2021年07月11日

2021.7.4 さいたま彩発見ぶらり街あるき 行田市

埼玉という名前の由来のさきたま古墳のある行田です。室町時代に築城の忍城の城下町として発展し、今も足袋つくりの街なのです。

秩父鉄道行田市駅⇒栗代蔵⇒時田蔵⇒足袋とくらしの博物館⇒ぷらっとぎょうだ⇒高札場跡⇒武蔵野銀行⇒埼玉りそな銀行⇒行田郵便局⇒小川源蔵右衛門蔵・カネマル商店⇒行田八幡神社⇒そばてんぷら田丸屋⇒清善寺⇒十万石まんじゅう⇒水城公園⇒佐間天神社⇒天真山高源寺⇒行田佐間郵便局⇒県営行田佐間団地⇒イタリアン トラットリア ラノッキオ⇒日本航空館⇒元成田橋⇒埼玉県立さきたま史跡の博物館⇒前玉神社⇒金澤製菓⇒稲荷山古墳⇒古代蓮の里⇒JR行田駅

秩父鉄道は1899年(明治32年)、「上武鉄道株式会社」として設立。1901年(明治34年)熊谷〜寄居間(18.9キロ)が開業。1930年(昭和5年)、現在の秩父本線 羽生〜三峰口間全線が営業しています。1916年(大正5年)、現在の秩父市が名称変更となり社名も「秩父鉄道株式会社」に改称したとのことです。ということで2019年には創立120周年を迎えたのです。熊谷を過ぎると行田市駅でした。改札前には「足袋蔵のまち行田」の幕が掲げられていました。

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栗代蔵は1906年(明治39年)建設の元栗原代八商店の土蔵造りの足袋蔵。現在はNPO運営の観光案内所兼まちづくり情報センターに活用されており、2階には日本遺産ガイダ ンスセンターもありました。

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こちらは時田蔵。明治36年築と大正初期頃建設の2棟の土蔵造りの足袋蔵で、外観のみ見学可能。行田では珍しい表通りに面した袖蔵形式の土蔵で、日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にもなっています。

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「足袋とくらしの博物館」は元、牧野本店の足袋工場。建物が使われなくなった後、2005年10月、工場の面影をほぼそのまま残した博物館として生まれ変わったのです。 博物館では展示物や元足袋職人さんによる実演を見学できます。

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「ぷらっと♪ぎょうだ」は行田市の観光物産館で令和3年4月より観光物産館としてリニューアルオープン。店内は日本遺産に認定されている行田らしい和モダンな雰囲気でおしゃれなデザインの足袋やアフリカなどの海外のカラフルな生地を使用した南河原スリッパ等地場産品をはじめ、行田の地粉を使った「行田の餃子」、奈良漬、十万石まんじゅう、わたぼく牛乳など約50社350種類の商品が揃っていました。

2020年春よりコロナウィルスによる自粛生活が続いており行田八幡神社で「花手水」がはじまったとのことです。
今では地域全体で花手水を飾る「花手水week」が始まっており本日はあちらこちらできれいな花手水をみられました。
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県道128号線の市役所前〜栄橋の860mの間に昔ながらの遊んでいる童の銅像がみられました。この間には電柱がなく、童の姿にちょっとほっこりしました。

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高札場は江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所で、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げている所だったのです。

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鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建の武蔵野銀行行田支店は1934年忍貯金銀行として建設。外壁はスクラッチタイル張とし,開口部周りやコーニスには装飾を施した「カストストン」が張ってありました。

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小川源蔵右衛門蔵は酒屋の現役の石造蔵。昭和7年に建てられた商品倉庫。大谷石の壁面に取りつけられた看板と、軒の屋根瓦とのバランスが見事。現在はお隣でお店をやっていました。

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行田八幡神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失しています。天文年中に、現在の地に移り、忍城主成田下総守長泰公が社殿を修補し城下総鎮守となったようです。現在の社殿は、皇紀2650年を記念して造営が進められ、平成元年11月の竣功、平成12年には参集殿が竣功したのです。

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曹洞宗寺院の清善寺は、正式には平田山清善寺。清善寺は、1440年(永享12年)に当地の豪族成田刑部少輔顯忠(清善斎全中)により平田精舎として創建されたとのことです。成田刑部少輔顯忠は1519年(永正16年)に亡くなったのですが、時の城主成田氏15代親泰がその死を悼み、一寺を建立して平田山清善寺と称したということです。1533年(天文2年)成田氏16代長泰により再興、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎えて忍城内に開山したのです。慶長9年には寺領30石の御朱印状を拝領したと伺いました。

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十万石まんじゅうの行田本店の建物は、国の登録有形文化財で、築100年で江戸様式蔵づくりです。平成29年には県内初、「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定され、行田の美味しいお菓子を目指し、「うまい、うますぎる『十万石まんじゅう』」をはじめ、安心安全な商品が色々あります。
秩父線行田市駅より徒歩4分 旧国道125号線沿いの本店には立ち寄れず、水城公園店で色々購入しました。

水城公園。
忍城そばのお堀の跡にかっては忍沼と呼ばれる大きな沼がありそこは埋め立てられて現在は市役所や市立体育館となったとのこと。そしてその末端が「水城公園」として昭和39年に開園したのです。広さ約10.3ha。桜が200本もあるとのことですから春は見事なことでしょう。公園入口に大正時代の建物が今、VertCafe(旧忍町信用組合店舗)となっていました。
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佐間天神社(さまてんじんしゃ)の創建は、成田氏15代目忍城主成田親泰が、1491年(延徳3年)忍城築城の折、谷郷春日神社西を、城の外堀へ川の水を導水する際の取水口とし、天神坊を出口としたと伝えられています。その天神坊を「慈眼山安養院」とし、その守護神として天神社を勧請したのが始まりとのことでした。

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天真山高源寺は、忍城主成田氏ゆかりのお寺。忍城水攻めの際、石田三成が忍城に総攻撃をかけたが守将正木丹波守利英公が撃退したそうです。正木丹波守利英公は、この戦いで命を落としたすべての侍や農民の菩提を弔うため、この寺を建立したとのことです。
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昼食は「イタリアン トラットリア ラノッキオ」の行田古代米カレー、ミニサラダ、ゼリーフライのセット。古代米は古墳の形に盛り付けられておりちょっと面白い!ゼリーフライはちょっと見はコロッケと似ていますが、おからを主原料としてじゃがいもと野菜を入れたパン粉を使わない揚げ物。しっとりもちもちとした食感の美味しい一品でした。

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武蔵用水路沿いの所にある埼玉スバルの「さきたまガーデン」内に「日本航空館」を設け、「一式戦闘機 隼」ほか中島飛行機が生みだした名機の模型展示、富士重工業製で初の国産ジェット練習機「T-1初鷹」の実機も一般公開しているとのことでした。

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埼玉県立さきたま史跡の博物館はさきたま古墳公園(9基の大型古墳からなる埼玉古墳群(国の史跡)を整備した公園)内にある博物館で1969年(昭和44年)に開館したとのことです。展示施設は本館と将軍山古墳展示館からなっているとのこと。国宝展示室では「金錯銘鉄剣」(国宝)などのさきたま古墳群やその周辺の遺跡の出土品が展示されていましたが写真撮影は禁止でしたけれど実際に見て大いに感激しました。
博物館の前庭には埼玉県名由来の石碑がありました。
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前玉神社(さきたまじんじゃ)はさきたま古墳群に隣接する神社です。その昔、「幸魂神社」と書いたようです。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱で、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られているとのことでした。
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本殿
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前玉神社本殿に登る階段をはさむように、1697年(元禄10年)に当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した燈籠がありました。高さは180p。この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれているとのことでした。
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前玉神社門前には金澤製菓があり古墳最中の旗が出ていましたが今日は「元祖塩あん餅(塩あんびん)・元祖甘あん餅(あまあんびん)」をお土産にしました。

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この後は古墳群公園をウォーキング。前方後円墳の二子山古墳、将軍山古墳を見た後、稲荷山古墳に行き、ここは上まで登れるようになっていました。
その後これより2kmの表示通りに歩け!歩け!で「古代蓮の里」に到着でした。
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古代蓮の里はもともとこの地そばで偶然出土した蓮の種がそれも偶然開花し、発見されてできたようです。今では天然記念物「行田蓮」(古代蓮)は行田市のシンボルです。蓮の花は4日間の命ですがそれにしても見事に咲いていました。
古代蓮会館前には世界の蓮園があり42種、約12万株を見ました。
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紅万々 
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剣舞蓮
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誠蓮
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また古代蓮会館の後ろには古代蓮池が広々とありそれは見事でした。
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行田蓮が花盛りでした。
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その後古代蓮会館の50m展望タワーに上り、眺望を堪能しました。蓮池の全体も見えましたがなんといっても広大な水田をキャンパスにした「田んぼアート」が見事でした。
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今年は6月12日にボランティアも含め総勢377名で田植えをしたそうです。本年の令和3年度デザインテーマは『田んぼに甦るジャポニズム〜浮世絵と歌舞伎〜』。ちょうど今日は見ごろの時期だったようでとても堪能しました。そして来年も見に来たいと思いました。
こうして本日は古代蓮会館前15:49のバスでJR行田駅に戻り、解散でした。

本日は上福岡〜川越〜大宮〜熊谷〜秩父鉄道行田市駅までが遠かった!そして10:15小雨の中、講師の喜多見先生、TD小松さんと共に19名が出発。途中の写真はちょっと雨降りの為、余裕もなく、あまり満足しないものが多かったのです。それでも帰宅すれば24000歩でしたから、まずは満足した1日でした。しかしです。蓮の花を充分に楽しめなかったこと、忍城を垣間見たけれど写真を写せなかったことが「残念!」という気持ちが残った一日でもありました。ということで数日後の行田市再訪を試みることにしました。

                     
2021.7.7 行田市再訪ドライブ
3日前の行田市ウォーキングは小雨の中でのウォーキング。本日は「晴天」ということで仕事をお休みし、行田市再訪のドライブです。

古代蓮の里⇒水城公園⇒十万石まんじゅう⇒行田市郷土博物館・忍城

「古代蓮の里」はとっても良かったです。展望タワーから見た蓮池や田んぼアートは本当に堪能しました。この日の蓮の写真は上記の7/4の記事の写真にしてあります。
行田市役所の駐車場に車を入れてから水城公園を散歩。芝生広場の反対側の池にラッキーなことにホテイアオイが咲いていました。
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ホテイアオイは南米原産の外来種。非常に繁殖力が強い水草だそうで、あちこちで生態系を壊していて、世界中で問題になっているらしいです。日本では、「世界の外来侵入種ワースト100」などというありがたくない称号をいただいているようです。でも、花はきれいです。8月が最盛期と聞いていましたが、今回撮影できてラッキーでした。ホテイアオイの花は普段は葉の下にいて、咲くときに一日だけ顔を出すそうです。

街をウォーキング中に行田市ならではのマンホールも見つけました。
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行田市産業文化会館のそばに貴婦人と呼ばれる「蒸気機関車C5726」が鎮座していました。
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いよいよ忍城(おしじょう)に向かいました。
世間的には映画「のぼうの城」の舞台となったところです。
「忍城(おしじょう)」は、古く文明年間(1469〜1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされており、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられているようです。
1590年、豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で、石田三成らによる水攻めを受けたけれどこの水攻めは失敗に終わっており、このことから「浮き城の町 行田」とのキャッチフレーズとなって今に残っているようです。
この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれたけれど、明治6年に競売されて解体されてしまったそうです。その後、復元された御三階櫓は現在では資料館になっていて最上階の4階は展望台でした。郷土博物館から廊下で続いていました。
まずは忍城御三階櫓のきれいな姿を見ながら浮き城の径を行くと門がありそこから入りました。
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とてもきれいな花手水がお出迎え。
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行田市郷土博物館は、忍城(おしじょう)の本丸跡地に位置する博物館で住所が本丸になっていました。多くの実物資料が展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化が見られました。周辺は城址公園として整備され、自然に囲まれた憩いの場のようでした。
また博物館の中から御三階櫓につながっており、中を見ることができました。
こうしてようやく行田市見て歩きに満足した次第です。もちろん行田市郷土博物館では続日本の100名城スタンプをいただきました。ということで本日は約10000歩。どうやら日頃の歩数を達成し満足な1日となりました。
posted by yunofumi at 12:16| あちこちウォーク

2021年06月23日

2021.6.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 桶川市

JR桶川駅⇒西口公園⇒埼玉文学館⇒第六川越街道踏切⇒武村旅館⇒べにっこ⇒桶川市南1丁目歩道橋⇒手打ちうどんいしづか⇒桶川駅前信号⇒島村家住宅⇒矢部家住宅⇒小林家住宅⇒桶川本陣遺構⇒中山道商店街⇒中山道宿場館⇒桶川市観光協会⇒中山道桶川宿手洗い処・お茶博士辻村みちよ顕彰碑⇒稲荷通り⇒稲荷神社⇒平屋(昼食)⇒桶川西一郵便局⇒松山以奈り道の道しるべ⇒桶川小学校⇒桶川市役所⇒泉二丁目信号⇒スーパーBENIBANA WALK⇒桶川の美女⇒農家の店新桶川店⇒愛宕神社⇒ローソン⇒富士塚⇒桶川市川田谷生涯センター・歴史民俗資料館⇒城山公園⇒川田谷信号⇒べに花畑⇒JR桶川駅

桶川市内を流れる川には荒川(あらかわ)、江川(えがわ)、鴨川(かもがわ)、芝川(しばかわ)、元荒川(もとあらかわ)、赤堀川(あかほりがわ)、高野戸川(たかやどがわ)、綾瀬川(あやせがわ)などがあります。また桶川の名前の由来(ゆらい)はいくつかあるようですが「沖側(おきがわ)」説で、「沖(おき)」を「広々とした田畑」の意とし、 その方向を意味する「沖側(おきがわ)」がなまって【おけがわ】になったのが有力。 ほかには、湿地(しっち)が多く、芝川や鴨川の水源(すいげん)があることから、「川が起(お)こる」意で「起き川(おきがわ)」とする説などがあるとのことです。
桶川市は25.26km2。昭和45年に県内31番目の市となったとのこと。もともとは69の宿場があった中山道の宿場町で紅花宿といわれた街。桶川宿は江戸から10里で6番目の宿場。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒を含め、347軒の家々があったといわれています。そういえば桶川宿本陣には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したとのことも聞きました。ちなみに埼玉県内の宿場は蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の9宿場がありました。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781年〜1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂」(おけがわえんじ)の名で全国に知られるようになりました。出羽国・最上地方では7月に紅花が収穫されますが、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができますので、「早庭(早場=はやば)もの」として重宝されたのです。幕末には出羽国に次ぐ産地になっていました。明治時代に化学染料の導入で、紅花産業は衰退、現在では『桶川祇園祭り』などに全盛期の繁栄を偲ぶのみとなっているのです。ちなみに、紅花の花を摘んで発酵、乾燥させたものが、紅色の染料、口紅になり、京、江戸などに運ばれたのです。そのため米は1反あたり平均2両で取引されましたが、紅花はその倍の4両にもなり、桶川の繁栄の土台となったのです。

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桶川駅すぐそば若宮1-5にあるのが西口公園。ここには四つのテスト像がありこれは桶川ロータリークラブ設置で大切な約束が四つ書かれていました。
1真実かどうか 2みんなに公平か 3好意と友情を深めるか 4みんなのためになるかどうか
今から60年以上も前の大恐慌のさなか、一人のロータリアンが4項目からなる簡明な倫理指針を考案しこの指針は、窮地にあった彼の会社を救うのに役立ったとのことです。この指針が表現していた内容や信条はまた、ほかの多くの人たちに対しても、倫理的羅針盤を提供することになったのです。今日では、ロータリーの基本理念の一つとなっているとのことです。

また喜多見先生からは埼玉のミッドエリアを知ってほしいと「IKOKA」(いこか)を教えていただきました。 埼玉ミッドエリア「IKOKA」(いこか)は、埼玉県の中央に位置する4市1町(「I」=伊奈町、「K」=北本市、「O」=桶川市、「K」=鴻巣市、「A」=上尾市)からなる地域の総称(造語)で都心へのアクセスが良く、自然に恵まれ、住環境にも優れているため子育て世代の生活満足度が高く、住み替えを考えている人に注目のエリアなのです。

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さいたま文学館は、文学に関する資料の収集、展示、調査研究や文学の振興を図るために、埼玉県によって設置された施設。開館は1997年(平成9年)。埼玉県に縁のある文学作品や文学者の作品や資料を収蔵するとともに文芸講演会なども行われているとのことです。桶川市民ホールと同じ建物にある複合施設で、一体的な運用ということでした。埼玉ゆかりの文学者として田山花袋や武者小路実篤は知っていましたが安藤鶴夫、長谷川かな女、永井荷風は知らなかったのでまた作品を見てみようと思いました。

桶川はさすがにベニ花の街。マンホールにも登場です。
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武村旅館。
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JR桶川駅東口から桶川駅通り商店会を進み5分ほど、中山道を右折したところに建つ登録有形文化財の旅館。明治時代に板橋宿から移転してきた旅館で、現在もビジネス旅館を営んでいるとのことでした。建物内部を見学することはできませんでしたが、1852年建築の木とブリキの外観と瓦屋根、格子窓の建物は歴史が感じられ趣がありました。旅館と書かれた大きな看板が目印でした。

べに花まんじゅうは良質な小麦から作られた小麦まんじゅうに、べに花の色素を練り込みほんのり黄色みがかった皮になっていました。 こしあんやつぶあんをその皮で包んでいます。本日は鰍ラにっこさんのお饅頭を本日の埼玉銘菓としていただきました。

島村家住宅土蔵。
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武村旅館から旧中山道を北に150mほど行った右側にありました。ここも国登録有形文化財となっているとのことでした。島村家住宅土蔵は天保の頃の建物だそうです。中が資料館になっているようですが、今日は見られませんでした。

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矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されているようです。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでおりまた紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねていました。現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかっているようです。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われており、周辺地域でも数少ない珍しい意匠だそうです。中山道に面したこの土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4年〜大正9年)が明治38年に建立。桁行五間、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねているようです。桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとのことでした。

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小林家住宅はもと旅籠の建物を,材木商が幕末より店舗に用いてきたようです。切妻造,桟瓦葺,平入の2階建で,正面に下屋庇を設ける。2階の軒は出桁造で,2階開口部は横一杯に繊細な格子を建て込んでいます。街路に面して建っており,かつての宿場の面影が伝わっています。

桶川本陣遺構。
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桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣。本陣とは、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿のこと。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが格式として認められていたようです。また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役としては脇本陣がありました。本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われたようです。桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期の頃。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっており。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めたようです。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めたのです。

中山道宿場館・桶川市観光協会。
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桶川市の宿場情報や市内の史跡・観光情報の案内がありました。中山道情報コーナーでは、日本橋から大宮宿、桶川宿、埼玉県内の最後の宿場本庄宿まで、地図を用いて紹介。
中山道桶川宿散策コーナーでは、中山道 桶川宿周辺の文化財や史跡、寺社などスタッフ手作りのマップと写真で紹介。 かなり山盛りで色々おいてありました。
そうそう入口にあったべに花の鉢からギザギザのとげ葉は従来からの品種、丸葉は改良種とわかりました。

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中山道桶川宿手洗い処の案内通りに入ると石碑「渋味」と書かれた「式紙塚顕彰碑」がありました。日本最初の女性農学博士で緑茶の「ビタミンC」や「カテキン」を発見した桶川生まれの辻村みちよの功績をたたえた顕彰碑です。

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桶川稲荷神社は、嘉禄年間(1225-1227)に創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎したとのことでした。明治6年村社に列格、明治40年桶川宿に鎮座していた宿の鎮守神明社・字西ノ裏白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社を合祀、その後雷電社・浅間社・八雲社(市神)を合祀したようです。

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稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いとのことです。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれているとのことです。

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稲荷神社拝殿の正面には一対の大きな石燈籠がありました。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えており、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものとのことでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたとのことです。燈籠には紅花商人中として計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあるのです。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。これがきっかけで今また桶川をべに花盛り上げようと機運が高まってきているとのことでした。

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平屋では昼食時にべに花まんじゅうもいただきました。

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松山以奈り道(まつやまいなりみち)の道しるべは桶川小学校の敷地内にありました。これは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、1836年(天保7年)に建てられ、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印となったようです。このことがわかるのは、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれており、「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとても昔としてはユニークな道しるべなのです。

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桶川の美少女 大工 岡野靖夫がコンクリを固めて作った手作りの作品とのことでちょっと怖いですね。

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愛宕神社は百日咳の守護神といわれ、昔から婦女子の参拝が多く、庭に大きなイチョウがあり、その木の枝に、乳の形をしたものがあり、お参りすると乳が出るようになると言われていたようです。

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川田谷の富士塚は地元では浅間様と呼ばれ、大正末年まで毎年7月1日の山開きの日には先達を中心に信者が集まったということでした。

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桶川市歴史民俗資料館は、川田谷生涯学習センター内にある市立の博物館。桶川の歴史と文化を今に伝える文化財の収集・保管及び調査研究、さらには公開普及活動を実施する地域文化財保護拠点施設とのことで、本日は館長さんが説明をしてくださいました。

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JR桶川駅から約3.5kmに位置する城山公園は、14世紀に築城された東西120m南北110mの平山城の「三ツ木城」の城跡横に造園された公園。「三ツ木城」は、太田氏岩槻城の支城のひとつとのことです。本日はそこまで見に行きませんでしたが、現在の城址はこんもりとした樹木に覆われ、小高い丘となっていて少しはお堀らしきものが見られる程度とのことでした。公園南側に約300本の桜が見られましたからきっと春のお花見に良いと思いました。

べに花畑。
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昔、染料や口紅として使われたべに花は江戸時代の終わり頃、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」の名で全国的に有名でした。 現在、桶川市では、マスコットキャラクター『オケちゃん』をはじめ、「べに花」をシンボルとしたまちをづくりを行っているとのことです。昨年同様、コロナ禍でべにばな祭りは中止とのことです。そこで桶川市歴史民俗資料館そばのべにばな畑を見せていただいた後、お花を2枝お土産に本日の行程が終了となりました。お陰様で家族でべにばなを楽しみました。
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本日は思いがけず青空の元、お馴染みの喜多見先生、TD林さんと19名の仲間が参加。AM10:00〜PM3:00前までのウォーキングで最後はバスで駅に戻り、ちょっと元気が回復して帰路につきました。気温も上昇、日差しが強く、約2万歩超はちょっときつかったです。本日のお土産だった「べに花まんじゅう」はちゃっかり昼食時にいただいてしまい、「べにばな」のみのお持ち帰りでした。でも家族には好評でヤレヤレでした。
posted by yunofumi at 15:16| あちこちウォーク

2021年06月11日

2021.6.6 さいたま彩発見ぶらり街あるき 蕨市

JR蕨駅⇒ぶぎん通り商店会⇒蕨駅前郵便局⇒武蔵野銀行⇒駅前通り⇒蕨ピアロード⇒パンの樹⇒COUTURE KAWAMURA⇒蕨高校通り⇒蕨公園⇒北町コミュニティセンター⇒北町コミュニティ通り⇒金亀山三学院⇒萬寿屋⇒近江屋⇒四国屋⇒蕨本陣跡・蕨市立歴史民俗資料館⇒蕨市立歴史民俗資料館分館⇒蕨町道路元票⇒朝日湯⇒甘露山長泉院⇒和楽備神社⇒蕨城跡⇒Coffee Bell⇒要害通り⇒金峰山宝樹院⇒蕨市民公園⇒塚越稲荷神社⇒機神社⇒JR蕨駅

蕨市は人口約75000人、面積が埼玉県内で一番小さい市とのことで人口密度は14679人/1km2 。蕨の地名は植物の「蕨」が由来、または「藁の火」から名付けられてとの説があるようです。

JR蕨駅は明治26年に日本鉄道の駅として開業。現在は京浜東北線が停車する駅。昔は宿場としても栄えていた証拠でしょうか。「蕨駅開設記念碑」が階段を降りたところにありました。
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駅前広場の「若き日」像は2人の裸婦像で蕨画塾の彫刻家長谷秀雄さん作で1982年蕨青年会議所が設置したということでした。
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最近、蕨市が舞台の女子サッカーアニメ「さよなら私のクラマー」が映画にもなったそうです。このアニメに描かれているのがぶぎん通り商店会。ぶぎんとは1952設立の武蔵野銀行の略称。
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街中で見られた「サヨナラ私のクリッパー」のポスター。
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「パンの樹」はあんドーナツと小倉あんぱんがお勧めとのことでした。本日は残念ながらお休み。

COUTURE KAWAMURA(クチュールカワムラ)は蕨双子織(わらびふたごおり)を中心にオリジナルバッグや洋服を販売していました。
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蕨双子織はかって機織り(はたおり)の町として栄えた宿場蕨で江戸時代末期にファッショナブルな色彩と縦縞柄から人気を博した綿の着物地。歴史を振り返り2004年に文献を元に復元され現在の蕨市の地域資源となったのです。細い2本の糸をより合わせた双糸を使用して織られる双子織は超高度密度で滑らかな手触りと綿の素朴さ、美しい縦縞柄が特徴の綿織物なのです。

蕨市は小さな市でコンパクトシティと言われているそうですが公園は多いようです。この蕨公園は遊具などもありますが「わらびりんご」の木が見られました。わらびりんごは日本一早く6月には実をつけるとのことで今日もいくつかの実を確認できました。
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わらびりんごは錦町の農家の故・吉澤正一さんが約20年がかりで研究・開発した極早生種。吉澤さんがリンゴ作りを始めたのは昭和38年のことでリンゴの種を庭にまくと、約200本が発芽。そのうち1本を育て始めると数年後に白い花が咲き、その2年後、6月末に赤い実をつけ「突然変異では」と直感した吉澤さん。「リンゴのない季節に病人や子どもに新鮮なリンゴを」と研究を重ねました。そして昭和56年。ついに市の名前を付けた「わらびりんご」が新品種登録されたのです。
4月上旬、桜の花と入れ替わるように、白い可憐な花を咲かせ、満開から60日程度の6月下旬にはその実を赤く染めるのです。直径7p前後、重さ150〜200gほどの小ぶりで酸味のきいた味は、ジュースやジャム、アップルパイなどにして味わうのが一番とのことです。
現在は蕨市内のあちらこちらや「わらびりんご公園」でこの「わらびりんご」の木が見られまた収穫は皆さんですると伺いました。

金亀山極楽寺三学院(ごんきさんごくらくじさんがくいん)は新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちざんは)の寺院。平安時代の創建で蕨市内最大の寺院。
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本尊の木造十一面観音菩薩立像があるとのことです。
焔魔堂です。
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三学院梵字馬頭観音塔です。
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六地蔵と目疾地蔵です。
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蕨宿関係墓石群です。
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境内にはハスの花も咲いていました。
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はね橋。
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蕨宿は周囲を用水堀で囲まれていたため家の裏手に「はね橋」を設けて出入りしたとのことです。はね橋を写真のように引き上げると家への出入りができなくなるので防犯にはよかったようです。

天保年間創業、「萬寿屋」は本手焼きの煎餅屋です。
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歴史を守りながら、新しい感覚も取り入れているとのことで薄めで食べやすい、しょうゆ味の懐かしい煎餅はとても手ごろでしたからお土産に買い求めました。
たまたま店頭には今朝開花したサボテンが歓迎してくれました。
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中山道沿いには「景観建築物」ということで古い建物が見られました。近江屋です。
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昼食は四国屋で天ぷらとうどんのセットをいただき、デザートは甘酸っぱい「わらびりんご」のシャーベットでした。
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蕨本陣跡は今、蕨市立歴史民俗資料館になっていました。
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ちょうど6/5から「さよなら私のクラマー」展が開催中でした。
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奥の方では従来の展示がありました。
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またすぐ近くに明治時代の織物買継商の建物だった蕨市立歴史民俗資料館分館もありました。
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立派な庭園もあり、また座敷には話題の渋沢栄一さんの書が飾られていました。
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今日の道中は中山道沿いのルートが多いです。そういえば江戸時代に江戸と京都を結ぶ街道は「中山道」と表記されており、たまに「中仙道」も使われているようです。
途中で蕨町道路元標を見つけました。
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甘露山長泉院(ちょうせんいん)は」真言律院宗霊寺派の寺院で1753年(宝暦3年)に創建され檀家を持たない祈願寺。ご本尊は大威徳明王像(だいいとくみょうおうぞう)とのことです。梵鐘は通称「おしゃみの鐘」といわれています。梵鐘には乳のかわりに梵字が鋳出され、撞座を4個持つ特徴があるようです。なぜかこの梵鐘は本堂の屋上にありました。

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和楽備神社(わらびじんじゃ)は1911年(明治44年)に蕨にあった18の鎮守社を合祀してできた神社で万葉仮名の表記で「和楽備神社」と名付けられたとのこと。
合祀以前は八幡神社が鎮座し、中世に蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝えられているのです。
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和楽備神社のすぐ隣に蕨城跡がありました。
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またすぐそばに「成年式発祥の地記念像」の碑がありました。
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蕨市の成年式は、終戦の翌年である昭和21年に、日本中が敗戦による虚脱状態にある中で、「次代を担う青年達を、まちをあげて激励しよう」と開催されたもので、それが全国に広がり、 2年後の昭和23年、国民の祝日に関する法律で「成人の日」が制定され、国民的な行事として定着したとのことです。この像は市制施行20周年と成人の日制定30周年を記念して昭和54年1月15日に城址公園に建立されたのです。

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要害通りは戦国時代、蕨城を守る要害の地で、今では住宅街の中で緑と水を湛えた憩いの場、「要害通りせせらぎ遊歩道」として国交省の「生活の中にいきる水辺三十選」にも指定されているとのことです。

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金峰山宝樹院(きんぶさんほうじゅいん)は臨済宗の寺院。開基は渋川氏ということから創建は中世以前のようです。ご本尊は地蔵菩薩像。
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裏手の墓所には1567年(永禄10年)に上総国(かずさのくに)の三舟山合戦で戦死した蕨城主渋川公とその夫人を祀った石碑は夫妻の250数年忌に造立されたようです。

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塚越稲荷神社(つかごしいなりじんじゃ)は1500年頃(明応年間)に創建のようです。社殿が約6mの塚の上にあり名前が塚越となったようです。
境内に機神社(はたじんじゃ)がありました。
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こちらは蕨の双子織などの織物業を発展させた5代目高橋新五郎と妻いせうを「機神様(はたがみさま)」として祀っているとのことです。反物や糸取りの道具もおかれており、木綿糸がみられました。こちらの前身は関東大権現社の神像である徳川家康座像もともに祀られているとのことでした。
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正観世音菩薩のお堂もありました。

本日はお馴染みの喜多見先生、TD小松さんと19名の仲間がAM10:00〜PM3:00までのウォーキングでした。スタート時は曇天でしたが昼食前にポツリ、ポツリ。午後はさすがに合羽を着ましたがこれが蒸し暑い!といいつつまあ、無事に終了。帰宅してみれば2万歩超ですから、まずまずの成果!
お土産はわらびもちと手作り煎餅、それに蕨双子織のサンプルと塚越稲荷神社からいただいたアマビエのお守り。
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ということで皆様、また次回もお会いしましょう。
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2021年05月14日

2021.5.9 さいたま彩発見ぶらり街あるき 久喜市

JR久喜駅⇒米津氏御陣山神社⇒天王院⇒八雲神社⇒光明寺⇒御嶽神社⇒甘棠院⇒甘棠院史跡公園⇒古久喜南歩道橋⇒東武伊勢180号踏切⇒葛西用水路⇒下河原橋⇒コスモスふれあいロード⇒上河原橋⇒河原神社⇒すぎのや本陣鷲宮店⇒東鷲宮駅入口信号・県道さいたま栗橋線⇒西大輪神社⇒霞ヶ関橋⇒郷土資料館⇒霊樹寺⇒大酉茶屋わしのみや⇒鷲宮神社・光天之池⇒東武伊勢崎線鷲宮駅

JR久喜駅。
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久喜市は「風の見える街」がキャッチフレーズのようです。駅前には風に吹かれている女性像のモニュメントがありました。
JR久喜駅にはJR東日本の東北本線と、東武鉄道の伊勢崎線の2路線が乗り入れており、また東武鉄道伊勢崎線の乗換駅でもあります。JRは1885年(明治18年)に開業、1899年(明治32年)には東武鉄道駅が開業とのことでした。歴史の長さにびっくりです。

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街のウォーキングが始まるとすぐ電柱がなく、路肩には大きなボックスがほとんど2個組で鎮座。側面には大きく「久喜の提燈祭り」とあり勇壮な神輿を担いでいる写真がありました。お祭りはこれから伺う天王様の行事で町を挙げての行事とのことでした。

御陣山神社。
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広い公園と小高い丘の上に神社がありました。わかっているだけで徳川16神将と言われた米津常春(よねきつつねはる)、米津家初代で2代目徳川秀忠に仕えた米津田政(よねきつたまさ)、米津家2代で大阪定番の大名だった米津田盛(よねきつたもり)、そして武蔵国久喜藩初代藩主米津 政武(よねきつ まさたけ)がここに陣屋を構えていたようです。

天王院。
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本山は山梨県に所在する広厳寺で、1523年(大永3年)に妙鑑によって開かれた曹洞宗の寺院。過去には境内にお籠堂が所在し、清久地区・江面地区などから老人が集い、飲み食いをして楽しむことも行われていたとのことです。

八雲神社。
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八雲神社は天王院の境内に所在する神社で旧久喜町の総鎮守。元は天王院の別院として祭られ「天王宮」と称されていたのが、明治初期の神仏分離によって1873年(明治6年)3月に祭神は天王院より氏子へ移され、その際「天王宮」より「八雲神社」へと改称されたようです。ということで7月12日・18日に行われる勇壮な久喜の提灯祭り・天王様はこの八雲神社の祭典なのです。

光明寺。
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薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)ともいうようです。光明寺に薬師如来がまつられたのは、今から約1300年前のこと。そのとき、この地に流行していた疫病を鎮めるために、徳の高い僧侶、行基が、久喜の地の一番の高台に薬師如来を安置し、疫病退散を祈願したのです。行基は、孫悟空が付き従った三蔵法師のモデル、中国の唐代の三蔵法師玄奘の愛弟子道昭の、そのまた愛弟子とのことです。彼の安置した薬師如来の霊験(れいけん)によって、疫病は無事おさまったと伝わっております。そこでこの地に光明寺が建てられたということでした。もちろん薬師瑠璃光如来は秘仏でしょうから見ることができませんでした。
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1873年(明治6年)に近代的な学校制度の導入と共に「久喜学校」が光明寺に開設され、1913年(大正2年)に小学校新築移転となるまで光明寺は久喜の人々の学び舎となっていたようです。
光明寺の墓所にある中島撫山の墓。
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幕末から明治期の教育者である中島撫山は、1873年(明治6年)に私塾「幸魂教舎」を開くなど、埼玉東部地域の教育に大きく貢献した方です。光明寺にあるのは撫山の神道式の墓で、撫山の妻子や兄弟とともに葬られているとのことでした。

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この御嶽神社(おんたけじんじゃ)は1887年(明治20年)に南埼玉郡久喜本町(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本字荒鎌)に祀られたのが始まりとのこと。
境内施設として本殿、鳥居、「御嶽教 寿幹教会 御嶽神社」と彫られた標柱、樫の木(御神木)、灯籠、狛犬が見られました。

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甘棠院(かんとういん)は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺(えんがくじ)派の寺院。甘棠院の総門を入ると、中門前面から院の東西に100m、南北に250mの空堀が見られました。1925年(大正14年)には「足利政氏館跡及び墓」として埼玉県指定史跡となったとのことでした。
足利政氏は、父の死後、明応6年(1497)古河公方と称しいったんは小山(栃木県小山市)に移ったあとここ甘棠院に隠居したということです。1519年(永正16年)館を寺院として永安山甘棠院と称し開山したとのことでした。
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甘棠院の境内に「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がありました(享禄4年は1531年)。

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甘棠院史跡公園は、甘棠院の北側にあった養護老人ホームの移転に伴って跡地を整備して作られた公園。園内には、戦国時代に活躍した足利政氏が隠退した館(甘棠院)から続く堀の一部が残っている他、雑木林や竹林、梅の古木などの自然がそのまま残っていました。竹藪には鷺が巣作りをしており優雅に飛んでいる様子も見られました。

鷲宮地区の中央を流れる葛西用水路沿いの両岸約10kmを整備し、春は「ポピー」、秋は「コスモス」が咲き誇るとのことでした。
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実際にはポピーはあと1週間ほどで満開かもしれなかったです。
途中の下河原橋、上河原橋を過ぎるあたりには「コスモスふれあいロード」の案内もありました。

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河原神社はJR東北本線『東鷲宮駅』から西へ300mに鎮座。県道3号を越え、「すぎのや」脇の路地を入り葛西用水沿いにあります。以前は白山神社といわれたようで、2000年代になると河原神社と表記されたようです。

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昼食は「すぎのや本陣鷲宮店」のレディスセットでした。イヤー!量が多くて満腹!!

西大輪神社(雷電神社)。
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御祭神は別雷之大神というようです。向かって左の石灯篭は文化12年の作とのこと。例祭日は7月25日ころの日曜日で獅子舞が有名。五穀豊穣と悪疫退散の願いが奉納されるようです。
海のない埼玉県ですが大落古利根川((おおおとしふるとねがわ)や会の川(あいのかわ)などがありそれらにより河畔砂丘ができたようです。久喜市には西大輪砂丘と高柳砂丘が形成されており、ここが西大輪砂丘だそうです。

郷土資料館。
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もともとは平成10年に鷲宮町立郷土資料館として開館。
平成22年に久喜市、菖蒲町、栗橋町及び鷲宮町の合併により、久喜市立郷土資料館となったとのことでした。歴史的資料の収集・保存や調査研究を生かした企画展・特別展や各種講座等が盛んに行われている様でした。

霊樹寺には、平安初期の一木造りの伝統を受け継いだ釈迦如来の案内がありましたが実物は見られませんでした。また参道の両側に本堂側から左右で16体の像がありました。
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鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称され天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神としているようです。
入口には大鳥居があったようですが老朽化で倒れたようで基礎だけが見られました。
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拝殿。
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本殿。
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拝殿手前には光天之池がありました。
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大酉茶屋田田(おおとりちゃやでんでん)。
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鷲野宮神社前の御休み処。京都で修業した店主が食材にもこだわり体と心に優しい食を提供しているようです。2007年12月2日にアニメ『らき☆すた』にて、旧・鷲宮町内が舞台モデルの一つとなったことが縁となり聖地といわれているようです。

本日はカラフルマンホールを2つ見ました。
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こちらは久喜駅西口にありました。久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは久喜市商工会マスコットキャラクター「来久ちゃん」です。「来久ちゃん」は関東一といわれる久喜の「提燈」と市の木「イチョウ」がモチーフ。「LIKE CHAN」とあるように「らいくちゃん」と読むらしいです。
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鷲宮神社そばの路上にありました。
こちらも久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは「らき☆すた」の主要人物「柊つかさ」と双子の姉の「柊かがみ」。右下に刻まれている文字は「ⓒ美水かがみ/KADOKAWA」。『らき☆すた』は、美水かがみによる4コマ漫画とそれを元にしたゲーム、アニメ、小説作品で、柊姉妹の父親が宮司を務める「鷹宮神社」のモデルが「鷲宮神社」だそうです。

本日の喜多見先生からのおすすめ埼玉の逸品は島田菓子舗の「いがまんじゅう」。
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いがまんじゅうはこしあんの饅頭の周りに赤飯がまぶしてあるのが特徴で、赤飯をまぶした姿が栗のイガのように見えることから名づけられたと言うことです。

本日は喜多見先生・TD池谷さんの引率で18名が参加。天候はほぼ晴れでしたが昼食前後にパラパラ雨が降りちょっと慌てました。しかし全体的にはのんびりゆっくり約21000歩、約10kmを完歩できたことに感謝!感謝!!
今日は暑かったので郷土資料館の見学をほどほどにそばのコンビニに駆け込んで今年はじめてのガリガリ君を食しました。本当に暑さがすごかったのです。
本日のもう一つのびっくりはスタート前集合時に東海道五十三次でご一緒したNさんとバッタリ!思い起こせば東海道五十三次が2013年10月に完歩していますので、まったく懐かしい!!ということで解散後、久しぶりにお茶をし、またの再会を約束しました。またしても次回も楽しみなのです。
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2021年05月05日

2021.5.2 さいたま彩発見ぶらり街あるき 草加市

草加市はすぐ隣がもう東京という位置にあります。本日は自宅から武蔵野線の乗り換え、その後東武スカイツリーラインで谷塚駅にやっと到着。思ったより住民も多い様子で町全体がきれいな感じでした。

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅⇒富士浅間神社⇒火あぶり地蔵尊⇒今様草加宿⇒浅古家地蔵堂⇒草加市役所⇒道標「葛西道」⇒八幡神社⇒藤城家住宅⇒草加駅⇒草加神社⇒氷川中公園⇒ARK PLAZA「夢や芭蕉亭」⇒大川本陣跡⇒清水本陣跡⇒おせん茶屋⇒草加市立歴史民俗資料館⇒東福寺⇒草加宿神明庵⇒神明宮⇒草加せんべい発祥の地「おせん公園」⇒札場河岸公園⇒草加松原⇒松原綾瀬川公園⇒草加市伝統産業展示室⇒松原大橋⇒獨協大学前(草加松原)駅

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅。
この路線は以前、東武鉄道伊勢崎線といったのです。1925年(大正14年)開業の駅と伺ってびっくり。なぜってこの草加は日光街道の2番目の宿場ですから当然か!と納得。
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谷塚駅東口広場にハープ像がありました。草加市は1993年(平成5年)「音楽都市宣言」をし、音楽振興推進中だそうです。

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同じく谷塚駅東口広場にあるモニュメント。タイトルは「循環」で永遠に繰り返される自然の営みと人の営みを表しているそうです。

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富士浅間神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をお祀りしています。
現本殿は1842年(天保13年)に再建されたとのこと。本殿の建物は、前面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、随所に彫刻を配したものでした。手洗い石には几号(きごう)水準点がありました。
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几号(きごう)水準点とは明治初期に土地の高低測量を行うために設けられた基準となる測量点で、イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたのです。

冨士塚。
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富士山を信仰する人々の組織、冨士講は富士行ともいわれ富士登山の代わりに誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚としているのです。この富士塚は高さ約4m、横幅10.4m、奥行8.6mとのことです。

火あぶり地蔵尊。
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地蔵堂のある所は昔の処刑場跡だそうです。昔々、借金まみれの貧しい母娘がいてその母が病に倒れたことから娘としては大金持ちの奉公先に看病したいと申し出ても認められず、思い余って奉公先に火をつけたそうです。当時、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定っていましたので、娘はこの地で処刑されたのです。でも村人たちはこの哀れな罪人の霊を慰めるために処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養したとのことでした。

今様草加宿。
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江戸時代初期、日光街道2番目の宿場町として誕生した「草加宿」を旧街道の風情、街なみ、川なみが残っているうちに、再生していきたいと街づくり活動が行われているのです。写真左側が旧日光街道とのことです。

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草加市役所傍にある浅古家地蔵堂は別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたということで地蔵堂があるようです。

道標「葛西道」。
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ここは草加宿から葛西道が分岐していた場所。葛西道はここ草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道だということでした。

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八幡神社はほぼ草加市の市街地の中心部に社殿を構える神社。江戸時代の正徳年間に神主長太夫が、八幡の神体を稲荷社に合殿としたようです。
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社殿には、草加宿七福神の恵比寿が祀られまた、江戸時代に造られたという高さ83cmの大型の雌雄一対の獅子頭が社殿内に鎮座していました。

藤城家住宅。
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旧日光道中に面して建つ「店舗」は木造2階建ての桟瓦葺(さんがわらぶき)。2階部分は開口部を障子と雨戸、縦格子とする座敷で、1階部分は大きく持ち出した庇(ひさし)部分を巧みに店舗部分に取り込み、畳敷の張り出た売場は商家の佇まいそのものです。外観は主屋根の軒先の出桁造(だしげたづくり)と縦格子が往時の風格を伝えています。

おせんさん。
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日光街道沿いに栄えた草加宿の茶屋でおせんさんが当初はお団子を作って売っていたところお団子の次の新製品として武者修行の侍から教えられてお団子をつぶして天日で乾かし焼きもちを作ったのが草加せんべいの始まりだったようです。
そして今、草加駅東口に「おせんさん」が見られるのです。
さらにちょっと離れて草加せんべいをおいしそうに食べている「あこちゃん」がいます。
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実はすぐ近くに「アコス」という商業ビルがあり、それから命名したそうです。
像の作者は草加市生まれの彫刻家、麦倉忠彦氏とのことでした。

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草加神社(旧社名・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴きたことが元とのこと。享保2年神階正一位の宣旨を受け、明治6年村社に列し、同40年政令により草加町内の諸神社十一社を当社に合祀し、同42年社号を氷川神社改め、草加神社となりました。現本殿は天保年間の造営とのことです。その後定期的に本殿周囲の玉垣設置、手水舎、拝殿補修、拝殿屋根葺き替え、神輿倉の造営など行っているとのことです。本殿は二間社流造りで、多彩な彫刻がありました。

草加宿には2軒の本陣があったことから旧日光街道に面して大川本陣と清水本陣の石碑がありました。
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草加市立歴史民俗資料館。
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当館の建物は、2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録された歴史ある建物。もとは、1926年(大正15年)、草加小学校西校舎として、建築家・大川勇氏の設計により建てられた、埼玉県初の鉄筋コンクリート(RC)造校舎とのことです。その後草加小学校校舎としての利用は1979年(昭和54年)で終了し、その後現在の資料館になったとのことでした。
沢山の展示の中でも綾瀬川から出土した丸木船が印象的でした。本日は2階で端午の節句展が開催中でした。
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東福寺は草加宿の開宿に尽力した大川図書(おおかわずしょ)が1606年(慶長11年)に創建。本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物。山門や欄間に彫刻がありました。墓処には大川図書の墓がありました。

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草加宿神明庵は、旧日光街道沿いの古民家(旧久野家)を使った観光案内所のような施設でした。中に入ると暖かいお茶をいただきました。

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神明宮は1713年(正徳3年)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたということです。現在の社殿は1847年(弘化4年)に再建されたものだそうです。
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鳥居横の大きな石には几号(きごう)水準点が読み取れました。午前中に三田富士浅間神社の几号(きごう)水準点よりははっきり読み取れました。

おせん公園には河合曽良の像がありました。
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草加せんべい発祥の地「おせん公園」には自然石で作られた石碑がありました。
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伝右川を渡ると札場河岸公園です。ここは草加松原の南端にあたり、園内には芭蕉像、望楼、かっての河岸場、お休み処草加宿芭蕉庵がありました。
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珍しかったのは甚右衛門堰(じんざえもんぜき)。
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伝右川の2連アーチ型煉瓦造りの水門で明治7年に再構築されたとのことでした。

草加松原遊歩道は約1.5km、旧日光街道沿いに松が634本(むさし)植えられているのです。風景としてはとてもきれい。
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途中に太鼓の型で矢立橋と百代橋があり上からの松並木も見事なのです。
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松並木途中に小さなハープが飾られたハープ橋がありそれを渡ると松原綾瀬川公園に入り草加市伝統産業展示室「ぱりっせ」に到着です。
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ここは草加の3大地場産業の煎餅・ゆかた染・皮革の歴史や製造工程の紹介と製品販売をしていました。
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ウォーキングゴールは獨協大学前(草加松原)駅。東武スカイツリーラインの駅。元は東洋一のマンモス団地といわれた草加松原団地があったことから松原団地駅だったそうですが、1964年(昭和39年)そばに獨協医科大学ができたことから現在の「獨協大学前(草加松原)」に駅名が変更となったとのことです。

本日は喜多見先生・TD林さんの引率で18名が参加でした。今日は草加市の産物が草加せんべいはもちろん、本染めゆかた、皮革製品と改めて認識し、大いにうれしくなりました。ウォーキング中のルートだけでも十数軒の煎餅屋さんがありました。ちなみに市内では100軒以上ありそうでした。
喜多見先生おすすめのお土産はもちろん、「草加せんべい」。私は追加でお店ごとの味が違うということで詰め合わせも購入しました。
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今日一日のコースの中では昼食前後にパラパラ雨が降りましたが21000歩、約10kmはまずまずで終えられました。また次回もどんな街並みに出会うか楽しみにしています。
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2021年04月22日

2021.4.15 江戸古地図で巡る東京の街並み 第1回新橋・銀座・丸の内

我が家の地植の君子欄が今年も見事に咲いてくれました。この花を見ると「元気で今年も頑張ろう」と思う私です。
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JR新橋駅⇒GINZA9⇒土橋⇒静岡新聞ビル⇒出世街道⇒見番通り⇒金春通り・煉瓦遺構の碑・ノーブルパール⇒金春湯⇒寿司久兵衛⇒銀座博品館⇒新橋親柱⇒銀座柳2世歌碑⇒芝口御門跡⇒鉄道歴史展示室・旧新橋停車場⇒汐留シティセンター⇒日本テレビ・江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡⇒新橋駅鉄道唱歌の歌碑⇒旧読売ビル⇒烏森神社⇒末げん(昼食)⇒新橋駅・D51機関車⇒新橋駅高架煉瓦⇒渡邉木版美術画舗⇒潟Cシグロ⇒新橋会館⇒豊岩稲荷神社⇒交詢社⇒旧朝日新聞社屋・啄木歌碑⇒空也もなか⇒BAR LUPIN⇒みゆき通り⇒鳩居堂⇒安藤七寶店・悠久の翔⇒TERMES⇒TOYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒銀座ミキモト⇒銀座2丁目・銀座発祥の地碑⇒ヨネイビル・GINZA MAISON⇒奥野ビル⇒京橋跡・交番⇒東京大根河岸・青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥の地碑⇒GRAHMS CAFE⇒千葉定吉道場跡⇒福岡アンテナショップ⇒鍛冶橋門跡⇒三菱美術館⇒日本郵便・タラヨウの木⇒JR駅

新橋を出発すると土橋と表示した交差点がありました。土橋はかつてお濠であった汐留川に架かっていた土の橋で、橋というより土塁に穴が開いてて水が流れるものだったようです。1962年に開通する首都高速道路の京橋〜芝浦の3年前にこの土橋と城辺橋の間が開通し、日本最初の首都高速道路の入り口の場所となったようです。
今日はこの銀座8丁目からスタートです。

静岡新聞ビル。
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文字通り静岡新聞と静岡放送。そのほか山梨日日新聞・山梨放送などが入居しているビル。丹下健三さんの設計による、メタボリズムの思想を取り入れた建物ということです。

銀座にはビルとビルとの間を通り抜けられる路地が50以上あるそうです。その中で銀座8丁目にある見番通りと並木通りを結ぶ「出世街道」と呼ばれる路地がありました。かつて、故田中角栄氏が議員時代この界隈で飲食している時、国会へ呼び出された際に、この路地を通り抜けて国会まで続く道を駆け付けたこと、角栄氏が議員から総理大臣にまで上り詰めたこと、また、この路地から国会までほぼ真っすぐに続く道が次第に広くなっていることから、「出世街道」と呼ばれるようになったということです。この路地には、京風おでんなどの店「ぎんざ魁」、「出世街道ギャラリー銀座わたなべ」、有名店「小笹寿し」などが並んでいました。
見番通りはかなめ屋の前の通り。かなめ屋の斜前には「新橋見番」 るようです。
金春通りは江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しているようです。
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江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後も、この地にその名を留めているとのことでした。

煉瓦遺構の碑。
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明治になり江戸の大火を恐れた明治政府が銀座に延べ約10kmに亘る煉瓦街を造っつたとのことです。残念ながら煉瓦街は関東大震災で消失しましたが、昭和63年に幻と言われた煉瓦街遺構が発掘され江戸東京博物館に収蔵されました。この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえて収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、写真にある「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」なのです。
この碑のそばにあるノーブルパールは1946年(昭和21年)の創業以来、古き良き銀座の面影を今に残す金春通りにある「オートクチュール(高級注文服)」のお店。こちらの入り口傍には今もひっそりと昔の水道に使われていた木樋がおかれていました。

金春湯。
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現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)があるそうです。この金春通りにある「金春湯」はそのうちの一軒。銀座に残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の1863年(文久3年)ということですからもう150年以上の歴史があるとのことです。昭和32年に現在の建物に改築されたとのことですが、江戸時代から存続している都内の銭湯の3軒の内の1軒ということです。

新橋親柱。
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江戸時代は、汐留川に「新橋」が架けられおり、芝口御門が出来た段階で、芝口橋と名前が変わりました。その後、芝口御門の焼失に伴い、新橋の名前に戻されたとのことでした。

銀座柳二世の歌碑。
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銀座には昔は松・桜・まき・柳が、その後はイチョウが植えられたようです。そして今、最終的に柳並木を銀座に復活させているようで東京大空襲による多くの木が焼失されたなかからの復活なので、銀座の柳二世と言われているようです。

芝口御門跡。
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この辺りの高速道路の下には、もと汐留川が流れ、旧東海道には、昭和39年まで新橋が架かっていました。1710年(宝永7年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の意見で国の威光を示しために、この新橋の北詰に、城門が建設されて、芝口御門と呼ばれたのです。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられたのです。その後、この芝口御門は1724年(享保9年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去されたのです。

鉄道歴史展示室。
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1872年(明治5年)、新橋(東京都)−横浜(神奈川県)間に日本初の鉄道が開通したこと。この時の新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に再現したのがこちらの施設。建物の裏には旧新橋停車場があります。

新橋駅鉄道唱歌の歌碑。
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新橋駅烏森口のそばにあります。作詞は大和田 建樹、作曲は多 梅稚。ちなみに「汽笛一声新橋を---」に始まる歌詞は66番まであるそうです。

烏森神社(からすもりじんじゃ)。
烏森のこのあたりは武蔵の国桜田村と呼ばれていた頃、松林が多く鳥が多く集まりであった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。

末げん( すえげん)は、1909年(明治42年)創業の老舗料理屋。創業者の丸源一郎が修行した店「末廣」と、彼の名前「源一郎」から「末げん」と称したのが起源とのこと。
本日は親子丼セットをいただきました。
三島由紀夫が自決前日の1970年(昭和45年)11月24日に楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と最後の晩餐をした場所として知られるとのことでした。

渡邉木版美術画舗。
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珍しい浮世絵専門のお店。明治42年東京、京橋で創業とのこと。浮世絵専門の画商として、オリジナル浮世絵と浮世絵復刻版を国内外に販売しているとのことでした。

豊岩稲荷神社。
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ギンザ108ビル右横の路地入り口に目印の旗がありました。路地の奥に入ったところにあった神社。ビルの壁に張りついた平面神社で縁結びの神様としても知られており女性の参拝者が多く訪れるとのことでした。

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交詢社(こうじゅんしゃ)は明治初期、福澤諭吉先生の主唱により、「銀座の地に創られた日本最古の社交機関。学校教育を終えて社会人となった人たちが、めざましく変化する実社会にたいおうするため、各人が互いの知識を交換し合って、流動する社会の実務に対処する機会を提供しようとの主旨で「知識を交換し、世務を諮詢する」ことを目的に1880年(明治13年)にもうけられたとのことです。

銀座6丁目並木通りあったのが啄木歌碑。
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
このころは朝日新聞社に校正係として勤めていたようです。
この碑の裏にはキツツキ(啄木鳥)が造られていました。
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空也もなかは東京銀座6丁目にありました。
漱石が好んだ和菓子として有名で明治17年創業の老舗「空也」です。
サクッとした最中の中に上品なしっとり餡子が入っていて、とてもおいしい。普段は予約なしでは難しいらしいのですが新型コロナの影響でしょうか、幸い求めることができました。

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BAR LUPINは太宰治の小説が好きな方が死ぬまでに一度は行きたいというバーだそうです。林忠彦、織田作之助、坂口安吾などの文人が多く通っていたお店だそうです。


安藤七宝店の窓辺に「悠久の翔」というからくり人形がありました。夢童由里子さんの作品で作動は 13:30・15: 30・17:30・19:30だそうです。
今日は動くところは見られませんでした。

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銀座2丁目には「銀座発祥の地碑」があります。ここは江戸時代に銀貨を製造する銀座役所(銀貨幣鋳造所)あり、今の銀座のはじまりなのです。

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奥野ビルは昭和初期に建てられた当時としては最先端の高級アパートだったようです。有名ギャラリーやアンティークショップなどがビルの雰囲気を生かしているのです。今も手動のEVが使われているのが驚きでした。
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江戸歌舞伎発祥の地碑。
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1624年(寛永元年)猿若中村勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間あたり)に猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりとのことです。当時は中村座のほかに市村座、森田座山村座がお上から許されていた芝居小屋だったそうです。役者としては市川団十郎や尾上菊五郎などが人気者だったようです。

JR東京駅八重洲口前を通る外堀通りは、かつて江戸城の外濠だった場所。鍛冶橋門は、1629(寛永6)年に秋月藩主黒田長興らによってつくられ他とのことですが今は「鍛冶橋門跡」という説明版があるだけでした。門前には御用絵師として江戸城本丸の襖絵を描いた加納探幽の屋敷があったようです。

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「三菱一号館」は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された建物。ここは全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられているとのことです。この建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地に2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として再出発したのです。

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この木は東京駅そばのKITTEにある「タラヨウの木」です。これは郵便局のシンボルの木で「はがきの木」とも言われ、実際に郵便はがきとして使えるのです。

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東京駅(とうきょうえき)はJR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、地下鉄丸ノ内線が発着するターミナル駅。いつ見ても美しい駅舎は辰野金吾設計で完成まで8年かかったようです。

今日は晴天の下、それも微風で心地よい日和の中のウォーキングでした。21人の仲間と共に、何度も訪れている銀座中心のウォーキングでした。古い街なので色々ありましたが知らないことも多く、とても面白かったです。
ゴールの東京駅に着いた頃は17000歩くらいでしたから距離としてはそんなでもなかったのです。さてこのシリーズは今後、神田ー湯島ー両国ー浅草ー上野ー六本木と6回シリーズで展開予定なのです。いずれも行ったことがあるといえばそれまで! やはり本日のように新発見があるはずですから楽しみにいたします。
皆様も楽しみにして待っていてください。そしてこのブログを参考に皆様も街歩きを楽しんでいただきたいです。
posted by yunofumi at 13:59| あちこちウォーク

2021年04月17日

2021.4.11 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第12回桜区

JR埼京線南与野駅--路線バス-埼玉大学⇒大久保の大ケヤキ⇒えの本(昼食)⇒秋ヶ瀬公園⇒鴨川堤桜通り公園⇒新開タワー(しびらきたわー)⇒さくらそうウ公園・田島ケ原さくらそう自生地⇒鴨川・昭和水門⇒JR西浦和駅

南与野駅(みなみよのえき)は、埼京線の駅。、埼京線は大崎駅から新宿駅、池袋駅、赤羽駅、武蔵浦和駅を経由し、大宮駅までを直通運転しています。常日頃は乗りなれていない路線なので列車のスピードがとても早く感じました。1985年開業の駅ですがまだまだ乗客は少なそうでした。東口前には広々とした鈴谷東公園がありました。
桜区はさいたま市の南西にあり、荒川を渡れば志木市などに接しています。ということでこの区のシンボルのサクラソウを訪ねるウォーキングとなりそうです。

まずは南与野駅から埼玉大学まで路線バスで移動。
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埼玉大学は国立の大学。官立浦和高等学校、埼玉青年師範学校、埼玉師範学校を統合し1949年国立大学として設置されたとのことです。現在は5学部(教養・教育・経済・理・工)、3大学院研究科(人文社会科学・教育学・理工学)を有する総合大学で、埼玉県で唯一の国立大学。ノーベル賞の梶田 隆章(かじた たかあき)先生はこちらの卒業生とのことです。

大久保領家公園を通り過ぎると大久保日枝神社がありました。
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この社は大山咋命を祭神としており地元では「領家の山王様」と呼ばれており、お産の神様としてして知られているのです。妊婦が安産を願ってお参りしその後、無事出産を終えると、母親は自分の頭髪を一房切って神前に備えてお礼参りをするのが習わしのようです。
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社頭にはある大欅(おおけやき)は、目通りの周囲が9.7mもある樹齢千年という老木。幹には空洞が見られました。
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この大欅は、若狭の八百比丘尼(やおびくに)が植えたと伝えるもので、「はばきさま」と呼ばれている。比丘尼は特別なもの(人魚の肉など)を食べたことで不老長寿を獲得した方とのことです。

えの本ではそば膳をいただきました。
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これより埼玉大学キャンパスを散策しながら南区役所に向かいました。さすがに国立大学は広々していました。
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埼玉大学を通り抜けると鴨川堤桜通り公園との案内があり浦和工業団地、サイデン化学の社屋がありました。この会社は接着剤・粘着剤・塗料など化学製品を作っているようです。区役所そばにある大きな「さいたま市記念総合体育館」は「サイデン化学アリーナ」というようです。
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桜区はさいたま市内南西部にありもともとは大久保地区と土合地区の一部からなっています。大久保地区は、明治22年、上大久保村、下大久保村、五関村、植田谷領領家村、植田谷領在家村、塚本村、宿村、神田村、白鍬村の九か村が合併して大久保村となったのです。
桜区は現在人口約9万5千人、区の花はサクラソウ、区の木はサクラ、区の色はさくら色と桜一色です。
庁舎は2003年(平成15年)に開庁ですからとても新しくきれいでした。すぐ隣のプラザウエストに図書館がありました。
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近くの別所沼古墳から犀形埴輪がでたということで大きな復元がオブジエで飾られていました。
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図書館を通り抜けるといよいよ秋ヶ瀬公園です。
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荒川の手前の鴨川堤は桜通り公園というそうで、今はソメイヨシノは終わり八重桜が見られました。
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新開タワー(しびらきたわー)は平野原送信所(ひらのはらそうしんじょ)といい、正式には「NHK平野原FM放送所」と「テレビ埼玉・浦和テレビ送信所」というそうです。埼玉県の地上デジタルテレビジョン放送およびFMラジオ放送を送信する高さ約173mの電波塔(送信所)で埼玉では最も高いタワーだそうです。電波塔としては埼玉県南部、県央地域、東部、利根地域、東京23区北部・北多摩郡市北部、千葉県北西部、茨城県南西部および群馬県南部を放送エリアとしてカバーしているようです。
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鴨川の土手を河原のほうに 浦和ゴルフ倶楽部がありました。
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浦和ゴルフ倶楽部は1962年(昭和37年)に開場したゴルフ場で長年地元にも親しまれているようです。

国道40号のさくらそう橋に着き荒川の大きな昭和水門手前を右折でいよいよ田島地区に入り、田島ケ原サクラソウ自生地です。
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珍しい白色のサクラソウ
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ノウルシ
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ここでちょっと休憩。埼玉の一品「シュガーバターの木」をいただきました。
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どうやらこのお菓子の製造工場が埼玉にあるらしいのです。

桜区は2003年(平成15年)に政令指定都市となったさいたま市に一区として誕生した新しい区で住民もどんどん増えているようです。区役所ができた後、その前にきれいな道ができ、さいたま市の中心に向かうのが非常に便利になったのです。私もこの道を毎朝通って埼玉県庁傍まで通勤しています。

本日は南与野駅10:00集合。その後路線バスで埼玉大学に行きここをスタートとして、いつも見ている風景の中をひたすらウォーキングを15:00西浦和駅まで約10km、2万歩超えのウォーキング。微風に撫でられながら青空とぽっかり浮かぶ雲を見、大いに楽しみました。やはりウォーキングはお天気が一番の御馳走なのでした。これからも晴天の下、ウォーキングしたいものです。
posted by yunofumi at 14:09| あちこちウォーク

2021年04月08日

2021.3.30 さいたま彩発見10区ぶらり街あるき 第11回緑区

さいたま市内の緑区ウォーキングです。JRで浦和がつく駅は8か所、浦和・東浦和・西浦和・南浦和・北浦和・中浦和・武蔵浦和・浦和美園があります。今日はそのひとつ東浦和駅に始めて降車です。

JR東浦和駅⇒見沼通船堀公園⇒附島氷川女体神社⇒稲荷社⇒鈴木家住宅⇒水神社⇒稲荷社⇒日本料理ふじ⇒木曽呂の富士塚⇒見沼通船堀⇒一休⇒赤山街道⇒大間木氷川神社⇒清泰寺・本殿・庚申塔・見性院の墓⇒見沼氷川公園⇒氷川女體神社⇒宮本二丁目バス停⇒戸田公園駅

東浦和駅(ひがしうらわえき)は、武蔵野線の駅で1973年(昭和48年)にJR(昔は国鉄)の駅として開業当初には自動改集札機が試験設置された駅。ということは当時はほぼ無人駅だったようです。しかし今は1日乗車約3万人で、しかも駅の周囲には多くの民家などがありました。
10:00春の日差しいっぱいの元で喜多見先生と共にウォーキング開始です。

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見沼通船堀公園は1731年(享保16年)に井沢弥惣兵為永(いざわそべいためなが)により開削された我が国最古といわれる閘門式運河、見沼通船堀のある公園。中ほどに芝川が流れ、その東側に見沼大用水東縁(ひがしべり)、西側には見沼大用水西縁(にしべり)がありその流れの両側には桜回廊と呼ばれる桜並木が総延長は20kmあると伺いました。本日は桜がほぼ満開で大いに楽しめそうです。

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附島氷川女体神社(つきしまひかわにょたいじんじゃ)は見沼通船堀の舟運で栄えた大間木村(おおまぎむら)の鎮守社。附島(つきしま)という地名は、かつて江戸湾(東京湾)が内陸まで侵入していた時代に島だったという名残ということです。

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この稲荷社は八丁(はっちょう)に見沼通船堀の会所があり重要な荷上場があったことで多くの人々により勧請されたお宮とのことです。

鈴木家住宅。
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見沼通船堀には、通船差配役であった鈴木家の住宅がありました。鈴木家は、幕府から見沼通船堀の差配(各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う業務)役を命じられていたようです。文政年間(1818年から1830年)以降は、差配を執り行う事務所(八丁会所)に出向いて差配にあたり、住まいも江戸からこの地に移したということです。現在残る鈴木家の建物(母屋・米倉・その他の建造物)は、その頃に建てられたと考えられています。当時を思い、船がありました。
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水神社。
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見沼通船堀ができた翌年の1732年(享保17年)に、見沼通舟堀が開通した江戸期に、舟の事故がないようにと祈願してできたもののようです。その堀は境内のすぐそばを流れており、大正時代くらいまでは使われていたとのことです。本殿は大正12年の大地震で全壊しその後再建されたようです。

稲荷社。
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こちらは女体権現御旅所跡だったようです。

木曽呂の富士塚。
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江戸時代に通船堀を望むように作られた富士山信仰の塚。以前は胎内巡りもできたようです。 台地上からの標高差は5.4m、直径20mの大きさ。上から見るととても高い印象で高所恐怖症の私は足がすくみました。

これより通船堀東縁の桜をしばし眺め、食事場所に向かいました。
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一休ではすばらしくおいしいランチをいただきました。
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大間木氷川神社そばに「赤山街道」の案内板がありました。ただただ普通の道ですがどうやら以下のようなことらしいのです。
赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が1629年(寛永6年)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道。街道の起点は与野市あたりらしく、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていたようです。伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んでいたことから伊奈氏と称したとのこと。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石をいただき、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだのです。三代目半十郎忠治は、関東郡代となって、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し赤山に陣屋を移したようです。忠治は治水、感慨、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手したのです。現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれています。

大間木氷川神社の創建年代は不詳。
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旧別当寺三光院の先祖がこの地に土着してこの神社の祭祀を司るようになったものと思われ、三光院で所蔵していた笈が室町時代の漆工芸晶であることからこの神社の創建も室町期ではないかということです。年代不明ながら稲荷社二社と石神井社を合祀したとも伺いました。また、1667年(寛文7年)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したということです。
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正面に鳳凰、左右は牡丹の彫刻が色彩豊かに残っていました。

清泰寺(せいたいじ)。
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清泰寺は、足立坂東三十三観音霊場6番札所。平安時代初期に慈覚大師円仁が開山したと伝承されているとのことです。敷地内にはおびただしい庚申塔がありました。
墓地の奥には見性院の墓がありました。
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見性院(けんしょういん)は、戦国時代から江戸時代初期の方で甲斐国武田家家臣の穴山信君(梅雪)の正室。もともとは武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人ということです。

そしていよいよ見沼大用水西縁(にしべり)の桜回廊と呼ばれる桜並木を存分に楽しみました。
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見沼氷川公園は氷川女体神社の眼下に作られた公園。園内にあるハーブ園には、ラベンダーやミントなどのハーブが植えられており、良い香りがほのかに漂う憩いの空間で、人気スポットのようです。
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童謡「案山子」の歌詞は「 山田の中の一本足のかかし 天気のよいのにみの笠着けて 朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田のかかし」「 山田の中の一本足のかかし 弓矢でおどして力んで居れど 山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田のかかし」
このあたりは、国定教科書の編さん官であった武笠 三(むかさ さん)の生誕地とのこと。公園の正面近くに、高さ3mブロンズ製の「案山子像」がありました。記念碑の揮毫者は国文学者である金田一春彦とのこと。平成5年4月29日に建立されたようです。台座は六角形で建立趣意書と武笠 三の略歴が刻まれていると説明を伺いました。 

またこのさいたま市には多くの竜神伝説があるとの案内がありました。
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だからでしょうか、東浦和駅前には竜神の像がありました。
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氷川女體神社。
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武蔵国有数の古社で、見沼の谷に突き出した小舌状台地の上にあるとのことです。クス、モチ、シラカシなどの暖地性植物が繁茂しており、埼玉県の「ふるさとの森」にも指定されているとのこと。
所蔵する文化財に古鈴、三鱗文兵庫鎖太刀、牡丹文瓶子、大般若経波羅蜜多経五百九十三巻 など他多数があることから「埼玉の正倉院」とも呼ばれているようです。
今から2000年前の昔、第10代崇神天皇の時代に勧請をしたと伝えられているようですが、実際は奈良時代(710〜794)の建立とのこと。氷川女體神社の「女體」は、御祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと)に由来し、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされているのです。
また、一説には、当社(女體社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、武蔵国一宮と称されていたとも伝えられています。実際に三社は一直線場に配置されており、氷川女體神社の拝殿には、武蔵国一宮の扁額が掲げられています。
中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されています。現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られ、拝殿と相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物です。

氷川女體神社にお参り後は宮本2丁目バス停から路線バスで東浦和駅に戻りました。
本日は桜を堪能し、先生から埼玉の一品として「浦和ポテト」と「ちりめんじゃこ」をお土産に帰宅しました。「浦和ポテト」は花月庵つくばの甘くてサツマイモ風味がいっぱいの和菓子でした。「ちりめんじゃこ」は一休のランチでいただいたのでこのおいしさを家族にも味わわせたいと思い求めたものです。
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本日は晴天の下、24℃にもなったようでしたが約2万歩超えながら、本当に気持ちよく、桜を愛で、幸せな1日でした。喜多見先生、7人の仲間の皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 16:11| あちこちウォーク

2021年04月03日

2021.3.28 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第10回戸田市

本日は埼玉県内でもさいたま市を離れて県央地区の街歩きに入ります。
戸田市は人口14万人の若い街で住人の平均年齢は40歳台とのこと。県内では住人の快適度は1位と伺いました。
戸田と付く駅名はこの戸田駅・北戸田駅・戸田公園駅と3か所あるとのことですが、本日のウォーキングゴールは一番大きな戸田公園駅を目指します。

JR戸田駅⇒いちげん食彩厨房⇒BZ花壇⇒沖内囃子⇒地蔵菩薩座像⇒沖内会館⇒神明榎橋⇒五差路通り⇒上戸田3丁目交差点⇒鍛冶谷町公園線⇒上戸田氷川神社⇒羽黒社⇒羽黒大権現⇒伏見稲荷⇒新田口公園(鍛冶谷・新田口遺跡)⇒新曽沖内馬頭観音像⇒Le Copain(昼食)⇒二枚橋⇒新曽小通り⇒浅間社⇒新曽南一丁目⇒金森橋⇒蒲川・新曽南の桜⇒戸田中通り・中ノ橋信号⇒戸田公園大橋⇒戸田ボートレース場⇒戸田桜づつみ⇒戸田公園⇒戸田橋⇒旧中山道・戸田渡船場跡・水神社・地蔵堂⇒戸田橋親水公園⇒川岸3丁目遊園地⇒戸田公園駅

BZ花壇。
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戸田駅前に緑のボランテア活動という看板でお花を種々植えてありました。
中央に桜の大木がありまずはほのぼの気分で出発できました。

沖内囃子(おきないばやし)は「テンノウサマ」と呼ばれる津島神社の夏祭りに奉納されるとのことで目印があるだけでした。

地蔵菩薩座像。
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1818年(文化15年)の造られたとのこと。作者は旧下戸田村の石工秋本金次郎。また銘によると新曽の観音寺の僧隆賢の指導があったようです。

上戸田氷川神社。
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上戸田氷川神社は、1382年(永徳2年)に戸田城主桃井中務大輔直和が武運長久のために大宮氷川神社を勧請し、城内に(真言宗)亀宝山能満寺多福院を建て、当社の別当とし、旧上戸田村の鎮守氏神として祀られたあようです。1893年(明治6年)に村社となり、1907年(明治40年)に旧上戸田村にあった羽黒社、道祖神社、山王社、稲荷社などを合祀したとのことでした。
羽黒大権現。
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伏見稲荷。
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芭蕉句碑。
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新田口公園(鍛冶谷・新田口遺跡)。
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荒川(旧入間川)の自然堤防上に立地する弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡のようです。多数の方形周溝墓や住居跡も見つかったことから大規模集落の遺跡だそうです。

「新曽沖内の馬頭観音像」は、「寛文十庚戌暦三月廿一日(1670年)」の紀年銘がある馬頭観音とのこと。本日はお堂が開いていませんでしたので見られませんでした。
講師の説明では紀年銘の他には「武州足立郡新曽村惣百姓衆中」「奉造立馬頭観音像」という銘文が確認でき、新曽村の惣百姓衆中により造立されたということでした。

Le Copain(ル コパン)で昼食。落ち着いた雰囲気のレストランでフレンチやイタリアンを出すようです。とても美味でおまけに手際が良くまた伺いたいお店でした。
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浅間社。
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富士山信仰の冨士講は江戸時代に盛んで旧新曽村の名主がこれを建立したようです。

金森橋から新曽桜川の桜をゆっくり楽しみました。
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TBS戸田送信所。
150mと57mの鉄塔が2本すっくと立っていました。ウォーキングしながら通りすがりに見ましたので機械類があるだろうと思われる建物などははっきりわかりませんでした。実は給電部、整合器、STL導波管などがあるとネットの情報で知りました。

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戸田公園大橋は、競艇場への通路のほか、災害時の避難通路として計画された歩道橋。橋の長さは179m、幅5.25m、主塔の高さは地上59.9m。公園内に架けられているため、橋の上部は景観を重視し、主塔から斜めに張られたワイヤーで支える斜張橋となっておりこの形式の歩道橋としては、日本最大規模の長さだそうです。1968年(昭和61年)から建設が始まり1988年(昭和63年)に完成。総工費8億3千万円だそうです。

戸田ボートレース場。
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当初は荒川左岸の排水路が計画されたようですが1940年(昭和15年)の第12回オリンピック東京大会を誘致する計画でボートコースが設られたのですがこの大会は戦争で中止。その後1964年(昭和39年)第18回オリンピック東京大会の漕艇協議会場となり、全長2400m、幅90mで完成しているとのことです。

戸田桜づつみ。
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桜づつみを過ぎると戸田公園に入りました。この公園は東西に約2.5km、南北に約300mあり、日本最大規模の人工静水コースを備えた戸田漕艇場があり、その一部は戸田競艇場なのです。公園の全域の住所が戸田市戸田公園だそうです。夏の戸田橋花火大会が有名なのです。

戸田ボートレース聖火台。
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法政大学合宿所。
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ボート部監督波間昭司先生に説明をいただきさらに艇庫の中も着せていただきました。

戸田橋(とだばし)は、東京都板橋区舟渡と埼玉県戸田市堤外の間で荒川に架かる国道17号(中山道)の道路橋。橋長519m、幅員21m。交通量が半端ない感じでした。
中山道は江戸・日本橋から京都までの136里(約544km)の街道。宿場は69宿、旧中山道は戸田渡船場がスタート。ということですが当時の面影は以下の三か所のみ。ちょっと残念です。

戸田渡船場跡。
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板橋宿と蕨宿の間にある荒川の渡し場で下戸田村が運営していたようです。江戸時代には江戸の玄関口ということで参勤交代の大名や皇女和宮も通られて様です。

水神社。
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正面の「水神宮」の碑には1769年(寛政8年)の銘がありました。古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっているようです。  境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されているとのことです。

戸田橋親水公園。
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1932年(昭和7年)に完成した3代目戸田橋は吊橋の鉄橋でとても美しい橋だったようです。この橋の親柱は御影石を積み上げ、頂部には照明があり当時としてはとてもモダンだったようです。今は公園入口に立っています。

JR戸田公園駅。
この駅は1985年開業。戸田とつく3駅の中心駅。1日乗客は約35000人。時刻表から1時間当たり6本の列車が行き来しているようでした。

先生からいただいた本日の逸品は戸田公園駅そばのレガッタショップ、ロングレンジのオールの形をしたサブレでした。リュックの中に入れ持ち帰ってからいただきましたからその時には割れていましたがとても香ばしいサブレでした。
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本日喜多見先生・TD小松さんの引率で久しぶりのさいたま再発見のウォーキングでした。参加は18人。戸田市の中は公園、特に子供向けの公園が多く見受けられなるほど、新しい住人が増えているのを実感しました。コロナ禍の中でしたが何処でも密にならず、のんびりウォーキングでき、満開の桜を充分堪能できたのがとてもよかったです。次はもう一度4月中にウォーキングに参加します。まだ桜が残っているかしら、と楽しみです。
posted by yunofumi at 14:41| あちこちウォーク

2021年04月01日

2021.3.24 第5回東京十社巡り(最終回)

このシリーズのウォーキングは新型コロナの影響で昨年からずいぶんのご無沙汰となりました。おまけにシリーズ第4回目は希望の日程がまた中止となり本日いきなりの最終回です。都営地下鉄大江戸線大門駅に10:00に集合。久しぶりのことで顔なじみの方が一人もおられなかったことが逆に印象深かったです。それでもお陰様で素晴らしい晴天の下、出発しました。

都営地下鉄大江戸線大門駅A6出口⇒芝神明商店街⇒芝大神宮⇒芝公園・増上寺大門⇒芝郵便局⇒増上寺三解脱門⇒ホテルメルパルク⇒芝公園・東照宮⇒円山随身稲荷大明神⇒丸山貝塚⇒妙定院⇒赤羽橋⇒伏見三寶稲荷神社⇒柳神社⇒三田春日神社⇒慶應義塾大学⇒慶應仲通り商店街⇒田町〜JR山手線〜高輪ゲートウェイ駅⇒泉岳寺前〜都営バス〜御殿山⇒御殿山トラストシティ⇒品川神社

都営大江戸線(おおえどせん)は、練馬区の光が丘駅と新宿区の都庁前駅を結ぶ放射部と、同駅から反時計回りに都心・下町・山の手を環状に繋ぎ、再び都庁前駅に至る環状部から構成されるとのことです。環状の路線は、山手線や大阪環状線、名城線などと違って「6の字型」運転。そして起点は都庁前駅、終点は光が丘駅。路線図のラインカラーは「マゼンタ」。とても目立ちます。今日は東京のど真ん中という感じの大門駅からスタートです。

芝大神宮。
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もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」といわれ、武蔵国日比谷郷にあったことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたので「飯倉神明(飯倉神明宮)」。そして芝が町の様相を呈して「芝神明(芝神明宮)」と称することになったようです。また伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称されたとのことです。明治維新以後、現在の「芝大神宮」となったのです。
貯金塚がありました。
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東京大震災の時、貯金の払い戻しをして東京の復興に貢献した牧野元次郎の記念碑。
「倉は焼けても貯金は焼けぬ」の言葉がありました。

芝公園は増上寺を中心とした緑地帯(都立公園)。1873年(明治6年)に開園。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたのが戦後の政教分離の考え方で宗教色のない都立公園として整備されたので現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むような形状になっているようです。

増上寺(ぞうじょうじ)は、浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だということです。

増上寺大門。
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増上寺の表門である現在の大門は、旧大門の老朽化のため、昭和12年東京都によって旧大門の意匠を踏襲し1.5倍の大きさの高麗門、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建。昨年3月東京都から増上寺に無償譲与されたのを機に、増上寺では耐震調査を行い、11月から耐震補強・外観化粧直しの改修工事を進め今年の3月末竣工し、見事に壮麗な門が蘇ったのです。

増上寺三解脱門(さんげだつもん) は 戦災を免れた建物の1つで、1622年(元和8年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。
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この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされるとのことです。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されているとのことです。

増上寺大殿は 1974年(昭和49年)に再建。室町期の阿弥陀如来像、脇仏に法然上人像、善導大師像がまつられているとのことです。大殿に登る階段.は25菩薩をあらわし、25の階段となっています。また参道から大殿前に至る階段は18段で阿弥陀仏の本願である第18願だそうです。そして三門から大殿.の距離は約48間でこれは阿弥陀仏の48願。また大門からの三門は約108間で三門をくぐると108の煩悩から解脱できるとのことです。
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本日はちょうど50年に一度とかの屋根の吹き替え工事中でした。大殿全体が幕で覆われていましたがこれもとても珍しい光景です。幕には「増上寺浄土宗開宗850年慶讃事業 大殿屋根瓦総葺き替え-令和2年10月〜令和3年10月」「あなたの祈りを瓦にのせて」と記されていました。この度の瓦はチタンのようです。完成したらまたお詣りに伺いたいものです。

増上寺大殿のお隣は安国殿。
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こちらには 「黒本尊」といわれる室町時代の恵心僧都作の秘仏の阿弥陀如来が祀ってあるのです。この秘仏は徳川家康が崇拝し、当初は2尺6寸(約80cm)の金色の立像だったそうですが、長年の香煙により、黒ずんでしまったようです。正月15日、5月15日、9月15日にのみご開帳されます。今日は「黒本尊」と墨書きされたご朱印をいただきました。
徳川将軍家墓所入口からは見事に桜が咲いていました。
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そばに14代将軍徳川家茂の正室和宮ゆかりの茶室、貞恭庵がありました。貞恭とは和宮の法号だそうです。
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芝公園・東照宮は、当初、増上寺内境内にあったとのことです。
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増上寺は1590年(天正18年)家康公江戸入府の時、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められたとのことです。
こちらの鳥居の下には几号水準点がありました。これは明治初期に土地の高低測量のために作られた基準となる測量点ということでした。

そばに「天然記念物 芝東照宮ノ公孫樹」の石碑がありました。1641年(寛永8年)安国殿再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられています。
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芝公園の広々したところでビルに移る東京タワーと実際の東京タワーを見比べました。
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丸山貝塚は全長112mの都内最大の前方後円墳。普段は丸山古墳と呼ばれているようです。頂上に上ると丸い形でした。
丸山古墳の東南斜面には丸山貝塚があり、縄文時代中期の終わり、あるいは後期のものということでした。
また丸山古墳の頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がありました。これは、日本全国を測量し、はじめての日本地図を製作した伊能忠敬の功績をたたえたもので、明治22年に東京地学協会が建てたものを、昭和40年に再建したものとのことです。ここに建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。またそばには大きな岩がありました。この古墳が前方後円墳で昔は瓢形古墳と言われたことをこの大きな岩に書かれているのです。
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大野伴睦句碑。
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丸山古墳から下る途中にありました。昭和38年6月調理師法施行5周年にあたって、長年調理師会の名誉会長として尽力した政治家大野伴睦の労に謝するため贈呈されたものです。台座には俳句が刻まれていました。
「鐘がなる春のあけぼのの増上寺」

妙定院(みょうじょういん)は、1763年(宝暦13年)、徳川九代将軍家重公を開基として三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山され、寺号は増上寺、院号は定月上人の戒号より妙定院としたようです。増上寺の別院として位置付けられているとのことです。そばに災除地蔵尊がありました。
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赤羽橋は古川に架かる橋。もともとこの橋の創架年代は不明のようですが、「正保江戸図」には橋が確認できるとのことです。1675年(延宝3年)古川の浚渫工事に伴い木橋が架けられ、1667年(寛文7年)頃古川の拡福工事により土橋となったとうかがいました。

伏見三寶稲荷神社(ふしみさんぽういなりじんじゃ)祭神は稲荷大明神。赤羽橋南交差点に面して鎮座する。社殿は一間社流造でコンクリート製。明治初期に、小林七兵衛が近くの三宝稲荷を敷地内へと移した。明治中期になって、京都伏見稲荷より分祠。何回か移動を繰り返し、現在地には昭和60年から鎮座されています。

柳神社は地元の松本町の氏神様で江戸時代中期より続いています。この神社そばには大石内蔵助さんが隠れ住んでおられ、そのころにはこちらによくお詣りされたようです。だからすぐそばには浅野家の出入り商人も住んでいたとのことです。
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三田春日神社は慶応大学東門そばにありました。958年(天徳2年)武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を勧請鎮座されたという古い神社とのことです。

慶應義塾大学は、1920年に設置されています。中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学。
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傍には慶応仲通り商店街がありました。

高輪ゲートウェイ駅はJR東日本が2014年(平成26年)に田町駅から約1.3 km、品川駅から約0.9 km付近の位置に建設し、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催にあわせて暫定開業させる計画の駅。用地に関しては、田町車両センターの設備や車両留置箇所の見直しによって創出される約13haの再開発用地を利用。新駅は都営浅草線・京急本線泉岳寺駅から300mほど南東の場所にありました。新駅設置としては、山手線では1971年に開業した西日暮里駅以来、京浜東北線では2000年に開業したさいたま新都心駅以来となるとのことでした。2020年(令和2年)3月のダイヤ改正にあわせて暫定開業。2024年度には駅前に高層ビル群が作られ本開業の予定とのことでした。近くは江戸の玄関口「高輪大木戸」として賑わった場所のようです。
はじめてこの駅に着くとロボットが試運転中だったり無人のコンビニがあったり不思議なところでした。
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JR田町駅エスカレーター脇には西郷南洲と勝海舟会見図がありました。
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御殿山バス停で下車すると御殿山トラストシティが目の前にありました。広大な庭園、チャペル、ホテルもふくめなんと優雅な空間かと思いました。珍しいアオキがありました。
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品川神社は東京十社のひとつ、また東海七福神の一社として、大黒天が祀られています。1187年(文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのがはじまりとのことです。
境内入り口にあるのは双龍鳥居。
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正面の階段途中には富士塚と浅間社があります。
社殿裏には板垣退助のお墓がありました。そばには「板垣死すとも、自由は死せず」の石碑もありました
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今日は晴天の元、20℃もありとても心地よいウォーキングができました。久しぶりの2万歩はちょっと応えて、京急新馬場駅から品川に出て山手線で帰路につきましたがぐっすり眠ってしまい池袋で乗り換え損ね、いやはやビックリ️!!お陰で夕方の貴重な時間を無駄にしましたが、まずは無事に自宅に到着。やはり身体は正直で鈍っていたことがバレバレの1日となりました。まずは今後に備えて懲りずにウォーキングをやってまいります。
posted by yunofumi at 15:23| あちこちウォーク

2021年03月25日

2021.3.20 第2回ひと駅ウォーク

東武東上線新河岸駅〜川越駅
新河岸駅⇒新河岸駅西口入口信号⇒(川越街道)みよし胃腸クリニック⇒埼玉糧穀梶ヒ不老川(不老橋⇒烏頭坂(うとうさか)⇒岸町・木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の山車庫⇒熊野神社⇒川越第2中学校⇒光西寺⇒中院⇒川越駅

新河岸駅。
2018年に駅舎が新しくなり西口・東口へ通じる階段やエスカレーター、エレベーターが設置され乗降客もとても増えた様子でした。また西口にCaféも開店したようです。
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不老川(ふろうがわ・としとらずかわ)。
川越街道を進むと不老橋につきました。橋のそばにある案内には「ふろうがわ」のフリガナがありましたが正確には「としとらずかわ」と読むのかもしれません。また荒川水系新河岸川の支流で蔵野台地上を流れる一級河川だそうですが本日は水が一滴も流れていませんでした。
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烏頭坂(うとうざか)。
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川越街道を岸町から新宿町二丁目・富士見町へ上る坂が烏頭坂(うとうざか)。新河岸川の水運が盛んな時代、新河岸で荷揚げした荷物を川越市内の問屋街へ運ぶ際、急坂で難所として知られていた烏頭坂を通ったとのことです。 往時は杉並木があり街道の風情もあったようです。 1486年(天文18年)の「廻国雑記」に「うとう坂越えて苦しき行末を、やすかたと鳴く鳥の音もかな」という歌が残っているとのことでした。 現在は、国道254号線と16号線が交差する交通量の多い通りとなっています。

岸町・木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)の山車庫。
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この山車は岸町2丁目の所有。二重鉾、四つ車、唐破風付き囃子台で廻り舞台となっているようです。原型は昭和27年の牛車に屋台を乗せた小さなものだったのが昭和33年以降その原型に改修を重ね、平成27年に現在の形に完成させたとのことです。
人形は岩槻の福田東久の作。古事記に安産、子育ての神として登場する神武天皇の曾祖母 木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)。山車の彫刻や見送り幕、四方幕の図柄にも木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)に関連する物語が表されているのです。なお四方幕は現代の名工桐生市の大沢紀代美の作。彫刻は掛布の松林洋。川越には「祭り会館」がありこの山車を含めて色々見られます。

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川越 熊野神社は、室町時代に紀州熊野から分祀された開運・縁結び・厄除けの神社。
こちらは、『明細帳』によると天正18年(1590年)蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まり、以後、松郷の人々が氏神として崇敬したようです。その後、1713年(正徳3年)十六世然誉了鑑僧正の時、社殿を改築し鳥居を石造りとしたのが現在ある二の鳥居だとのことです。

小江戸川越で「しだれ桜と言えば中院」、「中院と言えばしだれ桜」と言われています。
多分見ごろと思い少し足を延ばして見に行きました。案の定少し早めですがお見事!
今年の桜はこちらで決まり!!という気分で楽しみました。
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そして最後に川越駅から電車に乗って帰宅。
川越駅は東武東上線の駅とJRの駅がコンコースでつながっています。東上線の駅は1915年(大正4年)に川越西町駅(かわごえにしまちえき)として開業したとのことです。まだ新型コロナウィルスの緊急事態宣言が明日で解除かな、という日なのですが、これがまたびっくりするくらいの人、人、人の波でちょっと怖くなって速攻帰宅しました。
それでもせっかくのこの春めいた一日、色々な花々を楽しみました。
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結果として本日は晴天、気温20℃、18000歩のお散歩に感謝です!
posted by yunofumi at 13:34| あちこちウォーク

2021年03月09日

2021.3.6 第1回 ひと駅界隈の再度見て歩き

2021.3.6 第1回 ひと駅ウォークの補足
東武東上線上福岡〜新河岸駅
前回は川越街道をまっしぐらにウォーキングしたので終わってみれば、アレアレ!!楽しんでいない!!ということでこの週末は最寄りの名所旧跡??を訪ね歩きました。
東上線駅発祥の記念碑。
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上福岡駅東口階段下にひっそりと立っています。ポケモンフアンの聖地でもあります。これは現在の東武東上線を誘致した星野仙蔵さんの顕彰碑。まずは地元の名士だった方なのです。

慶珍地蔵尊は六道の衆生を救うお地蔵様とのこと。亨保年間に作られたようです。
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上福岡歴史民俗資料館は都市化していくこの近隣の文化などを収集・保存していました。この上福岡の原始時代から近世のことまた近くの新河岸川を含めたことも説明がありました。
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ぽかぽか陽気で気持ちがよいでーす。
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長宮氷川神社の創建は平安時代とのこと。県内でも珍しい「向かい天狗図絵馬」があるそうです。
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西養寺は江戸時代に開かれており川越喜多院の末寺とのことです。江戸時代に作られた鉄造阿弥陀如来像が見られました。
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お堂をもっと大きくしてあげたいものですね。

権現山古墳群は新河岸川に沿った台地にありました。権現山ということは昔、徳川家康公が鷹狩に見えたからとのことです。古墳が3基ほどあり多くの土器などが出土した遺跡とのことです。
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福岡河岸記念館は回漕問屋福田屋の明治に建てられた建物の一部が残っているのです。帳場があった主屋や台所、文庫蔵、離れを見られました。
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東上線新河岸駅は東上線が開通してすぐできた駅。新河岸川の舟運始発の駅だったようです。最近きれいな駅になりました。
そして新河岸川まで行くと旭橋のそばには新河岸川河岸場跡がありました。
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またすぐそばに日枝神社がありました。
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今日も新河岸川はゆったりしており青サギも観られました。
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その後は新河岸川の土手を30分ほど散策して川崎橋を渡って地元に帰りました。
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今日は街中の行ったこともないところを重点的にウォーキング。たまにはこのような時間も大切と思いました。
posted by yunofumi at 15:50| あちこちウォーク

2021年03月03日

2021.2.28 第1回ひと駅ウォーク 上福岡駅〜新河岸駅

東武東上線上福岡〜新河岸駅
東武東上線上福岡駅西口⇒上福岡駅前郵便局⇒上福岡駅西口入口信号(これより国道254号・川越街道)⇒コナズ珈琲⇒鶴が岡厄除地蔵尊⇒日本堂薬局⇒川越菓匠くらづくり本舗藤間亭⇒市民センター入口信号⇒川越市立高階中学校⇒川越消防署⇒東武東上線新河岸駅

明日から3月です。最近になり、そろそろ本格的にウォーキングをはじめないと体が鈍る(なまる)と考えていました。今日はとても良い日よりなのでまずは「一駅ウォーキング」を始めることにいたしました。手始めですから地元からということで武東上線上福岡〜新河岸駅のウォーキングです。
川越街道に出るとあちらこちらに色とりどりの花々が見られました。
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そしてこの辺りにはまだまだ畑も多く、ネギ畑も健在でした。
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現在の川越街道と旧道の分かれ道に昔の案内がありました。
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途中にはある「鶴が岡厄除地蔵尊」はふじみ野市のはずれの鶴が丘にあり、お隣には「鶴が岡八幡神社」があります。
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また街道沿には川越菓匠くらづくり本舗の藤間亭があります。
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ここは創業明治20年の菓子づくりの伝統を今に伝える和菓子屋さん。埼玉県内に多くの支店があります。私自身は十勝の小豆がつまった最中の「福蔵」、川越芋を使った「ぽくぽく」、紅赤芋を使ったスィートポテトの「べにあかくん」がとても好きです。
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こうして本日はウォーキング終了。久しぶりに大いに楽しみました。
posted by yunofumi at 16:30| あちこちウォーク

2020年12月13日

2020.12.6 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第9回上尾市

JR上尾駅---路線バス---平方⇒馬蹄寺⇒上尾橘高入口信号⇒橘神社⇒上尾平方郵便局⇒平方公民館⇒観音堂⇒永島園⇒平方河岸・平方土地改良記念碑⇒山忠わさび轄H場⇒開平橋⇒カフェダイニングごふく ⇒八枝神社⇒上宿公民館⇒荒川土手⇒小塚浅間塚⇒上尾丸山公園⇒榎本牧場⇒徳星寺⇒雲雀---路線バス--- JR上尾駅

上尾は中山道の宿場町でしたが沿道の他の宿場と比べると少し小さかったようです。1883年(明治16年)に、日本で3番目の日本鉄道(現・高崎線)の開業とともに上尾駅が開業したのです。
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上尾市は現在人口約23万人。市の木は「かし」、市の花は「つつじ」、市民の木は「あおき」;イメージマークは「アッピ-」。駅改札口に目印で鎮座していました。

10:00からウォーキング開始、といっても本日はいきなり路線バスに乗車。約20分で平方に到着。目の前に馬蹄寺(ばていじ)がありました。天文(てんぶん)年中(1532から55)に再興されたと寺伝にあり感誉上人が当時後北条氏の配下で川越城将であった大道寺氏の甥で、各地で多くの寺院を建立していたので、平方村にも寓居(ぐうきょ)し浄土の道場を開いたと伝わっているようです。中には江戸初期の作とみられる木造阿弥陀如来と脇侍(きょうじ)像もあるとのことでした。
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大きな「モッコク」が本堂の右手にありました。
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そして「モッコク」の下に 鈴木荘丹俳諧歌碑がありました。
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これは1814年(文化11年)荘丹が建立したものだそうです。碑は自然石の上に立ち、高さ49.4cm(総高81.9cm)、幅22.7cm、奥行き17.9cmの角柱。正面に歌が一首「安心(あんじん) 俳諧の奥ハ 楽し支(き)道奈れ登(と) 踏(ふみ)堂(た)可(が)へ帝(て)者(は) 到ら連ぬ奈(な)里(り) 」どうやら「俳諧に遊び、楽しむ事も、衣食住をないがしろにしてはいけない」ということのようです。

橘神社(たちばなじんじゃ)。
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こちらには1471年(文明3年)銘の額があったことからこのころの創建かもしれないとのことです。また、口碑に創建当初は現在の平方小学校の東の「氷川山」と呼ばれる所にあったとも、平方新田の字在家にあったとも伝えられているようです。境内の大欅の樹齢から考えても、遷座があったとしても相当昔のことと思われました。
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鳥居横には平方河岸と街並みの案内板がありました。
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平方公民館の前に現在の平方観音堂がありました。ここはもと天台宗寺院の正覚寺、威徳山寶聚院と号していた寺院だったようですが明治6年廃寺となり、観音堂となったようです。
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そばには森朴斎碑とお墓がありました。
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森朴斎は桑名藩(三重県)の医師で旅の途中、平方村に立ち寄り、名主の永島太十郎(太重郎)宅に寄留。朴斎の学識を見込んだ太十郎は屋敷内に学舎を建て、地域の若者を集め、十数年にわたり300余人が彼の人柄を慕い学んだのですが、1860年(万延元年)、この地で54歳で没し、ここ正覚寺(現観音堂)墓地に葬られたとのことでした。

平方河岸の平方土地改良記念碑。
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平方は畑や田んぼが広がり、広大な河川敷もあるなど、農業的土地利用の比重が高い地域だったため住民の力も加わり土地改良をしたようです。

平方河岸(ひらかたがし)は荒川を利用した江戸とのフナ運を支えたようで昭和の初めまで繁栄したようです。この荒川の水源は甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)で奥秩父の中心にあります、最後は東京湾ですから流路延長173 km。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mもあり、日本最大とのことでした。今日は開平橋のそばを通りました。

山忠わさび轄H場がありました。1940年(昭和15年)に山崎忠市郎が信州でわさび漬け製造を開始。1967年(昭和42年) 上尾市に工場を設立したとのことです。チューブのわさびはSBしか知らなかったのでそのうち、上尾での販売を調べてみるようです。

Café Dining 529 (カフェダイニングごふく)で昼食でした。お店の中は、大きな空間が広がり、落ち着いた空間でメニューは、ヘルシー食の定食やハンバーグ、パスタなどありました。私たちは俵ハンバーグセットをいただきました。
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八枝神社(やえだじんじゃ)は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を御祭神とし、厄除招福・疫病退散の神様として、親しまれているとのことです。こちらにある獅子頭は「狛狗大神(はっくだいじん)」といい、人々からは『平方のおししさま』とよばれているとのことです。この獅子頭は地域に貸し出しも行われ、疫病退散・災厄消除を願う「ふせぎ」と呼ばれる行事が行われるとのこと。毎年7月には埼玉県指定無形民俗文化財である『どろいんきょ』という奇祭が盛大に行われるとうかがいました。
ご神木の折れてしまったケヤキと狛犬が珍しいものでした。

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小塚浅間塚は、富士塚ともいわれ、江戸時代、文化・文政年間から江戸を中心とした地域で造られた塚です。浅間塚は、当時流行した富士浅間信仰によるもので、富士参拝が難しいことから、富士山を模した塚を祀るという主旨で造られたようです。
頂上中央に文化13年(1816年)銘の石祠と、1893年(明治26年)銘の「登山大願成就」碑がありました

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上尾丸山公園は「水と緑の調和」をテーマに昭和53年に開園した総合公園です。小動物コーナーにはワオキツネザル、ヤクシマヤギ、コツメカワウソがいました。また紅葉はメタセコイアとイロハモミジが良い見頃でした。
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また児童遊園地、バーベキュー場、自然学習館、大池などがあり大いに癒されました。

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榎本牧場は乳牛を飼っている酪農牧場でした。この牧場には60〜70頭の白・黒の斑模様の乳用のホルスタインがいるとのことです。牧場体験や新鮮牛乳を使ったジェラートアイス・ヨーグルトの販売がありました。ちなみにこちらのキャッチフレーズは「上尾にあなたの知らない北海道があります」。私はミルクジェラートをいただきました。濃厚でミルキー!おいしかったです。

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徳星寺(とくしょうじ)は弘仁年間(810〜824)に弘法大師によって創建されたと伝えられる古刹で、大師お手植えと伝わる樹齢800年以上の大カヤが枝を広げていました。
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創建当初は真言密教寺院。1563年(永禄6年)、北足立郡伊奈町にある法光寺と入れ替わって天台宗に改宗されたとのことです。室町時代には領主岩槻太田氏の手厚い保護を受け、江戸時代には幕府から御朱印地3石を賜り、この地方の文化の中心的役割を果たしてきた寺とのことでした。
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徳星寺は東国花の寺・百ケ寺だそうで彼岸花が有名だそうです。

本日のウォーキングはこれで終わりということで最寄りの雲雀停留所より再び路線バスにて JR上尾駅向かい、解散。
その前に本日の上尾のお土産に彩菓庵おおきにの「芋蔵」をいただきほっと一息。
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本日はいつもの講師喜多見さん、TD岡田さんと共に18人が参加、晴天で気温14℃、ほぼ無風でコンディションとしては最適。約17000歩でしたが皆元気に終了。
また次回も天気になあれ!!
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2020年11月28日

2020.11.22 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第8回 北本市

本日の天気予報は温たかで小春日和とのこと。午前10時にJR高崎線の北本駅を出発。

JR北本駅⇒本宿天神社⇒多聞院⇒解脱会練心会⇒第七川越街道踏切⇒北本市役所⇒北本市文化センタ⇒真福寺⇒解脱会北本スポーツセンター⇒石戸厄除両大師⇒石柱⇒高島氷川神社入口信号⇒道標これより石と舟のみち⇒高尾氷川神社⇒厳島神社⇒須賀神社⇒北向地蔵⇒三味茶屋(昼食) ⇒城中坂⇒北本自然観察公園、地蔵口⇒一夜堤⇒石戸城⇒石戸屋天神社⇒放光寺⇒東光寺⇒北里大学メディカルセンター----路線バス---JR北本駅
北本駅は1918年にもともと北本宿駅として開業。現在の駅舎は当時と少し変わったようです。普段高崎線に乗ることが珍しく、本日は初めて降車しました。

本宿天神社は、北本市本宿にある神社。こちらは、元宿村の名主岡野家が、元宿村の鎮守・岡野家の氏神として寛文2年(1662)に創建し、明治6年に村社になったようです。
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真言宗智山派寺院の多聞寺は、文永年間(1264-75)に多聞律師が開基したようで、光宗法師が1658年(万治元年)に伽藍を再建して中興したとのことです。北本七福神の毘沙門天があります。
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解脱会(げだつかい)は、会祖・解脱金剛尊者(岡野聖憲)によって昭和4年に立教された宗教法人。会祖が大病を機に悟りを開かれ1929年に立教されたようです。このウォーキング中に多くの施設を見ました。

北本市(きたもとし)は、埼玉県の東部中央にある人口約6万6千人の市。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年(慶長7年)までは中山道の宿場、鴻巣宿があったことが地名の由来のようです。北本市役所の 新庁舎は平成26年10月14日に全面開庁。まだまだきれいな建物でした。

北本市文化センタの中にはホール、公民館、会議室、図書館、プラネタリウムなどがあり、大きな建物でとても立派に見えました。また2015年受賞ノーベル生理学医学賞大村智博士の記念碑もありました。
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石戸厄除両大師 真福寺は、天台宗の寺院。創建から600年を超える由緒ある古刹ということもあり、地域の人々からは、石戸大師、両大師様、大師様などの愛称で親しまれているおのことです。
ご本尊は、不動明王、慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)、元三大師(がんざいだいし)。ご利益は、厄除け、年間の無事祈願(だるま市)となっています。
このお寺の山門には、寄木造・彫眼、彩色からなる仁王像がありました。この仁王像は、江戸時代安永3年頃に作られたと言われる由緒ある仁王像とのことでした。

道標これより石と舟のみち。
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この道標は、馬室(鴻巣市)から石戸宿へ通じる、昔からの鎌倉街道沿いに、1727年(享保12年)に建立されたようです。高さ64p、幅21p。荒川は江戸時代から大正時代頃までの長い間、舟運として利用されていたとのことです。この「石と舟と」とは、「石戸河岸」のこと。この現地の石柱は複製だそうです。

高尾氷川神社社務所は昭和4年の建設以来、約90年が経過。平成31年には、当神社鎮座1150年。現在、記念事業として新社務所建設を計画しているとのことです。
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創建は、平安時代 の869年(貞観11年)と伝えられ、主祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)等 6柱を祀っいるようです。主なお祭りとして4月の人形慰労祭、 7月の例大祭などがあるとのことです。
こちらには日本最大のおみくじがありました。
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興味本位でこのおみくじを引きました。2mほどの棒の先に番号があり、お札と交換。26×9pと大きなおみくじをいただきました。それにしてもこの完全防備のウォーキングスタイルにはびっくりでしょうね。

氷川神社から道を挟んで下に降りると厳島神社がありました。
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池の中ほどに社殿がありました。伝説としては龍がこの池の杉(龍燈杉)より昇天したとのことで、その杉が台風で倒れたことによって、跡地に社を祀ったのが「厳島社」とのことです。現在、女神がお祀りされているため安産・女性の守護として崇敬されているとのこと。

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須賀神社は安土桃山時代の創建。大正時代には旧荒井村の各神社を合祀したとのことです。「荒井の天王様」と親しまれ、境内には道祖神が旅の守護神として祀られ、現在もお礼参りのわらじが多く奉納されているようです。
鳥居手前に「寿老人(杖と経巻物を持つ長寿の神)」がありました。

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北向地蔵は仏像には珍しく北面しているためこの名があるとのことです。「泥の団子」を供えて願い事をし、願いがかなったら「米の団子」を供えるという信仰があるとのことです。昔から道標も兼ねているようです。

三味茶屋は自家製の北本産こしひかり100%使用!甘みのある美味しいごはんを提供!毎日市場から仕入れている新鮮な魚・野菜を使用。この辺りにはミカンの木があちらこちらに見られ、食卓にも提供されていました。
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城中坂とは明治時代にこのあたりに新しい改良の坂道ができたことからついた名前のようです。城中坂(じょうちゅうさか)の地蔵と大山阿夫利講の灯籠があり、すぐそばに石戸城があったようです。
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北本自然観察公園には地蔵口から入りました。
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県営「北本自然観察公園」は、JR北本駅から約3kmに位置し、荒川河川敷に隣接する谷地形を活かした大自然公園。総敷地面積25.2haのほぼ全部が雑木林や湿地帯や草原の公園で1992年(平成4年)7月にオープン。園内に「埼玉県自然学習センターが1992年(平成4年)7月に開設されたとのことです。
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公園では、「コジュケイ」「モズ」「ウグイス」「カワセミ」「オオヨシキリ」「ムクドリ」「フクロウ」「オオルリ」「キビタキ」など、約170種の鳥。「タヌキ」「イタチ」「ハクビシン」などの野生動物がみられるようです。ということで今日は職員の方に雑木林、草むら、湿地と池などを案内頂きました。
池というか湿地になっているところは蛍の乱舞が見られるとか、ガマの哺をつぶすとフワフワの綿のようなものが出てくるなど案内人は大活躍でした。そうそう、アオサギも見ました。
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ほとんどが低湿地なので途中には木道がありました。
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桜土手傍の一夜堤口の出口に来ました。
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堤の上から見るとまさに谷底という感じで雨が降ると公園の中は池のようになるそうです。
一夜堤は1562年(永禄5年)、上杉謙信方の石戸城を攻略する際、北条氏邦勢が一夜にして土橋を築き、一気に城に攻め入り勝利したという伝説がある所で傍に石戸城跡がありました。現在は若干の土塁と空堀があるだけのようでした。
 
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石戸宿天神社の創建年代等は不詳。石戸城の鎮守として祀られたのではないかとも伝わっているようです。江戸期に石戸宿村の鎮守として創祀したらしく例祭で奉納されるささら獅子舞は、北本市無形民俗文化財です。

天台宗寺院の放光寺は、青龍山梅林院と号します。放光寺の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「天台宗、川田谷村泉福寺末、青龍山梅林院と號す、本尊不動を安す。念佛堂。三尊の彌陀を安ず」とあり、江戸期には石戸宿天神社の別当寺を務めていました。
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東光寺は、川越市東明寺(時宗=じしょう)の末寺で、西亀山無量院東向寺とも号し、伝説では、蒲冠者 源範頼(かばのかじゃ みなもとののりより)が開基といわれています。
境内には、国指定天然記念物「石戸蒲ザクラ」のほか、県指定歴史資料「板石塔婆」、市指定彫刻「銅造阿弥陀如来坐像」など多数あります。
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北里大学メディカルセンター。
1914年(大正3年)、北里柴三郎博士によって創立されのが北里研究所。
1989年(平成元年)創立75周年の佳節に「北里研究所メディカルセンター」が現研究所顧問、大村智博士により提案され、平成元年4月にこの「社団法人北里研究所 北里研究所メディカルセンター病院」が開院したのです。現在は372床の救命救急など多くの科目を備えた病院となっています。

北里大学メディカルセンターから路線バスに乗り北本駅で15:00前に解散。歩程2万歩。約8kmのウォーキングを講師喜多見さん、TD小松さんと共に12名は元気にウォーキング終了。北本市ではトマトが特産ということで北本トマトカレーを駅前でゲット。
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早速、夕食にいただきましたがなかなか美味とても口に合いました。今年のお歳暮はコレかな?と思案中。
本日は久しぶりのさいたまのウォーキングでした。また頑張りたいです。
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2020年11月26日

2020.11.20. 第3回 東京十社巡り

本日も秋晴れと言いたいところですが時々パラッと雨が来る状況の中、ウォーキング開始です。そういえば気温が24℃と生暖かく、ちょっと汗ばむはずが、風もすごくて、これには大助かりの一日となりました。

東西線門前仲町駅⇒富岡八幡宮⇒深川不動尊⇒首都高速道路ガード下⇒富岡橋親柱⇒深川一丁目信号⇒法乗院・深川閻魔堂⇒心行寺⇒採茶庵跡⇒海辺橋⇒深川ふれあいセンター・滝沢馬琴誕生の地⇒紀伊國屋文左衛門墓所⇒深川江戸資料館⇒霊厳寺⇒おみやげたかはし⇒本誓寺⇒村田春海の墓⇒錣山部屋⇒大鵬道場大嶽部屋⇒萬年橋⇒川船番所跡⇒正木稲荷神社⇒芭蕉庵史跡展望庭園⇒割烹みや古⇒深川神明宮⇒焼き立てパン元祖カレーパンカトレフ⇒森下駅駅前信号⇒五間堀公園⇒表具師前川・茶屋笹や⇒徳上院⇒二之橋⇒軍鶏なべ屋五鉄,中田屋茶舗⇒二之橋北詰信号⇒鬼平情景・煙草屋壺屋⇒墨田区両国公園・勝海舟幕末絵図・尺振八の共立学舎跡・両国小学校⇒吉良邸正門跡⇒本所松坂町公園⇒鏡師中島伊勢住居跡⇒吉良まんじゅう・大川屋⇒墨田両国三郵便局⇒江東義塾跡⇒回向院・鼠小僧の墓⇒国技館通り商店会⇒JR両国駅・江戸のれん⇒両国国技館⇒江戸東京博物館⇒両国東あられ⇒野見宿禰神社⇒亀沢二丁目信号⇒大横川親水公園⇒蔵前橋通り⇒法恩寺⇒太平二丁目信号⇒タワービュー通り⇒太平四丁目信号⇒天神橋西詰信号⇒蔵前橋通り信号⇒天神橋⇒江東区⇒亀戸天神通り商店街⇒くず餅船橋屋⇒亀戸天神社⇒JR亀戸駅

富岡八幡宮。
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1627年(寛永4年)の創建。通称を「深川八幡宮」。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」や「大関力士碑」が建立されていました。
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江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年(平成13年)にこの境内に銅像が建立された。
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成田山 東京別院 深川不動堂は真言宗智山派の寺院で成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。
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法乗院・深川閻魔堂。
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平成元年に建立の閻魔大王座像は、寄木造で、高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tという巨大な閻魔様。この閻魔大王像はコンピューターで制御。大王像の前に、「家内安全」、「交通安全」、「夫婦円満」、「合格祈願」、「ぼけ封じ」、「いじめ除け」など19のご祈願が別個に記されていました。私が家内安全の入口にお賽銭を入れると仏様の説法が音声で流れるシステム。とてもユニークでした。
本堂前には「曽我五郎の足跡石」がありました。
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採茶庵跡(さいとあんあと)。
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1689年(元禄2年)に松尾芭蕉は、ここから『おくのほそ道』の旅へ出発したようです。この採荼庵は、芭蕉の門人である杉山杉風の別荘だったとのことですが、正確な地点は実ははっきりしないようです。仙台堀川にかかる海辺橋に近い深川平野町内だったということで海辺橋のそばに作られたのです。また、仙台堀川の海辺橋から清澄橋の間の護岸の「芭蕉俳句の散歩道」には、奥の細道の行程順に代表的な句が書かれた高札が立っているとのことです。

紀伊国屋文左衛門墓所。
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江戸前期の豪商として知られる紀伊国屋文左衛門の墓と顕彰碑がありました。墓地に入る手前の石柱には和歌山県の方の名前が見られました。紀伊国屋文左衛門は、紀州湯浅(現・和歌山県有田郡湯浅町)の出身で、紀州みかんを江戸に運び、帰りに江戸から塩鮭を上方に運んで富を築いたという話や材木商で富を築いたなどと聞いたことがあります。

深川江戸資料館。
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ここは江戸時代の資料などを収集展示している所。深川の町並みが再現されており、なんとも楽しい施設。
入口そばには横綱大鵬顕彰コーナーもありました。
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霊厳寺は1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったとのことです。1657年(明暦3年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転したのです。霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多くありました。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されている。
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本誓寺には石造迦楼羅立像がありました。
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迦楼羅は「インド神話の神鳥ガルーダ」に由来する「鳥頭人身に翼を持った異形の神」です。「石造迦楼羅立像」は、朝鮮・高麗時代の作と推定されるようですが、日本へ来た経緯や時期は不明のようです。像の石質は花崗岩で、丸彫りに近い浮彫りです。くちばしがあり、背には翼もあります。今まさに笛を吹こうとする一瞬の姿を切り取った形をしており笛の音が聞こえてきそうでした。

錣山部屋(しころやまべや)は2002年9月場所限りで現役を引退して、以降は井筒部屋の部屋付き親方となっていた年寄・20代錣山(元関脇・寺尾)が、2004年1月27日付で2人の内弟子を連れて井筒部屋から分家独立して部屋。2006年12月に部屋を構え、現役時代に人気力士だった親方の部屋ということで、部屋創設1年で所属力士が10人を越え、現在では17人が所属する中規模な部屋となっているとのことです。

大鵬道場・大嶽部屋
1971年(昭和46年)5月場所限りで引退した二所ノ関部屋(大関・佐賀ノ花)の元横綱・大鵬が1969年(昭和44年)9月に贈られていた一代年寄・大鵬を襲名して、1971年12月に巨砲、嗣子鵬ら数名の内弟子を連れて二所ノ関部屋から分家独立して大鵬部屋(たいほうべや)を創設。2005年(平成17年)5月に大鵬が定年退職を迎えるため、これに先立ち2004年1月1日付で16代大嶽に師匠を交代し、部屋名称も大鵬部屋から大嶽部屋に変更したのです。2010年7月大竜が大嶽を襲名し、部屋を継承。17代大嶽となった大竜は大鵬部屋の出身で大鵬の直弟子だということです。

萬年橋(まんねんばし)は、東京都の小名木川にかかる橋。北岸は江東区常盤一丁目、南岸は江東区清澄一丁目と二丁目を分かれています。この橋のすぐ西側で小名木川は隅田川と合流、東側には新小名木川水門が設置されていました。
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そばには川船番所跡がありました。

正木稲荷神社は創建年代不詳。江戸時代には既に当地に鎮座し梅暦や江戸名所図会等の書物に記載されているとのことです。この神社には柾木の大木があり、隅田川から小名木川へ入る目標ともなっていたことから、柾木稲荷神社と称されていたということです。近くには芭蕉庵史跡展望庭園がありました。
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こちらは芭蕉記念館の分館である芭蕉庵史跡展望庭園。展望庭園は隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が綺麗です。 庭内には、17時に回転するという芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフがあります。また、夜にはライトアップされ、隅田川の遊歩道から見ることができるようです。

割烹みや古で昼食。深川めしは蒸篭でホカホカしているのをいただき大満足でした。
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深川神明宮とは 深川の地を初めて開いた深川八郎右衛門が創建した「深川発祥の神社」でご祭神は伊勢の皇大神宮のご分霊・天照大御神とのことです。境内の寿老神社には深川七福神の1つ・寿老神をお祀りし、初詣は七福神めぐりの参詣で賑わうようです。夏の祭礼、 ことに三年に一度の本祭りは「宮神輿の巡幸」と「町神輿の勢ぞろい」が行われ賑やかなようです。

焼き立てパン元祖カレーパンカトレフはもともとは、明治10年に深川常盤町で創業された「名花堂」だそうです。昭和2年「洋食パン」の名で実用新案として登録されたのが「カレーパン」のルーツ。「元祖カレーパン」はこちらの看板メニューで甘口・辛口の2種類があるようです。本日はすでに売れ切れのようでした。

五間堀公園はもと川だった五間堀跡に造られた森下2丁目の公園。この辺りは鬼平情景という立札があちらこちらにありました。表具師前川・茶屋笹、軍鶏なべ屋五鉄・中田屋茶舗、煙草屋壺屋などなど。立札を丁寧に読むととても面白いと思いました。

二之橋は墨田区や江東区を京葉道路に沿うように流れている竪川に架かる橋。隅田川の合流地点から数えると一之橋の次の二つ目の橋なのです。近くには、小林一茶旧居宅跡や軍鶏なべ屋「五鉄」があった場所ということで江戸時代には歴史ある場所だったようです。

平成27年度に、墨田区で生まれ江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した「勝海舟」についてより深く楽しめる公園として整備されたのが両国公園。勝海舟幕末絵図がありました。
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両国小学校の傍にはジョン万次郎から英語を学んだ英語学者の尺振八(しゃくしんぱち)がつくった共立学舎跡があるとのことでした。また両国小学校には芥川龍之介の石碑があります。

本所松坂町公園吉良邸跡。
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高家肝煎を引退した後に吉良義央が暮らした邸宅の跡地。赤穂浪士によって吉良義央ら二十余人が討たれた「吉良邸討ち入り」(赤穂事件)の現場でもあります。
お向かいには吉良まんじゅうの大川屋がありました。

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回向院は、今からおよそ360年前の1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。この年には、江戸で「振袖火事」という明暦の大火がありました。当時の将軍家綱は、無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸で大法要を執り行い、この回向院ができたようです。中に進むと鼠小僧の墓がありました。

JR両国駅に直結して立派な土俵の有る「江戸のれん」があり江戸の食やお土産が満載でした。

江戸東京博物館に向かっていくと狩りをしている徳川家康像が立っています。
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足元にいるのは贔屓(ビシ)で「中国の伝説=重い物を背負うのが好きな龍」だそうです。、鷹狩の勇姿で江戸城を見ている徳川家康公です。
 

両国 東あられは明治43年創業のあられ・お煎餅専門店。名物は葛飾北斎の浮世絵をパッケージに施した揚げあられ「北斎揚げ」。あられはコシが強く、粒がふっくらとした宮城県産高級もち米「みやこがね」100%と、ビタミン・ミネラル豊富な米油を使用とのことでした。

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)は、相撲の始祖とされる野見宿禰が祀れており両国国技館の傍にあり、日本相撲協会が管理している。歴代横綱石碑があります。
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大横川親水公園は幅30〜40m、長さ1.85kmの公園。大横川の流れている一帯はもともと地盤沈下が激しくこれにより低い土地では川から水が溢れると浸水する危険があったため、周囲がゼロメートル地帯である大横川の北部を堰き止め、常時排水することにより海水面より水位を下げて埋め立てることで親水公園として整備した所のようです。公園としては1993年4月1日に開園したのです。

タワービュー通りに入ると東京スカイツリーが正面に見えました。
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くず餅船橋屋は文化2年 初代勘助が亀戸天神参道に創業したのがはじまり。出身地の地名をとり、屋号を「船橋屋」としたとのことです。くず餅・あんみつ等の製造販売、和スイーツなど創作カフェの経営などもしているようです。

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亀戸天神社( 亀戸天満宮)は、1662年(寛文2年)、大宰府の神官大鳥居信祐が、菅原道真の像を小祠に祀り、翌年、大宰府に模した社殿を造営したのがそのはじまり。1873年(明治6年)、亀戸神社、1936年(昭和11年)、亀戸天神社となりました。学問の神様として信仰を集め、藤と梅の名所で知られ、『名所江戸百景』(安藤広重画 1856 - 58年版 大判錦絵118枚揃)にも描かれた古刹。亀戸の名物、葛餅は屋台売りの他に、1805年(文化2年)に天神社参道にて創業した船橋屋が人気を集め、その葛餅は亀戸餅とも呼ばれた。葛餅と藤の絵あり。「名代 久壽餅」と記された紙片の一部が書き写されている。『世渡風俗圖會』では、屋台売りの「亀戸名物葛餅」が描かれているとのことです。

本日の御朱印は最初に訪れた富岡八幡宮と最後の亀戸天神社ということで、途中はすべからくリラックスなどと思っていたのですがいやはや、中身満載のウォーキングでした。講師國さん、TD林さんという若い女性2人の先導でしたから、参加者12名の気分は大いに気安く過ごせたと思いました。歩程約2万歩超!距離としては10km弱のようでした。近頃ウォーキングが足りない日々を過ごしがちでしたから今日はくたびれて、帰りの電車ではひどく爆睡!乗り過ごしそうになったくらいです。といっても翌日も元気に過ごしましたから只々、感謝!今後も懲りずに日々頑張ります。
posted by yunofumi at 16:21| あちこちウォーク

2020年11月19日

2020.11.14 2巡目第9回東京の新発見旅「豊島区」

本日の天気予報は晴天、小春日和のなか調子よくウォーキングできそうです。

JR駒込駅⇒染井吉野桜記念公園⇒六義園⇒絵本とおもちゃのお店⇒駒込警察署⇒東洋文庫⇒徳川慶喜屋敷跡⇒JR巣鴨駅⇒江戸六地蔵尊⇒高岩寺・とげぬき地蔵⇒猿田彦大神庚申塚⇒庚申塚駅---都電荒川線---向原駅⇒サンシャインシティ・古稀殿(昼食中華) ⇒アニメイトアネックス⇒北京語言大学東京校⇒池袋架道橋⇒婦人之友社⇒明日館⇒宮崎白蓮旧宅⇒目白庭園・赤鳥庵⇒徳川ドーミトリー⇒寛永堂本店⇒JR目白駅

JR駒込駅隣に染井吉野桜記念公園があります。
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日本中に植えられているソメイヨシノは、駒込でつくりだされました。「桜の里」の碑があります。ソメイヨシノの原種はエドヒガンザクラとオオシマザクラということでここでは花の時期にサクラ同士を比較できるようです。
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六義園(りくぎえん)は、徳川5代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢が、約27,000坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて、起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させたということです。
本日は駒込駅側の入り口が開いており、一周後枝垂れ桜の前から外に出ました。とても見事な紅葉を見ました。
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絵本とおもちゃのお店の創業は1907年(明治40年)。凸版印刷が大株主で「子どもたちの健やかな育ちを支える」「知と感性にあふれた豊かな価値を創造」「社会貢献」がモットーのようです。
キャラクターにアンパンマンが健在のようでなんとなく、嬉しく感じました。
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東洋文庫にははじめて中へ入りました。
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東洋文庫は東洋学の研究図書館。三菱第三代当主岩崎久彌氏が1924年に設立。東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館で、世界5大東洋学研究図書館の一つとのこと。蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊。蔵書の内訳は、漢籍40%、洋書30%、和書20%、他アジア言語(韓・越・梵・イラン・トルコ・アラビア語等)10%とのことです。

中にはモリソン文庫がありました。モリソン、ジョージ・アーネストはイギリスのジャーナリスト。オーストラリアのヴィクトリア州ジーロン市に生まれ、1880年代に世界各地を旅行。長期間に蒐集したモリソン文庫と称される極東関係文献24,000冊は1917年、岩崎久彌に譲渡し、今ここにあるのです。
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裏にはシーボルトゆかりの植物が植えられた庭園があり、奥には「オリエントカフェ」がありました。ランチがおいしそうでした。
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「徳川慶喜屋敷跡」は、巣鴨駅の駅前にあります。巣鴨駅から白山通りを横断歩道で越えて徒歩1分で到着。その場所には石柱と説明板があります。徳川慶喜は、新政府から慶喜追討令が出されたのを受けて、寛永寺、水戸講道館で謹慎した後、さらに静岡で謹慎。謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でその後4年間、ここ巣鴨に住んでいたとのことです。

真性寺は巣鴨にある真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。院号は東光院。本尊は薬師如来。この寺は聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたということです。
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江戸時代には江戸六地蔵の第四番が安置され、また江戸幕府8代将軍徳川吉宗もたびたびこの寺に立ち寄ったと伺いました。この銅像地蔵菩薩坐像は1714年(正徳4年)に造られたとのことです。

「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通りは、旧中山道にあり、江戸の中期から現在にいたるまで、商業や信仰の場として栄えています。本日も大賑いでびっくりしました。この商店街は江戸六地蔵尊 眞性寺から巣鴨庚申塚の間にお店が密集しています。明治24年に、とげぬき地蔵尊 高岩寺が上野(現在の上野の新幹線の駅のそば)から巣鴨へ移転してきたことから、現在、巣鴨地蔵通りは「とげぬき地蔵尊」と「江戸六地蔵尊」の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚の間なります。
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高岩寺にはとげぬき地蔵がありました。
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美味しいアンパンで有名なキフクヤパン
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猿田彦大神庚申塚2998
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その後は庚申塚駅から3駅の向原駅まで都電で移動でした。
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昼食はサンシャインシティの古稀殿で中華料理のランチ。
池袋は以前伺った時には気が付かなかったアニメイトアネックスがドーンとありました。コスプレで有名なところのようです。
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自由学園明日館は、1921年(大正10年)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎としてアメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されたとのことです。
本日は結婚式のため外観のみの見学でした。自由学園は現在、東久留米市にあるようです。
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ウォーキング途中に宮崎白蓮旧宅がありました。白蓮は、大正から昭和にかけての歌人で、大正天皇の生母柳原愛子の姪、つまりは大正天皇の従妹。本名は柳原Y子。父は柳原前光伯爵、異母兄義光は貴族院議員、姉信子は東宮侍従長入江為守、自らの夫は福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門という華麗な生い立ちだったものの東京へ出奔して弁護士で社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちした「白蓮事件」が有名です。宮崎龍介は、孫文(逸仙)の盟友で、辛亥革命を支援した宮崎滔天の長男で西池袋の上屋敷に居を構えていましたのです。現在も、白蓮と宮崎龍介の住んだ建物として、子孫の方が大切に保存し居住されているとのことでした。

豊島区立目白庭園は、豊島区の都市化、国際化が進む中で、自然に接し、伝統文化を育む場として、平成2年11月に開設されました。
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庭の中心に大きな池を配し、周囲に園路を巡らせた伝統的な池泉回遊式の日本庭園です。限られた空間の中に様々な自然の景観を凝縮し、池の周りを巡りながらその風景を楽しめます。庭園内には季節の移ろいを感じられる四季折々の花や草木が植えられているほか、木造瓦葺き平屋建ての数寄屋建築の「赤鳥庵」や六角浮き見堂が配されており、様々な角度から庭園の魅力を満喫することができます。

徳川ドーミトリーは徳川ビレッジの中にあり八雲産業株式会社が管理運営しているようです。この会社は、昭和23年に尾張徳川家の資産管理運営を目的として設立された会社とのこと。 東京・目白の所有地・敷地面積5,703坪は「徳川ビレッジ」とよばれ、そこには外国人用高級賃貸住宅や女子学生寮「徳川ドーミトリー」があるとのことでした。

今朝10:00JR駒込駅を出発。講師後藤先生、TD児玉さん、参加者18名。15:00には終了、歩程約9km、約2万歩は久しぶりでウォーキング途中にはうっすら汗ばむくらいの小春日和でとても気持ちよかったです。何度も訪れた所も含まれていましたがそれなりに見方が違い、楽しかったです。特に東洋文庫と目白庭園は印象深く、個人でも再訪してみようと思いました。
このコロナ禍の中のウォーキングは主催者も参加者もそれなりに気を使っているけれど、ささやかに喜びを感じる一日となりました。皆様に感謝!!またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 16:56| あちこちウォーク

2020年10月29日

2020.10.23 第2回 東京十社巡り

東京メトロ千代田線乃木坂駅⇒乃木神社⇒乃木邸⇒乃木会館⇒ガレリア⇒檜坂⇒本氷川坂⇒氷川分館⇒赤坂氷川神社⇒四合稲荷神社(しあわせいなりじんじゃ)⇒赤坂子ども中高生プラザ⇒勝安房邸跡⇒港区立氷川公園⇒TBS ⇒フランス料理オステルリースズキ⇒赤坂サカス⇒ 鈴降稲荷神社(すずふりいなりじんじゃ)⇒丹後坂⇒牛鳴坂⇒武家屋敷門⇒山脇学園⇒弾正坂⇒赤坂警察署⇒美喜井稲荷神社⇒豊川稲荷⇒国際医療福祉大学⇒赤坂不動尊⇒函館開陽亭赤坂店⇒山王日枝神社⇒溜池山王駅

朝10時に乃木坂駅に集合するとかなりの雨降り。そこでポンチョを身に着け、ウォーキング開始。初めは雨降りが激しくて写真が思うようにとれませんでした。
でも次第に小雨になり、何とかランチに突入。そして午後はポンチョもやめて、撥水のジャンパーと帽子でどうにか15時の終了まで頑張りました。

乃木神社。
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1912年(明治45年)7月30日明治天皇がなくなられ、その後大葬の日が1913年(大正元年)9月13日となりこの日、乃木希典大将は夫人と共に自害されたことからご夫妻をまつった神社なのです。

正松神社は乃木神社の境内の奥にありました。 松下村塾の開祖 玉木文之進先生と吉田松陰先生をお祀りしてあるとのことです。
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乃木邸は日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849〜1912)の邸宅地だったのが、乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に一般の方々が見学できるようになったのです。
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東京ミッドタウンは、赤坂にある大規模複合施設。もとは防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)跡地の再開発事業として、2007年(平成19年)3月30日に開業したとのこと。東京ミッドタウンには、ホテル(ザ・リッツ・カールトン東京)、文化施設(サントリー美術館など)、130に及ぶ商業店舗、オフィス、住居、病院、公園などがあるとのことです。

「檜坂(ひのきざか)」は江戸時代に、檜の木が多ったので、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(檜町公園)に添う坂であったことからこのようによばれているのです。

「本氷川坂」は赤坂の繁華街から一歩外れた落ち着いた場所にあり、坂の西脇には氷川神社が隣接していました。高低差があり、坂の形状自体も湾曲しているので、歩いていると次々に景色が変わり、それなりに楽しい坂道だと思いました。坂名の由来は、もともと江戸時代に元氷川明神があったことからそう呼ばれるようになったということです。

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赤坂氷川神社と道路で隔てた向かい側には長〜い土塀があり、その上には侵入防止のためのワイヤーまで張られていました。実はここは日本銀行氷川分館で迎賓施設のようで、業務上機密を要する会合が行われるとのことです。唯一日本銀行の施設であることを推察できるのは、塀の先端の瓦のマークでした。

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赤坂氷川神社の御祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと別名…大国主命)のお三方の神様。御神徳は厄除・良縁・家内安全・商売繁盛とのことです。

TBS放送センターは「ビッグハット」とよばれ、屋上のパラボラデッキから由来しているようです。一番上に見えるパラボラデッキに無線送受信設備を設置してあり、ヘリポートでもあるようです。

フランス料理オステルリースズキ(昼食)。
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フランス三ツ星レストラン出身のシェフが本場の郷土料理をベースとした素材の味を活かした本格フレンチいただきました。私たちはいただけませんでしたが、シェフ自ら厳選したワインは常時300種類以上用意してあるとのことでした。

赤坂サカスは、赤坂5丁目の再開発複合施設。赤坂サカスの「サカス」は、桜を咲かすという意味であると同時に赤坂にたくさんある坂=「サカス」の意味もあるのです。また「赤坂サカス」のローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」となる。
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赤坂サカスには、およそ100本の桜が植えられています。その中心に位置しシンボルとも言えるのがこの「三春桜」です。三春桜はエドヒガン系のベニシダレザクラで樹高12m、樹齢は100年とも言われています。日本三大桜のひとつで国の天然記念物、福島県三春町の「滝桜」の子孫樹であることから「三春桜」の名がつけられたのです。


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鈴降稲荷神社(すずふりいなりじんじゃ)は円通寺通りから曲がった細い路地の奥に、ひっそりとありましたが、通りの看板と赤い旗ですぐわかりました。
「鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。元禄8年、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷といい伊賀組の鎮守としたのです。そういえばNHKの以前の朝ドラ「ひよっこ」ででてきた「すずふり亭」はこのお稲荷さんと背中合わせの設定だったと伺いました。オモシロイ!!

「丹後坂」は赤坂のコロンビア通りから北方へ登る石段の坂道で、坂上からさらにまっすぐ行くと牛鳴坂(うしなきざか)の坂上に到達しました。牛鳴坂は赤坂から青山に抜ける厚木道だったようで路面が悪く車を引く牛が苦しんだことから名前が付いた坂道とのことです。

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1864年(元治元年)に再建された武家屋敷門は、切妻造本瓦葺きで、裄(けた)行(ゆき)21.8m、梁間(はりま)4.7mの規模を持つ国の重要文化財。
2016年(平成28年)に山脇学園新校舎建築事業の一環として、千葉県九十九里町にあったこの門が赤坂に移築されたとのことです。持ち主の山脇学園ではこの門を“志の門”と呼んで、入学式や卒業式など節目の日に開門して、生徒が志を新たにする機会としているようです。

「弾正坂(だんじょうざか)」の西側には吉井藩松平氏の屋敷があったとのことです。この家は代々、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の役割を担った弾正だあったので家の前の坂にこの名前が付いたようです。実際には赤坂御用地(元赤坂二丁目)と豊川稲荷別院との間を登り、青山通り(国道246号線)と斜めに交差して、更に赤坂警察署と虎屋本社との間を山脇学園前まで登る坂道なのです。

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美喜井稲荷神社(みきいいなりじんじゃ )は「とらや本店」のわきの路地を入りビルの中二階に秘密基地みたいにあった神社です。この神様は蛸を食べないことや猫が飾られているのが印象的でした。

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豐川稲荷は正式名を豊川閣妙厳寺(とよかわかくみょうじん)といい、山号が圓福山(えんぷくざん)という曹洞宗のお寺で愛知県豊川閣の直轄の別院だそうです。こちらは「稲荷」となっていますが「狐を祀った神社」ではないこと、またもともと赤坂一ツ木にあった大岡越前守忠相邸にあったとのことです。

国際医療福祉大学には山車がありました。
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大学の学生が赤坂氷川神社の例大祭「赤坂氷川祭」に山車をひいて参加するようです。

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赤坂不動尊 智劔山威徳寺は江戸時代より紀州徳川家の祈願寺ということで内陣には紀州徳川家奉納の厨子や仏具などがあるようです。

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山王日枝神社の創建年代は不詳といいつつも、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるというふうに伺いました。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座して、江戸城の鎮守をしたようです。そして慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになったのです。またここは江戸城から見て裏鬼門に位置することが知られています。
この鳥居は「山王鳥居」または「合掌鳥居」「破風鳥居」というようです。山王は、日枝山(比叡山)の神(大山咋神)が山王権現と呼ばれていたことが由来とのことでした。この山王鳥居は、日枝神社以外では、日吉大社でも見ることができると伺いました。
一番の驚きはこの日枝神社が小高い丘の上にあることから外堀通りから社殿まで3基のエスカレーターが設置されていたこと。ビックリでした。
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日枝神社には、狛犬ではなく「猿」が置かれていました。 猿は、もともと神様と人間のあいだをとりもつ存在で、昔から敬われているのです。「魔が去る(まがさる)」などと考えられ、勝運の神や魔除けの神として置かれています。音読みの「えん」と本殿に向かって左がメスの神猿像。子猿を抱いていて、子宝や安産のご利益があるようです。 本殿向かって右がオスの神猿像で本来、猿は山の守り神で、木や生き物を生み出し育てたと伝えられていますのでそれにあやかり物事を生み出す、発展させる「商売繁盛」や「社運隆昌」にご利益があるとのことでした。

本日は時々強い雨降りの中どうにか16000歩のウォーキングを午後3時に溜池山王駅で終了。気温が16℃前後で変化なく汗はじっとり身体にまとわりついており帰宅後はすぐに入浴して温まりました。講師の藤原さん、TD西平さんには参加者11人を安全に誘導するのにかなりご苦労されたのではないかと思いました。参加者のひとりとして、ただただ感謝!!そして11月の第3回が晴天に恵まれますように!!
posted by yunofumi at 17:51| あちこちウォーク

2020年10月09日

2020.10.5 第1回 東京十社巡り

本日は東京十社のうち神田明神・根津神社・白山神社を中心のウォーキングツアー。
東京十社は、明治元年にあたる1868年に明治天皇が定めたもの。
江戸城の造成に風水が取り入れられていたことは有名な話ですが、明治になったばかりのあわただしいなかで東京十社を迅速に定めたのは、皇居と東京に暮らす人々を守る、新しい時代の新しい結界を作ることを重要視したためのようです。
東京十社とされたのは、根津神社、神田明神、亀戸天神社、白山神社、王子神社、芝大神宮、日枝神社、品川神社、富岡八幡宮、赤坂氷川神社。
このなかで神田明神は鬼門(東北)に、日枝神社は裏鬼門(西南)に位置しているとのことです。

JR御茶ノ水駅聖橋口⇒聖橋⇒湯島聖堂⇒神田明神⇒清水坂下信号⇒妻恋神社⇒湯島中坂上信号⇒鳥つね⇒湯島天満宮⇒舞鶴ぶどうぱんの店⇒東京メトロ湯島駅⇒天神下信号⇒ALFA CAFÉ(昼食)⇒根津教会⇒根津神社⇒漱石旧居跡⇒海蔵寺⇒大林寺⇒大圓寺⇒圓乗寺⇒白山神社⇒東京メトロ白山駅

AM10:00JR御茶ノ水駅聖橋口を出発。
本日の参加は女性ばかり11名。東京シティガイドの講師前川、加藤のお二人。TDは若い青木さん。私の1班の5人は加藤さんの案内で元気に出発。
聖橋は神田川の上の外堀通りにあり、JR御茶ノ水駅をまたいでいます。長さは79.3mで鉄筋コンクリートのアーチ橋。この橋は関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、1927年(昭和2年)に完成。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。2018年には土木学会選奨土木遺産に認定されたとのことでした。

湯島聖堂は江戸時代の1690年(元禄3年)に江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟で、後に幕府直轄の学問所だったとのこと。「日本の学校教育発祥の地」の掲示がありました。
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湯島聖堂の周りにある塀は練塀といって白漆喰が交互に積み上げられた土塀とのこと。江戸時代は火事が多かったからこの様な工夫がされたようです。
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孔子像は知っていましたが楷の木(かいのき)、白松(はくしょう)の説明をはじめて伺いました。
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楷の木は孔子の墓所に植えられている名木で枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源となったのは枝がカクカクしているからのようです。
白松は樹皮が薄く丸く剥げていく性質があるとのことです。


神田明神。
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正式名称は神田神社。 東京の中心の神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などの108町会の総氏神様。
大黒様といわれる大己貴命(おおなむちのみこと)、えびす様といわれる少彦名命(すくなひこなのみこと)、除災厄除の神様といわれる平将門命(たいらのまさかどのみこと)が御祭神です。以前伺った時は工事中だった境内にEDDOCO神田明神文化交流館ができていました。
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妻恋神社(つまこいじんじゃ)の神紋は「檜扇に御の字」。江戸時代には関東総司稲荷神社とされ、「關東總司 妻戀神社」といわれたようです。また、日本七社(日本七稲荷)の一つでもあります。

湯島中坂上信号をすぎると「鳥つね」が見えました。こちらの親子丼が半熟の玉子で艶々していてとても美味しいとのことです。

湯島天満宮(湯島天神)は受験シーズンは合格祈願のために、参拝する受験生が訪れることで有名です。本日はリニューアルが境内で行われている様子で少し雑然としていました。
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境内には「撫で牛」が2体ありました。自分の体の悪いところを撫でると良くなると言われています。正式には「臥せ牛」というようで昔、道真公が亡くなるときに、「自分の遺骸を牛の背に乗せ、人に引かせず、その牛が立ち止まったところを墓所とするように」との遺言があり、牛を天神様の使いと考えたからのようです。
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奇縁氷人石は落し物や迷子の時、この石にお願いするとさがしているものが見つかるといわれた石。石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」があり、落し物や迷子を探す人は「たつぬるかた」に、拾ったり見つけたりした人は「をしふるかた」に、お願いしたことや知らせたいことを紙に書いて貼っておくとよいということで江戸時代に人出が多かった場所に設置され、伝言板の役割を果たした石なのです。

文京区から台東区のこの辺りは谷中・根津・千駄木の総称が「谷根千」といわれているようで東京の中心部に位置しながらも下町情緒溢れるこのエリアということでお散歩コースとして人気だそうです。

舞鶴ぶどうぱんの店は湯島にある創業1980年(昭和55年)の喫茶店。看板商品はレーズン含有率92%の「ぶどうぱん」。天神下交差点から湯島方向へ約1〜2分、湯島駅3番出口から約1分。ショーウインドウには「ぶどうぱん」が色々並びお値段はそれなりの様子。一度は食べてみたいと思いました。
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ALFA CAFÉは東京メトロ根津駅すぐそばでした。
本日はお得なランチということで前菜・スープ・骨付きロースポーク・デザート・珈琲。ちょっぴり贅沢な食事でした。
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根津教会は日本基督教団の教会堂。1919年(大正8年)に「本郷福音教会」として建立。東京の空襲にも会わなかったそうです。木造平屋建て切妻造で、外壁は下見板張りで、切妻の妻面に窓を開けた尖頭アーチのデザイン。玄関部のトンガリ屋根を載せた角塔が地域のランドマークのようでした。 2001年(平成13年)には、門及び塀とともに国の登録有形文化財に登録されたとのこと。
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根津神社は日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝わる古社。
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現在の社殿は1706年(宝永3年)、甲府藩主徳川家宣(のち征夷大将軍)が献納した屋敷地に造営されたもの。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされているようです。社殿7棟が国の重要文化財とのこと。境内の徳川家宣胞衣塚と乙女稲荷も見ました。
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漱石旧居跡。
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日本医科大学同窓会館のそばに文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡がありました。 ここには、イギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだようです。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、処女作『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。塀の上には猫が鎮座しここは「猫の家」跡ということです。ここではまた『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等も発表したようです。また家屋そのものは愛知県犬山市の「明治村」に移築され公開されており、私は以前、明治村を見学したことがあります。 

曹洞宗 大智山 海蔵寺は天文年間(1532‐1554) 勝庵宗最禅師を開山とし、現在の和田蔵門内に創建され、その後明暦年間(1655‐1657)に現在地に移転してきたとのこと。
著名な墓碑では、江戸庶民に富士信仰を広めた富士行者身禄の墓、江戸後期の儒学者立原翠軒夫婦の墓があると示されていました。
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大林寺(だいりんじ)は、東京都文京区にある曹洞宗の寺院。元和年間(1615年 - 1624年)、元秀和尚の開基。元秀和尚は臨済宗の僧だったが、隠居するにあたり駒込高林寺の喜山春悦和尚を第2代住職に迎えた。その際に当寺は曹洞宗に転宗したようです。よって喜山春悦和尚を勧請開山としていることになります。 元々は下谷にありましたが、その後、現在の文京区内を転々とし、1712年(正徳2年)に現在地に移転したようです。

大圓寺ではほうろく地蔵を見ました。
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圓乗寺では八百屋お七の物語と共にお墓を見ました。
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白山神社。
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菊理姫命(くくりひめのみこと)伊弉諾命(いざなぎのみこと)伊弉冊命(いざなみのみこと)が御祭神。
天暦2年加賀一宮白山神社を現本郷元町に奉勧請したとのこと。建武4年足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜられ、元和2年には徳川秀忠公の命に依り巣鴨原へ遷座、慶安4年には徳川家綱公の用地と成り、明暦元年現社地に移奉したようです。その後、五代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け、小石川の鎮守となったのです。ここは紫陽花と白旗幡桜が有名のようです。

本日自宅出発時は16℃、日中は24℃。ウォーキング中は曇りだったので絶好の日和。コロナ禍になってから初めてのウォーキングツアーでしたが16000歩を完歩できてほっとしました。加藤講師は初めて担当頂きましたがとてもお話が面白く、多岐にわたりかなり初めてのことも知ることができました。
本日の十社巡りは第1回ということで御朱印帳もいただき今後が楽しみです。また頑張ります。
posted by yunofumi at 16:06| あちこちウォーク

2020年01月20日

2020.1.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第7回北区

令和2年になって最初の本格的なウォーキングです。お天気もほぼ快晴のなか、元気に22名が出発です。先導はいつものように喜多見修一先生、TDは小松さんです。

東武アーバンライン大宮公園駅⇒寿能町2丁目⇒寿能城跡⇒西縁見沼代用水路・見沼緑道⇒御嶽社⇒東野第9踏切⇒土呂の地蔵堂⇒見晴公園⇒市民の森見沼グリーンセンター⇒神明橋通り⇒神明社⇒JR土呂駅⇒盆栽レストラン大宮⇒大宮盆栽美術館⇒藤村園⇒盆栽町会館・神徳庵大社⇒さいたま市立漫画会館⇒芙蓉園⇒大宮盆栽町郵便局⇒盆栽四季の家⇒JR宇都宮線土呂駅

東武アーバンラインは元々東武野田線といわれ大宮駅から千葉県の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の路線。「東武アーバンパークライン」の愛称は2014年4月につけられたようです。 東武鉄道で唯一、千葉県内を通る路線とのことです。

大宮公園駅は1929年(昭和4年)の開業で2015年に現在の駅舎になったようです。大宮公園には埼玉県立歴史と民俗の博物館、大宮競輪場、埼玉県営大宮公園野球場、さいたま市大宮公園サッカー場(NACK5スタジアム大宮)、大宮第二公園、そして本日伺う大宮盆栽村もあり、風光明媚なところでもあります。

寿能城(じゅのうじょう)跡。
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1560年(永禄3年)頃に、岩槻太田氏の岩付城の支城として建設され、初代城主は、岩付城主太田資正(三楽斎)の四男?の潮田資忠(母方の姓)であったとのことです。岩付から見て西方の、見沼の対岸に築城されたのです。氷川神社を後ろにしており、位置としては大宮台地のほぼ中央でその先はかっては見沼の入江となっており水に囲まれた城だったようです。城の最後は徳川家康に下った古河藩家老潮田資忠の子孫や潮田家遺臣で資忠の墓碑を城跡に建て、これが現在みられるのです。

見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)は、上尾市・さいたま市・川口市を流れる灌漑農業用水および都市用水路。
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見沼緑道は、見沼土地改良区と水資源公団による見沼代用水改良工事によって生まれた空間地を利用して造られた遊歩道で、JR宇都宮線土呂駅と東大宮駅の中央付近から見沼代用水沿いに下って、東武野田線の付近で一旦迂回し、大和田公園の入り口まで続いています。したがって本日もウォーキングするところも含め、見沼公園・神明社・市民の森・見晴公園・大和田公園などがあるとのことです。
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見沼緑道では途中にあった案内板からわかったとこは、かおり木の道・小鳥と花の道・風と花の道・フローラの泉・杜の道・花かすみの道などを今日は通ったのです。また所々で咲いていた蝋梅の香りがよかったです。
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土呂の御嶽社は全国にある御嶽神社の一つ。旧武田家臣で徳川旗本だった初鹿野氏が氏神として甲州から勧請した神社のようです。
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土呂の地蔵堂は旧武田家臣で徳川旗本の初鹿野氏が自身の陣屋(土呂陣屋)内に建てたもののようです。今日は扉が閉まっていたので建物のみを見ました。
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見沼田んぼには、白い風車のシンボルがある「見晴公園」がありました。「見晴公園」は「市民の森・見沼グリーンセンター」の隣で見沼たんぼの北部にあたり、公園の東側に芝川が、西側に見沼代用水西縁が流れています。春には、風車の前に菜の花畑が広がり、菜の花畑と白い風車が絵になり、桜も満開ならなおさらきれいな景色が見られそうです。
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市民の森見沼グリーンセンター。
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面積約14uの自然と接して楽しめる憩いの場で、常緑樹、落葉樹が植えられ四季を通して豊かな緑があふれる市民の森、広大な芝生広場、シマリスを放し飼いしているりリスの家、展示温室、盆栽展示場、健康歩道、林間テラス、見沼グリーンセンター本館などの施設がありました。

子リスのトトちゃん像とリスの家
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リスの家には、広めの敷地の中にシマリス約100匹を飼育していて、シマリスの可愛い仕草や姿、生態などが間近で観察が出来ます。今日は冬眠中なのに暖かかったためちょろちょろお出かけしていた5匹を見ることができました。
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土呂神明社の創建年代等は不詳ということですが、源義家の伝説に比定される杉の樹齢が約八百年だったことから中世の創建ではないかということです。明治6年村社に列格、明治40年村内にあった字御嶽御嶽社(境内社三峯社)、字稲荷山稲荷社、字植嶽稲荷社(境内社神明社)、八雲社を合祀したとのことです。
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土呂駅(とろえき)は、埼玉県さいたま市北区土呂町一丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線の駅。この路線は「宇都宮線」の愛称区間に含まれており、上野駅発着系統と、新宿駅経由で横須賀線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車します。 開業は1983年(昭和58年)10月。2017年(平成29年)にさいたま市で「第8回世界盆栽大会 in さいたま」が開催され会場のさいたま市大宮盆栽美術館の最寄り駅であったことから改札などへの盆栽の配置や、駅構内におけるフラッグや盆栽のモチーフが飾られたようです。駅舎の前にはオブジェのように大きな盆栽が今でもあります。
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さいたま市立漫画会館(さいたましりつまんがかいかん)は、「日本の近代漫画の先駆者」・「日本初の職業漫画家」とされる漫画家、北澤楽天の晩年の居宅跡に1966年(昭和41年)11月に開館した施設です。公立美術館として日本初ですし漫画を主な収蔵品とするマンガ・アニメミュージアムとして知られているとのことです。
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盆栽町会館のお隣に神徳庵大社と清水瀞庵翁紀功碑がありました。この方は関東大震災後最初にこちらに移住した方でこの盆栽の町を作った功労者とのことです。
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さいたま市大宮盆栽美術館。
旧大宮市には1923年(大正12年)の関東大震災で被災した東京小石川周辺の盆栽業者が移住して形成された盆栽村があり、今も盆栽の町として知られています。
この大宮盆栽美術館は盆栽の魅力を発信するための観光施設として、2010年に開館したとのことです。
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盆栽村を開拓した先人達の先見性から、現在の道路幅も当時造られたそのままで、ほぼ碁盤の目状に造られ、道の両側にはさくら、もみじ、かえで、けやきなどの木々が植えられていました。それらの道は「けやき通り」「もみじ通り」など植えられた木の名前が付いており、盆栽四季の道と今も呼ばれています。
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途中にはお休み所「盆栽四季の家」がありました。ここで盆栽最中を美味しくいただきました。
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盆栽村は今、盆栽町という珍しい町名となっておりました。各盆栽園は自由に見学できるとのことです。今も営業中の盆栽園は、芙蓉園・九霞園・清香園・蔓青園・藤村園・松雪園とのことで特に芙蓉園には中に入ってみることができました。
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盆栽レストラン大宮。
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さいたま市大宮盆栽美術館のお向かいにありました。6年前に開業したそうです。
盆栽教室もやっているとのことで私を含め数名がウォーキング終了後苔玉つくりをしました。
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12月に腰痛が出て1か月は自重していましたが本日はお陰様で1日元気に過ごしました。気温9℃、ほとんど風なしの中、参加者全員が元気にゴールしました。さいたま市内ウォーキングも順調に回を重ねており、もうすぐ10区すべてが終わりそうです。その後は県内各市を巡るウォーキングがはじまるとのことです。また元気に参加できるように日頃から足を鍛えることを忘れないようにしたいです。
皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:51| あちこちウォーク