2019年10月30日

2019.10.26. 2巡目第8回東京の新発見旅「荒川区」

本日も晴天!東武東上線上福岡駅からJR南千住駅はかなり乗り替えながらで遠い!
でもいつもの通り早めに到着し、マクドナルドでお茶の後、集合!

JR南千住駅⇒両国回向院⇒コツ通り商店街⇒素盞雄神社⇒千住大橋⇒南千住熊野神社⇒天王公園⇒荒川ふるさと文化館・南千住図書館⇒円通寺⇒浄閑寺(投げ込み寺)⇒南千住商友会商店街⇒都電三ノ輪駅… 荒川2丁目駅⇒吉村昭文学館⇒荒川区防災センター⇒荒川警察署⇒常磐線第2三河島ガード⇒尾竹橋通り⇒ザ味元(昼食)⇒第二日暮里小学校⇒日暮里繊維問屋街⇒書道博物館・中村不折旧宅⇒子規庵⇒御隠殿跡⇒羽二重団子⇒善性寺⇒JR日暮里駅

JR南千住(みなみせんじゅ)駅には今回はJRで到着。見回せば東京地下鉄(東京メトロ)、首都圏新都市鉄道の駅がそれぞれに存在し、ちょっと複雑。歩行者は慣れているのかスイスイ歩行ですがこちらはちょっとウロウロ気味。

両国回向院(りょうごくえこういん)は荒川区南千住五丁目。正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院ともいわれます。 もともとは1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことがはじまり。
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安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎などのお墓をお参りした後、1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合ったことを記念した観臓記念碑(建立は1922年)を見ました。
また忘れてはいけない戦後の代表的な誘拐事件、「吉展ちゃん事件」の「吉展地蔵尊(よしのぶじぞうそん)」にも手を合わせました。

南千住コツ通り商店街はJR南千住駅の西側から千住大橋へ続く道で、由来は中世以来の地名「小塚原(こつかっぱら)」を略した説が有力なようです。江戸時代は日光道中の初宿、千住宿が置かれ、当時から多くの商店が軒を連ねていたとのこと。昔は延命地蔵尊の縁日で賑わったのが、今日では「ごりやく富くじ市」が開かれているとのことでした。

素盞雄神社(すさのうじんじゃ)の開祖となる黒珍(こくちん)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代795年(延暦14年)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、この神社がが御創建されたとのことです。
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千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川にかかる橋で、国道4号(日光街道)を通っています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行しています。
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最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない1594年(文禄3年)で、隅田川最初の橋です。当初の橋は現在より上流200mのところで、「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所とのこと。 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。

南千住熊野神社は、源義家が永承5年(1050)勧請したと伝えられているようです。北千住と南千住を結ぶ大橋を架けた文禄3年(1594)伊奈備前守がここに成就を祈願、残りの材木で社殿修理を行なったことから、橋の架け替えごとに祈願と社殿修理が慣例となっているということです。
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荒川ふるさと文化館は平成10年に、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館。南千住図書館と併設されていました。荒川ふるさと文化館では、荒川に関する考古・歴史・民俗資料を、荒川の通史に基づき展示公開しています。常設展示では荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などがありました。
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円通寺(えんつうじ)は、曹洞宗の寺院で山号は補陀山。本尊は聖観音菩薩。
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このお寺は、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝わっています。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行ったとのことです。 このことから、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もあるのです。
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浄閑寺(じょうかんじ)は浄土宗の寺院で山号は栄法山。吉原遊廓の近くにあることから遊女の投げ込み寺としても知られているようです。 地名の三ノ輪から「三ノ輪の浄閑寺」といわれることも多いようです。
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このお寺は1655年に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも早かったようです。この寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによるとのことでした。
永井荷風の文学碑・筆塚がありました。
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都電荒川線(あらかわせん)は、南千住の三ノ輪橋停留場から西早稲田一丁目の早稲田停留場までを結ぶ、路面電車。愛称は、東京さくらトラム、途中の停留所は30か所で路線距離は12.2km。今日は三ノ輪橋駅から荒川2丁目駅まで乗りました。
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吉村昭文学館。
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吉村昭さんは日暮里に生まれ、空襲で家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごした方です。学習院大学在学中に執筆活動を開始、昭和41年(1966)に「星への旅」で太宰賞を受賞、同年「戦艦武蔵」を発表し話題となりました。戦史・歴史・医学・動物など幅広い題材を扱い、入念な取材をもとにした作品を数多く描いているとのことです。このように様々なテーマを持つ吉村文学に親しむとともに、吉村文学を契機として更に広範な文学に親しみ、心を豊かにし、知的好奇心を満足させることができる空間を提供するということで南千住図書館と同居の形でこの文学館ができているようです。

ザ味元(ザミゥオン) は韓国料理のお店。普通はとても辛いようでしたので辛くないようにとカルビ定食を希望して美味しくいただきました。
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中央にあるのは4人前です。念のため、、、。

夕焼小焼(ゆうやけこやけ、夕焼け小焼け)は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけた童謡で1923年に『文化楽譜 あたらしい童謡・その一』に発表され、童謡としては最も広く親しまれている作品の一つです。
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作詞者の中村雨紅は、1916年に第二日暮里小学校の教師となり、1918年に日暮里町第三日暮里小学校へ転勤。第三日暮里小学校在職中に夕焼小焼の作詞が行われたため、現在の荒川区立第二日暮里小学校前に「夕焼け小焼けの記念碑」があるのです。ちなみに荒川区立第三日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念塔」が建立されているとのことでした。
この歌の情景は、雨紅の故郷八王子の恩方村の様子。彼の生家の近くにある「夕やけ小やけふれあいの里」前には「夕焼小焼」バス停が設置され、今でも高尾駅と陣馬高原下を結ぶ路線のバスが停車するとのことです。

日暮里繊維街は東日暮里3丁目から6丁目までの四町会にまたがり、日暮里中央通り(バス通り)を中心に両側約1kmにわたり80軒以上の生地織物の店が連なる繊維の街。繊維街には和装、洋装、紳士婦人服地、繊維製品から服飾関連の小物から付属品5に至るまで生地織物に関する全てのものを品揃し便利な街なのです。
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書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館。
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殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財が多くありました。

子規庵の建物は、もともとは旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋だったようです。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
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子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたとのことです。


御隠殿跡(ごいんでんあと)。
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輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯し「三山官領宮」とも呼ばれた方。その後、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承され、ここはこの輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所。 輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在されの時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用したようです。1868年(慶応4年)御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めてなくこの説明板のみでした。

羽二重団子(はぶたえだんご)はきめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来とのことで、そのまま名前となっているようです。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類がありました。
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今日は漱石もなかをお土産にしました。

日蓮宗寺院の善性寺は、関妙山といい長亨元年(1487)に創建、寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となったとのことです。
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今日は石橋湛山第55代総理大臣と第35代横綱双葉山のお墓を見ました。

日暮里駅前に太田道灌の鷹狩の姿の銅像がありました。鷹狩の途中雨に会い村娘に山吹を差し伸べられた逸話があり、そばには村娘の像もありました。
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日暮里の地名は「新堀村」からきているようですが“ひぐらしのさと”と読んだともいうことです。江戸時代の古地図には日暮里も新堀村も表記があり、日暮里は“あまりにも心地良い所で日が暮れるのを忘れてしまうほど一日を楽しむことができる里”という意味だそうです。

本日はAM10:00〜PM15:15まで歩程約10km約14000歩は青空の元、気温24℃でスムーズに終了。このシリーズは2巡目ですが本日のように前回には見なかった施設にもうかがえてなかなか有意義な1日となりました。帰りの道すがら吉村昭作品を近日中に図書館で見てみようと思いました。今日得た知識からまた違った見方ができるかもしれないという期待感がわいています。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク