2017年11月01日

2017.10.28 横浜散策第5回 保土ヶ谷区

相鉄本線天王町駅⇒シルクロード天王町・江戸方見附跡⇒橘樹神社⇒帷子川⇒天王町駅⇒旧帷子橋跡-天王町駅前公園⇒横浜岩間郵便局⇒大門通り交差点⇒神明社⇒古東海道石碑⇒神戸保育園⇒大蓮寺⇒旧中橋跡⇒反則センター交差点⇒帷子会館⇒旧新義塾前バス停留所⇒保土ヶ谷宿場通り・保土ヶ谷駅西口商店街⇒助郷(すけごう)会所跡⇒帷子町・問屋場跡⇒保土ヶ谷税務署⇒金沢横町道標四基⇒上岩間踏切⇒かなさわかまくら道・政子の井戸⇒横浜清風高校⇒北向地蔵⇒いわな坂⇒福聚禅寺⇒岩井町自治会館⇒宿場そば桑名屋⇒金子本陣跡・保土ヶ谷一丁目⇒脇(水屋)本陣跡⇒茶屋本陣跡⇒旅籠屋(本金子屋)跡⇒大仙寺踏切⇒大仙寺・軽部家墓所⇒今井川⇒一里塚跡・上方見附跡

相鉄本線天王町駅。
相模鉄道本線にははじめて乗車。横浜が起点の2.4kmの路線とのこと。駅名は鎌倉時代に創建された「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」から由来しているようです。歌川広重作『東海道五十三次』の「程ヶ谷」では、駅そばを流れている帷子川に架かる橋が描かれています。ウォーキング途中の商店のシャッターに描かれていた絵かと思います。
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江戸方見附跡
「見附」は「見張り所」「警備所」の役割をしており宿場の境を示し、見附から見附までが正式な宿内であることを示す目印だったとのこと。また見附では参勤交代の大名が来ると宿場役人は見附まで出迎えに行き、「下にぃ、下にぃ」という大名行列は宿内で行われたこと。大名行列は宿場を出ると、結構なスピードで移動したことなど講師からお話がありました。
東海道の宿場の入口と出口が見附で、江戸の方は江戸方見附、京都の方は上方見附といったようです。
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橘樹(たちばな)神社は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守様で「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれているとのこと。文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝わっているようです。祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、こちらも「祇園社」と称されているのです。祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事でしたが、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっているのです。
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旧帷子橋跡-天王町駅前公園
江戸時代、天王町駅付近は東海道の「保土ヶ谷宿」(程ヶ谷宿)という宿場でした。保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』川が流れており東海道を往来する旅人がこの川を渡るために使った橋が『帷子橋』なのです。
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1964年に、暴れ川だった帷子川の流れを天王町駅南側から北側に付けかえられたので帷子橋の位置も変わったのです。この公園にあるのが記念碑で現在の川は下の写真です。
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神明社(旧伊勢神宮領榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建で横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとのこと。鎌倉時代の始め、神様のお告げで現在地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる本社と豊受大神宮や境内神社がまつられたようです。先年「平成の大造営」が行われ、社殿が新しくなったのです。
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大蓮寺。
仁治三年、日蓮聖人が21歳の際、鎌倉へ遊學の途中、保土ヶ谷宿にて淨土宗の民家に宿泊したところ、その家の子供が釋迦尊像で遊んでいるのを見て仏様のことをヘ示し、それにより後年この家の主が改宗して、家の宅地を法華堂としたのが始まり。これが日蓮宗に改宗した帷子里宗祖宿泊の靈場になったのです。法華堂は当初帷子橋畔にあったのが、ェ永2年、正住院日圓が神戸の小丘の半腹に移し西孝院大蓮寺と名付けたとのことです。
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徳川家康の側室養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がありました。
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助郷(すけごう)会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷といったようです。
保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよび指定された郷村にかなり負担がかかったようですが村々では助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていたのです。明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃止されています。
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問屋場(といやば)跡は宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのです。問屋を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などの宿役人がいたとのことです。
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金沢横町道標四基
東海道・程ヶ谷宿の帷子町金沢横丁の辻に4基の道標が並んでいました。向かって右側から「円海山之道」(天明3年(1783年)銘)、「かなさわ かまくら 道」(天和2年(1682年)銘)、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(文化11年(1814年)銘)、「富岡山芋大明神江乃道」(弘化2年(1845年)銘)の4基。解説によれば以下のようです。ほとんど読めませんでした。
 「円海山之道」道標の右側面には「○×か奈沢みち」。
 「かなさわ かまくら 道」道標の左側面には「ぐめうじ道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」句碑の左側面には「是より杉田道」。
 「富岡山芋大明神江乃道」道標には「富岡山」。
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上岩間踏切はJRの海道線と横須賀線が並走している踏切。開いている時間の方が少ないように思いました。
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源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られたとのこと。保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校(旧明倫高校)方面へ向かう”かなざわかまくら道”の途中の急な坂道(磐名坂(いわなさか)を上る途中に政子の井戸とも呼ばれる「御所台(ごしょだい)の井戸」がありました。 政子は、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のこと。 この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあるのです。
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坂道(いわな坂)を上りきった交差点の脇に「北向(きたむき)地蔵」がありました。お地蔵様が見守るこの道は「かなざわかまくら道」。
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この地蔵は享保2年(1717)に建立。昔話で伝わっているのは、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことで、それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したのです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったようです。またこの地点は「かなざわかまくら道」の分岐点で、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と 弘明寺方面への道案内も兼ねているのです。

福聚禅寺は建武2年(1335年)南北朝時代初期の創立。当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西巳久保町)の山腹に在ったとのこと。世に知られる様になったので光庵和尚を中興開山としたとのことです。その後も移転を繰り返したようですが境内山林の開拓とともに明治21年には本堂、庫裡、山門を建立したようです。
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墓所には東海道中膝栗毛の作者である十返舎一九の弟子の五返舎半九の墓誌がありました。
この名前は、師匠の十返舎一九の半分だからと命名したようです。半九の娘が横浜港崎町で芸妓を経営する[橋本楼]の後妻であったことから、橋本家菩提寺である福聚寺に墓誌が建立されたとの推測があるとのことです。
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宿場そば桑名屋は創業明治19年。東海道五十三次保土ヶ谷宿を基調に、宿場風な店作りで八割蕎麦を提供しているとのこと。お店のたたずまいは昔風。ご主人は宿場を盛り立てようとの熱意が伝わってきました。
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保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を利用したのです。
金子本陣跡
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茶屋本陣跡は休息専用だったようです。
脇本陣は本陣だけでは収容できない時に利用した所。脇本陣(水屋)跡は案内のみでした。
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一般の旅行者は旅籠屋を利用。旅籠屋(本金子屋)跡は建物が残っていました。
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大仙寺踏切は大仙寺に向かう参道の途中にありました。
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大仙寺は高野山真言宗のお寺。天禄年中(970年〜973年)の起立。往古は神戸山持院神宮寺と号し伊勢皇大神宮の別当を務めたとも伺いました。参勤交代等、東海道を往来して保土ヶ谷宿に休泊する際は、こちらに道中安全を祈願したようです。
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こちらは宿場の本陣、脇本陣、茶屋本陣等の全ての菩提寺で、境内に軽部家墓所がありました。
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軽部家はもともと苅部家だったようです。明治天皇がこちらで休息された時、軽部と表示されたことでやむを得ずその後も軽部を名乗っているとのことでした。

一里塚跡・上方見附跡。
現在の位置に見附のモニュメントができたのは2009年3月とのこと。デザインを優先して現在 L型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は本来、江戸方、上方とも |型だったとのこと。
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横浜市のマンホール「おすい」の文字入り。横浜市保土ヶ谷区国道1号沿い(保土ヶ谷1丁目本陣跡前から権太坂の市児童公園入口の間) に見られます。
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本日は数日前からの風邪が完全に回復していない中での参加でした。やはり少し体調がすぐれず、一里塚でギブアップ。保土ヶ谷駅に一人バスで移動し、湘南新宿ラインで帰宅しました。
本日の歩程約5km、歩数1万歩超。曇り空のもと、気温16℃、Am10:00〜14:00のウォーキングはまずまずのコンディション日和。でもその後は雨降りだったかも、、、、。
この後は以下の予定でした。
一里塚跡⇒外川神社⇒京方見附⇒樹源寺(軽部家ゆかりの寺)⇒帝釈天と旧元町橋跡⇒ゑびすや軽部商店⇒権太坂⇒権太坂小学校⇒鉾立商店⇒投げ込み寺塚の碑⇒菓匠栗山⇒境木・境木地蔵尊⇒武相国境モニュメント⇒JR東戸塚駅
また日を改めて一人ウォーキングをする予定です。
posted by yunofumi at 22:25| あちこちウォーク