2018年04月29日

2018.4.21 山手線歴史探訪ウォーク 第8回

五反田駅〜品川駅
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すっかり本格的な春です。我が家でも地植えの君子欄が今を盛りと咲いています。
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9:30 JR五反田駅集合。気温がかなり上昇との予報を受け、服装や飲み水をそれなりに準備。
まずは目黒川の大崎橋を渡り居木神社(いるきじんじゃ)に到着。
創建は明らかではないようですが、元々は武蔵国荏原郡居木橋村に鎮座していたとのこと。当時は「雉子ノ宮」といい、境内にはゆるぎの松という大木があったそうです。この頃、村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の4社をあわせてお祀りし、「五社明神」といわれたとも。明治5年の社号を現在の「居木神社」と改めたとのことでした。
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GATE CITY OHSAKI(ゲートシティ大崎)は、地上24階建の業務商業棟(オフィスタワー2棟と低層部の店舗・文化施設)と地上20階建の住宅棟「サウスパークタワー」を中心に多彩な都市機能を集積した複合再開発施設。JR山手線「大崎」駅直結 徒歩1分という利便性と施設内の恵まれた空間は、ビジネスの拠点として、憩いの地としてイベント、レストラン、ショップなど幅広くビジネスマンからファミリー層まで利用できるところです。この近くに友人宅があることから時々立ち寄り、お茶をする馴染みの所でもあります。

官営品川硝子製造所跡は東海寺大山墓地の入口に碑がありました。日本のガラス工業の発展に貢献した品川硝子製造所の前身・興業社が東海寺境内に建っていたことから、今の地に碑が作られたとのことです。建物は明治村に移築されており、ここにはガラスの原料・珪石も飾られていました。
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東海寺は臨済宗大徳寺派の寺院。徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど、幕府による手厚い保護を受けていたようです。500石の朱印領と47,666坪に及ぶ広大な寺域を有していたとのことです。
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梵鐘は 1693年(元禄5年)制作のようでした。

寺から少し離れた所、官営品川硝子製造所跡の脇を入ると東海寺大山墓所がありました。様々な歴史に名を残した方々のお墓などがありました。
江戸時代に作られた沢庵和尚墓。
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賀茂真淵、服部南郭、そして初代鉄道頭の井上勝の墓
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渋川春海、そして島倉千代子さんの墓
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品川神社(しながわじんじゃ)は、東京十社のひとつ。 また東海七福神の一社として、大黒天を祀られているとのことです。1187年(文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのがはじまりとのこと。
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境内入り口の階段前の門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」があり、左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されています。双龍鳥居は杉並区の高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、こちらと合わせて「東京三鳥居」ともいわれているようです。拝殿手前には浅間神社があり傍には富士塚があります。
また本殿裏には板垣退助墓がありました。
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品川浦公園・鯨塚・利田神社(かがたじんじゃ)。
利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとのこと。当地一帯は1774年(安永3年)から1834年(天保5年)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、神社は利田神社また洲崎弁天ともいわれ浮世絵師歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれているそうです。利田神社の横には鯨塚がありました。この鯨碑(鯨塚)は、1798年(寛政十年)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑です。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)があるようですが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)とのことでした。
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台場小学校・御殿山下台場砲台跡。
1853年(嘉永6年)アメリカ合衆国のマシュー・カルブレース・ペリーが、4隻の軍艦(黒船)をひきいて、浦賀沖に来航。鎖国中の幕府はすぐに江戸湾の海防強化の検討に入り、急いで品川沖から深川須崎にかけて11基の台場を造ったのです。現存するのは「第3台場」(都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみ。そして陸続きで五角形の砲台が建造され、これが御殿山下台場(砲台)とのことです。
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荏原神社。
709年(和銅2年)、奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請して創建されたようです。
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品川寺(ホンセンジ)は大同年間(806年〜810年)に開創された品川で最も古いお寺。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、1395年(応永2年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられまたのです。「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しています。品川寺では、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の三つを、お寺の三宝(さんぼう)としているとのことです。
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江戸六地蔵のひとつの大きな地蔵様です。
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海雲寺。
品川の千躰三宝荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきたとのことです。それで台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされているのです。
品川の千躰荒神。今を去る三百七十余年前、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公が出陣の折、天草の荒神が原におられた荒神様で必勝祈願したところ、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現、流石の暴徒も敵し得ず鎮定されたとのいいつたえがあるようです。以後鍋島家ではこの尊像を守護とし東都高輪二本榎木の屋敷に遷座し篤い信心のもとにお祀りしていたのです。その後明和七年寅三月に海雲寺に勧請となっているのです。
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ジュネーブ平和通り。
品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーブ市(スイス)から、"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られたがきっかけ。この通りは都道なのですが、同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられたとのことです。

ゼームス坂・高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)。
ゼームス坂はもと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれ、あまりにも急な坂道で、通行人が難儀していたのを見るに見かねたゼームスさんが、私財を投じ、現在のような緩やかな坂に改修したそうです。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたとのことです。明治時代、この坂の途中に英国人のJ・M・ゼームスさんが住んでいたのです。このゼームスさんは慶応2年(1866)にジャーデン・マディソン商会長崎支社の社員として来日し、1872年(明治5年)に海軍省に入り、造船技術、測量調査、船舶の航行などについて指導した方だそうです。日本が大好きで、生前から熱心な日蓮宗信徒だったため、1908年(明治41年)、71歳で亡くなった後、「遺骨は身延に」と言う遺言に従い、山梨県身延町にある日蓮宗の総本山・久遠寺に埋葬され、現在もそのお墓が残っているとのことです。ゼームス邸は、1927年(昭和2年)、土地と一緒に三越が買い取り、この地には三越縫製工場が建てられ、現在はマンションになっていました。
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そして、この石碑を背にした道路の反対側を見上げると、彫刻家であり詩人でもある高村光太郎の妻、智恵子が亡くなったゼームス坂病院の跡地があり、そこには、智恵子の最期の様子を描いた「レモン哀歌」の直筆原稿の写しを拡大して刻んだ詩碑がありました。
レモン哀歌   高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱつとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの気管はそれなり止まつた/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう 〜詩集「智恵子抄」より〜
智恵子は、昭和10年、このゼームス坂病院に入院。昭和13年、退院することなく、この世を去ったのです。その後、智恵子が亡くなった10月5日を「レモンの日」としたとのことです。また石碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻んであるとのことです。
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寄木神社の創建年代等は不詳ですが、日本武尊が御東征の折、走水の海を渡る際に、海が大いに荒れ舟が進まず、時に弟橘姫が渡に入り海神をなだめた為、無事に対岸木更津に着くことができたが其御乗船の一部は砕けて、此洲にも流れた木片を納めて祀ったのがこの神社とのことでした。
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聖蹟公園・品川本陣跡
品川宿は、江戸四宿の1つで、東海道53次の第一番目の宿駅(しゅくえき)として発達し、 ここはその本陣跡で品川三宿の中央に位置していたのです。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、 公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところです。1872年(明治5年)お宿駅制度廃止後は、 警視庁病院などに利用されたとも。現在、跡地は公園となり、1868年(明治元年)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、 聖蹟公園と命名されているのです。
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問答河岸(もんどうがし)跡。
北品川どうぶつ病院の脇に石柱がありました。ここはかって海岸先の波止場で、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむとのことです。
将軍--「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚--「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
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今日は27℃!暑かったです。急な気温上昇に体が慣れていないことを実感。空気はからりとし、風があったことで救われました。
講師岡本先生、TDは阿部さんと長田さん。26名が9:30集合、16:15全員完歩で終了。正味約6時間はやや長く、歩程12km、約22000歩を無事に終えられてホツ!帰りの電車では爆睡し、帰宅後はいつもの様に過ごせたことは幸せなことでした。感謝!!
posted by yunofumi at 10:06| あちこちウォーク