2014年05月16日

2014.5.16 東海道五十七次 振り返り

東海道五十三次は2011年5月7日に開始、2013年10月12日終了。
このツアーは日帰り23回、1泊2日3回、2泊3日7回、合計33回でした。
起点は東京日本橋、終点は京都三条大橋、全126里6丁1間、約492km、82万歩。

今回の東海道五十七次は大津追分(滋賀県)から高麗橋(大阪市)まで。
全13里34町、約55km、92000歩。
このルートは通常、京街道または大坂街道といわれています。
豊臣秀吉が、文禄五年(1596)に大阪城と伏見城とを結ぶ道として、毛利、小早川、吉川氏に命じて 淀川左岸に築かせた文禄堤が起源。 参勤交代の制度が実施できるために、江戸幕府は 五街道の一つである東海道の延長として、道中奉行の管轄下にこの4宿場を設けたとのこと。
京街道を間違いなく進むためにトレードマークや案内板が路面や路傍に掲げてありました。
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街道の宿場には天皇や公家を宿泊させる本陣、飛脚等取り次ぎをしていたのが問屋場(といやば)、幕府などのお知らせや法度を掲示したのが高札場(こうさつば)、見附は宿場の出入り口で見張りがいた所だった。
一里塚は文字通り一里ごとに街道の両サイドに榎などを植えて道程が分かるように工夫されていた。徳川秀忠時代に普及したようです。
道標の多くは石柱で道の分岐点に立ち、道しるべだったのです。 

また神社仏閣は比較的立ち寄り実際に見聞できました。
そして何処にも大木に育った木が元気にそびえたっているのは圧巻でした。
今回特に枚方は町をあげて熱心に取り組んでいる感じがしました。

そうそうおまけで住吉大社に行きました。
すごいのひとこと。
鳥居手前から拝殿が見えます。
拝殿、本殿、鳥居とも住吉造といわれる古式の直線形、鳥居の柱には角がありました。
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表参道のすぐ前には反橋がありました。
全景を見たくてぐるりと回るとこの通り、見事な景色でした。
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今回手に入れることができて最も良かったのが東海道57次イラストマップ。
鍵屋で購入できました。
心残りは鍵谷のランチ。予約だそうです。
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もう一度訪れたいのは光善寺と伏見稲荷。
光善寺は蓮如上人像や太鼓楼をじっくり見たいものです。
また伏見稲荷は山頂まで行ってみたい。
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そして石清水八幡宮と朝日屋の鯖の棒寿司。
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最後に淀川の船旅ができれば最高!!
これは真剣に検討しようかな、、、、。

いやはや、私的にはかなりの贅沢をしましたが、気力・体力・時間を駆使してそれなりに楽しめました。
もうすぐ年齢が次の大台になる私ですがウォーキングは今後も続けたいと思っております。
皆さん、一緒に楽しみましょう。
posted by yunofumi at 23:58| 東海道五十三次ウォーク

2014年05月12日

2014.5.9 東海道五十七次D守口〜高麗橋

ホテルアゴーラ大坂守口⇒文禄堤⇒守居橋⇒義天寺⇒日吉町⇒守口車庫前⇒旭通り商店街⇒守居神社⇒掘り出し地蔵尊⇒太子橋今市駅⇒旭今市太子橋郵便局⇒今市商店街⇒千林(せんばやし)商店街⇒森小路商店街⇒東洋学園高等専修学校⇒森公路東公園⇒古市橋・高殿7丁目⇒清現寺⇒森小路町2丁目⇒関目高殿駅・成育5丁目⇒関目ガード下⇒関目3丁目⇒関目1南⇒玉泉院⇒蒲生4丁目駅⇒城東蒲生郵便局⇒京阪野江駅⇒榎並会館⇒野江水神社⇒野江4交差点⇒中三商店会⇒榎並地蔵⇒新京橋百円商店街⇒京橋一番街⇒京橋西交差点⇒京阪京橋駅⇒大阪シティホテル京橋⇒京橋川魚市場跡⇒京橋⇒日本経済新聞社⇒追手門学院小学校⇒大阪城⇒大阪市立博物館⇒豊國神社⇒⇒蓮如上人袈裟かけの松⇒玉造口定番屋敷跡⇒松TIMビル金剛(昼食)⇒大阪城三の丸北端の石垣⇒上町筋⇒大阪歯科大学附属病院⇒天満橋⇒八軒家船着場跡・永田屋昆布本店・天満橋京町・熊野街道起点⇒エルおおさか(大阪府立労働センター)⇒北浜東郵便局・前島密之像⇒土佐堀通・松屋町筋⇒天神橋・八軒家浜・川の駅はちけんや⇒天神橋⇒高麗橋→住吉神社

いよいよ最終日。
守口宿ではホテルの前から文禄堤の本町橋が見える。
今は下の方には普通の駅前の道ですから橋は陸橋状態。
その駅前から狭い石段を上がると文禄堤。
上りきった所に石柱があり、来迎坂(らいごうざか)。
道標には「右 なら のざき みち」とあり、奈良街道(守口街道)の起点なのです。
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文禄堤は文禄時代に秀吉が淀屋や毛利三家に命じて修築させた淀川の堤防とのこと。現在守口の街中に約700mが現存。
文禄堤の終点は守居神社。
醍醐天皇が918年に此の地に鎮座し、素盞嗚尊・賀茂別雷神をお祀りしたようで要は淀川流域の守護神としてお祀りしたのがはじまりのようです。
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野江水神社
御祭神は水波女大神。水の都大阪の守り神。
この辺りに人が住み始めたのは725年ころ。菜種を栽培し、菜種油を第46代孝謙天皇に献上し「油江村」の名をいただく。その後「野江村」となったとのこと。
またここは榎並猿楽発祥の地でもあるようです。
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京橋川魚市場跡
海魚ではなく、川魚を扱う京橋川魚市場の起源は、石山本願寺期に設けられた鮒市場らしい。
もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持寄って販売する市のようなものだった。
その後、幕府から大阪で川魚を独占的に扱うことを公認され市場となったようである。
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京橋
豊臣時代に架けられた京橋は大坂夏の陣で焼失。
元和9年(1623)徳川幕府によって再び架けられた。
ここを京街道の出発点とし、また大坂城の北の玄関口にもあたる位置でもあった。
京橋の名の由来になった京街道は、豊臣秀吉による淀川左岸の文禄堤構築によって成立した大坂と京都を結ぶ幹線で、江戸時代にも幕府公用の主要道路として重視された。
すなわち当時は東海道五十七次の終点。
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大阪城
元々は本願寺8世蓮如上人が開いた大坂(石山)本願寺の跡地。
秀吉が築いた大坂城は外観5層の豪華さで難攻不落の要塞でもあった。
しかし大坂冬の陣(1614年)で惣構、塀、三の丸を失い、また翌年の夏の陣で秀頼・淀殿ともども焼失。
徳川時代にも築城されたようですがこれも焼失。
石垣は日本経済新聞社敷地に見られました。
現在の城は昭和の初めに再建され、平成に入って大改修されたものでとても綺麗。
昔と比べ大阪城と呼ぶようです。
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天満橋は江戸時代の公儀橋のひとつ。
大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋といわれている。
橋の上からは八軒家浜船着場、川の駅はちけんやが見えました。
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高麗橋
橋名は、朝鮮国使来朝のために架橋されたといわれている。
もともと大坂に12あった公儀橋のひとつで、西詰に高札場が設置されていた。
江戸時代から明治の初期にかけて京街道(大坂街道)、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道などの起点が順次高麗橋に変更され、明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点となった。
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こうして15:00過ぎには3日間の行程を終了。
その後住吉神社に立ち寄っていただきましたがそれはまた振り返りで触れることにいたします。

本日は日中気温24℃、風もなく午前は暑かったですが、午後少し曇りとなり、大助かり。
関東では「ひょう」が降ったとその後のニュースで知りました。
18:00前に新幹線に乗車し、帰路に着きました。
帰宅してみると歩程約13km、30000歩弱。
とても達成感を得られた三日間でした。
記録帳を見ると開始日は2011年5月5日。
我ながら良く頑張りました。
そして感謝、感謝!
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posted by yunofumi at 22:58| 東海道五十三次ウォーク

2014年05月11日

2014.5.8 東海道五十七次C御殿山〜枚方宿〜守口宿

今日は2日目。かなりの強行軍を覚悟して出発。

京阪守口市駅(電車)→京阪御殿山駅・ウォータモニュメントNAGISA・渚交番⇒御殿山歩道橋⇒教育文化センター⇒磯島・枚方なぎさ高校⇒日野橋・天之川町(あまのがわちょう)⇒鵲橋(かささぎかし)・東見附⇒小町平右衛門家(屋号八幡屋)・新町1丁目⇒浄行寺⇒関西医科大学⇒石柱(安居川枚方橋跡)・宗左の辻(そうざのつじ)⇒岡本町公園・東見附⇒菊人情みそ北村本家・呼人堂あかつき⇒岡本町会館⇒妙見宮常夜灯石灯籠⇒万年山・御茶谷御殿坊・万年山古墳・開院宮戴行親王演習御親見所⇒意賀美神社・意賀美梅林⇒田中鋳物工場跡・椋(むく)の木⇒専光寺⇒枚方凍氷⇒三矢公園⇒枚方宿本陣跡・北河内郡役所正面口⇒浄念寺⇒楠喜衛門家(屋号田葉粉屋)⇒鍵谷資料館⇒西見附⇒誓願寺・桜町⇒伊加賀本町・みなもかいろう⇒水と歴史のふれあい広場⇒枚方大橋南詰⇒淀川河川公園・伊加賀西町⇒枚方市立伊加賀スポーツ⇒伊加賀小学校⇒光善寺⇒蓮如上人御田地⇒さ(足編に差)蛇神社御旅所⇒柿の木⇒⇒出口6丁目⇒淀川堤⇒木屋揚水機場・取水導路⇒淀川河川公園太間地区・大阪府太間排水機場⇒茨田堤遺跡・水辺公園⇒木屋第2水防用具庫⇒鳥飼仁和寺(にわじ)大橋⇒新橋東⇒うどん・そばの今日亭(昼食)⇒佐太陣屋跡⇒佐太天神宮・蕪村碑・石井筒⇒淀川河川公園庭窪レストセンター⇒正迎寺⇒八雲北町3丁目・第2児童公園⇒やくも幼稚園⇒守口東高校・八雲西町⇒一里塚跡・浜町⇒盛泉寺(じょうせんじ)⇒難宗寺・いちょう⇒大塩平八郎ゆかりの書院跡⇒守口宿本陣跡⇒文禄堤⇒京阪守口市駅・ホテルアゴーラ大坂守口

京阪御殿山駅のあたりは古くから淀川と繋がりがあり、「渚」という地名でした。その先が天之川、鵲橋(かささぎかし)と続き、いよいよ枚方宿の入口である東見附です。

宗佐の辻の碑。
宗左は、江戸時代製油業を営んでいた角野宗左(かどのそうざ)のこと。この宗左が住んでいた辻がここ。
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現在の新町1丁目から1.5km先の西見附(現在の堤町西端)までが枚方宿。
この枚方宿は人口約1500人本陣1軒。旅籠69軒だったということで五十七次の宿場としては横に長ーいのです。
枚方宿は遊郭もあり、「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と詠われ、客が帰るとき、遊女が宗佐の辻まで見送ったということです。
現在、町おこしの「枚方宿くらわんか五六市」は手作りでエコロジー、フェアトレードなど身体に優しい食事を提案する市場で毎月第2日曜に開催。

昔からのどら焼きの「あかつき」は呼人堂の名物。
明治40年創業。「あかつき」はあっさりした甘さでとっても美味しかったです。
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少し先に行くと「枚方凍氷」がありました。
何しろ48時間結晶の純氷を使ったかき氷を夏に提供するようです。
地元では有名で夏場は人の山が出来るとのことでした。

鍵屋資料館。
軒先の所にお洒落な「鍵屋マーク」があり、現在も使われています。
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鍵屋は江戸時代、三十石船の船待ち宿として賑わったとのこと。
現在は市立の資料館で紀州候の参勤交代を中心に、枚方宿の歴史や淀川舟運についての展示がありました。
2階大広間では予約すれば豪華な食事が出来るとのこと。
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伊加賀西町辺りでは足元に石を積み床が持ち上がった蔵や住宅が多く見られました。
段蔵(だんぐら)というようです。
淀川がよく氾濫したので家具などを非難するのに考えられたようです。
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光善寺
1475年吉崎御坊を退却した蓮如上人が若狭・丹波を経て河内出口郷に入り、石見光善の請いによって光善寺を開創。その後、蓮如上人の長男・順如上人が初代住職となりました。出口御坊と呼ばれて寺内町を形成し、大いに栄えたようです。蓮如上人が摂津・河内などの布教の拠点としたお寺でもあります。
山門に続いて大きな太鼓楼がありました。山門の間からは蓮如上人像が見えました。
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これより淀川河川公園の土手をひたすら歩くとまもなく茨田堤(まんだのつつみ)遺跡があり、いよいよ寝屋川市に入っていた。
『日本書紀』の仁徳天皇11年、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれたとのこと。
難工事のため人柱として、「武蔵人強頸(こわくび)」と「河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)」が供されましたが、茨田連衫子は逃げたようですが堤は完成したのです。
詳しくいきさつを書いた碑もありました。
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佐太天神宮。
901年菅原道真が太宰府へ左遷させられる時にここに一時とどまった所。
その菅原道真を偲んで天暦年間(947~956年)創建。
1648年には豪商永井信濃守尚政が社殿を再建、淀屋辰五郎が手水鉢、石井筒、石垣を寄進したとのこと。
地元では「守口佐太のえべっさん」といわれているようです。
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守口宿本陣跡
うっかり見落としそうな看板のみで少し気の毒になってしまったこの場所。
そばの一里塚の所も碑があっただけでした。
守口宿は人口約800人本陣1軒、は旅籠27軒でこの五十七次の最後の宿場。

本日はこれより文禄堤を歩きながら守口駅でゴール。
晴天、気温23℃、風ややや強く、歩程約16km、約34000歩を8時間弱で歩き通しました。ヤレヤレ!
明日は守口宿場の中を歩き、大阪の高麗橋がゴール。
よく寝て、元気を回復できるようにいたします。
posted by yunofumi at 22:38| 東海道五十三次ウォーク

2014年05月10日

2014.5.7 東海道五十七次B石清水八幡宮〜御殿山

京阪八幡市駅・走井餅・エジソン通り・安唐橋⇒男山ケーブル⇒石清水八幡宮・エジソン記念碑・清峯殿・本殿・昇殿・御神木の楠・信長塀⇒展望台・谷崎潤一郎文学碑・松花堂跡⇒朝日屋・棒寿司(昼食)⇒京阪八幡市駅前交番⇒大谷川・かの橋⇒やまびこ児童公園⇒八幡科手(やわたしなで)・科手浄水場⇒橋本尻江⇒大クスノキ⇒八幡橋本郵便局⇒橋本交番⇒・柳谷わたしの道標・中之町⇒久修園院⇒楠葉台場砲台跡⇒市立枚方宿鍵谷資料館⇒久親恩寺⇒光明院⇒町楠葉1丁目⇒KUSUHA MALL⇒京阪楠葉駅⇒樋之上⇒楠葉橋・船橋川⇒防垣内橋(ぼうがいとばし)⇒牧野幼稚園・牧野阪3丁目⇒片埜神社(かたのじんじゃ)・本殿⇒さがいまいけ公園・黄金野1丁目⇒枚方三栗(めぐり)郵便局⇒清傳寺・三栗1丁目⇒渚の湯⇒渚西交差点⇒近畿情報高等専修学校・御殿山神社そば・渚院跡そば⇒京阪御殿山駅前(バス)→京阪守口市駅・ホテルアゴーラ大坂守口


26名の仲間共々、新幹線ひかり東京7:33発。10:11京都着。
バスで前回終点だった京阪八幡市駅に11:00ころ到着しすぐケーブルで石清水八幡宮へ。
世間的には「やわたのはちまんさん」。
このお宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比淘蜷_様、東に神功皇后様。
これらの神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)というようです。
またこの宮は八幡市・男山にあり、木津川・宇治川・桂川の三川が合流して淀川となる地点を挟んで天王山と向かい合っている。
歴史では南北朝時代の羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦があります。
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エジソン記念碑。
エジソンは、八幡の竹を白熱電球のフィラメントに使って長時間点灯に成功しました。それで石清水八幡宮境内にエジソン記念碑があります。碑前祭では世界の発明王の遺徳を偲び、日米両国の国歌奉奏・国旗掲揚があるようです。
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男山展望台には谷崎潤一郎文学碑や松花堂跡がありました。
松花堂(しょうかどう)は、江戸時代初期の僧侶の松花堂昭乗がその晩年を過ごすために構えた草庵の名称。男山の東麓宿坊があり、その中にこの草庵があった様子。
昭乗が農家の器をヒントに、中を十字に区切った器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していたことが始まりで今、松花堂弁当は巷で見られます。

昼食はケーブルを下ってきて京阪八幡市駅前にある朝日屋の鯖の棒寿司をいただく。
脂がのっており美味しい!おまけにきつねうどんもあり、このお揚げさんは“関西”の味。
皆の満足げな様子を見て、浅井先生も満足そうな様子でした。
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楠葉砲台場跡。
幕末の鳥羽伏見の戦いの最終決戦の場所。
外国船から都を守る名目で設置した大砲は対岸の討幕軍に対して放たれたとのことです。
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枚方市に入り、「くずは」が「楠葉」「樟葉」と両方見受けられました。
今は「楠葉」が正式名とのこと。「樟葉」は樟葉神社から頂いたようで、京阪電車で見られました。

片埜神社(かたのじんじゃ)。
片埜はこの辺りの地域の昔の名前。
須佐之男大神の菅原道真公が主祭神。平安期より一之宮と言われており格式が高い。秀吉が大阪築城の際、鬼門鎮護社と定めた。
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片埜神社は大坂城の鬼門除けの神社ということで、現在でも方除・厄除の神として信仰されている。そこで、鬼は片埜神社の象徴・守り神ということで、絵馬や御朱印には鬼面が描かれている。また節分の豆まきでは「鬼は内」と唱えるようです。
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日中は微風、23℃で素晴らしい晴天の中をウォーキングしました。
午後は正味約3時間、歩程約10km、約20000歩を無事に終了。
さて明日はたっぷりウォーキングなのでストレッチ後はしっかり早寝をします。
posted by yunofumi at 23:04| 東海道五十三次ウォーク

2014年04月06日

2014.4.3 東海道五十七次 A伏見宿〜淀宿

アーバンホテル京都⇒稲荷橋⇒伏見稲荷大社⇒大手筋交番⇒御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)⇒月桂冠大倉記念館⇒南浜⇒竜馬通り⇒寺田屋⇒黄桜カッパカントリー⇒月の蔵人⇒伏見土佐藩邸跡⇒山本本家神聖・白菊水⇒四ッ辻の四ッ当り⇒会津藩駐屯地跡(伏見御堂)・伏見幼稚園⇒弁天橋・十石橋・蓬莱橋⇒辨財天長建寺⇒宇治川派流・竜馬とお龍愛の旅路像⇒鳥せい本店(昼食)⇒伏見口の戦い激戦地跡⇒京橋⇒伏見みなと公園・三栖⇒伏見長州藩邸跡⇒国土交通省伏見出張所⇒宇治川⇒伏見水環境保全センター⇒京阪電車千両松踏切⇒下野第二公園⇒戊辰役東軍戦死者埋骨地の慰霊碑・馬主協会々長中村勝五郎撰文の記念碑・京都競馬場・伏見納所(ふしみのうそ)⇒淀小橋旧址⇒唐人雁木旧址⇒京阪電車淀駅⇒與杼神社⇒稲葉神社・淀城公園・唐人雁木跡・大坂淀屋の高灯籠⇒淀交番⇒伏見区役所淀出張所⇒京都淀池上郵便局⇒文相寺⇒天満宮⇒淀新町整骨院・淀美豆町(よどみづちょう)⇒NTT京都支店淀別館⇒圓通寺⇒松ヶ崎記念病院⇒御幸橋・淀川・木津川⇒八幡市駅前交番・エジソン通り⇒走井餅⇒京阪電車八幡市駅

ホテル8:00バスで出発。
まずは伏見稲荷大社へ。
鳥居をくぐるといきなり楼門。1589年秀吉が造営とのこと。
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本殿も含めすべてが朱色で圧倒される。
そして何より、千本鳥居がすごかった。
これは崇拝者が祈りと感謝の念で奉納したとのこと。
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次は御香宮神社。
表門は伏見城の大手門を移築したとのこと。
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境内には「御香水」として名水百選にも選定されている湧き水があった。
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そして伏見の月桂冠大倉記念館へ。
昔の酒作りなどを紹介。
元々の屋号は「笠置屋」、初代大蔵治右衛門が始めた。酒銘柄ははじめ「玉の泉」、今は「月桂冠」
灘の「白鶴」と共に最大のメーカー。
戦後、業界ではじめて「四季醸造蔵」を建設した。
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9:50 これよりウォーキング開始。

寺田屋。
このあたりは高瀬川と淀川が結ばれ三十石船の船着場としてにぎわった。
寺田屋は船宿のひとつで薩摩藩の指定の宿だった。寺田屋騒動で龍馬は傷を負いながらも船で此処を脱出したのです。
建物や中にある展示等、何処まで当時のままかは区別がつきませんでした。
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伏見土佐藩邸跡、会津藩駐屯地跡、伏見長州藩邸跡などあまりに近いので驚きました。

宇治川派流に架かる京橋から「竜馬とお龍愛の旅路像」を見ました。
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伏見の納所(のうそ)あたりで戊辰役東軍戦死者埋骨地の慰霊碑がありました。
これは馬主協会々長中村勝五郎撰文の記念碑で中々の名文。
拓本をよくとられるとのこと。直ぐ傍には京都競馬場がありました。

このあたりから淀宿でしたが本陣や脇本陣もなく人口は3000人弱の小さな宿場だったようです。

淀城は当時伏見城があるということで徳川秀忠により廃城(1619年)となったがその後、桂川・宇治川・木津川の三川の合流するこの淀の地に築城(1625年)されたとのこと。
また淀君ゆかりの淀城は此処ではなく少し離れた納所にあったと推定されているとのことでした。

伏見みなと公園、国土交通省伏見出張所あたりから宇治川土手をひたすら、約2時間歩く。
途中、国道1号線は迂回して越し、御幸橋が宇治川と木津川の合流している所の堤防約1.4kmにソメイヨシノ250本が満開!
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そして本日のゴール京阪電車八幡市駅の上あたりには次回行く石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)もくっきり!
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八幡市駅前にはエジソン通りと表示があった。
??
エジソンが電球を発明した際、この電球のフィラメントの材料が実は京都八幡の竹が使われていたという縁で駅前の商店街はエジソン通りと称しているとのこと。そして京都府八幡市にはエジソン協会もあるのですって。
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ということで本日のウォーキングは見物も含め7時間、約27000歩、約12kmの歩程。
雨は思ったほど強くなく、大いに助かりました。
疲れはかなり足に来ましたが、満開の桜を十分楽しみ、まずは無事に終了。
新幹線乗車前に仲間と鯖寿司を食し、大満足。
そして乗車後は爆睡。
この調子で来月、2泊3日で終える予定の五十七次も乗り切るようにがんばります。
posted by yunofumi at 01:50| 東海道五十三次ウォーク

2014年04月05日

2014.4.2  東海道五十七次 @大津追分〜伏見宿

大津追分⇒洛和会音羽病院⇒音羽地下道⇒山科川⇒笠原寺(りゅうげんじ)・大塚地下道⇒宝迎寺⇒山科銀座商店街⇒大宅打明町⇒岩屋神社前⇒京阪バス山科営業所⇒岩屋神社御旅所⇒大宅(おおやけ)一里塚⇒大宅中学校⇒天谿寺⇒山科警察署⇒愛宕常夜燈⇒隋心院⇒山科川⇒西川農園⇒勧修寺(かじゅうじ)⇒仏光院⇒宮道神社(みやじじんじゃ)⇒八幡宮⇒勧修寺下の茶屋町⇒勧修寺観光農園⇒深草ゴルフ⇒大岩神社自動車道入口⇒深草こどもの家⇒深草毘沙門天⇒天理教山園大教会⇒西福寺⇒京都教育大学⇒藤森神社⇒藤森小学校⇒京阪電車墨染駅⇒墨染橋⇒墨染寺(すみぞめてら)⇒伏見墨染郵便局⇒欣浄寺(ごんじょうじ)⇒木橦町廓入⇒京都本因坊会館⇒両替町⇒住吉保育園⇒勝念寺⇒本成寺⇒石屋町⇒伏見板橋小学校⇒下板橋⇒薩摩島津伏見屋敷跡⇒京都御駕篭郵便局⇒松林院墓所⇒寺田屋⇒大黒寺⇒喜運寺⇒金札宮・鷹匠町⇒伏見区総合庁舎⇒伏見大手筋商店街・SOLAR MOON⇒竜馬通り⇒西岸寺(さいがんじ)⇒油掛商店会⇒駿河屋本店・電気鉄道事業発祥の地⇒アーバンホテル京都

新幹線ひかり東京8:03発。11:00すぎ京都着。
バスで五条大橋の牛若丸・弁慶像や清瀬川の桜を見ながら一路井筒屋八ッ橋本舗追分店に向かう。此処は大津横木1丁目。
そして髭茶屋町(旧追分町)を通り、大津追分の地点に到着。
右京都、左宇治の石柱が以前あったのに!なんと!交通事故で少し前に砕けたそうです。
ということでこの写真は昨年10月12日には見られた石柱。
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そしてこちらは本日見られた現地の様子。
街道歩きは時間経過で様子が変わるということなのです。
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大宅(おおやけ)一里塚。
京都市内で唯一現存の一里塚遺蹟。直径4〜5m、高さ1.8m、塚の上には榎。
一里塚は慶長9年(1604年)家康の命で造られた。街道の両サイドにこんもり築いた小山の上に木を植えた。その時代以後は榎がよく植えられたようです。
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隋心院。小野小町邸跡。
梅園でも有名。今は桜が満開。
小町作の歌碑、文張地蔵、化粧井戸、文塚など有名。
梅は唐棣(はねず)という。はねず踊りが観梅の頃、催される。
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藤森神社。
神功績皇后摂政3年(203年)に創建。
石の鳥居は桜とマッチして見事!
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本殿は切妻造檜茸でした。
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「しょうぶ」の神様。競馬関係者がお参りをするようです。5月5日の駈馬神事の開催、菖蒲の節句の発祥地とも知られている。
境内は馬が駆け抜けるように造られていました。
またふたつとない美味しい水「不二の水」で武運長久、学問向上ということで勝運をいただける水とのこと。
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墨染寺。門をはいると日蓮大聖人が桜と共にお出迎え。
辻説法の様子です。
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中央にある桜が「墨染桜」
他の桜と色合いが異なり、少しグレーがかっていました。
講師の先生も開花したのを初めて見られたそうです。
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欣浄寺には座った姿の「伏見大仏」、境内には少将塚、小町塚がありました。

勝念寺の地蔵堂には織田信長公より賜った仏様。身代わり釜敷地蔵尊。門前に天明義民柴屋伊兵衛墓所の碑。

薩摩島津伏見屋敷跡の石柱には天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地、坂本龍馬寺田屋脱出後避難之地と刻まれていました。

大黒寺(正式名円通寺)は鷹匠町にあり、通称は薩摩寺。西郷隆盛、大久保利通の会談の部屋、ゆかりの書や歌、肖像なども保存。文久2年(1862年)、伏見の寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党有馬新七等九士など9烈士の墓。墓石の横にある碑文は、西郷隆盛の筆。
また木曽川治水工事の責任をとり、詰め腹を切った薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)の墓も見られました。

本日到着の伏見宿は本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠39件、問屋場2件、総野軒数約6000件、人口約2万人超と聞きました。そして京都へ通じる高瀬川、大坂に通じる淀川の中継点といて、また伏見のお酒の積み出しとしても栄えたようなのに今は様子が一変。お酒だけは健在。
こうして本日は29000歩、約13kmの歩程を無事終了。
晴天に恵まれ、盛り沢山のウォーキングでした。
明日はこの続きを見られそうです。がんばります。
posted by yunofumi at 23:29| 東海道五十三次ウォーク

2013年10月27日

2013.10.27 東海道五十三次 振り返り

2011年5月7日に開始したこの東海道五十三次街道歩きは先日の2013年10月12日に無事終了しました。
今日は台風一過、のんびりの1日ですので振り返りをしました。

東海道の全長は江戸日本橋から京都三条大橋まで126里6丁1間(約492km)、82万歩と言われています。
今回、私は20名の仲間共々、この街道を日帰り23回、1泊2日3回、2泊3日7回で歩き通したということです。
このツアーは8月を除き、年間を通して歩きます。必要に迫られ、靴、ウエア、ウィンドーブレーカー、パンツ、靴下、ベスト、リュック、ポール、ネッククーラーなど次々に揃えていきました。この中で最も重要なのは靴でした。ウォーキングシューズ、トレッキングシューズを揃え、悪天候に対応できるようにもしました。
天候は参加日50日のうち、少雨を含め雨降りの日は11日(うち小雪1日)、約20%でしたから、逆の表現では晴れ確率80%とかなり高かったのです。
私って晴れ女!!最も幸運を実感したのです。

そして公式では1日の歩程は約10km設定でスケジュールが出来ていましたが、宿場の位置により長短がありました。自分的には15kmあたりがかなり限界だったこと、酷暑に弱いこと、峠越えが苦手なことなど、様々な欠点が分かりました。
そして何よりの収穫は長年、車大好き人間で、長距離を歩いたことがなかったのにこのように歩けるようになったことです。
エピソードとしては初回の時、歩程約5kmだったのに帰宅後寝込んでしまい、何もできなかったことが印象に残っています。回を重ねるごとに、帰宅後すぐ夕食の支度が出来るようになり、家族にも驚かれたのです。結論!人は鍛えねばいけない!
また、初めの頃は足や腰が翌日痛むこともありましたが、これも回を重ねるごとに平気になったのです。足は事前にテーピングなどを施し、豆なども出来なかったこともよかった。
ということで帰宅の翌日は必ず仕事に出勤できました。

最も嬉しかったことは薩埵峠での富士山と舞坂の松並木が見られたこと。
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怖かったのは箱根峠の石畳み。特に雪模様でしたからヌルッときたのです。
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もう一度行きたいのは有松鳴海絞会館とその街並み。
何しろどしゃぶりでした。おまけに絞りの作品をじっくり見られなくて、心が残っているのです。
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そして京都三条大橋にゴールした翌日におまけで行った高瀬川沿いの散策。
春はきっと素晴らしいでしょうから。
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そしてもうひとつ意外な出費がかさんだのはこのウォーキングではデジカメで写真を撮りまくったためデジカメを2台ダメにしたこと。
どうやら使い方が半端じゃなかったようで、電気屋さんに相談しても修理より新品購入が安いといわれるばかりで、、、、。
ということで現在はふたたびFUJIなのです。

今後の街道歩きの展望ですが、中山道は状況的には少し無理と思っています。
できれば甲州街道、日光街道、奥州街道、鎌倉海道、そして富士山のすそ野をぐるり一周するコースなどなど参加しようかな、、、、。
さてどこまでできるでしょうか。
ということで反省はこれでオシマイ。
明日からは今後を見つめてまたがんばりまーす。
posted by yunofumi at 21:03| 東海道五十三次ウォーク

2013年10月16日

2013.10.13 東海道五十三次 おまけ「高瀬川散策」

京都駅⇒京都タワー⇒渉成園⇒ひと・まち交流館⇒河原院跡・エノキ⇒五条大橋⇒松原橋(旧五条大橋)⇒松原通⇒建仁寺⇒幽霊子育飴⇒六波羅密寺⇒真橋通⇒志る幸(昼食)・古高俊太郎邸跡⇒千枚漬・村上重本店⇒喫茶フランソア⇒橋⇒十軒町橋⇒紙屋橋⇒備前島橋⇒日本映画発祥の地・角倉了以翁顕彰碑・立誠小学校⇒先斗町歌舞練水明会⇒酢屋・坂本龍馬住居跡⇒豊臣秀次公の墓・瑞泉寺⇒三条小橋⇒池田屋騒動の址⇒佐久間象山先生・大
村益次郎遭難の碑⇒恵比寿橋⇒姉小路橋⇒ちりめん洋服発祥の地⇒武市瑞山先生住居の跡⇒シダレヤナギ⇒上車屋橋⇒水の堰止めの石⇒御池橋⇒一の舟入・高瀬舟⇒角倉邸址・日本銀行京都支店⇒島津製作所旧本社ビル⇒桂小五郎像・京都ホテルオークラ⇒本能寺⇒寺町商店街⇒
矢田地蔵尊⇒弁慶石⇒家邉徳時計店⇒イノダコーヒー本店⇒京都文化博物館(旧日本銀行京都支店⇒地下鉄烏丸御池駅⇒京都駅空中通路

本日は折角のチャンスなので浅井先生考案の散策コースに挑戦しました。

渉成園(しょうせいえん)(枳穀邸きこくてい)。
もともとは東本願寺の別邸で3代将軍家光からの寄進だったとのこと。
ほんの数年前から一般にも公開されているとのこと。
入るとすぐ高石垣がぐっとせまる。長い切石、石臼、瓦などが面白かった。
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お庭でははるか向こうに回棹廊を望む風景が素晴らしかった。
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源融河原院跡。
源融は嵯峨天皇の皇子。源氏物語の光源氏のモデルと言われる人。
この左大臣・源融公が、摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸第「河原院」が、このあたりから東西・鴨川の中央まで、また西は柳馬場通、南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅であったようです。この榎の大樹はこの邸内にあった森の名残といわれているようです。すぐそばに、小さな社と鳥居があり榎大明神が祭られているのでこの榎は御神木として崇められ、平成12年に、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれたとのことでした。
源氏物語をよく知る人は必ず訪れるポイントでしょう。
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六波羅密寺。
六波羅は平家が決めた武家の拠点でした。その後は源氏、北条氏などがいました。
結局は足利尊氏が洛中を中心としたのでここは信仰の町となった。
六波羅密寺は951年に空也上人が創建。
踊念仏でお参りするようです。
国宝の十一面観音立像をはじめ多くの木像がありました。
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志る幸(しるこう)
昔々、お客には質素に汁を出して接待したのが始まりのようです。
皆で利久辧當をいただく。汁は豆腐入りで白味噌が使われていました。
どうやらここは「一見さんお断り」。
さすがに美味しかった!
ここはまた古高俊太郎邸跡のようで、新撰組絡みで興味のある方は必見の場所のようでした。
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森鴎外の小説「高瀬川」の風景より川のイメージは少し小ぶりでした。
でも清らかな流れを見、そして桜が花を付けた時を想像しながら歩けたのも非常によかった。
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また先斗町・宮川町・祇園と舞子さんが行き交うであろう路地や旧日銀京都支店ビル、島津製作所旧本社などもゆっくりと見られました。
ずっと高瀬川を中心にあちこち見ながらのウォーキングでした。

ようやく「一の舟入・高瀬舟」の所に到達。
この町内で高瀬川の昔の様子を再現するために高瀬舟を再現しているようです。
川幅が半分近く狭くなっていること、水深も浅いようですが琵琶湖疏水から入っている水は今も清らかでした。
今日はこれを見られて大満足でした。
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この散策コースは結局、歩程12km、約25000歩でした。
また京都に来た時は再度挑戦したいと思いました。

こうして京都を17:30頃出発。
新幹線の車中では早めの夕食でお弁当を食した後は熟睡。
無事に22:00少し前に帰宅。
アー、オワッタ!!何んだか清々しい気持ちになり、寝るのがもったいない心境。
結局、何をするにも気力・体力・そして○○。
これからも日々、楽しみまーす。
posted by yunofumi at 01:09| 東海道五十三次ウォーク

2013年10月15日

2013.10.12 東海道五十三次 終点 京都三条大橋

園城寺(三井寺)⇒微妙寺⇒・十一面観音像⇒大津算盤の碑⇒琵琶湖疏水取水口⇒琵疏水北国橋⇒三井寺町⇒大津長等郵便局⇒徳圓寺⇒旧北国町⇒長等神社⇒大津絵⇒石造小関越道標・小関町(おぜきちょう)⇒長等(ながら)1丁目⇒宗清寺⇒青龍寺⇒大津赤十字病院⇒長寿寺⇒元祖阪本屋鮒壽司⇒札の辻⇒滋賀労働局⇒大津宿本陣跡⇒関蝉丸神社下社・音曲藝術道祖神・時雨燈籠⇒京阪電車蝉丸神社踏切⇒逢坂1丁目⇒関蝉丸神社上社⇒逢坂山関址⇒上片原町・逢坂常夜燈⇒逢坂山水車谷不動尊道⇒庭園料亭逢坂山かねよ⇒大津絵販売地⇒関蝉丸神社大明神・車石⇒大津市大谷町歩道⇒大津算盤始祖片岡庄兵衛の碑⇒走井の井戸・月心寺⇒追分町⇒佛立寺⇒追分道標(東海道・伏見街道)⇒閑栖寺(かんせいじ)⇒横木1丁目⇒上横木町地蔵尊⇒旧藤尾小学校跡地⇒大津絵発祥の地・井筒八ツ橋本舗(八ツ橋・入り井餅)⇒三井寺観音道・藤尾神社⇒善福寺⇒京都市・山科四宮郵便局⇒三条四の宮⇒山科地蔵徳林庵・通井戸⇒十禅寺⇒旧三条通⇒明治天皇御遺跡・竹鼻竹ノ街道町⇒安祥寺川⇒当麻寺⇒五条 水道標⇒天徳町⇒御陵交番⇒天智天皇山科稜⇒日時計・御陵久保町⇒明街道石碑⇒大乗寺⇒酔芙蓉の寺⇒光照寺⇒日ノ向地区⇒金蔵寺・九条山⇒将軍塚・蹴上浄水場・水質管理センター⇒地下鉄蹴上駅⇒ミヤコホテル⇒蹴上発電所⇒佛光寺本廟⇒栗田神社⇒白川小学校⇒三条神宮道⇒京都滋賀県人会館⇒坂本龍馬・お龍結婚式場跡⇒白川橋⇒高山彦九郎先生皇居望拝の像⇒三条大橋・夏目漱石句碑・弥次さん北さん像⇒京都市庁舎

園城寺(おんじょうじ)。別名は三井寺。
7世紀に創建。金堂は国宝、釈迦堂、鐘楼など重要文化財が目白押し。
ここは近江八景のひとつの「三井の晩鐘」があった。
またこの鐘は平等院や神護寺の鐘と共に「日本三名鐘」といわれているとのこと。
仲間の一人が鐘をつくと、余韻たっぷりにあたりに響き渡りました。
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鐘堂には弁慶の引摺り鐘もありました。
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琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都市内まで流すために作った水路。
長さは約9km。大学卒業したての田邊朔郎義士の指導で工事着工は明治18年。水路は大きくは2本出来、最終的に工事が終わったのは明治45年。山を削る隧道などはとても難工事でお金もかかった様子。政治力も大いに働いたようで伊藤博文、山本覚馬なども尽力したようです。
現在琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を京都は得ているので、京都市から『疏水感謝金』として年間2億2千万円が滋賀県へ支払われているとのことでした。
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大津絵は江戸時代からの素朴な絵画。
藤娘や鬼が独特の色彩で描かれていた。
大津絵の店で独特の黄色や赤色を使った現物も見ることが出来ました。
大津には歴史博物館もあるとのこと。一度訪れたいと思いました。

関蝉丸神社。上社、下社、またこの分社の3社を併せて蝉丸神社と総称していました。
平安時代中頃の盲人の琵琶法師・歌人の蝉丸を祀ったようです。
それ以後歌舞音曲の神として信仰されているとのこと。
下社には蝉丸が歌った「これやこの 往くもかへるも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」歌碑がありました。この句は確か、百人一首に入っていました。
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三条大橋。
東海道の終点。
天正18年(1590年)には豊臣秀吉の命で石柱となったようです。
東海道と繋がる橋ですから幕府直轄の公儀の重要な橋。
現在の橋は昭和25年(1950年)に2車線で歩道もついたのです。
橋の中ほどで万歳!!我ながらヨクヤッターと自分で自分をほめていました。

三条大橋を背に記念撮影。
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完歩証。大いなる記念です。
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本日は朝9:00前より園城寺から16:00すぎに三条大橋に到着までがんばりました。
さすがに京都は都です。見る所がいっぱいでこのHPにも書ききれないくらい。
ということで歩程14km、約29000歩。昨日よりは爽やかな晴天で気持ち良くウォーキング出来ました。
夜はもちろん完歩のお祝い会。完歩証授与や一言コメントもあり、皆、感激。
講師の浅井先生には豊富な知識で毎度ウォーキングを盛り上げ、皆を引っ張っていただきました。感謝!
添乗員の伊藤さんは男性ですが気使いが細やかで、とても優秀な先生の相棒でした。
私がへばった時にはさりげない励ましが有難かった。感謝!
ちなみに書籍では東海道五十三次は126里6丁1間(約492km)、82万歩の旅とありました。
とにかく足に豆もできず、怪我や病気もなく、無事終了ですから有難い。感謝感謝!
2011年5月より2年6カ月33回に分けての旅でした。
今後はこの体力を維持するように、またウォーキングに精進します。
posted by yunofumi at 20:51| 東海道五十三次ウォーク

2013.10.11 東海道五十三次 第53宿 大津

洗心寮⇒石山寺〜瀬田の唐橋・滋賀県青年会館⇒近江牛松喜屋⇒大津栄町郵便局⇒粟津町⇒京阪電車松原踏切⇒晴嵐(せいらん)商店街⇒粟津中学校⇒滋賀県衛生科学センター⇒膳所城勢多口総門跡⇒御殿浜(ごてんはま)⇒京阪電車富町踏切⇒若宮八幡神社⇒膳所商店街⇒京阪電車瓦ヶ浜駅⇒京阪電車瓦ヶ浜踏切⇒中津町⇒膳所山三味院光源寺⇒篠津神社⇒本丸町(ほんまるまち)⇒滋賀銀行膳所支店⇒大養寺⇒膳所神社⇒大津市生涯学習センター⇒膳所城跡公園⇒大津膳所本町郵便局⇒膳所城主御菩提所⇒木下町⇒和田神社⇒響忍寺⇒石坐(いわい)神社⇒膳所城北総門跡⇒義仲寺(ぎちゅうじ)⇒京阪電車石場踏切⇒教弘会館⇒大津公証役場⇒松幡町⇒柴山商店⇒京町1丁目⇒大津市役所⇒大津市道路元標・札の辻⇒京町1丁目南・九品寺→京つけもの西利→京都国際ホテル

いよいよ東海道五十三次ウォーキングもこの回で最終となった。
本日は東京駅8:33発にて一路、米原へ。
その後約1時間で洗心寮にて軽く昼食。まずは石山寺へ。

石山寺は天平19年(747年)に良弁僧正が創建。
敷地はとても広大。入口は東大門でどっしり風格がある。
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本堂は平安中期に淀君が補修をさせたということで2層に見えました。
本堂内の源氏の間は紫式部が源氏物語の構想を練ったといわれる所。
硅灰石がむき出しになっている向こうに多宝塔が見え、これがまた素晴らしかった。
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月見亭と芭蕉庵から見る琵琶湖は一段と美しい。
近江八景のひとつ石山秋月で知られているとのことでした。
昼間はこの琵琶湖の風景で十分でした。
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その後瀬田の唐橋までバスで移動後、13:30すぎよりウォーキング開始。
琵琶湖の周囲をぐるりとめぐり膳所城跡公園に到着。
膳所城は湖上の舟運をコントロールするために湖に突き出た感じになっていたようです。今はない天守閣が湖面に写りさぞ美しかったことでしょう。
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義仲寺はそれほどの広さはなかった。
源氏の頼朝や義経に敗れ、討ち死にした朝日将軍の木曽義仲の墓所と位牌の入っている朝日堂がありました。また義仲の側室巴御前が草庵をつくり義仲公の供養をしたとのこと。巴御前没後は無名庵として芭蕉が来訪しては俳諧の道場となったようである。また、芭蕉の遺言で義仲の墓所の隣には芭蕉翁の墓がありました。
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敷地内の芭蕉に花が咲き、また車輪梅には黒紫球状の実がついていた。これは大島紬の染料となるようです。いずれも初めて見ました。
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こうして本日も無事に歩き通せました。
歩程9km、約17000歩。よい天気が何より有難いコンデションになるのですがしかし、10月で30℃越えは少しきつく汗びっしょりになりました。
明日はいよいよゴール!頑張ります。
posted by yunofumi at 00:20| 東海道五十三次ウォーク

2013年09月25日

2013.9.22 東海道五十三次 第52宿 草津

草津本陣(田中九蔵家跡)⇒脇本陣(藤屋与左衛門家跡)吉川芳樹園店舗兼主屋⇒三度飛脚取次処(荒物屋九右衛門家跡)⇒常善寺・木造阿弥陀如来・両脇土像⇒草津の政所・太田酒造・道灌蔵⇒問屋場・貫目改所⇒立木神社・石造道標⇒黒門⇒新草津川⇒矢倉橋⇒光伝寺⇒矢倉立場⇒瓢泉堂⇒草津矢倉郵便局⇒矢倉小学校⇒矢倉南⇒上北池公園⇒野路⇒野路一里塚⇒教善寺⇒平清宗塚(遠藤権兵衛家)⇒都久夫須麻神社⇒常徳寺⇒新宮神社門⇒野路萩の玉川⇒弁天池⇒狼川町会館⇒日本硬質硝子株⇒月輪(つきのわ)⇒月輪大池⇒月輪寺・行者堂・新田開発発祥之地⇒立場跡・月輪池⇒一里山橋・長沢川⇒一里山一里塚址⇒大江⇒浄光寺⇒桧山⇒和田1号橋⇒瀬田南小学校前⇒高橋川⇒檜山神社⇒正法寺⇒山村石材店⇒建部大社・千円札・石燈燈籠⇒神領⇒唐橋東詰⇒常夜燈・雲住寺⇒瀬田唐橋⇒松喜屋(昼食)⇒琵琶湖⇒うばがもちや

草津宿に入ると路面はオレンジ色でとても歩きやすい。また田中九蔵家の案内が路面に陶板を埋め込み、案内してありました。
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太田酒造・道灌蔵江戸時代徳川家に仕え、江戸城を構築させた武将「太田道灌」がご先祖。
三代目の太田若狭守正長が越前福井藩より草津に移り、代々関守を勤め、その後ここで酒造りを始めたとのこと。
ここは道灌蔵で近江地酒「道灌」を、神戸の灘では千代田蔵で「灘の生一本」などがあると伺いました。
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立木神社。
創建は767年と古い。厄除け開運や交通安全で崇拝されている様子。
ご神木が柿の木とは珍しかった。
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境内には古い道標がありました。江戸時代の延宝8年(1680年)11月に建てられたとのこと。以前は旧草津宿追分の東海道と中山道の分岐点にあったのが、現在この境内地に移されたようです。
道標には、右東海道いせみち、左中山道たがみちとありました。
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山村石材店前。
大津市神領1丁目、瀬田唐橋東詰めより400mの位置にある石材店。
その前で石像の猫が愛らしく、左旧東海道、右瀬田大橋を案内していました。
ちょうど道なりで、うっかりすると東海道を外れてしまいますので有りがたい案内でした。
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建部神社はすごく大きかった。
創建は日本武尊の死後の景行天皇46年ということで古―い。
本殿が古式ゆかしい感じで神々しかった。
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昭和20年に当時の最高額の千円札の図柄に日本武尊とこの本殿が使われたのに発行枚数はとても少なく、今は「幻の千円札」と言われているそうです。
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石燈籠は重要文化財。鎌倉時代の文永7年(1270年)の造営とのこと。
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瀬田唐橋(せたのからはし)
日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の橋100選にも選ばれているとのこと。
最初は吊り橋、次は丸木舟を並べ藤や蔦で覆った橋などと古事記にもあるようです。
昭和54年にはコンクリート橋になったようですが下を流れる瀬田川は川幅も広くいつの時代も工事はさぞや大変だったでしょう。
夕焼けの中で見るととてもきれいだろうと思いました。
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その後、「うばがもちや」(姥が餅)にも立ち寄りました。
昔も今も旅のつれづれはおやつ。そんな中でもお餅は腹もちがよいので好まれたはず。
戦国の世の中で幼児を預けられた乳母が含ませたであろう乳房をイメージして作られているようです。情報が発達していない世の中でも口コミで広がった名物なのでしょう。
私もお土産にゲットしました。

さてここで今回のウォーキングは終了。
約20000歩。歩程約9km。実質午前の約4時間!
ということで13:30出発。
おまけということで、琵琶湖を眺めながら一路、近江八幡へ。

近江八幡資料館⇒近江商人の町並み⇒八幡堀散策⇒白雲橋⇒日牟禮八幡宮

日牟禮八幡宮。
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時間がないながら16:00すぎまでブラブラ。
さすがに名高い近江の豪商が育てた街です。
見所がまだまだありそう。
ロープウエィ、ミュージアム、ヴォーリス記念館等々。
また近くには彦根城、琵琶湖、足を延ばせば比叡山。
もう一度訪れたいと思いました。
その後バスにて米原へ。そして新幹線に乗り22:00前に帰宅。
今回で32回目の五十三次ウォーキングでした。
いよいよ次回10月は第53宿の大津、そして終点の三条大橋です。
最後までがんばりまーす。
posted by yunofumi at 23:12| 東海道五十三次ウォーク

2013.9.21 東海道五十三次 第51宿 石部

JR三雲駅⇒三雲踏切⇒三吉景観水路⇒湖南市吉永・常夜燈⇒大沙川・弘法杉・三雲城址⇒八丈岩⇒夏見の里(藤棚)⇒観音寺⇒盛福寺⇒夏見一里塚跡⇒田良谷川(天井川)⇒北島酒造・御代榮⇒うつくし松⇒家棟川橋⇒浄休寺⇒光林寺⇒常穂神社⇒石部東⇒吉姫神社⇒西福寺⇒石部小学校⇒石部宿高札場跡⇒石部宿問屋場跡⇒石部中央⇒石部宿驛(お休み処)⇒小島本陣跡⇒浄現寺⇒明清寺⇒真明寺⇒田楽茶屋⇒吉御子神社⇒鉤の手道⇒石部一里塚跡⇒西見附跡⇒西縄手⇒共栄工業工場⇒第1回琵琶湖検定合格記念碑⇒長徳寺⇒新善光寺(昼食)・木造地蔵菩薩立像⇒六地蔵⇒浄玖寺⇒福正寺⇒旧和中散本舗(大角家)・庭園⇒六地蔵一里塚跡⇒六地蔵会議所⇒念寺⇒⇒西厳寺⇒肩かえの松⇒手原1丁目⇒明治天皇御小休所⇒稲荷神社⇒JR手原駅⇒栗東中学校⇒東経136°子午線⇒すずめ茶屋跡地⇒九代将軍足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地⇒上鈎東⇒葉山川⇒川辺⇒善性寺⇒目川一里塚⇒専光寺⇒治田郵便局⇒田楽発祥の地・目川立場・田楽茶屋元伊勢谷屋跡、古志ま屋跡、京伊勢屋跡⇒銘酒菊の水⇒岡⇒老牛馬養生所跡⇒草津宿本陣⇒脇本陣跡⇒本陣田中九蔵家跡⇒草津宿街道交流館⇒書状集箱⇒草津隧道(天井川)⇒追分道標、右東海道いせみち、左中仙道みのみち⇒ホテル

昨日からJR草津駅そばのビジネスホテル「アーバンホテル草津」に宿泊。
本日は7:45ホテル出発。
JRで昨日の終着点だった三雲駅に8:30頃到着してすぐウォーキング開始。
今日は「とにかく歩け、歩け!」と激が飛びました。
石部は「京立ち 石部泊まり」と言われ、江戸に下る最初の宿泊した宿場。
全盛期は商家216軒、旅篭32軒の大きな宿場。街道沿いに連子格子のある家々がよく見られまた道は鉤型に曲がっていました。

まもなくトンネルがありその上に「大沙川」という「天井川」が流れていること、左手に大きく見えるのが「弘法杉」とのこと。
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上に登って見ると川が確かに流れており、まさしく「天井川」。
そして見上げるばかりの大きな杉の木。
樹令750年、樹高26m、周囲6mの大木でした。
言い伝えでは弘法大師(空海)が食後に杉の箸を立てて置いたのが成長したとか。
今は「弘法杉」と呼ばれ左利きを直すおまじないにのに利用されていたようです。
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10:00頃そろそろと思っていたら北島酒造に到着。まずはお酒を作る水をいただく。皆さんはそれから「御代榮」や「北島塩ゆず」を試飲。
一気に疲れが吹っ飛び、皆さん元気回復。
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新善光寺。
信州の善光寺如来のお告げで慶長5年(1253年)にこの地にできたお寺さん。
お寺さんでお作りいただいた昼食はできたてで、美味しかった。ほっとした1時間でした。
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栗林市の六地蔵に和中散本舗、大角家の立派な建物がありました。
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中には石臼に入れた薬の材料の植物などを細かくする機械がありました。
これは川の流れで歯車を回し、石臼の中のものを粉にする原理と同じ。
もっとも、人間が中に入って歯車を回したようです。
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和中散は江戸時代の家庭用漢方薬で枇杷葉(びわよう)・桂枝(けいし)・辰砂(しんしゃ)・木香・甘草(かんぞう)などを調合した粉薬との事。暑気あたり・めまい・風邪などに服用したようです。
今は正確な処方はないとのことでした。
慶長16年家康公が病のとき服用し、回復したことから世間によく知られたようです。
大角家は本陣でもあったので天皇や大名も宿泊したようで建物、調度品、それにお庭も見事。
しかし重要文化財ともなると、個人で維持するのはとても大変そうでした。

草津宿本陣(田中七左衛門家)が家屋敷とも立派に保存されていました。
そしてこの直ぐ傍に草津街道交流館がありました。
ここでは宿場全体のことや昔の旅体験等、面白い企画を見ることができました。
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中でも私達に草津市長名で「草津祝出立・通過証」が発行されたのが驚き!
ここまでの宿場歩きで初めてだったのです。有難く頂戴しました。
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何しろ朝から夕方までのウォーキング。約38000歩。歩程約18km。実質7時間越え!
炎天下、歩道のない狭い道、また直線で長い道は疲れる!
おまけにコンビニはもとより自販機も珍しいくらいに“なーい”。
ホント!一列縦隊でモクモク!は疲れをウンと感じさせるのでした。
歴史的な建物など多い所でした。それにしても日本橋を出発以来、平坦なのに一番長い、苦しいウォーキングの一日でした。
やはり顧みれば、皆さんと一緒だからこそできたこと、と感謝。
入浴、夕食、ストレッチをこなし、20:30にはバタンキュー。
明日は最終日!がんばりまーす。
posted by yunofumi at 20:33| 東海道五十三次ウォーク

2013年09月24日

2013.9.20 東海道五十三次 第50宿 水口

新岩上橋北ローソン⇒宝善寺⇒岩上不動尊・岩神社⇒永福寺⇒八幡神社⇒山川橋⇒田町⇒水口宿東見附跡⇒仏匠堂ぬし又本店⇒坂町⇒水口宿本陣跡・明治天皇聖蹟⇒桔梗屋文七⇒三筋の町・高札場跡⇒葛籠町⇒一味屋・甲賀流忍者もなか⇒問屋場跡⇒大岡寺(だいこうじ)・芭蕉句碑・巌谷一六顕彰碑・鴨長明発心所⇒柳町⇒水口本町郵便局⇒平町⇒本正寺⇒大徳寺・家康公の腰掛石・五倫塔⇒甲賀市ひと・まち街道交流館/水口地域市民センター⇒湖東信用金庫⇒水口城天王口跡⇒北町⇒心光寺⇒天神町⇒巌谷一六先生旧居跡⇒東邸町⇒藤榮神社⇒水口城跡(別名碧水城)⇒滋賀県立水口高校⇒水口城資料館⇒小坂町⇒水口石⇒北邸町⇒百間長屋跡⇒真徳寺・表門・巌谷一六・小波家先祖墓碑⇒五十鈴神社⇒林口一里塚⇒妙沾寺⇒柏木神社⇒北脇縄手と松並木⇒柏木小学校⇒柏木公民館⇒延命地蔵尊⇒泉川・舞込橋⇒日吉神社御旅所⇒泉一里塚⇒横田渡・野洲川(横田川)・横田常夜燈⇒泉西・湖南市⇒朝国横断歩道橋⇒TOTO滋賀工場⇒JR三雲駅

朝は5:15に自宅出発。日の出と共に快晴の空を確認。
これから3日間のウォーキング。何よりお天気が良いことが有難い。
新幹線で名古屋に9:20到着。その後はバスで移動し、7月の最終地点の新岩上橋北のローソンまで楽チン。その後、11:15よりウォーキング開始。

ここはまだ甲賀市と歩を進めていると珍しい苗字を見つけました。
「朏」。みかづきとふり仮名がありました。
ちなみにPCの辞書では音読みは「ヒ」。訓読みは「みかづき」。
みかづきは通常は「三日月」ですから勉強になりました。

大岡寺は創建が白鳳14年(686年)。史跡も多い所でした。
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門前の手前に鴨長明発心所の石柱がありました。
鴨長明は「方丈記」の作者。彼は多くの天変地異を体験しその後仏門に入るべくこのお寺で髪を落としたようです。
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敷地内に入ると芭蕉の句碑「命二つの 中に活きたる 桜かな」がありました。
この句は芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中の水口宿で服部土芳と20年ぶりの再会をした感動を歌っているとのこと。
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もう一つは巌谷一六顕彰碑が奥にありました
巌谷一六は水口出身の明治時代の三筆のひとりと言われる書家。
明治新政府の官吏となり、内閣大書記官・元老院議官・貴族院議員なども歴任したようです。
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そして大岡寺の桜。今はシーズンではないけれど水口八景に入っているとのことでした。

徳川家康と縁が深い大徳寺。
定紋は徳川家の葵を入れた「立ち葵」。
石垣は小堀遠州の手法が取り入れられているとのことでした。
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大徳寺には家康公が関ヶ原に向かう際に腰掛けられたという「家康公腰掛け石」があり、皆で交代で腰掛け記念撮影をしました。
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水口は広重の絵にもありますが元々は干瓢の産地だったようです。
甲賀市ひと・まち街道交流館/水口地域市民センターには大きな干瓢が鎮座していました。
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はてさて今日は甲賀市を中心に約24000歩。歩程約11km。4時間弱を炎天下ウォーキング。見所も多く、目まぐるしいくらいでした。
しかし旧東海道を盛り上げようとする取り組みは市町村ごとに本当に違うのです。
その点、甲賀市ひと・まち街道交流館/水口地域市民センターはとてもがんばっていました。
夕方になって、もっとまめに日焼け止めを塗ろう!と反省しきりでした。
posted by yunofumi at 22:13| 東海道五十三次ウォーク

2013年07月18日

2013.7.14 東海道五十三次 第49宿 土山

道の駅あいの土山⇒加賀屋・たば古屋・お六櫛商三日月屋⇒地蔵堂⇒本家櫛所⇒化粧地蔵⇒一里塚跡⇒旅籠車屋⇒油屋権右得衛門⇒未見川・未見橋(くるみはし)⇒白川神社⇒井筒屋跡・森白仙終焉の地⇒旅籠柏屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠釣瓶屋跡・旅籠平野屋跡⇒民芸茶房うかい屋⇒二階屋脇本陣跡⇒東海道伝馬館⇒問屋場跡・成道学校跡⇒問屋宅跡⇒土山宿本陣跡⇒旅籠俵屋跡⇒土山公民館・宿場のけごみ⇒大黒屋本陣跡・大黒屋公園⇒問屋場跡⇒高札場跡⇒吉川・大黒橋⇒常明寺(じょうみょうじ)・禅俳僧虚白住寺跡・森家の供養塔⇒道標識・御代参街道起点⇒JA甲賀⇒野洲川・歌声橋⇒水口消防署土山分署⇒垂水斎王頓宮跡(たるみさいおうとんぐうあと)⇒前野⇒道の駅あいの土山(昼食)
頓宮村たばこ屋⇒瀧樹神社(たきじんじゃ)⇒地安寺・林丘寺宮御植栽の茶⇒垂水斎王頓宮御殿跡⇒市場村前引屋・市場村八幡屋⇒諏訪神社⇒一里塚跡⇒大日川(堀切川)掘割⇒大日川橋⇒松並木⇒反野畷⇒花枝神社⇒大野小学校⇒甲賀警察署大野警察官駐在所⇒明治天皇聖跡・旅籠小幡屋跡⇒蔵元地酒初桜安井酒造場⇒土山町大野⇒三好赤甫旧跡⇒若王寺⇒土山町大野⇒土山町大野西⇒みなくちこどもの森そば⇒浄土寺そば⇒岩上産業⇒一里塚跡

今日は今回のウォーキングの最終日。曇天の中を出発。
鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた土山宿。多賀神社への御代参街道の分岐点で賑わった宿場のようです。

すぐお六櫛の表示が目につく。
昔、木曽の旅人が京都見物の途中で病となりこの土山宿の大森家先祖が助けた。このお礼にと木曽の木櫛を送り販売することを勧めた。この木櫛をお六と名付け売ったところこの地の名産となったとのこと。
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未見橋。
滋賀県が平成13年の「東海道制定400年」記念事業で整備したらしいこの橋はコンクリート製。そして広重の絵や鈴鹿馬子唄が描かれておりとてもいい感じ。
そういえはこの辺り、多分、滋賀県の旧東海道はずっと路面はクリーム色で舗装されており、アスファルトとは違うようで熱の反射もなく、とても歩き良い。
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東海道伝馬館。
伝馬館は、街道や宿場、宿駅伝馬制を再考し、今後の発展に寄与していくために平成13年にオープン。建物は江戸後期に造られた土山の民家を改装。建物自体が貴重な展示品となっており、土山まつりのメイン会場として、また地域のイベントやボランティア活動の会場として活用されているとのこと。 
すごかったのは大名行列、東海道の各宿場の景色や名物をジオラマで示してあったのです。
私どもはもうすぐ東海道を完歩というところまで来ているので感慨ひとしおでした。
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土山宿本陣跡は今も土山さんの子孫が本陣を守っておられた。
屋敷全体、調度品等、語りつくせないほどの品々、そして立派なお庭もみせていただいた。
歴史学者には宝の山と思われた。
私が感動したのは宿帳というか宿泊名簿。いやはや達筆ですごーい、の一言につきます。
これらを保管維持されている皆様に頭が下がりました。
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この土山宿はまた森鴎外に縁がある。
現在常明寺には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っていた。
森鴎外が土山を訪れたのは、明治33年、祖父白仙の墓参のためだった。白仙は、石見国津和野の藩医で1860年藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向し、翌年帰国の際に発病した。そして途中の土山宿井筒屋にて急死したのだった。遺骸は常明寺の墓地に葬られた。鴎外はその翌年に生まれた。 鴎外は祖父への思いが強く、当時軍医だったので出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。この間平野屋に投宿したようである。明治39年祖母、大正5年母がなくなり、遺言により常明寺に葬られた。昭和28年、3人の墓は津和野永明寺へ移された。
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垂水斎王頓宮跡。
天皇の即位にともなって、斎王に選ばれた皇女の一行が、伊勢神宮に参拝する途中に宿泊したのが仮宮という形の頓宮。茶畑の中にひっそりとありました。
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瀧樹神社。
住所は滋賀県甲賀市前野。
南に野洲川、北は東西に走る国道1号線に挟まれた前野の茶畑が広がる垂水斎宮頓宮跡に近いところにあった。杉や楓などが茂る社と野洲川の流で境内はシンとした感じ。延久年間の創建。はじめ川田神社瀧大明神と称し岩室郷の惣社、頓宮牧の産土神であったともいう。5月3日の祭礼ケンケト祭は無形民俗文化財。キジやクジャクの羽根を付けて男の子が踊るようです。境内には絶滅危惧種「雪割り一華(ユキワリイチゲ)」の群生地があるとのことでした。いつも春分の日あたりが満開だそうです。また来て可憐な花をみたいものです。
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今日は朝から結局5時間のウォーキングで歩程約13km、約22000歩。
スタートからは色々見所もあり、相変わらず大忙し。でも後半になり、土山町大野あたりで進行方向に雲が垂れこめ雨も降っている気配がした。そこで近くの家の軒先を借りて皆で合羽を着て準備をしていたらすごい風雨が急に襲い、約10分間は動けなかった。でも、お陰でよいタイミングで休憩ができた。その後の追い込みはまた雨にあってはかなわないので超スピードで歩け!歩け!ついに目的のローソン駐車場になだれ込んだ感じでした。
その後はバスで土山から名古屋に向けて出発。高速が大渋滞ということでこの大型バスは、と心配したが、運転手さんが地元の方で下の道をすり抜け18時前には到着。ということで私は無事に22時前に自宅到着。
お陰さまで3日間を元気に過ごせました。あとは9月と10月、各々2泊3日を無事に参加できるように体調を整えます。
posted by yunofumi at 07:04| 東海道五十三次ウォーク

2013年07月17日

2013.7.13 東海道五十三次 第48宿 坂下

西の追分⇒関町総合スポーツ公園⇒関西口バス停留所・転石⇒筆捨山⇒弁天一里塚址⇒沓掛⇒天文台・坂下宿鈴鹿馬子唄会館・鈴鹿峠自然の家(関坂下尋常高等小学校⇒河原谷橋(かわらだにはし)⇒松屋本陣跡⇒大竹屋本陣跡⇒梅屋本陣跡⇒法安寺⇒小竹屋脇本陣跡⇒岩家十一面観世音菩薩⇒荒井谷一里塚跡⇒片山神社石碑⇒琴の橋⇒鈴鹿峠・片山神社・燈籠坂・峠道芭蕉句碑・馬の水のみ鉢・鏡岩・峠の茶屋跡・鈴鹿峠国境標識・万人講常夜燈⇒道の駅あいの土山(昼食)
⇒山中川⇒山中地区圃場整備竣功記念碑⇒山中一里塚公園・鈴鹿馬子唄之碑⇒熊野神社⇒猪鼻村⇒浄福寺⇒旅籠中屋跡⇒蟹坂地区圃場竣功記念碑⇒蟹坂古戦場跡⇒高札場跡⇒街道橋・野洲川⇒田村神社⇒甲賀市土山町北土山陸橋⇒道の駅あいの土山

いよいよこの3日間のハイライト、鈴鹿峠に挑戦の日です。
東海道五十三次には西より箱根峠、薩埵峠、宇津ノ谷峠、小夜ノ中山、本坂峠、そして鈴鹿峠があります。いよいよ最後の峠越えとやや緊張気味。
そんな中、昨日と違い曇天でやや気分が和らいでウォーキング開始。

筆捨山。
関宿と坂下宿の中間あった筆捨茶屋の裏手から見えたという山。あまりの景観の素晴らしさと天候が頻繁に変わることで絵師も筆を捨てたという説がある場所。
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鈴鹿馬子唄会館
鈴鹿峠が発祥の地の民謡、鈴鹿馬子唄の資料が展示されていた。生涯学習センターという感じ。
その脇には東海道の53の宿場町を刻んだ木柱が立ち並んでいて今までの街道歩きを振りかえりました。
「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた鈴鹿馬子唄。
正調鈴鹿馬子唄を鵜飼富博さんが歌うのをラジカセで聞かせていただいていたら当のご本人が登場されて、ビックなサプライズでした。
この会館前には鈴鹿峠自然の家がありこれは昔の小学校。
先日はテレビの撮影も行われたと紹介があった。
8月4日テレビ朝日「二十四の瞳」。是非見ましょう。
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片山神社
本殿は火事で焼失したとのことで鳥居前から立ち入り禁止。
昔はきっと旅人が「無事に峠越えを」と祈願したことでしょう。
私たちも冷たい手水を使わせていただき、一息つきました。
そして本格的に鈴鹿峠に入りました。
初めは優やかな石段、クネクネ!3回ほど曲がり、その後は落葉の積もった山道。ここ数日の天気が幸いし、とても歩きやすかった。
峠が苦手の私です。皆さんから遅れがちながらもどうにか無事に通過。感謝!
そうそう今年はヤマビルが多いと事前に注意があったのです。5月〜10月の気温25℃以上、雨降り、雨あがりのような多湿を好むとのこと。またなかなかの生き物で血を満足するまで吸い、それまでは離れないと聞き、やや緊張。ところが湿り気が少なく空気が乾燥していたことが幸いし、全然登場しなかった。全くラッキーでした。
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万人講常夜燈。
鈴鹿峠のてっぺんにありました。
江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したとのこと。
重さ38t、高さ5m44cmの自然石の常夜燈。山中村、坂下宿、甲賀谷の方々の奉仕でつくられたといわれ、もとは東海道沿いにあったのを鈴鹿トンネルの工事のために移設したようです。
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てっぺんを過ぎれば後は下り。ほっと一息つきました。
昼はまた道の駅に戻って食事。皆さんも峠越えが終わって笑顔。
最も私達が一番ホッとしておりました。
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田村神社。
この神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要だった。 言い伝えでは、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とのこと。 そこで土地を安定させた坂上田村麻呂公の遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇が勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られたようです。
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時々小雨が降り曇り空で途中の気温は30℃との表示が出ていました。
峠を降りると小雨もありましたが最後は22℃。
歩程約19km、約25000歩。約5時間を無事に過ごせて何よりの1日でした。
さあ、明日は仕上げの歩け、歩けの1日のはず。とにかく早寝をいたします。

posted by yunofumi at 01:03| 東海道五十三次ウォーク

2013年07月16日

2013.7.12 東海道五十三次 第47宿 関

亀山城京口門跡⇒京口坂⇒竜川⇒光明寺⇒慈恩寺・木造阿弥陀如来立像⇒野村3丁目⇒忍山神社そば⇒野村一里塚⇒野村きぼう苑⇒大庄屋打田権四郎昌克宅跡⇒布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)⇒昼寝観音そば⇒JA鈴鹿亀山神辺支店⇒大岡寺畷(たいこうじなわて)⇒神辺小学校⇒大岡寺畷橋・鈴鹿川⇒亀山市小野町陸橋⇒関宿・関の小萬のもたれ松⇒東の追分⇒いっぷく亭⇒浅原家⇒百五銀行⇒御髪結處 美容院マチ⇒鶴屋脇本陣波多家⇒問屋場跡⇒川北本陣跡⇒旅籠玉屋・玉屋歴史資料館⇒郵便局・高札場⇒ナガオ薬局⇒福蔵寺⇒関の地蔵院⇒あいづ屋(昼食)⇒関宿まちかど博物館⇒志ら玉屋・三宅家⇒伊藤本陣址⇒百六里庭・眺関亭⇒関まちなみ資料館⇒瑞光寺・権現柿・織田信孝墓・関の小萬之墓⇒延命寺山門⇒ちょうかんてい⇒田中家⇒観音院⇒西の追分---ホテルグリーンパーク鈴鹿

自宅を6時前に出発。
東京駅発7:33ひかりに乗り、9時前に名古屋着。
その後バスにて本日のスタート地点へ。11時すぎウォーキング開始。

関宿は東海道五十三次で唯一歴史的町並みを残している所。
昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区となった。
宿場は大きく東西追分の間は約1.8km。古い家が200軒も残っており、昔の風情を十分堪能できた。
宿場の東の入り口として「東の追分」があった。東海道と伊勢別街道の分岐点。ここの大鳥居は伊勢神宮式年遷宮ごとに内宮宇治橋南詰の鳥居が移される。
宿場の西の入り口としては「西の追分」。東海道と大和・伊賀街道の分岐点。石柱には「ひだりハいかやまとみち」とあった。

野村一里塚。
もともと街道の両サイドにあった塚は大正3年に南側がなくなったとのこと。
現在、北側の塚の上には樹齢400年、幹囲5m、高さ20mの椋(むく)の木があった。
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大岡寺畷。
畷とは田んぼの間のあぜ道。堤のように築いてあり、かなりの長さがある。
この畷は鈴鹿川の左岸約2kmもある。東海道で一番の長い畷。
昔は左右に松並木。今は桜並木が続いていた。
芭蕉の句に「から松の 太岡縄手 ふき通し」がある。
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小萬のもたれ松。
江戸時代久留米藩士の妻が夫の仇討のため旅をしていて関宿で小萬を産んだ後病没。その後、小萬は母の遺言で仇討を果たした。この松は亀山に武術修行に通った小萬が若者のたわむれをさけるために姿を隠したと伝えられている。
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旅籠玉屋・玉屋歴史資料館。
玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する大旅籠のひとつ。現在は江戸時代の貴重な旅籠建築として修復され、亀山市文化財にも指定。内部には、当時使われていた道具や庶民の旅に関係する歴史資料、歌川広重の浮世絵などが展示され、日本最初の旅籠資料館として、歴史の町並みとともに訪れる人々を江戸時代の旅の世界へ案内してくれている。
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あいづ屋。
あだ討ちのヒロインとして有名な「関の小萬」の生家でもあると言われる大旅籠「会津屋」。
昔ながらの竈に薪をくべ、山菜おこわを蒸かして提供している。
モットーは「主婦が食べても懐かしい!美味しい!味」。
山菜おこわをおいしく頂きました。
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ホテルに着くとすぐ前に伊勢型紙「おおすぎ」があった。
折角なので見学をした。
伊勢型紙は染色用具で、江戸小紋などの型染めに用いる型紙のこと。渋紙(和紙を柿渋で加工したもの。型紙、型地紙とも呼ばれる。)に、さまざまな手彫りの技法で、模様を彫り抜いたもの。鈴鹿市で約90%を生産。扇子、団扇、短冊やお雛様も。とにかく綺麗。なかなか根気とセンスが問われそうです。
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本日気温は約36℃。かなりの炎天下だったけれど28名全員が元気に完歩。
歩程約11km、約16500歩。
昼食を挟み約3時間歩いたわけで、満足!満足!
結果良ければすべてよし!
明日もがんばりまーす。
posted by yunofumi at 21:32| 東海道五十三次ウォーク

2013年06月19日

2013.6.16 東海道五十三次 第46宿 亀山

ホテル→のぼのの森公園・日本武尊御墓・能褒野王塚古墳・能褒野神社→(バス移動)JR井田川駅

JR井田川駅⇒廻向山西信寺⇒谷口法悦題目塔(法悦の供養塔)⇒和田道標⇒石上寺(せきじょうじ)⇒和田一里塚跡⇒カメヤマ株式会社⇒亀山本町郵便局⇒衣城しもむら⇒江戸口門跡⇒椿屋脇本陣跡⇒樋口本陣跡⇒高札場跡⇒亀山警察署江ヶ室交番⇒遍照寺⇒西町問屋場跡⇒飯沼慾細斎生家跡⇒枡屋跡(旧舘家)⇒京口門跡⇒亀山城西之丸と外堀⇒武家屋敷跡⇒亀山中学校⇒石井兄弟仇討遺跡⇒伊勢亀山城址・亀山本丸東南隅石垣・多門櫓⇒サガミ(昼食)

(バス移動)→名古屋城・清正石・本丸御殿・本丸表一之門・本丸表二之門→名古屋駅

のぼのの森公園になっている能褒野神社などは東海道から離れていましたが折角そばまできているので、とバスで移動して立ち寄りました。おごそかな雰囲気が辺り一面にありました。日本武尊がこの地で亡くなられたということで伝説は色々あるけれど、この地が御墓と宮内庁も認定したようです。ということで最寄り駅であるJR井田川駅にも日本武尊像が設置されているのです。
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亀山宿に入るとあちこちに昔の屋号が掲げられていました。
茶屋町、東町、西町等に、たちばなや、たばこや、どうぐや等々の屋号が、、。おまけにしちのすけの家、ぜんえもんの家なども。
ウォーキングをしている者を大いに楽しませてくれました。
途中にカメヤマ株式会社がありました。亀の絵がマーク。そう言えば我が家にもあった!全国のろうそくの50%のシェアを誇っているとのことです。
そろそろお城が近いと思っていた時、天守閣のような建物を発見!
よく見ると「衣城しもむら」。どうやら呉服屋さんのようでした。
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亀山城は天守台と言われる石垣の上に長屋作りの多聞櫓が復元されていました。
この石垣は13m以上の高さで自然石を積み上げた野面積。
石垣好きの方にはスゴイ!の一声が発せられていました。
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名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城。
“尾張名古屋は城で持つ”と言われた名古屋城はさすがにとても立派!!
まずは金ピカに輝くシャチ。北側は雄、南側は雌。金の板で覆われており、それは見事。
見物中に間近で見られるようにとレプリカがありました。
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天守閣に上がるにはB1〜5FまでEV。あと2階分は自力。
結構展望がよかった!
下りは階段を利用し、様々な展示を見ました。
お城が乗っかっている感じの石垣はせり上がりの姿が美しい。
これではとても人はよじ登れないような急なこう配でした。 
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復元途中の本丸御殿は第1期の公開中でした。
何しろ金ピカ。おまけに総檜(ひのき)で木肌が美しかった。
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復元模写の壁画がまたすごい。
大いに目の保養をいたしました。
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16:00すぎにはバスで一路、名古屋駅へ。
その後、駅周辺で買い物や食べ歩きをということで自由行動。
私はおじさん達と涼しいところで骨休み。
亀山宿の話で盛り上がりました。
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18:24ひかりで名古屋を出発。
東京駅には20:10到着。ということで帰宅は22:00すぎ。
本日は本格的なウォーキングは約半日だったので20000歩、11kmほど。
まずは意外に元気で帰宅できたことを感謝。
もっとも明日からの仕事に備えバタン、キューでした。
posted by yunofumi at 23:01| 東海道五十三次ウォーク

2013年06月18日

2013.6.15 東海道五十三次 第44宿 石薬師 第45宿 庄野

近鉄内部駅(うつべ)⇒采女(うねめ)⇒平成内部の一里塚⇒内部橋⇒金毘羅宮⇒内部街角博物館⇒杖衝坂⇒永代常夜燈⇒血塚社⇒采女一里塚跡⇒豊富稲荷神社⇒鈴鹿市国分町⇒延命地蔵尊⇒石薬師宿⇒北町地蔵堂⇒石薬師町⇒式内大木神社⇒小澤本陣跡⇒天野記念館⇒石薬師小学校⇒佐佐木信綱記念館・石薬師文庫・お弁当)⇒浄福寺⇒瑠璃光橋(るりこうはし)⇒高富山石薬師寺・石薬師如来・石仏⇒蒲冠者範ョ之社(御曹司社)⇒石薬師の蒲ザクラ⇒蒲川橋(がまかわはし)⇒石薬師の一里塚址⇒庄野宿⇒善照寺⇒⇒旧小林家・焼米⇒問屋場跡⇒庄野宿本陣跡⇒高札場跡⇒脇本陣跡⇒郷会所跡⇒延喜式内川俣神社・椎の木(スダジイ)⇒真福寺そば⇒女人堤防⇒中冨田一里塚⇒常念寺⇒式内川俣神社⇒地福寺⇒JA井田川支店⇒日本武尊像・JR井田川駅

朝8:00前にホテル出発で近鉄四日市駅へ徒歩で向かう。
近鉄四日市駅から内部駅までの5.7kmを線路幅762mmの軽便鉄道で移動。
明治の終わりころからのそのまんま利用かも。ワンマン運転で車両は小さくて可愛いかった。
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内部街角博物館ではちょうどボランティアの方が開館の支度中だったので幸運。
コツコツ貯めた資料も随分あったと思った。そしていよいよ杖衝坂へ。
日本武尊が東国からの帰路、疲れと病でこの急な坂を杖に頼ってのぼったということで坂の名前が杖衝坂。ここで「吾が足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言われたのが「三重」の地名の始まりとか。
おまけに此処は芭蕉が馬で登ろうとして落馬したということで「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」という珍しく季語のない芭蕉の句碑もあった。
ということで登りが苦手の私ですが実質は100m弱の登りで、アッと言う間に登り切りました。
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石薬師の有名人は佐佐木信綱。生家や記念館に資料がいっぱいありました。
「卯の花が匂う垣根に、、、」という歌詞の「夏は来ぬ」の作詞で有名な歌人。
卯の花はちょうど咲く時期が終わり、実を付ける前でした。残念!
随分多くの歌人を育てられたようです。孫の佐佐木 幸綱さんも歌人でラジオでお声を聞いたことが数回あります。
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また石薬師の宿場を中心に「信綱かるた道」があり、信綱の短歌が東海道に沿って36句楽しめるようになっていました。
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途中に天野記念館がありました。実は昭和6年に創業。日本初のタイムレコーダーを作った天野修一の創業当時からも含め海外のレコーダ―も展示されているようです。今回はあいにく立ち寄れず残念。
このような所はまた伺いたいものです。
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石薬師寺はとても立派。
東海道沿いにあり、さぞや旅人に人気があったことでしょう。
平安時代初期に弘法大師が石に仏像を刻んだのを本尊としているとのこと。
実際には見ることが出来ず、写真で拝見しました。
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JR井田川駅から列車に乗り、5駅目でJR四日市駅到着。
時間が少しあったので「じばさん三重」でこの地域の産物を見てお土産も購入。
正式には公益財団法人三重北勢地域地場産業振興センターというようです。
食べ物だけでなくあらゆるものがあり、目移りしまくりでした。また機会があればじっくり見たいものです。
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こうして8:00過ぎから15:00すぎまで歩きまわり、約28000歩で約16km!
気温は昨日より少し低くても33℃はあったと思いました。
相変わらずOS1を中心に水分補充をしたので元気に本日も完歩。
宿場としては石薬師宿庄野宿を通り、ゴールの京が近づいたことを感じて嬉しくなっております。
そして何よりお天気が持ってくれたことがとってもよかった。
また明日も頑張ります。
posted by yunofumi at 23:33| 東海道五十三次ウォーク

2013年06月17日

2013.6.14 東海道五十三次 第43宿 四日市

JR富田駅⇒富田3丁目⇒富田地区市民センター⇒間の宿⇒明治天皇御駐蓮輦跡⇒富田小学校⇒十四川(じゅうしかわ)・十四橋⇒北村地蔵堂⇒成徳山善教寺⇒十四川堤の桜並木⇒常夜燈⇒薬師寺⇒茂福町(もちぶく)⇒光明山常照寺⇒新設用水道碑⇒力石⇒茂福城跡そば⇒八田2丁目⇒真誉法願上座・地蔵尊⇒弥生陶園⇒かわらずの松⇒羽津町(はづ)⇒志氐神社(しもと)・志氐神社古墳⇒羽津中⇒羽津小学校⇒城山町⇒金場町(かねばちょう)⇒なが餅笹井屋⇒多度神社⇒三ツ谷一里塚跡⇒海蔵橋⇒浜一色町⇒京町⇒法泉寺⇒川原町⇒三瀧川(みたきがわ)・三滝橋(みたきはし)⇒なが餅笹井屋本店⇒北町⇒四日市宿陣屋(四日市代官所)・中部西小学校⇒南町道標⇒諏訪大神⇒表参道スワマエ商店街⇒伊勢庄や(昼食)⇒志ぐれ蛤貝増商店諏訪支店⇒大入道⇒近鉄四日市駅⇒浜田町⇒丹羽文雄生誕地・佛崇顕精舎⇒四日市浜田郵便局⇒浜田城址・鵜森神社そば⇒南浜田町⇒鈴木薬局(旧鈴木製薬所)⇒八阪神社そば⇒赤堀南町⇒誓覚寺・誓元寺⇒鹿化川(かばけがわ)・鹿化橋⇒日永⇒大宮神明社⇒天白橋⇒林光山両聖寺⇒日永神社⇒追分道標⇒皇大神宮遥拝所⇒薬師如来坐像⇒西唱寺⇒日永一里塚址⇒東海道名残り一本松⇒近鉄泊駅そば⇒日永の追分⇒近鉄追分駅⇒小古曽(おごそ)⇒大蓮寺⇒小許曽神社⇒山中胃腸科病院⇒近鉄内部駅(うつべ)⇒プラトンホテル四日市

朝は5時前に起床。今回より新幹線利用。
早目を意識しつつ5:30自宅出発⇒東京駅発7:30すぎ⇒名古屋着9:20頃⇒バスでJR富田駅10:30頃よりウォーキング開始。
出発時関東は小雨だった。でも名古屋は晴れ。

志氐神社(しもと)の狛犬
1725年の鳥居や1818年の常夜燈がある神社。
珍しかったのは足が折れている狛犬。
神様にお留守番を言いつけられたのに遊びに出掛けてしまったので前足を折られたそうです。痛々しい感じでいた。
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「なが餅」笹井屋本店
餅で餡をくるみ、薄く長く伸ばした独特の形。両面が軽く焼いてあり、焦げ目が香ばしい。
江戸時代から続く笹井屋のお伊勢参りのお土産で有名だそうです。
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四日市のお祭でいつも登場する大入道です。
高さ2.2mの山車の上で白・黒縦縞のどてらに赤帯をし、身の丈3.9m、首2.2mのからくり人形。眼の色も変化、眉毛も動き、赤い舌も出すようです。
お化けといっても普段はこの商店街で愛嬌をふりまいているとのことでした。
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鈴木薬局。
1750年に一代目勘三郎が創業した膏薬を作っていた製薬商。代々勘三郎を名乗り、六代目が1852年に建築された家屋はとても立派。
裏には製薬所もあるようでした。
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日永一里塚址。
江戸から数えて100番目の一里塚。
道理で国道1号線でも400km超過の標識を見ました。
昔は9m四方で高さ2.5mの盛り土の塚が街道の両サイドにあったとのことです。
今の姿はちょっと寂しかった。
しかし暑さと日焼けにもめげず、交代で記念撮影をしました。
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「東海道名残の一本松」。
先程通過した所にも「かわらずの松」が1本ポツン。
こちらも1本だけ。
四日市では300本以上の松並木が昔はあったとのこと。
先の戦争で皆切り倒され、油を絞り取られたそうです。
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1日中うだるように暑かった!!どうやら35℃越えかな。
ペットボトル5本に助けられ、本日も完歩できました。感謝!
宿場として43番目の四日市を十分に歩きまわった感じ。
約27000歩、15kmくらい!
1カ月ぶりの本格ウォーキングですから暑さもあり、疲れた!!
入浴後、ストレッチや体操の後はバタンキューでした。
posted by yunofumi at 23:13| 東海道五十三次ウォーク

2013年05月16日

2013.5.12 東海道五十三次 第42宿 桑名

笠寺ワシントンホテルプラザ⇒伊勢湾岸自動車道・湾岸桑名⇒海蔵寺・薩摩義士墓所・治水観音⇒九華公園・桑名城跡・本多忠勝公の像⇒柿安⇒水門統合管理所・蟠龍櫓・七里の渡し跡⇒大塚本陣跡・船津屋・歌行燈句碑⇒脇本陣跡・駿河屋・旅館山月⇒舟会所跡・間屋場跡⇒通り井跡⇒春日神社・銅鳥居・しるべいし⇒桑名宗社・桑名神社・春日神社・御膳水井⇒桑名城壁⇒石取会館⇒桑名市博物館⇒吉津屋見附跡⇒七曲がり⇒志ぐれ蛤貝増本店⇒教宗寺⇒泡洲碕ア八幡社⇒光徳寺萬古陶祖沼波寿山翁墓所⇒十念寺・森陳明之墓⇒壽量寺・狩野光信の墓⇒長圓寺⇒報恩寺⇒広瀬鋳物工場跡⇒天武天皇社⇒明圓寺⇒善西寺⇒矢田立場・福江町⇒つたや⇒江場松原跡⇒城南神社⇒伊勢両宮常夜燈⇒すし清(昼食)⇒安永第一公園・町屋橋跡⇒町屋橋・員弁川(いなべかわ)・町屋川⇒橋本橋⇒縄生(なお)⇒一里塚跡(朝日町)⇒近鉄朝日駅⇒東芝三重工場⇒小向神社⇒浄泉坊⇒柿⇒朝日川⇒松寺の立場跡⇒藤田⇒宝性寺⇒西宮田⇒三幸毛糸紡績⇒富田の一里塚跡⇒八幡神社址・力石⇒JR富田駅⇒浜松SA⇒足柄SA⇒港北SA⇒渋谷

最終日は日本晴れ!昨日と比べ気温は約10℃アップの感じ。
靴はMBTウォーキングシューズに履き替えたので足元が軽く、大いに助かりました。
本日のコースから外れたのは六華苑。
実業家二代目諸戸清六の新居として明治44年(1911年)から大正2年(1913年)にかけて建てられた邸宅。洋館、和館、蔵などの建物と日本庭園が素晴らしいようです。設計は鹿鳴館の設計者でもあるイギリス人建築家ジョサイア・コンドル。
是非一度行ってみたいと思っております。

海蔵寺・薩摩義士墓所。
1753年江戸幕府より薩摩藩に命じられた木曽・揖斐・長良の三大河川の治水工事で亡くなられた85名の義士を祭ってある。工事終了後責任者の奉行平田靭負(ひらたゆきえ)の墓碑や義士の墓所である。講師からこの工事に携わった薩摩藩士達の過酷な運命と無念の思いを描いたのが『孤愁の岸』(杉本苑子著、62年直木賞)ということを知りました。是非読んでみようと思いました。
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九華公園・桑名城跡・本多忠勝公の像。
桑名城は幕末に官軍の攻撃を受けて落城した。天守閣などはなく、気持ちの良い広々した公園になっていた。
その入口あたりにドーンと鎮座していたのが本多忠勝公の銅像。
桑名城の城主でもあった知将です。街の方々が誇りにしておられると思いました。
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蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)・七里の渡し跡。
揖斐川の住吉水門・川口水門・三之丸水門を管理する水門 統合管理所は蟠龍櫓の位置に、外観を擬して建設。歌川広重の 浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名城の象徴として復元されたとのこと。
また七里の渡し跡は宮宿を出た舟が到着する桑名の船着き場。東海道で唯一の海上路。
海上路は七里の距離、といわれ、渡し船で約4時間を要した模様。
船から岸に上がるとすぐ、お伊勢参りに行く方も多かったようで、伊勢神宮の一の鳥居がすぐ傍にありました。
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大塚本陣跡にある懐石料理のお店の船津屋は現在も営業。
私たちは9:00にここに到着したのですがもう打ち水もなされており、高級感がある所でした。
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春日神社の銅鳥居。
桑名は鋳物の街です。鋳物に心血を注ぎ、素形材から加工・組立・完成品の一貫生産を行っている会社もあるようです。銅の鳥居ははじめて見ましたが、とても立派でした。
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志ぐれ蛤貝増本店。
三重・桑名名産として「貝増の志ぐれ蛤」が有名。好きな志ぐれをあたたかい御飯と一緒に、またお茶漬けでいただくのも最高とのことという薀蓄をお店の方から聞きしました。
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十念寺・森陳明の墓。
明治維新の際に、桑名藩は幕府側いついて敗北した。この責任を取る形として藩を代表して切腹したのが森陳明(もりつらゆき)。
切腹はともかく、どの時代でも責任の取り方はムツカシイことです。
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浄泉坊の鬼瓦。
1603年に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊としたのがこのお寺のはじまり。徳川家ゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺といわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三つ葉葵が入っていた。
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三日間のお土産。
@ 熱田神宮の交通安全の御守り。
A 志ぐれ蛤貝増本店の佃煮、蛤は輸入物と日本産があり、値段が倍違いました。私はおとなしくアサリの佃煮にしました。
B きよめ餅総本家のきよめ餅。ひとつの大きさや柔らかさ、餡の甘さはちょうどよくお土産を食べた方は皆さん大喜びでした。
C 有松絞りハンカチ。とっても綺麗で娘も大喜び。
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静岡〜愛知〜三重とさすがに京都が近くなったこともあり徳川家にまつわる話や史跡が多くなってきた。
また読めない地名・町名があちこちにあり、大いに物珍しかった。
池鯉鮒(ちりゅう)、御手洗池(みたらしいけ)、前後(ぜんご)、小向(おごう)、縄生(なお)、員弁川(いなべかわ)、呼続(よびつぎ)、柿(かき)などなど。

本日の歩程15km、25000歩。
本日は温かいより、熱いくらい。やはりお天気が良い、陽ざしが強いとウォーキングにはきついのです。
それでも立ち寄る所が多いので目は楽しめました。
いよいよ残り回数は4回(6月、7月、9月、10月)。
そして新幹線の往復も加わり、ホント!ちょっとした旅行です。
皆様に迷惑をかけずに最後まで頑張りたいと思っております。
posted by yunofumi at 22:50| 東海道五十三次ウォーク