2021年12月29日

2021.12.19 さいたま彩発見ぶらり街あるき 川口市

川口市は埼玉県南部、お隣が東京という位置にあります。人口60万人はとても大きな市というイメージ。川口駅から一歩出ると高層ビルが多い!そして公園が大きそう!が第一印象でした。
JR川口駅は改札が一か所。でもこれが幅広で改札機はざっと見ても15はありそう。
本日も改札口10:00集合。参加者11名、講師喜多見先生とTD林さん。

JR川口駅⇒川口駅東口・リリアパーク・キュポ・ラ広場⇒太郎焼⇒メロディ・ブリッジ⇒永瀬洋二像⇒川口西公園⇒ぶんかようちえん⇒イトーヨーカドウ⇒川口ロボンシティ⇒大徳稲荷神社⇒川口ブルワリー⇒川口樹モール⇒川口町役場跡広場「ココ川」⇒香楽園⇒成田山⇒川口神社・梅ノ木天神社⇒金山神社跡⇒旧鋳物問屋鍋平別邸⇒船戸ひまわり橋⇒川口の渡し・鎌倉橋の碑・川口市立南中学校⇒日光御成道⇒18ポンドカノン砲⇒永瀬家ビル⇒裏町通りと鋳物工場街並⇒川口市立文化財センター⇒錫杖寺⇒JR川口駅

JR川口駅に乗り入れている東北本線における埼玉県内最南端の駅で、この駅から栃木県の豊原駅まで大宮支社の管轄とのこと。ということで、川口駅と赤羽駅の間にある荒川橋梁の埼玉県側入口が大宮支社と東京支社との境界となっているということでした。1910年(明治43年)に川口町駅(かわぐちまちえき)として開業。1934年(昭和9年)川口町の市制施行により川口駅(かわぐちえき)と改称し現在に至っています。1日乗客約6万人。

川口西公園(リリアパーク)は、広域的な市民の憩いの場、また災害避難広場として必要な機能を備えた都市型公園。そばにはリリア(川口総合文化センター)や高層住宅群など周辺施設との景観にも配慮されていて、特に地場産業である緑と鋳物を活用した駅前公園として皆さんに親しまれているとのことです。このリリアパークは、総面積が3.1haで園内には13の彫刻があり、彫刻の公園としても知られているのです。

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川口駅東口すぐのところに「働く歓び像」がありました。この像は1974年(昭和49年)に設置。川口の代表産業鋳物と働く歓びを表しているとのことです。

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川口市東口埼玉りそな銀行前に青いポストがありました。このポストは鋳物で出来ているとのことで普通にポストとして機能しているとのことでした。

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足元の道路面のタイルは川口市の花、鉄砲ユリ(リリア)でした。

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太郎焼は昭和28年創業の川口名物で実はイコール今川焼のようです。

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メロディ・ブリッジと呼ばれる川口駅の西口と東口を結ぶ歩道橋に鉄の木琴(´∀`)がありました。左から叩くと “ふるさと ”を奏でました。この辺りは緑が多くちょっと静かな所でした。

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歴代市長さんのうち永瀬洋治さんは川口市出身。市立浦和高等学校[1]を経て1954年に立教大学を卒業し、川口市役所に就職、1967年に川口市議会議員、その後埼玉県議会議員を経て1981年から1997年まで4期16年川口市長を務めたようです。市長在任中、「文化の香る街づくり」を掲げて川口駅前の公害資源研究所跡地の払い下げを受けて川口リリアを建設、川口市民音楽協会会長に就任、第九の会などを設立したのです。

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現在、アリオ川口や大規模マンション群であるリボンシティがある場所は、かつてサッポロビールの埼玉工場があったところ。以前は、川口駅と工場を結ぶ専用線が敷かれていたようで道の両脇には機関車の部品をモチーフにした鋳物のオブジェが配置されていました。
アリオ前にはかってのビールの蒸留釜らしいものもありました。
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大徳稲荷神社はかつて、旧サッポロビールの工場だった場所にあった神社で社号標には、日本のビール王と謳われた高橋龍太郎の名が刻まれています。

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川口ブルワリーは埼玉県川口市にあるクラフトビールのお店。店内で醸造したオリジナルクラフトビールと埼玉県産の小麦を使用した釜焼きピザが看板メニューとのことです。
本日はビールで炊いたビール飯が案外にあっさりとして美味しかったです。
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川口樹モール(川口銀座商店会)は街路樹や街路灯などが一体となり、くつろぎながら買物ができるショッピングモール。

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川口町役場跡広場『ココ川』くつろぎ場となっていました。

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成田山川口分院は真言宗開祖、弘法大師・空海の霊験あらたかな大本山・成田山の正統なる分院として、その由緒ある法流と千年以上絶やすことのない本山の護摩供香煙を受け継いでいるとのことでした。家内安全、交通安全や各種祈祷、厄除などはもちろん、初詣に行くとご利益のあるお不動様として大変人気とのことでした。

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川口神社は平安時代の天慶(てんぎょう・938〜946年)年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請したものと伝えられているとのことです。ですからもとは氷川神社と称し、昔から領主や民の崇敬を集めてきましたのです。江戸時代には産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされたとのこと。明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山権現社を合祀して「川口神社」となったのです。

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梅ノ木天神社 由緒書きによると。往古川口町字新屋敷に天神社が鎮座していたが、明治27年に町の鎮守氷川社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されているとのこと。
昭和11年川口第一尋常高等小学校(現・本町小学校)廿楽校長より児童の勧学の神として天神様を祀りたい旨の要請を受け、道真公の御分霊を校庭の神殿に遷座して「梅ノ木天神社」と称したのです。しかしながら昭和20年代東和戦争敗戦の伴う敵占領軍の指令により、神殿ごと当神社に返還されたので、これを境内神社として奉安しその後、平成4年に新社殿を建設したのです。

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旧鋳物問屋鍋平別邸は明治末期の和風建築。本日は建物を詳しく見られませんでした。また裏手にある庭園が素晴らしいとのお話だけ伺いました。

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市中心部にある鋳物業者の住宅。南正面の木造二階建、入母屋造桟瓦葺で正面東端に切妻造洋瓦葺の別棟が突出して接続する。内部は一階に居間等、二階に客間を配し、別棟に洋風の玄関と応接間を設ける。鋳物産業で発展した川口市街の歴史的景観を伝えています。

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「川口の渡し」とは、将軍が日光社参の際荒川を渡り川口宿の渡船場を「川口の渡し」といったようです。この辺りの日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道です。もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」でした。家康は、その遺言により日光東照宮に祀られました。以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となったので特別な道が「日光御成道」なのです。

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18ポンドカノン砲は幕末の嘉永5年(1852)に、津軽藩より依頼を受けた増田安次朗(川口の鋳物師として名のあった増田家初代)が、後の砲術奉行を務めた高島秋帆と協力して作り上げたも。これは復元品で、当時は製作不可能とされていた大型大砲。嘉永5年から安政5年(1852〜1857)の5年間で213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本国を守るために全国各地に配備されたのです。全長:3.5m 重量:2.5t 口径:15p、射程距離:2500m

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永瀬孝男家住宅旧発電所。もともと自家発電施設で敷地東南隅に建つっていました。木骨煉瓦造平屋建、東西棟の切妻造鉄板葺で、東西二室に分けて北面に各出入口を設けたとのことです。躯体はフランス積で、東室の出入口をアーチ形とするなど丁寧なつくりで類例の少ない住宅附属の発電施設の遺構として貴重な存在なのです。

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かっては裏町通りと鋳物工場が並ぶ街並だったとのことです。今は普通の住宅街に見えました。

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川口市立文化財センターは川口の発掘調査の出土品をはじめとした文化遺産の収集・保管・展示を行っているとのこと。とても資料が多くゆっくり時間をかけてみるようでした。

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錫杖寺(しゃくじょうじ)は宝珠山と称しご本尊の地蔵菩薩(写真下)の由緒に「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあるようです。錫杖とは僧侶・修験者の持つ杖です。頭部は錫(すず)で作り、数個の鐶を掛けるのです。開基は740年(天平12年)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられているようです。1838年(天保9年)本堂焼失。1841年(天保12年)本堂再建。1852年(嘉永5年)川口の大火により堂宇類焼。1855年(安政2年)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は1975年(昭和50年)に新築されたとのこと。本堂屋根の頂上にある寺紋は徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章なのです。
また墓地には大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤め、大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行ったのです。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日へ移ったのです。その駕籠も錫杖寺に保存されているのです。実は滝山に仕えていた侍女の生家を頼ってこちらに来たとのこと。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせ、1876年(明治9年)72歳で逝去。 墓石には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」 と刻まれているとのことでした。

本日は風もなく晴天、9℃と絶好のウォーキング日和でした。ところが午後になり数日前に痛めた右足首捻挫が嫌に痛むはじめ、とうとう錫杖寺でギブアップ!ここで皆さんとサヨナラして川口駅に戻り帰宅しました。ということで私は16000歩を一応完歩。
その後の歩程は平柳蔵人居館跡・旧田中家住宅・日光御成街道一里塚碑・川口元郷駅と伺っておりました。誠に残念で、後日再訪しようと思います。
posted by yunofumi at 17:15| あちこちウォーク