2019年03月25日

2019.3.23. 東京新発見旅第23回 北区

今日はいよいよこのシリーズの最終回。
第1回台東区を2016年9月に開始以来、実に2年7カ月が過ぎ去りました。
この間には私的には色々なことがありましたがまずは元気で過ごせたからの最終回です。感謝!
今日はJR田端駅北口10:00集合、気温9℃、曇天でやや冷たい風もありましたが参加者21名講師は後藤先生、TDは小玉さんで一同元気に出発です。

JR田端駅北口⇒田端文士村記念館⇒東台橋⇒童橋⇒芥川龍之介旧居跡⇒田端八幡神社⇒東覚寺⇒田端文士村の散歩道⇒ポプラ坂・田端保育園/児童館⇒北区立田端公園⇒劇団文化座⇒村の鎮守の八幡神社⇒大龍寺⇒中里橋⇒山手線第二中里踏切⇒円勝寺・伊仕家の墓⇒日本植物防疫協会⇒聖学院⇒滝野川教会⇒滝野川図書館⇒旧古河庭園⇒無量寺⇒平塚神社⇒農務省農事試験場跡⇒滝野川公園⇒東京高等蚕糸学校発祥之地⇒花と森の東京病院⇒東京メトロ西ヶ原駅⇒国立印刷局東京工場⇒滝野川警察署⇒西ヶ原一里塚⇒七社神社⇒渋沢史料館⇒北区飛鳥山博物館⇒飛鳥山公園⇒豫園飯店⇒旧醸造試験所第一工場⇒北区役所第二庁舎⇒王子神社⇒玉子扇屋⇒中央工学校⇒王子稲荷大明神⇒東北線稲荷前ガード⇒北とぴあ⇒JR王子駅

田端文士村記念館は1887年(明治20年)上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校して、田端に芥川龍之介、菊池寛、小杉放庵、板谷波山など小説家や作家(=文士)が集まり住むようになったことを記念して、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供することを目的として1993年11月開館。
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芥川龍之介旧居跡は更地になっていました。ここは芥川龍之介(1892〜1927年)はが1914年に転入後、亡くなるまでの約13年を暮らしたこの旧居跡地で北区が2023年「芥川龍之介記念館」の開館をめざしているとのことです。芥川の業績を単独で顕彰する施設は全国で初めてということでした。
 
田端八幡神社は文治五年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社とのこと。
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東覚寺(とうがくじ)は真言宗の寺院。1491年(延徳3年)に創建。堂宇は第2次世界大戦で戦災焼失し、戦後再建されたようです。
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明王殿前には赤壁仁王という金剛力士像があります。病人が自分の患部と同じ位置に赤紙を貼ると治癒するという民間信仰があるとのこと。そしてその後、治癒したら草履を奉納するとのことでした。
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田端文士村の散歩道の案内板があり、そのあたりの散歩道やそのあたりに住んでいた文士たちのことが紹介されていました。散歩道Bの案内板では板谷波山(いたやはざん)のことが紹介されていました。

田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなんでいます。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったのです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいたのです。
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村の鎮守の八幡神社。
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現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。

大龍寺(だいりゅうじ)の創立は明らかでないようですが、慶長年間(1596〜1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781〜1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伺いました。
この寺の境内には、俳人正岡子規のお墓がありました。
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こちらは板谷波山のお墓。
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このほかチェリスト清水勝雄の記念碑、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があるということでした。

円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山し、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近にあったとのことです。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていたとのこと。
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円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれているとのことです。

日本植物防疫協会は、植物防疫に関する技術や知識の進歩を図り、農業生産の安定に寄与することを目的として1953年に設立。設立以来、病害虫防除に必要な資材の開発と登録の支援に向けた調査研究をはじめ、研修会やシンポジウムの開催など普及教育活動、書籍の発行や各種資材の提供など、植物防疫関連事業を多方面から展開しているとのことです。
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聖学院は1903年、米国基督教会外国伝道協会とアメリカ人宣教師H・H・ガイ博士によって聖学院神学校が設立。その後、キリスト教信仰による人格教育が始まり聖学院中学校(旧制)及び女子聖学院普通学部としてそれぞれ発展し、現在は幼稚園から大学院まで一貫教育体制を整えているとのことです。
滝野川教会は閉まっていて中を伺い知れませんでした。女子聖学院中・高校と 聖学院中・高校の東側の細い道路“聖学院通り”に面した、聖学院の男子校と女子校の境界附近に 石碑があるようです。 聖学院は、アメリカのプロテスタント・キリスト教の一派であるディサイプルス派が派遣した 宣教師によって、1903(明治36)年に「聖学院神学校」として設立され、女子聖学院は 1905(明治38)年に設立された学校です。滝野川教会は当初 聖学院神学校の校内の教会として創設され現在地は、発祥碑のある場所から北に200mほどの所で、美しい尖塔を持つ教会が建っているようです。

旧古河庭園。
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都立文化財庭園は現在9カ所あります。今ではほとんど訪れたことがありますがやはり季節が巡るわけでなかなかすべてを堪能しているわけではありません。まだ3月ですが桜が咲き、椿、雪柳、スミレ、山吹があちらこちらに見られました。
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無量寺の創建年代は不詳。それでも平安時代後期あたりからこの地にあったようです。境内に は、14世紀頃に作られた板碑が多数あるとのことです。 創建当時から長い間、寺号は長福寺だったようですが、9代将軍徳川家重の幼名・長福丸と同じだったことから現在の無量寺にしたとうかがいました。本堂にある不動明王像の前で忍び込んだ盗賊が動けなくなって捕まったことから、この像は「足止め不動」として信仰されるようになったとのことです。現在普段は公開されていないようです。

平塚神社。
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奈良時代荒墓郷「平塚」の地名の由来の“塚”は、神社社殿裏にある「甲冑塚古墳」が元とのこと。 その頃ここには豊嶋郡の郡衙があったのです。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築き、平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしをしたようです。そこで義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれたこと、塚の高さがなくて平たかったことから「平塚」とよばれ、これがこの辺りの地名となったようです。

農務省農事試験場跡の石碑が城山公園入口にありました。
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ここには東京府が明治33年(1900)に設立した最初の府立農事試験場が置かれていたとのことです。江戸時代末頃から農業改良が行われていたようですがここでは新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実地指導に生かして普及することをしていた様子です。試験場の活動は、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に影響を与えたのです。農業試験場は1924年(大正13年)には立川へ移転したのです。

東京高等蚕糸学校(とうきょうこうとうさんしがっこう)発祥之地。
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大正時代, 全国各地に“蚕糸学校”が作られたとのことで, 東京蚕糸学校もその一つ。 太平洋戦争後 東京農林専門学校と合併して 東京農工大となったようです。

西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの位置にあるとのことです。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功したのです。大正11年3月8日には、国史跡に指定されました。
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西ヶ原一里塚そばの七社神社は、古くから西ヶ原村の鎮守として由緒ある神社とのこと。七柱の神である天児屋根命は祝詞の神とも言われ、安産や厄除などの御利益があるそうです。

渋沢史料館はむしろ博物館で、日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一に関する資料を収蔵しているとのことです。
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1998年に建設された「本館」には、渋沢栄一の生涯にわたる業績が展示。 敷地内には大正年間に渋沢栄一が使っていた建物が当時のまま公開されているようです。 「晩香廬」は賓客を迎えるレセプション・ルーム、「青淵文庫」は書庫として使われていたとのこと。

北区飛鳥山博物館。
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北区の郷土資料を扱っている。紙の博物館、渋沢史料館とともに「飛鳥山3つの博物館」のひとつ。 2階部分が入口、受付と講堂、それに企画展示室。3階に飛鳥山アートギャラリー、資料の閲覧コーナー、体験学習室、軽食コーナー。1階部分が常設展示室で1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示、そして荒川の生態系を取り上げた展示があるとのことでした。

中国料理豫園飯店 (よえんはんてん)は王子界隈で評判の上海料理のお店とのことでした。入り口では、獅子の石像がありました。味付けはあっさりでしたがなかなかおいしかったです。
お料理待ちの間に後藤先生より完歩認定証をいただきヤレヤレ。
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独立行政法人酒類総合研究所東京事務所にあった旧醸造試験所第一工場(通称「赤煉瓦酒造工場」といいます。)は、明治37年の試験所の創設以来、酒類の醸造試験、酒類醸造講習の実習工場として活躍してきたとのことです。建物は、明治期の貴重な赤煉瓦建築物として平成26年12月に国の重要文化財に指定されています。
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王子神社。
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御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称を「王子大神」と呼ぶとのことです。創建は不詳ながら、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事があります。そしてさらにその後、1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたとのことでそれよりこの地を王子という地名にし、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれているとのことでした。

中央工学校は1909年(明治42年)創立で工業立国を目指す当時の政策に対応するかたちで、建築・機械工学・給排水衛生設備・空調設備・電気設備を、翌年には土木工学を加え4学科体制による夜間の工業学校(各種学校)としてスタートしたようです。田中角栄さんの母校とのことで記念の石碑が校舎前にありました。
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王子稲荷大明神は東国三十三国稲荷総司の伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名で古くは岸稲荷と号したようです。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられまた、治承四年に源頼朝より奉納を得たということでした。
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願掛けの石や狐の穴跡を見ました。

北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボルで、本格的なホール、多数の平床多目的スペース、各種会議室、音楽スタジオ等、多彩な施設があるとのことでした。最上階の17階は展望ロビーとなっており、北区を一望することはもちろん、東京スカイツリー、はては埼玉まで見ることができました。
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今日は桜がチラホラ咲き始めていましたが、正に「花冷え」の1日でした。それでも空模様が持ちこたえてくれて有難かったです。本日、このシリーズのウォーキングは23回目で実質4時間、約17000歩で完歩出来ました。今後もまた機会があれば元気にあちらこちらと見分を深めたいと思っております。色々ご一緒させていただいた皆様、お世話になりました。
posted by yunofumi at 23:30| あちこちウォーク