2022年06月27日

2022.6.19 さいたま新発見 ぶらり街あるき 幸手市

幸手のはじまりはアイヌ語の乾いているの語源「さッテク」、倭建命(やまとたけるのみこと)が訪れた「薩天ヶ島」からなどがあるようです。古くは下総の国に属し、のちに大半が武蔵野国に編入され「田宮町」や「薩手」(幸手)といわれたのです。幸手宿は日光道が整備される前から利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道での人の往来が盛んで交通の要衝だったとのことです。特に中世では古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所だったのです。江戸時代になると日光街道が整備され、1616年(元和2年)に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿に発展。幸手宿は日光道だけではなく、将軍家の日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったのです。

東武日光線幸手駅⇒南3丁目⇒たいらや⇒石井酒造⇒幸手南住宅⇒上高野神社⇒東武丸山病院⇒幸手さくら団地⇒志手橋⇒神明神社⇒明治天皇行幸在所⇒幸手駅入口信号⇒ペットショップカトウ⇒担景寺⇒永文商店⇒割烹蒲焼義語家⇒本陣知久家跡⇒中央商店街ポケットパーク⇒山崎歯科クリニック⇒そば処大村庵⇒幸手小学校⇒関薬局⇒文具雲寿堂⇒日光御回り道⇒成田呉服店⇒荒宿信号⇒幸手基督教会⇒聖福寺⇒正福寺⇒幸手蔵賑窮餓之碑⇒石太菓子店⇒蓮沼⇒北2丁目陸橋⇒北側用水路⇒権現堂堤修復絵馬⇒熊野権現社⇒権現堂公園⇒八幡神社⇒北側用水路⇒幸手桜高校・橘守部翁遺跡碑⇒寶持寺⇒幸手中学校⇒田宮の雷電神社⇒妙観寺⇒幸宮神社⇒ときわや⇒幸手観音・講福寺⇒天神神社⇒グリーン歯科医院⇒東武日光線幸手駅

東武日光線幸手駅は1929年(昭和4年)4月に 東武日光線杉戸駅 - 新鹿沼駅間の開業と同時に開設された駅。2019年3月に 橋上駅舎と東西自由通路、西口駅前広場などが完成したとのことでとても新しくてきれいな駅でした。

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石井酒造梶B創業1840年(天保11年)。170年の歴史を誇る幸手の地酒 「 初緑 」や「豊明」が有名とのことです。

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上高野神社(かみたかのじんじゃ)は八坂神社を中心に合祀されたかつての上高野村の村社の一つ。もともと1909年(明治42年)10月の合祀では八坂神社の他、稲荷神社(4社)、神明社、胡録社、香取社、日枝社、愛宕社、羽黒社が集められたようです。1600年(慶長5年)創建の八坂神社の「天王様の祭り」では神輿が出るのです。境内社として天満宮、浅間社、第六天社が祀られていると伺いました。珍しいコンクリートの滑り台がありました。

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志手橋は県道65号 岩槻幸手線が、国道4号線の旧道へ合流する地点に架かる橋で昔から交通の要衝。歴史的には日光御成道と日光街道の追分に架かる橋なのでいわば日光街道の幸手宿(江戸から6番目の宿場)への入口とのこと。人の往来も多く、高札場も設けられていたようです。今はコンクリートですが元は木製、長さ30.6m、幅5.4mと大きな橋だったのです。よく見ると親柱の側面と下部には、レリーフ状の突起、親柱と欄干が57cm角で高さは2.2mだそうです。

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神明神社は1755年(宝暦5年)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社で、1873年(明治6年)4月より旧幸手町の村社の一つとなっていたようです。
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境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されているとのこと。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされているようです。
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拝殿前の狛犬は珍しいことに子犬ではなく牡丹の花を持っていました。
台座の銘は「大正十一年戌三月十七日 太々御神楽奏行 幸手太々講」とあり、伊勢参りをした五人の名が刻まれているのです。当時は盛んだった伊勢参りと田螺不動尊、信仰の形態も時代や医術の進歩と共に変わり、そのことを伝えるのは狛犬や石碑のみになってしまったようです。

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明治天皇行幸在所は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物のこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそぐわない」とみなされ1948年聖蹟の指定を一斉に解除されたようですが少しは聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合もあり、これもその一つのようです。

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永文商店は、明治36年に埼玉県幸手市で創業。以来100年以上にわたって食一筋に流通業を営んでおり、流通業の役割は、お客様が必要な物を、必要な時に、必要な量だけ提供することにあるので、プロの視点で商品を厳選する目利き力が、最も大切なことだということで、確かな原材料を使って、確かな製造方法で作った、品質の高いものばかりで商いをしているとうかがいました。
永文商店の壁面に芭蕉の旅姿がありました。お供は確か曽良ですね。
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本日はお休みだったお店の横にトロッコのレールが見えました。こちらのお店の「トロッコ」は、全長約40mのレールの上を、約1トンの商品を楽々と運搬するとのことです。戦前・戦中・戦後の激動の時代を乗り切って、今も現役で働いているようです。
何しろ街道沿いの商家は昔から、間口が狭く奥行が長い「ウナギの寝床型」が一般的。江戸時代から日光街道の宿場町である幸手の「永文商店」は、そのような店の一つだったのです。道に面して、一番手前が店舗、その次が住居、一番奥が倉庫という作りなので、商品の入出荷の運搬に活躍してきたのが「トロッコ」ということでした。

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割烹蒲焼義語家そばに本陣知久家跡の説明がありました。知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手でも最も重要な役割を果たした家柄だったようです。 明治3年に本陣が廃止されるまで代々幸手宿の繁栄に尽くしたのです。 明治6年に知久家の書院で小学校が開設され明治天皇が東北巡行の折には宿泊されたとも伺いました。

そば処大村庵紀の川で松花堂弁当の昼食をいただきました。
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日光御廻道とは、徳川将軍の日光社参の時、水害の難を避けるために幸手宿と栗橋宿までの迂回路を整備したもの。幸手・栗橋間の日光道中は2里3町(約8.2q)、しかしこの御廻道は3里(約11.8q)だったのです。道が整備されたとされる江戸後期は、将軍の日光社参はほとんど行われなくなったこともあり、実際に将軍が通行したことは一度もなかったようです。 

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聖福寺(しょうふくじ)は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)と称する浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作ということでした。徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩したようです。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
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勅使門の前に「御殿所勅使門」の石碑があり、菊のご紋の入った扉が付いていました。
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往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうですが、今は開いていました

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芭蕉と曽良の句碑がありました。
幸手を行ば栗橋の関(芭蕉)
松風をはさみ揃ゆる寺の門(曽良)

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正福寺(しょうふくじ)は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。こちらは、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、昔は四十九ヶ寺の末寺を持っていたようです。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っているのです。また、樹齢450年、根回り5mもある槙の大木が以前はあったようです。今は若木のみでした。
そして門前には巨大な石灯篭がありましたがいわれなどはわかりませんでした。
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幸手義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)は正福寺(しょうふくじ)の境内にありました。これは高さ173cm 横88cm 厚56cm 碑文面 「表 縦120.5cm 横76.5cm 裏 縦92.0cm 横77.0cm」。天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生し、翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てたのです。

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石太菓子店(いしたかしてん)は、江戸時代(文久年間)初代 中村石太郎により創業。以来伝統の味を守りつつ、幸手らしさにこだわった商品を提供しているのです。こちらで本日の埼玉の逸品「あじさい饅頭」をいただきました。とても穏やかな甘さで美味でした。

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北側用水路は埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)ともいわれているようです。埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑しているのです。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となるのです。

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熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもありもとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったようです。この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されているとのことです。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いているのです。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっているとのことです。また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものでもあるようです。 

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県営権現堂公園は、桜の名所として親しまれている幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して埼玉県が整備を進めているのです。 この公園は4つのゾーンで構成されており、そのうち多目的運動広場の1号公園と、歴史と文化と緑の3号公園、幸手権現堂桜堤の4号公園の3つのゾーンがあるとのことでした。
幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲くようで今は緑の森でした。また下方には曼殊沙華も季節になるとキレイとのことです。本日はJAのお店前から峠の茶屋を通りアジサイを色々見ました。アジサイ(紫陽花)は花の色は色々でしたが実は種類も多いそうです。白いのはアナベルでとてもきれい、そして紫などのガクアジサイも見られとても楽しかったです。
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内国府間八幡神社は、幸手市内中心部から権現堂堤の方に向かう途中。街はずれのような場所にある神社で、なにげなく寄ってみると鳥居から境内は余裕があるし、社殿とか意外に立派。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益もあるそうです。

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橘守部翁遺跡碑(たちばなもりおおういせきひ)。
守部は、天明元年(1781年)伊勢国小向村(三重県朝日町)に生まれ、17歳で江戸へ出て、国学研究を志し29歳の時に、内国府間村(現在の北二丁目)に転居。1829年(文政12年)に江戸へ戻るまでの20年間を幸手で過ごしました。 守部は、当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め、「天保の国学四大人」の1人に数えられるほど古典研究の著作を残しています。 守部の住居跡(県立幸手桜高校内)に「橘守部翁遺蹟碑」があります。また、幸手中学校・西中学校、幸手桜高の校章には「たちばな」が用いられ、守部の偉業を称えているのです。

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田宮の雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったとのことですが、明治維新後の1873年(明治6年)4月以後は村社に指定されているとのこと。本殿は1844年(天保15年)11月に上棟の再建が行われており、また1856年(安政3年)6月にも再建が行われているようです。雷電神社の由緒としては、「第11代垂仁天皇の10年のある日に天地が振動雷鳴し、水田中に身の丈7寸余りの黄金の御神像が天から降り、村民のだれもが驚いた。村民は一社を建立したが、当時周囲には水田が広がるのみで民家はなく、わずかに当神社が建つのみでした。ゆえに「水田の中にある社宮」ということから、世の人々はこの地一帯を「田宮」と呼んだ」というものだそうです。また、雷神は水との関わりが深いため、特に農民からの信仰を集めたのです。社殿の裏手に「瘤神社」・「疣権現」・「疱瘡宮」と彫られた石があるようで、皮膚病の人々の信仰が伝わっているようです。
このような狛犬は珍しかったです。
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幸宮神社は幸手市総鎮守。 創祀は不明。日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守として広く崇敬されたようです。 本殿は全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されており、信仰の深さがうかがわれるとのことでしたが本日はみられませんでした。 祭神は誉田別尊、経津主神、菅原道真公(ほんだわけのみこと、ふつぬしのかみ、すがわらみちざねこう、)神徳は文武両道、商売繁盛、除災招福などとのことでした。
彫り物が立派な本殿でした。
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割烹ときわやには日光社参の折に八代将軍徳川吉宗が、聖福寺で食べた昼食の献立を再現した「吉宗弁当」が提供されているとのことです。内容は「焼き豆腐・ヤマトイモ・レンコン煮しめ」など、かなりヘルシーなようです。また事前予約が必要のようですがちょっと食したいものです。

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天神神社はかつて裏町天神とも称されていたとのこと。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがあるようです。境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)が目につきました。

こうして午後は権現堂公園から何やかやと見分しながら約1時間30分で東武日光線幸手駅に到着。喜多見先生、佐藤TDの導きも良く24名は最後の紫陽花見物で大いに満足した1日となりました。日中は30℃、晴れとはいえ雲も時々かかり直射日光を遮ってくれたのは幸いでした。おかげで自宅につくと22000歩は大満足の歩程。さいたまウォークは本日で29回目、まだまだ続きますので今後も頑張ります。
posted by yunofumi at 14:08| あちこちウォーク

2022年06月12日

2022.6.5 さいたま新発見 ぶらり街あるき 越谷市

埼玉県内で最大の宿場だった越ケ谷宿。元荒川を挟んで南側が昔は越ケ谷町、北側は大沢町といったようです。ここは徳川家康がたびたび鷹狩で訪れた所でもあるようです。今は昔にも負けず大きな市になっており、人口約34万人、世帯数15万は県内でも有数の大きさ。ということでほぼ平坦な土地柄のようなので楽しみながらウォーキングできそうな予感がしていました。

東武スカイツリーライン北越谷駅⇒大沢香取神社⇒元荒川大沢橋⇒鍛冶倉⇒はかり屋⇒越谷本町⇒元荒川橋⇒越ヶ谷御殿跡⇒越谷元年板碑⇒御殿町自治会館⇒越谷アリタキ植物園⇒久伊豆神社⇒そば処久伊豆⇒東越谷4丁目信号⇒こしがや能楽堂⇒花田苑⇒越谷市立病院⇒大聖寺⇒虹だんご⇒元荒川土手⇒瓦曽根溜井⇒しらこばと橋⇒葛西用水⇒越谷市役所⇒がーやちゃん蔵屋敷⇒JR越谷駅

東武スカイツリーライン北越谷駅は東武鉄道の開通当初から設けられた駅の一つ。宿場町である南埼玉郡越ヶ谷町の最寄駅として、開業当初は越ヶ谷駅と名付けられたのです。1919年に、ここより南方に越ヶ谷駅(現在の越谷駅)の開業を迎えることを受けて名前を譲り、所在する町名(南埼玉郡大沢町)に従って武州大沢駅に改称、さらに、1954年に越ヶ谷町・大沢町などが合併し越谷町が発足した後、1956年に北越谷駅に改称されたのです。
開業時の駅舎は貴賓室があり、皇族が埼玉鴨場へ来場される時に利用されていたとのことです。その後、1962年に帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線との直通運転が開始されることを機に、この駅は東武鉄道初の橋上駅となり、西口が開設されました。連続立体交差事業により1999年には高架駅となり、2001年、当駅から越谷駅までが複々線化されたとのことでした。

大沢香取神社。
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香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社としています。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っているようです。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓され、元は低湿地だった土地である。
ちなみに香取神社は主に利根川・江戸川沿いを中心に分布。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布ということでした。
大沢香取神社の創建は永年間(1394〜1428年)とのこと。五穀豊穣や日常生活をお護りする神様として土地の方々から深い信仰を得ています。
大沢香取神社の本殿には彫物師浅草山谷町長谷川竹良の手による高砂の翁、大黒天、龍などが見られました
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旧日光街道越ケ谷宿の街並みは江戸時代に整備された宿場で江戸日本橋から数えて3つ目の宿場。
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街道沿いに「はかり屋」というお店が昔のままで営業していました。私たちはまだウォーキングを開始したばかりでしたが蒸し暑いので昔の味がしたアイスキャンディをいただきました。

越ヶ谷御殿跡。
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越ヶ谷御殿は徳川家康によって1604年(慶長9年)に設けられた御殿。御殿の建物に関する詳細は不明とのことですが広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されているとのことです。ここはもとは越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所だったのを、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれているのです。家康・秀忠などがしばしば訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残っているとのことです。
その後、越ヶ谷御殿は1657年(明暦3年)の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移され、その跡地は畑地として開発され、現在に至っているのです。

越谷元年板碑。
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建長元年の板碑は元荒川右岸の御殿町地内にありました。今から750年以上前の鎌倉時代の中頃、1249年(建長元年)の銘が刻まれています。市内最古で最大の板碑で、高さ155cm、幅56 cm。材質は平板に割れやすい緑泥片岩で、山形の頂部に二段の切り込み(二条線)があり、中心には阿弥陀尊をあらわす大きな梵字(キリーク)が刻まれていました。

越谷アリタキ植物園。
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越谷アリタキ植物園は、市に寄贈された故有瀧龍雄氏の植物園を整備し、新たに市の植物園として開園したものです。面積:約9000u、園内には市の天然記念物に指定されている北米原産の「ラクウショウ」をはじめ、幹周り4m以上もある巨樹「シナサワグルミ」や多種の「ツバキ」など、暖温帯性の樹木を中心に約320種、約1000本の樹木が植えられているとのことです。その他、希少な草花や野鳥、昆虫も観察することもできるということです。今日は立ち寄れませんがいつかまた来てみたいものです。

祖霊社。
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久伊豆神社の入り口にありました。ここには長年久伊豆神社を崇敬された、医師矢野太刀也氏の御霊を矢野太刀也大人命として祖霊社に合祀されているとのことです。

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久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)が主祭神。また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱が奉斎されています。創建の年代は不詳。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝っています。この神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされています。

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久伊豆神社の手水舎は1675年(延宝三年)に建てられたと伝えられるもので天井の龍の絵がすごかったです。

力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石。 三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物です。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されています。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

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家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、拝殿前の狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれているようです。

本堂裏には力石がぽつんとありました。
そういえば「越谷七不思議」のひとつということです。
ちなみにこの七不思議は@ぎょうだい様(蒲生茶屋通り)A白山神社の原貞掛け石塔(増林)B大祖模不動尊の亀碑(相模町)C稲荷神社「菅原荘」の石碑(新川町)D久伊豆神社本殿後ろの力石(越ケ谷)E会田金物店の壁画(越ケ谷本町)F聖徳寺と光明院の塩地蔵(北川崎)とわかりましたのでまた見に伺いたいものです。

そば処久伊豆。
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こしがや鴨ねぎ鍋が売りのお店でした。
鴨の脂がすごかったです。

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越谷市日本文化伝承の館 こしがや能楽堂目的は伝統芸術文化の振興と市民文化の向上のために建てられたとのことです。埼玉県内唯一の野外の能楽堂は総檜造り。建築面積は約1187u、能舞台には舞台が5.9m四方のほか、地謡座・後座・橋懸り、鏡の間・溜の間がありました。敷地内には能舞台のほか中庭、和室、大広間、応接室等がありました。能楽はもちろん日本舞踊や詩吟、茶道といった伝統芸術の拠点にもなっておりまた一般向けのイベント開催もあるとのことでした。
展示で能の面や衣装がありました。
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花田苑。
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こしがや能楽堂に隣接している廻遊式池泉式庭園。正門は市内の宇田家長屋門が復元されたもの。敷地内には茶室もありました。かつては畑地であったのが、区画整理事業と連動して計画が持ち上がり、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度にかけて整備されたようです。14,000本の樹木が植えられています。
長屋門です。
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アジサイなど色とりどりで花が咲いていました。
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大相模不動尊眞大山大聖寺は真言宗豊山派の寺で、本尊は不動明王。天平勝宝2年(750)に良弁僧正が開基した越谷最古の寺院。山門の「真大山」の額は老中松平定信の筆とされています。なお、「山門」や「北条氏繁掟書」、「徳川家康の夜具」、「タブノキ」は市指定文化財になっています。
今風のぴんころ地蔵がありました。
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素朴な「虹だんご」があり、お土産にゲットしました。

元荒川土手にでるとアジサイが見ごろでした。
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瓦曽根溜井(かわらそねいためい)。
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1600年頃に瓦曽根堰が元荒川に設置され溜井ができ、農業用水のための溜井として江戸期から利用されていたようです。西部の一部が埋め立てられ、越谷市役所などが建設されたようです(主に越ヶ谷4丁目にあたる部分)。葛西用水、谷古田用水、八条用水が分水しており、岸沿いに葛西親水緑道が整備され、花菖蒲やアジサイが植えられているのです。
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斜張橋は、しらこばと橋(平成6年竣工、長さ145m、 八潮越谷線)。橋名は越谷市の市の鳥である、しらこばとに 由来する。橋のデザインは、しらこばとが羽を広げた姿を イメージしてあるのだという。

花菖蒲がとてもきれいでした。
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「ガーヤちゃんの蔵屋敷」は、こしがやを「案内する」「食する」「持ち帰る」「体験する」をコンセプトとした、越谷の魅力を発信する観光物産拠点施設。越谷市だけではなく、近隣市町や阿波踊りで交流のある徳島市、日光街道の連携都市などの人気商品を販売し、広域的な観光PRを行います
店内では色々目移りしそうでしたが珍しい「苺カレー」もゲットしました。
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ということでお土産は大聖寺の境内にあった虹だんごの「焼き団子」。これは素朴で美味しかったです。また本日の逸品の「がーやちゃん煎餅」と「苺カレー」は今からいただくのが楽しみです。
今日はいつものように喜多見先生の先導、TDは池谷さん、参加者22名は楽しく参加。
越ケ谷の土地が元荒川や用水をふんだんに縦断しておりなるほど水郷の街でした。また今日は伺わなかった大林地区にある埼玉鴨場では,野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されているとのことでした。以前日光街道ウォークで前を通りましたので今もイメージが残っています。
posted by yunofumi at 11:11| あちこちウォーク

2022年05月08日

2022.5.1 さいたま新発見 ぶらり街あるき 東松山市

東松山市は「花とウォーキングのまち」として長年売り出し中!
有名なのは国内一番の「スリーデーマーチ」。これは11月に行われる3日間のウォーキング大会で5km、10km、20km、30km、40km、50kmのコースがあります。私は本年参加すれば8回目となります。私はほとんど10kmコースばかりですがそれでも3日間連続で、しかも天候は晴ればかりではありませんからそれなりに大変なのです。
ということで本日は朝10:00曇天ですが喜多見先生、TD小松さんと共に22名が元気にスタートしました。

東武東上線東松山駅⇒箭弓稲荷神社⇒箭弓稲荷神社牡丹園⇒第250号踏切道⇒まるひろ東松山店⇒やきとりひびき⇒松葉町商栄会⇒東松山松葉町郵便局⇒松山陣屋跡⇒市立松山小学校⇒県立松山高校⇒日吉神社⇒小松原町⇒藤川(昼食)⇒加美町バス停⇒松山神社⇒上沼公園⇒八雲神社⇒松山町道路元標⇒津乃園⇒ウォーキングセンター⇒松山城跡⇒岩室観音⇒吉見百穴⇒吉見百穴バス停⇒東松山駅

東武東上線は池袋から寄居までの39駅あります。私は上福岡駅が地元でこれは各駅しか停車しません。隣のふじみ野駅や下りの方では川越駅が急行その他の列車が停車しますのでほどほどに便利な所に住んでいます。
東松山駅は1923年(大正12年)10月、東上線坂戸町 - 武州松山間開通の際に武州松山駅として開業。所在地が当時は比企郡松山町であり、愛媛県松山市の伊予鉄道松山駅(現・松山市駅]との混同を避けるため、武蔵国を意味する「武州」を冠したとのことです。1954年(昭和29年)10月東松山市発足により東松山駅に改称したようです。
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レンガ造りの町並みをイメージしたという東松山駅駅舎は東松山市がオランダヘルダーラント州・ナイメーヘン市と姉妹都市提携していることから、レンガ造りの町並みをイメージし、鐘の時計台はレンガの街並みに合う ナイメーヘン市のイメージでもあります。 

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すぐ目の前に大鳥居が出現。これですぐそばに箭弓稲荷神社があることが分かります。
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箭弓稲荷神社の創建は、712年(和銅5年)。平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきたので朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利したのです。その後頼信は、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、社殿の建て替えや野久稲荷を箭弓稲荷と改めたのです。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているようです。
拝殿は、豪壮な権現造りで、1835年(天保6年)に造営されたもの。あらゆるところに彫刻が施され、目貫龍、三条小鍛冶、鳳凰などとても見ごたえがありました。
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境内には立派な神楽殿もあり本日は天岩戸が開かれる神楽が奉納されていました。
なお、境内のぼたん園では、藤やつつじが咲き、目を楽しませてくれました。
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巨大御朱印スタンプがありました。
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絵馬はバットやホームベースの形がありました。
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東松山市といえばやきとり。豚のカシラ肉を炭火でじっくり焼いたもので、辛味の効いた「みそだれ」をつけて食べるようです。東松山駅を中心に、約50軒のお店で食べることができ、子どもから大人まで、大人気の味覚とのことですが、特にビールとの相性は抜群だそうです。

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前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋。1749年(寛延2年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされ、前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難のため1767年(明和4年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移したのです。それから100年後の1867年(慶応3年)、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩。こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまい、これを管理するために、1867年(慶応3年)、前橋藩松山陣屋が置かれたのでした。
 
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埼玉県立松山高校は1922年設立の旧制中学を前身とする男子校。通称「松高(まつこう)」。文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール指定校で旧制松山中学校時代を含めた卒業生は2万人超。大正時代の旧校舎(旧埼玉県立松山中学校校舎)を移築した国の登録有形文化財である松山高校記念館がシンボルですが本日お化粧直しのためみられませんでした。

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日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展したようです。この神社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺も守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものでしょうといわれていようです。当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現状の日枝神社に改めたがしかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られているのです。

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和食のお店藤川で昼食。焼き鳥丼のようでしたが「山賊丼」というようです。かなりピリッと辛みが効いていました。
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松山神社は元々、旧松山宿の総鎮守として、1063年(康平6年)に大宮氷川神社を勧請して創建したその後の改名なのです。境内には末社の大鳥神社・浅間神社があります。市街地に位置しながら、神社の周りにはカシ・モミ・イヌシデなどたくさんの樹木があり、これらの木々全体が松山神社の杜として市の名木に認定されています。拝殿には見事な彫刻が施されていました。

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近隣の上沼公園とともに散策の場として市民に親しまれています。

八雲神社の社殿は大きな覆いがありました。間口2.7m 奥行き3.6m単層切妻、正面軒は唐破風、その下が千鳥破風でした。そして周囲の彫刻は花鳥、竜、唐獅子など見事なのです。説明板によると安政6年に彫工飯田仙之助とその弟子たちで作成されたようでした。
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道路元標は道路の起点と終点を示すものです。東松山では道路元票が松山町と野本町でみつかっているようです。ここにあるのは本町1丁目にあったのを移設したとのことです。

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東松山市ウォーキングセンターは、歩く人たちの中心施設としての機能をもち、自然に対する理解を深めていただくためにつくられ、ウォーキングについての様々な活動をしているとのことです。「ふるさと自然のみち」や「ウォーキングトレイル」を活用しながら、自然について学ぶ機会を提供し、環境保全への理解を図ること、ウォーキングや自然学習のリーダーの育成と共に様々なイベントのプランがありました。さすが、スリ−デーマーチを長く開催している土地柄です。
そういえばスルーデーマーチは1978年(昭和53年)群馬県で第1回開催、その後第3回から東松山での開催となり、令和3年から、第44回はコロナ禍で限定的なものだったとのこと。どうやら本年の第45回は11月4・5・6日に記念大会として開催の準備がはじまっているとの情報もここで手にいれました。いつも参加する私は楽しみです。

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松山城跡は”松山合戦で知られる難攻不落の城の跡”です。松山城は比企丘陵の先端に建てられた平山城。ふもとを流れる市野川を天然の堀として利用し、その天然の要害から不落城とも言われていました。戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などの名将が激しい攻防を繰り広げたのです。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成されていたとのことです。
本日は午後かなりの雨が降り足元が危ないので見に行かずでした。

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岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音堂というのです。こちらは龍性院の境外仏堂とのこと。この観音のはじまりは弘仁年中(810〜824年)。松山城主が代々信仰し護持していましたが、1590年(天正18年)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失。現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものとのことです。
お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては大変めずらしいようです。

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吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定されています。吉見町を代表する史跡で、現在確認できる横穴の数は219基とのこと。各横穴は玄室・羨道の2部分からなり、その一部には天然記念物のヒカリゴケも自生していると伺いました。

本日は午後雨がかなり降り、松山城跡や吉見百穴は細かく見られませんでしたがお土産はしっかりとゲット。本日の埼玉の逸品は東松山の名菓富久屋の「松ぼっくり」。その他は百穴の高橋売店で購入。いずれにしても雨が降ると資料館も含め細かく見ることが出来ません。今年はまたスリーデーマーチで立ち寄ると思うのでまずは“良し”としました。
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今日はあいにく午後雨が降り、気温13℃と低め、ということで吉見百穴からバスで東松山駅まで出て東上線で帰宅。それでも2万歩の行程はまずまず。次は越谷市、幸手市、秩父市と予定を入れていますからまた頑張ります。
posted by yunofumi at 18:47| あちこちウォーク

2022年05月03日

2022.4.24 さいたま彩発見ぶらり街あるき 春日部市

今朝は今にも雨が降り出しそうな空模様のもと、喜多見先生、TD増田さん、参加者22名と共に出発。

東武スカイツリーライン春日部駅東口⇒粕壁神明社⇒ぷらっとかすかべ⇒永嶋庄兵門商店⇒最勝院⇒古隅田川・大落古利根川⇒上喜蔵河岸跡・新町橋⇒浜島家住宅土蔵・高札場跡⇒新町橋西信号⇒かすかべ大通り⇒埼玉りそな銀行⇒問屋場跡⇒日光道中粕壁宿⇒田村荒物店⇒ミセと蔵⇒古利根公園橋⇒古利根きらめき通り⇒大落古利根川⇒碇神社・イヌグス⇒春日部商工会議所⇒匠大塚⇒利根川せんべい⇒文化会館前信号⇒脇本陣跡⇒東陽寺⇒一宮信号⇒八坂神社⇒郷土資料館⇒秋葉神社⇒暖歩(昼食)⇒春日部駅西口−電車―藤の牛島駅
⇒藤花園⇒藤の牛島駅

東武スカイツリーラインはもともと東武伊勢崎線というのです。2012年3月より、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」という路線愛称名となっています。普段利用しない私などはよく理解できませんがとにかく今日はこのスカイツリーラインを利用。

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春日部駅は明治32年に「粕壁」駅として開業し、昭和24年に現在の駅名に改称。現在の東口駅舎と西口駅舎があまりに古くていよいよ大幅な改装・増築がされるようで駅舎には「鉄道の高架化が始まります」と表示がありました。完成すればまた街の様子が変わることでしょう。

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粕壁神明社は、天明年間の1781-1789と1765年(明和2年)に当地の豪族九法四郎兵衛が土中から神体を発掘。九法家の氏神として祀られていたものの、その後、九法家の廃絶により、名主の見川家の邸内の一部となったとのことです。宿場の守り神として信仰を集め、現在では、「疫病封じ」として始められた例祭と、「春日部のお酉様」とも称される新穀感謝祭が行われているようです。

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ぷらっとかすかべは市内の観光情報、市の特産品などの魅力的な情報を発信している所。この情報発信館は、「誰でもぷらっと気軽に立ち寄れる憩いのスペースであり、春日部の特産品やまちの情報などを全国に発信するプラットホームでもあってほしい」という願いが込められています。本日は特産品の「麦わら帽子、桐箪笥、押絵羽子板」などの展示が目立ちました。また首都圏外郭放水路の紹介もありました。これは地底50mを流れる世界最大級の地下放水路で、中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、洪水の一部をゆとりのある江戸川へと流すことができるようになっています。

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永嶋庄兵門商店は創業が慶長年間のお米屋さん。何しろ建物が立派でした。

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真言宗智山派寺院の最勝院(さいしょういん)は、華林山慈恩寺と号します。最勝院は、慈恩寺の僧「尊が、慈恩寺を退いて1504年(永正元年)当地に創建したと伝えられます。1649年(慶安元年)には寺領15石の御朱印状を幕府より受領、近郷に末寺を擁した本寺格の寺院でした。
本堂横には春日部重行公墳があり、明治時代には粕壁小学校や粕壁税務署などにも利用されたとのことです。
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古隅田川と大落古利根川の合流地点。

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上喜蔵河岸跡・新町橋。
古利根川にかかる新町橋のたもとには、江戸時代、上喜蔵河岸(かみきぞうがし)という河岸場がありました。現在も長方形に整形された石を積む「切込みハギ」という工法による石垣が2〜3段、現地でみることができました。
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河岸場はこのほかに、碇神社(いかりじんじゃ)付近に下喜蔵河岸(しもきぞうがし)があったといわれ、いずれも江戸時代中ごろに粕壁宿の名主であった見川喜蔵(みかわきぞう)の名前が由来とされています。
粕壁宿は、このような河岸場を利用して、日光道中の陸路と古利根川の舟運の結節地として発達しました。
幕府により江戸川が開削、整備されると、江戸への物資の輸送には江戸川が使われるようになりました。古利根川は、流域の新田開発が進み、途中に溜井(ためい)などの利水施設が設けられたため、江戸へ直接、荷物を運ぶことが難しくなり、地域間の舟運路として使われました。

浜島家住宅土蔵・高札場跡は春日部駅東口より徒歩7分くらいのところ、旧日光街道脇の交差点、スポーツクラブの道を挟んだ反対側にあります。ここは、明治22年の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だったのです。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用されたとの事です。

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問屋場跡の案内板。
問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は1826年(文政9年)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。

日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし1716年(正徳6年)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。粕壁宿は、江戸時代1616年(元和2年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。1636年(寛永13年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

ミセと蔵の標識がありました。粕壁宿は江戸日本橋から4番目の宿場。宿場には本陣・脇本陣・旅籠・問屋場があり、粕壁は日光街道23宿の6番目の規模でした。粕壁の商家は間口が狭く、奥行きの長い敷地になっていました。街道に面しては「ミセ」、その奥には生活空間としての「オク」がありました。粕壁宿は古利根川に沿って蔵を連ね、船を乗り付けて荷物の上げ下げを下とのことです。

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古利根公園はまちの中心を流れる古利根川に架かる橋上の公園。川沿いの公園とは一味違った感じで古利根川の景観を楽しむことができる人気のスポットだそうです。また、日の入り後は中心にある「麦わら帽子をコンセプトとしたモニュメント」をライトアップしているようです。(点灯時間:日の入り〜午後10時)。この橋の上にも作家さんが作った作品がありました。

古利根きらめき通りウォーキングコースが設置されていました。
⓵古利根公園橋⓶春日橋⓷埼葛橋C八幡橋D牛島人道橋Eゆりのき橋F藤塚橋G古利根橋
このコース全体でトータル6.1km、約2時間とのこと。かなり気持ちよく走れそうです。

大落古利根川は南埼玉郡と北葛飾郡の郡境を画し、「古利根川」という名称が付されているようにかつては「利根川」の本流で、「大落」とは大きな農業排水路という意味とのことです。現在でも利根大堰からの水が埼玉用水、葛西用水路等を経由して流れ込んでいるのです。このため、4月〜10月は豊富に水が流れていますが、11月〜3月は大きく減少します。今では、大落古利根川は、古利根堰(越谷市・松伏町)の改築に伴い、古利根堰から東武野田線の鉄橋付近までの堤防補強工事が完成しています。近年、主に河川環境整備工事が実施され、平成16年度には、杉戸町、宮代町と連携し、階段護岸や遊歩道の設置を軸とした親水護岸の整備をしました。

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粕壁東2丁目、古利根川そばには碇神社とその境内にイヌグスの大木がありました
この地にはもともとは江戸時代の名主多田家屋敷稲荷があったようです。
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このイヌグスは根回り10m、樹高約12m、樹齢推定約600年(室町時代)で、イヌグスの生育の北限とされるとのことで埼玉県指定の天然記念物になっているとのことでした。

粕壁東2丁目の「匠大塚」は2015年大型家具店としての発祥の地だそうです。近年社内の色々が聞こえてきますが、店内の立派なことに驚きました。

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曹洞宗寺院の東陽寺は、医王山と号が記されていました。東陽寺の創建はどうやら文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したようですが、1624年(寛永元年)に焼失、1662年(寛文2年)にこの地に再建、僧熊巌が中興開山したということでした。江戸期には新西国三十三ヶ所30番目。松尾芭蕉に随行した曽良旅日記からの一文の碑がありました。
すぐそばには粕壁宿の市神として祀られた八坂神社がありました。春日部夏祭りの起源というお祭りがあるようです。

春日部市郷土資料館には春日部市の歴史特産物、日光道中模型などが示されており、なかなか見ごたえがありました。

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粕壁秋葉社は、春日部市中央にある神社。粕壁秋葉社の創建年代等は不詳とのこと。江戸時代に粕壁宿の名主であった多田次郎兵衛が邸内に建立したもので、火伏の神として崇敬されたということです。神社のあった場所は移ったようですがイチョウと松が合体した夫婦松は春日部駅の西口のすぐのところに石碑とともにありました。

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暖歩(だんぽ)は心と体を癒す、四季折々のお料理と美味しいお酒を提供する「季よせ料理」のお店。和食好きの私は美味しくいただきました。
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午後は単独で春日部駅西口にはふじ通りの藤が見られるようでしたがそれを見ずに、一路、藤の牛島駅に向かい、一駅で到着。途中では春の花があちこちで見られとても楽しかったです
牛島駅から約10分で藤花園に到着。
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藤棚の日当たりなども関係するようで、それぞれほぼ満開でしたが花の色や房の大きさも違って、とても堪能しました。
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今日の埼玉の逸品は味好堂の「春日部瓦せんべい」。帰宅後いただきましたが昔懐かしい味でした。
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本日は一日違いの曇天で19℃と少し涼しめでした。また予報では午後は雨と出ていましたが帰宅するまで雨に合わず、幸運な一日でした。美味しい昼食後は自分のわがままで御一行様から離団して藤の花を見に行きました。実は春日部市は日光街道ウォークも含め、数回訪れたことがあったからです。そして春日部駅は牛島駅の隣だとわかっていたのでちょうど藤の花が満開と思ったからです。案の定、藤の花はほぼ満開でとても見事だったので大満足でした。
さて次回は一週間後に東松山市ウォークです。有名な牡丹園はもう咲ききっているかもしれませんがまた大いに楽しみたいと思います。皆さん、また頑張りましょう!
posted by yunofumi at 22:23| あちこちウォーク

2022年04月04日

2022.3.28 さいたま彩発見ぶらり街あるき さいたま市南区

昨日に引き続きさいたまウォークです。本日はさいたま市内10区の最後になりました。実は浦和区を2019年5月、このシリーズの第1回目参加からなんと月日が経ってしまったことでしょう。でもコロナ禍のなかですから予定が狂っても致し方なかったのです。そしてめったにウォーキンギは連日しないのですが今日はこれを逃すことはできないと頑張っての参加なのです。
今日の先導は喜多見先生、TD反保(たんぽ)さん、参加者7名で10:00中浦和駅をスタートしました。

JR埼京線中浦和駅⇒手打蕎麦遊山⇒萬店(まんだな)⇒別所沼公園⇒花と緑の散歩道⇒浦和別所小学校⇒真福寺⇒武蔵野線第2大里ガード⇒南区役所⇒沼影自治会館⇒沼影観音厨子⇒Something Bella Gioia⇒さいたま中央郵便局⇒白幡沼⇒医王寺⇒南浦和小学校⇒焼米坂⇒神明社⇒さいたま市文化センター⇒一ツ木公園⇒大谷場氷川神社⇒丸広浦和店⇒JR埼京線南浦和駅

中浦和駅の線路名称上は東北本線(支線)ですが、運転系統上は埼京線として案内されているとのことです。そういえば浦和という地名がつく駅名は、浦和駅、北浦和駅、南浦和駅、東浦和駅、西浦和駅、武蔵浦和駅、中浦和駅、浦和美園駅の合計8駅あるのです。全く間違えやすいので注意、注意!

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別所沼公園は100万年という歴史を持つ別所沼を中心にして、昭和26年9月に開設されたとのこと。広さ7.9haの園内には、中国原産のメタセコイアなどの巨木が立ち並んでいて、ちょっと日本離れした雰囲気を漂わせています。一見北欧みたいなのです。

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立ち並んでいる巨木はメタセコイアとラクウショウ。この季節は葉がついていないので区別しにくかったです。また紅葉がきれいな秋に来てみることにいたします。

公園内には別所沼弁財天がありました。
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浦和うなこちゃんも鎮座。
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うなこちゃんはさいたま市浦和区のマスコットキャラクター。アンパンマンで有名なやなせたかしさん作。一応、さいたま観光大使なのです。もう少し大きなうなこちゃんは浦和駅でみられます。

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これはメキシコのトルーカ盆地のカリストラクカで発掘された石像の複製「風の神像」です。さいたま市とは姉妹都市のためここに鎮座。「風の神」は健康、豊作、知恵を市民にもたらす恵の神。

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ヒヤシンスハウスは詩人立原道造が、1937(昭和12)年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために建てた小さな週末住宅なのです。立原は、詩誌『四季』を主な舞台として活躍し、わずか24歳でその短い生涯を閉じた方です。
昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」とも呼ばれ、一種の芸術家村の様相をみせていたということです。当時この地には、立原の年長の友人で詩人の神保光太郎、画家の須田剋太、里見明正らが住んでいたようです。また、立原と親交の深かった東大建築学科の同級生小場晴夫は旧制浦和高校の出身でもあったことから、《芸術家コロニイ》を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだのであろうと想像されます。立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼。また、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていたとのことですがしかし、立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかったのでした。

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別所沼会館(ヘリテイジ浦和)は公園内にあるビジネスホテル。

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花と緑の散歩道は春はサクラ、梅雨時はアジサイの七色が散歩道を彩り、秋には落ち葉を踏みしめて歩く所としてよいところです。
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真言宗豊山派寺院の真福寺は、正式には法光山無量院。真福寺の創建年代等は不詳。1314年(正和3年)銘の阿弥陀三尊種子板石塔婆があるとのことでした。僧宥尊(寛文6年1666年寂)が中興したということです。北足立八十八ヵ所霊場36番でもあります。

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沼影観音堂厨子(ぬまかげかんのうどうずし)
本日は表の扉は閉まっていました。江戸時代初め頃。一間厨子、禅宗様、入母屋造。桁行1.265m、梁間0.88m、高さ2m。観音堂須弥壇に安置されており全体は漆塗りとのことでした。

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Something Bella Gioiaは武蔵浦和駅そばにありました。イタリア式食堂キャンティの系列店と伺いました。こちらはドレッシングが特徴のようでした。
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白幡沼は大宮台地の縁にあたる場所とのこと。かつての旧入間川流路の名残りのひとつとなっていて、流路は上谷沼手前を屈曲しながら芝川の網代橋付近へ流れているようです。現在でも沼の余水や大宮台地から流れてきた雨水を笹目川に排水する暗渠水路があり、上部は白幡緑道(白幡遊歩道)となっているとのことでした。
県立浦和商業高校が見えました。サギもえさをついばんでおり、のどかな風景でした。
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真言宗智山派寺院の醫王寺は、正式には上宮山。創建年代等は不詳とのこと。北足立八十八ヵ所霊場24番。
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こちらには延慶二年銘板石塔婆がありました。現在は高さ240p、幅66p、厚さ107p。しかし上部と下部がかけているようで実際には4mもあったようです。鎌倉時代の代表的なものだそうです。

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南浦和小学校の校門近くには今時珍しく二宮金次郎像がありました。

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焼米坂は別名、浦和坂。中山道を江戸から荒川を渡ってくると最初に出合う坂で、この坂を上りきると浦和宿なのです。江戸時代、中山道を通る旅人に“焼米”を売る店があり、それが名物となり名付けられたということです。

岸町神明社は、さいたま市浦和区岸町にある神社です。岸町神明社の創建年代は不詳ですが、永仁年間(1293-98)の勧請といい、調神社の末社だったともいうことです。

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一ツ木公園(いつきこうえん)はJR「南浦和駅」から徒歩10分弱の住宅街の中にある公園。周囲は坂があるため、公園は高台のようになっていて、開放感があります。坂の下からは階段になっているので、ベビーカーの方は坂の上からの入園をおすすめです。住宅街の公園としては比較的面積も広く、木々も多く、癒やされる空間となっています。この春も桜が美しくお花見をする親子連れも多く見られます。遊具はブランコやすべり台、複合遊具などが揃っていました。

大谷場氷川神社(おおやばひかわじんじゃ)
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創立年代は不詳とのことですが、大谷場の鎮守の神として古くより崇敬の篤い社とのことです。江戸初期社殿流失したようです。現在の本殿は寛文六年の棟札あり、三間社流見世棚造り屋根は板葺でした。御神体は束幣立烏帽子、丈一尺二寸余、最古色を帯たり、箱に宝暦の年号があるとのことが天保元年の新編武蔵風土記に記載されているようです。江戸時代の別当寺は華徳院であったが明治元年神仏分離令の廃仏毀釈により華徳院は廃寺されたようです。その後、太平洋戦争終結により、昭和21年国家神道から神社本庁所属の宗教法人神社となり、現在にいたったようです。
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こちらは大谷場氷川神社の狛雉子(キジ)。鳥居の手前の左右に1体ずつありました。昭和の初め頃、この地にキジが棲みついていたことから、氏子の間で雉子は氷川様のお使いと言われ、「雉子の氷川さま」と呼ばれるようになったそうです。
ご神木は鳥居そばにあった樹齢100年以上のユリノキ。推定樹高21.8m。樹齢ははっきりしないようですが1894年(明治27年)に植えたとも伝えられています。

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浦和まるひろ店がJR埼京線南浦和駅そばにあり、いったん休憩。私はここで終了とさせていただきました。皆さんはこの後浦和競馬場まで行かれました。

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本日の埼玉の逸品は浦和まるひろ店1階にある手作りぱんの「ブーランジェベーグ」のあんぱん。なかなか生地がしっとりしており、中のあんこがぎっしりと入っていてとても美味しかったです。

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そして本日は私がさいたま市10区を完歩出来たので「埼玉県40市めぐり 多彩な”埼玉”彩発見!第一ステージさいたま市10区コンプリート賞」をいただきました。すでに昨年10月には第2ステージ県央7市コンプリート賞をいただいております。このウォーキングの全体行程を見ると実際には49回第5ステージまであります。まだまだ先は長いですが、まあ、ぼちぼち参加します。
ということで本日はウォーキング日和の晴れ間の中、気温16℃、18000歩は2日間連続でしたが元気に終了。皆さん、今後もよろしく気長に頑張りましょう。
posted by yunofumi at 21:15| あちこちウォーク

2022年03月31日

2022.3.27 さいたま彩発見ぶらり街あるき 蓮田市

雨を少し心配しつつ家を出発。日中は21℃にもなるとの予報だったので薄着でお出かけ。
いつもの喜多見先生、TD小松さん、そして常連の面々が20名。

JR宇都宮線蓮田駅⇒蓮田駅西口駅前交通広場⇒愛宕神社⇒久台信号⇒川島久伊豆神社⇒元荒川河川敷公園⇒宮前橋⇒椿山2丁目⇒西城沼公園⇒ごちや(昼食)⇒城沼公園通り⇒蓮田市役所⇒蓮田市文化財展示館⇒黒浜沼⇒真浄寺⇒黒浜南小学校⇒黒浜久伊豆神社⇒蓮田IC PASAR HASUDA⇒JR宇都宮線蓮田駅

JR宇都宮線蓮田駅10:00スタート。初めての蓮田駅は湘南新宿ラインと上野東京ラインの停車駅。高崎線とは違うのでよくよく調べての乗車でした。駅自体は1885年(明治18年)日本鉄道大宮 - 宇都宮開業により設置されたとのことでした。
西口駅前交通広場には1900年(明治33年)に作詞された「鉄道唱歌 第三集奥州磐城篇」(大和田建樹作)で歌われている蓮田駅を紹介してありました。
第5番.中山道と打わかれ ゆくや蓮田の花ざかり 久喜栗橋の橋かけて わたるはこれぞ利根の川
鉄道唱歌は東海道編第1番の歌詞である、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」はよく知っていましたがこの5番は知りませんでした。まして全国の鉄道を歌いこみ北海道を含め全7集・399番までもあるとのことにはびっくりでした。
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駅を出ると早速、蓮田市のゆるきゃら「はすぴい」がお出迎え。のどかで愉快な街の印象を持ちました。
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閏戸愛宕神社は、蓮田市閏戸にある神社。閏戸愛宕神社は、秀源寺の僧が愛宕明神を宝永年間(1704-1710)に祀り創建したとのことです。明治43年に閏戸久伊豆神社に合祀され、昭和20年に再建されたようです。

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川島久伊豆神社は、蓮田市東にある神社。川島久伊豆神社の創建年代不詳。こちらは元荒川流域沿いに数多く奉斎されている久伊豆神社の一つで、江戸期には川島村の鎮守として祀られていたようです。
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このあたりから元荒川河川敷公園。公園の前後数kmに渡って、450本も連なった桜並木全体を指して「桜の名所」と言われているようです。本日はほぼ八分咲きと思いました。宮前橋あたりでも見事な桜をみました。

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西城沼公園は小さな池の西城沼を中心に作られた南北に細長い公園。
総面積は4.5haほど。沼に向かって突き出たデッキがいい感じの様子で釣り人もいました。
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この後すぐに少し早めの昼食場所の「ごちや」に到着。
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なにこれっ!というくらいの丼にびっくり!私などは半分で十分でした。

蓮田市役所を過ぎたあたりにまずは復元のたて穴住居がありました。
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そして蓮田市文化財展示館に到着しました。
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ここには先土器時代から中世までの市内各地で発見された土器(市指定の関山式土器)・石器や、椿山古墳・十三塚古墳出土品、馬込八番遺跡出土埴輪、皇朝十二銭の承和昌寶(市指定、他に市内出土古銭)、縄文時代だけでなく古墳時代や奈良・平安時代の貝塚出土貝類を、時代を追って詳しく展示してありました。私的には板石塔婆と円空仏の写真が印象的でした。
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外ではタッチパネルモニターを使って昔の風景を見ました。すぐそばが海というのが印象的でした。
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黒浜沼は上沼(うえぬま)および下沼(したぬま)の二つから成っているとのこと。付近を流れる元荒川(かつての荒川)の洪水によって形成された自然堤防によって谷地が堰き止められて出来た沼ということでした。寛永期に沼を横断する堤が築かれ、そこを往還としたことによって沼は上沼と下沼に分かれたのです。1979年(昭和54年)には「埼玉県自然環境保全地域」に指定され、2009年度(平成21年度)からは緑のトラスト保全地第11号地に指定されたのです。2000年(平成12年)には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」にも選出されたとのことでした。
黒浜沼から流れ出る水の流末は新堀排水路(新堀)に集められ、最終的に隼人堀川へ流下しているとのことでした。
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真浄寺(しんじょうじ)の鐘楼に天井絵がありました。
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黒浜久伊豆神社は室町時代の興禄年間に騎西の玉敷神社より勧奨請したようです。今は蓮田市の有形文化財になっているとのことです。

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PASAR HASUDAは東北自動車道の蓮田のサービスエリアです。こちらは実は地元の方も訪れやすいように一般道からも入れるようになっていました。ここは名前の通り、おふろやサウナ、カフェがある他に漫画や雑誌を数多く取り揃えており、ハンモックやマッサージ機などがあるリラックスコーナーや、Wi-Fi完備のワークスペースもあるとのことです。そうそう宿泊もできるそうでまた調べてみようと思います。
そして15:30無事にJR宇都宮線蓮田駅で解散。本日は1日中風がやや強かったですが気温21℃では気持ちよく快適に25000歩達成。最後まで調子は上々でしたので大満足の一日でした。
本日の埼玉の逸品は縄文サブレとおせんべい。またしてもおいしいおやつなのです。
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また明日は浦和市内の南区ウォーキングです。頑張ります。
posted by yunofumi at 11:15| あちこちウォーク

2022年03月22日

2022.3.10 2巡目第12回東京新発見「足立区」

JR北千住駅⇒宿場通り⇒千住本陣跡⇒大橋眼科⇒勝専寺⇒金蔵寺⇒森鴎外居宅址⇒千住高札場跡⇒一里塚跡⇒千住庁舎⇒千住仲町⇒川魚問屋兜ゥ与⇒内藤銀蔵博士生家⇒千住掃部淑宿・掃部宿憩いのプチテラス⇒源長寺⇒柏青果物市場⇒やっちゃ場の地⇒千住宿奥の細道プチテラス⇒足立市場・小林食品⇒千住大橋の図⇒奥の細道旅立ちの地⇒千住の橋戸河岸⇒橋戸稲荷神社⇒やっちゃば緑道⇒トラットリア・アダッキオ(昼食)⇒千住弁財天⇒関屋天満宮⇒仲町氷川神社⇒千葉灸治院跡地⇒八幡神社⇒千住神社⇒NTT千住⇒イトー児童遊園⇒大黒湯⇒学びピア⇒名倉本院⇒安養院⇒千住本町住区センター⇒横山家住宅⇒千住絵馬屋吉田家⇒丸井千住店⇒JR北千住駅

JR北千住駅はJR東日本常磐線と東京メトロ千代田線、東武伊勢崎線、首都圏新都市鉄道(つくばエキスプレス)が乗り入れている大きな駅。初めて降り立ちましたので集合に間に合うようにキョロキョロしながら西口方向に出てやっと皆さんと巡り会えました。
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駅前には大きな案内図があり、千住が荒川・隅田川に囲まれていることがよくわかりました。
駅そばには宮田亮平さんのイルカのモニュメント「乾杯」がありました。
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その中には中国で縁起が良いという15匹の大小、家族のようなイルカ達が出会い、愛を育む等の場となるようにという作家の期待が込められているとのことです。宮田亮平さんの専門は鍛金(たんきん)。この前まで東京芸術大学の学長。東京藝術大学千住キャンパス開設に尽力されたようです。またライフワークとして有名なのがイルカをモチーフにした「シュプリンゲン」(ドイツ語で「飛び跳ねる」の意)シリーズとのことでした

千住本陣跡は、市郎兵衛の屋敷跡地で今は標柱がありました。
旅の宿泊施設で本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していました。今記録ではこの標柱のところだけです。市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物だったとのことです。

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大橋眼科は今もみられる西洋館の医院で昭和57年に建ったRC3階建ての家。

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浄土宗寺院の勝専寺は、正式には三宮神山大鷲院。勝専寺は、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として1260年(文応元年)創建されたとのことです。勝専寺の木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされているようです。
勝専寺「赤門寺」という通称で親しまれており、京都知恩院が本山とのことです。

金蔵寺(こんぞうじ)は真言宗豊山派の寺院。1335年(建武2年)に開山。本尊は、かつては地蔵菩薩だったのが、現在は閻魔大王とのことです。
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境内には、2基の石塔があり、そのうちの「無縁塔」と刻まれている方は天保の大飢饉の犠牲者を供養した塔。もう一つの「南無阿弥陀仏」と刻まれている石塔は遊女を供養する塔。こちらの寺は、いわゆる「投げ込み寺」であり、岡場所で亡くなった遊女はここに葬られたということです

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森鴎外居宅址。橘井堂医院跡(現 千住ザ・タワー付近・千住1-30-3)に建てられた千住の鴎外碑。
森林太郎(鴎外)1862年(文久2年)〜1922年(大正11年)は近代の文豪。
明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。その後、林太郎は大学を卒業した1881年(明治14年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事したのです。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写があるようです。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤め、千住から人力車で通勤したのです。1884年(明治17年)にドイツへ留学。1888年(明治21年)に帰国すると千住の実家に戻ったのですが翌年、林太郎は結婚して根岸に転居。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しているとのことでした。

東京芸術センターは、公民のパートナーシップにより、『あだち産業芸術プラザ』として、「あだち産業センター」と一体的に整備された民間施設です。新しい産業と芸術を創造する拠点となります。
この地域の説明地図がありました。
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高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことで、千住高札場跡は石柱だけがありました。
主要な街道に1里(約3.927キロ)ごとに築かれたのが一里塚。ここでは石柱のみありました。

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内田銀蔵博士生家の案内が川魚問屋鮒与の所にありました。
博士は千住の旧家に1872年(明治5年)に生まれた日本の歴史学者。日本経済史学の先駆者で専門は日本経済史。

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千住掃部宿(せんじゅかもんしゅく)。
千住町は将軍徳川家光の時1625年(官営2年)に日光道中初の宿場と定められ、水戸佐倉道へ分岐する初宿、また日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場なのです。その後、千住大橋を越え小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまでの4km余りの街並みが続く千住宿となったのです。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されたとのこと。 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなむとのことです。

源長寺は浄土宗の寺院。1610年(慶長15年)、伊奈忠次が開基。寺名は忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来であるようです。ただ、実質的な創建者は千住の開発者石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で「開基」の座を譲ったという話もあるようです。裏の墓地には石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしだね)というお墓がありました。
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千住宿奥の細道プチテラスは足立区の歴史を今に伝える場所の一つ。京成本線「千住大橋」駅のそばにあります。テラス内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った松尾芭蕉の像と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがあります。

足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場。隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所。この立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しています。
今日は小林食品さんでお買い物をいたしました。
千住大橋脇から隅田川の流れそばに降りると千住の橋戸河岸。ここには広重や北斎の絵も模写され説明もあり非常に面白いところです。
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橋戸稲荷神社の創建は平安時代の926年(延長4年)とも、また室町時代の1490年(延徳2年)ともいわれており、とにかく古いのです。社殿は江戸時代末期の建築。うち本殿は土蔵造で、扉内側に伊豆長八の鏝絵(こてえ)が施されております。拝殿の前に飾られているレプリカを拝観できました。

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やっちゃば緑道はもともとやっちゃばと駅までの引き込み線の跡地を利用したところでくねくねとなかなか面白い散歩道になっていました。

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関屋天満宮の創建は949年(天暦3年)。御神体は道真公自作の百体彫刻の内の1体と伝わっています。源頼朝が奥州平定後に関所を設けたため、この地は関屋と呼ばれるようになったのです。もともと水田や茅野で度々出水したため、1787年(天明7年)、仲町氷川神社の境内に遷座したのです。

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隅田川関屋の里図。
関屋の里は、「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯とのこと。絵の中にある疾駆する三騎連れだった武士は、領国への急を知らせる早馬で早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが描かれています。ネットで全体を見ると馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえあります。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図がいいですね。

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千葉灸治院跡地。
坂本龍馬と婚約したとされる千葉佐那(1838〜96年)が明治維新後に東京都足立区に開いた「千葉灸(きゅう)治院」跡。この2人が並ぶレリーフです。 佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の娘。剣術使いとして知られており、定吉の道場に修行に来た龍馬と知り合ったのです。龍馬の着物の片袖を形見として大切に保管し、生涯独身を貫いたということです。この地に灸治院を開くと家伝の技が人気を呼び、板垣退助らも通ったと伝えられているとのことでした。

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千住神社は926年(延長4年)、土地鎮護と五穀豊饒を祈って、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社を創立したのです。1051年(永承6年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されているようです。
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狛犬は江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたもので、その狛犬の姿「子を抱える」「子を護る」はとても珍しい姿です。
これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繫盛、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)の御神徳が強かったことが理由の一つとされています。

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NTT千住は1929年に建築された鉄筋コンクリート(RC)(地上3階建)のビル。現在も使れているようです。

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イトー児童遊園。
イトーヨーカドーはスーパーだけでなく、コンビニの「セブン‐イレブン」など事業は多岐にわたっています。イトーヨーカドーの母体は、1920年に創業した「羊華堂洋品店」。当初は浅草だったが、戦後に千住へ移転。そこでイトーヨーカドーは千住を「創業の地」とし1号店が千住だったようです。またここはイトーヨーカドー創立者の伊藤ゆき氏と、その息子の夫人、伊藤せき氏が、1959〜82年に住んでいた所でせき氏から足立区へ寄贈され、88年に児童遊園として整備されたところだそうです。

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大黒湯。
足立区は昔から銭湯が多かったそうです。近年は2軒なっていたようですが昨年6月にこちらも閉じたのです。要は老朽化。建物は堂々とした大きな千鳥破風(ちどりはふ)やカーブのある唐破風(からはふ)、さらに軒下などの彫刻が豪華で、当時は「千社札」が貼られていたとのこと。

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名倉医院(なぐらいいん)は、整形外科医院(本院)。江戸時代から接骨院として名を馳せ、遠方から訪れる骨折患者も多かったということです。「名倉」の名の付く整形外科、整骨院、接骨院は全国に265軒もあり、「名倉」の名前は骨接ぎの代名詞として広く知られているようです。

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安養院。正しくは真言宗豊山派西林山長福寺安養院。鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、1598年(慶長3年)兵火に遇い、当地へ移転したようです。荒川辺八十八ヶ所霊場48番札所、荒綾八十八ヶ所霊場73番札所でもあります。
安養寺の横手に回ると「かんかん地蔵尊」がありました。
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そばに置かれている小石でカンカンと叩きながらお祈りをするとご利益があるのだとか。たくさんの人がお祈りしたために現在ではお顔がすり減ってのっぺらぼう状態となっていました

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横山家住宅は、江戸時代後期の建造物で、昭和11年(1936)に改修が行われていますが、宿場町だった千住の名残を今に伝えています。間口が9間(約16メートル)、奥行が15間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺となっています。敷地は、間口が13間(約23・5m)、奥行が56間(約102m)もあり、鰻の寝床のように長くなっています。

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吉田絵馬屋は現在の吉田晁子さんで8代目にあたります。千住宿内や近郊農村の人びとに絵馬や地口行灯に貼る絵紙、ビラの製作を生業としてきました。吉田家の絵馬は経木に絵を描き、屋根を付けた小絵馬を得意としています。眼病平癒を願う「薬師(向かい目)」や学業成就を願う「天神」など図柄は40種類余りあります。

丸井千住店10階に《千住宿》300mの1/50模型がありました。街道に沿って家々を再現しており実に精巧。また面白かったのはどの家でも家庭菜園のように畑を作っていたのが印象的でした。
もう一つおまけはこのビルの中に椿屋カフェがあったこと。私が行くコーヒー屋さんで一番のお気に入りなのです。コロナ禍になってお久しぶり!美味しくコーヒーをいただき、疲れがすっかりとれました。

本日は牧先生、TD林さんと共に13人で和やかにウォーキング。足立区2巡目でしたが初めての所もあり、かなり新鮮でした。歩程2万歩は久しぶりでしたが気温も13℃ほどあったようで気分も上々!無事に最後まで完歩できて大満足。今後もこの調子で頑張りたいです。
posted by yunofumi at 16:37| あちこちウォーク

2022年03月12日

2022,3,2 江戸古地図巡り「清澄・日比谷」

古地図巡りは全10回のシリーズ。本日、私は5回目の参加。講師は東京シティガイドの鈴木能之先生と共に11名が参加。TDは新井さん。

東京メトロ半蔵門線清澄白河駅⇒清澄庭園⇒中村学園⇒錣山部屋⇒大鵬道場・大嶽部屋⇒深川萬年橋⇒川船番所跡⇒芭蕉稲荷神社⇒正木稲荷神社⇒旧新大橋跡⇒芭蕉記念館⇒隅田川・隅田テラス⇒清洲橋⇒金毘羅宮⇒日本橋浜町3丁目⇒有馬小学校⇒水天宮⇒人形町今半⇒蛎殻銀座跡⇒からくり檜 町火消し⇒谷崎潤一郎生誕の地⇒西郷隆盛屋敷跡⇒中央区立日本橋小学校⇒堺町・葺屋敷町芝居町跡⇒椙森神社⇒伊勢重(昼食)⇒新高野山大安楽寺⇒十思公園・吉田松陰墓・十思スクエア⇒JR新日本橋駅⇒長崎屋敷跡⇒日本橋室町洲本館(淡路島洲本市アンテナショップ)⇒夜半亭・与謝蕪村居住地跡⇒日本橋ふくしま館⇒千疋屋総本店⇒新浮世小路稲荷神社・薬祖神社⇒発句也松尾桃青の春⇒江戸東京さるや⇒COREDO室町3⇒熈代勝覧⇒江戸桜通り⇒三越⇒日本銀行⇒貨幣博物館⇒常盤橋門址・渋沢栄一像⇒北町奉行所跡⇒東京駅⇒日本商工行館⇒和田倉噴水公園⇒日比谷交差点

東京メトロ半蔵門線(はんぞうもんせん)は、渋谷駅から墨田区の押上駅までを結んでいます。路線名の由来は沿線に所在する徳川家康の家臣・服部半蔵正成の屋敷の側にあったことから名が付いた江戸城(現在の皇居)の門の一つ、「半蔵門」のところを通ったからとのことです。

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本日スタート地点の清澄白河駅はすぐそばに清澄庭園があるからです。ここは池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。元々は豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったのだそうです。その後下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となってある程度の庭園が築かれ、1878年(明治11年)に荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、その後代々手を加え現在の姿になったとのことです。本日はコロナ禍のため閉園でした。

そういえばと昔、岩崎家邸宅は6つあったようです。茅町本邸・深川別邸・駒込別邸・駿河台本邸・鳥居坂本邸・高輪別邸です。いずれも家族や来賓用として使い、今もかなり残っているとのことです。

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錣山部屋は力強い突っ張りで土俵を沸かせ「鉄人」と呼ばれた寺尾さんが親方の相撲部屋。

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大鵬道場・大嶽部屋。
昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱だった亡き大鵬親方のもとに入門しその後、大鵬親方の遺志を継ぎ、大嶽部屋となっている相撲部屋。

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芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことで故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力により創建されたとのことです。

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芭蕉記念館。
芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開。多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残したということです。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれたようです。

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隅田テラスは隅田川両岸に沿って整備され、両国橋から蔵前橋の間に約800mにわたって、浮世絵や花火など、地域にちなんだタペストリーが並ぶ「隅田川テラスギャラリー」や、各地域の地元住民がボランティアで花の世話をしている「花守さん花壇」「芭蕉の句碑」などがあり、散策、ジョギング、ランチなどが楽しめる憩いの場所となっています。
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有馬小学校は中央区日本橋蛎殻町(かきがらちょう)にある公立小学校。校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことからついているとのことです。

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水天宮は1818年(文政元年)、久留米藩主の有馬頼徳(1797 - 1844)が、三田赤羽の藩邸内に久留米水天宮を勧請したのが始まり。1872年(明治5年)に、現在の日本橋蠣殻町に移ったのです。安産、水難除けの神様として知られます。有馬家との縁は続いており、2016年現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主とのことです

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蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)
昔、銀座は江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織で、その経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託していたようです。
江戸の銀座は1612年(慶長17年)に今の銀座二丁目の場所に置かれました。その後1800年に改めてこの人形町に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足したのですが当時この付近は蛎殻町だったため、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれ、1869年(明治2年)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続したとのことです。

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からくり檜 町火消し。
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣り(きやり)」です。起動時間は午前11時から午後7時までの正時の約2分間。ということは1日9回動くのです。もうひとつ、通りを挟んでからくり櫓(江戸落語)もありました。

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椙森神社(すぎのもりじんじゃ)は一千年の昔、田原藤太秀郷、将門(まさかど)の乱を鎮定の為、戦勝を祈願することがはじまりとのことです。 

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伊勢重は明治2年に日本橋の小伝馬町ですき焼き屋を始めて140年以上のお店。本日のすき焼きは本当の関東風で最近では味わえないほどの濃い醤油味でびっくりでした。

高野山真言宗の大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷跡だったこの場所に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したとのことです。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したともいわれています。ということから高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。

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吉田松陰は幕末の1859年(安政6年)安政の大獄で処刑され十思公園(じっしこうえん)には石碑と辞世の句碑があります。

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薬種問屋の長崎屋にオランダ人が滞在している間、オランダを通じてもたらされる西欧の技術や知識を知るため、多くの蘭学者や医師などが長崎屋につめかけたといわれているのがこの場所です。

半亭・与謝蕪村居住地跡は案内板のみがありました。
江戸時代の俳諧師といえば松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶。与謝蕪村は夜半亭宋阿に師事し高名になっていったのです。「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」は有名です。

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福徳神社の「福徳」とはとてもめでたい言葉で別名を「芽吹稲荷」といってこれもまた縁起の良い名称です。この神社の歴史は1000年を超えるそうですが、じつは何度も危機的な状況を乗り越えた苦難の歴史をたどる神社とのことでした。

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薬 祖 神 社。
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神。 大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様で神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名。 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。さらに2016年(平成28年)に福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座したのです。

COREDO室町3の地下1階通路には『熈代勝覧』(きだいしょうらん)が展示されています。
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これは、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる。当時の風景として珍しいのは「水売り」が描かれています。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されたのです。

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日本銀行休館設計者は、建築学界の第一人者であった辰野金吾博士(帝国大学工科大学<現東京大学工学部>教授)。明治29年に完成した西洋式建築物で、国の重要文化財にも指定されています。上から見ると「円」の形とのことです。

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貨幣博物館。
古貨幣の収集・研究家、田中啓文(1884~1956年)から日本銀行に寄贈されたコレクションを中核として開館したとのことです。常設展示では、日本のお金の歴史について、何が「お金」として選ばれ、どのように使われてきたかを、古代の和同開珎、江戸時代の大判や小判、最初の日本銀行券などの資料約3000点を通じて紹介するほか、トピック展示では、昔のお金の材料やつくり方、暮らしの中でどのようにお金が使われてきたかを詳しく学ぶことができます。大判や千両箱の重さ体験もできるのも面白いです。

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常盤橋門址・渋沢栄一像。
常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があった所。昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、旧東京市の公園(現在は千代田区立公園)となりました。残された城門の石垣は国の史跡に指定されています。
この公園の中で、ひときわ目をひくのが渋沢栄一の銅像です。日本資本主義の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように堂々と立っています。

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北町奉行所跡。
江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していました。南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。
北町奉行所は1806年(文化3年)から幕末まで、呉服橋御門内にありました。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たります。発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるといわれています。

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東京駅。

和田倉噴水公園は、昭和36年に上皇陛下の御結婚を記念して創建された大噴水を、平成5年6月の今上天皇の御結婚を機に、「継続と新たな発展」をテーマに再整備し、平成7年6月に完成したものです。整備にあたっては、和田倉地区が水と緑で構成された表情豊かで風格のある空間として、末永く国民の皆さんに親しんでいただけるよう配慮されました。具体的にはこれまでの大噴水の原型を活かしつつ装いを一新した噴水に、躍動感あふれる落水施設(滝)や静かに流れる流水施設(せせらぎ)を新たに加えるとともに、周囲の豊かな緑にも十分配慮し、「継続と新たな発展」を象徴する変化に富んだ水と緑の風景として創出されました。

本日は晴天のもと15℃と気候も良く、願った通りのウォーキング日和。参加者も11名と少なく全く和気あいあいでした。最後の解散場所が日比谷交差点でしたのでそれが少々引き延ばされた解散だった印象が強く、ちょっと残念。でもまあ、元気で22000歩を完歩できたので満足でした。
皆さんまたお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:54| あちこちウォーク

2022年03月05日

2022,2,27 さいたま彩発見ぶらり街あるき 八潮市

八潮市は埼玉県の東南端にあり、関東地方のほぼ中央に広がる中川低地にある所。面積は18.02㎢、東西が5.23km、南北が7.45km、地図を見ると花瓶の形をした地形とわかりました。標高は1〜4m、東を中川、西を綾瀬川、南を垳川の三つの河川に囲まれ、古くから河川の恩恵と災いを受けてきた場所とのことでした。八潮市は1953年(昭和28年)に八條、潮止、八幡の三村が合併してできた市で結果的に三村の頭文字をとって「八潮」となったようです。
本日は喜多見先生、池谷TDのもとに17名が集いウォーキングを開始しました。

つくばエキスプレス八潮駅⇒妙法寺⇒真菰田児童公園⇒大原(だいげん)中学校⇒大原橋⇒福寿院⇒大曾根八幡神社⇒新境橋⇒東京葛西用水⇒中馬場橋⇒八潮図書館⇒観音寺橋⇒観音寺⇒番場新橋⇒八潮中央公園⇒足立成和信用金庫⇒和食麺処サガミ八潮店⇒八潮駅

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首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスは秋葉原〜つくば間 58.3kmを最高運転速度130km/h最速45分で結ぶため、高速走行安定性、急曲線・急勾配通過性能を重視した設計で沿線における振動・騒音の軽減など環境面にも配慮している列車で、2005年(平成17年)に開業したとのことです。
八潮駅は市内では唯一の鉄道の駅。1日平均乗車人員は2万人弱。駅周辺は土地区画整理事業が行われておりどんどん変わりつつあるようです。

大曾根八幡神社
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この神社は、1502年(文亀2年)に勧請されたとのことですが、その前には源義光が兄源義家援軍のため、1087年(寛治元年)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より、八幡神を奉斎されたとも伝えられているようです。また社殿は大曽根一帯の総鎮守で彫刻が見事な神社として有名だそうです。彫刻は、常州北方・後藤一重の作とのことでした。

東京葛西用水
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江戸時代の初め、江戸幕府が天領開発に一環として関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路。利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として新田開発が行われるたびに延長や取水口の遷移が行われ、現在は市内部分だけでも4kmはありそうです。

八潮市の取り組みとして「八潮ブランド」が認定されています。これは八潮市の資産としてまちの価値や八潮産の製品の知名度を上げ地域活性化に取り組んでいるとのことでした。
令和2年度の認定品は「けやき通りサブレ」と「yamatoのキャリングトートバック」とのこでした。

土地のお祭りとしては八潮オビジャ・蛇ねじりがあります。
埼玉県内の無形民俗文化財とされており、弓矢で元を射ることでその年の吉凶や農作物の豊凶を占いようです。鶴ヶ曽根下久伊豆神社で行われるようです。

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真言宗豊山派寺院の観音寺は、正保山と号します。観音寺は、1534年(天文3年)不動坊として開創、長清律師が1621年(元和7年)に開山したといいます。西新井組中川通四箇領八十八箇所76番です。
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阿弥陀如来立像I・II軀は、観音寺本尊の脇侍として安置されてきた仏像。二十七菩薩の聖衆来迎図厨子安置の阿弥陀如来立像(I軀)は、一木造りの藤原様式を通す鎌倉初期の作、他の阿弥陀如来立像(II軀)は、寄木造りの金切り金様式を遺す鎌倉中期の作で、八潮地方における鎌倉期の阿弥陀如来像は少なくとても貴重なのです。

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八潮中央公園は、八潮市のほぼど真ん中にあり、八潮市役所の南西側に隣接している公園。園内には、浴衣のオブジェや野外ステージなどの設備や木々の緑が多く、平日の昼間や夕方にはのんびりと休憩される方、休みの日には親子連れやグループで楽しまれる方も多く、市民憩いの場として親しまれているようです。また、春には市内でも有数の桜の名所として知られ、満開のソメイヨシノは見事だそうです。

和食麺処サガミ八潮店
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和食のランチとしては量が多く、後でお蕎麦も出ましたので満腹。
美味しくいただきました。

そうそう埼玉の本日の逸品として埼玉の逸品 菓子道楽杵屋の「やしおつつじ」をいただきました。地元特産の小松菜入り白餡が、白玉粉を使ったモチモチの求肥で包まれていました。これは美味しかったです。

本日は晴天で16℃とウォーキング日和。しかし自分が先週の新型コロナワクチン3回目接種後かなりそれも3日間発熱したので大事をとって昼食をいただいた後皆さんとお別れし帰路につきました。ということで結局は12000歩で終了しました。
実際のその後の予定は、「恩田家屋敷林ふるさとの森・潮止揚水機場記念ひろば・鶴ケ曽根下久伊豆神社・鶴ケ曽根上久伊豆神社・太田家住宅・大経寺・八条橋・和井田家住宅・清勝院・八潮団地」とありました。これらすべてが参加できませんでした。誠に残念でまた機会があれば参加したいと思いました。特に大経寺と清勝院はぜひ後日行きたいと思っています。
posted by yunofumi at 16:48| あちこちウォーク

2022年01月31日

2022.1.23 さいたま彩発見ぶらり街あるき 三郷市

三郷市は、埼玉県の東南端にあり、都心から約15km、秋葉原まで20分で行けるそうです。市内は東西5.6km、南北9.5km、地形はほとんどまっ平。もともとは関東平野の江戸川と中川に沿った沖積平野とのこと。三郷市になって早や50年で市内にはラッピングしたバスが走っていました。今日はお正月が終わりましたが三郷七福神めぐりも兼ねたウォーキングとなります。

JR武蔵野線新三郷駅⇒新三郷ララシティ⇒みさと団地⇒三郷工業技術高校⇒二郷半領用水路⇒自然派レストラン蕎麦旬⇒玉蔵院(弁財天)⇒蜜蔵院⇒三郷市立彦成小学校記念講堂⇒延命院(寿老人)⇒東光院(毘沙門天)⇒香取神社⇒善照院(布帯尊)⇒上口公園⇒番匠免神社⇒迎摂院(弁財天)⇒三郷市消防団第五分団第3班⇒御菓司匠観音どら焼き饅頭屋⇒円能寺(福禄寿)⇒花和田児童公園⇒西善寺(大黒天)⇒成就院(恵比寿)⇒JR武蔵野線三郷駅

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JR武蔵野線新三郷駅は1985年に旧国鉄の駅として開業。その頃は武蔵野操車場を挟む形で、上下線のホームが360mも離れて設置されており、ギネス世界記録に「世界一ホームが離れている駅」として掲載されたこともあったそうです。この武蔵野操車場1986年に廃止され今は上下ホームも統合され普通の駅となっていました。そして武蔵野操車場跡は新三郷ららシティとなり、「ららぽーと新三郷」、「 IKEA新三郷」、「コストコ」などの大型商業施設が堂々とありました。いずれも特徴のある施設ですから休日などは遠くから買い物客が集まるようです。

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みさと団地はもと日本住宅公団(現・UR都市機構)により建設され、1973年(昭和48年)4月より第一次入居開始、続いて1974年(昭和49年)12月に第二次入居開始。総住宅戸数は9,867戸で、ピーク時には2万3千人の人口を擁する国内有数のマンモス団地となったのです。初めから低層と高層の2ブロックで構成されているとのことです。

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二郷半領用水路(にごうはんりょうようすいろ)は、吉川市、三郷市、北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路。元々、水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領が利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路だそうです。この地域は早場米の産地でもあったのですが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害にも悩まされていたこともあり、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行い良質な穀倉地帯となったのです。
現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っているとのことでした。

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自然派レストラン蕎麦旬は和食と本格手打ち蕎麦のお店でした。こだわりの食材を使った本格派の蕎麦をメインにした会席膳が味わえる一軒家のレストラン。まずは吟味した石臼引きのそば粉を店内で製麺し、打ち立て.茹でたての十割蕎麦をいただきました。またそばつゆは昆布 かつお さば他でだしを取り、県内.老舗の醬油で作ったかえしを使ったものとのことでした。お膳の作り方は京風でちょっとおしゃれでした。ということでまた来たいお店になりました。
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玉蔵院(ぎょくぞういん)(弁財天)
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玉蔵院は、山号を北野山玉蔵院と称し、真言宗豊山派に属します。江戸高田(現在の東京都湯島)の根生院の隠居寺として、1606年(慶長11年)建立されたといわれ、開祖は祐堅和尚とのこと。本尊の阿弥陀如来は、平安末期の作で一木造の仏像。弁財天も含め本堂も閉じられており、境内を見るだけでした。

三郷市立彦成小学校記念講堂
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この小学校は明治6年に開校。記念講堂は 1926年(大正15年)に建てられ現在郷土資料館分館でとなっていました。
講堂は2016年に大正時代の貴重な木造建築物ということで復元されたのです。 郷土資料館では、農具や農家の暮らしに関わる資料など、地域の歴史について展示しているようです。本日は内部を見られませんでしたが特徴としては天井に蝶(ちょう)・菖蒲(しょうぶ)・鳳凰(ほうおう)の透(す)かし彫(ぼ)りが二か所あること。「折上(おりあ)げ」という手法で壁と天井の境目はカーブを描く造りになっていること、外から見ると 両開きの鎧戸風(よろいどふう)の装飾窓が見えました。そして玄関ポーチを支える二本の柱は建物の外観の中でも特に装飾的で、柱は四本の角柱が半円形の柱を挟むような形に組まれており、半円形の柱材には西洋建築に見られる筋彫(すじぼ)りという装飾がほどこされているようでした。

延命院(えんめいいん)(寿老人)
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延命院は、明星山如意寺延命院と号し、真言宗豊山派の寺で、1570年頃(元亀年間)に俊秀和尚が開山したということです。本尊は不動明王。境内にある虚空蔵堂(こくぞうどう)は、虚空蔵菩薩が1486年(文明18年)に古刀禰川(現在の中川)に出現したので、村民がお堂を造ってこれを安置したのが始まりとのことです。
境内には様々な大きさの力石がありました。
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また本堂にあった寿老人がご住職の好意で拝顔できました。
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東光院(とうこういん)(毘沙門天)
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真言宗豊山派寺院の東光院は、荒神山薬師寺と号します。東光院の創建年代は不詳。上口香取神社の別当を勤めていたといいます。境内に三郷七福神(彦成めぐり)の毘沙門天がありました。
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善照院(ぜんしょういん)(布帯尊)
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真言宗豊山派寺院の善照寺は、神霊山と号します。善照寺は、1558年ころ(永禄年間)の創建。
境内の布袋尊と埼玉県のHPにあったコバトン布袋尊を並べて記念撮影です。
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番匠免神社
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番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したようです。
この神社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免にありました。番匠とは大工の古称で、地名の由来については、このあたりが番匠の免田(税を免除された田)であったことによるという説と、古くは「番匠面」とも書いたようで、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説があるとうかがいました。

迎摂院(こうしょういん)(弁財天)
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迎攝院は、真言宗豊山派に属し、山号を彦峯山観音寺。ご本尊は不動明王。1596年ころ(慶長年間)に祐貞によって中興され、このとき現在の真言宗豊山派に改宗したということです。この寺の観音堂は室町時代の創設と推定され、三郷市最古の建造物といわれているようですが本日は固く扉が閉まっていました。

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御菓司匠饅頭屋は大正2年創業の三郷市の篠田製菓饅頭屋とのこと。目玉商品は「観音どら焼き」「三郷インター最中」とのことでした。
「三郷インター最中」は本日の逸品でいただき、「観音どら焼き」は我が家のお土産にしました。
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円能寺(えんのうじ)(福禄寿)
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円能寺は、真言宗豊山派に属するお寺で、悲願山正連院円能寺と称している。本尊は不動明王。
当院は、武田信玄の家臣の田中修理という人が、1582年(天正10年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地に来たときに、携帯してきた不動明王立像を本尊として建立したと伝えられている。
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境内には、かつて松の大木があって、明治維新のときの上野の戦いに破れた兵士が追われてきたとき、この松の木に登って身を隠したことにより、助かったという言い伝えがある。それからこの松を「忍者の松」とか「人助けの松」と称して、信仰の対象になっていたということでした。

西善寺(さいぜんいん)(大黒天)
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西善院のご本尊は阿弥陀如来立像。像高90p、かや材寄木造、制作年代は鎌倉時代とのこと。この地区花和田周辺に人が住み始めたのは室町時代、西善院が建てられたのが1600年頃(江戸時代慶長年間)、現在まで西善院の代々の人々によって受け継がれてきました。

成就院(じょうじゅういん)(恵比寿)
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成就院は、神谷山谷口不動尊成就院と号し、真言宗醍醐派の寺で、本尊は不動明王。
寺伝によると、この不動明王は、最初は下総国小金領大谷口城主(現在の千葉県松戸市)が本尊として供養していたもので、天正十八年(一五九〇)に落城した時、家臣の神谷安右衛門が密かに持ち出した。その後、この神谷氏から分家に出た者が当地に移住し本尊としてこの不動明王を供養していたと伝えられる。ある時、不動明王が主人の神谷安兵衛(安右衛門の子孫)の夢まくらに立ち、「村人の願いごとは何でも聞き届けるから、人々にこれを伝えなさい。」と教えた。そこで安兵衛は僧となり、明治初年に一堂を建立し、成田山新勝寺において不動明王の開眼供養をして当堂に安置した。
以来、厄除け、災難除けなど何でも願いごとを聞き届けてくれる霊験あらたかなありがたい不動様であると伝えられ、今日もなお近郷近在の老若男女の信仰の的になっている。

三郷市にはJR武蔵野線の駅として今朝到着した新三郷駅と今到着した三郷駅、それにつくばエキスプレスの三郷中央駅があります。この三郷駅は1973年(昭和48年)国鉄の駅として開業。開業当初に自動改集札機が試験設置された駅でもあります。1992年(平成4年)にはみどりの窓口も開始されましたからそれなりに混雑していたようです。しかしいまは新三郷駅や三郷中央駅が繁盛しており少し地味になってきているようです。
本日は七福神をめぐるウォーキングのはずでしたがお正月が終わっており各々の神様がほとんど見られませんでした。ということでここで整理しておきます。
まず七福神とは室町時代末期から生まれた福の神信仰なのです。埼玉県で有名なのは草加宿・武州与野・越渡川越が有名です。私はこの3つはすでに巡っておりますまた今回の三郷は3つの地区に七福人めぐりがあるそうで、今日は彦成地区七福神めぐりでした。
七福神は恵比寿(えびす)、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)です。以下にざっと概略を示します。
恵比寿(えびす)=日本の神様、漁業の神様、烏帽子帽をかぶり釣竿と鯛を持っています。
大黒天(だいこくてん)=元々はインドのヒンズー教の神様仏法の守護神、打ち出の小槌と大きな袋を持ち米俵の上に載っている、食物・財福の神様。
毘沙門天(びしゃもんてん)=元々インドのヒンズー教の神様、仏教では多聞天という神様、武神・守護神で甲冑を身に着け矛と宝塔を持ち邪鬼を踏んでいる。インドでは財宝の神様。
弁財天(べんざいてん)=女性の神様、琵琶を奏で音楽、弁才、財福をつかさどる神様。
布袋尊(ほていそん)=中国の実在した人物、大きな袋を持って諸国を放浪した方、平和和合、金運招福の神様。
福禄寿(ふくろくじゅ)=中国の同郷の神様の化身、道教の三徳(幸福・封禄・長寿)を具現化した神様、長い頭と長い白髭、杖を突き鶴屋亀を連れている。
寿老人(じゅろうじん)=中国の神様の化身、白髭のおじいさん、長寿のシンボルの桃や鹿を伴っている仙人で長寿、諸病平癒の福の神。
もうひとつ三郷には彦のつく地名が多いと伺いました。「彦」は男の子の名前につくことはよく知っていました。そして三郷には11の彦のつく地名があったのです。ちなみに上彦川戸・上彦名・下彦川戸・彦糸・彦江・彦音・彦川戸・彦倉・彦沢・彦成・彦野です。そしてこれらの地名がある所の立地をみると中川沿いに集中しており、沢や川、江など水に関する字も多いのです。そして調べてみると「彦ってのは古代の方言でヒクのこと。ヒクとは川沿いに堆積した土砂で出来た自然堤防のこと。肥沃な土に人が集まって出来た集落に、彦の字つかったとネットも駆使してわかりました。面白いですね。

ということで本日のウォーキングを終了。喜多見先生の先導で小松TDが後ろを固め、曇天で寒かったですが本日も18名が無事に元気に約19000歩の歩程を無事を終えました。
皆様、来月の次回は三郷市のお隣の八潮市です。またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 14:50| あちこちウォーク

2021年12月29日

2021.12.19 さいたま彩発見ぶらり街あるき 川口市

川口市は埼玉県南部、お隣が東京という位置にあります。人口60万人はとても大きな市というイメージ。川口駅から一歩出ると高層ビルが多い!そして公園が大きそう!が第一印象でした。
JR川口駅は改札が一か所。でもこれが幅広で改札機はざっと見ても15はありそう。
本日も改札口10:00集合。参加者11名、講師喜多見先生とTD林さん。

JR川口駅⇒川口駅東口・リリアパーク・キュポ・ラ広場⇒太郎焼⇒メロディ・ブリッジ⇒永瀬洋二像⇒川口西公園⇒ぶんかようちえん⇒イトーヨーカドウ⇒川口ロボンシティ⇒大徳稲荷神社⇒川口ブルワリー⇒川口樹モール⇒川口町役場跡広場「ココ川」⇒香楽園⇒成田山⇒川口神社・梅ノ木天神社⇒金山神社跡⇒旧鋳物問屋鍋平別邸⇒船戸ひまわり橋⇒川口の渡し・鎌倉橋の碑・川口市立南中学校⇒日光御成道⇒18ポンドカノン砲⇒永瀬家ビル⇒裏町通りと鋳物工場街並⇒川口市立文化財センター⇒錫杖寺⇒JR川口駅

JR川口駅に乗り入れている東北本線における埼玉県内最南端の駅で、この駅から栃木県の豊原駅まで大宮支社の管轄とのこと。ということで、川口駅と赤羽駅の間にある荒川橋梁の埼玉県側入口が大宮支社と東京支社との境界となっているということでした。1910年(明治43年)に川口町駅(かわぐちまちえき)として開業。1934年(昭和9年)川口町の市制施行により川口駅(かわぐちえき)と改称し現在に至っています。1日乗客約6万人。

川口西公園(リリアパーク)は、広域的な市民の憩いの場、また災害避難広場として必要な機能を備えた都市型公園。そばにはリリア(川口総合文化センター)や高層住宅群など周辺施設との景観にも配慮されていて、特に地場産業である緑と鋳物を活用した駅前公園として皆さんに親しまれているとのことです。このリリアパークは、総面積が3.1haで園内には13の彫刻があり、彫刻の公園としても知られているのです。

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川口駅東口すぐのところに「働く歓び像」がありました。この像は1974年(昭和49年)に設置。川口の代表産業鋳物と働く歓びを表しているとのことです。

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川口市東口埼玉りそな銀行前に青いポストがありました。このポストは鋳物で出来ているとのことで普通にポストとして機能しているとのことでした。

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足元の道路面のタイルは川口市の花、鉄砲ユリ(リリア)でした。

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太郎焼は昭和28年創業の川口名物で実はイコール今川焼のようです。

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メロディ・ブリッジと呼ばれる川口駅の西口と東口を結ぶ歩道橋に鉄の木琴(´∀`)がありました。左から叩くと “ふるさと ”を奏でました。この辺りは緑が多くちょっと静かな所でした。

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歴代市長さんのうち永瀬洋治さんは川口市出身。市立浦和高等学校[1]を経て1954年に立教大学を卒業し、川口市役所に就職、1967年に川口市議会議員、その後埼玉県議会議員を経て1981年から1997年まで4期16年川口市長を務めたようです。市長在任中、「文化の香る街づくり」を掲げて川口駅前の公害資源研究所跡地の払い下げを受けて川口リリアを建設、川口市民音楽協会会長に就任、第九の会などを設立したのです。

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現在、アリオ川口や大規模マンション群であるリボンシティがある場所は、かつてサッポロビールの埼玉工場があったところ。以前は、川口駅と工場を結ぶ専用線が敷かれていたようで道の両脇には機関車の部品をモチーフにした鋳物のオブジェが配置されていました。
アリオ前にはかってのビールの蒸留釜らしいものもありました。
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大徳稲荷神社はかつて、旧サッポロビールの工場だった場所にあった神社で社号標には、日本のビール王と謳われた高橋龍太郎の名が刻まれています。

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川口ブルワリーは埼玉県川口市にあるクラフトビールのお店。店内で醸造したオリジナルクラフトビールと埼玉県産の小麦を使用した釜焼きピザが看板メニューとのことです。
本日はビールで炊いたビール飯が案外にあっさりとして美味しかったです。
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川口樹モール(川口銀座商店会)は街路樹や街路灯などが一体となり、くつろぎながら買物ができるショッピングモール。

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川口町役場跡広場『ココ川』くつろぎ場となっていました。

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成田山川口分院は真言宗開祖、弘法大師・空海の霊験あらたかな大本山・成田山の正統なる分院として、その由緒ある法流と千年以上絶やすことのない本山の護摩供香煙を受け継いでいるとのことでした。家内安全、交通安全や各種祈祷、厄除などはもちろん、初詣に行くとご利益のあるお不動様として大変人気とのことでした。

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川口神社は平安時代の天慶(てんぎょう・938〜946年)年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請したものと伝えられているとのことです。ですからもとは氷川神社と称し、昔から領主や民の崇敬を集めてきましたのです。江戸時代には産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされたとのこと。明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山権現社を合祀して「川口神社」となったのです。

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梅ノ木天神社 由緒書きによると。往古川口町字新屋敷に天神社が鎮座していたが、明治27年に町の鎮守氷川社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されているとのこと。
昭和11年川口第一尋常高等小学校(現・本町小学校)廿楽校長より児童の勧学の神として天神様を祀りたい旨の要請を受け、道真公の御分霊を校庭の神殿に遷座して「梅ノ木天神社」と称したのです。しかしながら昭和20年代東和戦争敗戦の伴う敵占領軍の指令により、神殿ごと当神社に返還されたので、これを境内神社として奉安しその後、平成4年に新社殿を建設したのです。

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旧鋳物問屋鍋平別邸は明治末期の和風建築。本日は建物を詳しく見られませんでした。また裏手にある庭園が素晴らしいとのお話だけ伺いました。

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市中心部にある鋳物業者の住宅。南正面の木造二階建、入母屋造桟瓦葺で正面東端に切妻造洋瓦葺の別棟が突出して接続する。内部は一階に居間等、二階に客間を配し、別棟に洋風の玄関と応接間を設ける。鋳物産業で発展した川口市街の歴史的景観を伝えています。

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「川口の渡し」とは、将軍が日光社参の際荒川を渡り川口宿の渡船場を「川口の渡し」といったようです。この辺りの日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道です。もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」でした。家康は、その遺言により日光東照宮に祀られました。以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となったので特別な道が「日光御成道」なのです。

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18ポンドカノン砲は幕末の嘉永5年(1852)に、津軽藩より依頼を受けた増田安次朗(川口の鋳物師として名のあった増田家初代)が、後の砲術奉行を務めた高島秋帆と協力して作り上げたも。これは復元品で、当時は製作不可能とされていた大型大砲。嘉永5年から安政5年(1852〜1857)の5年間で213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本国を守るために全国各地に配備されたのです。全長:3.5m 重量:2.5t 口径:15p、射程距離:2500m

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永瀬孝男家住宅旧発電所。もともと自家発電施設で敷地東南隅に建つっていました。木骨煉瓦造平屋建、東西棟の切妻造鉄板葺で、東西二室に分けて北面に各出入口を設けたとのことです。躯体はフランス積で、東室の出入口をアーチ形とするなど丁寧なつくりで類例の少ない住宅附属の発電施設の遺構として貴重な存在なのです。

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かっては裏町通りと鋳物工場が並ぶ街並だったとのことです。今は普通の住宅街に見えました。

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川口市立文化財センターは川口の発掘調査の出土品をはじめとした文化遺産の収集・保管・展示を行っているとのこと。とても資料が多くゆっくり時間をかけてみるようでした。

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錫杖寺(しゃくじょうじ)は宝珠山と称しご本尊の地蔵菩薩(写真下)の由緒に「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあるようです。錫杖とは僧侶・修験者の持つ杖です。頭部は錫(すず)で作り、数個の鐶を掛けるのです。開基は740年(天平12年)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられているようです。1838年(天保9年)本堂焼失。1841年(天保12年)本堂再建。1852年(嘉永5年)川口の大火により堂宇類焼。1855年(安政2年)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は1975年(昭和50年)に新築されたとのこと。本堂屋根の頂上にある寺紋は徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章なのです。
また墓地には大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤め、大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行ったのです。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日へ移ったのです。その駕籠も錫杖寺に保存されているのです。実は滝山に仕えていた侍女の生家を頼ってこちらに来たとのこと。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせ、1876年(明治9年)72歳で逝去。 墓石には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」 と刻まれているとのことでした。

本日は風もなく晴天、9℃と絶好のウォーキング日和でした。ところが午後になり数日前に痛めた右足首捻挫が嫌に痛むはじめ、とうとう錫杖寺でギブアップ!ここで皆さんとサヨナラして川口駅に戻り帰宅しました。ということで私は16000歩を一応完歩。
その後の歩程は平柳蔵人居館跡・旧田中家住宅・日光御成街道一里塚碑・川口元郷駅と伺っておりました。誠に残念で、後日再訪しようと思います。
posted by yunofumi at 17:15| あちこちウォーク

2021年12月15日

2021.12.10 2巡目第11回東京新発見「品川区」

1か月ぶりの東京23区ウォーキングです。JR品川駅に集合してみると久しぶりに牧先生と間宮TDが見えました。早速10:00スタートで16人が出発です。

JR品川駅⇒港区立汐の公園・品川セントラルガーデン⇒天婦羅うえじま⇒屋形船平井⇒北品川橋⇒品川浦と船たまり⇒北品川通り商店街⇒北品川どうぶつ病院・問答河岸⇒清水横町⇒土蔵相模⇒歩行新宿裏町⇒袋井宿の街道松⇒黒門横町⇒品海公園⇒法禅寺⇒於春稲荷大明神⇒虚空地蔵⇒成田山⇒品川一心寺⇒聖蹟公園⇒添浦高札⇒寄木神社⇒品川橋⇒品川神社⇒品川宿交流館本宿お休み処⇒北馬場参道通り⇒品川神社・富士塚・板垣退助墓⇒御殿山・ザ・フォレスト庭園⇒ゲートウエイ大崎⇒デルソールショップ⇒容器文化ミュージアム⇒東京デザインスクール⇒五反田公園⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館⇒池田山公園⇒常光寺⇒宝蔵寺⇒国立科学博物館附属自然教育園⇒庭園美術館⇒JR目黒駅

品川浦と船たまり。
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かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため1962年(昭和37年)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のものとのことでした

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北品川どうぶつ病院の角には問答河岸跡の石柱があります。寛永の昔、徳川三代家光将軍は明君。沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建立。その時の問答があったことを示しているようです。

土蔵相模。
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旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られています。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのです。

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品海公園(ひんかいこうえん)は東海道五十三次の第一宿・品川宿の有った場所。公園入口に【品川宿】の石碑が立っていました。

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於春稲荷大明神は江戸時代からこの地にお祀りされてきたお稲荷さま。旗本板倉家の屋敷神であったとも、その後できた長屋に祀られたとも云われており、創建年代は定かではないようです。

デルソールSHOP
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リトアニアはかってのロシア革命中の1918年に独立を宣言した国。第2次世界大戦中はソビエト連邦に併合されていたようです。ランチはリトアニア発のパンDOMIPANとサラダ、マカロニグラタンのメニューでした。パンはバターなどを塗るのではなく上に他の食材を載せていただくようでした。
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ねむの木の庭。
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上皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地を整備し、2004年に開園した品川区立公園。公園名は美智子さまが高校生時代に作られた詩「ねむの木の子守歌」に由来。美智子さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木や草花約50種が植えられており、四季折々の表情が楽しめます。公園中央のシンボルツリー「ねむの木」は6月中旬頃に可憐な花を咲かせます。鮮やかなオレンジ色のバラ「プリンセスミチコ」は美智子さまが皇太子妃時代にイギリスのバラ育種会社から捧げられた品種で、春と秋に見頃を迎えます。
今日はエンブレスミチコがとてもきれいに咲いていました。
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池田山公園。
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この付近の高台は、江戸時代初期に備前国岡山藩池田家の下屋敷となり、次第に「池田山」と呼ばれるようになりました。大正時代末期から次第に宅地として開発され、都内でも有数の高級住宅地として知られています。品川区立の公園として1985年(昭和60年)に開園。起伏に富んだ地形を生かし高台から池をのぞき見るような形に造られた池泉回遊式庭園。梅(2月中旬〜3月中旬)、椿(2月下旬〜3月)、つつじ(4月中旬〜5月中旬)、花菖蒲(5月下旬〜6月上旬)、紫陽花(6月〜7月中旬)、紅葉(11月下旬〜12月上旬)など、四季折々の花が美しい公園として知られています。

常光寺は品川区上大崎1丁目周辺には9ケ所の寺が固まって建っているうちの一つ。福沢諭吉先生永眠の地碑や幼稚舎創立者和田義郎碑があります。
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国立科学博物館附属自然教育園。
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園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹が広がり、ススキやヨシの草はら、池や小川などがあります。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。

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東京都庭園美術館は、1933年(昭和8年)に朝香宮邸として建てられ、アール・デコ様式の建物の空間を活かし、緑豊かな庭園が調和した美術館として1983年(昭和58年)に開館。2014年(平成26年)には新館が完成。2015年(平成27年)には本館、正門、茶室等などが重要文化財に指定され、「歴史的建造物」「美術作品の鑑賞」「緑豊かな庭園」を同時に楽しめる美術館として、ユニークな創造発信の場となることを目指しているとのことです。

本日はなんといっても昼食がはじめてのリトアニア料理ということで印象的でした。天候は曇り、気温12℃、無風でしたからまずますの気分でしたが後半がアップダウンの多い場所を訪れましたから、かなりの疲労を覚え2万歩超えはちょっときつかったです。でもまあ無事終了ですから一段落でほっとして終了でした。皆様、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:11| あちこちウォーク

2021年12月13日

2021.12.5 さいたま彩発見ぶらり街あるき 深谷市

本日は11℃とやや冷え込んでいましたが集合がJR深谷駅10:15集合ということで朝8:00に自宅出発。東上線〜埼京線〜高崎線へと乗り換え、結局は1:30で到着。自分としては深谷は3回目の訪問ですが本日の目玉は渋沢栄一さんのアンドロイドと深谷大河ドラマ館なのです。

JR深谷駅⇒駅前広場清淵広場⇒古伝飴濱岡屋⇒カフェ花見⇒東白菊蔵元・藤崎藤三郎商店⇒深谷シネマ⇒ときわ園⇒旅館きん藤⇒笛を吹く武者⇒北川千代文学碑⇒深谷城址公園⇒深谷大河ドラマ館――路線バスーー誠之堂・清風亭⇒割烹楓⇒尾高惇忠生家⇒鹿島神社⇒渋沢栄一記念館・八基公民館⇒睦橋⇒青淵公園・青淵由来之跡碑⇒渋沢栄一生家・中の家――路線バスーー⇒JR深谷駅

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深谷市の玄関口であるJR深谷駅は、東京駅を模したデザインの駅舎。東京駅が深谷市産のレンガを大量に用いている縁から「レンガの街」をアピールする意味を込めて1996年に改築されたのです。明治期、新たな建築材料だったレンガが日本国内に普及するうえで渋沢が果たした役割は大きく、その重要な供給元として発展を遂げたのが深谷であり、そして出荷を支えたのが鉄道だったのです。昔は深谷にレンガ製造の工場もあったとのことです。
駅舎を下りると深谷のイメージキャラクターふっかちゃんと交代で渋沢さんのからくり時計が作動し、渋沢さんが愛嬌を振りまいていました。
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ふっかちゃんの頭についているのは名産の深谷ネギ。結構人気者なのです。
駅前には町の偉人の渋沢さんの銅像があり駅前青淵広場と書いてありました。
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この像は1999年(平成8年)に田中昭により制作された2代目の銅像。1代目は後程伺う記念館にあるとのことです。

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古伝飴濱岡屋は明治に創業以来130年「あんこ」にこだわってきたお店のようです。北海道の小豆が原材料とのことでした。ここで本日の逸品で「明治大福」を美味しくいただきました。

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藤崎藤三郎商店は東平菊の蔵元。江戸時代の末期、1848年(嘉永元年)越後柿崎より現在の場所に移転して酒造りを始めたそうです。代表銘柄「東白菊」は関東の東に酒の清らかな白、清酒の香りを菊で表現しているとのことでした。お店の裏に回ると昔の景色が少し残っているようでした。
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すぐそばには昔の建物七ッ梅所蔵跡地に深谷シネマがありました。現在NPOの運営でもう18年間も頑張っているそうです。上映スケジュールも決まっているようでしたから機会を見つけて一度伺おうと思いました。
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ここには深谷本陣があったそうです。

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旅館きん藤(きんとう)は中仙道沿いに江戸時代より営業している180年経つ老舗旅館。懐石料理、鴨料理等で人気あり。各種宴会可能。無線でコンピューター作業も出来る。風呂は人工温泉でゆっくり疲れがとれるのでスポーツ関係の合宿が多いとのことです。市内は無料で送迎バスがあります。

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「笛を吹く武者」は、平成7年に旧深谷市の市制40周年記念で建立されたもので、深谷城があった時代の武者の姿をイメージしてつくられたようです。 この像が立つ大手口公園は、かつての深谷城の正面口付近といわれていると伺いました。

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北川千代文学碑。大正から昭和期を代表する児童文学作家である北川千代は、1894年(明治27年に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)の日本煉瓦工場内の社宅で生まれました。
『世界同盟』など社会の現実を直視したテーマで多くの作品を発表。『みつばちマーヤの冒険』や『アンクルトム物語』などの翻訳。春やいずこや父の乗る汽車などを著しています。

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深谷市本住町にある『深谷城址公園』は、「深谷市民文化会館」「深谷市保険センター」と同じ敷地内にある、緑と瓦つくりが特徴の公園です。
春には桜を楽しむ事ができ、隣には深谷図書館もあるようでした。

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大河ドラマ館は、深谷生涯学習センター・深谷公民館の1階に展示されていました。
深谷大河ドラマ館は2021年2月下旬、埼玉県深谷市と東京都北区で「青天を衝け」NHK大河ドラマ館をオープンしたのです。コロナ禍ではありますが、約1か月間の運営で、来場者が10,000人を超えたとのことです。2022年1月10日までの設置だそうです。
埼玉県深谷市は、渋沢栄一生誕の地であり、青年期まで過ごした故郷でもあるのです。
ドラマ館では、ドラマで実際に使用された小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示、さらにはセット展示や記念撮影ポイントなど、大河ドラマの世界観を存分に体験できるようになっていました。
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台所の様子や衣装も面白かったですが私的に一番は惇忠さんの書でした。昔の方って筆が立つのですよね。
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面白かったのは建物の外に大きく張ってあった新1万円札。
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誠之堂(せいしどう)は1916年(大正5年)渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちにより建築されたとのこと。設計は田辺淳吉。煉瓦造り平屋建、外観は英国農家風ながら室内は中国・朝鮮・日本の意匠がとりいれられているのです。喜寿を迎えたのを機に栄一は頭取を辞任しています。

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清風亭(せいふうてい)は1926年(大正15年)当時の第一銀行頭取佐々木勇之介の古希を祝って建てられた。設計は銀行建築の第一人者の西村好時で南欧の田園趣味、鉄筋コンクリート造り。

割烹 「楓」(かえで)で昼食でした。
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煮ぼうとうコースをおいしくいただきました。

その後はご覧の通りのネギ畑を通ってウォーキング。
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尾高惇忠(おだかあつただ)の生家。
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惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えたとのこと。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟だったのです。惇忠は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めたのです。

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鹿島神社は下手計の鎮守社で境内には、渋沢栄一の師である尾高藍香りの偉業を称える頌徳碑が建立されていました。この碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号、中洲)の撰文によるものとのこと。 今では朽木となったが、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がっています。昔は根元に湧いた神水で共同風呂が設けられ、栄一の母、栄は、これを汲み、らい患者の背を流したと伝えられています。

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渋沢栄一記念館の1階資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていました。その後2階講義室で渋沢栄一アンドロイドによる講義を見学しました。
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昔の講演を現在の言葉に直した音声で「道徳経済合一説について」の講義、身振り手振り、瞬きも見事でイヤー結構びっくりしました。アンドロイドは大阪大学大学院基礎工学研究科石黒浩教授の技術指導があってできあがったようです。

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青淵公園は昭和12年に皇太子明仁親王の生誕奉祝記念事業として、八基村青年団により建てられましたのがこの青淵由来之跡の碑。清浦奎吾揮毫、栄一の甥にあたる渋沢治太郎撰書とのこと。このすぐそばに旧渋沢邸・中の家(なかんち)がありました。
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当時としては豪農だったと思われます。屋根にある鬼瓦がすごかったです。
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こちらは奥のお部屋で我々をお出迎え中のアンドロイド栄一さん。お辞儀などをしていました。
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その後スタート地点の深谷駅で解散。その後数人が例の濱岡屋さんへ行ってお土産をゲット。
私は「ふっかちゃんのたまご、渋栗、駅舎最中、塩豆明治大福」を購入しました。
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そうそう最後にやっとふっかちゃんマンホールを見つけ大満足でした。
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本日は喜多見先生、TD小松さんと共に18名が参加。天候は晴れ、11℃、微風でしたからウォーキング日和でした。途中、論語の里循環バスを2回利用し、16000歩とあまり疲れを感じないコース作りで大いに楽しめました。心残りは深谷大河ドラマ館がちょっと忙しかったのでもう一度、閉館になる前に伺いたいと思いました。
何しろ埼玉って面白いのです。
posted by yunofumi at 16:22| あちこちウォーク

2021年12月08日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午前の部

メトロ日比谷線築地駅⇒築地本願寺⇒備前橋跡⇒堺橋跡⇒聖路加国際大学⇒慶應義塾大学発祥の地・蘭学の泉はここ⇒浅野内匠頭邸跡⇒東京メトロ新富町駅⇒入船橋信号⇒靴業発祥の地⇒新大橋通り⇒新富町交番⇒築地橋信号⇒東京ハヤシライス⇒中央区役所⇒銀座ブロッサム⇒三吉橋⇒漫莉キッチン⇒あさり河岸跡⇒銀座1丁目⇒白魚橋IC⇒中央区立水谷橋公園⇒京橋親柱⇒銀座通り口信号⇒警察博物館⇒京橋大根河岸青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥之地⇒京橋3丁目⇒東京スクウェアガーデン⇒千葉定吉道場跡⇒嶋村――午後の部に続く

前夜は東京では大雨だったそうで、今朝の電車の各路線のダイヤが大きく混乱していたようです。私は自宅から1時間30分以内に到着予定でしたが2時間もかかり、有楽町線新富町駅到着時には少しお疲れ気味。しかし有難いことに東京メトロ日比谷線築地駅は有楽町線新富町駅と通路でつながっており、お陰様で築地駅にはちょっと歩きましたが無事に集合時間前に到着。講師土屋さん、TD新井さん、参加物10人はそれでも定刻9:30スタートしました。
 
東京メトロ日比谷線築地駅。
築地駅の副駅名は文字通り本願寺前。1963年(昭和38年)に開業。1995年(平成7年)3月20日に地下鉄サリン事件が発生した時この駅は営団地下鉄の駅として最も多くの被害者を出した駅だそうです。発車メロディは1番線が「オールマイティー」(塩塚博作曲)、2番線が「潮騒」(福嶋尚哉作曲)ということで面白いと思いました。

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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院。ここは江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失しその後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになったのです。なお、この時の本堂は今と違い西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていたとのことでした。
1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたけれどすぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となったのです。

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昭和60年頃までは、岡山藩をしのばせる「備前橋:びぜんばし」が近くの築地川に架かっていたのですがその後、川は埋め立てられ、橋名のプレートが埋め込まれた親柱と欄干が中央区築地6丁目残るだけとなってしまっていました。

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築地川の暁川の下流側(本願寺方面)で工事をしていた時に草むらの中にこの石が見つかったことから堺橋跡とわかったのです。

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聖路加国際大学はキリスト教精神に基づき、社会の情勢に適応する医療・看護・保健福祉・公衆衛生にかかわる教育を授ける私立大学および医療施設でその他の教育研究施設の設置・運営を通じ、人類へ奉仕することを目的としています。

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慶應義塾大学発祥の地。
慶應義塾の起源は、1858年(安政5年)に、福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことが始まり。中屋敷は江戸の築地鉄砲洲にあったようで中央区明石町の一部で、聖路加国際病院のあたりとのこと。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に、慶應義塾創立百年を記念して、聖路加国際病院敷地内に建立されました。設計は谷口吉郎。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていました。慶應義塾の開校記念日である4月23日に除幕式が行われ、式後すぐに中央区に寄贈され、昭和32年に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の現在の場所に移転されたとのことです。中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、その記念碑(「蘭学の泉はここに」)も隣接してありました。この二基は、合わせて日本近代文化事始の地記念碑と称されています。

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浅野内匠頭邸跡は、1645年(正保2年)に笠間から赤穂へ領地替となった浅野長直の江戸上屋敷があった地で、その子赤穂内匠頭長距が、1701年(元禄14年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に供されていました。赤穂浅野藩とその家臣大石内蔵助の仇討は有名で、昭和6年東京都旧跡に指定されたのです。

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地下鉄有楽町線 新富町駅のある“入船橋”交差点の 北東側の建物脇に立っているのが「靴業発祥の地」の石碑。日本で西洋式の靴が履かれるようになったのは, 江戸時代末期乃至明治の初めのころでしたが当初は軍靴が最初。また、築地の明石町一帯は明治初期には外国人居留地で 多くの外国人が居住することになり、靴の需要が多くなった場所でもあったのです。

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中央区役所は1947年の京橋区・日本橋区の統合で中央区が発足し、旧京橋区役所庁舎をそのまま中央区役所本庁舎として利用し、その後建て替えが行われた建物です。中央区役所の入るビルの地下1階・2階は、中央区立京橋図書館となっているとのことでした。

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中央区銀座・中央区築地・中央区新富と築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、1929年(昭和4年)12月に三叉の橋、三吉橋が架けられたのです。中央区では、平成4〜5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、また一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。

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蜊(あさり)河岸跡は中央区新富1-1・4のあたりで今は案内板があるばかりでした。 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川(かえでかわ)で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつで、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」がありました。嘉永6年(1853年)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。

「京橋」の地名の由来は、かつて存在した京橋川に架けられていた中央通り(東海道)の橋。これがかっての京橋の親柱。
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昔は運河が生活に重要な役割を果たしていたため、橋は地域の象徴的な場所だったのです。東京15区時代に区名となり、今日でも地名として使用されています。現在、橋は存在しません。しかしかつての橋としての京橋は、日本橋と並ぶ名橋で東海道にて日本橋を出発して京都方向に向かう場合、最初に渡る橋であったため重要な意味合いをもっていたのです。街としての京橋は橋の北側に位置し、銀座線京橋駅を中心とした地域なのです。これが今残っている京橋です。
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京橋大根河岸青物市場蹟。
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江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、青物市場が存在し通称「大根河岸」といわれました。もとをたどれば1661年(寛文元年)、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりだったようです。京橋に建つ大根河岸記念碑によると、遠近から多くの作物が集まり、数年も経たぬうちに店数が増加して市場としての形が整い、江戸の人々にとってなくてはならないものとなったのです。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で、かつ水運の便がいい京橋川に移転したのです。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれたのです。積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったということでした。
京橋川はもともと、天下普請で日比谷入江を埋め立てた代替として開削され、江戸城への物資供給経路として使われていたと思われます。京橋地区には江戸城下の港湾整備で10本の舟入堀があったし、外濠川の河岸も建築資材の倉庫として機能していたのです。そのため、京橋川は江戸城建設の基地にならず、河岸の移転が実現したのでした。

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江戸歌舞伎発祥之地。
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇にあり、すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑もあります。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。
近くでは十月桜が咲いていました。
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千葉定吉道場跡。千葉定吉は、北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟。坂本龍馬は嘉永6年(1853年)、剣術修行のため故郷の土佐を出て、江戸の千葉定吉道場に入門した。千葉定吉道場があった場所は、東京駅からほど近い鍛冶橋交差点角・八重洲三井ビルのあたりと言われているが、異説もあるようです。
坂本龍馬が千葉定吉道場で修行を始めてまもなく、ペリー艦隊が浦賀沖に現れた。龍馬は藩命により品川の土佐藩下屋敷の防備の任にあたる。「いくさになれば異人の首を取って帰ります」と家族宛に手紙を送っている。日本中を揺るがすこの大事件に直接遭遇したことは、後の龍馬の生き方に大きな影響を与えたということです。
定吉の息子の重太郎は、龍馬の一回りも年長だったけれど、よき相談相手で親友でもあったのです。開国派の勝海舟を暗殺するため、文久2年(1862年)11月、龍馬とともに勝海舟邸に出かけたが、龍馬のほうが勝の論に心服しその場で門人になってしまったという逸話もあるのです。

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割烹嶋村は幕末の味まで愉しませてくれる日本橋ならではの割烹。嘉永3年(1850年)に日本橋の仕出し店として開業したのです。後に料理人としての確かな腕が認められて江戸城西の丸御用も務めたということでした。
 
午前は何しろ見聞することが多く、また昼食予約時間も迫っておりウォーキングしながらも大忙しの半日でした。まずは晴天の中順調に半日が無事に終わりました。
posted by yunofumi at 17:07| あちこちウォーク

2021年11月17日

2021.11.12 2巡目第10回東京の新発見「渋谷区」

JR信濃町駅⇒慶應義塾大学病院⇒信濃町煉瓦館⇒聖徳記念絵画館⇒新国立競技場⇒オリンピックミュージアム⇒法雲山仙寿院⇒将棋会館⇒鳩森八幡神社⇒渋谷千駄ヶ谷郵便局⇒千駄ヶ谷児童遊園地⇒国立能楽堂⇒神宮北参道PREX⇒JPR千駄ヶ谷ビル⇒DAIKYOビル⇒山手線裏参道ガード⇒明治神宮崇敬会⇒北参道⇒明治神宮本殿⇒西参道⇒代々木ポニー公園・東京乗馬倶楽部⇒代々木倶楽部⇒国立オリンピック記念青少年総合センター⇒バス停代々木5丁目⇒代々木公園動物病院⇒春の小川歌碑⇒公衆トイレ⇒代々木公園西門⇒十四烈士之碑⇒日本初飛行の地⇒代々木公園渋谷門⇒NHK⇒二二六事件供養碑⇒国木田独歩住居跡⇒AMWAYビル⇒松濤界隈・戸栗美術館⇒JR渋谷駅

JR信濃町駅(しなのまちえき)は、信濃町にある中央本線の駅で中央・総武線各駅停車のみが停車。面白いと思ったのは駅舎が信濃町、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町に、四ツ谷駅寄りは南元町となっていることでした。

慶應義塾大学病院は明治25年北里柴三郎博士を所長とする伝染病研究所設立が最初。今では約1000床の大病院で特定機能病院となって先進的医療を開発し質の高い安全な医療を提供しているのです。

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信濃町煉瓦館は慶応義塾大学病院の敷地の一部、旧食養研究所跡に建てられたそうです。1995年と最近造られた建物だがデザインとレンガという素材が、レトロな雰囲気のビルです。設計者は清水建設の大山尚男氏。このビルに使われた煉瓦は韓国から輸入されたままのを使ったとのことでした。

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聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された、神宮外苑のシンボル。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の在世中の事蹟を伝える大壁画(縦3m横2.5〜2.7m)が、画題の年代順に展示されており、当時の出来事で時代の流れを感じながら見ることができます。
すぐそばにはなんじゃもんじゃ(ひとつばたご)がありました。
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なんじゃもんじゃの木はこちらで3代目。花の時期は4月で4枚の白い花びらの小さな花がびっしり咲きとてもきれいとのことでした。

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絵画館前の白松。松といえば黒松、赤松が普通ですが、絵画館正面の池の両側に三本ずつ植えられています。白松(シロマツ、ハクショウ)は中国では神聖な木とされ、王宮や墳墓、寺院などに植栽されているとのことです。樹皮は光沢のある淡灰色。葉は3本づつ付いており、縁起が良いということで拾って帰りました。

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御鷹の松は江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったという言い伝えがあります。家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたということです。時代が下ってからは「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称されるようになったようです。昭和54年8月に絵画館前庭西側の現在地に移設されたようです。

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新国立競技場は2020年東京オリンピック・パラリンピックにはオリンピックスタジアム(英: Olympic Stadium)の名称で、主会場として使用された。1958年(昭和33年)に開場した国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧・国立競技場)の老朽化対応で建てられた施設で、仮称は新国立競技場。2016年12月に着工し、2019年7月3日に開場後の正式名称が『国立競技場』となったのです。

日本オリンピックミュージアム。
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この建物自体は、岸記念体育会館から移転したスポーツ競技団体の事務室のほか、日本オリンピックミュージアム、会議室、記者クラブ、岸清一メモリアルルーム(14階大会議室) などが入っているようです。
本日は外にあるオリンピックマークなどを見ました。
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第11回札幌オリンピック聖火台
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第18回東京オリンピックの聖火台、
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オリンピックの父クーベルタン男爵像
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法雲山仙寿院は江戸時代、正保元年(1644年)に創建されたお寺。紀伊の太守・徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により、里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山としているとのことです。

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将棋会館。
将棋界は、江戸時代の約260年間、徳川幕府の庇護を受けて初代の大橋宗桂以来、 「家元制度」の元で三家(大橋家・大橋分家・伊藤家)より世襲の名人が出て、 伝統と歴史を積み重ねてきたようです。将棋会館1階の売店は色々なグッズであふれていました。現在は藤井聡太さんの大活躍で大いに盛り上がっているようです。

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鳩森八幡神社鳩森八幡神社は、御祭神に応神天皇・神功皇后をお祀りし、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を受けた神社。 境内には都の有形民俗文化財指定の築山富士があります。
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富士塚は寛政元年(1789)の築造で、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また冨士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませているとのことです。
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1986年日本将棋連盟の大山康晴十五世名人から王将の大駒が奉納されたことでできたのがこの将棋堂とのことでした。

さすが渋谷です。千駄ヶ谷郵便局そばにはこのようなマンホールがありました。
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国立能楽堂は、日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場。1983年8月竣工。設計は大江宏。591席。まだこの中でお能をみたことはありません。

神宮北参道から本殿、西参道を通りました。
本殿斜め前には夫婦楠があります。
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途中の並木も秋めいておりとてもきれいでした。
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東京乗馬倶楽部では優雅に乗馬を楽しむ方が見えました。
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代々木倶楽部は日本製鉄の福利厚生施設のようですが、一般人も利用できるようです。料理はどれも無難でリーズナブルの感じで、おいしかったです。
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これは、かなりの穴場で、知る人ぞ知る便利なレストランだと思いました。

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国立オリンピック記念青少年総合センターは第18回オリンピック競技大会(昭和39年)のレガシーとして設立された、青少年及び青少年教育指導者等の各種研修や文化・芸術、スポーツ、国際交流等、幅広い活動の場と機会を提供する国内最大の都市型青少年教育施設。渋谷・新宿からのアクセスがよく緑豊かな立地に、大小の研修室、ホール、体育館、プール、テニスコートや宿泊施設があるとのことでした。全国規模〜少人数の集会・講演会、サークル活動や部活動(スポーツ、音楽、演劇など)の練習、修学旅行の宿泊先、企業の社員研修等、さまざまな活動の場として、利用できるようです。

春の小川歌碑は代々木5丁目には歌碑が立っています。
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渋谷区を流れる宇田川(うだがわ)の上流、明治神宮・代々木公園の西縁、小田急線沿いを流れていたのが河骨川(こうほねがわ)で、戦前はのどかな農村風景が広がっており、国文学者・高野辰之は、春に花咲く河骨川を散策し、有名な『春の小川』を作詞、大正元年に発表、文部省唱歌となりました。

渋谷に出現した透明トイレ。世界的クリエイターが手掛けた「THE TOKYO TOIRET」プロジェクトの一環とのことです。
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代々木公園には西門から入り十四烈士之碑を見ました。
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十四烈士が所属していた大東塾(だいとうじゅく)は1939年(昭和14年)に影山正治が中心となって結成された右翼団体。終戦後の昭和25年に14人の方々が自決されたところのようです。

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日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・代々木公園)において明治43年12月11日〜20日に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功してのです。代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本初飛行の地としてこの日本航空発始之地記念碑が立っているのです。

代々木公園ではバラがきれいに咲いていました。
ケアフリーワンダー。
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パパメイアン。
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二二六事件供養碑。
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昭和11年2月26日〜2月29日、北一輝らの影響を受けた天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが起こしたクーデター未遂事件が有名な「二・二六事件」。二・二六事件慰霊碑は、昭和11年7月12日に東京陸軍刑務所敷地(現・東京都渋谷区宇田川町)で行なわれた銃殺のあった地に立っています。

松濤界隈は渋谷区の南西部に位置し、町域内の多くは住宅地となっています。東京都心を代表する高級住宅地の一つとしても知られています。「松濤」はかつてこの地に茶園「松濤園」があったことに因み、茶園の名が町名となっているとのことでした。

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戸栗美術館は、創設者戸栗亨が長年に渡り蒐集しました陶磁器を中心とする美術品を永久的に保存し、広く公開することを目的として1987年11月に鍋島家屋敷跡にあたる渋谷区松濤の地に開館。コレクションは伊万里、鍋島などの肥前磁器および中国・朝鮮などの東洋陶磁を主体として約7000点を所蔵し、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として活動し、年4回の企画展も開催しているとのことでした。

本日の渋谷界隈ウォーキングは10:00〜15:00まで晴天の空の元、講師大山先生、TD尾崎さん、参加者6名で優雅に25000歩は進みました。特に食事がのんびりした雰囲気でおいしくいただけたこともありがたかったです。コースが都心まっただ中でちょっとコロナ禍もある心配しましたが難なく終わりました。また今後のウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 19:22| あちこちウォーク

2021年11月14日

2021.11.7 さいたま彩発見ぶらり街あるき 吉川市

JR吉川美南駅⇒美南1・2丁目調整池⇒美南2丁目公園⇒美南中央公園⇒吉川中学校⇒高久大橋⇒けやき通り⇒蕎高神社⇒蜜厳院⇒観龍院⇒清浄寺⇒木売第2公園⇒JR吉川駅⇒天然温泉あゆみ⇒月の公園⇒智勝院⇒ますや⇒平沼信号⇒芳川神社⇒延命寺⇒さくら通り⇒まつざわ煎餅⇒かき川銘茶⇒甫中橋上第二大場川⇒鯰の里公園⇒鯰養殖場⇒JR吉川美南駅

JR吉川美南(よしかわみなみ)駅。
2012年(平成24年)に吉川駅と新三郷駅の中間で旧むさしの操車場跡地につくられた駅。
武蔵野線では、越谷レイクタウン駅開業以来4年振りの新駅開業となったとのこと。
駅周辺は今から開発が進みそう。そこに早々とイオンタウンができていました。また改札そばにはマスコットの「なまりん」がお出迎えをしていました。
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吉川市 (よしかわし)は、 埼玉県の南東部に位置する 市で 人口は約7万人。 東京都心から約20 km 、 江戸川 と 中川・元荒川 に挟まれた水と緑が豊かなまちとのこと。
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これは美南1・2丁目調整池。

利根川を水源とした豊かな稲作地帯である吉川美南周辺は、同時に、浸水被害にも悩まされてきたようです。埼玉県では被害を減らすため、吉川美南エリアに注ぐ水の大半を貯めて浸水を防ぐ調整池を、約20年かけて造り、5丁目の「吉川美南調整池」をつくり、この1・2丁目のこの池は、13万㎥超の貯水力を持ち、吉川美南エリアを浸水から守るようです。いずれにしても、池の周囲には遊歩道をつくり、水と緑の光景を楽しみながら散策のできるスポットとして街に潤いをもたらしているようでした。

美南2丁目公園。
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吉川美南駅から300mくらいの所にある公園。旧むさしの操車場があったことが分かるように貨車の制御弁やヤード輸送方式などが分かるようにしてありました。
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美南中央公園は、吉川駅南特定土地区画整理事業によって整備され、平成22年に開園した公園。公園には、多目的広場や健康遊具などを整え、中でも小高い丘からは、調整池や多目的広場などを見渡せ、眺望も楽しむことができます。隣接する緑地を合わせ、市内で一番広い公園とのことです。
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本日は近隣の消防関係者が集って救急などの訓練をしているようでした。
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蕎高神社(そばたかじんじゃ)は『風土記稿』に「蕎高明神社 村の鎮守なり、祭神は龍神、密蔵院持末社 八大龍王 稲荷 疱瘡神 庵 大日を安ず、密蔵院より庵主を置けり」とあるとのこと。神社の祭神の龍神は、水神信仰による祭祀をうかがわせています。また、密蔵院については末寺四か寺、門徒寺一二か寺を支配した大寺であったことを載せています。二郷半領に鎮座する蕎高神社を同書に拾うと、こちらとに保村と高富村に各一社があり、いずれも密蔵院支配下の寺が管理していることから、蕎高神社の勧請に密蔵院がかかわっていたことが推察できるようでした。

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真言宗系の寺院である密厳院は、正式には医王山錫杖寺。密厳院の創建年代は不詳のようですが、近隣に数多くの末寺門徒寺を擁する本寺格の寺院であったといい、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を拝領したということです。西新井組中川通四箇領八十八箇所57番、武蔵国三十三ヶ所霊場7番だそうです。また境内には八幡太郎義家と共に後三年の役(1087年)に奮戦した鎌倉権五郎景政の子孫一族の墓があるとのことでした。
庭の大イチョウは推定樹齢800年で埼玉県指定の天然記念物。
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清浄寺(しょうじょうじ))の開基西念法師は、源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州(長野県)高井郡井上城主井上盛長の子として生を受け、三郎貞親と名づけられました。貞親5歳の時、父盛長が奥州の乱で討ち死にし、また29歳の時に母と別れ世の無常を感じ、当時流刑地越後(新潟県)におられた親鸞聖人を訪ね門弟とり西念称したのです。西念は31歳の時、聖人と供に武蔵国足立郡野田(さいたま市)に西念寺起立。その後、二郷半木売川戸(吉川市木売)に西光院(現在の清浄寺)を起立。西光院には親鸞聖人もたびたび足を運ばれ、有縁の人々に説法され、寺の縁起には『参詣市の如く群集せり』と当時のことが記されているのです。
現在、清浄寺には西念が親鸞聖人から賜ったとされる親鸞聖人木像が本堂に安置されており「おむくさま」と呼ばれています。西念亡き後 三代目の西順が御木像の失われることを恐れ、御木像を埋め隠したのです。やがて世の中は落着き、第四代了西の時代になり、御木像を埋めたところがむくむくと動き出し、この御木像が出現したということで、いつの間にか「おむくさま」と呼ばれ、掘り出した跡は池をつくり「おむくの池」として現在も寺の門前に残っているのです。
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清浄寺にある宝塔。六角形の塔身石屋根は、鎌倉時代のこの種の石造物としては県内唯一のもの。塔身前面に西念法師と刻んでありました。 清浄寺はかつて西光院と称し、親鸞に命ぜられて西念法師が建てた寺と伝えらています。西念は信州高井の生まれで、親鸞の弟子二十四輩の一人。

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本堂の手前に立つ板碑。頭部は山形、下に二条線、身部は二重線の輪郭を巻き、碑面中央に「南无(無)佛」、下方に紀年銘と光明真言を刻む。「南无仏(なむぶつ)と」は、仏に対し心から帰依することをいうようです。

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1995年(平成7年)に設置された金色の鯰(なまず)はJR武蔵野線吉川駅前南口にありました。吉川市は鯰の里としてPRしていて、シンボル的モニュメントとなっているようです。

吉川駅そばにはラッピーランドという観光案内兼売店がありました。
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足元には「なまりん」のマンホールもありました。
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天然温泉あゆみはゆったりのんびり、天然かけ流しの温泉。源泉は43,6℃、泉質はナトリウム・塩化物強塩の中性。外には足湯もありました。

ますや。
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吉川は、江戸川と中川に囲まれた川の街のため、約400年の昔から川魚料理の伝統があるのです。「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」の言葉どおり、今でも割烹・料亭が数多く、伝統の味を伝えています。
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なまずは淡白でやわらかな味わいで、刺身でよし、焼いてよし、揚げてよしということでしたが私は今日だけで御馳走様の気分でした。私たちは「ますや」で食しましたが、吉川福寿家や料亭 糀家も有名だそうです。

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芳川神社 の創建は1187年(文治3年)鎌倉時代初期とのこと。時の武士団「吉川氏」が、諏訪神社として再興。現在の拝殿は、1850年(嘉永3年)に再建され、吉川の総鎮守として現在に至っているようです。

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真言宗智山派寺院の延命寺は、正式には寶光山地蔵院。延命寺は、1295年(永仁3年5)清仙が開山したようです。古河公方足利義氏逝去後に土着した西卜(戸張氏)が天正年間(1573-1593)に堂宇を再建して中興開基したのです。1648年(慶安元年)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、近郷に末寺・門徒寺22ヶ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ヶ寺と称されていました。西新井組中川通四箇領八十八箇所56番、武蔵国三十三ヶ所霊場初番です。

まつざわ煎餅。
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本日の埼玉の逸品として名物の「なまずせんべい」をいただきました。
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味は格段に普通でした。

鯰の里公園はちょっと見ただけでは普通の公園。災害に強いように色々工夫してあるようです。池が鯰の形でした。
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鯰養殖場。
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農事組合法人吉川受託協会が管理する鯰の養殖場です。平成8年(1996年)になまずの養殖が成功し今では吉川産なまずを生産・出荷しているのです。
網を上げてなまずを見せていただきました。ちょっと見はうなぎのようでしたが、うなぎよりは太めでした。
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本日はまたしても晴天!19℃とベストコンディションの中、23名は全員元気にウォーキング。23000歩といつもより多めの歩程でしたがここのところウォーキングが続きましたので次第に歩きなれてきたように思いました。また色々楽しみます。
posted by yunofumi at 11:16| あちこちウォーク

2021年11月13日

2021.11.4 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたり=前回の続きで同日午後の部

江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校・公立本所小学校跡・勝海舟居住地・江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒東京スカイツリー⇒JR錦糸町駅

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松根屋扇子(せんす)は大正初期に創業。問屋街浅草橋で、扇子・団扇を専門に取り扱っているとのこと。末広がりの扇子は、福を呼ぶ縁起物で各種お祝いや記念品にまたお祭りの大うちわ、芸事に使われる扇子をはじめ、庶民の夏の涼となる扇子・団扇等色々あるようです。

この近くには有名ブランドの人形店がありました。
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浅草見附け跡。
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神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が浅草見附と呼ばれ、1636年(寛永13年)に作られ江戸防衛の要だったのです。1657年(明暦3年)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出したことから、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近なのです。現在は橋のたもとに碑がありました。

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初音森は「江戸七森」に数えられており、多くの御神徳により1471年(文明3年)大田道灌公の寄進で社殿が建立され、田部氏が神主となって奉仕したのです。その頃は「美加度(ミカド)二社稲荷」等といわれたとのことです。すぐそばに資料館があり古い浅草御門の一部や古い神輿がありました。
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明暦の大火の碑。
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明暦の大火(めいれきのたいか)は、1657年(明暦3年旧暦1月18日から20日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだようです。その後、防災への取り組みが行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されこれが現在でも上野広小路などと地名としても残っているのです。

両国橋。
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明治のころ両国橋の西側で橋の北側を東西に流れる川は神田川。左下は外堀、日本橋川。橋の南側は、「千歳の渡し」となっていたようです。両国橋が架けられた年には2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)。「千住大橋」に続いて隅田川では二番目の橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。当初の名称は「大橋」。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれたのです。
江戸幕府は隅田川の架橋は千住大橋以外認めてきませんでしたが1657年(明暦3年)の明暦の大火の際、橋が無くて逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人の死傷者が出たことから事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断、架橋後は本所・深川方面の発展に大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担ったのでした。

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両国花火と百本杭は武線鉄橋あたりの隅田川の東側に打たれていた護岸のための杭。湾曲して激しい流れだった川筋を和らげ土手を保護する役目を負っていました。風光明媚な上、明治中期まで鯉の釣り場として有名でした。

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両国花火資料館(りょうごくはなびしりょうかん)は、東京都墨田区両国二丁目にある博物館。花火の歴史や技術に関する展示がある様子でした。初めて気が付きましたのでまた後日機会を見て訪れてみたいものです。

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回向院は、今からおよそ360年前の1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土となり、10万人以上の尊い人命が奪われたのです。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々だったので当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりということです。

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本所松坂町公園 は、区立公園。高家肝煎を引退した後に吉良義央が暮らした邸宅があった跡地。赤穂浪士によって吉良義央ら二十余人が討たれた「吉良邸討ち入り」の現場。近くには吉良邸表門、裏門の案内もありました。

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近所の大川屋で初めて吉良まんじゅうを購入しました。

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両国公園は勝海舟の生誕地。由来碑や案内図がありました。

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両国小学校の角地に芥川龍之介の文学碑があり、杜子春の一節が刻まれていました。

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榛稲荷神社(はじばみいなりじんじゃ)は、墨田区両国にある稲荷神社。榛稲荷神社の創建年代は不詳。江戸時代当地周辺には榛馬場と呼ばれた武術練習場があり、練習場の土手に榛の木が植えてあり、この榛の木の傍に祀られて榛稲荷神社と呼ばれていたということです。また江戸時代には、当地周辺に葛飾北斎や勝海舟などが居を構えていたとのことでした。

東京東信用金庫両国支店(ひがしん)
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こちらの銀行は建物の周囲に北斎の版画が所狭しと展示されていました。
一番面白いと思ったのはATMでした。
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八角部屋。
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八角親方は第61代横綱北勝海。現役時代は幕内優勝8回となかなか活躍した方。今は部屋に30人以上の現役力士を抱えている様子です。

野見宿弥神社。
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日本相撲協会が管理所属している神社。かつてこの地の東側に相撲の高砂部屋があり、1885年(明治18年)親方あった高砂浦五郎の尽力で、元津軽家上屋敷跡に相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのがはじまり。境内に歴代横綱の名前を刻んだ石碑が建っています。

公立本所小学校跡。
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こちらはもともと久保尊保(田安徳川家旧臣)が1871年(明治4年)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)があったようです。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となったのです。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けたので尾張学校とも呼ばれていたようです。このあたりには勝海舟も居住したことがあるようです。

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津軽稲荷神社は、墨田区錦糸にある稲荷神社。津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたということです。

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電波塔を含め周辺施設は「東京スカイツリータウン」として2012年5月22日にオープンした、地上デジタル放送などの電波を送信する世界一高い自立式電波塔。伝統的日本建築などに見られる「そり」や「むくり」を意識したデザインや、五重塔になぞらえた心柱制でできているのです。東武鉄道及び東武グループのシンボル的存在で高さは634m。

本日は10:00JR浅草橋東口スタート。講師は東京シティガイドの小川先生、TD井上さんのもとに8名が参加。最後まで晴天で風もなく20℃、気持ち良く2万歩をウォーキング。また途中講師が気を利かせて吉良まんじゅうと東あられをゲットし、お土産ができました。
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古地図歩きは今の街並みを見ながら、昔のお屋敷や道路を重ねて想像しながらのウォーキングですからそれなりに面白みがあります。このシリーズは全10回です。本日は3回目の参加ですからまだまだ先が楽しみなのです。
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2021年11月10日

2021.114 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたりー午前の部

JR浅草橋駅東口⇒銀杏岡八神社⇒柳橋2丁目⇒元祖つくだ煮鮒佐本店⇒須賀神社⇒閻魔同跡⇒須賀橋交番前信号⇒旧浅草蔵前町名案内板⇒天文台跡⇒蔵前1丁目信号⇒且R縣商店⇒かじ取稲荷神社⇒蔵前工業高校⇒東京都下水道局⇒浅草御蔵跡⇒すみだテラス⇒北斎首尾の松の碇舟椎木の夕蝉⇒首尾の松⇒くらまえ橋郵便局⇒御蔵前公園⇒榊神社⇒東京工業大学⇒江戸そば蕎麦手打處 ここまで午前の部

これより午後の部 江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒両緑敬神⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校⇒効率本所小学校跡・勝海舟居住地⇒江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒スカイツリー⇒JR錦糸町駅

ここではまず午前の部の記事を書くことにいたします。

JR浅草橋駅は台東区の駅で最も南にある駅でJR東日本の運転系統は中央・総武線各駅停車と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている駅。

銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)。
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浅草橋駅のすぐそばにありました。その昔、源義家公が奥州征伐の際にこの場所で休憩中に川上より銀杏の枝が流れてきたのでその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願したそうです。そして奥州平定の後再びこの地に帰った時、銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが1062年(康平5年)とのことでした。

元祖つくだ煮鮒佐本店。
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鮒佐は、1862年(文久2年)に創業。159年の伝統を持つ佃煮の製造・販売の老舗。 鮒佐の名は、創業者である初代 大野佐吉が、醤油で『鮒』を付け焼きした「鮒のすずめ焼」を商っていた事と、佐吉の名前の『佐』に由来するとのことで、いまでは『鮒佐』が『佃煮の元祖』といわれているようです。

須賀神社。
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ご祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)。創建は601年(推古天皇9年)とのこと。この当時、この辺りで疫病が流行し、困った人々が牛頭天王(ごずてんのう)に病気平癒を祈ったところ、疫病が快気したことで当地に祠が創建されたということでした。江戸時代には「祇園社」「蔵前牛頭天王」「団子天王」「笹団子天王」などと称され、明治時代に「須賀神社」へと改名されたのです。社殿は関東大震災と第二次世界大戦で焼失しその後再建され、現在の社殿は昭和36年に造営された鉄筋コンクリートのものとなります。

閻魔堂(えんまどう)跡。
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閻魔堂石碑は須賀神社のそば、江戸時代の華徳院のご本尊だった閻魔堂のことのようです。華徳院は今では杉並に移転したのでこの石碑が残っているようです。

天文台跡。
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浅草天文台跡は、1782年(天明2年)に牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された江戸幕府の役所機関「天文方」の施設「頒暦所御用屋敷」のことで、1869年(明治2年)に廃止されるまで、暦を作るための天体観測などが行われていた所。日本地図を徒歩で測量した伊能忠敬もここに通っていたということでした。

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楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は江戸幕府米倉造営用の石材を船で運搬する際の遭難を避けることを祈願して創建された神社とのことです。

東京都下水道局がありました。ここには蔵前水の館という見学場所があるようですが今はコロナ禍で非公開でした。

浅草御蔵跡石碑。
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浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買い上げ 米などを収納・保管した江戸最大の米蔵。 その敷地は、今の蔵前橋を中心に柳橋 2 丁目4番から厩橋手前に至る一帯の約 12万uもの広さでした。酒田からの幕府直轄領の米もここに運ばれ たのです。 隅田川岸の北から順に一番掘りから八番堀まで串のように堀が掘られ、弘化年 間(1844〜48)には、67棟356戸前(とまえ)の蔵が立ち並び、30 〜40万石の米が出入りしていたということです。ここで収納された米は旗本・御家 人への支給米や、幕府の非常備蓄米で勘定奉行支配下にあったのです。 御蔵の8筋の掘割は大正初期まであったがその後、護岸工事のため埋められ、蔵前一帯に当時の面影はほとんど残っていないのです。

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隅田川テラスに設置された、北斎の「首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」。御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていたので、御蔵前は釣りの名所でもあったようです。
これが現在の「首尾の松」。
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榊神社【第六天榊神社】。
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景行天皇の御宇四十年(110)日本武尊が、勅命により東国の鎮定に下向の折この地に国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮としたとのこと。古来より「第六天神宮」と称され公武衆庶の崇敬を受けてきた。明治6年榊神社と改称したのです。
浅草文庫跡碑が榊神社の境内にありました。明治の初めには浅草文庫と言われる国立の図書館があり、当時の太政大臣三条実美の筆による浅草文庫の朱印が押された蔵書が公開されたていたのです。その書物は今、国立国会図書館等にあるようです。
またこの境内には「蔵前工業学園之蹟」と刻まれた大きな石碑と碑文の説明板がありました。
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この地は1881年(明治14年)に「東京職工学校」が開設され、1890年(明治23年)に「東京工業学校」、1901年(明治34年)には「東京高等工業学校」と改称した。1923年(大正12年)関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒区大岡山に移転。1929年(昭和4年)に現在の「東京工業大学」となったのです。

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江戸蕎麦手打處「あさだ」は創業 江戸安政元年。その昔、中野で穀物商を営んでいた 初代・浅田甚右衛門がこの地に手打蕎麦屋を開いて150余年で現在、江戸前の伝統技術と心意気を受け継ぎ続けて八代目となりました。蕎麦粉は、主に北海道・茨城・福井の純国産の蕎麦の実。新蕎麦の時期には一年分の玄蕎麦を仕入れ、真空保存で鮮度を維持するように努めています。あさだの蕎麦は、毎朝石臼で挽き立ての粉を用いた、「練り・延し・切り」の全ての行程を手作業で行う、つなぎを一切加えない手打ちの十割蕎麦。ということでおいしくいただきました。
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ということで本日の午前の部を終了。約1時間の食事の後、午後の部に再び出発しました。
次回の記事もお楽しみに!!
posted by yunofumi at 20:44| あちこちウォーク

2021年10月25日

2021.10.17 さいたま彩発見ぶらり街あるき 鴻巣市

鴻巣宿は江戸時代の五街道の一つ中山道の七つ目の宿場でした。鴻巣の地名はかってこの地には国府が置かれ、「国府の洲」から「こうのす」に転じ、「鴻(こうのとり)伝説のことから現在の漢字「鴻巣」が充てられたとのことです。

JR鴻巣駅⇒御成町商栄会商店街⇒御成町東照宮⇒大正家⇒鴻巣寄席・西洋料理メイキッス⇒鴻巣御殿⇒鴻巣本陣跡⇒鴻巣駅入口信号⇒鴻巣宿おおとり公園⇒鴻神社⇒法要寺⇒菓子処大和屋⇒鴻巣保健所⇒法務局⇒鴻巣市役所⇒せせらぎ公園⇒鴻巣文化センター・クレアこうのす⇒埼玉県運転免許センター⇒鴻巣フラワーセンター・かねはち(昼食)⇒宝持寺⇒箕田小学校⇒箕田氷川八幡神社⇒箕田追分⇒JR北鴻巣駅

鴻巣駅(こうのすえき)は、高崎線と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが通っている特急なども停車する駅。発車メロディには、鴻巣市出身のシンガーソングライター・美根ゆり香の曲である「HANDS-大きな手から小さな手へ-」が流れているとのことでした。

東口広場には色々なお花と共に「ひな人形とはなの街こうのす」と《四尺玉煙火筒モニメュント》がありました。
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鴻巣市は、古くから「人形のまち」として知られており、江戸時代から約380年の歴史を重ねる「鴻巣雛(こうのすびな)」はすべて手作業でつくられる美しいひな人形で、埼玉県の伝統的手工芸品に指定されています。鴻巣駅の近くに、人形店などが軒を並べ、伝統を現在に伝えてくれるエリアがあるとのこと。旧中山道が貫くこのエリアの町名は「人形」。これは「鴻巣宿」の時代から人形づくりが盛んであったことを伝えてくれる地名です。そういえば、「人形」という言葉が入る正式な地名は、日本全国にたった2つ。東京の「中央区日本橋人形町」と、こちらの「鴻巣市人形」だけとのことでした。
人形づくりの伝統を伝え、2005年から「鴻巣びっくりひな祭り」が桃の節句である3月3日の前後に、2週間以上にもわたって開催されています。メイン会場と複数のサテライト会場を合わせて、飾られるひな人形の数は、約1万体。メイン会場の鴻巣駅直結のショッピングモール「エルミこうのす」では「日本一高いピラミッドひな壇」の展示が見られるとのことでした。
《四尺玉煙火筒モニメュント》は2015年(平成27年)に設置されたとのことです。これは2014年(平成26年)10月11日に開催された花火大会で「世界最大の打ち上げ花火」として世界記録をギネスに登録された記念の、実際に使用した本物の筒だそうで、四尺玉の重さは464Kgもあるそうです。
鴻巣市の花の生産は寺谷地区から始まり、パンジーに引き続き色々な花々に挑戦し今ではプリムラ、サルビア、マリーゴールドの出荷量は日本一だそうです。お花は時期ものですが本日はウォーキング中にマリーゴールドが見られました。
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御成町商栄会商店街に日本一小さい東照宮として「御成町東照宮」がありました。祠のそばの石碑には「東照宮 敷地奉納記念碑」とあるようです。

小さな東照宮のそばに鴻巣御殿の案内板がありました。
鴻巣御殿は徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所として使われたようなので地名としては御成町となっているようです。
ウォーク途中で100年以上続いている和食のお店「大正家」を見ました。
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西洋料理メイキッスの2階で鴻巣寄席が奇数月に開催されるようです。絨毯敷で100席はあるようですから本格的な落語を聞くにはよいところのようです。

鴻巣本陣跡は今では石碑だけがありました。桶川宿の次ということでいわゆる「間の宿」(あいのしゅく)だったようです。
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道路面には「こうのとり」の絵タイルがありました。
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中仙道沿いに「鴻巣宿おおとり公園」がありました。ここのモニュメントはコウノトリの羽をモチーフにしてありました。

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鴻神社(こうじんじゃ)はこうのとりのお宮ということで元は「国府の宮」。
鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました。明治40年4月8日に鴻三社から社号を改め『鴻神社』となったようです。三狐稲荷神社、幸の宮弁天社、宿神社、夫婦銀杏、なんじゃもんじゃ稲荷などがありました。
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真言宗智山派寺院の「法要寺」は、正式には慈雲山医王院。長禄元年(1457)亮恵上人が開基。江戸期には加賀藩前田家の宿所となっていたとのことです。

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菓子処大和屋は昭和48年に創業。当初から原材料を吟味し、味や品質にこだわった季節毎の和菓子を変わらぬ味で守り続けているようです。製品としてはつきたて杵つき餅、川幅どらやき、ひな小町、栗どら焼き、ゆずまんじゅう、ぶどう大福、いがまんじゅう等があるとのことです。

せせらぎ公園は人気のSLの展示やコンビネーション遊具などが楽しめそうな公園。園内には小川のせせらぎや噴水もあるようでした。

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「鴻巣文化センター・クレアこうのす」には大ホール、小ホールをはじめ様々なコーナーがあるようです。歴史民俗資料コーナーには埴輪の展示がありました。

埼玉県運転免許センターは元々旧農林水産省農事試験場跡地に、1989年(平成元年)に設置された施設で埼玉県警察が管理する運転免許試験場。運転免許の学科試験や技能試験や限定解除審査、運転免許証の発行・更新・再交付、国際運転免許証の発行など多岐にわたる業務をしている所。普段私共は近隣の警察署で運転免許更新などを行っていますので滅多に伺うことがないのです。

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鴻巣フラワーセンターは鴻巣市寺谷にある花卉(かき)市場。市場の運営は、鴻巣花き(株)によって行われているようでした。休日なのに施設内を案内していただきました。
昼食は2階のかねはちで海鮮丼をいただきました。
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宝持寺はおよそ1000年前に渡辺綱が、祖父(箕田源氏の祖・源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に建立したと伝えられており、境内には全国の「渡辺さん」有志でつくる「全国渡辺会」が建立した顕彰碑も存在します。渡辺綱は平安時代中期から後期の武将で、坂田金時、卜部季武、碓井貞光らと源頼光の四天王の一人として活躍したのです。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋では付近に出没する鬼の腕を切り落とした逸話で有名です。

箕田氷川神社は渡辺綱が988年(永延2年)に当地に八幡宮を勧請したとのこと。この氷川八幡神社そばに渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったそうです。
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箕田追分(みだおいわけ)は箕田源氏(みだげんじ)のゆかりの地である鴻巣市箕田(みだ)、中山道(旧中山道)の鴻巣宿と熊谷宿のあいだにある追分で、ここで北に向かって忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道と分かれました。
追分の交差点の南西の角には真新しい解説板が立てられ、きれいに整備されていました。

JR北鴻巣駅(きたこうのすえき)は、埼玉県鴻巣市赤見台一丁目にある、JR東日本高崎線の駅。上野駅発着系統と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車します。開業は1984年(昭和59年)。1日乗降客は約5000人とのことでした。

本日は午前中は雨降り。昼食と花き市場見学後の午後は雨も上がりひまわりやコスモスも楽しみました。
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気温は22℃までありまずは上々で17名のウォーキングは22000歩で終了。
本日の埼玉の逸品は本手焼きおおとりの「川幅せんべい」。これは鴻巣市内を流れる荒川にかかる御成橋が対岸の吉見町まで2537mありこの川幅が日本一なんだそうです。
おせんべいそのものが大きく家族3人でいただきました。
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ということで本日も喜多見先生、TD小松さんのおかげで無事終了。次回も頑張ります。
posted by yunofumi at 15:16| あちこちウォーク

2021年10月08日

2021 2021.10.2 古地図巡り 神田・湯島あたり

JR御茶ノ水駅聖橋口⇒神田川・聖橋⇒相生坂⇒湯島聖堂⇒都バス神田明神前⇒神田明神⇒妻恋神社⇒三組坂上信号⇒湯島天満宮⇒湯島中坂下信号⇒うなぎ神田久保田⇒外神田5丁目信号⇒東京メトロ末広町駅⇒神田キリスト教会⇒アキバ商店街⇒神田万世橋・ecute⇒藪そば⇒珈琲ショパン⇒神田連雀亭⇒六文そば⇒竹むら⇒出世稲荷神社⇒まつや⇒須田町歩道橋⇒多町大通り⇒神田青果市場発祥石碑⇒二十二代庄之助最中⇒松本家住宅⇒JR神田駅

JR御茶ノ水駅は神田川(外堀)南側(千代田区側)にあります。ここ何年も駅近辺の改良工事が行われています。古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていましたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が作られたとのことです。また同じ頃、その北側にあった高林寺(現在は文京区向丘に移転)から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったということでした。
そうそう、この駅には近頃JR御茶ノ水駅限定でお茶と水だけの自動販売機が設置されたようです。今日は聖口から出ましたので見逃してしまいました。
本日は古地図をもとにしたウォーキングですから古地図と現在の地図をいただき見方の説明がありました。
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神田川(かんだがわ)は、実は一級河川で荒川水系の支流で、三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流しています。流路延長24.6km。東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることはいまでは極めて稀とのことでした。
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聖橋は千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり、本郷通り(都道403号)を結んでいる橋。外堀通り、神田川、JR御茶ノ水駅を跨いでおり、駅の東端にあります。全長79.3mのうち、神田川の上部の36.3mが放物線を描くアーチ橋で[1]、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成したのです。聖橋の名前は両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことからきているようです。

湯島聖堂(ゆしませいどう)は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。
仰高門(ぎょうこうもん)
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孔子像
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大成殿(たいせいでん)
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神田明神(かんだみょうじん)は、外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)。神田祭を行う神社として有名です。神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっています。また旧准勅祭社の東京十社の一社でもあります。
随神門
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神殿
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獅子山
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銭形平次の碑
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この界隈を歩くと時代小説が思い出されます。岡本綺堂による「半七捕物帳」、野村胡堂による「銭形平次捕物控」、池波正太郎による「鬼平犯科帳」などがよく知られています。

湯島と外神田の境目にあるのが三組坂。ここは1616年(元和2年)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者が当地に屋敷地を賜りこのあたり一帯を駿河町と呼んだようです。その後、1696年(元禄9年)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改め、この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられたようです。しかし元禄以来、呼びなれた三組町は、1965年(昭和40年)4月以降、今の湯島3丁目となったとのことでした。

湯島天満宮の銅鳥居。
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鳥居の横には湯島神社、普段はみな湯島天神などと言っています。
458年雄略天皇2年に勅命で創建されたとのこと。その後太田道灌や家康公、菅原道真などの後押し、そして綱吉公が崇拝したことから大いににぎわったようです。また1703年には火災で全焼したが将軍綱吉公寄進が功を奏し再建。何度かその後も改築されたがもっとも最近では平成7年に総檜造りで造営されて今日の姿のようです。
本殿
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うなぎ神田久保田。
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こちらは1897年(明治30年)創業に老舗。地元の神田市場や秋葉原電気街の方々からも人気のお店とのことです。本日私たちはうな重をいただきました。
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神田キリスト教会の最初の聖堂は、1877年10月、米国聖公会から派遣されたH.B.クーパー宣教師、クレメントT.ブランシェー宣教師によって建てられ、C.M.ウイリアムス監督(主教)臨席の下、献堂されました。しかし関東大震災で倒壊、第二次世界大戦では焼失しました。現在の礼拝堂は、1991年に建設されたもので、内部にはパイプオルガンが備えらえているとのことでした。

アキバ商店街
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秋葉原の電気街のあたりは江戸時代には下級武士の居住区。もっともと江戸は火事が多かったので静岡の沈下の神様秋葉神社を勧請したのが地名の始まりのようです。1890年(明治23年)上野からの鉄道延長で駅名が秋葉原となったのが今日に続いているとのことです。
 一般に、秋葉原電気街は、太平洋戦争後、駿河台/小川町界隈の闇市が、徐々にラジオ部品を専門に扱うようになり、進駐軍の露店整理令によって、1951年(昭和26年)ガード下に収容されたことが始まり。その後高度成長期、オイルショックの時代の後には家電全盛期やPC時代に入り、今ではオタク文化の殿堂みたいになっており、ごちゃごちゃした街には人があふれていました。あちらこちらにメイド喫茶がありまいsた。

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中央線神田〜御茶ノ水間には1912(明治45年)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋がありました。そのころを振り返り階段、壁面、プラットホームなどの遺構をよみがえらせ、今は嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設になっています。旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を『2013プラットホーム』として整備、デッキとして見物できるようになっていました。高架橋にある旧万世橋駅のふたつの階段は1912段と1935段ありこれを上ると、線路階にあるホームに出て、実際に駅構内を歩く気分で回遊できます。ホームではガラスに囲まれた展望デッキがあり、 中央線がすぐ両脇を行き交うのは結構な楽しみでした。

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藪そばは1880年に創業。作家池波正太郎もよく通ったお店。木造2階建ての現店舗は、関東大震災後の1923年に建築された。佐々木芳次郎の設計による数寄屋造りで、東京都選定歴史的建造物でもある。加山雄三の主演映画『帰ってきた若大将』のロケもこの店で行われた。2013年2月19日夜出火し、店舗のほか隣接する建物と合わせて焼けるという火事に見舞われた[9]。以後1年8ヶ月に渡って休業し、重要文化財などの文化財指定以外では初となる東京都選定歴史的建造物の解除(事実上の取り消し)となった。2014年10月20日に新家屋が再建され、営業再開したのです。

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珈琲ショパンは昭和8年創業の老舗喫茶店。美しいステンドグラスが映える店内には、創業当時から使われているアンティークの調度品が並び、自慢のブレンドコーヒーは通常の3倍の豆を使用して濃厚で贅沢な味を楽しめまるとのこと。

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神田連雀亭(かんだれんじゃくてい)とは、東京都千代田区神田須田町にある寄席。二ツ目の落語家・講談師専用の定席として運営されている。
2014年10月11日に落語家古今亭志ん輔のプロデュースにより開設されたコンパクトな寄席。オーナーは加藤伸。座席数は38名。立ち見は不可。高座は、奥に向かって狭くなる3角形をしており、上手側(客席から見て右側)が楽屋になっている。席亭やスタッフはおらず、出演者自身が呼び込み、受け付け、開演時の案内などを行う。高座と客席が極めて近く、臨場感がある会場として知られる。また二つ目や若手真打が会を開くのにちょうどよい収容客数であるため、独演会や勉強会などが行われることも多い。

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竹むらは1930年創業の歴史ある建屋と趣き。池波正太郎も愛した揚げ饅頭が有名な、神田淡路町の甘味処。 人気はやはり揚げ饅頭と、粟ぜんざい。 戦災を逃れた木造三階建てのお店は、東京都選定歴史的建造物にも選定されています。

出世稲荷神社
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神田まつや
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蕎麦の激戦区、東京都千代田区神田にあります老舗のお蕎麦さん。 店構えが歴史を感じさせます。

神田青果市場発祥石碑は靖国通りの 裏通りの“老川ビル”の前から、靖国通りから多田通りに入ったすぐの歩道上にありました。この神田須田町付近には 江戸時代の初めごろから 青物商が集まっていたのです。その後 徳川幕府は各所に散在していた青物商を この地域に呼び集め,御用市場として育成した結果, 駒込・千住と並び「江戸三大市場」として栄えたとのことです。明治となってからも政府公認の市場として引き継がれましたが,関東大震災で全滅し 外神田(秋葉原駅北側)に移転。東京市中央卸売市場神田分場として 東京の台所をあずかる重要な市場となったのです。しかし戦後の東京の膨張にともない 秋葉原のこの場所も手狭となり,1989年(平成元年)には大田区の大田市場に移転したようです。

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二十二代庄之助最中。
角界御用達で、贈り物にぴったりの商品を置いているという和菓子店。大相撲の行司の最高位である「立行司」をつとめた、二十二代木村庄之助にちなんだお店で、その長男が昭和24年に開業したとのこと。これで3度目くらいの訪問ですが本日はまたしてもお休みでした。

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松本家住宅は神田多町問屋街に残る震災復興町家で、多町大通りに面した角地に東面して建つ。木造3階建、切妻造、平入で、正面は出桁造の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとする。東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重である。

本日の古地図巡りは御茶ノ水駅を中心としたコース。最後は東京復活大聖堂(ニコライ堂)を見る予定でしたが終了後の予定がありこちらはエスケープ。
講師小崎先生、TD久森さん、参加者10名、晴天で気温29℃、微風の中でのウォーキングでしたから気持ちの良いコンデションでした。おかげで14:00にJR神田駅終了とし、12000歩、約5km。ちなみにこのシリーズは全10回。本日は2回目ですから先は長い!!またがんばります。
posted by yunofumi at 15:36| あちこちウォーク