JR北千住駅はJR東日本常磐線と東京メトロ千代田線、東武伊勢崎線、首都圏新都市鉄道(つくばエキスプレス)が乗り入れている大きな駅。初めて降り立ちましたので集合に間に合うようにキョロキョロしながら西口方向に出てやっと皆さんと巡り会えました。
駅前には大きな案内図があり、千住が荒川・隅田川に囲まれていることがよくわかりました。
駅そばには宮田亮平さんのイルカのモニュメント「乾杯」がありました。
その中には中国で縁起が良いという15匹の大小、家族のようなイルカ達が出会い、愛を育む等の場となるようにという作家の期待が込められているとのことです。宮田亮平さんの専門は鍛金(たんきん)。この前まで東京芸術大学の学長。東京藝術大学千住キャンパス開設に尽力されたようです。またライフワークとして有名なのがイルカをモチーフにした「シュプリンゲン」(ドイツ語で「飛び跳ねる」の意)シリーズとのことでした
千住本陣跡は、市郎兵衛の屋敷跡地で今は標柱がありました。
旅の宿泊施設で本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していました。今記録ではこの標柱のところだけです。市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物だったとのことです。
大橋眼科は今もみられる西洋館の医院で昭和57年に建ったRC3階建ての家。
浄土宗寺院の勝専寺は、正式には三宮神山大鷲院。勝専寺は、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として1260年(文応元年)創建されたとのことです。勝専寺の木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされているようです。
勝専寺「赤門寺」という通称で親しまれており、京都知恩院が本山とのことです。
金蔵寺(こんぞうじ)は真言宗豊山派の寺院。1335年(建武2年)に開山。本尊は、かつては地蔵菩薩だったのが、現在は閻魔大王とのことです。
境内には、2基の石塔があり、そのうちの「無縁塔」と刻まれている方は天保の大飢饉の犠牲者を供養した塔。もう一つの「南無阿弥陀仏」と刻まれている石塔は遊女を供養する塔。こちらの寺は、いわゆる「投げ込み寺」であり、岡場所で亡くなった遊女はここに葬られたということです
森鴎外居宅址。橘井堂医院跡(現 千住ザ・タワー付近・千住1-30-3)に建てられた千住の鴎外碑。
森林太郎(鴎外)1862年(文久2年)〜1922年(大正11年)は近代の文豪。
明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。その後、林太郎は大学を卒業した1881年(明治14年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事したのです。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写があるようです。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤め、千住から人力車で通勤したのです。1884年(明治17年)にドイツへ留学。1888年(明治21年)に帰国すると千住の実家に戻ったのですが翌年、林太郎は結婚して根岸に転居。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しているとのことでした。
東京芸術センターは、公民のパートナーシップにより、『あだち産業芸術プラザ』として、「あだち産業センター」と一体的に整備された民間施設です。新しい産業と芸術を創造する拠点となります。
この地域の説明地図がありました。
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことで、千住高札場跡は石柱だけがありました。
主要な街道に1里(約3.927キロ)ごとに築かれたのが一里塚。ここでは石柱のみありました。
内田銀蔵博士生家の案内が川魚問屋鮒与の所にありました。
博士は千住の旧家に1872年(明治5年)に生まれた日本の歴史学者。日本経済史学の先駆者で専門は日本経済史。
千住掃部宿(せんじゅかもんしゅく)。
千住町は将軍徳川家光の時1625年(官営2年)に日光道中初の宿場と定められ、水戸佐倉道へ分岐する初宿、また日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場なのです。その後、千住大橋を越え小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまでの4km余りの街並みが続く千住宿となったのです。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されたとのこと。 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなむとのことです。
源長寺は浄土宗の寺院。1610年(慶長15年)、伊奈忠次が開基。寺名は忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来であるようです。ただ、実質的な創建者は千住の開発者石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で「開基」の座を譲ったという話もあるようです。裏の墓地には石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしだね)というお墓がありました。
千住宿奥の細道プチテラスは足立区の歴史を今に伝える場所の一つ。京成本線「千住大橋」駅のそばにあります。テラス内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った松尾芭蕉の像と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがあります。
足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場。隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所。この立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しています。
今日は小林食品さんでお買い物をいたしました。
千住大橋脇から隅田川の流れそばに降りると千住の橋戸河岸。ここには広重や北斎の絵も模写され説明もあり非常に面白いところです。
橋戸稲荷神社の創建は平安時代の926年(延長4年)とも、また室町時代の1490年(延徳2年)ともいわれており、とにかく古いのです。社殿は江戸時代末期の建築。うち本殿は土蔵造で、扉内側に伊豆長八の鏝絵(こてえ)が施されております。拝殿の前に飾られているレプリカを拝観できました。
やっちゃば緑道はもともとやっちゃばと駅までの引き込み線の跡地を利用したところでくねくねとなかなか面白い散歩道になっていました。
関屋天満宮の創建は949年(天暦3年)。御神体は道真公自作の百体彫刻の内の1体と伝わっています。源頼朝が奥州平定後に関所を設けたため、この地は関屋と呼ばれるようになったのです。もともと水田や茅野で度々出水したため、1787年(天明7年)、仲町氷川神社の境内に遷座したのです。
隅田川関屋の里図。
関屋の里は、「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯とのこと。絵の中にある疾駆する三騎連れだった武士は、領国への急を知らせる早馬で早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが描かれています。ネットで全体を見ると馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえあります。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図がいいですね。
千葉灸治院跡地。
坂本龍馬と婚約したとされる千葉佐那(1838〜96年)が明治維新後に東京都足立区に開いた「千葉灸(きゅう)治院」跡。この2人が並ぶレリーフです。 佐那は北辰一刀流を開いた千葉周作の弟、定吉の娘。剣術使いとして知られており、定吉の道場に修行に来た龍馬と知り合ったのです。龍馬の着物の片袖を形見として大切に保管し、生涯独身を貫いたということです。この地に灸治院を開くと家伝の技が人気を呼び、板垣退助らも通ったと伝えられているとのことでした。
千住神社は926年(延長4年)、土地鎮護と五穀豊饒を祈って、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社を創立したのです。1051年(永承6年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されているようです。
狛犬は江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたもので、その狛犬の姿「子を抱える」「子を護る」はとても珍しい姿です。
これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繫盛、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)の御神徳が強かったことが理由の一つとされています。
NTT千住は1929年に建築された鉄筋コンクリート(RC)(地上3階建)のビル。現在も使れているようです。
イトー児童遊園。
イトーヨーカドーはスーパーだけでなく、コンビニの「セブン‐イレブン」など事業は多岐にわたっています。イトーヨーカドーの母体は、1920年に創業した「羊華堂洋品店」。当初は浅草だったが、戦後に千住へ移転。そこでイトーヨーカドーは千住を「創業の地」とし1号店が千住だったようです。またここはイトーヨーカドー創立者の伊藤ゆき氏と、その息子の夫人、伊藤せき氏が、1959〜82年に住んでいた所でせき氏から足立区へ寄贈され、88年に児童遊園として整備されたところだそうです。
大黒湯。
足立区は昔から銭湯が多かったそうです。近年は2軒なっていたようですが昨年6月にこちらも閉じたのです。要は老朽化。建物は堂々とした大きな千鳥破風(ちどりはふ)やカーブのある唐破風(からはふ)、さらに軒下などの彫刻が豪華で、当時は「千社札」が貼られていたとのこと。
名倉医院(なぐらいいん)は、整形外科医院(本院)。江戸時代から接骨院として名を馳せ、遠方から訪れる骨折患者も多かったということです。「名倉」の名の付く整形外科、整骨院、接骨院は全国に265軒もあり、「名倉」の名前は骨接ぎの代名詞として広く知られているようです。
安養院。正しくは真言宗豊山派西林山長福寺安養院。鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、1598年(慶長3年)兵火に遇い、当地へ移転したようです。荒川辺八十八ヶ所霊場48番札所、荒綾八十八ヶ所霊場73番札所でもあります。
安養寺の横手に回ると「かんかん地蔵尊」がありました。
そばに置かれている小石でカンカンと叩きながらお祈りをするとご利益があるのだとか。たくさんの人がお祈りしたために現在ではお顔がすり減ってのっぺらぼう状態となっていました
横山家住宅は、江戸時代後期の建造物で、昭和11年(1936)に改修が行われていますが、宿場町だった千住の名残を今に伝えています。間口が9間(約16メートル)、奥行が15間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺となっています。敷地は、間口が13間(約23・5m)、奥行が56間(約102m)もあり、鰻の寝床のように長くなっています。
吉田絵馬屋は現在の吉田晁子さんで8代目にあたります。千住宿内や近郊農村の人びとに絵馬や地口行灯に貼る絵紙、ビラの製作を生業としてきました。吉田家の絵馬は経木に絵を描き、屋根を付けた小絵馬を得意としています。眼病平癒を願う「薬師(向かい目)」や学業成就を願う「天神」など図柄は40種類余りあります。
丸井千住店10階に《千住宿》300mの1/50模型がありました。街道に沿って家々を再現しており実に精巧。また面白かったのはどの家でも家庭菜園のように畑を作っていたのが印象的でした。
もう一つおまけはこのビルの中に椿屋カフェがあったこと。私が行くコーヒー屋さんで一番のお気に入りなのです。コロナ禍になってお久しぶり!美味しくコーヒーをいただき、疲れがすっかりとれました。
本日は牧先生、TD林さんと共に13人で和やかにウォーキング。足立区2巡目でしたが初めての所もあり、かなり新鮮でした。歩程2万歩は久しぶりでしたが気温も13℃ほどあったようで気分も上々!無事に最後まで完歩できて大満足。今後もこの調子で頑張りたいです。