2021年12月11日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午後の部

昼食後⇒日本橋プラザビル前広場⇒丸善⇒高島屋⇒旧ツムラビル⇒ヤンヨースチン記念碑⇒日本橋3丁目信号⇒KPP八重洲ビル⇒楓川久安橋公園⇒東京建設会館⇒麺屋七彩⇒秋山三五郎商店⇒八丁堀の与力同心組屋敷跡⇒鍛冶橋通り⇒桜川公園⇒八丁堀(桜川)跡⇒中央区立女性センター・桜川屋上公園・桜橋第二ポンプ所⇒築地警察署湊交番⇒鉄砲洲稲荷神社⇒稲荷橋⇒高橋⇒日比谷稲荷神社⇒亀島橋⇒中央区立新川児童館⇒越前堀跡⇒明生通り⇒霊厳島⇒新川大神宮⇒河村瑞賢屋敷跡⇒新川1丁目信号⇒永代通り⇒霊岸橋⇒日本橋水門⇒茅場町駅

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キリンの銅像ををふもとに置くビルは、今はスターツコーポレーション株式会社の本社。でも元々は漢方薬の(株)ツムラのビルだったのです。1988年に「津村順天堂」が「中将湯ビル」という名で地上8階建で落成。高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏。大きなキリンの銅像をここに設置の理由⓵津村順天堂が漢方薬で業績が順調だったこと⓶キリンは漢方の王様と言われていたこと⓷ビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことだそうです。

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ヤンヨースチン記念碑。
JR「東京」駅から伸びる八重洲通りには、日蘭修好380周年を記念し、両国の架け橋となった「ヤン・ヨーステン」の記念碑が置かれています。ヤン・ヨーステンはオランダ人で、慶長5年(1600)、日本に漂着し、徳川家康に仕えた人物。彼の日本名「耶楊子(やようす)」は「八重洲」の地名の由来となりました。オランダとの友好関係を永遠に誓う、平和都市宣言のモニュメントとして「平和の鐘」があります。
隣にある「平和の鐘」は、中央区が1988年(昭和63)に「平和都市宣言」を行い、それを記念して設置したもの。オランダ製で26個のベルが四季折々のメロディを奏でるとのことです

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楓川久安橋公園(かえでがわくあんばしこうえん)は八丁堀と八重洲を繋ぐ久安橋沿いの公園。楓川久安橋公園の改修工事が終わり、リニューアルしたようです。見下ろすと首都高、見上げるとオフィスビルという、まさに都会のオアシスと呼ぶにふさしい公園となっていました。

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秋山三五郎商店は新大橋通りから平成通り、鍛冶橋通りから八重洲通りへ抜ける2本の横丁の交差点そばにありました。八丁堀は平成になってから急激にビル化が進み、今では空襲で焼けた後に建った木造家屋は珍しいようです。このあたりの祭りは日枝神社の山王祭をしているのです。秋山商店は神具仏具の店で神輿の製作もするようです。角の飾り窓には「神佛師/秋山三五郎商店/神具・佛具」と書かれていました。

八丁堀の与力同心組屋敷跡は中央区八丁堀一〜二丁目、日本橋茅場町一〜三丁目の一帯をいうようです。江戸初期に埋め立てられた八丁堀は、はじめは寺町だったのが1635年(寛永12年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺が郊外に移転、そこに与力・同心組屋敷の町が成立したのです。初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。

中央区立女性センター・桜川屋上公園・桜橋第二ポンプ所。
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公共施設の屋上を利用した人工地盤上の公園がありました。園内には、ゲートボール場をはじめ子供用遊具や池、和風庭園を模した休憩所などがあり、地域のご年配の方から子どもまで楽しめるようです。周囲には、みかんやザクロ、ブルーベリーなどの様々な樹木が植えられており、四季折々の風景を楽しむことができます。公園内の小川はとてもきれいな水でした。

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鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。さかのぼること841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したのです。 その後、埋立てが進み室町時代の末期に新京橋に遷座し八町堀稲荷神社と称したのです。その後、現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称したのが室町時代の末期のことであります。寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を遷座、現在の鐵砲洲稲荷神社となったのです。

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高橋(たかばし)は東京都江東区、小名木川にかかる橋。江戸時代に岡場所として知られた常盤と清澄とを結ぶ橋です。

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日比谷稲荷神社は、中央区八丁堀にある稲荷神社です。日比谷稲荷神社の創建年代等は不詳ですが、当地(八丁堀)に社地を拝領して当社を勧請した際に、旧地名日比谷に因み日比谷稲荷と称したといいます

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越前堀とは、江戸時代において現在の新川1〜2丁目のエリアにあった松平越前守屋敷の三方を囲む入堀を指す通称でした。その堀の幅はなんと20〜30m程もあり、荷を積んだ小舟が行き来する等、運河としての機能も果たしていたということです。このあたりお屋敷跡も含め公園になっていました。

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霊厳島(れいがんじま)は中央区東部,隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川1,2丁目にあたる。江戸時代初期には北の箱崎島 (現日本橋箱崎町) とともに江戸中島と呼ばれ,新川の開削により分離。地名は1624年(寛永1年)霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来 しているようです。

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江戸時代の1625(寛永2)年に創建された「新川大神宮」は酒問屋の守護神として遍く崇敬を集めています。明暦の大火による社殿消失を受け、現在の新川の地を賜り360年を経た2017(平成29)年、崇敬者有志によりHPもできているようです。沢山の寄進された薦被りがありました。
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日本橋川とその分流である亀島川の接続点に設置されているのが日本橋水門。日本橋川と亀島川はいずれも潮の干満の影響を受ける感潮河川なので、高潮や津波の被害から流域の街を守るために高い堤防に囲まれ、亀島川は両端に防潮水門があるのです。

今日はトウキョウシティガイドの七尾さんの先導、TD新井さんで10人が楽しくウォーキングし16000歩をクリアしました。東京という街は変化が激しく、おまけに案内人により、細かな所でも気づきがあり、いつもとても面白いのです。ということで本日も無事に終了。また次回も楽しみたいと思います。
posted by yunofumi at 16:40| ドタバタ日記