2018年04月04日

2018.3.29 横浜散策 第9回南区

京急弘明寺駅⇒弘明寺⇒弘明寺駅前商店街⇒大岡川・観音橋⇒弘岡橋⇒大井橋⇒鶴巻橋⇒蒔田橋⇒井土ヶ谷橋⇒蒔田中学校⇒蒔田消防出張所⇒宮元町⇒地下鉄蒔田駅⇒杉山神社⇒横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地⇒蒔田中学校前バス停⇒井土ヶ谷事件の碑⇒井土ヶ谷橋⇒Y高(市立横浜商業高校)⇒大岡川蒔田公園⇒葭谷橋・川分岐点⇒吉野町市民プラザ⇒吉野町交番⇒南昌飯店(昼食)⇒吉野歩道橋⇒日枝小学校⇒お三の宮日枝神社⇒一本橋⇒前里町4丁目交差点⇒平戸桜木道路⇒宮川香山真葛焼窯場跡⇒白金町2丁目⇒道慶橋⇒太田橋⇒末吉橋⇒黄金橋⇒桜桟橋・長谷川伸の碑⇒オルガン広場⇒吉田新田・清正公堂⇒厳島神社⇒蓬莱町2丁目⇒大通公園⇒JR根岸線関内駅

9:30ウォーキングスタート時、講師の浅井先生より、本日は大岡川の川沿いで大岡川プロムナードと呼ばれる桜並木の散策も兼ねますとの説明がありました。
大岡川(おおおかがわ)は、横浜市磯子区氷取沢町が水源、長さ12km、最後は横浜港に注ぐ二級河川。上流部の笹下地区では笹下川の愛称で呼ばれているとのことです。
大岡川プロムナードは約3kmの桜並木で、500本の桜と約2500個のぼんぼりが飾られ、夜は淡いピンク色の桜が美しいようです。この大岡川プロムナードは全国6位、神奈川県内1位の人気の高いお花見スポットとのことです。

弘明寺(ぐみょうじ)は、高野山真言宗の横浜市内最古の寺院。 本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財。このあたり一帯は江戸期から明治22年まで弘明寺村と呼ばれていたようです。
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本堂の中に鎮座したご本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は写真撮影禁止。そして木造黒漆花瓶が二口ありました。これはケヤキを轆轤で成型した、高さ70cmの「亞」の字の形をした黒漆塗りの花瓶で1590年修理の銘があるとのことでした。

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社。旧武蔵国における式内社の一社とされますが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在するとのことです。
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横浜市営地下鉄第1号車両搬入の地。
横浜市営地下鉄は1972年12月に伊勢佐木長者町−上大岡間5.2kmで開業。 この区間内には車両基地が設けられていなかった為、開業時に使用される車両を搬入する場所が必要となり、選ばれた場所が鎌倉街道の蒔田駅付近の直線部だったのです。 
1976年9月には上大岡−上永谷、伊勢佐木長者町−横浜の2区間が開業し、この時上永谷車庫も完成。
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井土ヶ谷(いどがや)事件の碑。
生麦事件後の1863年7月3日(文久3年5月18日)、当分として、幕府は横浜居留地に 英仏軍隊の駐留を認めています。(これにより居留地山手地区に英仏軍隊が駐留したのです。)ちなみに、当時の外国人の遊歩区域は神奈川を中心として10里(東は六郷側、西は酒匂川)以内 と定められており、そのため彼らは、馬に乗って東は川崎、西は藤沢、江ノ島、南は 鎌倉、金沢辺まで出かけることがよくあったようです。
井土ヶ谷事件も居留地から保土ヶ谷方面に乗馬で出かけたフランス士官が不幸にも井土ヶ谷にて 遭遇した殺傷事件なのです。この井土ヶ谷事件で殺害された士官がカミュです。その後カミュは横浜の外人墓地に埋葬されました。
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Y高(市立横浜商業高校)は1881年(明治14年)横浜貿易商組合により、横浜商法学校設立が立案され、翌15年、授業開始。1888年(明治21年)には横浜商業学校と改称。1905年(明治38年)南太田の現在地に校舎が落成し移転。1948年(昭和23年)横浜市立横浜商業高等学校と改称。2012年(平成24年)には創立130周年を迎えています。その昔はさぞや一般人のあこがれの学校だったようです。
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大岡川が中村川と分岐するところに「蒔田(まいた)公園」(約2.3ha)があります。この付近一帯は戦後進駐軍に接収され、昭和31年に返還されました。 蒔田公園はその地に運動広場(野球場)を中心に公園として昭和59年4月に開園し、国際仮装行列の終点会場やメーデーの神奈川中央会場としても利用されているとのことです。
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蒔田公園で大岡川がふたつに分かれており、左は大岡川 右は中村川、上を高速道路が走っています。高速道路の下に見える中村川の一番最初の橋は葭谷橋(よしやはし)でした。

お三の宮日枝神社(おさんのみやひえじんじゃ)は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられ、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられているとのことです。
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)の広い範囲は、釣鐘の形をした入海だったとのこと。今からおよそ350年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた商人吉田勘兵衛良信が、この入海を埋立て、新田を築いたのです。(吉田新田)
この大工事は、明暦2年7月に鍬入れをし、翌年5月には13日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わっています。しかし、万治2年2月に再度試み、11年余りの歳月と8038両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ35万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、1673年(寛文13年9月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのです。これにより『横浜開拓の守護神』として、人々から親しまれているようです。
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この鳥居は山王鳥居というようです。鳥居の形式の一で明神鳥居の笠木 (かさぎ) の上の中央に棟柱 (むなばしら) を立て、木材を合掌形に組み渡し、その頂上に烏頭 (からすがしら) という反りのある木を置いたもので日吉 (ひよし) 大社の鳥居に始まるということです。

真葛焼(まくずやき)窯場跡には戦前まで宮川香山の真葛焼の窯場と住居があったようです。真葛焼は,初代香山が明治9年の万博に出品して一躍名をあげ、その後二代、三代とつづき、日本よりも海外での評価が高かったようです。横浜大空襲で、窯場と住居が焼失し、四代で廃業したとのことです。新坂の途中に案内板があり、その中に窯場の銅版画が印刷されていて、当時の様子がしのばれました。
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真葛焼は幕末に、京都の真葛原(まくずがはら)で宮川長造が焼き始めた陶磁器。1871年(明治4年)四男の宮川香山が横浜の太田町に移窯したことから太田焼ともいうようです。世界各地の万国博覧会で絶賛され、作品の多くは海外流出したとのことです。

現在の道慶橋(どうけいはし)付近には、吉田新田が出来るまで対岸の中村方面への渡し場がありました。吉田新田が完成した後、道慶という僧が、住民のために新田に通ずるよう大岡川に小橋を架け、これが道慶橋で、橋際の地蔵は道慶地蔵と呼ばれているようです。
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橋柱には僧が持つ錫杖の頭部に見られる輪形の遊環がついておりました。動かすと正に錫杖のように大きな音が鳴りました。
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道慶橋の傍から見た桜
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大田橋の傍から見た桜
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長谷川伸の碑(はせがわしんのひ)
小説・劇作家の長谷川伸は、1884年(明治17年)に今の日ノ出町駅生まれでその後も横浜で育ったようです。彼は父の破産によって小学校を中退、貧困のため幼い頃から第2号ドック(現在の日本丸メモリアルパーク)で小僧として働き、暇を見つけては小説を書いていたとのこと。 その後20歳で新聞記者となり、後に小説家にまでなったのです。長谷川信は1963年(昭和38年)にこの世を去りましたがその3年後、1966年(昭和41年)に長谷川伸賞が設立されています。主な作品は「関の弥太っぺ」、「瞼の母」、「一本刀土俵入」、など25点以上もの小説が今でも残されています。
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オルガン広場。
京浜急行「日の出町」は、オルガンの発祥地。千葉県出身の三味線職人の西川虎吉が明治13年(明治16年)頃に西川オルガン製造所を横浜市中区日ノ出町に設立したのです。オルガンは明治19年の小学校の義務教育化で、唱歌の伴奏楽器として使われ、音楽楽校・軍楽隊・教会などで盛んに演奏されたのです。虎吉が大正9年に亡くなり、当時の不況も重なって大正10年に「ヤマハ楽器」に合併されたのですが、西川オルガンの人気は高く、ヤマハのオルガンには、戦前まで「Nishikawa」の文字が刻まれ、製作が続いていたとのことです。
これを記念して駅前広場は『オルガン広場』という名が付けられ、広場の向いには『オルガン記念碑』も設置されています。
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吉田新田(よしだしんでん)は、現在の横浜市中区と南区に跨る地域で開墾された新田でここは江戸時代前期に吉田勘兵衛によって開墾されました。近代横浜の枢要部である関内地区の外側の、南西側に伸びる低地の市街地の多くは、この吉田新田の開発により陸化された土地で、その意味で、横浜発展の基礎を築いた新田なのです。
吉田勘兵衛はこの地に家を建て住み、彼の子孫の11代までが住み続けているのです。新田開発成功を知った4代将軍徳川家綱は、1669年(寛文9年)に功績を称え新田名は吉田新田と改称し、吉田に苗字帯刀を許し。延宝2年(1674年)に公式の検地が行われ、新田村となったのです。
長者橋のたもとの第10吉田ビルは吉田家の邸宅跡で、吉田勘兵衛の子孫が経営する吉田興産の所有。屋敷中にあった大井戸は200年にわたり住民の飲料水となっていたとのことです。
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今、屋敷跡には清正公堂や浄行菩薩がありました。
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厳島神社。
元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称したとのこと。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝わっているとのことです。 足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えています。境内には銭洗弁天社、豊受稲荷神社がありました。
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大通り公園(おおどおりこうえん)は、横浜市中区の公園。JR関内駅方面から、横浜市営地下鉄伊勢佐木長者町駅をほぼ中央とし、阪東橋駅にまで至る帯状の公園で、1973年(昭和48年)まで流れていた吉田川、新吉田川という運河を地下鉄建設に伴い埋め立て、1978年(昭和53年)9月に開園したのです。現在、この公園の真下に横浜市営地下鉄ブルーラインが通っているとのことです。
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JR根岸線関内駅
関内駅(かんないえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅。1964年(昭和39年)5月19日:国鉄根岸線 桜木町〜磯子間の開通時に、国鉄の駅が開業したことが最初。現在は1日約8万人が乗車のために行きかっているようです。

本日は春というより夏を感じさせる日和の陽射しのもと、日向は33℃、木陰は24℃、そして微風ですからウォーキングには最高の日よりでした。浅井先生、TD久森さんと共に23名は約18000歩、約10kmを完歩。今日は桜見物に終始したともいえますが何といっても真葛焼を知ったことが大きかったです。「宮川香山真葛ミュージアム」を一度訪れたいと思っています。
posted by yunofumi at 22:58| あちこちウォーク