2017年06月15日

2017.6.13 銀座線ウォーク第3回 

京橋〜上野広小路

銀座線は浅草から渋谷まで19駅、15km、乗車時間は32分。
このシリーズではこのコースを4回として地上部分をウォーキング。
第1回は渋谷・表参道・外苑前・青山1丁目・赤坂見附。
第2回は赤坂見附・溜池山王・虎の門・新橋・銀座・京橋。
そして本日、第3回は京橋・日本橋・三越前・神田・末広町・上野広小路の辺りをウォーキングです。

京橋駅A7明治屋出口⇒八重洲平和の鐘⇒日本橋高島屋本店⇒日本橋三越⇒メトロ日本橋駅⇒日本橋交差点⇒コレド日本橋⇒日本橋西川⇒日本橋⇒日本橋北詰交差点⇒八木長本店⇒金沢大学東京オフィス⇒三浦按針屋敷跡⇒鳥萬⇒神茂⇒佃煮日本橋鮒佐⇒黒文字専門店日本橋さるや⇒コレド室町3⇒コレド室町2⇒三越本店⇒福徳神社⇒長崎屋跡⇒JR新日本橋駅・石町時の鐘・鐘摘堂跡・室町4丁目交差点⇒JR神田駅⇒ニューセントラルホテル⇒豆腐店越後屋⇒多田2丁目交差点⇒栄屋ミルクホール⇒和菓子庄之助⇒神田青果市場発祥の地⇒須田町歩道橋⇒生そばまつや⇒ぼたん⇒やぶそば⇒あんこう鍋竹村⇒肉の万世本店(昼食)⇒万世橋⇒maach ecute万世橋⇒神田郵便局前⇒昌平橋⇒外神田1丁目⇒講武稲荷神社⇒二松学舎大学⇒外神田3丁目⇒蔵前通り⇒司うさぎや⇒黒門児童遊園⇒旧黒門町⇒松坂屋デパート⇒黒門小学校・黒門市場⇒湯島聖天心城院⇒白梅商店会⇒春日通り⇒池之端1丁目⇒福成寺⇒教証寺・柳瀬美仲墓⇒池之端仲町商店会・白梅商店会⇒酒悦⇒鈴廣演芸場⇒上野広小路亭⇒上野広小路駅

京橋駅は1932年(昭和7年) 東京地下鉄道、三越前駅 - 当駅間開業に伴い、終着駅として開業しその時の駅建設費用の一部を、明治屋が負担したとのこと。ということで日本最初の鉄道とビルが直結した駅になったとのことです。
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八重洲平和の鐘は東京駅八重洲中央口から、一直線に延びる八重洲通りにある大きな鐘で毎正時に26個の鐘が美しい調べを奏でるとのことです。このモニュメントは、中央区が1980年に日蘭修好380年を記念し、国際都市の一員として世界平和を願い、設置されたもの。その日本とオランダの修好の関係を築き上げたのがオランダ人のヤン・ヨーステン。1600年に豊後(大分)漂着したヤン・ヨーステンの活動により、長崎に出島が作られるなど、日本の国際化の基礎を築いた人物。陸の玄関に相当する「八重洲(ヤエス)」の地名は、
ヤン・ヨーステンの名前にちなんで付けられたそうです。
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日本橋高島屋本店。
江戸時代末期に創業した高島屋が日本橋に全館冷暖房装置を備えた店舗を構えたのは昭和8年のこと。当時のキャッチコピーは「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」。創建時の名称は日本生命館。日本生命が建設し高島屋が借り受け、一部を日本生命東京総局が事務所として使用していたのが、昭和38年に日本生命が転出。戦後復興から高度経済成長期に増築、改築を繰り返し、昭和40年には1街区を占める店舗となったとのこと。 そして平成21年には百貨店建築初の重要文化財の指定を受けたのです。昭和初期から現存する百貨店建築の中で、最大級の規模を誇り、内外装とも当初の姿を保っているようです。
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銀座三越本店。
江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせ、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現。1928年には「株式会社三越」となった。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業でもあるのです。
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『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、東京メトロ三越前駅地下コンコースに設置され、2009年11月30日除幕されました。これは1805年(文化2年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれています。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されました。絵には88軒の問屋が登場しますが、暖簾は屋号が判別できるほど精緻に描かれており、当時の通り西側に出店していた店舖の一覧を知ることができます。1824年(文政7年)の『江戸買物獨案内』にはこのうち4分の1の店舖が掲載されているとのことですが、住所が食い違う所も多く、入れ替わりの激しさを偲ばせます。町屋は庇の有無、土蔵と白漆喰の違いなど外見上の特徴が細かく描き分けられていますが、類似作である『江戸風俗図巻』のように店内部を透視するように描くことはせず、あくまで写実に徹しているのです。町屋の間から裏店に至る路地の存在が示されていることも特徴なのです。有名店舖も多数登場しています。現在も三越として残る呉服店越後屋は道から少し入った駿河町に本店を構えていますが、当地の定番として欠かせなかったためか全体が余す所なく描かれており、通り沿いにも系列店や蔵を多数構えています。現在も室町で打刃物問屋として営業を続ける木屋は室町二丁目に4店舖並んで見えますが、その内木屋幸七は工事中で、「普請之内 蔵ニ而商売仕候」の札を掲げています。大手書肆須原屋も善五郎と市兵衛の2店舗が見えます。正規の店舖のほか、木戸番が非正規に営む商番屋が描かれている点も注目なのです。絵には総計1671人が描かれているとのことです。
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コレドは造語でCORE は中心とか核の意味で EDOをつけてCOREDとしたようです。すべて三井ショッピングパークで、コレド日本橋のテーマは「時を越えて」。百貨店や老舗名店の伝統を活かしまた、現代的スタイルも見られます。コレド室町1は「日本を賑わす、日本橋」をコンセプトに、江戸時代の賑わいを再現する商業ゾーン。コレド室町2は最新設備を導入したシネマコンプレックスがあります。コレド室町3は「食と暮らし」を軸に、質の高いライフスタイルを提案しているとのこと。またすぐ傍には工事中の大きな建物が見えました。どうやらコレド室町4とのこと。すごい勢いです。
近くには鰹節や乾物の老舗の八木長本店、焼き鳥の鳥萬、はんぺんの神茂、佃煮の鮒佐
など老舗がズラリ。珍しいお店では黒文字専門店さるや。爪楊枝専門店があるなんて初めて知りました。
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日本橋は、日本橋川に架かる橋。1911年(明治44年)完成の現行の日本橋は国の重要文化財。五街道の起点。
日本橋の北西詰に整備されている「元標の広場」には道路元標の複製と道路元標の説明書きが設置されており、いつもながら興味深い。
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日本橋の重厚な装飾品は麒麟像と獅子像。先日のクルージングで見た橋げたの像も再度、見られました。

三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指していましたが1600年(慶長5 年0)豊後国(大分県)臼杵に漂着。その後徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、相模国(神奈川県)三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられたのです。姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人という意味とのこと。屋敷地は現在の日本橋室町1 丁目辺りで、昭和初期まで「按針町」と呼ばれており、今でも「按針通り」が残り、「史蹟三浦按針屋敷跡」の碑が海苔店と宝石店の間にありました。
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福徳神社の創祀は古く貞観年間(清和天皇・859〜876年)には既に鎮座していたとのこと。当初は武蔵野の福徳村の稲荷神社。その後、1657年(明暦3年)の大地震により、一里塚は崩壊したとのことで当時の人々が散乱した碑石の残存した破片を集め保存し、 1590年( 天正18年)には入府した徳川家康公も参詣されたようです。また二代将軍秀忠公が1614年の参詣時、社殿の鳥居に、春の若芽の萌えがあったことから別名「芽吹神社」ともいわれています。また初めて富くじをしたことからも福徳の名称となり縁起が良いということのようです。
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豆腐店「越後屋」は多町で三代目の手作り豆腐のお店。関東大震災後に多く建てられた典型的な銅板張りの看板建築。正面から見て屋号の越後屋の「後」しか残っていないのが面白かった。
本日は平日なので栄屋ミルクホールは営業中でした。ここも銅板張りの看板建築でした。
この付近は古い建物が多かったです。

肉の万世本店は肉料理専門レストラン。昭和24年以来、食肉の最高級とされている黒毛和牛を素材として各種ステーキ・ハンバーグ・すきやき・しゃぶしゃぶ等の肉料理全般の営業をしているようで5階までがお店。質量ともに十分でお腹いっぱいになりました。
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maach ecute万世橋。
中央線神田〜御茶ノ水間に あったのが「万世橋駅」。現在の施設は東京駅の前の1912(明治45)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋を歴史や記憶を活かしながら新たにした施設。 階段、壁面、プラットホームなどの遺構が見られました。また新しいショップやカフェが並ぶ商業施設になっていました。数日前のクルージングでも外から見ていましたが初めて中に入りとても納得しました。
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1912(明治45)年、中央線の昌平橋〜万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電(路面電車)の乗換ターミナルとして栄えました。駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長し、神田須田町周辺は、賑わいました。1919(大正8)年、中央線が東京駅に開通し、万世橋駅は中間駅となったのです。
当時の階段が1912階段として残っていました。
1912 (明治45)年初代駅舎は1923(大正12)年9月1日の関東大震災で焼失。残存した基礎を利用し平屋建ての2代目駅舎が1925(大正14)年に完成したけれど須田町交差点が移転したことで駅前が裏通りになってしまったため1936(昭和11)年に鉄道博物館が併設され、万世橋駅は大きな駅舎を鉄道博物館に譲り、大幅に縮小。そして1943(昭和18)年、太平洋戦争激化の中、乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止となったのです。鉄道博物館は、1948(昭和23)年にその名を交通博物館と改め、70年営業しましたが施設老朽化で閉館し、鉄道博物館は埼玉県さいたま市で再出発しています。

昌平橋。
この地に最初に橋が架設されたのは1624〜1645年(寛永年間)。その後「一口橋」、「芋洗橋」「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図では「相生橋」、「昌平橋」「相生橋」、「萬代橋」、「文久橋」、「新萬世橋」と名称共々変遷が激しかったようです。現在の昌平橋は1923年(大正12年)に架け替えられ、神田川における最初の鉄筋コンクリート製アーチ橋。
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講武稲荷神社(こうぶいなりじんじゃ)は秋葉原電気街のビルの谷間にありました。このあたりには江戸末期に講武所という、対外危機に備えて旗本や御家人たちを稽古する武術の講習所がありましたが神社がないということでこれを大貫伝兵衛が、幕府から払い下げてもらい、その一角に稲荷神社を祀ったので「講武稲荷神社」ということとのことです。
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ここで珍しいおでんの自販機があって驚きました。
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和菓子の司うさぎやは大正2年に、西黒門町(現上野1丁目)で創業。喜作最中やどらやきが看板商品。今も日持ちしない商品のため店頭のみでの販売。私はどらやきを求め、帰宅後食しましたがお味はなかなかのものでした。

上野の旧黒門町辺りは元々上野寛永寺の門前町としてできたようです。傍には不忍池もあり風情があることから料理屋とかも多かった様子、また八代目桂文楽さんの住まいがあったようです。
松坂屋は1611年(慶長16年)、 織田家の小姓の子孫であった伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」を創業したのが始まり。上野店は江戸時代からこの地で続いているので1830年 「東都名所上野広小路之図」にも記載があるそうです。歴史的には1855年 安政の大地震の後すぐ再建とか、1868年 彰義隊と官軍による上野戦争 官軍の本営になったとか、歴史が様々あるようです。

湯島聖天心城院が湯島天神男坂下にあり、ここは太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられているとのことでした。
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教証寺・柳瀬美仲墓。
柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出たようです。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首で知られるようになったようです。1740年(元文5年)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教証寺にあるのです。

もうすぐ上野広小路駅という街並みには、酒悦、鈴廣演芸場、上野広小路亭などが目白押しにありました。
本日は小雨が降る中のウォーキングでした。気温が19℃はあったと思われますので雨具の中は汗でじっとり。まあ、こんなこともあるのです。雨が強く降らなかったので写真はまずまずの出来で撮れたのは幸いでした。案内パンフには歩程6kmとありましたが終わってみれば約17000歩。案内人の東京シティガイド藤井さんには丁寧な案内をいただき、何度も歩いた街並ですが色々理解が深まりました。感謝!
さていよいよ次回でこのコースが終了です。最後まで安全に楽しくウォーキングできるようにそれまで、日々元気に過ごします。
posted by yunofumi at 21:38| あちこちウォーク