2021年12月08日

2021.12.1 古地図めぐり 築地・京橋あたりーー午前の部

メトロ日比谷線築地駅⇒築地本願寺⇒備前橋跡⇒堺橋跡⇒聖路加国際大学⇒慶應義塾大学発祥の地・蘭学の泉はここ⇒浅野内匠頭邸跡⇒東京メトロ新富町駅⇒入船橋信号⇒靴業発祥の地⇒新大橋通り⇒新富町交番⇒築地橋信号⇒東京ハヤシライス⇒中央区役所⇒銀座ブロッサム⇒三吉橋⇒漫莉キッチン⇒あさり河岸跡⇒銀座1丁目⇒白魚橋IC⇒中央区立水谷橋公園⇒京橋親柱⇒銀座通り口信号⇒警察博物館⇒京橋大根河岸青物市場蹟⇒江戸歌舞伎発祥之地⇒京橋3丁目⇒東京スクウェアガーデン⇒千葉定吉道場跡⇒嶋村――午後の部に続く

前夜は東京では大雨だったそうで、今朝の電車の各路線のダイヤが大きく混乱していたようです。私は自宅から1時間30分以内に到着予定でしたが2時間もかかり、有楽町線新富町駅到着時には少しお疲れ気味。しかし有難いことに東京メトロ日比谷線築地駅は有楽町線新富町駅と通路でつながっており、お陰様で築地駅にはちょっと歩きましたが無事に集合時間前に到着。講師土屋さん、TD新井さん、参加物10人はそれでも定刻9:30スタートしました。
 
東京メトロ日比谷線築地駅。
築地駅の副駅名は文字通り本願寺前。1963年(昭和38年)に開業。1995年(平成7年)3月20日に地下鉄サリン事件が発生した時この駅は営団地下鉄の駅として最も多くの被害者を出した駅だそうです。発車メロディは1番線が「オールマイティー」(塩塚博作曲)、2番線が「潮騒」(福嶋尚哉作曲)ということで面白いと思いました。

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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院。ここは江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失しその後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになったのです。なお、この時の本堂は今と違い西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていたとのことでした。
1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたけれどすぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔となったのです。

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昭和60年頃までは、岡山藩をしのばせる「備前橋:びぜんばし」が近くの築地川に架かっていたのですがその後、川は埋め立てられ、橋名のプレートが埋め込まれた親柱と欄干が中央区築地6丁目残るだけとなってしまっていました。

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築地川の暁川の下流側(本願寺方面)で工事をしていた時に草むらの中にこの石が見つかったことから堺橋跡とわかったのです。

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聖路加国際大学はキリスト教精神に基づき、社会の情勢に適応する医療・看護・保健福祉・公衆衛生にかかわる教育を授ける私立大学および医療施設でその他の教育研究施設の設置・運営を通じ、人類へ奉仕することを目的としています。

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慶應義塾大学発祥の地。
慶應義塾の起源は、1858年(安政5年)に、福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことが始まり。中屋敷は江戸の築地鉄砲洲にあったようで中央区明石町の一部で、聖路加国際病院のあたりとのこと。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に、慶應義塾創立百年を記念して、聖路加国際病院敷地内に建立されました。設計は谷口吉郎。台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩でできた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれていました。慶應義塾の開校記念日である4月23日に除幕式が行われ、式後すぐに中央区に寄贈され、昭和32年に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の現在の場所に移転されたとのことです。中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、その記念碑(「蘭学の泉はここに」)も隣接してありました。この二基は、合わせて日本近代文化事始の地記念碑と称されています。

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浅野内匠頭邸跡は、1645年(正保2年)に笠間から赤穂へ領地替となった浅野長直の江戸上屋敷があった地で、その子赤穂内匠頭長距が、1701年(元禄14年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に供されていました。赤穂浅野藩とその家臣大石内蔵助の仇討は有名で、昭和6年東京都旧跡に指定されたのです。

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地下鉄有楽町線 新富町駅のある“入船橋”交差点の 北東側の建物脇に立っているのが「靴業発祥の地」の石碑。日本で西洋式の靴が履かれるようになったのは, 江戸時代末期乃至明治の初めのころでしたが当初は軍靴が最初。また、築地の明石町一帯は明治初期には外国人居留地で 多くの外国人が居住することになり、靴の需要が多くなった場所でもあったのです。

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中央区役所は1947年の京橋区・日本橋区の統合で中央区が発足し、旧京橋区役所庁舎をそのまま中央区役所本庁舎として利用し、その後建て替えが行われた建物です。中央区役所の入るビルの地下1階・2階は、中央区立京橋図書館となっているとのことでした。

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中央区銀座・中央区築地・中央区新富と築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、1929年(昭和4年)12月に三叉の橋、三吉橋が架けられたのです。中央区では、平成4〜5年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、また一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。

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蜊(あさり)河岸跡は中央区新富1-1・4のあたりで今は案内板があるばかりでした。 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川(かえでかわ)で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつで、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」がありました。嘉永6年(1853年)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。

「京橋」の地名の由来は、かつて存在した京橋川に架けられていた中央通り(東海道)の橋。これがかっての京橋の親柱。
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昔は運河が生活に重要な役割を果たしていたため、橋は地域の象徴的な場所だったのです。東京15区時代に区名となり、今日でも地名として使用されています。現在、橋は存在しません。しかしかつての橋としての京橋は、日本橋と並ぶ名橋で東海道にて日本橋を出発して京都方向に向かう場合、最初に渡る橋であったため重要な意味合いをもっていたのです。街としての京橋は橋の北側に位置し、銀座線京橋駅を中心とした地域なのです。これが今残っている京橋です。
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京橋大根河岸青物市場蹟。
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江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、青物市場が存在し通称「大根河岸」といわれました。もとをたどれば1661年(寛文元年)、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりだったようです。京橋に建つ大根河岸記念碑によると、遠近から多くの作物が集まり、数年も経たぬうちに店数が増加して市場としての形が整い、江戸の人々にとってなくてはならないものとなったのです。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で、かつ水運の便がいい京橋川に移転したのです。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれたのです。積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったということでした。
京橋川はもともと、天下普請で日比谷入江を埋め立てた代替として開削され、江戸城への物資供給経路として使われていたと思われます。京橋地区には江戸城下の港湾整備で10本の舟入堀があったし、外濠川の河岸も建築資材の倉庫として機能していたのです。そのため、京橋川は江戸城建設の基地にならず、河岸の移転が実現したのでした。

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江戸歌舞伎発祥之地。
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇にあり、すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑もあります。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。
近くでは十月桜が咲いていました。
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千葉定吉道場跡。千葉定吉は、北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟。坂本龍馬は嘉永6年(1853年)、剣術修行のため故郷の土佐を出て、江戸の千葉定吉道場に入門した。千葉定吉道場があった場所は、東京駅からほど近い鍛冶橋交差点角・八重洲三井ビルのあたりと言われているが、異説もあるようです。
坂本龍馬が千葉定吉道場で修行を始めてまもなく、ペリー艦隊が浦賀沖に現れた。龍馬は藩命により品川の土佐藩下屋敷の防備の任にあたる。「いくさになれば異人の首を取って帰ります」と家族宛に手紙を送っている。日本中を揺るがすこの大事件に直接遭遇したことは、後の龍馬の生き方に大きな影響を与えたということです。
定吉の息子の重太郎は、龍馬の一回りも年長だったけれど、よき相談相手で親友でもあったのです。開国派の勝海舟を暗殺するため、文久2年(1862年)11月、龍馬とともに勝海舟邸に出かけたが、龍馬のほうが勝の論に心服しその場で門人になってしまったという逸話もあるのです。

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割烹嶋村は幕末の味まで愉しませてくれる日本橋ならではの割烹。嘉永3年(1850年)に日本橋の仕出し店として開業したのです。後に料理人としての確かな腕が認められて江戸城西の丸御用も務めたということでした。
 
午前は何しろ見聞することが多く、また昼食予約時間も迫っておりウォーキングしながらも大忙しの半日でした。まずは晴天の中順調に半日が無事に終わりました。
posted by yunofumi at 17:07| あちこちウォーク