この日高市ウォーキングの参加は実は2回目。1回目は4日前でした。
1回目の日、何しろ台風の影響で大雨。久しぶりのウォーキングでしたがちょっと天候の予測を見誤り装備が不足。おかげで食事処に着いた時には“ずぶぬれ”でこのままでは風邪をひくと思いました。コロナ禍で風邪をひいたり、発熱はマズイ!ということで食後、皆さんと別れて帰路についた次第です。
そして本日の空模様は曇り!雨は避けられそう!実は高麗氏の歴史などを見分したかったので再度の申込での参加でした。
本日10:00集合の西武池袋線高麗駅⇒高麗村石器時代住居跡⇒高札場跡⇒水天の碑⇒巾着田曼殊沙華公園⇒あいあい橋⇒鹿台橋⇒ドレミファ橋⇒中島照光先生顕彰碑⇒高麗郷民族資料館⇒高麗川遊歩道⇒和食処芳月⇒聖天院・高麗王廟⇒高麗神社・高麗家住宅⇒JR八高線高麗川駅
西武池袋線高麗駅(こまえき)は1929年(昭和4年)に開業したようです。普段は約2000人の利用客のようですがこの時期、曼殊沙華が咲くので近くの巾着田曼殊沙華公園への見物でとても賑わうようです。本日駅前広場には、高麗神社にちなみ、「天下大将軍」「地下女将軍」と表記された、朝鮮半島の道祖神「将軍標」が建てられていました。これは「チャンスン(将軍標)といわれ韓国では村の入り口や道端に魔除けや道しるべとして置かれているとのことです。

駅前広場にはまた「渡来人の里高麗」の説明案内板がありました。

案内板によるとこの辺りは668年に高句麗から来た多くの人々がいて、716年に設置されたのが武蔵国高麗郡高麗郷の地。当時の高麗郡大領に任命された、朝鮮半島の高句麗の王族「高麗王若光」や多くの高句麗人が渡来してきたとのこと。この方々の子孫などがこの地に現在まで住み、その足跡が聖天院や高麗神社としてこの地に根付いているようです。
高麗村石器時代住居跡(こまむらせっきじだいじゅうきょあと)

1929年(昭和4年)に埼玉県内で初めて縄文時代の竪穴式住居跡を発掘調査した遺跡です。

水天の碑は、旱魃(かんばつ)の被害を受けやすかった台村の地で、天明の飢饉(1781-1789・浅間山の噴火)に続いて天保の飢饉(1830-1844)に見舞われ、台村の人々が天災や水難事故を鎮めるために建立したとのことです。

巾着田の殊沙華を見る手前にある高麗本郷付近を流れる高麗川にかかる鹿台橋(ろくだいばし)は、県道15号川越日高線が通っていました。
巾着田曼殊沙華公園(きんちゃくだまんじゅしゃげこうえん)。

高麗川が蛇行(だこう)した形が「巾着(きんちゃく)」の形に似ているところから「巾着田(きんちゃくだ)」なのです。昭和40年代にこの地の用地を日高町が買取り、藪や竹林、葦(あし)におおわれていた地を整備したところ9月頃には一斉に曼殊沙華が咲き始めたようです。どうやら高麗川の増水などで漂着した球根などが根付き、今では500万本が赤い絨毯を敷き詰めたように咲き誇るのです。本日はほぼ満開で見事な風景が広がっていました。




これはドレミファ橋。平成22年設置の木橋。巾着田から高麗丘陵ハイキングコースに向かう橋で桁がかかっておらず、橋脚をぴょんぴょんと飛び越えて渡っていたことから「ドレミファ」と歌いながら渡ったということで「ドレミファ橋」となったようです。本日は通行禁止でした。

曼殊沙華の咲き誇る有料地域を出るとすぐのあいあい橋は平成8年に設置された木製トラス橋。橋長は91.20mで日本最長級の木製トラス橋で、周辺の緑と調和した巾着田の観光シンボルとなっているようです。

あいあい橋のすぐそば、高麗川の川岸そばに中島照光先生顕彰碑がありました。この先生は高麗川の流れを利用して地元の子供たちに「水泳を教育として」教えた方だそうです。

高麗郷民族資料館は旧石器時代からこの地に住み始めた先人の農業、漁業、林業などの用具なども展示していました。特に養蚕、お茶、稲作、畑作などが盛んだったようです。特に製茶機の研究を重ねた高林謙三の紹介や大きな花火筒が目を引きました。
埼玉県では、平成24年度から、市町村のまちづくりと一体となり、一つの川の上流から下流までをまるごと再生する「川のまるごと再生プロジェクト」を推進しているとのことです。そこで日高市が誇る清流、高麗川の河川沿いの葦や竹をきれいにし、水辺に近づける遊歩道を整備し、高麗川とふれあいながら、日頃のお散歩や健康づくりに利用できる高麗川遊歩道がのどかに続いていました。
隠家のような和食処芳月でミニ会石ランチの昼食でした。特に鯛の蒸し焼きは初めてでとても美味しかったです。


ご夫婦で切り盛りされているとのことでしたが、きめ細かく手が込んでおりとても美味しかったです。

聖天院(しょうでんいん)。
創建751年、高麗王若光の子、聖雲(しょううん)と孫、弘仁(こうにん)が、王の侍念僧であった勝楽の冥福を祈り建立したとのこと。勝楽はもともと若光の冥福を祈り、菩薩を弔うためにこの寺の草創を思い立ちました。しかし志なかばで没したため、聖雲と弘仁がこの意思を引き継いだといわれています。いわば若光の菩提寺といえます。

これは高麗王廟。5個の砂岩を重ねた多重塔で下部に四仏が刻まれていたとのことですが今はわからないとのこと。鎌倉期以前の建立でしたが境内が後方に移動したので山門右手になったようです。昭和46年に周囲を修復し現在の様子になったとのことでした。

これは雷門(風神雷神門)。瓦葺総欅木造二層楼閣、大きさ建築様式共に近郷稀にみる優美さと重厚さを備えた建造物。天保初年~3年に完成、棟梁は北足立郡立村立川氏と小瀬戸安藤直蔵氏とのこと。楼閣二階の山号額は江戸の住人中村入道景蓮の書。天上画は龍、鳳凰共に江戸の画師南沢。門左右に風神、雷神を祀り、階上に大日如来、七観音、十六羅漢が配祀されているとのことでした。

山水を取り入れ山の傾斜を利用した庭園。本来東側にある書院・茶室より望むように設計されたようです。改修で池と庭を広げ植栽と庭石の配置を工夫して、中門をくぐった南側正面からと、本堂前舞台より見下ろす北側の三方より楽しむことができるようになっているとのことでした。

阿弥陀堂は足利時代の国宝的建築と稲村担元氏によって証明されている当山最古の木造建築。寺記に「宝永年間高岡村金子六左衛門為父母菩提再建之」とあるとのこと。本尊は阿弥陀如来三尊(行基作)、左手に武蔵野観音霊場本尊聖観音、他に十王尊を祀っているとのことです。

阿弥陀堂横から101段上がると仁王様がお出迎えです。

本堂は平成12年、京都神護寺をモデルにしており、平茂寺立川流宮大工九代目石川吉登渾身の作、総欅造り・三手先出組とし軒先の出二軒半・内陣には最大直径2尺3寸の大柱を用い、古式に則り造営された百余坪の重厚な伽藍。本尊に不動明王を祀り大日如来、釈迦如来、地蔵菩薩、愛染明王、観音・勢至菩薩を配祀、堂内左手に若光守護仏聖天尊が祀られているとのこと。本堂前からの眺望はすばらしく、高麗郷を一望、遠く東方には埼玉新都心のビル群、南西方に丹沢・奥多摩の山並み富士山も見える眺めのようでした。

鐘楼は完成したばかりのようでした。希望すれば鐘もつけるようでした。
雪山(石灰岩)は本堂造成時に出現した石灰岩の大塊。釈尊の前世譚「雪山童子」にちなみ名付く。7月には岩肌をはうノウゼンカズラの花が美しいとのことでした。
在日韓民族慰霊塔は終戦前36年間に亡くなった在日韓民族無縁仏の慰霊・供養を願い、尹炳道氏が私財を投じ造成建立。基壇を合わせ高さ16mの石塔は日本最大級、下部に納骨室を備えているようです。塔の周りには朝鮮様式の八角亭、檀君、広開土大王、王仁博士など韓民族の偉人の石像が並び、異国情緒豊かな霊域となっているとのことでした。
聖天院のお宝は鐘楼や不動明王座像等たくさんあるようですが普段は見られないようです。また本堂横の雪山(石灰岩)在日韓民族慰霊碑などもあるとのことでしたがこの二つは見損ないました。境内は自然豊かで春の桜に始まり、つつじ、そして秋の紅葉は見ごたえがありそうです。ということからまた後日機会があれば伺いたいものです。
次は高麗神社(こまじんじゃ)。716年(霊亀2年)武蔵国に1799人の高麗人が入植して未開の原野を開墾。大和朝廷はこの戸を「高麗郡」と名付け高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)を首長としたのです。高麗とはかって朝鮮半島から中国大陸にかけ領有した大陸「高句麗」のことでした。668年に滅びた高句麗からは多くの人々が日本に渡り土着したということからなのです。若光没後、群民はその徳を偲び、御霊を高麗神社として祀ったのです。逆境に立ち向かって道を切り開いた精神を慕って多くの人がこの地を訪れるのです。参拝した6人の政治家が総理大臣に就任したことから出世海運、事業繁栄の神として崇拝されているのです。また御祭神若光の末裔が現在も宮司を務め、60代も続いていることから子孫繁栄のご利益もあるということです。2016年(平成28年)に高麗郡建郡1300年を迎えたということでした。
一ノ鳥居に掛けられている扁額は、熊谷宿の野口雪江筆によるもので、「大宮大明神」と書かれているとのこと。 大宮とは地域の重要な神社に許された称号。 高麗神社は江戸時代まで、高麗郡の大宮として「高麗大宮大明神」・「大宮社」などと称されていたようです。本日は参道の途中から入ったようで見損ないました。

芳名板には、明治18年以降に参拝された著名な方のお名前がありました。 古くは政治家、文豪などの参拝が多く、近年では俳優、タレントなども多いとのことでした。上の方から太宰治、坂口安吾、上原正吉、モト冬樹などなど有名人のお名前がズラリでした。

二ノ鳥居に掛けられている扁額「高麗神社」は、第59代高麗家当主・宮司の高麗澄雄筆によるもの。

御神門の中央に掛けられている扁額には「高句麗神社」とありました。明治33年にここを参拝した朝鮮王朝の貴族 趙重応の筆によるものとのこと。 御祭神の故国 高句麗と後に興った高麗を区別するため、そのまま額にしてあるとのことでした。

本殿の建立は、3つの時代に分けられます。正面手前の外拝殿は、平成27年の増改築により建てられたとのこと。本殿は、一間社流れ造りで中世、安土・桃山時代の建立と伝えられています。

高麗家住宅(こまけじゅうたく)は慶長年間(1596〜1614年)頃の建築と伝えられ、御祭神の末裔である高麗氏の旧住居。 茅葺きの入母屋造りで東日本に残る民家の中では古い形を遺しているとのこと。住宅脇には樹齢400年のシダレザクラがあり、例年3月下旬頃に開花し、住宅と桜の風情は素晴らしいとのことでした。

神楽殿では、年間に様々に行われる祭事や催しなどで、舞や楽器演奏、芸能などが奉納されます。今日は高麗の民族衣装が飾られていました。

車おはらい処の隣に将軍標(しょうぐんひょう)(チャンスン)がありました。
高麗神社の御祭神 高麗王若光の母国 高句麗が存在した朝鮮半島には、「チャンスン・長丞」と言われる標柱を立てる風習があるようです。 将軍標(しょうぐんひょう)と呼び、日本の道祖神にも似た習俗のようです。朝鮮半島では村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割を荷なっているのです。 大きな花崗岩の将軍標がご参拝の皆様をお迎えするかのように立てられていました。
自販機にあった「くりっかー・くりっぴー」は日高市マスコットキャラクター。

本日の日高市内ウォーキングで見つけたマンホールのデザインです。

これは巾着田。そのほかにカワセミのマンホールも見ました。
路面のタイルには日高市の鳥、日高市の花ハギもありました。

こちらはカワセミ。

そして本日の埼玉の逸品は栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」。

そのほかのお菓子は皆、栗が入っていました。日高市は県内随一の栗の産地であり、「高麗川マロン」、「日高ぽロン」といったブランド栗も有名とのことです。また、加工品も充実しており、栗こま娘本舗亀屋の「栗こま娘」は大粒の「栗」が入って入りおり、ほくほくとしてとてもおいしかったです。
日高市の特産は栗のほかにはお茶も有名なようでそういえば民俗資料館前でお茶のお接待がありました。。

JR八高線高麗川駅を通る八高線は八王子〜高崎の路線。
高麗川駅前ロータリーには「日韓交流の塔」がありました。
本日は朝から曇り、午後には思いがけず日差しもあり、24℃で絶好のウォーキング日和でした。喜多見先生、小松TDと参加者9人は和やかに一日を過ごせました。私は4日前のリベンジで再度の参加でしたが大成功でニコニコしながら無事終了。そして久しぶりの2万歩超はほぼ限界でしたが皆さんに付かず離れずのウォーキングができました。感謝!!来月は本庄市のウォーキングを予定していますので日々、怠けないで精進しておきます。では皆様!また来月!