いよいよ最終日。
守口宿ではホテルの前から文禄堤の本町橋が見える。
今は下の方には普通の駅前の道ですから橋は陸橋状態。
その駅前から狭い石段を上がると文禄堤。
上りきった所に石柱があり、来迎坂(らいごうざか)。
道標には「右 なら のざき みち」とあり、奈良街道(守口街道)の起点なのです。

文禄堤は文禄時代に秀吉が淀屋や毛利三家に命じて修築させた淀川の堤防とのこと。現在守口の街中に約700mが現存。
文禄堤の終点は守居神社。
醍醐天皇が918年に此の地に鎮座し、素盞嗚尊・賀茂別雷神をお祀りしたようで要は淀川流域の守護神としてお祀りしたのがはじまりのようです。

野江水神社
御祭神は水波女大神。水の都大阪の守り神。
この辺りに人が住み始めたのは725年ころ。菜種を栽培し、菜種油を第46代孝謙天皇に献上し「油江村」の名をいただく。その後「野江村」となったとのこと。
またここは榎並猿楽発祥の地でもあるようです。

京橋川魚市場跡
海魚ではなく、川魚を扱う京橋川魚市場の起源は、石山本願寺期に設けられた鮒市場らしい。
もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持寄って販売する市のようなものだった。
その後、幕府から大阪で川魚を独占的に扱うことを公認され市場となったようである。

京橋
豊臣時代に架けられた京橋は大坂夏の陣で焼失。
元和9年(1623)徳川幕府によって再び架けられた。
ここを京街道の出発点とし、また大坂城の北の玄関口にもあたる位置でもあった。
京橋の名の由来になった京街道は、豊臣秀吉による淀川左岸の文禄堤構築によって成立した大坂と京都を結ぶ幹線で、江戸時代にも幕府公用の主要道路として重視された。
すなわち当時は東海道五十七次の終点。

大阪城
元々は本願寺8世蓮如上人が開いた大坂(石山)本願寺の跡地。
秀吉が築いた大坂城は外観5層の豪華さで難攻不落の要塞でもあった。
しかし大坂冬の陣(1614年)で惣構、塀、三の丸を失い、また翌年の夏の陣で秀頼・淀殿ともども焼失。
徳川時代にも築城されたようですがこれも焼失。
石垣は日本経済新聞社敷地に見られました。
現在の城は昭和の初めに再建され、平成に入って大改修されたものでとても綺麗。
昔と比べ大阪城と呼ぶようです。

天満橋は江戸時代の公儀橋のひとつ。
大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋といわれている。
橋の上からは八軒家浜船着場、川の駅はちけんやが見えました。

高麗橋
橋名は、朝鮮国使来朝のために架橋されたといわれている。
もともと大坂に12あった公儀橋のひとつで、西詰に高札場が設置されていた。
江戸時代から明治の初期にかけて京街道(大坂街道)、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道などの起点が順次高麗橋に変更され、明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点となった。


こうして15:00過ぎには3日間の行程を終了。
その後住吉神社に立ち寄っていただきましたがそれはまた振り返りで触れることにいたします。
本日は日中気温24℃、風もなく午前は暑かったですが、午後少し曇りとなり、大助かり。
関東では「ひょう」が降ったとその後のニュースで知りました。
18:00前に新幹線に乗車し、帰路に着きました。
帰宅してみると歩程約13km、30000歩弱。
とても達成感を得られた三日間でした。
記録帳を見ると開始日は2011年5月5日。
我ながら良く頑張りました。
そして感謝、感謝!
