熊谷といえば「暑さ日本一のまち」として知られています。2018年7月23日は41,1℃とのこと。ということで3月は涼しいので本日のウォーキングということなのです。
JR高崎線熊谷駅⇒万平公園⇒星川⇒南本町商店街⇒竹井本陣跡⇒星川女神像⇒自然職料理処田ベい⇒円照寺⇒星渓園⇒石上寺⇒八坂神社⇒片倉シルク記念館⇒松厳寺⇒八木橋デパート⇒熊谷寺⇒伊奈利神社⇒熊谷パウロ教会⇒千形神社⇒坊ちゃん先生旧居跡⇒熊谷市役所⇒熊野社⇒熊谷市立障害福祉会館⇒箱田神社⇒中央公園⇒五家宝たねた⇒高城神社⇒ラグビータウン熊谷像⇒R高崎線熊谷駅
JR高崎線熊谷駅はJR東日本の上越新幹線と高崎線、秩父鉄道の秩父本線が乗り入れ、た駅。近年の乗車人員は2万人超に増えています。
1883年(明治16年)上野駅・ 熊谷駅間の日本鉄道第1期線(現在の高崎線)の駅として開業したとのことです。熊谷駅は高崎線内で浦和駅・上尾駅・鴻巣駅と並んで最も古い駅の一つ。駅舎は上越新幹線開通で大幅改良がされ、北口壁面には昭和11年の原画をもとの熊谷市鳥瞰図が掲示されていました。
駅前広場には熊谷次郎直実公の銅像がありました。

熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を本拠地としていました。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗ったようです。


熊谷堤と万平公園 「熊谷堤」は、16 世紀後半、現在の荒川土手より北の位置に築かれました。鉢形城主の北条氏邦が、荒川の洪水 に備えるために着工したことから、当時は「北条堤」とも呼ばれたようです。後に桜が植樹され、江戸時代には桜の名所 として有名になったのです。1883年(明治 16 年)、桜堤の再生を目指して、竹井澹如や林有章ら熊谷町の有力者が立ちあがり、町民と協力し吉野桜(ソメイヨシノ)や彼岸桜などの植樹を進め、保全団体の保勝会を結成し、明治の終わりには「一目千本」と名を馳せるほどの桜堤となったのです。戦後、熊谷堤の多くが 失われる中で、万平公園の北側ではその一部が残ったのです。
蚕霊塔。

熊谷地域は養蚕が盛んな地域で、近隣に様々な絹産業遺産も所在してました。蚕霊塔は、生糸生産のために 使われた多くの繭に対する慰霊の祈念碑である。中央に繭の彫塑、「繭 かき」(左)と「桑つみ」(右)のレ リーフが飾られている。昭和36年 (1961)、埼玉県蚕糸業協会が建立したのです。
竹井澹如翁碑。

熊谷宿の本陣の当主、 竹井澹如(1839-1912) は幕末から明治期の 熊谷の発展に尽力し た人物で、熊谷堤の先に幼名にちなんだ突堤の「万平出し」を築いたのです。竹井氏の功績をたたえた顕彰碑
星川。

元和9年(1623)の荒川の氾濫によりできた「玉の池」(現・星渓園)からわき出る清流が源で水がことのほか清く、染物を洗ったり、子供たちが水遊びをしたようです。
1945年(昭和20年)8月14日に熊谷は米軍の空襲を受けて、星川でも多くの犠牲者がでたのです。熊谷市では、熊谷の玄関としてふさわしい顔づくり、文化の香り漂う市民のオアシスとして、市街地の中央を流れる星川の景観整備を進めてきています。1975年(昭和50年)から広場を設け、各広場に彫刻像を設置し、「水と緑と彫刻のプロムナード」として広く親しまれ、昭和62年(1987)、第1回さいたま景観賞を受賞しました。現在は「星川シンボルロード」として再整備され、名実ともに熊谷の「顔」になっています。
竹井本陣跡。

本陣は江戸時代には街道の宿場にある旅館のような役目をしており、身分により皇族・大名・幕臣などが宿泊や休憩をしたのです。この本陣は全国的にも屈指の大きな規模だったようです。第14代将軍家茂に京都から嫁いだ皇女和宮や明治天皇なども宿泊や休憩をしたとのことです。
星川女神像。

昭和20年8月14日夜半に熊谷は米軍の空襲を受けたとのこと。戦災30周年に犠牲者慰霊のため建立されたのがこの戦災者慰霊の星川女神像。長崎平和祈念像の作者北村西望が作者。台座には犠牲者266名の氏名が刻まれているとのことでした。


自然職料理処田ベいは無農薬有機野菜、天然物の新鮮魚介類を使用とのこと国産丸大豆のみそやお醤油など気配りが万全。お味の穏やかで私などは大好きでした。
円照寺は今より1,000余年前、970年(天禄元年)、僧覚榮法師の創立で、熊谷市最古の天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、また不動明王は「熊谷成田山」や「くまがやお不動様」といわれています。
ご本尊は12支守本尊8体仏で12支に結縁しています。
星渓園(せいけいえん)。


熊谷宿の本陣だった竹井家の別邸とした回遊式庭園。中心は玉の池。昭和20年より市のものとなり再整備されたとのことです。
石上寺(せきじょうじ)。

熊谷の町を荒川の水害から守るため築かれた堤(北条堤)が構築され、それでもたびたび堤が決壊するので仏様のご加護を、ということで建てられたのがこの石上寺とのこと。
江戸時代からの桜の名所で早咲きの熊谷桜の発祥の地ともいわれているのです。ご本尊は千手観音。ご住職が私たちに気付き本堂を開けて立派な観音様を見せてくださいました。

モース博士像。

1879年(明治12年)8月13日、林有章など地元の有力者が発起人となり境内の学舎でモースの講演会を開催。モースはダーウィン説に基づく「進化論」を通訳付きで熱弁したとのことです。当時の日本人には衝撃的で、聴衆からは批判されたようです。埼玉県初の外国人科学者講演の地として記念した像なのです。

八坂神社は文禄年間のはやり病を封じるために京都の八坂神社を勧請したのです。こちらのうちわ祭は疫病退散祈願の祭礼で山車や屋台、神輿も繰り出した祭礼なのです。
片倉シルク記念館。


養蚕・製糸工場として栄えた熊谷を伝える記念館で片倉工業鰍フ最後の製糸工場。昔の木造繭倉庫、機械式製糸行程が見られました。昭和30年に昭和天皇が視察に見えたとのことでした。
松厳寺。

臨済宗妙心寺派寺院の松巌寺は、雪渓山普門院といいます。松巌寺は、喜庵(明暦2年1656年寂)が開山・創建だとのことです。忍領三十四所2番です。
八木橋デパートの旧デパートのマーク

八木橋本次郎(万延元年2月〜昭和13年12月7日)が、吹上町(現・鴻巣市)の代家に生まれ、八木橋惣五郎が営む持田村(現・行田市)の呉服太物店「山木屋」で12歳頃から丁稚奉公を始め、のちに腕利きの番頭ととなり、惣五郎の娘いちと結婚して八木橋姓を名乗り、山木屋からのれん分けして、熊谷町仲町の呉服店「麻屋」の店舗を買い取り、呉服・太物商「八木橋」を1897年(明治30年)6月に開店。夏冬2回の大割引や大売出しには、早朝から店を取り巻く客のために街頭に屋台が並ぶほど繁盛させたということです。


店舗入口に中山道の石碑がありました。かつては旧中山道を挟んで北側と南側に分かれて店舗があったのが、1989年に改築する際に敷地の一部を公共の歩道として寄付することを条件に旧中山道を遮断する形で建設されたので、1階には旧中山道の位置に幅を広めに取った店内通路が設置されていおり、それぞれの端には出入口も設置されているため、営業時間内であれば、迂回せずに旧中山道を辿ることが可能なのです。
2007年に、夏季限定で店舗正面の入口前に高さ4mの温度計を設置、熊谷地方気象台発表の最新の気温を基に八木橋職員が温度を修正。当初は40.0℃までしか目盛りを用意しておらず、2007年8月に40.9℃の最高気温を記録した際には手書きで対応したのでした。この時、在京キー局を含むマスコミが取材に訪れ、「来年は50℃まで目盛りを用意したい」と回答するインタビュー映像が全国に放映された。翌2008年は、実際に50℃まで目盛りのある温度計が設置された。2009年以降は45℃までの対応とのこと。
市のまちづくり政策「あついぞ!熊谷」に合わせ設置されているもので「あついぞ!熊谷」のマスコット「あつべえ」が温度計に貼り付けられているのが、「あついぞ!熊谷」。これは近隣の「なおざね商店街」と八木橋の共同設置だそうです。
宮沢賢治の歌碑。

熊谷寺(ゆうこくじ)。

熊谷次郎直実は晩年出家し、法力房蓮生(れんせい)と称して熊谷館に念仏草庵建てたようですが蓮生没後草庵は荒れ果てたようです。しかしその380年後蓮生を慕う幡随意上人という方が寺を建て熊谷寺としたのです。実は幕末には不審火で全焼したのですが大正4年に本堂が再建されて現在に至っているとのことでした。
伊奈利神社。

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伊奈利神社(原島)の創建については不詳ながら原島村小名前原島の鎮守社だったということで、明治6年村社に列格したようです。
熊谷パウロ教会。

明治15年頃から熊谷で伝導が始まり、大正8年には米人ウィリアム・ウイルソンの設計で総煉瓦つくりの聖堂が完成。関東大震災にも耐え、熊谷空襲でも被災を免れた貴重な近代建築物なのです。
千形神社(ちかたじんじゃ)。

熊谷次郎直実の父、直貞が熊を退治したとき、血が流れ、その場所に社を建て「血形神社」としたとのこと。江戸時代には境内で草相撲が行われたようです。ということで相撲の奉額が残っているのです。
坊ちゃん先生旧居跡。(案内板のみ)
漱石の「坊っちゃん」の主人公のモデルは山口県出身の士族で同志社出身の数学教師弘中又一といわれています。弘中先生は明治33年〜大正8年までの約19年間旧制熊谷中学(現熊谷高校)の教壇に立ったということです。その間の12年間この旧居で過ごしたとのことが案内にありました。
熊谷市役所。
ラグビーのスクラムとクマガヤを掛け合わせた「スクマム!クマガヤ」は、ラグビータウン熊谷の新たなスローガンとしてラグビーワールドカップ日本大会が開催された2019年に誕生しました。出会った人とスクラムを組むことが大好きなシロクマの双子の兄弟。鼻が黒いほうがスク、白いほうがマム。肩を組んで前に進み、人と人とのつながりを大切にするという精神から、現在では、市内を中心に活用され、まちを盛り上げています。
熊野社。

大塚熊野神社は、熊谷市大塚にある熊野神社のことです。大塚熊野神社の創建年代は不詳ながら、江戸時代末期には大塚村の鎮守社として祀られていたといい、明治5年には村社に列格、明治42年には村内に鎮座していた猿田彦神社・宇賀神社・豊蚕神社・塞神社の四社を合祀してようです。
箱田神社。

『大里郡神社誌』は、当社の由緒を、武蔵七党横山党の成田氏が、天喜から寛治(1053−94)にかけてのころ、当地箱田郷を領有し、氏神である賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)・賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)を祀ったのが始まりで、1490年(延徳二年)成田親泰が神田を寄進し、1599年(慶長四年)には、十石の朱印地を受けた、と記してあります。昭和20年8月14日の晩、熊谷に空襲があり、各所に火の手が上がった時、当時の神職茂木六郎が、本殿の神体と末社皇大神宮の神体をかばいつつ、一心に祈念したところ、突然夕立が起こり神社は助かったという。それ以来、「雷電様のお陰」といわれて、厚く信仰されているのです。
中央公園は、市役所の東、市街地の中心部に位置しており、公園の総面積は、3.1ha(31,000u)記念広場、子供広場、カナール、壁泉、噴水などがあるとのことです。また、園内には9,000本ほどの樹木が植えられ、静かな木陰を提供し、四季折々に美しい花を咲かせています。ケンロクエンクマガイ、クマガイザクラ、クマガイツバキなどが植えられ、「熊谷次郎直実」の姫の名をいただいたシダレザクラも植えられています。
戦災を生き延びたケヤキ。

駿河小町桜。

五家宝(ごかぼう)の老舗のお店「○仁たねに」

五家宝はもち米ときな粉と糖蜜の3つ厳選素材から出来ており、口にふくめば、もっちりとした食感のおいしさがあります。
埼玉では草加の草加煎餅、川越の芋菓子と共に三代銘菓といわれています。

高城神社(たかぎじんじゃ)の創建は平安時代初期といわれ熊谷の総鎮守のようです。万物を作り出す高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀ることから縁結びの祈願が多いとのことでした。毎年6月30日は胎内くぐり、12月8日には酉の市が開かれるとのことでした。
ラグビータウン熊谷像。

「北の熊谷・南の花園」と呼ばれるぐらい、埼玉県熊谷市はラグビーの盛んな街として知られています。
作者 「赤川政由」あかがわまさよし。作品名 「ラグビーボールと少年」
この像もテーマはズバリ「青雲の志」。ボールの上に立つ天を仰ぐ少年、その姿に若者像をたくしているとのことです。この作者の像は行田市中央商店街に39体の銅人形が見られるとこことです。
本日は雨降りで足元が悪く、気温10.5℃ながら風がほとんどなかったことが良かったです。喜多見先生、小松TDの先導で21名は無事にウォーキングを終了。スタート10:00、熊谷駅ゴール16:00、歩程は23000歩。弱虫の私も無事終了。感想としては雨降りながら桜が見事だったのでとても嬉しかった。これだからウォーキングはやめられないのです。次は4月に白岡市に伺います。皆さま、またお会いしましょう。