東京メトロ半蔵門線清澄白河駅⇒清澄庭園⇒中村学園⇒錣山部屋⇒大鵬道場・大嶽部屋⇒深川萬年橋⇒川船番所跡⇒芭蕉稲荷神社⇒正木稲荷神社⇒旧新大橋跡⇒芭蕉記念館⇒隅田川・隅田テラス⇒清洲橋⇒金毘羅宮⇒日本橋浜町3丁目⇒有馬小学校⇒水天宮⇒人形町今半⇒蛎殻銀座跡⇒からくり檜 町火消し⇒谷崎潤一郎生誕の地⇒西郷隆盛屋敷跡⇒中央区立日本橋小学校⇒堺町・葺屋敷町芝居町跡⇒椙森神社⇒伊勢重(昼食)⇒新高野山大安楽寺⇒十思公園・吉田松陰墓・十思スクエア⇒JR新日本橋駅⇒長崎屋敷跡⇒日本橋室町洲本館(淡路島洲本市アンテナショップ)⇒夜半亭・与謝蕪村居住地跡⇒日本橋ふくしま館⇒千疋屋総本店⇒新浮世小路稲荷神社・薬祖神社⇒発句也松尾桃青の春⇒江戸東京さるや⇒COREDO室町3⇒熈代勝覧⇒江戸桜通り⇒三越⇒日本銀行⇒貨幣博物館⇒常盤橋門址・渋沢栄一像⇒北町奉行所跡⇒東京駅⇒日本商工行館⇒和田倉噴水公園⇒日比谷交差点
東京メトロ半蔵門線(はんぞうもんせん)は、渋谷駅から墨田区の押上駅までを結んでいます。路線名の由来は沿線に所在する徳川家康の家臣・服部半蔵正成の屋敷の側にあったことから名が付いた江戸城(現在の皇居)の門の一つ、「半蔵門」のところを通ったからとのことです。
本日スタート地点の清澄白河駅はすぐそばに清澄庭園があるからです。ここは池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。元々は豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったのだそうです。その後下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となってある程度の庭園が築かれ、1878年(明治11年)に荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、その後代々手を加え現在の姿になったとのことです。本日はコロナ禍のため閉園でした。
そういえばと昔、岩崎家邸宅は6つあったようです。茅町本邸・深川別邸・駒込別邸・駿河台本邸・鳥居坂本邸・高輪別邸です。いずれも家族や来賓用として使い、今もかなり残っているとのことです。
錣山部屋は力強い突っ張りで土俵を沸かせ「鉄人」と呼ばれた寺尾さんが親方の相撲部屋。
大鵬道場・大嶽部屋。
昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱だった亡き大鵬親方のもとに入門しその後、大鵬親方の遺志を継ぎ、大嶽部屋となっている相撲部屋。
芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことで故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力により創建されたとのことです。
芭蕉記念館。
芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開。多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残したということです。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれたようです。
隅田テラスは隅田川両岸に沿って整備され、両国橋から蔵前橋の間に約800mにわたって、浮世絵や花火など、地域にちなんだタペストリーが並ぶ「隅田川テラスギャラリー」や、各地域の地元住民がボランティアで花の世話をしている「花守さん花壇」「芭蕉の句碑」などがあり、散策、ジョギング、ランチなどが楽しめる憩いの場所となっています。
有馬小学校は中央区日本橋蛎殻町(かきがらちょう)にある公立小学校。校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことからついているとのことです。
水天宮は1818年(文政元年)、久留米藩主の有馬頼徳(1797 - 1844)が、三田赤羽の藩邸内に久留米水天宮を勧請したのが始まり。1872年(明治5年)に、現在の日本橋蠣殻町に移ったのです。安産、水難除けの神様として知られます。有馬家との縁は続いており、2016年現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主とのことです
蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)
昔、銀座は江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織で、その経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託していたようです。
江戸の銀座は1612年(慶長17年)に今の銀座二丁目の場所に置かれました。その後1800年に改めてこの人形町に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足したのですが当時この付近は蛎殻町だったため、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれ、1869年(明治2年)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続したとのことです。
からくり檜 町火消し。
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣り(きやり)」です。起動時間は午前11時から午後7時までの正時の約2分間。ということは1日9回動くのです。もうひとつ、通りを挟んでからくり櫓(江戸落語)もありました。
椙森神社(すぎのもりじんじゃ)は一千年の昔、田原藤太秀郷、将門(まさかど)の乱を鎮定の為、戦勝を祈願することがはじまりとのことです。
伊勢重は明治2年に日本橋の小伝馬町ですき焼き屋を始めて140年以上のお店。本日のすき焼きは本当の関東風で最近では味わえないほどの濃い醤油味でびっくりでした。
高野山真言宗の大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷跡だったこの場所に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したとのことです。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したともいわれています。ということから高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。
吉田松陰は幕末の1859年(安政6年)安政の大獄で処刑され十思公園(じっしこうえん)には石碑と辞世の句碑があります。
薬種問屋の長崎屋にオランダ人が滞在している間、オランダを通じてもたらされる西欧の技術や知識を知るため、多くの蘭学者や医師などが長崎屋につめかけたといわれているのがこの場所です。
半亭・与謝蕪村居住地跡は案内板のみがありました。
江戸時代の俳諧師といえば松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶。与謝蕪村は夜半亭宋阿に師事し高名になっていったのです。「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」は有名です。
福徳神社の「福徳」とはとてもめでたい言葉で別名を「芽吹稲荷」といってこれもまた縁起の良い名称です。この神社の歴史は1000年を超えるそうですが、じつは何度も危機的な状況を乗り越えた苦難の歴史をたどる神社とのことでした。
薬 祖 神 社。
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神。 大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様で神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名。 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。さらに2016年(平成28年)に福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座したのです。
COREDO室町3の地下1階通路には『熈代勝覧』(きだいしょうらん)が展示されています。
これは、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる。当時の風景として珍しいのは「水売り」が描かれています。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されたのです。
日本銀行休館設計者は、建築学界の第一人者であった辰野金吾博士(帝国大学工科大学<現東京大学工学部>教授)。明治29年に完成した西洋式建築物で、国の重要文化財にも指定されています。上から見ると「円」の形とのことです。
貨幣博物館。
古貨幣の収集・研究家、田中啓文(1884~1956年)から日本銀行に寄贈されたコレクションを中核として開館したとのことです。常設展示では、日本のお金の歴史について、何が「お金」として選ばれ、どのように使われてきたかを、古代の和同開珎、江戸時代の大判や小判、最初の日本銀行券などの資料約3000点を通じて紹介するほか、トピック展示では、昔のお金の材料やつくり方、暮らしの中でどのようにお金が使われてきたかを詳しく学ぶことができます。大判や千両箱の重さ体験もできるのも面白いです。
常盤橋門址・渋沢栄一像。
常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があった所。昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、旧東京市の公園(現在は千代田区立公園)となりました。残された城門の石垣は国の史跡に指定されています。
この公園の中で、ひときわ目をひくのが渋沢栄一の銅像です。日本資本主義の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように堂々と立っています。
北町奉行所跡。
江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していました。南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。
北町奉行所は1806年(文化3年)から幕末まで、呉服橋御門内にありました。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たります。発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるといわれています。
東京駅。
和田倉噴水公園は、昭和36年に上皇陛下の御結婚を記念して創建された大噴水を、平成5年6月の今上天皇の御結婚を機に、「継続と新たな発展」をテーマに再整備し、平成7年6月に完成したものです。整備にあたっては、和田倉地区が水と緑で構成された表情豊かで風格のある空間として、末永く国民の皆さんに親しんでいただけるよう配慮されました。具体的にはこれまでの大噴水の原型を活かしつつ装いを一新した噴水に、躍動感あふれる落水施設(滝)や静かに流れる流水施設(せせらぎ)を新たに加えるとともに、周囲の豊かな緑にも十分配慮し、「継続と新たな発展」を象徴する変化に富んだ水と緑の風景として創出されました。
本日は晴天のもと15℃と気候も良く、願った通りのウォーキング日和。参加者も11名と少なく全く和気あいあいでした。最後の解散場所が日比谷交差点でしたのでそれが少々引き延ばされた解散だった印象が強く、ちょっと残念。でもまあ、元気で22000歩を完歩できたので満足でした。
皆さんまたお会いしましょう。