2018年11月06日

2018.11.2〜4  第41回スリーデーマーチ

今年もこの一大イベントがはじまりました。
私は7年目の参加です。

1日目(11/2金)和紙の里・武蔵嵐山コース。晴天、日中は20℃、でも陽射しの下を歩きすっかり汗ばみました。
今年は8月から3カ月長距離ウォーキングは控えていたので今日は試運転で5km13000歩を完歩。
こんなに小さな子たちも参加です。
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ゴールの記念写真を初日にとってしまいました。
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2日目(11/3土祝)吉見百穴・森林公園コース。晴、この日も20℃、乾燥しており気持ちよく歩けました。
本日の5kmは実質6kmとのことで今日もこのコースを24000で完歩。
途中でウエディングパレスでのご接待がありました。
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吉見百穴は都会人には珍しかったようです。
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3日目(11/4日)都幾川・千年谷公園コース。曇、時々陽射しあり、今にも泣きだしそうな空模様にもなりましたがどうやら大丈夫でした。
最終日なので仕上げにと思い、10kmコースに挑戦。歩程12km超だったそうで、27000歩を完歩。
松山高校の応援団が応援してくださいました。
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今日は特に参加者が多かったです。
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ゴール後、自分にご褒美で、「富久屋花ス五六(ふくやはなすごろく)」で豆くず餅と珈琲をいただきました。
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参加者は3日間で延8万人越え。印象としては小さな保育園児と高齢者の元気が目立ちました。今年はいつもに比べ外人さんが少なかった印象でした。私も外国の方とは一度もお話しできなかったので残念でした。
まずは今年も元気に参加できたことに感謝!やはり何事にも健康が一番です。
今後も、明るく、楽しく、元気に!!がんばりまーす。
posted by yunofumi at 18:11| あちこちウォーク

2018年10月28日

2018.10.28 ポールウォーキングin 代々木公園

毎日バタバタしていたらいつの間にか10月もほとんど終わり。
ということで日程など調整しやっと、ポールウォーキングに久しぶりに参加しました。
ほぼ3年ぶりの方にもお会いできてラッキー!
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それにしても今年の秋の代々木公園の木々は紅葉というよりは枯れていました!
これって塩害でしょうか。

でも公園内では薔薇が多く見られラッキー。
珍しい色と形の花をパチリ!
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その後久しぶりなので明治神宮へ参拝。
菊花展が開催中で目の保養ができました。
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そして結婚式も見られ、これもほのぼの!お幸せに!!
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ということで久しぶりの13000歩超でしたから自画自賛で明治神宮会館のレストランで昼食。「秋の味覚御膳」を大いに楽しみました。
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またしても馬肥える秋ですからクワバラ、クワバラ!夕食はほぼ抜く覚悟です。
皆さま、また元気にお会いしましょう!!
posted by yunofumi at 20:02| あちこちウォーク

2018年09月17日

2018.9.16 ポールウォーキングin 代々木公園

今日は代々木公園でのMBTウォーキングシューズ使用者のポールウォーキングトレーニングに参加。
毎度月2回開催なのですが今年は酷暑と天候不順で2カ月ぶりの開催でした。
宮重MBTインストラクターの指導で5人が参加しました。
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公園内を軽く周遊後はベルトを使った筋トレです。
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日常使っていない筋肉を目覚めさせるためには時々、必要なのです。
そんなこんなで悲鳴を上げながらも約2時間のトレーニング終了後は定番の明治神宮の鳥居そばにある「Café 杜のテラス」で早めの昼食。
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いつもよりも久しぶりのためおしゃべりも長めとなり、ついつい長居をしました。
これからは秋に向かい、気持ちの良い日々が続くでしょうからまたお会いしましょうと約束して解散。
皆さま、また元気に頑張りましょう。
posted by yunofumi at 17:13| あちこちウォーク

2018年09月10日

2018.9.8 国営昭和記念公園へ

数日前にこの公園で「ケイトウ」が咲き誇っている様子をTVで見ました。
ここは戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地でした。私がはじめて上京して勤務した青梅市立総合病院は立川を起点とした青梅線の河辺という駅にありました。ということで「立川」は東京の手前の街というイメージのままでいました。そして1983年(昭和58年)10月26日、昭和天皇臨席のもとに公園として開園したと聞いてもどうも足が向いていませんでした。
それからウン十年、「ケイトウ」と聞き、「この花って鑑賞するの?」と不思議に思い見に来た次第なのです。
まずはJR西立川下車、西立川ゲートより入場。第一印象は広い!
すぐに水鳥の池があり、またとってもそよ風が気持ち良い!
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本日、私は開門と同時に入場しましたがまあスゴーイ!親子連れ、それも折りたたんだ自転車を持ってきた方が多いのにはびっくり。ちょっとしたブームなのですね。
もみじ橋をわたると「ケイトウ」と「パンパスグラス」が綺麗!
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「ケイトウ」の花がニワトリの鶏冠(とさか)に似ているので子供のころから見慣れていましたがこのように植えられているのははじめてでした。また花は、赤・桃色・黄色など随分いろいろありこれにも驚きました。
「パンパスグラス」はイネ科シロガネヨシ属の多年生植物だとのことです。ススキもイネ科だそうですが全く別物という感じでした。

ずっと見て回っていたら「ホオノキ(朴の木)」には大きな実が沢山ついていました。
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この木の葉はトチノキを思い出させるほど大きかったです。葉は芳香があり、殺菌作用があるため食材を包んで、朴葉寿司、朴葉餅などに使われるとのことです。
ホオノキは実の袋の塊で熟すると中から種子が顔を出すようです。幹はすっくと伸びており曲がりが少ないので下駄の歯、マッチの軸、版木として使われるようです。

途中であまりの広さに一計を案じちょうどやってきたパークトレインのどんぐり号にのって園内を一周。途中でチューリップ号とすれちがいました。
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こもれびの里、日本庭園、みんなの原っぱのオオケヤキ、花木園などまだまだ見たいところはいっぱいありましたが今日は下見に徹してとにかく全体把握ということでめいっぱいパークトレインに乗り続けふれあい広場で下車。百日紅の花やイチョウ並木などなど大いに園内の緑とそよ風を楽しみました。
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それから立川ゲ―トで出て次は「花とみどりの文化センター」そして「昭和天皇記念館」に入場。「昭和天皇記念館」は昭和天皇在位五十周年記念で設置されたとのこと。昭和天皇の生物学研究、昭和天皇と香淳皇后の遺品や写真などがありました。
その後は「花とみどりの文化センター」にあった「花文CAFÉ」でトマトカレーをいただき昼食。
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その後10数分のJR立川駅までウォーキング。
すっかり様変わりした駅前をぶらぶらしました。
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今年の夏がとっても暑かったので8月はまったく戸外のウォーキングをせずジムでの運動ばかりでした。
今日は予報では30℃超とありましたがひとまず足慣らしでお出かけした次第です。
次は来月コスモスを見に来られたら、と思っています。
posted by yunofumi at 21:02| あちこちウォーク

2018年07月09日

2018.7.7 横浜散策 第13回泉区

相鉄いずみ野線いずみ中央駅⇒神奈中泉区総合庁舎前バス停⇒横浜市泉消防団第3分団第3班⇒蚕御霊神塔⇒和泉川あけぼの橋⇒宮澤果樹園⇒長福寺⇒小次郎池⇒泉中央公園⇒石橋⇒桜川公園⇒小林経師店⇒中之宮左馬神社・地神塔⇒関島橋⇒親水公園⇒宝心寺・岩舟地蔵像・旗本能見松平家の墓所⇒ゆめが丘駅入口交差点⇒ゆめが丘駅−いずみ中央駅・サガミ(昼食)-ゆめが丘駅⇒草木橋⇒伊藤造園土木⇒四ツ谷交差点⇒第六天神社⇒鍋屋交差点⇒宝蔵院⇒源流の森保存地区・清水家⇒天王森泉公園・旧清水製糸場本館⇒境川遊水地公園⇒東泉寺⇒琴平神社⇒なむいち⇒大竹屋⇒富士塚公園⇒相鉄いずみ野線ゆめが丘駅

相鉄いずみ野線の路線は神奈川東部方面線計画の一部分を構成する区間で、このうち横浜市西部の区間が1970年代に整備されたのが始まり。1976年(昭和51年に二俣川まで、1990年(平成2年)いずみ中央駅まで開業したようです。かなりの田舎の風景が広がりこれから開発がさらに進みそうです。

泉区和泉町に「蚕御霊神塔」がありました。長後街道からほんの少し入った神明社の横に庚申塚があり、そこに大山道と二本指で方向を示した手の線画が刻まれた道標を兼ねた蚕御霊神塔(明治11年(1878年)銘)や隣には右大山道、左藤沢と刻まされた道標を兼ねた庚申塔(万延元年(1860年)銘)、庚申供養塔(文化5年(1808年)銘)や2体のお地蔵さん、石祠が立っていました。長後街道は明治中期に整備されたのです。神明社があるこの細い通りは旧大山街道だそうです。鎌倉郡に位置した泉区内には、かまくらみちや大山街道が通っているのです。慶応2年(1866年)3月に霜害のために桑が枯れてしまい蚕を育てられず、蚕を地中に埋めてしまったことから1878年(明治11年)になって蚕御霊神塔を建立し蚕の慰霊を行ったのです。養蚕は明治、大正になると盛んになり、横浜港から生糸として輸出され財を蓄えた一人が原三渓で、横浜に残る三渓園がそれを示しているのです。
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和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流として、瀬谷区・泉区をとおり、戸塚区で境川に合流しています。本日は天王森泉公園までこの川に沿ってウォーキングした後、境川遊水地公園で境川との分岐まで見られるとのことです。

宮澤果樹園は和泉川の対岸にあるモチノキの生け垣が立派な果樹園で、春はタケノコ、梅。夏はブドウ、そして、秋は柿を販売しているとのことでした。
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長福寺(ちょうふくじ)は臨済宗で、円覚寺末で本尊は釈迦牟尼仏で泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)が道場として創建したということでっす。泉小次郎は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して北条氏を打倒しようとしたこところこれが失敗し逃亡したと伝わっています。
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隣の須賀神社は小次郎が鎮守神として祀った神社といわれています。

泉中央公園には、「泉小次郎馬洗いの池」がありました。池は一年中湧水が枯れたことがなく、昔からかんばつが続くと土地の人々が集まり、池の水を汲み干して雨乞いの願いをかけてきたとのことです。
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この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年造立の五輪塔があり、池のほとりには数基の板碑もあったとのことでこれらの板碑は、公園開設の工事の時に発見された板碑とともに長福寺に保存されているようです。

和泉川左岸の低い丘陵の先端、長福寺の一帯に、城址といわれている所がある。遺構は、南北400m、東西200mに及ぶもので、東側と南側には、約4〜5mの空堀と、基底が3m、高さが1mの土塁がありました。
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中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ)の祭神は左馬頭源満仲・天照皇大神(さまのかみみなもとのみつなか・あまてらすおおみかみ)で、中和泉地域の鎮守様です。和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で、源家隆盛の頃の勧請ということです。1625年(寛永2年)、和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉が、この神社を村の鎮守として再興し、能見松平家(のみまつだいらけ)の累代の祈願所としたのです。
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本殿は総けやき造り。境内には木食観正碑・庚申塔・西南の役の忠魂碑・地神塔などがあります。
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泉区内の地神塔(じじんとう)は文字塔が多く、「地神塔」と刻まれたものや、地神が仏教と結びついて十二天の一神、地天の別称である「堅牢地神」と刻まれたものもあるとのことでした。
農業などの生産活動の守護を願う「田の神」信仰でその年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀るような行事で昔から地神信仰が盛んに行われたことがわかるようです。

親水公園。
和泉川の旧河川敷を利用した親水広場です。 淵、中洲、蛇行など、自然河川の原型を復元した親水性の高い施設でており、川には、水鳥が多く見られるとのことです。
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手造り郷土賞の記念の石碑がありました。

宝心寺(ほうしんじ)は和泉山松雪院と号し、本尊は阿弥陀仏。もとは泉小次郎親衡が菩提寺として建立した泉龍寺といわれており実は子孫が絶え荒廃していたのを、1651年(慶安4年)に領主の松平勝左衛門昌吉が浄土宗の寺として建立し、宝心寺としたとのことです。境内には
和泉廻化地蔵尊と岩舟地蔵尊や庚申塔があり、参道入口には車塔が建っていました。
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宝心寺の参道入口に立つ石柱は台座階段部分含めた総高4m以上、先のほうに車輪のような石の輪がついていました。どうやら高尾山でも見かける輪蔵のようで1回まわすとご利益があるようです。
側面に歌が刻まれており資料の解説をうかがいました。
『昨日みし人はと問えば今日は無し 明日は我が身も人に問われん』
『末遠く思ふうちにぞ近くなる 身のたねまきよ日の暮れぬ間に』
十八世住職の頃、明治四年に約60名の寄付者によって建立。

奥の墓所には旗本能見松平家のお墓が沢山ありました。
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第六天神社は通称下和泉上分の鎮守さま。鳥居前の水田が開発される前は、和泉川沿いから眺めると、白い御影石の鳥居が背景の緑の森に映えて、古鎌倉道のたたずまいとともに美しかったとのことです。ご祭神は社名の示すように天神第六代の「面足能命(おもたるのみこと)、惶根能命(かしこねのみこと)」の二柱とのこと。
この神社の東側に酒湧地または弁天地と呼ばれる泉があり、島の中に小祠が祀られているとのことでした。

真言宗大覚寺派寺院の宝蔵院は、東峰山といいます。本日は本殿と客殿の工事中でした。宝蔵院は、阿闍梨朝興法印が1547年(天文16年)に創建、東之峯光円寺と号していうことです。寛永年間に朝栄が本堂を大日山附近より吉田町に移し、東峯山金剛寺宝蔵院と改号、幾度かの移転を経て当地には昭和18年に移転したとのことです。
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板碑(いたび)は、石で作った供養塔といわれる石塔婆(せきとうば)の一種で、死者の冥福を祈りまた生前の逆修(生前にあらかじめ自分のために死後の冥福を祈ること)の供養塔だそうです。この板碑はとても古そうでした。

源流の森保存地区は、緑豊かな都市景観を形成し、市民生活に潤いと安らぎを与えているとともに、保水・治水機能の保全と河川の水量の確保に寄与している郊外部の良好な樹林地について、土地所有者の方が協力して樹林地の保存がなされている所です。 ここは旧清水製糸場があったそうです。

天王森泉公園(てんのうもりいずみこうえん)。
和泉川沿いに広がる水田と斜面の緑地が昔懐かしい農村の風景でした。この台地は豊富な湧水があったことから流域には20以上の製糸場あったそうです。この辺りの一角の約35000uのこの公園があるのです。
正面入り口に移築した旧清水製糸場本館がありました。広々としてとても立派でした。
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本館裏には湧水の森(ゆうすいのもり)がありました。
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木々の間ではリスが遊んでいました。

境川遊水地公園は泉区・戸塚区・藤沢市に接しており境川の洪水被害を軽減させるための遊水地を平時は公園として利用しているところです。
野球・テニスなどのスポーツの場所が見られました。
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また様々な生物や水辺の風景も楽しめるビオトープもありました。ちょうどサギが見えました。
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境川の新遊水地橋の下ではアユの遡上が見られ大感激でした。
園内情報センターは遊水地の管理すするとともに境川の自然や遊水地の仕組みや役割を見ることができました。

東泉寺は境川の反乱にあったことから1590年(天正18年)、領主旗本筧為春によりこの地に移転してきたようです。相模の国準四国八十八カ所五十九番目札所で弘法大師石像があるそうです。
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琴平神社のすぐ傍に珍しい男女の双体道祖神がありました。
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富士塚公園に富士塚城址の大きな石碑がありました。この辺りは源頼朝の危機を救った飯田五郎家義の館があった所とのことでした。明治の頃にはこの辺りで五輪塔や納骨瓶などの出土品があったそうです。
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相鉄いずみ野線ゆめが丘駅は島式ホーム1面2線を有する高架駅。斬新な造りの駅で、駅全体をカーブした鉄骨で囲み、鉄骨の間に屋根や風除けの板をはめ込んだ形状となっている。この板は透明なアクリル製。少し古くなってきたようでアクリル板の劣化が進んでいるのか視界は悪くなっていました。2000年(平成12年)には 関東の駅百選に選出されたとのことです。

本日は9:30集合、16:30解散で少し長かった。どうやら食事場所がなく途中で電車で移動もあったからと後で気づきました。私は自宅からいずみ中央駅まで2時間越えでしたからちょっと大変だったのです。それでも雨の合間の曇り空ながら気温29℃、やや風があり誠に気持ちの良く、歩程約10km、20000歩はあまり疲れもないウォーキングができました。やはり自然が多くみられるコースは気持ちが良いのです。次回は9月ですからまた楽しみに待つことにいたします。

本日は曇り、気温29℃、やや風がありウォーキングがとても気持ちよくできました。参加者25名は講師浅井先生、TD関さんのお世話でAm9:30〜PM4:30までと少し長かったのですがこれは昼食のためゆめが丘駅といずみ中央駅を往復したため。ということで歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。まだまだこのシリーズは続きます。頑張ります。
posted by yunofumi at 23:22| あちこちウォーク

2018年06月22日

2018.6.17 横浜散策 第12回戸塚区

JR戸塚駅⇒オーロラシティ⇒福寿歩道橋⇒福寿観音⇒柴田農園⇒旧東海道・品濃坂上⇒品濃坂歩道橋⇒品濃坂・品濃町⇒楓の風⇒東戸塚駅入口交差点⇒旧東海道・海道橋⇒旧東海道・赤関橋・川上川⇒上柏尾交差点⇒柏尾歩道橋⇒瑞穂神社⇒柏尾バス停⇒柏尾小学校入口交差点⇒王子神社⇒四つ杭跡⇒護良親王首洗井戸⇒戸塚警察署不動坂交番⇒益田家のモチの木⇒大山前不動・柏尾の大山道道標⇒史跡への小径⇒斉藤ハム製造本舗⇒舞岡川・元舞橋⇒舞岡町入口バス停⇒舞岡入口交差点⇒五太夫橋⇒宝蔵院会館⇒江戸方見附跡⇒読売新聞戸塚東部⇒妙秀寺⇒旧東海道・吉田一里塚跡⇒森永牛乳店⇒吉田大橋⇒横浜矢部郵便局⇒伊東医院⇒戸塚駅・TOTSUKANA漁師料理海ぶね⇒戸塚大踏切デッキ⇒南向山清源院・芭蕉の句碑⇒SACLASS⇒バスセンター前交差点⇒大和証券戸塚支店⇒内田本陣跡⇒戸塚郵便局⇒問屋場跡⇒澤邊本陣跡・羽黒神社⇒戸塚消防署⇒消防署前バス停⇒歯科佐藤⇒保田動物病院⇒日立入口バス停⇒八坂神社⇒かまくら道道標⇒八坂神社前交差点⇒冨塚八幡宮・冨塚天満宮⇒上方見付跡⇒大坂下バス停⇒日立入口バス停⇒柏尾川桜並木道・桜橋⇒豊塚堰⇒JR戸塚駅

福寿観音
JR東戸塚駅からすぐの福寿歩道橋そばにありました。建立した願主は福原政二郎氏。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い、土地造成を担当した新一開発の社長さん。昭和38年(1963年)以来、この東戸塚の開発の旗振りをやってきた人で信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したとのことでした。
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品濃坂(しなのざか)には環状2号線の上を跨いでいる“品濃坂歩道橋”の西端に 高さ1m弱の小さな祠のような家型の標識がありました。
坂名の由来は不明とのこと。戸塚区平戸の台地から 急坂を下る 古い歴史のある坂道で、現在は 坂の途中が環状2号線によって分断されてしまい,東西が「品濃坂歩道橋」でかろうじてつながっているだけなので,これらが もともと つながった一つの坂だという知識がないとわかりにくい感じでした。
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品濃坂を下り旧東海道に沿って歩くと柏尾川沿いに海道橋、赤関橋を通過、柏尾小学校を通過して王子神社に到着。
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王子神社は後醍醐天皇の第一皇子護良親王(もりながしんのう)が祭られているようです。侍者が、護良親王の御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、密かに現本殿の位置に埋葬したと伝えられています。四抗とは、御首を洗う為の四本杭の簀の子のことで、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛ともいうようです。また、首を一時隠し奉った所を「御墓」といい、老松がありました。
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近くに親王の御首を洗い清めた井戸とされる「首洗(くびあらい)井戸」がありました。
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益田家のモチの木は通称「相模モチ」といわれ、不動坂交差点北東側の旧「益田家」の敷地内に樹立、2本の雄株が寄り添うようにそびえ、片方は高さ18m・根回り3.1m、もう片方は高さ19m・根回り4.9mあったそうです。樹齢約300年と推定され、江戸時代以来、東海道沿いにその威容を誇ってきた歴史的価値のある樹木として、1981年(昭和56年)に神奈川県指定天然記念物となったのでした。ところが2017年2月に倒木の危険があると切って今の状態になったそうです。いやはや歴史を知らないと大変なことになるのですね。びっくりしました。
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大山不動尊・柏尾の大山道道標。
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大山には大山阿夫利神社と追分不動尊が祀られていて、江戸時代からよく信仰されているとのこと。参拝者は旧東海道から大山街道を利用して伊勢原に入り大山産廃に向かうのでした。この大山街道の入り口がこの柏尾にあることから追分不動尊が建立されたようです。

斉藤ハム製造本舗の隣は鎌倉ハムの倉庫で日本人によるハム製造発祥の地。この倉庫は今でも持主が貯蔵庫として使用しているようです。
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ブリジストン工場前の国道(東海道)には五太夫橋」が舞岡川に架かっていました。
橋にはプレートがあり、以下のように書かれていました。
「石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏 の家臣で豊臣秀吉 の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正一八(一五九〇)年江戸に入る徳川家康 をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓があります。」

江戸方見附跡。
以前東海道五十三次でこの地を訪れた時はイオンだった所が工事の塀で囲われ江戸方見附跡の碑は窮屈そうでした。見附は宿場町の出入り口で、戸塚宿の入口を示しています。
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妙秀寺は日蓮宗のお寺で身立山妙秀寺。鎌倉の小町にある妙厳山本覚寺の末寺で、題目である「南無妙法蓮華経」の弘道の拠点として延文元年(1356年)に創建されたとのこと。開基は豊島氏一門の妙秀禅尼、開山は身立院日修(しんしゅういんにっしゅう)聖人。ご本尊は宗祖・日蓮大聖人折伏像で、寄木造りで玉眼彩色された高さが34.2cmの像。
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境内には2つに折れたものを繋いだ「(かま)くらみち」道標がありました。上部は剥離して字が読めないけれど、歌川広重作の浮世絵「東海道五拾三次」の「戸塚宿」に描かれた「左かまくら道」道標とする説や大正時代に大橋の袂にあった2つに折れた道標を移設した等の伝承があるようです。しかし、裏面に「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の題目が彫られていることからこの道標は妙秀寺から真っ直ぐ行った柏尾川の土手の寺側あたりにあった鎌倉道道標ではないかとうかがいました。
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旧東海道・吉田一里塚跡。
吉田の一里塚は明治に入り早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40km。昔は、40kmは一日で歩く距離、したがってこの辺りで旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所だったのです。今は案内板だけでした。

吉田大橋。
正式名称は「大橋(おおはし)」。
江戸時代の浮世絵にも描かれている歴史ある橋ですが、現在の橋は昭和61年に架け替えられた橋です。
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この辺りの路面にはこの広重を元にしたマンホールがありました。
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南向山清源院。
浄土宗寺院の清源院は、南向山長林寺と号し、かつて安達藤九郎盛長の一族長林某が創建した獅子王山林長寺があったこの地に清源院尼が元和元年(1615)に開基、小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建したといわれています。
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芭蕉の句碑、心中句碑、徳川家康の側室の於萬の方(清源院殿)の火葬跡もありました。
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内田本陣跡。
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本陣は、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があったのです。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったということです。

問屋場跡。
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戸塚宿には大小あわせて75の旅籠(はたご)、本陣が2軒、脇本陣3軒がありました。そしてこの辺りが宿の手配等を行う問屋場だったようです。どうやらこの通りを挟んで斜め前の大きなビルの辺りとのことでした。

澤邊本陣跡。
澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つ。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者で明治天皇の東下の際には行在所になったようです。
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敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社がありました。1556年(弘治2年)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
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戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建したとのことです。その後1688年(元禄3年)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたといいます。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたといいます。
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お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったということです。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されているのです。

八坂神社前の交差点を渡った所にかまくら道道標がありました。
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冨塚八幡宮・冨塚天満宮
富塚八幡宮は社殿後方の山上には富属彦命の鎮堂を奉った富塚が、境内には松尾芭蕉の句碑があります。戸塚の地名は、この「富塚八幡宮」の「富塚」からきていると言われているようすで戸塚の氏神様として市民の信仰を集めているのです。
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拝殿・本殿に向かい右手前側に裏山へ上る山道をたどると「富塚の碑」という石碑があるとのことでした。「富塚」は戸塚区内に現存する唯一の前方後円墳なのです。
学問の神様でもある、天満宮の社殿が神社社殿の脇に建っており、合格祈願に訪れる人も多いとのことです。さらにその横には庚申塔が沢山ありました。
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上方見付跡。
東海道の各宿場の出入口には見付がおかれ、ここで大名行列などを出迎えました。ここは戸塚宿の京都の方で上方見付なのです。モニュメントが作られていました。
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柏尾川桜並木道。
柏尾川は、戸塚区柏尾町の阿久和川と平戸永谷川の合流点から藤沢市の境川合流点までの延長約11kmの二級河川。流域面積は約84km2、横浜市内では2番目の大きさ。この川は、昔は暴れ川と呼ばれ、たびたび洪水を繰り返していたのです。その治水対策として本格的な河川改修が行われたのは昭和55年からで、流域での1時間あたりの降雨量50mmに対応する整備が進められてきました。 また、上流側のブリヂストンに隣接する柏尾橋から栄区飯島橋までの区間には、河川管理用通路を活用した緑豊かな親水空間であるプロムナードもあるとのことです。堤防や高水敷を利用した広場やイベントステージ等があり、水辺でのレクリェーションを楽しむことができる憩いの空間なのです。柏尾川の桜の歴史は古く、安政年間からで、大正〜昭和初期には、戸塚駅から大船までの両岸に見事な桜のトンネルができ、関東屈指の桜の名所として知られるようになりました。その後、戦争や改修による伐採と新たな植樹を繰り返し現在に至っているのです。 現在、区内の柏尾川プロムナードに現存する桜は約700本で、その約8割がソメイヨシノ。その他には、オオシマザクラ、ヤマザクラなど9品種が確認できているとのことでした。
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戸塚区は自治体の取り組みが良く、あちらこちら見るところはほとんど案内があり、感心しました。しかし昔の風情がほとんど残っていない場合が多く、これは少し残念に思われました。
本日は曇り、気温22℃、風はほとんどなく、ウォーキングにはまずまずの日和。参加者22名は講師浅井先生、TD関さんのお世話でAm10:00〜PM4:00までに歩程約10km、約2万歩を完歩。元気で終了することができて何よりでした。まだまだこのシリーズは続きます。頑張ります。
posted by yunofumi at 22:33| あちこちウォーク

2018年06月16日

2018.6.10. 山手線歴史探訪ウォーク 第10回

新橋駅〜東京駅
JR新橋駅烏森口改札⇒新橋駅D51機関車の動輪・鉄道唱歌の碑⇒スペースFS汐留⇒汐留シティセンター⇒旧新橋駅停車場・鉄道歴史展示室⇒ゆりかもめ新橋駅⇒汐留駅⇒はまかぜの階段⇒旧浜離宮恩賜庭園⇒ベルサール汐留⇒銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機⇒銀座郵便局・検査業務開始の地⇒中銀カプセルタワーホテル⇒建築の礎石(汐留遺跡)⇒昭和通り銀座歩道⇒銀座三井ビルディング⇒とらや⇒ライオン⇒交詢社通り⇒スズラン通り⇒銀座千疋屋⇒COACH⇒TOKYU PLAZA⇒数寄屋橋公園⇒泰明小学校・銀座の柳2世⇒山下橋跡⇒山下橋架道橋⇒帝国ホテル⇒鹿鳴館跡⇒日比谷公園・馬の水のみ・大岡越前守忠相屋敷跡⇒検察庁⇒法曹会館⇒皇居坂下門⇒桜田門⇒汐見坂⇒二の丸庭園⇒平川門⇒将門塚⇒GUERANICA⇒JR東京駅

JR新橋駅烏森口改札。
古くからの商店街や中小様々な雑居ビルが混在する、ビジネスマンの歓楽街、それに烏森神社が傍にあるのでこの改札名になったようです。

新橋駅D51機関車の動輪。
JR新橋駅の汐留口を出て左側、ゆりかもめ新橋駅の入り口の正面にあるモニュメント。またすぐ隣には鉄道唱歌の碑がありました。
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2018(平成30)年は、日本の元号が「明治」と改められて満150 年の節目の年にあたります。 幕末期に日本が開国へと動き始めた頃、日本にもたらされたのが蒸気機関車です。1869年(明治2年)、明治政府は鉄道建設を決定しましたが、技術も物資も資金もなかったため、外国人を招聘し、その指導のもとに鉄道建設を開始。1872年(明治5年)に日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業したのです。
今発掘された旧新橋停車場駅舎やプラットホームの石積み、基礎の構造が鉄道歴史展示室の裏で見られます。
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旧浜離宮恩賜庭園。
元々は江戸幕府の老中だった大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで回遊式庭園。その後宮内庁管理の離宮を経て1924年(大正13年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として現在公開されています。
藤棚、雪見灯籠、、州浜、、枯滝 、石柱、西湖堤、大島、中島 、浮島、大山、根府川山、唐津山、三百年の松など見るところが沢山ありました。
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銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機。
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この信号機は、昭和6年から昭和62年までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されたものとのことです。現在は汐留駅の廃止で、引込線も撤去されていますが、この踏切だけ残っていて、少し不思議な光景でした。

銀座郵便局の前に「検査業務開始の地」石碑がありました。ここには電信用機材である硝子の検査を行った「硝子試験所」があったそうです。
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中銀カプセルタワービル(なかぎんカプセルタワービル)とは、黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)。1972年(昭和47年)竣工。黒川紀章の初期の代表作。それぞれの部屋の独立性が著しく高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっているようですが、実際には一部のカプセルのみを交換することが困難であることから、現在に至るまで一度も交換されていないとのこと。鳥の巣箱を積み重ねたような特異な外観は、ユニット製のマンションであることの機能をダイレクトに表現し、そのメタボリズムの設計思想を明確に表現したデザイン性は高く評価されているとのこと。また、ビジネスマンのセカンドハウス・オフィスとして想定されたその内装は、ベッド、エアコン、冷蔵庫、テレビ、収納などが作りつけで完備されており、洗濯機などの日用品は配されているのでした。2006年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれています。現在、老朽化のため取り壊し・建て替えなどの提案があるようです。
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建築の礎石(汐留遺跡)。
浜離宮庭園から築地の方向に歩いた歩道橋の下にありました。説明板によると仙台藩伊達家上屋敷の土台として使われていた礎石だとのことです。

ウォーキング途中で交詢社通りに出ました。
交詢社は1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブのこと。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案。1880年に青松寺(東京芝区愛宕下)で発足。その後大正元年に財団法人化されて正式名称は財団法人交詢社。現在も一般財団として存在しているとのことです。

数寄屋橋公園は2016年にオープンした東急プラザ銀座と合わせてリニューアルされ綺麗になっています。ここは江戸時代、江戸城に初めて架けられた数寄屋橋があった所で石碑もあります。また岡本太郎作の「若い時計台」も見られます。
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泰明小学校は東京都中央区銀座の小学校。
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1878年(明治11年) 東京府立泰明小学として創立。校舎は、1923年の関東大震災の教訓から、通常の壁厚が15cm程度であるのに対し22cmを有する堅牢なつくりとし、第二次世界大戦の東京大空襲の爆撃にも耐えて現在に至っています。外観は、ツタの絡まる校舎の外壁や、連なる3階の半円形の窓、円形に張り出した講堂、緑を伴うアーチ型の開口を有する塀、“フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有しています。
島崎藤村、朝丘雪路や近衛文麿など卒業生には著名人が多いとのことです。

帝国ホテル。
1883年現在のホテルの続きで鹿鳴館が完成。1887年当ホテル設立が決まり1890年に帝国ホテルとして開業。建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層で室料は最下等50銭、2食付き2円50銭09円だったとのことです。今日はこの街歩きシリーズの最終回のため帝国ホテル内なだ万で点心のランチでした。
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日比谷通りを挟み日比谷公園の向かのNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の左の塀に、「鹿鳴館跡」のプレートがあります。鹿鳴館はイギリス人ジョサイア・コンドルが設計したレンガ造り二階建ての洋風建築で、1883年(明治16年)年落成。1894年(明治27年)華族会館に払い下げられ、1927年(昭和2年)には 現在の大和生命保険に売却, 1940年(昭和15年)に解体されたのです。プレートには以下の要に記されていました。
「鹿鳴館跡   ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった.その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった  千代田区」
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日比谷公園は霞が関、有楽町などと隣接し都心部にある都立公園。公園面積は161,636.66u。 後楽園球場や東京ドームと並んで、広さを誇っています。江戸城日比谷御門のすぐ外にあり、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれたところでもあります。中にはいるとすぐに「馬の水のみ」がありました。
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東京メトロ丸の内線霞が関駅近く、弁護士会館の角に大岡越前守忠相屋敷跡の案内がありました。時代劇で有名な大岡越前は実在の人物です。彼は徳川8代将軍吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めました。そしてこの当地が町奉行の大岡家の上屋敷跡が弁護士会館というのも面白いですね。
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桜田門(さくらだもん)は、江戸城の内堀に造られた門。1860年(安政7年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きたことはよく知られています。

汐見坂は江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名の由来とのこと。往時には坂の上には、汐見坂門があったようです。また坂の横には白鳥濠があって、防御が堅いことがわかります。

江戸城二の丸は本丸の東側にあり、3代将軍家光の命で1630年(寛永7年)に小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成。家光と秀忠との茶会が催されたとのことです。2代将軍・徳川秀忠が死去した後の1636年(寛永13年)には二の丸御殿が建てられ東側に庭園を配置したのです。現存する庭園は当時の庭園を昭和43年に復元したものだということでした。コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、赤坂御用地の池から移したアサザ、菖蒲田には昭和41年に明治神宮神苑から株を譲り受けた84品種の花菖蒲と季節ごとに色々な花が見られます。
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平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)は、平将門の首を祀っている塚。伝承では、将門の首は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されていたのが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたといわれています。伝承地は数か所もあるようで、いずれも平将門の首塚とされているとのことでした。その中でも最も有名なのが、この大手町1丁目、三井物産本社ビル傍にある首塚。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったようですがこれは、古墳であったともいわれているようです。

東京駅丸の内北口、丸の内オアゾ1階の○○(オオ)広場にピカソの「ゲルニカ」複製陶板壁画がありました。
GUERANICA(ゲルニカ、Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画です。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としているとのことです。20世紀を象徴する絵画であるといわれています。今では反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられたのです。 ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われているようです。

本日はこのコースの最終回。とはいえ、このコースでは初めての雨降り。それも一時はかなりの風雨でカッパの中は汗でぐっちょり。久しぶりでした。気温22℃もここ数日にしては低め。また講師井上先生、TD阿部さんの添乗は初回と同様でご縁を感じました。今日も歩程10km、22000歩を達成。帝国ホテルでの御馳走の後、完歩式がありました。参加者26名中完歩は24名。私は10回中2回がまだ穴あき状態なので残念ながらシリーズ終了とはいきませんでした。後日の催行を待ち、完歩を目指すことにいたします。
posted by yunofumi at 22:30| あちこちウォーク

2018年06月07日

2018.6.2. 東京新発見旅第21回 練馬区

大江戸線光が丘駅⇒光が丘東大通り⇒光が丘消防署前交差点⇒田柄5丁目バス停⇒北野八幡宮神社⇒光が丘美術館⇒光が丘警察署前⇒光が丘郵便局⇒光が丘公園・花とみどりの相談所⇒一橋セミナー⇒高松4丁目交差点⇒高松地区区民館入口交差点⇒高松小学校⇒御嶽神社⇒高松ゴルフセンター⇒谷原1丁目交差点⇒練馬青果市場⇒神新田橋⇒こぶし橋⇒谷原三之橋⇒練馬区医師会医療健診センター⇒高野台1丁目交差点⇒氷川神社⇒長命寺⇒順天堂練馬病院⇒長光寺橋公園⇒石神井川・和田前歩道橋⇒葵寿司(昼食)⇒南田中団地西交差点⇒都立石神井公園⇒稲荷諏訪合神社⇒池渕史跡公園・ふるさと文化館⇒石神井氷川神社⇒石神井城の中心郭跡⇒三宝寺池沼沢植物群落⇒パークロード⇒石神井公園駅入口交差点⇒西武池袋線石神井公園駅

大江戸線光が丘駅
大江戸線は1991年(平成3年)に都営12号線の駅として開業。2000年(平成12年)に今の大江戸線と改称したとのこと。この駅は光が丘団地のほぼ中心軸で、駅周辺には大規模な商業施設(光が丘IMA)がありました。光が丘団地内に多くの公園がありました。2017年(平成29年)現在、光が丘1〜7丁目には約13000世帯、約30000人が暮らして居るとのことでした。
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北野八幡宮神社は、練馬区田柄にありました。創立年代不詳とのことながら、康平年間(1058-1065)に創祀したと伺いました。上田柄の氏神として地元の崇敬を集め、田柄の北野八幡さまと一般的にはいわれているようです。
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光が丘美術館。
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都営大江戸線光が丘駅から徒歩で5分のところにありました。ここは日本画や陶芸、版画など、日本芸術と伝統が融けあった美術館とうたっています。平成5年に開館した私設の静かな佇まいの美術館。森田りえ子、中野嘉之をはじめとした、新進気鋭の作家の作品や、人間国宝の田村耕一の陶芸、井上員男の全長76mに及ぶ版画の大作「平家物語」など、大変バラエティに富んだ作品を楽しむことができました。
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また、伺ったところではウィーン・ベーゼンドルファー社製の特別ピアノを使用したコンサートを、月1回程度開催。また美術鑑賞の後には、敷地内に緑が美しい空間に古民家のおしゃれな蕎麦屋が併設されており、美しい景色の中ランチが楽しめるとのことでした。

光が丘団地の周囲には、春の風公園・四季の香公園・夏の雲公園・秋の陽公園の4つの大きな公園がそれぞれ特徴を持たせて作られています。
四季の香公園は約42,100uの公園。園内には、四季折々の花があふれていました。公園の中心に「区立 花とみどりの相談所」があり、盆栽などの展示や植物の情報が見受けられました。
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春の風公園は自然豊かで多くの樹木があります。特に桜の木は多く、春のお花見スポットとしても有名とのことです。人工的な川や雨水を水源とするかえる池にはさまざまな水生植物が植えられ、鯉・亀・カルガモなどが暮らしています。
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光が丘公園は、光が丘、旭町、板橋区赤塚新町にある都立の都市公園(総合公園)。
光が丘団地に隣接する練馬区最大の公園。ここは、戦前には特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場および神田區武蔵健兒學園(花岡学院)があったとのこと。戦後は米軍グラントハイツとして利用されたとのことでした。

高松御嶽神社は江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたと伝えられており1878年(明治11年)当地に遷ったとのことです。ご祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したもの。新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、1781年あたり(天明の頃)ということです。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは山行者たちのようです。むかし、ここから約150m北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺があり、明治初年廃寺となたため墓地は愛染院に合併、ご本尊の薬師如来はその時この地に移されたのです。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものだそうです。
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鳥居脇の石仁王二体は1706年(宝永3年)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄逢したもの。背面に半歳の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていたのです。
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練馬青果市場は、昭和21年6月に、東京都中央卸売市場淀橋分場の練馬配給所として業務を開始、その後いろいろ形を変えながら平成17年には卸売事業部門を分割統合して、新会社東京新宿べジフル(株)となっているとのことでした。

石神井川遊歩道。
石神井川は流路延長25kmほどの、荒川水系の一級河川。小平市が源流域で、西東京市、練馬区、板橋区、北区と、東京都北部を東へと流れ、北区で隅田川へと注ぐ。この石神井川の、板橋区中板橋辺りから東へ、北区滝野川へ至る区間の河岸は桜の並木になっており、春には見事な景観を見せてくれるのです。今日はもう花はありませんでしたが散策をしました。
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氷川神社は江戸時代初期の創建とのこと。傍にある長命寺は元々はこちらの別当だったようです。
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長命寺(ちょうめいじ)は、高野台にある真言宗豊山派の寺院。山号は東高野山。江戸時代から「東の高野山」として関東地方でも有数の霊場として広く人々から信仰を得ていたようです。
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南大門はこの寺の山門で四天王像が安置されていました。
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順天堂練馬病院。
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練馬区は23特別区の中では5番目に広く、人口は第2位。そして人口10万人あたりの一般・療養病床数は23区内で最低。昭和61年11月に地域医療振興協会練馬光が丘病院)が開設したがそれでも病床数の不足は解消しなかったようです。順天堂が2005年に開院、それでも病床数不足。現在この病院は400床の病院とのことでした。

都立石神井公園。
三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で、園内は起伏に富み、武蔵野の自然がよく残っていました。木々に囲まれ静寂な趣の三宝寺池と、ボートで賑わう石神井池のほかに、石神井城跡とこれに関する幾つかの遺跡がありました。20万uの広さがあり十二分に緑を満喫できる公園です。
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茅葺の旧内田家
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ふるさと文化館
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池渕史跡公園石神井氷川神社は石神井の郷の総鎮守社。
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現在の町名では、石神井台から石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む全域の鎮守(守り神)。今日、一般には「石神井のお氷川さま」と呼ばれているとのこと。神社の創建は、古く室町時代にさかのぼり、室町時代の応永年間(1394-1428)に、このあたりに勢力の大きかった豊嶋氏がこの地を護る石神井城の中に、城の守護神として祀ったのが創まり。武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのです。石神井城落城後も氷川神社に対する村民の尊崇は篤く、鎮守の神として仰がれて現在に至っているのです。 社殿は本殿・拝殿ともに流れ造りです。社殿に向かい右手にある神楽殿は、昭和12年の建立。

石神井城の中心郭跡。
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石神井城は鎌倉後期に秩父平氏の豊島氏とされている。三宝寺池からの水の支配のために、この地に建てたとされているのです。 武蔵関公園から流れる石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状(せんじょう)台地上に位置しています。
この石神井城は文明9年(1477)の4月、扇谷上杉家宰、太田道灌によって落城し、廃城となっています。

三宝寺池沼沢植物群落。
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今日も27℃、晴れ渡った青空の元、参加者5名は信野講師、小玉TDの付き添いで気持ちよくウォーキングしました。歩程10km、約2万歩でしたが練馬区、それも石神井の公園巡りという感じのウォーキングで都心とはいえ、緑の中を十二分に歩き回り気持ちよく終了でした。
今回で東京23区中、21区終了。後は都合で参加できなかった北区と大田区を残すのみです。
この東京新発見旅23区めぐりはこれで3巡目だそうです。まだ不参加の所は何時催行なのかわかっておりませんが気長にチャンスを待つことにいたします。とにかくこれで一段落。ヤレヤレと思いつつ面白いシリーズでした。
posted by yunofumi at 22:46| あちこちウォーク

2018年05月26日

2018.5.19. 山手線歴史探訪ウォーク 第9回

品川駅〜新橋駅
JR品川駅・品川駅創業記念碑⇒高輪交番⇒ザプリンスタワー東京⇒港区立高輪公園⇒東禅寺⇒洞坂⇒桂坂⇒高野山東京別院⇒高輪消防署二本榎出張所⇒承教寺⇒東海大学⇒虎屋⇒都営高輪一丁目アパート⇒細川家下屋敷跡・大石切腹の庭⇒保安寺⇒高輪中学校・高校⇒泉岳寺・赤穂浪士記念館⇒泉岳寺駅⇒高輪大木戸跡⇒東京トヨタ本社ビル⇒高輪郵便局⇒笹川記念会館⇒御田八幡神社⇒都営御田駅⇒田町西口交差点⇒江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地⇒港区勤労福祉会館⇒三田眼科⇒慶応仲通り商店街⇒水野監物邸跡⇒茶の木稲荷⇒三田中国飯店⇒春日神社⇒慶大東門前交差点⇒慶応大学⇒綱坂⇒三井倶楽部⇒綱の手引坂⇒伏見寶稲荷神社⇒赤羽橋⇒ザプリンスパークタワー東京⇒伊能忠敬測地遺功表⇒芝東照宮⇒芝公園⇒旧台徳院霊廟惣門⇒三解脱門⇒増上寺⇒御成門⇒青松寺⇒愛宕神社⇒愛宕山下バス停留所⇒浅野内匠頭終焉の地碑・新橋4丁目⇒新正堂・切腹最中⇒新橋4丁目交差点⇒JR新橋駅

JR 品川駅東口の駅前ロータリーに品川駅創業記念碑があります。
日本最初の商用の鉄道は, 明治5年に 品川(汐留)〜横浜(桜木町) 間に開通したとされていますが、 実は 正式開業の半年ほど前に 品川〜横浜 間で仮開業しています。 つまり, 品川駅は 日本で最初の鉄道駅なのです。
碑文の表面には品川駅創業記念碑 明治五年五月七日品川横浜間鉄道開通。
裏面には 鉄道列車出発時刻及賃金表 定 明治五年五月七日、賃金表  車ノ等級上等片道壹円五拾銭、中等同壹円、下等同五拾銭。
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現在の 品川駅のある場所は 実は港区で, 品川区ではないとのことです。鉄道建設当時, 品川駅は 本来の“品川”である東海道品川宿地区に置かれる計画でしたが, 「鉄道駅ができると 宿場がすたれる」という危機感から地元が強硬に反対し, やむなく 品川区に隣接する港区高輪地区に置かれることになったということでした。

東禅寺(とうぜんじ)は港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。江戸四箇寺の1つ。寺名は開基の日向飫肥藩主伊東祐慶の法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていたのです。初代英国公使はラザフォード・オールコック。この方の著書「大君の都」に水戸藩士が東禅寺を襲ったことが記されているとのことです。
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洞坂(ほらざか)は高輪3丁目16番、3丁目19番の間の坂。法螺坂、鯔坂とも書くとのこと。この辺りの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言ったようです。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、くぼ地のため洞というなど様々な説があるようです。

桂坂(かつらざか)は、高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂。かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれているとのこと。桂はよい字を当てたものらしいです。

高野山東京別院は江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年〜1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創されたとのこと。
本日は工事中で外観が見られませんでした。
1655年(明暦元年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、1673年(延宝元年)高野山江戸在番所高野寺として完成。その後1702年(元禄15年)火災により焼失したが、翌16年に復興。御府内八十八箇所の1番札所になり、白金にあった文殊院が88番の結願所になったようです現在、宗派は高野山真言宗。本尊は弘法大師。境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等があり、お遍路の受入も万全。隣に建つのは高輪警察署。地下には東京電力の変電所があるとのことでした。

高輪消防署二本榎出張所。
建物がまるで灯台のようなレトロな建物でした。ここは1933年(昭和8年)以来78年の長きにわたって高輪の街を見守り続けている現役の消防署。建物は地上3階建てで、躍動感溢れる曲線と曲面で構成された、第一次世界大戦後の「ドイツ表現主義」というデザインだそうです。3階以上のひときわ高く空に突き出した円柱部分は望楼(ぼうろう)と言って火の見櫓の役目をしていた部分とのことです。
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また消防車が数台ある中で昔のままの「ニッサン180」が車庫にありました。
これは本格的な国産消防ポンプ自動車の第一号だそうです。
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承教寺(じょうきょうじ)は日蓮宗の寺院。山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院で本尊は曼荼羅、英一蝶筆の釈迦如来像。旧本山は大本山池上本門寺ということでした。山門を入るととっても変わった狛犬がデン!
顔は獅子か虎、体は牛か猪か。とにかくはっきりしません。中国から伝わって来たようです。
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肥後 熊本藩細川家下屋敷跡。
ここは大石良雄外十六人忠烈の跡」として説明板がありました。
この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷のほんの一部でこの庭先で切腹があったようです。赤穂事件とは、1701年(元禄14年)3月14日に起こった殿中刃傷事件、それから翌年12月14日から15日にかけての吉良邸討ち入りを含めた一連の事件のことを言います。細川家は、大藩の威厳と識見をもって浪士たちを優遇し、お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけだったようです。1703年(元禄16年)2月4日午後2時、上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べたということです。切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だったとのことでした。
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泉岳寺(せんがくじ)は、曹洞宗の寺院で青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられるとのことでした。1612年(慶長17年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したけれど、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されたとのことです。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られています。もう数回伺っていますがそのたびにあちらこちらと綺麗になっています。やはりそれだけ多くの参拝客が訪れるのです。
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高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)は、1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡のことです。木戸は最初、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ、札の辻に設けられたのが、700m南のこの場所に移転し高札場として大木戸が設けられたようです。
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木戸は、最初は街道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしたのでした。現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9m) 、幅四間(7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。

江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地。
ここは、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされていました。現在は、鉄道も敷かれ、更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。この会見により、人口100万人を超える世界最大規模の都市だった江戸とその住民は戦火に巻き込まれずに済んだのです。
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水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したと伝わっています。
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慶応大学東門。
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1858年(安政5年)福沢諭吉が蘭学塾「一小家塾(いちかじゅく)」を開いたのが始まり。その後築地から芝新銭座へ移り1868年(明治元年)当時の年号に因み慶応義塾大学と名付けられたとのことです。慶應義塾三田キャンパスには、国の重要文化財である三田演説館や赤レンガの図書館旧館があり、明治の息吹を今の時代に存続させ、アカデミックな雰囲気を漂わせています。構内には「福澤諭吉終焉之地」の記念碑や佐藤春夫の詩碑など数多くの文学碑や美術作品が散在しています。慶應義塾の代表的な応援歌のひとつが「丘の上」と題されているように、キャンパスへ続く道はすべて坂道。登りきったところに学問の庭があります。
今、三田キャンパスには、文学部の2〜4年生、経済・法・商学部の3・4年生、文学・経済学・法学・社会学・商学・法務研究科の大学院生の学び舎があります。女子高等学校、中等部もキャンパスに隣接しているとのことでした。

綱坂は三田2丁目にありました。平安時代の武将渡辺綱がこの辺りで生まれたということが坂の名前の由来だそうです。

綱の手引坂。
平安時代の武将で源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の時、姥に手を引かれて行き来したという伝説により坂の名前としたとのこと。別名、馬場坂ともいうようです。

伊能忠敬測地遺功表が丸山古墳にありました。丸山古墳は 都内最大の前方後円墳で5世紀ごろに築造されたものとのことです。この古墳の頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がありました。これは、日本全国を測量し、はじめての日本地図を製作した伊能忠敬の功績をたたえたものです。
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この碑がここに建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。

芝東照宮は、当初、増上寺内境内に勧請されたようです。増上寺は1590年(天正18年)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められたのです。当時は日比谷にあったのが、1598年(慶長3年)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転したのです。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ったのです。この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称されました。安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮と称し、御神像を本殿に安置・奉斎したのです。1873年(明治6年)には郷社に列し、社殿は1633年(寛永18年)の造替当時のものが維持されていましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。1969年(昭和44年)社殿の完成を見て今日に至っている。
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芝公園は都立芝公園と港区立芝公園の総称。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたとのことでした。

台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営されました。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったのが、一部の建物を除き、戦災で焼失したとのことです。
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江戸幕府第2代将軍徳川秀忠は1632年(寛永9年)正月24日に死去。すぐに増上寺境内南側で霊廟を建立。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失しました。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられているのです。

増上寺三解脱門。
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三門(さんもん)は、元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものです。 仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶとのことです。 また三解脱門(さんげだつもん)とも呼ぶのです。 山門とも呼ぶのですがこれは、寺院がもっぱら山林にあり山号を持つからということです。
増上寺三解脱門は1622年に建築され現存する数少ない立派な山門で三解脱門が正式名称。この門の2階釈迦三尊・十六羅漢像があるそうです。

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470年(文明2年)には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
徳川家康は1590年(天正18年)江戸入府にあたり菩提寺と定めたようです。1598年(慶長3年に寺領20万坪を寄進し寺基を拝領し現在地に移って来たとのことです。
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御成門は増上寺の裏門で将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになったとのことです。もともと御成門交差点にあったが、明治25年(1882年)に東京市区改正計画に基づいて現在では日比谷通りと呼ばれる道路が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転したのです。
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増上寺の表門である大門のように背の高い白塗りの門である。しかし、鏡柱の根元が金属飾りもろとも腐りかかっていました。高麗門ですが、そこここの切妻屋根の裾に8つの飾り瓦が上がっている。浪の飾り瓦ですが、3種類の意匠があるようだ。中には、左右対称に見える浪の飾り瓦もあります。これまでの浪の飾り瓦は左右非対称に作られ、左右で対称になる場合ばかりであったのです。しかし、左右2つある鏡柱と控え柱の間の切妻屋根にそれぞれ2つずつの裾に上がる4つの飾り瓦のうち、一番外側の2つの浪の飾り瓦だけを左右対称にしているようだ。鏡柱間の切妻屋根に上がる浪の飾り瓦は表側の左右と裏側の左右がそれぞれ対称になるようにしてあり、表側と裏側とで浪の意匠を変えている。なるほど、裏門とはいえ、徳川家、それも将軍が用いる門であるだけのことはある。飾り瓦さえも個っていました。

青松寺
江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されています。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用したのです。境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出、1875年(明治8年)には、獅子窟学寮内に曹洞宗大学林専門本校を開校し、翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展したのです。入口門の四天王がとても立派でした。
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愛宕神社は1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月、関東大震災では、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。
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愛宕神社がある愛宕山は標高25.7m。出世の石段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としては23区内で一番の高さの山です。
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事です。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられ、平九郎が見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。

浅野内匠頭終焉の地碑が新橋4丁目交差点傍にありました。こちらは忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹をした最期の場所あそうで、石碑と看板がありました。
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新正堂(しんしょうどう)は大正元年創業の御菓子司。
元禄14年3月14日、殿中「松の廊下」で後の「忠臣蔵」へと発展する刃傷事件は起こり、巳の上刻(午前十時)から六つ刻(午後六時)過ぎにかけて、刃傷・・・・田村邸お預け・・・・評定・・・・切腹・・・・と、その日のうちに矢継ぎ早に執り行われたと言われています。「切腹」、殿中での刃傷とあれば無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、人々の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させた御菓子なのです。
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今日は26℃、曇り、風もなく午前はやや蒸し暑かったのですがまずまずのウォーキング日和りでした。AM9:30〜PM16:15、昼食時間1時間を除けばそれなりのウォーキングとなり
歩程12km、約2万歩でしたがあまり距離を感じないで終了でした。歴史を感じながらのウォーキングは次第に面白みが判ってきている私です。お土産に購入した切腹最中は餅入りであんがはみ出しており程よい甘さ。娘と半分づつでいただいてちょうどよかったです。
次回は終着の東京駅です。またがんばります。
posted by yunofumi at 23:37| あちこちウォーク

2018年05月16日

2018.5.12 横浜散策 第11回港南区

横浜市営地下鉄(ブルーライン)港南中央駅⇒桜道入口交差点⇒桜道コミュニティテラス⇒南台小学校⇒笹下(ささげ)中学校⇒天照大神宮⇒日野公園墓地・美空ひばり墓⇒唱導寺(美空ひばり菩提寺)⇒横浜トヨペット港南店⇒鎌倉パスタ⇒港南区総合庁舎前バス停留所⇒岡本橋記念碑⇒上岡大岡西3丁目⇒笹下釜利谷道路・かねさわ道⇒江ノ電バス関の上バス停留所⇒江ノ電バス車庫⇒横浜刑務所⇒江ノ電バス大橋バス停留所⇒大橋・笹下1丁目⇒伸幸自動車工業⇒東樹院・笹下2丁目⇒鰻井戸⇒江ノ電バス打越バス停留所⇒ASA上大岡京急屏風浦店⇒日下(ひした)小学校⇒笹下交番⇒日下小学校歩道橋⇒まがた橋⇒日下小学校運動場⇒成就院・笹下城跡⇒笹下御下(ささげおおしも)公園⇒東福寺⇒笹下中央公園雑色杉本遺跡⇒大岡川取水庭公園⇒横浜刑務所⇒港南区総合庁舎⇒港南中央駅

港南桜道は、鎌倉街道から日野公園墓地を結ぶ全長1.4kmの桜の並木道。地下鉄港南中央駅そばの桜道入口交差点からの坂道で、鎌倉街道と日野公園墓地の高低差は約50mとのことでした。桜道は、もともと日野公園墓地の参道として誕生したのでした。港南桜道の桜は、昭和8年に植樹されたものが多く、桜の寿命が平均60年とのことでかなり弱っている木もあるようです。道標が綺麗に並んでいました。
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港南天照大神の創建年代等は不詳ということですが、天正年間(1573-92)以前の創建で、往古は笹下郷の総社だったと伝わっており、江戸期には太神宮といわれたようです。
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日野公園墓地横は横浜市が運営する公営墓地。上大岡駅と港南台駅の中間程に位置する山一帯が墓地となっている所で開設は昭和8年と古く豊かな緑に覆われていました。
美空ひばりさんのお墓はかなり奥の方でした。
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すぐそばの山の端まで行くと横浜の町が一望できました。

唱導寺(しょうどうじ)は、港南区日野中央一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は延宝山で歌手・美空ひばりさん(慈唱院美空日和清大姉)の菩提寺として知られるとのことでした。
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こちらは江戸時代中期、日蓮宗学僧の妙心院日迅が、現在の茅ヶ崎市浜之郷付近に開創した布教所唱導庵が起源。1955年(昭和30年)に現在地に移転し、1967年(昭和42年)現在の延宝山唱導寺に寺号を改めたようです。

笹下川に架かる岡本橋を渡ると右側に平成5年横浜市登録文化財地域史跡に指定された岡本橋記念碑がありました。この岡本橋の名の由来は、上大岡の「岡」と松本の「本」をとって付けられた名で、この両地区を結ぶ橋でもあるのです。記念碑には、「鎌倉沿道の笹下村と大岡村の間の道が狭く坂もあり、青木台という処は曲りくねって道は険しく、ひとたび雨になると泥寧が激しく、晴れれば道は凸凹して遠回りしなければ歩けない程であったので日野村の高梨林右衛門は近隣の人々を誘い道路を一直線にするため山を切り開き、橋を架けなおしたが、地盤が新しいので雨が激しく降りしきったとき、再び修造前以上に悪くなってしまい、そこで義損金を募って明治21年改修工事をした。その功績を永久に残し伝える。」と記されているのです。
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笹下釜利谷道路(ささげかまりやどうろ)は、港南区関ノ下交差点から金沢区君ヶ崎交差点を結ぶ道路の通称でかねさわ道ともいわれるようです。

東樹院は高野山真言宗寺院で関宮山寂静寺といい沙門順玉が1127年(大治2年)に創建したと伝えられ、その後衰廃していたものを沙門至順が嘆き、笹下城主間宮豊前守の助力を得て再興したということです。
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ここには和尚さんが助けた女の人と狸の民話があり「文福茶釜」が今もこの寺に残っているとのことでお庭にはこの話を伝えるタヌキと女の人の陶製の像があります。
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鰻井戸。
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説明板がありました。それによると、鎌倉幕府を治めていた北条越後守平朝臣実時(ほうじょうえちごのかみあそんさねとき)が、1275年(健治元年)に病にかかりその後も回復しないため家臣が紀伊国那智山の如意輪観音(にょいりんかんのん)に祈念したところ、実時の枕元に観音様が現れて「西北に2里(約7.8km)行った場所に、井戸があるので、その水を飲むと快復する、その井戸には頭の斑紋がある2匹のウナギいて、それが病から救う霊物である」とのお告げ通り井戸の水を飲んだところ、実時は1日1夜で快復したということです。快復後、実時が井戸を訪れるとウナギが泳いでいたので「うなぎの井」と名付けられたのです。その後「うなぎの井」は諸国に知れ渡り、水を汲みに多くの人が訪れたのですが、実時が亡くなった後、2匹のウナギもいつとなく消え失せたとのことでした。その後、この井戸に関する縁起書は、港南区笹下の三河屋にあった、とのこと。現在の鰻井戸はブロック塀と門扉で閉ざされているので中へ入れませんでした。

笹下城跡。
金沢道のバス停「日下小学校前」から、西へ笹下川を曲田橋(まがたばし)で渡ると、成就院へ向かう坂道があり、この付近は、戦国時代小田原北条氏の武将間宮豊前守康俊が、父祖の代から受継いた笹下城跡だった所。ここの台地にはかつて「壇地」と言われていたものがあり、域郭用の削平地で「詰めの城」があったとのこと。今の洋光台武内氏宅付近に内屋敷、御下公園近くに下屋敷があったとのことです。また、成就院脇から南へ上る空堀だったところは埋められて今は道になっていました。さらにその上の高台一帯が本丸の役割を果していたと考えられているとのことです。
「成就院」は山号を梅花山、宗派は浄土真宗、本尊は阿弥陀如来像、山門は前述間宮氏の陣屋を廃止した時、当院に移築したものとのこと。
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この門前に詩人大野林火氏の「猛り鵙(もず)松籟(しょうらい)に今鎮(しず)まりぬ」の鎮魂の句碑が建っていました。
裏手墓地には1864年(元治元年)鎌倉で英国士官を殺害し処刑された間宮一の墓がありました。
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また珍しいムクロジ(無患子)の木と実を見つけました。
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ムクロジは日当りがよく湿りけの多い山中に生え、寺社あるいは屋敷林に植えることも多いとのこと。果実は約2cmの球形で、中に黒い種子が1個あり、数珠や、羽根突きの玉に用いられると伺いました。

東福寺は972年(天禄3年)天台宗の僧護妙法印という方が比叡山より行基作の「薬師像」を背負い、当地に来られ「妙法寺一乗寺」を創建したのがはじまり。 その後親鸞聖人の法弟となった海弁という僧が開基となり浄土真宗に改宗したとのことです。
こちらには珍しい花塚がありました。
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笹下中央公園の雑色杉本遺跡(ぞうしきすぎもといせき)は港南区笹下5丁目にある縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡。縄文時代早期の遺構として土壙(落とし穴)26基、竪穴住居跡1軒、石組炉1基、溝状遺構2条が発見され、縄文時代早期に発生したとみられる地割れの痕跡も見つかったとのこと。遺物として縄文時代早期の土器片(撚糸文土器・条痕文土器)、石器(石斧など)、縄文中期の土器片、弥生時代後期の土器片などが出土したのです。またこの一帯には、中世に笹下城が存在したと伝えられ、雑色杉本遺跡の範囲も城域に含まれるとされていたのですが、曲輪のような城郭遺構と目された平担な場所は、縄文時代以前に形成された埋没谷による地形で、城郭または中世に属する遺構は発見されなかったということでした。発掘調査された範囲は削り落とされ、環状2号線となって消滅。南側に隣接する笹下中央公園一帯では元来の尾根が残っており、遺跡の説明板がありました。
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大岡川取水庭公園。
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この取水庭は、かつて大岡川が東へ大きく迂回して流れ、中程に島の形態を呈していて、代々北見氏の居住地だったのです。「かわじま」の五百数拾年を超える歴史をもつ北見氏居住の地が、分水路施設のために消え去ることは惜しまれましたが、洪水対策として公共のために生かされる意義は大きく、ここに事業の完成を記念した石碑がありました。
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横浜刑務所は敷地がとても広大でした。男性受刑者が収容されており、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んだ者、日本人と異なる処遇が必要な外国人、無期刑および執行刑期10年以上の犯罪傾向が進んだ者など約1200人を収容しているとのことでした。

本日も晴れ、気温27℃、風もほとんどなく、少し暑かったですがウォーキングにはまずまずのひより。参加者25名は講師浅井先生、TD高橋のお世話でAm10:00〜PM3:00までに約2万歩を完歩。そうそう横浜刑務所の作業製品展示場が本日はお休みだったので港南中央駅にて細うどんやそばがら枕を買いました。皆さんの未来を思い、応援したいものです。
posted by yunofumi at 20:50| あちこちウォーク

2018年04月29日

2018.4.21 山手線歴史探訪ウォーク 第8回

五反田駅〜品川駅
JR五反田駅⇒大崎橋・目黒川⇒大崎広小路交差点⇒東急大崎広小路駅⇒立正大学品川キャンパス⇒大崎警察署⇒大崎ひまわり保育園⇒居木神社⇒JR大崎駅⇒GATE CITY OHSAKI⇒居木橋⇒官営品川硝子製造所跡⇒東海寺大山墓所⇒北品川変電所⇒品川学園⇒子供の森公園⇒東海寺⇒品川第二区民集会所⇒品川医師会⇒新馬場駅⇒品川神社⇒北馬場参道通り商店街⇒正徳寺⇒東海道北品川交差点⇒北品川商店街⇒品川宿交流館⇒北浜公園⇒品川浦公園・鯨塚・利田神社⇒台場小学校・御殿山下台場砲台跡⇒リンナイ・東品川1丁目⇒天王洲橋⇒農林中央金庫研修センター⇒楽水橋⇒天王洲ふれあい橋⇒SPHERE TOWER天王寺⇒モノレール天王洲アイル駅⇒第一ホテル⇒天王洲アイル公園⇒新東海橋⇒東海道北品川⇒北品川商店街⇒荏原神社⇒鎮守橋⇒品川宿の松⇒南品川一郵便局⇒品川宿場通り商会⇒そば処宝喜家⇒三岳・南品川2丁目⇒児童遊園⇒富田屋工業所⇒品川宿場通り商会⇒城南小学校⇒天妙国寺⇒青物横丁商店街⇒岡松畳⇒諏方神社⇒旧東海道⇒魚冨士⇒品川寺⇒海雲寺⇒ジュネーブ平和通り⇒南品川5丁目交差点⇒和光食堂⇒品川第二集会所⇒南品川5丁目交差点⇒ゼームス坂⇒高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)⇒品川銀座バス停⇒関森稲荷神社⇒天龍寺⇒妙蓮寺⇒新番場駅⇒心海寺⇒品川宿問屋場・貫目改所跡地・南品川2丁目⇒寄木神社⇒聖蹟公園・品川本陣跡⇒一心寺⇒丸工屋⇒尾張屋⇒品海公園⇒桝翁軒⇒北品川どうぶつ病院・問答河岸跡⇒JR品川駅

すっかり本格的な春です。我が家でも地植えの君子欄が今を盛りと咲いています。
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9:30 JR五反田駅集合。気温がかなり上昇との予報を受け、服装や飲み水をそれなりに準備。
まずは目黒川の大崎橋を渡り居木神社(いるきじんじゃ)に到着。
創建は明らかではないようですが、元々は武蔵国荏原郡居木橋村に鎮座していたとのこと。当時は「雉子ノ宮」といい、境内にはゆるぎの松という大木があったそうです。この頃、村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の4社をあわせてお祀りし、「五社明神」といわれたとも。明治5年の社号を現在の「居木神社」と改めたとのことでした。
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GATE CITY OHSAKI(ゲートシティ大崎)は、地上24階建の業務商業棟(オフィスタワー2棟と低層部の店舗・文化施設)と地上20階建の住宅棟「サウスパークタワー」を中心に多彩な都市機能を集積した複合再開発施設。JR山手線「大崎」駅直結 徒歩1分という利便性と施設内の恵まれた空間は、ビジネスの拠点として、憩いの地としてイベント、レストラン、ショップなど幅広くビジネスマンからファミリー層まで利用できるところです。この近くに友人宅があることから時々立ち寄り、お茶をする馴染みの所でもあります。

官営品川硝子製造所跡は東海寺大山墓地の入口に碑がありました。日本のガラス工業の発展に貢献した品川硝子製造所の前身・興業社が東海寺境内に建っていたことから、今の地に碑が作られたとのことです。建物は明治村に移築されており、ここにはガラスの原料・珪石も飾られていました。
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東海寺は臨済宗大徳寺派の寺院。徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど、幕府による手厚い保護を受けていたようです。500石の朱印領と47,666坪に及ぶ広大な寺域を有していたとのことです。
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梵鐘は 1693年(元禄5年)制作のようでした。

寺から少し離れた所、官営品川硝子製造所跡の脇を入ると東海寺大山墓所がありました。様々な歴史に名を残した方々のお墓などがありました。
江戸時代に作られた沢庵和尚墓。
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賀茂真淵、服部南郭、そして初代鉄道頭の井上勝の墓
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渋川春海、そして島倉千代子さんの墓
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品川神社(しながわじんじゃ)は、東京十社のひとつ。 また東海七福神の一社として、大黒天を祀られているとのことです。1187年(文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのがはじまりとのこと。
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境内入り口の階段前の門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」があり、左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されています。双龍鳥居は杉並区の高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、こちらと合わせて「東京三鳥居」ともいわれているようです。拝殿手前には浅間神社があり傍には富士塚があります。
また本殿裏には板垣退助墓がありました。
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品川浦公園・鯨塚・利田神社(かがたじんじゃ)。
利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとのこと。当地一帯は1774年(安永3年)から1834年(天保5年)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、神社は利田神社また洲崎弁天ともいわれ浮世絵師歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれているそうです。利田神社の横には鯨塚がありました。この鯨碑(鯨塚)は、1798年(寛政十年)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑です。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)があるようですが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)とのことでした。
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台場小学校・御殿山下台場砲台跡。
1853年(嘉永6年)アメリカ合衆国のマシュー・カルブレース・ペリーが、4隻の軍艦(黒船)をひきいて、浦賀沖に来航。鎖国中の幕府はすぐに江戸湾の海防強化の検討に入り、急いで品川沖から深川須崎にかけて11基の台場を造ったのです。現存するのは「第3台場」(都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみ。そして陸続きで五角形の砲台が建造され、これが御殿山下台場(砲台)とのことです。
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荏原神社。
709年(和銅2年)、奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請して創建されたようです。
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品川寺(ホンセンジ)は大同年間(806年〜810年)に開創された品川で最も古いお寺。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、1395年(応永2年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられまたのです。「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しています。品川寺では、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の三つを、お寺の三宝(さんぼう)としているとのことです。
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江戸六地蔵のひとつの大きな地蔵様です。
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海雲寺。
品川の千躰三宝荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきたとのことです。それで台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされているのです。
品川の千躰荒神。今を去る三百七十余年前、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公が出陣の折、天草の荒神が原におられた荒神様で必勝祈願したところ、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現、流石の暴徒も敵し得ず鎮定されたとのいいつたえがあるようです。以後鍋島家ではこの尊像を守護とし東都高輪二本榎木の屋敷に遷座し篤い信心のもとにお祀りしていたのです。その後明和七年寅三月に海雲寺に勧請となっているのです。
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ジュネーブ平和通り。
品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーブ市(スイス)から、"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られたがきっかけ。この通りは都道なのですが、同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられたとのことです。

ゼームス坂・高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)。
ゼームス坂はもと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれ、あまりにも急な坂道で、通行人が難儀していたのを見るに見かねたゼームスさんが、私財を投じ、現在のような緩やかな坂に改修したそうです。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたとのことです。明治時代、この坂の途中に英国人のJ・M・ゼームスさんが住んでいたのです。このゼームスさんは慶応2年(1866)にジャーデン・マディソン商会長崎支社の社員として来日し、1872年(明治5年)に海軍省に入り、造船技術、測量調査、船舶の航行などについて指導した方だそうです。日本が大好きで、生前から熱心な日蓮宗信徒だったため、1908年(明治41年)、71歳で亡くなった後、「遺骨は身延に」と言う遺言に従い、山梨県身延町にある日蓮宗の総本山・久遠寺に埋葬され、現在もそのお墓が残っているとのことです。ゼームス邸は、1927年(昭和2年)、土地と一緒に三越が買い取り、この地には三越縫製工場が建てられ、現在はマンションになっていました。
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そして、この石碑を背にした道路の反対側を見上げると、彫刻家であり詩人でもある高村光太郎の妻、智恵子が亡くなったゼームス坂病院の跡地があり、そこには、智恵子の最期の様子を描いた「レモン哀歌」の直筆原稿の写しを拡大して刻んだ詩碑がありました。
レモン哀歌   高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱつとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの気管はそれなり止まつた/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう 〜詩集「智恵子抄」より〜
智恵子は、昭和10年、このゼームス坂病院に入院。昭和13年、退院することなく、この世を去ったのです。その後、智恵子が亡くなった10月5日を「レモンの日」としたとのことです。また石碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻んであるとのことです。
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寄木神社の創建年代等は不詳ですが、日本武尊が御東征の折、走水の海を渡る際に、海が大いに荒れ舟が進まず、時に弟橘姫が渡に入り海神をなだめた為、無事に対岸木更津に着くことができたが其御乗船の一部は砕けて、此洲にも流れた木片を納めて祀ったのがこの神社とのことでした。
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聖蹟公園・品川本陣跡
品川宿は、江戸四宿の1つで、東海道53次の第一番目の宿駅(しゅくえき)として発達し、 ここはその本陣跡で品川三宿の中央に位置していたのです。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、 公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところです。1872年(明治5年)お宿駅制度廃止後は、 警視庁病院などに利用されたとも。現在、跡地は公園となり、1868年(明治元年)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、 聖蹟公園と命名されているのです。
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問答河岸(もんどうがし)跡。
北品川どうぶつ病院の脇に石柱がありました。ここはかって海岸先の波止場で、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむとのことです。
将軍--「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚--「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
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今日は27℃!暑かったです。急な気温上昇に体が慣れていないことを実感。空気はからりとし、風があったことで救われました。
講師岡本先生、TDは阿部さんと長田さん。26名が9:30集合、16:15全員完歩で終了。正味約6時間はやや長く、歩程12km、約22000歩を無事に終えられてホツ!帰りの電車では爆睡し、帰宅後はいつもの様に過ごせたことは幸せなことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 10:06| あちこちウォーク

2018年04月19日

2018.4.14 横浜散策 第10回青葉区

東急田園都市線あざみ野駅⇒あざみ野駅東側交差点⇒早淵川・中村大橋⇒向井根橋⇒驚神社⇒新石川橋際交差点⇒新石川橋⇒関耕地橋⇒老馬鍛冶山不動尊・霊泉の滝⇒大山道・老馬谷ガーデン⇒鍛冶橋⇒庚申堂⇒荏田宿案内板⇒カフェぐらすうっど⇒横浜山内郵便局⇒真福寺下交差点⇒真福寺・庚申塔⇒布川・布川橋⇒荏田宿常夜燈⇒荏田交差点⇒セブンイレブン・高札場跡⇒布引橋⇒荏田城址・徳江建具店⇒横山医院⇒城南信用金庫⇒荏田町第二歩道橋⇒荏田宿庚申塔⇒大山道・小黒谷地蔵尊⇒かごの屋(昼食)⇒東急江田駅⇒荏田猿田公園⇒長者原遺跡⇒橘・学生会館⇒えだ動物病院⇒竹下地蔵堂⇒市ヶ尾横穴古墳群・市ヶ尾小学校正門(古墳門)⇒市ヶ尾郵便局⇒梨園⇒稲荷前古墳群⇒総合庁舎入口交差点⇒大山道猿田坂⇒旧旅籠綿屋⇒東急田園都市線市が尾駅

早淵川は青葉区美しが丘西に源を発し南東に流れており都筑区、港北区をへて横浜市港北区綱島西付近で鶴見川に合流しているとのことです。昔は大変なあばれ川だったのが現在は全域がコンクリート護岸となっておりあざみ野駅の東、中村大橋までが一級河川だそうで鶴見川本流の水防に大いに寄与していようです。現在は水もきれいでコガモが優雅に泳いでいました。
そうそう、あばれ川の頃の早淵川は土手にあざみ野が見事に咲いていたことからこの辺りがあざみ野と呼ばれるようになったとのことです。
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驚神社は創立不詳とはいえ奈良時代に造られたとの伝承があるとのことで石川牧の鎮守と言われているとのこと。昔この地域は牧場があり、名馬がよく出た場所で、「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという名称由来の説を伺いました。石川村の鎮守であったことから、秋祭りには早淵川の上流の谷戸(保木、平川、荏子田、船頭牛込)の社から神輿と山車がこの驚神社に集まり、その時に奉納されるのが牛込獅子舞。これは一人立ち三頭獅子舞で約300年前、元禄年間の疫病流行の際に始まったと伝えられているとのことでした。
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大山街道を進むと老馬鍛冶山不動尊(ろうばかじやまふどうそん)がありました。
馬を駆っていた石川牧や驚神社が傍にあるくらいですから、老馬を祀るお不動さんということでしょう。
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老馬鍛冶山不動尊の下にある霊泉の滝は古くからある湧き水で、不思議な力があるとして保護されてきた「霊泉」で雨ごいや咳に効くそうです。
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本日はこの霊泉の滝から大山街道を歩き、江田駅に出るコースです。
大山街道は、東海道とは違い脇街道といわれ、現在国道246号として使われており、大山と、現在の赤坂付近(江戸)を結ぶ街道として、昔から多くの人に使われてきた街道。 大山は昔から、雨を降らせる雨乞いの神様の山として知られていて、今でも「大山参り」をする人たちが利用しているとのことです。

庚申堂は江戸中期、荏田村下宿の婦人たちにより建てられたそうです。当時は女性がこのような行動を起こしたことは珍しいそうです。
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荏田宿(えだじゅく)案内板
荏田宿は、かつて武蔵国都筑郡荏田村で大山道(矢倉沢往還)が通っていた宿場。
旅籠屋をはじめ、さまざまな商人・職人が居住し、合計二十数軒の家屋が連なっていたようですが、1894年(明治27年)の火災により焼失したとのことです。この案内板は当時の面影を描いたようでした。
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真福寺は真言宗豊山派の寺院。旧小机領三十三所観音霊場の第二十番札所とのこと。創建は不明のようですが、ご本尊は千手観音立像で普段は御開帳ではないとのことでした。
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本堂内には多くの古い絵馬が多く見られました。
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真福寺門前には文政11年といわれる庚申塔があり、大切にされているようでした。
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荏田宿常夜燈(えだしゅくじょうやとう)
神奈川県の北を通る矢倉沢往還は東海道の裏道にあたり、大山参詣の中心道であったことから、大山街道とも呼ばれていました。荏田は長津田とともに、江戸初期から宿駅に指定されていたのです。当時の宿の繁栄がこの常夜燈に残っているようです。この燈は高さ230cmで燈の中台には「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれているとのこと。文久元(1861)年に作られたこの燈は、秋葉講の案内宿に建てられたものとのことでした。今は一般民家のお庭にあり垣間見ることができました。
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荏田城址。
戦国時代には後北条氏の城の一つで、茅ヶ崎城や榎下城とともに小机城の支城では、との解説を伺いました。今は民家の向こうにある小高い山が城跡とのことですが立ち入りできないとのことでした。
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大山街道を進み、これで荏田宿も終わりという地点に庚申塔がひっそりとありました。
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荏田北三丁目の表示がある大山街道沿いに小黒谷(おぐろやと)地蔵尊がありました。
江戸中期に作られた三体のお地蔵尊です。 「小黒谷」と書いて「おぐろやと」と読み、「やと」とは、 丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、一般的にいう「たに(谷)」のことだそうです。この呼び方は神奈川県および東京都多摩地域でつかわれているようです。
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長者原遺跡(ちょうじゃはらいせき)
古代ではこの辺りは武蔵国都筑郡に属しており、その郡衙(ぐんが)の跡が見つかった所です。
ちなみに郡衙(ぐんが)とは、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所であったとのこと。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)ともいうと伺いました。
この遺跡からは「都」の文字が彫ってある土器などが見つかっているのですが、惜しいことに遺跡の半分はそばを走る東名高速道路建造時に完全に破壊されたのです。現在横浜市歴史博物館で発掘された土器などを見ることができるということでした。そして現在、長者原遺跡のあったこの場所は荏田猿田公園として整備され、園内に遺跡の解説板を見ることができました。
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「市ヶ尾竹下地蔵堂」は旧大山街道沿いにある真宗のお寺で、江戸中期に建てられました。千日の托鉢によって建てられたため「千日堂」ともいわれているようです。江戸時代に始まった念仏講は、現在でも地元の人たちが続けています。まさに本日もお堂の前で地元の方々20人ほどで楽しくお集まりをしておられました。地蔵堂に上がる石段の下には、庚申塔などの石造物がたくさん並んでおり、一体一体のお地蔵さんにお花などが供えられていました。
また石段を上がった境内からは、大山が良く見える好展望地でした。
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市ヶ尾横穴古墳群(いちがおよこあなこふんぐん)は横穴墓群でした。
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1933年(昭和8年)に発見され、今は市ヶ尾遺跡公園として整備されていました。
鶴見川(谷本川)左岸の丘陵地帯に位置し、谷本川に向けて南向きに開いた谷戸地の崖面を掘って造営されています。12基ある北側のA群と、7基ある南側のB群に分かれており、6世紀後半から7世紀後半にかけての古墳時代末期に造られた有力な農民の墓だそうです。墓群の内外からは須恵器や土師器などの副葬品も見つかっているとのことでした。公園内は、墓群に沿うように散策路が整備されていました。

市ヶ尾横穴古墳群(からさらに西約800mの所に、都筑の地を統合した歴代の首長や一族の墓である稲荷前古墳群(県指定史跡)がありました。
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4世紀から5世紀の古墳時代に、谷本川の流域に広がる都筑を、有力な首長が治め、大和政権との繋がりも持ったようです。これらの古墳は、この地域を治めた歴代の首長や一族の墓で、1967年に住宅造成中に発見され、前方後円墳2基・前方後方墳1基・円墳4基・方墳3基の計10基の古墳と横穴墓9基が見つかったとのことです。特に16号は前方後方墳であり、神奈川県で初めて発見されたとのこと。現在では大部分が住宅地と化し消滅したが、その16号と15号・17号の方墳2基の計3基が保存されているのです。古墳の上に上り皆で高さや形を実感しました。
上から眺める景色は眼下に鶴見川や市が尾高校も見え、広々していました。
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大山街道の緩やかな猿田坂手前、総合庁舎入口交差点の所に古い2階建ての旧旅籠綿屋の建物がそのまま見られました。この交差点は「日野往還」と「大山街道」の交差点なのです。
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市ヶ尾横穴古墳群の手前に梨園がありました。これは「浜なし」という横浜市果樹生産者の統一ブランド名だとのことでした。ネットで調べると、「あざみ野園」では主に「幸水(こうすい)」と「豊水(ほうすい)」を生産。そのほか比較的新しい品種として「秋月(あきづき)」もあるとのことでした。また「浜なし」は通常、市場への出荷は行わず、生産者が直接販売ており現地でほとんど消費されるようです。いずれにしても美味しさは抜群のようですから一度求めたいと思いました。

本日はあざみの駅から大山街道に出て早瀬川・早淵川・布川などの風景を見ながら、しかも横浜に古墳があり本当に驚きました。天候が薄曇りながら終了時まで持ちこたえたことは何よりで23名が元気にウォーキングを終了できたのは浅井先生、TD久森さんのおかげでもあります。横浜散策は今日で10区目、約18000歩、13km超はいつになく多めでしたが10:00スタート、15:45終了は上出来。これからまだまだ新発見があるようで楽しみです。また頑張ります。
posted by yunofumi at 22:28| あちこちウォーク

2018年04月04日

2018.3.29 横浜散策 第9回南区

京急弘明寺駅⇒弘明寺⇒弘明寺駅前商店街⇒大岡川・観音橋⇒弘岡橋⇒大井橋⇒鶴巻橋⇒蒔田橋⇒井土ヶ谷橋⇒蒔田中学校⇒蒔田消防出張所⇒宮元町⇒地下鉄蒔田駅⇒杉山神社⇒横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地⇒蒔田中学校前バス停⇒井土ヶ谷事件の碑⇒井土ヶ谷橋⇒Y高(市立横浜商業高校)⇒大岡川蒔田公園⇒葭谷橋・川分岐点⇒吉野町市民プラザ⇒吉野町交番⇒南昌飯店(昼食)⇒吉野歩道橋⇒日枝小学校⇒お三の宮日枝神社⇒一本橋⇒前里町4丁目交差点⇒平戸桜木道路⇒宮川香山真葛焼窯場跡⇒白金町2丁目⇒道慶橋⇒太田橋⇒末吉橋⇒黄金橋⇒桜桟橋・長谷川伸の碑⇒オルガン広場⇒吉田新田・清正公堂⇒厳島神社⇒蓬莱町2丁目⇒大通公園⇒JR根岸線関内駅

9:30ウォーキングスタート時、講師の浅井先生より、本日は大岡川の川沿いで大岡川プロムナードと呼ばれる桜並木の散策も兼ねますとの説明がありました。
大岡川(おおおかがわ)は、横浜市磯子区氷取沢町が水源、長さ12km、最後は横浜港に注ぐ二級河川。上流部の笹下地区では笹下川の愛称で呼ばれているとのことです。
大岡川プロムナードは約3kmの桜並木で、500本の桜と約2500個のぼんぼりが飾られ、夜は淡いピンク色の桜が美しいようです。この大岡川プロムナードは全国6位、神奈川県内1位の人気の高いお花見スポットとのことです。

弘明寺(ぐみょうじ)は、高野山真言宗の横浜市内最古の寺院。 本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財。このあたり一帯は江戸期から明治22年まで弘明寺村と呼ばれていたようです。
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本堂の中に鎮座したご本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は写真撮影禁止。そして木造黒漆花瓶が二口ありました。これはケヤキを轆轤で成型した、高さ70cmの「亞」の字の形をした黒漆塗りの花瓶で1590年修理の銘があるとのことでした。

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社。旧武蔵国における式内社の一社とされますが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在するとのことです。
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横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地。
横浜市営地下鉄は1972年12月に伊勢佐木長者町−上大岡間5.2kmで開業。 この区間内には車両基地が設けられていなかった為、開業時に使用される車両を搬入する場所が必要となり、選ばれた場所が鎌倉街道の蒔田駅付近の直線部だったのです。 
1976年9月には上大岡−上永谷、伊勢佐木長者町−横浜の2区間が開業し、この時上永谷車庫も完成。
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井土ヶ谷(いどがや)事件の碑。
生麦事件後の1863年7月3日(文久3年5月18日)、当分として、幕府は横浜居留地に 英仏軍隊の駐留を認めています。(これにより居留地山手地区に英仏軍隊が駐留したのです。)ちなみに、当時の外国人の遊歩区域は神奈川を中心として10里(東は六郷側、西は酒匂川)以内 と定められており、そのため彼らは、馬に乗って東は川崎、西は藤沢、江ノ島、南は 鎌倉、金沢辺まで出かけることがよくあったようです。
井土ヶ谷事件も居留地から保土ヶ谷方面に乗馬で出かけたフランス士官が不幸にも井土ヶ谷にて 遭遇した殺傷事件なのです。この井土ヶ谷事件で殺害された士官がカミュです。その後カミュは横浜の外人墓地に埋葬されました。
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Y高(市立横浜商業高校)は1881年(明治14年)横浜貿易商組合により、横浜商法学校設立が立案され、翌15年、授業開始。1888年(明治21年)には横浜商業学校と改称。1905年(明治38年)南太田の現在地に校舎が落成し移転。1948年(昭和23年)横浜市立横浜商業高等学校と改称。2012年(平成24年)には創立130周年を迎えています。その昔はさぞや一般人のあこがれの学校だったようです。
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大岡川が中村川と分岐するところに「蒔田(まいた)公園」(約2.3ha)があります。この付近一帯は戦後進駐軍に接収され、昭和31年に返還されました。 蒔田公園はその地に運動広場(野球場)を中心に公園として昭和59年4月に開園し、国際仮装行列の終点会場やメーデーの神奈川中央会場としても利用されているとのことです。
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蒔田公園で大岡川がふたつに分かれており、左は大岡川 右は中村川、上を高速道路が走っています。高速道路の下に見える中村川の一番最初の橋は葭谷橋(よしやはし)でした。

お三の宮日枝神社(おさんのみやひえじんじゃ)は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられ、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられているとのことです。
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)の広い範囲は、釣鐘の形をした入海だったとのこと。今からおよそ350年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた商人吉田勘兵衛良信が、この入海を埋立て、新田を築いたのです。(吉田新田)
この大工事は、明暦2年7月に鍬入れをし、翌年5月には13日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わっています。しかし、万治2年2月に再度試み、11年余りの歳月と8038両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ35万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、1673年(寛文13年9月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのです。これにより『横浜開拓の守護神』として、人々から親しまれているようです。
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この鳥居は山王鳥居というようです。鳥居の形式の一で明神鳥居の笠木 (かさぎ) の上の中央に棟柱 (むなばしら) を立て、木材を合掌形に組み渡し、その頂上に烏頭 (からすがしら) という反りのある木を置いたもので日吉 (ひよし) 大社の鳥居に始まるということです。

真葛焼(まくずやき)窯場跡には戦前まで宮川香山の真葛焼の窯場と住居があったようです。真葛焼は,初代香山が明治9年の万博に出品して一躍名をあげ、その後二代、三代とつづき、日本よりも海外での評価が高かったようです。横浜大空襲で、窯場と住居が焼失し、四代で廃業したとのことです。新坂の途中に案内板があり、その中に窯場の銅版画が印刷されていて、当時の様子がしのばれました。
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真葛焼は幕末に、京都の真葛原(まくずがはら)で宮川長造が焼き始めた陶磁器。1871年(明治4年)四男の宮川香山が横浜の太田町に移窯したことから太田焼ともいうようです。世界各地の万国博覧会で絶賛され、作品の多くは海外流出したとのことです。

現在の道慶橋(どうけいはし)付近には、吉田新田が出来るまで対岸の中村方面への渡し場がありました。吉田新田が完成した後、道慶という僧が、住民のために新田に通ずるよう大岡川に小橋を架け、これが道慶橋で、橋際の地蔵は道慶地蔵と呼ばれているようです。
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橋柱には僧が持つ錫杖の頭部に見られる輪形の遊環がついておりました。動かすと正に錫杖のように大きな音が鳴りました。
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道慶橋の傍から見た桜
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大田橋の傍から見た桜
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長谷川伸の碑(はせがわしんのひ)
小説・劇作家の長谷川伸は、1884年(明治17年)に今の日ノ出町駅生まれでその後も横浜で育ったようです。彼は父の破産によって小学校を中退、貧困のため幼い頃から第2号ドック(現在の日本丸メモリアルパーク)で小僧として働き、暇を見つけては小説を書いていたとのこと。 その後20歳で新聞記者となり、後に小説家にまでなったのです。長谷川信は1963年(昭和38年)にこの世を去りましたがその3年後、1966年(昭和41年)に長谷川伸賞が設立されています。主な作品は「関の弥太っぺ」、「瞼の母」、「一本刀土俵入」、など25点以上もの小説が今でも残されています。
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オルガン広場。
京浜急行「日の出町」は、オルガンの発祥地。千葉県出身の三味線職人の西川虎吉が明治13年(明治16年)頃に西川オルガン製造所を横浜市中区日ノ出町に設立したのです。オルガンは明治19年の小学校の義務教育化で、唱歌の伴奏楽器として使われ、音楽楽校・軍楽隊・教会などで盛んに演奏されたのです。虎吉が大正9年に亡くなり、当時の不況も重なって大正10年に「ヤマハ楽器」に合併されたのですが、西川オルガンの人気は高く、ヤマハのオルガンには、戦前まで「Nishikawa」の文字が刻まれ、製作が続いていたとのことです。
これを記念して駅前広場は『オルガン広場』という名が付けられ、広場の向いには『オルガン記念碑』も設置されています。
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吉田新田(よしだしんでん)は、現在の横浜市中区と南区に跨る地域で開墾された新田でここは江戸時代前期に吉田勘兵衛によって開墾されました。近代横浜の枢要部である関内地区の外側の、南西側に伸びる低地の市街地の多くは、この吉田新田の開発により陸化された土地で、その意味で、横浜発展の基礎を築いた新田なのです。
吉田勘兵衛はこの地に家を建て住み、彼の子孫の11代までが住み続けているのです。新田開発成功を知った4代将軍徳川家綱は、1669年(寛文9年)に功績を称え新田名は吉田新田と改称し、吉田に苗字帯刀を許し。延宝2年(1674年)に公式の検地が行われ、新田村となったのです。
長者橋のたもとの第10吉田ビルは吉田家の邸宅跡で、吉田勘兵衛の子孫が経営する吉田興産の所有。屋敷中にあった大井戸は200年にわたり住民の飲料水となっていたとのことです。
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今、屋敷跡には清正公堂や浄行菩薩がありました。
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厳島神社。
元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称したとのこと。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝わっているとのことです。 足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えています。境内には銭洗弁天社、豊受稲荷神社がありました。
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大通り公園(おおどおりこうえん)は、横浜市中区の公園。JR関内駅方面から、横浜市営地下鉄伊勢佐木長者町駅をほぼ中央とし、阪東橋駅にまで至る帯状の公園で、1973年(昭和48年)まで流れていた吉田川、新吉田川という運河を地下鉄建設に伴い埋め立て、1978年(昭和53年)9月に開園したのです。現在、この公園の真下に横浜市営地下鉄ブルーラインが通っているとのことです。
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JR根岸線関内駅
関内駅(かんないえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅。1964年(昭和39年)5月19日:国鉄根岸線 桜木町〜磯子間の開通時に、国鉄の駅が開業したことが最初。現在は1日約8万人が乗車のために行きかっているようです。

本日は春というより夏を感じさせる日和の陽射しのもと、日向は33℃、木陰は24℃、そして微風ですからウォーキングには最高の日よりでした。浅井先生、TD久森さんと共に23名は約18000歩、約10kmを完歩。今日は桜見物に終始したともいえますが何といっても真葛焼を知ったことが大きかったです。「宮川香山真葛ミュージアム」を一度訪れたいと思っています。
posted by yunofumi at 22:58| あちこちウォーク

2018年03月19日

2018.3.17 MBT自由が丘店おさんぽ会

駒沢大学駅集合⇒駒澤大学商店街⇒駒沢食堂⇒ミニストップ⇒駒沢オリンピック公園⇒駒沢体育館⇒駒沢トレーニングルーム⇒カフェソラ⇒駒沢の森こども園⇒犬のようちえん⇒Café VIVACE⇒bag uette rabit(パン屋さん)⇒Mont Blanc⇒MBT自由が丘店⇒マリコス⇒自由が丘駅

朝9時東急田園都市線駒沢大学駅集合のために早めで7:15自宅出発。
気温5℃以下の予報だったのでちょっと重ね着をしてお出かけ。
今日は皆さんご都合が悪かったようでインストラクターを入れて3名なので気楽に出発。
駒沢オリンピック公園では桜はまだでしたが、あちらこちらに梅などが見られました。
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公園内には宇宙欅の若木がすくすく育っていました。
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Café VIVACEで小休止。
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本日はデレンパイとドリンクがセットのフィーカセットをいただきました。
もち持ちした触感と薫り高い珈琲は最高でした。
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bag uette rabit(パン屋さん)はいつも大繁盛。私も思わずお買い物をしました。
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MONT BLANCは日本で最初にモンブランを開発したケーキ屋さん。
とても美味しそうでした。次回にまた伺いましょう。
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解散後はリニューアルオープンのマリスコスでパスタをいただきました。
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ということで次第に自由が丘界隈が少しづつわかってきました。
若者が多く訪ずれる街です。遅ればせながら私も街歩きを今後も時々したいと思っています。
今日は日中12℃、微風、快晴、11:30には大いに楽しんだ後解散しました。またじかいもよろしく!!
posted by yunofumi at 00:05| あちこちウォーク

2018年02月28日

2018.2.28 高尾山10回目

今日で2月が終わりなので仕事をお休みし、高尾山に上りました。
約半年ぶりの高尾山です。本日は平日、夜には天候が崩れるとのことでしたから登山者は今までで一番少なく高尾山清滝駅は閑散としていました。
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周りの木々はまだ冬の様相。
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浄心門。
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神変堂。
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高尾山には色々な方々のお名前が掲示されております。今回は「高尾山健康登山の証百冊成満者」として154名の方のお名前を見つけました。「高尾山健康登山の証」は1回の登山につき1ページにスタンプをいただきます。21個のスタンプで1冊完成です。ということで私は本日で10個のスタンプがたまりました。
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薬王院飯縄権現堂。
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頂上が近づいた高尾山ビジターセンター傍の登山道にはまだ雪が見られました。
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ようやく山頂について記念撮影。
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参道途中には梅も開花していました。
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本日は一人で気ままに、体力の確認も兼ねて、ウォーキング感覚での山登りでした。下に降りて紅葉屋でとろろそばをいただき、温まりました。帰宅すると10000歩超でしたが久しぶりだったので苦手な上りもあり、少し草臥れました。今後も鍛錬が必要と実感しました。
posted by yunofumi at 22:38| あちこちウォーク

2018年02月25日

2018.2.17 横浜散策 第8回港北区

東急東横線大倉山駅⇒記念館坂⇒大倉山公園・大倉山記念館⇒エルム通り⇒大綱小学校4⇒大豆戸どろんこ保育園⇒港北スポーツセンター⇒大豆戸小学校⇒新横浜さわやか苑⇒大豆戸公園⇒ベガサス新横浜保育園⇒HANZOYA⇒横浜デジタルアーツ専門学校⇒岩崎学園⇒横浜アリーナ⇒プリンスペペ⇒新横浜グレースホテル・ぎん(昼食)⇒城南信用金庫⇒新横浜国際ホテル⇒新横浜駅前郵便局⇒呉竹鍼灸整専門学校⇒スタジアム通り⇒トラック総合会館⇒日産スタジアム⇒日産スタジアム前バス停留所⇒鶴見川流域センター⇒小机城址⇒医王山金剛寺⇒雲松院・旗本笠原家墓所⇒JR小机駅

記念館坂。
港北区大倉山2丁目と大曽根台1丁目の間にある坂で大倉山駅から東横線沿いに北に向かい,直角に曲がった後大倉山記念館に向かっています。かなりの急な坂で大倉山駅スタート直後だったのでややきつかったです。長さ380m、高低差36m、平均斜度5度とのことでした。
坂上には大倉山記念館があるのでこの名称となったようです。
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大倉山公園東急東横線大倉山駅の北西側の丘の上に、大倉山公園がありました。木々に包まれた丘の上に広場などを設けた公園で中心には大倉山記念館、北側の谷戸には梅林がありました。梅林には150本ほどの梅が咲き、本日から梅まつりとのことで人が多かったです。
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緑萼梅(リョクガクバイ)がありました。
これは日中友好の印として中国から各地に贈られているとのこと。葉は楕円形で、互い違いに生える(互生)。野梅系・青軸性の白い一重咲きの中大輪(花径25から30mm)。萼が黄緑色になるのが特徴とのことでした。
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公園入口にはハナミズキ、ツツジ、ヤマボウシなど季節季節でお花を楽しめそうです。

大倉山記念館。
実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(1882-1971)により1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建されたとのこと。1981年(昭和56年)横浜市が寄贈を受け、大改修のうえ建物の保存を図るとともに、1984年(昭和59年)横浜市大倉山記念館として生まれ変わったのです。
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建物は、1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建された。設計は、東京駅設計の辰野慎吾の一番弟子、長野宇平治。ギリシャ神殿様式のピロティー、昭和初期の雰囲気を残す第5集会室、神社建築の木組みを取り入れたホール、エントランスなど、映画やテレビのロケ地としても数多く活用されています。

東急東横線大倉山駅前の商店街は東へ向かえば「レモンロード」、西へ向かえば「エルム通」、「オリーブ通」、「つつみ通」と続き、それらが全体で「大倉山商店街」となっているのです。その中でも「エルム通」はギリシャ建築を彷彿とさせる意匠の建物が並び、その特徴的な佇まいから知名度も高く、「大倉山エルム通り」として広く知られているのです。
「大倉山エルム通り」には白い外壁の重厚な佇まいの建物が並んでおり、まるで古代ギリシャの神殿を思わせるような意匠の建物が並んでおり、全体が統一された印象になっていました。建物の白い外壁が陽光を照り返えすと、街路樹の緑がよく映えとてもきれいに見えます。それぞれの建物はそれほど規模の大きなものではなく、高層のビルなどもないから、通り全体が明るく開放的な感じです。美しい佇まいの街並みには電柱もなく、歩道には花々が置かれ、歩いていても気分がよくなります。
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大豆戸町(まめどちょう)という町名がありました。これは師岡熊野神社に大豆を奉納していたことに由来する地名だそうです。

横浜アリーナは、1989年4月に開業した多目的イベントホール。現・キリンホールディングスと横浜市、西武鉄道からの出資の第三セクター。アリーナ部分の最大面積8000 m2、最大収容人数は1万7000人で、コンサートやスポーツ、企業式典など、あらゆる用途に利用されています。
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こちらの街中ではこのマンホール蓋があちらこちらにありました。
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日産スタジアム。
7階建てで、公園駐車場が1階、ウォーミングアップルームやピット部分が2F、トラックやピッチのあるフィールド部分が3F、1階席が4F・5F、2階席が6・7階、と積み上げ式の建物。スタジアムの外周路は1周約930m。資源の有効利用のために大屋根部分に降った雨を芝生の散水やトイレの洗浄水に利用。また、水再生センターからの再生水をヒートポンプの熱源とし、さらにトイレの洗浄水に使用とのこと。
こちらは正面。大きすぎて全景を写せませんでした。
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鶴見川流域センター
鶴見川の源流は東京都町田市、河口は横浜市鶴見区の東京湾。鶴見川は町田市、横浜市青葉区、緑区、都筑区、港北区、鶴見区、川崎市幸区を流れる全長42.5km、流域面積235kmの一級河川。 このうち京浜河川事務所の直轄管理区間は、河口から第三京浜道路までの17.4km。支川の矢上川は、1.8km。支川の早淵川は、1.6km。支川の鳥山川は、1.9kmとのこと。流域の形が夢を食べるといわれる動物・バクに似ていることから「バクの川」ともよばれているとのこと。鶴見川は昔から大変な川で、市街化が進んで水害が起こりやすいのです。1980年昭和55(1980)年、保水・遊水機能の確保などを流域全体で進めていく「総合治水対策」の対象河川となり、緑地の保全や調整池の設置など、雨を一気に川へ流さないための流域対策と、ポンプ場の整備などの下水道対策と一体となって、河川の整備を進めてきました。
平成16(2004)年には、健全な水循環系を実現することで、治水・環境・利水など、鶴見川が抱える諸課題を総合的に解決するため、市民・市民団体・企業・行政等が一体となって行う「鶴見川流域水マスタープラン」が策定されました。
屋上では多目的遊水地を一望できました。越流堤、排水門、減勢池など遊水地の主要部を見て遊水地の仕組みの説明を職員さんから受けました。また、遊水地内にある日産スタジアムや周囲にある小机城址、小机城、遠方のランドマークタワーなども眺めることができました。
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白い枠があるのは新しくできた道路。その手前に一段低くなっているのが越流堤。そして細く見える水面が減勢池。これらは鶴見川が大雨で溢れてきた時、水をこちら側に流し、多い時は日産スタジアム1階までにも達するようです。

小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址は市民の森として、城の遺構が整備されつつあるようでした。
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小机城は、永享の乱(1438年 - 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとのことですが、正確にはいまだわかっていないようです。この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦で山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしたのです。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞したようです。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月かけて落城させたとのことです。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存されていました。その後北条氏綱の家臣の笠原信為が城主として配置され城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいたようです。最後は徳川家康の関東入府のときに廃城とされたとのことです。2017年(平成29年)、「続日本100名城」(125番)に選定されたため近頃訪れる人が多いとのことです。

雲松院・旗本笠原家墓所。
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雲松院は字愛宕下という所にありました。小机の城主笠原越前守信為が開基。信為が法名を乾徳寺雲松道慶と云うことで寺名がついたようです。
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笠原越前守信為はじめ一族のお墓が本堂の後の山の半腹にありました。

本日の講師浅井先生、TD田村さんのお世話で今日は参加者23人、朝自宅出発時は5℃くらい。でも日中は12℃くらいにまでなったようです。梅の花も咲き、とても良いウォーキングでした。鶴見川流域センター、日産スタジアムのことは特に印象深かったです。9:30〜16:00、1日の歩程約8kmはやや歩程が短かったのかもしれませんが、スタートすぐの大倉山への上り、終了間際の小机城址までの上りはちょっときつく十分歩いた!の気分でした。まだまだ続く横浜散策です。今後も楽しく、頑張ります。
posted by yunofumi at 21:35| あちこちウォーク

2018年02月12日

2018.2.10 山手線歴史探訪ウォーク 第6回

新宿駅〜渋谷駅
JR新宿駅・新南改札・ペンギン広場⇒高島屋新宿店⇒新宿4丁目交差点⇒天龍寺⇒雷電稲荷神社⇒伊勢丹新宿店⇒新宿3丁目交差点⇒追分だんご⇒東京メトロ新宿三丁目駅⇒末広通り⇒新宿末広亭⇒要通り共栄会⇒新宿柳通り⇒不動通り会⇒太宗寺⇒正官庄⇒四谷区民センター⇒玉川上水水番所跡⇒四谷大木戸跡碑⇒四谷四丁目交差点⇒内藤新宿開設300年記念碑⇒新宿御苑大木戸門⇒新宿1丁目⇒三遊亭圓朝旧居跡・花園公園⇒花園幼稚園・花園小学校⇒花園町親交会⇒成覚寺⇒正受院⇒玄海(昼食)⇒新宿御苑新宿門・千駄ヶ谷門⇒新井白石終焉の地⇒日本デザイン専門学校⇒JR中央緩行線御苑裏ガード⇒千駄ヶ谷大通⇒明治通り⇒山手線裏参道ガード⇒北参道⇒明治神宮⇒代々木公園原宿門・渋谷門⇒NHK⇒二・二六事件慰霊碑⇒神南小学校⇒紀伊国屋書店⇒JR渋谷駅ハチ公前改札口

JR新宿駅新南改札・ペンギン広場
新宿駅はJR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局が乗り入れる駅。2016年7月に新宿駅新南改札正面に新たな待ち合わせスポットとして「Suicaのペンギン広場」が登場。今回初めてじっくり見ました。待ち合わせ場所にはいいと思いました。
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天龍寺は、東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗の寺院。創建は1591年(天正19年)。
天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とのこと。法泉寺は徳川家康の側室だった西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春の菩提寺であり、西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移されたようです。この時、寺名を天龍寺と改めたのは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来するとか。
上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割をしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていたようです。天和3年、天和の大火により焼失し、現在地へ移転したのです。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来ます。
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雷電稲荷神社
天龍寺とともに遠江国から遷されて来たとか、平安時代に創建後、天正年間(1573〜1593年)に再建されたなどの説があるようです。もとは天龍寺の境内社。また、源義家が奥州征伐の途中、雷雨を避けてこの地で休んでいると、どこからか一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、たちまち雷雨が止み晴れ渡ったので、里人が雷電神社と呼んだという伝承もあると伺いました。
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「新宿元標ここが追分」と新宿三丁目交差点南東角の路面に大きく描かれていました。「追分」は街道の分岐点に見られる地名。現在の新宿三丁目交差点は、元々は甲州街道と青梅街道の分岐点であったことを示しています。平成11年3月制作とありました。
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追分だんご本舗は、1945年(昭和20年)に創業。1455年(康正元年)に、太田道灌が江戸城を築城中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、土着の名族から手つきの団子が献上され道灌は大いに喜び、その後も団子を所望したことがはじまり。後に、高井戸宿が甲州街道の始駅となり、また1698年(元禄11年)、内藤新宿が伝馬の宿駅となり、もとの柳茶屋は新宿追分に移転し、「追分だんご」と呼ばれるようになったようです。

新宿末広亭は、都内に4軒ある落語定席の一つ。落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗。1940年代後半浅草にあった「浅草末廣亭」は大旦那(北村)が開場したものとのこと。
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太宗寺(たいそうじ)。
1596年(慶長元年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身とのこと。1629年(寛永6年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、1668年(寛文8年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されたのです。
1691年(元禄4年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれたのです。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、1952年(昭和27年)から行われた区画整理で縮小されたのです。5代目当主正勝など3基の墓石が現存していました。
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境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がありました。
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また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきたことがわかりました。

玉川上水水番所跡。
玉川上水は多摩川の羽村の堰で取水し、四谷大木戸までは開渠、四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋などの水道管を地下に埋葬して通水したのです。水番所では番所人が水門の調節で水量の管理やゴミの除去を行っていたようです。この水道碑記(すいどういしぶみのき)は高さ460p、幅230p。完成は1895年(明治28年)ということです。
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四谷大木戸跡碑。
昭和34年地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑。
実際の四谷大木戸は現在の四谷4丁目交差点のあたりだったとのことです。
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内藤新宿開設300年記念碑。
新宿御苑の大木戸門を出てすぐのところにある記念碑。約300年前に、ここから新宿三丁目までの1kmに宿場が開設されたのです。
新宿一丁目の交差点は甲州道中最初の宿場・内藤新宿であった所。内藤家の甲州道中沿いの一部が用地として割かれ、宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになったようです。記念碑の説明では1698年(元禄11年)、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛らの願により、ここから新宿3丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設されたのです。この宿場は1718年(享保3年)に風紀紊乱の廉(かど)で一度廃止されたのが、54年後の1772年(明和9年)に再び再興されました。以降、甲州・青梅両街道が交差する交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に到っているのです。
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三遊亭圓朝旧居跡。(案内板のみ)
新宿区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所。屋敷地は、およそ1000u。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室だったようです。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたようです。円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を好んだのです。怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、円熟期だったのです。

成覚寺(じょうかくじ)。
1594年(文禄3年)の創建。江戸時代には、岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女・遊女たちの投げ込み寺だったようです。奉公途中に死んだ飯盛女は身に着けていたものを剥ぎ取られ、俵に詰められ、この寺に投げ込むように葬られたということです。成覚寺に葬られた人数は、2200〜3000人くらい、大変なのことです。
境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵(あさひじぞう)」などがありました。 また、黄表紙という新ジャンルを成立させた戯作者の恋川春町や、暦学者の塚本明毅のお墓もありました。

正受院(しょうじゅいん)。
1594年(文禄3年)、正受乘蓮和尚を開山として創建とのこと。正受院の奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めていたとのことです。
境内には1957年(昭和32年)建造の針塚と1963年(昭和38年)に造立された小見外次郎の胸像がありました。

玄海は昭和3年に創業以来80余年。水たき一筋のお店とのこと。私たちは親子御膳をいただきました。しかしこれでは食べすぎです。
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新宿御苑はもともと、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理となりその後の第二次世界大戦後は一般公開され、現在は環境省管轄の国民公園となっています。2006年(平成18年)には100周年を迎え、開園100周年事業として、絶滅危惧植物の保護センターを設置することが計画されています。
ここでは毎年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されます。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもあります。園の入り口は四つ(新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門)あります。大木戸門傍には旧大木戸門衛所がありました。
園内を散策しながらイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を見ました。
すでに寒桜が素晴らしく咲いておりました。
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旧御涼亭からの眺めは最高でした。
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新井白石終焉の地。(案内板のみ)
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出て塀沿いに案内がありました。新井白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、財政も含め政治改革を行った学者で後世は「正徳の治」と呼ばれました。でも行政の進め方があまりにも性急すぎたようで幕閣から「鬼」と呼ばれてとても嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定されたのです。白石はこの地で6年ほど暮らし多くの著書を残したようです。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数があります。今日は北参道から入り本殿にお参り後、南参道に抜けました。
ちょうど結婚式の行列に出会いました。

代々木公園はもともと大日本帝国陸軍の代々木練兵場があった場所。第二次世界大戦後にはワシントンハイツ、1964年(昭和39年)には東京オリンピックで代々木選手村となっていました。その後の1967年(昭和42年)に東京都の代々木公園として開園。敷地は540,529.00m2(およそ東京ドーム11個分)。
1964年第18回東京オリンピックでのオランダの選手宿舎が記念で残っております。
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ここには照憲皇太后の葬儀が行われた場所ということで記念碑がありました。
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代々木公園には原宿門、参宮橋門、西門、渋谷門がありいつも出入りできる感じです。

二・二六事件慰霊碑。
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ここは二・二六事件の首謀者たちが刑死した陸軍刑務所跡地。観音像と石柱とささやかな祭壇がありました。神南小学校の方に曲がると案内板があり以下の内容でした。
昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危うく難を免れた。
此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。

ここの所かなり寒い日が続いていましたが今日は9:30〜16:00のウォーキング、ほぼ晴天で気温12℃。歩程25000歩、約10kmを前回に引き続き岡本先生、TD長田さんと共に参加者26名が完歩。そういえばこの10回シリーズを本日で終了した方がおられました。何しろシリーズの場合は一度欠席すると次の機会にすぐ出会うのが難しいので数年かかる場合もあるようでした。いずれにしても自分も頑張らねばなりません。これから順次春めいてくるでしょうから大いに回を重ねるように心がけます。
posted by yunofumi at 23:49| あちこちウォーク

2018年01月23日

2018.1.20 横浜散策 第7回瀬谷区(せやく)

相鉄線瀬谷駅⇒瀬谷駅北口交通広場⇒瀬谷小学校⇒横浜瀬谷北郵便局⇒長天寺(ダルマ太師)⇒相沢4丁目⇒横穴古墳跡⇒ファミリーマート瀬谷中央店⇒ジョナサン瀬谷駅前店⇒海軍道路⇒瀬谷中学校⇒本郷クリニック⇒横浜市瀬谷図書館⇒徳善寺(毘沙門天)⇒川口製糸株式会社跡⇒日枝社⇒瀬谷神明社⇒瀬谷銀行跡⇒中屋敷中央公園⇒善昌寺(恵比須神)⇒北向地蔵⇒妙光寺(大黒天)⇒竹村町バス停留所---バス----瀬谷駅⇒魚貝亭(昼食)⇒瀬谷駅南口⇒瀬谷写真館⇒世野の原の鷹見塚⇒横浜甦生病院⇒ほうさい殿⇒宝蔵寺(弁財天)⇒稲荷神社⇒西福寺(布袋尊)⇒左馬社⇒宗川寺(福禄寿)⇒全通院勢至堂(寿老人)⇒下瀬谷橋バス停留所----バス---瀬谷駅

相鉄線は正式には相模鉄道株式会社。
相模鉄道は1917年(大正6年)12月18日に創立。1921年(大正10年)に茅ケ崎駅(神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業。1931年(昭和6年)に橋本駅(同県相模原市)まで全通した。
一方、神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現:横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)に神中軌道として設立。1919年(大正8年)には神中鉄道への商号変更をし、1926年(大正15年)に二俣川駅 - 厚木駅間を開業。その後には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川の砂利輸送の営業を行った。その後この2社が合併したようです。以前は相模鉄道の資本関係は昭和産業と東京横浜電鉄(東横電鉄、現在の東京急行電鉄の前身の一つ)が半々の状態だったのが、1941年(昭和16年)6月に昭和産業が持ち株を東横電鉄に譲渡し、相模鉄道は完全な東横傘下となり現在に至っているようです。

長天寺(ダルマ太師)
1394年(室町時代応永元年)に開創。八福神のダルマ太師は釈尊依頼28代インドの高僧で禅宗の初祖といわれています。世寿150歳といわれ七転び八起きの縁起ダルマで親しまれているのです。
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ダルマ太師のお堂がありました。
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横穴古墳跡
長天寺の北側にあり、古墳から出土した装飾品等の品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められているとのことでした。現在はお寺の地面が崩れるといけないとのことで、古墳跡という碑が建っているだけでした。
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瀬谷区内を歩きはじめると「せやまる、このは」の看板がありました。
せやまるは、瀬谷区の形がコノハズク(ふくろうの仲間)に似ていることから生まれたマスコットキャラクターとのこと。
「せやまる」という名前は区民の皆さんから公募で決定され、平成14年に発表されました。メインキャラクターは「せやまる」と妹の「このは」ですが、ファミリーには「おとうさん」や「おかあさん」そして「おじいちゃん」や「おばあちゃん」もいるようです。

相鉄線瀬谷駅の北側へ伸びる海軍道路は真っ直ぐ伸びた直線道路の長さは約3km。道路の脇には450本のソメイヨシノが並び、最近では季節になると花見客を迎えてくれる桜の名所としても知られてきているとのことです。もともとは物資輸送のための旧日本海軍専用道路。敗戦後くらいに米国に接収されたとのことです。

徳善寺(毘沙門天)は曹洞宗寺院で瀬谷山というようです。開山は玄室泰存禅師で1555年(弘治元年)創建ということでした。
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毘沙門天がおられるお堂がありました。
毘沙門天のお堂の傍にタラヨウの木がありました。
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タラヨウ(多羅葉)はモチノキ科モチノキ属の常緑高木。葉は肉厚で20pほどもある長楕円形でその縁は鋸のように細かいきざぎざとなっているのです。昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたとのことで、寺社に多く植樹されているとのことです。葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前にも植樹されています。実際には字を書き、切手を貼りはがきとして受け付けてもらえるのです。

また「義民川口平本建功の碑」がありました。
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これは明治政府の財政を充たすため、初代神奈川県令睦宗光が地租改正事務局を設け、その租税頭となり実施強行を示達したところこれに反対ののろしが瀬谷・二ツ橋・宮沢・和泉・深谷・汲沢・阿久和の7ヶ村に挙がり、明治7年より12年間に挙り合法的減税運動を展開し、遂に東京上等裁判所において村方の勝訴となったということがあったとのこと。しかしこの時の功労者2名(川口儀右衛門・平本平右衛門)が過労で倒れたため村民がその儀に報いるためこの碑を建てたとのことです。

川口製糸株式会社跡。
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本郷地区周辺は桑の栽培に適した土地で、かって養蚕業が栄えたとのことです。明治〜昭和初期にかけて付近に製糸工場が建ち並び、製糸業が盛んだったのです。中でも、「本郷館製糸場」は周辺の製糸場で最も長く稼働していました。そして大正時代に川口製糸株式会社と名前を改めた後、1960年頃まで製造を続けていたとのことでした。

瀬谷日枝社は鎌倉時代には既に存立していたと思われます。1538年(天文7年)小田原北条の陣屋がこの神社の隣接台地に設けられた時、この地頭松波内蔵崇拝の社として敬われたとのことです。現社殿は昭和8年の改築されたようです。
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瀬谷神明社の創立年代は不詳とのことですが、宝暦11年改築の棟札には「願主青木四郎左衛門、副願主惣氏子申し」とあるとのこと。現社殿は昭和3年旧瀬谷の村々が費用負担して造営、昭和50年には修築されたようです。
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国分寺礎石と忠魂碑。
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奈良時代の741年(天平13年)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立され、その七堂伽藍の偉容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村有志が、忠魂碑の台石にと望んで1916年(大正5年)運賃諸費合わせ20円でゆずり受けました。忠魂碑には、明治10年(1877年)の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。昭和25年(1950年)まで瀬谷小学校横に建てられていましたが、その後、事情により徳善寺に移り、さらに平成9年(1997年)にこの地に移されました。

歩を進めると鎌倉古道の河津桜の並木がありました。1192年鎌倉幕府が開かれたことで鎌倉に通じる多くの径ができたようです。鎌倉古道は武蔵の国と相模の国を結ぶ重要な道でした。ここは今や散歩コースとして有名となり河津桜の名所でもあります。
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瀬谷銀行は1907年(明治40年)県央糸業金融(蚕の銀行)として資本金50万円で開業。1935年(昭和10年)鎌倉銀行に合併されるまで、地域の発展に寄与したのです。今、瀬谷銀行跡と案内のある門内には入れませんが開業時の建物などがそのまま現存されているとのことです。当時瀬谷区内では養蚕業が盛んで製糸場が多くあったことを物語っています。
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善昌寺(恵比須神)
1533年、甲斐武田氏ゆかりの人が創建した寺院とのこと。寅年だけ開帳される薬師如来像が安置されているそうです。
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そばのお堂の中には恵比寿様が安置されていました。
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北向地蔵は北向きにまつられた珍しいお地蔵さん。瀬谷柏尾道路に面していて、小さなお堂にまつられていました。
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妙光寺(大黒天)
もともとの652年(白雉3年)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするとのこと。大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称していたところ、1282年(弘安5年)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、この寺に立ち寄り一泊し説教などを聞きこの寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたとのことです。
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本堂傍に大黒天のお堂がありました。
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世野の原の鷹見塚(せやのはらのたかみづか)
このぽっこりとした丘は、一里塚それとも古墳と思いましたが実は江戸時代に鷹狩が行われたときの指揮所の後だとのこと。世野は今の瀬谷のことだそうです。
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宝蔵寺は1066年(治暦2年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまり、1396年(応永3年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたとのこと。1649年(慶安2年)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内地6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜りその後、菊のご紋章を許されたようです。昔の本堂は当初、墓地に隣接していたとのことですが三度の火災焼失で現在地に移り、今日の本堂は1844年(天保15年)の建造と伺いました。
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弁財天を奉安したお堂がありました。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、智恵財福のご利益があり、芸道技術の神としても崇拝されているとのことです。
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西福寺は、1534年(天文3年)の創建と伝えられており、圓中(天和元年1681年寂)が法流開山したとのことです。
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本堂傍に仏足跡があり、わが身の足が長く丈夫で元気に支えてもらいたくて撫でてきました。
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寺社内には布袋尊が安置されていました。
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左馬社(さばしゃ)。
昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んだったとのことです。(七サバ参り)この左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つでご祭神は左馬頭源義朝。
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隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことだとのこと。
梵鐘は1861年(江戸時代の文久元年)に鋳造されたのが、太平洋戦争の供出でなくなったのを、1957年(昭和32年)氏子の協力で新たに現在の鐘がつくられたのでした。
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宗川寺は、石川宗川が開基、富士重須本門寺第十二世日賢上人が寛永2年(1625)開山したといわれているとのこと。江戸時代には、宗川寺の東方80mほどの所に問屋場(中原街道の中継所)が置かれていたということです。
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福禄寿のお堂がありました。
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宗川寺の大樹夫婦銀杏。
山門を入ると左右の大きな夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、いまは横浜市の名木と指定された大樹です。
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中原街道瀬谷問屋場跡。
中原街道瀬谷問屋場は1578年(天正6年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間の五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果したとのことです。

全通院勢至堂(寿老人)
全通院勢至堂の建立年代は不詳、当初は阿弥陀堂として建立され、深見村の中丸佐源太が徳善寺に納めた勢至菩薩像をこの堂に移し、勢至堂としたことが現在にいたっているとのこと。
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御堂の中は暗かったのですが寿老人をカメラで捉えられました。
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下瀬谷分教場跡(勢至堂)の大藤。
1889年(明治22年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となり、この合併により瀬谷小学校の通学区域が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、1890年(明治23年)に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は1943年(昭和18年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。また、境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹がありました。お花を見にうかがうようです。

本日は瀬谷の八福神巡りでした。七福神の由来は徳川家康が七福神信仰を採り入れたことに始まり、江戸時代末期には、人々が開運を求めて七福神詣でを行うようになったことがはじまりのようです。瀬谷では、昭和59年正月より、七福神に達磨大師を加えてそれぞれの寺院に福神をまつり、全国でも珍しい「瀬谷八福神」ができ、今日はこの「瀬谷八福神」巡りをしたのです。廻った順番を整理すると以下のようになります。
@長天寺(ダルマ大師)A徳善寺(毘沙門天)B善昌寺(恵比須神)C妙光寺(大黒尊天)D宝蔵寺(弁財天)E西福寺(布袋尊)F宗川寺(福禄寿)G全通寺(寿老人)
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瀬谷区では八福神巡りのスタンプ用紙がありました。道順も書かれており、とても親切でした。どうやらすべて歩くと13km超えのようです。本日は駅を挟み北口出発の後4福神を巡り、一旦バスで駅に戻り昼食。午後南口出発の後続きでまた4福神を巡り、またでバスで駅に戻った次第で全歩程約8kmだったようです。
本日の講師浅井先生、TD清水さんのお世話で今日は参加者24人。午前は思いがけず日差しもあり気温9℃、寒い時期とはいえ快適に、9:30〜16:00、1日の歩程約2万歩を無事終了。また次も元気に横浜市内をウォーキングできるようにがんばります。
posted by yunofumi at 20:33| あちこちウォーク

2018年01月21日

2018.1.14 年の初めのMBTポールウォーキング

今朝は9:00代々木公園原宿門にいつものメンバーで集合。
実は自宅出発7:30頃はほぼ気温0℃。ウォーキング中は約8℃。公園内は木々の間からつむじ風も吹き、やや寒々でしたがまずは元気に終了。
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その後はいつものように神宮の「杜のテラス」でお茶とおしゃべりを楽しんだ後、神宮にお参りしました。
まだまだお正月気分で参拝客も多かったです。
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そして参道では第42回明治神宮奉納全国氷彫刻展が開催中でした。
明治神宮賞・全日本氷彫刻美会大賞「フェニックス」赤羽目健吾作(帝国ホテル)
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明治神宮賞、全日本氷彫刻美会会長賞「光の女神」木村裕昭作(浦和ロイヤルパインズホテル)
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いずれも朝早くから彫り上げたようでそれは見事で大いに堪能しました。

新年早々のポールウォーキングは思いがけない氷の彫刻を見られるきっかけを与えてくれました。きっと元気に頑張って!との神の思し召しと思いました。今年も日々頑張れそうです。
posted by yunofumi at 15:57| あちこちウォーク

2018年01月16日

2018.1.13 山手線歴史探訪ウォーク 第5回

目白駅〜新宿駅
JR目白駅⇒学習院大学⇒豊島消防署⇒目白警察署⇒千登世大橋・千登世小橋⇒高田1丁目⇒宿坂道・目黒不動・金乗院⇒南蔵院⇒山吹の里の碑⇒面影橋⇒甘泉園公園⇒堀部安兵衛の碑⇒西早稲田交差点・高田馬場跡・八幡鮨⇒グランド坂通り⇒都電荒川線早稲田停留所⇒豊橋・神田川⇒高田第二公園⇒肥後細川庭園⇒水神社・胸突坂・関口芭蕉庵⇒椿山壮⇒神田川桜並木⇒江戸川公園⇒大滝橋⇒旧関口町⇒東京外国語学校早稲田校⇒リーガロイヤルホテル(昼食)⇒大隈庭園⇒早稲田大学・演劇博物館⇒龍泉院⇒おそば三朝庵⇒早稲田高校・中学校⇒夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑⇒東京メトロ早稲田駅⇒穴八幡宮⇒放生寺⇒都立戸山公園・箱根山・戸山教会⇒戸山生涯学習館⇒抜辨天北公園⇒大聖院・紅皿の墓⇒西向天神社⇒新宿文化センター⇒日清食品⇒花園神社⇒新宿ゴールデン街⇒JR新宿駅新南改札口

本日は山手線5回目、都内ウォーキングで伺ったことがある所も幾つか含まれていますがまた違った趣もあるかと思い、参加しました。

学習院大学
1847年京都御所のそばに公家の教育機関として創立。1849年孔明天皇が学習院と命名。
1877年東京に華族学校が開設。明治天皇より学習院の名称を継承とのことで現在に至っているようです。1949年に新制の学習院が開学。現在5学部17学科、大学院は6研究科があるとのこと。門は昔のままのようでした。
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目白警察署は1923年に創設され豊島区を中心に受け持っている警察署。目白警察署の入口に掲げられている旭日章は、旭日を桜が囲んでいる図柄でした。この図柄は、警視庁管内に102署ある警察署の中でも目白警察署だけとのこと。これって旧近衛師団(皇居守護や儀仗に任じた旧陸軍の師団)が用いていたもので、学習院大学警備を担当する目白警察署が、昭和2年の庁舎移築の際に、その使用を特別に認められたものとのことでした。
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千登世橋(ちとせばし)は目白1丁目と雑司が谷との境界にある跨道橋。橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいました。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されています。戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初のもので、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つなのです。 1990年(平成2年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されたとのことです。

宿坂道(しゅくざかみち)は鎌倉街道に面していたようです。今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸などがいて通行人を化かしたなどという話もあるようです。
この左手には目黒不動のある金乗院です。
目黒不動・金乗院(こんじょういん)は、1573年(天正年間)あたりの創建ではないかと推定されているようです。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院といったようですが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となったようです。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたもの。また目白不動尊は、元々はこの寺にあったのではなく、1kmほど離れた文京区関口の新長谷寺にあったということです。
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南蔵院は三遊亭円朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になったお寺。境内には、植物園のように、いたるところに鉢植えが置いてありました。本堂の階段にも鉢植えがびっしり。本堂はコンクリート造りで新しそうでした。花が咲く時期に訪れたいものです。
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山吹の里の碑。
都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つが都電荒川線。その荒川線の駅を終点の早稲田駅から出発して次の駅が「面影橋」。そのすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っていました。
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「山吹の里」は太田道灌が、鷹狩りに出かけた際ににわか雨にあって付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出したのです。道灌は意味がわからず怒ってしまったのですが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914〜87)が詠んだ和歌、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき 」という和歌を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだということです。この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうで、それもやはりこの伝説にちなんだもののようです。近くには「山吹の里公園」もあるとのことです。この「山吹の碑」は1686年(貞享3年)に建てられたもので、最初は面影橋の辺にあったようです。

甘泉園公園は、区立唯一の回遊式庭園です。
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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたといわれています。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなすのです。ここは、江戸時代宝永年間(1704-1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に初代清水家の江戸下屋敷があったとのこと。明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けその後昭和44年には区立公園となったのです。この公園は現在、ツツジの花、アジサイの花、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として人々に親しまれているとのことでした。

堀部安兵衛助太刀の場所の碑。
1694年(元禄7年2月11日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒したのです。この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄15年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、1910年(明治43年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたとのこと。その後、昭和46年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されたようです。
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新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道はグランド坂通りとあり、新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道とのこと。早稲田大学早稲田キャンパス(旧称:西早稲田キャンパス)の中を通り、坂名の由来となったグランドがあった所に位置する早稲田大学総合学術情報センター(大学図書館等がある)は、この坂道の北側に接しています。道筋は逆S字型ですが、坂中央部が長い直線になっています。

都電荒川線早稲田停留所は、西早稲田一丁目の新目白通り上にあり、都電荒川線の停留場で同線の終点でもあります。

豊橋(ゆたかばし)・神田川。
都電早稲田駅から北に入ってすぐのところにかかる橋。逆に南に進めば早稲田大学脇の「大隈通り」に入ります。橋の北側を少し行くと豊川稲荷があり、その脇に日本女子大前につながる「豊坂」という坂道があるのです。橋の名前は直接にはこれらにちなんだものかと思われます。 橋自体は変哲のないコンクリート橋ですが、周囲の景観は変化に富んでいて散歩向き。付近の両岸は桜の名所で、初夏の緑もなかなかのもので、南側の学生街、北側の高田1丁目あたり、いずれも町並みに特色があってちょっと楽しいのです。

肥後細川庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。
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目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂、胸突坂があります。神田川にかかる駒塚橋から見ると、左手の水神社の白い鳥井と、右手の関口芭蕉庵の塀に挟まれた細い道が、生い茂る木々の間を上っていくのが見えます。坂下には水神社(神田上水の守護神)があります。坂道を挟んで向かい側には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵がありました。

関口芭蕉庵。
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいました。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているのです。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたのが現在の芭蕉庵につながっているとのこと。現在のものは第2次大戦後の建築だそうです。

椿山壮はホテルとして1992年(平成4年)に開業。2万坪の日本庭園で知られる老舗結婚式場が敷地内にあります。

リーガロイヤルホテル東京に隣接しているのが大隈庭園。
広い芝生が広がる和洋折衷式の庭園。作者は佐々木可村とのこと。大隈邸の竣工した明治20年に庭園も完成していたようです。
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夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子の安倍能成氏によるもの。漱石は1867年(慶応3年)、この地に生まれ、誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克とのこと。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしたようです。
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穴八幡宮。
蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされていわれています。旧称は高田八幡宮。1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったということです。1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称し、3代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたのです。
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歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されているのです。江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名とのこと。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているとのことです。

都立戸山公園・箱根山。
都立戸山公園は尾張藩の下屋敷。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万uの広大な敷地には池や山のほか、多くの寺社もあったようです。第2次世界大戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の接収を経て、一部が都立公園として整備されたのです。公園は明治通りをはさみ「箱根山地区」「大久保地区」の2エリアに分かれています。春から夏にかけてはサクラやツツジ、秋は紅葉が見ごろ。箱根山に登り「登頂証明書」をもらうことができました。
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箱根山は標高44.6mで山手線の内側で最高峰。江戸時代、この地には尾張藩の広大な下屋敷があったので2代藩主の徳川光友が庭園を造った際、池を掘った土で築かれた人造の山が今もその姿をとどめています。明治維新後、土地の所有が政府に移ると、庭園は壊され、陸軍戸山学校が設けら、射撃場、軍医学校……。軍事面で近代国家を支える拠点となったのです。

抜辨天。
白河天皇の時代、1086年(応徳3年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのがこの厳島神社の始めと伝えられています。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。また山之手七福神を構成する弁財天でもあるとのことです。
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大聖院・紅皿の墓。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成されています。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられていました。
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西向天神社。
1282年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。旧・東大久保村鎮守。祭神菅原道真。この方は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ったのです。
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花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。戦争を経て1947年(昭和22年)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。
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新宿ゴールデン街は新宿区の飲食店街でおよそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。昼間なのでどうやら巡り歩くことができました。

本日はセンター試験初日で多くの若者を見受けました。私どもの参加者は16名、そのうち珍しく男性が6名含まれていました。案内は岡本先生とTD長田さん。朝自宅出発時は気温はマイナス、日中も7℃くらいでしたが晴天で風もなく、9:30〜15:30過ぎまで大いに楽しみながらのウォーキングでした。本日で歩程は約半分。今後もがんばります。
posted by yunofumi at 00:42| あちこちウォーク