2018年01月16日

2018.1.13 山手線歴史探訪ウォーク 第5回

目白駅〜新宿駅
JR目白駅⇒学習院大学⇒豊島消防署⇒目白警察署⇒千登世大橋・千登世小橋⇒高田1丁目⇒宿坂道・目黒不動・金乗院⇒南蔵院⇒山吹の里の碑⇒面影橋⇒甘泉園公園⇒堀部安兵衛の碑⇒西早稲田交差点・高田馬場跡・八幡鮨⇒グランド坂通り⇒都電荒川線早稲田停留所⇒豊橋・神田川⇒高田第二公園⇒肥後細川庭園⇒水神社・胸突坂・関口芭蕉庵⇒椿山壮⇒神田川桜並木⇒江戸川公園⇒大滝橋⇒旧関口町⇒東京外国語学校早稲田校⇒リーガロイヤルホテル(昼食)⇒大隈庭園⇒早稲田大学・演劇博物館⇒龍泉院⇒おそば三朝庵⇒早稲田高校・中学校⇒夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑⇒東京メトロ早稲田駅⇒穴八幡宮⇒放生寺⇒都立戸山公園・箱根山・戸山教会⇒戸山生涯学習館⇒抜辨天北公園⇒大聖院・紅皿の墓⇒西向天神社⇒新宿文化センター⇒日清食品⇒花園神社⇒新宿ゴールデン街⇒JR新宿駅新南改札口

本日は山手線5回目、都内ウォーキングで伺ったことがある所も幾つか含まれていますがまた違った趣もあるかと思い、参加しました。

学習院大学
1847年京都御所のそばに公家の教育機関として創立。1849年孔明天皇が学習院と命名。
1877年東京に華族学校が開設。明治天皇より学習院の名称を継承とのことで現在に至っているようです。1949年に新制の学習院が開学。現在5学部17学科、大学院は6研究科があるとのこと。門は昔のままのようでした。
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目白警察署は1923年に創設され豊島区を中心に受け持っている警察署。目白警察署の入口に掲げられている旭日章は、旭日を桜が囲んでいる図柄でした。この図柄は、警視庁管内に102署ある警察署の中でも目白警察署だけとのこと。これって旧近衛師団(皇居守護や儀仗に任じた旧陸軍の師団)が用いていたもので、学習院大学警備を担当する目白警察署が、昭和2年の庁舎移築の際に、その使用を特別に認められたものとのことでした。
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千登世橋(ちとせばし)は目白1丁目と雑司が谷との境界にある跨道橋。橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいました。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されています。戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初のもので、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つなのです。 1990年(平成2年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されたとのことです。

宿坂道(しゅくざかみち)は鎌倉街道に面していたようです。今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸などがいて通行人を化かしたなどという話もあるようです。
この左手には目黒不動のある金乗院です。
目黒不動・金乗院(こんじょういん)は、1573年(天正年間)あたりの創建ではないかと推定されているようです。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院といったようですが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となったようです。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたもの。また目白不動尊は、元々はこの寺にあったのではなく、1kmほど離れた文京区関口の新長谷寺にあったということです。
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南蔵院は三遊亭円朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になったお寺。境内には、植物園のように、いたるところに鉢植えが置いてありました。本堂の階段にも鉢植えがびっしり。本堂はコンクリート造りで新しそうでした。花が咲く時期に訪れたいものです。
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山吹の里の碑。
都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つが都電荒川線。その荒川線の駅を終点の早稲田駅から出発して次の駅が「面影橋」。そのすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っていました。
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「山吹の里」は太田道灌が、鷹狩りに出かけた際ににわか雨にあって付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出したのです。道灌は意味がわからず怒ってしまったのですが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914〜87)が詠んだ和歌、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき 」という和歌を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだということです。この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうで、それもやはりこの伝説にちなんだもののようです。近くには「山吹の里公園」もあるとのことです。この「山吹の碑」は1686年(貞享3年)に建てられたもので、最初は面影橋の辺にあったようです。

甘泉園公園は、区立唯一の回遊式庭園です。
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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたといわれています。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなすのです。ここは、江戸時代宝永年間(1704-1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に初代清水家の江戸下屋敷があったとのこと。明治以降は、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が付属甘泉園として譲り受けその後昭和44年には区立公園となったのです。この公園は現在、ツツジの花、アジサイの花、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として人々に親しまれているとのことでした。

堀部安兵衛助太刀の場所の碑。
1694年(元禄7年2月11日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒したのです。この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄15年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、1910年(明治43年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたとのこと。その後、昭和46年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されたようです。
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新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道はグランド坂通りとあり、新目白通りから、北東から南西に早稲田通りの西早稲田交差点まで上る坂道とのこと。早稲田大学早稲田キャンパス(旧称:西早稲田キャンパス)の中を通り、坂名の由来となったグランドがあった所に位置する早稲田大学総合学術情報センター(大学図書館等がある)は、この坂道の北側に接しています。道筋は逆S字型ですが、坂中央部が長い直線になっています。

都電荒川線早稲田停留所は、西早稲田一丁目の新目白通り上にあり、都電荒川線の停留場で同線の終点でもあります。

豊橋(ゆたかばし)・神田川。
都電早稲田駅から北に入ってすぐのところにかかる橋。逆に南に進めば早稲田大学脇の「大隈通り」に入ります。橋の北側を少し行くと豊川稲荷があり、その脇に日本女子大前につながる「豊坂」という坂道があるのです。橋の名前は直接にはこれらにちなんだものかと思われます。 橋自体は変哲のないコンクリート橋ですが、周囲の景観は変化に富んでいて散歩向き。付近の両岸は桜の名所で、初夏の緑もなかなかのもので、南側の学生街、北側の高田1丁目あたり、いずれも町並みに特色があってちょっと楽しいのです。

肥後細川庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。
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目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂、胸突坂があります。神田川にかかる駒塚橋から見ると、左手の水神社の白い鳥井と、右手の関口芭蕉庵の塀に挟まれた細い道が、生い茂る木々の間を上っていくのが見えます。坂下には水神社(神田上水の守護神)があります。坂道を挟んで向かい側には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵がありました。

関口芭蕉庵。
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいました。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているのです。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたのが現在の芭蕉庵につながっているとのこと。現在のものは第2次大戦後の建築だそうです。

椿山壮はホテルとして1992年(平成4年)に開業。2万坪の日本庭園で知られる老舗結婚式場が敷地内にあります。

リーガロイヤルホテル東京に隣接しているのが大隈庭園。
広い芝生が広がる和洋折衷式の庭園。作者は佐々木可村とのこと。大隈邸の竣工した明治20年に庭園も完成していたようです。
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夏目坂通り・夏目漱石誕生の地碑。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子の安倍能成氏によるもの。漱石は1867年(慶応3年)、この地に生まれ、誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克とのこと。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしたようです。
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穴八幡宮。
蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされていわれています。旧称は高田八幡宮。1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったということです。1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称し、3代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたのです。
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歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されているのです。江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名とのこと。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているとのことです。

都立戸山公園・箱根山。
都立戸山公園は尾張藩の下屋敷。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万uの広大な敷地には池や山のほか、多くの寺社もあったようです。第2次世界大戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の接収を経て、一部が都立公園として整備されたのです。公園は明治通りをはさみ「箱根山地区」「大久保地区」の2エリアに分かれています。春から夏にかけてはサクラやツツジ、秋は紅葉が見ごろ。箱根山に登り「登頂証明書」をもらうことができました。
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箱根山は標高44.6mで山手線の内側で最高峰。江戸時代、この地には尾張藩の広大な下屋敷があったので2代藩主の徳川光友が庭園を造った際、池を掘った土で築かれた人造の山が今もその姿をとどめています。明治維新後、土地の所有が政府に移ると、庭園は壊され、陸軍戸山学校が設けら、射撃場、軍医学校……。軍事面で近代国家を支える拠点となったのです。

抜辨天。
白河天皇の時代、1086年(応徳3年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのがこの厳島神社の始めと伝えられています。参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。また山之手七福神を構成する弁財天でもあるとのことです。
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大聖院・紅皿の墓。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成されています。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられていました。
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西向天神社。
1282年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。旧・東大久保村鎮守。祭神菅原道真。この方は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇ったのです。
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花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。戦争を経て1947年(昭和22年)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。
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新宿ゴールデン街は新宿区の飲食店街でおよそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。昼間なのでどうやら巡り歩くことができました。

本日はセンター試験初日で多くの若者を見受けました。私どもの参加者は16名、そのうち珍しく男性が6名含まれていました。案内は岡本先生とTD長田さん。朝自宅出発時は気温はマイナス、日中も7℃くらいでしたが晴天で風もなく、9:30〜15:30過ぎまで大いに楽しみながらのウォーキングでした。本日で歩程は約半分。今後もがんばります。
posted by yunofumi at 00:42| あちこちウォーク