2019年04月15日

2019.4.13. 山手線歴史探訪ウォーク 第2回

上野駅〜西日暮里駅
JR上野駅公園口⇒JR上野駅中央口⇒JR上野駅広小路口⇒「あゝ上野駅」碑⇒上野恩賜公園--黒門--獨山人の碑--西郷隆盛像--彰義隊の墓--天海僧正毛髪塔--寛永寺清水観音堂--不忍池弁財天--花園稲荷神社--時の鐘--上野大仏--パゴダ薬師堂--お化け灯籠--東照宮--東照宮唐門--グラントヒノキ--時忘れじの塔--東京文化会館フォレスティーユ精養軒--ボードワン博士像⇒旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)⇒黒田記念館⇒東京文化財研究所⇒上野東照宮⇒寛永寺第二霊園・徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所⇒寛永寺・根本中堂・了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦⇒谷中霊園---DEPUIS PATISSIER INAMURA SHOZO--御隠殿坂−明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑−徳川慶喜公墓所−渋沢栄一墓所−川上音二郎碑−天王寺五重塔跡⇒観音寺築地塀⇒初音の森⇒岡倉天心記念公園⇒谷中銀座・夕焼けだんだん⇒延命院の大椎⇒経王寺山門⇒善福寺・仁王門⇒富士見坂⇒淨光寺⇒諏方神社⇒太平洋美術⇒荒川区立第一日暮里小学校⇒西日暮里公園⇒JR西日暮里駅

JR上野駅中央改札のすぐ横の切符売り場の上にステンドグラスがありました。「昭和六十年春 ふる里・日本の華」でデータを調べると原画。監修:平山郁夫、設置:1985年3月、ステンドグラス、3.7m×18.6m、キーワード:扇、水、花ということでした。このような壁画などはパブリックアートというそうです。
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JR上野駅広小路口外には「あゝ上野駅」歌碑がありました。
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この歌碑は2003年建立。この歌は1964年に井沢八郎さんが歌った東北地方の集団就職者の応援歌として大ヒットした歌謡曲。歌碑は大きく機関車と多くの集団就職者が描かれており私たち世代だけではなくこれを見て昔を偲ぶこともいいことではないでしょうか。

上野恩賜公園は明治6年太政官布達で日本が初めて公園に指定。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いたとのことです。

西郷隆盛像は明治31年設置、作者は高村光雲、身長3.7m・胸囲2.6m・足55cm。できた時の様子は昨年のNHK大河ドラマ第1回で見られてとても印象的でした。
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天海僧正毛髪塔。
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧。なかなかの名僧でのちに江戸崎不動院(茨城県江稲敷市)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受け、1616年(元和2年)家康が没すると、その神格化のため権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導したのです。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、1625年(寛永2年)に寛永寺を創建し、1643年(寛永20年)に子院の本覚院で108歳でなくなっているのです。遺命により日光山に葬られたため本覚院跡には供養塔が建てられ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになったとのことでした。
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「彰義隊の墓」がありました。江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻ったことから東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論された。慶喜の一橋家時代の側近が慶喜の助命を求め、1868年(慶応4年)に彰義隊を結成。慶喜が水戸退隠後も上野山(東叡山寛永寺)にたてこもったのです。1868年((慶応4年)、新政府軍が、上野寛永寺周辺にたてこもる彰義隊を包囲し彼らは滅亡したのです。これは上野戦争といわれています。その後、彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたのを、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されたとのことでした。正面の小墓石は、1869年(明治2年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出されたもの。大墓石は、1881年(明治14年)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、改府をはばかって彰義隊の文字はなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれています。
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清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立。比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門を守護すると伝えられている事に倣い、天海大僧正は1625年(寛永2年)に江戸城の鬼門を守護するため、寛永寺を創建したのです。そして比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎を建立。そのひとつとして清水観音堂は京都清水寺に倣って建立されたのです。清水観音堂は、江戸時代から庶民に親しまれる名所で特に境内に配された月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」に「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれているとのことです。
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不忍弁天堂は寛永寺の創設者天海僧正。現在の八角形の御堂は昭和33年に再建されたもの。ご本尊は八臀大弁財天で長寿・福徳・芸能の神様。普段見受ける芸能人のお名前が書かれた提灯がいっぱいありました。
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上野大仏とパゴダ薬師堂は大仏山にあります。1631年(寛永8年)堀直寄が寄進。元々、大仏様は全身あったようですが地震や火災が度々ありこの顔面だけが残り大仏再建を願い仏塔(パコダ)が作られたとのことでした。
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お化け灯籠(おばけどうろう)は、佐久間勝之(さくまかつゆき)が奉納したもの。銅灯籠や石灯籠と離れたところにある。おばけというのは、おばけのように大きく、高さが6.06mもあるからそのような名前がついたようです。また、笹石の周囲は3.36mで非常に大きかったです。
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時忘れじの塔は故林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが2004年(平成16年)に東京大空襲を忘れないでという趣旨で設立。林家一門で慰霊の会が開かれるようです。
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公演内をグルグル動き回った後振出の上野駅前に戻り昼食は、東京文化会館2階のフォレスティーユ精養軒でおしゃれなランチをいただきました。
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メイン前にはスープやパン、それにデザートと珈琲が出ましたので大満足でした。

ボードワン博士像。
明治政府が上野の山を別の目的で使用することを決めていたのを近代的な公園にすべきとボードワン博士が提言し現在の上野公園ができたそうです。いわば上野公園の生みの親でオランダの一等軍医だったとのことです。
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正岡子規記念球場は公園の外れに見えました。これは明治20年ごろ、正岡子規が上野公園内で草創期の野球を楽しんでいたことから、名前がついたのです。そばに「春風や まりを投げたき 草の原」の句を刻んだ碑があるとのことでした。

旧博物館動物園駅跡(京成電鉄)がありました。解説によると1932年日暮里と上野公園間の営業のため工事開始し1933年開業。1945年戦争のため運転休止。1953年この駅の営業を再開するも1997年駅が小さいことなどがあり営業休止。2018年リニュウアルして記念に残されたようです。

上野東照宮
もともと徳川家康公を祀った社。家康が1616年に死去し1618年には日光東照宮に祀られています。その後家康を敬心していた藤堂高虎が1627年(寛永4年)にこの上野東照宮を造営。現在の社殿は徳川家光が作り替えたもの。文化財保護の為、社殿内は非公開。 金色殿とも呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造り。
唐門は1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価されています。 内側の透彫は諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、 太鼓に鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいています。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられています。
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唐門両側の6基の銅灯籠は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものとのことです。
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銅灯籠の間に見えるのは菱透塀。格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名だとのことです。 社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、 色鮮やかに生き生きと表現されているとのことでした。

寛永寺第二霊園に入るとすぐ徳川綱吉霊廟勅額門・天璋院篤姫墓所の案内がありました。五代将軍綱吉は、1680年(延宝8年)に将軍となり1709年(宝永6年)に63才で死去。綱吉ははじめ、善政を行ったが後には「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名です。 1698年(元禄11年)に綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されたとのことです。綱吉の霊廟は宝永6年に竣工したが、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したのです。この勅額門と水盤舎は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構とのこと。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
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寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。徳川家光が創立者、初代住職は天海大僧正。ご本尊は薬師如来。本堂にあたる根本中堂を見ました。
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この周りには了翁禅師塔碑・銅鐘・尾形乾山墓碑・乾山深省蹟・旧本因坊表門・根本中堂鬼瓦など見所が一杯でした。

谷中霊園は日暮里駅と鴬谷駅の崖上に広がる墓地。ここはもともと寛永寺と天王寺の寺領だった所。1875年(明治7年)東京都の公共墓地となり一般にも公開されている。
本日は明治大学創立者岸本辰雄先生墓碑、徳川慶喜公墓所、渋沢栄一墓所、川上音二郎碑、天王寺五重塔跡などを見て回りました。
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観音寺築地塀(つきじべい)とは土塀のこと。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものをいうようです。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。
はじめは土のみで作られたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるようになってきたようです。
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岡倉天心記念公園は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立にかかわり、また日本美術院を創設した岡倉天心の旧居跡。五浦のものを模した六角堂があり、中には天心坐像が据えられています。また公園のなかのいたるところに六角形が潜んでいます。
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谷中銀座は地元の方々は元より、定期的に商店街に足を運んでくださる広域の方々、遠方や海外からお越しくださる観光の方々に商店街を時代の流れに適応しながら古き良き商習慣を大切にして異世代に残していきたいと頑張っている商店街だそうです。本日は休日のため非常な混雑で有名なメンチコロッケのお店など行列ができていました。私は谷中満点ドーナツを買い、大いに満足しました。
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御殿坂と谷中銀座の間には「夕焼けだんだん」と呼ばれる階段があります。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。夕方になると、階段に座って夕焼けを待つ方もいそうです。夕焼けだんだんを降りると「谷中銀座」の入口です。
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延命院は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局を開基とする日蓮宗の寺院。家綱の安産祈願をした日長が甲州身延山の七面大明神を勧請し、慶安4年(1651)にその別当として開創されたのです。境内には、樹齢600年を越える大椎がありました。
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経王寺(きょうおうじ)は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られており、旧谷中七福神のひとつ。1868年(慶応4年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っていました。
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善福寺・仁王門。
谷中は奇跡的に戦災を免れた為、古い民家と下町風情が残る稀少の場所で、善福寺・仁王門の金剛力士像もけなげに残っていました。
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淨光寺は真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があるようです。江戸時代までは、諏方神社の別当でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていたようです。江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。
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諏方神社は鎌倉時代に豊島佐衛門尉経泰によって創建されたと伝えられ、信濃国上諏訪大社と同じ建御方命を祀っておるようです。現在も日暮里(旧:新堀)・谷中の総鎮守。 諏方神社は、JR山手線の線路沿いの諏訪台にあり、江戸時代には、筑波や日光の連山などが見えたことから、景勝の地として知られていました。

諏訪神社の道を挟んで反対側に太平洋美術会がありました。太平洋美術会は明治22年に日本最初の洋画団体「明治美術会」として誕生。同35年、太平洋画会と改称し、さらに昭和32年に太平洋美術会と名称を改め今日に至っているとのことです。2011年、120周年を迎えこの間、幾多の英才、奇才を世に送り出し、日本近代洋画史に燦然たる足跡を残したのです。併設の太平洋美術学校(現・研究所)からも多くの才能を輩出し今日、多数ある美術団体の源流で、今もこの歴史と伝統を守るとともに、新しい潮流に向けて歩み続けていると伺いました。

荒川区立第一日暮里小学校門前に「正直親切」の石碑がありました。この記念碑は高村光太郎直筆で荒川区立第一日暮里小学校の創立百周年の記念碑とのことです。高村光太郎は明治23年に旧下谷区練塀小学校から日暮里小学校に転校しており、この地にはずいぶんとゆかりがあるのです。この「正直親切」の文字は昭和26年、岩手県山口小学校のためにかかれたものが、日暮里小学校の百周年記念の際、財団法人高村記念会の好意で使わせてもらうことになったという経緯があるようです。ちなみに隣にいるフクロウはこの第一日暮里小学校の校歌の歌詞に由来しているとのことです。学校の立地が日暮里の高台、緑がいっぱいの諏訪神社のすぐ隣にあり、「森の知者」であるフクロウをシンボルにして子供たちに親しまれるように、という想いが込められているそうです。
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西日暮里公園は西日暮里駅から坂を上がった高台にありました。すぐ近くには諏方神社や多くのお寺があります。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として、高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていたのでこれらの案内を変わった形の案内板で示していました。
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本日は14℃と温かで晴天の元、約10km、歩程17000歩を結局実質5時間で完歩。参加者のほとんどは本日2回目で初々しい雰囲気が満載でした。私は初回が2017年10月でしたから約1年半かかっての完歩でした。昼食時に完歩認定証と山手線駅スタンプの一覧をいただきおまけに皆様の拍手はとても光栄でした。このようなシリーズのウォーキングツァーのいい所です。
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振り返れば全10回のうち雨は1回でしたから、なかなか幸運でした。これからも機会を見つけてまたシリーズのウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 23:11| あちこちウォーク