2022年11月11日

2022.11.6. 第45回スリーデーマーチ3日目【五領沼・湧水ルート】

朝から快晴!絶好のウォーキング日和の中を出発。今日もゆるキャラがお見送りです。
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スタート(東松山市役所広場)⇒松山幼稚園⇒八幡神社⇒箭弓稲荷神社⇒東松山箭弓郵便局⇒幸町⇒桜山歩道橋⇒ビバモール⇒五領沼公園⇒五領湧水⇒新明小学校⇒松本町1丁目緑地⇒東松山市立図書館⇒下沼公園⇒市役所⇒ゴール
19℃晴天。実質6.3km、スタート10:30、ゴール12:50。

五領沼公園はとてもきれいで思わず休憩して風景をたのしみました。
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五領湧水は本当に澄み切った水で、鯉たちが悠然と泳いでいました。
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途中、カリンでしょうか。見事な実りでした。
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いよいよゴール近くではパレードに出会いました。
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パレードのしんがりに第一生命グループ、武蔵野銀行、埼玉りそな銀行など、各々200名ほど参加でした。
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もちらんお囃子も賑やかに参加していました。
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駅前に戻るとウォーキングの街らしく「楽しみながら歩けば 風の色が見えてくる」の像に出会いました。IMG_7036no2.JPG

こうして3日間を楽しく過ごせて大満足!しかしこのコロナ禍での鍛錬が足りなかったことも実感。また明日からウォーキングに精出すことにいたします。お土産と記念品はありがたくいただきました。
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これにてようやく連続8年間参加が達成できました。
posted by yunofumi at 10:49| あちこちウォーク

2022年11月10日

2022.11.5 第45回スリーデーマーチ2日目【百穴ルート】

今朝は薄曇りながら午後には晴れるとのことで気分よくスタートしました。

スタート(東松山市役所広場)⇒松山幼稚園⇒八幡神社⇒家具インテリア岡本⇒嶋屋造り酒屋⇒上沼公園⇒西友⇒砂田第1公園⇒砂田第2公園⇒カフェレストランプランタン⇒市の川橋⇒岩室観音⇒吉見百穴⇒滑川・吉見百穴桜堤・東松山ペットメモリアルパーク⇒シャロム病院⇒不動橋⇒菅原神社⇒小松原公園⇒石井ペインクリニック⇒松山神社・大鳥神社・浅間神社⇒レンガの小道⇒市役所⇒ゴール
気温17℃、薄曇〜晴で実質6.9km、スタート10:30、ゴール13:10

今朝も早くから皆さんが元気!
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街中のマンホールがカラフルでした。
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東松山はボタン園が有名なのです。

こちたら有名な鏡山のお店。
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上沼公園は一面紅葉できれいでした。
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季節の花が優しく咲いていました。
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松山城址は岩室観音の奥なので行きませんでした。
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吉見百穴には219個の穴があるのです。
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途中、セブンイレブンで青空を見上げて休憩しました。
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レンガの小道はちょっとした路地で風情がありました。
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市役所に近づくにつれ、もうお祭り騒ぎでよさこいおどりや太鼓の演奏がありました。
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地元の上福岡では中央公園の紅葉や花々がきれいでした。
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本日は実質6.9km。でもことのほか疲れました。まずは鍛錬が不足だったようです。懲りずに明日も頑張ります。

2日目参加者:5km(1326名)、10km(10751名)、20km(3480名)、30km(1035名)、40km(123名)、50km(356名)、合計17071名と翌日に発表されていました。
posted by yunofumi at 17:38| あちこちウォーク

2022年11月09日

2022.11.4. 第45回スリーデーマーチ1日目【箭弓稲荷神社ルート】

去年までの2年間コロナ禍で中止になっていた3日間のウォーキング大会です。今年は事前予約のみという形で制限された大会でしたが、まずはお天気に恵まれて気持ち良く参加いたしました。
コロナ禍でウォーキングが不足がちでしたので、今年は体調のことも考え初日は箭弓稲荷神社ルートに参加しました。

スタート(東松山市役所広場)⇒第一小学校⇒県立松山高等学校⇒椿地蔵⇒第2なかよし保育園⇒東松山市民体育館⇒BOSCH駐車場⇒BOSCH工場⇒箭弓稲荷神社⇒文化通り歩道橋⇒東松山市役所⇒ゴール

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5kmコースは「まつやまさんぽ」と称し、どなたでも参加しやすいように作られていました。本日のウォーキングの実際の距離は5.4km。私のスタート10:30、ゆったりウォーキングでゴール12:00。途中、花々や紅葉を楽しみ余裕でした。
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BOSCHの傍では子供さんの絵画が張り出されており、楽しく見ました。
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ゴールに近づくにつれすべてのコースの方々が来ますので一大混雑!
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本日、気温は2℃、薄曇り、ウォーキングにはちょうど良かった。また明日もがんばります。

今日の参加者、5km(403名)、10km(12557名)、20km(1506名)、30km(622名)、
40km(109名)、50km(329名)合計15526名と翌日に発表されていました。
posted by yunofumi at 19:28| あちこちウォーク

2022年10月23日

2022.10.21 再び本庄市へ

5日前に本庄市の街歩き終え帰宅後、本庄市の成り立ちをきちんと見たところ、台地にある本庄市内とちがい、以前児玉郡だった所に多く古墳があることも知りました。また児玉地域はかの有名な国学者塙保己一さんの出身地ともわかり、児玉地区を中心に再度の本庄市訪問をすることにしました。

自宅⇒三芳PA〜関越自動車道〜本庄・児玉SA〜本庄市児玉総合支所・塙保己一記念館⇒雉岡城跡⇒競進社模範蚕室⇒菓子司・梅月堂⇒實相寺⇒本庄市児玉総合支所〜塙保己一旧宅〜本庄市観光農業センター・成身院百体観音堂〜そばうどんまつだ〜早稲田の杜ミュージアム〜本庄児玉PA〜自宅

まず自宅から三芳PAで関越自動車道に乗り本庄・児玉SAで下に降り、本庄市児玉総合支所までナビで62km、約1時間と出ましたので、それなりに心の準備をして愛車でスタート。何の問題もなく無事到着。前日に本庄市児玉総合支所に予約を入れていたので可愛い職員さんが私の立てたプランを点検してくださり、大助かり。
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本庄市児玉総合支所の隣に塙保己一記念館がありました。
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東京渋谷辺りのウォーキングですでに塙保己一先生の温故学会のことを知っていたので、記念館では最終的に生い立ちも含め知識の確認ができました。
塙保己一は江戸時代の延享(えんきょう)3年(1746年)から文政(ぶんせい)4年(1821年)まで生きた方。盲目なのに大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊の集積、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。
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ヘレン・ケラーが1937年(昭和12年)に来日し、「群書類従」の版木や塙保己一の小さなブロンズ像に触れた話は有名です。

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雉岡城(きじがおかじょう)、別名八幡山城(はちまんやまじょう)
山内上杉家によって児玉郡八幡山の独立丘陵に築かれた城ではあるが、鎌倉時代には武士が居住していたと考えられており、城としての形態に整備されたのが室町時代末期(戦国時代初期)とされる15世紀後半に築かれたと言う事になるのです。
150年近い歴史をもち、最終的には松平家1万石の城となり、八幡山藩が立藩するものの、江戸時代をむかえる前に廃城となった。
今、雉岡城跡(城山公園)には300本のソメイヨシノが植えられており桜の名所として知られているようです。

競進社模範蚕室
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元々、木村久蔵が設立した養蚕を目的とした競進社を、より大規模にするためにできたのが競進社模範蚕室。1884年(明治7年)には養蚕の改良と伝習の為に組織化を進め、競進社となって養蚕の指導、指導者の育成活躍したのです。建物などは当時としてはとても立派でした。
蚕棚
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養蚕道具
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菓子司・梅月堂
目まで楽しませてくれる斬新な創作菓子でも知られる明治30年創業の老舗菓子店。 昔からの最中や饅頭のほか、洋生菓子のコーナーもあり創作菓子もあるようでした。

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實相寺(じっそうじ)は児玉三十三霊場五番札所。総検校塙保己一先生菩提寺。為大願成就。御両親の追善供養ローソク立て現存。県指定文化財、鎌倉中期の阿弥陀三尊像。庭に樹齢100年のしだれ桜があるので春は見事とのことです。

塙保己一旧宅
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盲目の国学者、塙保己一は1746年5月5日、児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳で失明し、15歳で江戸に出て修行を積み総検校という最高位に登りつめました。この児玉町保木野にある保己一の生まれた入母屋造りの茅葺き二階建ての生家は、国の史跡になっているようです。
記念館に保己一のお宅の家系図がありましたがまだ子孫がはっきりして、そしてそのお宅にそのまま住んでおられるなんて、びっくりですね。

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本庄市観光農業センターは児玉町小平にある観光施設。春には桜や山ツツジ、夏には紫陽花(あじさい)、秋は紅葉、冬にはロウバイが咲き、自然を感じながら、里山の豊かさを楽しめるようです。ここで日本三大さざえ堂のひとつ『成身院百体観音堂』の拝観受付を行っていました。私も見せていただきました。

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成身院百体観音堂は会津若松の旧正宗寺三匝堂、群馬県太田市の曹源寺とならび、日本三大さざえ堂として知られています。
天明3年(1783)におきた信州浅間山の大噴火の犠牲者を弔うために建立されました。外観2層、内部3層で回廊式になっている珍しい建築様式です。1層は秩父三十四観音、2層は坂東三十三観音、3層は西国三十三観音が安置されています。市の指定文化財になっています。
観音堂の正面には、同じく市指定文化財となっている大鰐口があります。直径180p、厚さ60p、重さ750sもの大きさです。桜の時期がおすすめです。お堂の周囲を桜が囲み、美しい光景です。

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昼食は通りすがりで「そばうどんまつだ」でいただきました。
これがなかなか美味しかったのですが、びっくりするほど大盛り。そういえば先日にファームキッチンもえらく大盛りでした。ひょうっとすると本庄は大盛の街かも、、、。

早稲田の杜ミュージアム。
先日は1階の展示室のみ見学でした。こちらの埴輪の世界は実に面白かったので再度、じっくり見た後、2階の特別展「久下東・久下前遺跡展」、その後早稲田大学展示室もじっくり見られました。本来“昔”に興味がない私ですが今回はさすがに少々感嘆しました。
はにぽんの元になった埴輪
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大きな炮烙(ほうらく)
中ほどに文字が見えました
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お土産に梅月堂のお菓子と本庄早稲田の杜ミュージアムで記念の「はにぽん」をゲット。
ちょっとした遊び心でした。そして本日は晴天、気温22℃、ドライブは160km、ウォーキングは1万歩でしたからまずまずの1日となりました。ということで本庄市はこれで卒業といたします。
posted by yunofumi at 17:50| あちこちウォーク

2022年10月22日

2022.10.16さいたま新発見 ぶらり街あるき 本庄市

2022.10.16さいたま新発見 ぶらり街あるき 本庄市
本日は「雨はなし」との予報で意気揚々と自宅を出発。しかし上福岡〜川越が東武東上線、川越〜大宮がJR川越線。大宮〜本庄が高崎線、ということでほぼ2時間を要しました。そしてようやく22名で10:00本庄駅をスタートしました。

JR本庄駅⇒本庄駅北口信号⇒本町三交商店街⇒城立寺⇒バレガルニエ⇒旧本庄仲町郵便局跡⇒仲町愛宕神社⇒仲町会館・あたご山小公園⇒開善寺通り⇒開善寺⇒うなぎ藤井⇒寺坂橋⇒賀美橋⇒若泉第一公園⇒阿夫利天神社⇒普寛霊場⇒安養院⇒御菓子司せきね⇒田村本陣の門⇒旧本庄警察署⇒旧本庄商業銀行煉瓦倉庫⇒はにぽんプラザ⇒本庄のチンチン電車⇒ハナファームキッチン(昼食)⇒本庄早稲田ミュージアム⇒マリーゴールドの丘公園⇒本庄早稲田駅

JR本庄駅は1883年開業。駅に着くとアナウンスが「ほんじょう」と一本調子。実はこれって「根性」と発音するイントネーションではなく「温情」のイントネーションが正しいとのこと。地元愛にびっくりでした。
本庄は江戸から数えて10番目の「本庄宿」、中山道では最大の宿場だったそうで、皇女和宮が降嫁の際に田村本陣に宿泊されたとのことです。
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改札前には本庄市を盛り上げた有名人をはじめ色々な花々や名所が描かれた額がありました。人としては普寛上人、塙保己一、木村九蔵などが見られました。

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城立寺(じょうりゅうじ)は日蓮宗系の寺院。正式には鉢形山浄眼院。普寛霊場とともに武州本庄七福神めぐりの大黒尊天が祀られているとのことでした。

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黒木メイサさん主演の「昴−スバル」という映画で使われたのがこのバレガルニエ。
宮本すばる(黒木メイサ)がバレエと出会い のめり込んでゆく場末の小劇場「パレ・ガルニエ」が正にここ「寿ホール」だそうです。

旧本庄仲町郵便局は昭和9年に建築されたアールデコ調の装飾がされていた局舎で今は国登録有形文化財に登録されているとのことでした。ちょっとほったらかしという感じで、もう少し何とかしてもらいたい!せめて「旧本庄仲町郵便局」の案内板が欲しい!

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仲町愛宕神社。
古墳を利用して建立された愛宕神社の小さな社殿の石段脇にはご神木のケヤキの大木がありました。南北の二本立ちとなっており、いずれも目通りは4mを超え、根回りも迫力があるようです。神社の御神木となっている他、本庄市の天然記念物に指定されているとのことです。

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開善寺(かいぜんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。武州本庄七福神めぐりの布袋尊が祀られているとのこと。1591年(天正19年)、小笠原信嶺が開基。信嶺は前年に主君の徳川家康より本庄領1万石を封ぜられ、信嶺自身の菩提寺として創建したのがこちらとのこと。寺号の「開善寺」は、父の信貴が再興した開善寺(長野県飯田市)に由来するようです。小笠原氏はその後も転封を繰り返し、最終的に越前国勝山藩に落ち着き、勝山にも開善寺を創建しているとのことでした。
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小笠原掃部太夫信嶺公夫妻墓は古墳の上に築かれているようです。小笠原信嶺は旧武田氏配下の徳川氏の家臣で、天正18年豊臣氏の関東攻めにより本庄氏滅亡後本庄城を賜り、本庄領1万石を領しました。天正19年に開基となって開善寺を建立したのです。

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本庄かるたは市制30年を記念して1984年にできたようで92枚はあるようです。今日は訪れた寺院でよく石碑になっているのを見かけました。

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寺坂橋は伊勢崎と本庄を結ぶ旧伊勢崎道に建設され、元小山川に架かっている橋。橋長7.6m、幅員3.3mで、ライズ比約1/5の扁平なアーチからなる石造単アーチ橋。現在使われている石造アーチ橋としては埼玉の橋で 最古の橋だそうです。

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賀美橋は伊勢崎と本庄を結ぶ伊勢崎振動に建設され、元小山川に架る、橋長6.3m、幅院9.0mの鉄筋コンクリート造単桁橋。高欄に白タイル貼の連続アーチをあしらい、親柱の各面に三角ペディメントを表すなど、装飾的に凝ったつくりとなっているのです。

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若泉第一公園は桜の名所で市民の憩いの公園。約100本の桜がありそうです。

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阿夫利天神社(あふりてんじんじゃ)は山の神、雨乞いの神、天神社は火雷天神の神で、合社したので阿夫利天神社といわれています。また、9月には水を恵む神様に御神酒をあげ感謝する「御神酒あげ神事」が行なわれるということです。

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普寛霊場には木曽御嶽山開闢祖・普寛上人の墓があります。普寛上人は、木曽御嶽表山道王滝口開山の密教行者で数々の奇跡に恵まれた人物です。武州本庄七福神めぐりの一つで大黒尊天が祭られています。

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安養院山門は江戸中期の1702年建立。本庄市指定有形文化財です。屋根のてっぺんの鬼瓦がすごい迫力でした。
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安養院(あんよういん)は、曹洞宗の寺院。山号は若泉山。寺号は無量寺。本尊は阿弥陀如来。武州本庄七福神めぐりの毘沙門天が祀られています。この寺は、室町時代中期の1475年(文明7年)本庄信明の開基により兄行重(入道して伊安)が結んだ庵を上州沼田から招いた玉岑慶珠が開山となって寺としたのに始まるということです。戦国時代には本庄氏の衰退とともにこの寺も荒廃し、その後、泰山が入寺して中興されたようです。本堂は江戸後期の1790年建立とのことでした。

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御菓子司せきね。
大正5年創業以来地元に因んだ菓子づくりに専念。看板商品の武州栗羊羹は上皇后両陛下に召し上がって頂き、全国菓子博に於いて内閣総理大臣賞を受賞。他に普寛最中、ほんじょうそだち、はにぽんわっふる(3種類)等も販売しているようです。

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田村本陣は本庄宿の北本陣と呼ばれていたとのこと。1642年(寛永19年)より記録が残されており、同家の古さが偲ばれます。市の文化財に指定されており、現在、門が旧本庄警察署の前に移築されていました。

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旧本庄警察署は、1883年(明治16年)に建築されたコリント式西洋建築。2階のベランダにはアカンサスの葉を彫刻した柱が並び、半円窓や天井の灯火掛けのレリーフなど、随所に明治期の洋風建築の特徴が見られました。
警察署が移転した後は、本庄消防団本部、簡易警察署、区検察庁、本庄公民館、図書館として様々に利用された後の1972年(昭和47年)に県指定有形文化財に指定。昭和54年から翌年にかけて解体・復元修理。現在は県指定有形文化財の旧本庄警察署として、大切に保存されています。

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旧本庄商業銀行煉瓦倉庫(本庄レンガ倉庫)。
120年以上前に建てられ、かつて本庄の絹産業と経済を支えた旧本庄商業銀行煉瓦倉庫が、約2年間の耐震補強工事を終え、平成29年4月1日から交流施設として新たに生まれ変わったのです。 1階が交流・展示スペース、2階が多目的ホールになり、赤煉瓦の壁や木組み(キングポストトラス)の美しさ、その歩んできた歴史を感じながら、人と人、人と歴史が触れ合う施設となっています。

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はにぽんプラザ、正式には本庄市市民活動交流センター。様々な市民活動に使われているようです。
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お祭りの山車の展示があるので見に来ました。ゆるキャラ「はにぽん」もいました。

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本庄のチンチン電車の案内板には大正4年から昭和5年まで本庄・児玉間7.1km走っていた路面電車のこと。この場所は正式には本庄電気軌道線七軒町停車場の跡地。電車の速度は時速22kほどで自転車並みだったようで、片道25分かかったようです。

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ハナファームキッチンではサスティナブルをテーマに、今よりもっと豊かで楽しい食生活をご提案しているとのこと。野菜を最も美味しく食べる方法は、新鮮で美味しい野菜を仕入れる事、その素材が持つ力を知る事、そして、その素材が活きるシンプルな方法で料理する事。農業と真剣に向き合い、最も良い方法を考え続けており、多く人々に喜んでもらえるワクワクするレストランを作りたいとのことでした。
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山盛り野菜の美味しいこと!!堪能しました。

塙保己一像「旅立ちの朝」が本庄早稲田駅前にありました。
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塙保己一は江戸時代後期に活躍した全盲の方で、7歳の時、病気で失明。15歳で江戸に出て、学問の道に進んだ国学者。多くの困難の中、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版。48歳で、「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うしたのです。本庄市内に記念館、東京渋谷に温故学会があり膨大なすべての資料があったと思います。

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本庄早稲田の杜ミュージアムは本庄市と早稲田大学が共同で開設しているミュージアム。本庄早稲田駅ができる頃に様々な歴史的な考古学の資料が発掘され2020年にオープンし、ここで展示なども行われているのです。「盾持ち人物埴輪」などびっくりするくらいの発掘品の数々でした。
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マリーゴールドの丘公園には11000株のマリーゴールドが咲き誇っていました。この小高い丘からは晴れていれば男体山や浅間山などが見えるとのことでした。

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本庄早稲田駅があるのは、新幹線で言えば熊谷駅と高崎駅のちょうど中間くらい。駅名に本庄と付くからには、埼玉県本庄市の駅であることはわかりますが、早稲田とは?駅のある住所も本庄市早稲田の杜だということでした。 本庄早稲田駅は新幹線しか通っていないため、新幹線「あさま」や「たにがわ」に乗って目指すことになります。停車する列車の数が少なく本庄早稲田駅に停車する新幹線は日中おおよそ毎時1本。「あさま」は東京駅から約45分で本庄早稲田駅に到着です。南口には早稲田リサーチパークがあるとのこと。また 1日乗降客は約2200人。本庄早稲田駅の開業は2004年3月13日。地元本庄市と早稲田大学が建設費などのコストを負担したようです。駅の周りには早稲田大学のほか、北口は、広々としたロータリーの先にベイシアゲート本庄早稲田、蔦屋書店やホームセンターのカインズもありました。そうそうカインズの本社が本庄早稲田の駅前にありました。本庄駅まで2kmをつなぐのは「はにぽんバス」というシャトルバスが走っていました。

本日は曇り空ながらウォーキングには楽な日和でした。本庄市の街並みはのんびりした感じで歩きやすかったです。喜多見先生、TD巣田さんと共に22名は完歩。私は帰宅して約2万歩は上出来でした。
本庄市街中のマンホールは2つ目に付きました。
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そして途中で11月2〜3日の本庄まつりの準備をされている山車に出会い、ちょっと得した気分でお話も伺いました。
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本日の埼玉の逸品は「はにわ煎餅」。お土産がこれだけではさみしいので本庄駅で追加としてせきねさんのお菓子も購入。ということで本日はこれにて終了!
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そして帰宅途中で塙保己一さんの旧宅などがある児玉地区は全く見てないなあ、と気づいたのでまた伺うことにしたいと思いました。
ではまた皆様、次回も元気でお会いしましょう。
posted by yunofumi at 21:58| あちこちウォーク

2022年09月28日

2022.9.27 三度目の日高市へ

今朝から晴天、そこで三度目の日高市を訪問。前回までの不足分を補うため車でお出かけです。
自宅⇒聖天院⇒あぐれっしゅ日高中央⇒栗こま娘本舗亀屋⇒自宅

帰ってみれば片道25kmは巾着田あたりで少し渋滞でしたが、まずまずの行程で進みました。

聖天院の雷門と将軍標の位置がはっきりわかりました。
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馬頭観音は雷門そばにありました。
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中門では拝観料をおさめ、御朱印をいただきました。
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庭園は池と庫裏を一緒に眺めるとなかなか風情がありました。
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白い曼殊沙華を見つけました。どうやら普通の赤い曼殊沙華と黄色の曼殊沙華の掛け合わせで白いのができるそうです。
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ネットで曼殊沙華の色で検索してみると実に様々な色がありとても驚きました。

書院を見るためにぐるりとまわると雪山(石灰岩)がありました。
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阿弥陀堂では扉も開いており阿弥陀様を見ることが出来ました。
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101段の石段をのぼると仁王尊の全身が見られました。
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本堂は仏像も多く、中もきらびやかでした。
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鐘堂は新しくなったようです。
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鐘堂のそばに高麗王若光像がありました。
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こうして聖天院はほぼ納得できたので、下山しました。

あぐれっしゅ日高中央。
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こちらは地元JAの農産物直売場。地元の特産品が所狭しと並んでいました。ちなみに大粒の日高マロン、新高梨、里芋、ぶどうをゲット!大満足!!
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JAのお隣には豆腐厨房があり、ざる蕎麦と豆腐セットをいただきました。
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栗こま娘本舗亀屋は日高市市役所そばにありました。かなり大きなお店でどれも大粒栗が入っていそうな和菓子が多く、気分良く買い込みました。
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元来、私は執着心がない性格と自分では思っていたのですが、ここのところの日高市訪問に限って考えると、納得できるまで執着するみたい!気づきました!まあ年を重ねてこうなったかも!と、、、。。ということで日高市訪問は納得!また明日から日々楽しく過ごします。
posted by yunofumi at 14:18| あちこちウォーク

2022年09月25日

2022.9.22 さいたま新発見 ぶらり街あるき 日高市

この日高市ウォーキングの参加は実は2回目。1回目は4日前でした。
1回目の日、何しろ台風の影響で大雨。久しぶりのウォーキングでしたがちょっと天候の予測を見誤り装備が不足。おかげで食事処に着いた時には“ずぶぬれ”でこのままでは風邪をひくと思いました。コロナ禍で風邪をひいたり、発熱はマズイ!ということで食後、皆さんと別れて帰路についた次第です。
そして本日の空模様は曇り!雨は避けられそう!実は高麗氏の歴史などを見分したかったので再度の申込での参加でした。

本日10:00集合の西武池袋線高麗駅⇒高麗村石器時代住居跡⇒高札場跡⇒水天の碑⇒巾着田曼殊沙華公園⇒あいあい橋⇒鹿台橋⇒ドレミファ橋⇒中島照光先生顕彰碑⇒高麗郷民族資料館⇒高麗川遊歩道⇒和食処芳月⇒聖天院・高麗王廟⇒高麗神社・高麗家住宅⇒JR八高線高麗川駅

西武池袋線高麗駅(こまえき)は1929年(昭和4年)に開業したようです。普段は約2000人の利用客のようですがこの時期、曼殊沙華が咲くので近くの巾着田曼殊沙華公園への見物でとても賑わうようです。本日駅前広場には、高麗神社にちなみ、「天下大将軍」「地下女将軍」と表記された、朝鮮半島の道祖神「将軍標」が建てられていました。これは「チャンスン(将軍標)といわれ韓国では村の入り口や道端に魔除けや道しるべとして置かれているとのことです。
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駅前広場にはまた「渡来人の里高麗」の説明案内板がありました。
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案内板によるとこの辺りは668年に高句麗から来た多くの人々がいて、716年に設置されたのが武蔵国高麗郡高麗郷の地。当時の高麗郡大領に任命された、朝鮮半島の高句麗の王族「高麗王若光」や多くの高句麗人が渡来してきたとのこと。この方々の子孫などがこの地に現在まで住み、その足跡が聖天院や高麗神社としてこの地に根付いているようです。

高麗村石器時代住居跡(こまむらせっきじだいじゅうきょあと)
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1929年(昭和4年)に埼玉県内で初めて縄文時代の竪穴式住居跡を発掘調査した遺跡です。

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水天の碑は、旱魃(かんばつ)の被害を受けやすかった台村の地で、天明の飢饉(1781-1789・浅間山の噴火)に続いて天保の飢饉(1830-1844)に見舞われ、台村の人々が天災や水難事故を鎮めるために建立したとのことです。

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巾着田の殊沙華を見る手前にある高麗本郷付近を流れる高麗川にかかる鹿台橋(ろくだいばし)は、県道15号川越日高線が通っていました。

巾着田曼殊沙華公園(きんちゃくだまんじゅしゃげこうえん)。
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高麗川が蛇行(だこう)した形が「巾着(きんちゃく)」の形に似ているところから「巾着田(きんちゃくだ)」なのです。昭和40年代にこの地の用地を日高町が買取り、藪や竹林、葦(あし)におおわれていた地を整備したところ9月頃には一斉に曼殊沙華が咲き始めたようです。どうやら高麗川の増水などで漂着した球根などが根付き、今では500万本が赤い絨毯を敷き詰めたように咲き誇るのです。本日はほぼ満開で見事な風景が広がっていました。
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これはドレミファ橋。平成22年設置の木橋。巾着田から高麗丘陵ハイキングコースに向かう橋で桁がかかっておらず、橋脚をぴょんぴょんと飛び越えて渡っていたことから「ドレミファ」と歌いながら渡ったということで「ドレミファ橋」となったようです。本日は通行禁止でした。

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曼殊沙華の咲き誇る有料地域を出るとすぐのあいあい橋は平成8年に設置された木製トラス橋。橋長は91.20mで日本最長級の木製トラス橋で、周辺の緑と調和した巾着田の観光シンボルとなっているようです。

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あいあい橋のすぐそば、高麗川の川岸そばに中島照光先生顕彰碑がありました。この先生は高麗川の流れを利用して地元の子供たちに「水泳を教育として」教えた方だそうです。

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高麗郷民族資料館は旧石器時代からこの地に住み始めた先人の農業、漁業、林業などの用具なども展示していました。特に養蚕、お茶、稲作、畑作などが盛んだったようです。特に製茶機の研究を重ねた高林謙三の紹介や大きな花火筒が目を引きました。

埼玉県では、平成24年度から、市町村のまちづくりと一体となり、一つの川の上流から下流までをまるごと再生する「川のまるごと再生プロジェクト」を推進しているとのことです。そこで日高市が誇る清流、高麗川の河川沿いの葦や竹をきれいにし、水辺に近づける遊歩道を整備し、高麗川とふれあいながら、日頃のお散歩や健康づくりに利用できる高麗川遊歩道がのどかに続いていました。

隠家のような和食処芳月でミニ会石ランチの昼食でした。特に鯛の蒸し焼きは初めてでとても美味しかったです。
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ご夫婦で切り盛りされているとのことでしたが、きめ細かく手が込んでおりとても美味しかったです。

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聖天院(しょうでんいん)。
創建751年、高麗王若光の子、聖雲(しょううん)と孫、弘仁(こうにん)が、王の侍念僧であった勝楽の冥福を祈り建立したとのこと。勝楽はもともと若光の冥福を祈り、菩薩を弔うためにこの寺の草創を思い立ちました。しかし志なかばで没したため、聖雲と弘仁がこの意思を引き継いだといわれています。いわば若光の菩提寺といえます。

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これは高麗王廟。5個の砂岩を重ねた多重塔で下部に四仏が刻まれていたとのことですが今はわからないとのこと。鎌倉期以前の建立でしたが境内が後方に移動したので山門右手になったようです。昭和46年に周囲を修復し現在の様子になったとのことでした。

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これは雷門(風神雷神門)。瓦葺総欅木造二層楼閣、大きさ建築様式共に近郷稀にみる優美さと重厚さを備えた建造物。天保初年~3年に完成、棟梁は北足立郡立村立川氏と小瀬戸安藤直蔵氏とのこと。楼閣二階の山号額は江戸の住人中村入道景蓮の書。天上画は龍、鳳凰共に江戸の画師南沢。門左右に風神、雷神を祀り、階上に大日如来、七観音、十六羅漢が配祀されているとのことでした。

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山水を取り入れ山の傾斜を利用した庭園。本来東側にある書院・茶室より望むように設計されたようです。改修で池と庭を広げ植栽と庭石の配置を工夫して、中門をくぐった南側正面からと、本堂前舞台より見下ろす北側の三方より楽しむことができるようになっているとのことでした。

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阿弥陀堂は足利時代の国宝的建築と稲村担元氏によって証明されている当山最古の木造建築。寺記に「宝永年間高岡村金子六左衛門為父母菩提再建之」とあるとのこと。本尊は阿弥陀如来三尊(行基作)、左手に武蔵野観音霊場本尊聖観音、他に十王尊を祀っているとのことです。

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阿弥陀堂横から101段上がると仁王様がお出迎えです。

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本堂は平成12年、京都神護寺をモデルにしており、平茂寺立川流宮大工九代目石川吉登渾身の作、総欅造り・三手先出組とし軒先の出二軒半・内陣には最大直径2尺3寸の大柱を用い、古式に則り造営された百余坪の重厚な伽藍。本尊に不動明王を祀り大日如来、釈迦如来、地蔵菩薩、愛染明王、観音・勢至菩薩を配祀、堂内左手に若光守護仏聖天尊が祀られているとのこと。本堂前からの眺望はすばらしく、高麗郷を一望、遠く東方には埼玉新都心のビル群、南西方に丹沢・奥多摩の山並み富士山も見える眺めのようでした。

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鐘楼は完成したばかりのようでした。希望すれば鐘もつけるようでした。

雪山(石灰岩)は本堂造成時に出現した石灰岩の大塊。釈尊の前世譚「雪山童子」にちなみ名付く。7月には岩肌をはうノウゼンカズラの花が美しいとのことでした。

在日韓民族慰霊塔は終戦前36年間に亡くなった在日韓民族無縁仏の慰霊・供養を願い、尹炳道氏が私財を投じ造成建立。基壇を合わせ高さ16mの石塔は日本最大級、下部に納骨室を備えているようです。塔の周りには朝鮮様式の八角亭、檀君、広開土大王、王仁博士など韓民族の偉人の石像が並び、異国情緒豊かな霊域となっているとのことでした。

聖天院のお宝は鐘楼や不動明王座像等たくさんあるようですが普段は見られないようです。また本堂横の雪山(石灰岩)在日韓民族慰霊碑などもあるとのことでしたがこの二つは見損ないました。境内は自然豊かで春の桜に始まり、つつじ、そして秋の紅葉は見ごたえがありそうです。ということからまた後日機会があれば伺いたいものです。

次は高麗神社(こまじんじゃ)。716年(霊亀2年)武蔵国に1799人の高麗人が入植して未開の原野を開墾。大和朝廷はこの戸を「高麗郡」と名付け高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)を首長としたのです。高麗とはかって朝鮮半島から中国大陸にかけ領有した大陸「高句麗」のことでした。668年に滅びた高句麗からは多くの人々が日本に渡り土着したということからなのです。若光没後、群民はその徳を偲び、御霊を高麗神社として祀ったのです。逆境に立ち向かって道を切り開いた精神を慕って多くの人がこの地を訪れるのです。参拝した6人の政治家が総理大臣に就任したことから出世海運、事業繁栄の神として崇拝されているのです。また御祭神若光の末裔が現在も宮司を務め、60代も続いていることから子孫繁栄のご利益もあるということです。2016年(平成28年)に高麗郡建郡1300年を迎えたということでした。

一ノ鳥居に掛けられている扁額は、熊谷宿の野口雪江筆によるもので、「大宮大明神」と書かれているとのこと。 大宮とは地域の重要な神社に許された称号。 高麗神社は江戸時代まで、高麗郡の大宮として「高麗大宮大明神」・「大宮社」などと称されていたようです。本日は参道の途中から入ったようで見損ないました。

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芳名板には、明治18年以降に参拝された著名な方のお名前がありました。 古くは政治家、文豪などの参拝が多く、近年では俳優、タレントなども多いとのことでした。上の方から太宰治、坂口安吾、上原正吉、モト冬樹などなど有名人のお名前がズラリでした。

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二ノ鳥居に掛けられている扁額「高麗神社」は、第59代高麗家当主・宮司の高麗澄雄筆によるもの。

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御神門の中央に掛けられている扁額には「高句麗神社」とありました。明治33年にここを参拝した朝鮮王朝の貴族 趙重応の筆によるものとのこと。 御祭神の故国 高句麗と後に興った高麗を区別するため、そのまま額にしてあるとのことでした。

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本殿の建立は、3つの時代に分けられます。正面手前の外拝殿は、平成27年の増改築により建てられたとのこと。本殿は、一間社流れ造りで中世、安土・桃山時代の建立と伝えられています。

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高麗家住宅(こまけじゅうたく)は慶長年間(1596〜1614年)頃の建築と伝えられ、御祭神の末裔である高麗氏の旧住居。 茅葺きの入母屋造りで東日本に残る民家の中では古い形を遺しているとのこと。住宅脇には樹齢400年のシダレザクラがあり、例年3月下旬頃に開花し、住宅と桜の風情は素晴らしいとのことでした。

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神楽殿では、年間に様々に行われる祭事や催しなどで、舞や楽器演奏、芸能などが奉納されます。今日は高麗の民族衣装が飾られていました。

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車おはらい処の隣に将軍標(しょうぐんひょう)(チャンスン)がありました。
高麗神社の御祭神 高麗王若光の母国 高句麗が存在した朝鮮半島には、「チャンスン・長丞」と言われる標柱を立てる風習があるようです。 将軍標(しょうぐんひょう)と呼び、日本の道祖神にも似た習俗のようです。朝鮮半島では村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割を荷なっているのです。 大きな花崗岩の将軍標がご参拝の皆様をお迎えするかのように立てられていました。

自販機にあった「くりっかー・くりっぴー」は日高市マスコットキャラクター。
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本日の日高市内ウォーキングで見つけたマンホールのデザインです。
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これは巾着田。そのほかにカワセミのマンホールも見ました。
路面のタイルには日高市の鳥、日高市の花ハギもありました。
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こちらはカワセミ。
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そして本日の埼玉の逸品は栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」。
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そのほかのお菓子は皆、栗が入っていました。日高市は県内随一の栗の産地であり、「高麗川マロン」、「日高ぽロン」といったブランド栗も有名とのことです。また、加工品も充実しており、栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」は大粒の「栗」が入って入りおり、ほくほくとしてとてもおいしかったです。
日高市の特産は栗のほかにはお茶も有名なようでそういえば民俗資料館前でお茶のお接待がありました。。

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JR八高線高麗川駅を通る八高線は八王子〜高崎の路線。
高麗川駅前ロータリーには「日韓交流の塔」がありました。
本日は朝から曇り、午後には思いがけず日差しもあり、24℃で絶好のウォーキング日和でした。喜多見先生、小松TDと参加者9人は和やかに一日を過ごせました。私は4日前のリベンジで再度の参加でしたが大成功でニコニコしながら無事終了。そして久しぶりの2万歩超はほぼ限界でしたが皆さんに付かず離れずのウォーキングができました。感謝!!来月は本庄市のウォーキングを予定していますので日々、怠けないで精進しておきます。では皆様!また来月!
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2022年07月20日

2022.7.13 福井県への3日間の旅 B東尋坊〜一乗谷朝倉氏遺跡

今日は旅行最終日。ここ2日間は食事量が多めだったので今朝のバイキングは抑え目にしました。
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ホテル前に成田山福井別院があったのでお参りしました。
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そばにあったみくに龍翔館は長期休館中とのこと。姿かたちも良いのでまた見学が再開したら伺いたいと思いました。
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三国は九頭竜川の河口にあって日本海に面することから、古代から越前国の玄関口としての役割を担い、物資が集散し人々が往来する港町として大いに栄えました。 その地理的条件や歴史的な背景の中で育まれた三国ならではの独特な文化を紹介し、学術的な研究によって位置づけ、文化遺産を一堂に集めた博物館として建設されたのが、「みくに龍翔館」。 その外観は、白亜の洋館のようで、三国の代表的な建物とのことでした。
三国湊が最も栄えた1879年(明治12年)オランダ人エッセルによってデザインされた木造五階建八角形というユニークな形状の小学校「龍翔小学校」の外観を模して復元し、三国全体を見渡せ白山を遠望し坂井平野を眼下に見下ろす緑ヶ丘の高台に鉄骨鉄筋コンクリート造で完成、1981年(昭和56年)に開館したとのことでした。
三国ホテルを10:00出発、これより東尋坊までかなりの雨降り。ところが東尋坊到着あたりから雨が上がり順調!!

東尋坊は、今から約1,200〜 1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動で、マグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が、日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされているとのことでした。ですから東尋坊は日本海に面した海食崖で、険しい岩壁が続き、最も高い場所で約25mの垂直の崖があるのです。東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、これほどの規模を持つものは世界に3ヶ所だけということで、地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物および名勝になっているのです。昔と違い観光地として、遊歩道や遊覧船、展望用のタワーや商店街などもありました。地名の由来は、乱暴あるいは恋愛関係で恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺(勝山市)の僧の名前によるとのことでした。
東尋坊は子供のころ遠足できた時とはすごく変わっていました。
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お土産東尋坊横丁もとても賑やかでした。
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その後一乗谷へ出発。お昼は一乗谷レストランでこれまた美味しいランチでした。
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こちらは朝倉氏一乗谷朝倉遺跡。四角い囲いは井戸の跡です。
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一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)。すなわち戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなっていました。遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けているようです。一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備され、道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していたようです。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であったようです。
復原町並は約200mに整然と並ぶ街並みで発掘調査で見つかった塀の石垣や建物礎石を忠実に再現をしているようでした。また暮らしぶりもわかるように人形も使っていました。
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一乗谷川の「おやかたばし」を渡ると朝倉館の入り口の唐門でした。
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朝倉義景氏の墓所がありましたのでお詣り。
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そして一段落で休憩所あさくらギャラリーの展示室で昔の街並みなどを見ました。
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そうそう、一乗谷城の御城印もゲットしてこちらの見学は終了しいよいよ帰路です。
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米原手前ではいったん「賤ケ岳SA」で休憩。東京到着が遅いので夕食用のお弁当をゲット。
米原17:33発に乗車。ところが岐阜羽島手前で列車がストップ。大雨の影響で約1時間ストップ。お陰で到着は東京20:48の約1時間遅れで到着。ということで自宅到着は23:30。まずまず無事に帰宅できて感謝!本日も10000歩。帰宅してみれば大雨にも合わなかったこと、食事もおいしくゆったり一人旅が出来たこと、お土産も買って楽しんだことに感謝。
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道中コロナ対策も皆さんが徹底してくださり、無事に皆さんも元気で終了出来たことが一番でした。
また皆様お会いしましょう。お元気で!
posted by yunofumi at 22:04| あちこちウォーク

2022年07月19日

2022.7.13 福井県への3日間の旅 A永平寺〜白山平泉寺

温泉ホテル水月花の朝食では福井名産「厚揚げ焼き」もいただき、曇り空の下でしたが元気に9:30バスで出発。
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永平寺門前の商店街は昔に比べ賑やかでビックリ!
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いよいよ永平寺に到着。
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永平寺(えいへいじ)は、曹洞宗の仏教寺院。神奈川にある總持寺と並ぶ日本の曹洞宗の大本山。山号は吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)。座禅修行などをする多くの修行僧がおられる寺院。修行僧は座禅をはじめ、朝のお勤め(朝課)、食事(行鉢)、掃除などの作務と毎日とても忙しいとのことでした。境内は何処もかしこもこの時期、苔がきれいでした。建物手前には観音様が神々しかったです。
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僧侶の方から見学の概略説明を受けた後まず吉祥閣へ。こちらは天井絵がすばらしいかったです。
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僧堂は修行の根本である伽藍で座禅、食事、就寝する所とのことです。
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承陽殿は道元禅師を奉祀する御真廟がある所。
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瑞雲閣。
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全国からのお位牌が安置されている大祝詞堂殿。
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永平寺の見学を終えた後は料理茶屋「寿楽山」で昼食。
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山の幸と海の幸、それと焼いた鮎がのったご飯。珍しかったでので美味しくいただきました。

バスで走っている途中、天空の城、大野城が見えましたが車窓からは残念ながら見るだけ。写真は撮れませんでした。
その後、白山神社平泉寺に到着。小雨の中散策へ。まずは歴史探遊館「まほろば」で事前にビデオで知識を吸収。
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参道の階段は小幅な石段でまずは70段。次に幅広の石段が約70段。雨でぬれており、ちょっと大変。
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本社・拝殿に到着。
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大楠公墓塔と三之宮のそばまで行きました。
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ということで雨の中の散策は道も石も濡れており一段と気を付けながらの歩行となりかなり大変でした。

こうして16:30すぎに三国ホテル到着。
この日の夕食もたっぷり。特にアワビの踊り食いには、、、、。ビックリ!
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食事後は温泉を楽しみバタン!キュー!本日の10000歩は疲れが残りそうな予感がしました。
posted by yunofumi at 21:07| あちこちウォーク

2022年07月12日

2022.7.9 東京で世界の食卓めぐり「スペイン料理」

また暑さが戻ってきた感じの今朝、埼玉から清澄白河までは池袋と大手町で2回乗り換え、約1時間10分で到着。乗り慣れてない半蔵門線ではキョロキョロするばかり。でも日本の乗り物はすごいですね。駅案内や乗り換えなどいまさらのように実感。
さて本日は藤原先生・TD松田さんの付き添いで18名が参加。行程のしおりでは歩程5km。とにかく暑さにめげず最後までがんばります。

東京メトロ清澄白河駅⇒清澄3丁目⇒本誓寺⇒清澄庭園⇒清澄公園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒深川江戸資料館⇒紀伊国屋文左衛門墓所⇒深川ふれあいセンター・曲亭馬琴誕生の地⇒海辺橋⇒採茶庵⇒深川2丁目⇒心行寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒富岡橋⇒赤札堂⇒門前仲町駅⇒辰巳新道⇒深川公園⇒大栄山・永代寺⇒成田山深川不動堂⇒富岡八幡宮⇒牡丹2丁目信号⇒関口橋⇒古石堀川親水公園・雀橋・牡丹園⇒古石場一丁目⇒妙栄稲荷第善神⇒越中島2丁目⇒東京海洋大学⇒明治天皇聖蹟の碑⇒築地本願寺佃分院⇒月島スぺインクラブ⇒東京メトロ月島駅

東京メトロ清澄白河駅(きよすみしらかわえき)は、都営地下鉄の大江戸線と、東京メトロの半蔵門線が乗り入れ、接続駅となっている所で、改札口がわかりにくいかしらとちょっと心配でしたが清澄通り改札口にとにかく無事に10:00前に到着できました。

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浄土宗寺院の本誓寺(ほんせいじ)は当智山重願院というようです。小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より1595年(文禄4年)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったということです。1606年(慶長11年)馬喰町上町へ、1682年(天和2年)この地(深川大工町)に移転、1699年(元禄12年)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったようです。1873年(明治6年)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったのです。
本堂前に石造迦楼羅立像(せきぞうかるろうりゅうぞう)がありました。
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迦楼羅は「インド神話の神鳥ガルーダ」に由来する「鳥頭人身に翼を持った異形の神」で、八部衆、あるいは千手観音の眷属である二十八部衆の一員とのこと。奈良・興福寺の迦楼羅像(脱活乾漆造)や京都・蓮華王院 三十三間堂の迦楼羅像(寄木造)が有名ですが、石造というのはとても珍しいとのことでした。そしてこの「石造迦楼羅立像」は、朝鮮・高麗時代の作と推定されているようです。像の石質は花崗岩で、丸彫りに近い浮彫りです。くちばしがあり、背には翼もありました。今まさに笛を吹こうとする一瞬の姿を切り取った造型で笛の音が聞こえてきそうでした。

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清澄庭園は、江戸時代に大名の下屋敷だった一帯を三菱の創始者・岩崎彌太郎が取得し造園、1891年(明治24年)に社員の慰安や貴賓を招待するための「深川親睦園」として開園したのです。1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲では避難場所となるなど地域の歴史に深く関わり、現在も緑豊かな下町のオアシスとして親しまれている「回遊式林泉庭園」で、野鳥が遊ぶ「大泉水」の周りには、全国から取り寄せた名石や築山が配されているのです。
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これは富士山を模していました。

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藤原先生がおすきだという保津川石の水鉢です。

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佐渡赤玉石はきれいな石でした。

清澄公園は、1977年(昭和52年)にできた開放されている公園。三菱財閥の創業家・岩崎家から深川親睦園、今の清澄庭園の西側半分を東京都が買い取り、整備後に開園した近隣住民の憩いの場となっている公園で庭園のすぐ横にありました。

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霊厳寺(れいがんじ)は、白河一丁目にある浄土宗の寺院。山号は道本山。院号は東海院。ご本尊は阿弥陀如来とのことです。もともとは1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったとのことです。
1657年(明暦3年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったのです。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転したのです。こちらには11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓がありました。
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江戸六地蔵の第5番が安置されていました。
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ちょっと残念なことは深川江戸資料館は7月末まで改修工事のため休館でした。

江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門墓所。
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紀州出身の紀伊国屋文左衛門(紀文)は、若くして江戸に出て材木業を営み、幕府と関わることで豪商となりました。後年は、富岡八幡宮一の鳥居付近(門前仲町1)に住み、1734年(享保19年)4月に66歳で没したといわれ、成等院に葬られました。墓は左隅にあり、正面の碑は、昭和33年(1958)に建てられたということです。

深川ふれあいセンター前に「曲亭馬琴誕生の地」の碑がありました。これは『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴誕生の地ということです。
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『南総里見八犬伝』で有名な馬琴は、1767年(明和4年 )6月9日、深川浄心寺門前の松平信成邸内で生まれ、成人したのちは山東京伝に師事し、『椿説弓張月』をはじめ1,400余の著書を残したようです。1848年(嘉永元年)11月に82歳で死去し、文京区茗荷谷の深光寺に葬られているとのことでした。
記念碑として著書がモニュメントとしてありました。

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採荼庵(さいとあん)は、江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋(こいや)、俳号を採荼庵、五雲亭(ごうんてい)などとし、隠居したのちは一元(いちげん)と名乗りました。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町1丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、『常盤屋句合』(ときわやくあわせ)『角田川紀行』(すみだがわきこう)などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても有名だそうです。
採荼庵があった場所については、杉風の娘婿である隨夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれているとのこと。平野町は、海辺橋南詰から万年町(まんねんちょう)2丁目(深川1-8)をはさんだ一画で現在の説明板が建っている海辺橋のたもとより140mほど南西に位置します。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採荼庵で過ごし、門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていったのです。

法乗院・深川えんま堂の平成元年に建立の閻魔大王座像は、寄木造で、高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tという巨大な閻魔様。名実ともに日本一の閻魔大王像になっています。
しかも、この閻魔大王像、コンピューターで制御。大王像の前に、「家内安全」、「交通安全」、「夫婦円満」、「合格祈願」、「ぼけ封じ」、「いじめ除け」など19のご祈願が別個に記された、賽銭の投入口が用意され、自らの希望するご祈願に賽銭を入れると、仏様の様々な説法が音声で流れるシステムでした。
閻魔大王の「除けと封じ」の力を生かしたものとかで、こちらも日本初のユニークな機能となっています。
本堂1階には、全16枚からなる『地獄・極楽図』が展示されています。

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高野山真言宗寺院の永代寺は、大栄山金剛神院と号します。永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺、江戸六地蔵の一つとして栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。現在の永代寺は、明治29年に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたといいます。御府内八十八ヶ所霊場68番札所です。

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成田山深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。古くより「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まり。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身とのことです。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念しているのです。

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富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。通称を「深川八幡宮」ともいう。
江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。
また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

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古石堀川親水公園は門前仲町駅」から石島橋を渡って徒歩5分の場所にある公園です。「牡丹町公園」と隣接して整備されています。「水辺の香り」をテーマにしている公園内には水路が流れ、夏場にはじゃぶじゃぶ池で水遊びも楽しめます。水路にはあさりやザリガニなども生息し、水辺の生き物を観察することもできます。バラ園や紫陽花なども美しく、季節の花々の鑑賞をしながらお散歩してみるのもおすすめです。

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妙栄稲荷第善神は門前仲町駅から徒歩5分程度、江東区古石場1丁目の清澄通り近くに鎮座している稲荷神社です。江戸時代の寛永年間に松平越中守の屋敷内に安置されていて、関東大震災後の区画整理で現在の場所に遷座したそうです。わかりづらい場所にありますが、近くを通った際に参拝してみてはいかがでしょうか! 

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東京海洋大学は平成15年10月1日、東京商船大学と東京水産大学を統合して設置された大学。平成16年4月1日からは国立大学法人東京海洋大学として、「競争的環境下での個性輝く大学」を目指して教育・研究・社会連携を一層進めながら変革に取り組んでいるとのことです。

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第一観測台と第二観測台は1903(明治36)年に建設された貴重な明治期の天文台建築。第一観測台は現存する日本最古のドーム屋根形状の天体観測室である(観象台、天文台、観測所、また第一観測台は赤道儀室、第二観測台は経緯儀室、子午儀室とも呼ばれた)

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明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航されたそうです。
一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍したのです。なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。また、 明治9年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年に国民の祝日「海の日」となりました。現在の姿は平成25年12月より修復され平成27年3月に竣工したものです。

そばに明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)がありました。これは明治天皇が行幸で訪れた場所や建物。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定されたとのこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年に指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのことです。

築地本願寺は、浄土真宗のみ教えを伝え広める活動拠点として、東京に5つの分院があるようです。築地本願寺の墓所である和田堀廟所、関東大震災被災者追悼の場として開設された慈光院、都市開教の願いのもと開設された東久留米会館とあきる野本願寺、2020年4月新たに佃島分院です。本日傍を通った時はまだ外の整備をしていました。

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月島スぺインクラブは艶やかさを纏った老舗スペイン料理店。本場さながらの情熱を体感できるように重厚な扉を開けると、天井高の巨大なスペイン空間がありました。エントランス前の1階中央は大理石の大型カウンター席、それを挟んで左右にフロア席、2階はスペインの美術品もみられるようでした。
まずは前菜です。
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次はお魚料理。
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次はお肉料理。
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最後はデザート。
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久しぶりのコース料理でした。おいしくてすっかりフアンになりました。また来たいです。

こうしてウォーキングを午前にし、その後昼食をのんびりいただき、午後3時に解散。
滅多に味わえないスペイン料理は案外口あたりがよく、十分満足しました。
クラブツーリズムのシリーズものにしては異色ですのでまた案内を見つけて参加したいと思いました。
posted by yunofumi at 14:58| あちこちウォーク

2022年06月27日

2022.6.19 さいたま新発見 ぶらり街あるき 幸手市

幸手のはじまりはアイヌ語の乾いているの語源「さッテク」、倭建命(やまとたけるのみこと)が訪れた「薩天ヶ島」からなどがあるようです。古くは下総の国に属し、のちに大半が武蔵野国に編入され「田宮町」や「薩手」(幸手)といわれたのです。幸手宿は日光道が整備される前から利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道での人の往来が盛んで交通の要衝だったとのことです。特に中世では古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所だったのです。江戸時代になると日光街道が整備され、1616年(元和2年)に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿に発展。幸手宿は日光道だけではなく、将軍家の日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったのです。

東武日光線幸手駅⇒南3丁目⇒たいらや⇒石井酒造⇒幸手南住宅⇒上高野神社⇒東武丸山病院⇒幸手さくら団地⇒志手橋⇒神明神社⇒明治天皇行幸在所⇒幸手駅入口信号⇒ペットショップカトウ⇒担景寺⇒永文商店⇒割烹蒲焼義語家⇒本陣知久家跡⇒中央商店街ポケットパーク⇒山崎歯科クリニック⇒そば処大村庵⇒幸手小学校⇒関薬局⇒文具雲寿堂⇒日光御回り道⇒成田呉服店⇒荒宿信号⇒幸手基督教会⇒聖福寺⇒正福寺⇒幸手蔵賑窮餓之碑⇒石太菓子店⇒蓮沼⇒北2丁目陸橋⇒北側用水路⇒権現堂堤修復絵馬⇒熊野権現社⇒権現堂公園⇒八幡神社⇒北側用水路⇒幸手桜高校・橘守部翁遺跡碑⇒寶持寺⇒幸手中学校⇒田宮の雷電神社⇒妙観寺⇒幸宮神社⇒ときわや⇒幸手観音・講福寺⇒天神神社⇒グリーン歯科医院⇒東武日光線幸手駅

東武日光線幸手駅は1929年(昭和4年)4月に 東武日光線杉戸駅 - 新鹿沼駅間の開業と同時に開設された駅。2019年3月に 橋上駅舎と東西自由通路、西口駅前広場などが完成したとのことでとても新しくてきれいな駅でした。

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石井酒造梶B創業1840年(天保11年)。170年の歴史を誇る幸手の地酒 「 初緑 」や「豊明」が有名とのことです。

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上高野神社(かみたかのじんじゃ)は八坂神社を中心に合祀されたかつての上高野村の村社の一つ。もともと1909年(明治42年)10月の合祀では八坂神社の他、稲荷神社(4社)、神明社、胡録社、香取社、日枝社、愛宕社、羽黒社が集められたようです。1600年(慶長5年)創建の八坂神社の「天王様の祭り」では神輿が出るのです。境内社として天満宮、浅間社、第六天社が祀られていると伺いました。珍しいコンクリートの滑り台がありました。

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志手橋は県道65号 岩槻幸手線が、国道4号線の旧道へ合流する地点に架かる橋で昔から交通の要衝。歴史的には日光御成道と日光街道の追分に架かる橋なのでいわば日光街道の幸手宿(江戸から6番目の宿場)への入口とのこと。人の往来も多く、高札場も設けられていたようです。今はコンクリートですが元は木製、長さ30.6m、幅5.4mと大きな橋だったのです。よく見ると親柱の側面と下部には、レリーフ状の突起、親柱と欄干が57cm角で高さは2.2mだそうです。

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神明神社は1755年(宝暦5年)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社で、1873年(明治6年)4月より旧幸手町の村社の一つとなっていたようです。
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境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されているとのこと。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされているようです。
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拝殿前の狛犬は珍しいことに子犬ではなく牡丹の花を持っていました。
台座の銘は「大正十一年戌三月十七日 太々御神楽奏行 幸手太々講」とあり、伊勢参りをした五人の名が刻まれているのです。当時は盛んだった伊勢参りと田螺不動尊、信仰の形態も時代や医術の進歩と共に変わり、そのことを伝えるのは狛犬や石碑のみになってしまったようです。

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明治天皇行幸在所は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物のこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそぐわない」とみなされ1948年聖蹟の指定を一斉に解除されたようですが少しは聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合もあり、これもその一つのようです。

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永文商店は、明治36年に埼玉県幸手市で創業。以来100年以上にわたって食一筋に流通業を営んでおり、流通業の役割は、お客様が必要な物を、必要な時に、必要な量だけ提供することにあるので、プロの視点で商品を厳選する目利き力が、最も大切なことだということで、確かな原材料を使って、確かな製造方法で作った、品質の高いものばかりで商いをしているとうかがいました。
永文商店の壁面に芭蕉の旅姿がありました。お供は確か曽良ですね。
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本日はお休みだったお店の横にトロッコのレールが見えました。こちらのお店の「トロッコ」は、全長約40mのレールの上を、約1トンの商品を楽々と運搬するとのことです。戦前・戦中・戦後の激動の時代を乗り切って、今も現役で働いているようです。
何しろ街道沿いの商家は昔から、間口が狭く奥行が長い「ウナギの寝床型」が一般的。江戸時代から日光街道の宿場町である幸手の「永文商店」は、そのような店の一つだったのです。道に面して、一番手前が店舗、その次が住居、一番奥が倉庫という作りなので、商品の入出荷の運搬に活躍してきたのが「トロッコ」ということでした。

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割烹蒲焼義語家そばに本陣知久家跡の説明がありました。知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手でも最も重要な役割を果たした家柄だったようです。 明治3年に本陣が廃止されるまで代々幸手宿の繁栄に尽くしたのです。 明治6年に知久家の書院で小学校が開設され明治天皇が東北巡行の折には宿泊されたとも伺いました。

そば処大村庵紀の川で松花堂弁当の昼食をいただきました。
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日光御廻道とは、徳川将軍の日光社参の時、水害の難を避けるために幸手宿と栗橋宿までの迂回路を整備したもの。幸手・栗橋間の日光道中は2里3町(約8.2q)、しかしこの御廻道は3里(約11.8q)だったのです。道が整備されたとされる江戸後期は、将軍の日光社参はほとんど行われなくなったこともあり、実際に将軍が通行したことは一度もなかったようです。 

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聖福寺(しょうふくじ)は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)と称する浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作ということでした。徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩したようです。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
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勅使門の前に「御殿所勅使門」の石碑があり、菊のご紋の入った扉が付いていました。
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往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうですが、今は開いていました

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芭蕉と曽良の句碑がありました。
幸手を行ば栗橋の関(芭蕉)
松風をはさみ揃ゆる寺の門(曽良)

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正福寺(しょうふくじ)は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。こちらは、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、昔は四十九ヶ寺の末寺を持っていたようです。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っているのです。また、樹齢450年、根回り5mもある槙の大木が以前はあったようです。今は若木のみでした。
そして門前には巨大な石灯篭がありましたがいわれなどはわかりませんでした。
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幸手義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)は正福寺(しょうふくじ)の境内にありました。これは高さ173cm 横88cm 厚56cm 碑文面 「表 縦120.5cm 横76.5cm 裏 縦92.0cm 横77.0cm」。天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生し、翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てたのです。

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石太菓子店(いしたかしてん)は、江戸時代(文久年間)初代 中村石太郎により創業。以来伝統の味を守りつつ、幸手らしさにこだわった商品を提供しているのです。こちらで本日の埼玉の逸品「あじさい饅頭」をいただきました。とても穏やかな甘さで美味でした。

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北側用水路は埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)ともいわれているようです。埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑しているのです。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となるのです。

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熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもありもとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったようです。この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されているとのことです。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いているのです。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっているとのことです。また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものでもあるようです。 

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県営権現堂公園は、桜の名所として親しまれている幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して埼玉県が整備を進めているのです。 この公園は4つのゾーンで構成されており、そのうち多目的運動広場の1号公園と、歴史と文化と緑の3号公園、幸手権現堂桜堤の4号公園の3つのゾーンがあるとのことでした。
幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲くようで今は緑の森でした。また下方には曼殊沙華も季節になるとキレイとのことです。本日はJAのお店前から峠の茶屋を通りアジサイを色々見ました。アジサイ(紫陽花)は花の色は色々でしたが実は種類も多いそうです。白いのはアナベルでとてもきれい、そして紫などのガクアジサイも見られとても楽しかったです。
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内国府間八幡神社は、幸手市内中心部から権現堂堤の方に向かう途中。街はずれのような場所にある神社で、なにげなく寄ってみると鳥居から境内は余裕があるし、社殿とか意外に立派。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益もあるそうです。

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橘守部翁遺跡碑(たちばなもりおおういせきひ)。
守部は、天明元年(1781年)伊勢国小向村(三重県朝日町)に生まれ、17歳で江戸へ出て、国学研究を志し29歳の時に、内国府間村(現在の北二丁目)に転居。1829年(文政12年)に江戸へ戻るまでの20年間を幸手で過ごしました。 守部は、当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め、「天保の国学四大人」の1人に数えられるほど古典研究の著作を残しています。 守部の住居跡(県立幸手桜高校内)に「橘守部翁遺蹟碑」があります。また、幸手中学校・西中学校、幸手桜高の校章には「たちばな」が用いられ、守部の偉業を称えているのです。

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田宮の雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったとのことですが、明治維新後の1873年(明治6年)4月以後は村社に指定されているとのこと。本殿は1844年(天保15年)11月に上棟の再建が行われており、また1856年(安政3年)6月にも再建が行われているようです。雷電神社の由緒としては、「第11代垂仁天皇の10年のある日に天地が振動雷鳴し、水田中に身の丈7寸余りの黄金の御神像が天から降り、村民のだれもが驚いた。村民は一社を建立したが、当時周囲には水田が広がるのみで民家はなく、わずかに当神社が建つのみでした。ゆえに「水田の中にある社宮」ということから、世の人々はこの地一帯を「田宮」と呼んだ」というものだそうです。また、雷神は水との関わりが深いため、特に農民からの信仰を集めたのです。社殿の裏手に「瘤神社」・「疣権現」・「疱瘡宮」と彫られた石があるようで、皮膚病の人々の信仰が伝わっているようです。
このような狛犬は珍しかったです。
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幸宮神社は幸手市総鎮守。 創祀は不明。日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守として広く崇敬されたようです。 本殿は全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されており、信仰の深さがうかがわれるとのことでしたが本日はみられませんでした。 祭神は誉田別尊、経津主神、菅原道真公(ほんだわけのみこと、ふつぬしのかみ、すがわらみちざねこう、)神徳は文武両道、商売繁盛、除災招福などとのことでした。
彫り物が立派な本殿でした。
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割烹ときわやには日光社参の折に八代将軍徳川吉宗が、聖福寺で食べた昼食の献立を再現した「吉宗弁当」が提供されているとのことです。内容は「焼き豆腐・ヤマトイモ・レンコン煮しめ」など、かなりヘルシーなようです。また事前予約が必要のようですがちょっと食したいものです。

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天神神社はかつて裏町天神とも称されていたとのこと。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがあるようです。境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)が目につきました。

こうして午後は権現堂公園から何やかやと見分しながら約1時間30分で東武日光線幸手駅に到着。喜多見先生、佐藤TDの導きも良く24名は最後の紫陽花見物で大いに満足した1日となりました。日中は30℃、晴れとはいえ雲も時々かかり直射日光を遮ってくれたのは幸いでした。おかげで自宅につくと22000歩は大満足の歩程。さいたまウォークは本日で29回目、まだまだ続きますので今後も頑張ります。
posted by yunofumi at 14:08| あちこちウォーク

2022年06月12日

2022.6.5 さいたま新発見 ぶらり街あるき 越谷市

埼玉県内で最大の宿場だった越ケ谷宿。元荒川を挟んで南側が昔は越ケ谷町、北側は大沢町といったようです。ここは徳川家康がたびたび鷹狩で訪れた所でもあるようです。今は昔にも負けず大きな市になっており、人口約34万人、世帯数15万は県内でも有数の大きさ。ということでほぼ平坦な土地柄のようなので楽しみながらウォーキングできそうな予感がしていました。

東武スカイツリーライン北越谷駅⇒大沢香取神社⇒元荒川大沢橋⇒鍛冶倉⇒はかり屋⇒越谷本町⇒元荒川橋⇒越ヶ谷御殿跡⇒越谷元年板碑⇒御殿町自治会館⇒越谷アリタキ植物園⇒久伊豆神社⇒そば処久伊豆⇒東越谷4丁目信号⇒こしがや能楽堂⇒花田苑⇒越谷市立病院⇒大聖寺⇒虹だんご⇒元荒川土手⇒瓦曽根溜井⇒しらこばと橋⇒葛西用水⇒越谷市役所⇒がーやちゃん蔵屋敷⇒JR越谷駅

東武スカイツリーライン北越谷駅は東武鉄道の開通当初から設けられた駅の一つ。宿場町である南埼玉郡越ヶ谷町の最寄駅として、開業当初は越ヶ谷駅と名付けられたのです。1919年に、ここより南方に越ヶ谷駅(現在の越谷駅)の開業を迎えることを受けて名前を譲り、所在する町名(南埼玉郡大沢町)に従って武州大沢駅に改称、さらに、1954年に越ヶ谷町・大沢町などが合併し越谷町が発足した後、1956年に北越谷駅に改称されたのです。
開業時の駅舎は貴賓室があり、皇族が埼玉鴨場へ来場される時に利用されていたとのことです。その後、1962年に帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線との直通運転が開始されることを機に、この駅は東武鉄道初の橋上駅となり、西口が開設されました。連続立体交差事業により1999年には高架駅となり、2001年、当駅から越谷駅までが複々線化されたとのことでした。

大沢香取神社。
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香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社としています。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っているようです。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓され、元は低湿地だった土地である。
ちなみに香取神社は主に利根川・江戸川沿いを中心に分布。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布ということでした。
大沢香取神社の創建は永年間(1394〜1428年)とのこと。五穀豊穣や日常生活をお護りする神様として土地の方々から深い信仰を得ています。
大沢香取神社の本殿には彫物師浅草山谷町長谷川竹良の手による高砂の翁、大黒天、龍などが見られました
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旧日光街道越ケ谷宿の街並みは江戸時代に整備された宿場で江戸日本橋から数えて3つ目の宿場。
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街道沿いに「はかり屋」というお店が昔のままで営業していました。私たちはまだウォーキングを開始したばかりでしたが蒸し暑いので昔の味がしたアイスキャンディをいただきました。

越ヶ谷御殿跡。
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越ヶ谷御殿は徳川家康によって1604年(慶長9年)に設けられた御殿。御殿の建物に関する詳細は不明とのことですが広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されているとのことです。ここはもとは越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所だったのを、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれているのです。家康・秀忠などがしばしば訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残っているとのことです。
その後、越ヶ谷御殿は1657年(明暦3年)の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移され、その跡地は畑地として開発され、現在に至っているのです。

越谷元年板碑。
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建長元年の板碑は元荒川右岸の御殿町地内にありました。今から750年以上前の鎌倉時代の中頃、1249年(建長元年)の銘が刻まれています。市内最古で最大の板碑で、高さ155cm、幅56 cm。材質は平板に割れやすい緑泥片岩で、山形の頂部に二段の切り込み(二条線)があり、中心には阿弥陀尊をあらわす大きな梵字(キリーク)が刻まれていました。

越谷アリタキ植物園。
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越谷アリタキ植物園は、市に寄贈された故有瀧龍雄氏の植物園を整備し、新たに市の植物園として開園したものです。面積:約9000u、園内には市の天然記念物に指定されている北米原産の「ラクウショウ」をはじめ、幹周り4m以上もある巨樹「シナサワグルミ」や多種の「ツバキ」など、暖温帯性の樹木を中心に約320種、約1000本の樹木が植えられているとのことです。その他、希少な草花や野鳥、昆虫も観察することもできるということです。今日は立ち寄れませんがいつかまた来てみたいものです。

祖霊社。
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久伊豆神社の入り口にありました。ここには長年久伊豆神社を崇敬された、医師矢野太刀也氏の御霊を矢野太刀也大人命として祖霊社に合祀されているとのことです。

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久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)が主祭神。また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱が奉斎されています。創建の年代は不詳。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝っています。この神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされています。

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久伊豆神社の手水舎は1675年(延宝三年)に建てられたと伝えられるもので天井の龍の絵がすごかったです。

力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石。 三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物です。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されています。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

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家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、拝殿前の狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれているようです。

本堂裏には力石がぽつんとありました。
そういえば「越谷七不思議」のひとつということです。
ちなみにこの七不思議は@ぎょうだい様(蒲生茶屋通り)A白山神社の原貞掛け石塔(増林)B大祖模不動尊の亀碑(相模町)C稲荷神社「菅原荘」の石碑(新川町)D久伊豆神社本殿後ろの力石(越ケ谷)E会田金物店の壁画(越ケ谷本町)F聖徳寺と光明院の塩地蔵(北川崎)とわかりましたのでまた見に伺いたいものです。

そば処久伊豆。
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こしがや鴨ねぎ鍋が売りのお店でした。
鴨の脂がすごかったです。

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越谷市日本文化伝承の館 こしがや能楽堂目的は伝統芸術文化の振興と市民文化の向上のために建てられたとのことです。埼玉県内唯一の野外の能楽堂は総檜造り。建築面積は約1187u、能舞台には舞台が5.9m四方のほか、地謡座・後座・橋懸り、鏡の間・溜の間がありました。敷地内には能舞台のほか中庭、和室、大広間、応接室等がありました。能楽はもちろん日本舞踊や詩吟、茶道といった伝統芸術の拠点にもなっておりまた一般向けのイベント開催もあるとのことでした。
展示で能の面や衣装がありました。
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花田苑。
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こしがや能楽堂に隣接している廻遊式池泉式庭園。正門は市内の宇田家長屋門が復元されたもの。敷地内には茶室もありました。かつては畑地であったのが、区画整理事業と連動して計画が持ち上がり、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度にかけて整備されたようです。14,000本の樹木が植えられています。
長屋門です。
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アジサイなど色とりどりで花が咲いていました。
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大相模不動尊眞大山大聖寺は真言宗豊山派の寺で、本尊は不動明王。天平勝宝2年(750)に良弁僧正が開基した越谷最古の寺院。山門の「真大山」の額は老中松平定信の筆とされています。なお、「山門」や「北条氏繁掟書」、「徳川家康の夜具」、「タブノキ」は市指定文化財になっています。
今風のぴんころ地蔵がありました。
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素朴な「虹だんご」があり、お土産にゲットしました。

元荒川土手にでるとアジサイが見ごろでした。
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瓦曽根溜井(かわらそねいためい)。
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1600年頃に瓦曽根堰が元荒川に設置され溜井ができ、農業用水のための溜井として江戸期から利用されていたようです。西部の一部が埋め立てられ、越谷市役所などが建設されたようです(主に越ヶ谷4丁目にあたる部分)。葛西用水、谷古田用水、八条用水が分水しており、岸沿いに葛西親水緑道が整備され、花菖蒲やアジサイが植えられているのです。
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斜張橋は、しらこばと橋(平成6年竣工、長さ145m、 八潮越谷線)。橋名は越谷市の市の鳥である、しらこばとに 由来する。橋のデザインは、しらこばとが羽を広げた姿を イメージしてあるのだという。

花菖蒲がとてもきれいでした。
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「ガーヤちゃんの蔵屋敷」は、こしがやを「案内する」「食する」「持ち帰る」「体験する」をコンセプトとした、越谷の魅力を発信する観光物産拠点施設。越谷市だけではなく、近隣市町や阿波踊りで交流のある徳島市、日光街道の連携都市などの人気商品を販売し、広域的な観光PRを行います
店内では色々目移りしそうでしたが珍しい「苺カレー」もゲットしました。
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ということでお土産は大聖寺の境内にあった虹だんごの「焼き団子」。これは素朴で美味しかったです。また本日の逸品の「がーやちゃん煎餅」と「苺カレー」は今からいただくのが楽しみです。
今日はいつものように喜多見先生の先導、TDは池谷さん、参加者22名は楽しく参加。
越ケ谷の土地が元荒川や用水をふんだんに縦断しておりなるほど水郷の街でした。また今日は伺わなかった大林地区にある埼玉鴨場では,野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されているとのことでした。以前日光街道ウォークで前を通りましたので今もイメージが残っています。
posted by yunofumi at 11:11| あちこちウォーク

2022年05月08日

2022.5.1 さいたま新発見 ぶらり街あるき 東松山市

東松山市は「花とウォーキングのまち」として長年売り出し中!
有名なのは国内一番の「スリーデーマーチ」。これは11月に行われる3日間のウォーキング大会で5km、10km、20km、30km、40km、50kmのコースがあります。私は本年参加すれば8回目となります。私はほとんど10kmコースばかりですがそれでも3日間連続で、しかも天候は晴ればかりではありませんからそれなりに大変なのです。
ということで本日は朝10:00曇天ですが喜多見先生、TD小松さんと共に22名が元気にスタートしました。

東武東上線東松山駅⇒箭弓稲荷神社⇒箭弓稲荷神社牡丹園⇒第250号踏切道⇒まるひろ東松山店⇒やきとりひびき⇒松葉町商栄会⇒東松山松葉町郵便局⇒松山陣屋跡⇒市立松山小学校⇒県立松山高校⇒日吉神社⇒小松原町⇒藤川(昼食)⇒加美町バス停⇒松山神社⇒上沼公園⇒八雲神社⇒松山町道路元標⇒津乃園⇒ウォーキングセンター⇒松山城跡⇒岩室観音⇒吉見百穴⇒吉見百穴バス停⇒東松山駅

東武東上線は池袋から寄居までの39駅あります。私は上福岡駅が地元でこれは各駅しか停車しません。隣のふじみ野駅や下りの方では川越駅が急行その他の列車が停車しますのでほどほどに便利な所に住んでいます。
東松山駅は1923年(大正12年)10月、東上線坂戸町 - 武州松山間開通の際に武州松山駅として開業。所在地が当時は比企郡松山町であり、愛媛県松山市の伊予鉄道松山駅(現・松山市駅]との混同を避けるため、武蔵国を意味する「武州」を冠したとのことです。1954年(昭和29年)10月東松山市発足により東松山駅に改称したようです。
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レンガ造りの町並みをイメージしたという東松山駅駅舎は東松山市がオランダヘルダーラント州・ナイメーヘン市と姉妹都市提携していることから、レンガ造りの町並みをイメージし、鐘の時計台はレンガの街並みに合う ナイメーヘン市のイメージでもあります。 

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すぐ目の前に大鳥居が出現。これですぐそばに箭弓稲荷神社があることが分かります。
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箭弓稲荷神社の創建は、712年(和銅5年)。平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきたので朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利したのです。その後頼信は、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、社殿の建て替えや野久稲荷を箭弓稲荷と改めたのです。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているようです。
拝殿は、豪壮な権現造りで、1835年(天保6年)に造営されたもの。あらゆるところに彫刻が施され、目貫龍、三条小鍛冶、鳳凰などとても見ごたえがありました。
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境内には立派な神楽殿もあり本日は天岩戸が開かれる神楽が奉納されていました。
なお、境内のぼたん園では、藤やつつじが咲き、目を楽しませてくれました。
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巨大御朱印スタンプがありました。
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絵馬はバットやホームベースの形がありました。
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東松山市といえばやきとり。豚のカシラ肉を炭火でじっくり焼いたもので、辛味の効いた「みそだれ」をつけて食べるようです。東松山駅を中心に、約50軒のお店で食べることができ、子どもから大人まで、大人気の味覚とのことですが、特にビールとの相性は抜群だそうです。

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前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋。1749年(寛延2年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされ、前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難のため1767年(明和4年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移したのです。それから100年後の1867年(慶応3年)、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩。こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまい、これを管理するために、1867年(慶応3年)、前橋藩松山陣屋が置かれたのでした。
 
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埼玉県立松山高校は1922年設立の旧制中学を前身とする男子校。通称「松高(まつこう)」。文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール指定校で旧制松山中学校時代を含めた卒業生は2万人超。大正時代の旧校舎(旧埼玉県立松山中学校校舎)を移築した国の登録有形文化財である松山高校記念館がシンボルですが本日お化粧直しのためみられませんでした。

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日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展したようです。この神社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺も守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものでしょうといわれていようです。当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現状の日枝神社に改めたがしかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られているのです。

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和食のお店藤川で昼食。焼き鳥丼のようでしたが「山賊丼」というようです。かなりピリッと辛みが効いていました。
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松山神社は元々、旧松山宿の総鎮守として、1063年(康平6年)に大宮氷川神社を勧請して創建したその後の改名なのです。境内には末社の大鳥神社・浅間神社があります。市街地に位置しながら、神社の周りにはカシ・モミ・イヌシデなどたくさんの樹木があり、これらの木々全体が松山神社の杜として市の名木に認定されています。拝殿には見事な彫刻が施されていました。

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近隣の上沼公園とともに散策の場として市民に親しまれています。

八雲神社の社殿は大きな覆いがありました。間口2.7m 奥行き3.6m単層切妻、正面軒は唐破風、その下が千鳥破風でした。そして周囲の彫刻は花鳥、竜、唐獅子など見事なのです。説明板によると安政6年に彫工飯田仙之助とその弟子たちで作成されたようでした。
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道路元標は道路の起点と終点を示すものです。東松山では道路元票が松山町と野本町でみつかっているようです。ここにあるのは本町1丁目にあったのを移設したとのことです。

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東松山市ウォーキングセンターは、歩く人たちの中心施設としての機能をもち、自然に対する理解を深めていただくためにつくられ、ウォーキングについての様々な活動をしているとのことです。「ふるさと自然のみち」や「ウォーキングトレイル」を活用しながら、自然について学ぶ機会を提供し、環境保全への理解を図ること、ウォーキングや自然学習のリーダーの育成と共に様々なイベントのプランがありました。さすが、スリ−デーマーチを長く開催している土地柄です。
そういえばスルーデーマーチは1978年(昭和53年)群馬県で第1回開催、その後第3回から東松山での開催となり、令和3年から、第44回はコロナ禍で限定的なものだったとのこと。どうやら本年の第45回は11月4・5・6日に記念大会として開催の準備がはじまっているとの情報もここで手にいれました。いつも参加する私は楽しみです。

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松山城跡は”松山合戦で知られる難攻不落の城の跡”です。松山城は比企丘陵の先端に建てられた平山城。ふもとを流れる市野川を天然の堀として利用し、その天然の要害から不落城とも言われていました。戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などの名将が激しい攻防を繰り広げたのです。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成されていたとのことです。
本日は午後かなりの雨が降り足元が危ないので見に行かずでした。

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岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音堂というのです。こちらは龍性院の境外仏堂とのこと。この観音のはじまりは弘仁年中(810〜824年)。松山城主が代々信仰し護持していましたが、1590年(天正18年)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失。現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものとのことです。
お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては大変めずらしいようです。

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吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定されています。吉見町を代表する史跡で、現在確認できる横穴の数は219基とのこと。各横穴は玄室・羨道の2部分からなり、その一部には天然記念物のヒカリゴケも自生していると伺いました。

本日は午後雨がかなり降り、松山城跡や吉見百穴は細かく見られませんでしたがお土産はしっかりとゲット。本日の埼玉の逸品は東松山の名菓富久屋の「松ぼっくり」。その他は百穴の高橋売店で購入。いずれにしても雨が降ると資料館も含め細かく見ることが出来ません。今年はまたスリーデーマーチで立ち寄ると思うのでまずは“良し”としました。
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今日はあいにく午後雨が降り、気温13℃と低め、ということで吉見百穴からバスで東松山駅まで出て東上線で帰宅。それでも2万歩の行程はまずまず。次は越谷市、幸手市、秩父市と予定を入れていますからまた頑張ります。
posted by yunofumi at 18:47| あちこちウォーク

2022年05月03日

2022.4.24 さいたま彩発見ぶらり街あるき 春日部市

今朝は今にも雨が降り出しそうな空模様のもと、喜多見先生、TD増田さん、参加者22名と共に出発。

東武スカイツリーライン春日部駅東口⇒粕壁神明社⇒ぷらっとかすかべ⇒永嶋庄兵門商店⇒最勝院⇒古隅田川・大落古利根川⇒上喜蔵河岸跡・新町橋⇒浜島家住宅土蔵・高札場跡⇒新町橋西信号⇒かすかべ大通り⇒埼玉りそな銀行⇒問屋場跡⇒日光道中粕壁宿⇒田村荒物店⇒ミセと蔵⇒古利根公園橋⇒古利根きらめき通り⇒大落古利根川⇒碇神社・イヌグス⇒春日部商工会議所⇒匠大塚⇒利根川せんべい⇒文化会館前信号⇒脇本陣跡⇒東陽寺⇒一宮信号⇒八坂神社⇒郷土資料館⇒秋葉神社⇒暖歩(昼食)⇒春日部駅西口−電車―藤の牛島駅
⇒藤花園⇒藤の牛島駅

東武スカイツリーラインはもともと東武伊勢崎線というのです。2012年3月より、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」という路線愛称名となっています。普段利用しない私などはよく理解できませんがとにかく今日はこのスカイツリーラインを利用。

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春日部駅は明治32年に「粕壁」駅として開業し、昭和24年に現在の駅名に改称。現在の東口駅舎と西口駅舎があまりに古くていよいよ大幅な改装・増築がされるようで駅舎には「鉄道の高架化が始まります」と表示がありました。完成すればまた街の様子が変わることでしょう。

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粕壁神明社は、天明年間の1781-1789と1765年(明和2年)に当地の豪族九法四郎兵衛が土中から神体を発掘。九法家の氏神として祀られていたものの、その後、九法家の廃絶により、名主の見川家の邸内の一部となったとのことです。宿場の守り神として信仰を集め、現在では、「疫病封じ」として始められた例祭と、「春日部のお酉様」とも称される新穀感謝祭が行われているようです。

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ぷらっとかすかべは市内の観光情報、市の特産品などの魅力的な情報を発信している所。この情報発信館は、「誰でもぷらっと気軽に立ち寄れる憩いのスペースであり、春日部の特産品やまちの情報などを全国に発信するプラットホームでもあってほしい」という願いが込められています。本日は特産品の「麦わら帽子、桐箪笥、押絵羽子板」などの展示が目立ちました。また首都圏外郭放水路の紹介もありました。これは地底50mを流れる世界最大級の地下放水路で、中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、洪水の一部をゆとりのある江戸川へと流すことができるようになっています。

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永嶋庄兵門商店は創業が慶長年間のお米屋さん。何しろ建物が立派でした。

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真言宗智山派寺院の最勝院(さいしょういん)は、華林山慈恩寺と号します。最勝院は、慈恩寺の僧「尊が、慈恩寺を退いて1504年(永正元年)当地に創建したと伝えられます。1649年(慶安元年)には寺領15石の御朱印状を幕府より受領、近郷に末寺を擁した本寺格の寺院でした。
本堂横には春日部重行公墳があり、明治時代には粕壁小学校や粕壁税務署などにも利用されたとのことです。
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古隅田川と大落古利根川の合流地点。

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上喜蔵河岸跡・新町橋。
古利根川にかかる新町橋のたもとには、江戸時代、上喜蔵河岸(かみきぞうがし)という河岸場がありました。現在も長方形に整形された石を積む「切込みハギ」という工法による石垣が2〜3段、現地でみることができました。
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河岸場はこのほかに、碇神社(いかりじんじゃ)付近に下喜蔵河岸(しもきぞうがし)があったといわれ、いずれも江戸時代中ごろに粕壁宿の名主であった見川喜蔵(みかわきぞう)の名前が由来とされています。
粕壁宿は、このような河岸場を利用して、日光道中の陸路と古利根川の舟運の結節地として発達しました。
幕府により江戸川が開削、整備されると、江戸への物資の輸送には江戸川が使われるようになりました。古利根川は、流域の新田開発が進み、途中に溜井(ためい)などの利水施設が設けられたため、江戸へ直接、荷物を運ぶことが難しくなり、地域間の舟運路として使われました。

浜島家住宅土蔵・高札場跡は春日部駅東口より徒歩7分くらいのところ、旧日光街道脇の交差点、スポーツクラブの道を挟んだ反対側にあります。ここは、明治22年の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だったのです。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用されたとの事です。

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問屋場跡の案内板。
問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は1826年(文政9年)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。

日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし1716年(正徳6年)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。粕壁宿は、江戸時代1616年(元和2年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。1636年(寛永13年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

ミセと蔵の標識がありました。粕壁宿は江戸日本橋から4番目の宿場。宿場には本陣・脇本陣・旅籠・問屋場があり、粕壁は日光街道23宿の6番目の規模でした。粕壁の商家は間口が狭く、奥行きの長い敷地になっていました。街道に面しては「ミセ」、その奥には生活空間としての「オク」がありました。粕壁宿は古利根川に沿って蔵を連ね、船を乗り付けて荷物の上げ下げを下とのことです。

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古利根公園はまちの中心を流れる古利根川に架かる橋上の公園。川沿いの公園とは一味違った感じで古利根川の景観を楽しむことができる人気のスポットだそうです。また、日の入り後は中心にある「麦わら帽子をコンセプトとしたモニュメント」をライトアップしているようです。(点灯時間:日の入り〜午後10時)。この橋の上にも作家さんが作った作品がありました。

古利根きらめき通りウォーキングコースが設置されていました。
⓵古利根公園橋⓶春日橋⓷埼葛橋C八幡橋D牛島人道橋Eゆりのき橋F藤塚橋G古利根橋
このコース全体でトータル6.1km、約2時間とのこと。かなり気持ちよく走れそうです。

大落古利根川は南埼玉郡と北葛飾郡の郡境を画し、「古利根川」という名称が付されているようにかつては「利根川」の本流で、「大落」とは大きな農業排水路という意味とのことです。現在でも利根大堰からの水が埼玉用水、葛西用水路等を経由して流れ込んでいるのです。このため、4月〜10月は豊富に水が流れていますが、11月〜3月は大きく減少します。今では、大落古利根川は、古利根堰(越谷市・松伏町)の改築に伴い、古利根堰から東武野田線の鉄橋付近までの堤防補強工事が完成しています。近年、主に河川環境整備工事が実施され、平成16年度には、杉戸町、宮代町と連携し、階段護岸や遊歩道の設置を軸とした親水護岸の整備をしました。

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粕壁東2丁目、古利根川そばには碇神社とその境内にイヌグスの大木がありました
この地にはもともとは江戸時代の名主多田家屋敷稲荷があったようです。
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このイヌグスは根回り10m、樹高約12m、樹齢推定約600年(室町時代)で、イヌグスの生育の北限とされるとのことで埼玉県指定の天然記念物になっているとのことでした。

粕壁東2丁目の「匠大塚」は2015年大型家具店としての発祥の地だそうです。近年社内の色々が聞こえてきますが、店内の立派なことに驚きました。

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曹洞宗寺院の東陽寺は、医王山と号が記されていました。東陽寺の創建はどうやら文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したようですが、1624年(寛永元年)に焼失、1662年(寛文2年)にこの地に再建、僧熊巌が中興開山したということでした。江戸期には新西国三十三ヶ所30番目。松尾芭蕉に随行した曽良旅日記からの一文の碑がありました。
すぐそばには粕壁宿の市神として祀られた八坂神社がありました。春日部夏祭りの起源というお祭りがあるようです。

春日部市郷土資料館には春日部市の歴史特産物、日光道中模型などが示されており、なかなか見ごたえがありました。

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粕壁秋葉社は、春日部市中央にある神社。粕壁秋葉社の創建年代等は不詳とのこと。江戸時代に粕壁宿の名主であった多田次郎兵衛が邸内に建立したもので、火伏の神として崇敬されたということです。神社のあった場所は移ったようですがイチョウと松が合体した夫婦松は春日部駅の西口のすぐのところに石碑とともにありました。

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暖歩(だんぽ)は心と体を癒す、四季折々のお料理と美味しいお酒を提供する「季よせ料理」のお店。和食好きの私は美味しくいただきました。
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午後は単独で春日部駅西口にはふじ通りの藤が見られるようでしたがそれを見ずに、一路、藤の牛島駅に向かい、一駅で到着。途中では春の花があちこちで見られとても楽しかったです
牛島駅から約10分で藤花園に到着。
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藤棚の日当たりなども関係するようで、それぞれほぼ満開でしたが花の色や房の大きさも違って、とても堪能しました。
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今日の埼玉の逸品は味好堂の「春日部瓦せんべい」。帰宅後いただきましたが昔懐かしい味でした。
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本日は一日違いの曇天で19℃と少し涼しめでした。また予報では午後は雨と出ていましたが帰宅するまで雨に合わず、幸運な一日でした。美味しい昼食後は自分のわがままで御一行様から離団して藤の花を見に行きました。実は春日部市は日光街道ウォークも含め、数回訪れたことがあったからです。そして春日部駅は牛島駅の隣だとわかっていたのでちょうど藤の花が満開と思ったからです。案の定、藤の花はほぼ満開でとても見事だったので大満足でした。
さて次回は一週間後に東松山市ウォークです。有名な牡丹園はもう咲ききっているかもしれませんがまた大いに楽しみたいと思います。皆さん、また頑張りましょう!
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2022年04月04日

2022.3.28 さいたま彩発見ぶらり街あるき さいたま市南区

昨日に引き続きさいたまウォークです。本日はさいたま市内10区の最後になりました。実は浦和区を2019年5月、このシリーズの第1回目参加からなんと月日が経ってしまったことでしょう。でもコロナ禍のなかですから予定が狂っても致し方なかったのです。そしてめったにウォーキンギは連日しないのですが今日はこれを逃すことはできないと頑張っての参加なのです。
今日の先導は喜多見先生、TD反保(たんぽ)さん、参加者7名で10:00中浦和駅をスタートしました。

JR埼京線中浦和駅⇒手打蕎麦遊山⇒萬店(まんだな)⇒別所沼公園⇒花と緑の散歩道⇒浦和別所小学校⇒真福寺⇒武蔵野線第2大里ガード⇒南区役所⇒沼影自治会館⇒沼影観音厨子⇒Something Bella Gioia⇒さいたま中央郵便局⇒白幡沼⇒医王寺⇒南浦和小学校⇒焼米坂⇒神明社⇒さいたま市文化センター⇒一ツ木公園⇒大谷場氷川神社⇒丸広浦和店⇒JR埼京線南浦和駅

中浦和駅の線路名称上は東北本線(支線)ですが、運転系統上は埼京線として案内されているとのことです。そういえば浦和という地名がつく駅名は、浦和駅、北浦和駅、南浦和駅、東浦和駅、西浦和駅、武蔵浦和駅、中浦和駅、浦和美園駅の合計8駅あるのです。全く間違えやすいので注意、注意!

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別所沼公園は100万年という歴史を持つ別所沼を中心にして、昭和26年9月に開設されたとのこと。広さ7.9haの園内には、中国原産のメタセコイアなどの巨木が立ち並んでいて、ちょっと日本離れした雰囲気を漂わせています。一見北欧みたいなのです。

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立ち並んでいる巨木はメタセコイアとラクウショウ。この季節は葉がついていないので区別しにくかったです。また紅葉がきれいな秋に来てみることにいたします。

公園内には別所沼弁財天がありました。
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浦和うなこちゃんも鎮座。
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うなこちゃんはさいたま市浦和区のマスコットキャラクター。アンパンマンで有名なやなせたかしさん作。一応、さいたま観光大使なのです。もう少し大きなうなこちゃんは浦和駅でみられます。

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これはメキシコのトルーカ盆地のカリストラクカで発掘された石像の複製「風の神像」です。さいたま市とは姉妹都市のためここに鎮座。「風の神」は健康、豊作、知恵を市民にもたらす恵の神。

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ヒヤシンスハウスは詩人立原道造が、1937(昭和12)年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために建てた小さな週末住宅なのです。立原は、詩誌『四季』を主な舞台として活躍し、わずか24歳でその短い生涯を閉じた方です。
昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」とも呼ばれ、一種の芸術家村の様相をみせていたということです。当時この地には、立原の年長の友人で詩人の神保光太郎、画家の須田剋太、里見明正らが住んでいたようです。また、立原と親交の深かった東大建築学科の同級生小場晴夫は旧制浦和高校の出身でもあったことから、《芸術家コロニイ》を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだのであろうと想像されます。立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼。また、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていたとのことですがしかし、立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかったのでした。

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別所沼会館(ヘリテイジ浦和)は公園内にあるビジネスホテル。

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花と緑の散歩道は春はサクラ、梅雨時はアジサイの七色が散歩道を彩り、秋には落ち葉を踏みしめて歩く所としてよいところです。
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真言宗豊山派寺院の真福寺は、正式には法光山無量院。真福寺の創建年代等は不詳。1314年(正和3年)銘の阿弥陀三尊種子板石塔婆があるとのことでした。僧宥尊(寛文6年1666年寂)が中興したということです。北足立八十八ヵ所霊場36番でもあります。

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沼影観音堂厨子(ぬまかげかんのうどうずし)
本日は表の扉は閉まっていました。江戸時代初め頃。一間厨子、禅宗様、入母屋造。桁行1.265m、梁間0.88m、高さ2m。観音堂須弥壇に安置されており全体は漆塗りとのことでした。

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Something Bella Gioiaは武蔵浦和駅そばにありました。イタリア式食堂キャンティの系列店と伺いました。こちらはドレッシングが特徴のようでした。
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白幡沼は大宮台地の縁にあたる場所とのこと。かつての旧入間川流路の名残りのひとつとなっていて、流路は上谷沼手前を屈曲しながら芝川の網代橋付近へ流れているようです。現在でも沼の余水や大宮台地から流れてきた雨水を笹目川に排水する暗渠水路があり、上部は白幡緑道(白幡遊歩道)となっているとのことでした。
県立浦和商業高校が見えました。サギもえさをついばんでおり、のどかな風景でした。
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真言宗智山派寺院の醫王寺は、正式には上宮山。創建年代等は不詳とのこと。北足立八十八ヵ所霊場24番。
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こちらには延慶二年銘板石塔婆がありました。現在は高さ240p、幅66p、厚さ107p。しかし上部と下部がかけているようで実際には4mもあったようです。鎌倉時代の代表的なものだそうです。

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南浦和小学校の校門近くには今時珍しく二宮金次郎像がありました。

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焼米坂は別名、浦和坂。中山道を江戸から荒川を渡ってくると最初に出合う坂で、この坂を上りきると浦和宿なのです。江戸時代、中山道を通る旅人に“焼米”を売る店があり、それが名物となり名付けられたということです。

岸町神明社は、さいたま市浦和区岸町にある神社です。岸町神明社の創建年代は不詳ですが、永仁年間(1293-98)の勧請といい、調神社の末社だったともいうことです。

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一ツ木公園(いつきこうえん)はJR「南浦和駅」から徒歩10分弱の住宅街の中にある公園。周囲は坂があるため、公園は高台のようになっていて、開放感があります。坂の下からは階段になっているので、ベビーカーの方は坂の上からの入園をおすすめです。住宅街の公園としては比較的面積も広く、木々も多く、癒やされる空間となっています。この春も桜が美しくお花見をする親子連れも多く見られます。遊具はブランコやすべり台、複合遊具などが揃っていました。

大谷場氷川神社(おおやばひかわじんじゃ)
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創立年代は不詳とのことですが、大谷場の鎮守の神として古くより崇敬の篤い社とのことです。江戸初期社殿流失したようです。現在の本殿は寛文六年の棟札あり、三間社流見世棚造り屋根は板葺でした。御神体は束幣立烏帽子、丈一尺二寸余、最古色を帯たり、箱に宝暦の年号があるとのことが天保元年の新編武蔵風土記に記載されているようです。江戸時代の別当寺は華徳院であったが明治元年神仏分離令の廃仏毀釈により華徳院は廃寺されたようです。その後、太平洋戦争終結により、昭和21年国家神道から神社本庁所属の宗教法人神社となり、現在にいたったようです。
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こちらは大谷場氷川神社の狛雉子(キジ)。鳥居の手前の左右に1体ずつありました。昭和の初め頃、この地にキジが棲みついていたことから、氏子の間で雉子は氷川様のお使いと言われ、「雉子の氷川さま」と呼ばれるようになったそうです。
ご神木は鳥居そばにあった樹齢100年以上のユリノキ。推定樹高21.8m。樹齢ははっきりしないようですが1894年(明治27年)に植えたとも伝えられています。

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浦和まるひろ店がJR埼京線南浦和駅そばにあり、いったん休憩。私はここで終了とさせていただきました。皆さんはこの後浦和競馬場まで行かれました。

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本日の埼玉の逸品は浦和まるひろ店1階にある手作りぱんの「ブーランジェベーグ」のあんぱん。なかなか生地がしっとりしており、中のあんこがぎっしりと入っていてとても美味しかったです。

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そして本日は私がさいたま市10区を完歩出来たので「埼玉県40市めぐり 多彩な”埼玉”彩発見!第一ステージさいたま市10区コンプリート賞」をいただきました。すでに昨年10月には第2ステージ県央7市コンプリート賞をいただいております。このウォーキングの全体行程を見ると実際には49回第5ステージまであります。まだまだ先は長いですが、まあ、ぼちぼち参加します。
ということで本日はウォーキング日和の晴れ間の中、気温16℃、18000歩は2日間連続でしたが元気に終了。皆さん、今後もよろしく気長に頑張りましょう。
posted by yunofumi at 21:15| あちこちウォーク

2022年03月31日

2022.3.27 さいたま彩発見ぶらり街あるき 蓮田市

雨を少し心配しつつ家を出発。日中は21℃にもなるとの予報だったので薄着でお出かけ。
いつもの喜多見先生、TD小松さん、そして常連の面々が20名。

JR宇都宮線蓮田駅⇒蓮田駅西口駅前交通広場⇒愛宕神社⇒久台信号⇒川島久伊豆神社⇒元荒川河川敷公園⇒宮前橋⇒椿山2丁目⇒西城沼公園⇒ごちや(昼食)⇒城沼公園通り⇒蓮田市役所⇒蓮田市文化財展示館⇒黒浜沼⇒真浄寺⇒黒浜南小学校⇒黒浜久伊豆神社⇒蓮田IC PASAR HASUDA⇒JR宇都宮線蓮田駅

JR宇都宮線蓮田駅10:00スタート。初めての蓮田駅は湘南新宿ラインと上野東京ラインの停車駅。高崎線とは違うのでよくよく調べての乗車でした。駅自体は1885年(明治18年)日本鉄道大宮 - 宇都宮開業により設置されたとのことでした。
西口駅前交通広場には1900年(明治33年)に作詞された「鉄道唱歌 第三集奥州磐城篇」(大和田建樹作)で歌われている蓮田駅を紹介してありました。
第5番.中山道と打わかれ ゆくや蓮田の花ざかり 久喜栗橋の橋かけて わたるはこれぞ利根の川
鉄道唱歌は東海道編第1番の歌詞である、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」はよく知っていましたがこの5番は知りませんでした。まして全国の鉄道を歌いこみ北海道を含め全7集・399番までもあるとのことにはびっくりでした。
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駅を出ると早速、蓮田市のゆるきゃら「はすぴい」がお出迎え。のどかで愉快な街の印象を持ちました。
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閏戸愛宕神社は、蓮田市閏戸にある神社。閏戸愛宕神社は、秀源寺の僧が愛宕明神を宝永年間(1704-1710)に祀り創建したとのことです。明治43年に閏戸久伊豆神社に合祀され、昭和20年に再建されたようです。

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川島久伊豆神社は、蓮田市東にある神社。川島久伊豆神社の創建年代不詳。こちらは元荒川流域沿いに数多く奉斎されている久伊豆神社の一つで、江戸期には川島村の鎮守として祀られていたようです。
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このあたりから元荒川河川敷公園。公園の前後数kmに渡って、450本も連なった桜並木全体を指して「桜の名所」と言われているようです。本日はほぼ八分咲きと思いました。宮前橋あたりでも見事な桜をみました。

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西城沼公園は小さな池の西城沼を中心に作られた南北に細長い公園。
総面積は4.5haほど。沼に向かって突き出たデッキがいい感じの様子で釣り人もいました。
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この後すぐに少し早めの昼食場所の「ごちや」に到着。
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なにこれっ!というくらいの丼にびっくり!私などは半分で十分でした。

蓮田市役所を過ぎたあたりにまずは復元のたて穴住居がありました。
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そして蓮田市文化財展示館に到着しました。
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ここには先土器時代から中世までの市内各地で発見された土器(市指定の関山式土器)・石器や、椿山古墳・十三塚古墳出土品、馬込八番遺跡出土埴輪、皇朝十二銭の承和昌寶(市指定、他に市内出土古銭)、縄文時代だけでなく古墳時代や奈良・平安時代の貝塚出土貝類を、時代を追って詳しく展示してありました。私的には板石塔婆と円空仏の写真が印象的でした。
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外ではタッチパネルモニターを使って昔の風景を見ました。すぐそばが海というのが印象的でした。
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黒浜沼は上沼(うえぬま)および下沼(したぬま)の二つから成っているとのこと。付近を流れる元荒川(かつての荒川)の洪水によって形成された自然堤防によって谷地が堰き止められて出来た沼ということでした。寛永期に沼を横断する堤が築かれ、そこを往還としたことによって沼は上沼と下沼に分かれたのです。1979年(昭和54年)には「埼玉県自然環境保全地域」に指定され、2009年度(平成21年度)からは緑のトラスト保全地第11号地に指定されたのです。2000年(平成12年)には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」にも選出されたとのことでした。
黒浜沼から流れ出る水の流末は新堀排水路(新堀)に集められ、最終的に隼人堀川へ流下しているとのことでした。
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真浄寺(しんじょうじ)の鐘楼に天井絵がありました。
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黒浜久伊豆神社は室町時代の興禄年間に騎西の玉敷神社より勧奨請したようです。今は蓮田市の有形文化財になっているとのことです。

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PASAR HASUDAは東北自動車道の蓮田のサービスエリアです。こちらは実は地元の方も訪れやすいように一般道からも入れるようになっていました。ここは名前の通り、おふろやサウナ、カフェがある他に漫画や雑誌を数多く取り揃えており、ハンモックやマッサージ機などがあるリラックスコーナーや、Wi-Fi完備のワークスペースもあるとのことです。そうそう宿泊もできるそうでまた調べてみようと思います。
そして15:30無事にJR宇都宮線蓮田駅で解散。本日は1日中風がやや強かったですが気温21℃では気持ちよく快適に25000歩達成。最後まで調子は上々でしたので大満足の一日でした。
本日の埼玉の逸品は縄文サブレとおせんべい。またしてもおいしいおやつなのです。
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また明日は浦和市内の南区ウォーキングです。頑張ります。
posted by yunofumi at 11:15| あちこちウォーク

2022年03月22日

2022.3.10 2巡目第12回東京新発見「足立区」

JR北千住駅⇒宿場通り⇒千住本陣跡⇒大橋眼科⇒勝専寺⇒金蔵寺⇒森鴎外居宅址⇒千住高札場跡⇒一里塚跡⇒千住庁舎⇒千住仲町⇒川魚問屋兜ゥ与⇒内藤銀蔵博士生家⇒千住掃部淑宿・掃部宿憩いのプチテラス⇒源長寺⇒柏青果物市場⇒やっちゃ場の地⇒千住宿奥の細道プチテラス⇒足立市場・小林食品⇒千住大橋の図⇒奥の細道旅立ちの地⇒千住の橋戸河岸⇒橋戸稲荷神社⇒やっちゃば緑道⇒トラットリア・アダッキオ(昼食)⇒千住弁財天⇒関屋天満宮⇒仲町氷川神社⇒千葉灸治院跡地⇒八幡神社⇒千住神社⇒NTT千住⇒イトー児童遊園⇒大黒湯⇒学びピア⇒名倉本院⇒安養院⇒千住本町住区センター⇒横山家住宅⇒千住絵馬屋吉田家⇒丸井千住店⇒JR北千住駅

JR北千住駅はJR東日本常磐線と東京メトロ千代田線、東武伊勢崎線、首都圏新都市鉄道(つくばエキスプレス)が乗り入れている大きな駅。初めて降り立ちましたので集合に間に合うようにキョロキョロしながら西口方向に出てやっと皆さんと巡り会えました。
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駅前には大きな案内図があり、千住が荒川・隅田川に囲まれていることがよくわかりました。
駅そばには宮田亮平さんのイルカのモニュメント「乾杯」がありました。
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その中には中国で縁起が良いという15匹の大小、家族のようなイルカ達が出会い、愛を育む等の場となるようにという作家の期待が込められているとのことです。宮田亮平さんの専門は鍛金(たんきん)。この前まで東京芸術大学の学長。東京藝術大学千住キャンパス開設に尽力されたようです。またライフワークとして有名なのがイルカをモチーフにした「シュプリンゲン」(ドイツ語で「飛び跳ねる」の意)シリーズとのことでした

千住本陣跡は、市郎兵衛の屋敷跡地で今は標柱がありました。
旅の宿泊施設で本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していました。今記録ではこの標柱のところだけです。市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物だったとのことです。

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大橋眼科は今もみられる西洋館の医院で昭和57年に建ったRC3階建ての家。

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浄土宗寺院の勝専寺は、正式には三宮神山大鷲院。勝専寺は、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として1260年(文応元年)創建されたとのことです。勝専寺の木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされているようです。
勝専寺「赤門寺」という通称で親しまれており、京都知恩院が本山とのことです。

金蔵寺(こんぞうじ)は真言宗豊山派の寺院。1335年(建武2年)に開山。本尊は、かつては地蔵菩薩だったのが、現在は閻魔大王とのことです。
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境内には、2基の石塔があり、そのうちの「無縁塔」と刻まれている方は天保の大飢饉の犠牲者を供養した塔。もう一つの「南無阿弥陀仏」と刻まれている石塔は遊女を供養する塔。こちらの寺は、いわゆる「投げ込み寺」であり、岡場所で亡くなった遊女はここに葬られたということです

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森鴎外居宅址。橘井堂医院跡(現 千住ザ・タワー付近・千住1-30-3)に建てられた千住の鴎外碑。
森林太郎(鴎外)1862年(文久2年)〜1922年(大正11年)は近代の文豪。
明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。その後、林太郎は大学を卒業した1881年(明治14年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事したのです。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写があるようです。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤め、千住から人力車で通勤したのです。1884年(明治17年)にドイツへ留学。1888年(明治21年)に帰国すると千住の実家に戻ったのですが翌年、林太郎は結婚して根岸に転居。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しているとのことでした。

東京芸術センターは、公民のパートナーシップにより、『あだち産業芸術プラザ』として、「あだち産業センター」と一体的に整備された民間施設です。新しい産業と芸術を創造する拠点となります。
この地域の説明地図がありました。
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高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことで、千住高札場跡は石柱だけがありました。
主要な街道に1里(約3.927キロ)ごとに築かれたのが一里塚。ここでは石柱のみありました。

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内田銀蔵博士生家の案内が川魚問屋鮒与の所にありました。
博士は千住の旧家に1872年(明治5年)に生まれた日本の歴史学者。日本経済史学の先駆者で専門は日本経済史。

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千住掃部宿(せんじゅかもんしゅく)。
千住町は将軍徳川家光の時1625年(官営2年)に日光道中初の宿場と定められ、水戸佐倉道へ分岐する初宿、また日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場なのです。その後、千住大橋を越え小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまでの4km余りの街並みが続く千住宿となったのです。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されたとのこと。 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなむとのことです。

源長寺は浄土宗の寺院。1610年(慶長15年)、伊奈忠次が開基。寺名は忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来であるようです。ただ、実質的な創建者は千住の開発者石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で「開基」の座を譲ったという話もあるようです。裏の墓地には石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしだね)というお墓がありました。
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千住宿奥の細道プチテラスは足立区の歴史を今に伝える場所の一つ。京成本線「千住大橋」駅のそばにあります。テラス内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った松尾芭蕉の像と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがあります。

足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場。隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所。この立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しています。
今日は小林食品さんでお買い物をいたしました。
千住大橋脇から隅田川の流れそばに降りると千住の橋戸河岸。ここには広重や北斎の絵も模写され説明もあり非常に面白いところです。
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橋戸稲荷神社の創建は平安時代の926年(延長4年)とも、また室町時代の1490年(延徳2年)ともいわれており、とにかく古いのです。社殿は江戸時代末期の建築。うち本殿は土蔵造で、扉内側に伊豆長八の鏝絵(こてえ)が施されております。拝殿の前に飾られているレプリカを拝観できました。

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やっちゃば緑道はもともとやっちゃばと駅までの引き込み線の跡地を利用したところでくねくねとなかなか面白い散歩道になっていました。

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関屋天満宮の創建は949年(天暦3年)。御神体は道真公自作の百体彫刻の内の1体と伝わっています。源頼朝が奥州平定後に関所を設けたため、この地は関屋と呼ばれるようになったのです。もともと水田や茅野で度々出水したため、1787年(天明7年)、仲町氷川神社の境内に遷座したのです。

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隅田川関屋の里図。
関屋の里は、「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯とのこと。絵の中にある疾駆する三騎連れだった武士は、領国への急を知らせる早馬で早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが描かれています。ネットで全体を見ると馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえあります。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図がいいですね。

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千葉灸治院跡地。
坂本龍馬と婚約したとされる千葉佐那(1838〜96年)が明治維新後に東京都足立区に開いた「千葉灸(きゅう)治院」跡。この2人が並ぶレリーフです。 佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の娘。剣術使いとして知られており、定吉の道場に修行に来た龍馬と知り合ったのです。龍馬の着物の片袖を形見として大切に保管し、生涯独身を貫いたということです。この地に灸治院を開くと家伝の技が人気を呼び、板垣退助らも通ったと伝えられているとのことでした。

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千住神社は926年(延長4年)、土地鎮護と五穀豊饒を祈って、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社を創立したのです。1051年(永承6年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されているようです。
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狛犬は江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたもので、その狛犬の姿「子を抱える」「子を護る」はとても珍しい姿です。
これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繫盛、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)の御神徳が強かったことが理由の一つとされています。

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NTT千住は1929年に建築された鉄筋コンクリート(RC)(地上3階建)のビル。現在も使れているようです。

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イトー児童遊園。
イトーヨーカドーはスーパーだけでなく、コンビニの「セブン‐イレブン」など事業は多岐にわたっています。イトーヨーカドーの母体は、1920年に創業した「羊華堂洋品店」。当初は浅草だったが、戦後に千住へ移転。そこでイトーヨーカドーは千住を「創業の地」とし1号店が千住だったようです。またここはイトーヨーカドー創立者の伊藤ゆき氏と、その息子の夫人、伊藤せき氏が、1959〜82年に住んでいた所でせき氏から足立区へ寄贈され、88年に児童遊園として整備されたところだそうです。

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大黒湯。
足立区は昔から銭湯が多かったそうです。近年は2軒なっていたようですが昨年6月にこちらも閉じたのです。要は老朽化。建物は堂々とした大きな千鳥破風(ちどりはふ)やカーブのある唐破風(からはふ)、さらに軒下などの彫刻が豪華で、当時は「千社札」が貼られていたとのこと。

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名倉医院(なぐらいいん)は、整形外科医院(本院)。江戸時代から接骨院として名を馳せ、遠方から訪れる骨折患者も多かったということです。「名倉」の名の付く整形外科、整骨院、接骨院は全国に265軒もあり、「名倉」の名前は骨接ぎの代名詞として広く知られているようです。

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安養院。正しくは真言宗豊山派西林山長福寺安養院。鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、1598年(慶長3年)兵火に遇い、当地へ移転したようです。荒川辺八十八ヶ所霊場48番札所、荒綾八十八ヶ所霊場73番札所でもあります。
安養寺の横手に回ると「かんかん地蔵尊」がありました。
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そばに置かれている小石でカンカンと叩きながらお祈りをするとご利益があるのだとか。たくさんの人がお祈りしたために現在ではお顔がすり減ってのっぺらぼう状態となっていました

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横山家住宅は、江戸時代後期の建造物で、昭和11年(1936)に改修が行われていますが、宿場町だった千住の名残を今に伝えています。間口が9間(約16メートル)、奥行が15間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺となっています。敷地は、間口が13間(約23・5m)、奥行が56間(約102m)もあり、鰻の寝床のように長くなっています。

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吉田絵馬屋は現在の吉田晁子さんで8代目にあたります。千住宿内や近郊農村の人びとに絵馬や地口行灯に貼る絵紙、ビラの製作を生業としてきました。吉田家の絵馬は経木に絵を描き、屋根を付けた小絵馬を得意としています。眼病平癒を願う「薬師(向かい目)」や学業成就を願う「天神」など図柄は40種類余りあります。

丸井千住店10階に《千住宿》300mの1/50模型がありました。街道に沿って家々を再現しており実に精巧。また面白かったのはどの家でも家庭菜園のように畑を作っていたのが印象的でした。
もう一つおまけはこのビルの中に椿屋カフェがあったこと。私が行くコーヒー屋さんで一番のお気に入りなのです。コロナ禍になってお久しぶり!美味しくコーヒーをいただき、疲れがすっかりとれました。

本日は牧先生、TD林さんと共に13人で和やかにウォーキング。足立区2巡目でしたが初めての所もあり、かなり新鮮でした。歩程2万歩は久しぶりでしたが気温も13℃ほどあったようで気分も上々!無事に最後まで完歩できて大満足。今後もこの調子で頑張りたいです。
posted by yunofumi at 16:37| あちこちウォーク

2022年03月12日

2022,3,2 江戸古地図巡り「清澄・日比谷」

古地図巡りは全10回のシリーズ。本日、私は5回目の参加。講師は東京シティガイドの鈴木能之先生と共に11名が参加。TDは新井さん。

東京メトロ半蔵門線清澄白河駅⇒清澄庭園⇒中村学園⇒錣山部屋⇒大鵬道場・大嶽部屋⇒深川萬年橋⇒川船番所跡⇒芭蕉稲荷神社⇒正木稲荷神社⇒旧新大橋跡⇒芭蕉記念館⇒隅田川・隅田テラス⇒清洲橋⇒金毘羅宮⇒日本橋浜町3丁目⇒有馬小学校⇒水天宮⇒人形町今半⇒蛎殻銀座跡⇒からくり檜 町火消し⇒谷崎潤一郎生誕の地⇒西郷隆盛屋敷跡⇒中央区立日本橋小学校⇒堺町・葺屋敷町芝居町跡⇒椙森神社⇒伊勢重(昼食)⇒新高野山大安楽寺⇒十思公園・吉田松陰墓・十思スクエア⇒JR新日本橋駅⇒長崎屋敷跡⇒日本橋室町洲本館(淡路島洲本市アンテナショップ)⇒夜半亭・与謝蕪村居住地跡⇒日本橋ふくしま館⇒千疋屋総本店⇒新浮世小路稲荷神社・薬祖神社⇒発句也松尾桃青の春⇒江戸東京さるや⇒COREDO室町3⇒熈代勝覧⇒江戸桜通り⇒三越⇒日本銀行⇒貨幣博物館⇒常盤橋門址・渋沢栄一像⇒北町奉行所跡⇒東京駅⇒日本商工行館⇒和田倉噴水公園⇒日比谷交差点

東京メトロ半蔵門線(はんぞうもんせん)は、渋谷駅から墨田区の押上駅までを結んでいます。路線名の由来は沿線に所在する徳川家康の家臣・服部半蔵正成の屋敷の側にあったことから名が付いた江戸城(現在の皇居)の門の一つ、「半蔵門」のところを通ったからとのことです。

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本日スタート地点の清澄白河駅はすぐそばに清澄庭園があるからです。ここは池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。元々は豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったのだそうです。その後下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となってある程度の庭園が築かれ、1878年(明治11年)に荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、その後代々手を加え現在の姿になったとのことです。本日はコロナ禍のため閉園でした。

そういえばと昔、岩崎家邸宅は6つあったようです。茅町本邸・深川別邸・駒込別邸・駿河台本邸・鳥居坂本邸・高輪別邸です。いずれも家族や来賓用として使い、今もかなり残っているとのことです。

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錣山部屋は力強い突っ張りで土俵を沸かせ「鉄人」と呼ばれた寺尾さんが親方の相撲部屋。

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大鵬道場・大嶽部屋。
昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱だった亡き大鵬親方のもとに入門しその後、大鵬親方の遺志を継ぎ、大嶽部屋となっている相撲部屋。

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芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことで故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力により創建されたとのことです。

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芭蕉記念館。
芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開。多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残したということです。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれたようです。

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隅田テラスは隅田川両岸に沿って整備され、両国橋から蔵前橋の間に約800mにわたって、浮世絵や花火など、地域にちなんだタペストリーが並ぶ「隅田川テラスギャラリー」や、各地域の地元住民がボランティアで花の世話をしている「花守さん花壇」「芭蕉の句碑」などがあり、散策、ジョギング、ランチなどが楽しめる憩いの場所となっています。
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有馬小学校は中央区日本橋蛎殻町(かきがらちょう)にある公立小学校。校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことからついているとのことです。

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水天宮は1818年(文政元年)、久留米藩主の有馬頼徳(1797 - 1844)が、三田赤羽の藩邸内に久留米水天宮を勧請したのが始まり。1872年(明治5年)に、現在の日本橋蠣殻町に移ったのです。安産、水難除けの神様として知られます。有馬家との縁は続いており、2016年現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主とのことです

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蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)
昔、銀座は江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織で、その経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託していたようです。
江戸の銀座は1612年(慶長17年)に今の銀座二丁目の場所に置かれました。その後1800年に改めてこの人形町に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足したのですが当時この付近は蛎殻町だったため、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれ、1869年(明治2年)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続したとのことです。

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からくり檜 町火消し。
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣り(きやり)」です。起動時間は午前11時から午後7時までの正時の約2分間。ということは1日9回動くのです。もうひとつ、通りを挟んでからくり櫓(江戸落語)もありました。

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椙森神社(すぎのもりじんじゃ)は一千年の昔、田原藤太秀郷、将門(まさかど)の乱を鎮定の為、戦勝を祈願することがはじまりとのことです。 

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伊勢重は明治2年に日本橋の小伝馬町ですき焼き屋を始めて140年以上のお店。本日のすき焼きは本当の関東風で最近では味わえないほどの濃い醤油味でびっくりでした。

高野山真言宗の大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷跡だったこの場所に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したとのことです。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したともいわれています。ということから高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。

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吉田松陰は幕末の1859年(安政6年)安政の大獄で処刑され十思公園(じっしこうえん)には石碑と辞世の句碑があります。

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薬種問屋の長崎屋にオランダ人が滞在している間、オランダを通じてもたらされる西欧の技術や知識を知るため、多くの蘭学者や医師などが長崎屋につめかけたといわれているのがこの場所です。

半亭・与謝蕪村居住地跡は案内板のみがありました。
江戸時代の俳諧師といえば松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶。与謝蕪村は夜半亭宋阿に師事し高名になっていったのです。「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」は有名です。

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福徳神社の「福徳」とはとてもめでたい言葉で別名を「芽吹稲荷」といってこれもまた縁起の良い名称です。この神社の歴史は1000年を超えるそうですが、じつは何度も危機的な状況を乗り越えた苦難の歴史をたどる神社とのことでした。

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薬 祖 神 社。
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神。 大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様で神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名。 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。さらに2016年(平成28年)に福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座したのです。

COREDO室町3の地下1階通路には『熈代勝覧』(きだいしょうらん)が展示されています。
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これは、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる。当時の風景として珍しいのは「水売り」が描かれています。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されたのです。

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日本銀行休館設計者は、建築学界の第一人者であった辰野金吾博士(帝国大学工科大学<現東京大学工学部>教授)。明治29年に完成した西洋式建築物で、国の重要文化財にも指定されています。上から見ると「円」の形とのことです。

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貨幣博物館。
古貨幣の収集・研究家、田中啓文(1884~1956年)から日本銀行に寄贈されたコレクションを中核として開館したとのことです。常設展示では、日本のお金の歴史について、何が「お金」として選ばれ、どのように使われてきたかを、古代の和同開珎、江戸時代の大判や小判、最初の日本銀行券などの資料約3000点を通じて紹介するほか、トピック展示では、昔のお金の材料やつくり方、暮らしの中でどのようにお金が使われてきたかを詳しく学ぶことができます。大判や千両箱の重さ体験もできるのも面白いです。

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常盤橋門址・渋沢栄一像。
常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があった所。昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、旧東京市の公園(現在は千代田区立公園)となりました。残された城門の石垣は国の史跡に指定されています。
この公園の中で、ひときわ目をひくのが渋沢栄一の銅像です。日本資本主義の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように堂々と立っています。

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北町奉行所跡。
江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していました。南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。
北町奉行所は1806年(文化3年)から幕末まで、呉服橋御門内にありました。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たります。発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるといわれています。

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東京駅。

和田倉噴水公園は、昭和36年に上皇陛下の御結婚を記念して創建された大噴水を、平成5年6月の今上天皇の御結婚を機に、「継続と新たな発展」をテーマに再整備し、平成7年6月に完成したものです。整備にあたっては、和田倉地区が水と緑で構成された表情豊かで風格のある空間として、末永く国民の皆さんに親しんでいただけるよう配慮されました。具体的にはこれまでの大噴水の原型を活かしつつ装いを一新した噴水に、躍動感あふれる落水施設(滝)や静かに流れる流水施設(せせらぎ)を新たに加えるとともに、周囲の豊かな緑にも十分配慮し、「継続と新たな発展」を象徴する変化に富んだ水と緑の風景として創出されました。

本日は晴天のもと15℃と気候も良く、願った通りのウォーキング日和。参加者も11名と少なく全く和気あいあいでした。最後の解散場所が日比谷交差点でしたのでそれが少々引き延ばされた解散だった印象が強く、ちょっと残念。でもまあ、元気で22000歩を完歩できたので満足でした。
皆さんまたお会いしましょう。
posted by yunofumi at 22:54| あちこちウォーク

2022年03月05日

2022,2,27 さいたま彩発見ぶらり街あるき 八潮市

八潮市は埼玉県の東南端にあり、関東地方のほぼ中央に広がる中川低地にある所。面積は18.02㎢、東西が5.23km、南北が7.45km、地図を見ると花瓶の形をした地形とわかりました。標高は1〜4m、東を中川、西を綾瀬川、南を垳川の三つの河川に囲まれ、古くから河川の恩恵と災いを受けてきた場所とのことでした。八潮市は1953年(昭和28年)に八條、潮止、八幡の三村が合併してできた市で結果的に三村の頭文字をとって「八潮」となったようです。
本日は喜多見先生、池谷TDのもとに17名が集いウォーキングを開始しました。

つくばエキスプレス八潮駅⇒妙法寺⇒真菰田児童公園⇒大原(だいげん)中学校⇒大原橋⇒福寿院⇒大曾根八幡神社⇒新境橋⇒東京葛西用水⇒中馬場橋⇒八潮図書館⇒観音寺橋⇒観音寺⇒番場新橋⇒八潮中央公園⇒足立成和信用金庫⇒和食麺処サガミ八潮店⇒八潮駅

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首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスは秋葉原〜つくば間 58.3kmを最高運転速度130km/h最速45分で結ぶため、高速走行安定性、急曲線・急勾配通過性能を重視した設計で沿線における振動・騒音の軽減など環境面にも配慮している列車で、2005年(平成17年)に開業したとのことです。
八潮駅は市内では唯一の鉄道の駅。1日平均乗車人員は2万人弱。駅周辺は土地区画整理事業が行われておりどんどん変わりつつあるようです。

大曾根八幡神社
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この神社は、1502年(文亀2年)に勧請されたとのことですが、その前には源義光が兄源義家援軍のため、1087年(寛治元年)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より、八幡神を奉斎されたとも伝えられているようです。また社殿は大曽根一帯の総鎮守で彫刻が見事な神社として有名だそうです。彫刻は、常州北方・後藤一重の作とのことでした。

東京葛西用水
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江戸時代の初め、江戸幕府が天領開発に一環として関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路。利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として新田開発が行われるたびに延長や取水口の遷移が行われ、現在は市内部分だけでも4kmはありそうです。

八潮市の取り組みとして「八潮ブランド」が認定されています。これは八潮市の資産としてまちの価値や八潮産の製品の知名度を上げ地域活性化に取り組んでいるとのことでした。
令和2年度の認定品は「けやき通りサブレ」と「yamatoのキャリングトートバック」とのこでした。

土地のお祭りとしては八潮オビジャ・蛇ねじりがあります。
埼玉県内の無形民俗文化財とされており、弓矢で元を射ることでその年の吉凶や農作物の豊凶を占いようです。鶴ヶ曽根下久伊豆神社で行われるようです。

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真言宗豊山派寺院の観音寺は、正保山と号します。観音寺は、1534年(天文3年)不動坊として開創、長清律師が1621年(元和7年)に開山したといいます。西新井組中川通四箇領八十八箇所76番です。
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阿弥陀如来立像I・II軀は、観音寺本尊の脇侍として安置されてきた仏像。二十七菩薩の聖衆来迎図厨子安置の阿弥陀如来立像(I軀)は、一木造りの藤原様式を通す鎌倉初期の作、他の阿弥陀如来立像(II軀)は、寄木造りの金切り金様式を遺す鎌倉中期の作で、八潮地方における鎌倉期の阿弥陀如来像は少なくとても貴重なのです。

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八潮中央公園は、八潮市のほぼど真ん中にあり、八潮市役所の南西側に隣接している公園。園内には、浴衣のオブジェや野外ステージなどの設備や木々の緑が多く、平日の昼間や夕方にはのんびりと休憩される方、休みの日には親子連れやグループで楽しまれる方も多く、市民憩いの場として親しまれているようです。また、春には市内でも有数の桜の名所として知られ、満開のソメイヨシノは見事だそうです。

和食麺処サガミ八潮店
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和食のランチとしては量が多く、後でお蕎麦も出ましたので満腹。
美味しくいただきました。

そうそう埼玉の本日の逸品として埼玉の逸品 菓子道楽杵屋の「やしおつつじ」をいただきました。地元特産の小松菜入り白餡が、白玉粉を使ったモチモチの求肥で包まれていました。これは美味しかったです。

本日は晴天で16℃とウォーキング日和。しかし自分が先週の新型コロナワクチン3回目接種後かなりそれも3日間発熱したので大事をとって昼食をいただいた後皆さんとお別れし帰路につきました。ということで結局は12000歩で終了しました。
実際のその後の予定は、「恩田家屋敷林ふるさとの森・潮止揚水機場記念ひろば・鶴ケ曽根下久伊豆神社・鶴ケ曽根上久伊豆神社・太田家住宅・大経寺・八条橋・和井田家住宅・清勝院・八潮団地」とありました。これらすべてが参加できませんでした。誠に残念でまた機会があれば参加したいと思いました。特に大経寺と清勝院はぜひ後日行きたいと思っています。
posted by yunofumi at 16:48| あちこちウォーク

2022年01月31日

2022.1.23 さいたま彩発見ぶらり街あるき 三郷市

三郷市は、埼玉県の東南端にあり、都心から約15km、秋葉原まで20分で行けるそうです。市内は東西5.6km、南北9.5km、地形はほとんどまっ平。もともとは関東平野の江戸川と中川に沿った沖積平野とのこと。三郷市になって早や50年で市内にはラッピングしたバスが走っていました。今日はお正月が終わりましたが三郷七福神めぐりも兼ねたウォーキングとなります。

JR武蔵野線新三郷駅⇒新三郷ララシティ⇒みさと団地⇒三郷工業技術高校⇒二郷半領用水路⇒自然派レストラン蕎麦旬⇒玉蔵院(弁財天)⇒蜜蔵院⇒三郷市立彦成小学校記念講堂⇒延命院(寿老人)⇒東光院(毘沙門天)⇒香取神社⇒善照院(布帯尊)⇒上口公園⇒番匠免神社⇒迎摂院(弁財天)⇒三郷市消防団第五分団第3班⇒御菓司匠観音どら焼き饅頭屋⇒円能寺(福禄寿)⇒花和田児童公園⇒西善寺(大黒天)⇒成就院(恵比寿)⇒JR武蔵野線三郷駅

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JR武蔵野線新三郷駅は1985年に旧国鉄の駅として開業。その頃は武蔵野操車場を挟む形で、上下線のホームが360mも離れて設置されており、ギネス世界記録に「世界一ホームが離れている駅」として掲載されたこともあったそうです。この武蔵野操車場1986年に廃止され今は上下ホームも統合され普通の駅となっていました。そして武蔵野操車場跡は新三郷ららシティとなり、「ららぽーと新三郷」、「 IKEA新三郷」、「コストコ」などの大型商業施設が堂々とありました。いずれも特徴のある施設ですから休日などは遠くから買い物客が集まるようです。

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みさと団地はもと日本住宅公団(現・UR都市機構)により建設され、1973年(昭和48年)4月より第一次入居開始、続いて1974年(昭和49年)12月に第二次入居開始。総住宅戸数は9,867戸で、ピーク時には2万3千人の人口を擁する国内有数のマンモス団地となったのです。初めから低層と高層の2ブロックで構成されているとのことです。

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二郷半領用水路(にごうはんりょうようすいろ)は、吉川市、三郷市、北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路。元々、水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領が利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路だそうです。この地域は早場米の産地でもあったのですが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害にも悩まされていたこともあり、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行い良質な穀倉地帯となったのです。
現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っているとのことでした。

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自然派レストラン蕎麦旬は和食と本格手打ち蕎麦のお店でした。こだわりの食材を使った本格派の蕎麦をメインにした会席膳が味わえる一軒家のレストラン。まずは吟味した石臼引きのそば粉を店内で製麺し、打ち立て.茹でたての十割蕎麦をいただきました。またそばつゆは昆布 かつお さば他でだしを取り、県内.老舗の醬油で作ったかえしを使ったものとのことでした。お膳の作り方は京風でちょっとおしゃれでした。ということでまた来たいお店になりました。
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玉蔵院(ぎょくぞういん)(弁財天)
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玉蔵院は、山号を北野山玉蔵院と称し、真言宗豊山派に属します。江戸高田(現在の東京都湯島)の根生院の隠居寺として、1606年(慶長11年)建立されたといわれ、開祖は祐堅和尚とのこと。本尊の阿弥陀如来は、平安末期の作で一木造の仏像。弁財天も含め本堂も閉じられており、境内を見るだけでした。

三郷市立彦成小学校記念講堂
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この小学校は明治6年に開校。記念講堂は 1926年(大正15年)に建てられ現在郷土資料館分館でとなっていました。
講堂は2016年に大正時代の貴重な木造建築物ということで復元されたのです。 郷土資料館では、農具や農家の暮らしに関わる資料など、地域の歴史について展示しているようです。本日は内部を見られませんでしたが特徴としては天井に蝶(ちょう)・菖蒲(しょうぶ)・鳳凰(ほうおう)の透(す)かし彫(ぼ)りが二か所あること。「折上(おりあ)げ」という手法で壁と天井の境目はカーブを描く造りになっていること、外から見ると 両開きの鎧戸風(よろいどふう)の装飾窓が見えました。そして玄関ポーチを支える二本の柱は建物の外観の中でも特に装飾的で、柱は四本の角柱が半円形の柱を挟むような形に組まれており、半円形の柱材には西洋建築に見られる筋彫(すじぼ)りという装飾がほどこされているようでした。

延命院(えんめいいん)(寿老人)
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延命院は、明星山如意寺延命院と号し、真言宗豊山派の寺で、1570年頃(元亀年間)に俊秀和尚が開山したということです。本尊は不動明王。境内にある虚空蔵堂(こくぞうどう)は、虚空蔵菩薩が1486年(文明18年)に古刀禰川(現在の中川)に出現したので、村民がお堂を造ってこれを安置したのが始まりとのことです。
境内には様々な大きさの力石がありました。
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また本堂にあった寿老人がご住職の好意で拝顔できました。
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東光院(とうこういん)(毘沙門天)
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真言宗豊山派寺院の東光院は、荒神山薬師寺と号します。東光院の創建年代は不詳。上口香取神社の別当を勤めていたといいます。境内に三郷七福神(彦成めぐり)の毘沙門天がありました。
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善照院(ぜんしょういん)(布帯尊)
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真言宗豊山派寺院の善照寺は、神霊山と号します。善照寺は、1558年ころ(永禄年間)の創建。
境内の布袋尊と埼玉県のHPにあったコバトン布袋尊を並べて記念撮影です。
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番匠免神社
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番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したようです。
この神社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免にありました。番匠とは大工の古称で、地名の由来については、このあたりが番匠の免田(税を免除された田)であったことによるという説と、古くは「番匠面」とも書いたようで、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説があるとうかがいました。

迎摂院(こうしょういん)(弁財天)
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迎攝院は、真言宗豊山派に属し、山号を彦峯山観音寺。ご本尊は不動明王。1596年ころ(慶長年間)に祐貞によって中興され、このとき現在の真言宗豊山派に改宗したということです。この寺の観音堂は室町時代の創設と推定され、三郷市最古の建造物といわれているようですが本日は固く扉が閉まっていました。

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御菓司匠饅頭屋は大正2年創業の三郷市の篠田製菓饅頭屋とのこと。目玉商品は「観音どら焼き」「三郷インター最中」とのことでした。
「三郷インター最中」は本日の逸品でいただき、「観音どら焼き」は我が家のお土産にしました。
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円能寺(えんのうじ)(福禄寿)
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円能寺は、真言宗豊山派に属するお寺で、悲願山正連院円能寺と称している。本尊は不動明王。
当院は、武田信玄の家臣の田中修理という人が、1582年(天正10年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地に来たときに、携帯してきた不動明王立像を本尊として建立したと伝えられている。
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境内には、かつて松の大木があって、明治維新のときの上野の戦いに破れた兵士が追われてきたとき、この松の木に登って身を隠したことにより、助かったという言い伝えがある。それからこの松を「忍者の松」とか「人助けの松」と称して、信仰の対象になっていたということでした。

西善寺(さいぜんいん)(大黒天)
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西善院のご本尊は阿弥陀如来立像。像高90p、かや材寄木造、制作年代は鎌倉時代とのこと。この地区花和田周辺に人が住み始めたのは室町時代、西善院が建てられたのが1600年頃(江戸時代慶長年間)、現在まで西善院の代々の人々によって受け継がれてきました。

成就院(じょうじゅういん)(恵比寿)
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成就院は、神谷山谷口不動尊成就院と号し、真言宗醍醐派の寺で、本尊は不動明王。
寺伝によると、この不動明王は、最初は下総国小金領大谷口城主(現在の千葉県松戸市)が本尊として供養していたもので、天正十八年(一五九〇)に落城した時、家臣の神谷安右衛門が密かに持ち出した。その後、この神谷氏から分家に出た者が当地に移住し本尊としてこの不動明王を供養していたと伝えられる。ある時、不動明王が主人の神谷安兵衛(安右衛門の子孫)の夢まくらに立ち、「村人の願いごとは何でも聞き届けるから、人々にこれを伝えなさい。」と教えた。そこで安兵衛は僧となり、明治初年に一堂を建立し、成田山新勝寺において不動明王の開眼供養をして当堂に安置した。
以来、厄除け、災難除けなど何でも願いごとを聞き届けてくれる霊験あらたかなありがたい不動様であると伝えられ、今日もなお近郷近在の老若男女の信仰の的になっている。

三郷市にはJR武蔵野線の駅として今朝到着した新三郷駅と今到着した三郷駅、それにつくばエキスプレスの三郷中央駅があります。この三郷駅は1973年(昭和48年)国鉄の駅として開業。開業当初に自動改集札機が試験設置された駅でもあります。1992年(平成4年)にはみどりの窓口も開始されましたからそれなりに混雑していたようです。しかしいまは新三郷駅や三郷中央駅が繁盛しており少し地味になってきているようです。
本日は七福神をめぐるウォーキングのはずでしたがお正月が終わっており各々の神様がほとんど見られませんでした。ということでここで整理しておきます。
まず七福神とは室町時代末期から生まれた福の神信仰なのです。埼玉県で有名なのは草加宿・武州与野・越渡川越が有名です。私はこの3つはすでに巡っておりますまた今回の三郷は3つの地区に七福人めぐりがあるそうで、今日は彦成地区七福神めぐりでした。
七福神は恵比寿(えびす)、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)です。以下にざっと概略を示します。
恵比寿(えびす)=日本の神様、漁業の神様、烏帽子帽をかぶり釣竿と鯛を持っています。
大黒天(だいこくてん)=元々はインドのヒンズー教の神様仏法の守護神、打ち出の小槌と大きな袋を持ち米俵の上に載っている、食物・財福の神様。
毘沙門天(びしゃもんてん)=元々インドのヒンズー教の神様、仏教では多聞天という神様、武神・守護神で甲冑を身に着け矛と宝塔を持ち邪鬼を踏んでいる。インドでは財宝の神様。
弁財天(べんざいてん)=女性の神様、琵琶を奏で音楽、弁才、財福をつかさどる神様。
布袋尊(ほていそん)=中国の実在した人物、大きな袋を持って諸国を放浪した方、平和和合、金運招福の神様。
福禄寿(ふくろくじゅ)=中国の同郷の神様の化身、道教の三徳(幸福・封禄・長寿)を具現化した神様、長い頭と長い白髭、杖を突き鶴屋亀を連れている。
寿老人(じゅろうじん)=中国の神様の化身、白髭のおじいさん、長寿のシンボルの桃や鹿を伴っている仙人で長寿、諸病平癒の福の神。
もうひとつ三郷には彦のつく地名が多いと伺いました。「彦」は男の子の名前につくことはよく知っていました。そして三郷には11の彦のつく地名があったのです。ちなみに上彦川戸・上彦名・下彦川戸・彦糸・彦江・彦音・彦川戸・彦倉・彦沢・彦成・彦野です。そしてこれらの地名がある所の立地をみると中川沿いに集中しており、沢や川、江など水に関する字も多いのです。そして調べてみると「彦ってのは古代の方言でヒクのこと。ヒクとは川沿いに堆積した土砂で出来た自然堤防のこと。肥沃な土に人が集まって出来た集落に、彦の字つかったとネットも駆使してわかりました。面白いですね。

ということで本日のウォーキングを終了。喜多見先生の先導で小松TDが後ろを固め、曇天で寒かったですが本日も18名が無事に元気に約19000歩の歩程を無事を終えました。
皆様、来月の次回は三郷市のお隣の八潮市です。またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 14:50| あちこちウォーク