2018年01月23日

2018.1.20 横浜散策 第7回瀬谷区(せやく)

相鉄線瀬谷駅⇒瀬谷駅北口交通広場⇒瀬谷小学校⇒横浜瀬谷北郵便局⇒長天寺(ダルマ太師)⇒相沢4丁目⇒横穴古墳跡⇒ファミリーマート瀬谷中央店⇒ジョナサン瀬谷駅前店⇒海軍道路⇒瀬谷中学校⇒本郷クリニック⇒横浜市瀬谷図書館⇒徳善寺(毘沙門天)⇒川口製糸株式会社跡⇒日枝社⇒瀬谷神明社⇒瀬谷銀行跡⇒中屋敷中央公園⇒善昌寺(恵比須神)⇒北向地蔵⇒妙光寺(大黒天)⇒竹村町バス停留所---バス----瀬谷駅⇒魚貝亭(昼食)⇒瀬谷駅南口⇒瀬谷写真館⇒世野の原の鷹見塚⇒横浜甦生病院⇒ほうさい殿⇒宝蔵寺(弁財天)⇒稲荷神社⇒西福寺(布袋尊)⇒左馬社⇒宗川寺(福禄寿)⇒全通院勢至堂(寿老人)⇒下瀬谷橋バス停留所----バス---瀬谷駅

相鉄線は正式には相模鉄道株式会社。
相模鉄道は1917年(大正6年)12月18日に創立。1921年(大正10年)に茅ケ崎駅(神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業。1931年(昭和6年)に橋本駅(同県相模原市)まで全通した。
一方、神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現:横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)に神中軌道として設立。1919年(大正8年)には神中鉄道への商号変更をし、1926年(大正15年)に二俣川駅 - 厚木駅間を開業。その後には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川の砂利輸送の営業を行った。その後この2社が合併したようです。以前は相模鉄道の資本関係は昭和産業と東京横浜電鉄(東横電鉄、現在の東京急行電鉄の前身の一つ)が半々の状態だったのが、1941年(昭和16年)6月に昭和産業が持ち株を東横電鉄に譲渡し、相模鉄道は完全な東横傘下となり現在に至っているようです。

長天寺(ダルマ太師)
1394年(室町時代応永元年)に開創。八福神のダルマ太師は釈尊依頼28代インドの高僧で禅宗の初祖といわれています。世寿150歳といわれ七転び八起きの縁起ダルマで親しまれているのです。
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ダルマ太師のお堂がありました。
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横穴古墳跡
長天寺の北側にあり、古墳から出土した装飾品等の品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められているとのことでした。現在はお寺の地面が崩れるといけないとのことで、古墳跡という碑が建っているだけでした。
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瀬谷区内を歩きはじめると「せやまる、このは」の看板がありました。
せやまるは、瀬谷区の形がコノハズク(ふくろうの仲間)に似ていることから生まれたマスコットキャラクターとのこと。
「せやまる」という名前は区民の皆さんから公募で決定され、平成14年に発表されました。メインキャラクターは「せやまる」と妹の「このは」ですが、ファミリーには「おとうさん」や「おかあさん」そして「おじいちゃん」や「おばあちゃん」もいるようです。

相鉄線瀬谷駅の北側へ伸びる海軍道路は真っ直ぐ伸びた直線道路の長さは約3km。道路の脇には450本のソメイヨシノが並び、最近では季節になると花見客を迎えてくれる桜の名所としても知られてきているとのことです。もともとは物資輸送のための旧日本海軍専用道路。敗戦後くらいに米国に接収されたとのことです。

徳善寺(毘沙門天)は曹洞宗寺院で瀬谷山というようです。開山は玄室泰存禅師で1555年(弘治元年)創建ということでした。
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毘沙門天がおられるお堂がありました。
毘沙門天のお堂の傍にタラヨウの木がありました。
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タラヨウ(多羅葉)はモチノキ科モチノキ属の常緑高木。葉は肉厚で20pほどもある長楕円形でその縁は鋸のように細かいきざぎざとなっているのです。昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたとのことで、寺社に多く植樹されているとのことです。葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前にも植樹されています。実際には字を書き、切手を貼りはがきとして受け付けてもらえるのです。

また「義民川口平本建功の碑」がありました。
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これは明治政府の財政を充たすため、初代神奈川県令睦宗光が地租改正事務局を設け、その租税頭となり実施強行を示達したところこれに反対ののろしが瀬谷・二ツ橋・宮沢・和泉・深谷・汲沢・阿久和の7ヶ村に挙がり、明治7年より12年間に挙り合法的減税運動を展開し、遂に東京上等裁判所において村方の勝訴となったということがあったとのこと。しかしこの時の功労者2名(川口儀右衛門・平本平右衛門)が過労で倒れたため村民がその儀に報いるためこの碑を建てたとのことです。

川口製糸株式会社跡。
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本郷地区周辺は桑の栽培に適した土地で、かって養蚕業が栄えたとのことです。明治〜昭和初期にかけて付近に製糸工場が建ち並び、製糸業が盛んだったのです。中でも、「本郷館製糸場」は周辺の製糸場で最も長く稼働していました。そして大正時代に川口製糸株式会社と名前を改めた後、1960年頃まで製造を続けていたとのことでした。

瀬谷日枝社は鎌倉時代には既に存立していたと思われます。1538年(天文7年)小田原北条の陣屋がこの神社の隣接台地に設けられた時、この地頭松波内蔵崇拝の社として敬われたとのことです。現社殿は昭和8年の改築されたようです。
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瀬谷神明社の創立年代は不詳とのことですが、宝暦11年改築の棟札には「願主青木四郎左衛門、副願主惣氏子申し」とあるとのこと。現社殿は昭和3年旧瀬谷の村々が費用負担して造営、昭和50年には修築されたようです。
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国分寺礎石と忠魂碑。
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奈良時代の741年(天平13年)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立され、その七堂伽藍の偉容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村有志が、忠魂碑の台石にと望んで1916年(大正5年)運賃諸費合わせ20円でゆずり受けました。忠魂碑には、明治10年(1877年)の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。昭和25年(1950年)まで瀬谷小学校横に建てられていましたが、その後、事情により徳善寺に移り、さらに平成9年(1997年)にこの地に移されました。

歩を進めると鎌倉古道の河津桜の並木がありました。1192年鎌倉幕府が開かれたことで鎌倉に通じる多くの径ができたようです。鎌倉古道は武蔵の国と相模の国を結ぶ重要な道でした。ここは今や散歩コースとして有名となり河津桜の名所でもあります。
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瀬谷銀行は1907年(明治40年)県央糸業金融(蚕の銀行)として資本金50万円で開業。1935年(昭和10年)鎌倉銀行に合併されるまで、地域の発展に寄与したのです。今、瀬谷銀行跡と案内のある門内には入れませんが開業時の建物などがそのまま現存されているとのことです。当時瀬谷区内では養蚕業が盛んで製糸場が多くあったことを物語っています。
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善昌寺(恵比須神)
1533年、甲斐武田氏ゆかりの人が創建した寺院とのこと。寅年だけ開帳される薬師如来像が安置されているそうです。
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そばのお堂の中には恵比寿様が安置されていました。
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北向地蔵は北向きにまつられた珍しいお地蔵さん。瀬谷柏尾道路に面していて、小さなお堂にまつられていました。
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妙光寺(大黒天)
もともとの652年(白雉3年)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするとのこと。大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称していたところ、1282年(弘安5年)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、この寺に立ち寄り一泊し説教などを聞きこの寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたとのことです。
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本堂傍に大黒天のお堂がありました。
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世野の原の鷹見塚(せやのはらのたかみづか)
このぽっこりとした丘は、一里塚それとも古墳と思いましたが実は江戸時代に鷹狩が行われたときの指揮所の後だとのこと。世野は今の瀬谷のことだそうです。
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宝蔵寺は1066年(治暦2年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまり、1396年(応永3年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたとのこと。1649年(慶安2年)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内地6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜りその後、菊のご紋章を許されたようです。昔の本堂は当初、墓地に隣接していたとのことですが三度の火災焼失で現在地に移り、今日の本堂は1844年(天保15年)の建造と伺いました。
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弁財天を奉安したお堂がありました。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、智恵財福のご利益があり、芸道技術の神としても崇拝されているとのことです。
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西福寺は、1534年(天文3年)の創建と伝えられており、圓中(天和元年1681年寂)が法流開山したとのことです。
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本堂傍に仏足跡があり、わが身の足が長く丈夫で元気に支えてもらいたくて撫でてきました。
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寺社内には布袋尊が安置されていました。
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左馬社(さばしゃ)。
昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んだったとのことです。(七サバ参り)この左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つでご祭神は左馬頭源義朝。
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隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことだとのこと。
梵鐘は1861年(江戸時代の文久元年)に鋳造されたのが、太平洋戦争の供出でなくなったのを、1957年(昭和32年)氏子の協力で新たに現在の鐘がつくられたのでした。
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宗川寺は、石川宗川が開基、富士重須本門寺第十二世日賢上人が寛永2年(1625)開山したといわれているとのこと。江戸時代には、宗川寺の東方80mほどの所に問屋場(中原街道の中継所)が置かれていたということです。
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福禄寿のお堂がありました。
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宗川寺の大樹夫婦銀杏。
山門を入ると左右の大きな夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、いまは横浜市の名木と指定された大樹です。
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中原街道瀬谷問屋場跡。
中原街道瀬谷問屋場は1578年(天正6年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間の五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果したとのことです。

全通院勢至堂(寿老人)
全通院勢至堂の建立年代は不詳、当初は阿弥陀堂として建立され、深見村の中丸佐源太が徳善寺に納めた勢至菩薩像をこの堂に移し、勢至堂としたことが現在にいたっているとのこと。
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御堂の中は暗かったのですが寿老人をカメラで捉えられました。
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下瀬谷分教場跡(勢至堂)の大藤。
1889年(明治22年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となり、この合併により瀬谷小学校の通学区域が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、1890年(明治23年)に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は1943年(昭和18年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。また、境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹がありました。お花を見にうかがうようです。

本日は瀬谷の八福神巡りでした。七福神の由来は徳川家康が七福神信仰を採り入れたことに始まり、江戸時代末期には、人々が開運を求めて七福神詣でを行うようになったことがはじまりのようです。瀬谷では、昭和59年正月より、七福神に達磨大師を加えてそれぞれの寺院に福神をまつり、全国でも珍しい「瀬谷八福神」ができ、今日はこの「瀬谷八福神」巡りをしたのです。廻った順番を整理すると以下のようになります。
@長天寺(ダルマ大師)A徳善寺(毘沙門天)B善昌寺(恵比須神)C妙光寺(大黒尊天)D宝蔵寺(弁財天)E西福寺(布袋尊)F宗川寺(福禄寿)G全通寺(寿老人)
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瀬谷区では八福神巡りのスタンプ用紙がありました。道順も書かれており、とても親切でした。どうやらすべて歩くと13km超えのようです。本日は駅を挟み北口出発の後4福神を巡り、一旦バスで駅に戻り昼食。午後南口出発の後続きでまた4福神を巡り、またでバスで駅に戻った次第で全歩程約8kmだったようです。
本日の講師浅井先生、TD清水さんのお世話で今日は参加者24人。午前は思いがけず日差しもあり気温9℃、寒い時期とはいえ快適に、9:30〜16:00、1日の歩程約2万歩を無事終了。また次も元気に横浜市内をウォーキングできるようにがんばります。
posted by yunofumi at 20:33| あちこちウォーク