2018年05月26日

2018.5.19. 山手線歴史探訪ウォーク 第9回

品川駅〜新橋駅
JR品川駅・品川駅創業記念碑⇒高輪交番⇒ザプリンスタワー東京⇒港区立高輪公園⇒東禅寺⇒洞坂⇒桂坂⇒高野山東京別院⇒高輪消防署二本榎出張所⇒承教寺⇒東海大学⇒虎屋⇒都営高輪一丁目アパート⇒細川家下屋敷跡・大石切腹の庭⇒保安寺⇒高輪中学校・高校⇒泉岳寺・赤穂浪士記念館⇒泉岳寺駅⇒高輪大木戸跡⇒東京トヨタ本社ビル⇒高輪郵便局⇒笹川記念会館⇒御田八幡神社⇒都営御田駅⇒田町西口交差点⇒江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地⇒港区勤労福祉会館⇒三田眼科⇒慶応仲通り商店街⇒水野監物邸跡⇒茶の木稲荷⇒三田中国飯店⇒春日神社⇒慶大東門前交差点⇒慶応大学⇒綱坂⇒三井倶楽部⇒綱の手引坂⇒伏見寶稲荷神社⇒赤羽橋⇒ザプリンスパークタワー東京⇒伊能忠敬測地遺功表⇒芝東照宮⇒芝公園⇒旧台徳院霊廟惣門⇒三解脱門⇒増上寺⇒御成門⇒青松寺⇒愛宕神社⇒愛宕山下バス停留所⇒浅野内匠頭終焉の地碑・新橋4丁目⇒新正堂・切腹最中⇒新橋4丁目交差点⇒JR新橋駅

JR 品川駅東口の駅前ロータリーに品川駅創業記念碑があります。
日本最初の商用の鉄道は, 明治5年に 品川(汐留)〜横浜(桜木町) 間に開通したとされていますが、 実は 正式開業の半年ほど前に 品川〜横浜 間で仮開業しています。 つまり, 品川駅は 日本で最初の鉄道駅なのです。
碑文の表面には品川駅創業記念碑 明治五年五月七日品川横浜間鉄道開通。
裏面には 鉄道列車出発時刻及賃金表 定 明治五年五月七日、賃金表  車ノ等級上等片道壹円五拾銭、中等同壹円、下等同五拾銭。
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現在の 品川駅のある場所は 実は港区で, 品川区ではないとのことです。鉄道建設当時, 品川駅は 本来の“品川”である東海道品川宿地区に置かれる計画でしたが, 「鉄道駅ができると 宿場がすたれる」という危機感から地元が強硬に反対し, やむなく 品川区に隣接する港区高輪地区に置かれることになったということでした。

東禅寺(とうぜんじ)は港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺。江戸四箇寺の1つ。寺名は開基の日向飫肥藩主伊東祐慶の法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていたのです。初代英国公使はラザフォード・オールコック。この方の著書「大君の都」に水戸藩士が東禅寺を襲ったことが記されているとのことです。
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洞坂(ほらざか)は高輪3丁目16番、3丁目19番の間の坂。法螺坂、鯔坂とも書くとのこと。この辺りの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言ったようです。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、くぼ地のため洞というなど様々な説があるようです。

桂坂(かつらざか)は、高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂。かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれているとのこと。桂はよい字を当てたものらしいです。

高野山東京別院は江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年〜1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創されたとのこと。
本日は工事中で外観が見られませんでした。
1655年(明暦元年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、1673年(延宝元年)高野山江戸在番所高野寺として完成。その後1702年(元禄15年)火災により焼失したが、翌16年に復興。御府内八十八箇所の1番札所になり、白金にあった文殊院が88番の結願所になったようです現在、宗派は高野山真言宗。本尊は弘法大師。境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等があり、お遍路の受入も万全。隣に建つのは高輪警察署。地下には東京電力の変電所があるとのことでした。

高輪消防署二本榎出張所。
建物がまるで灯台のようなレトロな建物でした。ここは1933年(昭和8年)以来78年の長きにわたって高輪の街を見守り続けている現役の消防署。建物は地上3階建てで、躍動感溢れる曲線と曲面で構成された、第一次世界大戦後の「ドイツ表現主義」というデザインだそうです。3階以上のひときわ高く空に突き出した円柱部分は望楼(ぼうろう)と言って火の見櫓の役目をしていた部分とのことです。
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また消防車が数台ある中で昔のままの「ニッサン180」が車庫にありました。
これは本格的な国産消防ポンプ自動車の第一号だそうです。
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承教寺(じょうきょうじ)は日蓮宗の寺院。山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院で本尊は曼荼羅、英一蝶筆の釈迦如来像。旧本山は大本山池上本門寺ということでした。山門を入るととっても変わった狛犬がデン!
顔は獅子か虎、体は牛か猪か。とにかくはっきりしません。中国から伝わって来たようです。
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肥後 熊本藩細川家下屋敷跡。
ここは大石良雄外十六人忠烈の跡」として説明板がありました。
この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷のほんの一部でこの庭先で切腹があったようです。赤穂事件とは、1701年(元禄14年)3月14日に起こった殿中刃傷事件、それから翌年12月14日から15日にかけての吉良邸討ち入りを含めた一連の事件のことを言います。細川家は、大藩の威厳と識見をもって浪士たちを優遇し、お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけだったようです。1703年(元禄16年)2月4日午後2時、上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べたということです。切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だったとのことでした。
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泉岳寺(せんがくじ)は、曹洞宗の寺院で青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられるとのことでした。1612年(慶長17年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したけれど、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されたとのことです。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られています。もう数回伺っていますがそのたびにあちらこちらと綺麗になっています。やはりそれだけ多くの参拝客が訪れるのです。
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高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)は、1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡のことです。木戸は最初、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ、札の辻に設けられたのが、700m南のこの場所に移転し高札場として大木戸が設けられたようです。
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木戸は、最初は街道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしたのでした。現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9m) 、幅四間(7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。

江戸開城西郷南洲勝海舟会見の地。
ここは、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされていました。現在は、鉄道も敷かれ、更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。この会見により、人口100万人を超える世界最大規模の都市だった江戸とその住民は戦火に巻き込まれずに済んだのです。
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水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したと伝わっています。
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慶応大学東門。
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1858年(安政5年)福沢諭吉が蘭学塾「一小家塾(いちかじゅく)」を開いたのが始まり。その後築地から芝新銭座へ移り1868年(明治元年)当時の年号に因み慶応義塾大学と名付けられたとのことです。慶應義塾三田キャンパスには、国の重要文化財である三田演説館や赤レンガの図書館旧館があり、明治の息吹を今の時代に存続させ、アカデミックな雰囲気を漂わせています。構内には「福澤諭吉終焉之地」の記念碑や佐藤春夫の詩碑など数多くの文学碑や美術作品が散在しています。慶應義塾の代表的な応援歌のひとつが「丘の上」と題されているように、キャンパスへ続く道はすべて坂道。登りきったところに学問の庭があります。
今、三田キャンパスには、文学部の2〜4年生、経済・法・商学部の3・4年生、文学・経済学・法学・社会学・商学・法務研究科の大学院生の学び舎があります。女子高等学校、中等部もキャンパスに隣接しているとのことでした。

綱坂は三田2丁目にありました。平安時代の武将渡辺綱がこの辺りで生まれたということが坂の名前の由来だそうです。

綱の手引坂。
平安時代の武将で源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の時、姥に手を引かれて行き来したという伝説により坂の名前としたとのこと。別名、馬場坂ともいうようです。

伊能忠敬測地遺功表が丸山古墳にありました。丸山古墳は 都内最大の前方後円墳で5世紀ごろに築造されたものとのことです。この古墳の頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がありました。これは、日本全国を測量し、はじめての日本地図を製作した伊能忠敬の功績をたたえたものです。
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この碑がここに建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。

芝東照宮は、当初、増上寺内境内に勧請されたようです。増上寺は1590年(天正18年)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められたのです。当時は日比谷にあったのが、1598年(慶長3年)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転したのです。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持ったのです。この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称されました。安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮と称し、御神像を本殿に安置・奉斎したのです。1873年(明治6年)には郷社に列し、社殿は1633年(寛永18年)の造替当時のものが維持されていましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失。1969年(昭和44年)社殿の完成を見て今日に至っている。
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芝公園は都立芝公園と港区立芝公園の総称。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたとのことでした。

台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営されました。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったのが、一部の建物を除き、戦災で焼失したとのことです。
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江戸幕府第2代将軍徳川秀忠は1632年(寛永9年)正月24日に死去。すぐに増上寺境内南側で霊廟を建立。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失しました。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられているのです。

増上寺三解脱門。
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三門(さんもん)は、元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものです。 仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶとのことです。 また三解脱門(さんげだつもん)とも呼ぶのです。 山門とも呼ぶのですがこれは、寺院がもっぱら山林にあり山号を持つからということです。
増上寺三解脱門は1622年に建築され現存する数少ない立派な山門で三解脱門が正式名称。この門の2階釈迦三尊・十六羅漢像があるそうです。

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470年(文明2年)には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
徳川家康は1590年(天正18年)江戸入府にあたり菩提寺と定めたようです。1598年(慶長3年に寺領20万坪を寄進し寺基を拝領し現在地に移って来たとのことです。
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御成門は増上寺の裏門で将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになったとのことです。もともと御成門交差点にあったが、明治25年(1882年)に東京市区改正計画に基づいて現在では日比谷通りと呼ばれる道路が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転したのです。
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増上寺の表門である大門のように背の高い白塗りの門である。しかし、鏡柱の根元が金属飾りもろとも腐りかかっていました。高麗門ですが、そこここの切妻屋根の裾に8つの飾り瓦が上がっている。浪の飾り瓦ですが、3種類の意匠があるようだ。中には、左右対称に見える浪の飾り瓦もあります。これまでの浪の飾り瓦は左右非対称に作られ、左右で対称になる場合ばかりであったのです。しかし、左右2つある鏡柱と控え柱の間の切妻屋根にそれぞれ2つずつの裾に上がる4つの飾り瓦のうち、一番外側の2つの浪の飾り瓦だけを左右対称にしているようだ。鏡柱間の切妻屋根に上がる浪の飾り瓦は表側の左右と裏側の左右がそれぞれ対称になるようにしてあり、表側と裏側とで浪の意匠を変えている。なるほど、裏門とはいえ、徳川家、それも将軍が用いる門であるだけのことはある。飾り瓦さえも個っていました。

青松寺
江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されています。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用したのです。境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出、1875年(明治8年)には、獅子窟学寮内に曹洞宗大学林専門本校を開校し、翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展したのです。入口門の四天王がとても立派でした。
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愛宕神社は1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月、関東大震災では、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。
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愛宕神社がある愛宕山は標高25.7m。出世の石段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としては23区内で一番の高さの山です。
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事です。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられ、平九郎が見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。

浅野内匠頭終焉の地碑が新橋4丁目交差点傍にありました。こちらは忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹をした最期の場所あそうで、石碑と看板がありました。
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新正堂(しんしょうどう)は大正元年創業の御菓子司。
元禄14年3月14日、殿中「松の廊下」で後の「忠臣蔵」へと発展する刃傷事件は起こり、巳の上刻(午前十時)から六つ刻(午後六時)過ぎにかけて、刃傷・・・・田村邸お預け・・・・評定・・・・切腹・・・・と、その日のうちに矢継ぎ早に執り行われたと言われています。「切腹」、殿中での刃傷とあれば無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、人々の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させた御菓子なのです。
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今日は26℃、曇り、風もなく午前はやや蒸し暑かったのですがまずまずのウォーキング日和りでした。AM9:30〜PM16:15、昼食時間1時間を除けばそれなりのウォーキングとなり
歩程12km、約2万歩でしたがあまり距離を感じないで終了でした。歴史を感じながらのウォーキングは次第に面白みが判ってきている私です。お土産に購入した切腹最中は餅入りであんがはみ出しており程よい甘さ。娘と半分づつでいただいてちょうどよかったです。
次回は終着の東京駅です。またがんばります。
posted by yunofumi at 23:37| あちこちウォーク