2017年04月03日

2017.4.1 第15回東京の新発見 「足立区」前半 

JR北千住駅⇒宿場町通り・千住本陣跡⇒千住街の駅⇒きたろーど71010⇒大橋眼科医院⇒千住ほんちょう商店街⇒勝専寺⇒だんごの美好⇒足立区薬剤師会⇒足立成和信用金庫⇒東京芸術センター・千住宿問屋場・貫目改所跡⇒千住高札場跡⇒あらい歯科医院⇒一里塚跡⇒千住庁舎⇒自然真営道発見の地⇒かもん宿商店街⇒足立区千住作業所はばたき⇒掃部宿憩いのプチテラス⇒源長寺⇒千住仲町交差点⇒中央卸売市場足立市場⇒千住歴史プチプラス⇒蒟蒻屋粉川吉活代目⇒千住宿奥の細道プチテラス⇒足立市場前交差点⇒櫻神社⇒石洞美術館⇒橋戸稲荷神社⇒大橋公園・奥の細道矢立初の地⇒東京都中央卸売市場足立市場・海鮮食堂(昼食)

宿場町通りを入った所に千住本陣の説明板がありました。
これが本日の最初の説明板でしたがこの足立区はその後一日中とても案内が丁寧な所でした。
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「千住街の駅」はお休み処で街歩きに役立つマップや足立区をちょっと知ることのできるパネル展示などがありました。やや手狭な感じもしましたがお店番がおられた方もとても気さくで良い雰囲気でした。
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大橋眼科医院の建物は元々、1917年(大正6年)に建てられたドイツの民家風の医院(初代院長:故・大橋重義氏)。老朽化により取り壊すことになったところ、惜しむ声が多く寄せられ、医院の経営者である鈴木英夫氏の意向で旧建物をイメージして1982年(昭和57年)に改築。前建物とかなり似せており、さらに都内の近代建築から部材を集めたそうで、数々の歴史を継承しているとのことです。
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勝専寺は「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院が本山とのこと。寺伝では文応元年(1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたということです。
江戸時代には日光社参に際して将軍の御旅所になっていたとうかがいました。
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閻魔堂の中は暗かったですが閻魔様の姿が見えましたのでお詣りしました。

東京芸術センターは、公民のパートナーシップにより、『あだち産業芸術プラザ』として、「あだち産業センター」と一体的に整備された民間施設だそうです。足立区の新しい産業と芸術を創造する拠点ということでしょうか。ホール、会議室などがあり、区民優先での利用だそうです。

宿場にある3つの場所を説明します。
宿場の問屋場(といやば)とは当時の宿駅での公用交通のための伝馬・人足の継立てを差配する施設のこと。問屋場には問屋・年寄の宿役人や問屋が奉公人として雇った帳付(ちょうづけ)・馬指(うまさし)という下役も詰めていたようです。
貫目改所(かんめあらためところ)は江戸幕府が街道往来の荷物の重量を検査するために宿場の問屋場に設置した役所のようです。

高札場(こうさつば)とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のこと。

一里塚は江戸時代の主要街道の両側に,1里 (36町=約 4km) ごとに築かれた塚のことで,路程標の役割をしていました。起源は古代中国だそうですが、日本では戦国時代末期にはすでに存在していたようです。正式には1604年(慶長9 年)徳川家康が江戸日本橋を起点として,東海,東山,北陸の3街道に1里ごとに5間 (約 9m) 四方の塚を築かせ,塚の上にはえのきや松を植え旅行者に便宜を与えたのです。幕府はのち3街道以外にもこの制度を広めましたし、諸藩もこれにならって脇街道 に築いたようです。

ウォーキング途中で「自然真営道発見の地」の説明版を発見。
『自然真営道』は安藤昌益の稿本で江戸中期の常識的ではない社会思想や科学的自然観、生命尊重の医学書だそうです。
この稿本が発見された当時の持ち主は北千住の名士だった橋本律蔵(1824〜1882)という穀物問屋さんの主人。この方は中々の文化人で多くの蔵書があり、死後古書店に引き取られた中にこの本があったので世間もアッとびっくりだったそうです。

掃部宿(かもんじゅく)憩いのプチテラスはもと自転車屋さんだった跡地を防災も目的としてミニ公園としたとのことです。掃部宿(かもんしゅく)とは仲町、河原町、橋戸町一帯の呼び名で、千住宿の一部だったようです。掃部という名前は、江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤(かもんつづみ)築堤等に尽力した「石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)」から名付けられたのでした。プチテラスの中には、千住宿、掃部宿の歴史を説明した案内板がありました。
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源長寺は浄土宗の寺院で1610年(慶長15年)の創建。仲町を開発した石出掃部亮吉胤の草創で開基は伊奈備前守忠次。ご本尊は阿弥陀如来。
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千住歴史プチプラスの建物は元地漉紙問屋横山家の土蔵だったとのこと。土蔵は間口2間半、奥行き3間半の2階建てで庭を含め、歴史と潤いの街づくりをめざしているとのことでした。屋根の棟には棟札があり1830年の建築と示していました。ここの設置は足立区ですが運営管理はほぼボランテアが担っているようでした。
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蒟蒻屋粉川利二五代目の看板のあるお店の創業は明治6年、今年で127年間ずっとこんにゃくを作り続けて来たとのことです。現在のご主人である粉川利二さんは実は四代目とのことですが四代目は縁起が悪いとのことでそれで五代目にしたようです。のれんを受け継ぐのは大変ですね。感服でした。
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このお店のように千住宿の雰囲気が出るようにこの通りは昔の家業がわかるように大きな表札のような説明がありました。

千住宿奥の細道プチテラス。
足立区の歴史を今に伝える場所の一つ。京成本線「千住大橋」駅のそばにありました。テラス内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った「松尾芭蕉像」と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがありました。
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石洞(せきどう)美術館は佐藤千壽の収集したコレクションが中心。佐藤千壽の雅号が石洞だったことからこの名前と7なっているようです。外観は銅板葺き三角屋根に煉瓦タイル貼、平面六角形のユニークな建物。館内は工藝品が見やすいように落ち着いたトーンで統一されており、世界各地の土器や陶磁器、茶の湯釜、ガンダーラの仏像、漆器、青銅器、玉器など多く見受けられました。
佐藤千壽(1918〜2008)は千住金属工業鰍フ社長や会長をされた実業家とのこと。このようなお金の使い方をされる方は立派ですね。
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橋戸稲荷神社は、千住橋戸町にある稲荷神社。創建は926年(延長4年)または1490年(延徳2年)と所説あるようです。奥にある本殿は、区内唯一の土蔵づくりで1594年(文禄3年)に千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集めたようです。1863年(文久3年)拝殿の前扉に、当時鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻されたとのことです。拝殿扉脇にレプリカが見られました。
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大橋公園の入り口に「奥の細道矢立初の地」の石柱がありそこから荒川の川岸に降りるとかつて船着き場だった所に出ました。
芭蕉(ばしょう)は三重県伊賀(みえけんいが)市で生まれ、五・七・五の言葉(ことば)で俳句(はいく)を詠(よ)む俳諧師(はいかいし)となっています。46歳のとき、「奥の細道」の旅に出たのです。旧暦1689年(元禄2年)年3月27日早朝、深川を出発(しゅっぱつ)。この時、弟子の河合曽良(かわいそら)が同行したのです。
 二人は深川から舟に乗り、隅田川(すみだがわ)を上り、千住で舟を降り、日光街道を歩き始めたようです。現在は北岸から、または南千住に上がったということでこの説はまだどちらともかたまっていないようです。
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以前、日光街道ウォークの時は此処が工事で立ち入れなかったのです。3度目の正直でやっと詳しくみられました。

東京都中央卸売市場足立市場・海鮮食堂
足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場。松尾芭蕉「奥の細道」の矢立初めで有名な千住大橋のすぐ近く、隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所にありました。その立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しているとのことでした。
ちょっとした食堂が数件あり、私たちは「海鮮食堂」で昼食をとりました。さすがにおいしかったです。
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これにて午前の部は終了。気付けば歩数計はまだ1万歩未満。
何しろ立ち寄り場所が多かったのでかなり目まぐるしい半日でした。
posted by yunofumi at 23:46| あちこちウォーク