎として吹奏楽を学んだのです。

キリン園公園はキリンビール発祥の地。中央に巨大な麒麟麦酒開源記念碑の碑がありました。
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この一帯はかつて、天沼と呼ばれる清水の湧きでる地で明治初期には山手居留地123番地と呼ばれたのです。1870年(明治3年)には、ウィリアム・コープランドが「スプリングバレー・ブルワリー」を開設しこの良質な井戸水を使い、ビールの醸造を始めたのです。明治18年には後藤象次郎や岩崎弥之助、ベルツなどが加わりジャパン・ブリュワリー・コンパニーとなってスプリング・ヴァレー・ブリュワリー事業を継承し、麦酒に「麒麟麦酒」と命名。大正12年関東大震災で工場などすべてを生麦に移転。現在に至っているのです。その工場跡地はキリン公園と北方小学校なのです。当時の名残として、キリンビールの寄贈により1967年に修復されたビール井戸が校内に保存されています。
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元町公園は横浜の山手地区にある緑豊かな公園。 園内には、ジェラールの水屋敷跡や山手80番館遺跡など、歴史的に貴重なものが多くありました。また横浜山手西洋館の一部である、山手234番館やエリスマン邸やベーリック・ホール、山手234番館もありました。
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ジェラールの水屋敷跡。
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山手80番館遺跡。
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エリスマン邸。
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ベーリックホール(旧ベーリック邸)
イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として1930年(昭和5年)にアメリカ人建築家J.H.モーガンにより設計され、第二次世界大戦前まで住宅として使用され、1956年(昭和31年)に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付されました。その後、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていた時期もあります。約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルが基調、外観は玄関の3連アーチ、クワットレフォイルという小窓、瓦屋根には煙突など、多彩な装飾がありました。内部は、リビングルームやパームルーム、ダイニングルーム、白黒のタイル張りの床など、建築学的にも価値ある建物だとのことです。
2001年(平成13年)に横浜市が元町公園の拡張区域としたのです。
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大正活映撮影所之跡の碑。
大正活映は、1920年(大正9年)に設立された無声映画の配給映画会社。
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山手外国人墓地にある生麦事件犠牲者リチャードソンの墓”
生麦事件は、幕末の1862年(文久2年)に、武蔵国橘樹郡生麦村付近で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
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本日は10:00にJR石川町駅南口に集合、講師は浅井先生、CDは金子さん、参加者は29名。朝はやや曇りでしたが次第に晴天となり28℃はあった感じ。1日の歩程は約4.5kmとパンフレットには明記されていましたが、先生いわく「地形に注目しながらウォーキングしましょう」の言葉通り、高低差があり、また断層も見られ、歩数はかなりとなりました。ということで終了後はお知り合いになった姉妹とご一緒にお茶をして大いに楽しみました。
横浜は18区ありますので最後まで楽しく頑張ります。
posted by yunofumi at 21:13| あちこちウォーク

2017年05月31日

2017.5.21  OUT DOOR FITNESSノルディックハイキング

猿江恩賜公園⇒北砂1丁目公園⇒海砂橋⇒千石地蔵尊⇒千石1丁目⇒木場公園⇒亀久橋⇒BLUE BOTTLE⇒平野1丁目⇒チーズのこえ⇒清澄公園

今日はまだ5月というのに暑さ厳しい1日でした。まずは晴天なので元気よく参加者8名、インストラクター1名が猿江恩賜公園を9:00スタート。朝が早いので猿江恩賜公園では蓮の花も咲いていました。
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この辺りは晴天ではなんといってもスカイツリーが輝いて見えます。
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本日は小名木川、横十間親水公園、仙台堀公園などを歩き回るコースで何処が何処やら、さっぱり自分の所在が分からず、キョロキョロしながらのウォーキング。
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そこにひょっこり可愛い千石地蔵尊が鎮座。横に石板で説明がありました。
「昭和20年(1945)3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、堀割や路傍、学校などで、尊い瀬名が数多く奪われ殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた。杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無残な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。」 昭和62年(1987)3月10日 千石長寿会 会長 山岡英太郎
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チーズのこえ。
今野 徹北海道ナチュラルチーズ・コンシェルジュのお店。
酪農王国 北海道のチーズを2015年11月より、清澄白河で販売しているとのことです。
ソフトクリームがとっても美味しかったです。
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清澄庭園入口で全員集合。
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庭園内では花々を眺めながら美味しい空気を一杯吸い、30℃越の感じでしたが都心にいることを忘れました。
その後、近所のとんかつ「常陸」で昼食をいただき本日のイベントを終了。イヤー今日も気ままで有難いノルディックウォーキングでした。
posted by yunofumi at 21:49| あちこちウォーク