2018年01月14日

2018.1.11 山手線歴史探訪ウォーク 第4回

巣鴨駅〜目白駅

JR巣鴨駅⇒巣鴨橋⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡⇒染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り⇒真性寺・銅造地蔵菩薩坐像⇒都立染井霊園⇒慈眼寺⇒本妙寺⇒東京都中央卸市場豊島市場⇒高岩寺・とげぬき地蔵⇒巣鴨地蔵通商店街・みずの⇒猿田彦大神・庚申堂⇒都電荒川線庚申塚駅=都電荒川線向原駅⇒東池袋3丁目都バス停留所⇒豊島消防署⇒豊島郵便局⇒サンシャインシティ・プリンスホテル・レストランバイエルン(昼食)⇒東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地⇒帝京平成大学⇒都電荒川線東池袋4丁目(サンシャイン前)停留所⇒大塚5丁目⇒日本大学豊山高校⇒護国寺惣門⇒護国寺⇒雑司ヶ谷霊園⇒雑司が谷旧宣教師館⇒都下水道局雑司ヶ谷庁舎⇒清立院・毘沙門天⇒南池袋4丁目⇒大鳥神社・七曲りの水⇒鬼子母神大門欅通り⇒鬼子母神・武芳稲荷大明神・上川口屋・おせんだんご⇒鬼子母神西参道⇒目白小学校⇒川村学園⇒学習院⇒JR目白駅

徳川慶喜巣鴨屋敷跡。
巣鴨駅の向かい側に石柱と案内板があります。
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徳川慶喜は、明治維新のどさくさの際、新政府から慶喜追討令が出され、寛永寺、水戸講道館で謹慎後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。その後、転居したのですがこれは、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだったとのこと。その翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。 しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。 徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。 徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。

染井吉野石碑・巣鴨桜並木通り。
今は冬なので木々の並木をみました。「ソメイヨシノ」は巣鴨(染井エリア)の発祥なのです。

真性寺・銅造地蔵菩薩坐像。
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江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像。一番品川寺、二番太宗寺、三番真性寺、四番東禅寺、五霊厳寺、六番永代寺があるとのこと。江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進を得て、江戸の出入口6箇所の地蔵菩薩坐像を造立したのです。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したのです。但し、江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったのが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されたようです。ということで第六番の仏様が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目6-4)に祀られているとのことです。

染井霊園(そめいれいえん)は都営霊園。旧称は染井墓地。水戸徳川家墓所、水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓、徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓があります。面積は67,911u、およそ5500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さいとのことです。園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として知られています。高村光雲、光太郎、智恵子のお墓を見ました。

慈眼寺はもともと深川六間掘猿子橋に創建。色々移転後1912年(明治45年)谷中妙伝寺と合併の上、この地へ移転、山号を正寿山と改号しました。現境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎、司馬江漢、小林平八郎等の墓がありました。

本妙寺(ほんみょうじ)は、巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移り、その後1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移ったのです。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移転。1657年(明暦3年)の明暦の大火はこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられるため現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がありました。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。千葉周作、森山多吉郎、遠山景元のお墓を見ました。
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東京都中央卸市場豊島市場.
豊島市場の起源は、16世紀頃の「辻のやっちゃ場」駒込土物店(つちものだな)。駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺境内にあった「さいかち」の大樹に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であるといわれています。江戸時代には、神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えたようです。その後東京市となり、関東大震災後の帝都復興事業を経て、大東京市域に散在していた私設市場も統合され、昭和12年3月東京中央卸売市場豊島分場としてこの地に開業し今に至っているようです。

高岩寺・とげぬき地蔵
高岩寺は1596年(慶長元年)に江戸湯島に開かれ約60年後、下谷屏風坂に移り巣鴨には1891年(明治24年)に移転してきました。ご本尊は「とげぬき地蔵」とよばれる延命地蔵菩薩。こちらの地蔵菩薩様は秘仏で見ることはできません。
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1657年江戸時代の明暦の大火で、檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。  この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行、新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義江氏で今はタワシを廃止し布で洗うことになっています。今日も長い行列ができていました。またこの門前の巣鴨地蔵通商店街では「みずの」の塩大福を購入しました。

猿田彦大神・庚申堂。
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1502(文亀2年)、高さ八尺(約2.4m)の庚申塔をこの地に造立したのが創祀といわれているとのこと。1657年(明暦3年)、明暦の大火(振り袖火事)が発生した時、上州・秩父・川越方面より復興に使用される木材がここに多く集積されたのです。ある時、庚申堂の碑に立て掛けられた竹木が重心を失って倒れ、庚申塔に当り、塔は五つに砕け、村中で協議し、丈を縮めた塔を再建し、砕けた塔はその塚の土中に埋めたとのこと。この場所は旧中山道(現・地蔵通り)と旧王子道(現・折戸通り)が交差しており、板橋宿に至る途中の立場(たてば・休憩所)として、賑わった場所でもあったのです。明治初期には、千葉県銚子市の猿田神社の御分霊を勧請、その後色々の経緯があったようですが1982年(昭和57年)に庚申堂奉賛会が発足、1991年(平成3年)に山門の改築に至っているとのことでした。

都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋〜早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが多くあるようです。本日は庚申塚駅から向原駅まで乗車。お客さんが多くて驚きました。また東京都交通局では、都電荒川線を「東京さくらトラム」という愛称にしているとのことでした。
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東池袋中央公園・巣鴨プリズン跡地。
ここはかつての巣鴨刑務所跡地。後に東京拘置所と改称、さらに1945年の第二次大戦後にはGHQに接収されて「スガモプリズン」と呼ばれた所。さらにその後、巣鴨刑務所とされたが1958年に閉鎖されたようです。端のほうに「永久平和を願って」と彫られた石碑があり、背面には以下の文言がありました。「第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月」

護国寺惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という、性格をあわせもっているとのこと。 形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容で当時が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映しているようです。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財となっているのです。
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護国寺は1681年(天和元年)に徳川綱吉が母、桂昌院の願いで桂昌院の祈願寺として建立したとのこと。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあるとのこと。江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったようです。
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雑司ヶ谷霊園は、東京都立の霊園で面積は約115,400u。夏目漱石をはじめジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くありました。
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雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。マッケーレブは、1941年(昭和16年)に帰国するまでの34年間この家で生活をしたのです。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築とのこと。建物は、木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式、細部のデザインはカーペンターゴシック様式、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅なのです。
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七曲りとは、鬼子母神の参道から大鳥神社に抜ける路地の名前。クネクネと7回曲がることからこう呼ばれているのです。この七曲りの中ほどに昔から近所の共同井戸として使われていた井戸がありこれを七曲りの水と呼んでいます。
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大鳥神社
もともとは正徳年間に鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀されたのが始まり。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称し、仮遷座したのです。その後旧幕臣矢嶋昌郁氏が自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地として定まり、現在に至っているようです。
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鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂。
鬼子母神は1578年(天正6年)の創建で現在の本殿は1664年(寛文4年)に、加賀・前田利常の息女自昌院殿の寄進により建立されたとのこと。
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その前田家から、境内での営業を許された「あめ屋」から始まったお店が「上川口家」。家紋が看板に刻まれていましたがこれは「鶴丸」とのこと。森蘭丸などが使用した家紋らしいのです。今の店主は13代目とのこと。お店には、数々の昔懐かしい駄菓子が並んでいました。
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また境内にはおせん団子もありました。鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるようにという願いに由来しているようです。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれましたのです。

本日は晴天で風もなく気温10℃はウォーキングにぴったり。岡本先生、TD大木さんの付き添いで8km 20000歩。朝9:30から約5時間。のんびりペースでしたので16人は和気あいあいと無事完歩。昼食がバイキングと気ままに過ごせたこともよかったと思いました。
posted by yunofumi at 21:20| あちこちウォーク