2019年07月10日

2019.7.7さいたま彩発見ぶらり街あるき

第3回岩槻区

東武野田線岩槻駅⇒東玉人形博物館⇒人形町通り⇒法林寺⇒八雲神社⇒浄国寺⇒人形歴史館・御成街道⇒岩槻郷土資料館・市宿通り⇒田中屋本店⇒東玉大正館⇒岩槻温泉ビル⇒ふな又(昼食)⇒岩槻藩遷喬館⇒裏小路公園⇒岩槻人形博物館⇒時の鐘⇒岩槻中学校⇒太田諏訪神社⇒市民会館いわつき⇒岩槻城址公園⇒マミーマート岩月店・ほんまる歯科⇒本丸自治会館⇒岩槻本丸郵便局⇒久伊豆神社⇒新正寺曲輪⇒本丸2丁目⇒岩槻本丸郵便局⇒浄安寺⇒大龍寺⇒大工町石柱⇒愛宕神社・岩槻城大構⇒東武野田線岩槻駅

昨夜からまだ梅雨の雨が続いています。しかし岩槻につくとほぼ雨は止んでおり、まずまずの気分で10:00出発。気温は19℃でやや肌寒でしたが元気に参加者16名は講師喜多見先生、TD岡さんとご一緒しました。

東武野田線は、大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線。2014年4月1日より全線で「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line)の路線愛称です。路線距離は62.7km、駅数は35駅、当初は野田醤油を運ぶために設置された路線だったようです。私は本日、初めてこの路線に乗りました。
駅を出ると今日は朝顔市とのことですでに賑わっていました。ちなみに朝顔は入谷と同じだそうですがお値段は少々安価とのことで例年訪れる方も多いようでした。
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駅前に「ミミズク土偶」がありました。
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真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は、岩槻区城南3丁目の縄文時代後期から晩期の集落跡で、貝塚と泥炭層からなっていました。泥炭層は真福寺泥炭層遺跡とも呼ばれているとのことで、大宮台地の岩槻支台の標高10mから13mにあります。 大正末年に、縄文時代晩期の竪穴住居跡及び土偶、勾玉、打製・磨製石斧、石鏃、石棒、砥石、独鈷(どっこ)石、磨石、凹石、曲石、X字形石製品、耳飾り、土版、骨角器等とともに多数の土器などの遺物が出土、貝塚は・ヤマトシジミの主淡貝塚で、直径150mの馬蹄形、または円形に散在することもわかったようです。 また、この遺跡から出土した土器は、1934年(昭和9年)に山内清男さんにより真福寺泥炭層式と提唱され、関東地方における縄文時代晩期前半の標識的な土器であり、歴史的価値が高く、今は東京国立博物館にあり、こちらのものはレプリカとのことでした。

東玉人形博物館は岩槻駅前にありました。ここは東玉のすぐれたコレクションより生まれた「人形の博物館」です。その収蔵品は多彩で、御所人形、雛人形、羽子板、五月人形、衣装人形やあやつり、からくり人形、さらには現代作家名匠の逸品から海外の人形までが展示されていました。また、見学の出来る人形工房や和風小物の売店が併設されており、体験教室で実際に絵馬や人形等の製作体験ができるとのことでした。展示では江戸時代のお雛様のお顔がつやつやしていたのが印象的でした。

岩槻は人形の街ですから人形町通りには何軒も人形屋さんがありました。

法林寺は太田道灌公 ゆかりの曹洞宗のお寺。
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芳林寺は、曹洞宗のお寺で山号は大平山。静岡県藤枝市洞雲寺の末寺とのこと。本尊は釈迦如来。開山は覚翁文等で、この方は1595年(文禄4年)に没したようです。言い伝えでは、以前、他の場所にあったお寺が、1520年(永正17年)火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移し、1523年(大永3年)春に再建したのです。たまたま資朝公の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していた方で、1567年(永禄10年)に逝去されたため、陽光院殿芳林妙春大姉と号し、その寺号を芳林寺に改めたといわれています。1591年(天正19年)高力清長が城主となった時、その荒廃を嘆き大修理を加え復旧、この後幾度か火災に遭い、2代目城主高力忠房が再び造営復旧したのです。さらにまた1811年(文化8年)焼失したため、1841年(天保12年)に本堂(間口9間・奥行5間)及び庫裡(間口12間・奥行5間)が再建されたのです。

境内にある太田道灌公騎馬像
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埼玉県庁が最初に設置されたのが芳林寺で門前にいきさつを記した石碑がありました。
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墓所には高力正長公御霊廟、太田道灌公御霊廟にお詣り。そのほか、田中保(たなかやすし)画伯のお墓もありました。この方は岩槻町出身。浦和画家の一人。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びたようです。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリで客死したのですが、近年、次第にその業績が知られるようになってきているとのことでした。

八雲神社。
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1560年、岩槻太田の家臣勝田佐渡守が当地に市を開設したときの市の守護神を祀った社。江戸時代には牛頭天王社と称されていたけれど明治になって八雲神社と改称したとのこと。今日はたまたま中まで見せていただきました。
本殿の彫り物が立派でした。
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参道は市宿通りにあり、8月に行われる岩槻まつりもこの神社の祭礼に起源があるとのことです。

浄国寺(じょうこくじ)は、浄土宗の寺院で、山号は仏眼山。院号は英隆院。本尊は阿弥陀如来。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたということです。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であったといわれています。
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岩槻郷土資料館は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署の建物で、岩槻の歴史について展示を行っていました。民具を中心とする民俗資料の収集、保存を目的とした資料館でした。さいたま市立博物館の分館とのことです。建物は2016年、国の登録有形文化財に登録されています。建物落成当時は現在の岩槻区域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だったそうです。

田中屋本店は江戸時代後期・嘉永年間の創業以来、ずっと岩槻で菓子屋を営んでおり、蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたもので、風格のあるたたずまいでした。
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名物は、岩槻城が白鶴城と呼ばれていたことにちなんだ、白鶴城印 栗最中。昔と変わらない手作りの味で、それぞれ小豆あん、白あん(栗入り)、ゆずあんがたっぷり入っているようです。ほかにも、濃厚な生のよもぎを練りこんだよもぎ団子や、代々受け継がれてきたタレが自慢の焼き団子なども人気があるとのことでした。

東玉大正館は中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例とのこと。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。今日は見られませんでしたが、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっていると伺いました。
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ふな又(鮒又)は100年以上の歴史ある日本料理の割烹旅館。江戸時代には城下町として、また将軍の日光東照宮参拝の通行路(日光街道)の宿場町としても栄えた岩槻で歴史を刻んできたとのことです。12代将軍家慶による、1843年(天保14年)の日光東照宮参拝の大名行列の様子を綴った文献に、当時のふな又も描かれているとのことでした。当時の当主は鮒屋又右衛門。
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昭和39年平成天皇ご夫妻が岩槻にお越しになった時、こちらで鰻重を召し上がったそうで、当時の食器が飾られていました。
またこちらは昭和の女優三宅邦子の実家とのこと。1916年、6人兄弟の末っ子として「ふな又」で誕生。埼玉県久喜高等女学校卒業後、松竹に入社。1934年に『夢のささやき』で映画デビューし、島津保次郎監督の『兄とその妹』、小津安二郎監督の『戸田家の兄弟』などに出演。それ以降、小津の作品に連続出演するようになり結局、彼女の出演した映画は200本近くあるようです。小津の死後は『サインはV』『たけくらべ』などテレビ出演もあったようです。1992年、急性心不全の為、東京・調布の自宅で死去。享年76歳。
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「岩槻藩遷喬館(いわつきせんきょうかん)」は、1799年(寛政11年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだまなんか)が開いた私塾で後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだそうです。1871年(明治4年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、1939年(昭和14年)に埼玉県の史跡に指定され、2003年(平成15年)から3年ほど解体修理・復原工事が行われ、埼玉県内では唯一現存する藩校の建物なのです。
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時の鐘は岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11年)当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置したとのこと。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕6時と正午の3回、美しい音色を響かせているとのことでした。
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太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を1623年(元和9年)に勧請奉斎したことがはじまりとのことでした。
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市民会館いわつきは各種イベントを始め、結婚式、披露宴、懇親会、講習会、研修会など市民のための施設。レストランでは埼玉B級グルメ優勝の元祖豆腐ラーメンを提供しているとのことで、ここでは食品サンプルをせめても、と眺めました。
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岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。ここは自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催されるとのことです。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれるとのことです。

人形塚
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岩槻城址公園内の人形塚前において毎年11月3日(祝)に、全国の人形愛好家の方々の、捨てるにしのびないという優しい気持ちに応えようと毎年「岩槻人形供養祭」が開催されるとのことです。当日は古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形が持ち寄られ、人形塚脇の黒門の周りに並べ、約20名の僧侶(岩槻仏教会)の読経のもとに参加者が焼香し、人形の持ち主は受付の際に渡される供養札を、天児(あまがつ・日本の人形の原形といわれ、子どもの健康と幸せを守るもの)に見守られながら、お焚き上げして冥福を祈るとのことです。

白鶴城(岩槻城)石碑。
岩槻城は、戦国時代に築かれた平山城で大宮台地岩槻支台上に立地し別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城などがあるようです。元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城はつまりは沼地の中にあったようなのです。今、沼はもうなくて、町が広がっていました。
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一番目立ったのは園内の菖蒲池に架かる朱塗りの八ツ橋。
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そういえば岩槻の区の花は山吹だそうです。太田道灌に因んでいるようです。
岩槻城本丸の辺りは町名も本丸、そして本丸のあった場所には現在、スーパーマミーマート岩月店がありました。テナントとしてほんまる歯科もありました。記念碑があればよかったのに残念でした。

久伊豆神社。
岩槻城の総鎮守で、正式名称は、「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)。「久伊豆神社」があちらこちらにあるので「岩槻久伊豆神社」ともいうようです。主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命といえば、出雲大社の神様。”だいこくさま”とも呼ばれ、縁結びの御神徳として有名です。
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また神社の名称が、久(ク)伊(イ)豆(ズ)と読めることから勝負運に強い神社ともいわれ、「クイズ神社」としても親しまれているとのことです。
境内には929個の風鈴が境内につるされ、参拝者にさわやかな涼を届けていました。もうひとつ境内には孔雀小屋もありました。孔雀は、1938年(昭和13年年)に、朝香宮(あさかのみや)殿下が岩槻にご来臨の折に、白金宮殿で飼育していた孔雀三羽を奉納されたのが始まりで、現在は二十羽近くまで増えたそうです。孔雀の他に、鶏もいます。しかも放し飼い状態でした。

浄安寺(じょうあんじ)の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたということです。
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境内には児玉南柯の墓がありました。児玉南柯【1746年(延享3年)〜1830年(文政13年】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られたのです。
浄安寺の前に「武州鉄道の小径」と書かれた木板がありました。今は何の痕跡もない道ですが1924年〜1938年の短い期間、蓮田駅と神根駅を結んでいた鉄道跡だそうです。

曹洞宗寺院の大龍寺(だいりゅうじ)は、雲居山と号すとのことです。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したということでした。
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名前にちなんだ大きな龍の彫り物がびっくりするほど目立ちました。

愛宕神社の祭神は迦具土命で、境内には松尾神社(祭神 大山昨命・伊弉諾命・伊弉冉命)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)があるとのことでした。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育ての神で、近年は、進学・就職の神として信仰を集めているようです。創建は明らかではないようですが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されているとのことでした。
いい伝えでは、1457年(長禄元年)に大田資清(あるいは道灌?)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った時、その傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えたことから、これは火防の神(愛宕大神)だろうということで土塁上に移し祀ったようです。その日が現在の7月24日であったところから、今でもこの日を祭礼日として祭典を行っているとのことです。
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室町時代に築城された岩槻城でこの愛宕神社はその岩槻城の土塁の上に鎮座しているということでこの場所を岩槻城大構というようです。神社横から見ると大構えがよくわかりました。

本日は小雨の中、岩槻の街を歩き回りました。足元にはカラフルなマンホールもありました。
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岩槻区はさいたま市の北東部で城下町・宿場町でもあり文化財や史跡も多そうでした。現在は人形の街なので人形に因んだ行事も多そうです。さいたま市内10区の中では最も広く、浦和区などから見れば自然の多い感じでした。はじめて乗った野田線も優雅な感じでしたからまた気候の良い時に、色々手に入ったガイドマップもとても分かりやすかったので再訪したいと思いました。
本日のウォーキング歩程約10km、約17000歩、15:30参加者全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 00:07| あちこちウォーク