2017年12月15日

2017.12.7 第20回東京の新発見「新宿区」

副都心線西早稲田駅3番出口⇒タリーズコーヒー⇒早稲田大学西早稲田キャンパス⇒新宿コズミックセンター・戸3丁目⇒箱根山・箱根山陸軍戸山学校址⇒都立戸山公園⇒箱根山通り⇒早稲田大学正門⇒穴八幡宮・馬場下交番⇒木組博物館⇒高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑⇒甘泉園公園⇒水稲荷神社⇒甘泉園⇒大隈通り⇒観音寺⇒早稲田大学・大隈講堂・会津八一記念博物館・坪内博士記念演劇博物館「シェークスピア」完訳記念⇒トラード早稲田⇒
成文堂⇒鶴巻公園⇒牛込弁天町・幸和印刷⇒宗参寺・牛込氏墓・山鹿素行墓⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒草間彌生・草間彌生ミュージアム⇒晴和病院⇒林羅山墓地・北山伏町⇒市谷小学校⇒市ヶ谷加賀町アパート⇒峰隆太氏宅⇒牛込第三中学校⇒なんど児童遊園⇒中華料理月下炉(げっかろ)(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒フルオンザヒル⇒神楽加賀⇒善国寺⇒寺内公園⇒本多横丁⇒神楽坂通り⇒JR飯田橋駅

都立戸山公園は箱根山を中心とした箱根山地区と、明治通りを隔てた広場・大久保地区に分かれていました。箱根山(はこねやま)は、都立戸山公園内にあり、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)とのこと。山頂の水準点の標高は44.6m。紅葉が美しく近所の保育園児が多くお散歩に来ていた。また本日はこれmでのウォーキングでご一緒になった叔父様3人組と記念撮影をしました。
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箱根山は尾張徳川家のシミ屋敷があったところ。そこには見事な大名庭園戸山荘があったとのことですがこれがのちに陸軍戸山学校になり、今は記念碑がありました。この学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)の一つで、歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していたとのこと。現在、歩兵戦技・体育の教官育成と研究は自衛隊体育学校に、軍楽は陸上自衛隊中央音楽隊教育科に引き継がれているとのことでした。
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穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、旧称は高田八幡宮。
1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのがはじまりとのこと。1636年(寛永13年)に的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称したのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としその後も歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したのでした。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれているとのことです。
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木組博物館は西早稲田2-3-26ホールエイト3階にあり、清水建設の関連施設です。木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを展示していました。 約40年に渡り数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた方々ではじめたとのこと。伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化が、危機的状態に向かっているのを肌で感じ必要性を感じたのです。また木組み博物館は、従来の展示中心型、五感体験型からより能動的で深く心に刻まれる参画型の生きた博物館にしたいとの趣旨のようです。
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高田馬場跡・堀部武庸加功遺跡の碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)。
早稲田大学のすぐ西側にある水稲荷神社の石段を登ったところに、この石碑がありました。
建碑年は1910年(明治43)とのことです。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場があり、元禄7(1694)年に「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いがあり、助太刀をした堀部安兵衛は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。そんな彼のことを記したのが、この石碑で題額は、西園寺公望で清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴。文章を書いたのは信夫粲当時有名な漢学者。所在地】新宿区西早稲田3-5-43 
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水稲荷神社には太田道灌「道渡つかみさしの榎」を植え、榎の空洞から水が湧き出たのです。
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甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は江戸中期の清水家の大名屋敷跡につくられた日本庭園で新宿区立唯一の回遊式庭園。「甘泉園」の名は、ここの山吹の井から出る湧き水がお茶に適していたところからきたとのことです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して、訪れた人々をもてなしているのです。
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早稲田大学(わせだだいがく)は1920年に設置。江戸時代末期の蘭学校であった北門義塾(柳田藤吉の創設)が明治5年閉校後、その意思を受継ぎ隣地に大隈重信が明治14年の政変で下野した後に設立した東京専門学校が前身。日本の私立大学としては慶應義塾大学(「早慶」の慶)などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となったのです。2011年現在、10の学術院のもと13学部・21研究科(大学院)を設置している。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。また大隈重信が明治を代表する政治家であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの逸材を輩出している。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。 正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」。 早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめ、建築学科の教員らを中心に設計された。
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会津八一記念博物館。
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会津八一は東洋美術史の研究者、歌人、初夏でもあり、早大卒で教鞭も取ったようです。
ここには早大創立以来の学術研究成果、大隈重信遺品、富岡重憲コレクションなど収蔵品は2万件あるとのこと。本日は幸運にも横山大観・下村観山による名画「明暗」が見られました。

坪内博士記念演劇博物館。
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演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。
以来、演劇博物館には日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えているとのこと。錦絵46,800枚、舞台写真400,000枚、図書255,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点など。
演劇博物館の建物自体が、ひとつの劇場で、舞台正面にはTotus Mundus Agit Histrionem“全世界は劇場なり”というラテン語が掲げられているとのこと本日は工事中で詳しくみられませんでした。

トラード早稲田
早稲田大学の大隈講堂の南側の道路を挟んだはす向かい辺りに、この奇想天外な建物がありました。1983年早稲田大学理工学部建築学科を卒業した梵寿綱(ぼんじゅこう、本名田中俊郎)という「日本のガウディ」と呼ばれる建築家の作品だそうです。
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宗参寺(そうさんじ)は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことが始まり。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたということです。
宗参寺内には牛込氏累代の墓がありました。また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありました。

漱石公園には夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、漱石山房記念館に再現されていました。
本年9月に都立の施設として開館したのです。
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草間彌生ミュージアムでは今、草間彌生美術館開館記念展をこけらおとしとして開催中のようでした。近くには彼女のスタジオもあるようでした。
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宮城道雄記念館は宮城道雄の偉業を顕彰するとともに、今後の日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日、故人が晩年まで  住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館。宮城道雄の生涯や楽器もみられました。館内には名曲「春の海」が流れていました。
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毘沙門天で有名な善國寺は創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年前に麹町に創建。1793年(寛政5年)にこの地に移転。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与え、さらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となったのです。
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本日は見るところが多く歩程11km、16000歩だったのですがやや疲れました。日本晴れで気温12℃、絶好のコンディションの中、講師信野先生、CD菅野さんで参加者20人は最後までどうにか元気でした。本日でこの23区めぐりは一応完結。しかし私はお休みしたのが3回あり、来年に持ち越しです。一巡完歩されたお二人におめでとう!の拍手を送りました。
posted by yunofumi at 20:45| あちこちウォーク