2017年11月27日

2017.11.22 山手線歴史探訪ウォーク 第3回

西日暮里駅〜巣鴨駅

10/1に第1回終了後、都合で第2回を欠席。ということで本日は第3回の歩程をこなしました。

JR西日暮里⇒開成学園⇒谷中3丁目⇒よみせ通り商店街⇒道灌山下交差点⇒旧駒込林町案内板⇒駒込林町公園⇒高村光太郎旧居跡・千駄木東林町会⇒宮本百合子ゆかりの地・千駄木5丁目⇒高村光雲・豊岡遺宅⇒須藤公園⇒講談社発祥の地・講談社社宅⇒団子坂⇒団子坂上交差点⇒千駄木1丁目バス停⇒青鞜社発祥の地⇒森鴎外記念館⇒観潮楼跡⇒薮下通り・文教八中⇒夏目漱石旧居跡・日医大検診医療センター⇒文教向丘⇒高齢者在宅サービスセンター⇒駒込学園前交差点⇒光源寺・駒込大観音⇒清林寺⇒栄松院⇒瑞泰寺⇒白山上向丘商店街⇒向丘2丁目交差点⇒はきもの下駄福⇒地下鉄本駒込駅⇒駒込土物店跡・天栄寺⇒定泉寺・十一面観世音菩薩⇒定泉寺前交差点⇒医歯薬出版社⇒旧駒込片町案内板⇒南谷寺・目赤不動尊⇒半井桃水の墓・養昌寺⇒吉祥寺前交差点⇒吉祥寺・榎本武揚の墓⇒天祖神社⇒第九中学校⇒駒込名主屋敷⇒富士神社⇒木戸少将邸跡⇒魚源(昼食)⇒上富士前交差点⇒東洋文庫⇒駒込警察署⇒Bunkyo Green Court⇒フレーベル館⇒六義園⇒JR駒込駅⇒駒込公園・染井吉野発祥の里石碑⇒駒込駅前通り商店街・日光御成街道⇒妙義神社⇒中央聖書神学校・中央聖書教会⇒女子栄養大学⇒亀の湯⇒霜降橋⇒西原1丁目⇒旧古河庭園⇒しもふり商店街⇒染井坂⇒駒込小学校⇒旧丹羽家腕木門⇒本郷高校⇒染井駐在所⇒区民ひろば仰高⇒JR巣鴨駅

詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。
東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動を目の当たりに見たようです。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会い、大正3年、詩集『道程』を発表し、その年に智恵子と生活をはじめたようです。智恵子の亡くなった後『智恵子抄』を刊行。此処は、明治45年から東京大空襲に会う昭和20年まで住まいしていたところとのことです。案内板のみがありました。

宮本百合子ゆかりの地。
旧姓中条ユリ(1889〜1951)は1899(明治32)年、小石川原町(現千石2丁目)で生まれ。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任したことで彼女は3歳まで札幌で成長。そののちに上京し、一家は旧駒込林町21番地に住んだとのこと。

高村光雲(こううん)・豊岡(とよちか)遺宅。
高村光雲(1852〜1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだのです。 明治 23年(1890)東京美術学校(現芸大)の創設と同時に教授、帝室技芸員となり、以後 30余年にわたり、多くの後進を指導しました。明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えた。代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあるとのこと。 明治 25年(1892)に下谷からこの谷根千(やねせん)に移り、昭和 9年に歿するまで、42年間住いしたのです 詩人・彫刻家の高村光太郎(1833〜1956)は、光雲の長男で、大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木 5-22-8へ転居したてきています。 鋳金家の高村豊周(1890〜1972)は、光雲の三男で、家督を継いだ方。昭和8年(1933)東京美術学校(現芸大)教授となり、鋳金家協会をつくりその会長となった
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青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地。
生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集和子、保持研子、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年田村俊子、野上弥生子ら18人を社員として青鞜社が結成され同時に雑誌『青鞜』が発刊されたのです。当初は詩歌が中心の女流文学集団だったがやがて伊藤野枝が中心となり婦人解放運動に発展していったのです。ここは案内板のみでした。

森鴎外記念館
平成24年11月1日、森鴎外生誕150年を記念し、鴎外の旧居「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に開館したのです。年2回の特別展や継続的に入替を行う展示室のほか、大画面での映像が楽しめる映像コーナー、鴎外関連の調査・研究のための図書室などがあるようです。オリジナルグッズをはじめ鴎外関連の書籍等を取り扱うショップ、庭園がのぞめるカフェなどの施設もあるようですのでまたゆっくり伺い所です。
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文豪夏目漱石(1867〜1916)の旧居跡。
此処は漱石がイギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだ所。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師をしていた。此処で『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となったのです。また『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表したところでもあるようです。家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されており、先日の旅行で見てきました。
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光源寺(こうげんじ)の駒込大観音。
浄土宗天昌山光源寺は天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)にこの地に移転したとのこと。境内の駒込大観音は元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像だったが東京大空襲で焼失した。今は平成5年に御丈6m余の像が再建されていました。
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駒込土物店跡は江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた場所で起源は元和年間(1615〜1624)といわれているとのこと。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。、此処の近くにある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名で、大根、にんじん、ごぼうなどが土のついたままの野菜(土物)として取り引きされたのです。現在駒込土物店縁起の碑が天栄寺の境内にありました。
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南谷寺(なんこくじ)・目赤不動尊。
元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたのです。江戸の五色不動の一つとなっています。
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吉祥寺の山門は大きな四脚門で中央には曹洞宗の学問所という意味の「栴檀林」という額がありました。
この寺は元々、太田道灌が江戸城を築城の時に堀った井戸から「吉祥増上」の刻印が出たことで建てられたとのことです。
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昔のままの経典が納められている経蔵は二重の屋根の上に露盤宝珠がありました。
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榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の政治家。化学にも精通しており東京農業大学の生みの親でもあります。新政府軍と旧幕府軍が争った一連のいざこざの時、旧幕府軍側の立場で函館戦争を指揮、それでも後には明治新政府の総大将黒田清隆と出会い、その後は駐露公使、外務大輔、海軍卿、駐清公使を任ぜられ、内閣制度ができてからは逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣などの要職を務めた大物です。墓所はとても立派でした。
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天祖神社(てんそじんじゃ)の創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられているとのこと。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648‐1652)堀丹後守年直が再興。東京大空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。
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駒込名主屋敷。
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築とのこと。
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一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われたのです。

富士神社。
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことがはじまりで、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移したとのこと。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなったのです。
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東洋文庫
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。
東洋文庫は東洋学関係図書の収集、研究所の出版、国際交流などを行って地歩を確立。その後国立国会図書館の支部を経て現在は東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館となっているとのこと。
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Bunkyo Green Court。
旧理化学研究所→科研製薬工場の跡地に建てられ、1棟の高層オフィスビル、2棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設。センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居しているとのことでした。
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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を完成させたのです。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとのこと。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立ち、設計は柳沢本人によるものと伝わっているのです。春は桜で有名ですが今日は紅葉が見事でした。
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東京駒込妙義神社。
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
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旧古河庭園。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が別宅とした後、明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移り古河庭園となったのです。その後の1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始したのです。1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドルにより設計監理されたのでした。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となってきました。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
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旧丹羽家腕木門。
旧丹羽家の門は、腕木という梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門。 いい伝えでは、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれているようです。
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本日は見るところが多く濃い内容でした。天候は曇りでしたが風もなく一段と気温が下がり、12℃という日和の中をウォーキングしました。歩程約8kmとはいえ、22000歩で終了。講師ははじめての藤浦先生、CDは斉藤さん。仲間21人とともに大きな庭園を2つも見て歩き、盛り沢山でやや気疲れもありましたが全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 23:05| あちこちウォーク