2018年04月19日

2018.4.14 横浜散策 第10回青葉区

東急田園都市線あざみ野駅⇒あざみ野駅東側交差点⇒早淵川・中村大橋⇒向井根橋⇒驚神社⇒新石川橋際交差点⇒新石川橋⇒関耕地橋⇒老馬鍛冶山不動尊・霊泉の滝⇒大山道・老馬谷ガーデン⇒鍛冶橋⇒庚申堂⇒荏田宿案内板⇒カフェぐらすうっど⇒横浜山内郵便局⇒真福寺下交差点⇒真福寺・庚申塔⇒布川・布川橋⇒荏田宿常夜燈⇒荏田交差点⇒セブンイレブン・高札場跡⇒布引橋⇒荏田城址・徳江建具店⇒横山医院⇒城南信用金庫⇒荏田町第二歩道橋⇒荏田宿庚申塔⇒大山道・小黒谷地蔵尊⇒かごの屋(昼食)⇒東急江田駅⇒荏田猿田公園⇒長者原遺跡⇒橘・学生会館⇒えだ動物病院⇒竹下地蔵堂⇒市ヶ尾横穴古墳群・市ヶ尾小学校正門(古墳門)⇒市ヶ尾郵便局⇒梨園⇒稲荷前古墳群⇒総合庁舎入口交差点⇒大山道猿田坂⇒旧旅籠綿屋⇒東急田園都市線市が尾駅

早淵川は青葉区美しが丘西に源を発し南東に流れており都筑区、港北区をへて横浜市港北区綱島西付近で鶴見川に合流しているとのことです。昔は大変なあばれ川だったのが現在は全域がコンクリート護岸となっておりあざみ野駅の東、中村大橋までが一級河川だそうで鶴見川本流の水防に大いに寄与していようです。現在は水もきれいでコガモが優雅に泳いでいました。
そうそう、あばれ川の頃の早淵川は土手にあざみ野が見事に咲いていたことからこの辺りがあざみ野と呼ばれるようになったとのことです。
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驚神社は創立不詳とはいえ奈良時代に造られたとの伝承があるとのことで石川牧の鎮守と言われているとのこと。昔この地域は牧場があり、名馬がよく出た場所で、「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという名称由来の説を伺いました。石川村の鎮守であったことから、秋祭りには早淵川の上流の谷戸(保木、平川、荏子田、船頭牛込)の社から神輿と山車がこの驚神社に集まり、その時に奉納されるのが牛込獅子舞。これは一人立ち三頭獅子舞で約300年前、元禄年間の疫病流行の際に始まったと伝えられているとのことでした。
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大山街道を進むと老馬鍛冶山不動尊(ろうばかじやまふどうそん)がありました。
馬を駆っていた石川牧や驚神社が傍にあるくらいですから、老馬を祀るお不動さんということでしょう。
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老馬鍛冶山不動尊の下にある霊泉の滝は古くからある湧き水で、不思議な力があるとして保護されてきた「霊泉」で雨ごいや咳に効くそうです。
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本日はこの霊泉の滝から大山街道を歩き、江田駅に出るコースです。
大山街道は、東海道とは違い脇街道といわれ、現在国道246号として使われており、大山と、現在の赤坂付近(江戸)を結ぶ街道として、昔から多くの人に使われてきた街道。 大山は昔から、雨を降らせる雨乞いの神様の山として知られていて、今でも「大山参り」をする人たちが利用しているとのことです。

庚申堂は江戸中期、荏田村下宿の婦人たちにより建てられたそうです。当時は女性がこのような行動を起こしたことは珍しいそうです。
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荏田宿(えだじゅく)案内板
荏田宿は、かつて武蔵国都筑郡荏田村で大山道(矢倉沢往還)が通っていた宿場。
旅籠屋をはじめ、さまざまな商人・職人が居住し、合計二十数軒の家屋が連なっていたようですが、1894年(明治27年)の火災により焼失したとのことです。この案内板で当時をの面影を思い描きました。
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真福寺は真言宗豊山派の寺院。旧小机領三十三所観音霊場の第二十番札所とのこと。創建は不明のようですが、ご本尊は千手観音立像で普段は御開帳ではないとのことでした。
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本堂内には多くの古い絵馬が多く見られました。
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真福寺門前には文政11年といわれる庚申塔があり、大切にされているようでした。
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荏田宿常夜燈(えだしゅくじょうやとう)
神奈川県の北を通る矢倉沢往還は東海道の裏道にあたり、大山参詣の中心道であったことから、大山街道とも呼ばれていました。荏田は長津田とともに、江戸初期から宿駅に指定されていたのです。当時の宿の繁栄がこの常夜燈に残っているようです。この燈は高さ230cmで燈の中台には「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれているとのこと。文久元(1861)年に作られたこの燈は、秋葉講の案内宿に建てられたものとのことでした。今は一般民家のお庭にあり垣間見ることができました。
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荏田城址。
戦国時代には後北条氏の城の一つで、茅ヶ崎城や榎下城とともに小机城の支城では、との解説を伺いました。今は民家の向こうにある小高い山が城跡とのことですが立ち入りできないとのことでした。
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大山街道を進み、これで荏田宿も終わりという地点に庚申塔がひっそりとありました。
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荏田北三丁目の表示がある大山街道沿いに小黒谷(おぐろやと)地蔵尊がありました。
江戸中期に作られた三体のお地蔵尊です。 「小黒谷」と書いて「おぐろやと」と読み、「やと」とは、 丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形で、一般的にいう「たに(谷)」のことだそうです。この呼び方は神奈川県および東京都多摩地域でつかわれているようです。
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長者原遺跡(ちょうじゃはらいせき)
古代ではこの辺りは武蔵国都筑郡に属しており、その郡衙(ぐんが)の跡が見つかった所です。
ちなみに郡衙(ぐんが)とは、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所であったとのこと。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)ともいうと伺いました。
この遺跡からは「都」の文字が彫ってある土器などが見つかっているのですが、惜しいことに遺跡の半分はそばを走る東名高速道路建造時に完全に破壊されたのです。現在横浜市歴史博物館で発掘された土器などを見ることができるということでした。そして現在、長者原遺跡のあったこの場所は荏田猿田公園として整備され、園内に遺跡の解説板を見ることができました。
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「市ヶ尾竹下地蔵堂」は旧大山街道沿いにある真宗のお寺で、江戸中期に建てられました。千日の托鉢によって建てられたため「千日堂」ともいわれているようです。江戸時代に始まった念仏講は、現在でも地元の人たちが続けています。まさに本日もお堂の前で地元の方々20人ほどで楽しくお集まりをしておられました。地蔵堂に上がる石段の下には、庚申塔などの石造物がたくさん並んでおり、一体一体のお地蔵さんにお花などが供えられていました。
また石段を上がった境内からは、大山が良く見える好展望地でした。
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市ヶ尾横穴古墳群(いちがおよこあなこふんぐん)は横穴墓群でした。
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1933年(昭和8年)に発見され、今は市ヶ尾遺跡公園として整備されていました。
鶴見川(谷本川)左岸の丘陵地帯に位置し、谷本川に向けて南向きに開いた谷戸地の崖面を掘って造営されています。12基ある北側のA群と、7基ある南側のB群に分かれており、6世紀後半から7世紀後半にかけての古墳時代末期に造られた有力な農民の墓だそうです。墓群の内外からは須恵器や土師器などの副葬品も見つかっているとのことでした。公園内は、墓群に沿うように散策路が整備されていました。

市ヶ尾横穴古墳群(からさらに西約800mの所に、都筑の地を統合した歴代の首長や一族の墓である稲荷前古墳群(県指定史跡)がありました。
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4世紀から5世紀の古墳時代に、谷本川の流域に広がる都筑を、有力な首長が治め、大和政権との繋がりも持ったようです。これらの古墳は、この地域を治めた歴代の首長や一族の墓で、1967年に住宅造成中に発見され、前方後円墳2基・前方後方墳1基・円墳4基・方墳3基の計10基の古墳と横穴墓9基が見つかったとのことです。特に16号は前方後方墳であり、神奈川県で初めて発見されたとのこと。現在では大部分が住宅地と化し消滅したが、その16号と15号・17号の方墳2基の計3基が保存されているのです。古墳の上に上り皆で高さや形を実感しました。
上から眺める景色は眼下に鶴見川や市が尾高校も見え、広々していました。
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大山街道の緩やかな猿田坂手前、総合庁舎入口交差点の所に古い2階建ての旧旅籠綿屋の建物がそのまま見られました。この交差点は「日野往還」と「大山街道」の交差点なのです。
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市ヶ尾横穴古墳群の手前に梨園がありました。これは「浜なし」という横浜市果樹生産者の統一ブランド名だとのことでした。ネットで調べると、「あざみ野園」では主に「幸水(こうすい)」と「豊水(ほうすい)」を生産。そのほか比較的新しい品種として「秋月(あきづき)」もあるとのことでした。また「浜なし」は通常、市場への出荷は行わず、生産者が直接販売ており現地でほとんど消費されるようです。いずれにしても美味しさは抜群のようですから一度求めたいと思いました。

本日はあざみの駅から大山街道に出て早瀬川・早淵川・布川などの風景を見ながら、しかも横浜に古墳があり本当に驚きました。天候が薄曇りながら終了時まで持ちこたえたことは何よりで23名が元気にウォーキングを終了できたのは浅井先生、TD久森さんのおかげでもあります。横浜散策は今日で10区目、約18000歩、13km超はいつになく多めでしたが10:00スタート、15:45終了は上出来。これからまだまだ新発見があるようで楽しみです。また頑張ります。
posted by yunofumi at 22:28| あちこちウォーク

2018年04月04日

2018.3.29 横浜散策 第9回南区

京急弘明寺駅⇒弘明寺⇒弘明寺駅前商店街⇒大岡川・観音橋⇒弘岡橋⇒大井橋⇒鶴巻橋⇒蒔田橋⇒井土ヶ谷橋⇒蒔田中学校⇒蒔田消防出張所⇒宮元町⇒地下鉄蒔田駅⇒杉山神社⇒横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地⇒蒔田中学校前バス停⇒井土ヶ谷事件の碑⇒井土ヶ谷橋⇒Y高(市立横浜商業高校)⇒大岡川蒔田公園⇒葭谷橋・川分岐点⇒吉野町市民プラザ⇒吉野町交番⇒南昌飯店(昼食)⇒吉野歩道橋⇒日枝小学校⇒お三の宮日枝神社⇒一本橋⇒前里町4丁目交差点⇒平戸桜木道路⇒宮川香山真葛焼窯場跡⇒白金町2丁目⇒道慶橋⇒太田橋⇒末吉橋⇒黄金橋⇒桜桟橋・長谷川伸の碑⇒オルガン広場⇒吉田新田・清正公堂⇒厳島神社⇒蓬莱町2丁目⇒大通公園⇒JR根岸線関内駅

9:30ウォーキングスタート時、講師の浅井先生より、本日は大岡川の川沿いで大岡川プロムナードと呼ばれる桜並木の散策も兼ねますとの説明がありました。
大岡川(おおおかがわ)は、横浜市磯子区氷取沢町が水源、長さ12km、最後は横浜港に注ぐ二級河川。上流部の笹下地区では笹下川の愛称で呼ばれているとのことです。
大岡川プロムナードは約3kmの桜並木で、500本の桜と約2500個のぼんぼりが飾られ、夜は淡いピンク色の桜が美しいようです。この大岡川プロムナードは全国6位、神奈川県内1位の人気の高いお花見スポットとのことです。

弘明寺(ぐみょうじ)は、高野山真言宗の横浜市内最古の寺院。 本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財。このあたり一帯は江戸期から明治22年まで弘明寺村と呼ばれていたようです。
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本堂の中に鎮座したご本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は写真撮影禁止。そして木造黒漆花瓶が二口ありました。これはケヤキを轆轤で成型した、高さ70cmの「亞」の字の形をした黒漆塗りの花瓶で1590年修理の銘があるとのことでした。

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社。旧武蔵国における式内社の一社とされますが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在するとのことです。
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横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地。
横浜市営地下鉄は1972年12月に伊勢佐木長者町−上大岡間5.2kmで開業。 この区間内には車両基地が設けられていなかった為、開業時に使用される車両を搬入する場所が必要となり、選ばれた場所が鎌倉街道の蒔田駅付近の直線部だったのです。 
1976年9月には上大岡−上永谷、伊勢佐木長者町−横浜の2区間が開業し、この時上永谷車庫も完成。
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井土ヶ谷(いどがや)事件の碑。
生麦事件後の1863年7月3日(文久3年5月18日)、当分として、幕府は横浜居留地に 英仏軍隊の駐留を認めています。(これにより居留地山手地区に英仏軍隊が駐留したのです。)ちなみに、当時の外国人の遊歩区域は神奈川を中心として10里(東は六郷側、西は酒匂川)以内 と定められており、そのため彼らは、馬に乗って東は川崎、西は藤沢、江ノ島、南は 鎌倉、金沢辺まで出かけることがよくあったようです。
井土ヶ谷事件も居留地から保土ヶ谷方面に乗馬で出かけたフランス士官が不幸にも井土ヶ谷にて 遭遇した殺傷事件なのです。この井土ヶ谷事件で殺害された士官がカミュです。その後カミュは横浜の外人墓地に埋葬されました。
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Y高(市立横浜商業高校)は1881年(明治14年)横浜貿易商組合により、横浜商法学校設立が立案され、翌15年、授業開始。1888年(明治21年)には横浜商業学校と改称。1905年(明治38年)南太田の現在地に校舎が落成し移転。1948年(昭和23年)横浜市立横浜商業高等学校と改称。2012年(平成24年)には創立130周年を迎えています。その昔はさぞや一般人のあこがれの学校だったようです。
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大岡川が中村川と分岐するところに「蒔田(まいた)公園」(約2.3ha)があります。この付近一帯は戦後進駐軍に接収され、昭和31年に返還されました。 蒔田公園はその地に運動広場(野球場)を中心に公園として昭和59年4月に開園し、国際仮装行列の終点会場やメーデーの神奈川中央会場としても利用されているとのことです。
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蒔田公園で大岡川がふたつに分かれており、左は大岡川 右は中村川、上を高速道路が走っています。高速道路の下に見える中村川の一番最初の橋は葭谷橋(よしやはし)でした。

お三の宮日枝神社(おさんのみやひえじんじゃ)は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられ、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられているとのことです。
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)の広い範囲は、釣鐘の形をした入海だったとのこと。今からおよそ350年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた商人吉田勘兵衛良信が、この入海を埋立て、新田を築いたのです。(吉田新田)
この大工事は、明暦2年7月に鍬入れをし、翌年5月には13日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わっています。しかし、万治2年2月に再度試み、11年余りの歳月と8038両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ35万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、1673年(寛文13年9月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのです。これにより『横浜開拓の守護神』として、人々から親しまれているようです。
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この鳥居は山王鳥居というようです。鳥居の形式の一で明神鳥居の笠木 (かさぎ) の上の中央に棟柱 (むなばしら) を立て、木材を合掌形に組み渡し、その頂上に烏頭 (からすがしら) という反りのある木を置いたもので日吉 (ひよし) 大社の鳥居に始まるということです。

真葛焼(まくずやき)窯場跡には戦前まで宮川香山の真葛焼の窯場と住居があったようです。真葛焼は,初代香山が明治9年の万博に出品して一躍名をあげ、その後二代、三代とつづき、日本よりも海外での評価が高かったようです。横浜大空襲で、窯場と住居が焼失し、四代で廃業したとのことです。新坂の途中に案内板があり、その中に窯場の銅版画が印刷されていて、当時の様子がしのばれました。
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真葛焼は幕末に、京都の真葛原(まくずがはら)で宮川長造が焼き始めた陶磁器。1871年(明治4年)四男の宮川香山が横浜の太田町に移窯したことから太田焼ともいうようです。世界各地の万国博覧会で絶賛され、作品の多くは海外流出したとのことです。

現在の道慶橋(どうけいはし)付近には、吉田新田が出来るまで対岸の中村方面への渡し場がありました。吉田新田が完成した後、道慶という僧が、住民のために新田に通ずるよう大岡川に小橋を架け、これが道慶橋で、橋際の地蔵は道慶地蔵と呼ばれているようです。
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橋柱には僧が持つ錫杖の頭部に見られる輪形の遊環がついておりました。動かすと正に錫杖のように大きな音が鳴りました。
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道慶橋の傍から見た桜
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大田橋の傍から見た桜
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長谷川伸の碑(はせがわしんのひ)
小説・劇作家の長谷川伸は、1884年(明治17年)に今の日ノ出町駅生まれでその後も横浜で育ったようです。彼は父の破産によって小学校を中退、貧困のため幼い頃から第2号ドック(現在の日本丸メモリアルパーク)で小僧として働き、暇を見つけては小説を書いていたとのこと。 その後20歳で新聞記者となり、後に小説家にまでなったのです。長谷川信は1963年(昭和38年)にこの世を去りましたがその3年後、1966年(昭和41年)に長谷川伸賞が設立されています。主な作品は「関の弥太っぺ」、「瞼の母」、「一本刀土俵入」、など25点以上もの小説が今でも残されています。
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オルガン広場。
京浜急行「日の出町」は、オルガンの発祥地。千葉県出身の三味線職人の西川虎吉が明治13年(明治16年)頃に西川オルガン製造所を横浜市中区日ノ出町に設立したのです。オルガンは明治19年の小学校の義務教育化で、唱歌の伴奏楽器として使われ、音楽楽校・軍楽隊・教会などで盛んに演奏されたのです。虎吉が大正9年に亡くなり、当時の不況も重なって大正10年に「ヤマハ楽器」に合併されたのですが、西川オルガンの人気は高く、ヤマハのオルガンには、戦前まで「Nishikawa」の文字が刻まれ、製作が続いていたとのことです。
これを記念して駅前広場は『オルガン広場』という名が付けられ、広場の向いには『オルガン記念碑』も設置されています。
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吉田新田(よしだしんでん)は、現在の横浜市中区と南区に跨る地域で開墾された新田でここは江戸時代前期に吉田勘兵衛によって開墾されました。近代横浜の枢要部である関内地区の外側の、南西側に伸びる低地の市街地の多くは、この吉田新田の開発により陸化された土地で、その意味で、横浜発展の基礎を築いた新田なのです。
吉田勘兵衛はこの地に家を建て住み、彼の子孫の11代までが住み続けているのです。新田開発成功を知った4代将軍徳川家綱は、1669年(寛文9年)に功績を称え新田名は吉田新田と改称し、吉田に苗字帯刀を許し。延宝2年(1674年)に公式の検地が行われ、新田村となったのです。
長者橋のたもとの第10吉田ビルは吉田家の邸宅跡で、吉田勘兵衛の子孫が経営する吉田興産の所有。屋敷中にあった大井戸は200年にわたり住民の飲料水となっていたとのことです。
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今、屋敷跡には清正公堂や浄行菩薩がありました。
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厳島神社。
元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称したとのこと。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝わっているとのことです。 足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えています。境内には銭洗弁天社、豊受稲荷神社がありました。
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大通り公園(おおどおりこうえん)は、横浜市中区の公園。JR関内駅方面から、横浜市営地下鉄伊勢佐木長者町駅をほぼ中央とし、阪東橋駅にまで至る帯状の公園で、1973年(昭和48年)まで流れていた吉田川、新吉田川という運河を地下鉄建設に伴い埋め立て、1978年(昭和53年)9月に開園したのです。現在、この公園の真下に横浜市営地下鉄ブルーラインが通っているとのことです。
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JR根岸線関内駅
関内駅(かんないえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅。1964年(昭和39年)5月19日:国鉄根岸線 桜木町〜磯子間の開通時に、国鉄の駅が開業したことが最初。現在は1日約8万人が乗車のために行きかっているようです。

本日は春というより夏を感じさせる日和の陽射しのもと、日向は33℃、木陰は24℃、そして微風ですからウォーキングには最高の日よりでした。浅井先生、TD久森さんと共に23名は約18000歩、約10kmを完歩。今日は桜見物に終始したともいえますが何といっても真葛焼を知ったことが大きかったです。「宮川香山真葛ミュージアム」を一度訪れたいと思っています。
posted by yunofumi at 22:58| あちこちウォーク

2018年03月19日

2018.3.17 MBT自由が丘店おさんぽ会

駒沢大学駅集合⇒駒澤大学商店街⇒駒沢食堂⇒ミニストップ⇒駒沢オリンピック公園⇒駒沢体育館⇒駒沢トレーニングルーム⇒カフェソラ⇒駒沢の森こども園⇒犬のようちえん⇒Café VIVACE⇒bag uette rabit(パン屋さん)⇒Mont Blanc⇒MBT自由が丘店⇒マリコス⇒自由が丘駅

朝9時東急田園都市線駒沢大学駅集合のために早めで7:15自宅出発。
気温5℃以下の予報だったのでちょっと重ね着をしてお出かけ。
今日は皆さんご都合が悪かったようでインストラクターを入れて3名なので気楽に出発。
駒沢オリンピック公園では桜はまだでしたが、あちらこちらに梅などが見られました。
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公園内には宇宙欅の若木がすくすく育っていました。
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Café VIVACEで小休止。
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本日はデレンパイとドリンクがセットのフィーカセットをいただきました。
もち持ちした触感と薫り高い珈琲は最高でした。
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bag uette rabit(パン屋さん)はいつも大繁盛。私も思わずお買い物をしました。
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MONT BLANCは日本で最初にモンブランを開発したケーキ屋さん。
とても美味しそうでした。次回にまた伺いましょう。
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解散後はリニューアルオープンのマリスコスでパスタをいただきました。
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ということで次第に自由が丘界隈が少しづつわかってきました。
若者が多く訪ずれる街です。遅ればせながら私も街歩きを今後も時々したいと思っています。
今日は日中12℃、微風、快晴、11:30には大いに楽しんだ後解散しました。またじかいもよろしく!!
posted by yunofumi at 00:05| あちこちウォーク

2018年02月28日

2018.2.28 高尾山10回目

今日で2月が終わりなので仕事をお休みし、高尾山に上りました。
約半年ぶりの高尾山です。本日は平日、夜には天候が崩れるとのことでしたから登山者は今までで一番少なく高尾山清滝駅は閑散としていました。
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周りの木々はまだ冬の様相。
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浄心門。
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神変堂。
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高尾山には色々な方々のお名前が掲示されております。今回は「高尾山健康登山の証百冊成満者」として154名の方のお名前を見つけました。「高尾山健康登山の証」は1回の登山につき1ページにスタンプをいただきます。21個のスタンプで1冊完成です。ということで私は本日で10個のスタンプがたまりました。
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薬王院飯縄権現堂。
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頂上が近づいた高尾山ビジターセンター傍の登山道にはまだ雪が見られました。
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ようやく山頂について記念撮影。
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参道途中には梅も開花していました。
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本日は一人で気ままに、体力の確認も兼ねて、ウォーキング感覚での山登りでした。下に降りて紅葉屋でとろろそばをいただき、温まりました。帰宅すると10000歩超でしたが久しぶりだったので苦手な上りもあり、少し草臥れました。今後も鍛錬が必要と実感しました。
posted by yunofumi at 22:38| あちこちウォーク

2018年02月25日

2018.2.17 横浜散策 第8回港北区

東急東横線大倉山駅⇒記念館坂⇒大倉山公園・大倉山記念館⇒エルム通り⇒大綱小学校4⇒大豆戸どろんこ保育園⇒港北スポーツセンター⇒大豆戸小学校⇒新横浜さわやか苑⇒大豆戸公園⇒ベガサス新横浜保育園⇒HANZOYA⇒横浜デジタルアーツ専門学校⇒岩崎学園⇒横浜アリーナ⇒プリンスペペ⇒新横浜グレースホテル・ぎん(昼食)⇒城南信用金庫⇒新横浜国際ホテル⇒新横浜駅前郵便局⇒呉竹鍼灸整専門学校⇒スタジアム通り⇒トラック総合会館⇒日産スタジアム⇒日産スタジアム前バス停留所⇒鶴見川流域センター⇒小机城址⇒医王山金剛寺⇒雲松院・旗本笠原家墓所⇒JR小机駅

記念館坂。
港北区大倉山2丁目と大曽根台1丁目の間にある坂で大倉山駅から東横線沿いに北に向かい,直角に曲がった後大倉山記念館に向かっています。かなりの急な坂で大倉山駅スタート直後だったのでややきつかったです。長さ380m、高低差36m、平均斜度5度とのことでした。
坂上には大倉山記念館があるのでこの名称となったようです。
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大倉山公園東急東横線大倉山駅の北西側の丘の上に、大倉山公園がありました。木々に包まれた丘の上に広場などを設けた公園で中心には大倉山記念館、北側の谷戸には梅林がありました。梅林には150本ほどの梅が咲き、本日から梅まつりとのことで人が多かったです。
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緑萼梅(リョクガクバイ)がありました。
これは日中友好の印として中国から各地に贈られているとのこと。葉は楕円形で、互い違いに生える(互生)。野梅系・青軸性の白い一重咲きの中大輪(花径25から30mm)。萼が黄緑色になるのが特徴とのことでした。
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公園入口にはハナミズキ、ツツジ、ヤマボウシなど季節季節でお花を楽しめそうです。

大倉山記念館。
実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(1882-1971)により1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建されたとのこと。1981年(昭和56年)横浜市が寄贈を受け、大改修のうえ建物の保存を図るとともに、1984年(昭和59年)横浜市大倉山記念館として生まれ変わったのです。
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建物は、1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建された。設計は、東京駅設計の辰野慎吾の一番弟子、長野宇平治。ギリシャ神殿様式のピロティー、昭和初期の雰囲気を残す第5集会室、神社建築の木組みを取り入れたホール、エントランスなど、映画やテレビのロケ地としても数多く活用されています。

東急東横線大倉山駅前の商店街は東へ向かえば「レモンロード」、西へ向かえば「エルム通」、「オリーブ通」、「つつみ通」と続き、それらが全体で「大倉山商店街」となっているのです。その中でも「エルム通」はギリシャ建築を彷彿とさせる意匠の建物が並び、その特徴的な佇まいから知名度も高く、「大倉山エルム通り」として広く知られているのです。
「大倉山エルム通り」には白い外壁の重厚な佇まいの建物が並んでおり、まるで古代ギリシャの神殿を思わせるような意匠の建物が並んでおり、全体が統一された印象になっていました。建物の白い外壁が陽光を照り返えすと、街路樹の緑がよく映えとてもきれいに見えます。それぞれの建物はそれほど規模の大きなものではなく、高層のビルなどもないから、通り全体が明るく開放的な感じです。美しい佇まいの街並みには電柱もなく、歩道には花々が置かれ、歩いていても気分がよくなります。
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大豆戸町(まめどちょう)という町名がありました。これは師岡熊野神社に大豆を奉納していたことに由来する地名だそうです。

横浜アリーナは、1989年4月に開業した多目的イベントホール。現・キリンホールディングスと横浜市、西武鉄道からの出資の第三セクター。アリーナ部分の最大面積8000 m2、最大収容人数は1万7000人で、コンサートやスポーツ、企業式典など、あらゆる用途に利用されています。
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こちらの街中ではこのマンホール蓋があちらこちらにありました。
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日産スタジアム。
7階建てで、公園駐車場が1階、ウォーミングアップルームやピット部分が2F、トラックやピッチのあるフィールド部分が3F、1階席が4F・5F、2階席が6・7階、と積み上げ式の建物。スタジアムの外周路は1周約930m。資源の有効利用のために大屋根部分に降った雨を芝生の散水やトイレの洗浄水に利用。また、水再生センターからの再生水をヒートポンプの熱源とし、さらにトイレの洗浄水に使用とのこと。
こちらは正面。大きすぎて全景を写せませんでした。
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鶴見川流域センター
鶴見川の源流は東京都町田市、河口は横浜市鶴見区の東京湾。鶴見川は町田市、横浜市青葉区、緑区、都筑区、港北区、鶴見区、川崎市幸区を流れる全長42.5km、流域面積235kmの一級河川。 このうち京浜河川事務所の直轄管理区間は、河口から第三京浜道路までの17.4km。支川の矢上川は、1.8km。支川の早淵川は、1.6km。支川の鳥山川は、1.9kmとのこと。流域の形が夢を食べるといわれる動物・バクに似ていることから「バクの川」ともよばれているとのこと。鶴見川は昔から大変な川で、市街化が進んで水害が起こりやすいのです。1980年昭和55(1980)年、保水・遊水機能の確保などを流域全体で進めていく「総合治水対策」の対象河川となり、緑地の保全や調整池の設置など、雨を一気に川へ流さないための流域対策と、ポンプ場の整備などの下水道対策と一体となって、河川の整備を進めてきました。
平成16(2004)年には、健全な水循環系を実現することで、治水・環境・利水など、鶴見川が抱える諸課題を総合的に解決するため、市民・市民団体・企業・行政等が一体となって行う「鶴見川流域水マスタープラン」が策定されました。
屋上では多目的遊水地を一望できました。越流堤、排水門、減勢池など遊水地の主要部を見て遊水地の仕組みの説明を職員さんから受けました。また、遊水地内にある日産スタジアムや周囲にある小机城址、小机城、遠方のランドマークタワーなども眺めることができました。
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白い枠があるのは新しくできた道路。その手前に一段低くなっているのが越流堤。そして細く見える水面が減勢池。これらは鶴見川が大雨で溢れてきた時、水をこちら側に流し、多い時は日産スタジアム1階までにも達するようです。

小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址は市民の森として、城の遺構が整備されつつあるようでした。
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小机城は、永享の乱(1438年 - 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとのことですが、正確にはいまだわかっていないようです。この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦で山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしたのです。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞したようです。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月かけて落城させたとのことです。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存されていました。その後北条氏綱の家臣の笠原信為が城主として配置され城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいたようです。最後は徳川家康の関東入府のときに廃城とされたとのことです。2017年(平成29年)、「続日本100名城」(125番)に選定されたため近頃訪れる人が多いとのことです。

雲松院・旗本笠原家墓所。
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雲松院は字愛宕下という所にありました。小机の城主笠原越前守信為が開基。信為が法名を乾徳寺雲松道慶と云うことで寺名がついたようです。
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笠原越前守信為はじめ一族のお墓が本堂の後の山の半腹にありました。

本日の講師浅井先生、TD田村さんのお世話で今日は参加者23人、朝自宅出発時は5℃くらい。でも日中は12℃くらいにまでなったようです。梅の花も咲き、とても良いウォーキングでした。鶴見川流域センター、日産スタジアムのことは特に印象深かったです。9:30〜16:00、1日の歩程約8kmはやや歩程が短かったのかもしれませんが、スタートすぐの大倉山への上り、終了間際の小机城址までの上りはちょっときつく十分歩いた!の気分でした。まだまだ続く横浜散策です。今後も楽しく、頑張ります。
posted by yunofumi at 21:35| あちこちウォーク

2018年02月12日

2018.2.10 山手線歴史探訪ウォーク 第6回

新宿駅〜渋谷駅
JR新宿駅・新南改札・ペンギン広場⇒高島屋新宿店⇒新宿4丁目交差点⇒天龍寺⇒雷電稲荷神社⇒伊勢丹新宿店⇒新宿3丁目交差点⇒追分だんご⇒東京メトロ新宿三丁目駅⇒末広通り⇒新宿末広亭⇒要通り共栄会⇒新宿柳通り⇒不動通り会⇒太宗寺⇒正官庄⇒四谷区民センター⇒玉川上水水番所跡⇒四谷大木戸跡碑⇒四谷四丁目交差点⇒内藤新宿開設300年記念碑⇒新宿御苑大木戸門⇒新宿1丁目⇒三遊亭圓朝旧居跡・花園公園⇒花園幼稚園・花園小学校⇒花園町親交会⇒成覚寺⇒正受院⇒玄海(昼食)⇒新宿御苑新宿門・千駄ヶ谷門⇒新井白石終焉の地⇒日本デザイン専門学校⇒JR中央緩行線御苑裏ガード⇒千駄ヶ谷大通⇒明治通り⇒山手線裏参道ガード⇒北参道⇒明治神宮⇒代々木公園原宿門・渋谷門⇒NHK⇒二・二六事件慰霊碑⇒神南小学校⇒紀伊国屋書店⇒JR渋谷駅ハチ公前改札口

JR新宿駅新南改札・ペンギン広場
新宿駅はJR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局が乗り入れる駅。2016年7月に新宿駅新南改札正面に新たな待ち合わせスポットとして「Suicaのペンギン広場」が登場。今回初めてじっくり見ました。待ち合わせ場所にはいいと思いました。
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天龍寺は、東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗の寺院。創建は1591年(天正19年)。
天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とのこと。法泉寺は徳川家康の側室だった西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春の菩提寺であり、西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移されたようです。この時、寺名を天龍寺と改めたのは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来するとか。
上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割をしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていたようです。天和3年、天和の大火により焼失し、現在地へ移転したのです。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来ます。
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雷電稲荷神社
天龍寺とともに遠江国から遷されて来たとか、平安時代に創建後、天正年間(1573〜1593年)に再建されたなどの説があるようです。もとは天龍寺の境内社。また、源義家が奥州征伐の途中、雷雨を避けてこの地で休んでいると、どこからか一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、たちまち雷雨が止み晴れ渡ったので、里人が雷電神社と呼んだという伝承もあると伺いました。
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「新宿元標ここが追分」と新宿三丁目交差点南東角の路面に大きく描かれていました。「追分」は街道の分岐点に見られる地名。現在の新宿三丁目交差点は、元々は甲州街道と青梅街道の分岐点であったことを示しています。平成11年3月制作とありました。
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追分だんご本舗は、1945年(昭和20年)に創業。1455年(康正元年)に、太田道灌が江戸城を築城中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、土着の名族から手つきの団子が献上され道灌は大いに喜び、その後も団子を所望したことがはじまり。後に、高井戸宿が甲州街道の始駅となり、また1698年(元禄11年)、内藤新宿が伝馬の宿駅となり、もとの柳茶屋は新宿追分に移転し、「追分だんご」と呼ばれるようになったようです。

新宿末広亭は、都内に4軒ある落語定席の一つ。落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗。1940年代後半浅草にあった「浅草末廣亭」は大旦那(北村)が開場したものとのこと。
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太宗寺(たいそうじ)。
1596年(慶長元年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身とのこと。1629年(寛永6年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、1668年(寛文8年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されたのです。
1691年(元禄4年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれたのです。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、1952年(昭和27年)から行われた区画整理で縮小されたのです。5代目当主正勝など3基の墓石が現存していました。
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境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がありました。
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また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきたことがわかりました。

玉川上水水番所跡。
玉川上水は多摩川の羽村の堰で取水し、四谷大木戸までは開渠、四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋などの水道管を地下に埋葬して通水したのです。水番所では番所人が水門の調節で水量の管理やゴミの除去を行っていたようです。この水道碑記(すいどういしぶみのき)は高さ460p、幅230p。完成は1895年(明治28年)ということです。
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四谷大木戸跡碑。
昭和34年地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑。
実際の四谷大木戸は現在の四谷4丁目交差点のあたりだったとのことです。
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内藤新宿開設300年記念碑。
新宿御苑の大木戸門を出てすぐのところにある記念碑。約300年前に、ここから新宿三丁目までの1kmに宿場が開設されたのです。
新宿一丁目の交差点は甲州道中最初の宿場・内藤新宿であった所。内藤家の甲州道中沿いの一部が用地として割かれ、宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになったようです。記念碑の説明では1698年(元禄11年)、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛らの願により、ここから新宿3丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設されたのです。この宿場は1718年(享保3年)に風紀紊乱の廉(かど)で一度廃止されたのが、54年後の1772年(明和9年)に再び再興されました。以降、甲州・青梅両街道が交差する交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に到っているのです。
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三遊亭圓朝旧居跡。(案内板のみ)
新宿区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所。屋敷地は、およそ1000u。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室だったようです。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたようです。円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を好んだのです。怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、円熟期だったのです。

成覚寺(じょうかくじ)。
1594年(文禄3年)の創建。江戸時代には、岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女・遊女たちの投げ込み寺だったようです。奉公途中に死んだ飯盛女は身に着けていたものを剥ぎ取られ、俵に詰められ、この寺に投げ込むように葬られたということです。成覚寺に葬られた人数は、2200〜3000人くらい、大変なのことです。
境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵(あさひじぞう)」などがありました。 また、黄表紙という新ジャンルを成立させた戯作者の恋川春町や、暦学者の塚本明毅のお墓もありました。

正受院(しょうじゅいん)。
1594年(文禄3年)、正受乘蓮和尚を開山として創建とのこと。正受院の奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めていたとのことです。
境内には1957年(昭和32年)建造の針塚と1963年(昭和38年)に造立された小見外次郎の胸像がありました。

玄海は昭和3年に創業以来80余年。水たき一筋のお店とのこと。私たちは親子御膳をいただきました。しかしこれでは食べすぎです。
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新宿御苑はもともと、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理となりその後の第二次世界大戦後は一般公開され、現在は環境省管轄の国民公園となっています。2006年(平成18年)には100周年を迎え、開園100周年事業として、絶滅危惧植物の保護センターを設置することが計画されています。
ここでは毎年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されます。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもあります。園の入り口は四つ(新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門)あります。大木戸門傍には旧大木戸門衛所がありました。
園内を散策しながらイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を見ました。
すでに寒桜が素晴らしく咲いておりました。
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旧御涼亭からの眺めは最高でした。
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新井白石終焉の地。(案内板のみ)
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出て塀沿いに案内がありました。新井白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、財政も含め政治改革を行った学者で後世は「正徳の治」と呼ばれました。でも行政の進め方があまりにも性急すぎたようで幕閣から「鬼」と呼ばれてとても嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定されたのです。白石はこの地で6年ほど暮らし多くの著書を残したようです。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数があります。今日は北参道から入り本殿にお参り後、南参道に抜けました。
ちょうど結婚式の行列に出会いました。

代々木公園はもともと大日本帝国陸軍の代々木練兵場があった場所。第二次世界大戦後にはワシントンハイツ、1964年(昭和39年)には東京オリンピックで代々木選手村となっていました。その後の1967年(昭和42年)に東京都の代々木公園として開園。敷地は540,529.00m2(およそ東京ドーム11個分)。
1964年第18回東京オリンピックでのオランダの選手宿舎が記念で残っております。
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ここには照憲皇太后の葬儀が行われた場所ということで記念碑がありました。
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代々木公園には原宿門、参宮橋門、西門、渋谷門がありいつも出入りできる感じです。

二・二六事件慰霊碑。
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ここは二・二六事件の首謀者たちが刑死した陸軍刑務所跡地。観音像と石柱とささやかな祭壇がありました。神南小学校の方に曲がると案内板があり以下の内容でした。
昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危うく難を免れた。
此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。

ここの所かなり寒い日が続いていましたが今日は9:30〜16:00のウォーキング、ほぼ晴天で気温12℃。歩程25000歩、約10kmを前回に引き続き岡本先生、TD長田さんと共に参加者26名が完歩。そういえばこの10回シリーズを本日で終了した方がおられました。何しろシリーズの場合は一度欠席すると次の機会にすぐ出会うのが難しいので数年かかる場合もあるようでした。いずれにしても自分も頑張らねばなりません。これから順次春めいてくるでしょうから大いに回を重ねるように心がけます。
posted by yunofumi at 23:49| あちこちウォーク

2018年01月23日

2018.1.20 横浜散策 第7回瀬谷区(せやく)

相鉄線瀬谷駅⇒瀬谷駅北口交通広場⇒瀬谷小学校⇒横浜瀬谷北郵便局⇒長天寺(ダルマ太師)⇒相沢4丁目⇒横穴古墳跡⇒ファミリーマート瀬谷中央店⇒ジョナサン瀬谷駅前店⇒海軍道路⇒瀬谷中学校⇒本郷クリニック⇒横浜市瀬谷図書館⇒徳善寺(毘沙門天)⇒川口製糸株式会社跡⇒日枝社⇒瀬谷神明社⇒瀬谷銀行跡⇒中屋敷中央公園⇒善昌寺(恵比須神)⇒北向地蔵⇒妙光寺(大黒天)⇒竹村町バス停留所---バス----瀬谷駅⇒魚貝亭(昼食)⇒瀬谷駅南口⇒瀬谷写真館⇒世野の原の鷹見塚⇒横浜甦生病院⇒ほうさい殿⇒宝蔵寺(弁財天)⇒稲荷神社⇒西福寺(布袋尊)⇒左馬社⇒宗川寺(福禄寿)⇒全通院勢至堂(寿老人)⇒下瀬谷橋バス停留所----バス---瀬谷駅

相鉄線は正式には相模鉄道株式会社。
相模鉄道は1917年(大正6年)12月18日に創立。1921年(大正10年)に茅ケ崎駅(神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業。1931年(昭和6年)に橋本駅(同県相模原市)まで全通した。
一方、神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現:横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)に神中軌道として設立。1919年(大正8年)には神中鉄道への商号変更をし、1926年(大正15年)に二俣川駅 - 厚木駅間を開業。その後には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川の砂利輸送の営業を行った。その後この2社が合併したようです。以前は相模鉄道の資本関係は昭和産業と東京横浜電鉄(東横電鉄、現在の東京急行電鉄の前身の一つ)が半々の状態だったのが、1941年(昭和16年)6月に昭和産業が持ち株を東横電鉄に譲渡し、相模鉄道は完全な東横傘下となり現在に至っているようです。

長天寺(ダルマ太師)
1394年(室町時代応永元年)に開創。八福神のダルマ太師は釈尊依頼28代インドの高僧で禅宗の初祖といわれています。世寿150歳といわれ七転び八起きの縁起ダルマで親しまれているのです。
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ダルマ太師のお堂がありました。
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横穴古墳跡
長天寺の北側にあり、古墳から出土した装飾品等の品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められているとのことでした。現在はお寺の地面が崩れるといけないとのことで、古墳跡という碑が建っているだけでした。
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瀬谷区内を歩きはじめると「せやまる、このは」の看板がありました。
せやまるは、瀬谷区の形がコノハズク(ふくろうの仲間)に似ていることから生まれたマスコットキャラクターとのこと。
「せやまる」という名前は区民の皆さんから公募で決定され、平成14年に発表されました。メインキャラクターは「せやまる」と妹の「このは」ですが、ファミリーには「おとうさん」や「おかあさん」そして「おじいちゃん」や「おばあちゃん」もいるようです。

相鉄線瀬谷駅の北側へ伸びる海軍道路は真っ直ぐ伸びた直線道路の長さは約3km。道路の脇には450本のソメイヨシノが並び、最近では季節になると花見客を迎えてくれる桜の名所としても知られてきているとのことです。もともとは物資輸送のための旧日本海軍専用道路。敗戦後くらいに米国に接収されたとのことです。

徳善寺(毘沙門天)は曹洞宗寺院で瀬谷山というようです。開山は玄室泰存禅師で1555年(弘治元年)創建ということでした。
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毘沙門天がおられるお堂がありました。
毘沙門天のお堂の傍にタラヨウの木がありました。
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タラヨウ(多羅葉)はモチノキ科モチノキ属の常緑高木。葉は肉厚で20pほどもある長楕円形でその縁は鋸のように細かいきざぎざとなっているのです。昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたとのことで、寺社に多く植樹されているとのことです。葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前にも植樹されています。実際には字を書き、切手を貼りはがきとして受け付けてもらえるのです。

また「義民川口平本建功の碑」がありました。
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これは明治政府の財政を充たすため、初代神奈川県令睦宗光が地租改正事務局を設け、その租税頭となり実施強行を示達したところこれに反対ののろしが瀬谷・二ツ橋・宮沢・和泉・深谷・汲沢・阿久和の7ヶ村に挙がり、明治7年より12年間に挙り合法的減税運動を展開し、遂に東京上等裁判所において村方の勝訴となったということがあったとのこと。しかしこの時の功労者2名(川口儀右衛門・平本平右衛門)が過労で倒れたため村民がその儀に報いるためこの碑を建てたとのことです。

川口製糸株式会社跡。
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本郷地区周辺は桑の栽培に適した土地で、かって養蚕業が栄えたとのことです。明治〜昭和初期にかけて付近に製糸工場が建ち並び、製糸業が盛んだったのです。中でも、「本郷館製糸場」は周辺の製糸場で最も長く稼働していました。そして大正時代に川口製糸株式会社と名前を改めた後、1960年頃まで製造を続けていたとのことでした。

瀬谷日枝社は鎌倉時代には既に存立していたと思われます。1538年(天文7年)小田原北条の陣屋がこの神社の隣接台地に設けられた時、この地頭松波内蔵崇拝の社として敬われたとのことです。現社殿は昭和8年の改築されたようです。
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瀬谷神明社の創立年代は不詳とのことですが、宝暦11年改築の棟札には「願主青木四郎左衛門、副願主惣氏子申し」とあるとのこと。現社殿は昭和3年旧瀬谷の村々が費用負担して造営、昭和50年には修築されたようです。
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国分寺礎石と忠魂碑。
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奈良時代の741年(天平13年)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立され、その七堂伽藍の偉容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村有志が、忠魂碑の台石にと望んで1916年(大正5年)運賃諸費合わせ20円でゆずり受けました。忠魂碑には、明治10年(1877年)の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。昭和25年(1950年)まで瀬谷小学校横に建てられていましたが、その後、事情により徳善寺に移り、さらに平成9年(1997年)にこの地に移されました。

歩を進めると鎌倉古道の河津桜の並木がありました。1192年鎌倉幕府が開かれたことで鎌倉に通じる多くの径ができたようです。鎌倉古道は武蔵の国と相模の国を結ぶ重要な道でした。ここは今や散歩コースとして有名となり河津桜の名所でもあります。
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瀬谷銀行は1907年(明治40年)県央糸業金融(蚕の銀行)として資本金50万円で開業。1935年(昭和10年)鎌倉銀行に合併されるまで、地域の発展に寄与したのです。今、瀬谷銀行跡と案内のある門内には入れませんが開業時の建物などがそのまま現存されているとのことです。当時瀬谷区内では養蚕業が盛んで製糸場が多くあったことを物語っています。
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善昌寺(恵比須神)
1533年、甲斐武田氏ゆかりの人が創建した寺院とのこと。寅年だけ開帳される薬師如来像が安置されているそうです。
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そばのお堂の中には恵比寿様が安置されていました。
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北向地蔵は北向きにまつられた珍しいお地蔵さん。瀬谷柏尾道路に面していて、小さなお堂にまつられていました。
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妙光寺(大黒天)
もともとの652年(白雉3年)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするとのこと。大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称していたところ、1282年(弘安5年)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、この寺に立ち寄り一泊し説教などを聞きこの寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたとのことです。
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本堂傍に大黒天のお堂がありました。
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世野の原の鷹見塚(せやのはらのたかみづか)
このぽっこりとした丘は、一里塚それとも古墳と思いましたが実は江戸時代に鷹狩が行われたときの指揮所の後だとのこと。世野は今の瀬谷のことだそうです。
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宝蔵寺は1066年(治暦2年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまり、1396年(応永3年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたとのこと。1649年(慶安2年)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内地6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜りその後、菊のご紋章を許されたようです。昔の本堂は当初、墓地に隣接していたとのことですが三度の火災焼失で現在地に移り、今日の本堂は1844年(天保15年)の建造と伺いました。
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弁財天を奉安したお堂がありました。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、智恵財福のご利益があり、芸道技術の神としても崇拝されているとのことです。
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西福寺は、1534年(天文3年)の創建と伝えられており、圓中(天和元年1681年寂)が法流開山したとのことです。
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本堂傍に仏足跡があり、わが身の足が長く丈夫で元気に支えてもらいたくて撫でてきました。
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寺社内には布袋尊が安置されていました。
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左馬社(さばしゃ)。
昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んだったとのことです。(七サバ参り)この左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つでご祭神は左馬頭源義朝。
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隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことだとのこと。
梵鐘は1861年(江戸時代の文久元年)に鋳造されたのが、太平洋戦争の供出でなくなったのを、1957年(昭和32年)氏子の協力で新たに現在の鐘がつくられたのでした。
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宗川寺は、石川宗川が開基、富士重須本門寺第十二世日賢上人が寛永2年(1625)開山したといわれているとのこと。江戸時代には、宗川寺の東方80mほどの所に問屋場(中原街道の中継所)が置かれていたということです。
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福禄寿のお堂がありました。
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宗川寺の大樹夫婦銀杏。
山門を入ると左右の大きな夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、いまは横浜市の名木と指定された大樹です。
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中原街道瀬谷問屋場跡。
中原街道瀬谷問屋場は1578年(天正6年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間の五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果したとのことです。

全通院勢至堂(寿老人)
全通院勢至堂の建立年代は不詳、当初は阿弥陀堂として建立され、深見村の中丸佐源太が徳善寺に納めた勢至菩薩像をこの堂に移し、勢至堂としたことが現在にいたっているとのこと。
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御堂の中は暗かったのですが寿老人をカメラで捉えられました。
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下瀬谷分教場跡(勢至堂)の大藤。
1889年(明治22年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となり、この合併により瀬谷小学校の通学区域が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、1890年(明治23年)に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は1943年(昭和18年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。また、境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹がありました。お花を見にうかがうようです。

本日は瀬谷の八福神巡りでした。七福神の由来は徳川家康が七福神信仰を採り入れたことに始まり、江戸時代末期には、人々が開運を求めて七福神詣でを行うようになったことがはじまりのようです。瀬谷では、昭和59年正月より、七福神に達磨大師を加えてそれぞれの寺院に福神をまつり、全国でも珍しい「瀬谷八福神」ができ、今日はこの「瀬谷八福神」巡りをしたのです。廻った順番を整理すると以下のようになります。
@長天寺(ダルマ大師)A徳善寺(毘沙門天)B善昌寺(恵比須神)C妙光寺(大黒尊天)D宝蔵寺(弁財天)E西福寺(布袋尊)F宗川寺(福禄寿)G全通寺(寿老人)
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瀬谷区では八福神巡りのスタンプ用紙がありました。道順も書かれており、とても親切でした。どうやらすべて歩くと13km超えのようです。本日は駅を挟み北口出発の後4福神を巡り、一旦バスで駅に戻り昼食。午後南口出発の後続きでまた4福神を巡り、またでバスで駅に戻った次第で全歩程約8kmだったようです。
本日の講師浅井先生、TD清水さんのお世話で今日は参加者24人。午前は思いがけず日差しもあり気温9℃、寒い時期とはいえ快適に、9:30〜16:00、1日の歩程約2万歩を無事終了。また次も元気に横浜市内をウォーキングできるようにがんばります。
posted by yunofumi at 20:33| あちこちウォーク

2018年01月21日

2018.1.14 年の初めのMBTポールウォーキング

今朝は9:00代々木公園原宿門にいつものメンバーで集合。
実は自宅出発7:30頃はほぼ気温0℃。ウォーキング中は約8℃。公園内は木々の間からつむじ風も吹き、やや寒々でしたがまずは元気に終了。
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その後はいつものように神宮の「杜のテラス」でお茶とおしゃべりを楽しんだ後、神宮にお参りしました。
まだまだお正月気分で参拝客も多かったです。
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そして参道では第42回明治神宮奉納全国氷彫刻展が開催中でした。
明治神宮賞・全日本氷彫刻美会大賞「フェニックス」赤羽目健吾作(帝国ホテル)
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明治神宮賞、全日本氷彫刻美会会長賞「光の女神」木村裕昭作(浦和ロイヤルパインズホテル)
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いずれも朝早くから彫り上げたようでそれは見事で大いに堪能しました。

新年早々のポールウォーキングは思いがけない氷の彫刻を見られるきっかけを与えてくれました。きっと元気に頑張って!との神の思し召しと思いました。今年も日々頑張れそうです。
posted by yunofumi at 15:57| あちこちウォーク

2018年01月16日

2018.1.13 山手線歴史探訪ウォーク 第5回

目白駅〜新宿駅
JR目白駅⇒学習院大学⇒豊島消防署⇒目白警察署⇒千登世大橋・千登世小橋⇒高田1丁目⇒宿坂道・目黒不動・金乗院⇒南蔵院⇒山吹の里の碑⇒面影橋⇒甘泉園公園⇒堀部安兵衛の碑⇒西早稲田交差点・高田馬場跡・八幡鮨⇒グランド坂通り⇒都電荒川線早稲田停留所⇒豊橋・神田川⇒高田第二公園⇒肥後細川庭園⇒水神社・胸突坂・関口芭蕉庵⇒椿山壮⇒神田川桜並木⇒江戸川公園⇒大滝橋⇒旧関口町⇒東京外国語学校早稲田校⇒リーガロイヤルホテル(昼食)⇒大隈庭園⇒早稲田大学・演劇博物館⇒龍泉院⇒おそば三朝庵⇒早稲田高校・中学校⇒夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑⇒東京メトロ早稲田駅⇒穴八幡宮⇒放生寺⇒都立戸山公園・箱根山・戸山教会⇒戸山生涯学習館⇒抜辨天北公園⇒大聖院・紅皿の墓⇒西向天神社⇒新宿文化センター⇒日清食品⇒花園神社⇒新宿ゴールデン街⇒JR新宿駅新南改札口

本日は山手線5回目、都内ウォーキングで伺ったことがある所も幾つか含まれていますがまた違った趣もあるかと思い、参加しました。

学習院大学
1847年京都御所のそばに公家の教育機関として創立。1849年孔明天皇が学習院と命名。
1877年東京に華族学校が開設。明治天皇より学習院の名称を継承とのことで現在に至っているようです。1949年に新制の学習院が開学。現在5学部17学科、大学院は6研究科があるとのこと。門は昔のままのようでした。
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目白警察署は1923年に創設され豊島区を中心に受け持っている警察署。目白警察署の入口に掲げられている旭日章は、旭日を桜が囲んでいる図柄でした。この図柄は、警視庁管内に102署ある警察署の中でも目白警察署だけとのこと。これって旧近衛師団(皇居守護や儀仗に任じた旧陸軍の師団)が用いていたもので、学習院大学警備を担当する目白警察署が、昭和2年の庁舎移築の際に、その使用を特別に認められたものとのことでした。
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千登世橋(ちとせばし)は目白1丁目と雑司が谷との境界にある跨道橋。橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいました。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されています。戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初のもので、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つなのです。 1990年(平成2年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されたとのことです。

宿坂道(しゅくざかみち)は鎌倉街道に面していたようです。今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸などがいて通行人を化かしたなどという話もあるようです。
この左手には目黒不動のある金乗院です。
目黒不動・金乗院(こんじょういん)は、1573年(天正年間)あたりの創建ではないかと推定されているようです。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院といったようですが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となったようです。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたもの。また目白不動尊は、元々はこの寺にあったのではなく、1kmほど離れた文京区関口の新長谷寺にあったということです。
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南蔵院は三遊亭円朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になったお寺。境内には、植物園のように、いたるところに鉢植えが置いてありました。本堂の階段にも鉢植えがびっしり。本堂はコンクリート造りで新しそうでした。花が咲く時期に訪れたいものです。
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山吹の里の碑。
都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つが都電荒川線。その荒川線の駅を終点の早稲田駅から出発して次の駅が「面影橋」。そのすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っていました。
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「山吹の里」は太田道灌が、鷹狩りに出かけた際ににわか雨にあって付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出したのです。道灌は意味がわからず怒ってしまったのですが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914〜87)が詠んだ和歌、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき 」という和歌を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだということです。この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうで、それもやはりこの伝説にちなんだもののようです。近くには「山吹の里公園」もあるとのことです。この「山吹の碑」は1686年(貞享3年)に建てられたもので、最初は面影橋の辺にあったようです。

甘泉園公園は、区立唯一の回遊式庭園です。
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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたといわれています。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなすのです。ここは、江戸時代宝永年間(1704-1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に初代清水家の江戸下屋敷があったとのこと。明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けその後昭和44年には区立公園となったのです。この公園は現在、ツツジの花、アジサイの花、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として人々に親しまれているとのことでした。

堀部安兵衛助太刀の場所の碑。
1694年(元禄7年2月11日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒したのです。この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄15年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、1910年(明治43年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたとのこと。その後、昭和46年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されたようです。
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新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道はグランド坂通りとあり、新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道とのこと。早稲田大学早稲田キャンパス(旧称:西早稲田キャンパス)の中を通り、坂名の由来となったグランドがあった所に位置する早稲田大学総合学術情報センター(大学図書館等がある)は、この坂道の北側に接しています。道筋は逆S字型ですが、坂中央部が長い直線になっています。

都電荒川線早稲田停留所は、西早稲田一丁目の新目白通り上にあり、都電荒川線の停留場で同線の終点でもあります。

豊橋(ゆたかばし)・神田川。
都電早稲田駅から北に入ってすぐのところにかかる橋。逆に南に進めば早稲田大学脇の「大隈通り」に入ります。橋の北側を少し行くと豊川稲荷があり、その脇に日本女子大前につながる「豊坂」という坂道があるのです。橋の名前は直接にはこれらにちなんだものかと思われます。 橋自体は変哲のないコンクリート橋ですが、周囲の景観は変化に富んでいて散歩向き。付近の両岸は桜の名所で、初夏の緑もなかなかのもので、南側の学生街、北側の高田1丁目あたり、いずれも町並みに特色があってちょっと楽しいのです。

肥後細川庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。
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目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂、胸突坂があります。神田川にかかる駒塚橋から見ると、左手の水神社の白い鳥井と、右手の関口芭蕉庵の塀に挟まれた細い道が、生い茂る木々の間を上っていくのが見えます。坂下には水神社(神田上水の守護神)があります。坂道を挟んで向かい側には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵がありました。

関口芭蕉庵。
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいました。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているのです。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたのが現在の芭蕉庵につながっているとのこと。現在のものは第2次大戦後の建築だそうです。

椿山壮はホテルとして1992年(平成4年)に開業。2万坪の日本庭園で知られる老舗結婚式場が敷地内にあります。

リーガロイヤルホテル東京に隣接しているのが大隈庭園。
広い芝生が広がる和洋折衷式の庭園。作者は佐々木可村とのこと。大隈邸の竣工した明治20年に庭園も完成していたようです。
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夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子の安倍能成氏によるもの。漱石は1867年(慶応3年)、この地に生まれ、誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克とのこと。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしたようです。
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穴八幡宮。
蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされていわれています。旧称は高田八幡宮。1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったということです。1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称し、3代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたのです。
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歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されているのです。江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名とのこと。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているとのことです。

都立戸山公園・箱根山。
都立戸山公園は尾張藩の下屋敷。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万uの広大な敷地には池や山のほか、多くの寺社もあったようです。第2次世界大戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の接収を経て、一部が都立公園として整備されたのです。公園は明治通りをはさみ「箱根山地区」「大久保地区」の2エリアに分かれています。春から夏にかけてはサクラやツツジ、秋は紅葉が見ごろ。箱根山に登り「登頂証明書」をもらうことができました。
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箱根山は標高44.6mで山手線の内側で最高峰。江戸時代、この地には尾張藩の広大な下屋敷があったので2代藩主の徳川光友が庭園を造った際、池を掘った土で築かれた人造の山が今もその姿をとどめています。明治維新後、土地の所有が政府に移ると、庭園は壊され、陸軍戸山学校が設けら、射撃場、軍医学校……。軍事面で近代国家を支える拠点となったのです。

抜辨天。
白河天皇の時代、1086年(応徳3年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのがこの厳島神社の始めと伝えられています。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。また山之手七福神を構成する弁財天でもあるとのことです。
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大聖院・紅皿の墓。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成されています。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられていました。
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西向天神社。
1282年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。旧・東大久保村鎮守。祭神菅原道真。この方は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ったのです。
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花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。戦争を経て1947年(昭和22年)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。
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新宿ゴールデン街は新宿区の飲食店街でおよそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。昼間なのでどうやら巡り歩くことができました。

本日はセンター試験初日で多くの若者を見受けました。私どもの参加者は16名、そのうち珍しく男性が6名含まれていました。案内は岡本先生とTD長田さん。朝自宅出発時は気温はマイナス、日中も7℃くらいでしたが晴天で風もなく、9:30〜15:30過ぎまで大いに楽しみながらのウォーキングでした。本日で歩程は約半分。今後もがんばります。
posted by yunofumi at 00:42| あちこちウォーク

2018年01月14日

2018.1.11 山手線歴史探訪ウォーク 第4回

巣鴨駅〜目白駅

JR巣鴨駅⇒巣鴨橋⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡⇒染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り⇒真性寺・銅造地蔵菩薩坐像⇒都立染井霊園⇒慈眼寺⇒本妙寺⇒東京都中央卸市場豊島市場⇒高岩寺・とげぬき地蔵⇒巣鴨地蔵通商店街・みずの⇒猿田彦大神・庚申堂⇒都電荒川線庚申塚駅=都電荒川線向原駅⇒東池袋3丁目都バス停留所⇒豊島消防署⇒豊島郵便局⇒サンシャインシティ・プリンスホテル・レストランバイエルン(昼食)⇒東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地⇒帝京平成大学⇒都電荒川線東池袋4丁目(サンシャイン前)停留所⇒大塚5丁目⇒日本大学豊山高校⇒護国寺惣門⇒護国寺⇒雑司ヶ谷霊園⇒雑司が谷旧宣教師館⇒都下水道局雑司ヶ谷庁舎⇒清立院・毘沙門天⇒南池袋4丁目⇒大鳥神社・七曲りの水⇒鬼子母神大門欅通り⇒鬼子母神・武芳稲荷大明神・上川口屋・おせんだんご⇒鬼子母神西参道⇒目白小学校⇒川村学園⇒学習院⇒JR目白駅

徳川慶喜巣鴨屋敷跡。
巣鴨駅の向かい側に石柱と案内板があります。
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徳川慶喜は、明治維新のどさくさの際、新政府から慶喜追討令が出され、寛永寺、水戸講道館で謹慎後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。その後、転居したのですがこれは、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだったとのこと。その翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。 しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。 徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。 徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。

染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り。
今は冬なので木々の並木をみました。「ソメイヨシノ」は巣鴨(染井エリア)の発祥なのです。

真性寺・銅造地蔵菩薩坐像。
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江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像。一番品川寺、二番太宗寺、三番真性寺、四番東禅寺、五霊厳寺、六番永代寺があるとのこと。江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進を得て、江戸の出入口6箇所の地蔵菩薩坐像を造立したのです。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したのです。但し、江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったのが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されたようです。ということで第六番の仏様が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目6-4)に祀られているとのことです。

染井霊園(そめいれいえん)は都営霊園。旧称は染井墓地。水戸徳川家墓所、水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓、徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓があります。面積は67,911u、およそ5500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さいとのことです。園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として知られています。高村光雲、光太郎、智恵子のお墓を見ました。

慈眼寺はもともと深川六間掘猿子橋に創建。色々移転後1912年(明治45年)谷中妙伝寺と合併の上、この地へ移転、山号を正寿山と改号しました。現境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎等の墓がありました。

本妙寺(ほんみょうじ)は、巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移り、その後1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移ったのです。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移転。1657年(明暦3年)の明暦の大火はこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられるため現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がありました。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。千葉周作、森山多吉郎、遠山景元のお墓を見ました。
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東京都中央卸市場豊島市場.
豊島市場の起源は、16世紀頃の「辻のやっちゃ場」駒込土物店(つちものだな)。駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺境内にあった「さいかち」の大樹に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であるといわれています。江戸時代には、神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えたようです。その後東京市となり、関東大震災後の帝都復興事業を経て、大東京市域に散在していた私設市場も統合され、昭和12年3月東京中央卸売市場豊島分場としてこの地に開業し今に至っているようです。

高岩寺・とげぬき地蔵
高岩寺は1596年(慶長元年)に江戸湯島に開かれ約60年後、下谷屏風坂に移り巣鴨には1891年(明治24年)に移転してきました。ご本尊は「とげぬき地蔵」とよばれる延命地蔵菩薩。こちらの地蔵菩薩様は秘仏で見ることはできません。
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1657年江戸時代の明暦の大火で、檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。  この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行、新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義江氏で今はタワシを廃止し布で洗うことになっています。今日も長い行列ができていました。またこの門前の巣鴨地蔵通商店街では「みずの」の塩大福を購入しました。

猿田彦大神・庚申堂。
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1502(文亀2年)、高さ八尺(約2.4m)の庚申塔をこの地に造立したのが創祀といわれているとのこと。1657年(明暦3年)、明暦の大火(振り袖火事)が発生した時、上州・秩父・川越方面より復興に使用される木材がここに多く集積されたのです。ある時、庚申堂の碑に立て掛けられた竹木が重心を失って倒れ、庚申塔に当り、塔は五つに砕け、村中で協議し、丈を縮めた塔を再建し、砕けた塔はその塚の土中に埋めたとのこと。この場所は旧中山道(現・地蔵通り)と旧王子道(現・折戸通り)が交差しており、板橋宿に至る途中の立場(たてば・休憩所)として、賑わった場所でもあったのです。明治初期には、千葉県銚子市の猿田神社の御分霊を勧請、その後色々の経緯があったようですが1982年(昭和57年)に庚申堂奉賛会が発足、1991年(平成3年)に山門の改築に至っているとのことでした。

都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋〜早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが多くあるようです。本日は庚申塚駅から向原駅まで乗車。お客さんが多くて驚きました。また東京都交通局では、都電荒川線を「東京さくらトラム」という愛称にしているとのことでした。
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東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地。
ここはかつての巣鴨刑務所跡地。後に東京拘置所と改称、さらに1945年の第二次大戦後にはGHQに接収されて「スガモプリズン」と呼ばれた所。さらにその後、巣鴨刑務所とされたが1958年に閉鎖されたようです。端のほうに「永久平和を願って」と彫られた石碑があり、背面には以下の文言がありました。「第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月」

護国寺惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という、性格をあわせもっているとのこと。 形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容で当時が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映しているようです。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財となっているのです。
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護国寺は1681年(天和元年)に徳川綱吉が母、桂昌院の願いで桂昌院の祈願寺として建立したとのこと。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあるとのこと。江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったようです。
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雑司ヶ谷霊園は、東京都立の霊園で面積は約115,400u。夏目漱石をはじめジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くありました。
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雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。マッケーレブは、1941年(昭和16年)に帰国するまでの34年間この家で生活をしたのです。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築とのこと。建物は、木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式、細部のデザインはカーペンターゴシック様式、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅なのです。
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七曲りとは、鬼子母神の参道から大鳥神社に抜ける路地の名前。クネクネと7回曲がることからこう呼ばれているのです。この七曲りの中ほどに昔から近所の共同井戸として使われていた井戸がありこれを七曲りの水と呼んでいます。
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大鳥神社
もともとは正徳年間に鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀されたのが始まり。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称し、仮遷座したのです。その後旧幕臣矢嶋昌郁氏が自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地として定まり、現在に至っているようです。
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鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂。
鬼子母神は1578年(天正6年)の創建で現在の本殿は1664年(寛文4年)に、加賀・前田利常の息女自昌院殿の寄進により建立されたとのこと。
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その前田家から、境内での営業を許された「あめ屋」から始まったお店が「上川口家」。家紋が看板に刻まれていましたがこれは「鶴丸」とのこと。森蘭丸などが使用した家紋らしいのです。今の店主は13代目とのこと。お店には、数々の昔懐かしい駄菓子が並んでいました。
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また境内にはおせん団子もありました。鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるようにという願いに由来しているようです。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれましたのです。

本日は晴天で風もなく気温10℃はウォーキングにぴったり。岡本先生、TD大木さんの付き添いで8km 20000歩。朝9:30から約5時間。のんびりペースでしたので16人は和気あいあいと無事完歩。昼食がバイキングと気ままに過ごせたこともよかったと思いました。
posted by yunofumi at 21:20| あちこちウォーク

2018年01月05日

2018.1.3 mbt初詣ウォーク 世田谷線を歩く

東急世田谷線は、都内でも数少ない路面電車のひとつ。カラフルな可愛い2両編成の電車が約5kmを10駅に停車しながらのんびり走っていました。
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この電車は都電荒川線と同様の路面電車。豪徳寺、松陰神社などの名所、世田谷区役所をはじめ行政施設も多いようで乗客はそれなりの様子でした。ということで本日はこの路線に沿ってのウォーキングです。

東急世田谷線三軒茶屋駅⇒西太子堂⇒若林⇒松陰神社前⇒松陰神社⇒松下村塾学び館⇒Boulangerie Sudou⇒世田谷駅⇒上町商店街⇒鹿港⇒上町駅⇒烏山川緑道⇒宮の坂駅⇒豪徳寺⇒豪徳寺商店街⇒やきいも専門店ふじ⇒小田急豪徳寺駅⇒山下駅⇒松原駅⇒赤松公園⇒下高井戸商店街⇒下高井戸駅

松陰神社のあるこの地はもと長州藩主の別邸があった所。安政の大獄で刑死した吉田松陰を4年後の1863年(文久3年)に高杉晋作などの門人が小塚原回向院の松陰の墓をこの地に改葬したのです。そして1882年(明治15年)墓の傍に松陰を祀る神社が創建されたのです。松陰50年祭には伊藤博文などが寄進した灯籠26基、鳥居は木戸孝允寄進したとのことです。
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Boulangerie Sudou(ブーランジェリースドウ)。
焼き菓子とパンのお店。ちょっと高めのお値段のようですがとっても評判や良いそうです。
本日はお正月でお休み。もっとも毎週日月、不定期に火曜も休むことがあるそうです。
それでも成り立つわけですから、一度うかがってみるようです。

鹿港(Lu-Gang)。
肉まん、あんまんのお店。材料の豚肉、ネギ、味付けなどとことんこだわっているようです。
すぐに売れ切れになるようで予約も可とか。面白いと思ったのは台湾スタイルの自家製豆乳はじめました!とのこと。ここもお正月で本日は休み。再度うかがうようです。

この緑道に沿って、豪徳寺、世田谷城址公園、松陰神社、太子堂円泉寺等があるようです。
世田谷区では、昭和44年以降暗渠化された中小河川の上部を有効利用する方法として緑道の造成に力をいれてきたとのことです。緑道は自然を取り戻し、歩行者の安全と緊急避難通路の確保などを目的として作られ、烏山川緑道をはじめ8本の緑道が昭和54年度に完成したのです。烏山川緑道は延長約7km、千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いているとのことでした。
私たちは豪徳寺橋や清涼橋の案内があった所を楽しくウォーキングしました。
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江ノ電601号。
世田谷線の前身は玉電(渋谷〜二子玉川園、二子玉川園〜砧本村)。昭和44年に廃止されたとのこと。601は相棒の651と共に、平成2年春と、大型車の中では一番最後に廃車になっています。601は、世田谷線の宮の坂駅前にある宮の坂区民会館に鎮座、651は運転台のみが、江ノ電江ノ島駅近くの扇屋という和菓子屋さんの店頭にあるそうです。ちなみに扇屋は、「江ノ電もなか」の販売元だそうです。
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大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)。
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この寺院付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、1590年(天正18年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされているとのこと。1480年(文明12年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結び当初は臨済宗に属していたのが、1584年(天正12年)曹洞宗に転じたようです。
豪徳寺仏殿。
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豪徳寺本殿。
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梵鐘は1679年(延宝7年)完成以来ここにあるのです。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したのです。彦根藩井伊家墓所、井伊直弼墓があります。
豪徳寺は、台東区「浅草今戸神社」、新宿区落合南長崎「自性院」と並び、「招き猫発祥の地」としても有名です。江戸藩邸に暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰りにこの付近を通りがかった時に見かけたネコが自分を招いているように感じた井伊直孝が門内に入ると、急に天候が雷雨に!ネコのおかげで、雷雨を避けることができ、和尚さんのありがたい法話も聞くこともできて喜んだ直孝はネコとの偶然の出会いを喜んだのが「招きネコ」伝説のはじまりとのこと。豪徳寺では招きネコのことを「招福猫児(まねぎねこ)」と呼んでいるようです。
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豪徳寺の売店で購入できる招き猫は小判を持ったりすることもなくシンプルな意匠で、すべて「右手」で招いています。

やきいも専門店ふじ。
東京では珍しい焼き芋の専門店です。甘〜い安納芋、それより甘い紅はるか。紫芋やハロウィンスウィートなどの変わり種もあるとのこと。私はにんじん芋をいただきました。これも甘かったです。
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本日の集合は三軒茶屋駅8:45ということで5:00起床、上福岡駅7:00過ぎに乗車、やれやれと思っていたらふじみ野駅過ぎてすぐ停車!!人身事故発生!!これより1時間10分車中に缶詰に。とても集合に間に合わないと思い、皆さんには出発していただきました。そして池袋に到着後、携帯メールでやり取りし、松陰神社で合流、予定通りにウォーキングを楽しみました。
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そうそう終点の下高井戸駅で一旦解散。でもお昼です!と三軒茶屋に戻りました。
この時、注目の猫電車に乗れてラッキー!
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つり革もかわいい。
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そして車内床には猫の足跡。
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三軒茶屋では世田谷区立スカイキャロット26階に上りまずは展望ロビーへ。
FM世田谷サテライトスタジオではゲストの小室等さんがにこやかに話しておられました。
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富士山もばっちりです。
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御馳走はさすがホテルオークラ!とっても美味しかったです。
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今朝はスタート時気温2℃、日中は9℃で次第に風が強くなりましたが総勢13名はお正月早々大いに楽しみました。
皆さま!またご一緒しましょう!
posted by yunofumi at 10:48| あちこちウォーク

2017年12月29日

2017.12.26 屋久島ぐるり一周の旅3日目

JRホテル屋久島スタート8:30→千尋滝→安房港→屋久島空港→宮之浦港→鹿児島港→鹿児島空港→羽田空港

今朝はやや曇りの天候、気温10℃。皆元気に出発です。

千尋滝(せんぴろのたき)。
滝を正面に見て左手には約400m×200mの巨大な花崗岩の1枚岩が渓谷を作り正面には落差66mの滝が2段になって見えました。岩肌と木々の緑、そして滝の勢いを眼前に見て感嘆!!
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お土産は焼酎やグァバ茶も良さそうでしたが自分の好みでたんかん、杉細工のストラップ、フルーツジャムとトビウオのあごだし、そして焼きあご。やはり家族全員が食することが一番ですから、、、。それにしても荷物は膨らむ!!ということでザックひとつで帰路としたいため宅急便をお願いしましたら何と!3日間!それでもお願いして身軽に出発しました。
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心残りはもちろん縄文杉を見られなかったことですがこれは山深く入らねばならず初めからあきらめていました。しかし屋久杉の知識をまとめて知るには屋久杉自然館が見る価値があったと思いこちらは残念。

さて長い行程ながらほとんど歩くことなく軽々で高齢者の旅行には最適でした。一番の収穫はお天気に恵まれたこと。ヤクシギランドの木道を進むにつれ気温は5℃まで下がり寒かったですがマイナスイオンいっぱいでとても満足。島の生活は東西南北により気候や風土が違い面白いと思いました。やはり厳しい現実もあるようでした。島の皆様が自然を大切に今後も過ごされることを祈りサヨナラしました。感謝!!
posted by yunofumi at 20:32| あちこちウォーク

2017.12.25 屋久島ぐるり一周の旅2日目

JRホテル屋久島スタート→安房→紀元杉→ヤクスギランド→安房港 屋久杉の郷杉匠→屋久島空港→小瀬田→屋久島大社→宮之浦港→志戸子→一湊→永田いなか浜→永田岬・屋久島灯台→川原・西部林道→大川の滝→中間・中間ガジュマル→ 16:00ホテル到着

朝目覚めると晴天の様子。意気揚々とお出かけしました。気温12℃、朝にしては暖かい。
ホテルの外周を一回り。すっかり元気になっていました。
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紀元杉。
細い安房林道をバスがやっと入り、ゆっくり上り標高1230m辺りにありました。木の先端は枯れており20種類以上の着生植物があるとのこと。初夏にはヤクシマシャクナゲ、秋はナナカマドが紅葉するとのこと。推定樹齢約3000年、胸高周囲8.1m、横に張り出した枝が折れそうで太いベルト?で釣り上げていました。
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ヤクスギランドは杉やツガの大木が多く立ち並んだ原生林。木道ができており、私たちはときめきの径30分コースをゆっくり1時間弱でウォーキングしました。
杉は一般的には樹齢500年前後でそもそも屋久杉とは樹齢1000年以上の杉をいい、数百年の杉は小杉というとのことです。屋久島の杉の樹齢が長いのは雨量が多いこと、花崗岩の地盤のため栄養が乏しく時間をかけて生育しているからなのです。この森では植物が岩や樹に根を這わせる着生、倒木となった過ぎに若い杉が育つ倒木上更新、切株更新、樹脂が多い屋久杉が伐採後も腐らずにそのまま倒れているのは土埋木、数本の杉が癒合した合体木など色々見ることができました。原生林の奥に進むにつれ気温が下がり、折り返し地点では5℃になっていました。切株はほとんど江戸時代に切られたようです。
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安房港にある屋久杉の郷「杉匠」で昼食と買い物。
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屋久島のトビウオ漁獲量は日本一とのこと。2階レストランでの昼食はトビウオのから揚げがメインの定食御膳。
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トビウオは一匹まるごと羽がついたままの姿で唐揚げになっており、頭からしっぽまですべて食べられるとの説明がありました。私は初めてでしたが身は白身、羽はこりこり。背骨以外は本当にたべられそうでした。私もいつもよりは結構きれいに食しました。吸い物はトビウオ出汁のあごだしを使っていました。この味はちょっと魚っぽい味でしたが珍しかったこと、粉末になっていたのでお土産に購入しました。
1階は土産物店。杉材の品物が多かったです。高価でちょっと手が出ませんでした。そうそう、これらは江戸時代に伐採された切株から作られているとのことでした。
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これまでにはこの島内で景色とお花を十分に堪能。
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永田いなか浜はどこまでも続く海面と約800mはある白砂の浜でした。今日は波が大きくうねり口永良部島は見えませんでした。ここは国内随一のウミガメ産卵地として有名で5〜7月に産卵のためにウミガメが上陸するとのことでした。
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屋久島灯台は永田岬の断崖に真っ白な姿を見せていました。地上から約20m、光到達距離41km、1897年建設。今日は晴天でしたからここから沈む夕日を見たかったです。
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西部林道は島の外周道路の一部で世界遺産に登録されているエリア。山間部ではカシ、イスノキ、シなどの照葉樹林をはじめ亜熱帯から亜寒帯までの植物があるそうです。ここは道幅狭く、ヤクザルやヤマシカも出ることから小型の自動車やバスでないと通行が難しそうでした。ヤクザルは人に慣れているのか車が近づいても悠然としていました。でも2回ほど見かけたヤマシカはすぐに逃げていきました。
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大川の滝(おおこのたき)。
高さ88m、日本の滝百選のひとつだそうです。岩肌と水しぶきはダイナミックな感じ。
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中間川沿いに進むとアーチ状になった樹齢300年以上の中間ガジュマルがありました。
個人宅の門の役目に見えました。この家の近所にはガジュマルが幾本も見えました。ガジュマルはクワ科の常緑高木で屋久島が北限だそうです。
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ここで無人の販売店でタンカン6個100円をゲット。

島内で製造されている「恵命我神散」は老舗恵命堂製造のOTC薬。生薬ガジュツ末が主成分の胃もたれなどに皆さんが気軽に使っているようです。昭和8年創業。創始者、柴 昌範は「病に苦しむ人を助け、命を救うことほど尊い事業はない」との理念から胃腸薬 恵命我神散を創製し、老舗恵命堂を設立。生薬ガジュツは屋久島や種子島産。屋久島と種子島に工場があり本社は東京とのことでした。

そして途中には徳洲会病院がデーンとありました。創立者徳田虎雄さんは鹿児島県大島郡徳之島町出身。いつでもどこでもだれでも最善の医療を受けられることをスローガンにした大病院グループの創設者。現在も筋萎縮性側索硬化症(ALS)ながら存命のようです。

本日は朝8:30スターから16:00ホテル帰着まですべてまつばんだ交通のガイド羽生さんが先導、CD福井さんが面倒を見たことで無事に1日の行程を安全に元気に終了。
本日は晴天で気温16℃と過ごしやすかったです。
ホテルの夕食は本日も素晴らしく満腹!満腹!
ホテルの温泉も柔らかい源泉。おまけに満点の星空でした。ウン十年ぶりに星が降り注ぐような感じでした。
posted by yunofumi at 19:20| あちこちウォーク

2017.12.24 屋久島ぐるり一周の旅1日目

本日より2泊3日の屋久島の旅のはじまりです。
本日はとにかく屋久島のホテルを目指す行程。
参加者女性のみ6名、CDは女性の福井さん。最後まで元気に頑張りましょうと挨拶しました。

羽田空港9:00ANA078便→鹿児島空港16:05
鹿児島空港→バス→鹿児島港(約1時間)
鹿児島港13:20→ジエット高速船Rocket2→屋久島宮之浦港15:10
屋久島宮之浦港→まつばんだ交通バス→JRホテル屋久島16:00

曇り空の羽田空港9:00からホテル到着16:00、もっともその前に自宅5:00出発でしたから実質11時間。それぞれ待ち時間が十分あるように動いていたとはいえ、やはりちょっと長かった!
初めてのジェット高速船は時速80kmとのこと。揺れはほとんどありませんでした。
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鹿児島は小雨。気温14℃、やや暖め。傘をさすこともなくホテル到着。
JRホテル屋久島は素晴らしい立地、お部屋も素晴らしい!食事も素晴らしい!
以下島内の案内はまつばんだ交通のガイド羽生さんからの受け売りです。
屋久島(やくしま)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町で面積504.29 km、周囲130km(東西約28km、南北24km)[2]。円形に近い五角形で、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では7番目の面積。島の90%は森林。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%がユネスコの世界遺産に登録されている(登録は1993年)。
島民は14000人、小学校8校、中学校3校、公立高校1校。島内の発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式。平素は島内の電力は水力発電で賄われ、火力発電は緊急時に限って活用されるとのこと。
島のほぼ全域が山地。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) 。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳といわれているのです。
海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳があるのです。
屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後隆起して形成された様子。
屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140もあるといい、主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つ。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝(おおこのたき)、千尋の滝(せんぴろのたき)などがをみました。
屋久島は月のうち、三十五日は雨」といわれるほどの所。年間降水量は平地で約4,500mm、山地では8,000mm〜12,000mm。特にヤクスギランドで2012年に11,129.5mmを記録、毎年10,000mm前後の降水量が観測されているとのこと。
また、山頂付近の年間平均気温は約6-7℃で積雪が観測され、日本国内での積雪観測最南端、60cm以上の積雪もありとのこと。
これらのことから豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれ2007年には日本の地質百選にも選定されているのです。

JRホテル屋久島。
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お部屋のベランダからの景色。
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お部屋はスタンダードツインに一人で宿泊し大いに贅沢。宿泊費2万円?
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夕食は和洋折衷コースで満腹。皆さんがオーダーしたお酒はどれも美味だったようです。
本日はクリスマスイブなのでデザートは特別でした。
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大浴場は天然温泉。アルカリ単純温泉。PH9.7。とろりとしたお湯でお肌はしっとりすべすべになり大満足。
今日は遠い屋久島まで来たのにテレビドラマ「陸王」最終回を見て大満足で就寝しました。
posted by yunofumi at 01:25| あちこちウォーク

2017年12月21日

2017.12.13 横浜散策第6回 磯子区

JR根岸線磯子駅⇒Barilla City 横浜磯子⇒中村孝明貴賓館⇒汐見台ストア前バス停留所⇒久良岐公園⇒久良岐能舞台⇒藤の木中学校⇒岡村6丁目⇒天神前バス停留所⇒とんかつ美とんさくらい(昼食)⇒岡村天満宮⇒横浜学園前⇒岡村共栄会⇒滝頭2丁目・岩瀬商店街⇒横浜滝頭郵便局⇒たきがしら芭蕉苑⇒丸山市場・魚増跡⇒滝頭第三住宅⇒横浜市電保存館⇒坂下橋・掘割川⇒磯子橋東詰⇒根岸なつかし公園・旧柳下邸⇒根岸八幡神社⇒米国政府専用区域・根岸森林公園⇒馬の博物館⇒レストランドルフィン⇒根岸駅

磯子駅からすぐ見上げるばかりの崖をとても立派な専用エレベーターで上に上りました。
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上には「Brilla City 横浜磯子」があり、ここは平成25年竣工で、東に横浜湾、西に富士山、北にみなとみらい、南に三浦半島が望める高台にある全13棟、1230戸のマンション群でした。
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元は昭和天皇の義弟、東伏見邦英伯爵の療養のために1937年に建てられた貴賓館を含む広大な用地だったようです。貴賓館は現在、日本料理の鉄人、中村孝明さんのレストランとなっていました。
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久良岐公園(くらきこうえん)は、横浜市港南区と磯子区にまたがる、横浜市立の都市公園(総合公園)で面積は、約23万m2。汐見台団地の造成にあわせて整備され、1973年(昭和48年)に開園したのです。名称はこの一帯の古い地名である久良岐郡から採られたとのこと。
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中央付近に池があり、北側は散策路のある雑木林の先に久良岐能舞台がありました。南側は運動広場や芝生広場、桜の林、横浜市電の保存車両などがあり、春には花見客でにぎわうようです。
横浜市電1156号は1972年に廃止された横浜市電の車両。久良岐公園に保存されていました。1952年に製造された1150型のうち、2012年現在現存している唯一の車両とのことです。
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久良岐能舞台(くらきのうぶたい)。
1917年(大正6年)に東京日比谷の帝国ホテル裏に建てられ、1931年(昭和6年)に東京芸術大学の前身である東京音楽学校邦楽科に寄贈されたとのこと。同大学には1964年(昭和39年)に能舞台が新設されたため解体保存されていたのを、宮越賢治が譲り受け、ここに移築したのです。1984年(昭和59年)に横浜市に寄贈され、現在は市民の能楽・茶道・日本舞踊などの活動に使われているようです。部隊の鏡板には、日本画の大家平福百穂による老松が描かれていました。
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フォークデュオの「ゆず」は北川悠仁と岩沢厚治の二人で1996年3月に結成したとのこと。最初は路上ミュージシャンからのスタートで、横浜でライブを行っていたようです。「ゆず」の出身地はこの磯子区岡村で岡村中学卒業とのこと。磯子警察の岡村交番で「ゆず」のゆかりの地などが記された「ゆずマップ」が1998年12月に完成したとのことです。彼らは2003年には「NHK紅白歌合戦」に初出場。只今も人気者です。ということでこの交番のすぐ傍の「とんかつ美とんさくらい」で昼食。有名人の色紙などが一杯ありました。もちろん「ゆず」の写真などもありました。私は絵葉書をいただきました。
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岡村天満宮は源頼朝の家臣が京都北野天満宮の分霊をいただき、この地に創建したといわれる天満宮。大きな石の大鳥居をくぐり石段を上るといきなり「ゆずの壁画」がデーン!これって彼らがライブをしていた木町・松坂屋屋上に飾られていたのが閉店を機にこちらに移築され、ゆずの聖地巡りのスポットになっているとのことでした。
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境内には針塚や筆塚の碑、なでるとご利益があるという「天神様の撫で牛」もありました。

滝頭2丁目に入り岩瀬商店街を行くと丸山市場がありました。
ここには美空ひばりの父、加藤増吉さんが始めた魚屋『魚増」が営まれていたとのこと。市場の中を通ると今もお魚屋さんがあり、従兄弟の方が引き継いで営んでいるとのことでした。 お店は横浜市電保存館やひばりさんの出身校滝頭小学校もすぐそばにありました。

横浜市電保存館。
明治37年から昭和47年まで約70年間"ちんちん電車"の愛称で横浜市民の足として親しまれた市電が当時の姿で見られました。「横浜市電」は、明治37(1904)年から昭和47(1972)年までの約70年間、“ちんちん電車”の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍したのです。横浜市電保存館は、市電が廃止された翌年の1973年(昭和48年)に滝頭車両工場跡地に開館し、その後、昭和58(1983)年には、現在の市営住宅1階に建て直されました。
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館内には、7両の市電車両、停留所標識、敷石などが昔の姿で保存され市電が走っていた時代を再現しているようでした。
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歴史展示コーナーでは、「横浜の発展と交通」をテーマとして、横浜の発展の礎となった吉田新田の干拓から、横浜開港、関東大震災、戦後の復興、市電の最盛期を経て廃止に至る経過、その後の横浜の都市計画の基となる6大事業や地下鉄への移行などが解説されていました。
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堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川で大岡川の分流でもあります。この川は明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たしたようです。1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募り、吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行ったのです。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定されたとのことです。
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根岸なつかし公園・旧柳下邸。
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旧柳下邸(きゅうやぎしたてい)の建物は明治〜大正期の有力商人であった柳下氏により大正中頃に建設され、1923年(大正12年)の関東大震災では一部倒壊したが大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を、柳下家の人々に受け継がれてきたのです。横浜市では1996年(平成8年)に敷地を取得し「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として一般公開しているのです。建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されていました。洋館の屋根は、周辺の町並みから突出しており、近隣のランドマーク的存在でした。 東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺き。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっているのです。洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついていました。柳下家はもともと明治初頭より、横浜でも有数の「銅鉄引取商」として弁天通に「鴨井屋」の屋号で店を構え、金属の輸入業を営んでいました。平次郎、達蔵兄弟の二家がありました。旧柳下邸の表玄関の横には、鴨井屋の屋号が彫られた鉄製の天水桶がありました。
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根岸八幡神社は、551年(欽明天皇12年)に海上に出現した八幡宮神体を祀り、八幡橋八幡神社の地に創祀、1766年(明和3年)この地に遷座したといわれているようです。明治8年村社に列格、伊勢社、宇佐八幡神社、山王社を合祀したとのことです。
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根岸森林公園は横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地。公園は根岸住宅地区の施設を挟んで馬場内エリアとスタンドエリアがあり、馬場内エリアには広大な芝生エリアが広がっており、特に桜は有数の見所で、花見シーズンには人出が多いとのことでした。スタンドエリアには、現在でも横浜競馬場の遺構である旧一等馬見所が現存しており、横浜競馬場の説明文などがありました。高台にあるため、みなとみらいや、晴れた日には富士山なども見えるようです。
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横浜競馬場は1866年(慶応2年)に開設。1867年(慶応3年)に日本初の洋式競馬が行われた横浜競馬場の跡地で、現在も残る「旧一等馬見所」は関東大震災後に建築家のJ・H・モーガンの設計で再建されたもの。戦前には「帝室御賞典(現:天皇賞)」や「横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)」などの大レースが行われるなど、日本における洋式競馬の黎明期を代表する競馬場で、各地に設立された競馬場のモデルともなったようです。戦争が激化した1942年(昭和17年)に競馬の開催を中止。翌1943年(昭和18年)には海軍により接収され閉鎖。終戦後の1945年(昭和20年)9月、他の軍事施設と同様にアメリカ軍により接収され、1947年(昭和22年)からはアメリカ軍の管理下に置かれたのです。接収中、馬場内エリアは米軍専用のゴルフ場となっており、現在の芝生はその名残でもあるのです。1969年(昭和44年)に旧スタンドなど一部を除き接収が解除され、国有地となった敷地の大部分を横浜市が無償で借り受けて整備し、1977年(昭和52年)10月に根岸森林公園として開放されたのです。その他のエリアも1969年(昭和44年)より日本中央競馬会が整備を進め、1977年(昭和52年)に「根岸競馬記念公苑」として開設。馬の博物館もここに含まれていました。1982年(昭和57年)には旧スタンドも返還され、「旧一等馬見所」の裏手にはモーガンの設計図や竣工当時の写真パネルが展示されています。
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ユーミンの曲に出てくる根岸森林公園の高台にあるカフェ・ドルフィン。
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1974年(昭和49年)に荒井由実でリリースされたアルバム『MISSLIM』。そのA面4曲目に収録されている『海を見ていた午後』に♪山手のドルフィンは静かなレストラン、、とあるようです。
リリースから42年経った今でも、この曲の面影を求めて多くの人が店を訪れるとのことです。「ドルフィン」が店を構えるこの根岸旭台は、高級住宅地の様子でした。

今日は参加者28名、講師浅井先生、CD清水さん。晴天で気温12℃、歩程7km超、ほぼ無風だったことが幸いでした。まさに今年最後の紅葉を楽しんだ感がありました。しかし競馬場跡は広大でやや草臥れました。また根岸森林公園すぐわきに「米国政府専用区域」とあったのがなんとも複雑。終戦後70年以上たっても戦争の跡があるということです。
横浜は広い!18区もあるのです。今日はこれでやっと1/3を終了しました。今後も何が見られるか楽しみです。
posted by yunofumi at 22:17| あちこちウォーク

2017年12月15日

2017.12.7 第20回東京の新発見「新宿区」

副都心線西早稲田駅3番出口⇒タリーズコーヒー⇒早稲田大学西早稲田キャンパス⇒新宿コズミックセンター・戸3丁目⇒箱根山・箱根山陸軍戸山学校址⇒都立戸山公園⇒箱根山通り⇒早稲田大学正門⇒穴八幡宮・馬場下交番⇒木組博物館⇒高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑⇒甘泉園公園⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒大隈通り⇒観音寺⇒早稲田大学・大隈講堂・会津八一記念博物館・坪内博士記念演劇博物館「シェークスピア」完訳記念⇒トラード早稲田⇒
成文堂⇒鶴巻公園⇒牛込弁天町・幸和印刷⇒宗参寺・牛込氏墓・山鹿素行墓⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒草間彌生・草間彌生ミュージアム⇒晴和病院⇒林羅山墓地・北山伏町⇒市谷小学校⇒市ヶ谷加賀町アパート⇒峰隆太氏宅⇒牛込第三中学校⇒なんど児童遊園⇒中華料理月下炉(げっかろ)(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒フルオンザヒル⇒神楽加賀⇒善国寺⇒寺内公園⇒本多横丁⇒神楽坂通り⇒JR飯田橋駅

都立戸山公園は箱根山を中心とした箱根山地区と、明治通りを隔てた広場・大久保地区に分かれていました。箱根山(はこねやま)は、都立戸山公園内にあり、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)とのこと。山頂の水準点の標高は44.6m。紅葉が美しく近所の保育園児が多くお散歩に来ていた。また本日はこれmでのウォーキングでご一緒になった叔父様3人組と記念撮影をしました。
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箱根山は尾張徳川家のシミ屋敷があったところ。そこには見事な大名庭園戸山荘があったとのことですがこれがのちに陸軍戸山学校になり、今は記念碑がありました。この学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)の一つで、歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していたとのこと。現在、歩兵戦技・体育の教官育成と研究は自衛隊体育学校に、軍楽は陸上自衛隊中央音楽隊教育科に引き継がれているとのことでした。
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穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、旧称は高田八幡宮。
1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのがはじまりとのこと。1636年(寛永13年)に的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称したのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としその後も歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したのでした。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれているとのことです。
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木組博物館は西早稲田2-3-26ホールエイト3階にあり、清水建設の関連施設です。木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを展示していました。 約40年に渡り数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた方々ではじめたとのこと。伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化が、危機的状態に向かっているのを肌で感じ必要性を感じたのです。また木組み博物館は、従来の展示中心型、五感体験型からより能動的で深く心に刻まれる参画型の生きた博物館にしたいとの趣旨のようです。
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高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)。
早稲田大学のすぐ西側にある水稲荷神社の石段を登ったところに、この石碑がありました。
建碑年は1910年(明治43)とのことです。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場があり、元禄7(1694)年に「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いがあり、助太刀をした堀部安兵衛は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。そんな彼のことを記したのが、この石碑で題額は、西園寺公望で清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴。文章を書いたのは信夫粲当時有名な漢学者。所在地】新宿区西早稲田3-5-43 
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水稲荷神社には太田道灌「道渡つかみさしの榎」を植え、榎の空洞から水が湧き出たのです。
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甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は江戸中期の清水家の大名屋敷跡につくられた日本庭園で新宿区立唯一の回遊式庭園。「甘泉園」の名は、ここの山吹の井から出る湧き水がお茶に適していたところからきたとのことです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなしているのです。
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早稲田大学(わせだだいがく)は1920年に設置。江戸時代末期の蘭学校であった北門義塾(柳田藤吉の創設)が明治5年閉校後、その意思を受継ぎ隣地に大隈重信が明治14年の政変で下野した後に設立した東京専門学校が前身。日本の私立大学としては慶應義塾大学(「早慶」の慶)などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となったのです。2011年現在、10の学術院のもと13学部・21研究科(大学院)を設置している。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。また大隈重信が明治を代表する政治家であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの逸材を輩出している。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。 正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」。 早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめ、建築学科の教員らを中心に設計された。
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会津八一記念博物館。
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会津八一は東洋美術史の研究者、歌人、初夏でもあり、早大卒で教鞭も取ったようです。
ここには早大創立以来の学術研究成果、大隈重信遺品、富岡重憲コレクションなど収蔵品は2万件あるとのこと。本日は幸運にも横山大観・下村観山による名画「明暗」が見られました。

坪内博士記念演劇博物館。
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演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。
以来、演劇博物館には日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えているとのこと。錦絵46,800枚、舞台写真400,000枚、図書255,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点など。
演劇博物館の建物自体が、ひとつの劇場で、舞台正面にはTotus Mundus Agit Histrionem“全世界は劇場なり”というラテン語が掲げられているとのこと本日は工事中で詳しくみられませんでした。

トラード早稲田
早稲田大学の大隈講堂の南側の道路を挟んだはす向かい辺りに、この奇想天外な建物がありました。1983年早稲田大学理工学部建築学科を卒業した梵寿綱(ぼんじゅこう、本名田中俊郎)という「日本のガウディ」と呼ばれる建築家の作品だそうです。
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宗参寺(そうさんじ)は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことが始まり。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたということです。
宗参寺内には牛込氏累代の墓がありました。また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありました。

漱石公園には夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、漱石山房記念館に再現されていました。
本年9月に都立の施設として開館したのです。
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草間彌生ミュージアムでは今、草間彌生美術館開館記念展をこけらおとしとして開催中のようでした。近くには彼女のスタジオもあるようでした。
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宮城道雄記念館は宮城道雄の偉業を顕彰するとともに、今後の日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日、故人が晩年まで  住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館。宮城道雄の生涯や楽器もみられました。館内には名曲「春の海」が流れていました。
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毘沙門天で有名な善國寺は創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年前に麹町に創建。1793年(寛政5年)にこの地に移転。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与え、さらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となったのです。
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本日は見るところが多く歩程11km、16000歩だったのですがやや疲れました。日本晴れで気温12℃、絶好のコンディションの中、講師信野先生、CD菅野さんで参加者20人は最後までどうにか元気でした。本日でこの23区めぐりは一応完結。しかし私はお休みしたのが3回あり、来年に持ち越しです。一巡完歩されたお二人におめでとう!の拍手を送りました。
posted by yunofumi at 20:45| あちこちウォーク

2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
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青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
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文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
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光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
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駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
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南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
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吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
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昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
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榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
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天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
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駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
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一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
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東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
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Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
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東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
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旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
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旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
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本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク

2017年11月11日

2017.11.11 MBTノルディックウォーキングin代々木公園

久しぶりにMBT仲間と代々木公園でのノルディックウォーキングに参加。
思いがけずほとんど晴天、21℃。朝の内はほとんど風なし。
8:30〜11:00まで楽しく、のんびり、木々の紅葉を見ながら約10000歩を達成。
その後はもちろん、明治神宮のカフェ「杜のテラス」でお茶をして解散。
休日の早起きは三文の徳!午後は買い物など大いに楽しみました。
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日頃の疲れも何処へやら、また元気に歩き回れることに感謝!!
皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 15:52| あちこちウォーク

2017年11月09日

2017.11.8 第19回東京の新発見「板橋区」

都営三田線高島平駅東口改札⇒高島平団地⇒高島平8丁目交差点⇒熱帯環境植物園⇒高島第一中学校⇒徳丸ヶ原公園⇒徳丸ヶ原公園前交差点⇒高島平2丁目⇒高島平図書館⇒高島平児童館⇒高島特別支援学校⇒赤塚公園⇒諏訪神社⇒竹の子公園⇒赤塚城跡⇒郷土資料館⇒赤塚トンボ池⇒板橋区立美術館⇒不動の滝公園⇒麦の子保育園⇒大仏そば萬吉禎(昼食)⇒赤塚植物園⇒乗蓮寺・東京大仏⇒麺工場幸住⇒松月院・大堂⇒東武東上線下赤塚駅

以前、板橋区は川越街道歩きで通りましたが本日はまったく別の地区という感じ。板橋区はマップを見ると板橋・上板橋・志村・赤塚の地区がありますが本日は高島平団地のそばと赤塚地区を重点的に見て歩きました。

高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸にあり、北側は新河岸、西側は三園、南側は大門・四葉・徳丸・西台、東側は蓮根と接しているようです。高島平は1丁目から高島平9丁目までありそのほとんどが高島平団地とのこと。昭和40年過ぎに団地ができる前は徳丸ヶ原といわれた地区で約2万人超の住人がいるようです。
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熱帯環境植物園は、東南アジアの熱帯雨林を立体的に再現していました。潮間帯植生、熱帯低地林、集落景観の3つの植生ゾーンに分かれた温室を中心に、熱帯の高山帯の雲霧林を再現した冷室、さらに地階にはミニ水族館を設け、海から山へと続く、一連の熱帯環境を楽しみながら学べる博物館型植物館とのことでした。隣接している高島平温水プールや高島平ふれあい館とともに、板橋清掃工場の余熱を利用した省エネルギー型の施設として平成6年9月に誕生したのです。
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徳丸ヶ原公園。
「徳丸ケ原」は、板橋区中西部、高島平、新河岸、三園など、荒川の南岸一帯を指すとのこと。ここはもともと幕府の鷹場だったのが、8代将軍吉宗の時代から鉄砲の稽古場として使われるようになったとのこと。明治時代になると民間に払い下げられて開墾が進められ、「徳丸たんぼ」・「赤塚たんぼ」と呼ばれる一大水田地帯が出来上がったのです。昭和40年代になると高島平団地や地下鉄の建設や住宅地ができ公園となったです。
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東京都立赤塚公園は、その昔、赤塚城があった所。運動施設を中心とする中央地区、自然林に覆われた丘陵地など変化に富んでおり、高島平団地と首都高速5号池袋線に沿って東西に連なっているようです。
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諏訪神社の創建は文明年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたとのことです。本日は伺わなかった徳丸北野神社とともに、国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区無形民俗文化財の「獅子舞」が伝承されています。田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事で、稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りのことのようです。
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板橋区大門にある竹の子公園には、鳳凰竹、金明竹など13種類の竹が植えられているようです。
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赤塚城跡は戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕など遺構がわずかに残っていました。ここを居とした千葉自胤は、太田道灌と結んで勢力を伸ばしていました。その後、小田原の北条氏に従ったところ、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。徳川家康の江戸入府に伴い、赤塚城も廃城となったのです。
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赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行い、郷土に関する講習会・講座・体験学習を行っているとのことでした。
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赤塚溜池公園赤塚トンボ池 は通称「溜池公園」。公園入り口にある梅林と美術館の間にひっそりと赤塚トンボ池が有りました。殆ど水は湧いていないようで、いつも濁り気味だそうで近頃は秋でも赤とんぼはみられないようでした。

赤塚公園の城址地区、赤塚溜池公園からすぐの所に不動の滝公園がありました。此処は東京都名湧水57選にも選ばれているようです。木々に覆われた崖から、わずかにちょろちょろと湧水が流れていて、昼間でも薄暗く、一種独特の雰囲気があり、パワースポット的な場所にも見えました。不動の滝は江戸時代の中頃、地元の人たちが富士山や大山(神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていたそうです。
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大仏そば萬吉禎(昼食)
今まで食べた蕎麦の中で一番美味い蕎麦屋さんでした。おそばの香りが漂っていました。どうやら自家製の石臼挽きを使っているらしいです。
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赤塚植物園は、武蔵野の面影もある赤塚の丘陵地にありました。1981年(昭和56年)に開園とのこと。構成は本園と万葉・薬用園からなり、本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草もありました。また万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられ、解説も十分でした。本日は花が少なく残念。また春でも来てみたいと思いました。
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乗蓮寺は浄土宗の寺院で東京大仏が有名。この辺りの郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺で人々から信仰されていたようです。1591年(天正19年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となったようです。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われたようです。この地に移ったのは1973年(昭和48年)でここは赤塚城の二の丸跡とのこと。山号は赤塚山。
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1977年(昭和52年)、東京の関東大震災や東京大空襲などが再び起きないように願いを込めて東京大仏が建立されたとのことです。
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麺工場幸住は製造販売を直に行っているお店で、TVでも有名らしいです。お値段はリーズナブルで工場直売の生ラーメンですからとても人気があるとのことでした。私はラーメンが苦手なのでちょっと眺めていただけでした。
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松月院(しょうげついん)は、曹洞宗の寺院。山号は萬吉山(ばんきざん)。正式名称は、萬吉山宝持寺松月院とのこと。元々は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1459年(康正2年)に今の市川から赤塚城に移り、その後1492年に此処にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりとのこと。江戸時代には、徳川家康より40石の朱印地が与えられ、また歴代の将軍からも保護を受け発展してきたようです。
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幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(今の高島平あたり。高島平の名は高島秋帆にちなんでいるようです)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたのです。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、さらに松月院も有名になったのです。また明治時代には、一時期旧赤塚村の村役場が境内に置かれていたとのことです。

松月院大堂は松月院から少し離れたところにありました。石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘がありました。
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鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」とありました。

本日は朝10:00〜15:10、実質4時間、約15000歩のウォーキングでした。何よりだったのは曇り空で風もなく18℃、今にも雨が落ちてきそうでしたが木々の紅葉が見られ、まずは良かったです。赤塚地区は板橋の文化を感じさせる施設が多かったのが印象的でした。今後も時々お散歩方々来てみたいところでした。
posted by yunofumi at 23:35| あちこちウォーク

2017年11月06日

2017.11.3〜5 第40回日本スリーデーマーチ

11/3吉見百穴・森林公園コース
11/4和紙の里・武蔵嵐山コース
11/5都幾川・千年公園コース
今年は40回の記念大会、私にとっては6回目の10kmへの参加でした。

1日目(11/3) スタート松山第一小学校⇒市ノ川地蔵尊⇒市ノ川橋・市ノ川⇒下橋・滑川⇒西明寺⇒西明寺沼⇒森林公園南口⇒森林公園駅⇒ゴール松山第一小学校
本日の10kmコースは実質13km。中間のチェックポイントが森林公園南口で7km地点。朝9:30〜14:00のウォーキング。休憩などしたので実質3時間30分のスローペース。久しぶりの長距離でしたのでかなり草臥れました。気温27℃、晴天、風もなくかなり暑かったです。

スタート地点はまるで駅の混雑と同じでした。
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西明寺で一休み。このお寺さんの隣には河童がいたという沼がありました。
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森林公園の樹木はすっかり紅葉していました。
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ゴール地点傍では参加者を歓迎する風景があちらこちらで見られました。
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2日目(11/4)スタート松山第一小学校⇒県立松山高校⇒椿地蔵⇒みどりとくれあいの路⇒森林公園駅北口⇒森林公園駅南口⇒新郷公園⇒東松山工業団地⇒宿青い鳥・八雲神社⇒青鳥城跡・虎御石⇒小林歩道橋⇒東松山ゴルフセンター⇒紫雲閣⇒箭弓稲荷神社⇒ゴール松山第一小学校
昨夜はストレッチを十分にしてから就寝したので元気に目覚めました。
本日の10kmコースはそのまんま10km。新堀公園が4km、チェックポイントで昼食にしたのでかなり余裕、
朝9:30〜13:30のウォーキング。実質3時間は上出来でした。
スタート時は中学生ボランティアがお見送りでした。
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椿地蔵も見守っていました。
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新堀公園では湯茶のお接待もありました。
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ゴールでは沢山のお店が賑わっていました。
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本日も気温22℃、晴天、風なしでおお助かり。休憩などしたので実質3時間のまずまずのぺースでした。終わってみればかなりの余裕でした。
そうそう、今日はゴール近くのボッシュ工場の駐車場で休憩した時、84歳の男性とおしゃべり。第1回からずっと参加しておられるとのこと。感服しました。見習わないといけません。
                                   
3日目(11/5)スタート松山第一小学校⇒松葉町商栄会⇒ボッシュ工場⇒虎御石⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒南中学校⇒上野本歩道橋⇒上野本氷川神社⇒東松山駅⇒ゴール松山第一小学校
最終日なのでゴール会場のイベントが見たいので意識的にスタート時間を遅らせて出発しました。
本日の10kmコースは実質12kmとのこと。昼食は唐子中央公園で出店や太鼓などの演奏を楽しみました。
朝10:30〜14:30のウォーキング。休憩は十分で実質3時間のぺース。気温21℃、晴れ、朝は風がありましたがそのうちに感じないほどでラクチン。とうとう27000歩で最終日も終了。
途中では栗の実も見つけ、秋を実感しました。
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唐子中央公園ではクイズや太鼓の演奏などで大にぎわい。
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ゴールでは町内のお囃子も出ており、有難い。
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3日間が終わってみれば清々しく達成感があり、疲れを感じませんでした。ゲンキンなものです。
今回は第40回記念大会だったので振り返りの写真展も開催されていました。
自分もこの6年間にバッヂをはじめ色々いただいたことをあらためて感謝しました。そしてこのイベントが町を挙げてのことなので地元の商店街の方々にも感謝です。特に毎日立ち寄ったのがこのパン屋さん。おやつをいつも購入していました。
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この3日間の参加者数が今朝の新聞に出ていました。3日間でトータル10万人超。ちなみにコースは5・10・020・30・40・50kmとありましたが私も参加した10kmコースは3日間で約7万人ですって。道理でずっと混雑の中を歩いたわけです。でもまた来年も頑張れるように今後も日々心がけることにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 22:16| あちこちウォーク