2017年04月23日

2017.4.22 横浜散策第1回 西区

本日より横浜散策開始!

JR横浜駅西口天理ビル⇒横浜道起点⇒浅間町1丁目・新田間川(あらたまかわ)緑地⇒新田間川・新田間橋⇒南幸2丁目⇒岡野交差点・千代田栗最中本舗⇒元平沼橋・横浜道⇒平沼1丁目⇒平沼商店街・角平⇒水天宮平沼神社⇒八洲学園大学⇒高島町交差点⇒二代目横浜駅遺構⇒相模物産横浜ビル⇒亀田病院⇒岩亀本店(昼食)⇒岩亀稲荷⇒掃部山公園・井伊直弼銅像⇒紅葉ヶ丘公園・紅葉坂・神奈川奉行所跡⇒横浜市教育会館⇒戸部町1丁目⇒宮崎町⇒横浜市民ギャラリー⇒伊勢山皇大神宮⇒野毛町4丁目⇒野毛坂交差点⇒老松町・野毛山公園・ラジオ塔・佐久間象山顕彰碑・横浜水道事業記念碑・野毛山公園展望台・野毛山配水池⇒横浜市野毛山壮⇒野毛坂交差点⇒水道管展示⇒都橋交差点⇒吉田町⇒吉田橋交番⇒吉田橋⇒JR関内駅

横浜市は、神奈川県の県庁所在地で政令指定都市。18区に分かれており東京23区についで大きい。昔は武蔵国と相模国などといわれた所。ということで月1回、1区を巡り歩く散策なのです。

よこはま道。
1858年(安政5年)日米通商条約調印で開国した江戸幕府がこの横浜の地を開港したのです。そこで東海道筋芝生村(しぼうむら)・現在の浅間町〜関内(かんない)までの道が作られたのです。道幅3間弱(約6m弱)で途中には新田間(あらたま)・平沼・石崎の三橋を架け、戸部坂・野毛の切通をつくり、野毛橋(現在の都橋)・大田橋(現在の吉田橋)を架け関内まで通じたのです。当時は新開地横浜への主要道路として賑わったようです。この案内板の地図から横浜道・旧東海道・保土ヶ谷道が道筋を示しているのですが、少し「人」という漢字に似ていると思いました。
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そしてこの横浜道起点の路上にはタイルが埋め込まれていました。
案内図にあった色に合わせ、道筋は金色?で周りの背景部分が横浜道は青色・旧東海道は赤茶色・保土ヶ谷道は緑色で示されていました。
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本日はこの青いタイルの道しるべに沿ってウォーキングです。実際、西区内では足元にこのタイルがあちこちと埋め込まれており、道に迷わず最後まで歩けました。

浅間町1丁目・新田間川(あらたまかわ)緑地は昔の面影のある道でした。
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元平沼橋の横浜道にある案内板には昔の風景を示す解説があり、今は失われた風景が描かれていました。
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平沼商店街・つけ天の角平(かどへい)は戦前にはカツ屋だったのが1950年(昭和25年)より蕎麦屋『角平』として創業している様子。 【海老も蕎麦も活かす】 ということで、全国の天ざるや天せいろの祖となる【つけ天】を作り出したお店でいにしえの時代には大物政治家が訪れたようです。
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水天宮平沼神社は、高島町にあり、平沼町、西平沼町、緑町(現在は一部みなとみらい)の氏神様。天保10年、平沼新田を開拓された平沼九兵衛翁が新田の守護神としてお祀りして創建。
平沼新田は塩田だった所。塩田作業中の流れ着いた祠を九兵衛翁が守護神としたのがはじまり。祠の内には、九州久留米の水天宮様の御神札が祀られていたので、水天宮と称し、安産・水の神様として長く崇敬されているようです。
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二代目横浜駅遺構は東海道本線二代目横浜駅の遺構。
初代は1872年(明治5年)に開業した現在の桜木町駅。東海道本線の列車が行き止まりの初代横浜駅でスイッチバックせずに停車できるようにこの場所(高島町)に二代目横浜駅として移転したようです。東京駅のような煉瓦造りの堂々とした駅舎建築で、1915年(大正4年)に建設されたのですが1923年(大正12年)の関東大震災後の火災により壊されたのです。また、駅舎遺構の下層に1907年(明治40年)頃建設された「横浜共同電燈会社裏高島発電所」の遺構(取水口と導水管)も重なっているとのこと。国道1号高島町交差点脇に煉瓦造りの建物基礎遺構が発見され、駅跡に建設されたマンション(ロワール横濱レムナンツ)の敷地内に保存公開されていました。
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岩亀稲荷。
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幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあり、岩亀横丁と呼ばれのです。この横丁のなかほどにあるこのお稲荷さんを静養に訪れた遊女がお参りしたとのこと。小さなお稲荷さんをご近所で今も大切に守っておられるようすでした。

掃部山公園(かもんやまこうえん)は横浜みなとみらい21を見下ろす高台にあり、園内には横浜開港に関わった井伊直弼の銅像が立っていました。
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この場所は1884年(明治17年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有となり、1909年(明治42年)、横浜開港50年記念に井伊直弼の銅像が、「正四位上左近衛権中将」の正装で建立されたのです。そして1914年(大正3年)、井伊家より横浜市へ寄付され、掃部山公園として整備されたようでした。井伊直弼銅像は第二次世界大戦中には政府の金属回収指示によって銅像は取り払われたのですが、1954年(昭和29年)開国100周年を記念して横浜市が再建したとのことです。像の高さは3m60cmで、「正四位上左近衛権中将」の正装。原型作者は工学士の藤田文蔵、鋳造者は岡崎雪聲[2]。台石は工学博士の妻木頼黄の設計で高さ6m60cm。また園内には約200本の桜が植えられ、1996年(平成8年)には公園の一角に横浜能楽堂が建設されたのです。また公園内には日本庭園 音楽堂もある様子でした。

急な坂は紅葉坂といい、これを上に行くと神奈川文化センターの前にかっての行政の中心地であった神奈川奉行所があったことを示す石碑がありました。入江をへだてて横浜村を見渡すことのできる丘の上に奉行所を設けたのは要塞に、とも考えたようです。
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神奈川奉行所跡の少し下ったところに『金星太陽面経過観測記念碑』がありました。大きな石碑で「明治7年(1874年)12月9日メキシコ観測隊(隊長フランシスコ ディアス コバルービアス)ならびに日本水路寮の海軍中尉吉田重親らは下記地点において金星の太陽面経過の観測に成功した。ここに100年の記念日を迎え、神奈川県及び横浜市の協力を得てこの碑を建て後世に伝える。第1観測地点(野毛山)東経139°37’48”北緯35°26’45”。第2観測地点(山手)東経139°39’02”北緯35°26’07”。昭和49年(1974年)12月9日 金星太陽面経過観測記念碑設立期成会」と刻まれているよとのことでした。
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伊勢山皇大神宮は 天照大御神を祭神とし、横浜の総鎮守で「関東のお伊勢さま」とよばれているようです。
1870年(明治3年)、一寒村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展したのです。神奈川県はキリスト教を始めとする外来文化に接する横浜の精神的支柱とするために神社信仰の確立が必要と考え、 その為、元々戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神明社をその年の4月に現在地の野毛山に遷座し、11月には当時の神奈川県知事井関盛艮が太政官と神祇官に建白書を提出したのです。 建白書は当社を伊勢神宮の遥拝所とし、神奈川県の宗社たる規模に整備することを願い出、許可されたのです。これにならいその後、開港場である長崎・神戸にも同様の神宮遥拝所が作られることとなったようです。
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老松町の野毛山公園は、面積は約9.1ha、敷地内には野毛山動物園があり、また約380本ある桜の名所としても有名とのことです。園内展望台からはみなとみらい地区が一望できました。
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1887年、ヘンリー・スペンサー・パーマーによって野毛山に横浜水道の配水池が設置され、日本初の近代水道が始まりました。これは横浜水道事業記念碑です。
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ラジオ塔はラジオの聴取契約者が100万人を越えた記念に、NHKが1932年(昭和7年)に全国の著名な公園や広場に建てる計画を進め、1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)までに41カ所が完成したうちのひとつです。
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佐久間象山顕彰碑がありました。佐久間象山(さくま しょうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されているとのこと。佐久間象山の石碑などはふるさとの松代をはじめあちらこちらにあるようです。勝海舟の妹が妻とのことですから横浜の地でも多くの弟子がいたと思われます。

野毛山公園を降りて街中に出ると昔の水道管が展示してありました。
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吉田橋(よしだはし)は、馬車道と伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋で、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られています。現在の橋は1978年に完成した5代目ですが当時の姿をとどめたつくりです。
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JR関内駅のある関内(かんない)は、横浜港に近い海側の地域を示し、横浜市役所(横浜市庁舎)や、横浜市中区の区役所、野球の横浜スタジアムなどが位置する地域。また、馬車道商店街(馬車道を参照)や、神奈川県庁舎近くの日本大通などがあります。一方で、旧・横浜松坂屋があった伊勢佐木町側の地域を「関外」というといい、大通り公園は関外地区とのことでした。
「関内」という名称は、江戸時代末期から使われていたとのことで、幕末時代の開国・開港後には関所が設けられ、その関所の内と外という意味で、「関内」と「関外」と呼ばれたそうです。

本日は昼食時間を含め、10:00〜15:30のうち正味4.5時間を歩き回りました。22℃ 曇りで歩程約6km、17000歩はベストコンデションともいえました。講師は東海道でご一緒だった浅井先生とCDの関さん。久しぶりの再会でしたが21名の参加者共々、気持ちよく、愉快なウォーキングができました。感謝!
posted by yunofumi at 23:10| あちこちウォーク