JR東京駅⇒常盤橋⇒日本橋船着場〜@日本橋川〜A亀島川〜B隅田川〜C小名木川(往復)〜D隅田川〜E神田川〜F日本橋川〜日本橋船着場⇒KOREDO室町2F日本橋・墨之栄
朝9:30JR東京駅日本橋口に39名が集い、笑顔満載!青空の元、10:00に日本橋そばにある日本橋船着場をいよいよ出発!!
@日本橋川--日本橋船着場・江戸橋・鎧橋・茅場橋・日本橋水門
これはすごい!川の上を首都高速が!その真下をくねくね進むことを実感。
首都高・都心環状線は昭和34年に5年後の東京オリンピックに照準を合わせ、用地買収などの手間とお金を省略するなどの手間を省くため、日本橋川などの上空に造られたとのことです。でも日本橋の上に高速道路があるのはいかがなものかという議論はずっとあるようです。
A亀島川--霊岸橋・新亀島橋・亀島橋・高橋・南高橋・亀島水門
亀島水門は隅田川との境界にありました。
B隅田川--中央大橋・永代橋・隅田川大橋・清州橋
隅田川に入ると波があり外海に通じていることを実感しました。
清洲橋のそばの沿岸には芭蕉庵史跡展望庭園が見えました。
C小名木川(おなぎがわ)--萬年橋・新小名木川水門・高橋・西深川橋・東深川橋・大富橋・新高橋・扇橋・新扇橋・扇橋閘門・故松橋・小名木川橋・小名木川クローバー橋
新小名木川水門は隅田川と小名木川の境目にありました。小名木川は人工の川なので直線。この川は1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康が、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田から江戸までの運河を作るように小名木四郎兵衛に命じて完成させたのです。ということで川の名前も小名木川。
扇橋閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のため水位を1m下げています。
扇橋閘門は、ゼロメートル地帯の江東デルタ地帯を東西に流れる小名木川のほぼ中央に位置し、水面の高さが違う河川を船が通航できるようにした“運河”。この仕組みは、2つの水門に挟まれた水路(閘室)に船を入れ、水位を人工的に昇降させることにより船を通過させるというもの。
今回前扉が開いている所に船が入ります。
閘門に船が入った所です。
その後前扉閉まり、水を抜き水位下がります(−1.6m)
今度は後扉が開き始めます。
船は小名木川クローバー橋で方向転換しました。
再び後ろ扉開いている所に入る⇒後ろ扉閉まる⇒前扉開き水位上がる(+1.6m)⇒隅田川方向に進む
まあ、パナマ運河のミニ版なのだとわかりました。
東京都の施設で通行料無料、でも施設維持には大変な資源の投入がありそうです。
小名木川クローバー橋は、小名木川と横十間川の合流点に幅4m、長さ約80mと60mの2つの橋桁を対角に架け渡したX字型のユニークな歩行者自転車専用橋。東京都内で初めての形式で平成6年12月に建設。
すぐ傍のマイクロ水力発電は小水力発電のシステムで横十間川親水公園の水門橋にあり、小名木川と横十間川がクロスする場所でした。近くには江東区スポーツ会館や大型商業施設もありました。高低差のない江東区のマイクロ水力発電の導入は東京都では初めてとのこと。
この辺りには昔懐かしい葦が見られました。
途中で見られたゴミ拾い船です。正式には水面清掃船といい、川をきれいにする業務をしています。
D隅田川--新大橋・堅川水門・両国橋
ここでは船からでないと撮れない総武線と東京スカイツリーを同時にカメラがとらえました。
E神田川−柳橋・浅草橋・左衛門橋・美倉橋・和泉橋・神田すれあい橋・万世橋・昌平橋・聖橋・御茶ノ水橋・水道橋・後楽橋
小松屋は明治から昭和の初め、花柳界としてにぎわった柳橋のたもとにある佃煮屋さん。昔は船宿もしていた小松屋です。柳橋の料亭のおみやげとして佃煮を作り出したようです。現在も柳橋のたもとで4代目が昔と変わらぬ製法で佃煮を作り続けているようです。
川面には屋台船が多くみられました。
中央線神田〜御茶ノ水間に 昔は「万世橋駅」があったとのこと。
1912(明治45)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋ですが1923年の関東大震災で焼失。その残存部分を利用して2代目駅舎が1925年に完成。それでも1943年に万世橋駅はお客の減少で閉鎖。このころ今は大宮にある鉄道博物館のもととなっていたようです。今は旧万世橋の赤レンガやデザインがみられる場所になっています。今日は川からその姿を見ました。
1912年(明治45年)に完成した赤レンガの万世橋高架橋跡に開業した「マーチエキュート神田万世橋」を船ら見ました。
お茶の水渓谷。
江戸時代初期に台地が拓かれて神田川が造られ、この地に渓谷が誕生しました。二代将軍の徳川秀忠は、この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶を気に入り、付近一帯は「お茶の水」と呼んだのです。渓谷も「お茶の水谷」と呼ばれ、「すべて人力で掘られた切通しの中を流れる渓谷」ということのようです。
お茶の水分水嶺は 大雨等により水かさが増した時に、そのoverflow した水をこの部分に流すためにできています。こちらが出口
もう一つの取り込み口は昌平橋の横にありました。
後楽橋は関東大震災の復興橋の一つとして、1927年(昭和2年)11月2日に架設された橋。緑色に塗装された鋼製のアーチ橋で、石造りの親柱があるとのこと。橋の名称は、北側にある小石川後楽園から採られたようです。1964年には、東隣に歩行者専用の後楽園ブリッジが架けられたのです。
F日本橋川−三崎橋・新三崎橋・あいあい橋・新川橋・堀留橋・南堀留橋・俎橋(まないたはし)・宝田橋・雉子橋(きじはし)・一ツ橋・錦橋・神田橋・鎌倉橋・JR外濠橋・新常盤橋・常盤橋・一石橋・西河岸橋・日本橋・日本橋船着場
俎橋(まないたはし)の由来は2枚の俎(まないた)を渡したような板橋であったとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説があるそうです。
雉子橋(きじはし)を横に見たあたりで外堀の石垣の幾つかに家紋が見えた。
日本橋はやはり立派。徳川家康が江戸に幕府を開き、1603年に市街地の造成を始め、江戸城の外堀と江戸湾をつなぐために平川(日本橋川)の河口を延長し、平川に木橋をかけたのがのちの日本橋とのこと。翌年ここが一里塚の基点と定められ五街道の起点になったのです。日本橋という名前の由来は諸説があり、当初は2本の木を渡した二本橋と呼ばれていたとか、諸国への行程の出発地点だからなどですが、江戸第一の橋ということで日本橋と呼び始めたというのが一般的のようです。広重の描いた東海道五十三次・日本橋には橋の手前で男が天秤棒を担いで魚などを売り、橋の向こうからは挟み箱や毛槍を先頭に大名行列がやってくる様子が描かれています。当時から日本の中心であり、橋は繁栄する日本の象徴として活気があったようです。
橋の工事は1908年(明治41年)に着工し、1911年(明治44年)完成とのこと。石造二連アーチ橋で橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一。橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毛は徳川慶喜のもの。日本橋中央柱の麒麟、日本橋親柱の獅子と東京市章、橋中央の道路元標などは見慣れていましたが、橋を横から見た時の中央の紋章のようなものはハッキリ何かわかりませんでした。
こうして2時間のクルージングを終了。皆が満足して素晴らしい笑顔です。
こうして色々な川を巡り、橋も50以上潜り抜けたと思われます。気温27℃、晴天、川風も気持ちよく、皆が大満足でした。その後はKOREDO室町2F日本橋・墨之栄に場所を移し、魚と日本酒で大盛り上がりの懇親会でした。
皆さん、またお会いできることを楽しみにしています。