蕨市は人口約75000人、面積が埼玉県内で一番小さい市とのことで人口密度は14679人/1km2 。蕨の地名は植物の「蕨」が由来、または「藁の火」から名付けられてとの説があるようです。
JR蕨駅は明治26年に日本鉄道の駅として開業。現在は京浜東北線が停車する駅。昔は宿場としても栄えていた証拠でしょうか。「蕨駅開設記念碑」が階段を降りたところにありました。
駅前広場の「若き日」像は2人の裸婦像で蕨画塾の彫刻家長谷秀雄さん作で1982年蕨青年会議所が設置したということでした。
最近、蕨市が舞台の女子サッカーアニメ「さよなら私のクラマー」が映画にもなったそうです。このアニメに描かれているのがぶぎん通り商店会。ぶぎんとは1952設立の武蔵野銀行の略称。
街中で見られた「サヨナラ私のクリッパー」のポスター。
「パンの樹」はあんドーナツと小倉あんぱんがお勧めとのことでした。本日は残念ながらお休み。
COUTURE KAWAMURA(クチュールカワムラ)は蕨双子織(わらびふたごおり)を中心にオリジナルバッグや洋服を販売していました。
蕨双子織はかって機織り(はたおり)の町として栄えた宿場蕨で江戸時代末期にファッショナブルな色彩と縦縞柄から人気を博した綿の着物地。歴史を振り返り2004年に文献を元に復元され現在の蕨市の地域資源となったのです。細い2本の糸をより合わせた双糸を使用して織られる双子織は超高度密度で滑らかな手触りと綿の素朴さ、美しい縦縞柄が特徴の綿織物なのです。
蕨市は小さな市でコンパクトシティと言われているそうですが公園は多いようです。この蕨公園は遊具などもありますが「わらびりんご」の木が見られました。わらびりんごは日本一早く6月には実をつけるとのことで今日もいくつかの実を確認できました。
わらびりんごは錦町の農家の故・吉澤正一さんが約20年がかりで研究・開発した極早生種。吉澤さんがリンゴ作りを始めたのは昭和38年のことでリンゴの種を庭にまくと、約200本が発芽。そのうち1本を育て始めると数年後に白い花が咲き、その2年後、6月末に赤い実をつけ「突然変異では」と直感した吉澤さん。「リンゴのない季節に病人や子どもに新鮮なリンゴを」と研究を重ねました。そして昭和56年。ついに市の名前を付けた「わらびりんご」が新品種登録されたのです。
4月上旬、桜の花と入れ替わるように、白い可憐な花を咲かせ、満開から60日程度の6月下旬にはその実を赤く染めるのです。直径7p前後、重さ150〜200gほどの小ぶりで酸味のきいた味は、ジュースやジャム、アップルパイなどにして味わうのが一番とのことです。
現在は蕨市内のあちらこちらや「わらびりんご公園」でこの「わらびりんご」の木が見られまた収穫は皆さんですると伺いました。
金亀山極楽寺三学院(ごんきさんごくらくじさんがくいん)は新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちざんは)の寺院。平安時代の創建で蕨市内最大の寺院。
本尊の木造十一面観音菩薩立像があるとのことです。
焔魔堂です。
三学院梵字馬頭観音塔です。
六地蔵と目疾地蔵です。
蕨宿関係墓石群です。
境内にはハスの花も咲いていました。
はね橋。
蕨宿は周囲を用水堀で囲まれていたため家の裏手に「はね橋」を設けて出入りしたとのことです。はね橋を写真のように引き上げると家への出入りができなくなるので防犯にはよかったようです。
天保年間創業、「萬寿屋」は本手焼きの煎餅屋です。
歴史を守りながら、新しい感覚も取り入れているとのことで薄めで食べやすい、しょうゆ味の懐かしい煎餅はとても手ごろでしたからお土産に買い求めました。
たまたま店頭には今朝開花したサボテンが歓迎してくれました。
中山道沿いには「景観建築物」ということで古い建物が見られました。近江屋です。
昼食は四国屋で天ぷらとうどんのセットをいただき、デザートは甘酸っぱい「わらびりんご」のシャーベットでした。
蕨本陣跡は今、蕨市立歴史民俗資料館になっていました。
ちょうど6/5から「さよなら私のクラマー」展が開催中でした。
奥の方では従来の展示がありました。
またすぐ近くに明治時代の織物買継商の建物だった蕨市立歴史民俗資料館分館もありました。
立派な庭園もあり、また座敷には話題の渋沢栄一さんの書が飾られていました。
今日の道中は中山道沿いのルートが多いです。そういえば江戸時代に江戸と京都を結ぶ街道は「中山道」と表記されており、たまに「中仙道」も使われているようです。
途中で蕨町道路元標を見つけました。
甘露山長泉院(ちょうせんいん)は」真言律院宗霊寺派の寺院で1753年(宝暦3年)に創建され檀家を持たない祈願寺。ご本尊は大威徳明王像(だいいとくみょうおうぞう)とのことです。梵鐘は通称「おしゃみの鐘」といわれています。梵鐘には乳のかわりに梵字が鋳出され、撞座を4個持つ特徴があるようです。なぜかこの梵鐘は本堂の屋上にありました。
和楽備神社(わらびじんじゃ)は1911年(明治44年)に蕨にあった18の鎮守社を合祀してできた神社で万葉仮名の表記で「和楽備神社」と名付けられたとのこと。
合祀以前は八幡神社が鎮座し、中世に蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝えられているのです。
和楽備神社のすぐ隣に蕨城跡がありました。
またすぐそばに「成年式発祥の地記念像」の碑がありました。
蕨市の成年式は、終戦の翌年である昭和21年に、日本中が敗戦による虚脱状態にある中で、「次代を担う青年達を、まちをあげて激励しよう」と開催されたもので、それが全国に広がり、 2年後の昭和23年、国民の祝日に関する法律で「成人の日」が制定され、国民的な行事として定着したとのことです。この像は市制施行20周年と成人の日制定30周年を記念して昭和54年1月15日に城址公園に建立されたのです。
要害通りは戦国時代、蕨城を守る要害の地で、今では住宅街の中で緑と水を湛えた憩いの場、「要害通りせせらぎ遊歩道」として国交省の「生活の中にいきる水辺三十選」にも指定されているとのことです。
金峰山宝樹院(きんぶさんほうじゅいん)は臨済宗の寺院。開基は渋川氏ということから創建は中世以前のようです。ご本尊は地蔵菩薩像。
裏手の墓所には1567年(永禄10年)に上総国(かずさのくに)の三舟山合戦で戦死した蕨城主渋川公とその夫人を祀った石碑は夫妻の250数年忌に造立されたようです。
塚越稲荷神社(つかごしいなりじんじゃ)は1500年頃(明応年間)に創建のようです。社殿が約6mの塚の上にあり名前が塚越となったようです。
境内に機神社(はたじんじゃ)がありました。
こちらは蕨の双子織などの織物業を発展させた5代目高橋新五郎と妻いせうを「機神様(はたがみさま)」として祀っているとのことです。反物や糸取りの道具もおかれており、木綿糸がみられました。こちらの前身は関東大権現社の神像である徳川家康座像もともに祀られているとのことでした。
正観世音菩薩のお堂もありました。
本日はお馴染みの喜多見先生、TD小松さんと19名の仲間がAM10:00〜PM3:00までのウォーキングでした。スタート時は曇天でしたが昼食前にポツリ、ポツリ。午後はさすがに合羽を着ましたがこれが蒸し暑い!といいつつまあ、無事に終了。帰宅してみれば2万歩超ですから、まずまずの成果!
お土産はわらびもちと手作り煎餅、それに蕨双子織のサンプルと塚越稲荷神社からいただいたアマビエのお守り。
ということで皆様、また次回もお会いしましょう。