2019年07月13日

2019.7.11 2巡目第5回東京の新発見旅「新宿区」

梅雨明けはまだの時期ですが今日も街歩きに参加です。参加者22名、講師は若さハツラツ渡辺先生、TD反保さんと共に出発。空模様はまさに曇天、無風で21℃。ウォーキングにはまずまずの日和と思いつつ10:00出発。

副都心線西早稲田駅⇒新宿コズミックセンター前⇒新宿区立戸山シニア活動館⇒戸山公園・箱根山⇒放生寺⇒穴八幡神社⇒木組み博物館⇒ワセダグランド商店会⇒高田馬場跡・八幡鮨⇒堀部安兵衛之碑⇒早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館・会津八一記念博物館・大隈講堂⇒トラード早稲田⇒川田米店⇒天祖神社⇒鶴巻南公園⇒宗参寺⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒大願寺⇒矢来公園・・杉田玄白生誕地之碑⇒矢来能楽堂⇒牛込北町信号⇒牛込中央通り商店会・細工町⇒リストランテ・カルミネ(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒袋町⇒神楽坂加賀⇒善国寺⇒筑土八幡神社⇒新小川町⇒中之橋⇒凸版印刷梶E印刷博物館⇒有楽町線飯田橋

戸山公園は東京都立公園。敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれています。地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがっている広大な公園です。もともとは、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で、2代藩主徳川光友により、回遊式庭園として整備され、敷地内には箱根山に、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられています。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったようです。明治維新後、明治政府に渡り、跡地に1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されたとのことです。戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園したのでした。

箱根山は江戸時代に作られた築山で標高44.6mと山手線内では一番高い山なので戸山公園サービスセンターから登頂証明書をいただきました。
DSCN7687no2.JPG

DSCN7688no2.JPG

DSCN7692no2.JPG

穴八幡神社(あなはちまんじんじゃ)は蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている神社で旧称は高田八幡宮。社伝では1062年(康平5年)、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったというのがはじまり。 その後1636年(寛永13年)、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」というようになったのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたとの話もあります。 歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納し、これより流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、竹千代君(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が行われたのです。
境内入り口には高田馬場流鏑馬像があります。
DSCN7706no2.JPG

DSCN7704no2.JPG

DSCN7718no2.JPG

木組み博物館は館長の谷川一雄さんが約40年間、数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた中で、伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化継承を模索し、多くの方の支援でできた博物館だとのことです。展示は通り一遍ということではなく、日本の伝統木造建築の技術を伝える博物館展示型、体験型、参画型へ、そして木組みと共に左官、漆などの伝統技術や素材、道具も紹介していました。
DSCN7731no2.JPG
木の香りは心に癒しを与えてくれる空間でした。
              
堀部安兵衛之碑。
DSCN7754no2.JPG
堀部安兵衛は赤穂浪士で最強の剣豪。子供のころから親との縁が薄く一人で生き抜いてきた方のようですが例の赤穂浪士の一員だった堀部金丸との縁で自身も赤穂浪士となったようです。その後、例の松の廊下の事件があり吉良氏仇討ちに加勢したのです。

早稲田大学の坪内博士記念演劇博物館。
通称エンパクというそうで、1928年(昭和3年)に設立。坪内逍遙が開館式で「よき演劇をつくり出すには、内外古今の劇に関する資料を蒐集し、整理し、これを比較研究することによって基礎をつくる必要がある」と述べたと伝わっているようです。その志を受け継ぎ、今日に至るまで古今東西の貴重な資料を収集・保管・展示しており、収蔵品は百万点を超え、アジアで唯一の、そして世界でも有数の演劇専門総合博物館として、演劇関係者、愛好家、研究者にとても愛され、支えられてきたとのことです。
DSCN7764no2.JPG
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)は小説家、評論家、翻訳家、劇作家で長く早大の教授もされていたようです。演劇博物館は坪内逍遙の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたと伺いました。私はこれまで数回、早大に伺っていますがどうしたことか一度も開館日に巡り合っていません。ということで本日も工事中!!残念でした。

会津八一記念博物館。
DSCN7767no2.JPG
東洋の古美術に関心が高かった会津八一が蒐集した品を中心に多くの収蔵品がありました。中国の秦漢時代の建築や墓室を飾った瓦当・画像塼54点、後漢〜唐時代の墓に副葬された武人・侍女・馬などの陶俑や、竈や井戸を模した明器395点、多様な図案や銘文を背面にあしらった銅鏡208点、金石資料の拓本532点などが挙げられるようです。展示の中では伺うたびにうっとり見とれるのは横山大観の「明暗」です。本日も見ることができて幸せでした。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。すぐ傍にある大隈重信像と並び早稲田大学を象徴する建築物です。
DSCN7773no2.JPG

ドラード早稲田は鶴巻町の有名デザイナー『梵寿綱(ボンジュコウ』建築のデザイナーズ分譲賃貸マンション。 早稲田エリアでは一際目立つこの建物、オートロック完備でとても人気のある物件だそうです。
DSCN7789no2.JPG

宗参寺は、1543年(天文12年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことがはじまりとのことでした。
DSCN7807no2.JPG
牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本だったそうです。 門扉にも紋所がくっきりでした。

漱石山房記念館は漱石が暮らし、執筆した空間を可視化するために記念館内に書斎・客間・ベランダ式回廊など「漱石山房」の一部を再現しています。文学館として初の本格的漱石記念館としての役割を果たすべく通常展のほか、特別展や講座・イベントを開催して漱石やその文学の世界を紹介していました。気軽に利用できるように明るい空間でした。
DSCN7828no2.JPG
ということでカフェで有名な銀座の「空也もなかセット」をいただき元気回復です。
DSCN7822no2.JPG
記念館の隣。漱石公園のあたりは、1907年(明治40年)〜1916年(大正5年)、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があった場所。今は通りに面して山房記念館、横から裏手にこの公園がとても綺麗になっていました。ここで漱石は、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆したのです。
DSCN7832no2.JPG
猫塚です。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたようです
DSCN7837no2.JPG
数年前に伺った時には建物は道草庵だけでしたが見違えるように整備されていました。

矢来公園(やらいこうえん)には複合遊具、グローブジャングル、動物などのスプリング遊具、砂場などがあり、またケヤキやスダジイなどの高木が木陰をつくっており、まずは安らぐ公園でした。ここ矢来町には江戸時代に小浜藩の下屋敷があり、屋敷内には江戸詰の藩士が居住し、「解体新書」を著した蘭学者杉田玄白は、この屋敷内で生まれたようです。公園内には杉田玄白、小浜藩邸跡記念碑がありました。
DSCN7853no2.JPG

矢来能楽堂(やらいのうがくどう)は観世九皐会所有の能楽堂。矢来観世家・観世九皐会の本拠地として活動の拠点となっているとのことです。1952年(昭和27年)に現在の舞台・建物が建てられ、現在東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古いとのことでした。
DSCN7860no2.JPG

リストランテ・カルミネ(昼食)
日本で初めてイタリアンレストランを開いたカルミネさんだそうです。店員さんもイタリアン人の方が沢山おられイタリア語?が飛び交っていました。パスタは日本では珍しく歯ごたえがあり、美味しく頂きました。
DSCN7873no2.JPG

善国寺(ぜんこくじ)は、神楽坂にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺。安土桃山時代の1595年(文禄4年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建。たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年(寛政5年)には現在地へ移転。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれています。また新宿山ノ手七福神の一つでもあります。
DSCN7904no2.JPG

印刷博物館(いんさつはくぶつかん)は、印刷に関する博物館。2000年に凸版印刷が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている所です。ミュージアムショップ、印刷関連図書専門のライブラリー、P&Pギャラリー、研修室(グーテンベルク・ルーム)、VRシアター(土日・土日に続く休日のみ)を併設しているとのことです。 駿河版銅活字(重要文化財)をはじめ印刷の歴史や社会的な背景、表現など印刷文化に関わる本全般を扱っていました。とても短時間では見ることができず、こちらも再訪が必要と思いました。
DSCN7942no2.JPG

本日の街歩きは若い渡辺先生の先導でしたから街並みを見ることを十分堪能しました。印象的は神楽坂界隈が面白かったです。結局最後の最後、印刷博物館を出るまで雨に合わず、快適でした。約11km、17000歩を本日も元気に過ごせたことに感謝!今後も地道に街歩きを楽しみたいと思っております。
posted by yunofumi at 12:21| あちこちウォーク

2019年07月10日

2019.7.7さいたま彩発見ぶらり街あるき

第3回岩槻区

東武野田線岩槻駅⇒東玉人形博物館⇒人形町通り⇒法林寺⇒八雲神社⇒浄国寺⇒人形歴史館・御成街道⇒岩槻郷土資料館・市宿通り⇒田中屋本店⇒東玉大正館⇒岩槻温泉ビル⇒ふな又(昼食)⇒岩槻藩遷喬館⇒裏小路公園⇒岩槻人形博物館⇒時の鐘⇒岩槻中学校⇒太田諏訪神社⇒市民会館いわつき⇒岩槻城址公園⇒マミーマート岩月店・ほんまる歯科⇒本丸自治会館⇒岩槻本丸郵便局⇒久伊豆神社⇒新正寺曲輪⇒本丸2丁目⇒岩槻本丸郵便局⇒浄安寺⇒大龍寺⇒大工町石柱⇒愛宕神社・岩槻城大構⇒東武野田線岩槻駅

昨夜からまだ梅雨の雨が続いています。しかし岩槻につくとほぼ雨は止んでおり、まずまずの気分で10:00出発。気温は19℃でやや肌寒でしたが元気に参加者16名は講師喜多見先生、TD岡さんとご一緒しました。

東武野田線は、大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線。2014年4月1日より全線で「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line)の路線愛称です。路線距離は62.7km、駅数は35駅、当初は野田醤油を運ぶために設置された路線だったようです。私は本日、初めてこの路線に乗りました。
駅を出ると今日は朝顔市とのことですでに賑わっていました。ちなみに朝顔は入谷と同じだそうですがお値段は少々安価とのことで例年訪れる方も多いようでした。
DSCN3486no2.JPG

駅前に「ミミズク土偶」がありました。
DSCN3493no2.JPG
真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は、岩槻区城南3丁目の縄文時代後期から晩期の集落跡で、貝塚と泥炭層からなっていました。泥炭層は真福寺泥炭層遺跡とも呼ばれているとのことで、大宮台地の岩槻支台の標高10mから13mにあります。 大正末年に、縄文時代晩期の竪穴住居跡及び土偶、勾玉、打製・磨製石斧、石鏃、石棒、砥石、独鈷(どっこ)石、磨石、凹石、曲石、X字形石製品、耳飾り、土版、骨角器等とともに多数の土器などの遺物が出土、貝塚は・ヤマトシジミの主淡貝塚で、直径150mの馬蹄形、または円形に散在することもわかったようです。 また、この遺跡から出土した土器は、1934年(昭和9年)に山内清男さんにより真福寺泥炭層式と提唱され、関東地方における縄文時代晩期前半の標識的な土器であり、歴史的価値が高く、今は東京国立博物館にあり、こちらのものはレプリカとのことでした。

東玉人形博物館は岩槻駅前にありました。ここは東玉のすぐれたコレクションより生まれた「人形の博物館」です。その収蔵品は多彩で、御所人形、雛人形、羽子板、五月人形、衣装人形やあやつり、からくり人形、さらには現代作家名匠の逸品から海外の人形までが展示されていました。また、見学の出来る人形工房や和風小物の売店が併設されており、体験教室で実際に絵馬や人形等の製作体験ができるとのことでした。展示では江戸時代のお雛様のお顔がつやつやしていたのが印象的でした。

岩槻は人形の街ですから人形町通りには何軒も人形屋さんがありました。

法林寺は太田道灌公 ゆかりの曹洞宗のお寺。
DSCN3514no2.JPG
芳林寺は、曹洞宗のお寺で山号は大平山。静岡県藤枝市洞雲寺の末寺とのこと。本尊は釈迦如来。開山は覚翁文等で、この方は1595年(文禄4年)に没したようです。言い伝えでは、以前、他の場所にあったお寺が、1520年(永正17年)火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移し、1523年(大永3年)春に再建したのです。たまたま資朝公の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していた方で、1567年(永禄10年)に逝去されたため、陽光院殿芳林妙春大姉と号し、その寺号を芳林寺に改めたといわれています。1591年(天正19年)高力清長が城主となった時、その荒廃を嘆き大修理を加え復旧、この後幾度か火災に遭い、2代目城主高力忠房が再び造営復旧したのです。さらにまた1811年(文化8年)焼失したため、1841年(天保12年)に本堂(間口9間・奥行5間)及び庫裡(間口12間・奥行5間)が再建されたのです。

境内にある太田道灌公騎馬像
DSCN3513no2.JPG

埼玉県庁が最初に設置されたのが芳林寺で門前にいきさつを記した石碑がありました。
DSCN3515no2.JPG
墓所には高力正長公御霊廟、太田道灌公御霊廟にお詣り。そのほか、田中保(たなかやすし)画伯のお墓もありました。この方は岩槻町出身。浦和画家の一人。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びたようです。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリで客死したのですが、近年、次第にその業績が知られるようになってきているとのことでした。

八雲神社。
DSCN3525no2.JPG
1560年、岩槻太田の家臣勝田佐渡守が当地に市を開設したときの市の守護神を祀った社。江戸時代には牛頭天王社と称されていたけれど明治になって八雲神社と改称したとのこと。今日はたまたま中まで見せていただきました。
本殿の彫り物が立派でした。
DSCN3527no2.JPG
参道は市宿通りにあり、8月に行われる岩槻まつりもこの神社の祭礼に起源があるとのことです。

浄国寺(じょうこくじ)は、浄土宗の寺院で、山号は仏眼山。院号は英隆院。本尊は阿弥陀如来。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたということです。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であったといわれています。
DSCN3533no2.JPG

岩槻郷土資料館は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署の建物で、岩槻の歴史について展示を行っていました。民具を中心とする民俗資料の収集、保存を目的とした資料館でした。さいたま市立博物館の分館とのことです。建物は2016年、国の登録有形文化財に登録されています。建物落成当時は現在の岩槻区域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だったそうです。

田中屋本店は江戸時代後期・嘉永年間の創業以来、ずっと岩槻で菓子屋を営んでおり、蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたもので、風格のあるたたずまいでした。
DSCN3554no2.JPG
名物は、岩槻城が白鶴城と呼ばれていたことにちなんだ、白鶴城印 栗最中。昔と変わらない手作りの味で、それぞれ小豆あん、白あん(栗入り)、ゆずあんがたっぷり入っているようです。ほかにも、濃厚な生のよもぎを練りこんだよもぎ団子や、代々受け継がれてきたタレが自慢の焼き団子なども人気があるとのことでした。

東玉大正館は中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例とのこと。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。今日は見られませんでしたが、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっていると伺いました。
DSCN3558no2.JPG

ふな又(鮒又)は100年以上の歴史ある日本料理の割烹旅館。江戸時代には城下町として、また将軍の日光東照宮参拝の通行路(日光街道)の宿場町としても栄えた岩槻で歴史を刻んできたとのことです。12代将軍家慶による、1843年(天保14年)の日光東照宮参拝の大名行列の様子を綴った文献に、当時のふな又も描かれているとのことでした。当時の当主は鮒屋又右衛門。
DSCN3570no2.JPG
昭和39年平成天皇ご夫妻が岩槻にお越しになった時、こちらで鰻重を召し上がったそうで、当時の食器が飾られていました。
またこちらは昭和の女優三宅邦子の実家とのこと。1916年、6人兄弟の末っ子として「ふな又」で誕生。埼玉県久喜高等女学校卒業後、松竹に入社。1934年に『夢のささやき』で映画デビューし、島津保次郎監督の『兄とその妹』、小津安二郎監督の『戸田家の兄弟』などに出演。それ以降、小津の作品に連続出演するようになり結局、彼女の出演した映画は200本近くあるようです。小津の死後は『サインはV』『たけくらべ』などテレビ出演もあったようです。1992年、急性心不全の為、東京・調布の自宅で死去。享年76歳。
DSCN3566no2.JPG

「岩槻藩遷喬館(いわつきせんきょうかん)」は、1799年(寛政11年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだまなんか)が開いた私塾で後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだそうです。1871年(明治4年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、1939年(昭和14年)に埼玉県の史跡に指定され、2003年(平成15年)から3年ほど解体修理・復原工事が行われ、埼玉県内では唯一現存する藩校の建物なのです。
DSCN3580no2.JPG

時の鐘は岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11年)当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置したとのこと。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕6時と正午の3回、美しい音色を響かせているとのことでした。
DSCN3589no2.JPG

太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を1623年(元和9年)に勧請奉斎したことがはじまりとのことでした。
DSCN3598no2.JPG

市民会館いわつきは各種イベントを始め、結婚式、披露宴、懇親会、講習会、研修会など市民のための施設。レストランでは埼玉B級グルメ優勝の元祖豆腐ラーメンを提供しているとのことで、ここでは食品サンプルをせめても、と眺めました。
DSCN3608no2.JPG

岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。ここは自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催されるとのことです。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれるとのことです。

人形塚
DSCN3617no2.JPG
岩槻城址公園内の人形塚前において毎年11月3日(祝)に、全国の人形愛好家の方々の、捨てるにしのびないという優しい気持ちに応えようと毎年「岩槻人形供養祭」が開催されるとのことです。当日は古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形が持ち寄られ、人形塚脇の黒門の周りに並べ、約20名の僧侶(岩槻仏教会)の読経のもとに参加者が焼香し、人形の持ち主は受付の際に渡される供養札を、天児(あまがつ・日本の人形の原形といわれ、子どもの健康と幸せを守るもの)に見守られながら、お焚き上げして冥福を祈るとのことです。

白鶴城(岩槻城)石碑。
岩槻城は、戦国時代に築かれた平山城で大宮台地岩槻支台上に立地し別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城などがあるようです。元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城はつまりは沼地の中にあったようなのです。今、沼はもうなくて、町が広がっていました。
DSCN3636no2.JPG
一番目立ったのは園内の菖蒲池に架かる朱塗りの八ツ橋。
DSCN3650no2.JPG
そういえば岩槻の区の花は山吹だそうです。太田道灌に因んでいるようです。
岩槻城本丸の辺りは町名も本丸、そして本丸のあった場所には現在、スーパーマミーマート岩月店がありました。テナントとしてほんまる歯科もありました。記念碑があればよかったのに残念でした。

久伊豆神社。
岩槻城の総鎮守で、正式名称は、「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)。「久伊豆神社」があちらこちらにあるので「岩槻久伊豆神社」ともいうようです。主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命といえば、出雲大社の神様。”だいこくさま”とも呼ばれ、縁結びの御神徳として有名です。
DSCN3681no2.JPG
また神社の名称が、久(ク)伊(イ)豆(ズ)と読めることから勝負運に強い神社ともいわれ、「クイズ神社」としても親しまれているとのことです。
境内には929個の風鈴が境内につるされ、参拝者にさわやかな涼を届けていました。もうひとつ境内には孔雀小屋もありました。孔雀は、1938年(昭和13年年)に、朝香宮(あさかのみや)殿下が岩槻にご来臨の折に、白金宮殿で飼育していた孔雀三羽を奉納されたのが始まりで、現在は二十羽近くまで増えたそうです。孔雀の他に、鶏もいます。しかも放し飼い状態でした。

浄安寺(じょうあんじ)の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたということです。
DSCN3713no2.JPG
境内には児玉南柯の墓がありました。児玉南柯【1746年(延享3年)〜1830年(文政13年】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られたのです。
浄安寺の前に「武州鉄道の小径」と書かれた木板がありました。今は何の痕跡もない道ですが1924年〜1938年の短い期間、蓮田駅と神根駅を結んでいた鉄道跡だそうです。

曹洞宗寺院の大龍寺(だいりゅうじ)は、雲居山と号すとのことです。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したということでした。
DSCN3732no2.JPG
名前にちなんだ大きな龍の彫り物がびっくりするほど目立ちました。

愛宕神社の祭神は迦具土命で、境内には松尾神社(祭神 大山昨命・伊弉諾命・伊弉冉命)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)があるとのことでした。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育ての神で、近年は、進学・就職の神として信仰を集めているようです。創建は明らかではないようですが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されているとのことでした。
いい伝えでは、1457年(長禄元年)に大田資清(あるいは道灌?)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った時、その傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えたことから、これは火防の神(愛宕大神)だろうということで土塁上に移し祀ったようです。その日が現在の7月24日であったところから、今でもこの日を祭礼日として祭典を行っているとのことです。
DSCN3737no2.JPG
室町時代に築城された岩槻城でこの愛宕神社はその岩槻城の土塁の上に鎮座しているということでこの場所を岩槻城大構というようです。神社横から見ると大構えがよくわかりました。

本日は小雨の中、岩槻の街を歩き回りました。足元にはカラフルなマンホールもありました。
DSCN3745no2.JPG
岩槻区はさいたま市の北東部で城下町・宿場町でもあり文化財や史跡も多そうでした。現在は人形の街なので人形に因んだ行事も多そうです。さいたま市内10区の中では最も広く、浦和区などから見れば自然の多い感じでした。はじめて乗った野田線も優雅な感じでしたからまた気候の良い時に、色々手に入ったガイドマップもとても分かりやすかったので再訪したいと思いました。
本日のウォーキング歩程約10km、約17000歩、15:30参加者全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 00:07| あちこちウォーク

2019年07月04日

2019.7.4 2巡目第4回東京の新発見旅「文京区」

今朝は自宅を出るときはバケツをひっくり返すような土砂降り。集合場所JR水道橋駅ではほぼ小雨。その中で10:00スタート。講師 國先生、TD山際さん。参加者は雨降りの影響で取り消し者続出のため結局15名。

JR水道橋駅西口⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望山台⇒源覚寺・こんにゃく閻魔⇒AOI NAPOLI(昼食)⇒慈眼寺⇒善光寺坂⇒傳通院⇒福寿幼稚園⇒メトロ後楽園駅

小石川後楽園は江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)。1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させたとのことでした。
DSCN3447no2.JPG
内庭。
DSCN3449no2.JPG
円月橋
DSCN3450no2.JPG

文京区役所展望山台。
DSCN3453no2.JPG
建物自体は文京シビックセンターというようです。この25階が展望台。だれでも自由に入れます。高さが142mで超高層と言う程のことはないけれど、近くに高い建物がないので非常に目立ちます。近くには、東京ドームシティや小石川後楽園などもあり、観光で訪れるにはよい所です。今日は雨模様でしたが案外によく見えました。

源覚寺は、380年余り前の寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創されています。この頃、「明暦の大火(1657年)」、「お薬園火事(1762年)」、「戸崎町火事(1774年)」、「富坂火事(1884年)」と、4度もの大火があったようですが幸いにも、ご本尊も閻魔さまもその都度、難を逃れることができたとのことです。あの太平洋戦争の東京大空襲でも本堂への延焼はなかったとのことです。
DSCN3456no.JPG
ここは閻魔大王が有名です。
宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。そして満願の日に、老婆の目は治り、それ以来、大王の右目はつぶれて盲目となったのです。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それをお供えつづけたということでした。

AOI NAPOLI(青いナポリ)は文京区小石川のイタリアン&ピッツェリアのお店。
DSCN3460no2.JPG
私たちはパスタも珈琲を含めデザートも美味しくいただきました。そうそう、ウエディングやパーティもできるそうです。

善光寺坂は文京区小石川2丁目と3丁目のちょうど境目にあり、地下鉄春日駅・後楽園駅の側、富坂下交差点そばの路地を曲がった先の坂道。
DSCN3465no2.JPG
ここにある大きな椋の木(ムクノキ)の案内板がありました。この木は樹齢300年にもなるという大木で澤蔵司稲荷の魂が宿っているといわれているとのことです。
またこの椋の大木の前には、幸田露伴が住んだ「小石川蝸牛邸」があった所です。
幸田露伴が疎開した後、「小石川蝸牛邸」は空襲で焼失したのですが、露伴の娘である幸田文が同じ場所に家を建て、さらに娘の青木玉と暮らしたということで案内もあります。

傳通院は浄土宗の寺。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれています。
山門
DSCN3479no2.JPG
本堂
DSCN3470no2.JPG
徳川家康の母、於大の方の墓
DSCN3471no2.JPG
その後、千姫、柴田錬三郎、浪越徳治郎等のお墓にお参りしました。

本日は汁真っ只中で特に九州地方は大変なことになっています。まずは雨にもめげずウォーキングツアーに参加しましたが足下が危なく午後はこの後小石川植物園などの予定でしたが私は2巡目ということもあり、途中でリタイアしました。
今後は天候も回復するでしょうからこれに懲りずにまたボチボチウォーキングに参加したいと思っております。
posted by yunofumi at 21:21| あちこちウォーク

2019年06月30日

2019.6.29名城めぐり第1回

本佐倉城跡・佐倉城跡・大多喜城

AM10:00新宿駅西口・10号線高架下都庁大型バス駐車場集合、参加者22名、講師信野先生、TD佐々木さんと共に中型バスで出発。今日は千葉県のお城でしたからちょっと遠かった印象でした。
一つ目、「本佐倉城跡(もとさくらじょうせき)」です。
本佐倉城は文明年間(1469〜1486年)に築城。それより約100年下総国に政治経済文化の中心を担いました。元々千葉氏は鎌倉・室町幕府のもとで下総守護職として筆頭の地位にあった一族なのです。

本佐倉城跡は日本城郭協会の定める「続日本100名城」のひとつでスタンプは酒々井(しすい)中央公民館にありました。
DSCN7460no2.JPG
スタンプのある玄関ロビーは本佐倉城跡の資料がいっぱいでした。
DSCN7469no2.JPG

DSCN7466no2.JPG

その後お城のあった場所まで歩いて移動していくと大きな案内板がありました。
DSCN7486no2.JPG
いよいよ入口です。
DSCN7538no2.JPG
まずは定番の登り道です。
DSCN7488no2.JPG
城山に通じる通路です。
DSCN7495no2.JPG

妙見宮跡は儀式や儀礼を行なった所のようです。
DSCN7514no2.JPG
城跡より印旛沼や筑波山を望むビューポイントです。
DSCN7534no2.JPG
このように佐倉城跡見学後はバスで移動しました。
                                      
二つ目、「佐倉城跡(さくらじょうせき)」の「日本100名城スタンプ」は佐倉城址公園管理センターにありました。
DSCN7547no2.JPG
佐倉城は天文年間(1532〜1554年)本佐倉城主千葉親胤の命で鹿島親幹が築城を開始しましたが親胤の暗殺で工事は中断。その後慶長15年(1610年)家康の命で土井利勝が完成させたのです。城郭は石垣ではなく、土塁。明治維新で廃城令でここは陸軍歩兵部第2連隊、後に歩兵第57連隊4(佐倉連隊)の駐屯地になったのです。

公園入口の案内図です。
DSCN7548no2.JPG
三の門跡です。
DSCN7557no2.JPG

安政3年(1856年)、タウンゼント・ハリスは、アメリカ大統領の親書を携え下田に到着。来日の目的は、アメリカ初代駐日総領事として他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることだったようです。こうした動向が、当時幕府で老中を務めていた開明派の佐倉藩主堀田正睦を外交の舞台に登場させることになったようです。ハリスと正睦により、幾度にもわたる直接交渉が行われた結果、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。
タウンゼント・ハリスの像。
DSCN7568no2.JPG
堀田正睦公像。
DSCN7569no2.JPG

正岡子規の句碑。「常盤木や冬されまさる城の跡」
DSCN7572no2.JPG
明治時代に俳句・小説・文学評論など様々な文学の分野において活躍した俳人。正岡子規が佐倉に来たのは既に病魔に蝕まれていた26歳位の時で、当時、本所から佐倉間に開通したばかりの総武鉄道に初乗りして訪れ、この句を詠んだということです。

二の丸御殿跡。
DSCN7575no2.JPG

本丸跡。
DSCN7580no2.JPG

夫婦モッコク。
DSCN7584no2.JPG
モッコクは、南関東地方以西の暖地の山野に自生するツバキ科の常緑高木で、千葉県でも清澄山系の尾根に生育。このモッコクは、佐倉城の本丸跡の西側の土塁に植えられていました。現在では樹高は11.6m、幹囲2.9mもあり元気な樹木のようです。現在、幹は3本が立ち上がっており、このうちの2本が癒合して、2株のように見えました。

銅櫓跡。
DSCN7587no2.JPG
ここにあったはずの銅櫓は、佐倉城を建てた土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものとのことです。造ったのは太田道灌だそうです。

佐倉城礎石。
DSCN7594no2.JPG
佐倉城は、江戸時代初期の元和元年に土井利勝が築きましたが、その際にこの大量の石を基礎としていたのです。明治初期に陸軍が城を取り壊し兵舎を建てましたが、その際にもこの石を使った基礎を転用したとのことでした。

佐倉陸軍病院跡。
佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」というそうです。

姥が池。
DSCN7606no2.JPG
「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。

国立歴史民俗博物館がある場所は、かつて椎木曲輪(しいのきくるわ)と呼ばれた侍屋敷があった区画で、「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれる遺構が復元されていました。

その後公園内をウォーキング。こちらを見学後は約1時間半バスで移動。
                                        
三つ目、大多喜城(おおたきじょう)は復元されたお城が千葉県立中央博物館大多喜城分館になっており「続名城スタンプ」は2階展示室にありました。
大多喜城は大永元年(1521年)に真里谷信清が築城。その後安房の里見氏の重鎮の上総正木宗家の居城として発展。それより以後家康の重臣本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立。忠勝により三層4階を持つ近代城郭となったのです。現在の城郭は1957年(昭和50年)に復元された鉄筋コンクリートの歴史博物館です。
DSCN7621no2.JPG

大多喜城入口の案内図を見ながら進んでいきます。。
DSCN7613no2.JPG

DSCN7614no2.JPG

DSCN7619no2.JPG

大多喜水道。
DSCN7670no2.JPG
140年ほど昔、大多喜城下の人達はたいへん水に困(こま)っていました。そこで大多喜藩知事(はんちじ)大河内正質(おおこうちまさただ)は、城山から水を引くことを計画したのです。城下の豪商小高半左衛門(おだかはんざえもん)(柳原)が世話役となり、三上七五郎(みかみしちごろう)(上原)高橋四郎左衛門(たかはししろうざえもん)(小苗)等が中心になり計画を立てました。 明治二年十一月、静かな城山にカマ、ナタ、クワやスキ、モッコを持った大勢の人夫たちが集まり、半左衛門が工事によってもたらされる豊かな生活を説明しました。そうして最期にみんなで力を合わせてがんばろうと、話をしめくくったのです。人々は納得し一生懸命働いたのです。この工事で延べ5,606人が働いたようです。明治3年5月。工事開始からわずか7ヶ月という短い日数で工事は完成したのでした。そしてこの水道は昭和29年、町営水道ができるまで約80年もの間、大多喜町民に恵みを与えてきたのです。

大多喜城入口。
DSCN7624no2.JPG

天守より薬医門を見ると県立大多喜高校の正門付近に「薬医門」が見えました。
DSCN7630no2.JPG
大多喜城の数少ない建築遺構がこの薬医門です。本丸跡の東側の崖からは、現在県立大多喜高等学校となっている二の丸跡や城下町を見下ろすことができるのです。

大多喜城主本多家五重塔写真。
DSCN7635no2.JPG

本多家三つ扇紋付袴
DSCN7647no2.JPG

大井戸。
DSCN7659no2.JPG
大多喜高等学校のグランドの一隅には、本多忠勝が掘らせたという周囲17m、深さ20mの大井戸がありました。

三名城を見終わると16:00を回っており、海ほたる経由で新宿に帰り着いたのはほぼ19:00.。
名城めぐりは街道ウォークと違い、かなりアップダウンがあることを実感。でも気温22℃、小雨、時々の雨にもあまり苦労せず、また大降りしなかったことが幸いでした。午後はほぼ雨がやみ、まずは快適な名城めぐりでした。5月に鉢形城を見たことがきっかけで今日の名城めぐり参加となりまりましたが、また機会があれば参加してみようと思いました。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2019年06月22日

2019.6.19  2巡目第3回 東京の新発見旅「板橋区」

今朝の天気予報はやはり梅雨!とのこと。しかし思いがけず日射しのある中、ウォーキング開始。講師牧先生、TD金子さん、参加者は15名。

都営三田線高島平駅東口⇒高島平団地⇒熱帯環境植物館⇒板橋区こども動物園高島平文園⇒徳丸が原⇒高島平健康福祉センター⇒高島平図書館⇒高島平第七小学校(廃校)⇒赤塚公団前信号⇒赤塚諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城址⇒板橋区立郷土資料館⇒板橋区立美術館⇒赤塚不動の滝⇒大仏そば萬吉禎⇒乗蓮寺・東京大仏⇒赤塚植物園⇒麺工場幸住⇒松月院⇒東武東上線下赤塚駅

都営三田線高島平駅は1968年開業、元は志村駅、1969年に現在の駅名に変更。現在1日3万人以上が利用。
この辺りは元々徳丸ヶ原といわれたところ。 1841年(天保12年)砲術家高島秋帆が当地域にて、日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったとのこと。
高島平団地は1972年(昭和47年)から始まり総戸数は10,170戸と日本最大の団地が出来上がったようです。
DSCN7176no2.JPG

板橋区は、区制施行70周年を記念して、平成15年2月、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを「板橋十景」として選定したとのことです。@赤塚溜池公園周辺、A板橋(旧中山道の仲宿付近の石神井川にかかる橋)、Bいたばし花火大会、C志村一里塚、D石神井川の桜並木、E松月院、F田遊び(徳丸・赤塚)、G高島平団地とけやき並木、H東京大仏(乗蓮寺)、⓾南蔵院のしだれ桜
今日はこのうちいくつかを見ることが出来そうです。

板橋区立熱帯環境植物館。
熱帯環境植物館(グリーンドームねったいかん)は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。館内は潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれ、温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館。施設全体で約3000m2、そのうち植栽面積は1000m2で、地下1階から地上2階までは吹き抜け。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設で平成6年に誕生したとのことでした。
DSCN7181no2.JPG
カラーズエリ―フィッシュ
DSCN7184no2.JPG
メダカ展
DSCN7199no2.JPG
メキシコサラマンダー
DSCN7200no2.JPG

板橋区こども動物園高島平分園は高島平駅そばの小さな動物園。主な飼育動物はヤギ・ヒツジ・モルモット・ウサギ・シマリス、キボウシインコ等の鳥などもいて気軽に多くの子供たちが来ていました。
こども動物園高島平分園に隣接で徳丸ケ原(とくまるがはら)の石碑がありました。
DSCN7210no2.JPG
徳丸ヶ原は、現在の高島平及び三園、新河岸の大半の地域に相当する江戸幕府の天領、及び地域の総称で、東西1.4km、南北0.88km。地名としては、西台、徳丸本、徳丸脇、四ツ葉、下赤塚、上赤塚、成増などがあったとのことです。 徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあったのです。後ほど赤塚城址に行きます。

赤塚諏訪神社の創建年代は不詳。昔、赤塚領主であった千葉介自胤が、長禄年間(1457〜1461年)に信濃国・諏訪大社よりその御分霊を勧請し、武運長久を祈願したとのことです。新編武蔵風土記稿によれば下赤塚村の鎮守であったとのことです。江戸末期の1866(慶応2)年、社殿廃頽のため本殿が再興され、明治初頭の神仏分離令により、旧別当・真言宗常福寺の支配を離れるとともに十羅刹女の奉斎を廃し、1874(明治7)年4月3日村社に定められたのです。この神社に伝わる特殊神事「田遊び」は、1976(昭和51)年徳丸北野神社とともに国の重要無形民俗文化財に指定されたとのことです。
DSCN7233no2.JPG

DSCN7241no2.JPG

ここは板橋区じゃないじゃないかと思うくらいの立派な竹林は「竹の子公園」でした。
鳳凰竹、金明竹など約13種類の竹があり傍には「竹のお話・竹のオモチャ」の解説板がありました。
DSCN7243no2.JPG

赤塚城址。
現在、遺構はなく東京都立赤塚公園の一部で広場、梅林、桜並木などがありました。
DSCN7260no2.JPG
1456年(康正2年)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたとのことです。 赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であったのです。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍し、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になったのです。

板橋区立郷土資料館は赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接しており、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示がありました。
DSCN7270no2.JPG
新藤楼門
DSCN7271no2.JPG
古民家
DSCN7282no2.JPG
庚申塔
DSCN7285no2.JPG

赤塚不動の滝は山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山(神奈川県相模原)などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちがここで身を清める“みそぎ”場として使われていた場所。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られているようです。昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたようですが、昭和八年滝つぼが整理される前には、現在より水量も多く水の落ち口も広かったようです。この滝水はいかなる時でも涸れることがないようです。
DSCN7303no2.JPG

大仏そば萬吉禎で昼食にかき揚げ丼とお蕎麦をいただきました。
DSCN7310no2.JPG

乗蓮寺(じょうれんじ)は応永年間(1394年 – 1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建されたようです。その後、板橋区仲宿に移転。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりまた八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。その後昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転。山号は赤塚山となったのです。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め東京大仏が建立されたのです。
DSCN7368no2.JPG
東京大仏。
DSCN7370no2.JPG

松月院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現:千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのことです。 江戸時代には、徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展したのです。幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれ、この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたようです。
DSCN7392no2.JPG

DSCN7401no1.JPG

本日はお陰様で天気も持ちこたえ、大助かりでした。歩程約11km、14000歩で非常に順調でした。今回も麺工場幸住でクロレラ入りの中華麺をお土産で購入。帰宅後悠々で夕食作りをし、家族で美味しく冷やし中華をいただきました。
DSCN7414no2.JPG
本日の2巡目はほぼ前回と同じでしたがそれなりに説明の理解が深まりとても有意義でした。この調子でまたがんばります。
posted by yunofumi at 17:58| あちこちウォーク

2019年06月20日

2019.6.15 横浜18区ウォーク第16回緑区

JR長津田駅⇒ほう不動産⇒御野立所⇒大石神社・長津田宿常夜燈二基⇒旧大山街道⇒長坂夜雨⇒横浜田園都市病院⇒旧大山街道⇒林地蔵⇒二十三谷戸⇒天王鴬林⇒福泉寺⇒王子神社⇒長津田幼稚園⇒Covoloba⇒大林寺⇒JR長津田駅
今日は朝から雨降りなので気合を入れてウォーキング開始です。

長津田駅は東急田園都市線とJR横浜線、こどもの国線がありました。
最近、上皇陛下のニュースでこどもの国のことが話題になっていたのを思い出しながら浅井先生の解説に耳を傾けました。そもそもは1959年(昭和34年)4月の現上皇陛下が皇太子だった時のご結婚のお祝い金をもとに1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日に開園。この土地は旧日本陸軍田奈弾薬庫補給廠跡の国有地だったのが米軍から返還され、国費など多くの民間企業や団体・個人の協力で整備された施設でこどもの健全育成のための児童厚生施設だとのことでした。こどもの国線は2000年までは社会福祉法人こどもの国協会が運営していた路線ですが今は東急がそれを担っているようです。

長津田(ながつた)は「長い湿田」という意味だそうで一般的には遷流する岩川上流部の集落を総称していう地名だそうです。具体的には多摩丘陵東縁部、鶴見川水系恩田川中流域右岸に位置し、地形としては町域北側に恩田川段丘崖があり、武蔵野層・鶴川層・上倉田層などに分類される洪積台地と恩田川・岩川周辺の10数本の谷戸からなる沖積地で構成されるとのことです。江戸時代の頃から小田原〜江戸の往来が盛んになり裏街道として足柄〜厚木〜江戸への裏街道、旧大山道の宿場のひとつとして長津田宿ができたようです。
本日は旧大山街道に沿いながらあちらこちらを巡るウォーキングとなりました。
またはじめに講師から長津田には「長津田十景」というビューポイントがあると説明を
受けました。これも楽しみたいと思いました。

長津田駅前には「ほう不動産」がありその傍には広い駐車場がありました。この辺りには桑が多く栽培されていたようでこの場所には蚕の繭から絹糸を取り出す工場があったとのことです。昔、「養蚕(ようさん)」は日本の大切な一大産業でしたから。今はまったくその面影はありませんでした。

御野立落雁(おのたちらくがん)。
DSCN3390no2.JPG
ここは大正10年の陸軍大演習で冬至の皇太子(昭和天皇)が演習をご覧になった場所。崖になった縁まで行くと眼下に恩田川をはじめ周辺が一面見渡せました。落雁とは雁が空から舞い降りる様子。ここには約7mの「皇太子殿下御野立之跡」の石碑がありました。

大石神社は長津田宿の西方、旧大山道に面する小高い丘の上にあり、王子神社とともに長津田の鎮守。ご神体の大石は無銘の自然石が六歌仙のひとりの在原業平であるという伝説が残っているとのことです。
DSCN3394no2.JPG

大石神社の女坂参道脇に、1843年(天保14年)、秋葉講中によって建立された燈籠(上宿常夜燈)がありました。燈籠正面に秋葉山の文字を刻み、基礎部分、中台側面には彫刻が施され、火袋部分には天狗の羽扇の透かしが見えました。
DSCN3398no2.JPG

大石神社を出てからいよいよ旧大山街道にそってウォーキング。長津田小学校から森村学園脇の旧道は昔の街道の雰囲気がありました。この風光明媚な景色は長津田十景のひとつで長坂夜雨(ながさかやう)というとのことです。
DSCN3402no2.JPG

DSCN3409no2.JPG

旧大山街道を進むと長津田町4161付近の三叉路に「林地蔵」がありました。
辻の古木の根元にあり、念仏供養塔のようでした。説明板は読めませんでしたがお地蔵さんですから夭折(早世)した子供さんの供養と思いました。
DSCN3413no2.JPG
このあたりは谷戸(やと)と呼ばれ、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、その地形を利用した農業が古くから行われていたとのことです。今では土地の開発が進みこの辺りのような風景は少なくなっているようです。
DSCN3414no2.JPG

長津田町4155付近には二十三夜塔と辛うじて読める石塔がありました。道祖神でも双体僧形道祖神とのお話でした。
DSCN3415no2.JPG

小高い丘の上に天王社がありました。正式には牛頭天皇宮(ごずてんのうみや)といい、京都祇園社(八坂神社)が本社とのことですから格式は高いようです。ご祭神は須佐王の尊で疫病排除の神様とのことでした。
DSCN3417no2.JPG
この辺りは丘陵の尾根にあたり先は谷戸に通じており素晴らしく森閑とした緑の林で鴬が多いようで「天王鴬林(てんのうりんかん)」といわれており実際に鴬(ウグイス)の鳴き声も聞くことができました。

福泉寺(ふくせんじ)は高野山真言宗の寺院。詳名は薬王山医王院福泉寺。関東八十八箇所霊場の第65番霊場。
DSCN3419no2.JPG

王子神社(おうじじんじゃ)の南は国道246号に面しており長津田の鎮守とされており、王子権現や若一王子社とも呼ばれているとのことです。熊野信仰が盛んな頃、全国各地に若一王子神社が祀られこの神社もそのひとつとのこと。ちなみに若一王子神社とは熊野三山(本宮・新宮・那智)のうち新宮速玉大社に祀られている「熊野十二所権現」のひとつだそうです。このあたりは「王子秋月(おうじしゅうげつ)」として長津田十景なっていました。
DSCN3424no2.JPG

長津田幼稚園は陣屋跡で旗本岡野家の屋敷があったとのことでしたが全くその形跡はありませんでした。

土砂降りの中ようやく昼食場所「COVOLBA」に到着。
DSCN3426no2.JPG

DSCN3428no2.JPG
チキンソテーとグリル野菜ガーリックトマトソースをいただきやっと人心地がつきました。ところがこの後はさらに土砂降りでそれでもめげずにまずは大林寺へ。

大林寺(だいりんじ)は、曹洞宗の寺院で詳名は慈雲山大林寺。長津田一帯を治めていた江戸幕府の旗本岡野家の菩提寺で、1570年(元亀元年)初代岡野房恒の父板部岡江雪斎が開基とのこと。岡野氏は小田原北条氏の旧臣であり、1591年(天正19年)に旗本に取り立てられて長津田村に500石の知行を得たようです。
大林寺は大火に何度も会い現在の木造の本堂、山門、客殿、座禅もできる五百羅漢堂、庫裏は2008年(平成20年)に完成したもの。
DSCN3436no2.JPG
旗本岡野家歴代の墓所。
DSCN3440no2.JPG
奇術師、引田天功(初代)の墓。
DSCN3442no2.JPG

大林寺山門の手前の横に大きな板碑がありました。
DSCN3433.JPG
これは1901年(明治34年)に長津田村の龍昌寺から移されたもので阿弥陀如来を表す種字キリークが刻まれています。高さが185pあり横浜市の板碑として最大のもの。記年については1303年(嘉元元年)または1304年(嘉元2年)とのこと。

参考に長津田十景を書いておきます。@大林晩鐘(だいりんばんしょう)A御野立落雁(おのたちらくがん)B大石観桜(おおいしかんおう)C王子秋月(おうじしゅうげつ)D高尾暮雪(たかおぼせつ)E天王鶯林(てんのうおうりん)F下宿晴嵐(しもじゅくせいらん)G長坂夜雨(ながさかやう)H長月飛蛍(ちょうげつひけい)I住撰夕照(じゅうせんせきしょう)

本日のウォーキングは10:00から14:00までの参加で早々にひきあげました。なぜなら昼食後の強い雨降りの状況は半端ではなかったからです。長津田駅に戻った後、上着から靴下まで予備の衣類に着替え、一息ついてから帰路につきました。強い雨降りの中でのウォーキングは久しぶりで、翌日まで体の節々が痛かったのが印象に残りました。結局、「年」を実感したのです。とはいえ今後もめげずにウォーキングをまだしばらく続けたいと思っています。
posted by yunofumi at 23:09| あちこちウォーク

2019年06月13日

2019.6.9さいたま彩発見ぶらり街あるき

第2回大宮区

JRさいたま新都心駅⇒けやき広場⇒さいたまスーパーアリーナ⇒コクーンシティ・コクーンホール⇒かのうや⇒氷川神社参道・一の鳥居⇒塩地蔵⇒白井助七の碑・山丸公園⇒大宮区役所⇒麗愛幼稚園⇒浅間神社⇒庚申塔神社⇒まこと釜めしとんかつ⇒スタアレコード⇒参道交番⇒神家食堂⇒氷川神社参道・平成広場⇒大宮アルディージャクラブショップ⇒氷川神社・二の鳥居⇒手焼岩せんべい⇒さいたま市立博物館⇒氷川だんご⇒氷川神社・三の鳥居⇒氷川神社楼門・拝殿⇒埼玉県神社庁・・蛇の池⇒大宮公園・小動物園・遊園地⇒埼玉県立歴史と民族の博物館⇒東光寺⇒JR大宮駅

数日前に梅雨入りの宣言もありましたが曇り時々雨という本日の気象予報にもめげずウォーキング開始。参加者17名。案内の講師喜多見先生、TDは小松さん。

JRさいたま新都心駅。
DSCN6905no2.JPG
駅舎は大宮区吉敷町四丁目にあり、JR東日本の東北本線の駅。2000年5月のさいたま新都心の街開きに先立ってこの年の4月に開業。業務地区としてのさいたま新都心は中央区と大宮区にまたがって整備されており、町名としての新都心は地区内の西側・中央区に位置しているので駅舎は東側の大宮区に所在しているとのこと。
1日約5万人が乗車。橋上の駅舎は1階がホーム、2階がコンコースと自由通路で建物の設計は、埼玉県狭山市出身の建築家鈴木エドワード。改札は1カ所で東口は商業施設のコクーンシティが中心。西口はホテルも含めJR関係、さいたまスーパーアリーナや合同庁舎、赤十字病院、県立小児医療センターなどがあります。

けやき広場。
DSCN6910no2.JPG
さいたま新都心駅改札を出てコンコースの自由通路突き当りにあり、ふれあい空間としてつくられたようです。人工地盤上に埼玉県の木「けやき」が立ち並び、クリスマスなども含め、色々なイベントが行われます。

さいたまスーパーアリーナは2000年5月にオープン。施設は埼玉県が所有。スポーツイベント・コンサート・テレビ番組の収録・講演会・株主総会・見本市会場など、さまざまな用途に対応し、最大37,000席の多目的アリーナ。イベントにより色々なタイプに変容できるとのことです。
DSCN6912no2.JPG

コクーンシティはJRさいたま新都心駅の東口に広がるショッピングモールでコクーン1、コクーン2、コクーン3とパークサイドビルの4棟でできており、もともとは片倉工業大宮製作所跡地における再開発計画が2001年より始まったようで、今も同社が施設の管理等を行っているとのことでした。コクーン (COCOON) の名称は英語で「繭(まゆ)」を意味し、片倉工業が製糸業として創業したことに由来すると初めて伺いました。
そしてコクーン2にはコクーンホールがあり、「大宮鳥瞰図」(1934年吉田初三郎画」もありました。
DSCN6919no2.JPG
片倉工業は明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行っていた片倉財閥を構築した老舗企業。かつての富岡工場(富岡製糸場)は日本の工業近代化の貴重な遺産としてUNESCOの世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)として知られています。2005年には富岡工場の建物等を地元の富岡市に寄贈しています。 1994年に伝統事業である蚕糸事業から撤退し、その後、不動産資産を活かしたショッピングセンター運営・不動産賃貸事業・小売事業の他、第二次世界大戦後に進出した自動車用部品製造、繊維製品の販売などを行っている会社だとのことです。

氷川神社参道はJRさいたま新都心駅近くの旧中山道から武蔵一宮氷川神社までまっすぐ伸びる18丁(約2km)のケヤキを中心とした並木道。ケヤキ、シイ、エノキ、スギなど20余種の樹木が600本以上植えられています。
DSCN6942no2.JPG
この「一の鳥居」が参道の始まり。鳥居の傍にある標石は氷川神社の中で最も古い石碑で表面には「武蔵国一宮 氷川大明神」とありました。
またこれより丁石が一丁(109m)ごとに見られました。
DSCN6946no2.JPG
氷川参道には、三本の大鳥居があり、神社に遠い順に「一の鳥居」、「二の・・」、「三の・・」と呼ばれています。「二の鳥居」は明治神宮より寄贈移築されたもので、現存する木造の鳥居では関東で一番大きいと言われています。

塩地蔵尊。
DSCN6968no2.JPG

DSCN6969no2.JPG
江戸時代に旅の途中で病に倒れた父親の病気の平癒を二人の娘が塩絶ちをして地蔵尊に祈ったところ病が全快したのでお礼に塩を奉納したのが始まりとのことです。今でも地元で大事にされている様子でした。

山丸公園は山丸製糸工場跡地とのこと。白井助七は近代大宮の父といわれている方で大宮駅の開業に尽力し「鉄道の街」としての大宮を築いた方で記念碑ができているのです。石碑傍には蒸気機関車「C1229」が展示されていました。
DSCN6977no2.JPG
またすぐ傍には浅間神社がありました。
DSCN7000no2.JPG

DSCN6971no2.JPG
大宮区役所は先月の5月7日に完成オープンしたばかり。当日は大変大にぎわいのお祭りイベントが行われたようです。入口そばで休憩をさせていただきました。

神家食堂(かみやしょくどう)は氷川神社の参道沿いにあるにあるイタリアンのお店。現在の名物は「大宮ナポリタン」や、「自家製手捏ねハンバーグ」とのこと。
DSCN7024no2.JPG
かつて、「鉄道のまち大宮」として栄え、その周辺で働いていた鉄道員や工場マンがよく食べていたといわれるナポリタン。そんなナポリタンを、ご当地グルメとして復活させたのが「大宮ナポリタン」。「大宮ナポリタン」の条件は、旧大宮市内に店舗があり、具材に埼玉県産野菜を1種類以上使うこと。氷川神社の鳥居の朱色、大宮アルディージャのオレンジにもちなんだ新名物を目指しているとのことです。大宮駅周辺の飲食店約50店が各店それぞれの個性あふれるオリジナルのナポリタンを提供しているのです。こちらのはもちもちで昔懐かしい味でした。
DSCN7029no2.JPG

平成ひろばは、氷川参道の一部を整備した公園で、通りの両側にケヤキやサクラ等が植えられ、その木々の間を散策できるようになっています。ちなみに桜は4月が見ごろです。
歩道は石畳で整備され、岩を組み合わせて作ったせせらぎもあり、市民の憩いの場として親しまれています。
DSCN7037no2.JPG

大宮アルディージャクラブショップはこのサッカーチームのショップでチームカラーのオレンジを生かし色々なグッズの販売もあるようです。
DSCN7043no2.JPG

氷川神社・二の鳥居。
一の鳥居を抜け、参道を進むと二の鳥居があります。大宮氷川神社の二の鳥居は、もともとは明治神宮の鳥居だったもの。それを昭和51年(1976年)に明治神宮から寄贈されて、武蔵一宮氷川神社に移築されたのです。
DSCN7045no2.JPG

さいたま市立博物館にはさいたま市に関する歴史・考古・民族などの資料の収集と展示がありました。建物が大きくてびっくりでした。本日は特別展示の「和同開珎」2枚を見に立ち寄りました。これはさいたま市中央区の与野西遺跡で3月から5月に実施した発掘調査で、奈良時代〜平安時代初期の住居跡から出土したとのことです。市内で初めての出土で、埼玉県内でもこれまでに8枚しか見つかっていないとのことでした。1か所から2枚見つかったのは県内では初めてで、さいたま市の古代史に新たな1ページとなる発見ということで特別公開をしていたのです。
DSCN7050no2.JPG

氷川だんご屋は参道脇でもう40年以上営業しているお店。
DSCN7056no2.JPG
無添加、焼きたてのだんごが美味しくてこちらに来るといつも買っています。今日は団体での移動なので残念に思いながら通過したところ何と、ツアーTDの小松さんと喜多見講師の配慮で「揚げまんじゅう」をこの後休憩した時にいただきました。揚げたてで、カリッと香ばしく、まぶした砂糖と、サクサクッと軽い皮の絶妙な食感、そして、ふんわりと柔らかな生地に包まれた、しっとりとしたこしあんの上品な甘みが、しみじみとやさしく口のなかに広がりとても美味しかったです。
DSCN7086no2.JPG

氷川神社・三の鳥居。
DSCN7066no2.JPG
二の鳥居を抜け、およそ2キロの参道を歩き、境内にたどりつき、三の鳥居を抜けてすぐ左側のところに「戦艦武蔵の碑」(せんかんむさしのひ)があります。戦艦大和と並び日本海軍が誇る戦艦武蔵の名は、この武蔵一宮氷川神社からとったものだそうです。戦艦武蔵の艦内神社は「氷川神社」でした。
現在の氷川神社三の鳥居は平成18年に建て替えられたもとのことで南を向いて鳥居の右柱を見ると文字を刻んだプレートが埋め込まれていました。
「奉獻 片倉製絲紡績株式會社取締役社長片倉同族會代表今井五介 昭和九年十月」
現在の三の鳥居に埋め込まれたプレートは、昭和9年の鳥居にあったものを、平成18年建て替え時に付け替えられたものと思われます。この「今井五介」さんは大正9年10月15日、副社長として皇后陛下に拝謁し、工場巡覧の案内役を務めたとのこと。また初代大宮市長でさいたま市名誉市民の14番目だそうです。
DSCN7064no2.JPG
これは明治天皇がお詣りで来られた時の図です。

氷川神社は武蔵野国一の宮といわれており孝昭天皇3年4月の創建とのこと。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したということです。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説もあるようです。また平安時代後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受け、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がったのです。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納したようです。

楼門はとても立派でした。
DSCN7078no2.JPG
拝殿にお参りしましたが本殿は全く見えませんでした。
DSCN7075no2.JPG

蛇の池。
DSCN7095no2.JPG
古来、蛇は水神の化身とされ、祭神の須佐之男命はその大蛇を退治した伝承により、水を治めた神とされており、氷川神社ではご祭神の神威神徳からこの池の名がついているようです。
蛇の池は境内の神池や見沼たんぼのなどの水源のひとつで今も地中深く水が湧いているのです。この神秘的な湧水があったことからこの地に氷川神社が鎮座し、また氷川神社の発祥地ともいわれているようです。
蛇の池手前には近年、蛍を復活したいと「氷川ほたるの杜」の活動が始まっているとのことでした。

神社庁は全国8万社の神社を包括している組織で神社本庁は明治神宮の傍にあるようで昭和21年に設立。
埼玉にある埼玉県神社庁は氷川神社のすぐ隣にあり、埼玉県内2000社を包括しているとのことです。
DSCN7082no2.JPG
今日は中に入り祭壇や伊勢神宮の式年遷宮でいただいた神宝といわれるもののうち御櫛や櫛箱を見せていただきました。
DSCN7090no2.JPG

DSCN7089no2.JPG

大宮公園・小動物園・遊園地
氷川神社と隣接している「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmにあります。もともとは明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名前だったようです。現在ある県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園で、日本の公園の父といわれる林学博士本多静六が立案した「氷川公園改良計画」に沿って、公園の整備が進められたとのことです。今では日本さくら名所100選や日本の都市公園100選になっており、埼玉県で一番利用者の多い県営公園だそうです。 まずは日本庭園、そして小動物園や遊園地も見ました。
DSCN7128no2.JPG
ブチハイエナです。

埼玉県立歴史と民族の博物館はとても大きく、中の展示室は歴史・美術・民俗・特別・季節にそれぞれ分かれており、ざっとボランティアさんに説明を伺いました。
DSCN7139no2.JPG
第6室の3m以上もあるという板碑と、とっても小さな板碑が興味深かったです。埼玉県内では約27000基の板碑が確認されているとのことでした。こちらはまたじっくり伺いたいと思いました。

大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのがはじまり。ということで草創当時は天台宗で、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がついたとのことです。その後、永享年間(1429〜1440)に梁室元棟和尚が曹洞宗に改宗して開山となったのでした。
DSCN7165no2.JPG
今、東光寺は草創以来880余年の歴史を刻んでいるとのことで現在地でのことは『新編武蔵風土記稿』巻153にもとりあげられていて、中仙道を行き来する文人墨客が足を留めた所でもあるようです。
現在、上山寿山、近代漫画の祖といわれる北沢楽天、大宮市発展の礎を築き大宮駅の誘致をした白井助七などのお墓があるようです。
今日は私たちのグループに現住職松本誠諦さんがおたまじゃくしと蛙のお話をしてくださいました。また以前伺った時は工事中だった山門ですが今日は観音様、地蔵様、菩提達磨大和尚像、お釈迦様がとっても神々しく見受けられました。
DSCN7171no2.JPG

本日の最後はお馴染みのJR大宮駅でした。JRの様々な路線をはじめ新幹線も2系統、千葉県柏までの東武アーバンパークライン、埼玉新都市交通(ニューシャトル)もあり、どうやら東京駅の次くらいの乗り入れ路線数だそうです。ということで駅の通路は年中ひどく混雑しています。

今日は20℃というウォーキングにはベストのお天気でした。結局、東光寺出発までは空模様は持ちこたえ、大いに感謝。もっとも大宮駅から川越線・東武東上線で上福岡着の時にはザァーザァー降りでしたがこれは一向にお構いなしの心境でした。
このようなウォーキングツアーは説明を伺いながらですから見慣れている風景でも「目からウロコ」ということもしばしばあります。今日もこのようなことでしたからまた見直しのためにも再訪が肝心かもしれません。
そして後日には今日いけなかった「鉄道博物館、さいたま新都心合同庁舎・ビューテラス」にもぜひ行って見たいと考えています。
posted by yunofumi at 23:58| あちこちウォーク

2019年06月01日

2019.6.1 市民大学ふじみ野 歴史再入門

近頃、我が街の市報が評判いいんです。色々な催しもあり、そろそろ地元を知ることが大切と心を入れ替えて
初めて参加しました。
1回目、5/18、約2時間坪田幹男さんの講義でふじみ野の歴史のはじまりは武蔵野台地から、それも地形の特徴が大切とのこと。
地名に𡋽(はけ)という所がありますがこれは崖線下を縫って伸びる道で水が涌いておりその上下に昔は集落ができたそうです。
ということで本日は大井武蔵の𡋽(はけ)の道を実際に歩く歩程でした。

東武東上線上福岡駅西口広場⇒URコンフォール霞ヶ丘⇒東上線沿線⇒川越市藤間⇒川越街道⇒鶴ケ岡地蔵尊⇒鶴ケ岡八幡神社⇒旧尚美音大跡⇒ホンダ学園⇒小島屋⇒イトーヨーカドー鶴ケ岡中央店・VIVA MALL⇒日清製粉グループ本社⇒ふじみ野市あおぞら学校給食センター⇒高柳建具⇒三角の浅間神社・阿夫利神社⇒市川家⇒関越自動車道カード⇒川越江川水源周辺⇒火工廠大井倉庫跡・文京学院大学⇒大井郷土資料館

9:00東武東上線上福岡駅西口広場に参加者16名が集合。坪田幹男さんはじめ「おらほう来ねか大井郷」の旗を持ったボランティアの方が4名ほど付き添ってくださいました。
川越に向かっての東上線がグングン下降しているのがはっきりわかり、いよいよ崖の上から川越方面を見て崖線を実感。
この辺りには西遺跡があったようです。今は住宅地でした。
DSCN6732no2.JPG

川越街道は現在の道と旧道もここでははっきり見えました。
DSCN6754no2.JPG

鶴ヶ岡厄除地蔵尊。
鶴ヶ丘(旧入間郡ケ丘邑)の発生を語る芝開き地蔵尊(新旧2体)で、右側は元禄期造立の地蔵菩薩念仏供養塔とのこと。
DSCN6758no2.JPG

鶴ケ岡八幡神社。
「鶴ヶ岡厄除地蔵尊」の路地を挟んだ北側、「鶴ヶ岡八幡神社」は、旧鶴ヶ岡の鎮守で祭神「誉田別命」を安置しているとのことです。今日は中を見られませんでした。
鎌倉の鶴岡八幡宮とは関係なく、地名の鶴ヶ岡村が神社名となっているようです。説明板によると、文政期(1813〜30)ごろ、元々は村の鎮守であった神社を地蔵院が管理したいと寺側から申し入があり、村と寺との間で争いが起きていたようです。
DSCN6760no2.JPG

この辺りの崖線はまだ5mほどあり、尚美音大のあった辺りは今住宅地になり、強固な壁面が支えていました。
DSCN6775no2.JPG

傍には桑の大木がいっぱい実をつけていました。
DSCN6770no2.JPG

目の前は崖下の平地が広がっています。この辺りが大塚街道も見えオオバケといわれるところようです。
DSCN6774no2.JPG

三角の浅間神社・阿夫利神社。
江戸時代、富士信仰が盛んになり、信者はこぞって富士登山を行いました。その一方で、富士山まで行けない村人のために、富士山から運んだ溶岩で富士塚を作り、そこに登って御利益を得るようになりました。この富士塚は、幕末に作られたといわれ、現在でも8月1日を「山開き」、9月1日を「山じまい」として叉木や灯籠を飾り富士塚の登拝が行われているとのことです。
DSCN6839no2.JPG

川越江川水源周辺。
こちらのお茶畑の傍から見ると青い屋根の辺りからぐっと崖線が右にカーブし、目の前の森がずっと狭山辺りまで続いているとのことでした。
ちょうどこの青い屋根の辺りが水源だったようです。残念ながら傍には行きませんでした。
この辺り東西15町(1630m)、南北8町(870m)が昔、新編武蔵風土記稿亀窪村に記されていた武蔵といわれた所だそうです。
DSCN6865no2.JPG

DSCN6861no2.JPG

火工廠大井倉庫跡・文京学院大学。
火工廠とは旧陸軍弾薬工場の造兵廠のことで機関銃弾、小銃弾から陶製手榴弾(チビ弾)、風船爆弾の電気雷管・信管の部品などをつくっていた所。
造兵廠の付属施設として、大井村亀久保地区(現文京学院大学から山下ゴム(株)にかけての山林内)に約7,800坪(25,000u)の「大井倉庫」が設けられ、事務所1棟の他に、21棟の火薬庫・部品庫があったところだそうです。
DSCN6886no2.JPG

ふじみ野市立大井郷土資料館。
DSCN6889no2.JPG
大井町域の歴史、民俗、考古分野の展示を行う博物館。ふじみ野市立大井図書館と併設されたいる施設。常設展示室では近世の宿場町、大井の歴史を「みち」をテーマに原始から近代まで通史的に展示。町内の考古資料、中世・近世の文書、宿場関係の資料、民具等が見られました。

自分の住むふじみ野の地域が東境界線と北境界線の崖線で囲まれた地域ということを初めて理解しました。40年も住んでいるのに地元をよく知らなかったことを少しばかり恥ずかしかったです。崖線を降りる我が家の一番近くが権現山傍の寺尾への坂道なのですがそれもなぜこのよう地形かが理解できました。
こう考えると地名は長年伝わってきたのを大切にし、市町村合併などで安易に変えてはいけないのではないかと改めて思いました。
本日は9:00〜11:30、約11000歩、歩程約7kmはまずまずのウォーキング。その後、大井郷土資料館から自宅までウォーキングし約20000歩弱でしたから運動量としては十分。今後もこのような講座があれば参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 17:36| あちこちウォーク

2019年05月19日

2019.5.14  2巡目第2回 東京の新発見旅「江戸川区」

都営新宿線篠崎駅⇒篠崎文化プラザ⇒篠原風鈴本舗⇒春江の森公園⇒春江中学校⇒春花園・BONSAI美術館⇒一之江名主屋敷⇒椿西通り⇒江戸川椿郵便局⇒瑞江葬儀所⇒大雲寺⇒瑞江第二中学校⇒瑞江駅⇒ベルクオーレ(昼食)⇒都営新宿線瑞江駅--一之江駅⇒長勝寺⇒国柱会⇒感応寺⇒水神宮⇒村井染工場⇒一之江親水公園・境川⇒タワーホール船堀⇒都営新宿線船堀駅

都営新宿線は新宿から本八幡まで31駅、片道40分の路線。私自身はめったに乗車はなく、まして篠崎は初めてかも、という感じ。今朝はこの駅に10:00集合、牧先生、久森TDの付き添いで出発。
篠崎駅西口から引き続きすぐに篠崎文化プラザ到着。ここは江戸川区を紹介する施設で展示室・図書館・伝統工芸などなど幅広い活動をしているようでした。
DSCN6391no2.JPG
私は珍しいサラダ小松菜と小松菜うどんを早々にゲット。
DSCN6713no2.JPG

そもそも江戸川区とは東京都内では東部の高齢者と子供の多い、すなわちしっかり家族世帯で住んでいる方々が多いようです。特産は江戸川区が発祥の地として知られる小松菜。現在の江戸川区小松川で、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際、名が無かった菜が入った味噌汁を食し、「小松菜」と命名したことに由来しているとのことでした。また朝顔の栽培が盛んで、毎年7月に台東区入谷で開催される朝顔市に出荷される朝顔の6割〜7割は江戸川区産だそうです。地形としては江戸川区の西部(荒川両岸地域)は海抜ゼロメートル地帯。最も低いところでは東京湾の満潮時の海面より2メートルほど低い場所もあるようです。区の東部(千葉県寄りの江戸川沿い)は比較的海抜が高く、新中川以東且つ京葉道路以北は海抜1.5m〜3mほどで、特に小岩地域は比較的古くからの陸地で、貝塚も見つかっているとのこと。区の南部は大半の地域を埋立地が占め、埋立地の南部には葛西臨海公園、葛西臨海水族園があり、南端で東京湾に面しているとのことでした。

篠原風鈴本舗。
DSCN6397no2.JPG
篠原風鈴本舗会長の篠原儀治(篠原風鈴二代目)さんが昭和40年にこのガラス風鈴を江戸風鈴と名付けたとのことです。このガラス風鈴は手作りで絵や文字は内側から手書きしているのです。今日も工場で職人さんの作業を見せていただきました。
DSCN6404no2.JPG

春花園・BONSAI美術館。
ここは盆栽師16年前小林國雄さんが作り上げた世界。
DSCN6473no2.JPG
800坪の敷地内には所狭しと約1000盆の盆栽が並び、中には1億円真柏(ヒノキ)も見られました。
DSCN6472no2.JPG
谷やん池の中には大きな鯉、周囲には盆栽がいくつもあり見ていて楽しい。
奥には立派な建物があり春の間・花の間をはじめ最後の屋久杉の間ではしばし見とれてしまいました。
現在はおとづれる外人さんも多く、お弟子さんは100人も巣立っているようです。

一之江名主屋敷は、江戸時代のはじめにこの地で新田を開いた田島家の屋敷。一之江新田の名主を代々つとめてきたのです。現在の主屋は安永年間(1772年から1780年)の再建で、屋敷林や堀をめぐらした屋敷構えは、創建当初のようすがわかります。
屋敷入口の長屋門。
DSCN6483no2.JPG
主屋(おもや)は懐かしい土間やいろり、竈など見られました。
DSCN6484no2.JPG
屋敷林や濠、屋敷神も現存し、敷地の端に展示棟がありました。
DSCN6500no2.JPG

瑞江葬儀所(みずえそうぎしょ)とは、江戸川区春江町にある東京都が運営している都区内では唯一の公営の火葬場。葬儀用の式場はなく、火葬設備のみで1938年2月に使用が開始された。別名「瑞江斎場」。1975年に新施設操業開始。新施設では火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化、燃料のガス化、控室を個室化、火葬受付件数の設定をしたとのことです。

大雲寺(だいうんじ)は、江戸川区瑞江にある浄土宗の寺院。山号は長行山。院号は専称院。本尊は阿弥陀如来。歌舞伎俳優の墓が多いことから「役者寺(やくしゃでら)」といわれています。
DSCN6538no2.JPG
この寺は、もともと1619年(元和5年)梵誉の開山により蔵前に創建された寺で、その後本所(現在の墨田区押上)に移され、1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けたため、1931年(昭和5年)現在の場所へ移り再建されたのです。
歌舞伎役者としては)市村羽左衛門累代墓、坂東彦三郎累代墓、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺嶋家門弟一同建立碑、寺嶋家門弟代々墓、瀬川累代墓、松本家墓、中村勘三郎累代墓、三代中村勘三郎墓などを伺いお詣りしました。

ベルクオーレ(昼食)
DSCN6566no2.JPG
こちらはイタリアンのお店。はじめにパンがドンと1テーブルに一籠来ました。その後スパゲッティが大皿でドーン。4人で結局完食しました。

昼食後全歩程調整のため瑞江駅〜一之江駅を都営新宿線で移動。街歩きではよくあることです。
一之江駅からの歩道の路面にシラサギ、マッチ箱電車、トロリーバス、花菖蒲などが描かれた陶板がはめ込まれており楽しくウォーキングしました。

国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られています。
こちらは帝網道場(国柱会本部)。
DSCN6603no2.JPG
宮澤賢治辞世碑がありました。
 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのりの に棄てば うれしからまし」

感応寺(かんのうじ)。
DSCN6622no2.JPG
感應寺は1205年(元久2年)真言宗の僧・空念によって開かれた。しかし正応元年(1288年)各地を巡り日蓮の教えを説いていた僧侶、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となる日進が感應寺を訪れ、法論を決した末に改宗、日進が日蓮宗の感應寺として改めて開基したということで以来今日まで日蓮宗の寺院となっている。
1982年(昭和57年)「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定された感應寺の梵鐘は[44]、元禄11年(1698年)のちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次(通称「釜屋六右衛門」「釜六」)により鋳造された[18]。同梵鐘は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に江戸川区内で唯一戦時供出を免れ、区内に残っている梵鐘の中で最も古いとされる[3]。同梵鐘の高さは152cm、口径は77cm[44]。鐘を突く橦木には古来より最適とされる棕櫚の木を使用しているとのことです。建材に欅と吉野の桧を使用した鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて2008年(平成20年)に建立。特に屋根は大工職人の技の粋を集め、振隅、切裏甲、垂木は居定付きとし、精巧で優美なものに仕上ったのです。ということで屋根を支えている柱はそれぞれ3本見えました。

水神宮。
DSCN6628no2.JPG
江戸川区は大きな神社の境内社も含め、水神社(水神宮)が大変多いのが特徴とのことです。かつては田畑が多く、水路に恵まれていた一方で、水害も多かったものと推察され、水害を治めるために祀られたようです。

村井染工場。
DSCN6631no2.JPG

DSCN6649no2.JPG
この会社は1936年(昭和11年)に東小松川で創業され、1939年(昭和14年)現在地に移転。目の前の一之江境川で洗いを行っていたのが、一之江境川が親水公園となってからは、井戸水を引いて工場内での作業となっているようです。今は浴衣から手拭いを多く作っているようでした。注文は主に日本橋界隈の問屋さんから、また芸能人や近隣の祭事用などの注文もあるようです。伝統的な手法を用いる手拭いは本来の使い道のほか、インテリアや小物として使われているとのことでした。

一之江境川親水公園(いちのえさかいがわしんすいこうえん)は江戸川区一之江1丁目、5丁目、6丁目、一之江町、二之江町、船堀7丁目付近を流れる一之江境川を利用した親水公園。
DSCN6673no2.JPG
野川の再生」をテーマとした公園で全長は3.2kmに及び、1995年(平成7年)より順次開園した。魚や昆虫、水生植物が生息できるように新中川の自然水を流している。ハゼ、スズキ、テナガエビなども見られ、冬から春にはカモが飛来、豊かな自然とふれあえる親水公園である。また約2800本の樹木が植えられソメイヨシノ、クスノキ、サツキ、アジサイなどが見られるのです。今日は生まれたばかりのカモの親子も見えました。
DSCN6667no2.JPG

タワーホール船堀は、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をコンセプトに造られ、平成11年3月のオープン以来、江戸川区のシンボルです。10階部分に展望台の船堀タワーがあり、360度の視界を楽しめました。
DSCN6710no2.JPG

本日は時々小雨でしたがまずまず無事にウォーキング終了です。
歩程約17000歩、約11km、参加者一同が無事に完歩できたことが一番良かったです。終了後、東海道53次などでご一緒だった顔なじみが5名もそろっていたので非常に懐かしくお茶をしてから解散しました。また次回もぜひお会いしたいものです。
DSCN6712no50.JPG
posted by yunofumi at 18:20| あちこちウォーク

2019年05月18日

2019.5.12さいたま彩発見ぶらり街あるき

第1回浦和区

JR浦和駅⇒西口⇒東口⇒岸町3丁目⇒浦和第一女子高校⇒調神社⇒高砂小学校⇒伊勢丹⇒うなぎ彦星⇒門前通り⇒玉蔵院⇒中央公園⇒浦和一女発祥の地⇒埼玉会館⇒埼玉県庁⇒さいたま市役所⇒浦和区役所⇒浦中発祥碑⇒常盤公園⇒浦和宿二・七市跡⇒市場通り⇒仲町公園・浦和本陣跡⇒浦和宿碑⇒浦和ロイヤルパインズホテル⇒酒井甚四郎商店(奈良漬)⇒須原屋⇒JR浦和駅

浦和は馴染みのある街ですが折角なので埼玉全部をめぐるシリーズということを耳にしたので第1回から参加しました。
浦和には浦和がつく駅が8つあります。@浦和駅A東浦和駅B西浦和駅C南浦和駅D北浦和駅E中浦和駅F武蔵浦和駅G浦和美園駅。これを歌い上げたのが山本リンダの「ねらいうち」の替え歌だそうです。今日の講師の喜多見先生はのっけから面白い紹介をされる方で1日楽しめそうな予感がしました。
浦和といえば浦和レッズの本拠地なので西口にはこのようにオブジェがありました。
DSCN6166no.JPG

浦和駅は明治16年誕生ですが西口と東口がつながったのは2014年。平屋ばかりだった東口は今では商業施設のパルコやバスターミナルができて大いに賑わっています。
DSCN6168no2.JPG

岸町3丁目を過ぎると浦和第一女子高校です。明治33年設立。相変わらずの名門でスーパーサイエンスハイスクール指定校とのことです。
DSCN6178no2.JPG
そういえば埼玉は古くからの名門は今でも男女別学。ここは「いちじょ」とよばれています。卒業生には石井桃子、古谷範子、東海林のり子、青木裕子、北川玲子など多くの有名人がズラリ。
校地南側にはオーストラリア原産フトモモ科の暖地性植物のユーカリ樹があると紹介されました。本日は校地内に入れないのでよく見えませんでした。高さ13m、幹まわり0.98m、根まわり1.36m。大正8年に、昭和天皇成年式を記念して全県下に配布されたものの一つで、現存しているのはこれ1本のみになってしまっているとのことです。この周辺が、暖地系植物の北限として、学術的にも貴重な存在なのです。花は早春に咲き、葉を乾燥してユーカリ油の原料とする地域もあるようです。また、世界三大名木の一つとも言われています。

調神社(つきじんじゃ、つきのみやさま)。
DSCN6198no2.JPG

鳥居は2本の石柱があるのみ。これは調神社の七不思議の1つ。理由は伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるからと上に渡す柱がないのです。

その他の不思議は、境内に松の木が無い、御手洗池に住む片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケヤキがある、蠅がいない、蚊がいないこと。
DSCN6191no2.JPG

本殿.
DSCN6205no2.JPG
月と同じ読み、と云うことで月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神です。狛兎はもちろん、手水や社殿、御朱印帳まで兎だらけ!兎好きの間では兎スポットとしても有名だとか。
DSCN6209no2.JPG

引退した狛兎.
DSCN6206no2.JPG

高砂小学校は浦和最古の小学校で明治4年浦和郷学校として開校。明治5年には浦和小学校となった後、昭和22年に現在の高砂小学校となっています。
DSCN6221no2.JPG
表門のあたりは風格があり周囲を見ても何処かの御屋敷かと思いました。

伊勢丹とコルソという大きな商業施設の端に「ときわだんご」があります。明治8年開店のお店で美味しいので時々立ち寄っています。
DSCN6231no2.JPG

伊勢丹の前には浦和うなこちゃんも元気に愛嬌を振りまいています。
DSCN6232no2.JPG
埼玉県さいたま市浦和区のマスコットキャラクターでやなせたかしさんの作。さいたま観光大使です。

うらわ桜草通りを入った路地に「うなぎ彦星」がありました。やや小さいお店でしたがなかなか美味しい鰻重でした。
DSCN6246no2.JPG

浦和駅傍の旧中山道から玉蔵院への通り約60mを門前通りといいます。
玉蔵院は1780年真言宗の弘法大師が開山。正面にこんもり見えるのが枝垂れ桜で有名です。
DSCN6255no2.JPG

DSCN6259no2.JPG
すぐ隣に地蔵堂があります。

浦和中央公園はもともと玉蔵院の敷地だったようです。昔は調神社の外には大きな公園がなく、健康増進や休憩スポット、非常時の避難場所として開設したとのことです。現在は常盤公園や別所沼公園が整備されています。

浦和一女発祥の地碑。
DSCN6267no2.JPG
浦和一女は、1900年(明治33年)に、その頃の埼玉県立浦和図書館があった浦和区高砂3丁目に「埼玉県高等女学校」として設立。その後、10年後の明治43年に今朝見た現在の浦和区岸町に移転しています。この場所(現在は取り壊して更地)の跡地に一女発祥の地の記念碑が建っていました。

埼玉会館は1926年(大正15年)に昭和天皇の「御成婚記念埼玉會館」として誕生。もともと1923年(大正12年)より計画されたのがその年の関東大震災で建設が延期されたのを渋沢栄一さんの尽力で急ピッチで出来上がったとのことです。設計は岡田信一郎で当時としては珍しいドイツパイロット歌劇場の様式だったとのことです。大ホールは1500人収容です。その後、1966年(昭和41年)に建て替えられ、現在に至り「埼玉会館」となったのです。当初から見ると約90年。「大正、昭和、平成」3つの時代を通し、常に文化の中核を担う拠点会館とし歴史を刻んでいるのです。
DSCN6288no2.JPG

埼玉県庁は当初、埼玉郡岩槻町(現在のさいたま市岩槻区)に置かれる予定だったのが、県庁としての業務を行える建築物がなかったため、北足立郡浦和宿の旧浦和県庁舎が使われたことがはじまり。1871年(明治4年)11月14日埼玉県が発足(埼玉郡・足立郡・葛飾郡)。翌月、旧浦和県庁舎に埼玉県庁を置いたのです。
1992年(平成4年)11月14日 - 埼玉県の愛称として「彩の国」が採用となっています。
現在の県庁の第一庁舎は1955年にできた建物のようです。道理で本当に古いのです。
DSCN6292no2.JPG
写真真ん中の埼玉県庁のプレートにあるのが「県章」。埼玉県名の由来である「幸魂(さきみたま)」の「魂」は、「玉」の意味でもあり、まが玉は、埼玉県にゆかりの深いものとなっているため「まが玉」を円形に配置したデザインで、「太陽」「発展」「情熱」「力強さ」を表しているとのことでした。 県旗は県章を白地に赤く染め抜いたもので、昭和39年に制定したことも伺いました。
彩の国さいたまの「彩」は、いろどりや美しさを表す言葉で、四季折々の色彩豊かな自然に恵まれ、産業、文化、学術などさまざまな分野で発展する多彩な国を表しているのです
なんとこれは全国から寄せられた21,275点の中から県の愛称として決まったということでした。また埼玉県の花は桜草で浦和市田島ヶ原の自生地は、今も昔ながらの面影を残しており、国の特別天然記念物に指定されているのです。

さいたま市は埼玉県の南東部にあり、県庁所在地。 2001年5月浦和市と大宮市と与野市が合併して発足。 2003年4月全国で 13番目の政令指定都市へ移行したので西区、北区、大宮区、見沼区、中央区、桜区、浦和区、南区、緑区の9区が誕生、市役所は浦和区にあるのです。 2005年岩槻市を編入して岩槻区が誕生し合計10区となったのです。従来の業務核都市としての位置づけと相まって首都圏の一翼を担い,工業団地,商業施設,住宅の進出が著しいのです。文化・スポーツ施設,公園・緑地も整備され,彩の国さいたま芸術劇場,埼玉スタジアム 2002などは市外、県外から集客を見込んで作られたようです。荒川河川敷に国の特別天然記念物である田島ヶ原サクラソウ自生地、与野には国の天然記念物の大カヤがあります。国指定史跡として見沼通船堀もあります。市域南東部は安行武南県立自然公園です。鉄道は JR東北新幹線、上越新幹線、東北本線、宇都宮線、高崎線、川越線、埼京線、武蔵野線、京浜東北線、東武鉄道野田線、埼玉高速鉄道、埼玉新都市交通線が、そして道路は東北自動車道、国道 16号線、17号線、122号線、463号線が通り、首都圏と東北地方、上信越を結ぶ交通の要衝でもるのです。人口 は約126万人と膨らむ一方のようです。
ということで今回のこのウォーキングツアーではまずさいたま市の10区完歩を目指すのです。

浦和区。
江戸時代に中山道は江戸と京都を結ぶ重要な道路として整備されていました。浦和は日本橋から三番目の宿駅で、本陣や問屋があり、宿場町として繁栄したのです。1871年(明治4年)に埼玉県が出来、宿場町として栄えていた浦和宿は、県庁所在地となり、また明治22年に浦和町となり、行政・教育・文化の上でも県中心地となったのです。1923年(大正12年)の関東大震災では、地震の災害が少なかったこと、首都圏から20kmの至便性などから、住宅地としての評価が高まり、多くの文化人が移り住み、特に「鎌倉文士と浦和画家」といわれ、多くの芸術家が活躍したのです。2001年(平成13年)にさいたま市が誕生し、2003年(平成15年)さいたま市が政令指定都市へ移行し、浦和区ができたのです。

埼玉サッカー発祥の地碑.
DSCN6316no2.JPG
埼玉は静岡、広島と並びサッカーの御三家と言われ、その歴史は古く、今から約100年前の明治41年に、埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)教諭の細木志朗氏が蹴球部をつくったことにより始められ、埼玉師範から多くの指導者が県内の学校に教師として赴任したことにより普及・発展を遂げたのです。 現在のさいたま市役所は、その埼玉師範跡地に建っており、正に埼玉のサッカー発祥の地なのです。このため埼玉サッカーの歴史と伝統を末永く後世に伝えるため、埼玉師範が全国大会で初優勝を果たしてから60周年目の平成9年に当時、浦和市役所だったこの地に記念碑ができたのです。

浦中発祥碑。
DSCN6329no2.JPG
さいたま市役所の西 100m。合同庁舎の東隣りに“埼玉県知事公館の前に 2人の学生服を着た生徒と「ここに浦中ありき」という文字を刻んだ石碑です。 ここは 県立浦和高校の前身 (旧制)浦和中学校が開校した場所なのです。浦和高校の現在の校舎はこれより北に約1.5kmの北浦和駅そばの浦和区領家5丁目にあります。

常盤公園は、浦和区常盤の浦和警察署の東方面にある公園。園内には、子供用の遊具や砂場、トイレなどもあり、都会の中の憩いの場という感じ。
DSCN6335no2.JPG
園内にはもともと浦和地方裁判所があったので入口には名残の赤レンガ堀や、市指定の天然記念物となっているキャラの木があります。
DSCN6341no2.JPG
童話碑もありました。
DSCN6337no2.JPG

浦和宿二・七市跡。
中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていたようです。始まりはどうやら戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいるとも伺いました。市神と定杭を残す市場跡は貴重らしいです。
DSCN6344no2.JPG

DSCN6345no2.JPG

さらに数分歩くと常盤公園へ行く道があり、入口に野菜を売る「農婦の像」と市場通り説明碑がありました。
DSCN6356no2.JPG

仲町公園・浦和本陣跡。
旧中山道沿いの仲町交差点そばの路地を入るとすぐ仲町公園です。中には説明板がありました。江戸時代、日本橋から数えて3番目の宿場として栄えた所で、本陣や脇本陣、旅籠、高札場、問屋場などがあったようです。また説明板隣には、明治天皇行幸の際に行在所になったことも記念した碑が建っています。
DSCN6366no2.JPG

浦和宿碑が浦和ロイヤルパインズホテルそばの旧中山道にありました。
DSCN6367no2.JPG

浦和の奈良漬といえば酒井甚四郎商店の浦和漬。こちらは明治初年創業。
須原屋は明治9年、旧中山道沿いの現在地で創業した書店。此処に来るとあらゆる分野のものがあります。
DSCN6371no2.JPG

DSCN6377no2.JPG

今日は21℃、晴、微風の中、気持ちよいウォーキングができました。参加者18名、講師喜多見先生、TD伊藤さん。スタート10:00〜14:30でまずはこの第1回「さいたま彩発見ぶらり街あるき」は無理のない日程で終了しました。自分の活動量計では16000歩、約8kmでした。今後はまずさいたま市浦和区の後9区、その後埼玉県内の市をくまなくウォーキング予定、全部で40回となるとのことです。埼玉県は全国でも一番「市」が多いそうですから先が長いですがボチボチ参加しようと思っています。何しろ埼玉県民となって40年以上ですが県内をよく知らないので良い機会だと考えたのです。ではまた皆さま、次回も楽しみましょう。
posted by yunofumi at 09:08| あちこちウォーク

2019年05月12日

2019.5.6 鉢形城を尋ねて

東武東上線寄居駅南口⇒栄町商店会⇒平安会館⇒朝日生命⇒セブンイレブン寄居駅南店⇒正喜橋・荒川⇒笹曲輪(ささくるわ)⇒伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)⇒田山花袋碑⇒二の曲輪⇒城山稲荷神社⇒三の曲輪⇒復元四阿(ふくげんあずまや)⇒石組排水溝⇒復元石積土塁⇒復元四脚門⇒深沢川⇒鉢形城歴史館⇒東武東上線寄居駅南口

偶然パンフレットで見つけた鉢形城です。鉢形城は日本の100名城のひとつと分かり興味がわいたのです。なんと埼玉県寄居町にあるので近いことからGW最終日に出かけてみました。
事前の情報としの見どころは荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあるお城で曲輪が連なる連廓式の平山城で縄張りや巧緻さは際立っているとのことでした。これは小田原合戦の時の前田・上杉・真田・本多氏などとの籠城戦で実証されているようです。
最初の築城は1476年(文明8年)長尾景春、その後北条氏邦がかかわっているようです。
またこの城では「曲輪」という言葉が使われていますがどうやらこれは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称のようで「郭」とも書くのです。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門をはじめ、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられているとのことです。まずは城のことを知らない私ですから徐々に理解したいと思っています。

以下は本日の記録です。
自宅を9時過ぎにスタート。東武東上線でまずは森林公園駅まで、その後乗り換え小川町で再度乗り換え、ようやく寄居駅に到着。はじめて寄居駅にやってきました。結局、列車の待ち合わせもあり、ほぼ90分で到着。
寄居駅南口にはタクシー数台と観光案内所が目につくだけ。すぐに道路幅は広く一直線に荒川にかかる正喜橋を目指しました。
DSCN6054no2.JPG

正喜橋は、荒川を渡る主要地方道飯能寄居線の橋とのこと。
DSCN6061no2.JPG
この橋は昭和46年にできた鋼3径間連続箱桁橋というそうで橋長145.90m、幅員7.50m、歩行者専用もありました。橋からの眺めが素晴らしかったです。
DSCN6064no2.JPG

DSCN6068no2.JPG
玉淀河原の上にかかるこの橋の上流側には、鉢形城趾が近接しており、周辺では毎年5月には「寄居北條祭り」、8月には「寄居玉淀水天宮祭」が開催されるとのことでした。一方、下流には、大正14年にかけられた上路式トラス橋「東武東上線荒川橋りょう」があるとのこと。正喜橋上流の風景では右側の河原が「玉淀河原」で北條祭りや水天宮祭の会場となる場所。正喜橋を渡るとすぐ鉢形城公園になり、笹曲輪がありました。
DSCN6079no2.JPG

鉢形城址を紹介するパネルと鉢形城ジオラマがありました。
DSCN6075no2.JPG

これを少し上から見ると葉っぱのような形で攻めにくくなっていました。
DSCN6082no2.JPG

伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)の上に本曲輪があり、鉢形城址の案内がありました。
DSCN6086no2.JPG
御殿があったのです。

すぐ傍から見下ろすと荒川があり、この城がすぐ崖の所にあったことがわかりました。
DSCN6088no2.JPG
向こう側が玉淀といわれるところのようです。

田山花袋碑。
本曲輪 には田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ漢詩の碑がありました。刻まれた文字は武者小路実篤によるものでした。
DSCN6092no2.JPG

二の曲輪には濠と畝、土塁がありました
DSCN6104no2.JPG

DSCN6111no2.JPG

城山稲荷神社は二の曲輪の傍でした。
DSCN6108no2.JPG
鳥居前の参道には桜が並木になっていました。

空濠もありました。
DSCN6112no2.JPG

三の曲輪に入ると復元四阿(あずまや)があり、これは休憩所のようでした。
DSCN6121no2.JPG

石組排水溝
DSCN6126no2.JPG

復元石積土塁
DSCN6124no2.JPG

二の曲輪の復元四脚門。
DSCN6131no2.JPG
これは鉢形城址の今ではシンボルです。

これより下に下ると深沢川があり、どうやら水が涌いているようで清らかな流れでした。
DSCN6145no2.JPG

そしてようやく鉢形城歴史館に着きました。ボランテァガイドの酒巻さんには笹曲輪からここまで案内していただき、大助かりでした。
DSCN6155no2.JPG
ここは平成16年10月に鉢形城公園の開園と同時にオープンしたようです。鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史なども含め映像を駆使して紹介していました。

こうして正味2時間ほどの鉢形城の見学をしました。本日は埼玉の奥に来ましたので涼しいかと思いましたがどうも24℃ほどあったみたいで晴天とはいえ夏かと思いました。でも天候に恵まれ、こうして歩き回れたことは幸せなことです。今後は再度訪れて理解を深めたいと思っています。ボランテァガイドに感謝!!
posted by yunofumi at 22:15| あちこちウォーク

2019年05月06日

2019.5.4 国分寺駅周辺ウォーク

天気予報で日中は晴天と聞き、以前から見たいと思っていた殿ヶ谷戸庭園を中心にお出かけしました。

JR国分寺駅南口⇒殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)⇒野川不動橋⇒石橋供養塔⇒緑橋⇒お鷹の道⇒史跡の駅おたかカフェ⇒旧本多家住宅長屋門・おたかの道湧水園⇒こくべジ⇒武蔵国分寺跡史料館・武蔵国分寺跡⇒国分寺⇒万葉植物園⇒国分寺楼門⇒国分寺仁王門⇒国分寺薬師堂⇒七重塔跡⇒JR国分寺駅

JR国分寺駅構内に国分寺市観光案内所がありましたのでパンフレットをいただきつつ観光のヒントをいただきました。そして駅からすぐの殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)に立ち寄りました。GW中とはいえ、ほどほどの込み具合、おまけに入場料は無料でした。
殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したとのことです。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に1979年(昭和54年)から有料庭園として公開されているとのことでした。
旧本館は展示室。殿ヶ谷戸庭園に関する様々な資料を展示・公開している建物なのですが、昭和9年に建築されたこの建物こそが、そもそも岩崎家の別邸として使用されていたものなのでした。
DSCN5876no2.JPG
白い煙突の下は室内に暖炉がありました。
DSCN5879no2.JPG

紅葉亭(こうようてい)は数寄屋造り風の茶室で今でも茶会などに利用されているようです。
DSCN5893no2.JPG
紅葉亭はちょうど崖の上にあり次郎弁天池をはじめ庭園を眺めるにはとても良い位置にありました。
DSCN5895no2.JPG
次郎池傍には湧水の源がありました。
DSCN5903no2.JPG
次郎池に沿って散策すると孟宗竹が連なっている竹の小径に出ました。筍が沢山顔を出しており成長した竹は身についていた皮を衣を脱ぎ捨てる如くに落としている様を初めて見ました。
DSCN5915no.JPG
藤・山百合、カタクリなど様々な花を季節ごとに見られるようでした。
特にカタクリは花が終わり種子をとるために袋をかぶせてあり、珍しかったです。
DSCN5905no2.JPG

野川不動橋の傍に石橋供養塔がありました。
DSCN5955no2.JPG
石橋供養塔は、天保三年(1831)に造立されたとのこと。前にある不動橋は以前は石橋だったようです。石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味を持っているとのことでした。庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれていること、不動明王碑には 「不動明王」と刻まれているとのことでこの石にちなみ現在の橋の名を不動橋としたようです。

お鷹の道。
野川は国分寺市に湧き出て、世田谷区で多摩川に注いでいる川です。江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたのにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけているのです。現在約350mが遊歩道として整備 されています。四季折々の散策路として人気があり沿道には「カラー」の花が多くみられました。
DSCN5966no2.JPG

DSCN5969no2.JPG

史跡の駅おたカフェは、国分寺市が特定非営利活動法人めぐるまち国分寺に委託て 資料館・庭園のチケット販売、史跡地域の総合案内等を行う施設。休憩や懇談の場として、また、史跡地域の魅力を発信する場になっています。ここでは、NPO地域交流センターが指定する 全国まちの駅、地域住民や来訪者が求める地域情報を提供する機能を備え、人と人の出会いと 交流を促進する空間施設としての認証を得ているようです。
DSCN5987no2.JPG

おたかの道湧水園はお鷹の道の北側にあります。園内北側は国分寺崖線にかかり、崖線一帯には湧水源など良好で豊かな自然環境が残されています。ちょっと遠めですがこの奥の穴ぐらから湧水がでています。
DSCN5994no2.JPG

おたかの道湧水園入口には国分寺市内でも貴重な、本多家の歴史的建造物の長屋門(江戸時代後期)と倉(明治時代)が残っていました。
DSCN6007no2.JPG
長屋門を入るとすぐ武蔵国分寺七重塔推定復元模型がありました。
DSCN5988no2.JPG

武蔵国分寺跡史料館はおたかの道湧水園内にあり、国分寺村名主だった本多家の屋敷跡です。中には史跡武蔵国分寺跡を見る・学ぶ・訪ねるをコンセプトにした資料が展示されていました。
DSCN5990no2.JPG

こくべジとは長い年月をかけ土とともに育ってきた国分寺の地場野菜のこと。きっかけは江戸時代の新田開発があった300年間大事に育てられてきた野菜を使ったプロジェクト。うどん屋さんで国分寺野菜7種の天ぷら冷やしうどんをいただきました。野菜は長芋・人参・うど・蕗・カブ・新茶葉・玉ねぎでどれも新鮮でとっても美味しかったです。

奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じたとのことです。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きいとのことです。
金堂跡、講堂間の通路など土台部分などがわかるようになっていました。
DSCN6019no2.JPG

現在の国分寺。
DSCN6041no2.JPG

「国分寺 万葉植物園」は、昭和25年から38年にかけて、以前の国分寺住職だった星野亮勝氏が、日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」に詠まれている植物を収集、当時の日本文化や風習を後世に伝える事を目的で国分寺の境内に造園されたとのことです。すべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌、詠み人が記された札が建てられていました。8,019uの園内には万葉関連の植物が約160種、その他に各植物約700種が植えられておりました。
入口傍のジャケツイバラ(マメ科)が咲き誇っていました。
DSCN6049no2.JPG

国分寺楼門は門国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものとのことです。
DSCN6040no2.JPG

国分寺仁王門は国分寺境内にあり、宝暦年間(1751年〜1764年)に建てられた八脚門とのことです。
DSCN6027no2.JPG
使用している木材の一部は建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されているようです。またもとは萱葺の屋根で、現在は瓦葺の入母屋造。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(向かって右・口を開けている)吽(向かって左・口を閉じている)の仁王像がみえました。

国分寺薬師堂は医王山縁起によると、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたということです。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものとのことでした。
DSCN6032no2.JPG
建物は単層寄棟造で、昔は萱葺屋根だったのを昭和60年に銅板葺の屋根にしたようです。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置されているとのことでしたが暗くて中の様子はよく見えませんでした。

長屋門傍で見た七重塔の実際の跡地が金堂や講堂跡から東へ約200mのところにありました。
DSCN6020no2.JPG

本日は殿ヶ谷戸庭園の見物と思っていましたがパンフレットから旧国分寺や現在の国分寺も見られそうということで歩き回りました。AM10:00すぎから正味3時間、晴天のさわやかな陽射しの中、24℃、微風はウォーキング日和でした。またGW中でのんびり17000歩のウォーキングを楽しく過ごしました。花々は色々咲いておりその都度楽しみましたがお鷹の道のカラーとジャケツイバラがとても印象的でした。またこの辺りは国分寺崖線を辿るウォーキングも可能かもしれないと感じました。またしらべて挑戦したいと思います。
posted by yunofumi at 20:30| あちこちウォーク

2019年04月28日

2019.4.20 2巡目第1回 東京の新発見旅「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒仲通り商店街⇒クロダ薬局⇒杉並区薬剤師会⇒長屋門⇒西郊旅館⇒東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻外荘・荻外荘公園⇒角川庭園・幻戯山房・杉並詩歌館⇒CHALEUREUX OGIKUBO⇒共立女子学園研修センター⇒都立杉並高校⇒成宗五色弁財天⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒相生橋⇒杉二小前広場⇒尾崎橋⇒成宗白山神社⇒和田堀公園⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒鶏の焼肉珠杏(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社・大宮稲荷神社⇒大宮八幡神社参道⇒馬塔観音⇒杉並区郷土博物館⇒源義家公鞍掛けの松⇒大圓寺⇒京王井の頭線永福町駅

4月13日に完歩した東京23区めぐりですが再度、参加して2巡目に挑むことにしました。理由は各区が広くまだ一部しか見ていないと思っているからです。多分同じ場所も伺うでしょうが年月が経ちまた違うことを感じ取れるかもしれないからです。
ということで本日は2巡目の第1回なのです。

10:00 JR荻窪駅東改札集合。参加者22名。案内人は信野先生、TDは伊谷さん。空は晴れ上がり昼頃には微風ながら19℃と絶好のコンディションの中のウォーキングでした。

長屋門は宮前5丁目、井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈されたようです。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804〜1829)頃。中央を通路、右手は土間の納屋、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納したようです。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式は高かったようです。
DSCN5517no2.JPG

西郊旅館(西郊ロッヂング、せいこうロッヂング)。
1938年(昭和13年)建築の洋風建築。、2001年(平成13年)の改修後は賃貸住宅となっているとのことです。また、西郊ロッヂングは当初は本館のみ、後に新館が増築された。現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業している。
DSCN5528no2.JPG

東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫。
かつら文庫は、地域の子どもたちが、くつろいで自由に本が読めるようにと願い、作家、翻訳家、編集者として活躍さした故石井桃子さん(1907〜2008)により1958年に開館。その後改修工事を行い、2014年4月より、おとなも利用いただける施設となったのです。石井桃子さんの書斎のほか、故渡辺茂男さんの蔵書を見られる公開書庫、エドワード・アーディゾーニ資料を収めた展示室、全国の子どもの読書推進グループの活動を紹介する「マップのへや」があります。
DSCN5534no2.JPG

大田黒公園は大田黒元雄さんの屋敷跡です。ご本人が亡くなられた後、一部を区立公園に整備して昭和56年開園とのこと。檜の門は総檜、切妻づくりで、屋根は棧瓦ぶき。左右に築地塀のあるどっしりした構えでした。
DSCN5536no2.JPG
門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびており、長さは70m。左右には樹齢100年を経た大イチョウの並木でした。
DSCN5538no2.JPG
園内には東屋・池・茶室や記念館がありゆっくり桜やつつじを楽しみました。
DSCN5542no2.JPG

荻外荘(てきがいそう)・荻外荘公園。
荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至るまでの期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。荻外荘の建物傍には行けなくて金網越しに見ました。
DSCN5573no2.JPG
庭園を含めて公園になっておりました。
DSCN5577no2.JPG

角川庭園・幻戯山房(杉並詩歌館)。
俳人で、角川書店創設者の角川源義(かどかわげんよし)の邸宅が区へ寄贈されその後改修し、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として区民に利用されているとのことです。庭は日本庭園でウメやサツキ、サルスベリなど四季折々の草木や花が楽しめるようです。
DSCN5581no2.JPG
幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は加倉井昭夫氏が設計した、近代数奇屋造りの建物。源義氏にちなんだ展示室と、句会などを催せる詩歌室や茶室の貸室として活用されているとのことです。

成宗五色弁財天。
昔、この辺りは成宗村といい、水神様のご加護を願って湧水池(弁天池)の傍に建立されたのです。ご神体は鎌倉時代に江の島弁財天で焚いた護摩の灰で作った素焼きの曼荼羅像とのこと。ここは水信仰の中心地で雨乞いのためにここにお参り後、弁天池の水を持ち帰ったそうです。鳥居前の石橋と水路は天保用水の名残でそばに板型の用水路記念碑がありました。
DSCN5605no2.JPG

成宗須賀神社は旧成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊(すさのうのみこと)。社名は祭神が素盞嗚尊なので出雲の須賀社にちなんだようです。社殿は941年(天慶4年創建。その後1599年(慶長4年)再建と伝わっているが安政年間に記録を焼失し詳かではないようです。
江戸時代にはここは牛頭天王社と呼ばれていたようです。これは素盞嗚尊が牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えからと伺いました。明治維新後には成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和33年に社殿を新築し現在のようになったようです。
DSCN5611no2.JPG

成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守で、祭神は伊弉册命。『新編武蔵風土記稿』で地名の「白幡」について「往古人王七十代後冷泉院(在位1045〜1068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請し、その時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えているとのことです。
DSCN5647no2.JPG

和田堀公園(わだぼりこうえん)は、善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。この辺りは地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史があるので氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地であったのを戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園。現在では武蔵野の自然が調和した公園となっているようです。
DSCN5651no2.JPG

大宮八幡宮(おおみや はちまんぐう)は、杉並区大宮にあり、明治時代以降は大宮八幡神社と呼ばれていたのが、1981年(昭和56年)に「大宮八幡宮」に改められたとのことです。もともとは源頼義により建立。武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は約15,000坪と都内でも3番目の広さ。子育て・安産に特に御利益がいわれている。東京のほぼ中央にあるので「東京のへそ」という異名もあるそうです。善福寺川に接し、かつて湧出していた御神水は「多摩乃大宮水」といわれたのです。現在は自然には湧出していないため、ポンプで汲み上げているとのことでした。
DSCN5680no2.JPG

この馬塔観音は昭和3年、陸軍将校が乗っていた名馬宮春号がここで足を骨折して急逝し、この供養塔が建立されたそうです。
DSCN5711no2.JPG

杉並区立郷土博物館は、1989年(平成元年)に、 都立和田堀公園の中に開館。杉並区には、およそ3万年前に人々が住み始めています。 郷土博物館では、このときから現在までの杉並の歴史、 人々の生活や文化について資料を集め、 調査・研究をし、わかったことを展示していました。また古民家もありこちらではお茶のお接待をいただきました。
DSCN5715no2.JPG

源義家公鞍掛けの松は大宮八幡宮の参道の脇にありました。義家が奥州征伐に向かう途中、ここで一休みしてこの松の枝に馬の鞍を架けたとの言い伝えがあるとのことです。
DSCN5740no2.JPG

大圓寺(大円寺、だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院。山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。薩摩藩島津家の江戸での菩提所でもある。1603年(慶長8年)、徳川家康によって赤坂溜池(現在の東京都港区赤坂溜池町)に徳川家の香華院として建立。開山は諦厳桂察(武田信玄の弟)。この縁から飯野藩保科氏の菩提寺でもあるようです。この時に、旗本五井、松平、坂井、本多、土方の諸家を檀徒と定めたようです。 延宝元年(1673年)、薩摩藩(七十七万石)世子・島津綱久が江戸で没した時にその葬儀をこの寺で執り行い、以後薩摩藩の菩提寺ともなったのです。明治維新後の廃仏毀釈及び大檀越であった島津氏の神道改宗に伴い、以後庇護を失い衰微し1906年(、明治41年)に現在地に移転。現在も西郷隆盛の娘・菊子など鹿児島県出身明治維新関係者の墓が多く築かれているとのことです。
DSCN5766no2.JPG
明治元年戊辰の役戦死者没者の墓
DSCN5771no2.JPG

本日は晴天でしたから歩程約11kmをAM10:00〜PM15:00で気持ちよくウォーキングしました。ほとんどは一巡目の時と同じでしたが講師が違うことと2年ほどの時間経過があるので改めて見聞を広めた感じでした。
今後も2巡目の都内をそれなりに新発見を期待しながら参加していくことにいたします。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2019年04月15日

2019.4.13. 山手線歴史探訪ウォーク 第2回

上野駅〜西日暮里駅
JR上野駅公園口⇒JR上野駅中央口⇒JR上野駅広小路口⇒「あゝ上野駅」碑⇒上野恩賜公園--黒門--獨山人の碑--西郷隆盛像--彰義隊の墓--天海僧正毛髪塔--寛永寺清水観音堂--不忍池弁財天--花園稲荷神社--時の鐘--上野大仏--パゴダ薬師堂--お化け灯籠--東照宮--東照宮唐門--グラントヒノキ--時忘れじの塔--東京文化会館フォレスティーユ精養軒--ボードワン博士像⇒旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)⇒黒田記念館⇒東京文化財研究所⇒上野東照宮⇒寛永寺第二霊園・徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所⇒寛永寺・根本中堂・了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦⇒谷中霊園---DEPUIS PATISSIER INAMURA SHOZO--御隠殿坂−明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑−徳川慶喜公墓所−渋沢栄一墓所−川上音二郎碑−天王寺五重塔跡⇒観音寺築地塀⇒初音の森⇒岡倉天心記念公園⇒谷中銀座・夕焼けだんだん⇒延命院の大椎⇒経王寺山門⇒善福寺・仁王門⇒富士見坂⇒淨光寺⇒諏方神社⇒太平洋美術⇒荒川区立第一日暮里小学校⇒西日暮里公園⇒JR西日暮里駅

JR上野駅中央改札のすぐ横の切符売り場の上にステンドグラスがありました。「昭和六十年春 ふる里・日本の華」でデータを調べると原画。監修:平山郁夫、設置:1985年3月、ステンドグラス、3.7m×18.6m、キーワード:扇、水、花ということでした。このような壁画などはパブリックアートというそうです。
DSCN5152no2.JPG

JR上野駅広小路口外には「あゝ上野駅」歌碑がありました。
DSCN5156no2.JPG
この歌碑は2003年建立。この歌は1964年に井沢八郎さんが歌った東北地方の集団就職者の応援歌として大ヒットした歌謡曲。歌碑は大きく機関車と多くの集団就職者が描かれており私たち世代だけではなくこれを見て昔を偲ぶこともいいことではないでしょうか。

上野恩賜公園は明治6年太政官布達で日本が初めて公園に指定。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いたとのことです。

西郷隆盛像は明治31年設置、作者は高村光雲、身長3.7m・胸囲2.6m・足55cm。できた時の様子は昨年のNHK大河ドラマ第1回で見られてとても印象的でした。
DSCN5172no2.JPG

天海僧正毛髪塔。
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧。なかなかの名僧でのちに江戸崎不動院(茨城県江稲敷市)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受け、1616年(元和2年)家康が没すると、その神格化のため権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導したのです。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、1625年(寛永2年)に寛永寺を創建し、1643年(寛永20年)に子院の本覚院で108歳でなくなっているのです。遺命により日光山に葬られたため本覚院跡には供養塔が建てられ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになったとのことでした。
DSCN5194no2.JPG

「彰義隊の墓」がありました。江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻ったことから東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論された。慶喜の一橋家時代の側近が慶喜の助命を求め、1868年(慶応4年)に彰義隊を結成。慶喜が水戸退隠後も上野山(東叡山寛永寺)にたてこもったのです。1868年((慶応4年)、新政府軍が、上野寛永寺周辺にたてこもる彰義隊を包囲し彼らは滅亡したのです。これは上野戦争といわれています。その後、彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたのを、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されたとのことでした。正面の小墓石は、1869年(明治2年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出されたもの。大墓石は、1881年(明治14年)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、改府をはばかって彰義隊の文字はなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれています。
DSCN5174no2.JPG

清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立。比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門を守護すると伝えられている事に倣い、天海大僧正は1625年(寛永2年)に江戸城の鬼門を守護するため、寛永寺を創建したのです。そして比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立。そのひとつとして清水観音堂は京都清水寺に倣って建立されたのです。清水観音堂は、江戸時代から庶民に親しまれる名所で特に境内に配された月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」に「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれているとのことです。
DSCN5215no2.JPG

DSCN5210no2.JPG

不忍弁天堂は寛永寺の創設者天海僧正。現在の八角形の御堂は昭和33年に再建されたもの。ご本尊は八臀大弁財天で長寿・福徳・芸能の神様。普段見受ける芸能人のお名前が書かれた提灯がいっぱいありました。
DSCN5228no2.JPG

上野大仏とパゴダ薬師堂は大仏山にあります。1631年(寛永8年)堀直寄が寄進。元々、大仏様は全身あったようですが地震や火災が度々ありこの顔面だけが残り大仏再建を願い仏塔(パコダ)が作られたとのことでした。
DSCN5255no2.JPG

DSCN5259no2.JPG

お化け灯籠(おばけどうろう)は、佐久間勝之(さくまかつゆき)が奉納したもの。銅灯籠や石灯籠と離れたところにある。おばけというのは、おばけのように大きく、高さが6.06mもあるからそのような名前がついたようです。また、笹石の周囲は3.36mで非常に大きかったです。
DSCN5262no2.JPG

時忘れじの塔は故林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが2004年(平成16年)に東京大空襲を忘れないでという趣旨で設立。林家一門で慰霊の会が開かれるようです。
DSCN5306no2.JPG

公演内をグルグル動き回った後振出の上野駅前に戻り昼食は、東京文化会館2階のフォレスティーユ精養軒でおしゃれなランチをいただきました。
DSCN5315no2.JPG
メイン前にはスープやパン、それにデザートと珈琲が出ましたので大満足でした。

ボードワン博士像。
明治政府が上野の山を別の目的で使用することを決めていたのを近代的な公園にすべきとボードワン博士が提言し現在の上野公園ができたそうです。いわば上野公園の生みの親でオランダの一等軍医だったとのことです。
DSCN5326no2.JPG

正岡子規記念球場は公園の外れに見えました。これは明治20年ごろ、正岡子規が上野公園内で草創期の野球を楽しんでいたことから、名前がついたのです。そばに「春風や まりを投げたき 草の原」の句を刻んだ碑があるとのことでした。

旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)がありました。解説によると1932年日暮里と上野公園間の営業のため工事開始し1933年開業。1945年戦争のため運転休止。1953年この駅の営業を再開するも1997年駅が小さいことなどがあり営業休止。2018年リニュウアルして記念に残されたようです。

上野東照宮
もともと徳川家康公を祀った社。家康が1616年に死去し1618年には日光東照宮に祀られています。その後家康を敬心していた藤堂高虎が1627年(寛永4年)にこの上野東照宮を造営。現在の社殿は徳川家光が作り替えたもの。文化財保護の為、社殿内は非公開。 金色殿とも呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造り。
唐門は1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価されています。 内側の透彫は諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、 太鼓に鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいています。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられています。
DSCN5277no2.JPG
唐門両側の6基の銅灯籠は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものとのことです。
DSCN5284no2.JPG
銅灯籠の間に見えるのは菱透塀。格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名だとのことです。 社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、 色鮮やかに生き生きと表現されているとのことでした。

寛永寺第二霊園に入るとすぐ徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所の案内がありました。五代将軍綱吉は、1680年(延宝8年)に将軍となり1709年(宝永6年)に63才で死去。綱吉ははじめ、善政を行ったが後には「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名です。 1698年(元禄11年)に綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されたとのことです。綱吉の霊廟は宝永6年に竣工したが、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したのです。この勅額門と水盤舎は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構とのこと。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
DSCN5346no2.JPG

寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。徳川家光が創立者、初代住職は天海大僧正。ご本尊は薬師如来。本堂にあたる根本中堂を見ました。
DSCN5355no2.JPG
この周りには了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦など見所が一杯でした。

谷中霊園は日暮里駅と鴬谷駅の崖上に広がる墓地。ここはもともと寛永寺と天王寺の寺領だった所。1875年(明治7年)東京都の公共墓地となり一般にも公開されている。
本日は明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑、徳川慶喜公墓所、渋沢栄一墓所、川上音二郎碑、天王寺五重塔跡などを見て回りました。
DSCN5391no2.JPG

DSCN5396no2.JPG

観音寺築地塀(つきじべい)とは土塀のこと。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものをいうようです。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。
はじめは土のみで作られたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるようになってきたようです。
DSCN5409no2.JPG

岡倉天心記念公園は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立にかかわり、また日本美術院を創設した岡倉天心の旧居跡。五浦のものを模した六角堂があり、中には天心坐像が据えられています。また公園のなかのいたるところに六角形が潜んでいます。
DSCN5421no2.JPG

谷中銀座は地元の方々は元より、定期的に商店街に足を運んでくださる広域の方々、遠方や海外からお越しくださる観光の方々に商店街を時代の流れに適応しながら古き良き商習慣を大切にして異世代に残していきたいと頑張っている商店街だそうです。本日は休日のため非常な混雑で有名なメンチコロッケのお店など行列ができていました。私は谷中満点ドーナツを買い、大いに満足しました。
DSCN5432no2.JPG

御殿坂と谷中銀座の間には「夕焼けだんだん」と呼ばれる階段があります。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。夕方になると、階段に座って夕焼けを待つ方もいそうです。夕焼けだんだんを降りると「谷中銀座」の入口です。
DSCN5437no2.JPG

延命院は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局を開基とする日蓮宗の寺院。家綱の安産祈願をした日長が甲州身延山の七面大明神を勧請し、慶安4年(1651)にその別当として開創されたのです。境内には、樹齢600年を越える大椎がありました。
DSCN5448no2.JPG

経王寺(きょうおうじ)は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られており、旧谷中七福神のひとつ。1868年(慶応4年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っていました。
DSCN5457no2.JPG

善福寺・仁王門。
谷中は奇跡的に戦災を免れた為、古い民家と下町風情が残る稀少の場所で、善福寺・仁王門の金剛力士像もけなげに残っていました。
DSCN5463no2.JPG

淨光寺は真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があるようです。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていたようです。江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。
DSCN5477no2.JPG

諏方神社は鎌倉時代に豊島佐衛門尉経泰によって創建されたと伝えられ、信濃国上諏訪大社と同じ建御方命を祀っておるようです。現在も日暮里(旧:新堀)・谷中の総鎮守。 諏方神社は、JR山手線の線路沿いの諏訪台にあり、江戸時代には、筑波や日光の連山などが見えたことから、景勝の地として知られていました。

諏訪神社の道を挟んで反対側に太平洋美術会がありました。太平洋美術会は明治22年に日本最初の洋画団体「明治美術会」として誕生。同35年、太平洋画会と改称し、さらに昭和32年に太平洋美術会と名称を改め今日に至っているとのことです。2011年、120周年を迎えこの間、幾多の英才、奇才を世に送り出し、日本近代洋画史に燦然たる足跡を残したのです。併設の太平洋美術学校(現・研究所)からも多くの才能を輩出し今日、多数ある美術団体の源流で、今もこの歴史と伝統を守るとともに、新しい潮流に向けて歩み続けていると伺いました。

荒川区立第一日暮里小学校門前に「正直親切」の石碑がありました。この記念碑は高村光太郎直筆で荒川区立第一日暮里小学校の創立百周年の記念碑とのことです。高村光太郎は明治23年に旧下谷区練塀小学校から日暮里小学校に転校しており、この地にはずいぶんとゆかりがあるのです。この「正直親切」の文字は昭和26年、岩手県山口小学校のためにかかれたものが、日暮里小学校の百周年記念の際、財団法人高村記念会の好意で使わせてもらうことになったという経緯があるようです。ちなみに隣にいるフクロウはこの第一日暮里小学校の校歌の歌詞に由来しているとのことです。学校の立地が日暮里の高台、緑がいっぱいの諏訪神社のすぐ隣にあり、「森の知者」であるフクロウをシンボルにして子供たちに親しまれるように、という想いが込められているそうです。
DSCN5491no2.JPG

西日暮里公園は西日暮里駅から坂を上がった高台にありました。すぐ近くには諏方神社や多くのお寺があります。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として、高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていたのでこれらの案内を変わった形の案内板で示していました。
DSCN5502no2.JPG

本日は14℃と温かで晴天の元、約10km、歩程17000歩を結局実質5時間で完歩。参加者のほとんどは本日2回目で初々しい雰囲気が満載でした。私は初回が2017年10月でしたから約1年半かかっての完歩でした。昼食時に完歩認定証と山手線駅スタンプの一覧をいただきおまけに皆様の拍手はとても光栄でした。このようなシリーズのウォーキングツァーのいい所です。
DSCN5509no2.JPG
振り返れば全10回のうち雨は1回でしたから、なかなか幸運でした。これからも機会を見つけてまたシリーズのウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2019年04月07日

2019.4.7 MBT代々木公園ウォーク

すっかり本格的な春!!
本日は久しぶりに代々木公園でのMBTノルディックウォークにお出かけ。
代々木公園はすっかりお花見気分の方でいっぱい。
桜と緑と小さな花たちが眩しい!
DSCN3360no2.JPG

DSCN3373no2.JPG

DSCN3374no2.JPG

DSCN3375no2.JPG

DSCN3365no2.JPG

温かだったので久しぶりに仲間も7人勢ぞろい。
DSCN3380no2.JPG

DSCN3364no2.JPG

本日は日中20℃、晴天の元、大いにウォーキングを楽しみました。
ウォーキングを終了後ハッと見渡せば、明治神宮、神宮橋、原宿駅はごった返していました。皆さんが大いに楽しんでいてとても嬉しい風景でした。
お陰様で今年は桜を大いに楽しみました。
posted by yunofumi at 17:37| あちこちウォーク

2019年04月03日

2019.3.31第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜2日目

「見沼たんぼ北コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒武蔵一宮氷川神社一の鳥居⇒氷川参道⇒大宮消防署氷川参道出張所⇒南堀之内バス停⇒丸昌⇒自治医科大学附属さいたま医療センター⇒合併記念公園⇒大宮南部浄化センター・みぬま見聞館⇒さいたま新都心公園

昨日の疲れが残っていそうなので大事をとって本日は歩程5kmコースに参加。今日は知人が一緒でしたのでのんびりムード。またしてもゆるきゃらがお見送りに登場です。
DSCN5073no2.JPG

さいたま新都心駅前を過ぎるとすぐ武蔵一宮氷川神社に向かう氷川参道です。
DSCN5087no2.JPG
武蔵一宮氷川神社は2400年以上の歴史をもつといわれ、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社。武蔵一宮として関東一円の信仰を集め、初詣には多くの参拝者で賑わいます。氷川神社名の社は大宮を中心に、埼玉県および東京都下、神奈川県下におよびその数は280数社を数えるとのことです。

氷川参道のこと。
DSCN5097no2.JPG
氷川神社の参道は中山道から南北に2km伸び、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われていて「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていました。杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因が考えられます。更に古い時代には松並木の時代もあったとのことです。現在の参道の樹勢状況は平成22年に作成された『氷川参道のまちづくり』によると、およそ650本の高木があり、そのうちケヤキが約65%、次いでスダジイが約10%、そのほかクスノキ、エノキ、サクラなど37種類の樹木があるとのことです。
自治医科大学附属さいたま医療センターを過ぎるとすぐ合併記念公園でした。ここはほんじつのチェックポイントでしたからお弁当を食べた後はのんびりとあちらこちらと動き回り、色々な植物を見ました。
DSCN5114no2.JPG

DSCN5115no2.JPG

DSCN5118no2.JPG

大宮南部浄化センターは大きな建物でした。
DSCN5122no2.JPG
ここは、汚泥再生処理センターとして、平成13年3月に最新鋭の膜処理と高度処理方式を採用し稼働が始まったそうです。し尿・浄化槽汚泥の一日の処理能力は179kL。施設の特徴は、限外ろ過膜を使用した高負荷運転で汚れを除去しているとのことです。その後、活性炭吸着塔を通し、殺菌・消毒して無色・無臭の環境にやさしい処理水として芝川に放流しているようです。今日は私たちウォーカーのために色々説明をしておられました。また環境学習施設としてみぬま見聞館・自然庭園を紹介されました。自然庭園は外側から少し見ました。
DSCN5126no2.JPG

DSCN5127no2.JPG
みぬま見聞館には後日是非来てみたいと思いました。

結局ウォーキングはスタート11:00,ゴール13:00、実質6.2kmを約15000歩で終了。本日の参加者3663人。5kmコース参加者が少ないと思っていましたが空模様が怪しかったことや休日2日目ですからちびっこの参加が多く、とても賑やかでした。
今日は余裕でウォーキングを終了しましたので2人でアイスを食べて悠々と帰路につきました。
DSCN5066no2.JPG

DSCN5130no2.JPG
また来年も参加しまーす。
posted by yunofumi at 01:00| あちこちウォーク

2019.3.30第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜1日目

「見沼たんぼ南コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒さいたま赤十字病院⇒さいたま新都心郵便局⇒新都心大橋⇒上木崎小学校⇒洋服の青山⇒上木崎7丁目⇒見沼代用水・芝川土手⇒浦和西高校第2グラウンド⇒木崎3丁目保存緑地⇒見沼代用水路西縁⇒本木崎橋⇒木崎橋⇒御嶽大神⇒足袋屋橋⇒忠兵衛橋⇒北宿橋⇒みむら桜広場⇒米原橋⇒さいたま市立病院・見沼臨時グラウンド(チェックポイント)⇒芝川・北宿大橋⇒首都高速さいたま見沼入口高架下⇒見沼たんぼ首都高ビオトープ⇒山口橋⇒東京成徳短期大学運動場⇒北袋橋⇒さいたま新都心公園

第7回さいたマーチに本日初参加。朝10:00スタートの歩程10kmコースに挑戦。
今朝は気温6℃!かなり寒く手は凍えそう!
この大会は主催がさいたま市の関連団体、協賛は武蔵の銀行や埼玉信用金庫、ということでゆるきゃらのしんちゃんやヌウが応援に来てくれました。
DSCN4876no2.JPG

出発式は清水さいたま市長のあいさつではじまり15分で終了。早速スタート!
DSCN4880no2.JPG

さいたま新都心とは埼玉県さいたま市で東京都心機能の「新都心」となるべく企図された業務地区の名称。現在は「さいたま新都心土地区画整理事業」として大規模な再開発が行われ、官公庁の関東地方出先機関などが進出しておりコクーンなどの商業施設やさいたまスーパーアリーナもありイベント時には大にぎわいのまちとなってきました。
DSCN4894no2.JPG

スタートから小一時間で見沼代用水の辺りまで来ました。桜をはじめ色々な花が見られました。
DSCN4931no2.JPG

DSCN4942no2.JPG

DSCN4944no2.JPG

木崎3丁目保存緑地は自然な環境が素晴らしい。
DSCN4950no2.JPG

DSCN4967no2.JPG

DSCN4985no2.JPG

足袋屋橋、忠兵衛橋などの名前が面白いと思いました。またさいたま市立病院の向かい側の見沼臨時グラウンドがチェックポイント。ここでは大勢の方がおやつやお弁当を広げていました。

芝川の北宿大橋はさいたま市の緑区から見沼区へ見沼田んぼを横断するときによく渡る橋で如何にも写真には絶好のスポット。写真の好きな方はきっと何度でも通う場所でしょう。
DSCN5014no2.JPG

首都高速さいたま見沼入口高架下を歩き、はじめて詳しく見沼たんぼ首都高ビオトープのことを理解しました。
DSCN5041no2.JPG

DSCN5042no2.JPG
説明では多くの小鳥や動物が描かれていましたが今日のこの寒さでは何も出てきてくれませんでした。

今日はお陰様でほぼ満開の桜を堪能しました。桜はさいたま市の花木で、春には市内のさまざまな場所で花が咲き誇ります。実は「目指せ日本一!サクラサク見沼田んぼプロジェクト」というのが立ち上がっているようで、見沼代用水の西縁、東縁の桜を増やし、見沼田んぼをステージに日本一の桜回廊づくりに取組んでいるとのことです。そして今日では総延長が20kmを超え、桜の下を散策できる日本一の桜回廊となっているのです。今日の出発式での清水市長さんの話ではまだまだ延長が期待できそうです。
DSCN4997no2.JPG
結局、本日の参加者は5026人!コースは5kmから30kmに分かれてありましたがどうやら10kmのコースが一番参加者が多かったようです。桜並木が見事だったこと、雨に会わなかったことが幸いでした。失敗はチェックポイントでお弁当などの販売がなく、自分で準備していたおやつのみでちょっと寂しかったこと。歩程10kmのところ実質12.4km。おかげでこの余分の2.4kmがちょっと負担だった。ちなみにスタート10:00、ゴール14:00、実質3時間、約27000歩はかなり堪えました。帰宅後ゆっくり入浴やストレッチをして早寝をし、明日に備えました。

DSCN5058no2.JPG
そうそうお土産に参加賞のマグカップのほかに思いがけず特別賞をいただきました。これはさいたま市見沼たんぼで収穫された「彩のきずな」2kgでした。このお米は平成29年度産米の食味ランキングで最高の「特A」を獲得したお米なのです。
食べるのが楽しみです。
posted by yunofumi at 00:08| あちこちウォーク

2019年03月25日

2019.3.23. 東京新発見旅第23回 北区

今日はいよいよこのシリーズの最終回。
第1回台東区を2016年9月に開始以来、実に2年7カ月が過ぎ去りました。
この間には私的には色々なことがありましたがまずは元気で過ごせたからの最終回です。感謝!
今日はJR田端駅北口10:00集合、気温9℃、曇天でやや冷たい風もありましたが参加者21名講師は後藤先生、TDは小玉さんで一同元気に出発です。

JR田端駅北口⇒田端文士村記念館⇒東台橋⇒童橋⇒芥川龍之介旧居跡⇒田端八幡神社⇒東覚寺⇒田端文士村の散歩道⇒ポプラ坂・田端保育園/児童館⇒北区立田端公園⇒劇団文化座⇒村の鎮守の八幡神社⇒大龍寺⇒中里橋⇒山手線第二中里踏切⇒円勝寺・伊仕家の墓⇒日本植物防疫協会⇒聖学院⇒滝野川教会⇒滝野川図書館⇒旧古河庭園⇒無量寺⇒平塚神社⇒農務省農事試験場跡⇒滝野川公園⇒東京高等蚕糸学校発祥之地⇒花と森の東京病院⇒東京メトロ西ヶ原駅⇒国立印刷局東京工場⇒滝野川警察署⇒西ヶ原一里塚⇒七社神社⇒渋沢史料館⇒北区飛鳥山博物館⇒飛鳥山公園⇒豫園飯店⇒旧醸造試験所第一工場⇒北区役所第二庁舎⇒王子神社⇒玉子扇屋⇒中央工学校⇒王子稲荷大明神⇒東北線稲荷前ガード⇒北とぴあ⇒JR王子駅

田端文士村記念館は1887年(明治20年)上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校して、田端に芥川龍之介、菊池寛、小杉放庵、板谷波山など小説家や作家(=文士)が集まり住むようになったことを記念して、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供することを目的として1993年11月開館。
DSCN3141no2.JPG

芥川龍之介旧居跡は更地になっていました。ここは芥川龍之介(1892〜1927年)はが1914年に転入後、亡くなるまでの約13年を暮らしたこの旧居跡地で北区が2023年「芥川龍之介記念館」の開館をめざしているとのことです。芥川の業績を単独で顕彰する施設は全国で初めてということでした。
 
田端八幡神社は文治五年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社とのこと。
DSCN3152no2.JPG

東覚寺(とうがくじ)は真言宗の寺院。1491年(延徳3年)に創建。堂宇は第2次世界大戦で戦災焼失し、戦後再建されたようです。
DSCN3160no2.JPG
明王殿前には赤壁仁王という金剛力士像があります。病人が自分の患部と同じ位置に赤紙を貼ると治癒するという民間信仰があるとのこと。そしてその後、治癒したら草履を奉納するとのことでした。
DSCN3156no2.JPG

田端文士村の散歩道の案内板があり、そのあたりの散歩道やそのあたりに住んでいた文士たちのことが紹介されていました。散歩道Bの案内板では板谷波山(いたやはざん)のことが紹介されていました。

田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなんでいます。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったのです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいたのです。
DSCN3169no2.JPG

村の鎮守の八幡神社。
DSCN3172no2.JPG
現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。

大龍寺(だいりゅうじ)の創立は明らかでないようですが、慶長年間(1596〜1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781〜1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伺いました。
この寺の境内には、俳人正岡子規のお墓がありました。
DSCN3181no2.JPG
こちらは板谷波山のお墓。
DSCN3177no2.JPG
このほかチェリスト清水勝雄の記念碑、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があるということでした。

円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山し、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近にあったとのことです。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていたとのこと。
DSCN3192no2.JPG
円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれているとのことです。

日本植物防疫協会は、植物防疫に関する技術や知識の進歩を図り、農業生産の安定に寄与することを目的として1953年に設立。設立以来、病害虫防除に必要な資材の開発と登録の支援に向けた調査研究をはじめ、研修会やシンポジウムの開催など普及教育活動、書籍の発行や各種資材の提供など、植物防疫関連事業を多方面から展開しているとのことです。
DSCN3198no2.JPG

聖学院は1903年、米国基督教会外国伝道協会とアメリカ人宣教師H・H・ガイ博士によって聖学院神学校が設立。その後、キリスト教信仰による人格教育が始まり聖学院中学校(旧制)及び女子聖学院普通学部としてそれぞれ発展し、現在は幼稚園から大学院まで一貫教育体制を整えているとのことです。
滝野川教会は閉まっていて中を伺い知れませんでした。女子聖学院中・高校と 聖学院中・高校の東側の細い道路“聖学院通り”に面した、聖学院の男子校と女子校の境界附近に 石碑があるようです。 聖学院は、アメリカのプロテスタント・キリスト教の一派であるディサイプルス派が派遣した 宣教師によって、1903(明治36)年に「聖学院神学校」として設立され、女子聖学院は 1905(明治38)年に設立された学校です。滝野川教会は当初 聖学院神学校の校内の教会として創設され現在地は、発祥碑のある場所から北に200mほどの所で、美しい尖塔を持つ教会が建っているようです。

旧古河庭園。
DSCN3232no2.JPG
都立文化財庭園は現在9カ所あります。今ではほとんど訪れたことがありますがやはり季節が巡るわけでなかなかすべてを堪能しているわけではありません。まだ3月ですが桜が咲き、椿、雪柳、スミレ、山吹があちらこちらに見られました。
DSCN3227no2.JPG

無量寺の創建年代は不詳。それでも平安時代後期あたりからこの地にあったようです。境内に は、14世紀頃に作られた板碑が多数あるとのことです。 創建当時から長い間、寺号は長福寺だったようですが、9代将軍徳川家重の幼名・長福丸と同じだったことから現在の無量寺にしたとうかがいました。本堂にある不動明王像の前で忍び込んだ盗賊が動けなくなって捕まったことから、この像は「足止め不動」として信仰されるようになったとのことです。現在普段は公開されていないようです。

平塚神社。
DSCN3256no2.JPG
奈良時代荒墓郷「平塚」の地名の由来の“塚”は、神社社殿裏にある「甲冑塚古墳」が元とのこと。 その頃ここには豊嶋郡の郡衙があったのです。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築き、平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしをしたようです。そこで義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれたこと、塚の高さがなくて平たかったことから「平塚」とよばれ、これがこの辺りの地名となったようです。

農務省農事試験場跡の石碑が城山公園入口にありました。
DSCN3258no2.JPG
ここには東京府が明治33年(1900)に設立した最初の府立農事試験場が置かれていたとのことです。江戸時代末頃から農業改良が行われていたようですがここでは新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実地指導に生かして普及することをしていた様子です。試験場の活動は、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に影響を与えたのです。農業試験場は1924年(大正13年)には立川へ移転したのです。

東京高等蚕糸学校(とうきょうこうとうさんしがっこう)発祥之地。
DSCN3264no2.JPG
大正時代, 全国各地に“蚕糸学校”が作られたとのことで, 東京蚕糸学校もその一つ。 太平洋戦争後 東京農林専門学校と合併して 東京農工大となったようです。

西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの位置にあるとのことです。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功したのです。大正11年3月8日には、国史跡に指定されました。
DSCN3277no2.JPG
西ヶ原一里塚そばの七社神社は、古くから西ヶ原村の鎮守として由緒ある神社とのこと。七柱の神である天児屋根命は祝詞の神とも言われ、安産や厄除などの御利益があるそうです。

渋沢史料館はむしろ博物館で、日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一に関する資料を収蔵しているとのことです。
DSCN3286no2.JPG
1998年に建設された「本館」には、渋沢栄一の生涯にわたる業績が展示。 敷地内には大正年間に渋沢栄一が使っていた建物が当時のまま公開されているようです。 「晩香廬」は賓客を迎えるレセプション・ルーム、「青淵文庫」は書庫として使われていたとのこと。

北区飛鳥山博物館。
DSCN3288no2.JPG
北区の郷土資料を扱っている。紙の博物館、渋沢史料館とともに「飛鳥山3つの博物館」のひとつ。 2階部分が入口、受付と講堂、それに企画展示室。3階に飛鳥山アートギャラリー、資料の閲覧コーナー、体験学習室、軽食コーナー。1階部分が常設展示室で1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示、そして荒川の生態系を取り上げた展示があるとのことでした。

中国料理豫園飯店 (よえんはんてん)は王子界隈で評判の上海料理のお店とのことでした。入り口では、獅子の石像がありました。味付けはあっさりでしたがなかなかおいしかったです。
お料理待ちの間に後藤先生より完歩認定証をいただきヤレヤレ。
DSCN3293no2.JPG

独立行政法人酒類総合研究所東京事務所にあった旧醸造試験所第一工場(通称「赤煉瓦酒造工場」といいます。)は、明治37年の試験所の創設以来、酒類の醸造試験、酒類醸造講習の実習工場として活躍してきたとのことです。建物は、明治期の貴重な赤煉瓦建築物として平成26年12月に国の重要文化財に指定されています。
DSCN3300o2.JPG

王子神社。
DSCN3321no2.JPG
御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称を「王子大神」と呼ぶとのことです。創建は不詳ながら、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事があります。そしてさらにその後、1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたとのことでそれよりこの地を王子という地名にし、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれているとのことでした。

中央工学校は1909年(明治42年)創立で工業立国を目指す当時の政策に対応するかたちで、建築・機械工学・給排水衛生設備・空調設備・電気設備を、翌年には土木工学を加え4学科体制による夜間の工業学校(各種学校)としてスタートしたようです。田中角栄さんの母校とのことで記念の石碑が校舎前にありました。
DSCN3340no2.JPG

王子稲荷大明神は東国三十三国稲荷総司の伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名で古くは岸稲荷と号したようです。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられまた、治承四年に源頼朝より奉納を得たということでした。
DSCN3343no2.JPG
願掛けの石や狐の穴跡を見ました。

北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボルで、本格的なホール、多数の平床多目的スペース、各種会議室、音楽スタジオ等、多彩な施設があるとのことでした。最上階の17階は展望ロビーとなっており、北区を一望することはもちろん、東京スカイツリー、はては埼玉まで見ることができました。
DSCN3353no2.JPG

今日は桜がチラホラ咲き始めていましたが、正に「花冷え」の1日でした。それでも空模様が持ちこたえてくれて有難かったです。本日、このシリーズのウォーキングは23回目で実質4時間、約17000歩で完歩出来ました。今後もまた機会があれば元気にあちらこちらと見分を深めたいと思っております。色々ご一緒させていただいた皆様、お世話になりました。
posted by yunofumi at 23:30| あちこちウォーク

2019年03月21日

2019.3.16. 山手線歴史探訪ウォーク 第7回

渋谷駅〜五反田駅
JR渋谷駅ハチ公⇒東京メトロ銀座線渋谷駅⇒SIBUYA MARK CITY⇒豊栄稲荷神社⇒金王八幡宮⇒金王神社前信号⇒魚屋・渋谷3丁目2⇒六本木通り⇒渋谷ファーストタワー⇒青山トンネル⇒実践女子大⇒青山学院初等部⇒常陸宮邸⇒常盤松の碑・渋谷区東4丁目4-9⇒国学院大学⇒国学院大学前信号⇒常磐松(ときわまつ)小学校⇒渋谷図書館入口信号⇒渋谷氷川神社⇒塙保巳一史料館⇒区立広尾中学校⇒都立広尾高等学校⇒福昌寺⇒庚申橋⇒東恵比寿商栄会⇒恵比寿1丁目信号⇒JR恵比寿駅西口⇒JR恵比寿駅東口⇒恵比寿ガーデンプレイス⇒アメリカ橋⇒TOP of EBISU⇒銀平(昼食)⇒エビスビール記念館⇒三田橋⇒目黒三田郵便局⇒三田春日神社⇒茶屋坂⇒アルジェリア民主人民共和国大使館⇒JR目黒駅⇒大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅

JR渋谷駅ハチ公は渋谷駅の待ち合わせ場所として最も有名な銅像。
ハチの飼い主は東京大学の上野栄三郎教授。上野先生が大学で急死した後10年後にハチも死去したようです。お墓は青山墓地の上野博士のお墓の傍。現在の像は2代目。初代は本田晋作でしかもハチの存命中に制作されていたようです。八の市はその翌年だったのも何となく不思議。剥製が現在の国立科学博物館にあるとのことでした。
DSCN4599no2.JPG

渋谷は再開発が真っ最中!!東京メトロ銀座線渋谷駅はいままで地下にあったと思いますが山手線のさらに上がホームになっていました。びっくり!!
SIBUYA MARK CITYは地上25階建て。ホテル、オフィス、バスターミナル、京王渋谷駅、東京メトロ車庫などがあり、綺麗に立派にできたようです
渋谷マークシティの連絡通路で一般公開されている岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を見ました。縦5m、横30mは圧巻でした。
DSCN4606no2.JPG
「明日の神話」は1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁での米・水爆実験で被爆したマグロ漁船「第五福竜丸」をテーマとした作品。1960年代後半、メキシコのホテルに設置するために制作され、その後行方が分からなかったのが2003年にメキシコ資材置き場で発見され、「明日の神話」再生プロジェクトが発足。1年余りの修復作業を経て2008年に渋谷区を恒久設置先に決定し、同年11月17日より同所で一般公開がスタート。以来、NPO法人「明日の神話保全継承機構」の主導で、毎年秋に壁画の清掃・修復・補強作業が行われ、今年で3回目を迎えたとのことでした。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)。
1092年(寛治6年)現在の渋谷に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとのこと。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとのことでした。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東n宦i天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡とよばれていたようです。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したからだそうです。
DSCN4623no3.JPG
金王丸が植えたという金王桜がありました。
DSCN4625no2.JPG
宝物殿にはとても古い御神輿があり、これは鎌倉八幡宮七神輿の一基で都内西湖の物だそうです。
DSCN4628no2.JPG

常盤松(ときわまつ)の碑。
DSCN4649no2.JPG
「常盤松」は、氷川神社の神域にあった名木で、『江戸名所図会』の「渋谷 氷川明神社」の絵に「神木」として描かれている木がそうです。伝説では、源義朝の側室である常盤御前(ときわごぜん)が植えたとされており下記のような和歌があります。
わがきみの こゝろのまゝに ゆくすえも ときわの松の はなにこそみめ
またこの歌は義朝が常盤御前を想って詠ったものともいわれています。常盤御前は、有名な牛若丸こと源義経の母親で、義朝の死後は公家の一条長成に嫁いだそうです。

渋谷氷川神社。
渋谷地区の最古の神社で古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であったとのことです。創始は1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあるようです。
DSCN4673no2.JPG
その昔9月29日(現在は9月15・16日)の祭礼に金王相撲が行われ大変な人気だったそうでその時の土俵が今も残っています。
DSCN4668no2.JPG

塙保巳一(はなわほきいち)史料館。
DSCN4678no2.JPG
塙 保己一(1746〜1821)は盲目の学者。現在の埼玉県本庄市児玉町の農家に生まれ、7歳のとき肝(疳?)の病がもとで失明、15歳で江戸に出て盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門鍼・按摩・灸、琴・三味線などの修行をするが上達せず、雨富師匠の支援で学問を始めて文学・医学・律令・神道などを、さらには賀茂真淵にも入門し『六国史』などを学び、安永8年(1779)34歳から『群書類従』の編纂に取り組み、40年後の74歳で完成させた方だそうです。本日は中に入りませんでしたが館内には書物の元となった版木などが保管されているとのことです。またここを昭和12年に訪れたヘレン・ケラーが「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語ったという話を聞きました。
更に埼玉県本庄市には平成27年にリニューアルされたばかりの塙保己一記念館があり、国史跡の旧宅や666冊の本となった群書類従が見られるとのことでした。

福昌寺(ふくしょうじ)。
近代的な建物がいきなりありましたが実は天正・文禄の頃の寺院だとのことです。
入口左手に石棺仏の石刻阿弥陀像がありました。
DSCN4698no2.JPG
彫刻が少ない十五世紀頃の石仏でしかも石材は6世紀頃の古墳型石棺の蓋に使われていた和泉砂岩だそうです。
またすぐ傍に花供養塔があり、説明の碑もありました。
DSCN4695no2.JPG
花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり   昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会

庚申橋供養碑は渋谷区東3丁目の庚申橋のたもとにありました。1799年に建てられたこの碑は四面すべてに橋講中の世話役や万人講および個人の名が渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことを示しているのです。
DSCN4705no2.JPG

恵比寿ガーデンプレイスは、渋谷区と目黒区に跨る複合施設で、サッポロビール工場跡地の再開発事業として1994年(平成6年)に開業したとのことです。
東京都写真美術館手前の高層ビルはTOP of EBISU 38階の銀平で昼食。
DSCN4734no2.JPG
煮魚定食はさすがに美味でした。
DSCN4738no2.JPG

エビスビール記念館。
DSCN4748no2.JPG
サッポロビール本社やヱビスビール記念館がある恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)。そこには、かつてヱビスビールを造る工場がありました。1887(明治20)年、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)が設立され、1890(明治23)年に「恵比寿ビール」が誕生。1901(明治34)年には恵比寿停車場という名の積み卸し専用の駅ができ、そこから「恵比寿ビール」を各地へと出荷。恵比寿という地名ができたのは、その後の話。そう、恵比寿という街の名は、ヱビスビールが発祥なのです
DSCN4751no2.JPG

茶屋坂と爺々が茶屋。
DSCN4774no2.JPG
江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋がり徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったとのこと。そしてある時、遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍が、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じて出されたのが目黒のサンマ。こうして「さんまは目黒に限る」という落語がいまもつたわっているようです。爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられたとのことで目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、今はもうやめたようです。しかし島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されているとの話は面白いですね。

アルジェリア民主人民共和国大使館。
DSCN4777no2.JPG
目黒区三田2-10-67にありました。ホームページで見るとアルジェリアは、アフリカの北に位置し様々な風景を楽しむ事が出来る国。国土面積は、2 381 741 Km2、国境を接する国々は、チュニジア、リビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラそしてモロッコの7か国。アルジェリアを取り巻く国境線の距離は6000kmとのこと島国の日本では想像できないことが一杯と思いました。
緩い登りの権之助坂を上りきるとJR目黒駅。
この後の歩程が大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅とわかっていました。これらのコースは何度か歩いたことがあるため空模様が気になり、本日はこれにて自主的に終了とさせていただきました。
結果として渋谷〜目黒で7km、歩程約15000歩。お陰様で翌日の「MBTノルディックウォークin 代々木公園」に元気に参加し、春の花々を大いに楽しみ仲間と過ごすことができました。感謝!
これで山手線はあと1回、また4月に頑張ります。
それではここでこの翌日(3/17)に伺った代々木公園の春を感じた花をアップしておきます。

ミモザです。
DSCN4782no2.JPG
ユキヤナギです。
DSCN4788no2.JPG
彼岸桜です。
DSCN4790no2.JPG
コブシです。
DSCN4792no2.JPG
posted by yunofumi at 07:26| あちこちウォーク

2019年03月09日

2019.3.3. 東京新発見旅第22回 大田区

今日の大田区は大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採った合成地名。東京都に23ある特別区の一つ。人口約73万人。東京都区部の最南端。大田区は多摩川を挟んで神奈川県川崎市と接する交通の要地で、東京都心と神奈川県を結ぶ鉄道(JR東海道線・京浜東北線や都営地下鉄浅草線と相互乗り入れする京急線など)の本数が多い。区東部には羽田空港があり、大田区の面積の約3分の1を占める。
大田区でのキーポイントの一つは大森貝塚。1877年(明治10年)横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見したのが大森貝塚。これは日本で考古学が発達していった最初だそうです。大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道の線路側に石碑があるとのことでしたが今日は雨降りで見に行きませんでした。
もうひとつのキーポイントは文士村。石坂洋次郎、宇野千代、尾ア士郎、川端康成、 川端龍子、北原白秋、、子母沢寛、高見順、萩原朔太郎、三島由紀夫、室生犀星、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉屋信子、和辻哲郎などなどが日常を過ごし楽しく暮らしていたようです。
これらは山王会館や郷土博物館で色々知識を得られるとのことで楽しみにして出発しました。

JR大森駅⇒天祖神社⇒大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)・大田区山王2丁目14⇒山王公園⇒山王会館・馬込文士村資料展示室⇒いにしへの東海道石碑・明神橋・大田区中央1丁目14⇒龍子記念館⇒熊谷恒子記念館⇒尾崎士郎碑⇒宇野千代碑⇒ネパール料理タンセンビュー(昼食)⇒真船豊碑⇒南馬込五丁目公園⇒佐藤朝山碑⇒郷土博物館⇒湯殿神社⇒池上梅園⇒村田商店⇒池上本門寺⇒萬屋酒店⇒東急池上駅

本日はしばらくぶりに東京23区のウォーキングツアーです。あいにくの雨降りですが参加者21人はJR大森駅に早々に集合。渡辺先生とTD小玉さんの先導で10:00出発。

JR大森駅に降りたのは初めて。山手線から京浜東北線に乗り換えて到着。1日平均乗降客は10万人弱。道理で駅舎もきれいでしたし人が一杯でした。
天祖神社は大森駅のすぐ傍で正式には神明山天祖神社。享保年間(1716〜1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織して、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建といわれているとのこと。神仏分離令にともない、1872(明治5)年に円能寺から分離し「神明山天祖神社」と改称したとのことでした。
DSCN4476no2.JPG

大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)。
大森射的場のあった跡地はテニスコートとなっており、入口付近の駐車場の角に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がありました。この射的場は1889年(明治22年)から1937年(昭和12年)ごろまで使用されていたとのこと。敷地は窪んだところにあり谷間に作られた様でした。1899年(明治32年)明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立されたのです。大森射的場は周囲の住宅化により1937年(昭和12年)に横浜鶴見の東寺尾に移転してとのことでした。
DSCN4477no2.JPG

大田区立山王会館。
馬込文士村資料展示室が1階に設けられており、山王ゆかりの文士を紹介する展示がありました。平成7年5月に「馬込文士村散策コース」中の拠点施設の一つとして開設され馬込ウォークのパンフレットもいただきました。
DSCN4488no2.JPG
馬込文士村散策マップがあるとのことでした。
これを見ながら再び気候の良い日に再度伺いたいと思いました。

環七通りの陸橋をくぐった先に「いにしへの東海道」と書かれた石碑がありました。「此の道は 時代により奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還などと呼ばれていた古道です」と彫られていたとのことでした。
DSCN4493no2.JPG

大田区立龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(かわばたりゅうし)(日本画家)(1885-1966)により、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立。当初は青龍社が関与、1991年から大田区となり現在にいたっているようです。館内には大正初期から戦後にかけての約140点の龍子作品を所蔵。多角的な視点から龍子の画業を紹介しているとのことでした。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品が多くありました。
DSCN4494.JPG
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されていました。
DSCN4508no2.JPG
ボケが立派な実を付けていました。
DSCN4518no2.JPG


熊谷恒子記念館。
DSCN4525no2.JPG
美智子皇后陛下にご進講されたことでも知られる現代女流かな書道家、熊谷恒子(1893年から1986年)の旧居を改修し、作品を展示しています。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われています。
作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載しています。

尾崎士郎邸跡、宇野千代邸跡、真船豊碑、藤朝山碑と次々に説明を書いた石碑があり、如何に文士たちの住まいや活躍の場が多かったかがしのばれました。

ネパール料理タンセンビューで昼食。はじめてのネパール料理でした。カレーは相当辛かったですが美味しくて皆が笑顔になりました。
DSCN4537no2.JPG

DSCN4536no2.JPG

大田区立郷土博物館。
DSCN4548no2.JPG
中の展示は大田区の地中の歴史、昔の道具、海苔養殖、大田の物つくり、麦わら細工などみるものが沢山ありました。馬込が発祥の地といわれる馬込大太三寸人参がプランターで育てられていました。

湯殿神社。
DSCN4553no2.JPG

池上梅園。
DSCN4556no2.JPG
ここはもともと日本画家伊東深水の自宅兼アトリエだった「月白山壮」がありましたが戦災で焼失。戦後は築地の料亭の小倉氏の別邸だったとのこと。その後庭園を残して大田区に譲られたとのことでした。現在大田区の花である白梅150本、紅梅220本が植えられているとのこと。今日は雨模様でしたがほぼ満開状態で散策を楽しみました。

村田商店は天草100%の寒天はほんのり甘くお土産にも最適という池上で評判の甘味処。
店先に大きくみつまめ、あんみつ、ところてんと書いてありました。
DSCN4564no2.JPG

池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、日蓮宗の大本山。日蓮の入滅の霊場であり日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつでありまた大本山のひとつにも挙げられている寺院です。
1282年(弘安5年)、病身の日蓮が身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着し、生涯最後の20数日間を過ごしたのです。またこの時、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源ということでした。

総門は元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立とのこと。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるとのことでしたが、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵されているのです。
DSCN4592no2.JPG

大坊には日蓮が亡くなられたお部屋があるとのことでした。
DSCN4566no2.JPG

多宝堂は境内の西方にあり、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建っていました。
DSCN4570no2.JPG

経堂は東京空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部に回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていたとのこと。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地にありました。
DSCN4577no2.JPG

本殿は、本師(釈尊)のおられる殿堂。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。
DSCN4579no2.JPG

五重塔高はさ31.8m。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築されたようです。
DSCN4583no2.JPG

力道山の墓。この方は大相撲出身だったのがプロレスラーで有名になった方。お酒の上での殺傷事件で命を落としたようです。
DSCN4587no2.JPG

大野伴睦の墓。
DSCN4588no2.JPG
昭和39年に亡くなった政治家。典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した大物政治家。

日蓮像。
DSCN4591no2.JPG
宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された像。制作は、斯界の権威 北村西望。北村西望は平長崎の平和祈念像.の制作者でもあります。

萬屋酒店。
DSCN4596no2.JPG
池上本門寺参道沿いで、もとは茶屋を営んだのがはじまりとのこと。つし二階建,出桁造りで江戸時代以来の町家の形式で、上げ下げ戸を含め、旧状を良く残しているようです。門前町の代表的な建物のひとつで棟梁は加藤甚五郎とのことでした。

東急池上線は蒲田から五反田までに15駅があります。1922年(大正11年)に池上本門寺へ参拝客を運ぶ目的で開業。はじめは蒲田から池上、その後、現在の五反田まで開通。沿線では現在も池上本門寺と洗足池が有名。私的には星薬科大学のある戸越銀座駅や昭和大学がある旗の台駅が馴染みです。

本日は出発時から終了まで雨降り。朝は4℃、日中も10℃はなかったかもしれません。
久しぶりにゴアテックスの上下を着こんでいたので特に寒さは感じませんでした。やはり街歩きとはいえ装備は大切なのです。歩程8km、150000歩をこなし、まずますのウォーキングでした。この東京新発見もあと1回の北区を残すのみとなりました。次回は3/23です。晴天になりますように!!
posted by yunofumi at 23:16| あちこちウォーク