2025年01月14日

2025.1.13 武州与野七福神めぐり

今日はさいたま市観光ボランティア浦和ガイド会主催のウォーキングに参加。本日は40名超の参加者のため4班に分かれてのグループ行動となりました。私は与野ということで地元が不案内のため、友人のMさんをお誘いしての参加でした。
さいたま新都心駅に集合し9時半スタート。
与野は本町通りを中心として鎌倉街道に面し市場が開設され、江戸時代には浦和と川越を結ぶ市場町だったようです。七福神めぐりは昭和59年よりはじまり今は、七福神仮装行列なども行われているようです。ということでガイドさんのご案内で順次一回りということなのです。
まずはスタート地点のさいたま新都心駅について。
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この駅は2000年(平成12年)5月5日のさいたま新都心街びらきに先立って開業したようです。業務地区としてのさいたま新都心は中央区と大宮区にまたがって整備されており、駅施設も両区(中央区大字上落合と大宮区吉敷町)にまたがっているのですが、駅の所在としては、東側の大宮区側の名称を用いているようです。なお、町名としての新都心は地区内の西側(中央区)に位置しているようです。けやき広場の隅の方に記念レリーフがありました。
昔はこの駅前本通りには八幡様があったようでバス停が「八幡通り」となっていました。
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八幡橋の下を流れている鴻沼川(こうぬまがわ)は、埼玉県さいたま市を流れる一級河川で荒川水系鴨川の支流とのことで、上流では霧敷川(きりしきがわ)、下流では鴻沼川、また鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)とも呼ばれているようです。近くのバス停に「与野霧敷川」とありました。

出世稲荷神社。
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この神社は北与野の氷川神社のすぐそばにありました。お正月なのでボチボチお詣りの方がいるようでした。

@氷川神社(ひかわじんじゃ)。
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昔から与野の氏神様で扇の宮と呼ばれていた様です。本殿は1708年(宝永5年)に再建され二間社流造銅板葺建築という珍しい社殿。拝殿の中身は市内最古の御神輿が見えました。ご利益は幸福(福)と高給(禄)と長寿(寿)の神ということでした。ということでこちらの神様は「福禄寿」。南極星の化身で南極老人ともいわれているそうです。

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浄土宗寺院の長伝寺は、正式には貞樹山観智院。長伝寺の創建年代は不詳ながら、古くよりこの地に真言宗寺院として長伝寺があったことがはじまりとのことです。後に芝増上寺12世となる観智国師が当寺を浄土宗に改めて開山し、江戸期には幕府より寺領寄進の御朱印状を拝領していたとのことです。故に正面山門には徳川家の紋がありました。

A一山神社(いっさん神社)。
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木曽御嶽山講四大講祖の一人である一山行者ゆかりの神社とのこと。毎年冬至には無病息災、家内安全を祈る火渡り行事が行われ、参加者は一山と書かれた柚子がいただけるとのことで柚子祭ともいわれているようです。ご利益は商売繁盛の福の神で「恵比寿神」様がおられます。

B天祖神社(てんそじんじゃ)。
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江戸中期の与野街並み絵図に神明山として描かれている神社。明治10年に与野公園が県下3番目の公園に指定されこの時、現在の天祖神社と改名されたようです。
与野公園には2100株以上のバラがあり花の時期はとても綺麗です。
ご利益は老師の化身で1500歳の超長寿を全うしたといわれる長寿の神様「寿老神」。

C御嶽社(みたけしゃ)。
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江戸の後期、木曽御嶽山講祖一山行者が開山し御嶽信仰に努めたとのこと。そのひとつがこちらで平成25年には弁財天を合祀奉安したようです。ご利益は唯一の女神「弁財天」は学問・芸術・財運の神様とのことでした。

D円乗院(えんじょういん)。
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正式には真言宗智山派安養山西念寺圓乗院。鎌倉時代の畠山重忠により創建。慶長年間に賢明上人が移建したといわれます。高くそびえる多宝塔には仏舎利が奉安されているとのこと。本殿前には千代桜(シダレサクラ)があり春が楽しみです。ご利益は右手に小づち、左肩に袋を下げた畜財の神「大黒天」が鎮座しておられました。

E円福寺(えんぷくじ)。
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正式には真言宗智山派北明山龍光院円福寺。室町時代に円海上人が開祖。釈迦堂には釈迦如来坐像が安置されているとのことでした。ご利益は未来予知ができる福徳の神、「布袋尊(ほていそん)」が鎮座とのことでした。

さいたま芸術劇場。
昭和50年代末に埼玉県で建設が計画された複合文化施設で、平成のはじめに具体化し、1994年(平成6年)10月に「彩の国さいたま芸術劇場」として開館したようです。指定管理者は埼玉県芸術文化振興財団で当初は埼玉県出身の芸術監督である故蜷川幸雄さんが手がける演劇公演を数多く上演したのです。建築は香山壽夫さん(香山アトリエ + 環境造形研究所)が設計。2024年にはリニューアルし、さらに多くの公演が予定されているようです。劇場の隣の与野西中学校の塀に沿って多くの演劇人の手形がオブジェで並んでいました
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F鈴谷大堂(すずやだいどう)。
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入口の階段上には六地蔵が鎮座。こちらは江戸時代中期には存在したようです。仏堂には阿弥陀如来像や聖観音座像も安置されているとのことです。
ご利益は知恵と勇気の守り神である「毘沙門天」が鎮座しているようです。

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本日は気温12℃、晴天、強風にもあわずウォーキング日和でした。朝から帰宅まで歩程は久しぶりに19000歩。久しぶりの長距離でしたがどうにか無事に終了し大満足。開運祈願の七福神の御朱印もいただき達成感はばっちりでした。やはりウォーキングは精神衛生上とても良いことを再確認できました。ということで今年もあちこちウォーキングを心がけたいと思います。
posted by yunofumi at 16:45| あちこちウォーク

2024年11月19日

2024.11.14 さいたま彩発見ぶらり街歩き〜飯能市

本日はこの彩発見シリーズ最後から二つ目のウォーキングです。
東武東上線上福岡駅〜川越市〜西武新宿線本川越〜所沢〜西武池袋線飯能駅まで約1時間超ですからちょっと目まぐるしいルートで乗り換えて到着でした。本日はどうやらお天気が持ちこたえるとの予報を伺いご機嫌で出発です。

飯能駅⇒銀座通り⇒店蔵絹甚⇒観音寺⇒清河園蜻蛉亭⇒飯能駅

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飯能駅に着くと駅全体がいやに真新しく明るいのです。ふと見ると傍に『ムーミンバレーパーク』の看板がありました。
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そうだった!2019年3月にリニューアルオープンしたことを思い出しました。北欧のライフスタイルを体験できるテーマパーク『metsä(メッツァ)』の『ムーミンバレーパーク』オープン。確かコンセプトはフィンランド語の『Sykli(サイクル)』。四季を意識したホームや目的の場所へ誘導を促すカモメをモチーフにした鳥など、自然環境のサイクルと人間の動きを対比させたデザインを取り入れたと以前耳にしていたがまだ訪れていなかったことを思い出しました。そして喜多見先生からまずは飯能市の概略の説明がありました。
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現在の飯能市は人口約8万人の市ですが山々が近くにあるので面積自体は埼玉県72市町村では3番目に広いとのことでした。市花はつつじ、市木は杉、市鳥はうぐいす、そして市のイメージキャラクターは西川材で作られた木馬の妖精「夢馬(ムーマ)」三歳の男の子で背中には木の羽があるようです。
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駅前からすぐに飯能銀座商店街がありました。
昔は飯能縄市(はんのうなわいち)といって江戸時代にはもう開かれていたといわれる六斎市だったようです。現在の大通りの仲町を中心ににぎわっていたようです。昔の住宅が立ち並んでおりついついキョロキョロしながら色々見られました。

川越屋(呉服屋)。
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龍長(鮮魚店)。
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亀屋(御茶煎餅)。
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麻喜。
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菊屋(陶器)。
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またこの辺りまでくるといずれの店先にも「薪」が積みあがっていたことが目につきました。きっと土地柄材木や薪の販売を多くしているのでしょう。そしてこの辺りでは前がコンクリート、後は木造の店舗がいくつか見られました。

和洋菓子店 夢彩菓すずき。
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こちらの店先には「げどう(外道)」がいました。これは「飯能まつり」の時、山車に乗って踊っているお面をかぶった人のことで、ユーモラスな姿と踊りで親しまれているとのことです。さらに外道は改心して神になったといわれているようでこのお店では門番、はたまた店番ということでしょうか。菓子の「げどう」はパイ生地で作られたシューの中に、柔らかい甘さのうっすら紫がかったつぶあんが入っていていました。ということで本日の埼玉の逸品としてお土産にいただきました。
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そしてお隣には「ヤマノススメ」も鎮座。
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これは飯能市を舞台にした 高校生の女の子たちがハイキングや登山に臨む物語。この少女たちが登山を通じて友情を深め、互いに成長していく姿を描いたアニメーションで飯能市は聖地だそうです。

新井家住宅(米穀商)中清米店。
江戸中期以来米穀商を営んできた新井家は、飯能を代表する大店。こちらは、穀物、桑、糸繭を商い、金高は町で最も多かったようです。

飯能の双木利一先生は、現飯能市の生まれで、小学校長、銀行支店長、消防連合会長、飯能町長、県会議員など多方面で活躍。公職中には飲料水の乏しい飯能地域に上水道建設を考え推進するなど市の発展に多大な貢献をされましたことで銅像がありました。

大野家住宅(絹の買継問屋)銀座堂 喫茶店。
大野佐十郎商店は昭和4年には生絹、銘仙、村山大島を扱っており、昭和12年には「生絹専門」(『飯能絹織物』)となったようです。

店蔵絹甚(絹商品)飯能市指定文化財。
この店蔵は明治37(1905)年に篠原甚蔵・長三父子によって建てられたものとのこと。絹甚は、明治10年代から呉服・太物小売、その後、糸繭仲買も始め経営を多角化していった様子がうかがえました。店の間口はさして広くなく奥へ奥へと入り、昔の建物の中を見せていただきました。

次は畑屋(横川家)。
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こちらは明治33年頃には既に大通りで料理屋として営業していたようです。
大通りからみて裏手にある木造3階建ての建物は大正期の建造といわれ、座敷では地場産業であった絹織物や材木商の旦那衆が商談や接待に利用し、近くには置屋もあって、飯能の町が最も賑やかだった頃の象徴ということができます。

般若山 長寿院 観音寺(はんにゃさん ちょうじゅいん かんのんじ)は真言宗智山派の寺院。 本尊は如意輪観世音菩薩・不動明王ほか。武蔵野七福神の1寺であり、不動堂に寿老人が安置されているとのことです。
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鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。なお飯能周辺にはかつてアケボノゾウが生息していて、入間市と飯能市境の入間川沿いでは化石も産出されているとのこと。

飯能河原はとても景色の良い所。ここは慶應2年に起きた武州世直し一揆で上名栗村から出た一揆勢500〜600もの人たちが集結した場所とのこと。
飯能戦争は戊辰戦争の一つとのことです。渋沢成一郎や尾高高惇忠、渋沢平九郎といった渋沢栄一の縁者が中心となって結成した振武軍が新政府軍と戦ったのです。従って埼玉ではこの地が唯一の戊辰戦争の戦場となのです。

昼食は清河園蜻蛉亭(せいかえんとんぼてい)の「おしゃべり弁当」でした。
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食後パンフをいただきちょっと見たらこのメニューはランチタイムのみ3080円とあり参加者一同で大いに驚き、道理で満腹になったことに納得でした。こちらのお店は法事やお祝いで使うお店の様で私などは普段伺うランクのお店ではないようでした。
余談ですがこのお店では蜻蛉=とんぼ=と読ませていましたが、PCで調べると蜻蛉=かげろう=だそうです。どちらにしても素人目には「とんぼ」も「かげろう」も区別がつきません。それに今時、「蜻蛉」の漢字を使っているのが貴重と思えました。
こちらの裏には名栗川と割石橋が見えました。

午後の部は割岩橋=飯能河原=飯能市立博物館=能仁寺=廣渡寺=飯能織物協同組合=飯能駅と予定されていました。しかし本日は自分が風気味でもありましたので午前の部で退散しました。ちょっと残念!

今日は天候に恵まれウォーキング日和でした。いつもの喜多見先生と共にTD小松さん、参加者29名の中には顔なじみも多く、気温18℃、風もなく和やかなウォーキングでした。そして私自身のこのツアーの記録帳を見れば、初回は2019年5月浦和区でしたが何とあと一つ「富士見市」で完歩です。しかし、6年目に入っていることを考えるとこれはまた手ごわい!。富士見市催行はいつになることやら???。トホホ・・・という感じです。でもまあ、懲りずに頑張ります。
posted by yunofumi at 14:04| あちこちウォーク

2024年11月11日

20241110 さいたま彩発見〜第U章〜埼玉県22町1村めぐり「入間郡三芳町」

本日から“さいたま彩発見〜町村めぐり”のシリーズに参加です。
ちょうど住まいのあるふじみ野市の隣町が「三芳町」ですから友人から誘われて急遽参加しました。
この町への印象は“ふじみ野市誕生時に一緒に合併しなかった町”。ということで自分が居住している上福岡から所沢に向かう途中の町という印象だけでした。そして雑木林や芋街道、三富新田の土地ですからまったく黒土の関東クローム層の土地なのです。
さて東武東上線ふじみ野駅10時集合からライフバスでの移動。そうそう!聞くところによると、この町村めぐりはほとんど鉄道の駅がなく、最寄駅からバス移動が定番となる様です。

東武東上線ふじみ野駅・・ライフバス・・みよし園⇒三富今昔村・くぬぎの森交流プラザ⇒砂川堀・砂川橋⇒雑木林⇒多福寺⇒木ノ宮地蔵堂⇒多聞院・神明社⇒鞄激nト関東工場⇒三芳町立上富小学校⇒旧島田家住宅⇒いも街道・・バス・・ふじみ野駅

東武東上線ふじみ野駅。
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元々、上福岡駅 - 鶴瀬駅間は駅間距離が長く、特に大井町あたりから新駅設置の希望があり、1993年(平成5年)に富士見市勝瀬にこの駅を設置したようです。今は駅ビルとして「アイムプラザ」がありロータリーにはモニュメントなども設置されています。今では東上線で急行の停車や東京メトロ都心線、特急、TJライナー、東急線とのつながりなど目覚ましい発展です。しかし富士見市にある駅なのに駅名が「ふじみ野駅」はちょっと皆さんを混乱させているのです。

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ライフバスは潟宴Cフバス社の路線バスで富士見市、三芳町を走行営業しており現在7路線があるようです。もちろん各町の後押しもあるようです。

みよし園は特別養護老人ホームで三芳厚生福祉会が経営。かなり大きな施設です。三芳町・川越市・富士見市・ふじみ野市のあたりは高齢者率が高く都心にも近いのでこのような施設が多くあります。

三芳町を中心としたこの地域は江戸の急激な人口増加に伴う食糧不足を背景に川越藩が1694年から行った開拓が事の発端だったようです。この土地の関東ローム層は土の栄養分が少なく軽くて表土は風に飛ばされやすいのです。そこで平地に林を作り、落ち葉をたい肥として利用する持続的な農業に取り組んだようです。今や管理された平地の雑木林はオオタカ・シュンラン・キンランなど希少植物も含め良好な生育環境を作れているようです。

三富今昔村は里山再生を目的に整備された環境教育フィールドで石坂産業が経営しています。コンセプトは身近な里山の自然に触れ、昆虫や生き物を探す観光ツアー、収穫体験や料理体験など5感を使った体験プラグラムが多くあるようです。
こちらにはレストランもあり今日は「くぬぎの森交流プラザ」で美味しく昼食をいただきました。
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ランチプレートは自家製材料ばかりで野菜たっぷりでした。
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デザートとドリンクはおしゃれでした。
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ドリンクはエルダーフラワーの飲み物でした。
エルダーフラワーとは、ヨーロッパ原産のハーブで、花の部分を食用や薬用に利用するとのことでした。フラボノイドを豊富に含み、体を温め、発汗させて熱を下げたり、免疫力を高めたり、利尿作用を促したりする効能があり、風邪やインフルエンザの初期症状に効果的とされているようです。味としてはちょっと甘さが強かったです。

またこの「くぬぎの森交流プラザ」の入り口ではパンなど多くのものを販売していました。
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石坂産業社屋。
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かずらの小径。
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以上の事業は石坂産業が行っているのです。この会社は長年ごみが不法投棄されていた雑木林を整備し、 たくさんの生物が生息する里山を再生。 東京ドーム約4個分の敷地の中で循環をつくり、 オーガニック野菜も栽培。 不要となった廃棄物を再資源化し、里山の敷材や 肥料などの新しい生命の源へと変るということを長年にわたって行っているとのことでした。

砂川堀・砂川橋。
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砂川堀(すながわぼり)は、埼玉県所沢市、富士見市、ふじみ野市、入間郡三芳町を流れる都市下水路。また砂川堀都市下水路・砂川堀雨水幹線とも呼ばれており、荒川水系新河岸川の支流でもあります。

この辺りは雑木林が多いです。
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多福寺。
三富新田の開拓は多くの農家が集まり、協力して開拓を進めてということで農村としてのまとまりや連帯感情を作り出す必要があり1696年(元禄9年)、三富新田開拓の命を出した当時の川越藩主柳沢吉保が、菩提寺として上富に「臨済宗三富山多福禅寺」、祈願所として中富に「毘沙門社」(現毘沙門堂・別当寺:多聞院)を建立したとのことでした。上富村・中富村・下富村の三ヶ村とも菩提寺を多福寺とし、三富新田の農家の精神的な支えとなったとのことでした。多福寺には、重臣であった曽根権太夫が寄進した銅鐘(県指定文化財)や、吉保直筆の「参禅録」をはじめ多くの什宝があるとのことでした。

多福寺表楼門。
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本堂。
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鐘楼。
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元禄の井戸。
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木ノ宮地蔵堂。
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805年(延暦24年)坂上田村麻呂が北国遠征の際、武蔵野で道に迷ったところを地蔵菩薩に助けられ、その加護に感謝し地蔵堂を建立したようです。

三富開拓地割遺跡(さんとみかいたくちわりいせき)。
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この遺跡は現在の所沢市の中富・下富と入間郡三芳町上富に残る江戸時代に行われた新田開拓の地割跡。開拓以前の三富地域には、広大な萱野原が広がっており、周辺の村々の入会地として、肥料を作る落葉や馬のエサとなる草、燃料にする薪などを取るために共同で利用され、村の生活を支える大切な場所だったのです。そして江戸時代に入ると武蔵野の新田開発が急速に進み、次第に狭められる入会地をめぐる争いが起こるようになり、元禄7年(1694年)、川越藩主だった柳沢吉保の領地となったので、「地蔵林」(現在の三芳町上富「木ノ宮地蔵堂」付近)を中心とした周辺地域の開拓に着手したのです。元禄9年(1696年)5月には開拓地の検地が行われ、上富・中富・下富の三村が誕生。なお、開拓地の名に「富」の文字を付けたのは吉保。また、吉保は、開拓農民の心の拠り所として、菩提寺としての多福寺、祈願所として毘沙門社(多門院)を創建したとのことです。また開拓地は公平に短冊のように区分したとのことです。

甘藷の碑。
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宝塔山会館。
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多聞寺(毘沙門堂)本堂。
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こちらでは身代わり寅が奉納されます。毘沙門堂には、武田信玄の守り本尊であった黄金の毘沙門天が祀られています。

狛犬ならぬ狛虎。
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神明社。
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照大御神(あまてらすおおみかみ)で日の神様(太陽神)。太陽は、地球上のあらゆる生命を育む偉大な存在。伊勢の内宮、皇室の御祖神であり、日本の総氏神様でもあるのです。

芋の神様。
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神明社では、当地が「川越いも」の本場であることから、平成18年には作り初め2から255周年を記念して、弥右衛門さんの功績を称えるとともに、関東のサツマイモ作りの元祖である甘藷先生と合わせて『甘藷乃神(いものかみ)』としておまつりしているとのことです。

鞄激nト関東工場。
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三芳町立上富小学校。
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明治7年「学制」に基づき、上富、南永井を学区とする上富小学校が島田助三郎氏宅に設けらたのがはじまりです。

武蔵野落ち葉堆肥農法の記念碑。
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記念碑は旧島田家住宅のそばにありました。
武蔵野地域では、江戸時代から木々を植え平地林を育て、集めた落ち葉を堆肥として活用する伝統的な農業が営まれています。
農産物の安定的な生産に加え、景観や生物多様性を育むシステムが今なお継承されていることが評価され、平成29年に日本農業遺産に、令和5年に世界農業遺産に認定されています。

旧島田家住宅。
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1804年(文化年間)頃の住宅。茅葺寄棟造りでこの地に移築され茅葺屋根も定期的に工事がされているようです。こちらは上富小学校が明治7年に開校されるまで島田伴完により寺小屋として使われていたようです。この島田伴完の指導は読み書き・食物の大切さ・質素倹約・人の生きる道に及んだようです。

いも街道。
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三芳町の特産品のひとつ『富の川越いも』。その生産を担う農家が軒を連ねる道を『いも街道』といいます。シーズンにはのぼり旗が立ち並び、農家から直接さつまいもやみよし野菜を買うことができるのです。
島田家住宅の前の道にのぼりがはためき案内もありました。

本日は比較的早目に終わったウォーキングで講師喜多見先生、TD小松さん、参加者22名は皆元気に終了。気温17℃無風でした。私は朝がかなり寒かったので薄手ダウンの上着でウォーキングしましたが最後はやはり汗をかき、夕方帰宅後は少し寒気がして風邪をひいてしまいました。夜は微熱が出てダウン。これは久しぶりの14000歩の疲れもあったのかもしれません。ということで早々とおやすみなさいとしました。
posted by yunofumi at 19:02| あちこちウォーク

2024年09月29日

2024.9.28 横浜18区散策ぶらり浜あるき 「旭区」

本日は久しぶりの横浜市ウォーキング。18区散策も本日で終了。2017年4月西区から開始し、2017年は6区、2018年は8区、2019年は2区、そこでストップしてしまいそしてこの2024年7月に栄区、と本日の旭区でした。この状況を振り返ってもコロナ感染症の猛威が思い出されます。まずはそんなこんなの中でしたがシリーズのぶらり歩きは次に歩きたいコースと自分の都合が一致しなければなかなか進まず、結果的に本日やっと終了となったのです。

相鉄本線鶴ヶ峰駅⇒横浜銀行⇒鶴ヶ峰公園⇒鶴ヶ峰橋⇒稲荷大明神⇒旭区総合庁舎・首洗い池⇒首塚⇒鶴ヶ峰駅入口信号⇒吾妻鑑鶴ヶ峰・二俣川合戦の堰⇒矢畑・越し巻き⇒横浜市鶴ヶ峰コミュニティハウス⇒駕籠塚⇒カフェレストランMAYA⇒鶴ヶ峰駅

我が家は埼玉県ふじみ野市ですから東武東上線・副都心線・東急東横線・相鉄線と以前なら乗り継ぐところ、本日はいつの間にか最寄りの上福岡駅から乗りっぱなしで到着でした。
8:00前に乗車、9:30前に到着は2時間弱の乗車時間で十分な眠りとなりました。
相模鉄道相鉄本線の鶴ヶ峰駅は1930年開業。現在は乗車人数も増え各駅停車に加えて快速、通勤特急、通勤急行の停車駅となっているようでした。また近くの「開かずの踏切」が除却されるとともに、この駅は相対式ホーム2面2線の地下駅となる予定とのことでした。
そして本日はこの地が畠山重忠公ゆかりの地ということでのウォーキングとなりました。
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ここでちょっと畠山重忠公について予習をしました。
重忠は深谷市生まれ。坂東八平氏の一族。1180年の源頼朝の挙兵時に父重能が京都に行っていて留守だったため17歳の重忠が一族を率いて頼朝征伐に出たとのこと。この戦いで結局不利となり追い込まれ最後はここ横浜の地でなくなったとのことです。その戦いぶりは勇敢で色々逸話があるようです。

鶴ヶ峰公園。
鶴ヶ峰駅からほぼ3分で到着。公園は広く子供達にはとても快適な環境の様でした。
そしてなにより鎌倉時代を偲ばせる歴史深い地でした。
この公園の辺りは帷子川(かたびらかわ)が流れていましたが河川改修で埋め立てられたようです。鶴嶺橋に行くと進行方向左側は川が地下に潜り、右側は普通の川として流れていました。ということは公園には緑道が延々とあったのです。
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そして鎧の渡し緑道を進むと旭区総合庁舎・首洗い池、首塚がありました。
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ここは鎌倉時代に川を越えるにあたり鎧を頭上にかざして川越をしたことからこのように呼ばれているようです。
また河原にはあった井戸で切られた畠山重忠公の首を洗ったということから首洗い井戸の話も伝わっているのです。
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畠山重忠公没後750年を記念して埼玉県深谷市と鶴ヶ峰の融資により建立されたのが畠山重忠公碑とのこと。
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重忠公が矢にあたった時に地面にも刺さった矢が毎年2本ずつ増えて茂り続けたというから「さかさ矢竹」といわれる竹も以前は茂っていたようです。

さらに進むと帷子川が地上から見えるところに来ました。
左が緑道から出てきた帷子川。
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そして流れはすぐに二俣川と合流していました。
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それから少し道並みに降りていくと「矢畑と腰巻き」の案内がありました。
ここは北条勢の矢が一面につきささり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれたのです。この辺りで畠山重忠公が敵陣に取り囲まれたという説と矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があるとのことでした。
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その後横浜市鶴ヶ峰コミュニティハウスで一息つかせていただき、元気回復。
ここは公民館のような地域の方のくつろぎの場所のようでした。
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合戦で討ち死にした畠山重忠公の軍勢130騎あまりはこの場所で討ち死にし、六つの塚に葬られていました。そこに後程薬王寺ができこの寺の境内にある六つの塚はとても立派になっていました。
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それから少し進んだところに駕籠塚がありました。
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こちらは重忠公の内室が重忠公の戦死を聞いて自害したため駕籠ごと埋葬されたと伝わっている場所です。

お昼はカフェレストランMAYAでハンバークエビフライとデザートのランチでした。
できたてでとても美味しくお味噌汁は絶品でした。
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その後私がこのシリーズ完歩だったの表彰状・記念品の七宝焼きのバッヂをいただき、皆さんにお祝いしていただきました

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何しろ2017年からがんばったことなので私もとても感慨深かったです。
お味噌はお土産にゲットしました。

本日は久しぶりの長距離でしたので無理せず午前の部で退散しました。それでも自宅に到着で1万歩でしたからまずまずのウォーキングでした。また先々週までは猛暑でしたが今日あたりは曇り空で28℃とウォーキングにはちょうど良かったのも幸いでした。
そうそう鶴ヶ峰は平地が少なく上り下りが盛んにあり平地のウォーキングとは一味違っていたこともとても印象深かったです。
今後は埼玉県内のウォーキングがまだ終わっていませんので頑張ってみようと思っています。講師鈴木先生、TD間宮さんお疲れさまでした。
posted by yunofumi at 21:36| あちこちウォーク

2024年05月24日

2024.5.21 川越史跡巡り 新河岸川の舟運巡り

本日は川越市観光道案内人の桧山さん先導で上福岡駅から新河岸駅まで新河岸川に沿ってのウォーキング。実はタイトルが舟運とあったので船での旅かと早とちりをしていた私です。もっとも日頃親しんでいる新河岸川を見れば船で行き来できるとは思えませんけれどもなのです。ですが約50年間も上福岡の住人なのですがあまり新河岸川のことも含めわかっていないのでこのツアーを見つけての参加なのでした。
天候は朝早くは曇っていいましたが集合の9:10ころには順次晴天となり、いよいよ暑さも半端じゃないかもと思えました。ということで時間経過とともに昼頃には30℃はあったような感じ。
桧山さんはじめ皆さんと“初めまして”の御挨拶。参加者は10名。紹介コメントで舟運巡りとありましたので船に乗るのかと思っていましたが、どうやらそうではなく新河岸川沿いに上福岡の福岡河岸から川越河岸までのウォーキングで、全行程8kmと紹介がありました。

東武東上線上福岡駅⇒福岡駅碑⇒星野運送店跡⇒上福岡駅入口→西武バス→大日本印刷前⇒福田屋分家跡⇒福岡河岸記念館(福田屋本家)⇒福岡河岸跡⇒古市場河岸跡⇒寺尾河岸跡⇒セブンイレブン⇒東武東上線新河岸駅

東武東上線上福岡駅のこの辺りは明治時代、川崎・福岡新田・福岡・中福岡等といわれていました。そこで「福岡駅」と駅名をしたかったようですが九州に福岡があるため断念。その後大正3年5月に上福岡と名付けられてスタートしたのです。

駅の階段下に福岡駅碑があります。
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1914(大正3)年5月1日に東武東上線の前身・東上鉄道が開通し、上福岡駅が開業。「福岡駅碑」は開業前の2月につくられ、表面には東上鉄道の開通に尽力した星野仙蔵の功績を讃える文と漢詩が、裏面には建碑にかかわった人々の名前が刻まれていました。
星野仙蔵(1871〜1917)は、新河岸川舟運で繁栄した福岡河岸の回漕問屋福田屋の10代目当主で、新しい輸送手段である「鉄道」に注目し、東京と川越を結ぶ鉄道敷設計画に積極的にかかわったのです。1904(明治37)年衆議院議員に当選した星野仙蔵は、同じ衆議院議員で東武鉄道株式会社社長でもあった根津嘉一郎と出会い、東上鉄道の敷設にかかわってもらうように働きかけたのです。星野仙蔵は、鉄道敷設事業に明るい根津の協力を得て、地域の人々に鉄道の必要性を訴え用地取得にも尽力し、その結果、池袋と川越をわずか1時間で結ぶ東上鉄道の開通を実現させたのです。この碑は、駅開設当時ホームにあったのですが、上福岡駅東口駅前広場の整備に伴ない、この場所に移設したとのことでした。ちなみに仙蔵の子孫は市内に住まわれており、女優の星野真里さんも子孫とのことです。
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もともとは星野運送店、今は星野たばこ店になっています。

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上福岡市役所から大日本印刷辺りまでは戦時中は陸軍の陸軍火工廠跡で今も用地の周囲の塀は白く塗りなおしていますが実は当時のままのようです。
陸軍火工廠とは明治政府が初めて設置した火薬製造所のこと。また傍には無線塔も多く立っていたようです。

福岡河岸記念館(福田屋本家)。
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初代福田屋は半兵衛といい、享保時代の方、その後十代星野仙蔵の頃一番“はぶり”が良かったようです。最初は瓦製造から味噌・醤油の醸造、荒物等などの商売を経て明治中頃まで商ったうどん屋、そして舟問屋で財を成し、地域にも貢献したようです。今この記念館を見ますと3階建てですし、木造建築ですがとても立派に保存されています。
裏の庭には大杉神社の石灯篭もありました。

茂兵衛地蔵。
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福岡河岸の茂兵衛さんご夫婦にお世話になった村人が地蔵を作り、彼らの偉業を称える存在として残したのがこちらのお地蔵さん。当時、福岡河岸には中福岡分の土地があり、村人たちが茂兵衛の入定(にゅうじょうー死ぬこと)を聞いて続々と集まり、養老橋の上まで黒山になって心痛しながら彼を見守りましたが、茂兵衛を助ける方法はなく、手をかすこともできなかったようです。茂兵衛さんの遍路の精神とその功績は、多くの人々に感銘を与えたようです。

明治時代まで物資の流通は、基本的に水運で担われ、この辺では新河岸川舟運が盛んでした。新河岸川舟運は、江戸時代に、寛永15年(1638)の川越大火で焼けた仙波東照宮の再建の資材を運んだのが始まりのようです。江戸の中期以降になりますと、武蔵野が開拓され、そこからの農作物を江戸に運び、江戸からは耕作に必要な肥料を運ぶという流通ができていました。
舟運で、荷物の積み下ろしをする場所が河岸であり、そこで荷扱いを行う商人が、回漕問屋とか船問屋と言われる業者で、江戸期においては許可制だったようです。
福岡河岸跡。
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養老橋。
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福岡河岸は、養老橋のたもとにあり、それなりの規模で、有力な河岸で荷上場としての官有地、福田屋をはじめ吉野家、沢田家などの荒物屋、足袋や、うどんやなどがあったようです。

対岸の現在の川越市側には、福岡河岸より成立は古いですが、古市場河岸という河岸がありました。
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古市場河岸は上本醤油、元橋本銀行、床屋さんなど大勢の方が働いておられたようです。また古市場側は家々の他は水田で養老橋を渡って福岡側に来ると畑があったようで養老橋が必要だったのです。
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この床屋さんは随分昔からあり埼玉でも古いとのことでした。
寺尾河岸には前島、新井という二軒の船大工があり、船が完成すると五色の吹き流しを点けて進水式をやったそうです。はっきり場所はわかりませんでした。
また川崎橋当たりでは川崎調整池を作っていました。
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また途中には九十川と新河岸川の排水機場の水門もありました。
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新鷹匠橋あたりには寺尾地区とびん沼にわたって寺尾調整池がありました。
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新河岸場跡には柳が目印でありました。
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旭橋に来ると新河岸です。
旧家のO様宅は昔の名残が見られました。
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お庭には珍しいサボテンが満開でした。
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川越市下新河岸、すぐわきには新河岸川が流れ、その川岸は「新河岸川河岸場跡」。この場所は江戸時代より舟運が盛んで当時、神社周辺は舟運問屋が軒をつらね活気で溢れていました。
また、境内に祀られているのは日枝神社ともう一つ「観音寺」というお寺。明治初期の廃仏毀釈を逃れ、神社とお寺が同居する空間になっています。ちなみに、日枝神社の方がメインの様な印象を受けますが、もともとは観音寺に合祀された神社だということです。
日枝神社にまつられる大山咋神(おおやまくひ)は、水の神とも知られているので、舟運を生業にしてきた地域としてはうってつけの神社とのことでした。

日枝神社。
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観音寺は古く川越市古谷本郷にある灌頂院の末寺。そのお寺に川越市木野目の長者の娘が病気平癒を祈願して本尊を寄進。そして観音堂を建てたのがはじまりということです。
馬頭観音。
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旭橋のすぐそばに大きな伊勢安さんが今もデンとありました。
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敷地奥に進むと蔵が複数ありとても立派。
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街道に面した母屋は建て替えたようですが昔の儘の姿。土間に入れていただきましたがこれまた立派でびっくりしました。
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本日は新河岸川に沿ってのウォーキングで昼にようやく新河岸のセブンイレブンに到着し冷たい飲み物でほっと一息。さすがに30℃の炎天下にはまだ慣れていなくて大いに疲れました。ということで本日はこれに終了。かなり堪えた12000歩でした。
しかしこのシリーズは1年間プランで催行と伺いましたのでまた機会があれば参加しようと思いました。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク

2024年04月13日

20240406 さいたま彩発見ぶらり街あるき 鶴ヶ島市

本日は午後のウォーキングのために正午過ぎに昼食会場の「旬彩ぷらんたん」に伺いました。実はこの鶴ヶ島市ウォーキングは2022年10月4日に午前のみで参加しました。当時は少し脚力に自信がなくなっていましたので“無理をせず”を目標にしたわけです。その後、何回も半日参加をしていますが結果的に“行けなかった所に行ってみたい”を実践知るために喜多見先生にご相談し、こうして参加できた次第です。

東武鉄道越生線一本松駅⇒旬彩ぷらんたん⇒蔵の湯⇒日本精機⇒県立鶴ヶ島清風高校⇒天神前遺跡・新右衛門遺跡⇒つるがしま最中⇒高徳神社⇒ベルク⇒鶴ケ丘児童公園⇒鶴ヶ島鶴ケ丘郵便局⇒アルカサール迎賓館川越⇒東武東上線鶴ヶ島駅

東武鉄道越生線一本松駅の住所は鶴ヶ島市大字中新田。この駅より少し西北に行った所に五差路「一本松交差点」があり、ここの傍らに生えていた一本の松の木に由来する名称とのこと。この松は見事な松だったようで、江戸時代には日光裏街道を行く旅人たちが振り返ってこの松を眺めたことから「見返りの松」とも言われていたようです。またこの松は晩年商店の前、地蔵の隣に立っていたのが、1964年の東京オリンピックを控えた頃に交差する県道74号線、県道114号線それぞれの道路拡張計画が持ち上がり、これに合わせて切り倒されたということでした。

鶴ヶ島の由来としては昔、雷電池(かんだちがいけ)を含む脚折(すねおり)北部は広い湿地でその中に小高い島があり、そこには男松と女松が生えていたそうです。そして今から500年ほど前にこの松に鶴が巣ごもりをし、ひなはその後成長して大空に羽ばたいたのです。これを見た村人は縁起が良いと大喜びし、この地を「鶴ヶ島」ということにしたようです。

旬彩ぷらんたんは欧風料理のレストラン。店内は清潔で応対も丁寧。本日のメニューはシャキシャキの新鮮お野菜に山菜など食感が嬉しいサラダ、良く煮込まれたロールキャベツ。周りのソースも絶品。かぼちゃのプリンは丁寧に作られておりこれも絶品。最後の珈琲もコクがあり本当においしくいただき、満腹!満腹!サラダ、ロールキャベツ、かぼちゃプリンのメニューは前回と同様でした。
ロールキャベツ
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かぼちゃのプリン
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県立鶴ヶ島清風高校。
1982年 (昭和57年)に 埼玉県立鶴ヶ島高等学校開校。そして2008年 (平成20年) 埼玉県立毛呂山高等学校 と統合されて現在の 埼玉県立鶴ヶ島清風高等学校 となったということでした。どおりで遠目に見えた校舎はとても綺麗で新しく見えました。

天神前遺跡・新右衛門遺跡案内板。
今からおよそ1万2000年前までを縄文時代と呼び、この時代に使われた土器は縄文式土器。鶴ヶ島市域における縄文時代の遺跡は比較的多く、飯盛川や大谷川の流域に草創期(約1万2000年〜約9500年前)から晩期(約3200年〜2200年前)までの遺跡がみられるとのことでした。この時代の生業は基本的に、狩猟や漁労、植物性食物採集が中心で、季節に合わせ食物獲得活動が行われていたとようです。弓矢の発明で狩猟方法に変化が見られ、土器の発明により、調理法も多様化していたとのこと。早期(約9500年〜約6800年前)以降竪穴(たてあな)住居が普及し、生活が定着化し集落を形成。この時代の市内の遺跡には、雷電池東遺跡・鶴ヶ島中学西遺跡(脚折)や新右衛門(しんうえもん)遺跡(高倉)などがあり、吊り手付土器や耳飾り等の珍しい遺物が出土しているようです。縄文時代晩期になると遺跡は市内ではほとんど見られなくなったのです。

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池尻池公園は鶴ヶ島清風高校の向かいにある公園でちょうど公園の中央に大きな池尻池があり、緑豊かな公園でした。

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日光街道並木道をしばらくウォーキング。日光街道往還にある並木は寛永年間(1624〜1644年)に川越藩主松平伊豆守(まつだいらいずみのかみ)が植えたとのことでした。現在この並木は鶴ヶ島市・川越市・日高市にまたがって、約5.3km続いているとのことでした。

つるがしま最中。
鶴ヶ島市役所近くにつるがしま最中本舗という和菓子屋さんがありました。
つるがしま最中(小倉)は、見た目、オーソドックスな最中で皮の中に粒あんが入っており、甘味も程よく美味しい味わいでした。
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店内は昭和風情漂う雰囲気のお店で、他にも美味しそうな和菓子が揃っていました。
本日の埼玉の逸品ということでいただいた「つるがしま最中」は帰宅後とても美味しくいただきました。

高徳神社(こうとくじんじゃ)。
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大正2年の創立。神域は広く、面積は5619坪あるとのことでした。老樹がうっそうと生い茂り、清浄、森厳な聖域におもわれました。

ベルク。
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正式には株式会社ベルク。私も馴染みのあるお店です。ベルクは埼玉県鶴ヶ島市に本社があり、関東地方で「ベルク (Belc)」「クルベ (CLBE)」の名称で約130店舗(2023年現在)を展開している食品スーパーマーケットチェーン。埼玉県秩父地方を足がかりに埼玉県北部および群馬県南部を中心に店舗を展開し、近年は軸足を埼玉県中部へ移して埼玉県東部・南部方面など多方面で出店を強化しているようです。2016年に関東一都六県へ進出して2017年に100店舗とたったとのことでした。

鶴ケ丘児童公園。
株式会社関水金属と連携し整備を進めているガーデンパークのうち、鶴ヶ丘児童公園部分が、令和6年4月1日から利用可能となった公園。
隣接している株式会社関水金属敷地内の工事が完了すると、緑地部分もガーデンパークとして散策等に利用可能とのことでした。
 令和6年6月9日(日)には、ガーデンパークの開園を記念した式典やオープニングイベントの開催予定とのことで、素敵な公園が出来そうでした。

東武東上線鶴ヶ島駅
この辺りは明治時代には「上広谷長連合役場」がおかれ、品川県・韮山県・熊谷県の行政が行っていました。町村施行時に14ヵ村を統合して「鶴ヶ島」村となり、昭和に入って商工業が発達するにおよんで、分譲住宅や事業所が数多く建設され「鶴ヶ島」市となったのです。
駅名は村名時代からのものとのことでした。

本日は喜多見先生にお願いしての午後のウォーキングでした。先生曰く、コンプリートでいいのですとのこと。ウォーキングではよく完歩という言葉を使いますので、コンプリートとパーフェクトを調べました。
コンプリートは「必要とするすべての要素が揃っている状態」。すなわち、足りないところがなく、完全に揃うこと、ある行動を完了すること、シリーズのものを全種類揃えること。
パーフェクトは「あることの結果として完全に優れている状態」。すなわち欠けたところがなく完璧なこと、スポーツやゲームで完全試合のこと。
なるほど、ということでコンプリートで良いみたいです。
今日はまたお花があちらこちらで見られて楽しかったです。
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本日はお陰様で鶴ヶ島市を約半年後でしたが納得して終了。天候は曇り、気温16℃はウォーキング日和でもありましたので19名の方々と楽しく過ごせました。またこの調子で以前半日ウォーキングの回を何とかクリアしたいと思っております。
posted by yunofumi at 16:10| あちこちウォーク

2024年04月09日

2024.4.4 さいたま彩発見ぶらり街あるき 秩父市

昨夜のうちに乗り換え検索していた通りに我が家を出発。
東武東上線→JR川越駅(八王子行)東飯能にて西武池袋線へ→西武秩父駅
結局1時間33分(983円)の旅でした。
しかし少し早めに出たこともあり、秩父駅隣の観光案内所がオープンしており、暖かい珈琲が飲めたことで改めて元気百倍。そうこうしているうちに参加者12名が集まり10:30に集合して12名で無事出発となりました。

西武秩父線横瀬駅⇒兎沢橋⇒姿の池⇒羊山公園・見晴らしの丘⇒牧水の滝⇒秩父銘仙館⇒番場通り⇒秩父市役所⇒御花畑駅⇒安田屋⇒百年のいなり⇒少林禅寺⇒秩父半僧坊大観現⇒秩父庵玉木家⇒秩父神社⇒チル サルーテ⇒秩父まつり会館⇒秩父鉄道秩父駅

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西武秩父線横瀬駅。
横瀬は列車のアナウンスと駅で聞いた「よこぜ」のアクセントが違い、アレレという一幕もありました。
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横瀬駅は昭和44年に開業。駅前も広くお隣に観光案内所もあり良い作りになっていました。鉄道の関係では西武秩父駅から回送された車両を留置する側線や、隣接する横瀬車両基地に関係した側線があるとのことでした。

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「姿の池」は羊山公園の手前にあった池。なぜか公園の構成要素としては取り込まれていないようでいた。取水塔は大きく、岸辺の桜も咲き始めていました。

ウォーキングを始めると花々があちらこちらと咲き、とても目を楽しませてくれました。
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羊山公園・見晴らしの丘。
ここで大陸プレートの下に海洋プレートが入り込んで、できたことでの今日の秩父ができあがっている説明を喜多見先生から伺い、面白いと思いました。
向こうに見える武甲山はだから石灰岩の山だそうです。
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武甲山は標高1304m。北側斜面は石灰質で、石灰岩の採掘が盛んで山容が随分変化しているようです。
ここで秩父市内を一望でき青空の元、本当に気持ちよかったです。
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そばに中津賢吉の碑がありました。
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「ほろほろとえごの木の花散る朝は谷にこもりて鳴くほととぎす」
これは中津賢吉による歌碑で「武蔵野」に投稿を開始してから、世に認められ、秩父に根を持ち活躍した歌人のようです。この方は秩父、荒川村で明治42年に生まれ、昭和63年に没したのですが、亡くなる数年前に有志によってこの歌碑が建立されたとのことでした。
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牧水の滝は、春の芝桜で知られる秩父市・羊山公園にある人工の滝。大正時代に秩父を数回訪れている歌人・若山牧水にちなんで名付けられ、近くには歌碑がありました。
す。
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牧水歌碑は昭和30年初秋、夫人の若山喜志子の筆によるもので、隣には喜志子歌碑も並んでいました。この付近からは、秩父の街や遠くに両神山が見えました。
若山牧水は、明治時代から昭和初期にかけて活躍した歌人。宮崎県日向市に生まれ、幼い頃から自然と親しんだようです。与謝野晶子らの浪漫主義に対抗して、自然や感情を素直に表現した「自然主義文学」を創造したのでした。約9,000首の歌や随筆、童話などを残し、広く国民に愛された方です。歌碑は全国に約300基あるとのことでした。
そういえばこの公園を去る時、秩父はアニメの聖地とも伺いました。
・あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(あの花)
・心が叫びたがっているのだ(ここさけ)
・空の青さを知る人よ(空青)
いずれも埼玉県秩父市周辺が舞台として設定されているアニメのようです。

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秩父銘仙館(ちちぶめいせんかん)。
山に囲まれた秩父は稲作が出来ないことから養蚕行が盛んとなったのです。その中で規格外の繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産。これが評判をよび「鬼秩父」と呼ばれて大衆の普段着として使われたのです。その後この「太織」は名前を変え「秩父銘仙」としたようです。また「ほぐし捺染」技術の開発で大胆かつ華やかなデザインの織物として全国的に人気が出たのです。以前は養蚕業関係に市民の七割が関わっており秩父の基幹産業となってきたのとのことでした。機械を色々見せていただきました。
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作品も展示していました。
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教室もやっているようでした
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出会い、ふれあいの場所として秩父神社参道の番場通りは賑やかでした。
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ところ所に現在地、右は〇、左は〇のように道標のようなちいさな塔がありました。

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秩父市役所。

芋もうらら
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百年のいなり
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札所15番 母巣山 少林寺(ははそさん しょうりんじ)は、もともと秩父札所ではなく「五葉山 少林禅寺」という名前のお寺というでした。
明治時代の神仏分離令(1868年)によって、もとは秩父神社の境内にあった秩父札所のひとつ「母巣山 蔵福寺(ぞうふくじ)」が廃寺となってしまい信者たちの嘆願により、五葉山 少林禅寺と合併して秩父札所として引き継がれることとなり、その際、山号は「母巣山」、寺号は「少林寺」へとあらためられたとのことです。
白い漆喰が印象的な本堂は、秩父札所唯一の土蔵造りの本堂です。
明治時代の秩父大火(1878年)の後、火災にも強い建物とするために建立されたものです。
堂内には、三十三観音図額があるとのことでした。
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本堂右側の大権現社には、秩父半僧坊大権現がまつられ、“火除け”や“厄除け”にご利益があると信仰されています。
「大権現(だいげんげん)」とは、仏様や菩薩様が人々を救うために仮の姿になって現れることをいいます。

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山門の手前では、「一願達磨」が迎えてくれました。
ダルマは、もともと達磨大師の座禅の姿を模したものが縁起物となり、病気や災難から守る魔除けとして信じられてきました。
現代では、何度転んでも起き上がることから、「努力」や「忍耐」の象徴とされ、受験の合格祈願としても知られています。
また、すぐ近くには秩父事件の案内がありました。
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秩父事件とは、明治17年に秩父地方の農民が武装蜂起した事件です。農民たちは高利貸や政府の悪政に苦しめられており、借金の据え置きや減税などを要求しました。秩父困民党という組織を作り、数千人で郡内を制圧しましたが、政府軍に鎮圧されました。この事件は日本近代史上最大の民衆武装蜂起事件とされています。

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秩父神社の創建は第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の十世の子孫である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っているのです。

偶然、SLパレオエクスプレス(C58363)が御花畑駅から秩父駅に向かう12:32ちょうどを目撃しました。ちょうど春休みで1日に何本か運転されるとのことでした。何年振りかのSL列車目撃でした。
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チル サルーテ(chill 3lute)はお肉料理が得意なレストランの様でした。
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しばらくぶりに喜多見先生、TD小松さんと記念撮影をしました。

武甲政宗の武甲酒造、柳田総本店に伺いました。
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店内を色々説明いただきさらに新型コロナウイルス感染症拡大防止のため導入した利き酒機、非対面型利き酒機で利き酒ができました。私はお酒をいただきませんがお酒が好きな方々は大喜びでした。
私は珍しい腸活によいという「酒蔵の麹水」を購入しました。

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秩父市のイメージキャラクター「ポテくまくん」にやっと出会いました。

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秩父まつり会館は、毎年12月2〜3日行われる日本三大曳山祭の一つ「秩父夜祭を中心に秩父の祭について紹介している施設でした。館内に入ると大きな逆鉾と屋台があり壮観でした。
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またプロジェクトマッピングでの祭の賑わい等も見られ、いやはや圧倒されました。

秩父鉄道秩父駅。
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帰りは秩父鉄道駅で1時間に一本の列車を40分待ちした後、寄居に出て東上線で上福岡へ。結局、約2時間(1350円)かかりましたが乗り換え1回は楽でした。本日は19℃とウォーキングには少し暑かったですが、曇天だったことが幸いでした。さすがに秩父は山が間近かですから羊山公園をはじめウォーキングの道はやや起伏があり、ちょっと大変。でもいつかみたいにむきにならずにTD小松さんの手助けをいただきながら無事に終了。このシリーズはすでに6年目を迎えており、本日終了で、あと2回のみで完歩です。でもその回がいつ催行されるかわからないのでまずは気長に過ごすことにいたします。皆さんとご一緒に過ごす日々は大切なので健康管理をがんばり、今後も日々大切に過ごすことにいたします。そうそう、本日は羊山公園に芝桜がまだ咲いていなかったのでこれはこれで残念。しかしすっかり忘れていたのですが「第4ステージ北部比企秩父5市コンプリ―賞」をいただき、まずまずの気分で感謝、感謝!
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おみやげは「秩父麦味噌羊羹」と「ガーリック味のグリッシーニ」。これらは珍しかったので美味しくいただきました。ではまた頑張りまーす。
posted by yunofumi at 17:32| あちこちウォーク

2024年04月08日

20240331 さいたま彩発見ぶらり街あるき 志木市

今朝は東武東上線志木市駅に10:00集合、今日はこのウォーキングシリーズ「さいたま彩発見」の最後の回なのです。本日はこの日で完歩8名のようでした。しかし私をはじめ数名はどうやら最終回とはならずなのでした。

東武東上線志木駅⇒東上稲荷道⇒駅前商店街⇒村山クリニック⇒慶應志木高校⇒大原ぽんぽこ公園⇒江戸道⇒立善講寺⇒敷島神社⇒富士下橋⇒いろは親水公園⇒村山快哉堂⇒志木市役所⇒いろは樋の大枡⇒旧西川家潜り門⇒朝日屋原薬局⇒本町1丁目信号⇒西川地蔵堂⇒本町通り⇒本町3丁目信号⇒上の水車⇒レストランお箸ビストロ⇒志木駅

東武東上線志木駅。
池袋から田面沢間に設置され、1914年(大正3年)東上線開通と同時に開業。廻船商人の井下田慶十郎氏をはじめ沿線の有力者の尽力により、東上線は旧川越街道より東側を通るルートになったのです。

昭和40年頃の志木駅舎。
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交通庵東上翁井下田慶十郎碑。
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東上鉄道志木駅解説八十六年とありました。

志木かるた。
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日本における「かるた遊び」の歴史的なルーツをさぐっていくと、平安時代の貴族の遊び「貝覆」(かいおおい)、「貝合わせ」にまでさかのぼれ近年は紙が用いられるかるたが盛んなようです。埼玉には郷土かるたが沢山あるということで、人々の身近な地域、郷土の代表的な自然、歴史、産業、文化を詠んだ「郷土かるた」につながっているようです。ということから、志木でも郷土かるたが盛んにおこなわれているのかもしれません。
このように路面に示しているのは忘れないためにも良いことだと思いました。

マンホールは志木市ゆるきゃらのカパルでした。
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カッパ像。
志木市は荒川・新河岸川・柳瀬川の3本により、農地を潤し、舟運で栄え、水難に立ち向かう歴史がありました。これらの河川の恵みと災いは河童が住むという伝説を作りました。志木市内には28体のカッパ像が点在しているということでした。
ここにあったのは待ち合わせカッパ。
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東上稲荷道。
この東上線を志木へ誘致する運動の中心的人物がこの「東上稲荷神社」を祀った井下田慶十郎(いげたけいじゅうろう)氏です。この方は、現在、志木駅東口の近くにお住まいの井下田家の先祖で、1865年(慶応元年)に引又宿(現在の志木市本町付近)に生まれました。井下田家は、1656年(明暦2年)より引又河岸の回漕問屋を営んでいましたが、明治14年に若干16歳で家督を継いだ慶十郎は、これからは舟運よりも陸上交通の方が社会の繁栄をもたらすと考え、当初の計画では朝霞から新座の大和田の方に行くはずだった東上線のルートを志木を通るルートへと変更させる運動に私財をなげうって奔走したのです。この時、この誘致運動の成功を祈願して自宅に祀ったのが「東上稲荷神社」で、無事念願が叶った後は、志木駅脇に遷座して「正一位東上稲荷大明神」として 祀ったのです。現在「東上稲荷神社」は、井下田家の敷地内に遷座されているとのことでした。

慶應志木高校。
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1858年、福澤諭吉(1835-1901)が江戸に蘭学塾を開いたのが、学校法人慶應義塾の始まり。1947年、慶應義塾の塾員で、日本の電力開発に最も大きな功績を残した松永安左ヱ門氏(1875-1971)から、財団法人東邦産業研究所の土地と建物が慶應義塾に寄贈され、それを受けて志木の地に移転してきた慶應義塾獣医畜産専門学校を基礎として、翌1948年に開校したのが、慶應義塾農業高等学校。その後、1957年に普通高校に転換し、同時に慶應義塾志木高等学校と改称されたのです。

大原ぽんぽこ公園。
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慶應義塾志木高の学生寮の廃寮に伴い創設された公園。地元住民や学校関係者の活動により樹林地の存続が決ったようです。名前の由来は、かつてこの付近に狸が棲んでいたことから往時の記憶を偲び名付けられたのです。

江戸道という案内がありました。
現在の志木市の中心部、志木街道沿いの本町は昔、引又と呼ばれた地域で、江戸時代から昭和にかけて近隣の物資が集散する商業の町として栄え、奥州から甲州に向かう間道(奥州街道)の宿場(引又宿)が置かれ、新河岸川舟運の河岸(引又河岸)が開かれたようです。引又宿は、大名が通行するのはまれで本陣など本格的な宿泊施設はなく、もっぱら商人、一般庶民の利用だったようです。

立善講寺(りゅうぜんこうじ)。
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立善講寺は、本門寺境内に日鏡上人が日朗上人を開祖として創建した照栄院を起源として、1689年(元禄2年)に鎌倉比企谷宝篋堂談林が照栄院内に移された際に、照栄院が朗慶山立善講寺と号したということです。明治時代に照栄院と立善講寺が分離し、明治21年志木市住民の誓願により、立善講寺が当地へ移転したとのことでした。

敷島神社。
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敷島神社の拝殿。浅間神社の敷地内に、村山、星野の両稲荷神社と水神社を合祀して、敷島神社が建立されました。
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主祭神は、木花開耶姫大神(このはなさくやひめのおおかみ)です。
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境内には「田子山富士」なる富士塚があり、「たごやまのおふじさん」と呼ばれ親しまれています。もともとは七世紀後半ごろに造られた円墳で、高さは8.7m、直径が約30mあり、1872年(明治5年)にはこの田子山富士塚が造られたのです。ここはまた、石碑が多数あることも特徴です。
カッパのたごちゃんもいました。
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富士塚の後ろを回ると御胎内の入り口がありました。
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いろは親水公園は、いろは橋の下流に広がる公園で、令和4年にリニューアルオープンし、整備された公園になりました。公園は、中洲ゾーン・左岸ゾーン・右岸ゾーンの3つのゾーンに分かれています。中洲ゾーンは、新河岸川と柳瀬川の合流地点で、旧村山快哉堂やベーカリーカフェがあります。芝生広場の先にはカウンターデッキが設置され、新河岸川と柳瀬川の合流地点を一望できるようになっています。左岸ゾーンには、ホタルの里や四季の花畑、こもれびのこみちがあり、自然を楽しめます。右岸ゾーンには、ウォーターパークやカパルなどの個性的な遊具があり、子ども達が遊んでいました。パークセンターや駐車場もこのエリアにあります。川の流れを眺めているだけでも時間の経つのを忘れてしまいそうになる公園です。

富士下橋。
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柳瀬川。
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見事に咲いた桜です。
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ここでもぼ満開です。
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カッパの波動ちゃん。
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いろは橋。
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村山快哉堂。
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1877年(明治10年)に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵。本町通りに屋敷を構え、各種家伝薬を製造、販売する薬店だった所。平成7年に解体、平成13年に現在の場所に復元されたのです。

志木市役所は平成19年に市役所庁舎の耐震診断を行った結果、耐震性能が不足し、大規模の地震で倒壊または崩壊する可能性が高いという結果が示されました。その後、平成28年に新建築案ができ平成31年度(令和元年度)から旧庁舎の解体工事、令和2年度からは、新庁舎の建設工事を開始、令和4年に新庁舎の建設工事が竣工。そして脱炭素、耐震化、電気、機械設備機器、駐車場、その他の機能など多岐にわたり検討結果のすえ、できた施設とのことでした

いろは樋の大枡。
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野火止用水は1655年(承応4年)に開削された全長約25kmに及ぶ玉川上水最大の生活用水路。志木市内では、宗岡地区の稲作を発展させるため「いろは樋」による引水も行われていました。役目を終えた「いろは樋」は、本町1丁目に復元模型が残され、街の名所として親しまれています。
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旧西川家潜り門は元々旧西川家の中庭に立っていた門。幕末に酒造業・水車業・肥料商を営む傍ら引又町の組頭役を務めた西川家なのです。よく見ると、扉や柱に刀の跡が残っていて、長い歴史に耐えてきた風格がありました。解体時に志木市教育委員会に寄贈されたため、志木市役所脇の市場坂上交差点に移築されたのです。

朝日屋原薬局。
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明治45年店舗兼住宅で主屋をはじめ明治から昭和初期の建築構成が良く残されているのです。

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西川地蔵堂は江戸中期、西川四郎左衛門によって造立。娘を幼くして亡くし、その供養に建てたと伝わっています。延命長寿、無病息災、安産祈願などで信仰を集めたのですが、とくにイボ取りに効能があるとされたようです。無事にイボが取れた暁には、焼き団子を供える風習があり、そのお供えをこっそり持ち帰って食べるとイボ以外の病も癒えるといわれていたようです。むしろ団子を食べておけば万事解決などという気がしなくもないですね。

上の水車。
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江戸時代、野火止用水の流末に位置する引又宿には、上の水車、中の水車、河岸の水車(下の水車)と呼ばれる3台の水車があったとのこと。志木市立郷土資料館の脇に、当時の大水害の水位を示す表示板が設置されているのです。

レストランお箸ビストロで昼食でした。パスタをメインにマルゲリーテ、ピザやサラダ。デザートケーキはバスクチーズケーキと米粉パウンドケーキ、そして最後にドルチェ珈琲をいただきました。
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また、本日の埼玉の逸品は川越亀屋の桜花餅でした。
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ということで今日は晴天で26℃とやや暖く、少し汗を流しながらの24名がご一緒したウォーキングでした。私的には喜多見先生とTD小松さんに元気付けられながら午前を終了。帰宅すればいつもの調子で14000歩は上出来でした。志木市の色々な歴史も楽しく見聞きでき、特に敷島神社の田子山富士塚は大きく、実際に富士山が見えるとのことで印象深かったです。
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2024年02月05日

2024.2.3 さいたま彩発見ぶらり街あるき 所沢市

1/30に坂戸市をウォーキングしたばかりでしたが今日は所沢市のウォーキング。レンチャンの感じですが中3日間はそれなりにドタバタであっという間に本日を迎えました。

西武線所沢駅中央改札口⇒日本の航空発祥地石碑⇒ファルマン通り⇒プロペ通り⇒坂稲荷神社⇒きら星動物病院⇒秋田家住宅⇒麻彦商店⇒薬王院⇒深井醤油・展示資料館・ヤオコー⇒山路人形⇒神明社⇒新光寺⇒開明橋・東川⇒所沢織物同業組合事務所跡⇒金山町商栄会商店街⇒金山町信号⇒弘法の三ツ井戸・弘法橋⇒パスタデルフィーノ新所沢店⇒新所沢駅⇒航空公園駅⇒公園通り⇒所沢市役所・広島市役所旧庁舎の被爆敷石⇒所沢航空公園発祥記念館⇒蝋梅園⇒新所沢駅

西武線所沢駅は新宿線と池袋線がクロスしており、とても大きくて近代的な感じのする綺麗な駅でした。列車はほとんど10両が連結している感じで絶え間なく電車が出入りしていました。
1912(明治45)年に西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が設立されてから100年とのこと。第1号機関車は「ドイツ・クラウス社製」だったようです。
1915(大正4)年に現在の西武鉄道の本流である武蔵野鉄道が開業し、池袋〜飯能間が開通。その後、武蔵野鉄道は1922(大正11)年に池袋〜所沢間を直流1200Vで電化。秩父鉄道とともに私鉄で最初に1000V以上の電化を行った会社として鉄道史に名を残したのです。1927(昭和2)年には東村山〜高田馬場間が開業。同時に東村山〜川越(現本川越)間の電化が開始され、これが現在の新宿線の始まりとなったのです。また現在の多摩川線は、多摩鉄道が前身で1927(昭和2)年に(旧)西武鉄道が合併。多摩湖線は多摩湖鉄道が1928(昭和3)年に国分寺〜萩山間で開業したのが始まりです。
1945(昭和20)年には、武蔵野鉄道と(旧)西武鉄道が合併し、西武農業鉄道に改称。その翌年1946(昭和21)年11月15日に現在の名称「西武鉄道」となったとのこと。合併や複線化、電化を経て“西武らしさ”が生まれていったのです。
さて所沢市といえばとても大きな市なのです。人口は34万人、土地は埼玉県の中では11番目の面積があるそうです。また鎌倉街道や所沢街道が通っていること、狭山丘陵にはトトロの森、狭山湖、所沢サクラタウン、滝の城址公園など見所いっぱいなのです。ということで喜多見先生のウォーキングプランはぐっと絞って所沢駅から航空公園辺りまでとなったようです。
所沢駅西口デッキに立つと下には日本の航空発祥地石碑が見えました。
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街は賑やかでファルマン通り、プロペ通りと続いていました。

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坂稲荷神社の前は所沢銀座通り。覆屋 は 土蔵造りの平屋。外壁は漆喰、腰ナマコ壁。屋根はトタン製の切妻造。建築年代は不明。中に装飾絵が文化財に指定され、社殿に納められているとのことです。文化財として1800(寛政12)年に斎藤鶴磯が奉納した幟があるようです。すなわち所沢は織物も盛んだったのです。
所沢のイメージキャラクターは「トコろん」。マンホールをはじめあちらこちらで見かけました。
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秋田家住宅。
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秋田家の屋号は「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商だったようです。初代の伊左衛門は、1826(文政9)年に所沢市上安松の秋田音松の次男として生まれ、分家して当地で商いを始め、2代目の伊三郎とともに事業を拡大したとのことです。
 秋田家住宅は、銀座通り店舗を構え、奥に細長い短冊状の敷地に、店舗兼主屋、土蔵、離れが続けて建てられ、土蔵の裏にある座敷の庭は門と塀に囲まれているとのことでした。

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薬王院は曹洞宗の寺院で東光山自性院と号すようです。藥王寺は、新田武蔵守義宗が当地に潜み隠れていたもののその後草庵となしたと伝えられています。孝山俊和(慶長19年1614年寂)が臨済宗より曹洞宗に改めたということです。

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うどんのまち、焼だんごのまちとして知られる所沢の深井醤油の醤油は、初代「保平(ヤスヘイ)」から「保」の字を用いた「ヤマホ」の名で親しまれ、地元名物の味の決め手として長きにわたって使用され続けられているようです。また、新しくたまり漬・だし醤油なども生み出しているのです。近年では新ご当地グルメ「ところざわ醤油焼きそば」を開発し、時代を超えて所沢の食文化を支え続けているとのことでした。家屋敷は以前は広大だったようです。店舗横には展示資料館もありました。またお隣のヤオコーは借地で営業かもと思いました。

所沢神明社。
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1696(元禄9)年に柳沢吉保(当時川越藩主)が三富新田として上富・中富・下富村を開村した際、一寺一社の制に基づき開拓農家の檀家寺として上富に多福寺を、また中富に祈願所・鎮守の宮として毘沙門社(多聞院)を創建したとのことです。 その後、近隣地域より神明社を含む「合祀七神社」を正式に勧請し、1869年(明治2年)]の神仏分離令によって西側の境内は当神社として、また東側は寺院(多聞院)としてそれぞれ独立し、今日に至っているとのことです。
  
新光寺。
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真言宗豊山派寺院の新光寺は、遊石山観音院と号します。新光寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられ、源頼朝が1193(建久4)年那須野へ向かう途中に田地を寄進したといいます。

開明橋・東川
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この橋は近年、ゲリラ豪雨に象徴される局地的な大雨が多発していることを受け、所沢市内の浸水被害を軽減するため、埼玉県と所沢市が連携して河川及び下水道の整備をより効果的に実施できるように、事業間の調整を行うことを目的として、河川・下水道事業調整協議会を設置し、平成28年8月の台風9号による浸水被害があった箇所のうち、最も被害の大きかった東川流域(開明橋付近)および柳瀬川流域(勢揃橋付近)の2地区について、河川と下水道の一体的な整備を行うことになった場所のようです。

所沢織物同業組合事務所跡。
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1922(大正11)年に完成した所沢織物同業組合事務所は、「織物のまち所沢」の象徴的な建物として長く親しまれていたとのこと。しかし昭和46年4月に事務所は入間市仏子へ移転し、建物は2ヶ月後に取り壊され、現在はマンションになっていました。

弘法の三ツ井戸・弘法橋。
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武蔵野台地の中央部に位置する所沢は、地下水位が深いため、昭和12年に上水道がひかれるまでは、大変水利の悪いところでした。近隣の村では「所沢の火事は土で消す」という言葉もあったそうです。そんな水に苦労した所沢にあって、次のような伝説が残されています。
それは夏のある日、1人の僧が民家に立ち寄り一杯の水を所望した所、機を織っていた娘がやっと水を汲んできたが実はこの辺りは昔から水に不便をしていることを話したのです。それを聞いた僧は、立ち去る前に娘に三つの場所を杖で指し示し、そこに井戸を掘るようにと言い残したのです。その後村人がその場所を掘ると、深く掘ることもなく清らかな水がこんこんと湧き出たのです。夏でも涸れることのないその井戸を、村人たちは「三ツ井戸」と呼び、誰言うともなくあの僧は弘法大師だという話が広まったのです。
この井戸のそばには弘法橋がありました。
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パスタデルフィーノ新所沢店。
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南イタリアをイメージしたお店だそうです。店内は隠れ家的で癒しを演出しているようでした。
ランチコースをいただきました。
サラダ前菜。
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スープ。
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パスタ。
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ドルチェ。
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最後の珈琲を含め美味しさを堪能しました。

食後、いったん新所沢駅に行き、一駅乗って航空公園駅到着。駅前にYS11が鎮座。この飛行機は「YS-11」といい、1911年まで実際に日本の空を飛んでいたのです。ちなみに、機種名のYS-11の「YS」は悲願の国産輸送機を製造するために設立され、実際にYS-11を設計した「輸送機設計研究協会」の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったものだそうです。
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所沢市役所の通路辺りに広島市役所旧庁舎の被爆敷石がありました。敷石は1984年、当時の所沢市長が広島市と交流を深めていたことから寄贈されたものとのことでした。そこで所沢市は核廃絶と平和への願いを込めて広場に設置。説明書きや被爆した広島市役所旧庁舎の写真のプレートもありました。2004 年からは8 月6日の広島原爆の日に合わせて職員が献花しているようです。

所沢航空公園発祥記念館。
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20世紀に入り世界は気球から動力飛行機の時代に入り、その時日本も遅れまいと欧米から飛行機や航空技術導入に励んでいたのです。明治・大正・昭和と受け継がれた時代、所沢が舞台となったようです。ちなみに日本で最初に飛行機が飛んだのは代々木公園。所沢は戦後米軍に接収され基地となっていたのが戦後所沢飛行場跡地として返還され今の公園の状態になったようです。
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敷地内には飛行機の仕組みなど学べる所沢航空公園発祥記念館のほか、運動施設、茶室、日本庭園、蝋梅園があります。
本日は蝋梅が満開でした。
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新所沢駅の母体となったのは、1938年(昭和13年)6月21日に開業した「所沢飛行場前駅」。この駅は陸軍所沢飛行場にあった陸軍航空技術学校の校長の要請と、所沢市街北部の開発および周辺住民の便宜を図るため、同飛行場に通じる道の入口、新宿線が東川を渡る場所の本川越寄りに設置されたのです。
かつては「所沢飛行場前駅」と称したようですが、軍施設が明らかとなる名称が相応しくないとして変更し現在に至っているとのことです。

食事後はゆっくり午後のウォーキングスタート。蝋梅園・日本庭園・熊野神社を巡った後所沢駅がゴールとのことでした。私は蝋梅園を少し見て帰宅。結果的に17500歩は元気に終了出来た証です。

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本日の埼玉の逸品はお菓子工房潟Gミールの「トコろんおやつ」。中に餡子も入っており程よい甘さが美味しかったです。
またふたつの袋入りチョコ菓子は深井醤油で買い求めたものです。お醤油も使用しておりなかなか香ばしかったです。

今日も講師喜多見先生、TD小松さんの引き回しで参加23名参加。
午前中は風速5mほどあり、朝の冷え込みは厳しかったですが日中になり気温9℃、そして午後になると日差しもあり風も止みました。適度なウォーキングで楽しく過ごすことが出来ました。感謝!!
posted by yunofumi at 13:38| あちこちウォーク

2024年02月04日

2024.1.30 さいたま彩発見ぶらり街あるき 坂戸市

今朝はびっくりするくらいの青空が広がりウォーキング日和。朝はかなりの低温でも日中はポカポカ陽気になりそうとのことで元気に10:30坂戸駅に集合。

東武東上線坂戸駅⇒坂戸神社⇒日の出町交差点・延命地蔵・日光脇往還⇒永源寺・島田氏墓所⇒坂戸市立中央図書館⇒坂戸市文化会館ふれあ⇒坂戸宿案内板・道標⇒日本料理旬坊⇒庚申塔⇒若葉病院⇒聖天宮(せいてんきゅう)⇒戸宮交差点⇒東武東上線若葉駅

坂戸市は県下31番目、昭和51年に市となった街。人口は10万人にも満たないようですが面積はかなりの広さ。畑が広がる感じの街でした。そうそう大学など学校が多いという感じ。ゆるきゃらは「さかろん」と坂戸よさこいのイメージから「さかっち」も。いずれも市内のあちらこちらで見かけました。
さかろん
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さかっち
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坂戸駅。
東武東上線の川越をすぎ、寄居に向かう駅としてはかなり乗降客が多い感じ。この坂戸駅からは途上線の本線と支線の越生線がでています。近場に高麗川が流れていることから以前は秩父鉄道や高坂構外側線を折り返しで日本セメント専用線の列車も走っていたようです。日本セメント埼玉工場から下板橋のセメント包装所へ向かう列車が行き交いかなりの重要な駅だったとのこと。
駅舎の改札前の自由通路(南側)にはステンドグラスで「四季桜樹」(しきおうじゅ)が 見られました。
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また自由通路(北側)にはテンドグラスで「高麗日月」(こまにちげつ)が 見られました。
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この両サイドのステンドグラスは坂戸駅 2011年9月完成の際に宝くじの社会貢献広報事業として助成を受け、いずれも 原画・監修を倉島重友で整備されたものだそうです。

坂戸神社は2度の合祀により近所にあった神社の10神が祀られているとのことでした。
拝殿前には重軽石があり作法に従って祈念すると願いがかなうとのことでした。
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日の出町交差点の東南角に祠に入った延命地蔵がありました。明治31年の建立だそうです。
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長渓山永源寺は曹洞宗の寺院でご本尊は釈迦如来。創建は1592年(文禄元年)、島田利秀が開基。
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永源寺の裏手には島田氏代々の墓所がありました。
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坂戸市文化会館「ふれあ」がありました。
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こちらにも「さかろん」が皆を歓迎していました。
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こちらは日光脇往還の坂戸宿の道しるべ。
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坂戸市文化会館(坂戸市元町)、三叉路の正面は坂戸小学校(薬師町)、道しるべは矢印のツツジの植栽の中にヒッソリと立てられています。道路改修で何回か動かされたのでしょうか。右は国道407号線(坂戸バイパス)方面へ。左は北坂戸駅方面ですが何か中途半端で途切れています。
江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の晩のために八王子からの道が整備されこの坂戸宿が一番目の宿場だったようです。

日本料理旬坊。
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御馳走が次々に登場し、それぞれおいしくいただきました。
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これぞ日本料理、しかしお肉もしっかりあり、アツアツをいただきました。
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カニと水菜のご飯
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グラタン
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デザート

では次は本命とばかりに歩みを進めると畑の一角には庚申塔を祀ってありました。
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若葉病院のそばで大きなダチョウが見られました。
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いよいよ聖天宮(せいてんきゅう)です。
五千頭の龍が昇る聖天宮は台湾・中国の道教のお宮です。
建て主は康國典大法師。 四十歳半ばにして不治の大病を患い、ご本尊「三清道祖」と縁起をもたれたのを期に一命をとりとめ、完治されたとのこと。 深謝の念と、何人にも神様のご利益にあやかれるお宮を建てたく建造の地を探していたところ、なんと生国の台湾ではなく日本国のこの地にとお告げを授かったのです。聖天宮の名、佇まいや方角もお告げがあり、当時、正面の道、最寄の若葉駅もなかった雑木林のこの地を一から整地し昭和56年より着工。 台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、15年を掛け、平成7年に聖天宮を開廟されました。
天門です。
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前殿にはおみくじや八卦がありました。
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正面左には鼓楼、右には鐘楼があり、ちょうど15:00に各々12回音色が届きました。

狛犬のようでした。
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本殿には太極天井があり、天井に描かれていた五千頭の龍
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本殿では神様を拝観しました。
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ということでかなりゆっくり見物しました。面白いと思ったのはお土産販売が自販機だったこと。

そいえば昼食になってはじめて馴染みの顔に一人も出会わないなあと思い講師の喜多見先生に伺ったところ、この埼玉歩きは近頃人気が出て参加人数が多くなり同じコースを2回催行とのこと。前回は21日日曜日催行で従来からの参加者がほとんどだったこと、当日は雨降りで大変だったことを伺いました。ということでなるほど!道理でお話を伺うと本日はまだ参加が1〜2回目と伺った方が数名おられました。その中でも久しぶりに同じふじみ野市から参加の方がおられ、珍しかったです。

本日の埼玉の逸品は坂戸市のゆるきゃら「さかっちのどらやき」は重量感のある甘さもしっかりでとても美味しかったです。
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また最後の聖天宮で購入したパイナップルケーキは台湾では有名なお土産とのこと。こちらは甘さ控えめでとても美味しかったです。
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本日のコースの目玉は聖天宮でしたから、午後もエスケープすることなくウォーキング。しかし聖天宮までの1時間のウォーキング後の昼食休憩で足を休められたとはいえやはり最後に若葉駅までの30分はちょっと無理そうな感じになり、TD小松さんのお知恵拝借ですぐそこで通りすがりで見つけた路線バスに飛び乗りそのまま皆様より一足先に電車で帰宅できました。ヤレヤレ!
ということで本日、埼玉のこのシリーズには私は44回目の参加、全49回シリーズで6年目に突入したわけです。あと残り数回となったシリーズですがちょっとやわな私が午後のウォーキングをエスケープしたのを振り返って調べたところ、何と!8回でした。そして2023年春からのことと判明!ということで足の衰えを痛感。シリーズ最後まで完歩のために足を鍛えることを心がけねばと痛感した本日でした。
本日、講師喜多見先生、TD小松さん、参加者16名、富士山もくっきりの晴天、気温13℃、ほぼ無風の中帰宅すると18000歩は上出来でした。
さて、数日後には所沢市のウォーキングです。次は2回催行のうち1回目参加ですからまたお馴染みさんにお会いできることを期待します。では次回も頑張ります。
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2023年12月25日

2023.12.16 さいたま彩発見ぶらり街あるき 朝霞市

12月に入り寒いのが当たり前なのに本日はぽかぽか。ウォーキング開始時は14℃くらいあり、昼には18℃。本日は天気予報通り20℃に達っするかも、という日和でした。
お陰で上着を脱ぎ、身軽な出で立ちで軽快な足運びが出来ました。

東武東上線朝霞台駅⇒西久保公園⇒黒目川遊歩道⇒滝の根公園⇒神明坂「坂の下に見えたあの町に」の舞台⇒朝霞市役所⇒公園通りけやき並木⇒広沢の池⇒食珈茶菓酒すわん⇒朝霞駅

朝霞市は荒川低地と武蔵野台地の狭間にあり、その高低差は約40mとのこと。ということで本日は坂道がそれなりにあるらしい。ウーン手ごわいかも!!ということで小さな覚悟をしてから出発でした。朝霞市の端には荒川・新河岸川、そして中ほどには黒目川の流れがあり人口は14万人。見渡せばマンションが乱立の発展途上の市と思いました。
朝霞市の名前の由来はこの地が膝折村といわれていた頃、東京ゴルフ倶楽部があり、名誉総裁の朝香宮殿下の名前から朝霞町を経て、昭和42年に埼玉県で27番目の市となり、「朝霞市」が誕生したのです。
本日は東武東上線朝霞台駅がスタートということでわが街、上福岡市から12分間東上線の乗車でしたらちょっと楽ちんなスタートでした。
そういえば朝霞市のゆるきゃらは「ぽぽたん」。ぽぽたんは、たんぽぽの妖精。
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朝霞市の魅力を発信するキャラクターが、朝霞市制施行50周年の節目となる平成29年3月15日に誕生したようです。自然豊かな黒目川のほとりに咲くたんぽぽから生まれたようです。ぽぽたんの夢は朝霞のまちの魅力を世界じゅうに届けすることとのことでした。
朝霞市はまたニンジンの特産地です。ウォーキング途中で幾度もニンジン畠を見ました。
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また出あった黒目川の流れは清らかでした。
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そして朝霞市役所の前にモニュメントもあり素敵でした。
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東武東上線朝霞台駅は昭和49年に開設された新しい駅で、朝霞市にあり、東側に武蔵野台地があるという地形的要素から命名されました。ここは都心から20q圏内に位置し、近くに複数の駅があるなど交通の便が良いため、首都圏のベッドタウンとして人口を増やしているようです。

黒目川遊歩道。
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朝霞市の東西をつなぐように流れているのが黒目川。沿道には遊歩道が整備され桜の木が230本、約700mに渡って見られました。今は花の時期ではなかったのでちょっと残念でしたが水の流れは清らかでそれだけでもいい気持でした。

滝の根公園。
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階段をのぼっていくと到着。
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この滝の根公園は、傾斜を利用して作られたおり、木材で作られたアスレチックが多くあり、自然豊かな感じでした。従って子供の人気があるようです。
さて、階段を登りきると今度はつり橋がありました。
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かなりの長さがあり、渡たりはめるとギシギシ・・・ゆらゆら。本日は24名の参加ですからワイヤーで支えられているとはいえ、しんがりで渡った私はかなりの揺れと足元から下が見えることもあり、ちょっと怖かったです。実際にはアジサイや色々な樹木があり、じっくり見るときっと楽しめる公園だったと思います。

吊り橋をわたるとすぐに神明坂(しんめいさか)。この神明坂は「坂の下に見えたあの街に」の舞台だそうです。すなわち少年時代を朝霞で過ごした尾崎豊さんのゆかりの地とのことでした。彼の「坂の下に見えたあの街に」の歌はこの神明坂の情景がモデルだそうです。
今での人気のある歌手の尾崎豊さんが小学生のころから数年この朝霞市に住んでいたようです。そしてその頃この駄菓子屋さん「太陽堂」や近くの商店に出没していたとのこと。こちらは尾崎豊の聖地ということで今もフアンが訪れるようです。
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公園通りけやき並木道は閑静な通りで、 広々とした歩道やサイクリング ロードが整備されており、周辺には公園や学校施設、中央 公民館や総合体育館などの公共 施設も多く、日ごろは木陰の中を通学する児童・生徒、ベビーカーを押した子ども連れの家族などが多く見られるようです。
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広沢の池は台地の崖下から湧き出す地下水がたまってできた池で、越戸川の水源とのこと。古くから水田の用水として利用されてきたようです。周囲には木々が生い茂り、また池には魚や鳥が多くみられ、池のほとりに「広沢の観音様」が祀られていました。

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食珈茶菓酒すわん(しょっかちゃかしゅすわん)
店内はちょっと狭い様子でしたが本日は26名が伺いましたので貸し切り状態。店内は清潔感あり、照明はやや明るめ。カフェっぽい雰囲気もよく丁寧な応対も含め、特別にクリスマスランチをいただきました。朝霞市のニンジンを含んだお料理は一つ一つがとても美味しかったです。
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私にとってはまた伺いたいお店リストに追加です。

朝霞駅前に来ると本田美奈子さんの石碑がありました。
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本田美奈子さんは小さい頃より朝霞市で育ち歌手・アイドル・女優として活躍したようですが38歳の若さで急性骨髄性白血病で死去されたとのこと。今でもこのように偲ぶ方が多く見えるようです。

例によって埼玉の逸品は「ほそや菓子店」の「朝霞道中」。これはアーモンドと黒ゴマを練りこんだ生地を丁寧に伸ばして焼き上げており、香ばしい香りが口いっぱいに広がるお菓子でした。
せっかくお店に立ち寄りましたので「ぽぽまるパイ饅頭」もゲットし、お土産にしました。
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「ほそや菓子店」は創業60年。しっかり朝霞市で和菓子造りに根差している老舗のようです。私たちがいる間も次々にお客様が見えていました。やはりおいしさが知れ渡っているのですね。

午後の歩程は旧高橋家住宅⇒城山公園⇒東圓寺⇒浜崎黒目橋⇒北朝霞駅とのことでしたが坂があるとのことだったので痛めた足がやっと回復した頃なので、午後はエスケープしました。
ということで本日はほぼ晴れ間で19℃と暑いくらいで汗がでました。24名の参加。喜多見先生とTD岡さんとご一緒に12000歩ウォーキングできました。
さてこれにて年内の埼玉県内の街歩きは終了。今年で5年目だったこの埼玉県街歩きは何と8回参加できました、そして1月は坂戸市、2月所沢市、3月志木市と予定があります。この5年休みなく参加していればこれですべて終わりのはずですが私にはすでに一度開催された秩父市・飯能市・富士見市がまだ不参加で残っております。さてこれらは本当に今後参加できるかは定かではないですが何とかしたいと思っており6年目となる2024年の催行を望むばかりです。ということは体力の温存にも努めなければ、、と思っています。
皆さま今年もお世話になりました。また来年もよろしくお願いいたします。
posted by yunofumi at 10:44| あちこちウォーク

2023年12月04日

2023.11,26 さいたま彩発見ぶらり街あるき 新座市

このシリーズも参加が42回目となりいよいよ身近な街あるきとなっています。本日のメインは何といっても平林寺、ここは外せないということで元気に参加しました。

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地元上福岡から東武東上線の朝霞台駅で乗り換え、JR北朝霞から武蔵野線で一駅の新座駅で下車。新座駅は野火5丁目にあり1973年に開業したJR武蔵野線の駅。新座市内には鉄腕アトムの虫プロがあることから、発車メロディが『鉄腕アトム』のテーマ曲。
南口には水車がありました。
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野火止用水があることから初夏にはオブジェの水車が回転し、冬期は通水中止になるとのことで本日はじっとたたずんでいる感じでした。

本日はまず西武バスで新座市役所まで乗車。
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やっとウォーキング開始。といってもすぐ平林寺前にある睡足軒の森(すいそくけんのもり)に立ち寄りました。
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新座市睡足軒の森は、国指定天然記念物「平林寺境内林」の一画で、武蔵野の雑木林の面影がありました。平成14年度に平林寺から新座市へ無償貸与され、伝統文化の発信と青少年の活動の場として活用されているとのことでした。園内には、昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)が移築した睡足軒があり、池や木々の紅葉がきれいで見とれました。
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そしてすぐ平林寺です。
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平林寺(へいりんじ)は。南北朝時代に創建された寺院で、京都の妙心寺派を代表する禅修行の専門道場。桃山時代の終わりに徳川家康の助力を得て再興された平林寺は、江戸時代初期、川越藩主松平信綱の命で、現在のさいたま市岩槻区からこの新座市に移転したようです。境内林は国指定天然記念物になっておりまさに絶景、この時期は紅葉が見事でした。広大な雑木林は東京ドーム9個分とのことでした。
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高野槙.の老木です。
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放生池は神秘的でした。
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辺り一面、みごとな紅葉でした。
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その後、街に出ると途中の路面にはこのようなかわいいプレートもありました。
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平林寺横でも見られましたが進むに従い野火止用水(のびどめようすい)が見られ、水は清らかでした。
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野火止用水は1655年川越藩主松平信綱により武蔵野の開発の一環として野火止台地開発のために入植した人々の飲料水・生活用水確保を目的に開削されたとのことです。玉川上水から分水し、新座市を通って新河岸川まで続く25kmの用水路なのです。乾燥した台地はこの水路により潤い、人々の暮らしを豊かにしたことが伺えました。

ウォーキング途中では新座市のゆるキャラ「ゾウキリン」に出会いました。
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ゾウキリンは、ゾウみたいだけど、体(からだ)のもようがキリンに似(に)てるフシギな生物(せいぶつ)で"雑木林(ぞうきばやし)“をまちがえて"ゾウキリン"って読んじゃったことからきているとのことです。

そうこうするうちに昼食会場「イタリアンレストラン ソルティーノ」に到着でした。
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こちらは新座産の野菜にこだわった郷土料理をベースにしたイタリアンレストランでした。
まずは新座産のグリーンサラダです。
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次は新座産5種類の彩り季節野菜の完熟トマトソースパスタです。
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最後はデザート盛り合わせ。これは珈琲と一緒にいただき満足満足でした。
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またここではいつものごとく埼玉の逸品として「にいざ囃子」をいただきました。
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こちらのお菓子は40年前から販売しているオリジナル銘菓で、栗を練り込んだ白餡を皮で包み、砂糖をまぶした、ほど良い甘さの和菓子。本当にほんのりした甘さでした。この和菓子の名称の「にいざ囃子」は、新座最古の神社の一つである地元の大和田氷川神社に古くから伝わる伝統芸能「大和田囃子」に由来し、「祭りの日の、お囃子のあの賑やかな感じを思い浮かべながら作っていると販売元の菊扇さんからの言葉のようでした。サクサクした皮の食感は和菓子には珍しく、洋菓子のようでもあり、子どもにも人気とのことでした。

午後は体調がイマイチの私はこちらでエスケープ。ここまでは11000歩の歩程でした。
皆さんの午後のウォーキングは鬼鹿毛の馬頭観音・大和田宿・普光明寺・大和田氷川神社から新座駅ということでした。これだけのお楽しみを実現できなかったことは自分自身、誠に残念でしたがそのうちにきっと伺いたいと思っています。

ということで本日も22名の仲間と共に喜多見先生、小松TDの楽しいウォーキングでした。
天候は薄曇りで時々霧雨があり、気温5℃はちょっと寒さがきつかったです。
喜多見先生のお話からも分かったことですがこのシリーズのことが話題となっているのか近頃新規の参加者が多い様子でよかった!
ではまた、皆さま、来月お目にかかりましょう。次回は朝霞市のウォーキングです。
posted by yunofumi at 22:01| あちこちウォーク

2023年10月11日

2023.10.6 さいたま新発見 ぶらり街歩き 和光市

東武東上線・東京メトロ和光市駅⇒本田通り・本田技研工業⇒東京メトロ和光検車区⇒陸上自衛隊広報センターりっくんランド⇒御嶽榛名神社⇒鈴木製麺所⇒うけら庵⇒クロシェット・ドウ・ボア(昼食)⇒和光駅

和光市は埼玉県の南側にあり、東京都練馬区と板橋区に入り組んで接しており、すぐそこが東京都。地形的には武蔵野台地の上で、市の東側は板橋区との境に沿うように白子川、市の北端には荒川と新河岸川が流れおり、鉄道は東武東上線が走っています。
私自身はかつて北海道の室蘭にある日鋼記念病院に勤務中、和光市の国立保健医療科学院で半年間安全管理の勉強をさせていただいた思い出があります。それ以来、初めて和光市に降り立ちましたが2013年から北口の区画整理事業が開始されたようでとても明るい感じになっていました。また市内縦断で東京外環自動車道、国道254号(川越街道)、すぐそばには関越自動車道、首都高速道路の入口もあり、かなりの交通の要衝のようです。
そうそう和光市は国の機関が多く、理化学研究所、司法研修所、裁判所職員総合研修所、税務大学校、国立保健医療科学院、陸上自衛隊朝霞駐屯地、国立病院機構埼玉病院(旧:国立埼玉病院)等があり、いずれも良く調べれば見学などできそうです。また大きなことでは理化学研究所和光研究所(理研)の森田浩介博士を中心とした研究グループが、原子番号113番の新元素の合成に成功し、平成28年11月30日に国際純正応用科学連合(IUPAC)が,この新元素の名称を「ニホニウム」とすることを認定したのです。
元素記号1番から118番までのプレートを路面に埋設していたり、駅南口に記念碑、外環上部にモニュメント、市道113号線に通り名表示板などを設置、平成31年3月には新元素発見記念にニホニウム通りが完成しこのプレートを見ながら歩むと理科学研究所に行けるようでした。

和光市駅のはじまりを見ていくと、1934年(昭和9年)に埼玉県新座郡新倉村に「にいくら駅」として開業。
その後、大日本帝国陸軍が白子村と新倉村の全面積の約20%に相当する土地を取得し、1937年(昭和12年)から陸軍予科士官学校、軍需工場が進出。終戦後、陸軍予科士官学校跡地や中央工業新倉工場跡地が米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐。1960年(昭和35年)3月には陸上自衛隊朝霞駐屯地が開設され、戦後も軍需都市的な側面が残ったようです。
一方、本田技研工業が1952年(昭和27年)に白子工場を開設、その後大和工場を開設するなど民需工場の進出も相次ぎ、その後、米軍基地返還跡地に日本住宅公団が「西大和団地」、「南大和団地」、「諏訪原団地」を開設。「米軍新倉倉庫」は伊藤忠商事が「シーアイハイツ和光」として再開発を行い多数の団地開発が進められたのです。
また、1941年に開院した白子陸軍病院が1945年(昭和20年)は国立埼玉病院として存続し、米軍基地返還跡地の一部は1967年(昭和42年)に理化学研究所(理研)が大和研究所を開設し、さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで土地区画整理事業が進められ、新興住宅地としても発展したようです。
こうして、1951年(昭和26年)に新倉村の合併で「大和町駅」(やまとまちえき)、さらに1970年(昭和45年)市町村合併で今の「和光市駅」に改称されたようです。

さて現在の駅舎は2012年にリニューアルされこの通りキレイ。
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和光市のキャラクターは市の花であるさつきの妖精で「さつきちゃん」です。
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こちらは元素記号113番目ニホニウムの紹介。理化学研究所で発見されたニホニウムなのです。
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路面にあり元素記号を追っていくと理化学研究所に行くようでした。
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さらに駅前には清水かつらさんの歌碑。
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みどりのそよ風、靴が鳴る、しかられての歌詞が刻まれていました。
いずれもよく歌ったものです。
清水 かつら(しみず かつら)は、男性詩人で童謡詩人として知られいます。元々東京深川生まれで実母たちが離縁後父と継母に育てられたようです。その後書店などに勤務し、編集の傍ら童謡の作詞も始めたようでしたが、関東大震災後には継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送ったとのことでした。

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本田技研工業は今では大産業です。
伝統的に本田宗一郎以降の本田技研工業の社長は、研究所出身者から選ばれているとnおことでいつまでも研究を熱心にしている会社のようです。

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東京メトロ和光検車区は東京地下鉄(東京メトロ)の車両基地。東京メトロの車両基地としては唯一、埼玉県に立地する。有楽町線・副都心線用の車両が所属しているとのことで少し見ているだけでも次々に車両が入ってきており、とても忙しそうでした。

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陸上自衛隊広報センターりっくんランドは、陸上自衛隊唯一の大規模広報施設で、2002年に「見て、触れて、体感して」をコンセプトに、
来館された方々に陸上自衛隊の広範なイメージを常続的かつ体系的に情報発信し、理解を得ることを目的として設立されたとのことです。館内では、陸上自衛隊の組織・編成、任務・役割、活動状況を学べ、戦車等の大型装備品をはじめとした各種装備品を間近で見ることができ、またフライトシミュレータ及びVRゴーグルを装着して戦車・水陸両用車等の疑似乗車体験もできるとのことです。それから陸軍予科士官学校や旧軍に係る資料及び朝霞駐屯地や郷土の歴史を展示・紹介している振武臺記念館も公開されていました。

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本町御嶽榛名神社は、和光市本町にある御嶽榛名神社。この神社の創建年代等は不詳ながら、上州榛名社を信仰する原新田地区の講により祀られていたということです。本田技研の用地買収により昭和27年当地へ遷座、武州御嶽講の信仰する御嶽社と合祀し、御嶽榛名神社としているとのことでした。

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鈴木製麺所は和光ブランド認定の「新倉うどん」の製麺所で75年有余にわたり、うどん・そば・中華麺など麺類製造一筋のお店とのこと。独特の製法で作られた麺は、「こしがあるのに、湯で時間が短い!」ことが自慢のようです。
姉妹店のレストラン「クロシェットドゥボワ」で後程昼食をいただきました

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和光市本町に、史跡「うけら庵跡」がありました。
当初の建物は、天明初期に鈴木家六代目松蔭の手によって建てられた小さな墓守堂です。庵は墓守の僧を置くために作られたもので、六畳二間の小さなものです。
この庵のある敷地内に、大地主鈴木家の墓所もありました。
名前の由来となっている、うけらとは武蔵野に自生していた草花です。
現在の「うけら庵」は、平成元年(1989)に鈴木家の現当主が再建したもので、集会所として使われています。
敷地内には樹齢200年以上といわれる銀杏もそびえていて、
小さな通りの中で、ここの場所だけ独特の雰囲気を醸し出していました
敷地内に可憐に咲いた曼殊沙華を見つけました。
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クロシェット・ドウ・ボア(昼食)の名前はフランス語でクロシェットは錫、ボアは木。ということでの命名だったようです。

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前菜、フランスのタブレ、アイスランドのレイクトゥラクササラーティ、ベルギーのペッション・ドン、ポーランドのビゴス

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ウクライナのビーツスープ

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イタリアのナスとベーコンのトマトソースパスタ、パスタは新倉うどん

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お肉料理はフランスのアリゴ風チーズソースを添えたローストチキン

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デザートは日本のチョコと飴ケーキ

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食後はオーナーのピアノ伴奏で3曲、花の街などを専務が高らかに歌い上げてくださいました。

食後の午後のウォーキングは富澤湧水⇒青龍寺不動院(白子の湧水)⇒白子熊野神社⇒白子宿⇒清水かつら生誕百年記念碑⇒白子城跡⇒新倉ふるさと民家園⇒和光駅。
私は7月に足を痛め久しぶりのウォーキングでしたので午後はエスケープ。
良さそうな所ばかりなのでまたいつか伺いたいと強く思っています。

本日は喜多見先生、TD小松さんのおかげで18人が満足したウォーキングとなったようです。私自身は1万歩のウォーキングでしたからまずまず満足できた。またお陰様で本日の日和は微風24℃で心地よいウォーキングが出来ました。
posted by yunofumi at 14:30| あちこちウォーク

2023年07月15日

2023.7.9 さいたま新発見 ぶらり街歩き 狭山市

梅雨明けもまだの様子に日々ですが今日は狭山市のウォーキングです。このシリーズとしては40回目の参加です。本日は喜多見先生と小松TDのもとに26名参加。傍から見ればこの暑いのに”もの好きな“集団なのです。

東武東上線上福岡駅⇒東武東上線川越市駅=西武新宿線本川越駅⇒所沢駅乗り換え⇒西武池袋線稲荷山公園駅⇒狭山市立博物館⇒狭山稲荷山公園⇒展望台⇒見晴台⇒慈眼寺⇒八幡神社⇒割烹喜代川⇒七夕橋バス停⇒狭山市駅

狭山市は人口約15万人、埼玉県内では63市町村中24番目の広さ、もちろん市の木は“お茶の木”、市の花はつつじ、市の鳥はおなが、と色々案内を伺いました。
平成20年度に、狭山市中心市街地活性化推進事業のイメージキャラクターとして誕生したのが“七夕の妖精おりぴぃ”。観光協会の観光大使として活躍する中、平成25年度からは、狭山市の正式なイメージキャラクターとして、さらに元気に活動しているようです。スタンプは狭山市のHPから取れます。
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狭山市立博物館は、市制施行35周年記念事業のひとつとして、平成3年(1991年)11月1日、開館。「入間川と入間路−その自然と風土−」を基本テーマとしており、原始時代から現代までの狭山の歩みを展示しています。本日は「ざんねんな生き物展」をしておりました。
アケボノゾウ
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ベラジカ
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狭山稲荷山公園は、昭和48年に米軍から返還された基地跡地を整備した公園とのこと。平成14年から県営公園となったようです。毎年4月にはソメイヨシノや八重桜など、約300本の桜、広い芝生広場やアカマツ、コナラなどの緑が多かったです。
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展望台から斜面緑地には「稲荷山やまゆりの会」の尽力で“やまゆり”が見られました。
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見晴台に上ると狭山市が一望できました。
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慈眼寺(じげんじ)のご本尊は聖観世音菩薩。曹洞宗のお寺。室町時代の創建、徳林時を開山した一樹和尚が大永年間(1521〜1527)に開山したようです。
黒こげ地蔵
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狭山八幡神社は旧入間川村の総鎮守。ご祭神は応神天皇。1333年(元弘3年)に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるときここで先勝祈願をしたようです。
本殿横には義貞が馬をつないだ「駒つなぎの松」がありまた本殿の彫刻が見事でした。
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こちらの誇れる芥川賞作家の津村節子文学碑。
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割烹喜代川で和食のランチをいただきました。
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本日の埼玉の逸品は潟<c潟Xのビスキュイワッフル狭山抹茶
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今日は35℃とめちゃくちゃ暑いので午前の部で私はウォーキングを終了。
七夕橋バス停から狭山市駅経由で帰宅。いやはや体力の衰えを実感した一日でした。
実は午後のウォーキングは清水八幡宮・智光山公園・こども動物園・自然生態観察園・都市緑化植物園・前山の池と続き智光山公園バス停から狭山市駅に戻るコースと伺っていました。いずれも魅力的なコース作りでしたのでまた機会を見つけて単独行を試みたいと思っております。
ということで雨降りはなく曇り空で蒸し暑い中、頑張った一日でした。
さて来月8月はお休みし、9月の和光市に参加できるように日々過ごしたいと思います。
posted by yunofumi at 10:23| あちこちウォーク

2023年06月29日

2023.6.23 2巡目 第15回東京新発見「中央区」

今朝は梅雨の晴れ間という感じ。薄曇りでAM10:00にはちょっとほっとしながらの、小沢先生、TD山際さんと共にスタートでした。

東京メトロ日比谷線・東銀座駅⇒歌舞伎座⇒白鶴ビル⇒銀座5丁目信号⇒狩野画塾跡⇒新橋演舞場⇒国立がん研究センター中央病院⇒築地場外市場⇒波除神社⇒築地本願寺⇒堺橋跡⇒浅野内匠頭邸跡⇒聖路加国際大学⇒トイスラー記念館⇒聖路加国際病院⇒築地外国人居留地跡⇒明石小学校⇒カトリック築地教会⇒アメリカ公使館跡⇒あかつき公園シーボルト像⇒明石町ポンプ所⇒水炊き治作⇒連上所跡(東京税関発祥の地)⇒隅田川・佃大橋⇒月島草庵⇒東京メトロ有楽町線月島駅

東京メトロ日比谷線・東銀座駅は、都営地下鉄の浅草線と、東京メトロの日比谷線が乗り入れていて、日比谷線の駅としては「歌舞伎座前」の副駅名があるそうです。この駅自体は1963年(昭和38年)に開業。地下の駅から地上に出るとデーンと歌舞伎座がありました。

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歌舞伎座(かぶきざ)は、歌舞伎専用の劇場。歌舞伎座の最初は1889年(明治22年)に開場。歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営をしており、4度建て直され、現在のものは5代目とのことです。

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江戸時代、幕府の奥絵師として画業を独占していた狩野家には鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町の4家があり、そのうち最も栄えていたのが木挽町狩野家で、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖と橋本雅邦らが出たとのことです。狩野画塾跡は残念ながらこの案内板のみでした。

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新橋演舞場は、1922年(大正11年) - 新橋芸妓協会が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、開場以来、春と秋に新橋芸妓による「東をどり」を公演している劇場とのことでした。4月下旬もしくは5月下旬に開催される春の「東をどり」は東京の春の風物詩として今日でも人気があるようです。

国立がん研究センター中央病院は、日本の国立研究開発法人。国立高度専門医療研究センター(ナショナルセンター)の一つで、日本におけるがん征圧の中核拠点として、がんその他の悪性新生物に対する診療、研究、技術開発、治験、調査、政策提言、人材育成、情報提供を行っているのです。具体的な業務には@がんその他の悪性新生物に係る医療に関し、調査、研究及び技術の開発。Aがんその他の悪性新生物に係る業務に密接に関連する医療を提供する。Bがんその他の悪性新生物に係る医療に関し、技術者の研修を行う。C研修に係る成果の普及及び政策の提言を行う。Dこれらに附帯する業務を行うなどがあります。

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築地場外市場`とは買い出し人(小売店・飲食店・食品加工業者などで、自分の店で扱う品物を仕入れるために卸売市場へ出向き、仲卸業者から購入する人)を相手に商売を行っている築地市場場外にある問屋街で中央区築地4丁目と6丁目にまたがる縦400m、横120mの範囲に約400軒がひしめいていました。
お店の並びの中ほどに「ぷらっと築地」があり場外市場のコンシェルジュの役割も担っているようでした。

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波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)は、築地六丁目にある神社。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)すなわち稲荷神を祭神とする稲荷神社の一つ。
江戸時代の明暦の大火後、当時はまだ江戸湾が入り込んでいた築地の埋め立て工事が行われたていたようですが、荒波の影響で工事は難航したようです。その最中のある晩、光を放ち海面を漂う御神体が見つかり、1659年(万治2年)、現在地に社殿を建て祀り、その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」と尊称して厄除けなどに信仰を集めることとなったとのことです。
境内には大きな獅子がありました。
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境内には築地市場に近いため、そこで売買された魚介類や玉子(卵焼き)などに感謝し、霊を慰めるための塚や石が多くありました。
築地には吉野家の1号店があったようで塚がありました。
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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院で江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。現在は築地三丁目にあり、東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院なのです。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となっています。1階への階段脇には動物の彫刻が色々ありました。
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堺橋跡。
縦に細長い築地川公園は真ん中辺りを聖ルカ通りが横断しています。その聖ルカ通り沿いに暁橋跡があります。この碑はやけにきれいですがこれも当時の親柱なのでしょうか。暁橋跡は聖ルカ通りの両側にあって説明板も違う項目が書かれているので両方読みましょう

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浅野内匠頭邸跡は、中央区明石町にある史跡。浅野内匠頭邸跡は、1645年(正保2年)に笠間から赤穂へ領地替となった浅野長直の江戸上屋敷があった地で、その子赤穂内匠頭長距が、1701年(元禄14年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に供されていました。赤穂浅野藩とその家臣大石内蔵助の仇討は有名です。

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聖路加国際大学は、1920年(大正9年)にキリスト教宣教医ルドルフ・B・トイスラー(Dr. Rudolf Bolling Teusler)が創立した聖路加国際病院附属高等看護婦学校を母体です。トイスラーがその看護教育において意図したことは、たんなる職業訓練を行うにとどまらず、社会性を備え、人間と社会を理解することができる看護婦を育成し、この中にキリスト教精神を具現することでした。看護の水準を高め、指導的人材の育成を目指して発足したのがこの学校なのです。

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トイスラー記念館は明治期に築地外国人居留地(1899年に居留地廃止)が設置された場所。町内にはカトリック築地教会聖堂やミッションスクールの発祥を記念した石碑が散在しています。また、今日では、明治33年(1900)に来日した米国聖公会の宣教医師ルドルフ・B・トイスラーが開院した病院(築地病院、聖路加病院〈1902年〉、聖路加国際病院〈1917年〉と改称)が大きく発展し、居留地時代の面影を彷彿させる存在となっています。

築地外国人居留地跡。
17世紀中頃、幕府は海外との交易をオランダ・中国・朝鮮・琉球の4国に制限し、外国人と日本人の自由な交流も禁止しました。その体制が崩れるのは、西欧列強国の要求に応じて開国することとなった幕末です。この開国にともない横浜や長崎、函館を開港場として外国貿易に門戸を開き、自由貿易が開始され、各地に外国人居留地が誕生したのです。1869年(明治2年)に設けられた築地鉄砲洲(つきじてっぽうず)(現在の中央区明石町一帯)の外国人居留地は、東京開市に合わせて設けられた外国人の居住区域で商館や商社も多く商業都市として繁栄した横浜と異なり、築地には公使館や領事館が置かれ、宣教師・医師・教師などの知識人たちが開いた教会や学校も数多く作られました。

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明石小学校は築地市場からほど近く、聖路加病院に近接している場所です。明治時代には外国人居留地として使用され、廃止後はミッションスクール等で使用されていた歴史ある土地柄なのです。

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カトリック築地教会。
関白秀吉によって発布されたキリスト教禁令は、徳川家康によりさらに強化され、三代将軍家光によって、鎖国令へと発展しました。日本の教会にとり、長く厳しい時代が訪れ300年の間、多くのキリシタンが信仰のために故国を追われたりしています。
そのような困難な時代を経ており、現在、このカトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会となっています。

アメリカ公使館跡。
明石町にある聖路加国際病院の敷地には、明治期にアメリカ公使館が存在していた場所であることを物語る遺物(石造物)があります。

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あかつき公園シーボルト像は胸像で、地下鉄東京メトロ日比谷線築地駅から東に5分強の公園にあります。また説明板ではこの地がシーボルトの娘いねが産院を開いた場所でもあるとのことでした。

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三菱財閥を創始した岩崎家の別邸を買い取り、銀座の奥座敷として90年以上築地で営業を続ける料亭が「つきじ 治作」となってなっていました。

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連上所跡(東京税関発祥の地)。
江戸幕府は、1867年(慶応3年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、ここに税関業務等を行う運上所を設置したのです。これが、東京税関の始まりとのことでした。

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佃大橋(つくだおおはし)は、隅田川にかかる橋で、佃大橋通りとも呼ばれる東京都道473号新富晴海線(旧東京都道304号線明石町晴海支線)を通す橋。隅田川右岸においては北が東京都中央区湊三丁目、南が中央区明石町。同左岸では中央区佃一丁目と中央区月島一丁目と分けています。

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月島 割烹懐石料理草庵。
お部屋も優しい雰囲気の和室があり、お料理も季節の新鮮な食材も取り入れている様子でとても美味しかったです。
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ゆったりお食事を済ませた後、午後のウォーキングへ皆さんは出発。今後は住吉神社・警察博物館・国立映画アーカイブと巡る予定とのことでした。
小沢先生、TD山際さんのチームは若くて勢いのあるウォーキングでしたから私は午前でリタイア。分相応ということで月島駅から直帰しました。それでも帰宅すれば13000歩超でしたからまずまずの歩程でした。
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お陰様で天気もまずまずでありがたく終了しました。また次回も頑張って参加しようと思っております。
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2023年06月24日

2023.6.18 さいたま新発見 ぶらり街あるき 加須市

暑くなり本日も34℃とか。でもまあ薄曇りの日和のもと、25名、喜多見先生・TD小松さん共々加須駅をスタート。本日はこのシリーズのウォーキングは39回目。実はこのシリーズはさいたま市10区+埼玉40市巡りなので全50回のシリーズなのです。まあ5年目に入っておりますのでこれでは6年目も“あり”かと近頃では覚悟しております。
さて加須市は鯉のぼりとうどんが有名と伺いAM10:00に順調に出発。
東武伊勢崎線加須駅⇒千方神社⇒高札場・問屋場跡⇒光明寺⇒会の川水の広場⇒会の川親水公園信号⇒諏訪神社⇒龍蔵寺⇒徒歩橋⇒食事処からん⇒加須駅

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東武伊勢崎線加須駅は1902年(明治35年)に 開業。
現在の加須市は平成22年3月23日に、旧加須市・旧騎西町・旧北川辺町・旧大利根町の1市3町が合併し、誕生。地勢的には関東平野のほぼ中央部を流れる利根川中流域にあり、利根川が運んだ土砂の堆積により形成されたという平坦地。市内には利根川に育まれた肥沃な土と豊かな水を利用した昔ながらの田園風景が広がるほか、2012年にラムサール条約湿地に登録された「渡良瀬遊水地」や全国水の郷百選に選ばれた「浮野の里」などがあるようです。その一方で、市街地には関東三大不動尊の一つに数えられる「不動ヶ岡不動尊總願寺」のほか、国の重要無形文化財に指定されている玉敷神社の神楽、加須のわら細工など過去の歴史を今に伝える数々の有形、無形の文化財が存在しているとのことでした。
これらの古き良き歴史、水と緑あふれる農村地域と都市機能が集積する市街地との調和が加須市の特性となっています。

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千方神社(ちかたじんじゃ)かつて千方社と称され,境内地面積は446坪あり1872年(明治5年)に村社となり、1913年(大正2年)に社名を千方社より千方神社へと改めたようです。また社殿の改築許可が1913年(大正2年)に下り、1918年(大正7年)には竣工による遷宮式がとり行われたのです。1874年(明治7年)に稲荷社・浅間神社・諏訪社・八坂神社(旧称:牛頭天王社)が合祀されています。
神社内に所在している石敢當(せきかんとう)は文化年間に市場の神様として加須の五・十市の世話人らにより信仰されていたと伝承されているとのことです。
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石敢當の信仰は関東地方においては極めて稀のようです。この石敢當は1954年(昭和29年)に中央2丁目の塩田鉄工所の裏に所在していたものが遷座されたものだそうです。石敢當の石碑の筆跡は亀田鵬斎により記されたものとのことです。
すぐ隣には芭蕉の句碑がありました。大正10年、芭蕉忌に建てられた句碑とのことです。
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「けふばかり 人茂としよれ 初時雨」

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高札場・問屋場跡と案内のみがありました。

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光明寺の開基は忍城主成田下総守室の弟、加津内蔵丞長高竹井定右衛門といい、1571年(元亀2年)の草創で、開山は南海上人。群馬県館林市善導寺末、 遍照山 臺嶽院 光明寺(へんしょうざん だいがくいん こうみょうじ)と号します。平成13年、本堂及び客殿の改修し、平成20年には太子堂の新築、乾門、浄土庭園を造成し、花が咲き誇り、緑豊かな境内となっております。
本尊の阿弥陀如来三尊像は、室町時代の作と推定され、本堂奥に鎮座しておられました。阿弥陀如来は、像高78.7p、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩で像高50cm。いずれも寄木造りの立像とのことでした。衣には截金(きりかね:極細い金箔)による装飾が施されておりとてもきれいでした。
いずれもご住職が説明してくださり、感謝でした。
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また境内の観音堂の中には乳房観世音菩薩(石仏)は西国二十八番丹後国与謝郡世野山成相寺の本尊を模倣し、摂津国東成郡高野山に安置されていました。元禄年間、当時第二世善慶上人が勧請し堂宇を備えたと伝えられており、それ以来、子授け・安産・子育ての観音として信仰を集めているのです。扉から見ることが出来ました。
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会の川水の広場。
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「こいのぼりのまち」をイメージした噴水モニュメントや、せせらぎ川、ベンチ等の休養施設がありました。

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諏訪神社は、龍蔵寺を創建した教蔵上人が怪物(白龍)を退治した後、1355年(文和4年)に龍の尾が止まった所に利根川(現会の川)堤防を祈願して諏訪社(辨財天とも云う)を勧請したと伝えられます。1714年(正徳4年)には大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて上社を勧請、諏訪下社に倣って摂社主夜神社を勧請、天明2年琴平・秋葉・榛名合殿社を祀ったといいます。明治5年村社に列格、明治40年字深沼の伊奈利社、字中島の白山社を合祀しています。

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龍蔵寺(りゅうぞうじ)は1355年(文和4年)教蔵上人により創建。利根川に棲み、周辺住民を悩ませた白竜を教蔵上人が退治した際、その頭があったところに銀杏を植えたことがその始まりとされています。創建当初は浄土宗藤田派。山号は無着山。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられていた。境内の大銀杏は樹齢670年とされ、樹齢約670年。幹回り4.3m、高さ約20mの雌木。イチョウは加須市の木となっているとのことです。
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境内に龍水井戸がありました。
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昼食は会席ぎゃらり「からん」でした。
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加須にみんなが気軽に集える団らんの場を作りたい。加須の団欒をということでの命名だそうです。アートを楽しみながら、美味しいお食事を楽しんでいただきたい。そんな思いから生まれたお店でとのことで、料理長が一品ごとに心を込めて作られたお料理でした。お部屋も素敵でとても気に入りました。
本日のビックリはこの場に昨年就任された角田守良加須市長がお越しになりました。どうやら本日の25名ものウォーキングを歓迎してくださった様子でした。ご挨拶を兼ねてパワーポイントで大いに加須市の宣伝をされました。加須あじさいまつり、桜はおわりましたがホテイアオイやハナショウブなどの見所、地元のうどんの食べ処がいっぱい、そして100mのジャンボ鯉のぼりは数年ぶりで今年は大空に上がったようでした。ということで市長さんからはジャンボ鯉のぼりの手ぬぐいと生五家宝をいただきました。また私も含め6名が本日40市めぐり第3ステージ完歩のコンプリート賞を授与いただきました。まずは思い出深い会となりました。
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ということで愉快な半日を過ごし帰宅しました。
午後の部は騎西城・紫陽花ロード・騎西総合公園・玉敷公園・玉敷神社・旧河野邸跡がコースでしたが私的には体力不足を感じてエスケープ。特に行ってみたかったのは国文学者で神道学者でもあった河野省三さんの邸宅跡。こちらはホント残念!またの機会に伺おうと思います。
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お陰様で本日、帰宅すれば14000歩。何より珍しい「生五家宝」はゆっくり美味しくいただきました。ではまた。
posted by yunofumi at 14:56| あちこちウォーク

2023年05月20日

2023.5.14 さいたま新発見 ぶらり街あるき 入間市

本日は入間市のウォーキング。さて電車で行くにはと調べると、東武東上線上福岡〜川越市−−徒歩乗り換え--西武新宿線本川越〜所沢にて西武新宿線から西武池袋線乗り換え〜西武池袋線入間市駅到着とのこと。結果的には1時間少々。電車はこれだから難しい!ということで本日は早目に家を出て到着してみると参加者は皆同様の思いだったようで集合が早かった!
本日は朝からまた雨!と思いきや、ウォーキング中は雨がほぼ止んでおり有難い一日となりました。

西武池袋線入間市駅改札口⇒旧石川組製糸西洋館⇒路線バス⇒レストラン茶処一煎・入間市博物館⇒武蔵工業団地・壱之蔵⇒狭山ケ原橋⇒茶畑⇒入間市茶業公園⇒はらやま子育地蔵尊⇒茶畑テラス茶の輪⇒金子第二保育所⇒狭山茶出川園⇒路線バス⇒西武池袋線入間市駅

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旧石川組製糸西洋館は入間地方のリーディングカンパニーといわれた石川組製糸。この西洋館は石川組製糸の創業者石川幾太郎により1921年(大正10年)に迎賓館として上棟された洋風木造の建造物でした。外国の賓客に劣ることなく日本を見せたいという気概がすごかったと思いました。故に誠に中は立派で驚きました。権力と財力が物を言ったのですね。天井の凝った造りは見事ですね。
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部屋の調度品もとても立派でした。
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一旦入間市駅に戻った後、お昼前に路線バスにて食事会場に到着。博物館隣のレストラン”茶処一煎”はお料理にほとんどお茶を入れ込んでおり、とっても美味で食べ応えがありました。
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入間市博物館はお茶の博物館。略称はALIT(アリット)。(Art・Archives/Llbrary/Information/Teaの頭文字の組み合わせ)
この博物館は、「狭山茶」の主産地入間市の博物館として、国内外のお茶について幅広く扱い、活動してきた入間市博物館が、これまでの研究成果や展示資料などを再構成した仮想の博物館です。 お茶についてのあれこれをわかりやすく、紹介しています。お茶の種類と入れ方、世界のお茶、日本のお茶の種類や各地の紹介などなど。また茶器も展示があり非常に面白かったです。
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これはお茶畑にある霜よけの扇風機、防霜ファンというそうです。とても大きかったです。

入間市博物館をでると茶摘み娘のマンホールがありました。各お茶屋さんにもポスターが貼られているようです。
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狭山ケ原橋は主都圏中央連絡道路を跨いでおりこれがないと大変遠回りになるところでした。

茶畑が広々と広がる中ほどに入間市茶業公園がありました。
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これは狭山茶の茶畑の真ん中あたりかもしれませんがちょっとした小高い丘になっている公園でした。狭山茶の栽培地は、気候的にはお茶の栽培としては北限だそうで霜の被害を防ぐために上の暖かい空気を下の送る防霜ファンが多く見られました。この金古台の茶畑は400haもあるようでした。

遠くには入間市のゆるキャラ”いるティ-”が描かれたガスタンクが見えました。
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はらやま子育地蔵尊は現在の位置より東側にあったものを、1970年(昭和45)頃の道路改良工事のため移されたとのこと。御堂は1975年のものだそうです。地蔵尊の背には、「宝永五年霜月吉日 廿六夜待供養(にじゅうろくやまくよう)」と刻まれているとわかったようです。宝永5年は1708年。当時の中神村(現 入間市大字中神)の念仏講信者により建立されたとされています。現在も子育て地蔵として信仰されているようです。

茶畑テラス茶の輪は元々お茶処の静岡県で始まった取り組みのようです。
茶畑を見渡せるところでウッドデッキを作りそこでのんびり風景やお茶を楽しめるようです。今日はお天気が悪くウッドデッキを直接見られませんでした。

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三輪神社には万治2年の社殿棟札に社殿造営の伝承があります。承平六年の秋に藤原秀郷が付近を通り、琵琶の音を聞き、そこには翁がいて「宇賀彦宇賀姫なり五穀守護して此の処に遊べり」と言いました。秀郷は尊い神様であるのを知り、社殿を建て、以来、この地域の氏神様として篤い信仰を受ける神社とのことです。

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狭山茶出川園は加治丘陵の南麓の根通りにお茶屋さんが多くあるうちの一軒。私たち皆に美味しいお茶を入れていただきその後、お土産も購入できました。
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本日の埼玉の逸品はこちらのお茶饅頭でした。
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その後、加治丘陵の189mの桜台展望台に上がり茶畑の風景を堪能。
こうしてウォーキングが無事に終わり中神バス停から駅に向かいました。ちょうどその頃からまた雨が激しくなり、グットタイミングでウォーキングを終了し15:45には解散。
いつも通り講師喜多見先生、TD小松さんに25名がお世話になりましたが元気に終了でよかったです。自宅に帰り着けばやはり2万歩をクリア。特に寒くも暑くもなく、上々でした。
ではまた皆様、来月は加須市のウォーキングでお会いしましょう。
posted by yunofumi at 17:02| あちこちウォーク

2023年05月06日

2023.4.30 さいたま新発見 ぶらり街あるき ふじみ野市

東武東上線上福岡駅⇒コンフォール霞ヶ丘団地⇒西中央公園⇒六道の辻の地蔵尊⇒ふじみ野市西小学校⇒川越市藤間歩道橋⇒鶴ヶ岡八幡神社⇒川越街道旧道⇒焼肉きんぐ⇒安楽亭⇒大戸屋⇒ステーキ宮⇒木曽路⇒亀久保交差点⇒亀久保神明神社⇒川越街道⇒新ふたば幼稚園⇒大穀しようざん⇒江川緑道⇒上福岡歴史民俗資料館⇒長宮氷川神社⇒権現山古墳群⇒新河岸川⇒養老橋⇒福岡河岸記念館⇒イオンタウンふじみの・cotokoto⇒八雲神社⇒福岡駅石碑⇒上福岡駅

ふじみ野市は都心から30km圏内にあり、東西約7.5km、南北約6.0kmで、総面積は14.67平方km。ということは埼玉県内市63のうち60番目の小ささのようです。北・西は川越市、東・南は富士見市、南は三芳町に隣接しています。武蔵野台地の北部のほぼ平坦な土地に位置し、地質は関東ローム層とのこと。 北部の市境には、江戸時代から昭和初期にかけて川越と江戸(東京)を結ぶ舟運の水路であった新河岸川が流れています。
市のほぼ中央を鉄道の東武東上線と、幹線道路の川越街道(国道254号)が平行して通っており、北東部を富士見川越バイパス(国道254号)、南西部を関越自動車道、また市の中心部を北東から南西に向けて主要地方道である埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線がそれぞれ通っているのです。気候は太平洋側気候で、夏は高温で降水量が多く、冬は強い北西の季節風が吹き晴天の日が多くかなり過ごしやすい市です。
もともと上福岡市であったのが2005年(平成17年)に上福岡市と大井町が合併してふじみ野市になったのです。
東武東上線上福岡駅はもともと福岡駅として1914年(大正3年)に池袋〜田面沢間の開業でできた駅で現在に至っているのです。

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上福岡駅西口にあるコンフォール霞ヶ丘はもともと公団の団地でとても初期にできたようです。今は1118戸あるとのこと。ちなみに東口には上野台団地があり、いまはコンフォール上野台1042戸があります。

西中央公園はコンフォール霞ヶ丘のすぐそばにある公園。避難場所でもあるようです。
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六道の辻の地蔵尊。
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上福岡駅西口から300mほど西、「西中央公園」の南にある霞ヶ丘団地前交差点の角に小堂が立っていた。小堂の中に三基、左脇にもう一基、合わせて四基。いずれも丸彫りのお地蔵様でした。
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「六道」とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つの世界を指し、「六道の辻」はあの世とこの世の境界だそうです。横に木柱の道しるべがあり、@福岡・引又道(ひきまたみち)(志木市にあった引又河岸に通じる道)、Aかめくぼ・江戸道(旧鎌倉街道)、Bつるおか道、Cふじま・まちや道(入間市扇町屋に通じる道)、D寺尾・新河岸道、Eふるいちば道(川越市にあった古市場河岸に通じる道)の6本の道を案内しているのです。これらの道は江戸時代の物資輸送の要であった河岸場と川越や所沢方面の村々を結び多くの人々や物資の往来があったのです。

ふじみ野市西小学校は昭和44年福岡町立第5小学校開校として開校。
平成17年上福岡市・大井町合併により校名変更、「ふじみ野市立西小学校」となりました。

鶴ヶ岡八幡神社。
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この辺りは川越街道、御嶽街道、鎌倉街道が通い、昔は交通の要地であったということです。ここはかつて鶴ケ岡八幡と呼ばれ、その創始は鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の使者が古尾谷八幡に行く途中当地を通りかかり、よい所であったので、その後、住み着いて、鎌倉の地名「鶴ケ岡」を当地に名付け、更に八幡社を祀ったということでした。社蔵の古い版木、「武藏國鶴ケ岡奉仕正遷宮八幡神社御璽」があるようです。

川越街道。
1600年(慶長5年)から3年かけて江戸幕府が五街道を整備し、川越街道はその時、中山道の脇往還として整備された街道のようです。手前が旧道。並木がある方が現在の川越街道。
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川越街道は日本橋を起点とし、川越城下まで約10里20町(約42km)。その間に上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つが宿場があったがこの街道の距離が1日行程だったので公用の公務くらいの仕事しかなかった宿場だったようです。現在の川越街道は亀久保交差点の前後で食のお店が多く並んでいます。
亀久保交差点は国道254号線と上福岡市内に向かう道の要所でよく渋滞が起きるので交通情報でよく案内されています。

亀久保神明神社。
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亀久保の地名は慶長年間、鉢形城の落人三上山城守が当地に居を構えて、村の北東にある出水流の窪地が亀に似ているとして、万代不易を願って名付けたという。当地では、氏子の三上本家と島田家がシバビラキ(草分け)といわれています。力石もありました。
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しょうざん大穀は埼玉県内に10店舗以上あるチェーン店。ふじみ野店は1891年開店の和食・懐石・うなぎで有名。お店の造りもハイクラスの印象で法事などでの利用という感じ。私はこちらのお店はまだ伺ったことがなかったのですがさすがにお料理は一流、本マグロ丼・茶碗蒸しなどをおいしくいただきました。
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江川緑道。
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「川越街道」から「新河岸川」まで続く「福岡江川」を暗渠化し、その上に整備された緑道で、端から端まですべて歩くと約3.6kmあります。緑道沿いには暗渠化される前に設置されていた橋の名残や、周囲の歴史に関する説明を記した看板などが設置されていますので、夏休みの自由研究の題材としてもおすすめです。
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ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館は、昭和58年に開館しました。こちらのメインテーマは「新河岸川 その社会と文化」。ふじみ野市の上福岡地区の考古・歴史・民俗を中心に、常設展示・特別展示・企画展などの展示会や、学習講座などを開催しています。
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長宮氷川神社の御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)とのこと。創立は995年(長徳元年)に出雲大社より遷したということです。当時の参道は四町十六間(約465m)あり参道両側には人家が密集した門前町があったようです。
ご神木の夫婦欅がありました。
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権現山古墳群。
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古墳時代初頭の築造当時の姿がそのまま見られるとのこと。権現山の名称は徳川家康が鷹狩でこの辺りまできて、こちらの塚で休憩したと伝わっているからのようです。古墳は〇号と表示があり、とても整備されていました。

新河岸川。
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新河岸川は埼玉から東京に流れている一級河川で荒川水系隅田川の支流ということで延長34.6km。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛したようです。客を乗せる早舟は、川越夜舟とも呼ばれ、川越城下を午後3時に発って一晩かかって翌朝8時に千住、昼前には花川戸へ着いたようです。物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)というのがあり、ちなみに並舟は川越ー江戸の往復を7〜8日で行った不定期船だったとのことです。

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養老橋の右岸はふじみ野市福岡三丁目、左岸は川越市古市場。この付近には養老橋の右岸に福岡河岸があり、左岸に古市場河岸があったとのとこです。今もある蔵は福岡河岸の船問屋だった吉野屋の土蔵。そして今近くには福岡河岸記念館があります。
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ここは、船問屋の福田屋の屋敷跡を保存したもので屋敷跡の周辺は石畳となっていました。建物もしっかり復元されとてもきれいに保存されていました。
庭には大杉神社の石灯篭が移築されていました。
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イオンタウンふじみ野(イオンタウンふじみの)は、2020年」11月にオープンしたイオンのショッピングセンター。コンセプトは「Well-being Community」、スローガンは「START WITH」。ということで町の方々へのアピールも色々考え2階に「coto koto」というコーナーができていました。
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今回ツーリズムがこちらに係るようになったということでおやつとお茶をいただきながら一休み。色々な講座の紹介もあったのでそのうち参加しようと思いました。

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八雲神社は上福岡駅前にあります。こちらは昭和5年に長宮氷川神社から建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を分霊して作られたということです。境内には150体の寄贈されたこけしが陳列されています。

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福岡駅石碑は鉄道と駅の開業記念を記した石碑。
1911年5月東上鉄道が池袋−田面沢間33.5kmで開業し、この時に上福岡駅も開業したようです。 上福岡駅と同時に開業したのは池袋・下板橋・成増・膝折(現朝霞)・志木・鶴瀬・上福岡・川越町(現川越市)・田面沢の9駅であったとのこと。上福岡駅の開業にあたっては東上鉄道開業に多大な寄与をした上福岡の回漕問屋当主の星野仙蔵から寄付金が出され、地元からの土地の寄附もあり、これらを記念して駅前に福岡驛碑と記念碑の二つの碑が建立されたのです。 記念碑は土地寄附者の氏名を刻んだものもありこれは今、上福岡中央公園に移設されています。

ゴールの駅に向かって行くと駅傍のスクランブル交差点から駅までにはカラフルなマンホールカバーがありました。
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本日は少し暑くて25℃もあり時々雨の曇りでしたからちょっと蒸し暑さもありました。
喜多見先生、TD小松さんとともに24名がウォーキングしました。本日の埼玉の逸品はオガワヤの「福岡太鼓」サブレ。お馴染みの味でおいしかったです。
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お陰様で本日も無事に16:00でウォーキングは終了。私はこのツアーはこれで37回目。初回が2019年5月ですからまずは順調。しかし5年目ですから初志貫徹で残りも頑張りたいです。皆様、今後もよろしく!!
posted by yunofumi at 13:47| あちこちウォーク

2023年05月04日

2023.4.26 さいたま新発見 ぶらり街あるき 羽生市

朝からかなりの雨降り!それでもめげずに10:00ウォーキング開始。

JR南羽生駅⇒空の公園⇒八幡神社⇒熊野神社⇒羽生市立図書館・郷土資料館⇒岩瀬落とし葛西用水路⇒中川起点⇒城沼公園⇒羽生市役所⇒羽生平和公園⇒鮨大黒⇒JR羽生駅

JR南羽生駅は東武鉄道伊勢崎線の駅。1903年(明治36年)に 須影(すかげ)駅として開業。その後1968年(昭和43年)に- 南羽生駅に改称されたとのことです。お隣が羽生駅ですからこちらの駅は今ちょっぴりひっそり感がありました。ということでまわりには商業施設も少なかったです。

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空の公園は駅そばにありました。表面的にはベンチが幾つかあるだけで一面が芝生。多分、地下には貯水槽などがあって災害避難場所という感じでした。

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八幡神社は可愛く鎮座しておられました。解説などの案内が全くなくて云われもわかりませんでした。

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熊野神社は下羽生にあり県道129号線沿いにありました。お隣にあるのは下羽生集会所。後ろは畑、横にはブランコなどの遊具。鳥居もなく、社殿のみの小社で、「社殿改築記念碑」がぽつんと見えました。

その後はえんえんと河岸用水路の縁を歩き、春の花々などを見ました。
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羽生市立図書館に併設した郷土資料館がありました。ここでは田山花袋作「田舎の教師」の舞台となった羽生市ゆかりの資料や、羽生市の歴史と文化に関する郷土資料・民族資料を収蔵しているとのことでした。

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岩瀬落としの葛西用水路は岩瀬落橋梁(上り線側から)の羽生駅の南700mに位置しているようです。岩瀬落はここから、1km下流の地点で葛西用水を伏越で横断。岩瀬落伏越(1900年建設)も煉瓦造りであったようです。
葛西用水自体は江戸時代のはじめに江戸幕府が天領開発一環として、関東郡代の伊能忠克に開発させた灌漑用水路なのです。

中川起点碑。
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中川は延長84km、流域面積987Km2一級河川。羽生市上羽生を管理起点とし、加須市、北埼玉郡大利根町、北葛飾郡栗橋町、鷲宮町と、おおむね南東へ向かって流れ、幸手市に入ってからは茨城県五霞町との境界を流れているとのことでした。

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城沼公園は公園・庭園でやはり「避難場所」となっているようです。

羽生市役所。
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羽生市は、東と南は加須市、西は行田市、北は利根川を隔てて群馬県に隣接しており、市域は東西10.25km、南北6.71km、面積58.64㎢とのことです。気候は、内陸型気候に属し、夏は蒸し暑く、冬は「からっ風」といわれる強い季節風が吹き、2015年(平成27年)の平均気温は16.0℃、降水量は1,335o(熊谷気象台観測)だったとのことです。人口は5万人超。イメージキャラクターはムジナもんといがまんちゃん

羽生平和公園。
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鮨大黒。
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海鮮丼はボリュームたっぷり。茶碗蒸しやアイスもついており、すっかり満足でした。
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JR羽生駅に着くとこちらはかなり大きな駅。
駅舎には羽生市がキャラクターの聖地と紹介がありました。
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これは2022年11月に第11回を迎えた世界最大のキャラクターイベントを開催し、33都道府県と世界3地域から147体が羽生に集結したことから経緯を示しているようです。

いやはや雨は止みません。ということでちょっと日頃の疲れがあるので無理をせず昼食をいただいた後にエスケープ。それでも帰宅してみると15000歩。
そうそう、本日の埼玉の逸品は 潟鴻Aールのムジナもんサブレ。かなり大きくて食べ甲斐があり、お腹いっぱいになりました。そもそも頭にあるモロヘイヤの葉と、ムジナモでできたシッポが、自分なりにかなりオシャレだと思っているらしく好きな言葉は「あい」で、藍染めをクールに着こなし、ロマンチックな愛のセリフでモテモテとかいうことでした。
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本日も喜多見先生、TD小松さんと共に13人が参加。気温19℃、雨降りは続きました。
レジメによりますと午後は、羽生城跡・天満宮、大天白公園、正光寺、八雲神社、羽生市民プラザ、毘沙門山古墳、建福寺と沢山巡るとのことでした。私は途中エスケープで残念でしたのでまた気候の良い日に一人散歩をしてみたいと思っています。
では皆様、次は私のエリア、「ふじみ野市」でお会いしましょう。
posted by yunofumi at 11:56| あちこちウォーク

2023年04月05日

2023.3.26 さいたま新発見 ぶらり街あるき 熊谷市

熊谷といえば「暑さ日本一のまち」として知られています。2018年7月23日は41,1℃とのこと。ということで3月は涼しいので本日のウォーキングということなのです。

JR高崎線熊谷駅⇒万平公園⇒星川⇒南本町商店街⇒竹井本陣跡⇒星川女神像⇒自然職料理処田ベい⇒円照寺⇒星渓園⇒石上寺⇒八坂神社⇒片倉シルク記念館⇒松厳寺⇒八木橋デパート⇒熊谷寺⇒伊奈利神社⇒熊谷パウロ教会⇒千形神社⇒坊ちゃん先生旧居跡⇒熊谷市役所⇒熊野社⇒熊谷市立障害福祉会館⇒箱田神社⇒中央公園⇒五家宝たねた⇒高城神社⇒ラグビータウン熊谷像⇒R高崎線熊谷駅

JR高崎線熊谷駅はJR東日本の上越新幹線と高崎線、秩父鉄道の秩父本線が乗り入れ、た駅。近年の乗車人員は2万人超に増えています。
1883年(明治16年)上野駅・ 熊谷駅間の日本鉄道第1期線(現在の高崎線)の駅として開業したとのことです。熊谷駅は高崎線内で浦和駅・上尾駅・鴻巣駅と並んで最も古い駅の一つ。駅舎は上越新幹線開通で大幅改良がされ、北口壁面には昭和11年の原画をもとの熊谷市鳥瞰図が掲示されていました。
駅前広場には熊谷次郎直実公の銅像がありました。
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熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を本拠地としていました。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗ったようです。

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熊谷堤と万平公園 「熊谷堤」は、16 世紀後半、現在の荒川土手より北の位置に築かれました。鉢形城主の北条氏邦が、荒川の洪水 に備えるために着工したことから、当時は「北条堤」とも呼ばれたようです。後に桜が植樹され、江戸時代には桜の名所 として有名になったのです。1883年(明治 16 年)、桜堤の再生を目指して、竹井澹如や林有章ら熊谷町の有力者が立ちあがり、町民と協力し吉野桜(ソメイヨシノ)や彼岸桜などの植樹を進め、保全団体の保勝会を結成し、明治の終わりには「一目千本」と名を馳せるほどの桜堤となったのです。戦後、熊谷堤の多くが 失われる中で、万平公園の北側ではその一部が残ったのです。

蚕霊塔。
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熊谷地域は養蚕が盛んな地域で、近隣に様々な絹産業遺産も所在してました。蚕霊塔は、生糸生産のために 使われた多くの繭に対する慰霊の祈念碑である。中央に繭の彫塑、「繭 かき」(左)と「桑つみ」(右)のレ リーフが飾られている。昭和36年 (1961)、埼玉県蚕糸業協会が建立したのです。

竹井澹如翁碑。
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熊谷宿の本陣の当主、 竹井澹如(1839-1912) は幕末から明治期の 熊谷の発展に尽力し た人物で、熊谷堤の先に幼名にちなんだ突堤の「万平出し」を築いたのです。竹井氏の功績をたたえた顕彰碑

星川。
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元和9年(1623)の荒川の氾濫によりできた「玉の池」(現・星渓園)からわき出る清流が源で水がことのほか清く、染物を洗ったり、子供たちが水遊びをしたようです。
1945年(昭和20年)8月14日に熊谷は米軍の空襲を受けて、星川でも多くの犠牲者がでたのです。熊谷市では、熊谷の玄関としてふさわしい顔づくり、文化の香り漂う市民のオアシスとして、市街地の中央を流れる星川の景観整備を進めてきています。1975年(昭和50年)から広場を設け、各広場に彫刻像を設置し、「水と緑と彫刻のプロムナード」として広く親しまれ、昭和62年(1987)、第1回さいたま景観賞を受賞しました。現在は「星川シンボルロード」として再整備され、名実ともに熊谷の「顔」になっています。

竹井本陣跡。
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本陣は江戸時代には街道の宿場にある旅館のような役目をしており、身分により皇族・大名・幕臣などが宿泊や休憩をしたのです。この本陣は全国的にも屈指の大きな規模だったようです。第14代将軍家茂に京都から嫁いだ皇女和宮や明治天皇なども宿泊や休憩をしたとのことです。

星川女神像。
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昭和20年8月14日夜半に熊谷は米軍の空襲を受けたとのこと。戦災30周年に犠牲者慰霊のため建立されたのがこの戦災者慰霊の星川女神像。長崎平和祈念像の作者北村西望が作者。台座には犠牲者266名の氏名が刻まれているとのことでした。

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自然職料理処田ベいは無農薬有機野菜、天然物の新鮮魚介類を使用とのこと国産丸大豆のみそやお醤油など気配りが万全。お味の穏やかで私などは大好きでした。


円照寺は今より1,000余年前、970年(天禄元年)、僧覚榮法師の創立で、熊谷市最古の天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、また不動明王は「熊谷成田山」や「くまがやお不動様」といわれています。
ご本尊は12支守本尊8体仏で12支に結縁しています。

星渓園(せいけいえん)。
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熊谷宿の本陣だった竹井家の別邸とした回遊式庭園。中心は玉の池。昭和20年より市のものとなり再整備されたとのことです。

石上寺(せきじょうじ)。
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熊谷の町を荒川の水害から守るため築かれた堤(北条堤)が構築され、それでもたびたび堤が決壊するので仏様のご加護を、ということで建てられたのがこの石上寺とのこと。
江戸時代からの桜の名所で早咲きの熊谷桜の発祥の地ともいわれているのです。ご本尊は千手観音。ご住職が私たちに気付き本堂を開けて立派な観音様を見せてくださいました。
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モース博士像。
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1879年(明治12年)8月13日、林有章など地元の有力者が発起人となり境内の学舎でモースの講演会を開催。モースはダーウィン説に基づく「進化論」を通訳付きで熱弁したとのことです。当時の日本人には衝撃的で、聴衆からは批判されたようです。埼玉県初の外国人科学者講演の地として記念した像なのです。

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八坂神社は文禄年間のはやり病を封じるために京都の八坂神社を勧請したのです。こちらのうちわ祭は疫病退散祈願の祭礼で山車や屋台、神輿も繰り出した祭礼なのです。

片倉シルク記念館。
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養蚕・製糸工場として栄えた熊谷を伝える記念館で片倉工業鰍フ最後の製糸工場。昔の木造繭倉庫、機械式製糸行程が見られました。昭和30年に昭和天皇が視察に見えたとのことでした。

松厳寺。
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臨済宗妙心寺派寺院の松巌寺は、雪渓山普門院といいます。松巌寺は、喜庵(明暦2年1656年寂)が開山・創建だとのことです。忍領三十四所2番です。

八木橋デパートの旧デパートのマーク
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八木橋本次郎(万延元年2月〜昭和13年12月7日)が、吹上町(現・鴻巣市)の代家に生まれ、八木橋惣五郎が営む持田村(現・行田市)の呉服太物店「山木屋」で12歳頃から丁稚奉公を始め、のちに腕利きの番頭ととなり、惣五郎の娘いちと結婚して八木橋姓を名乗り、山木屋からのれん分けして、熊谷町仲町の呉服店「麻屋」の店舗を買い取り、呉服・太物商「八木橋」を1897年(明治30年)6月に開店。夏冬2回の大割引や大売出しには、早朝から店を取り巻く客のために街頭に屋台が並ぶほど繁盛させたということです。
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店舗入口に中山道の石碑がありました。かつては旧中山道を挟んで北側と南側に分かれて店舗があったのが、1989年に改築する際に敷地の一部を公共の歩道として寄付することを条件に旧中山道を遮断する形で建設されたので、1階には旧中山道の位置に幅を広めに取った店内通路が設置されていおり、それぞれの端には出入口も設置されているため、営業時間内であれば、迂回せずに旧中山道を辿ることが可能なのです。
2007年に、夏季限定で店舗正面の入口前に高さ4mの温度計を設置、熊谷地方気象台発表の最新の気温を基に八木橋職員が温度を修正。当初は40.0℃までしか目盛りを用意しておらず、2007年8月に40.9℃の最高気温を記録した際には手書きで対応したのでした。この時、在京キー局を含むマスコミが取材に訪れ、「来年は50℃まで目盛りを用意したい」と回答するインタビュー映像が全国に放映された。翌2008年は、実際に50℃まで目盛りのある温度計が設置された。2009年以降は45℃までの対応とのこと。
市のまちづくり政策「あついぞ!熊谷」に合わせ設置されているもので「あついぞ!熊谷」のマスコット「あつべえ」が温度計に貼り付けられているのが、「あついぞ!熊谷」。これは近隣の「なおざね商店街」と八木橋の共同設置だそうです。
宮沢賢治の歌碑。
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熊谷寺(ゆうこくじ)。
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熊谷次郎直実は晩年出家し、法力房蓮生(れんせい)と称して熊谷館に念仏草庵建てたようですが蓮生没後草庵は荒れ果てたようです。しかしその380年後蓮生を慕う幡随意上人という方が寺を建て熊谷寺としたのです。実は幕末には不審火で全焼したのですが大正4年に本堂が再建されて現在に至っているとのことでした。

伊奈利神社。
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伊奈利神社(原島)の創建については不詳ながら原島村小名前原島の鎮守社だったということで、明治6年村社に列格したようです。

熊谷パウロ教会。
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明治15年頃から熊谷で伝導が始まり、大正8年には米人ウィリアム・ウイルソンの設計で総煉瓦つくりの聖堂が完成。関東大震災にも耐え、熊谷空襲でも被災を免れた貴重な近代建築物なのです。

千形神社(ちかたじんじゃ)。
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熊谷次郎直実の父、直貞が熊を退治したとき、血が流れ、その場所に社を建て「血形神社」としたとのこと。江戸時代には境内で草相撲が行われたようです。ということで相撲の奉額が残っているのです。

坊ちゃん先生旧居跡。(案内板のみ)
漱石の「坊っちゃん」の主人公のモデルは山口県出身の士族で同志社出身の数学教師弘中又一といわれています。弘中先生は明治33年〜大正8年までの約19年間旧制熊谷中学(現熊谷高校)の教壇に立ったということです。その間の12年間この旧居で過ごしたとのことが案内にありました。

熊谷市役所。
ラグビーのスクラムとクマガヤを掛け合わせた「スクマム!クマガヤ」は、ラグビータウン熊谷の新たなスローガンとしてラグビーワールドカップ日本大会が開催された2019年に誕生しました。出会った人とスクラムを組むことが大好きなシロクマの双子の兄弟。鼻が黒いほうがスク、白いほうがマム。肩を組んで前に進み、人と人とのつながりを大切にするという精神から、現在では、市内を中心に活用され、まちを盛り上げています。

熊野社。
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大塚熊野神社は、熊谷市大塚にある熊野神社のことです。大塚熊野神社の創建年代は不詳ながら、江戸時代末期には大塚村の鎮守社として祀られていたといい、明治5年には村社に列格、明治42年には村内に鎮座していた猿田彦神社・宇賀神社・豊蚕神社・塞神社の四社を合祀してようです。

箱田神社。
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『大里郡神社誌』は、当社の由緒を、武蔵七党横山党の成田氏が、天喜から寛治(1053−94)にかけてのころ、当地箱田郷を領有し、氏神である賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)・賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)を祀ったのが始まりで、1490年(延徳二年)成田親泰が神田を寄進し、1599年(慶長四年)には、十石の朱印地を受けた、と記してあります。昭和20年8月14日の晩、熊谷に空襲があり、各所に火の手が上がった時、当時の神職茂木六郎が、本殿の神体と末社皇大神宮の神体をかばいつつ、一心に祈念したところ、突然夕立が起こり神社は助かったという。それ以来、「雷電様のお陰」といわれて、厚く信仰されているのです。

中央公園は、市役所の東、市街地の中心部に位置しており、公園の総面積は、3.1ha(31,000u)記念広場、子供広場、カナール、壁泉、噴水などがあるとのことです。また、園内には9,000本ほどの樹木が植えられ、静かな木陰を提供し、四季折々に美しい花を咲かせています。ケンロクエンクマガイ、クマガイザクラ、クマガイツバキなどが植えられ、「熊谷次郎直実」の姫の名をいただいたシダレザクラも植えられています。
戦災を生き延びたケヤキ。
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駿河小町桜。
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五家宝(ごかぼう)の老舗のお店「○仁たねに」
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五家宝はもち米ときな粉と糖蜜の3つ厳選素材から出来ており、口にふくめば、もっちりとした食感のおいしさがあります。
埼玉では草加の草加煎餅、川越の芋菓子と共に三代銘菓といわれています。

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高城神社(たかぎじんじゃ)の創建は平安時代初期といわれ熊谷の総鎮守のようです。万物を作り出す高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀ることから縁結びの祈願が多いとのことでした。毎年6月30日は胎内くぐり、12月8日には酉の市が開かれるとのことでした。

ラグビータウン熊谷像。
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「北の熊谷・南の花園」と呼ばれるぐらい、埼玉県熊谷市はラグビーの盛んな街として知られています。
作者 「赤川政由」あかがわまさよし。作品名 「ラグビーボールと少年」
この像もテーマはズバリ「青雲の志」。ボールの上に立つ天を仰ぐ少年、その姿に若者像をたくしているとのことです。この作者の像は行田市中央商店街に39体の銅人形が見られるとこことです。

本日は雨降りで足元が悪く、気温10.5℃ながら風がほとんどなかったことが良かったです。喜多見先生、小松TDの先導で21名は無事にウォーキングを終了。スタート10:00、熊谷駅ゴール16:00、歩程は23000歩。弱虫の私も無事終了。感想としては雨降りながら桜が見事だったのでとても嬉しかった。これだからウォーキングはやめられないのです。次は4月に白岡市に伺います。皆さま、またお会いしましょう。
posted by yunofumi at 21:31| あちこちウォーク