2019年05月19日

2019.5.14  2巡目第2回 東京の新発見旅「江戸川区」

都営新宿線篠崎駅⇒篠崎文化プラザ⇒篠原風鈴本舗⇒春江の森公園⇒春江中学校⇒春花園・BONSAI美術館⇒一之江名主屋敷⇒椿西通り⇒江戸川椿郵便局⇒瑞江葬儀所⇒大雲寺⇒瑞江第二中学校⇒瑞江駅⇒ベルクオーレ(昼食)⇒都営新宿線瑞江駅--一之江駅⇒長勝寺⇒国柱会⇒感応寺⇒水神宮⇒村井染工場⇒一之江親水公園・境川⇒タワーホール船堀⇒都営新宿線船堀駅

都営新宿線は新宿から本八幡まで31駅、片道40分の路線。私自身はめったに乗車はなく、まして篠崎は初めてかも、という感じ。今朝はこの駅に10:00集合、牧先生、久森TDの付き添いで出発。
篠崎駅西口から引き続きすぐに篠崎文化プラザ到着。ここは江戸川区を紹介する施設で展示室・図書館・伝統工芸などなど幅広い活動をしているようでした。
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私は珍しいサラダ小松菜と小松菜うどんを早々にゲット。
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そもそも江戸川区とは東京都内では東部の高齢者と子供の多い、すなわちしっかり家族世帯で住んでいる方々が多いようです。特産は江戸川区が発祥の地として知られる小松菜。現在の江戸川区小松川で、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際、名が無かった菜が入った味噌汁を食し、「小松菜」と命名したことに由来しているとのことでした。また朝顔も盛んで江戸川区が発祥の地として知られる。現在の江戸川区小松川で、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際、名が無かった菜が入った味噌汁を食し、「小松菜」と命名したことに由来。また朝顔の栽培が盛んで、毎年7月に台東区入谷で開催される朝顔市に出荷される朝顔の6割〜7割は江戸川区産だそうです。地形としては江戸川区の西部(荒川両岸地域)は海抜ゼロメートル地帯。最も低いところでは東京湾の満潮時の海面より2メートルほど低い場所もあるようです。区の東部(千葉県寄りの江戸川沿い)は比較的海抜が高く、新中川以東且つ京葉道路以北は海抜1.5m〜3mほどで、特に小岩地域は比較的古くからの陸地で、貝塚も見つかっているとのこと。区の南部は大半の地域を埋立地が占め、埋立地の南部には葛西臨海公園、葛西臨海水族園があり、南端で東京湾に面しているとのことでした。

篠原風鈴本舗。
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篠原風鈴本舗会長の篠原儀治(篠原風鈴二代目)さんが昭和40年にこのガラス風鈴を江戸風鈴と名付けたとのことです。このガラス風鈴は手作りで絵や文字は内側から手書きしているのです。今日も工場で職人さんの作業を見せていただきました。
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春花園・BONSAI美術館。
ここは盆栽師16年前小林國雄さんが作り上げた世界。
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800坪の敷地内には所狭しと約1000盆の盆栽が並び、中には1億円真柏(ヒノキ)も見られました。
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谷やん池の中には大きな鯉、周囲には盆栽がいくつもあり見ていて楽しい。
奥には立派な建物があり春の間・花の間をはじめ最後の屋久杉の間ではしばし見とれてしまいました。
現在はおとづれる外人さんも多く、お弟子さんは100人も巣立っているようです。

一之江名主屋敷は、江戸時代のはじめにこの地で新田を開いた田島家の屋敷。一之江新田の名主を代々つとめてきたのです。現在の主屋は安永年間(1772年から1780年)の再建で、屋敷林や堀をめぐらした屋敷構えは、創建当初のようすがわかります。
屋敷入口の長屋門。
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主屋(おもや)は懐かしい土間やいろり、竈など見られました。
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屋敷林や濠、屋敷神も現存し、敷地の端に展示棟がありました。
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瑞江葬儀所(みずえそうぎしょ)とは、江戸川区春江町にある東京都が運営している都区内では唯一の公営の火葬場。葬儀用の式場はなく、火葬設備のみで1938年2月に使用が開始された。別名「瑞江斎場」。1975年に新施設操業開始。新施設では火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化、燃料のガス化、控室を個室化、火葬受付件数の設定をしたとのことです。

大雲寺(だいうんじ)は、江戸川区瑞江にある浄土宗の寺院。山号は長行山。院号は専称院。本尊は阿弥陀如来。歌舞伎俳優の墓が多いことから「役者寺(やくしゃでら)」といわれています。

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この寺は、もともと1619年(元和5年)梵誉の開山により蔵前に創建された寺で、その後本所(現在の墨田区押上)に移され、1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けたため、1931年(昭和5年)現在の場所へ移り再建されたのです。
歌舞伎役者としては)市村羽左衛門累代墓、坂東彦三郎累代墓、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺嶋家門弟一同建立碑、寺嶋家門弟代々墓、瀬川累代墓、松本家墓、中村勘三郎累代墓、三代中村勘三郎墓などを伺いお詣りしました。
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ベルクオーレ(昼食)
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こちらはイタリアンのお店。はじめにパンがドンと1テーブルに一籠来ました。その後スパゲッティが大皿でドーン。4人で結局完食しました。

昼食後全歩程調整のため瑞江駅〜一之江駅を都営新宿線で移動。街歩きではよくあることです。
一之江駅からの歩道の路面にシラサギ、マッチ箱電車、トロリーバス、花菖蒲などが描かれた陶板がはめ込まれており楽しくウォーキングしました。

国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られています。
こちらは帝網道場(国柱会本部)。
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宮澤賢治辞世碑がありました。
 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのりの に棄てば うれしからまし」

感応寺(かんのうじ)。
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感應寺は1205年(元久2年)真言宗の僧・空念によって開かれた。しかし正応元年(1288年)各地を巡り日蓮の教えを説いていた僧侶、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となる日進が感應寺を訪れ、法論を決した末に改宗、日進が日蓮宗の感應寺として改めて開基したということで以来今日まで日蓮宗の寺院となっている。
1982年(昭和57年)「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定された感應寺の梵鐘は[44]、元禄11年(1698年)のちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次(通称「釜屋六右衛門」「釜六」)により鋳造された[18]。同梵鐘は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に江戸川区内で唯一戦時供出を免れ、区内に残っている梵鐘の中で最も古いとされる[3]。同梵鐘の高さは152cm、口径は77cm[44]。鐘を突く橦木には古来より最適とされる棕櫚の木を使用している[45]。
建材に欅と吉野の桧を使用した鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて2008年(平成20年)に建立。特に屋根は大工職人の技の粋を集め、振隅、切裏甲、垂木は居定付きとし、精巧で優美なものに仕上ったのです。ということで屋根を支えている柱はそれぞれ3本見えました。

水神宮。
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江戸川区は大きな神社の境内社も含め、水神社(水神宮)が大変多いのが特徴とのことです。かつては田畑が多く、水路に恵まれていた一方で、水害も多かったものと推察され、水害を治めるために祀られたようです。

村井染工場。
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この会社は1936年(昭和11年)に東小松川で創業され、1939年(昭和14年)現在地に移転。目の前の一之江境川で洗いを行っていたのが、一之江境川が親水公園となってからは、井戸水を引いて工場内での作業となっているようです。今は浴衣から手拭いを多く作っているようでした。注文は主に日本橋界隈の問屋さんから、また芸能人や近隣の祭事用などの注文もあるようです。伝統的な手法を用いる手拭いは本来の使い道のほか、インテリアや小物として使われているとのことでした。

一之江境川親水公園(いちのえさかいがわしんすいこうえん)は江戸川区一之江1丁目、5丁目、6丁目、一之江町、二之江町、船堀7丁目付近を流れる一之江境川を利用した親水公園。
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野川の再生」をテーマとした公園で全長は3.2kmに及び、1995年(平成7年)より順次開園した。魚や昆虫、水生植物が生息できるように新中川の自然水を流している。ハゼ、スズキ、テナガエビなども見られ、冬から春にはカモが飛来、豊かな自然とふれあえる親水公園である。また約2800本の樹木が植えられソメイヨシノ、クスノキ、サツキ、アジサイなどが見られるのです。今日は生まれたばかりのカモの親子も見えました。
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タワーホール船堀は、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をコンセプトに造られ、平成11年3月のオープン以来、江戸川区のシンボルです。10階部分に展望台の船堀タワーがあり、360度の視界を楽しめました。
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本日は時々小雨でしたがまずまず無事にウォーキング終了です。
歩程約17000歩、約11km、参加者一同が無事に完歩できたことが一番良かったです。終了後、東海道53次などでご一緒だった顔なじみが5名もそろっていたので非常に懐かしくお茶をしてから解散しました。また次回もぜひお会いしたいものです。
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posted by yunofumi at 18:20| あちこちウォーク

2019年05月18日

2019.5.12さいたま彩発見ぶらり街あるき

第1回浦和区

JR浦和駅⇒西口⇒東口⇒岸町3丁目⇒浦和第一女子高校⇒調神社⇒高砂小学校⇒伊勢丹⇒うなぎ彦星⇒門前通り⇒玉蔵院⇒中央公園⇒浦和一女発祥の地⇒埼玉会館⇒埼玉県庁⇒さいたま市役所⇒浦和区役所⇒浦中発祥碑⇒常盤公園⇒浦和宿二・七市跡⇒市場通り⇒仲町公園・浦和本陣跡⇒浦和宿碑⇒浦和ロイヤルパインズホテル⇒酒井甚四郎商店(奈良漬)⇒須原屋⇒JR浦和駅

浦和は馴染みのある街ですが折角なので埼玉全部をめぐるシリーズということを耳にしたので第1回から参加しました。
浦和には浦和がつく駅が8つあります。@浦和駅A東浦和駅B西浦和駅C南浦和駅D北浦和駅E中浦和駅F武蔵浦和駅G浦和美園駅。これを歌い上げたのが山本リンダの「ねらいうち」の替え歌だそうです。今日の講師の喜多見先生はのっけから面白い紹介をされる方で1日楽しめそうな予感がしました。
浦和といえば浦和レッズの本拠地なので西口にはこのようにオブジェがありました。
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浦和駅は明治16年誕生ですが西口と東口がつながったのは2014年。平屋ばかりだった東口は今では商業施設のパルコやバスターミナルができて大いに賑わっています。
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岸町3丁目を過ぎると浦和第一女子高校です。明治33年設立。相変わらずの名門でスーパーサイエンスハイスクール指定校とのことです。
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そういえば埼玉は古くからの名門は今でも男女別学。ここは「いちじょ」とよばれています。卒業生には石井桃子、古谷範子、東海林のり子、青木裕子、北川玲子など多くの有名人がズラリ。
校地南側にはオーストラリア原産フトモモ科の暖地性植物のユーカリ樹があると紹介されました。本日は校地内に入れないのでよく見えませんでした。高さ13m、幹まわり0.98m、根まわり1.36m。大正8年に、昭和天皇成年式を記念して全県下に配布されたものの一つで、現存しているのはこれ1本のみになってしまっているとのことです。この周辺が、暖地系植物の北限として、学術的にも貴重な存在なのです。花は早春に咲き、葉を乾燥してユーカリ油の原料とする地域もあるようです。また、世界三大名木の一つとも言われています。

調神社(つきじんじゃ、つきのみやさま)。
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本殿.
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月と同じ読み、と云うことで月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神です。狛兎はもちろん、手水や社殿、御朱印帳まで兎だらけ!兎好きの間では兎スポットとしても有名だとか。
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引退した狛兎.
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鳥居は2本の石柱があるのみ。これは調神社の七不思議の1つ。理由は伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるからと上に渡す柱がないのです。

その他の不思議は、境内に松の木が無い、御手洗池に住む片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケヤキがある、蠅がいない、蚊がいないこと。
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高砂小学校は浦和最古の小学校で明治4年浦和郷学校として開校。明治5年には浦和小学校となった後、昭和22年に現在の高砂小学校となっています。
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表門のあたりは風格があり周囲は何処かの御屋敷かと思いました。

伊勢丹とコルソという大きな商業施設の端に「ときわだんご」があります。明治8年開店のお店で美味しいので時々立ち寄っています。
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伊勢丹の前には浦和うなこちゃんも元気に愛嬌を振りまいています。
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埼玉県さいたま市浦和区のマスコットキャラクターでやなせたかしさんの作。さいたま観光大使です。

うらわ桜草通りを入った路地に「うなぎ彦星」がありました。やや小さいお店でしたがなかなか美味しい鰻重でした。
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浦和駅傍の旧中山道から玉蔵院への通り約60mを門前通りといいます。
玉蔵院は1780年真言宗の弘法大師が開山。正面にこんもり見えるのが枝垂れ桜で有名です。
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すぐ隣に地蔵堂があります。

浦和中央公園はもともと玉蔵院の敷地だったようです。昔は調神社の外には大きな公園がなく、健康増進や休憩スポット、非常時の避難場所として開設したとのことです。現在は常盤公園や別所沼公園が整備されています。

浦和一女発祥の地碑。
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浦和一女は、1900年(明治33年)に、その頃の埼玉県立浦和図書館があった浦和区高砂3丁目に「埼玉県高等女学校」として設立。その後、10年後の明治43年に今朝見た現在の浦和区岸町に移転しています。この場所(現在は取り壊して更地)の跡地に一女発祥の地の記念碑が建っていました。

埼玉会館は1926年(大正15年)に昭和天皇の「御成婚記念埼玉會館」として誕生。もともと1923年(大正12年より計画されたのがその年の関東大震災で建設が延期されたのを渋沢栄一さんの尽力で急ピッチで出来上がったとのことです。設計は岡田信一郎で当時としては珍しいドイツパイロット歌劇場の様式だったとのことです。大ホールは1500人収容です。その後、1966年(昭和41年)に建て替えられ、現在に至り「埼玉会館」となったのです。当初から見ると約90年。「大正、昭和、平成」3つの時代を通し、常に文化の中核を担う拠点会館とし歴史を刻んでいるのです。
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埼玉県庁は当初、埼玉郡岩槻町(現在のさいたま市岩槻区)に置かれる予定だったのが、県庁としての業務を行える建築物がなかったため、北足立郡浦和宿の旧浦和県庁舎が使われたことがはじまり。1871年(明治4年)11月14日 - 埼玉県が発足(埼玉郡・足立郡・葛飾郡)。翌月、旧浦和県庁舎に埼玉県庁を置いたのです。
1992年(平成4年)11月14日 - 埼玉県の愛称として「彩の国」が採用となっています。
現在の県庁の第一庁舎は1955年にできた建物のようです。道理で本当に古いのです。
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写真真ん中の埼玉県庁の前にあるのが「県章」。埼玉県名の由来である「幸魂(さきみたま)」の「魂」は、「玉」の意味でもあり、まが玉は、埼玉県にゆかりの深いものとなっているためまが玉を円形に配置したデザインで、「太陽」「発展」「情熱」「力強さ」を表しているとのことでした。 県旗は県章を白地に赤く染め抜いたもので、昭和39年に制定したことも伺いました。
彩の国さいたまの「彩」は、いろどりや美しさを表す言葉で、四季折々の色彩豊かな自然に恵まれ、産業、文化、学術などさまざまな分野で発展する多彩な国を表しているのです
なんとこれは全国から寄せられた21,275点の中から県の愛称として決まったということでした。また埼玉県の花は桜草で浦和市田島ヶ原の自生地は、今も昔ながらの面影を残しており、国の特別天然記念物に指定されているのです。

さいたま市は埼玉県の南東部にあり、県庁所在地。 2001年5月浦和市と大宮市と与野市が合併して発足。 2003年4月全国で 13番目の政令指定都市へ移行したので西区、北区、大宮区、見沼区、中央区、桜区、浦和区、南区、緑区の9区が誕生、市役所は浦和区にあるのです。 2005年岩槻市を編入して岩槻区が誕生し合計10区となったのです。従来の業務核都市としての位置づけと相まって首都圏の一翼を担い,工業団地,商業施設,住宅の進出が著しいのです。文化・スポーツ施設,公園・緑地も整備され,彩の国さいたま芸術劇場,埼玉スタジアム 2002などは市外、県外から集客を見込んで作られたようです。荒川河川敷に国の特別天然記念物である田島ヶ原サクラソウ自生地、与野には国の天然記念物の大カヤがあります。国指定史跡として見沼通船堀もあります。市域南東部は安行武南県立自然公園です。鉄道は JR東北新幹線、上越新幹線、東北本線、宇都宮線、高崎線、川越線、埼京線、武蔵野線、京浜東北線、東武鉄道野田線、埼玉高速鉄道、埼玉新都市交通線が、そして道路は東北自動車道、国道 16号線、17号線、122号線、463号線が通り、首都圏と東北地方、上信越を結ぶ交通の要衝でもるのです。人口 は約126万人と膨らむ一方のようです。
ということで今回のこのウォーキングツアーではまずさいたま市の10区完歩を目指すのです。

浦和区。
江戸時代に中山道は江戸と京都を結ぶ重要な道路として整備されていました。浦和は日本橋から三番目の宿駅で、本陣や問屋があり、宿場町として繁栄したのです。1871年(明治4年)に埼玉県が出来、宿場町として栄えていた浦和宿は、県庁所在地となり、また明治22年に浦和町となり、行政・教育・文化の上でも県中心地となったのです。1923年(大正12年)の関東大震災では、地震の災害が少なかったこと、首都圏から20kmの至便性などから、住宅地としての評価が高まり、多くの文化人が移り住み、特に「鎌倉文士と浦和画家」といわれ、多くの芸術家が活躍したのです。2001年(平成13年)にさいたま市が誕生し、2003年(平成15年)さいたま市が政令指定都市へ移行し、浦和区ができたのです。

埼玉サッカー発祥の地碑.
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埼玉は静岡、広島と並びサッカーの御三家と言われ、その歴史は古く、今から約100年前の明治41年に、埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)教諭の細木志朗氏が蹴球部をつくったことにより始められ、埼玉師範から多くの指導者が県内の学校に教師として赴任したことにより普及・発展を遂げたのです。 現在のさいたま市役所は、その埼玉師範跡地に建っており、正に埼玉のサッカー発祥の地なのです。このため埼玉サッカーの歴史と伝統を末永く後世に伝えるため、埼玉師範が全国大会で初優勝を果たしてから60周年目の平成9年に当時、浦和市役所だったこの地に記念碑ができたのです。

浦中発祥碑。
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さいたま市役所の西 100m。合同庁舎の東隣りに“埼玉県知事公館の前に 2人の学生服を着た生徒と「ここに浦中ありき」という文字を刻んだ石碑です。 ここは 県立浦和高校の前身 (旧制)浦和中学校が開校した場所なのです。浦和高校の現在の校舎はこれより北に約1.5kmの北浦和駅そばの浦和区領家5丁目にあります。

常盤公園は、浦和区常盤の浦和警察署の東方面にある公園。園内には、子供用の遊具や砂場、トイレなどもあり、都会の中の憩いの場という感じ。
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園内にはもともと浦和地方裁判所があったので入口には名残の赤レンガ堀や、市指定の天然記念物となっているキャラの木があります。
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童話碑もありました。
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浦和宿二・七市跡。
中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていたようです。始まりはどうやら戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいるとも伺いました。市神と定杭を残す市場跡は貴重らしいです。
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さらに数分歩くと常盤公園へ行く道があり、入口に野菜を売る「農婦の像」と市場通り説明碑がありました。
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仲町公園・浦和本陣跡。
旧中山道沿いの仲町交差点そばの路地を入るとすぐ仲町公園です。中には説明板がありました。江戸時代、日本橋から数えて3番目の宿場として栄えた所で、本陣や脇本陣、旅籠、高札場、問屋場などがあったようです。また説明板隣には、明治天皇行幸の際に行在所になったことも記念した碑が建っています。
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浦和宿碑が浦和ロイヤルパインズホテルそばの旧中山道にありました。
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浦和の奈良漬といえば酒井甚四郎商店の浦和漬。こちらは明治初年創業。
須原屋は明治9年、旧中山道沿いの現在地で創業した書店。此処に来るとあらゆる分野のものがあります。
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今日は21℃、晴、微風の中、気持ちよいウォーキングができました。参加者18名、講師喜多見先生、TD伊藤さん。スタート10:00〜14:30でまずはこの第1回「さいたま彩発見ぶらり街あるき」は無理のない日程で終了しました。自分の活動量計では16000歩、約8kmでした。今後はまずさいたま市浦和区の後9区、その後埼玉県内の市をくまなくウォーキング予定、全部で40回となるとのことです。埼玉県は全国でも一番「市」が多いそうですから先が長いですがボチボチ参加しようと思っています。何しろ埼玉県民となって40年以上ですが県内をよく知らないので良い機会だと考えたのです。ではまた皆さま、次回も楽しみましょう。
posted by yunofumi at 09:08| あちこちウォーク

2019年05月12日

2019.5.6 鉢形城を尋ねて

東武東上線寄居駅南口⇒栄町商店会⇒平安会館⇒朝日生命⇒セブンイレブン寄居駅南店⇒正喜橋・荒川⇒笹曲輪(ささくるわ)⇒伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)⇒田山花袋碑⇒二の曲輪⇒城山稲荷神社⇒三の曲輪⇒復元四阿(ふくげんあずまや)⇒石組排水溝⇒復元石積土塁⇒復元四脚門⇒深沢川⇒鉢形城歴史館⇒東武東上線寄居駅南口

偶然パンフレットで見つけた鉢形城です。鉢形城は日本の100名城のひとつと分かり興味がわいたのです。なんと埼玉県寄居町にあるので近いことからGW最終日に出かけてみました。
事前の情報としの見どころは荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあるお城で曲輪が連なる連廓式の平山城で縄張りや巧緻さは際立っているとのことでした。これは小田原合戦の時の前田・上杉・真田・本多氏などとの籠城戦で実証されているようです。
最初の築城は1476年(文明8年)長尾景春、その後北条氏邦がかかわっているようです。
またこの城では「曲輪」という言葉が使われていますがどうやらこれは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称のようで「郭」とも書くのです。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門をはじめ、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられているとのことです。まずは城のことを知らない私ですから徐々に理解したいと思っています。

以下は本日の記録です。
自宅を9時過ぎにスタート。東武東上線でまずは森林公園駅まで、その後乗り換え小川町で再度乗り換え、ようやく寄居駅に到着。はじめて寄居駅にやってきました。結局、列車の待ち合わせもあり、ほぼ90分で到着。
寄居駅南口にはタクシー数台と観光案内所が目につくだけ。すぐに道路幅は広く一直線に荒川にかかる正喜橋を目指しました。
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正喜橋は、荒川を渡る主要地方道飯能寄居線の橋とのこと。
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この橋は昭和46年にできた鋼3径間連続箱桁橋というそうで橋長145.90m、幅員7.50m、歩行者専用もありました。橋からの眺めが素晴らしかったです。
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玉淀河原の上にかかるこの橋の上流側には、鉢形城趾が近接しており、周辺では毎年5月には「寄居北條祭り」、8月には「寄居玉淀水天宮祭」が開催されるとのことでした。一方、下流には、大正14年にかけられた上路式トラス橋「東武東上線荒川橋りょう」があるとのこと。正喜橋上流の風景では右側の河原が「玉淀河原」で北條祭りや水天宮祭の会場となる場所。正喜橋を渡るとすぐ鉢形城公園になり、笹曲輪がありました。
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鉢形城址を紹介するパネルと鉢形城ジオラマがありました。
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これを少し上から見ると葉っぱのような形で攻めにくくなっていました。
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伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)の上に本曲輪があり、鉢形城址の案内がありました。
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御殿があったのです。

すぐ傍から見下ろすと荒川があり、この城がすぐ崖の所にあったことがわかりました。
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向こう側が玉淀といわれるところのようです。

田山花袋碑。
本曲輪 には田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ漢詩の碑がありました。刻まれた文字は武者小路実篤によるものでした。
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二の曲輪には濠と畝、土塁がありました
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城山稲荷神社は二の曲輪の傍でした。
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鳥居前の参道には桜が並木になっていました。

空濠もありました。
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三の曲輪に入ると復元四阿(あずまや)があり、これは休憩所のようでした。
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石組排水溝
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復元石積土塁
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二の曲輪の復元四脚門。
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これは鉢形城址の今ではシンボルです。

これより下に下ると深沢川があり、どうやら水が涌いているようで清らかな流れでした。
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そしてようやく鉢形城歴史館に着きました。ボランテァガイドの酒巻さんには笹曲輪からここまで案内していただき、大助かりでした。
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ここは平成16年10月に鉢形城公園の開園と同時にオープンしたようです。鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史なども含め映像を駆使して紹介していました。

こうして正味2時間ほどの鉢形城の見学をしました。本日は埼玉の奥に来ましたので涼しいかと思いましたがどうも24℃ほどあったみたいで晴天とはいえ夏かと思いました。でも天候に恵まれ、こうして歩き回れたことは幸せなことです。今後は再度訪れて理解を深めたいと思っています。ボランテァガイドに感謝!!
posted by yunofumi at 22:15| あちこちウォーク

2019年05月06日

2019.5.4 国分寺駅周辺ウォーク

天気予報で日中は晴天と聞き、以前から見たいと思っていた殿ヶ谷戸庭園を中心にお出かけしました。

JR国分寺駅南口⇒殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)⇒野川不動橋⇒石橋供養塔⇒緑橋⇒お鷹の道⇒史跡の駅おたかカフェ⇒旧本多家住宅長屋門・おたかの道湧水園⇒こくべジ⇒武蔵国分寺跡史料館・武蔵国分寺跡⇒国分寺⇒万葉植物園⇒国分寺楼門⇒国分寺仁王門⇒国分寺薬師堂⇒七重塔跡⇒JR国分寺駅

JR国分寺駅構内に国分寺市観光案内所がありましたのでパンフレットをいただきつつ観光のヒントをいただきました。そして駅からすぐの殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)に立ち寄りました。GW中とはいえ、ほどほどの込み具合、おまけに入場料は無料でした。
殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したとのことです。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に1979年(昭和54年)から有料庭園として公開されているとのことでした。
旧本館は展示室。殿ヶ谷戸庭園に関する様々な資料を展示・公開している建物なのですが、昭和9年に建築されたこの建物こそが、そもそも岩崎家の別邸として使用されていたものなのでした。
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白い煙突の下は室内に暖炉がありました。
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紅葉亭(こうようてい)は数寄屋造り風の茶室で今でも茶会などに利用されているようです。
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紅葉亭はちょうど崖の上にあり次郎弁天池をはじめ庭園を眺めるにはとても良い位置にありました。
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次郎池傍には湧水の源がありました。
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次郎池に沿って散策すると孟宗竹が連なっている竹の小径に出ました。筍が沢山顔を出しており成長した竹は身についていた皮を衣を脱ぎ捨てる如くに落としている様を初めて見ました。
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藤・山百合、カタクリなど様々な花を季節ごとに見られるようでした。
特にカタクリは花が終わり種子をとるために袋をかぶせてあり、珍しかったです。
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野川不動橋の傍に石橋供養塔がありました。
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石橋供養塔は、天保三年(1831)に造立されたとのこと。前にある不動橋は以前は石橋だったようです。石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味を持っているとのことでした。庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれていること、不動明王碑には 「不動明王」と刻まれているとのことでこの石にちなみ現在の橋の名を不動橋としたようです。

お鷹の道。
野川は国分寺市に湧き出て、世田谷区で多摩川に注いでいる川です。江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたのにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけているのです。現在約350mが遊歩道として整備 されています。四季折々の散策路として人気があり沿道には「カラー」の花が多くみられました。
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史跡の駅おたカフェは、国分寺市が特定非営利活動法人めぐるまち国分寺に委託て 資料館・庭園のチケット販売、史跡地域の総合案内等を行う施設。休憩や懇談の場として、また、史跡地域の魅力を発信する場になっています。ここでは、NPO地域交流センターが指定する 全国まちの駅、地域住民や来訪者が求める地域情報を提供する機能を備え、人と人の出会いと 交流を促進する空間施設としての認証を得ているようです。
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おたかの道湧水園はお鷹の道の北側にあります。園内北側は国分寺崖線にかかり、崖線一帯には湧水源など良好で豊かな自然環境が残されています。ちょっと遠めですがこの奥の穴ぐらから湧水がでています。
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おたかの道湧水園入口には国分寺市内でも貴重な、本多家の歴史的建造物の長屋門(江戸時代後期)と倉(明治時代)が残っていました。
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長屋門を入るとすぐ武蔵国分寺七重塔推定復元模型がありました。
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武蔵国分寺跡史料館はおたかの道湧水園内にあり、国分寺村名主だった本多家の屋敷跡です。中には史跡武蔵国分寺跡を見る・学ぶ・訪ねるをコンセプトにした資料が展示されていました。
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こくべジとは長い年月をかけ土とともに育ってきた国分寺の地場野菜のこと。きっかけは江戸時代の新田開発があった300年間大事に育てられてきた野菜を使ったプロジェクト。うどん屋さんで国分寺野菜7種の天ぷら冷やしうどんをいただきました。野菜は長芋・人参・うど・蕗・カブ・新茶葉・玉ねぎでどれも新鮮でとっても美味しかったです。

奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じたとのことです。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きいとのことです。
金堂跡、講堂間の通路など土台部分などがわかるようになっていました。
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現在の国分寺。
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「国分寺 万葉植物園」は、昭和25年から38年にかけて、以前の国分寺住職だった星野亮勝氏が、日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」に詠まれている植物を収集、当時の日本文化や風習を後世に伝える事を目的で国分寺の境内に造園されたとのことです。すべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌、詠み人が記された札が建てられていました。8,019uの園内には万葉関連の植物が約160種、その他に各植物約700種が植えられておりました。
入口傍のジャケツイバラ(マメ科)が咲き誇っていました。
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国分寺楼門は門国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものとのことです。
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国分寺仁王門は国分寺境内にあり、宝暦年間(1751年〜1764年)に建てられた八脚門とのことです。
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使用している木材の一部は建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されているようです。またもとは萱葺の屋根で、現在は瓦葺の入母屋造。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(向かって右・口を開けている)吽(向かって左・口を閉じている)の仁王像がみえました。

国分寺薬師堂は医王山縁起によると、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたということです。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものとのことでした。
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建物は単層寄棟造で、昔は萱葺屋根だったのを昭和60年に銅板葺の屋根にしたようです。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置されているとのことでしたが暗くて中の様子はよく見えませんでした。

長屋門傍で見た七重塔の実際の跡地が金堂や講堂跡から東へ約200mのところにありました。
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本日は殿ヶ谷戸庭園の見物と思っていましたがパンフレットから旧国分寺や現在の国分寺も見られそうということで歩き回りました。AM10:00すぎから正味3時間、晴天のさわやかな陽射しの中、24℃、微風はウォーキング日和でした。またGW中でのんびり17000歩のウォーキングを楽しく過ごしました。花々は色々咲いておりその都度楽しみましたがお鷹の道のカラーとジャケツイバラがとても印象的でした。またこの辺りは国分寺崖線を辿るウォーキングも可能かもしれないと感じました。またしらべて挑戦したいと思います。
posted by yunofumi at 20:30| あちこちウォーク

2019年04月28日

2019.4.20 2巡目第1回 東京の新発見旅「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒仲通り商店街⇒クロダ薬局⇒杉並区薬剤師会⇒長屋門⇒西郊旅館⇒東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻外荘・荻外荘公園⇒角川庭園・幻戯山房・杉並詩歌館⇒CHALEUREUX OGIKUBO⇒共立女子学園研修センター⇒都立杉並高校⇒成宗五色弁財天⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒相生橋⇒杉二小前広場⇒尾崎橋⇒成宗白山神社⇒和田堀公園⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒鶏の焼肉珠杏(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社・大宮稲荷神社⇒大宮八幡神社参道⇒馬塔観音⇒杉並区郷土博物館⇒源義家公鞍掛けの松⇒大圓寺⇒京王井の頭線永福町駅

4月13日に完歩した東京23区めぐりですが再度、参加して2巡目に挑むことにしました。理由は各区が広くまだ一部しか見ていないと思っているからです。多分同じ場所も伺うでしょうが年月が経ちまた違うことを感じ取れるかもしれないからです。
ということで本日は2巡目の第1回なのです。

10:00 JR荻窪駅東改札集合。参加者22名。案内人は信野先生、TDは伊谷さん。空は晴れ上がり昼頃には微風ながら19℃と絶好のコンディションの中のウォーキングでした。

長屋門は宮前5丁目、井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈されたようです。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804〜1829)頃。中央を通路、右手は土間の納屋、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納したようです。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式は高かったようです。
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西郊旅館(西郊ロッヂング、せいこうロッヂング)。
1938年(昭和13年)建築の洋風建築。、2001年(平成13年)の改修後は賃貸住宅となっているとのことです。また、西郊ロッヂングは当初は本館のみ、後に新館が増築された。現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業している。
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東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫。
かつら文庫は、地域の子どもたちが、くつろいで自由に本が読めるようにと願い、作家、翻訳家、編集者として活躍さした故石井桃子さん(1907〜2008)により1958年に開館。その後改修工事を行い、2014年4月より、おとなも利用いただける施設となったのです。石井桃子さんの書斎のほか、故渡辺茂男さんの蔵書を見られる公開書庫、エドワード・アーディゾーニ資料を収めた展示室、全国の子どもの読書推進グループの活動を紹介する「マップのへや」があります。
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大田黒公園は大田黒元雄さんの屋敷跡です。ご本人が亡くなられた後、一部を区立公園に整備して昭和56年開園とのこと。檜の門は総檜、切妻づくりで、屋根は棧瓦ぶき。左右に築地塀のあるどっしりした構えでした。
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門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびており、長さは70m。左右には樹齢100年を経た大イチョウの並木でした。
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園内には東屋・池・茶室や記念館がありゆっくり桜やつつじを楽しみました。
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荻外荘(てきがいそう)・荻外荘公園。
荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至るまでの期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。荻外荘の建物傍には行けなくて金網越しに見ました。
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庭園を含めて公園になっておりました。
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角川庭園・幻戯山房(杉並詩歌館)。
俳人で、角川書店創設者の角川源義(かどかわげんよし)の邸宅が区へ寄贈されその後改修し、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として区民に利用されているとのことです。庭は日本庭園でウメやサツキ、サルスベリなど四季折々の草木や花が楽しめるようです。
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幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は加倉井昭夫氏が設計した、近代数奇屋造りの建物。源義氏にちなんだ展示室と、句会などを催せる詩歌室や茶室の貸室として活用されているとのことです。

成宗五色弁財天。
昔、この辺りは成宗村といい、水神様のご加護を願って湧水池(弁天池)の傍に建立されたのです。ご神体は鎌倉時代に江の島弁財天で焚いた護摩の灰で作った素焼きの曼荼羅像とのこと。ここは水信仰の中心地で雨乞いのためにここにお参り後、弁天池の水を持ち帰ったそうです。鳥居前の石橋と水路は天保用水の名残でそばに板型の用水路記念碑がありました。
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成宗須賀神社は旧成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊(すさのうのみこと)。社名は祭神が素盞嗚尊なので出雲の須賀社にちなんだようです。社殿は941年(天慶4年創建。その後1599年(慶長4年)再建と伝わっているが安政年間に記録を焼失し詳かではないようです。
江戸時代にはここは牛頭天王社と呼ばれていたようです。これは素盞嗚尊が牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えからと伺いました。明治維新後には成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和33年に社殿を新築し現在のようになったようです。
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成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守で、祭神は伊弉册命。『新編武蔵風土記稿』で地名の「白幡」について「往古人王七十代後冷泉院(在位1045〜1068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請し、その時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えているとのことです。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。この辺りは地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史があるので氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地であったのを戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園。現在では武蔵野の自然が調和した公園となっているようです。
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大宮八幡宮(おおみや はちまんぐう)は、杉並区大宮にあり、明治時代以降は大宮八幡神社と呼ばれていたのが、1981年(昭和56年)に「大宮八幡宮」に改められたとのことです。もともとは源頼義により建立。武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は約15,000坪と都内でも3番目の広さ。子育て・安産に特に御利益がいわれている。東京のほぼ中央にあるので「東京のへそ」という異名もあるそうです。善福寺川に接し、かつて湧出していた御神水は「多摩乃大宮水」といわれたのです。現在は自然には湧出していないため、ポンプで汲み上げているとのことでした。
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この馬塔観音は昭和3年、陸軍将校が乗っていた名馬宮春号がここで足を骨折して急逝し、この供養塔が建立されたそうです。
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杉並区立郷土博物館は、1989年(平成元年)に、 都立和田堀公園の中に開館。杉並区には、およそ3万年前に人々が住み始めています。 郷土博物館では、このときから現在までの杉並の歴史、 人々の生活や文化について資料を集め、 調査・研究をし、わかったことを展示していました。また古民家もありこちらではお茶のお接待をいただきました。
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源義家公鞍掛けの松は大宮八幡宮の参道の脇にありました。義家が奥州征伐に向かう途中、ここで一休みしてこの松の枝に馬の鞍を架けたとの言い伝えがあるとのことです。
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大圓寺(大円寺、だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院。山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。薩摩藩島津家の江戸での菩提所でもある。1603年(慶長8年)、徳川家康によって赤坂溜池(現在の東京都港区赤坂溜池町)に徳川家の香華院として建立。開山は諦厳桂察(武田信玄の弟)。この縁から飯野藩保科氏の菩提寺でもあるようです。この時に、旗本五井、松平、坂井、本多、土方の諸家を檀徒と定めたようです。 延宝元年(1673年)、薩摩藩(七十七万石)世子・島津綱久が江戸で没した時にその葬儀をこの寺で執り行い、以後薩摩藩の菩提寺ともなったのです。明治維新後の廃仏毀釈及び大檀越であった島津氏の神道改宗に伴い、以後庇護を失い衰微し1906年(、明治41年)に現在地に移転。現在も西郷隆盛の娘・菊子など鹿児島県出身明治維新関係者の墓が多く築かれているとのことです。
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明治元年戊辰の役戦死者没者の墓
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本日は晴天でしたから歩程約11kmをAM10:00〜PM15:00で気持ちよくウォーキングしました。ほとんどは一巡目の時と同じでしたが講師が違うことと2年ほどの時間経過があるので改めて見聞を広めた感じでした。
今後も2巡目の都内をそれなりに新発見を期待しながら参加していくことにいたします。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2019年04月15日

2019.4.13. 山手線歴史探訪ウォーク 第2回

上野駅〜西日暮里駅
JR上野駅公園口⇒JR上野駅中央口⇒JR上野駅広小路口⇒「あゝ上野駅」碑⇒上野恩賜公園--黒門--獨山人の碑--西郷隆盛像--彰義隊の墓--天海僧正毛髪塔--寛永寺清水観音堂--不忍池弁財天--花園稲荷神社--時の鐘--上野大仏--パゴダ薬師堂--お化け灯籠--東照宮--東照宮唐門--グラントヒノキ--時忘れじの塔--東京文化会館フォレスティーユ精養軒--ボードワン博士像⇒旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)⇒黒田記念館⇒東京文化財研究所⇒上野東照宮⇒寛永寺第二霊園・徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所⇒寛永寺・根本中堂・了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦⇒谷中霊園---DEPUIS PATISSIER INAMURA SHOZO--御隠殿坂−明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑−徳川慶喜公墓所−渋沢栄一墓所−川上音二郎碑−天王寺五重塔跡⇒観音寺築地塀⇒初音の森⇒岡倉天心記念公園⇒谷中銀座・夕焼けだんだん⇒延命院の大椎⇒経王寺山門⇒善福寺・仁王門⇒富士見坂⇒淨光寺⇒諏方神社⇒太平洋美術⇒荒川区立第一日暮里小学校⇒西日暮里公園⇒JR西日暮里駅

JR上野駅中央改札のすぐ横の切符売り場の上にステンドグラスがありました。「昭和六十年春 ふる里・日本の華」でデータを調べると原画。監修:平山郁夫、設置:1985年3月、ステンドグラス、3.7m×18.6m、キーワード:扇、水、花ということでした。このような壁画などはパブリックアートというそうです。
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JR上野駅広小路口外には「あゝ上野駅」歌碑がありました。
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この歌碑は2003年建立。この歌は1964年に井沢八郎さんが歌った東北地方の集団就職者の応援歌として大ヒットした歌謡曲。歌碑は大きく機関車と多くの集団就職者が描かれており私たち世代だけではなくこれを見て昔を偲ぶこともいいことではないでしょうか。

上野恩賜公園は明治6年太政官布達で日本が初めて公園に指定。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いたとのことです。

西郷隆盛像は明治31年設置、作者は高村光雲、身長3.7m・胸囲2.6m・足55cm。できた時の様子は昨年のNHK大河ドラマ第1回で見られてとても印象的でした。
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天海僧正毛髪塔。
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧。なかなかの名僧でのちに江戸崎不動院(茨城県江稲敷市)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受け、1616年(元和2年)家康が没すると、その神格化のため権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導したのです。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、1625年(寛永2年)に寛永寺を創建し、1643年(寛永20年)に子院の本覚院で108歳でなくなっているのです。遺命により日光山に葬られたため本覚院跡には供養塔が建てられ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになったとのことでした。
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「彰義隊の墓」がありました。江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻ったことから東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論された。慶喜の一橋家時代の側近が慶喜の助命を求め、1868年(慶応4年)に彰義隊を結成。慶喜が水戸退隠後も上野山(東叡山寛永寺)にたてこもったのです。1868年((慶応4年)、新政府軍が、上野寛永寺周辺にたてこもる彰義隊を包囲し彼らは滅亡したのです。これは上野戦争といわれています。その後、彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたのを、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されたとのことでした。正面の小墓石は、1869年(明治2年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出されたもの。大墓石は、1881年(明治14年)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、改府をはばかって彰義隊の文字はなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれています。
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清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立。比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門を守護すると伝えられている事に倣い、天海大僧正は1625年(寛永2年)に江戸城の鬼門を守護するため、寛永寺を創建したのです。そして比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立。そのひとつとして清水観音堂は京都清水寺に倣って建立されたのです。清水観音堂は、江戸時代から庶民に親しまれる名所で特に境内に配された月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」に「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれているとのことです。
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不忍弁天堂は寛永寺の創設者天海僧正。現在の八角形の御堂は昭和33年に再建されたもの。ご本尊は八臀大弁財天で長寿・福徳・芸能の神様。普段見受ける芸能人のお名前が書かれた提灯がいっぱいありました。
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上野大仏とパゴダ薬師堂は大仏山にあります。1631年(寛永8年)堀直寄が寄進。元々、大仏様は全身あったようですが地震や火災が度々ありこの顔面だけが残り大仏再建を願い仏塔(パコダ)が作られたとのことでした。
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お化け灯籠(おばけどうろう)は、佐久間勝之(さくまかつゆき)が奉納したもの。銅灯籠や石灯籠と離れたところにある。おばけというのは、おばけのように大きく、高さが6.06mもあるからそのような名前がついたようです。また、笹石の周囲は3.36mで非常に大きかったです。
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時忘れじの塔は故林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが2004年(平成16年)に東京大空襲を忘れないでという趣旨で設立。林家一門で慰霊の会が開かれるようです。
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公演内をグルグル動き回った後振出の上野駅前に戻り昼食は、東京文化会館2階のフォレスティーユ精養軒でおしゃれなランチをいただきました。
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メイン前にはスープやパン、それにデザートと珈琲が出ましたので大満足でした。

ボードワン博士像。
明治政府が上野の山を別の目的で使用することを決めていたのを近代的な公園にすべきとボードワン博士が提言し現在の上野公園ができたそうです。いわば上野公園の生みの親でオランダの一等軍医だったとのことです。
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正岡子規記念球場は公園の外れに見えました。これは明治20年ごろ、正岡子規が上野公園内で草創期の野球を楽しんでいたことから、名前がついたのです。そばに「春風や まりを投げたき 草の原」の句を刻んだ碑があるとのことでした。

旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)がありました。解説によると1932年日暮里と上野公園間の営業のため工事開始し1933年開業。1945年戦争のため運転休止。1953年この駅の営業を再開するも1997年駅が小さいことなどがあり営業休止。2018年リニュウアルして記念に残されたようです。

上野東照宮
もともと徳川家康公を祀った社。家康が1616年に死去し1618年には日光東照宮に祀られています。その後家康を敬心していた藤堂高虎が1627年(寛永4年)にこの上野東照宮を造営。現在の社殿は徳川家光が作り替えたもの。文化財保護の為、社殿内は非公開。 金色殿とも呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造り。
唐門は1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価されています。 内側の透彫は諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、 太鼓に鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいています。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられています。
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唐門両側の6基の銅灯籠は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものとのことです。
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銅灯籠の間に見えるのは菱透塀。格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名だとのことです。 社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、 色鮮やかに生き生きと表現されているとのことでした。

寛永寺第二霊園に入るとすぐ徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所の案内がありました。五代将軍綱吉は、1680年(延宝8年)に将軍となり1709年(宝永6年)に63才で死去。綱吉ははじめ、善政を行ったが後には「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名です。 1698年(元禄11年)に綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されたとのことです。綱吉の霊廟は宝永6年に竣工したが、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したのです。この勅額門と水盤舎は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構とのこと。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
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寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。徳川家光が創立者、初代住職は天海大僧正。ご本尊は薬師如来。本堂にあたる根本中堂を見ました。
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この周りには了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦など見所が一杯でした。

谷中霊園は日暮里駅と鴬谷駅の崖上に広がる墓地。ここはもともと寛永寺と天王寺の寺領だった所。1875年(明治7年)東京都の公共墓地となり一般にも公開されている。
本日は明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑、徳川慶喜公墓所、渋沢栄一墓所、川上音二郎碑、天王寺五重塔跡などを見て回りました。
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観音寺築地塀(つきじべい)とは土塀のこと。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものをいうようです。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。
はじめは土のみで作られたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるようになってきたようです。
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岡倉天心記念公園は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立にかかわり、また日本美術院を創設した岡倉天心の旧居跡。五浦のものを模した六角堂があり、中には天心坐像が据えられています。また公園のなかのいたるところに六角形が潜んでいます。
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谷中銀座は地元の方々は元より、定期的に商店街に足を運んでくださる広域の方々、遠方や海外からお越しくださる観光の方々に商店街を時代の流れに適応しながら古き良き商習慣を大切にして異世代に残していきたいと頑張っている商店街だそうです。本日は休日のため非常な混雑で有名なメンチコロッケのお店など行列ができていました。私は谷中満点ドーナツを買い、大いに満足しました。
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御殿坂と谷中銀座の間には「夕焼けだんだん」と呼ばれる階段があります。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。夕方になると、階段に座って夕焼けを待つ方もいそうです。夕焼けだんだんを降りると「谷中銀座」の入口です。
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延命院は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局を開基とする日蓮宗の寺院。家綱の安産祈願をした日長が甲州身延山の七面大明神を勧請し、慶安4年(1651)にその別当として開創されたのです。境内には、樹齢600年を越える大椎がありました。
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経王寺(きょうおうじ)は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られており、旧谷中七福神のひとつ。1868年(慶応4年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っていました。
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善福寺・仁王門。
谷中は奇跡的に戦災を免れた為、古い民家と下町風情が残る稀少の場所で、善福寺・仁王門の金剛力士像もけなげに残っていました。
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淨光寺は真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があるようです。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていたようです。江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。
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諏方神社は鎌倉時代に豊島佐衛門尉経泰によって創建されたと伝えられ、信濃国上諏訪大社と同じ建御方命を祀っておるようです。現在も日暮里(旧:新堀)・谷中の総鎮守。 諏方神社は、JR山手線の線路沿いの諏訪台にあり、江戸時代には、筑波や日光の連山などが見えたことから、景勝の地として知られていました。

諏訪神社の道を挟んで反対側に太平洋美術会がありました。太平洋美術会は明治22年に日本最初の洋画団体「明治美術会」として誕生。同35年、太平洋画会と改称し、さらに昭和32年に太平洋美術会と名称を改め今日に至っているとのことです。2011年、120周年を迎えこの間、幾多の英才、奇才を世に送り出し、日本近代洋画史に燦然たる足跡を残したのです。併設の太平洋美術学校(現・研究所)からも多くの才能を輩出し今日、多数ある美術団体の源流で、今もこの歴史と伝統を守るとともに、新しい潮流に向けて歩み続けていると伺いました。

荒川区立第一日暮里小学校門前に「正直親切」の石碑がありました。この記念碑は高村光太郎直筆で荒川区立第一日暮里小学校の創立百周年の記念碑とのことです。高村光太郎は明治23年に旧下谷区練塀小学校から日暮里小学校に転校しており、この地にはずいぶんとゆかりがあるのです。この「正直親切」の文字は昭和26年、岩手県山口小学校のためにかかれたものが、日暮里小学校の百周年記念の際、財団法人高村記念会の好意で使わせてもらうことになったという経緯があるようです。ちなみに隣にいるフクロウはこの第一日暮里小学校の校歌の歌詞に由来しているとのことです。学校の立地が日暮里の高台、緑がいっぱいの諏訪神社のすぐ隣にあり、「森の知者」であるフクロウをシンボルにして子供たちに親しまれるように、という想いが込められているそうです。
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西日暮里公園は西日暮里駅から坂を上がった高台にありました。すぐ近くには諏方神社や多くのお寺があります。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として、高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていたのでこれらの案内を変わった形の案内板で示していました。
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本日は14℃と温かで晴天の元、約10km、歩程17000歩を結局実質5時間で完歩。参加者のほとんどは本日2回目で初々しい雰囲気が満載でした。私は初回が2017年10月でしたから約1年半かかっての完歩でした。昼食時に完歩認定証と山手線駅スタンプの一覧をいただきおまけに皆様の拍手はとても光栄でした。このようなシリーズのウォーキングツァーのいい所です。
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振り返れば全10回のうち雨は1回でしたから、なかなか幸運でした。これからも機会を見つけてまたシリーズのウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2019年04月07日

2019.4.7 MBT代々木公園ウォーク

すっかり本格的な春!!
本日は久しぶりに代々木公園でのMBTノルディックウォークにお出かけ。
代々木公園はすっかりお花見気分の方でいっぱい。
桜と緑と小さな花たちが眩しい!
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温かだったので久しぶりに仲間も7人勢ぞろい。
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本日は日中20℃、晴天の元、大いにウォーキングを楽しみました。
ウォーキングを終了後ハッと見渡せば、明治神宮、神宮橋、原宿駅はごった返していました。皆さんが大いに楽しんでいてとても嬉しい風景でした。
お陰様で今年は桜を大いに楽しみました。
posted by yunofumi at 17:37| あちこちウォーク

2019年04月03日

2019.3.31第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜2日目

「見沼たんぼ北コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒武蔵一宮氷川神社一の鳥居⇒氷川参道⇒大宮消防署氷川参道出張所⇒南堀之内バス停⇒丸昌⇒自治医科大学附属さいたま医療センター⇒合併記念公園⇒大宮南部浄化センター・みぬま見聞館⇒さいたま新都心公園

昨日の疲れが残っていそうなので大事をとって本日は歩程5kmコースに参加。今日は知人が一緒でしたのでのんびりムード。またしてもゆるきゃらがお見送りに登場です。
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さいたま新都心駅前を過ぎるとすぐ武蔵一宮氷川神社に向かう氷川参道です。
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武蔵一宮氷川神社は2400年以上の歴史をもつといわれ、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社。武蔵一宮として関東一円の信仰を集め、初詣には多くの参拝者で賑わいます。氷川神社名の社は大宮を中心に、埼玉県および東京都下、神奈川県下におよびその数は280数社を数えるとのことです。

氷川参道のこと。
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氷川神社の参道は中山道から南北に2km伸び、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われていて「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていました。杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因が考えられます。更に古い時代には松並木の時代もあったとのことです。現在の参道の樹勢状況は平成22年に作成された『氷川参道のまちづくり』によると、およそ650本の高木があり、そのうちケヤキが約65%、次いでスダジイが約10%、そのほかクスノキ、エノキ、サクラなど37種類の樹木があるとのことです。
自治医科大学附属さいたま医療センターを過ぎるとすぐ合併記念公園でした。ここはほんじつのチェックポイントでしたからお弁当を食べた後はのんびりとあちらこちらと動き回り、色々な植物を見ました。
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大宮南部浄化センターは大きな建物でした。
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ここは、汚泥再生処理センターとして、平成13年3月に最新鋭の膜処理と高度処理方式を採用し稼働が始まったそうです。し尿・浄化槽汚泥の一日の処理能力は179kL。施設の特徴は、限外ろ過膜を使用した高負荷運転で汚れを除去しているとのことです。その後、活性炭吸着塔を通し、殺菌・消毒して無色・無臭の環境にやさしい処理水として芝川に放流しているようです。今日は私たちウォーカーのために色々説明をしておられました。また環境学習施設としてみぬま見聞館・自然庭園を紹介されました。自然庭園は外側から少し見ました。
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みぬま見聞館には後日是非来てみたいと思いました。

結局ウォーキングはスタート11:00,ゴール13:00、実質6.2kmを約15000歩で終了。本日の参加者3663人。5kmコース参加者が少ないと思っていましたが空模様が怪しかったことや休日2日目ですからちびっこの参加が多く、とても賑やかでした。
今日は余裕でウォーキングを終了しましたので2人でアイスを食べて悠々と帰路につきました。
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また来年も参加しまーす。
posted by yunofumi at 01:00| あちこちウォーク

2019.3.30第7回さいたマーチ〜見沼ツーデーウォーク〜1日目

「見沼たんぼ南コース」
さいたま新都心公園⇒さいたま新都心駅⇒さいたま赤十字病院⇒さいたま新都心郵便局⇒新都心大橋⇒上木崎小学校⇒洋服の青山⇒上木崎7丁目⇒見沼代用水・芝川土手⇒浦和西高校第2グラウンド⇒木崎3丁目保存緑地⇒見沼代用水路西縁⇒本木崎橋⇒木崎橋⇒御嶽大神⇒足袋屋橋⇒忠兵衛橋⇒北宿橋⇒みむら桜広場⇒米原橋⇒さいたま市立病院・見沼臨時グラウンド(チェックポイント)⇒芝川・北宿大橋⇒首都高速さいたま見沼入口高架下⇒見沼たんぼ首都高ビオトープ⇒山口橋⇒東京成徳短期大学運動場⇒北袋橋⇒さいたま新都心公園

第7回さいたマーチに本日初参加。朝10:00スタートの歩程10kmコースに挑戦。
今朝は気温6℃!かなり寒く手は凍えそう!
この大会は主催がさいたま市の関連団体、協賛は武蔵の銀行や埼玉信用金庫、ということでゆるきゃらのしんちゃんやヌウが応援に来てくれました。
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出発式は清水さいたま市長のあいさつではじまり15分で終了。早速スタート!
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さいたま新都心とは埼玉県さいたま市で東京都心機能の「新都心」となるべく企図された業務地区の名称。現在は「さいたま新都心土地区画整理事業」として大規模な再開発が行われ、官公庁の関東地方出先機関などが進出しておりコクーンなどの商業施設やさいたまスーパーアリーナもありイベント時には大にぎわいのまちとなってきました。
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スタートから小一時間で見沼代用水の辺りまで来ました。桜をはじめ色々な花が見られました。
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木崎3丁目保存緑地は自然な環境が素晴らしい。
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足袋屋橋、忠兵衛橋などの名前が面白いと思いました。またさいたま市立病院の向かい側の見沼臨時グラウンドがチェックポイント。ここでは大勢の方がおやつやお弁当を広げていました。

芝川の北宿大橋はさいたま市の緑区から見沼区へ見沼田んぼを横断するときによく渡る橋で如何にも写真には絶好のスポット。写真の好きな方はきっと何度でも通う場所でしょう。
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首都高速さいたま見沼入口高架下を歩き、はじめて詳しく見沼たんぼ首都高ビオトープのことを理解しました。
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説明では多くの小鳥や動物が描かれていましたが今日のこの寒さでは何も出てきてくれませんでした。

今日はお陰様でほぼ満開の桜を堪能しました。桜はさいたま市の花木で、春には市内のさまざまな場所で花が咲き誇ります。実は「目指せ日本一!サクラサク見沼田んぼプロジェクト」というのが立ち上がっているようで、見沼代用水の西縁、東縁の桜を増やし、見沼田んぼをステージに日本一の桜回廊づくりに取組んでいるとのことです。そして今日では総延長が20kmを超え、桜の下を散策できる日本一の桜回廊となっているのです。今日の出発式での清水市長さんの話ではまだまだ延長が期待できそうです。
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結局、本日の参加者は5026人!コースは5kmから30kmに分かれてありましたがどうやら10kmのコースが一番参加者が多かったようです。桜並木が見事だったこと、雨に会わなかったことが幸いでした。失敗はチェックポイントでお弁当などの販売がなく、自分で準備していたおやつのみでちょっと寂しかったこと。歩程10kmのところ実質12.4km。おかげでこの余分の2.4kmがちょっと負担だった。ちなみにスタート10:00、ゴール14:00、実質3時間、約27000歩はかなり堪えました。帰宅後ゆっくり入浴やストレッチをして早寝をし、明日に備えました。

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そうそうお土産に参加賞のマグカップのほかに思いがけず特別賞をいただきました。これはさいたま市見沼たんぼで収穫された「彩のきずな」2kgでした。このお米は平成29年度産米の食味ランキングで最高の「特A」を獲得したお米なのです。
食べるのが楽しみです。
posted by yunofumi at 00:08| あちこちウォーク

2019年03月25日

2019.3.23. 東京新発見旅第23回 北区

今日はいよいよこのシリーズの最終回。
第1回台東区を2016年9月に開始以来、実に2年7カ月が過ぎ去りました。
この間には私的には色々なことがありましたがまずは元気で過ごせたからの最終回です。感謝!
今日はJR田端駅北口10:00集合、気温9℃、曇天でやや冷たい風もありましたが参加者21名講師は後藤先生、TDは小玉さんで一同元気に出発です。

JR田端駅北口⇒田端文士村記念館⇒東台橋⇒童橋⇒芥川龍之介旧居跡⇒田端八幡神社⇒東覚寺⇒田端文士村の散歩道⇒ポプラ坂・田端保育園/児童館⇒北区立田端公園⇒劇団文化座⇒村の鎮守の八幡神社⇒大龍寺⇒中里橋⇒山手線第二中里踏切⇒円勝寺・伊仕家の墓⇒日本植物防疫協会⇒聖学院⇒滝野川教会⇒滝野川図書館⇒旧古河庭園⇒無量寺⇒平塚神社⇒農務省農事試験場跡⇒滝野川公園⇒東京高等蚕糸学校発祥之地⇒花と森の東京病院⇒東京メトロ西ヶ原駅⇒国立印刷局東京工場⇒滝野川警察署⇒西ヶ原一里塚⇒七社神社⇒渋沢史料館⇒北区飛鳥山博物館⇒飛鳥山公園⇒豫園飯店⇒旧醸造試験所第一工場⇒北区役所第二庁舎⇒王子神社⇒玉子扇屋⇒中央工学校⇒王子稲荷大明神⇒東北線稲荷前ガード⇒北とぴあ⇒JR王子駅

田端文士村記念館は1887年(明治20年)上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校して、田端に芥川龍之介、菊池寛、小杉放庵、板谷波山など小説家や作家(=文士)が集まり住むようになったことを記念して、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供することを目的として1993年11月開館。
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芥川龍之介旧居跡は更地になっていました。ここは芥川龍之介(1892〜1927年)はが1914年に転入後、亡くなるまでの約13年を暮らしたこの旧居跡地で北区が2023年「芥川龍之介記念館」の開館をめざしているとのことです。芥川の業績を単独で顕彰する施設は全国で初めてということでした。
 
田端八幡神社は文治五年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社とのこと。
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東覚寺(とうがくじ)は真言宗の寺院。1491年(延徳3年)に創建。堂宇は第2次世界大戦で戦災焼失し、戦後再建されたようです。
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明王殿前には赤壁仁王という金剛力士像があります。病人が自分の患部と同じ位置に赤紙を貼ると治癒するという民間信仰があるとのこと。そしてその後、治癒したら草履を奉納するとのことでした。
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田端文士村の散歩道の案内板があり、そのあたりの散歩道やそのあたりに住んでいた文士たちのことが紹介されていました。散歩道Bの案内板では板谷波山(いたやはざん)のことが紹介されていました。

田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなんでいます。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったのです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいたのです。
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村の鎮守の八幡神社。
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現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。

大龍寺(だいりゅうじ)の創立は明らかでないようですが、慶長年間(1596〜1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781〜1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伺いました。
この寺の境内には、俳人正岡子規のお墓がありました。
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こちらは板谷波山のお墓。
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このほかチェリスト清水勝雄の記念碑、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があるということでした。

円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山し、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近にあったとのことです。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていたとのこと。
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円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれているとのことです。

日本植物防疫協会は、植物防疫に関する技術や知識の進歩を図り、農業生産の安定に寄与することを目的として1953年に設立。設立以来、病害虫防除に必要な資材の開発と登録の支援に向けた調査研究をはじめ、研修会やシンポジウムの開催など普及教育活動、書籍の発行や各種資材の提供など、植物防疫関連事業を多方面から展開しているとのことです。
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聖学院は1903年、米国基督教会外国伝道協会とアメリカ人宣教師H・H・ガイ博士によって聖学院神学校が設立。その後、キリスト教信仰による人格教育が始まり聖学院中学校(旧制)及び女子聖学院普通学部としてそれぞれ発展し、現在は幼稚園から大学院まで一貫教育体制を整えているとのことです。
滝野川教会は閉まっていて中を伺い知れませんでした。女子聖学院中・高校と 聖学院中・高校の東側の細い道路“聖学院通り”に面した、聖学院の男子校と女子校の境界附近に 石碑があるようです。 聖学院は、アメリカのプロテスタント・キリスト教の一派であるディサイプルス派が派遣した 宣教師によって、1903(明治36)年に「聖学院神学校」として設立され、女子聖学院は 1905(明治38)年に設立された学校です。滝野川教会は当初 聖学院神学校の校内の教会として創設され現在地は、発祥碑のある場所から北に200mほどの所で、美しい尖塔を持つ教会が建っているようです。

旧古河庭園。
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都立文化財庭園は現在9カ所あります。今ではほとんど訪れたことがありますがやはり季節が巡るわけでなかなかすべてを堪能しているわけではありません。まだ3月ですが桜が咲き、椿、雪柳、スミレ、山吹があちらこちらに見られました。
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無量寺の創建年代は不詳。それでも平安時代後期あたりからこの地にあったようです。境内に は、14世紀頃に作られた板碑が多数あるとのことです。 創建当時から長い間、寺号は長福寺だったようですが、9代将軍徳川家重の幼名・長福丸と同じだったことから現在の無量寺にしたとうかがいました。本堂にある不動明王像の前で忍び込んだ盗賊が動けなくなって捕まったことから、この像は「足止め不動」として信仰されるようになったとのことです。現在普段は公開されていないようです。

平塚神社。
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奈良時代荒墓郷「平塚」の地名の由来の“塚”は、神社社殿裏にある「甲冑塚古墳」が元とのこと。 その頃ここには豊嶋郡の郡衙があったのです。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築き、平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしをしたようです。そこで義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれたこと、塚の高さがなくて平たかったことから「平塚」とよばれ、これがこの辺りの地名となったようです。

農務省農事試験場跡の石碑が城山公園入口にありました。
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ここには東京府が明治33年(1900)に設立した最初の府立農事試験場が置かれていたとのことです。江戸時代末頃から農業改良が行われていたようですがここでは新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実地指導に生かして普及することをしていた様子です。試験場の活動は、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に影響を与えたのです。農業試験場は1924年(大正13年)には立川へ移転したのです。

東京高等蚕糸学校(とうきょうこうとうさんしがっこう)発祥之地。
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大正時代, 全国各地に“蚕糸学校”が作られたとのことで, 東京蚕糸学校もその一つ。 太平洋戦争後 東京農林専門学校と合併して 東京農工大となったようです。

西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの位置にあるとのことです。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功したのです。大正11年3月8日には、国史跡に指定されました。
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西ヶ原一里塚そばの七社神社は、古くから西ヶ原村の鎮守として由緒ある神社とのこと。七柱の神である天児屋根命は祝詞の神とも言われ、安産や厄除などの御利益があるそうです。

渋沢史料館はむしろ博物館で、日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一に関する資料を収蔵しているとのことです。
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1998年に建設された「本館」には、渋沢栄一の生涯にわたる業績が展示。 敷地内には大正年間に渋沢栄一が使っていた建物が当時のまま公開されているようです。 「晩香廬」は賓客を迎えるレセプション・ルーム、「青淵文庫」は書庫として使われていたとのこと。

北区飛鳥山博物館。
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北区の郷土資料を扱っている。紙の博物館、渋沢史料館とともに「飛鳥山3つの博物館」のひとつ。 2階部分が入口、受付と講堂、それに企画展示室。3階に飛鳥山アートギャラリー、資料の閲覧コーナー、体験学習室、軽食コーナー。1階部分が常設展示室で1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示、そして荒川の生態系を取り上げた展示があるとのことでした。

中国料理豫園飯店 (よえんはんてん)は王子界隈で評判の上海料理のお店とのことでした。入り口では、獅子の石像がありました。味付けはあっさりでしたがなかなかおいしかったです。
お料理待ちの間に後藤先生より完歩認定証をいただきヤレヤレ。
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独立行政法人酒類総合研究所東京事務所にあった旧醸造試験所第一工場(通称「赤煉瓦酒造工場」といいます。)は、明治37年の試験所の創設以来、酒類の醸造試験、酒類醸造講習の実習工場として活躍してきたとのことです。建物は、明治期の貴重な赤煉瓦建築物として平成26年12月に国の重要文化財に指定されています。
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王子神社。
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御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称を「王子大神」と呼ぶとのことです。創建は不詳ながら、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事があります。そしてさらにその後、1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたとのことでそれよりこの地を王子という地名にし、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれているとのことでした。

中央工学校は1909年(明治42年)創立で工業立国を目指す当時の政策に対応するかたちで、建築・機械工学・給排水衛生設備・空調設備・電気設備を、翌年には土木工学を加え4学科体制による夜間の工業学校(各種学校)としてスタートしたようです。田中角栄さんの母校とのことで記念の石碑が校舎前にありました。
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王子稲荷大明神は東国三十三国稲荷総司の伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名で古くは岸稲荷と号したようです。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられまた、治承四年に源頼朝より奉納を得たということでした。
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願掛けの石や狐の穴跡を見ました。

北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボルで、本格的なホール、多数の平床多目的スペース、各種会議室、音楽スタジオ等、多彩な施設があるとのことでした。最上階の17階は展望ロビーとなっており、北区を一望することはもちろん、東京スカイツリー、はては埼玉まで見ることができました。
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今日は桜がチラホラ咲き始めていましたが、正に「花冷え」の1日でした。それでも空模様が持ちこたえてくれて有難かったです。本日、このシリーズのウォーキングは23回目で実質4時間、約17000歩で完歩出来ました。今後もまた機会があれば元気にあちらこちらと見分を深めたいと思っております。色々ご一緒させていただいた皆様、お世話になりました。
posted by yunofumi at 23:30| あちこちウォーク

2019年03月21日

2019.3.16. 山手線歴史探訪ウォーク 第7回

渋谷駅〜五反田駅
JR渋谷駅ハチ公⇒東京メトロ銀座線渋谷駅⇒SIBUYA MARK CITY⇒豊栄稲荷神社⇒金王八幡宮⇒金王神社前信号⇒魚屋・渋谷3丁目2⇒六本木通り⇒渋谷ファーストタワー⇒青山トンネル⇒実践女子大⇒青山学院初等部⇒常陸宮邸⇒常盤松の碑・渋谷区東4丁目4-9⇒国学院大学⇒国学院大学前信号⇒常磐松(ときわまつ)小学校⇒渋谷図書館入口信号⇒渋谷氷川神社⇒塙保巳一史料館⇒区立広尾中学校⇒都立広尾高等学校⇒福昌寺⇒庚申橋⇒東恵比寿商栄会⇒恵比寿1丁目信号⇒JR恵比寿駅西口⇒JR恵比寿駅東口⇒恵比寿ガーデンプレイス⇒アメリカ橋⇒TOP of EBISU⇒銀平(昼食)⇒エビスビール記念館⇒三田橋⇒目黒三田郵便局⇒三田春日神社⇒茶屋坂⇒アルジェリア民主人民共和国大使館⇒JR目黒駅⇒大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅

JR渋谷駅ハチ公は渋谷駅の待ち合わせ場所として最も有名な銅像。
ハチの飼い主は東京大学の上野栄三郎教授。上野先生が大学で急死した後10年後にハチも死去したようです。お墓は青山墓地の上野博士のお墓の傍。現在の像は2代目。初代は本田晋作でしかもハチの存命中に制作されていたようです。八の市はその翌年だったのも何となく不思議。剥製が現在の国立科学博物館にあるとのことでした。
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渋谷は再開発が真っ最中!!東京メトロ銀座線渋谷駅はいままで地下にあったと思いますが山手線のさらに上がホームになっていました。びっくり!!
SIBUYA MARK CITYは地上25階建て。ホテル、オフィス、バスターミナル、京王渋谷駅、東京メトロ車庫などがあり、綺麗に立派にできたようです
渋谷マークシティの連絡通路で一般公開されている岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を見ました。縦5m、横30mは圧巻でした。
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「明日の神話」は1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁での米・水爆実験で被爆したマグロ漁船「第五福竜丸」をテーマとした作品。1960年代後半、メキシコのホテルに設置するために制作され、その後行方が分からなかったのが2003年にメキシコ資材置き場で発見され、「明日の神話」再生プロジェクトが発足。1年余りの修復作業を経て2008年に渋谷区を恒久設置先に決定し、同年11月17日より同所で一般公開がスタート。以来、NPO法人「明日の神話保全継承機構」の主導で、毎年秋に壁画の清掃・修復・補強作業が行われ、今年で3回目を迎えたとのことでした。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)。
1092年(寛治6年)現在の渋谷に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとのこと。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとのことでした。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東n宦i天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡とよばれていたようです。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したからだそうです。
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金王丸が植えたという金王桜がありました。
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宝物殿にはとても古い御神輿があり、これは鎌倉八幡宮七神輿の一基で都内西湖の物だそうです。
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常盤松(ときわまつ)の碑。
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「常盤松」は、氷川神社の神域にあった名木で、『江戸名所図会』の「渋谷 氷川明神社」の絵に「神木」として描かれている木がそうです。伝説では、源義朝の側室である常盤御前(ときわごぜん)が植えたとされており下記のような和歌があります。
わがきみの こゝろのまゝに ゆくすえも ときわの松の はなにこそみめ
またこの歌は義朝が常盤御前を想って詠ったものともいわれています。常盤御前は、有名な牛若丸こと源義経の母親で、義朝の死後は公家の一条長成に嫁いだそうです。

渋谷氷川神社。
渋谷地区の最古の神社で古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であったとのことです。創始は1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあるようです。
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その昔9月29日(現在は9月15・16日)の祭礼に金王相撲が行われ大変な人気だったそうでその時の土俵が今も残っています。
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塙保巳一(はなわほきいち)史料館。
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塙 保己一(1746〜1821)は盲目の学者。現在の埼玉県本庄市児玉町の農家に生まれ、7歳のとき肝(疳?)の病がもとで失明、15歳で江戸に出て盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門鍼・按摩・灸、琴・三味線などの修行をするが上達せず、雨富師匠の支援で学問を始めて文学・医学・律令・神道などを、さらには賀茂真淵にも入門し『六国史』などを学び、安永8年(1779)34歳から『群書類従』の編纂に取り組み、40年後の74歳で完成させた方だそうです。本日は中に入りませんでしたが館内には書物の元となった版木などが保管されているとのことです。またここを昭和12年に訪れたヘレン・ケラーが「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語ったという話を聞きました。
更に埼玉県本庄市には平成27年にリニューアルされたばかりの塙保己一記念館があり、国史跡の旧宅や666冊の本となった群書類従が見られるとのことでした。

福昌寺(ふくしょうじ)。
近代的な建物がいきなりありましたが実は天正・文禄の頃の寺院だとのことです。
入口左手に石棺仏の石刻阿弥陀像がありました。
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彫刻が少ない十五世紀頃の石仏でしかも石材は6世紀頃の古墳型石棺の蓋に使われていた和泉砂岩だそうです。
またすぐ傍に花供養塔があり、説明の碑もありました。
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花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり   昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会

庚申橋供養碑は渋谷区東3丁目の庚申橋のたもとにありました。1799年に建てられたこの碑は四面すべてに橋講中の世話役や万人講および個人の名が渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことを示しているのです。
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恵比寿ガーデンプレイスは、渋谷区と目黒区に跨る複合施設で、サッポロビール工場跡地の再開発事業として1994年(平成6年)に開業したとのことです。
東京都写真美術館手前の高層ビルはTOP of EBISU 38階の銀平で昼食。
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煮魚定食はさすがに美味でした。
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エビスビール記念館。
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サッポロビール本社やヱビスビール記念館がある恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)。そこには、かつてヱビスビールを造る工場がありました。1887(明治20)年、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)が設立され、1890(明治23)年に「恵比寿ビール」が誕生。1901(明治34)年には恵比寿停車場という名の積み卸し専用の駅ができ、そこから「恵比寿ビール」を各地へと出荷。恵比寿という地名ができたのは、その後の話。そう、恵比寿という街の名は、ヱビスビールが発祥なのです
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茶屋坂と爺々が茶屋。
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江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋がり徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったとのこと。そしてある時、遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍が、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じて出されたのが目黒のサンマ。こうして「さんまは目黒に限る」という落語がいまもつたわっているようです。爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられたとのことで目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、今はもうやめたようです。しかし島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されているとの話は面白いですね。

アルジェリア民主人民共和国大使館。
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目黒区三田2-10-67にありました。ホームページで見るとアルジェリアは、アフリカの北に位置し様々な風景を楽しむ事が出来る国。国土面積は、2 381 741 Km2、国境を接する国々は、チュニジア、リビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラそしてモロッコの7か国。アルジェリアを取り巻く国境線の距離は6000kmとのこと島国の日本では想像できないことが一杯と思いました。
緩い登りの権之助坂を上りきるとJR目黒駅。
この後の歩程が大円寺⇒大鳥神社⇒五百羅漢寺⇒目黒不動⇒JR五反田駅とわかっていました。これらのコースは何度か歩いたことがあるため空模様が気になり、本日はこれにて自主的に終了とさせていただきました。
結果として渋谷〜目黒で7km、歩程約15000歩。お陰様で翌日の「MBTノルディックウォークin 代々木公園」に元気に参加し、春の花々を大いに楽しみ仲間と過ごすことができました。感謝!
これで山手線はあと1回、また4月に頑張ります。
それではここでこの翌日(3/17)に伺った代々木公園の春を感じた花をアップしておきます。

ミモザです。
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ユキヤナギです。
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彼岸桜です。
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コブシです。
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posted by yunofumi at 07:26| あちこちウォーク

2019年03月09日

2019.3.3. 東京新発見旅第22回 大田区

今日の大田区は大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採った合成地名。東京都に23ある特別区の一つ。人口約73万人。東京都区部の最南端。大田区は多摩川を挟んで神奈川県川崎市と接する交通の要地で、東京都心と神奈川県を結ぶ鉄道(JR東海道線・京浜東北線や都営地下鉄浅草線と相互乗り入れする京急線など)の本数が多い。区東部には羽田空港があり、大田区の面積の約3分の1を占める。
大田区でのキーポイントの一つは大森貝塚。1877年(明治10年)横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見したのが大森貝塚。これは日本で考古学が発達していった最初だそうです。大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道の線路側に石碑があるとのことでしたが今日は雨降りで見に行きませんでした。
もうひとつのキーポイントは文士村。石坂洋次郎、宇野千代、尾ア士郎、川端康成、 川端龍子、北原白秋、、子母沢寛、高見順、萩原朔太郎、三島由紀夫、室生犀星、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉屋信子、和辻哲郎などなどが日常を過ごし楽しく暮らしていたようです。
これらは山王会館や郷土博物館で色々知識を得られるとのことで楽しみにして出発しました。

JR大森駅⇒天祖神社⇒大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)・大田区山王2丁目14⇒山王公園⇒山王会館・馬込文士村資料展示室⇒いにしへの東海道石碑・明神橋・大田区中央1丁目14⇒龍子記念館⇒熊谷恒子記念館⇒尾崎士郎碑⇒宇野千代碑⇒ネパール料理タンセンビュー(昼食)⇒真船豊碑⇒南馬込五丁目公園⇒佐藤朝山碑⇒郷土博物館⇒湯殿神社⇒池上梅園⇒村田商店⇒池上本門寺⇒萬屋酒店⇒東急池上駅

本日はしばらくぶりに東京23区のウォーキングツアーです。あいにくの雨降りですが参加者21人はJR大森駅に早々に集合。渡辺先生とTD小玉さんの先導で10:00出発。

JR大森駅に降りたのは初めて。山手線から京浜東北線に乗り換えて到着。1日平均乗降客は10万人弱。道理で駅舎もきれいでしたし人が一杯でした。
天祖神社は大森駅のすぐ傍で正式には神明山天祖神社。享保年間(1716〜1735年)、当地の庄屋・年寄・百姓らが伊勢講を組織して、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建といわれているとのこと。神仏分離令にともない、1872(明治5)年に円能寺から分離し「神明山天祖神社」と改称したとのことでした。
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大森射的場跡(日本帝国小銃射的協会跡石碑)。
大森射的場のあった跡地はテニスコートとなっており、入口付近の駐車場の角に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がありました。この射的場は1889年(明治22年)から1937年(昭和12年)ごろまで使用されていたとのこと。敷地は窪んだところにあり谷間に作られた様でした。1899年(明治32年)明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立されたのです。大森射的場は周囲の住宅化により1937年(昭和12年)に横浜鶴見の東寺尾に移転してとのことでした。
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大田区立山王会館。
馬込文士村資料展示室が1階に設けられており、山王ゆかりの文士を紹介する展示がありました。平成7年5月に「馬込文士村散策コース」中の拠点施設の一つとして開設され馬込ウォークのパンフレットもいただきました。
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馬込文士村散策マップがあるとのことでした。
これを見ながら再び気候の良い日に再度伺いたいと思いました。

環七通りの陸橋をくぐった先に「いにしへの東海道」と書かれた石碑がありました。「此の道は 時代により奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還などと呼ばれていた古道です」と彫られていたとのことでした。
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大田区立龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(かわばたりゅうし)(日本画家)(1885-1966)により、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立。当初は青龍社が関与、1991年から大田区となり現在にいたっているようです。館内には大正初期から戦後にかけての約140点の龍子作品を所蔵。多角的な視点から龍子の画業を紹介しているとのことでした。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品が多くありました。
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龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されていました。
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ボケが立派な実を付けていました。
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熊谷恒子記念館。
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美智子皇后陛下にご進講されたことでも知られる現代女流かな書道家、熊谷恒子(1893年から1986年)の旧居を改修し、作品を展示しています。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われています。
作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載しています。

尾崎士郎邸跡、宇野千代邸跡、真船豊碑、藤朝山碑と次々に説明を書いた石碑があり、如何に文士たちの住まいや活躍の場が多かったかがしのばれました。

ネパール料理タンセンビューで昼食。はじめてのネパール料理でした。カレーは相当辛かったですが美味しくて皆が笑顔になりました。
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大田区立郷土博物館。
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中の展示は大田区の地中の歴史、昔の道具、海苔養殖、大田の物つくり、麦わら細工などみるものが沢山ありました。馬込が発祥の地といわれる馬込大太三寸人参がプランターで育てられていました。

湯殿神社。
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池上梅園。
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ここはもともと日本画家伊東深水の自宅兼アトリエだった「月白山壮」がありましたが戦災で焼失。戦後は築地の料亭の小倉氏の別邸だったとのこと。その後庭園を残して大田区に譲られたとのことでした。現在大田区の花である白梅150本、紅梅220本が植えられているとのこと。今日は雨模様でしたがほぼ満開状態で散策を楽しみました。

村田商店は天草100%の寒天はほんのり甘くお土産にも最適という池上で評判の甘味処。
店先に大きくみつまめ、あんみつ、ところてんと書いてありました。
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池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、日蓮宗の大本山。日蓮の入滅の霊場であり日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつでありまた大本山のひとつにも挙げられている寺院です。
1282年(弘安5年)、病身の日蓮が身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着し、生涯最後の20数日間を過ごしたのです。またこの時、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源ということでした。

総門は元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立とのこと。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるとのことでしたが、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵されているのです。
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大坊には日蓮が亡くなられたお部屋があるとのことでした。
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多宝堂は境内の西方にあり、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建っていました。
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経堂は東京空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部に回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていたとのこと。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地にありました。
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本殿は、本師(釈尊)のおられる殿堂。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。
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五重塔高はさ31.8m。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築されたようです。
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力道山の墓。この方は大相撲出身だったのがプロレスラーで有名になった方。お酒の上での殺傷事件で命を落としたようです。
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大野伴睦の墓。
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昭和39年に亡くなった政治家。典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した大物政治家。

日蓮像。
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宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された像。制作は、斯界の権威 北村西望。北村西望は平長崎の平和祈念像.の制作者でもあります。

萬屋酒店。
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池上本門寺参道沿いで、もとは茶屋を営んだのがはじまりとのこと。つし二階建,出桁造りで江戸時代以来の町家の形式で、上げ下げ戸を含め、旧状を良く残しているようです。門前町の代表的な建物のひとつで棟梁は加藤甚五郎とのことでした。

東急池上線は蒲田から五反田までに15駅があります。1922年(大正11年)に池上本門寺へ参拝客を運ぶ目的で開業。はじめは蒲田から池上、その後、現在の五反田まで開通。沿線では現在も池上本門寺と洗足池が有名。私的には星薬科大学のある戸越銀座駅や昭和大学がある旗の台駅が馴染みです。

本日は出発時から終了まで雨降り。朝は4℃、日中も10℃はなかったかもしれません。
久しぶりにゴアテックスの上下を着こんでいたので特に寒さは感じませんでした。やはり街歩きとはいえ装備は大切なのです。歩程8km、150000歩をこなし、まずますのウォーキングでした。この東京新発見もあと1回の北区を残すのみとなりました。次回は3/23です。晴天になりますように!!
posted by yunofumi at 23:16| あちこちウォーク

2019年02月27日

2019.2.26 さんさん会ウォーク 総持寺から・・・

本日は旧東海道五十三次有志の集まり「さんさん会」からのお誘いでウォーキングに参加。
幹事千代田さん、講師の浅井先生含め19名が参加。
私は2013年(平成25年)10月の32期での完歩でしたがこの集まりは33期の集り。私はこの2つのグループの行程で都合の良い時に参加していたのでどちらの方々とも仲良しになったのです。

JR京浜東北線鶴見駅⇒鶴見西口歩道橋⇒鶴見大学歯学部附属病院⇒総持寺⇒京急鶴見駅−京急電車−生麦駅⇒キリンビール横浜工場⇒生麦事件碑⇒明神前信号⇒生麦事件参考館⇒京急生麦駅⇒京急横浜駅

総持寺は曹洞宗の大本山。曹洞宗は中国より坐禅を中心とする仏法を日本にもたらした道元禅師と、その教えを全国に広めた四代目榮山禅師を両祖とし、それぞれが開いた永平寺と総持寺の二つを大本山としています。もともと石川県輪島市門前町にあった総持寺ですが1898年(明治31年)の大火災で多くの伽藍が焼失しこれをきっかけに横浜の現在地に移転してきたのです。
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総持寺の三門(さんもん)は 1969年(昭和44年)落成。鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさとのこと。三門の左右には金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の湖の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる。三門楼上には、瑩山が能登に開山するにあたり三門楼上に僧形の観世音菩薩像、地蔵菩薩像を安置したことにちなみ、観音・地藏の放光菩薩像と十六羅漢像および四天王像が祀られているとのことです。三門正面の扁額には總持寺の山号「諸嶽山(しょがくさん)」と書かれていました。
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香積台(こうしゃくだい)は 総受付で拝観・墓地・法要・参拝等の受付を行っている所。売店や休憩所もありご朱印もこちらでいただきました。玄関には日本最大といわれる木彫の大黒尊天が祀られていました。
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香積台から入り迷路のように案内されて食事場所に伺いました。途中の案内でホテルのように宿泊施設もあることがわかりました
食事は精進料理膳で味付けは薄くとても美味しかったです。
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百間廊下は長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下のこと。廊下の途中には朝をあらわす「金鶏門」(東)、昼をあらわす「中雀門」(中央)、夜をあらわす「玉兔門」(西)という脇門(通用門)がありました。1日2回雑巾がけをしているとのことでツルツル、ピカピカでした。
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大僧堂は、雲水僧が集まり来るということから「雲堂」、また仏祖を選出する道場の意から「選佛場」と書かれた額がありました。私たちは中を見ることはできません。
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仏殿は 1915年(大正4年)に竣工され本尊釈迦如来像が安置されているとのことです。
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方光堂(ほうこうどう)は1911年(明治44年)に総持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物とのことです。もともとこのお堂は安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立され、その後、総持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしていたとのことです。現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しているようで、中には沢山のお位牌が見られました。
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墓所に入ると日比野雷風のお墓がそびえたっていました。
日比野雷風とは、幕末の剣術家で神刀流道場を開いたようです。ここは剣術以外に槍術や柔術等も指導する総合武術道場のようだったと伺いました。
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石原裕次郎さんのお墓はいつきてもお花が絶えないようです。
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キリンビール横浜工場は以前にも伺いました。
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工場見学が参加者にわかりやすくさらにパワーアップしていました。映像の見せ方や機械など行程のなどかなり新しいヴァージョンでした。何よりも工場長が女性で驚きました。この方はビール製造大手、キリンビールで初めての女性工場長となった方だそうです。彼女自身はキリンビールに入社後、品質保証や醸造担当、醸造部長などを経て、神戸工場長に就任、そして現在に至るとのことです。きっとものすごい頑張り屋さんだと思います。
また見学コース途中にビールづくり体験教室のお部屋とパンフを見ました。できれば体験したいところですがすごい人気だそうです。
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試飲コーナーでは出来立ての一番搾りを含め3種類のビールとソフトドリンクの試飲ができました。お酒をいただかない私はノンアルコールビールや珈琲、紅茶などいただきましたが見事に美味しかったです。
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生麦事件碑は案内板も新しくなりわかりやすくなっていました。
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生麦事件参考館は浅海武夫さんが開設されている史料館です。今回初めて見せていただきました。
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中には貴重な資料がいっぱいあり驚きました。約1時間浅海武夫さんの講演をビデオで見せていただき事件の真相をとても詳しく理解しました。まるで大河ドラマにでもなりそうな筋書きでとても驚きました。また事件の解決というか結末が日本的で、昔も今も日本人って変わってない!とも思いました。「ドキュメント生麦事件」という冊子にサインをしていただきまた皆で記念撮影もしました。本当に貴重なひと時でした。
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朝9:30スタートですべての予定を16:45に終了。その後は有志で旧交を温めました。
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横浜駅西口エキニア横浜2階「北海道」はとても美味しく堪能しました。
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お土産はキリンビール工場限定の一番搾りビールゼリーチョコレートと浅海武夫さんのサイン入り冊子「ドキュメント生麦事件」です。
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今日は曇りながら約12℃。少し寒さが厳しいかと思いましたがまずまずのコンディション。
心配した雨にもほとんど会わずに済みました。懐かしい面々とご一緒に浅井先生の先導で1日楽しくウォーキングでした。途中、電車移動もありましたが帰宅してみると歩数は約20000歩。元気に皆さんとお会いできたことに感謝!そしてまたご一緒しましょうと約束しました。感謝!!
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2019年02月25日

2019.2.23 横浜散策 第15回神奈川区

JR東神奈川駅⇒京急仲木戸駅⇒東神奈川駅前郵便局⇒金蔵院⇒熊野神社⇒松並木・御殿町公園・高札場⇒神奈川地区センター⇒成佛寺⇒慶運寺⇒浄瀧寺⇒神奈川の大井戸・宗興寺⇒滝の橋⇒理容滝の橋・神奈川町本陣跡⇒横浜福音教会⇒笠間稲荷大明神⇒神奈川台場跡⇒青木町本陣跡⇒幸ヶ谷小学校⇒宮前商店街⇒洲ア大神⇒神奈川宮前郵便局⇒普門寺⇒甚行寺⇒萬新菜館(昼食)⇒京急神奈川駅⇒青木橋⇒本覚寺⇒三宝寺⇒高島山公園⇒東横フラワー緑道⇒大綱金毘羅神社⇒料亭田中屋⇒神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所⇒上台橋⇒鶴屋町歩道橋・鶴屋町クレインズ歩道橋⇒JR横浜駅

神奈川区では「かながわ歴史亀さんぽ」というパンフレットが横浜市歴史博物館の協力で作られており本日はこれを見ながらウォーキングです。片面が地図になっており旧東海道と神奈川宿歴史の道が色付けでわかるようになっていました。
とても良い工夫の一つ目の発見は車道と歩道境目の車止めは亀のモチーフがずらり。
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二つ目の発見は街路灯のてっぺんに亀のモチーフが街灯大きさにより2種類。
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三通目に発見は観光史跡や名所の入口には青紋が扇形でありました。
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JR東神奈川駅自由通路東口通路には歌川広重の東海道五十三次の「神奈川台の景」があり茶屋立ち並ぶ風景と湊の様子がわかるとのことでした。惜しいことに本日の集合待ち合わせが西口デッキあたりだったので見損ないました。

金蔵院は京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹とのこと。その後、徳川家康から十石の朱印地を許されています。その昔の参道は街道まで伸び、金蔵院と今はお隣の熊野神社が境内に並び立っていたとのことです。本堂前には徳川家康の「御手折梅」といわれる梅があり当時は毎年一月にご住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしだったとのことです。本日は閉門しており熊野神社の方から垣間見ました。
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熊野神社の創建は1087年(寛治元年)、醍醐三宝院勝覚僧正68代が紀伊国牟婁郡熊野坐神社を分祀、神奈川権現山に勧請、熊野三社大権現としたとのことです。1582年(天正10年徳川家康公武州小机領神奈川郷の内御朱印高10石を賜ったのです。
拝殿は銅板葺入母屋造。扁額には「熊野大神」と記されており拝殿背後の本殿は、美しい流造です。現在の社殿は戦後に再建されたものとのことでした。
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境内入口は南東向いており、石の大鳥居の左右におおきな立派な狛犬がありました。
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本殿右手後方には樹齢四百年の公孫樹の木がありました。
木の中央部に洞があり、少し焦げたあとのようでした。
この公孫樹は1868年(慶応4年)の神奈川大火や1945年(昭和20年)の戦災で焼失したのにその後、再生したため「火伏のイチョウ」と呼ばれているとのことでした。
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御殿町公園から神奈川地区センターの先まで神奈川宿を偲ぶことができる松並木になっていました。松並木は夏は木陰を作り福や吹き付ける風や雪から旅人を守ったといわれています。この風景は町おこしで新たに松が育ちつつあるようです。
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傍には昔のお知らせを掲げた高札場がありました。
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そうそう、神奈川地区センターには広重の東海道五十三次八十二万歩の旅のジオラマがありました。

成佛寺(じょうぶつじ)(外国宣教師宿舎跡)。
成佛寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺院。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移されたとのことです。1859年(安政6年)の横浜開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ジェームス・カーティス・ヘボン博士は本堂に、宣教師のブラウンは庫裡に住んだということを伺いました。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られおり日本最初の和英辞典を完成ました。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力、ここでは通訳として活躍したアーネスト・サトウも学んだようです。
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写真中央の石の模様が浪のようなのが「浪石」。言い伝えでは満ち始めると湿気を持ち、満潮になると夜露がしたたるようになりまた、引き潮になるとぬぐったように乾くので潮の時刻がわかるということでした。浦島太郎が竜宮から帰ってきて両親の墓に参り、呆然とたたずんだあと再び竜宮へ行こうとしたが、それは出来なくて、この石に腰を下ろして過ぎし日を偲んで思わず大きな涙をこの石にはらはらと落としたことから「浦島太郎の涙石」「泣き石」とも言われているようです。

慶運寺(けいうんじ)(フランス領事館跡)
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横浜・神奈川区に江戸末期明治時代に観福寿寺という寺院に浦島太郎が竜宮より持ち帰った観音像を本尊としていたため「浦島寺」と呼ばれていたということです。ただ明治初年に浦島寺が焼失して以降、観音像と浦島大明神像・亀化龍女神像(乙姫像)は慶運寺に移されて祀られたのです。東京芝・増上寺元禄8年の記録に「浦島太郎所持之観音像」と記されているそうで、浦島寺の観音像は、江戸時代のはじめから浦島太郎ゆかりの観音さまとされていたのです。
浦島観音の扁額があるお堂内には観音様がはっきり見えました。
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浦島太郎の山車は浦島町浜公園で年数回展示されるとのことでした。
また浦島太郎の絵本ができており浦島太郎伝説を子供たちに伝える努力がされているとのことでした。

滝の川を挟んで浄瀧寺(じょうりゅうじ)(イギリス領事館跡)がありました。
日蓮宗に寺院、1260年(文応元年)妙湖尼が日蓮に出会い法華経の道場とした寺院だとのこと。
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「神奈川の大井戸」は徳川将軍や明治天皇が来れた時にも使われた井戸だそうです。井戸の水量が増えると次の日にはお天気といわれ「お天気井戸」とも呼ばれていたとのことでした。
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宗興寺(そうこうじ)は曹洞宗のお寺で正式には開塔山日輪院宗興寺。創建年代は不詳とのことですが、伊豆海島風土記によると永享12年(1440年)に開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとのこと。臨済宗さらに曹洞宗寺院となったようです。
幕末になると横浜が開港され、ヘボン式ローマ字の宣教医ヘボン博士がこの宗興寺に施療所を開設したのです。
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境内には「ヘボン博士施療所」碑がありました。
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神奈川宿の本陣は今は閉店したらしい理容滝の橋の所に神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の2カ所に説明板がありました。

横浜開港当時、港の警備のために権現山の土を使ってできたのが神奈川台場。これは勝海舟が設計した8000坪の台場だったようです。今は埋め立てられ石垣のみが一部残っていました。
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洲ア大神(すざきおおかみ)は源頼朝が作った神社とのこと。この神社にご神木のアハキがあったことからこの辺りは青木町となったようです。
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甚行寺(じんぎょうじ)(フランス公使館跡)
横浜開港当時ここの本堂は土蔵作りだったのを改築して公使館として使われたようです。

青木橋から本覚寺と権現山を見ると東海道本線の辺りがぐっとへこんでいます。しかしこの権現山(現在の幸ヶ谷公園)と本覚寺の辺りはもともと尾根続きだったそうで、戦国時代にはそれぞれ隣接して権現山城と高島台には青木城があったのです。この両者の間を削りこの土を色々なところの埋め立てに使ったようです。右手に見える権現山は見事にてっぺんが削られています。
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また鉄道を通したことから青木橋の下は谷積みよう壁という頑丈な壁になっているのです。

本覚寺(ほんがくじ)(アメリカ領事館跡)
もと臨済宗で、1226年に宗祖栄西により創建されたと伝わっています。
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横浜開港時アメリカ領事ドーアが庭木を切り払い4星条旗を掲げ寺の正門には白いペンキを塗ったとのことです。その後このペンキを剥がすことが大変だったようでまだ山門の一部が白くなったままでした。文化の違いは恐ろしいですね。
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この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。横浜開港の恩人への感謝として有志により昭和57年に建立されたとのことです。 岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍をした人物。日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震なのでした。その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのです。しかし、開港の前年に岩瀬忠震は左遷され、更には安政の大獄により永蟄居を命ぜられ、その後、1861年、44歳で死去したとのことです。
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このペンキ剥がしが縁なのでしょうか。全国塗装業者の慰霊碑がありました。
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高島山公園には「望欣台の碑」と「弁玉の歌碑」がありました。
高島山は高島嘉右衛門の屋敷があった所。この方は明治初期に鉄道を通すために尽力した方。埋め立ては野毛浦石崎から神奈川停車場までの1.5km、幅76mの海面を埋め立てたのです。この時使われた土が権現山と本覚寺手前の所、ということで今は東海道線がとっているのです。
「望欣台の碑」は横浜の都市形成期の恩人高島嘉右衛門の顕彰碑。
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「弁玉(べんぎょく)の歌碑」にある弁玉は幕末の僧侶・歌人。浅草の生まれ、晩年はこの公園そばの三宝寺の住職でもあったとのことです。
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東横フラワー緑道は、東急東横線の地下化により生じた東白楽駅 - 横浜駅間の線路跡に横浜市によって整備された延長約1.4kmの緑道(公園)です。AM6:00〜PM9:00までの通行可能なのが面白いと思いました。
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広重の「東海道五十三次」の神奈川・台之景に描かれており、坂の上から三軒目に「さくらや」とあるのが、現在の田中家。幕末の頃、1863年(文久3年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしたとのことです。
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幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうが夫亡き後に仲居として働いており、明治時代には、幕末の偉人達や要人、各国の大使、文化人などが利用したようです。
ちなみに坂本龍馬の妻・おりょうは、寺田屋騒動の折、龍馬の危機を救った女性として広く知られています。龍子は横須賀で再婚し、西村ツルの名で最初は大津、次に米が浜に住んでいました。人生の後半生33年間を横須賀で過ごしたおりょうのお墓は、現在、大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあり、毎年秋に龍子を偲んで墓前祭など、「おりょうさんまつり」が催されているとのことでした。

神奈川台関門跡。
横浜開港後色々事件が起こったため関門や番所を作り外人さんの行動範囲に制限を架けたようです。関門か神奈川宿には東西にあったようです。
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袖ヶ浦見晴所。
昔はこの石碑があるお向かい、田中屋の後ろはもう海でしたからきっとこの辺りの台地からは見晴らしがよいということで見晴らし所があったことでしょう。

現在の横浜駅は三代目の駅舎。初代は桜木町駅に改称されています、二代目の「横浜駅」は現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近にありました。現在は国道1号「高島町交差点」脇に駅舎基礎部分の遺構が残っており、横浜市認定歴史的建造物となっています。

本日はスタート10:00、ゴール15:50。からりとした青空で気温13℃はちょうどよかったのですがかなりの強風でちょっと大変でした。でも浅井先生TD金子さんの支えがあって参加者17名は無事に約15000歩、11kmを完歩。
横浜駅前で解散時お土産は高島屋でいかが!とお声掛けをいただきました。
早速7階の横浜001コーナーで勝海舟が設計した台場をイメージした「勝サブレ」と名物「横浜崎陽軒のシュウマイ」をゲットしました。
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居合わせた店員さんから「勝サブレ」をどうして求めたかの質問をいただき、事情を話したところとても喜んでいただきました。
さてさてこれで横浜散策はあと3区となりました。
またスケジュールを見ながら18区完歩を目指します。
posted by yunofumi at 21:39| あちこちウォーク

2019年02月21日

2019.2.20 大多摩ハム工場見学ウォーク

JR青梅線拝島駅⇒熊川⇒ファミリーマート拝島駅北店⇒玉川上水沿い日光橋⇒玉川上水沿いどんぐり橋⇒玉川上水沿い日光橋公園⇒玉川上水沿いみずくらいどん公園⇒玉川上水沿い五丁橋⇒熊川2号水源⇒福生消防署熊川出張所⇒五丁橋通り入口⇒横田基地第5ゲート⇒わらつけ街道⇒原ヶ谷戸東公園⇒福生街道踏切⇒氷・山上商店⇒大浦歯科医院⇒大多摩ハム⇒JR青梅線福生駅

本日はMBT自由が丘店のイベントで大多摩ハム工場見学ウォークでした。
ずっと昔、大学卒業早々はすぐ傍の羽村町に住み、青梅市立総合病院に勤務していましたので懐かしくて参加しました。
JR青梅線拝島駅には8:45集合。駅が綺麗になっていてびっくり。
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今日はまたしても晴天、朝出がけAM7:00は5℃くらい、でも日中はほぼ無風で陽射しが強く19℃はあった感じ。ウォーキング中はやや汗ばみました。
さて参加者14名は拝島駅から9:00出発。すぐ玉川上水沿いにウォーキング。途中のどんぐり橋で記念撮影。
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全員が4MBTシューズですがほとんど同じ靴の方がいないのがオモシロイ!
日光橋公園では雑木林の中を散策。
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五丁橋あたりも玉川上水の水はとても綺麗。
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ほどなく横田基地第5ゲートに到着。
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この辺りの地元車は八王子ナンバー。そういえばそうか?と長年忘れていた記憶をまさぐっていました。
大多摩ハム、シュトゥーベン・オータマは1921年小林榮次が創業。この方はドイツ人技師アーグスト・ローマイヤに師事してドイツハムの技術を取得したようです。もともと都内にあった工場はこの福生には終戦後の1947年この地の水がご縁で工場を構えたようです。現在は3代目社長が相変わらず国産肉にこだわり手造り低添加ドイツ式を貫いているとのことでした。
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まずはお互いに自己紹介。
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和んだところでの工場見学は手作業でのカット作業を見せていただきました。
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その後レストランでドイツ風の昼食。皆さんはビールをいただき大いに盛り上がっていました。アルコールをいただかない私はハムステーキランチを食しました。
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その後は直売店でお土産を物色。
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すっかりお腹も身満たされましたのでこちらで各々が解散。
私たちはJR青梅線福生駅に出て立川〜西国分寺から武蔵野線で帰路につきました。本日は約10000歩の歩程でしたから十分余裕が残っていたので地元で夕食の買い物をして帰宅しました。皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:21| あちこちウォーク

2019年02月17日

2019.2.16 東京まちさんぽ

メトロ護国寺⇒護国寺⇒大塚三丁目信号⇒大黒湯⇒お茶の水女子大学⇒跡見学園⇒メトロ茗荷谷駅⇒茗台中学校⇒春日2丁目⇒傳通院⇒淑徳学園⇒善光寺のムクノキ⇒慈眼院沢蔵司稲荷⇒えんま通り商店街⇒大亜堂書店⇒こんにゃくえんま⇒善雄寺⇒富坂下信号⇒メトロ後楽園駅⇒小石川後楽園⇒日中友好会館⇒飯田橋職安前信号⇒お茶の水石碑⇒湯島聖堂⇒外神田2丁目信号⇒昌平橋信号⇒三組坂下信号⇒メトロ湯島駅⇒湯島中坂下信号⇒白梅商店会⇒天神下信号⇒旧岩崎邸庭園⇒不忍池西信号⇒横山大観旧宅・庭園⇒池之端1丁目信号⇒上野動物園池之端門⇒忍岡小学校⇒きもの多古や⇒根津神社⇒根津神社裏門坂⇒日本医科大学病院⇒向ヶ丘1丁目信号⇒浄心寺⇒都立向ヶ丘高等学校⇒向ヶ丘2丁目バス停⇒メトロ本駒込駅

護国寺。
メトロ護国寺駅傍、大塚五丁目の真言宗のお寺さん。1681年(天和元年)に徳川綱吉の母である桂昌院が開祖。確か大隈重信さんやジョサイア・コンドルさんのお墓があると以前伺ったことがありました。
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境内はとても綺麗で日本水仙が咲き誇っていました。
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大黒湯。
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とても古そうな銭湯で今も営業している様子でした。屋根には八角形の湯気抜き見えました。

傳通院(でんつういん)
山門がとても立派。
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山門を通ると高くなった位置に本堂がありました。「如是我聞」の石碑横の紅梅が見事でした。
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善光寺のムクノキと説明板があり、痛々しい姿ながら大切にされている樹木のようです。
この場所は現在「善光寺坂」といわれる区道817号とその横の歩道との間に設けられたポケットパーク内とされていました。ここは江戸時代の頃は伝通院境内であったようです。廓山(かくざん)上人(伝通院中興第一世、寛永2年〔1625〕没)によって植栽されたものと伝わっておりまたその後、伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至っているとのことでした
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えんま通り商店街は江戸時代より源覚寺(こんにゃくえんま)の門前町として栄えた商店街のようです。今年から始まった大河ドラマ「いだてん」の主人公金栗四三が走っていた街と旗が掲げられていました。
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こんにゃくえんまの石柱を曲がると源覚寺(げんかくじ)でした。こちらは浄土宗の寺院。お堂の中には像高100.4cmの木造の閻魔王坐像があり、右側の眼が黄色く濁っているのが特徴とのことでしたがちょっとわかりませんでした。お供え物はすべて蒟蒻でした。
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小石川後楽園は、今から約400年前、江戸時代初期の1629年に水戸藩の初代藩主・徳川頼房によって江戸の中屋敷の庭として造られ、二代藩主の光圀の代に完成した所。お庭、特に池の配置などが素晴らしいとわかっているので本格的な春や紅葉の秋にまた伺います。
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コースを外れてお茶の水の湧水と石碑を見に立ち寄りました。
江戸時代、今のJR御茶ノ水駅周辺一体にあった「高林寺」の境内の一角より湧き水が出ていた所。三代将軍家光が鷹狩りで寺へ立ち寄った際にその水でお茶を立てたところ、大変美味しいためお気に入りになりその湧き水を「御茶ノ水」と名づけ将軍専用のお水とされたのです。この話を語り継ぐ史跡として御茶ノ水橋の交番横にありますが実はこの涌き水は現在は水道水とのことです。
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湯島聖堂は江戸湯島(東京都文京区)にあった孔子廟(こうしびょう)大成殿の別称です。1690年(元禄3)上野の忍ヶ岡(しのぶがおか)より移したもの。ここの敷地内に幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)がありました。これらは関東大震災でほぼ全焼し、その後再建された建築物をまとめて湯島聖堂といっているようです。
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メトロ湯島駅の隣にこれはまた年代ものの建物を見つけたので記念に撮影しました。このような発見も面白いのです。
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旧岩崎邸庭園は三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を今は都立公園として整備したもの。今まで数回訪れているので花の少ないこの時期なので中に入らず通過しました。

横山大観旧宅・庭園は、近代日本画の巨匠として有名な横山大観を記念して、1976年(昭和51年)に開設された記念館。この地に大観は、1909年から1958年に亡くなるまでほとんど居住て作品を制作していたようです。記念館には大観を始め、春草、芋銭、観山などの作品や大観の愛用した美術品が展示されているとのことでした。雰囲気は何か厳粛でちょっと入りずらかったので表の説明をじっくり読み、後日見学に来ようと思いました。
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池之端一丁目信号を過ぎると上野動物園池之端門が見えました。この入り口は初めて知りました。いつも混雑の上野動物園です。一度こちらから入ってみたいと思いました。きっと穴場ですね。
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根津神社はもとは根津権現,須賀社といわれていたようです。日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社です。境内はツツジの名所で私も何度か見に来ています。また森鴎外や夏目漱石などの文豪が近辺に住んでいたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されています。
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メトロ本駒込駅はメトロ南北線の東大前の隣の駅。普段そんなに乗降客は多くないと思いますが今日はイベントのゴールだったので改札前のコンコースは大にぎわいでした。おかげで私も無事にゴール出来て大満足でした。
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今日の東京メトロのイベント、AM9:00出発、メトロ護国寺駅〜メトロ本駒込駅の歩程約11kmに参加しゴールメトロ本駒込駅14:00でした。本日は素晴らしい晴天で朝はかなり寒かったですが日中ウォーキングしている時には14℃はあった感じでした。おかげで終わってみれば約24000歩とかなりの歩行で目安の歩行時間は約3時間25分となっていましたが食事やお茶、それにウインドウショッピングも楽しんだので充実したウォーキングでした。
ゴール後南北線本駒込駅からJR駒込駅に移動。駒込駅に来るとすぐ傍のお茶をする洋菓子「アルプス」で休憩。いつもと雰囲気が違うのでふと見ると3月いっぱいで閉店の張り紙が見えました。このお店は本格的な洋菓子と珈琲がとても美味しいお店なのでとても残念に思いました。でも偶然でしたが長年の感謝の気持ちを込めてのお茶タイムはそれなりに過ごせました。
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本日は5000人参加の大イベントでしたが私は抽選に当たり参加できました。今までは手作業での参加やゴールの確認でしたが本日は送られてきたQRコードをかざすだけで何事も進歩が見られてちょっと感心しました。
スタート時にはドリンクのヘルシア、ゴール時には参加証でタオルと缶バッヂ。お土産に買った「きもの多古や」のハンカチ共々記念になります。
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このメトロイベントはほぼ毎月あるようです。自分の都合を踏まえて申し込みをしても当選はなかなかで今回が2回目。ぜひまた参加しようと思っています。
posted by yunofumi at 23:23| あちこちウォーク

2019年01月27日

2019.1.27 高尾山へ(12回目)

ここ数日関東地方はほぼ快晴。
寒さが厳しいですが1月も終わるので高尾山へお出かけ。朝はかなり冷え込みましたが昼近くには8℃くらいになり大助かり。
ケーブルカーで高尾山駅へ。駅前には真新しいお店が沢山出来ていました。
十一丁目茶屋横からの展望もスッキリ!はっきり!東京まで見えました。
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浄心門を通り男坂へ。
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石段横にはもう若芽を出している植物もありました。

薬王院手前に杉の苗木寄贈の方々の木札が一杯。
さらに横には「高尾山健康登山の証」百冊成満者の御芳名が175番まであり、びっくり。
いつ見ても確実に増えているのです。
この手帳はスタンプ集めのようなものですが1回の登山に1回押印いただき、1冊21回分で萬行。
21×100回の登山の方が175人はおられるということです。このスタンプを集めていない方もおられるでしょうから高尾山がいかに人気があるのがわかります。
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薬王院山門。
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天狗も頑張って見えを切っています。
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薬王院仁王門。
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薬王院本堂。
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薬王院権現堂(本社)。
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高尾山不動堂。
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山頂、十三州大見晴台についてホッと一息。
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そしてなんと富士山がいつになくピカピカ!クッキリ!!とてもキレイ!!
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これより下山し、途中で薬王院太子堂にお参り。
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帰りのケーブルカーでは運転席横になりました。
線路向こうまで見るとこのケーブルカーは日本一の最急勾配31度18ということがはっきり実感できました。
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こうして私の12回目の高尾山ウォークは終了。
それにしてもお正月以後、この寒さもあり、ちょっと筋トレ怠け気味がモロに出ました。帰宅までに約16000歩だったのですが、ちょっと疲れていました。年齢も重ねていることが言い訳にもなりませんが、「筋肉は一日一日の積み重ね!三日怠ければ元の木阿弥!」日頃からわかっておりながら、なかなか自己管理が生ぬるく結果が露呈!!反省!!
また明日から何とかします!!
posted by yunofumi at 23:18| あちこちウォーク

2019年01月24日

20190119 鎌倉七福神めぐり

JR北鎌倉駅⇒東慶寺⇒1浄智寺⇒長寿寺・亀ヶ谷坂切通⇒建長寺⇒円応寺⇒巨福呂坂送水菅路ずい道⇒二十五坊遺跡⇒2鶴岡八幡宮⇒近藤(昼食)⇒3宝戒寺⇒土佐坊昌俊邸址⇒4妙隆寺⇒日蓮上人辻説法跡⇒大巧寺⇒5本覚寺⇒鎌倉市農協連即売所⇒下馬交差点⇒和田塚4号踏切⇒六地蔵⇒六地蔵交差点⇒鎌倉彫寸松堂⇒中山刀剣美術店⇒主馬盛久之頸幽⇒文学館入口交差点⇒甘縄明神宮⇒萬屋本店⇒のり真安濟商店⇒旅館對僊閣⇒6長谷寺⇒鎌倉彫白日堂⇒7御霊神社⇒江ノ電長谷駅

朝5時起き!まだ暗闇の中で支度開始。気温1℃?かなり冷え込んでいました。日中は晴天、ほぼ無風、最高気温11℃の予報を確認し、副都心線で約2時間弱、JR北鎌倉駅到着。これまでにも数回伺った北鎌倉駅はこじんまりと可愛い。今朝はいくつものグループが出発準備中。私は駅前の喫茶「門」が営業中だったので温かい珈琲をいただいてからクラブツーリズム「鎌倉和総菜ランチと鎌倉七福神めぐり」ツアーに参加。講師:長坂先生、TD川崎さん、参加者13名で9:45出発。

鎌倉七福神とは大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七つの神様の総称。「七難即滅、七福即生」の説に基づき七福神を参拝すると七つの災難が除かれ七つの幸福が授かるといわれています。近頃はお正月にあちらこちらでよく行われています。本日の鎌倉七福神めぐりは約5kmのコース。

出発後すぐに東慶寺(とうけいじ)の門前に到着。
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ここの山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。開基は北条貞時、開山は覚山尼とのこと。開山以来尼寺で、幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていたようです
「開山潮音院覚山志道和尚」は安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人であったためここは松岡御所ともよばれ格式ある寺だったのです。

1番目・浄智寺(じょうちじ)・布袋尊様(家庭円満の神様)
鎌倉幕府5代執権北条時頼の三男宗政が29歳で1281年に没し、8代執権北条時宗が弟の菩提を弔うために建てた寺院。庭が広く梅や牡丹が有名だそうです。
三門と甘露の井がお出迎えです。
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総門
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仏殿
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お寺の奥のやぐらの中に布袋尊様がおられました。参拝客の皆さんがお腹を撫でたため少し黒ずんでいました。
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建長寺(けんちょうじ)は鎌倉時代の1253年(建長5年)の創建。、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆、鎌倉五山の第一位。今日は門前でのご挨拶のみ。
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巨福呂坂送水菅路ずい道。
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元々は旧海軍施設。日露戦争の勝利により、海軍力増強が推し進められ、横須賀海軍工廠をはじめ海軍施設が拡張されたため、艦隊補給や工廠用水など水需要が増大。走水水源では間に合わなくなった海軍が新たに相模川支流の中津川から水を引くことを計画したのが軍港水道半原系統で、約53km離れた愛川村半原から新設の逸見浄水場まで自然流下式で導き、ろ過した後、各施設に配水するものだったのです。送水線路はほぼ直線に南東に向かい、鎌倉あたりで東南東に少し折れて横須賀・逸見へと続いており、送水線路上にあった河川や丘陵には水道橋や隧道が何箇所か建設されたのです。この水道管が敷設されたルートは「横須賀水道みち」、「横須賀海軍水道みち」と呼ばれたとのことです。

2番目・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・弁財天様(財運を招く神様)
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鎌倉市雪ノ下にある神社で武家源氏、鎌倉武士の守護神で鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が前年の役で奥州の安部氏を平定後、1063年(康平6年)、京の石清水八幡宮を鎌倉由比が浜郷に勧請し社殿を創建。その後、1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉入りするや由比が浜八幡宮(元八幡)をこの地小林郷に移したのです。1191年(建久2年)には武士の守護神の宗社に相応し上下了宮の現在の姿となったとのことでした。

弁財天様は旗上社におられました。
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若宮通り、津多ビル1F創作和料理「近藤」にて昼食。
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寒い時期は温かいことも御馳走のうち。お魚の煮つけの味もよく、野菜も添えられ美味しかったです。こちらは初めて伺ったお店ですがもう一度鎌倉野菜を味わいたいと思いました。

3番目・宝戒寺(ほうかいじ)・毘沙門天様(病魔退散・財宝富貴の神様)
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宝戒寺は天台宗の寺院で開基は後醍醐天皇で1335年(建武2年)に創建。この場所はもともと北条義時が小町邸を造って以来、北条執権の屋敷があった所。1333年(元弘3年)新田義貞に鎌倉攻めで鎌倉幕府は滅亡し北条一族は滅びたのです。北条得宗家九代の霊を慰めまた人材養成修行のために後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの屋敷跡に建立された寺院なのです。本尊は子育経読地蔵大菩薩で本堂にあるようでした。
お庭には可憐な日本水仙が咲いていました。
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聖徳太子を祀る太子堂。
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徳崇大権現者
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ここは白萩が有名で萩寺といわれています。

4番目・妙隆寺(みょうりゅうじ)・寿老人様(長寿の神様)
ここは日蓮宗の総寺院。 
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またこのあたり一帯は千葉常胤の子孫・胤貞の別邸跡といわれており千葉屋敷とも呼ばれているとのことでした。胤貞が1385年(至徳2年)七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建。ご本尊は日蓮上人。

妙隆寺の墓地には丸山定夫の碑がありました。
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丸山定夫は、明治34年5月12日、愛媛県松山市北徒歩町に、丸山常次の四男として生まれました。そして早くから演劇の魅力に憑かれ、大正13年6月3日、築地小劇場が東京築地に開設されるや、その開幕のドラを叩いた方です。昭和3年まで同劇場で働き、昭和4年新築地劇団の創立に加わり、15年まで舞台に立ち、独異の性格俳優として「新劇の団十郎」といわれ、新劇史上不朽の名をとどめた方です。多くの人に愛されましたが、昭和20年8月6日、広島市堀川町99番地、移動演劇桜隊の宿舎でアメリカ軍投下の原爆に遭い、十日間の苦悶の末、16日、厳島存光寺の庫裡で誰にも見取られずに43年のいのちを閉じたのです。その後、埋められた場所さへ知られずにいたのを、最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの協力で新しく記念碑が建てられ碑には由来が記されていました。

日蓮上人辻説法跡。
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昔の鎌倉では地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、不安と恐怖におののく人々を救おうと、38歳の日蓮上人は、松葉が谷の草庵から毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い法華経を教え熱心に説いていたようです。「煩悩菩薩・生死即涅槃」「南妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟りだと思い、法華経を信じる事を説いたのです。「政治が正しくなければ国も庶民の生活も安ずることが出来ない」また「為政者が邪教を信じ、法華経をないがしろにすれば”自界叛逆・他国侵逼難”となって日本は滅亡する」と予言していたとのことでした。

大巧寺はおんめさまとよばれたお寺。 安産を願う妊婦さんが、日本全国や海外からお札を受けに見えるようです。また、境内にて季節ごとに咲く多種類の花々が、訪れる方の心を癒します。
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5番目・本覚寺(ほんがくじ)・恵比寿天様(商売繁盛・五穀豊穣の神様)
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本覚寺は日蓮宗の寺院。日出上人が開山し、1436年(永亨8年)に創建。足利持氏が鎌倉の夷堂があった場所に寺を建て日出上人に寄進した寺院とのこと。
1274年(文永11年)に佐渡の流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人はこの夷堂に滞在して布教していたとのこと。
本覚寺文骨堂には身延山から分骨した日蓮上人の御骨が収まっており、東身延山ともいわれているのです。ご本尊は釈迦三尊。
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境内には樹齢100年以上の百日紅が花をつけるとのことでした。

鎌倉市農協連即売所の発足は昭和3年に、鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の茶屋の休憩所を借りて始まったようです。次に現在丸七商店の場所を経て、戦後の32年に現在の場所に移転してきました。 鎌倉野菜の運搬も、牛車、自転車にリヤカー、オート三輪車、トラックへと変わり、生産者も、3代目、4代目となっているとのことでした。

下馬交差点(げばこうさてん)は昔、鎌倉幕府へ詣(もう)でる武士は、ここで馬を下りてあとは、歩いて行ったと伝わる場所でした。

由比ガ浜大通の中ほどの道の角に六体の地蔵が赤い頭巾をかぶり、よだれかけを首にかけて並んでいて、このあたりの地名にもなっていました。
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この場所からやや北によったところに、鎌倉時代の刑場(けいじょう)があったと言われており、この刑場跡に罪人の霊を弔う(とむらう)ために祀(まつ)ったのが、六地蔵のはじまりとのことで、後に人通りの多い現在の場所に移されたとのことです。

鎌倉彫寸松堂(すんしょうどう)。
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構造規模は木造2階建、搭屋付、和小屋組 。延べ床面積421.22u、屋根は銅板瓦棒葺き、一部亜鉛引鉄板葺き及び桟瓦葺き、外壁は漆喰塗り大壁、一部押縁下見板張り。 この建物は、1936年(昭和11年)、鎌倉彫の彫師佐藤宗岳氏の店舗併用住宅として、市内の大工西井喜一、正二親子によって建てられたとのこと。1階店舗部分のガラス 戸、ショーウインドーなどに近代洋風建築技術が見られ、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような建物。寸松堂は建築当初から 笹目町、長谷界隈のランドマークとして重要な役割を果たし鎌倉の景観重要建築物となっています。
もうひとつ鎌倉彫白日堂(はくじつどう)の建物も有名で1940年(昭和15年)に鎌倉彫の工房兼住宅として建てられたとのこと。こちらも鎌倉の景観重要建築物。概観は、城郭風と寺院風を加味した感じにみえました。。
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旅館 對僊閣は明治末期から120年以上旅館として続き、現在の建物は関東大震災後、昭和2年頃に建てられたもの。長谷寺の参道にあり、必ず對僊閣が目につきます。一部改装が施されており、とてもよく戦前の和風旅館の佇まいを残している貴重な建物です。高浜虚子がホトトギスの会を開き、与謝野晶子が宿泊した当時の雰囲気も残っているようです。
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6番目・長谷寺(はせでら)・大黒天様(出世・開運の神様)
こちらは鎌倉時代以前からある古寺で736年(天平8年)の創建。坂東33カ所観音霊場の4番札所。
ご本尊十一面観世音菩薩。高さ9.18m、楠の木造、全身の金箔は足利尊氏が、光背は足利義満が納めたとのことです。
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長谷寺は紫陽花の花が有名、また秋の紅葉のライトアップも見事なようです。
そのほか藤や牡丹、つつじもよいようです。今日はちらほら白梅や蠟梅も見られました。

7番目・御霊神社(ごりょうじんじゃ)・福禄寿(知恵の神様)
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この社はもともと鎌倉の平氏五氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖先を祀る御霊神社だったようです。その後武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱を祀るようになったようです。
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本日はほぼ16:00すぎにウォーキング終了。歩程約6km、歩数は16000歩超。一カ所づつ、かなり丁寧に見て歩け、なかなか得難い行程でした。
この時期ですからお花が見られませんでした。今後は時期を見てまた伺おうと思いました。
posted by yunofumi at 00:19| あちこちウォーク

2018年11月18日

2018.11.17 横浜散策 第14回金沢区

京浜急行金沢文庫駅⇒金沢文庫駅前交差点⇒称名寺・北条実朝廟⇒中世の隧道⇒金沢文庫⇒KABA’S KICHEN1050⇒金龍寺⇒平潟プロムナード⇒夕照橋・侍従川⇒野島公園・野島の庵体塚・展望台⇒旧伊藤博文邸⇒野島運河の野島橋⇒野島公園駅⇒明治憲法起草の碑⇒洲崎町交差点⇒明治憲法起草の地碑⇒瀬戸橋⇒千代家跡⇒琵琶島神社・福石⇒瀬戸神社⇒・蛇混柏⇒京浜急行金沢八景駅

素晴らしい晴天のもと9:30スタート。
本日の金沢区は横浜市の最南端にあり、歴史的にも古いものが多くあるようです。横浜市では唯一の自然海岸の野島海岸をたっぷり楽しめるとのことなので期待しての出発です。

称名寺(しょうみょうじ)。金沢北条氏一門の菩提寺。鎌倉幕府の要人北条実時が六浦金沢の屋敷内に建てた持仏堂が起源。阿字ヶ池、を中心にした中之島・反橋・平橋がある浄土庭園は秋の風情が素晴らしく大いに楽しめました。
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称名寺を含め市民の森となっていました。ずっと奥に上って進むと北条実朝廟がありました。
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金沢の四石のふたつ「美女石・姥石」がこの阿字ヶ池にあったとのことです。
もともと阿字ヶ池が作られた時ふたつあった石が見当たらず、今は一つだけ見られるようです。残っているこの石が「美女石・姥石」かは、はっきりしないようです。
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また称名寺には金沢八名木のひとつ「青葉楓」がありました。 
昔から紅葉しない楓だったようです。現在にはその後植樹されたもの。
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称名寺とひとつ山を挟んで金沢文庫があり、最初は手彫りの「中世の隧道」を通ったようです。
今は立派なトンネルがあり、陶板でしょうか、金沢八景が飾られていました。

神奈川県立金沢文庫はもともと北条実時が創設した蔵書を核としたいわば図書館だったようです。5回ほど火事などに会いこの近隣で場所を移し、称名寺とは山を挟んだ現在の場所になったようです。図書類は現在県立図書館に移されており、現在、金沢文庫では鎌倉時代の武家文化の文化財が中心にありました。ちょうど昨日から「顕われた神々〜中世の霊場と唱導〜」が開催中でいきなり入口にあったレプリカでしょうが「弥勒菩薩立像」やその周りに彩色を復元した曼荼羅と元のくすんだ曼荼羅は神々しかったです。
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昼食後電車で金沢八景駅に移動し大きな石柱で曲がると金龍寺でした。
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ここは金沢四石のひとつ飛石がありました。
三島明神が伊豆三島からこの石の上に飛び移りそれが瀬戸神社の起源ともいわれているようです。
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金沢八景は江戸時代に僧心禅史が能見堂からみた金沢の美しい景観を故郷の中国を思い八編の漢詩に読んだことが始まり。これに因み広重らが描いた絵が有名になったとのこと。
海岸線に出て平潟プロムナードを進みながら昔の広重などが描いた金沢八景の写真と解説を見せていただきながら金沢八景の今昔をうかがいました。ここでは金沢文庫で購入した絵葉書をお示しします。向かって上の行左から@AB中段左からCDE下段左からFGそして最後の一枚は昔の見晴らし台として知られた能美堂からの八景を見ている図です。
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@洲崎晴嵐(すざきせいらん)は塩田を背景に柳や竹が風に揺れて音をたてている様子。
このアングルは現在の琵琶島を望む様子です。
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A瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)は満月に照らされた野島と料亭や瀬戸橋が見える様子。
同じアングルで、本日最後辺りに見た琵琶島から見た夕映えの風景。
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B小泉夜雨(こずみのやう)は手子神社付近から夜の雨の一本道を見た様子。
C乙艫帰帆(おつとものきはん)は小柴の岬から乙艫海岸に向かって帆を揚げて船が帰ってくる様子。
D称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)は夕暮れの称名寺から聞こえる鐘の音と漁船の上で夕べの祈りをする様子。
これは称名寺の梵鐘。
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E平潟落雁(ひらかたのらくがん)は野島を背景に潮干狩りをする人たちと列になって飛び立った雁の群れ。
F野島夕照(のじまのせきしょう)は野島の漁師村に夕焼けが映えている様子。
平潟橋から見た野島山と夕照橋。
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G内川暮雪(うちかわのぼせつ)は雪の降る切通を過ぎ、内川が六浦の海に流れ込むところまでたどり着いた様子。

野島はほぼ全体が公園になっている感じでした。すぐに「野島の庵体塚(えんたいこう)」が目につきました。
「野島掩体壕」は国内に現存する掩体壕の中では最大規模のもので「太平洋戦争」の終戦直前、1945(昭和20)年の3月から6月にかけて海軍により建設されたとのこと。戦闘機を空襲から守るための防空壕(格納庫)で、他の掩体壕と合わせて小型機100機を格納するため「野島山」の東西を約260mにわたり掘り進められたとのことでした。現在は封鎖されていました。

野島の展望台からは八景島が良く見えました。
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旧伊藤博文金沢別邸。
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初代総理大臣伊藤博文の別邸。1898年(明治31年)建設、茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築。明治初期は金沢の辺りは海浜別荘地として注目されたとのこと。2009年(平成21年)家屋内と庭園も含め現在の形に復元されたとのこと。庭園は牡丹が有名。また庭園からは広々した東京湾が広がっていました。

明治憲法起草の碑。
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1887年(明治20年)伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らがこの辺りにあった料亭{東屋}で草案作りをしたのがこの辺り。その後盗難事故があり最後は伊藤博文別邸でこの作業は行われたようです。

琵琶島神社。
1180年(治承4年)源頼朝が瀬戸神社を創建した時、夫人の北条政子が日頃信仰する竹生島弁財天を勧請したのが始まり。島全体が琵琶の形をしているようです。
ここは金沢四石のひとつ福石がありました。
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この石の前で物を拾うと福を授かるとの伝えがあるようです。

瀬戸神社。
約800年前の鎌倉時代、源頼朝が伊豆三島明神を勧請したのが始まり。
源実朝が使用し、母北条政子が奉納したといわれる「舞楽面二面」がある。
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境内には蛇混柏(じゃびゃくしん、柏槙)が横たわっていました。これは1680年(延宝8年)大風で立枯れた幹をそのまま置いてあるとのことでした。
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この散策は全18回のシリーズです。実は2017年4月に始まり今日が最終回。現在参加希望が多く最大25名で月5回の実施で行われています。本日は24名参加でしたが最初から皆勤の方がいなくて完歩達成者はいなかったです。私も御多分に漏れずあと4回分が残っていますので地道にチャンスがあれば参加して完歩を目指します。
ということで浅井先生、TD吉田さん、来月からの2巡目もよろしくお願いします。
本日のまとめとしてはAm9:30〜PM4:30までに歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。また頑張ります。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク

2018年11月06日

2018.11.2〜4  第41回スリーデーマーチ

今年もこの一大イベントがはじまりました。
私は7年目の参加です。

1日目(11/2金)和紙の里・武蔵嵐山コース。晴天、日中は20℃、でも陽射しの下を歩きすっかり汗ばみました。
今年は8月から3カ月長距離ウォーキングは控えていたので今日は試運転で5km13000歩を完歩。
こんなに小さな子たちも参加です。
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ゴールの記念写真を初日にとってしまいました。
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2日目(11/3土祝)吉見百穴・森林公園コース。晴、この日も20℃、乾燥しており気持ちよく歩けました。
本日の5kmは実質6kmとのことで今日もこのコースを24000で完歩。
途中でウエディングパレスでのご接待がありました。
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吉見百穴は都会人には珍しかったようです。
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3日目(11/4日)都幾川・千年谷公園コース。曇、時々陽射しあり、今にも泣きだしそうな空模様にもなりましたがどうやら大丈夫でした。
最終日なので仕上げにと思い、10kmコースに挑戦。歩程12km超だったそうで、27000歩を完歩。
松山高校の応援団が応援してくださいました。
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今日は特に参加者が多かったです。
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ゴール後、自分にご褒美で、「富久屋花ス五六(ふくやはなすごろく)」で豆くず餅と珈琲をいただきました。
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参加者は3日間で延8万人越え。印象としては小さな保育園児と高齢者の元気が目立ちました。今年はいつもに比べ外人さんが少なかった印象でした。私も外国の方とは一度もお話しできなかったので残念でした。
まずは今年も元気に参加できたことに感謝!やはり何事にも健康が一番です。
今後も、明るく、楽しく、元気に!!がんばりまーす。
posted by yunofumi at 18:11| あちこちウォーク