2019年10月30日

2019.10.26. 2巡目第8回東京の新発見旅「荒川区」

本日も晴天!東武東上線上福岡駅からJR南千住駅はかなり乗り替えながらで遠い!
でもいつもの通り早めに到着し、マクドナルドでお茶の後、集合!

JR南千住駅⇒両国回向院⇒コツ通り商店街⇒素盞雄神社⇒千住大橋⇒南千住熊野神社⇒天王公園⇒荒川ふるさと文化館・南千住図書館⇒円通寺⇒浄閑寺(投げ込み寺)⇒南千住商友会商店街⇒都電三ノ輪駅… 荒川2丁目駅⇒吉村昭文学館⇒荒川区防災センター⇒荒川警察署⇒常磐線第2三河島ガード⇒尾竹橋通り⇒ザ味元(昼食)⇒第二日暮里小学校⇒日暮里繊維問屋街⇒書道博物館・中村不折旧宅⇒子規庵⇒御隠殿跡⇒羽二重団子⇒善性寺⇒JR日暮里駅

JR南千住(みなみせんじゅ)駅には今回はJRで到着。見回せば東京地下鉄(東京メトロ)、首都圏新都市鉄道の駅がそれぞれに存在し、ちょっと複雑。歩行者は慣れているのかスイスイ歩行ですがこちらはちょっとウロウロ気味。

両国回向院(りょうごくえこういん)は荒川区南千住五丁目。正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院ともいわれます。 もともとは1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことがはじまり。
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安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎などのお墓をお参りした後、1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合ったことを記念した観臓記念碑(建立は1922年)を見ました。
また忘れてはいけない戦後の代表的な誘拐事件、「吉展ちゃん事件」の「吉展地蔵尊(よしのぶじぞうそん)」にも手を合わせました。

南千住コツ通り商店街はJR南千住駅の西側から千住大橋へ続く道で、由来は中世以来の地名「小塚原(こつかっぱら)」を略した説が有力なようです。江戸時代は日光道中の初宿、千住宿が置かれ、当時から多くの商店が軒を連ねていたとのこと。昔は延命地蔵尊の縁日で賑わったのが、今日では「ごりやく富くじ市」が開かれているとのことでした。

素盞雄神社(すさのうじんじゃ)の開祖となる黒珍(こくちん)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代795年(延暦14年)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、この神社がが御創建されたとのことです。
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千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川にかかる橋で、国道4号(日光街道)を通っています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行しています。
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最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない1594年(文禄3年)で、隅田川最初の橋です。当初の橋は現在より上流200mのところで、「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所とのこと。 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。

南千住熊野神社は、源義家が永承5年(1050)勧請したと伝えられているようです。北千住と南千住を結ぶ大橋を架けた文禄3年(1594)伊奈備前守がここに成就を祈願、残りの材木で社殿修理を行なったことから、橋の架け替えごとに祈願と社殿修理が慣例となっているということです。
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荒川ふるさと文化館は平成10年に、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館。南千住図書館と併設されていました。荒川ふるさと文化館では、荒川に関する考古・歴史・民俗資料を、荒川の通史に基づき展示公開しています。常設展示では荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などがありました。
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円通寺(えんつうじ)は、曹洞宗の寺院で山号は補陀山。本尊は聖観音菩薩。
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このお寺は、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝わっています。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行ったとのことです。 このことから、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もあるのです。
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浄閑寺(じょうかんじ)は浄土宗の寺院で山号は栄法山。吉原遊廓の近くにあることから遊女の投げ込み寺としても知られているようです。 地名の三ノ輪から「三ノ輪の浄閑寺」といわれることも多いようです。
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このお寺は1655年に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも早かったようです。この寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによるとのことでした。
永井荷風の文学碑・筆塚がありました。
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都電荒川線(あらかわせん)は、南千住の三ノ輪橋停留場から西早稲田一丁目の早稲田停留場までを結ぶ、路面電車。愛称は、東京さくらトラム、途中の停留所は30か所で路線距離は12.2km。今日は三ノ輪橋駅から荒川2丁目駅まで乗りました。
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吉村昭文学館。
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吉村昭さんは日暮里に生まれ、空襲で家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごした方です。学習院大学在学中に執筆活動を開始、昭和41年(1966)に「星への旅」で太宰賞を受賞、同年「戦艦武蔵」を発表し話題となりました。戦史・歴史・医学・動物など幅広い題材を扱い、入念な取材をもとにした作品を数多く描いているとのことです。このように様々なテーマを持つ吉村文学に親しむとともに、吉村文学を契機として更に広範な文学に親しみ、心を豊かにし、知的好奇心を満足させることができる空間を提供するということで南千住図書館と同居の形でこの文学館ができているようです。

ザ味元(ザミゥオン) は韓国料理のお店。普通はとても辛いようでしたので辛くないようにとカルビ定食を希望して美味しくいただきました。
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中央にあるのは4人前です。念のため、、、。

夕焼小焼(ゆうやけこやけ、夕焼け小焼け)は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけた童謡で1923年に『文化楽譜 あたらしい童謡・その一』に発表され、童謡としては最も広く親しまれている作品の一つです。
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作詞者の中村雨紅は、1916年に第二日暮里小学校の教師となり、1918年に日暮里町第三日暮里小学校へ転勤。第三日暮里小学校在職中に夕焼小焼の作詞が行われたため、現在の荒川区立第二日暮里小学校前に「夕焼け小焼けの記念碑」があるのです。ちなみに荒川区立第三日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念塔」が建立されているとのことでした。
この歌の情景は、雨紅の故郷八王子の恩方村の様子。彼の生家の近くにある「夕やけ小やけふれあいの里」前には「夕焼小焼」バス停が設置され、今でも高尾駅と陣馬高原下を結ぶ路線のバスが停車するとのことです。

日暮里繊維街は東日暮里3丁目から6丁目までの四町会にまたがり、日暮里中央通り(バス通り)を中心に両側約1kmにわたり80軒以上の生地織物の店が連なる繊維の街。繊維街には和装、洋装、紳士婦人服地、繊維製品から服飾関連の小物から付属品5に至るまで生地織物に関する全てのものを品揃し便利な街なのです。
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書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館。
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殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財が多くありました。

子規庵の建物は、もともとは旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋だったようです。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
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子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたとのことです。


御隠殿跡(ごいんでんあと)。
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輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯し「三山官領宮」とも呼ばれた方。その後、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承され、ここはこの輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所。 輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在されの時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用したようです。1868年(慶応4年)御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めてなくこの説明板のみでした。

羽二重団子(はぶたえだんご)はきめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来とのことで、そのまま名前となっているようです。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類がありました。
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今日は漱石もなかをお土産にしました。

日蓮宗寺院の善性寺は、関妙山といい長亨元年(1487)に創建、寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となったとのことです。
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今日は石橋湛山第55代総理大臣と第35代横綱双葉山のお墓を見ました。

日暮里駅前に太田道灌の鷹狩の姿の銅像がありました。鷹狩の途中雨に会い村娘に山吹を差し伸べられた逸話があり、そばには村娘の像もありました。
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日暮里の地名は「新堀村」からきているようですが“ひぐらしのさと”と読んだともいうことです。江戸時代の古地図には日暮里も新堀村も表記があり、日暮里は“あまりにも心地良い所で日が暮れるのを忘れてしまうほど一日を楽しむことができる里”という意味だそうです。

本日はAM10:00〜PM15:15まで歩程約10km約14000歩は青空の元、気温24℃でスムーズに終了。このシリーズは2巡目ですが本日のように前回には見なかった施設にもうかがえてなかなか有意義な1日となりました。帰りの道すがら吉村昭作品を近日中に図書館で見てみようと思いました。今日得た知識からまた違った見方ができるかもしれないという期待感がわいています。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2019年10月21日

2019.10.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第5回中央区

本日の気象予報では昨日とは打って変わり温かい一日となりそうとのこと。有難く思いつつ脱ぎ着しやすい服装でお出かけしました。講師喜多見先生、TD小松さんの元に参加者22名が集合した10:00にスタート。
本日の歩程説明で与野七福神巡りもするとのこと、また埼京線の説明が印象的でした。
以下、ウォーキングルートには七福神を巡った順番も数字で入れてみることにいたします。

JR埼京線南与野駅西口⇒鈴谷西公園⇒与野鈴谷郵便局⇒埼大通りのけやき並木⇒コメダ珈琲⇒妙行寺⇒金毘羅天⇒鈴谷西保育園⇒かやの木通り⇒鈴谷大堂@毘沙門天⇒与野西中学校⇒埼玉芸術劇場⇒円福寺A布袋尊⇒大木屋⇒圓乗院B大黒天⇒与野公園⇒天祖神社C寿老人⇒レストラン「シャルダンドヨノ」(昼食)⇒御嶽社D弁財天⇒大国社⇒あおいとり幼稚園⇒八王子神社⇒浅間神社⇒不動明王⇒円阿弥通り⇒氷川神社E福禄寿⇒長伝寺⇒うなぎの相川屋⇒おかずや⇒赤山通りの地蔵菩薩立像⇒一山神社F恵比寿神⇒蔵造り石川家⇒鴻沼川⇒JR埼京線与野本町駅

JR埼京線(さいきょうせん)は、都内品川区の大崎駅から新宿区の新宿駅、豊島区の池袋駅、北区の赤羽駅、さいたま市南区の武蔵浦和駅を経由し、大宮区の大宮駅までを直通運転している路線。実はこの路線はJR東日本の運転系統の通称で正式には大崎駅 - 新宿駅 - 池袋駅間は山手線(山手貨物線)、池袋駅 - 赤羽駅間は赤羽線、赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間は東北本線支線(別線)を走行していると初めて伺い、ちょっとびっくり。路線の開業は1985年、路線距離は約37km。もともとは東北新幹線高架を作るときに地元貢献でできたような、、、。なかなか複雑!!もっとも私はほとんど利用する機会がなかったのでこの話は聞いたこともなかったのです。

埼大通りのけやき並木。
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この並木がある国道463号線は埼玉県越谷市から、さいたま市、所沢市を経て、入間市へ至る総距離58kmの国道。北浦和駅入口交差点から所沢までの19.7kmのうち17kmにわたり、その数2417本の欅が植栽されており「日本一長いケヤキ並木」なので、「新・日本街路樹100景」にも選ばれているとのことです。
けやき(欅)はニレ科の落葉樹で春には新しい葉をつけ、うすい黄緑色の小さな花も付きます。「埼玉県の木、さいたま市の木」でもあり、あちらこちらで見られます。

妙行寺(みょうぎょうじ)は、日蓮宗の寺院で山号は東永山。旧本山は下総の大本山正中山法華経寺。もともとは鎌倉時代に創建された臨済宗寺院の東栄山心浄寺が起源。1408年(応永15年)に日英が日蓮宗に改めたとのこと。1649年(慶安2年)徳川家光から寺領10石の朱印を拝領。以後1860年(万延元年)まで計7通の朱印状が伝わっています。1773年(安永2年)火災で伽藍を焼失し、1778年(安永7年)諸堂を復興、山号を東栄山から東永山に改めた。現在の本堂は1930年(昭和5年)の火災焼失後、1935年(昭和10年)に再建されたものとのことでした。
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妙行寺に隣接して金毘羅天堂がありそばには「与野の大カヤ(榧)」(国の天然記念物)がそびえていました。通称、カヤの木の寺として知られています。
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この大カヤは平安時代中期の長元年間(1,028年〜1,037年)に植えたということで樹齢は1,000年以上。国の天然記念物に指定された1932年時点で大きさが樹高21.5m、根回り周囲13.5m、目通り周囲(目の高さでの幹周り)7.28m。今も樹勢は元気そのものですから、果たしてどこまで大きく成長しているのでしょう、ビックリ!
また、妙行寺境内の裏手には「妙行寺のモッコク」もありました。
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樹齢600年、幹回り3.5m、高さ7m。5年前には枯れ枝が目立っていたのですが庭師さんの頑張りで今は自らの力で蘇っているようです。

「正元二年銘の板石塔婆」
江戸時代の文化文政期に活躍した俳人・鈴木荘丹(すずきそうたん)(1732年から1815年)の墓です。
江戸の商家に生まれた荘丹は、儒学・医学・俳諧などを学び、医師として活躍していました。その後、松尾芭蕉の系統を引く雪中庵・大島寥太の門に入り、晩年は、与野に移り住み、近郷を巡って芭蕉の俳風の普及に努めました。墓石には、「秋の空こゝろ動す風もなし」と辞世の句が刻まれています。

稲垣田竜(いながきでんりゅう)の墓。
名主稲垣家に生まれ、江戸で剣術・柔術を修行する。後に幕臣の浅野北水について西洋流の天文学・暦学を学び名をはせた。帰郷後は家を継ぎ村政にあたる一方で文武両面で後進を指導したのです。

与野七福神の毘沙門天@鈴谷大堂。
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ここは真言宗智山派寺院の仏堂。創建年代等は不詳で、境内石碑によると「六地蔵の銘文から江戸時代前期の寛文7年(1667年)には存在していたことがわかるようです。

彩の国さいたま芸術劇場はさいたま市の複合舞台芸術施設。 管理者は埼玉県で1994年(平成6年)10月に開館。設計は 建築家の香山壽夫(香山アトリエ + 環境造形研究所)。
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彩の国シェイクスピア・シリーズ が 1998年より上演されており、芸術監督は演出家の蜷川幸雄から蜷川が2016年5月に他界した為、俳優・演出家の吉田鋼太郎を2代目芸術監督として迎え、ウィリアム・シェイクスピアの全戯曲37作品のうち第33弾よりシリーズ完結まで務めることが決定しているとのことです。
蜷川さんの記念品展示。
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本日は日曜日のため各ホールが使われており映像ホールで全体像を開設頂いた後、大稽古場を見せていただきました。

与野七福神の布袋尊A円福寺。
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真言宗智山派寺院の円福寺は、北明山と号します。円海(大永元年1521年寂)が創建、東光坊として創建、江戸幕府より寺領5石の朱印状を拝領したと伝えられています。境内の釈迦堂には木造釈迦如来坐像がるとのことです。北足立八十八ヵ所霊場15番でもあるとのことです。

大木屋は130年以上にわたり、当時と変わらない店構えで、呉服を中心に婦人用品などを取り扱うお店。
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宝永年間(1704〜1711年)から続く『与野夏祭り』の地元でもあることから、創業以来、祭りや神事に関連する布製品の品揃えも多彩で、特に近年は、初午や節句の際に祭壇に飾る木綿の五色布を扱う数少ない店として、市内に限らず、遠方からの注文にも対応しているとのことです。本日は日曜日のため休業となっていました。またあとで伺う予定の足の神社大国社に奉納するわらじも販売しているとのことでした。

与野七福神の大黒天B圓乗院。
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ここは真言宗智山派寺院で安養山西念寺と号します。円乗院は、畠山重忠が建久年間(1190-1199)道場村(現桜区道場)に創建、慶長年間(1596-1615)に当地へ移転、慶長19年(1614)には江戸幕府より寺領15石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁していたということです。北足立八十八ヵ所霊場初番札所でもあります。

与野公園は明治10年に開設された約51,000uの緑の公園。サクラとバラの名所として有名。 染井吉野の桜や約180種、3,000株のバラが見られます。本日は秋バラが綺麗でした。
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与野七福神の寿老人C天祖神社(てんそじんじゃ)。
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与野天祖神社は、与野公園の中にある神社。与野天祖神社の創建年代等は不詳のようですが、文政年間(1818-1830)の「与野町並絵図」に「神明山」と記載があり、江戸時代末期には祀られていたのではないかといわれています。明治8年天祖神社として与野町の村社に列格したようです。

レストラン「シャルダンドヨノ」。(旧店名シャンソニエ)
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建物が綺麗で店先にドラマ撮影で使われたことが紹介されていました。
メニューはかぼちゃのポタージュ、メカジキの香草パン粉焼き、アイスクリーム、珈琲で美味しくいただきました。
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与野七福神の弁財天D御嶽社。
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与野御嶽社は、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援していた名主の伊原平八が、明治初年前後に創建したということです。

与野大國社の創建年代等は不詳。実は円乗院の守り神として祀られたとも伝えられており、江戸期には蔵王権現社と称されておりその後、明治初期に大国社と改めたのではないかということです。
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樹木に覆われた直径20mにも満たない小さな丘の上まで鳥居をくぐり、10段程の階段を上がると、小さな本殿正面に、多くのわらじが奉納されていました。地元では「与野大権現」として知られており多くのわらじが奉納されていました。喜多見先生が私たちのツアーの無事を祈り大木屋さんから購入されたわらじを奉納してくださいました。
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新大宮バイパスから見えるように大きな看板が出ています。
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八王子神社。
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八王子神社の創建年代等は不詳ながら、『融通念仏縁起』(京都清涼寺所蔵)によれば、正嘉年間(1257-59)のころ「全国的に疫病が流行した時、与野郷のある名主が、念仏を修し、家内の老若男女もろともに疫病を免れた」といい、比叡山で守護神と祀っている八王子権現を当地に祀られたのではないかといわれています。江戸時代には八王子村の鎮守となり、明治6年村社に列格となったとのことです。
この神社の境内にで、与野浅間神社もありました。
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八王子神社、浅間神社をでてすぐ不動明王像がありました。
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両腕がなく、いわれもわからずお気の毒でした。

円阿弥(えんなみ)の辺りは江戸期より存在した武蔵国足立郡与野領に属する円阿弥村であったとのことです。地名の由来は戦国期に当地に居住していた岩槻城主太田氏房の家臣でもある領主の名前の円阿弥によるとのことでした。今はさいたま市の大宮台地上に位置しております。

与野七福神の福禄寿E氷川神社。
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大戸は、古くは与野郷に属し、与野市下落合から浦和市鹿手袋に広がっていた鴻沼(こうぬま)を望む平坦地にあり、地名の大戸はこの鴻沼への入口に由来するということでした。この神社は、大戸のほぼ中央に鎮座しているのです。

長伝寺の創建年代は不詳ながら、古くよりこの地に真言宗寺院として長伝寺があったといいます。後に芝増上寺12世となる観智国師が当寺を浄土宗に改めて開山、江戸期には幕府より寺領寄進の御朱印状を拝領していたとのことです。
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西沢曠野の墓や伊達政宗が寛政九年(1632年)政宗が臨済宗南禅寺の高僧以心崇伝(本光国師)に出した書状があると紹介されていました。
西沢曠野は、1743年(寛保3年)与野本町に生まれ、その後江戸に出て、儒学者細井平洲の門人となり、さらにその後与野に帰郷後、家業のかたわら漢学塾を開き近在の子弟教育にあたり、後世「与野聖人」と慕われたことでしられているようです。
長伝寺の本堂の欄干に龍がいました。この龍は雨続きの時、川の水を飲んで、水没しかけていた田や畔を救ったという言い伝えがあるそうです。
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赤山通りの石造地蔵菩薩立像。
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江戸時代後期(推定)。像高181.0cm。胸・胸部の損折は安政の大地震のものとのことです。

与野七福神の恵比寿神F一山神社(いっさんじんじゃ)
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一山神社は、与野の御嶽講(一心講)を建て直した一山を慕った講員が、八幡社の境内に御嶽大神を勧請、一山神社と称して嘉永年間(1848-53)に創建したということです。
一山は俗名を治兵衛といい、相模国津久井郡の出身で壮年になって藤原家(平八)の養子となったようです。信仰心厚く、御獄大神を尊信して御嶽講の行者となった一山はが一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、この地に霊場を設け、ついに数万の信者を擁するまでになったようです。ここは「柚子祭り」が有名だそうです。

本町通りに出ると数件蔵造りの家がありました。ここではバラの街中央区フェスタが今月開かれたそうです。

鴻沼川(こうぬまがわ)は、埼玉県さいたま市を流れる一級河川。荒川水系鴨川の支流で上流では霧敷川(きりしきがわ)、下流では鴻沼川、また鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)とも呼ばれているとのことでした。この川に沿って行くと本日のゴール与野本町駅でした。

本日はやや汗をかきながらの約10km弱のウォーキングでした。与野公園の金木犀や秋バラをはじめ思ったより見る所が多く、しかも七福神があることにはちょっとびっくり。お正月しか七福神は御開帳ではないので本日は見られませんでしたがいずれも近い寺社と分かりましたのでまた伺いたいと思いました。また中央区のご厚意で折り紙のバラ、講師陣からは片山食品のねぎみそ煎餅をお土産にいただきました。
ウォーキング歩程約10km約4時間弱、気温22℃は少々暑かったのですが、お陰様で22名が元気にゴールできたことがなによりでした。感謝!
posted by yunofumi at 22:38| あちこちウォーク

2019年09月29日

2019.9.28 2巡目第7回東京の新発見旅「千代田区」

今朝はスタート地点の東京駅丸の内北口に到着し秋晴れの空を眺め、久しぶりの東京駅舎を振り返っているとお巡りさんや黒服がやたらに多いことに気づきました。「オヤッもしかして!」と思い、近くの女性SPさんにお声をかけた所、「天皇陛下が茨城・ひたちなか市である国体の総合開会式に出席のためもうすぐこちらに到着です」と教えてくださいました。エッ!あと30分ほどで到着!私の参加するウォーキングツアーは改札に10:00.集合。それならと添乗員さんに一言かけた後、「めったにない素晴らしい!」と多くの人々同様にロープ前で待ち構えました。約10分後、パトカー先導で黒塗りの車列が来ました。チャンスとばかりにデジカメのシャッターをパチパチ!お陰様で雅子さまのお手ふりをしっかり拝見できました。
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こうして本日のウォーキングスタートです。

JR東京駅丸の内北口改札⇒行幸通り⇒和田倉門前信号⇒パレスホテル東京⇒大手門⇒三の丸尚蔵館⇒二の丸庭園⇒二の丸池⇒北桔橋門⇒乾門⇒首都高代官町出入口⇒旧近衛師団司令部庁舎⇒国立公文書館⇒東京国立近代美術館⇒学士会館(昼食)・東京大学発祥の地・日本野球発祥の地⇒神田古本屋街・すずらん通り・小学館ギャラリー⇒太田姫神社⇒明治大学博物館・阿久悠記念館⇒杏雲堂病院⇒日本大学歯学部病院⇒ニコライ堂⇒井上眼科病院⇒太田姫神社ご神木⇒JR御茶ノ水駅

今朝は天皇・皇后の車列を見た後の行幸通りはなんとなく一味違ってウォーキング。
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和田倉門前信号を過ぎていよいよ大手門から皇居に入りました。
大手門は1606年(慶長11年)に江戸城の縄張りがはじまり、翌年完成した江戸城の玄関。1620年(元和6年)の江戸城修復に際し、伊達正宗(だてまさむね)らの力により現在のような桝形形式の城門となった江戸城の正門。その警備は鉄砲30丁、弓10、長柄20という厳重なものだったとのことです。
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三の丸尚蔵館は昭和天皇の死後の1989年(平成元年)に昭和天皇の遺族から寄贈され国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として、1992年(平成4年)に皇居東御苑内に建設され、1993年(平成5年)に開館されました。様々な素晴らしい絵画もありました。入館料が無料でかなり込み合っていました。

二の丸庭園は宮内庁管轄の約6万坪の庭園。皇居は、かつて徳川幕府の江戸城で、明治元年に皇居となった場所です。江戸城の頃は、徳川家の茶道指南役だった小堀遠州による庭園だったようですが江戸末期に一旦消失。昭和43年(1968)に皇居東御苑の整備ともに庭園として改められたとのことです。
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アサザが咲いていました。
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二の丸池
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お城といえば石垣です。梅林坂の石垣は目地が揃っていないため<乱積み>と呼ばれる積み方とのことでした。
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皇位継承の重要儀式としてこの10、11月に「即位の礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」があるとのことです。本日皇居内をウォーキングしてもあちらこちらと通行止めがありました。天守の傍では大きな建物を建築中でした。
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首都高代官町出入口は1964年にできたそうですがよく見たら北の丸公園の一部で皇居乾門の傍で改めて驚きました。

東京国立近代美術館工芸館の建物は旧近衛師団司令部庁舎だった所。
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工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したもの。この建物は、1910年(明治43年)、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計で、近衛師団司令部庁舎として建築。2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋があり、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。今では日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財となっているようです。

国立公文書館は政府の付属機関等から移管された歴史資料など重要公文書を一般公開している所。所蔵資料は明治時代以来の公文書が約60万冊(2006年3月現在)・旧内閣文庫約53万冊。公文書を閲覧できるように閲覧室があるとのことです。本日は常設展を見ました。
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東京国立近代美術館。
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明治時代後半から現代までの近現代美術作品(絵画・彫刻・水彩画・素描・版画・写真など)を随時コレクションし、常時展示した初めての美術館。以前は企画展等で「借り物」の展示を中心に行われていた日本の美術館運営に初めて「美術館による美術品収集」をもたらしたところです。収蔵品は2016年(平成28年)度時点で、日本画839点、油彩画1,254点、版画3,051点、水彩・素描4089点、彫刻(立体造形)458点、映像56点、書21点、写真2,720点、美術資料666点、合計13,154点におよぶとのことです。
本日は常設展を見ましたが特別展として「竹工芸名品展」と「高畑勲展」を開催中で大いににぎわっていました。

学士会館は1886年(明治19年)に設立。現在は一般社団法人組織となっており、旧帝国大学系大学の出身者等を主な会員としており、大学の枠を超えた一種の同窓会組織の要です。
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中にはホテルやレストランがあります。千代田区ウォーキングではどうやらこちらのハンバーグでの昼食が定番のようです。
敷地に「東京大学発祥の地」の碑があります。
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もう一方の角には「日本野球発祥の地」の碑があります。
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神田古本屋街通りを色々巡り、すずらん通りも行きました。
神保町すずらん通りには「小学館ギャラリーBH神保町」があり、さながら神保町古本街のインフォメーションセンターの様相でした。案内所にはパソコンが設置してあり本屋はもちろん、アート、グルメなど検索できるほか、街歩きのためのオリジナルマップを作ることができるようです。

太田姫神社は社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したということで道灌はこのことに感謝し、1457年(長禄元年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたのです。後には城内鬼門に祀られたとのこと。
徳川家康の江戸入府後、1606年(慶長11年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとりの聖橋南詰に遷座した。 これが今のご神木がある所。この椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られています。
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その後の1872年(明治5年)、村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改め、大正12年(1923年)の関東大震災で社殿が焼失し一時湯島天神に避難。その後の1928年(昭和3年)に再建され、1931年(昭和6年)に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座しのです。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残されたのです。
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明治大学博物館は、駿河台の明治大学駿河台キャンパス内にある博物館で、刑事部門・商品部門・考古学部門および大学史展示室があります。
またこの大学の卒業生である阿久悠さんの記念館がありました。1911年オープンとのこと。多数の歌謡曲の作詞を手がけ、その数は5,000曲。著作では直木賞候補となった『瀬戸内少年野球団』など、多くの業績を見たり感じたりできました。
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ニコライ堂は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなみ通称としてよく使われています。 正式名称は「東京復活大聖堂」で、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂。 建築面積は約800u、緑青を纏った高さ35mのドーム屋根が特徴で日本では初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。1891年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めたのです。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至っているのです。上から見ると十字の形をしているそうです。
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本日は晴天の下、午前・午後それぞれ2時間の予定の歩程約11kmでしたが珍しく少し早めに終了。約16000歩はちょうどよかった感じ。雨にも会わずそよ風の中、なかな気分の良いウォーキングでした。皆様またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 04:23| あちこちウォーク

2019年09月27日

2019.9.22さいたま彩発見ぶらり街あるき第4回西区

JR宮原駅⇒日進町3丁目⇒聖学院⇒戸崎の浅間塚⇒花の丘通り⇒大宮花の丘農林公苑⇒西新井⇒請河寺⇒法光寺⇒秋葉三尺坊⇒永昌寺⇒秋葉の森総合公園⇒秋葉通り⇒秋葉神社⇒⇒佐藤農園⇒高木地区⇒指扇公民館⇒西大宮バイパス⇒妙玖寺⇒埼玉栄高校⇒JR西大宮駅

さいたま市10区を巡るウォーキングの今日は4回目。
JR宮原駅は高崎線の駅で北区にあります。今日は西区のウォーキングなのでこれより約2km歩いて西区に入りました。
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聖学院(せいがくいん)の大学は1988年に創立。アメリカのプロテスタントキリスト教ディサイプルス派の流れをくむミッションスクールでキャンパスはとても立派でした。
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戸崎の浅間塚(とつかのせんげんづか)は「浅間様」といわれる富士塚で高さ約4.8m、直径約25mの円形の塚。市内でも最大級の富士塚とのことです。築造年代は不明で、19世紀前半と考えられます。この塚と塚上にある浅間神社は、戸崎村の創始伝承の中で開発領主とされる長沢家が所有し、塚で行われる行事を祭主としてつかさどっているとのことです。現在は、塚上だけに社殿があり、以前は塚下にもあったとのこと。塚上を高浅間、塚下を下浅間といい当時は、高浅間を男が、下浅間は女が参拝するものだといったそうです。
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大宮花の丘農林公苑は10.9haという広大な敷地の3.3haが花畑となっており、四季折々の花々が咲き乱れるようです。 中でも春は一面にチューリップがまるで赤や黄色の絨毯のようということです。今日は真っ赤なサルビアと「ブルーサルビア」がみごとでした。
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大龍山清河寺は、地名の由来となった臨済宗円覚寺派の名刹。延文5年(1360)、初代鎌倉公方足利基氏が、兄竹若の菩提を弔うため、鎌倉円覚寺より仏慧禅師を開山に招いて創建したと伝えられています。
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大ケヤキは、清河寺境内から南東に150mほど離れた地にありました。 傍らに小さな祠があり、案内板には「神明社の御神木」とある。樹高28m、目通り幹囲8.5m、
推定樹齢 650年ということでした。
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法光寺(ほうこうじ)は、日蓮宗の寺院で山号は照賑山。旧本山は身延山久遠寺、潮師法縁。
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法光寺本堂の左前方、鐘楼の北側に、照葉樹に特徴的なドーム上の樹形を保ったシイノキの樹幹は何本かが寄り合ったようなうねりがあり、発達した地上根など、堂々とした風格が漂います。樹勢も良好で、均整の取れた古木です。このシイノキは高さ15m、幹回り4.53m、根回り7.4mとのことです。
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ご住職から講和もうかがいとても幸せな気分になりました。またお伺いしたいものです。
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秋葉三尺坊は秋葉神社から1kmちょっと離れた場所にある曹洞宗寺院。
秋葉三尺坊は、秋葉社内にあったものの、明治初年の神仏分離令により、秋葉社の別当をつとめていた永昌寺に移されたそうです。永昌寺の本殿とは独立して鳥居の先に秋葉権現三尺坊殿があります。
秋葉権現は神仏習合体ですが、鳥居があるということは、秋葉神社から移されてきたこともあり、神道という形でここではお祭りしているのでしょうか。
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永昌寺の山号は亀足山。永昌寺は、戸田周防守(法名高徳院貴山榮留居士、文亀2年1502寂)が開基となり創建、月膽義泉(慶長11年1606年寂)が開山したといわれています。
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秋葉の森総合公園は、西区中釘にある総合公園。20haが都市計画決定しているが、現在はそのうちの7.5haが開業しているようです。サッカー専用スタジアムとして秋葉の森総合公園サッカー場が敷地内にあり今日は管理棟で休憩しました。
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秋葉神社は火災・盗難防護、家内安全などの御利益があるといわれています。7月にはささら獅子舞があるそうです。
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ここで西区を代表して「喜多山製菓の彩の国ふくふくせんべい」をいただきました。喜多見先生の御接待でした。

佐藤栄学園は、創始者佐藤栄太郎前理事長が定めた建学の精神「人間是宝」を掲げ、昭和46年1月、埼玉県から認可を受けた学園です。これは、佐藤由江初代校長が昭和34年に開校した埼玉自動車整備技術学校(現専門学校埼玉自動車大学校)を母体とし今では埼玉栄高等学校、埼玉栄東高等学校(現栄東高等学校)、花咲徳栄高等学校、栄北高等学校、栄東中学校、埼玉栄中学校、さとえ学園小学校、埼玉短期大学(後に廃止)、平成国際大学、大宮法科大学院大学(後に閉学)、専門学校埼玉自動車大学校などの学校があります。今は様々な分野で活躍している卒業生が多いようです。
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本日の終点のJR西大宮駅は2009年に開業。埼玉栄学園や西区役所、西消防署もあり近年は利用者が増加しているようです。
今日は参加者23名、天候は思ったより晴天で28℃とやや暑くなりました。西区は公園や雑木林などもあり、約2万歩は少し応えました。でも喜多見先生、TD小松さんの誘導宜しく和気あいあいと元気に終了しました。さいたま市内ウォークは年内いっぱい続きますので今後も頑張ります。
posted by yunofumi at 03:04| あちこちウォーク

2019年09月25日

2019.9.21. 2巡目第6回東京の新発見旅「墨田区」

東向島駅⇒向島労働基準監督書⇒向島中学校⇒向島百花園⇒白髭神社⇒吉備示屋⇒鳩の街通り⇒榎本武揚旧居宅跡⇒隅田公園少年野球場⇒言問団子⇒長命寺桜餅⇒長命寺⇒見番通り⇒弘福禅寺⇒三囲神社⇒佐多稲子旧居跡⇒隅田公園⇒牛嶋神社⇒小梅牛島通り・東京スカイツリー⇒小梅児童公園⇒北十間川・おしなり橋⇒日本料理なりひら(昼食)⇒大横川親水公園⇒たばこと塩の博物館⇒スミダパークギャラリササヤ⇒能勢妙見堂⇒野見宿禰神社⇒すみだ北斎美術館⇒横網町公園・復興記念館・慰霊堂⇒両国国技館⇒JR両国駅

東向島駅は東武鉄道伊勢崎線、現在は東武スカイツリーラインの駅。自宅からは池袋・日暮里・北千住経由でほぼ1時間30分を要しました。集合が10:00、おまけに天候は晴れ、気温低めで大助かりでした。

向島百花園。
文化元年(1804)、佐原鞠きく(骨董商の北野屋平兵衛)によって開かれた梅園で開園当初は、大田南畝(幕臣、戯作者1749 - 1823)や加藤千蔭(国学者1735 - 1808)などの文人墨客が集うサロンでもあったとのことです。園内には秋の七草などの詩歌にゆかりの深い草木類や歌碑が多くありました。
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萩のトンネル
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秋の七草・かんぴょう・かぼちゃ等の実りも展示していました。
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珍しかったのは「へびうり」の実り。
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白髭神社は創建は951年で隅田川七福神の寿老神(寿老人)として有名。旧寺島村の鎮守様で向島白鬚(むこうじましらひげ)神社とも呼ばれているとのことです。
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吉備子屋は日本でも唯一のキビ団子のお店だそうです。きびだんごの主成分「きび」は、穀物の中で一番栄養価が高く、心臓を強化し小腸の動きを促し、 高タンパク源、低カロリーのきな粉で食するとおいしいようです。今日は素通り!また買い求めに来たいものです
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榎本武揚旧居宅跡。
榎本武揚の父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけ、19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加しました。安政 3年 ( 1856 ) には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけ、文久 3年 ( 1867 )、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗船して帰国、翌 4年に海軍副総裁に任ぜられています。戊辰戦争では徹底抗戦を唱えましたが、五稜郭で降伏、3年間投獄されていました。しかしこの箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治 7年 ( 1874 ) に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した人物です。明治 38年 ( 1905 ) から、73歳で没する同 41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたということです。今ここはマンションになっていました。
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隅田公園少年野球場は昔、王貞治さんも通っていた野球場とのことです。
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長命寺桜餅は、創業者山本新六が1717年(享保2年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めたのが始まり。 当時から桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い、桜餅が大いに喜ばれたということです。
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三囲神社は倉稲魂命(宇迦之御魂神)を祀りもとの旧村社は田中稲荷と称したとのこと。創立年代は不詳。伝では、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土しその中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があったのです。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだことから三囲の名称となったようです。 元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀したのです。
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牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の、隅田公園に隣接してあります。古くは向島須崎町にありましたが、関東大震災後、昭和のはじめ現在地に再建されたとのことです。 明治維新前は、本所表町の牛宝山明王院最勝寺が、別当として管理していましたが、明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社名を牛嶋神社と改めたのです。もともとは隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守として牛嶋神社と称したようです。
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小梅牛島通りから見る東京スカイツリーは格別です。
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日本料理「なりひら」は東京スカイツリーのお膝元。金目鯛の煮つけが素晴らしく美味しかったです。
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たばこと塩の博物館はもともと1978年(昭和53年)に渋谷の公園通りで開催。その後、開館35周年を経て2015年(平成27年)にここでリニューアルオープンされたのです。
江戸時代のこともわかり、なかなか面白かったです。
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能勢妙見堂。
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すみだ北斎美術館。
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浮世絵師の葛飾北斎(1760年から1849年まで)のおよそ70年にもわたって描き続けられた多彩な作品は、没後約160年経た今日、ますます高い評価を得て、世界の偉大な芸術家として今も広く注目されています。
この北斎は墨田区に生まれ、その90年にも及ぶ長い生涯のうち、90回以上も引越しをしたといわれていますが、そのほとんどを「すみだ」で過ごしながら、多くの名作を残しました。作品の中には、両国橋や三囲神社、牛嶋神社など、当時の「すみだ」の景色を描いたものが数多くあります。
私はこのウォーキングの予定があったので先日長野県の小布施にいって北斎を見てきましたのでなお一層感銘を受けました。いつ見ても面白いし、楽しくなります。

横網町公園(よこあみちょうこうえん)には東京都復興記念館があります。ここでは関東大震災や東京空襲の資料を見ることができます。
また傍には慰霊堂もあります。
両国国技館は1984年(昭和59年)に総費用150億円で竣工されています。本日はたまたま9月場所の千秋楽の全日だったからでしょうか、人がいっぱいで大変混雑していました。

今日は数日前まで雨降りの天気予報でしたがすっかり晴れ上がりウォーキングには暑いくらいでした。最後まで雨にも会わずお陰様で十分楽しんだ歩程約11km、約2万歩を堪能しました。
お土産は大部分をたばこと塩の博物館で求め有意義な1日を過ごせました。感謝!
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posted by yunofumi at 13:22| あちこちウォーク

2019年09月24日

2019.9.17〜18長野へのドライブ(2日目)

今朝は生憎[古城荘]がからの山並みの景色はガスのため見えず。残念!
北信五岳は戸隠山1904m、飯綱山1917m、黒姫山2053m、妙高山2454m、斑尾山1382mとのこと。
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宿を8:30出発⇒姨捨SA
姨捨SAから千曲川が流れる善光寺平と北信五岳の風景を楽しみました。
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ここには一茶・宗祇法師・芭蕉・一翁・白雄の句碑がありました。
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また秋も近づいているのでミヤギノハギが咲きていました。
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小一時間で松本城到着。
松本市観光情報センターでお城などの情報を仕入れました。
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松本城は別名深志城、築城は1593年(文禄2年)、天守と乾小天守の石垣造りからなる城郭に築城したのは石川数正と康長の父子。日本100名城のひとつ。黒漆塗りの下見板張の天守がいくつもありとても綺麗。
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松本城保存功労者の碑
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松本市立博物館
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その後諏訪湖SAで休憩。
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談合坂SAあたりから小一時間雨に会いましたがほぼほぼ曇り空の中でのドライブを無事に終了。
須坂〜松本〜三芳まで本日は315km、高速料金7460円
帰りは大事を取り少し大きめのSAで休みながらで無事に自宅到着。お陰様で気持ちよく2日間を過ごしました。お土産はそれなりでした。
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posted by yunofumi at 07:47| あちこちウォーク

2019年09月23日

2019.9.17〜18長野へのドライブ(1日目)

ようやく涼しくなったので長野へドライブに行きました。
1日目 自宅⇒三芳IC⇒上里SA⇒佐久平SA⇒信州長野SA⇒小布施IC⇒小布施
上里SAにはカブトムシカンが傍にあるようでした。
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佐久平SAでは山々が迫っておりました。

朝は7:00自宅スタート。すぐ関越自動車道に乗り、あとは定期的にSAで休憩しながら一路目的の小布施にある北斎館へまっしぐら。
往路は230km、高速料金5130円。雨にも降られず、スムーズでした。
北斎館は1911年(昭和51年)開館。二基の祭屋台に描かれている北斎の瀧図などが有名なのです長い間一度は見てみたいと思っていたのです。
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葛飾北斎は当初は浮世絵に始まり人生後期になり画狂人と称するあたりから肉筆画を多く描いています。何れも大作です。小布施には80歳ころに数年逗留し様々な作品を残しています。まあこの年頃で江戸から8日間で歩いてきたとかいろいろなことも知りました。
じっくりのんびり北斎館で過ごした後は小布施を味わいたくてひたすらウォーキング。
本日のもうひとつのお目当て岩松院に到着。
山門
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本堂
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この本堂の大間天井絵「八方睨み鳳凰図」が見たかったのです。下は絵葉書の画像です。
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色鮮やかなこと、大きなことに圧倒されました。
岩松院は1472年(文明4年)雁田城主荻野備後守常倫公が開祖。
岩松院では一茶と蛙合戦の池が有名。
ここで読まれた俳句「やせ蛙まけるな一茶これにあり」
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蛙は時期でないとお目にかかれないようで置物がありました。
表には小布施観音がありました。
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本堂裏の墓地には関ヶ原の戦いで有名な福島正則公の霊廟がありました。
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浄光院薬師堂
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薬師豆富とうふ料理まめ家
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ここは大豆丸ごと豆富のこだわり手作り料理でとても美味しかったです。
と、ここまで小布施をじっくり歩き回り約1万歩となりましたので後はシャトルバスおぶせロマン号で北斎館に戻り、今夜の宿「古城荘」に向かい一日目を無事終了しました。
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posted by yunofumi at 12:35| あちこちウォーク

2019年07月13日

2019.7.11 2巡目第5回東京の新発見旅「新宿区」

梅雨明けはまだの時期ですが今日も街歩きに参加です。参加者22名、講師は若さハツラツ渡辺先生、TD反保さんと共に出発。空模様はまさに曇天、無風で21℃。ウォーキングにはまずまずの日和と思いつつ10:00出発。

副都心線西早稲田駅⇒新宿コズミックセンター前⇒新宿区立戸山シニア活動館⇒戸山公園・箱根山⇒放生寺⇒穴八幡神社⇒木組み博物館⇒ワセダグランド商店会⇒高田馬場跡・八幡鮨⇒堀部安兵衛之碑⇒早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館・会津八一記念博物館・大隈講堂⇒トラード早稲田⇒川田米店⇒天祖神社⇒鶴巻南公園⇒宗参寺⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒大願寺⇒矢来公園・・杉田玄白生誕地之碑⇒矢来能楽堂⇒牛込北町信号⇒牛込中央通り商店会・細工町⇒リストランテ・カルミネ(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒袋町⇒神楽坂加賀⇒善国寺⇒筑土八幡神社⇒新小川町⇒中之橋⇒凸版印刷梶E印刷博物館⇒有楽町線飯田橋

戸山公園は東京都立公園。敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれています。地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがっている広大な公園です。もともとは、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で、2代藩主徳川光友により、回遊式庭園として整備され、敷地内には箱根山に、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられています。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったようです。明治維新後、明治政府に渡り、跡地に1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されたとのことです。戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園したのでした。

箱根山は江戸時代に作られた築山で標高44.6mと山手線内では一番高い山なので戸山公園サービスセンターから登頂証明書をいただきました。
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穴八幡神社(あなはちまんじんじゃ)は蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている神社で旧称は高田八幡宮。社伝では1062年(康平5年)、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったというのがはじまり。 その後1636年(寛永13年)、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」というようになったのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたとの話もあります。 歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納し、これより流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、竹千代君(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が行われたのです。
境内入り口には高田馬場流鏑馬像があります。
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木組み博物館は館長の谷川一雄さんが約40年間、数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた中で、伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化継承を模索し、多くの方の支援でできた博物館だとのことです。展示は通り一遍ということではなく、日本の伝統木造建築の技術を伝える博物館展示型、体験型、参画型へ、そして木組みと共に左官、漆などの伝統技術や素材、道具も紹介していました。
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木の香りは心に癒しを与えてくれる空間でした。
              
堀部安兵衛之碑。
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堀部安兵衛は赤穂浪士で最強の剣豪。子供のころから親との縁が薄く一人で生き抜いてきた方のようですが例の赤穂浪士の一員だった堀部金丸との縁で自身も赤穂浪士となったようです。その後、例の松の廊下の事件があり吉良氏仇討ちに加勢したのです。

早稲田大学の坪内博士記念演劇博物館。
通称エンパクというそうで、1928年(昭和3年)に設立。坪内逍遙が開館式で「よき演劇をつくり出すには、内外古今の劇に関する資料を蒐集し、整理し、これを比較研究することによって基礎をつくる必要がある」と述べたと伝わっているようです。その志を受け継ぎ、今日に至るまで古今東西の貴重な資料を収集・保管・展示しており、収蔵品は百万点を超え、アジアで唯一の、そして世界でも有数の演劇専門総合博物館として、演劇関係者、愛好家、研究者にとても愛され、支えられてきたとのことです。
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坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)は小説家、評論家、翻訳家、劇作家で長く早大の教授もされていたようです。演劇博物館は坪内逍遙の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたと伺いました。私はこれまで数回、早大に伺っていますがどうしたことか一度も開館日に巡り合っていません。ということで本日も工事中!!残念でした。

会津八一記念博物館。
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東洋の古美術に関心が高かった会津八一が蒐集した品を中心に多くの収蔵品がありました。中国の秦漢時代の建築や墓室を飾った瓦当・画像塼54点、後漢〜唐時代の墓に副葬された武人・侍女・馬などの陶俑や、竈や井戸を模した明器395点、多様な図案や銘文を背面にあしらった銅鏡208点、金石資料の拓本532点などが挙げられるようです。展示の中では伺うたびにうっとり見とれるのは横山大観の「明暗」です。本日も見ることができて幸せでした。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。すぐ傍にある大隈重信像と並び早稲田大学を象徴する建築物です。
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ドラード早稲田は鶴巻町の有名デザイナー『梵寿綱(ボンジュコウ』建築のデザイナーズ分譲賃貸マンション。 早稲田エリアでは一際目立つこの建物、オートロック完備でとても人気のある物件だそうです。
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宗参寺は、1543年(天文12年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことがはじまりとのことでした。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本だったそうです。 門扉にも紋所がくっきりでした。

漱石山房記念館は漱石が暮らし、執筆した空間を可視化するために記念館内に書斎・客間・ベランダ式回廊など「漱石山房」の一部を再現しています。文学館として初の本格的漱石記念館としての役割を果たすべく通常展のほか、特別展や講座・イベントを開催して漱石やその文学の世界を紹介していました。気軽に利用できるように明るい空間でした。
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ということでカフェで有名な銀座の「空也もなかセット」をいただき元気回復です。
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記念館の隣。漱石公園のあたりは、1907年(明治40年)〜1916年(大正5年)、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があった場所。今は通りに面して山房記念館、横から裏手にこの公園がとても綺麗になっていました。ここで漱石は、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆したのです。
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猫塚です。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたようです
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数年前に伺った時には建物は道草庵だけでしたが見違えるように整備されていました。

矢来公園(やらいこうえん)には複合遊具、グローブジャングル、動物などのスプリング遊具、砂場などがあり、またケヤキやスダジイなどの高木が木陰をつくっており、まずは安らぐ公園でした。ここ矢来町には江戸時代に小浜藩の下屋敷があり、屋敷内には江戸詰の藩士が居住し、「解体新書」を著した蘭学者杉田玄白は、この屋敷内で生まれたようです。公園内には杉田玄白、小浜藩邸跡記念碑がありました。
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矢来能楽堂(やらいのうがくどう)は観世九皐会所有の能楽堂。矢来観世家・観世九皐会の本拠地として活動の拠点となっているとのことです。1952年(昭和27年)に現在の舞台・建物が建てられ、現在東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古いとのことでした。
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リストランテ・カルミネ(昼食)
日本で初めてイタリアンレストランを開いたカルミネさんだそうです。店員さんもイタリアン人の方が沢山おられイタリア語?が飛び交っていました。パスタは日本では珍しく歯ごたえがあり、美味しく頂きました。
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善国寺(ぜんこくじ)は、神楽坂にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺。安土桃山時代の1595年(文禄4年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建。たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年(寛政5年)には現在地へ移転。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれています。また新宿山ノ手七福神の一つでもあります。
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印刷博物館(いんさつはくぶつかん)は、印刷に関する博物館。2000年に凸版印刷が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている所です。ミュージアムショップ、印刷関連図書専門のライブラリー、P&Pギャラリー、研修室(グーテンベルク・ルーム)、VRシアター(土日・土日に続く休日のみ)を併設しているとのことです。 駿河版銅活字(重要文化財)をはじめ印刷の歴史や社会的な背景、表現など印刷文化に関わる本全般を扱っていました。とても短時間では見ることができず、こちらも再訪が必要と思いました。
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本日の街歩きは若い渡辺先生の先導でしたから街並みを見ることを十分堪能しました。印象的は神楽坂界隈が面白かったです。結局最後の最後、印刷博物館を出るまで雨に合わず、快適でした。約11km、17000歩を本日も元気に過ごせたことに感謝!今後も地道に街歩きを楽しみたいと思っております。
posted by yunofumi at 12:21| あちこちウォーク

2019年07月10日

2019.7.7さいたま彩発見ぶらり街あるき

第3回岩槻区

東武野田線岩槻駅⇒東玉人形博物館⇒人形町通り⇒法林寺⇒八雲神社⇒浄国寺⇒人形歴史館・御成街道⇒岩槻郷土資料館・市宿通り⇒田中屋本店⇒東玉大正館⇒岩槻温泉ビル⇒ふな又(昼食)⇒岩槻藩遷喬館⇒裏小路公園⇒岩槻人形博物館⇒時の鐘⇒岩槻中学校⇒太田諏訪神社⇒市民会館いわつき⇒岩槻城址公園⇒マミーマート岩月店・ほんまる歯科⇒本丸自治会館⇒岩槻本丸郵便局⇒久伊豆神社⇒新正寺曲輪⇒本丸2丁目⇒岩槻本丸郵便局⇒浄安寺⇒大龍寺⇒大工町石柱⇒愛宕神社・岩槻城大構⇒東武野田線岩槻駅

昨夜からまだ梅雨の雨が続いています。しかし岩槻につくとほぼ雨は止んでおり、まずまずの気分で10:00出発。気温は19℃でやや肌寒でしたが元気に参加者16名は講師喜多見先生、TD岡さんとご一緒しました。

東武野田線は、大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線。2014年4月1日より全線で「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line)の路線愛称です。路線距離は62.7km、駅数は35駅、当初は野田醤油を運ぶために設置された路線だったようです。私は本日、初めてこの路線に乗りました。
駅を出ると今日は朝顔市とのことですでに賑わっていました。ちなみに朝顔は入谷と同じだそうですがお値段は少々安価とのことで例年訪れる方も多いようでした。
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駅前に「ミミズク土偶」がありました。
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真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は、岩槻区城南3丁目の縄文時代後期から晩期の集落跡で、貝塚と泥炭層からなっていました。泥炭層は真福寺泥炭層遺跡とも呼ばれているとのことで、大宮台地の岩槻支台の標高10mから13mにあります。 大正末年に、縄文時代晩期の竪穴住居跡及び土偶、勾玉、打製・磨製石斧、石鏃、石棒、砥石、独鈷(どっこ)石、磨石、凹石、曲石、X字形石製品、耳飾り、土版、骨角器等とともに多数の土器などの遺物が出土、貝塚は・ヤマトシジミの主淡貝塚で、直径150mの馬蹄形、または円形に散在することもわかったようです。 また、この遺跡から出土した土器は、1934年(昭和9年)に山内清男さんにより真福寺泥炭層式と提唱され、関東地方における縄文時代晩期前半の標識的な土器であり、歴史的価値が高く、今は東京国立博物館にあり、こちらのものはレプリカとのことでした。

東玉人形博物館は岩槻駅前にありました。ここは東玉のすぐれたコレクションより生まれた「人形の博物館」です。その収蔵品は多彩で、御所人形、雛人形、羽子板、五月人形、衣装人形やあやつり、からくり人形、さらには現代作家名匠の逸品から海外の人形までが展示されていました。また、見学の出来る人形工房や和風小物の売店が併設されており、体験教室で実際に絵馬や人形等の製作体験ができるとのことでした。展示では江戸時代のお雛様のお顔がつやつやしていたのが印象的でした。

岩槻は人形の街ですから人形町通りには何軒も人形屋さんがありました。

法林寺は太田道灌公 ゆかりの曹洞宗のお寺。
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芳林寺は、曹洞宗のお寺で山号は大平山。静岡県藤枝市洞雲寺の末寺とのこと。本尊は釈迦如来。開山は覚翁文等で、この方は1595年(文禄4年)に没したようです。言い伝えでは、以前、他の場所にあったお寺が、1520年(永正17年)火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移し、1523年(大永3年)春に再建したのです。たまたま資朝公の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していた方で、1567年(永禄10年)に逝去されたため、陽光院殿芳林妙春大姉と号し、その寺号を芳林寺に改めたといわれています。1591年(天正19年)高力清長が城主となった時、その荒廃を嘆き大修理を加え復旧、この後幾度か火災に遭い、2代目城主高力忠房が再び造営復旧したのです。さらにまた1811年(文化8年)焼失したため、1841年(天保12年)に本堂(間口9間・奥行5間)及び庫裡(間口12間・奥行5間)が再建されたのです。

境内にある太田道灌公騎馬像
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埼玉県庁が最初に設置されたのが芳林寺で門前にいきさつを記した石碑がありました。
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墓所には高力正長公御霊廟、太田道灌公御霊廟にお詣り。そのほか、田中保(たなかやすし)画伯のお墓もありました。この方は岩槻町出身。浦和画家の一人。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びたようです。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリで客死したのですが、近年、次第にその業績が知られるようになってきているとのことでした。

八雲神社。
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1560年、岩槻太田の家臣勝田佐渡守が当地に市を開設したときの市の守護神を祀った社。江戸時代には牛頭天王社と称されていたけれど明治になって八雲神社と改称したとのこと。今日はたまたま中まで見せていただきました。
本殿の彫り物が立派でした。
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参道は市宿通りにあり、8月に行われる岩槻まつりもこの神社の祭礼に起源があるとのことです。

浄国寺(じょうこくじ)は、浄土宗の寺院で、山号は仏眼山。院号は英隆院。本尊は阿弥陀如来。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたということです。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であったといわれています。
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岩槻郷土資料館は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署の建物で、岩槻の歴史について展示を行っていました。民具を中心とする民俗資料の収集、保存を目的とした資料館でした。さいたま市立博物館の分館とのことです。建物は2016年、国の登録有形文化財に登録されています。建物落成当時は現在の岩槻区域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だったそうです。

田中屋本店は江戸時代後期・嘉永年間の創業以来、ずっと岩槻で菓子屋を営んでおり、蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたもので、風格のあるたたずまいでした。
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名物は、岩槻城が白鶴城と呼ばれていたことにちなんだ、白鶴城印 栗最中。昔と変わらない手作りの味で、それぞれ小豆あん、白あん(栗入り)、ゆずあんがたっぷり入っているようです。ほかにも、濃厚な生のよもぎを練りこんだよもぎ団子や、代々受け継がれてきたタレが自慢の焼き団子なども人気があるとのことでした。

東玉大正館は中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例とのこと。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。今日は見られませんでしたが、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっていると伺いました。
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ふな又(鮒又)は100年以上の歴史ある日本料理の割烹旅館。江戸時代には城下町として、また将軍の日光東照宮参拝の通行路(日光街道)の宿場町としても栄えた岩槻で歴史を刻んできたとのことです。12代将軍家慶による、1843年(天保14年)の日光東照宮参拝の大名行列の様子を綴った文献に、当時のふな又も描かれているとのことでした。当時の当主は鮒屋又右衛門。
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昭和39年平成天皇ご夫妻が岩槻にお越しになった時、こちらで鰻重を召し上がったそうで、当時の食器が飾られていました。
またこちらは昭和の女優三宅邦子の実家とのこと。1916年、6人兄弟の末っ子として「ふな又」で誕生。埼玉県久喜高等女学校卒業後、松竹に入社。1934年に『夢のささやき』で映画デビューし、島津保次郎監督の『兄とその妹』、小津安二郎監督の『戸田家の兄弟』などに出演。それ以降、小津の作品に連続出演するようになり結局、彼女の出演した映画は200本近くあるようです。小津の死後は『サインはV』『たけくらべ』などテレビ出演もあったようです。1992年、急性心不全の為、東京・調布の自宅で死去。享年76歳。
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「岩槻藩遷喬館(いわつきせんきょうかん)」は、1799年(寛政11年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだまなんか)が開いた私塾で後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだそうです。1871年(明治4年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、1939年(昭和14年)に埼玉県の史跡に指定され、2003年(平成15年)から3年ほど解体修理・復原工事が行われ、埼玉県内では唯一現存する藩校の建物なのです。
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時の鐘は岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11年)当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置したとのこと。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕6時と正午の3回、美しい音色を響かせているとのことでした。
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太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を1623年(元和9年)に勧請奉斎したことがはじまりとのことでした。
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市民会館いわつきは各種イベントを始め、結婚式、披露宴、懇親会、講習会、研修会など市民のための施設。レストランでは埼玉B級グルメ優勝の元祖豆腐ラーメンを提供しているとのことで、ここでは食品サンプルをせめても、と眺めました。
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岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。ここは自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催されるとのことです。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれるとのことです。

人形塚
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岩槻城址公園内の人形塚前において毎年11月3日(祝)に、全国の人形愛好家の方々の、捨てるにしのびないという優しい気持ちに応えようと毎年「岩槻人形供養祭」が開催されるとのことです。当日は古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形が持ち寄られ、人形塚脇の黒門の周りに並べ、約20名の僧侶(岩槻仏教会)の読経のもとに参加者が焼香し、人形の持ち主は受付の際に渡される供養札を、天児(あまがつ・日本の人形の原形といわれ、子どもの健康と幸せを守るもの)に見守られながら、お焚き上げして冥福を祈るとのことです。

白鶴城(岩槻城)石碑。
岩槻城は、戦国時代に築かれた平山城で大宮台地岩槻支台上に立地し別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城などがあるようです。元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城はつまりは沼地の中にあったようなのです。今、沼はもうなくて、町が広がっていました。
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一番目立ったのは園内の菖蒲池に架かる朱塗りの八ツ橋。
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そういえば岩槻の区の花は山吹だそうです。太田道灌に因んでいるようです。
岩槻城本丸の辺りは町名も本丸、そして本丸のあった場所には現在、スーパーマミーマート岩月店がありました。テナントとしてほんまる歯科もありました。記念碑があればよかったのに残念でした。

久伊豆神社。
岩槻城の総鎮守で、正式名称は、「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)。「久伊豆神社」があちらこちらにあるので「岩槻久伊豆神社」ともいうようです。主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命といえば、出雲大社の神様。”だいこくさま”とも呼ばれ、縁結びの御神徳として有名です。
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また神社の名称が、久(ク)伊(イ)豆(ズ)と読めることから勝負運に強い神社ともいわれ、「クイズ神社」としても親しまれているとのことです。
境内には929個の風鈴が境内につるされ、参拝者にさわやかな涼を届けていました。もうひとつ境内には孔雀小屋もありました。孔雀は、1938年(昭和13年年)に、朝香宮(あさかのみや)殿下が岩槻にご来臨の折に、白金宮殿で飼育していた孔雀三羽を奉納されたのが始まりで、現在は二十羽近くまで増えたそうです。孔雀の他に、鶏もいます。しかも放し飼い状態でした。

浄安寺(じょうあんじ)の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたということです。
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境内には児玉南柯の墓がありました。児玉南柯【1746年(延享3年)〜1830年(文政13年】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られたのです。
浄安寺の前に「武州鉄道の小径」と書かれた木板がありました。今は何の痕跡もない道ですが1924年〜1938年の短い期間、蓮田駅と神根駅を結んでいた鉄道跡だそうです。

曹洞宗寺院の大龍寺(だいりゅうじ)は、雲居山と号すとのことです。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したということでした。
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名前にちなんだ大きな龍の彫り物がびっくりするほど目立ちました。

愛宕神社の祭神は迦具土命で、境内には松尾神社(祭神 大山昨命・伊弉諾命・伊弉冉命)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)があるとのことでした。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育ての神で、近年は、進学・就職の神として信仰を集めているようです。創建は明らかではないようですが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されているとのことでした。
いい伝えでは、1457年(長禄元年)に大田資清(あるいは道灌?)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った時、その傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えたことから、これは火防の神(愛宕大神)だろうということで土塁上に移し祀ったようです。その日が現在の7月24日であったところから、今でもこの日を祭礼日として祭典を行っているとのことです。
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室町時代に築城された岩槻城でこの愛宕神社はその岩槻城の土塁の上に鎮座しているということでこの場所を岩槻城大構というようです。神社横から見ると大構えがよくわかりました。

本日は小雨の中、岩槻の街を歩き回りました。足元にはカラフルなマンホールもありました。
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岩槻区はさいたま市の北東部で城下町・宿場町でもあり文化財や史跡も多そうでした。現在は人形の街なので人形に因んだ行事も多そうです。さいたま市内10区の中では最も広く、浦和区などから見れば自然の多い感じでした。はじめて乗った野田線も優雅な感じでしたからまた気候の良い時に、色々手に入ったガイドマップもとても分かりやすかったので再訪したいと思いました。
本日のウォーキング歩程約10km、約17000歩、15:30参加者全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 00:07| あちこちウォーク

2019年07月04日

2019.7.4 2巡目第4回東京の新発見旅「文京区」

今朝は自宅を出るときはバケツをひっくり返すような土砂降り。集合場所JR水道橋駅ではほぼ小雨。その中で10:00スタート。講師 國先生、TD山際さん。参加者は雨降りの影響で取り消し者続出のため結局15名。

JR水道橋駅西口⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望山台⇒源覚寺・こんにゃく閻魔⇒AOI NAPOLI(昼食)⇒慈眼寺⇒善光寺坂⇒傳通院⇒福寿幼稚園⇒メトロ後楽園駅

小石川後楽園は江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)。1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させたとのことでした。
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内庭。
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円月橋
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文京区役所展望山台。
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建物自体は文京シビックセンターというようです。この25階が展望台。だれでも自由に入れます。高さが142mで超高層と言う程のことはないけれど、近くに高い建物がないので非常に目立ちます。近くには、東京ドームシティや小石川後楽園などもあり、観光で訪れるにはよい所です。今日は雨模様でしたが案外によく見えました。

源覚寺は、380年余り前の寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創されています。この頃、「明暦の大火(1657年)」、「お薬園火事(1762年)」、「戸崎町火事(1774年)」、「富坂火事(1884年)」と、4度もの大火があったようですが幸いにも、ご本尊も閻魔さまもその都度、難を逃れることができたとのことです。あの太平洋戦争の東京大空襲でも本堂への延焼はなかったとのことです。
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ここは閻魔大王が有名です。
宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。そして満願の日に、老婆の目は治り、それ以来、大王の右目はつぶれて盲目となったのです。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それをお供えつづけたということでした。

AOI NAPOLI(青いナポリ)は文京区小石川のイタリアン&ピッツェリアのお店。
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私たちはパスタも珈琲を含めデザートも美味しくいただきました。そうそう、ウエディングやパーティもできるそうです。

善光寺坂は文京区小石川2丁目と3丁目のちょうど境目にあり、地下鉄春日駅・後楽園駅の側、富坂下交差点そばの路地を曲がった先の坂道。
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ここにある大きな椋の木(ムクノキ)の案内板がありました。この木は樹齢300年にもなるという大木で澤蔵司稲荷の魂が宿っているといわれているとのことです。
またこの椋の大木の前には、幸田露伴が住んだ「小石川蝸牛邸」があった所です。
幸田露伴が疎開した後、「小石川蝸牛邸」は空襲で焼失したのですが、露伴の娘である幸田文が同じ場所に家を建て、さらに娘の青木玉と暮らしたということで案内もあります。

傳通院は浄土宗の寺。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれています。
山門
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本堂
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徳川家康の母、於大の方の墓
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その後、千姫、柴田錬三郎、浪越徳治郎等のお墓にお参りしました。

本日は汁真っ只中で特に九州地方は大変なことになっています。まずは雨にもめげずウォーキングツアーに参加しましたが足下が危なく午後はこの後小石川植物園などの予定でしたが私は2巡目ということもあり、途中でリタイアしました。
今後は天候も回復するでしょうからこれに懲りずにまたボチボチウォーキングに参加したいと思っております。
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2019年06月30日

2019.6.29名城めぐり第1回

本佐倉城跡・佐倉城跡・大多喜城

AM10:00新宿駅西口・10号線高架下都庁大型バス駐車場集合、参加者22名、講師信野先生、TD佐々木さんと共に中型バスで出発。今日は千葉県のお城でしたからちょっと遠かった印象でした。
一つ目、「本佐倉城跡(もとさくらじょうせき)」です。
本佐倉城は文明年間(1469〜1486年)に築城。それより約100年下総国に政治経済文化の中心を担いました。元々千葉氏は鎌倉・室町幕府のもとで下総守護職として筆頭の地位にあった一族なのです。

本佐倉城跡は日本城郭協会の定める「続日本100名城」のひとつでスタンプは酒々井(しすい)中央公民館にありました。
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スタンプのある玄関ロビーは本佐倉城跡の資料がいっぱいでした。
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その後お城のあった場所まで歩いて移動していくと大きな案内板がありました。
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いよいよ入口です。
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まずは定番の登り道です。
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城山に通じる通路です。
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妙見宮跡は儀式や儀礼を行なった所のようです。
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城跡より印旛沼や筑波山を望むビューポイントです。
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このように佐倉城跡見学後はバスで移動しました。
                                      
二つ目、「佐倉城跡(さくらじょうせき)」の「日本100名城スタンプ」は佐倉城址公園管理センターにありました。
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佐倉城は天文年間(1532〜1554年)本佐倉城主千葉親胤の命で鹿島親幹が築城を開始しましたが親胤の暗殺で工事は中断。その後慶長15年(1610年)家康の命で土井利勝が完成させたのです。城郭は石垣ではなく、土塁。明治維新で廃城令でここは陸軍歩兵部第2連隊、後に歩兵第57連隊4(佐倉連隊)の駐屯地になったのです。

公園入口の案内図です。
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三の門跡です。
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安政3年(1856年)、タウンゼント・ハリスは、アメリカ大統領の親書を携え下田に到着。来日の目的は、アメリカ初代駐日総領事として他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることだったようです。こうした動向が、当時幕府で老中を務めていた開明派の佐倉藩主堀田正睦を外交の舞台に登場させることになったようです。ハリスと正睦により、幾度にもわたる直接交渉が行われた結果、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。
タウンゼント・ハリスの像。
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堀田正睦公像。
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正岡子規の句碑。「常盤木や冬されまさる城の跡」
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明治時代に俳句・小説・文学評論など様々な文学の分野において活躍した俳人。正岡子規が佐倉に来たのは既に病魔に蝕まれていた26歳位の時で、当時、本所から佐倉間に開通したばかりの総武鉄道に初乗りして訪れ、この句を詠んだということです。

二の丸御殿跡。
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本丸跡。
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夫婦モッコク。
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モッコクは、南関東地方以西の暖地の山野に自生するツバキ科の常緑高木で、千葉県でも清澄山系の尾根に生育。このモッコクは、佐倉城の本丸跡の西側の土塁に植えられていました。現在では樹高は11.6m、幹囲2.9mもあり元気な樹木のようです。現在、幹は3本が立ち上がっており、このうちの2本が癒合して、2株のように見えました。

銅櫓跡。
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ここにあったはずの銅櫓は、佐倉城を建てた土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものとのことです。造ったのは太田道灌だそうです。

佐倉城礎石。
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佐倉城は、江戸時代初期の元和元年に土井利勝が築きましたが、その際にこの大量の石を基礎としていたのです。明治初期に陸軍が城を取り壊し兵舎を建てましたが、その際にもこの石を使った基礎を転用したとのことでした。

佐倉陸軍病院跡。
佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」というそうです。

姥が池。
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「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。

国立歴史民俗博物館がある場所は、かつて椎木曲輪(しいのきくるわ)と呼ばれた侍屋敷があった区画で、「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれる遺構が復元されていました。

その後公園内をウォーキング。こちらを見学後は約1時間半バスで移動。
                                        
三つ目、大多喜城(おおたきじょう)は復元されたお城が千葉県立中央博物館大多喜城分館になっており「続名城スタンプ」は2階展示室にありました。
大多喜城は大永元年(1521年)に真里谷信清が築城。その後安房の里見氏の重鎮の上総正木宗家の居城として発展。それより以後家康の重臣本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立。忠勝により三層4階を持つ近代城郭となったのです。現在の城郭は1957年(昭和50年)に復元された鉄筋コンクリートの歴史博物館です。
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大多喜城入口の案内図を見ながら進んでいきます。。
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大多喜水道。
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140年ほど昔、大多喜城下の人達はたいへん水に困(こま)っていました。そこで大多喜藩知事(はんちじ)大河内正質(おおこうちまさただ)は、城山から水を引くことを計画したのです。城下の豪商小高半左衛門(おだかはんざえもん)(柳原)が世話役となり、三上七五郎(みかみしちごろう)(上原)高橋四郎左衛門(たかはししろうざえもん)(小苗)等が中心になり計画を立てました。 明治二年十一月、静かな城山にカマ、ナタ、クワやスキ、モッコを持った大勢の人夫たちが集まり、半左衛門が工事によってもたらされる豊かな生活を説明しました。そうして最期にみんなで力を合わせてがんばろうと、話をしめくくったのです。人々は納得し一生懸命働いたのです。この工事で延べ5,606人が働いたようです。明治3年5月。工事開始からわずか7ヶ月という短い日数で工事は完成したのでした。そしてこの水道は昭和29年、町営水道ができるまで約80年もの間、大多喜町民に恵みを与えてきたのです。

大多喜城入口。
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天守より薬医門を見ると県立大多喜高校の正門付近に「薬医門」が見えました。
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大多喜城の数少ない建築遺構がこの薬医門です。本丸跡の東側の崖からは、現在県立大多喜高等学校となっている二の丸跡や城下町を見下ろすことができるのです。

大多喜城主本多家五重塔写真。
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本多家三つ扇紋付袴
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大井戸。
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大多喜高等学校のグランドの一隅には、本多忠勝が掘らせたという周囲17m、深さ20mの大井戸がありました。

三名城を見終わると16:00を回っており、海ほたる経由で新宿に帰り着いたのはほぼ19:00.。
名城めぐりは街道ウォークと違い、かなりアップダウンがあることを実感。でも気温22℃、小雨、時々の雨にもあまり苦労せず、また大降りしなかったことが幸いでした。午後はほぼ雨がやみ、まずは快適な名城めぐりでした。5月に鉢形城を見たことがきっかけで今日の名城めぐり参加となりまりましたが、また機会があれば参加してみようと思いました。
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2019年06月22日

2019.6.19  2巡目第3回 東京の新発見旅「板橋区」

今朝の天気予報はやはり梅雨!とのこと。しかし思いがけず日射しのある中、ウォーキング開始。講師牧先生、TD金子さん、参加者は15名。

都営三田線高島平駅東口⇒高島平団地⇒熱帯環境植物館⇒板橋区こども動物園高島平文園⇒徳丸が原⇒高島平健康福祉センター⇒高島平図書館⇒高島平第七小学校(廃校)⇒赤塚公団前信号⇒赤塚諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城址⇒板橋区立郷土資料館⇒板橋区立美術館⇒赤塚不動の滝⇒大仏そば萬吉禎⇒乗蓮寺・東京大仏⇒赤塚植物園⇒麺工場幸住⇒松月院⇒東武東上線下赤塚駅

都営三田線高島平駅は1968年開業、元は志村駅、1969年に現在の駅名に変更。現在1日3万人以上が利用。
この辺りは元々徳丸ヶ原といわれたところ。 1841年(天保12年)砲術家高島秋帆が当地域にて、日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったとのこと。
高島平団地は1972年(昭和47年)から始まり総戸数は10,170戸と日本最大の団地が出来上がったようです。
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板橋区は、区制施行70周年を記念して、平成15年2月、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを「板橋十景」として選定したとのことです。@赤塚溜池公園周辺、A板橋(旧中山道の仲宿付近の石神井川にかかる橋)、Bいたばし花火大会、C志村一里塚、D石神井川の桜並木、E松月院、F田遊び(徳丸・赤塚)、G高島平団地とけやき並木、H東京大仏(乗蓮寺)、⓾南蔵院のしだれ桜
今日はこのうちいくつかを見ることが出来そうです。

板橋区立熱帯環境植物館。
熱帯環境植物館(グリーンドームねったいかん)は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。館内は潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれ、温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館。施設全体で約3000m2、そのうち植栽面積は1000m2で、地下1階から地上2階までは吹き抜け。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設で平成6年に誕生したとのことでした。
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カラーズエリ―フィッシュ
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メダカ展
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メキシコサラマンダー
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板橋区こども動物園高島平分園は高島平駅そばの小さな動物園。主な飼育動物はヤギ・ヒツジ・モルモット・ウサギ・シマリス、キボウシインコ等の鳥などもいて気軽に多くの子供たちが来ていました。
こども動物園高島平分園に隣接で徳丸ケ原(とくまるがはら)の石碑がありました。
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徳丸ヶ原は、現在の高島平及び三園、新河岸の大半の地域に相当する江戸幕府の天領、及び地域の総称で、東西1.4km、南北0.88km。地名としては、西台、徳丸本、徳丸脇、四ツ葉、下赤塚、上赤塚、成増などがあったとのことです。 徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあったのです。後ほど赤塚城址に行きます。

赤塚諏訪神社の創建年代は不詳。昔、赤塚領主であった千葉介自胤が、長禄年間(1457〜1461年)に信濃国・諏訪大社よりその御分霊を勧請し、武運長久を祈願したとのことです。新編武蔵風土記稿によれば下赤塚村の鎮守であったとのことです。江戸末期の1866(慶応2)年、社殿廃頽のため本殿が再興され、明治初頭の神仏分離令により、旧別当・真言宗常福寺の支配を離れるとともに十羅刹女の奉斎を廃し、1874(明治7)年4月3日村社に定められたのです。この神社に伝わる特殊神事「田遊び」は、1976(昭和51)年徳丸北野神社とともに国の重要無形民俗文化財に指定されたとのことです。
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ここは板橋区じゃないじゃないかと思うくらいの立派な竹林は「竹の子公園」でした。
鳳凰竹、金明竹など約13種類の竹があり傍には「竹のお話・竹のオモチャ」の解説板がありました。
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赤塚城址。
現在、遺構はなく東京都立赤塚公園の一部で広場、梅林、桜並木などがありました。
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1456年(康正2年)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたとのことです。 赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であったのです。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍し、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になったのです。

板橋区立郷土資料館は赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接しており、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示がありました。
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新藤楼門
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古民家
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庚申塔
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赤塚不動の滝は山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山(神奈川県相模原)などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちがここで身を清める“みそぎ”場として使われていた場所。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られているようです。昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたようですが、昭和八年滝つぼが整理される前には、現在より水量も多く水の落ち口も広かったようです。この滝水はいかなる時でも涸れることがないようです。
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大仏そば萬吉禎で昼食にかき揚げ丼とお蕎麦をいただきました。
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乗蓮寺(じょうれんじ)は応永年間(1394年 – 1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建されたようです。その後、板橋区仲宿に移転。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりまた八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。その後昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転。山号は赤塚山となったのです。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め東京大仏が建立されたのです。
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東京大仏。
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松月院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現:千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのことです。 江戸時代には、徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展したのです。幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれ、この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたようです。
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本日はお陰様で天気も持ちこたえ、大助かりでした。歩程約11km、14000歩で非常に順調でした。今回も麺工場幸住でクロレラ入りの中華麺をお土産で購入。帰宅後悠々で夕食作りをし、家族で美味しく冷やし中華をいただきました。
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本日の2巡目はほぼ前回と同じでしたがそれなりに説明の理解が深まりとても有意義でした。この調子でまたがんばります。
posted by yunofumi at 17:58| あちこちウォーク

2019年06月20日

2019.6.15 横浜18区ウォーク第16回緑区

JR長津田駅⇒ほう不動産⇒御野立所⇒大石神社・長津田宿常夜燈二基⇒旧大山街道⇒長坂夜雨⇒横浜田園都市病院⇒旧大山街道⇒林地蔵⇒二十三谷戸⇒天王鴬林⇒福泉寺⇒王子神社⇒長津田幼稚園⇒Covoloba⇒大林寺⇒JR長津田駅
今日は朝から雨降りなので気合を入れてウォーキング開始です。

長津田駅は東急田園都市線とJR横浜線、こどもの国線がありました。
最近、上皇陛下のニュースでこどもの国のことが話題になっていたのを思い出しながら浅井先生の解説に耳を傾けました。そもそもは1959年(昭和34年)4月の現上皇陛下が皇太子だった時のご結婚のお祝い金をもとに1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日に開園。この土地は旧日本陸軍田奈弾薬庫補給廠跡の国有地だったのが米軍から返還され、国費など多くの民間企業や団体・個人の協力で整備された施設でこどもの健全育成のための児童厚生施設だとのことでした。こどもの国線は2000年までは社会福祉法人こどもの国協会が運営していた路線ですが今は東急がそれを担っているようです。

長津田(ながつた)は「長い湿田」という意味だそうで一般的には遷流する岩川上流部の集落を総称していう地名だそうです。具体的には多摩丘陵東縁部、鶴見川水系恩田川中流域右岸に位置し、地形としては町域北側に恩田川段丘崖があり、武蔵野層・鶴川層・上倉田層などに分類される洪積台地と恩田川・岩川周辺の10数本の谷戸からなる沖積地で構成されるとのことです。江戸時代の頃から小田原〜江戸の往来が盛んになり裏街道として足柄〜厚木〜江戸への裏街道、旧大山道の宿場のひとつとして長津田宿ができたようです。
本日は旧大山街道に沿いながらあちらこちらを巡るウォーキングとなりました。
またはじめに講師から長津田には「長津田十景」というビューポイントがあると説明を
受けました。これも楽しみたいと思いました。

長津田駅前には「ほう不動産」がありその傍には広い駐車場がありました。この辺りには桑が多く栽培されていたようでこの場所には蚕の繭から絹糸を取り出す工場があったとのことです。昔、「養蚕(ようさん)」は日本の大切な一大産業でしたから。今はまったくその面影はありませんでした。

御野立落雁(おのたちらくがん)。
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ここは大正10年の陸軍大演習で冬至の皇太子(昭和天皇)が演習をご覧になった場所。崖になった縁まで行くと眼下に恩田川をはじめ周辺が一面見渡せました。落雁とは雁が空から舞い降りる様子。ここには約7mの「皇太子殿下御野立之跡」の石碑がありました。

大石神社は長津田宿の西方、旧大山道に面する小高い丘の上にあり、王子神社とともに長津田の鎮守。ご神体の大石は無銘の自然石が六歌仙のひとりの在原業平であるという伝説が残っているとのことです。
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大石神社の女坂参道脇に、1843年(天保14年)、秋葉講中によって建立された燈籠(上宿常夜燈)がありました。燈籠正面に秋葉山の文字を刻み、基礎部分、中台側面には彫刻が施され、火袋部分には天狗の羽扇の透かしが見えました。
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大石神社を出てからいよいよ旧大山街道にそってウォーキング。長津田小学校から森村学園脇の旧道は昔の街道の雰囲気がありました。この風光明媚な景色は長津田十景のひとつで長坂夜雨(ながさかやう)というとのことです。
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旧大山街道を進むと長津田町4161付近の三叉路に「林地蔵」がありました。
辻の古木の根元にあり、念仏供養塔のようでした。説明板は読めませんでしたがお地蔵さんですから夭折(早世)した子供さんの供養と思いました。
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このあたりは谷戸(やと)と呼ばれ、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、その地形を利用した農業が古くから行われていたとのことです。今では土地の開発が進みこの辺りのような風景は少なくなっているようです。
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長津田町4155付近には二十三夜塔と辛うじて読める石塔がありました。道祖神でも双体僧形道祖神とのお話でした。
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小高い丘の上に天王社がありました。正式には牛頭天皇宮(ごずてんのうみや)といい、京都祇園社(八坂神社)が本社とのことですから格式は高いようです。ご祭神は須佐王の尊で疫病排除の神様とのことでした。
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この辺りは丘陵の尾根にあたり先は谷戸に通じており素晴らしく森閑とした緑の林で鴬が多いようで「天王鴬林(てんのうりんかん)」といわれており実際に鴬(ウグイス)の鳴き声も聞くことができました。

福泉寺(ふくせんじ)は高野山真言宗の寺院。詳名は薬王山医王院福泉寺。関東八十八箇所霊場の第65番霊場。
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王子神社(おうじじんじゃ)の南は国道246号に面しており長津田の鎮守とされており、王子権現や若一王子社とも呼ばれているとのことです。熊野信仰が盛んな頃、全国各地に若一王子神社が祀られこの神社もそのひとつとのこと。ちなみに若一王子神社とは熊野三山(本宮・新宮・那智)のうち新宮速玉大社に祀られている「熊野十二所権現」のひとつだそうです。このあたりは「王子秋月(おうじしゅうげつ)」として長津田十景なっていました。
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長津田幼稚園は陣屋跡で旗本岡野家の屋敷があったとのことでしたが全くその形跡はありませんでした。

土砂降りの中ようやく昼食場所「COVOLBA」に到着。
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チキンソテーとグリル野菜ガーリックトマトソースをいただきやっと人心地がつきました。ところがこの後はさらに土砂降りでそれでもめげずにまずは大林寺へ。

大林寺(だいりんじ)は、曹洞宗の寺院で詳名は慈雲山大林寺。長津田一帯を治めていた江戸幕府の旗本岡野家の菩提寺で、1570年(元亀元年)初代岡野房恒の父板部岡江雪斎が開基とのこと。岡野氏は小田原北条氏の旧臣であり、1591年(天正19年)に旗本に取り立てられて長津田村に500石の知行を得たようです。
大林寺は大火に何度も会い現在の木造の本堂、山門、客殿、座禅もできる五百羅漢堂、庫裏は2008年(平成20年)に完成したもの。
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旗本岡野家歴代の墓所。
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奇術師、引田天功(初代)の墓。
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大林寺山門の手前の横に大きな板碑がありました。
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これは1901年(明治34年)に長津田村の龍昌寺から移されたもので阿弥陀如来を表す種字キリークが刻まれています。高さが185pあり横浜市の板碑として最大のもの。記年については1303年(嘉元元年)または1304年(嘉元2年)とのこと。

参考に長津田十景を書いておきます。@大林晩鐘(だいりんばんしょう)A御野立落雁(おのたちらくがん)B大石観桜(おおいしかんおう)C王子秋月(おうじしゅうげつ)D高尾暮雪(たかおぼせつ)E天王鶯林(てんのうおうりん)F下宿晴嵐(しもじゅくせいらん)G長坂夜雨(ながさかやう)H長月飛蛍(ちょうげつひけい)I住撰夕照(じゅうせんせきしょう)

本日のウォーキングは10:00から14:00までの参加で早々にひきあげました。なぜなら昼食後の強い雨降りの状況は半端ではなかったからです。長津田駅に戻った後、上着から靴下まで予備の衣類に着替え、一息ついてから帰路につきました。強い雨降りの中でのウォーキングは久しぶりで、翌日まで体の節々が痛かったのが印象に残りました。結局、「年」を実感したのです。とはいえ今後もめげずにウォーキングをまだしばらく続けたいと思っています。
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2019年06月13日

2019.6.9さいたま彩発見ぶらり街あるき

第2回大宮区

JRさいたま新都心駅⇒けやき広場⇒さいたまスーパーアリーナ⇒コクーンシティ・コクーンホール⇒かのうや⇒氷川神社参道・一の鳥居⇒塩地蔵⇒白井助七の碑・山丸公園⇒大宮区役所⇒麗愛幼稚園⇒浅間神社⇒庚申塔神社⇒まこと釜めしとんかつ⇒スタアレコード⇒参道交番⇒神家食堂⇒氷川神社参道・平成広場⇒大宮アルディージャクラブショップ⇒氷川神社・二の鳥居⇒手焼岩せんべい⇒さいたま市立博物館⇒氷川だんご⇒氷川神社・三の鳥居⇒氷川神社楼門・拝殿⇒埼玉県神社庁・・蛇の池⇒大宮公園・小動物園・遊園地⇒埼玉県立歴史と民族の博物館⇒東光寺⇒JR大宮駅

数日前に梅雨入りの宣言もありましたが曇り時々雨という本日の気象予報にもめげずウォーキング開始。参加者17名。案内の講師喜多見先生、TDは小松さん。

JRさいたま新都心駅。
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駅舎は大宮区吉敷町四丁目にあり、JR東日本の東北本線の駅。2000年5月のさいたま新都心の街開きに先立ってこの年の4月に開業。業務地区としてのさいたま新都心は中央区と大宮区にまたがって整備されており、町名としての新都心は地区内の西側・中央区に位置しているので駅舎は東側の大宮区に所在しているとのこと。
1日約5万人が乗車。橋上の駅舎は1階がホーム、2階がコンコースと自由通路で建物の設計は、埼玉県狭山市出身の建築家鈴木エドワード。改札は1カ所で東口は商業施設のコクーンシティが中心。西口はホテルも含めJR関係、さいたまスーパーアリーナや合同庁舎、赤十字病院、県立小児医療センターなどがあります。

けやき広場。
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さいたま新都心駅改札を出てコンコースの自由通路突き当りにあり、ふれあい空間としてつくられたようです。人工地盤上に埼玉県の木「けやき」が立ち並び、クリスマスなども含め、色々なイベントが行われます。

さいたまスーパーアリーナは2000年5月にオープン。施設は埼玉県が所有。スポーツイベント・コンサート・テレビ番組の収録・講演会・株主総会・見本市会場など、さまざまな用途に対応し、最大37,000席の多目的アリーナ。イベントにより色々なタイプに変容できるとのことです。
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コクーンシティはJRさいたま新都心駅の東口に広がるショッピングモールでコクーン1、コクーン2、コクーン3とパークサイドビルの4棟でできており、もともとは片倉工業大宮製作所跡地における再開発計画が2001年より始まったようで、今も同社が施設の管理等を行っているとのことでした。コクーン (COCOON) の名称は英語で「繭(まゆ)」を意味し、片倉工業が製糸業として創業したことに由来すると初めて伺いました。
そしてコクーン2にはコクーンホールがあり、「大宮鳥瞰図」(1934年吉田初三郎画」もありました。
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片倉工業は明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行っていた片倉財閥を構築した老舗企業。かつての富岡工場(富岡製糸場)は日本の工業近代化の貴重な遺産としてUNESCOの世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)として知られています。2005年には富岡工場の建物等を地元の富岡市に寄贈しています。 1994年に伝統事業である蚕糸事業から撤退し、その後、不動産資産を活かしたショッピングセンター運営・不動産賃貸事業・小売事業の他、第二次世界大戦後に進出した自動車用部品製造、繊維製品の販売などを行っている会社だとのことです。

氷川神社参道はJRさいたま新都心駅近くの旧中山道から武蔵一宮氷川神社までまっすぐ伸びる18丁(約2km)のケヤキを中心とした並木道。ケヤキ、シイ、エノキ、スギなど20余種の樹木が600本以上植えられています。
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この「一の鳥居」が参道の始まり。鳥居の傍にある標石は氷川神社の中で最も古い石碑で表面には「武蔵国一宮 氷川大明神」とありました。
またこれより丁石が一丁(109m)ごとに見られました。
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氷川参道には、三本の大鳥居があり、神社に遠い順に「一の鳥居」、「二の・・」、「三の・・」と呼ばれています。「二の鳥居」は明治神宮より寄贈移築されたもので、現存する木造の鳥居では関東で一番大きいと言われています。

塩地蔵尊。
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江戸時代に旅の途中で病に倒れた父親の病気の平癒を二人の娘が塩絶ちをして地蔵尊に祈ったところ病が全快したのでお礼に塩を奉納したのが始まりとのことです。今でも地元で大事にされている様子でした。

山丸公園は山丸製糸工場跡地とのこと。白井助七は近代大宮の父といわれている方で大宮駅の開業に尽力し「鉄道の街」としての大宮を築いた方で記念碑ができているのです。石碑傍には蒸気機関車「C1229」が展示されていました。
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またすぐ傍には浅間神社がありました。
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大宮区役所は先月の5月7日に完成オープンしたばかり。当日は大変大にぎわいのお祭りイベントが行われたようです。入口そばで休憩をさせていただきました。

神家食堂(かみやしょくどう)は氷川神社の参道沿いにあるにあるイタリアンのお店。現在の名物は「大宮ナポリタン」や、「自家製手捏ねハンバーグ」とのこと。
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かつて、「鉄道のまち大宮」として栄え、その周辺で働いていた鉄道員や工場マンがよく食べていたといわれるナポリタン。そんなナポリタンを、ご当地グルメとして復活させたのが「大宮ナポリタン」。「大宮ナポリタン」の条件は、旧大宮市内に店舗があり、具材に埼玉県産野菜を1種類以上使うこと。氷川神社の鳥居の朱色、大宮アルディージャのオレンジにもちなんだ新名物を目指しているとのことです。大宮駅周辺の飲食店約50店が各店それぞれの個性あふれるオリジナルのナポリタンを提供しているのです。こちらのはもちもちで昔懐かしい味でした。
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平成ひろばは、氷川参道の一部を整備した公園で、通りの両側にケヤキやサクラ等が植えられ、その木々の間を散策できるようになっています。ちなみに桜は4月が見ごろです。
歩道は石畳で整備され、岩を組み合わせて作ったせせらぎもあり、市民の憩いの場として親しまれています。
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大宮アルディージャクラブショップはこのサッカーチームのショップでチームカラーのオレンジを生かし色々なグッズの販売もあるようです。
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氷川神社・二の鳥居。
一の鳥居を抜け、参道を進むと二の鳥居があります。大宮氷川神社の二の鳥居は、もともとは明治神宮の鳥居だったもの。それを昭和51年(1976年)に明治神宮から寄贈されて、武蔵一宮氷川神社に移築されたのです。
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さいたま市立博物館にはさいたま市に関する歴史・考古・民族などの資料の収集と展示がありました。建物が大きくてびっくりでした。本日は特別展示の「和同開珎」2枚を見に立ち寄りました。これはさいたま市中央区の与野西遺跡で3月から5月に実施した発掘調査で、奈良時代〜平安時代初期の住居跡から出土したとのことです。市内で初めての出土で、埼玉県内でもこれまでに8枚しか見つかっていないとのことでした。1か所から2枚見つかったのは県内では初めてで、さいたま市の古代史に新たな1ページとなる発見ということで特別公開をしていたのです。
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氷川だんご屋は参道脇でもう40年以上営業しているお店。
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無添加、焼きたてのだんごが美味しくてこちらに来るといつも買っています。今日は団体での移動なので残念に思いながら通過したところ何と、ツアーTDの小松さんと喜多見講師の配慮で「揚げまんじゅう」をこの後休憩した時にいただきました。揚げたてで、カリッと香ばしく、まぶした砂糖と、サクサクッと軽い皮の絶妙な食感、そして、ふんわりと柔らかな生地に包まれた、しっとりとしたこしあんの上品な甘みが、しみじみとやさしく口のなかに広がりとても美味しかったです。
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氷川神社・三の鳥居。
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二の鳥居を抜け、およそ2キロの参道を歩き、境内にたどりつき、三の鳥居を抜けてすぐ左側のところに「戦艦武蔵の碑」(せんかんむさしのひ)があります。戦艦大和と並び日本海軍が誇る戦艦武蔵の名は、この武蔵一宮氷川神社からとったものだそうです。戦艦武蔵の艦内神社は「氷川神社」でした。
現在の氷川神社三の鳥居は平成18年に建て替えられたもとのことで南を向いて鳥居の右柱を見ると文字を刻んだプレートが埋め込まれていました。
「奉獻 片倉製絲紡績株式會社取締役社長片倉同族會代表今井五介 昭和九年十月」
現在の三の鳥居に埋め込まれたプレートは、昭和9年の鳥居にあったものを、平成18年建て替え時に付け替えられたものと思われます。この「今井五介」さんは大正9年10月15日、副社長として皇后陛下に拝謁し、工場巡覧の案内役を務めたとのこと。また初代大宮市長でさいたま市名誉市民の14番目だそうです。
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これは明治天皇がお詣りで来られた時の図です。

氷川神社は武蔵野国一の宮といわれており孝昭天皇3年4月の創建とのこと。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したということです。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説もあるようです。また平安時代後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受け、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がったのです。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納したようです。

楼門はとても立派でした。
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拝殿にお参りしましたが本殿は全く見えませんでした。
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蛇の池。
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古来、蛇は水神の化身とされ、祭神の須佐之男命はその大蛇を退治した伝承により、水を治めた神とされており、氷川神社ではご祭神の神威神徳からこの池の名がついているようです。
蛇の池は境内の神池や見沼たんぼのなどの水源のひとつで今も地中深く水が湧いているのです。この神秘的な湧水があったことからこの地に氷川神社が鎮座し、また氷川神社の発祥地ともいわれているようです。
蛇の池手前には近年、蛍を復活したいと「氷川ほたるの杜」の活動が始まっているとのことでした。

神社庁は全国8万社の神社を包括している組織で神社本庁は明治神宮の傍にあるようで昭和21年に設立。
埼玉にある埼玉県神社庁は氷川神社のすぐ隣にあり、埼玉県内2000社を包括しているとのことです。
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今日は中に入り祭壇や伊勢神宮の式年遷宮でいただいた神宝といわれるもののうち御櫛や櫛箱を見せていただきました。
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大宮公園・小動物園・遊園地
氷川神社と隣接している「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmにあります。もともとは明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名前だったようです。現在ある県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園で、日本の公園の父といわれる林学博士本多静六が立案した「氷川公園改良計画」に沿って、公園の整備が進められたとのことです。今では日本さくら名所100選や日本の都市公園100選になっており、埼玉県で一番利用者の多い県営公園だそうです。 まずは日本庭園、そして小動物園や遊園地も見ました。
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ブチハイエナです。

埼玉県立歴史と民族の博物館はとても大きく、中の展示室は歴史・美術・民俗・特別・季節にそれぞれ分かれており、ざっとボランティアさんに説明を伺いました。
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第6室の3m以上もあるという板碑と、とっても小さな板碑が興味深かったです。埼玉県内では約27000基の板碑が確認されているとのことでした。こちらはまたじっくり伺いたいと思いました。

大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのがはじまり。ということで草創当時は天台宗で、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がついたとのことです。その後、永享年間(1429〜1440)に梁室元棟和尚が曹洞宗に改宗して開山となったのでした。
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今、東光寺は草創以来880余年の歴史を刻んでいるとのことで現在地でのことは『新編武蔵風土記稿』巻153にもとりあげられていて、中仙道を行き来する文人墨客が足を留めた所でもあるようです。
現在、上山寿山、近代漫画の祖といわれる北沢楽天、大宮市発展の礎を築き大宮駅の誘致をした白井助七などのお墓があるようです。
今日は私たちのグループに現住職松本誠諦さんがおたまじゃくしと蛙のお話をしてくださいました。また以前伺った時は工事中だった山門ですが今日は観音様、地蔵様、菩提達磨大和尚像、お釈迦様がとっても神々しく見受けられました。
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本日の最後はお馴染みのJR大宮駅でした。JRの様々な路線をはじめ新幹線も2系統、千葉県柏までの東武アーバンパークライン、埼玉新都市交通(ニューシャトル)もあり、どうやら東京駅の次くらいの乗り入れ路線数だそうです。ということで駅の通路は年中ひどく混雑しています。

今日は20℃というウォーキングにはベストのお天気でした。結局、東光寺出発までは空模様は持ちこたえ、大いに感謝。もっとも大宮駅から川越線・東武東上線で上福岡着の時にはザァーザァー降りでしたがこれは一向にお構いなしの心境でした。
このようなウォーキングツアーは説明を伺いながらですから見慣れている風景でも「目からウロコ」ということもしばしばあります。今日もこのようなことでしたからまた見直しのためにも再訪が肝心かもしれません。
そして後日には今日いけなかった「鉄道博物館、さいたま新都心合同庁舎・ビューテラス」にもぜひ行って見たいと考えています。
posted by yunofumi at 23:58| あちこちウォーク

2019年06月01日

2019.6.1 市民大学ふじみ野 歴史再入門

近頃、我が街の市報が評判いいんです。色々な催しもあり、そろそろ地元を知ることが大切と心を入れ替えて
初めて参加しました。
1回目、5/18、約2時間坪田幹男さんの講義でふじみ野の歴史のはじまりは武蔵野台地から、それも地形の特徴が大切とのこと。
地名に𡋽(はけ)という所がありますがこれは崖線下を縫って伸びる道で水が涌いておりその上下に昔は集落ができたそうです。
ということで本日は大井武蔵の𡋽(はけ)の道を実際に歩く歩程でした。

東武東上線上福岡駅西口広場⇒URコンフォール霞ヶ丘⇒東上線沿線⇒川越市藤間⇒川越街道⇒鶴ケ岡地蔵尊⇒鶴ケ岡八幡神社⇒旧尚美音大跡⇒ホンダ学園⇒小島屋⇒イトーヨーカドー鶴ケ岡中央店・VIVA MALL⇒日清製粉グループ本社⇒ふじみ野市あおぞら学校給食センター⇒高柳建具⇒三角の浅間神社・阿夫利神社⇒市川家⇒関越自動車道カード⇒川越江川水源周辺⇒火工廠大井倉庫跡・文京学院大学⇒大井郷土資料館

9:00東武東上線上福岡駅西口広場に参加者16名が集合。坪田幹男さんはじめ「おらほう来ねか大井郷」の旗を持ったボランティアの方が4名ほど付き添ってくださいました。
川越に向かっての東上線がグングン下降しているのがはっきりわかり、いよいよ崖の上から川越方面を見て崖線を実感。
この辺りには西遺跡があったようです。今は住宅地でした。
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川越街道は現在の道と旧道もここでははっきり見えました。
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鶴ヶ岡厄除地蔵尊。
鶴ヶ丘(旧入間郡ケ丘邑)の発生を語る芝開き地蔵尊(新旧2体)で、右側は元禄期造立の地蔵菩薩念仏供養塔とのこと。
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鶴ケ岡八幡神社。
「鶴ヶ岡厄除地蔵尊」の路地を挟んだ北側、「鶴ヶ岡八幡神社」は、旧鶴ヶ岡の鎮守で祭神「誉田別命」を安置しているとのことです。今日は中を見られませんでした。
鎌倉の鶴岡八幡宮とは関係なく、地名の鶴ヶ岡村が神社名となっているようです。説明板によると、文政期(1813〜30)ごろ、元々は村の鎮守であった神社を地蔵院が管理したいと寺側から申し入があり、村と寺との間で争いが起きていたようです。
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この辺りの崖線はまだ5mほどあり、尚美音大のあった辺りは今住宅地になり、強固な壁面が支えていました。
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傍には桑の大木がいっぱい実をつけていました。
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目の前は崖下の平地が広がっています。この辺りが大塚街道も見えオオバケといわれるところようです。
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三角の浅間神社・阿夫利神社。
江戸時代、富士信仰が盛んになり、信者はこぞって富士登山を行いました。その一方で、富士山まで行けない村人のために、富士山から運んだ溶岩で富士塚を作り、そこに登って御利益を得るようになりました。この富士塚は、幕末に作られたといわれ、現在でも8月1日を「山開き」、9月1日を「山じまい」として叉木や灯籠を飾り富士塚の登拝が行われているとのことです。
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川越江川水源周辺。
こちらのお茶畑の傍から見ると青い屋根の辺りからぐっと崖線が右にカーブし、目の前の森がずっと狭山辺りまで続いているとのことでした。
ちょうどこの青い屋根の辺りが水源だったようです。残念ながら傍には行きませんでした。
この辺り東西15町(1630m)、南北8町(870m)が昔、新編武蔵風土記稿亀窪村に記されていた武蔵といわれた所だそうです。
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火工廠大井倉庫跡・文京学院大学。
火工廠とは旧陸軍弾薬工場の造兵廠のことで機関銃弾、小銃弾から陶製手榴弾(チビ弾)、風船爆弾の電気雷管・信管の部品などをつくっていた所。
造兵廠の付属施設として、大井村亀久保地区(現文京学院大学から山下ゴム(株)にかけての山林内)に約7,800坪(25,000u)の「大井倉庫」が設けられ、事務所1棟の他に、21棟の火薬庫・部品庫があったところだそうです。
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ふじみ野市立大井郷土資料館。
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大井町域の歴史、民俗、考古分野の展示を行う博物館。ふじみ野市立大井図書館と併設されたいる施設。常設展示室では近世の宿場町、大井の歴史を「みち」をテーマに原始から近代まで通史的に展示。町内の考古資料、中世・近世の文書、宿場関係の資料、民具等が見られました。

自分の住むふじみ野の地域が東境界線と北境界線の崖線で囲まれた地域ということを初めて理解しました。40年も住んでいるのに地元をよく知らなかったことを少しばかり恥ずかしかったです。崖線を降りる我が家の一番近くが権現山傍の寺尾への坂道なのですがそれもなぜこのよう地形かが理解できました。
こう考えると地名は長年伝わってきたのを大切にし、市町村合併などで安易に変えてはいけないのではないかと改めて思いました。
本日は9:00〜11:30、約11000歩、歩程約7kmはまずまずのウォーキング。その後、大井郷土資料館から自宅までウォーキングし約20000歩弱でしたから運動量としては十分。今後もこのような講座があれば参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 17:36| あちこちウォーク

2019年05月19日

2019.5.14  2巡目第2回 東京の新発見旅「江戸川区」

都営新宿線篠崎駅⇒篠崎文化プラザ⇒篠原風鈴本舗⇒春江の森公園⇒春江中学校⇒春花園・BONSAI美術館⇒一之江名主屋敷⇒椿西通り⇒江戸川椿郵便局⇒瑞江葬儀所⇒大雲寺⇒瑞江第二中学校⇒瑞江駅⇒ベルクオーレ(昼食)⇒都営新宿線瑞江駅--一之江駅⇒長勝寺⇒国柱会⇒感応寺⇒水神宮⇒村井染工場⇒一之江親水公園・境川⇒タワーホール船堀⇒都営新宿線船堀駅

都営新宿線は新宿から本八幡まで31駅、片道40分の路線。私自身はめったに乗車はなく、まして篠崎は初めてかも、という感じ。今朝はこの駅に10:00集合、牧先生、久森TDの付き添いで出発。
篠崎駅西口から引き続きすぐに篠崎文化プラザ到着。ここは江戸川区を紹介する施設で展示室・図書館・伝統工芸などなど幅広い活動をしているようでした。
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私は珍しいサラダ小松菜と小松菜うどんを早々にゲット。
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そもそも江戸川区とは東京都内では東部の高齢者と子供の多い、すなわちしっかり家族世帯で住んでいる方々が多いようです。特産は江戸川区が発祥の地として知られる小松菜。現在の江戸川区小松川で、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際、名が無かった菜が入った味噌汁を食し、「小松菜」と命名したことに由来しているとのことでした。また朝顔の栽培が盛んで、毎年7月に台東区入谷で開催される朝顔市に出荷される朝顔の6割〜7割は江戸川区産だそうです。地形としては江戸川区の西部(荒川両岸地域)は海抜ゼロメートル地帯。最も低いところでは東京湾の満潮時の海面より2メートルほど低い場所もあるようです。区の東部(千葉県寄りの江戸川沿い)は比較的海抜が高く、新中川以東且つ京葉道路以北は海抜1.5m〜3mほどで、特に小岩地域は比較的古くからの陸地で、貝塚も見つかっているとのこと。区の南部は大半の地域を埋立地が占め、埋立地の南部には葛西臨海公園、葛西臨海水族園があり、南端で東京湾に面しているとのことでした。

篠原風鈴本舗。
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篠原風鈴本舗会長の篠原儀治(篠原風鈴二代目)さんが昭和40年にこのガラス風鈴を江戸風鈴と名付けたとのことです。このガラス風鈴は手作りで絵や文字は内側から手書きしているのです。今日も工場で職人さんの作業を見せていただきました。
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春花園・BONSAI美術館。
ここは盆栽師16年前小林國雄さんが作り上げた世界。
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800坪の敷地内には所狭しと約1000盆の盆栽が並び、中には1億円真柏(ヒノキ)も見られました。
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谷やん池の中には大きな鯉、周囲には盆栽がいくつもあり見ていて楽しい。
奥には立派な建物があり春の間・花の間をはじめ最後の屋久杉の間ではしばし見とれてしまいました。
現在はおとづれる外人さんも多く、お弟子さんは100人も巣立っているようです。

一之江名主屋敷は、江戸時代のはじめにこの地で新田を開いた田島家の屋敷。一之江新田の名主を代々つとめてきたのです。現在の主屋は安永年間(1772年から1780年)の再建で、屋敷林や堀をめぐらした屋敷構えは、創建当初のようすがわかります。
屋敷入口の長屋門。
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主屋(おもや)は懐かしい土間やいろり、竈など見られました。
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屋敷林や濠、屋敷神も現存し、敷地の端に展示棟がありました。
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瑞江葬儀所(みずえそうぎしょ)とは、江戸川区春江町にある東京都が運営している都区内では唯一の公営の火葬場。葬儀用の式場はなく、火葬設備のみで1938年2月に使用が開始された。別名「瑞江斎場」。1975年に新施設操業開始。新施設では火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化、燃料のガス化、控室を個室化、火葬受付件数の設定をしたとのことです。

大雲寺(だいうんじ)は、江戸川区瑞江にある浄土宗の寺院。山号は長行山。院号は専称院。本尊は阿弥陀如来。歌舞伎俳優の墓が多いことから「役者寺(やくしゃでら)」といわれています。
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この寺は、もともと1619年(元和5年)梵誉の開山により蔵前に創建された寺で、その後本所(現在の墨田区押上)に移され、1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けたため、1931年(昭和5年)現在の場所へ移り再建されたのです。
歌舞伎役者としては)市村羽左衛門累代墓、坂東彦三郎累代墓、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺嶋家門弟一同建立碑、寺嶋家門弟代々墓、瀬川累代墓、松本家墓、中村勘三郎累代墓、三代中村勘三郎墓などを伺いお詣りしました。

ベルクオーレ(昼食)
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こちらはイタリアンのお店。はじめにパンがドンと1テーブルに一籠来ました。その後スパゲッティが大皿でドーン。4人で結局完食しました。

昼食後全歩程調整のため瑞江駅〜一之江駅を都営新宿線で移動。街歩きではよくあることです。
一之江駅からの歩道の路面にシラサギ、マッチ箱電車、トロリーバス、花菖蒲などが描かれた陶板がはめ込まれており楽しくウォーキングしました。

国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られています。
こちらは帝網道場(国柱会本部)。
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宮澤賢治辞世碑がありました。
 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのりの に棄てば うれしからまし」

感応寺(かんのうじ)。
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感應寺は1205年(元久2年)真言宗の僧・空念によって開かれた。しかし正応元年(1288年)各地を巡り日蓮の教えを説いていた僧侶、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となる日進が感應寺を訪れ、法論を決した末に改宗、日進が日蓮宗の感應寺として改めて開基したということで以来今日まで日蓮宗の寺院となっている。
1982年(昭和57年)「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定された感應寺の梵鐘は[44]、元禄11年(1698年)のちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次(通称「釜屋六右衛門」「釜六」)により鋳造された[18]。同梵鐘は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に江戸川区内で唯一戦時供出を免れ、区内に残っている梵鐘の中で最も古いとされる[3]。同梵鐘の高さは152cm、口径は77cm[44]。鐘を突く橦木には古来より最適とされる棕櫚の木を使用しているとのことです。建材に欅と吉野の桧を使用した鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて2008年(平成20年)に建立。特に屋根は大工職人の技の粋を集め、振隅、切裏甲、垂木は居定付きとし、精巧で優美なものに仕上ったのです。ということで屋根を支えている柱はそれぞれ3本見えました。

水神宮。
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江戸川区は大きな神社の境内社も含め、水神社(水神宮)が大変多いのが特徴とのことです。かつては田畑が多く、水路に恵まれていた一方で、水害も多かったものと推察され、水害を治めるために祀られたようです。

村井染工場。
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この会社は1936年(昭和11年)に東小松川で創業され、1939年(昭和14年)現在地に移転。目の前の一之江境川で洗いを行っていたのが、一之江境川が親水公園となってからは、井戸水を引いて工場内での作業となっているようです。今は浴衣から手拭いを多く作っているようでした。注文は主に日本橋界隈の問屋さんから、また芸能人や近隣の祭事用などの注文もあるようです。伝統的な手法を用いる手拭いは本来の使い道のほか、インテリアや小物として使われているとのことでした。

一之江境川親水公園(いちのえさかいがわしんすいこうえん)は江戸川区一之江1丁目、5丁目、6丁目、一之江町、二之江町、船堀7丁目付近を流れる一之江境川を利用した親水公園。
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野川の再生」をテーマとした公園で全長は3.2kmに及び、1995年(平成7年)より順次開園した。魚や昆虫、水生植物が生息できるように新中川の自然水を流している。ハゼ、スズキ、テナガエビなども見られ、冬から春にはカモが飛来、豊かな自然とふれあえる親水公園である。また約2800本の樹木が植えられソメイヨシノ、クスノキ、サツキ、アジサイなどが見られるのです。今日は生まれたばかりのカモの親子も見えました。
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タワーホール船堀は、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をコンセプトに造られ、平成11年3月のオープン以来、江戸川区のシンボルです。10階部分に展望台の船堀タワーがあり、360度の視界を楽しめました。
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本日は時々小雨でしたがまずまず無事にウォーキング終了です。
歩程約17000歩、約11km、参加者一同が無事に完歩できたことが一番良かったです。終了後、東海道53次などでご一緒だった顔なじみが5名もそろっていたので非常に懐かしくお茶をしてから解散しました。また次回もぜひお会いしたいものです。
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2019年05月18日

2019.5.12さいたま彩発見ぶらり街あるき

第1回浦和区

JR浦和駅⇒西口⇒東口⇒岸町3丁目⇒浦和第一女子高校⇒調神社⇒高砂小学校⇒伊勢丹⇒うなぎ彦星⇒門前通り⇒玉蔵院⇒中央公園⇒浦和一女発祥の地⇒埼玉会館⇒埼玉県庁⇒さいたま市役所⇒浦和区役所⇒浦中発祥碑⇒常盤公園⇒浦和宿二・七市跡⇒市場通り⇒仲町公園・浦和本陣跡⇒浦和宿碑⇒浦和ロイヤルパインズホテル⇒酒井甚四郎商店(奈良漬)⇒須原屋⇒JR浦和駅

浦和は馴染みのある街ですが折角なので埼玉全部をめぐるシリーズということを耳にしたので第1回から参加しました。
浦和には浦和がつく駅が8つあります。@浦和駅A東浦和駅B西浦和駅C南浦和駅D北浦和駅E中浦和駅F武蔵浦和駅G浦和美園駅。これを歌い上げたのが山本リンダの「ねらいうち」の替え歌だそうです。今日の講師の喜多見先生はのっけから面白い紹介をされる方で1日楽しめそうな予感がしました。
浦和といえば浦和レッズの本拠地なので西口にはこのようにオブジェがありました。
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浦和駅は明治16年誕生ですが西口と東口がつながったのは2014年。平屋ばかりだった東口は今では商業施設のパルコやバスターミナルができて大いに賑わっています。
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岸町3丁目を過ぎると浦和第一女子高校です。明治33年設立。相変わらずの名門でスーパーサイエンスハイスクール指定校とのことです。
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そういえば埼玉は古くからの名門は今でも男女別学。ここは「いちじょ」とよばれています。卒業生には石井桃子、古谷範子、東海林のり子、青木裕子、北川玲子など多くの有名人がズラリ。
校地南側にはオーストラリア原産フトモモ科の暖地性植物のユーカリ樹があると紹介されました。本日は校地内に入れないのでよく見えませんでした。高さ13m、幹まわり0.98m、根まわり1.36m。大正8年に、昭和天皇成年式を記念して全県下に配布されたものの一つで、現存しているのはこれ1本のみになってしまっているとのことです。この周辺が、暖地系植物の北限として、学術的にも貴重な存在なのです。花は早春に咲き、葉を乾燥してユーカリ油の原料とする地域もあるようです。また、世界三大名木の一つとも言われています。

調神社(つきじんじゃ、つきのみやさま)。
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鳥居は2本の石柱があるのみ。これは調神社の七不思議の1つ。理由は伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるからと上に渡す柱がないのです。

その他の不思議は、境内に松の木が無い、御手洗池に住む片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケヤキがある、蠅がいない、蚊がいないこと。
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本殿.
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月と同じ読み、と云うことで月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神です。狛兎はもちろん、手水や社殿、御朱印帳まで兎だらけ!兎好きの間では兎スポットとしても有名だとか。
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引退した狛兎.
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高砂小学校は浦和最古の小学校で明治4年浦和郷学校として開校。明治5年には浦和小学校となった後、昭和22年に現在の高砂小学校となっています。
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表門のあたりは風格があり周囲を見ても何処かの御屋敷かと思いました。

伊勢丹とコルソという大きな商業施設の端に「ときわだんご」があります。明治8年開店のお店で美味しいので時々立ち寄っています。
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伊勢丹の前には浦和うなこちゃんも元気に愛嬌を振りまいています。
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埼玉県さいたま市浦和区のマスコットキャラクターでやなせたかしさんの作。さいたま観光大使です。

うらわ桜草通りを入った路地に「うなぎ彦星」がありました。やや小さいお店でしたがなかなか美味しい鰻重でした。
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浦和駅傍の旧中山道から玉蔵院への通り約60mを門前通りといいます。
玉蔵院は1780年真言宗の弘法大師が開山。正面にこんもり見えるのが枝垂れ桜で有名です。
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すぐ隣に地蔵堂があります。

浦和中央公園はもともと玉蔵院の敷地だったようです。昔は調神社の外には大きな公園がなく、健康増進や休憩スポット、非常時の避難場所として開設したとのことです。現在は常盤公園や別所沼公園が整備されています。

浦和一女発祥の地碑。
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浦和一女は、1900年(明治33年)に、その頃の埼玉県立浦和図書館があった浦和区高砂3丁目に「埼玉県高等女学校」として設立。その後、10年後の明治43年に今朝見た現在の浦和区岸町に移転しています。この場所(現在は取り壊して更地)の跡地に一女発祥の地の記念碑が建っていました。

埼玉会館は1926年(大正15年)に昭和天皇の「御成婚記念埼玉會館」として誕生。もともと1923年(大正12年)より計画されたのがその年の関東大震災で建設が延期されたのを渋沢栄一さんの尽力で急ピッチで出来上がったとのことです。設計は岡田信一郎で当時としては珍しいドイツパイロット歌劇場の様式だったとのことです。大ホールは1500人収容です。その後、1966年(昭和41年)に建て替えられ、現在に至り「埼玉会館」となったのです。当初から見ると約90年。「大正、昭和、平成」3つの時代を通し、常に文化の中核を担う拠点会館とし歴史を刻んでいるのです。
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埼玉県庁は当初、埼玉郡岩槻町(現在のさいたま市岩槻区)に置かれる予定だったのが、県庁としての業務を行える建築物がなかったため、北足立郡浦和宿の旧浦和県庁舎が使われたことがはじまり。1871年(明治4年)11月14日埼玉県が発足(埼玉郡・足立郡・葛飾郡)。翌月、旧浦和県庁舎に埼玉県庁を置いたのです。
1992年(平成4年)11月14日 - 埼玉県の愛称として「彩の国」が採用となっています。
現在の県庁の第一庁舎は1955年にできた建物のようです。道理で本当に古いのです。
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写真真ん中の埼玉県庁のプレートにあるのが「県章」。埼玉県名の由来である「幸魂(さきみたま)」の「魂」は、「玉」の意味でもあり、まが玉は、埼玉県にゆかりの深いものとなっているため「まが玉」を円形に配置したデザインで、「太陽」「発展」「情熱」「力強さ」を表しているとのことでした。 県旗は県章を白地に赤く染め抜いたもので、昭和39年に制定したことも伺いました。
彩の国さいたまの「彩」は、いろどりや美しさを表す言葉で、四季折々の色彩豊かな自然に恵まれ、産業、文化、学術などさまざまな分野で発展する多彩な国を表しているのです
なんとこれは全国から寄せられた21,275点の中から県の愛称として決まったということでした。また埼玉県の花は桜草で浦和市田島ヶ原の自生地は、今も昔ながらの面影を残しており、国の特別天然記念物に指定されているのです。

さいたま市は埼玉県の南東部にあり、県庁所在地。 2001年5月浦和市と大宮市と与野市が合併して発足。 2003年4月全国で 13番目の政令指定都市へ移行したので西区、北区、大宮区、見沼区、中央区、桜区、浦和区、南区、緑区の9区が誕生、市役所は浦和区にあるのです。 2005年岩槻市を編入して岩槻区が誕生し合計10区となったのです。従来の業務核都市としての位置づけと相まって首都圏の一翼を担い,工業団地,商業施設,住宅の進出が著しいのです。文化・スポーツ施設,公園・緑地も整備され,彩の国さいたま芸術劇場,埼玉スタジアム 2002などは市外、県外から集客を見込んで作られたようです。荒川河川敷に国の特別天然記念物である田島ヶ原サクラソウ自生地、与野には国の天然記念物の大カヤがあります。国指定史跡として見沼通船堀もあります。市域南東部は安行武南県立自然公園です。鉄道は JR東北新幹線、上越新幹線、東北本線、宇都宮線、高崎線、川越線、埼京線、武蔵野線、京浜東北線、東武鉄道野田線、埼玉高速鉄道、埼玉新都市交通線が、そして道路は東北自動車道、国道 16号線、17号線、122号線、463号線が通り、首都圏と東北地方、上信越を結ぶ交通の要衝でもるのです。人口 は約126万人と膨らむ一方のようです。
ということで今回のこのウォーキングツアーではまずさいたま市の10区完歩を目指すのです。

浦和区。
江戸時代に中山道は江戸と京都を結ぶ重要な道路として整備されていました。浦和は日本橋から三番目の宿駅で、本陣や問屋があり、宿場町として繁栄したのです。1871年(明治4年)に埼玉県が出来、宿場町として栄えていた浦和宿は、県庁所在地となり、また明治22年に浦和町となり、行政・教育・文化の上でも県中心地となったのです。1923年(大正12年)の関東大震災では、地震の災害が少なかったこと、首都圏から20kmの至便性などから、住宅地としての評価が高まり、多くの文化人が移り住み、特に「鎌倉文士と浦和画家」といわれ、多くの芸術家が活躍したのです。2001年(平成13年)にさいたま市が誕生し、2003年(平成15年)さいたま市が政令指定都市へ移行し、浦和区ができたのです。

埼玉サッカー発祥の地碑.
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埼玉は静岡、広島と並びサッカーの御三家と言われ、その歴史は古く、今から約100年前の明治41年に、埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)教諭の細木志朗氏が蹴球部をつくったことにより始められ、埼玉師範から多くの指導者が県内の学校に教師として赴任したことにより普及・発展を遂げたのです。 現在のさいたま市役所は、その埼玉師範跡地に建っており、正に埼玉のサッカー発祥の地なのです。このため埼玉サッカーの歴史と伝統を末永く後世に伝えるため、埼玉師範が全国大会で初優勝を果たしてから60周年目の平成9年に当時、浦和市役所だったこの地に記念碑ができたのです。

浦中発祥碑。
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さいたま市役所の西 100m。合同庁舎の東隣りに“埼玉県知事公館の前に 2人の学生服を着た生徒と「ここに浦中ありき」という文字を刻んだ石碑です。 ここは 県立浦和高校の前身 (旧制)浦和中学校が開校した場所なのです。浦和高校の現在の校舎はこれより北に約1.5kmの北浦和駅そばの浦和区領家5丁目にあります。

常盤公園は、浦和区常盤の浦和警察署の東方面にある公園。園内には、子供用の遊具や砂場、トイレなどもあり、都会の中の憩いの場という感じ。
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園内にはもともと浦和地方裁判所があったので入口には名残の赤レンガ堀や、市指定の天然記念物となっているキャラの木があります。
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童話碑もありました。
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浦和宿二・七市跡。
中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていたようです。始まりはどうやら戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいるとも伺いました。市神と定杭を残す市場跡は貴重らしいです。
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さらに数分歩くと常盤公園へ行く道があり、入口に野菜を売る「農婦の像」と市場通り説明碑がありました。
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仲町公園・浦和本陣跡。
旧中山道沿いの仲町交差点そばの路地を入るとすぐ仲町公園です。中には説明板がありました。江戸時代、日本橋から数えて3番目の宿場として栄えた所で、本陣や脇本陣、旅籠、高札場、問屋場などがあったようです。また説明板隣には、明治天皇行幸の際に行在所になったことも記念した碑が建っています。
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浦和宿碑が浦和ロイヤルパインズホテルそばの旧中山道にありました。
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浦和の奈良漬といえば酒井甚四郎商店の浦和漬。こちらは明治初年創業。
須原屋は明治9年、旧中山道沿いの現在地で創業した書店。此処に来るとあらゆる分野のものがあります。
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今日は21℃、晴、微風の中、気持ちよいウォーキングができました。参加者18名、講師喜多見先生、TD伊藤さん。スタート10:00〜14:30でまずはこの第1回「さいたま彩発見ぶらり街あるき」は無理のない日程で終了しました。自分の活動量計では16000歩、約8kmでした。今後はまずさいたま市浦和区の後9区、その後埼玉県内の市をくまなくウォーキング予定、全部で40回となるとのことです。埼玉県は全国でも一番「市」が多いそうですから先が長いですがボチボチ参加しようと思っています。何しろ埼玉県民となって40年以上ですが県内をよく知らないので良い機会だと考えたのです。ではまた皆さま、次回も楽しみましょう。
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2019年05月12日

2019.5.6 鉢形城を尋ねて

東武東上線寄居駅南口⇒栄町商店会⇒平安会館⇒朝日生命⇒セブンイレブン寄居駅南店⇒正喜橋・荒川⇒笹曲輪(ささくるわ)⇒伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)⇒田山花袋碑⇒二の曲輪⇒城山稲荷神社⇒三の曲輪⇒復元四阿(ふくげんあずまや)⇒石組排水溝⇒復元石積土塁⇒復元四脚門⇒深沢川⇒鉢形城歴史館⇒東武東上線寄居駅南口

偶然パンフレットで見つけた鉢形城です。鉢形城は日本の100名城のひとつと分かり興味がわいたのです。なんと埼玉県寄居町にあるので近いことからGW最終日に出かけてみました。
事前の情報としの見どころは荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあるお城で曲輪が連なる連廓式の平山城で縄張りや巧緻さは際立っているとのことでした。これは小田原合戦の時の前田・上杉・真田・本多氏などとの籠城戦で実証されているようです。
最初の築城は1476年(文明8年)長尾景春、その後北条氏邦がかかわっているようです。
またこの城では「曲輪」という言葉が使われていますがどうやらこれは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称のようで「郭」とも書くのです。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門をはじめ、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられているとのことです。まずは城のことを知らない私ですから徐々に理解したいと思っています。

以下は本日の記録です。
自宅を9時過ぎにスタート。東武東上線でまずは森林公園駅まで、その後乗り換え小川町で再度乗り換え、ようやく寄居駅に到着。はじめて寄居駅にやってきました。結局、列車の待ち合わせもあり、ほぼ90分で到着。
寄居駅南口にはタクシー数台と観光案内所が目につくだけ。すぐに道路幅は広く一直線に荒川にかかる正喜橋を目指しました。
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正喜橋は、荒川を渡る主要地方道飯能寄居線の橋とのこと。
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この橋は昭和46年にできた鋼3径間連続箱桁橋というそうで橋長145.90m、幅員7.50m、歩行者専用もありました。橋からの眺めが素晴らしかったです。
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玉淀河原の上にかかるこの橋の上流側には、鉢形城趾が近接しており、周辺では毎年5月には「寄居北條祭り」、8月には「寄居玉淀水天宮祭」が開催されるとのことでした。一方、下流には、大正14年にかけられた上路式トラス橋「東武東上線荒川橋りょう」があるとのこと。正喜橋上流の風景では右側の河原が「玉淀河原」で北條祭りや水天宮祭の会場となる場所。正喜橋を渡るとすぐ鉢形城公園になり、笹曲輪がありました。
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鉢形城址を紹介するパネルと鉢形城ジオラマがありました。
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これを少し上から見ると葉っぱのような形で攻めにくくなっていました。
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伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)の上に本曲輪があり、鉢形城址の案内がありました。
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御殿があったのです。

すぐ傍から見下ろすと荒川があり、この城がすぐ崖の所にあったことがわかりました。
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向こう側が玉淀といわれるところのようです。

田山花袋碑。
本曲輪 には田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ漢詩の碑がありました。刻まれた文字は武者小路実篤によるものでした。
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二の曲輪には濠と畝、土塁がありました
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城山稲荷神社は二の曲輪の傍でした。
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鳥居前の参道には桜が並木になっていました。

空濠もありました。
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三の曲輪に入ると復元四阿(あずまや)があり、これは休憩所のようでした。
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石組排水溝
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復元石積土塁
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二の曲輪の復元四脚門。
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これは鉢形城址の今ではシンボルです。

これより下に下ると深沢川があり、どうやら水が涌いているようで清らかな流れでした。
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そしてようやく鉢形城歴史館に着きました。ボランテァガイドの酒巻さんには笹曲輪からここまで案内していただき、大助かりでした。
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ここは平成16年10月に鉢形城公園の開園と同時にオープンしたようです。鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史なども含め映像を駆使して紹介していました。

こうして正味2時間ほどの鉢形城の見学をしました。本日は埼玉の奥に来ましたので涼しいかと思いましたがどうも24℃ほどあったみたいで晴天とはいえ夏かと思いました。でも天候に恵まれ、こうして歩き回れたことは幸せなことです。今後は再度訪れて理解を深めたいと思っています。ボランテァガイドに感謝!!
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2019年05月06日

2019.5.4 国分寺駅周辺ウォーク

天気予報で日中は晴天と聞き、以前から見たいと思っていた殿ヶ谷戸庭園を中心にお出かけしました。

JR国分寺駅南口⇒殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)⇒野川不動橋⇒石橋供養塔⇒緑橋⇒お鷹の道⇒史跡の駅おたかカフェ⇒旧本多家住宅長屋門・おたかの道湧水園⇒こくべジ⇒武蔵国分寺跡史料館・武蔵国分寺跡⇒国分寺⇒万葉植物園⇒国分寺楼門⇒国分寺仁王門⇒国分寺薬師堂⇒七重塔跡⇒JR国分寺駅

JR国分寺駅構内に国分寺市観光案内所がありましたのでパンフレットをいただきつつ観光のヒントをいただきました。そして駅からすぐの殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)に立ち寄りました。GW中とはいえ、ほどほどの込み具合、おまけに入場料は無料でした。
殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したとのことです。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に1979年(昭和54年)から有料庭園として公開されているとのことでした。
旧本館は展示室。殿ヶ谷戸庭園に関する様々な資料を展示・公開している建物なのですが、昭和9年に建築されたこの建物こそが、そもそも岩崎家の別邸として使用されていたものなのでした。
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白い煙突の下は室内に暖炉がありました。
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紅葉亭(こうようてい)は数寄屋造り風の茶室で今でも茶会などに利用されているようです。
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紅葉亭はちょうど崖の上にあり次郎弁天池をはじめ庭園を眺めるにはとても良い位置にありました。
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次郎池傍には湧水の源がありました。
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次郎池に沿って散策すると孟宗竹が連なっている竹の小径に出ました。筍が沢山顔を出しており成長した竹は身についていた皮を衣を脱ぎ捨てる如くに落としている様を初めて見ました。
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藤・山百合、カタクリなど様々な花を季節ごとに見られるようでした。
特にカタクリは花が終わり種子をとるために袋をかぶせてあり、珍しかったです。
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野川不動橋の傍に石橋供養塔がありました。
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石橋供養塔は、天保三年(1831)に造立されたとのこと。前にある不動橋は以前は石橋だったようです。石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味を持っているとのことでした。庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれていること、不動明王碑には 「不動明王」と刻まれているとのことでこの石にちなみ現在の橋の名を不動橋としたようです。

お鷹の道。
野川は国分寺市に湧き出て、世田谷区で多摩川に注いでいる川です。江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたのにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけているのです。現在約350mが遊歩道として整備 されています。四季折々の散策路として人気があり沿道には「カラー」の花が多くみられました。
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史跡の駅おたカフェは、国分寺市が特定非営利活動法人めぐるまち国分寺に委託て 資料館・庭園のチケット販売、史跡地域の総合案内等を行う施設。休憩や懇談の場として、また、史跡地域の魅力を発信する場になっています。ここでは、NPO地域交流センターが指定する 全国まちの駅、地域住民や来訪者が求める地域情報を提供する機能を備え、人と人の出会いと 交流を促進する空間施設としての認証を得ているようです。
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おたかの道湧水園はお鷹の道の北側にあります。園内北側は国分寺崖線にかかり、崖線一帯には湧水源など良好で豊かな自然環境が残されています。ちょっと遠めですがこの奥の穴ぐらから湧水がでています。
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おたかの道湧水園入口には国分寺市内でも貴重な、本多家の歴史的建造物の長屋門(江戸時代後期)と倉(明治時代)が残っていました。
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長屋門を入るとすぐ武蔵国分寺七重塔推定復元模型がありました。
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武蔵国分寺跡史料館はおたかの道湧水園内にあり、国分寺村名主だった本多家の屋敷跡です。中には史跡武蔵国分寺跡を見る・学ぶ・訪ねるをコンセプトにした資料が展示されていました。
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こくべジとは長い年月をかけ土とともに育ってきた国分寺の地場野菜のこと。きっかけは江戸時代の新田開発があった300年間大事に育てられてきた野菜を使ったプロジェクト。うどん屋さんで国分寺野菜7種の天ぷら冷やしうどんをいただきました。野菜は長芋・人参・うど・蕗・カブ・新茶葉・玉ねぎでどれも新鮮でとっても美味しかったです。

奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じたとのことです。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きいとのことです。
金堂跡、講堂間の通路など土台部分などがわかるようになっていました。
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現在の国分寺。
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「国分寺 万葉植物園」は、昭和25年から38年にかけて、以前の国分寺住職だった星野亮勝氏が、日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」に詠まれている植物を収集、当時の日本文化や風習を後世に伝える事を目的で国分寺の境内に造園されたとのことです。すべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌、詠み人が記された札が建てられていました。8,019uの園内には万葉関連の植物が約160種、その他に各植物約700種が植えられておりました。
入口傍のジャケツイバラ(マメ科)が咲き誇っていました。
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国分寺楼門は門国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものとのことです。
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国分寺仁王門は国分寺境内にあり、宝暦年間(1751年〜1764年)に建てられた八脚門とのことです。
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使用している木材の一部は建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されているようです。またもとは萱葺の屋根で、現在は瓦葺の入母屋造。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(向かって右・口を開けている)吽(向かって左・口を閉じている)の仁王像がみえました。

国分寺薬師堂は医王山縁起によると、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたということです。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものとのことでした。
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建物は単層寄棟造で、昔は萱葺屋根だったのを昭和60年に銅板葺の屋根にしたようです。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置されているとのことでしたが暗くて中の様子はよく見えませんでした。

長屋門傍で見た七重塔の実際の跡地が金堂や講堂跡から東へ約200mのところにありました。
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本日は殿ヶ谷戸庭園の見物と思っていましたがパンフレットから旧国分寺や現在の国分寺も見られそうということで歩き回りました。AM10:00すぎから正味3時間、晴天のさわやかな陽射しの中、24℃、微風はウォーキング日和でした。またGW中でのんびり17000歩のウォーキングを楽しく過ごしました。花々は色々咲いておりその都度楽しみましたがお鷹の道のカラーとジャケツイバラがとても印象的でした。またこの辺りは国分寺崖線を辿るウォーキングも可能かもしれないと感じました。またしらべて挑戦したいと思います。
posted by yunofumi at 20:30| あちこちウォーク

2019年04月28日

2019.4.20 2巡目第1回 東京の新発見旅「杉並区」

JR荻窪駅東改札⇒仲通り商店街⇒クロダ薬局⇒杉並区薬剤師会⇒長屋門⇒西郊旅館⇒東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫⇒大田黒公園⇒荻外荘・荻外荘公園⇒角川庭園・幻戯山房・杉並詩歌館⇒CHALEUREUX OGIKUBO⇒共立女子学園研修センター⇒都立杉並高校⇒成宗五色弁財天⇒成宗須賀神社⇒天王橋⇒相生橋⇒杉二小前広場⇒尾崎橋⇒成宗白山神社⇒和田堀公園⇒大宮児童公園⇒高千穂大学⇒鶏の焼肉珠杏(昼食)⇒大宮八幡宮・若宮八幡神社・大宮稲荷神社⇒大宮八幡神社参道⇒馬塔観音⇒杉並区郷土博物館⇒源義家公鞍掛けの松⇒大圓寺⇒京王井の頭線永福町駅

4月13日に完歩した東京23区めぐりですが再度、参加して2巡目に挑むことにしました。理由は各区が広くまだ一部しか見ていないと思っているからです。多分同じ場所も伺うでしょうが年月が経ちまた違うことを感じ取れるかもしれないからです。
ということで本日は2巡目の第1回なのです。

10:00 JR荻窪駅東改札集合。参加者22名。案内人は信野先生、TDは伊谷さん。空は晴れ上がり昼頃には微風ながら19℃と絶好のコンディションの中のウォーキングでした。

長屋門は宮前5丁目、井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈されたようです。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804〜1829)頃。中央を通路、右手は土間の納屋、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納したようです。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式は高かったようです。
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西郊旅館(西郊ロッヂング、せいこうロッヂング)。
1938年(昭和13年)建築の洋風建築。、2001年(平成13年)の改修後は賃貸住宅となっているとのことです。また、西郊ロッヂングは当初は本館のみ、後に新館が増築された。現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業している。
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東京子ども図書館石井桃子記念かつら文庫。
かつら文庫は、地域の子どもたちが、くつろいで自由に本が読めるようにと願い、作家、翻訳家、編集者として活躍さした故石井桃子さん(1907〜2008)により1958年に開館。その後改修工事を行い、2014年4月より、おとなも利用いただける施設となったのです。石井桃子さんの書斎のほか、故渡辺茂男さんの蔵書を見られる公開書庫、エドワード・アーディゾーニ資料を収めた展示室、全国の子どもの読書推進グループの活動を紹介する「マップのへや」があります。
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大田黒公園は大田黒元雄さんの屋敷跡です。ご本人が亡くなられた後、一部を区立公園に整備して昭和56年開園とのこと。檜の門は総檜、切妻づくりで、屋根は棧瓦ぶき。左右に築地塀のあるどっしりした構えでした。
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門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびており、長さは70m。左右には樹齢100年を経た大イチョウの並木でした。
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園内には東屋・池・茶室や記念館がありゆっくり桜やつつじを楽しみました。
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荻外荘(てきがいそう)・荻外荘公園。
荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至るまでの期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。荻外荘の建物傍には行けなくて金網越しに見ました。
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庭園を含めて公園になっておりました。
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角川庭園・幻戯山房(杉並詩歌館)。
俳人で、角川書店創設者の角川源義(かどかわげんよし)の邸宅が区へ寄贈されその後改修し、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として区民に利用されているとのことです。庭は日本庭園でウメやサツキ、サルスベリなど四季折々の草木や花が楽しめるようです。
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幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は加倉井昭夫氏が設計した、近代数奇屋造りの建物。源義氏にちなんだ展示室と、句会などを催せる詩歌室や茶室の貸室として活用されているとのことです。

成宗五色弁財天。
昔、この辺りは成宗村といい、水神様のご加護を願って湧水池(弁天池)の傍に建立されたのです。ご神体は鎌倉時代に江の島弁財天で焚いた護摩の灰で作った素焼きの曼荼羅像とのこと。ここは水信仰の中心地で雨乞いのためにここにお参り後、弁天池の水を持ち帰ったそうです。鳥居前の石橋と水路は天保用水の名残でそばに板型の用水路記念碑がありました。
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成宗須賀神社は旧成宗村本村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊(すさのうのみこと)。社名は祭神が素盞嗚尊なので出雲の須賀社にちなんだようです。社殿は941年(天慶4年創建。その後1599年(慶長4年)再建と伝わっているが安政年間に記録を焼失し詳かではないようです。
江戸時代にはここは牛頭天王社と呼ばれていたようです。これは素盞嗚尊が牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えからと伺いました。明治維新後には成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和33年に社殿を新築し現在のようになったようです。
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成宗白山神社は旧成宗村字白幡の鎮守で、祭神は伊弉册命。『新編武蔵風土記稿』で地名の「白幡」について「往古人王七十代後冷泉院(在位1045〜1068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請し、その時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えているとのことです。
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和田堀公園(わだぼりこうえん)は、善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない、閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園。この辺りは地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史があるので氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地であったのを戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園。現在では武蔵野の自然が調和した公園となっているようです。
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大宮八幡宮(おおみや はちまんぐう)は、杉並区大宮にあり、明治時代以降は大宮八幡神社と呼ばれていたのが、1981年(昭和56年)に「大宮八幡宮」に改められたとのことです。もともとは源頼義により建立。武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は約15,000坪と都内でも3番目の広さ。子育て・安産に特に御利益がいわれている。東京のほぼ中央にあるので「東京のへそ」という異名もあるそうです。善福寺川に接し、かつて湧出していた御神水は「多摩乃大宮水」といわれたのです。現在は自然には湧出していないため、ポンプで汲み上げているとのことでした。
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この馬塔観音は昭和3年、陸軍将校が乗っていた名馬宮春号がここで足を骨折して急逝し、この供養塔が建立されたそうです。
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杉並区立郷土博物館は、1989年(平成元年)に、 都立和田堀公園の中に開館。杉並区には、およそ3万年前に人々が住み始めています。 郷土博物館では、このときから現在までの杉並の歴史、 人々の生活や文化について資料を集め、 調査・研究をし、わかったことを展示していました。また古民家もありこちらではお茶のお接待をいただきました。
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源義家公鞍掛けの松は大宮八幡宮の参道の脇にありました。義家が奥州征伐に向かう途中、ここで一休みしてこの松の枝に馬の鞍を架けたとの言い伝えがあるとのことです。
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大圓寺(大円寺、だいえんじ)は、杉並区和泉にある曹洞宗の寺院。山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。薩摩藩島津家の江戸での菩提所でもある。1603年(慶長8年)、徳川家康によって赤坂溜池(現在の東京都港区赤坂溜池町)に徳川家の香華院として建立。開山は諦厳桂察(武田信玄の弟)。この縁から飯野藩保科氏の菩提寺でもあるようです。この時に、旗本五井、松平、坂井、本多、土方の諸家を檀徒と定めたようです。 延宝元年(1673年)、薩摩藩(七十七万石)世子・島津綱久が江戸で没した時にその葬儀をこの寺で執り行い、以後薩摩藩の菩提寺ともなったのです。明治維新後の廃仏毀釈及び大檀越であった島津氏の神道改宗に伴い、以後庇護を失い衰微し1906年(、明治41年)に現在地に移転。現在も西郷隆盛の娘・菊子など鹿児島県出身明治維新関係者の墓が多く築かれているとのことです。
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明治元年戊辰の役戦死者没者の墓
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本日は晴天でしたから歩程約11kmをAM10:00〜PM15:00で気持ちよくウォーキングしました。ほとんどは一巡目の時と同じでしたが講師が違うことと2年ほどの時間経過があるので改めて見聞を広めた感じでした。
今後も2巡目の都内をそれなりに新発見を期待しながら参加していくことにいたします。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク