2019年06月30日

2019.6.29名城めぐり第1回

本佐倉城跡・佐倉城跡・大多喜城

AM10:00新宿駅西口・10号線高架下都庁大型バス駐車場集合、参加者22名、講師信野先生、TD佐々木さんと共に中型バスで出発。今日は千葉県のお城でしたからちょっと遠かった印象でした。
一つ目、「本佐倉城跡(もとさくらじょうせき)」です。
本佐倉城は文明年間(1469〜1486年)に築城。それより約100年下総国に政治経済文化の中心を担いました。元々千葉氏は鎌倉・室町幕府のもとで下総守護職として筆頭の地位にあった一族なのです。

本佐倉城跡は日本城郭協会の定める「続日本100名城」のひとつでスタンプは酒々井(しすい)中央公民館にありました。
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スタンプのある玄関ロビーは本佐倉城跡の資料がいっぱいでした。
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その後お城のあった場所まで歩いて移動していくと大きな案内板がありました。
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いよいよ入口です。
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まずは定番の登り道です。
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城山に通じる通路です。
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妙見宮跡は儀式や儀礼を行なった所のようです。
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城跡より印旛沼や筑波山を望むビューポイントです。
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このように佐倉城跡見学後はバスで移動しました。
                                      
二つ目、「佐倉城跡(さくらじょうせき)」の「日本100名城スタンプ」は佐倉城址公園管理センターにありました。
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佐倉城は天文年間(1532〜1554年)本佐倉城主千葉親胤の命で鹿島親幹が築城を開始しましたが親胤の暗殺で工事は中断。その後慶長15年(1610年)家康の命で土井利勝が完成させたのです。城郭は石垣ではなく、土塁。明治維新で廃城令でここは陸軍歩兵部第2連隊、後に歩兵第57連隊4(佐倉連隊)の駐屯地になったのです。

公園入口の案内図です。
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三の門跡です。
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安政3年(1856年)、タウンゼント・ハリスは、アメリカ大統領の親書を携え下田に到着。来日の目的は、アメリカ初代駐日総領事として他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることだったようです。こうした動向が、当時幕府で老中を務めていた開明派の佐倉藩主堀田正睦を外交の舞台に登場させることになったようです。ハリスと正睦により、幾度にもわたる直接交渉が行われた結果、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。
タウンゼント・ハリスの像。
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堀田正睦公像。
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正岡子規の句碑。「常盤木や冬されまさる城の跡」
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明治時代に俳句・小説・文学評論など様々な文学の分野において活躍した俳人。正岡子規が佐倉に来たのは既に病魔に蝕まれていた26歳位の時で、当時、本所から佐倉間に開通したばかりの総武鉄道に初乗りして訪れ、この句を詠んだということです。

二の丸御殿跡。
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本丸跡。
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夫婦モッコク。
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モッコクは、南関東地方以西の暖地の山野に自生するツバキ科の常緑高木で、千葉県でも清澄山系の尾根に生育。このモッコクは、佐倉城の本丸跡の西側の土塁に植えられていました。現在では樹高は11.6m、幹囲2.9mもあり元気な樹木のようです。現在、幹は3本が立ち上がっており、このうちの2本が癒合して、2株のように見えました。

銅櫓跡。
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ここにあったはずの銅櫓は、佐倉城を建てた土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものとのことです。造ったのは太田道灌だそうです。

佐倉城礎石。
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佐倉城は、江戸時代初期の元和元年に土井利勝が築きましたが、その際にこの大量の石を基礎としていたのです。明治初期に陸軍が城を取り壊し兵舎を建てましたが、その際にもこの石を使った基礎を転用したとのことでした。

佐倉陸軍病院跡。
佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」というそうです。

姥が池。
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「姥が池」(うばがいけ)は、昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥(うば)が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい、困り果てて自分も身を投げたということからこのような名がついたそうです。

国立歴史民俗博物館がある場所は、かつて椎木曲輪(しいのきくるわ)と呼ばれた侍屋敷があった区画で、「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれる遺構が復元されていました。

その後公園内をウォーキング。こちらを見学後は約1時間半バスで移動。
                                        
三つ目、大多喜城(おおたきじょう)は復元されたお城が千葉県立中央博物館大多喜城分館になっており「続名城スタンプ」は2階展示室にありました。
大多喜城は大永元年(1521年)に真里谷信清が築城。その後安房の里見氏の重鎮の上総正木宗家の居城として発展。それより以後家康の重臣本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立。忠勝により三層4階を持つ近代城郭となったのです。現在の城郭は1957年(昭和50年)に復元された鉄筋コンクリートの歴史博物館です。
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大多喜城入口の案内図を見ながら進んでいきます。。
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大多喜水道。
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140年ほど昔、大多喜城下の人達はたいへん水に困(こま)っていました。そこで大多喜藩知事(はんちじ)大河内正質(おおこうちまさただ)は、城山から水を引くことを計画したのです。城下の豪商小高半左衛門(おだかはんざえもん)(柳原)が世話役となり、三上七五郎(みかみしちごろう)(上原)高橋四郎左衛門(たかはししろうざえもん)(小苗)等が中心になり計画を立てました。 明治二年十一月、静かな城山にカマ、ナタ、クワやスキ、モッコを持った大勢の人夫たちが集まり、半左衛門が工事によってもたらされる豊かな生活を説明しました。そうして最期にみんなで力を合わせてがんばろうと、話をしめくくったのです。人々は納得し一生懸命働いたのです。この工事で延べ5,606人が働いたようです。明治3年5月。工事開始からわずか7ヶ月という短い日数で工事は完成したのでした。そしてこの水道は昭和29年、町営水道ができるまで約80年もの間、大多喜町民に恵みを与えてきたのです。

大多喜城入口。
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天守より薬医門を見ると県立大多喜高校の正門付近に「薬医門」が見えました。
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大多喜城の数少ない建築遺構がこの薬医門です。本丸跡の東側の崖からは、現在県立大多喜高等学校となっている二の丸跡や城下町を見下ろすことができるのです。

大多喜城主本多家五重塔写真。
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本多家三つ扇紋付袴
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大井戸。
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大多喜高等学校のグランドの一隅には、本多忠勝が掘らせたという周囲17m、深さ20mの大井戸がありました。

三名城を見終わると16:00を回っており、海ほたる経由で新宿に帰り着いたのはほぼ19:00.。
名城めぐりは街道ウォークと違い、かなりアップダウンがあることを実感。でも気温22℃、小雨、時々の雨にもあまり苦労せず、また大降りしなかったことが幸いでした。午後はほぼ雨がやみ、まずは快適な名城めぐりでした。5月に鉢形城を見たことがきっかけで今日の名城めぐり参加となりまりましたが、また機会があれば参加してみようと思いました。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク