2021年11月13日

2021.11.4 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたり=前回の続きで同日午後の部

江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校・公立本所小学校跡・勝海舟居住地・江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒東京スカイツリー⇒JR錦糸町駅

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松根屋扇子(せんす)は大正初期に創業。問屋街浅草橋で、扇子・団扇を専門に取り扱っているとのこと。末広がりの扇子は、福を呼ぶ縁起物で各種お祝いや記念品にまたお祭りの大うちわ、芸事に使われる扇子をはじめ、庶民の夏の涼となる扇子・団扇等色々あるようです。

この近くには有名ブランドの人形店がありました。
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浅草見附け跡。
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神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が浅草見附と呼ばれ、1636年(寛永13年)に作られ江戸防衛の要だったのです。1657年(明暦3年)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出したことから、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近なのです。現在は橋のたもとに碑がありました。

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初音森は「江戸七森」に数えられており、多くの御神徳により1471年(文明3年)大田道灌公の寄進で社殿が建立され、田部氏が神主となって奉仕したのです。その頃は「美加度(ミカド)二社稲荷」等といわれたとのことです。すぐそばに資料館があり古い浅草御門の一部や古い神輿がありました。
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明暦の大火の碑。
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明暦の大火(めいれきのたいか)は、1657年(明暦3年旧暦1月18日から20日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだようです。その後、防災への取り組みが行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されこれが現在でも上野広小路などと地名としても残っているのです。

両国橋。
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明治のころ両国橋の西側で橋の北側を東西に流れる川は神田川。左下は外堀、日本橋川。橋の南側は、「千歳の渡し」となっていたようです。両国橋が架けられた年には2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)。「千住大橋」に続いて隅田川では二番目の橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。当初の名称は「大橋」。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれたのです。
江戸幕府は隅田川の架橋は千住大橋以外認めてきませんでしたが1657年(明暦3年)の明暦の大火の際、橋が無くて逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人の死傷者が出たことから事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断、架橋後は本所・深川方面の発展に大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担ったのでした。

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両国花火と百本杭は武線鉄橋あたりの隅田川の東側に打たれていた護岸のための杭。湾曲して激しい流れだった川筋を和らげ土手を保護する役目を負っていました。風光明媚な上、明治中期まで鯉の釣り場として有名でした。

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両国花火資料館(りょうごくはなびしりょうかん)は、東京都墨田区両国二丁目にある博物館。花火の歴史や技術に関する展示がある様子でした。初めて気が付きましたのでまた後日機会を見て訪れてみたいものです。

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回向院は、今からおよそ360年前の1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土となり、10万人以上の尊い人命が奪われたのです。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々だったので当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりということです。

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本所松坂町公園 は、区立公園。高家肝煎を引退した後に吉良義央が暮らした邸宅があった跡地。赤穂浪士によって吉良義央ら二十余人が討たれた「吉良邸討ち入り」の現場。近くには吉良邸表門、裏門の案内もありました。

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近所の大川屋で初めて吉良まんじゅうを購入しました。

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両国公園は勝海舟の生誕地。由来碑や案内図がありました。

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両国小学校の角地に芥川龍之介の文学碑があり、杜子春の一節が刻まれていました。

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榛稲荷神社(はじばみいなりじんじゃ)は、墨田区両国にある稲荷神社。榛稲荷神社の創建年代は不詳。江戸時代当地周辺には榛馬場と呼ばれた武術練習場があり、練習場の土手に榛の木が植えてあり、この榛の木の傍に祀られて榛稲荷神社と呼ばれていたということです。また江戸時代には、当地周辺に葛飾北斎や勝海舟などが居を構えていたとのことでした。

東京東信用金庫両国支店(ひがしん)
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こちらの銀行は建物の周囲に北斎の版画が所狭しと展示されていました。
一番面白いと思ったのはATMでした。
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八角部屋。
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八角親方は第61代横綱北勝海。現役時代は幕内優勝8回となかなか活躍した方。今は部屋に30人以上の現役力士を抱えている様子です。

野見宿弥神社。
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日本相撲協会が管理所属している神社。かつてこの地の東側に相撲の高砂部屋があり、1885年(明治18年)親方あった高砂浦五郎の尽力で、元津軽家上屋敷跡に相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのがはじまり。境内に歴代横綱の名前を刻んだ石碑が建っています。

公立本所小学校跡。
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こちらはもともと久保尊保(田安徳川家旧臣)が1871年(明治4年)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)があったようです。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となったのです。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けたので尾張学校とも呼ばれていたようです。このあたりには勝海舟も居住したことがあるようです。

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津軽稲荷神社は、墨田区錦糸にある稲荷神社。津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたということです。

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電波塔を含め周辺施設は「東京スカイツリータウン」として2012年5月22日にオープンした、地上デジタル放送などの電波を送信する世界一高い自立式電波塔。伝統的日本建築などに見られる「そり」や「むくり」を意識したデザインや、五重塔になぞらえた心柱制でできているのです。東武鉄道及び東武グループのシンボル的存在で高さは634m。

本日は10:00JR浅草橋東口スタート。講師は東京シティガイドの小川先生、TD井上さんのもとに8名が参加。最後まで晴天で風もなく20℃、気持ち良く2万歩をウォーキング。また途中講師が気を利かせて吉良まんじゅうと東あられをゲットし、お土産ができました。
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古地図歩きは今の街並みを見ながら、昔のお屋敷や道路を重ねて想像しながらのウォーキングですからそれなりに面白みがあります。このシリーズは全10回です。本日は3回目の参加ですからまだまだ先が楽しみなのです。
posted by yunofumi at 09:26| あちこちウォーク