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川越には町中に東武東上線川越駅、東武東上線川越市駅、西武新宿線本川越駅と3つの駅があります。一番古い西武新宿線本川越駅は、川越市内では最初の鉄道駅として1895年(明治28年)に開業し、125周年を迎えたとのこと。 西武新宿線の前身の川越鉄道(川越<現在の本川越> 〜 国分寺間)は、現在の西武鉄道で最初に開業した鉄道路線なのです。
東上線は開業時、「川越西町駅」で今の新河岸当たりで市街地からはずれていたのですがその後、川越町駅(現在の川越市駅)、そして川越駅ができたようです。
川越八幡宮の御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と倉稲魂神 (物部神社)。 1030年(長元3年)、甲斐守源頼信により創建。源頼信が平忠常の乱平定の祈願をここで行い、戦勝に感謝し創祀したようです。
境内にある民部稲荷神社(相撲稲荷)は足腰を強くするという御利益で、箱根駅伝出場選手などに人気があるようです。
また明仁上皇御生誕を記念して1993年(昭和8年)に境内に植樹された夫婦銀杏の神木があり、良縁、夫婦円満に御利益があると言われている。
小江戸蔵里は、この場所で1875年(明治8年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当時の面影を残しつつ改修した施設。市民と観光客との交流、地域の活性化を図りまた、川越市の物産等を楽しんでもらおうと平成22年10月に誕生。施設は明治・大正・昭和の時代に建てられた酒蔵を改装。おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、ききざけ処(昭和蔵)の3つの蔵と、つどい処(展示蔵)からなっています。ということで川越のことを知りたい方はこちらに来ると手っ取り早いのです。
川越熊野神社は『明細帳』によると1590年(天正18年)に蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことが始まり。以後、松郷の人々が氏神として崇敬した開運・縁結び・厄除けの神社です。その後の1713年(正徳3年) 蓮馨寺十六世然誉了鑑僧正の時、社殿を改築し鳥居を石造りとしたのです。 御祭神は熊野大神で伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の御四神です。
境内は八咫烏(ヤタガラス)だらけ。八咫烏(やたがらす)はサッカー日本代表のシンボルマーク。勝利に導く八咫烏は、日本サッカー協会公認のお守り「勝守」のデザイン。
蓮馨寺(れんけいじ)は、連雀町にある浄土宗の寺院。山号は孤峰山。院号は宝池院。ご本尊は阿弥陀如来。河越(川越の元の言い方)夜戦後の1549年(天文18年)、武蔵国河越城主大道寺政繁の母・蓮馨が開基。開山は大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞上人。存貞上人は増上寺第十世法主となった方。また源誉存応上人(増上寺の十二世法主)など代々、高僧が住職となったていたのです。
旧川越織物市場・旧栄養配給所はこれらを復活させるべく、只今工事中。よく調べると旧川越織物市場(川越市所有)は、明治後期に建設され、産業遺構として当時の姿を残す全国的にも希少性の高い建物とのこと。また、施設内の旧栄養食配給所は、中小織物工場主たちが従業員のために設立したもので、同じく貴重な建物だそうです。これらの物資の集散地川越の繁栄を今に伝えていきたいようです。現在、文化財としての復原を行うとともに、建物を生かすため、クリエイター等の創業や新たなビジネスを創出する活動を支援する文化創造インキュベーション施設として活用するための整備等を行っているとのことでした。
川越には「蔵造りの町並み」が今も残っています。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したとのことです。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめています。
大正浪漫夢通り沿いの角地に建つ「川越商工会議所」は、1928年(昭和3年)に武州銀行川越支店として建てられたもの。1970年(昭和45年)より川越商工会議所が事務所として利用し、現在も現役で使われている建物です。
山崎美術館は1982年(昭和57年)に開館。蔵造りの町並みに面する老舗和菓子屋「龜屋」本店の一角に建つ蔵を利用しているとのことです。館内では、川越藩お抱えの絵師であった橋本雅邦の作品を中心に、山崎家に代々伝わる美術工芸品の数々が季節に合わせて展示されているとのことでした。
埼玉りそな銀行川越支店蔵の街出張所は、銀行建築としても有名。1918年(大正7年)に完成し、1996年(平成8年)には国の登録有形文化財に登録されたのです。2020年(令和2年)までは現役の銀行有人店舗として使用されていたこの建物は1996年12月には、埼玉県内では初の国の登録有形文化財に登録されたのです。設計者は保岡勝也。彼が設計した建物のうち川越市内には、旧山崎家別邸と旧山吉デパートが現存している。
明治初年から五代続く老舗料亭『山屋』。美しい庭園と会席料理で有名。都会の喧騒から離れ、川越の蔵の街付近にひっそりとたたずむ料亭で、料理人が季節ごとの味わいを様々な料理で表現しているとのことでした。
菓子屋横丁(かしやよこちょう)は、川越市元町にある菓子屋・駄菓子屋が立ち並ぶ商店街。1796年(寛政8年)、養寿院の門前町として栄えていた当地に鈴木藤左衛門が、江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まり。昭和初期には70軒以上の店があったようです。現在は20数軒ですが、石畳の風情のある町には伝統的な手法で菓子を作り続けている店舗が並び、ノスタルジックな観光地となっています。 2015年6月、店舗のひとつより出火し5棟が全焼しましたが 現在は修復され元気に復活して賑わっていました。
時の鐘(ときのかね)は、川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。川越の蔵造りの街並みを代表する観光名所で市のシンボルとなっています。3層構造の塔で、高さは16m。現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)川越城下に時を知らせています。今日は皆で正午の鐘音を聞きました。
塔をくぐると薬師神社(もと瑞光山醫王院常蓮寺)の境内になっています。神社は病気平癒、特に眼病に対してご利益があるとされています。
「陶舗やまわ」の一角にある「陶路子(とろっこ)」では、川越名産のさつまいもの様々な味や食感をいただける「さつまいもミニ懐石」を美味しくいただきました。
川越まつり会館は、川越市立の郷土博物館。国の重要無形民俗文化財に指定され「関東三大祭」の一つである「川越氷川祭」(川越まつり)に関する資料を展示・伝統を保存するために2003年(平成15年)に開館しました。建築は川越の蔵造りのデザインとなっています。展示ホールでは川越まつりに実際に用いられる実物の山車を交替で常時2台展示してあります。日曜・休日には囃子の実演も各町内が交替で行っているようです。館内では祭礼の変遷や背景、祭りの準備と情景、木遣りや囃子などの紹介が行われている民俗博物館なのです。
大澤家住宅は1792年(寛政4年)に建てられ、呉服太物を商っていた店蔵。川越町(当時)の3分の1を焼失した1893年(明治26年)の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つだそうです。
観光客でにぎわう川越市の「蔵造りの町並み(一番街)」から北に50m離れた通称「弁天横丁」(東西約90m)。かつては小料理屋やバーが軒を連ねていたが、今、人通りの少なくなった横丁を復活させようと、NPO法人「川越蔵の会」(落合康信代表理事)や新たな入居者が再生プロジェクトに取り組んでいるとのことです。蔵の会は、築百年以上の長屋をリフォームし、飲食店や店舗、シェアオフィスとして若い人に格安で貸し出す計画で、初期費用の一部460万円をクラウドファンディングで募っているとのことでした。
埼玉県川越市にある川越藩の藩庁だった城が、川越城。その大手口(玄関口)となる大手門の遺構は残っていませんが、川越市役所前に太田道灌の像とともに、川越城大手門跡の石碑が立っています。大手門は城の南に、南大手門(南門)もあったため、西大手門とも呼ばれていました。
和菓子龍月は季節の和菓子と溶けないアイス「涼しん棒」がある和菓子屋さん「龍月」は静かな通りにある小ぢんまりとした店舗ですが、並んでいる和菓子は全て手作り!龍月で、季節の和菓子と溶けないアイス「涼しん棒」、これは本葛を使った「涼しん棒」。カラフルでさっぱりとした味わいは、暑い時期の話題の商品だそうです。
ここは川越氷川神社。ちなみに川越市内に氷川神社は当社を含めて14社あるとのこと。太田道灌が造って以来、川越の総鎮守とされ、川越藩主ら歴代領主の篤い崇敬を受けていたのです。
国の重要無形民俗文化財である川越まつり(川越氷川祭)は毎年10月14日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」「山車行事(祭礼)」から成り立っています。
毎年、七夕を含む夏には境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」で賑わうのです。また敷地内には、結婚式場の氷川会館があり、埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られています。また、結婚式で執り行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されているとのことです。大鳥居は木造では日本有数の鳥居で扁額の社号は勝海舟が記したものだそうです。
2003年(平成15年)には 「絵馬のトンネル」が設けられそれは壮観でした。
また拝殿裏の本殿は入母屋造銅板葺向拝付で、1849年(嘉永2年)に松平斉典の寄進により完成したとのことです。彫物師は、嶋村源蔵と飯田巌次郎、江戸彫りの精巧な彫刻が施されていました。
川越市立博物館は、川越城二の丸跡に建設された川越市立の博物館。川越藩の城下町として発展してきた川越に関する資料の収集・保存・調査研究・公開を目的として建設され、1990年(平成2年)に開館した。2002年には隣に川越市立美術館が開館。 市制60周年記念事業の一つとして1981年(昭和56年)より準備を進めて建設されたもので、川越市の考古・歴史・民俗等を中心に扱う人文系総合博物館である。
川越城本丸御殿。
川越城は、1457年(長禄元年)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたとのこと。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていました。現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格が偲ばれます。
川越城本丸御殿のすぐ前にある三芳野神社は、の参道は童歌「通りゃんせ」の舞台だそうです。そばに歌碑もありました。
成田さん別院は1853年(嘉永6年)開山照温師は当時廃寺となっていた本行院に成田山新勝寺貫首照輪上人が開眼された不動明王を安置して再興されました。1876年(明治9年)成田山の末寺となり翌年には管理一切を成田山に移してより成田山川越別院本行院となったのです。
喜多院(きたいん)は、天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られています。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっています。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事があり、四季折々の行楽客で賑わっています。また毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れるのです。
喜多院境内にある五百羅漢の石像も有名。羅漢(らかん)とは阿羅漢。略称して羅漢といいます。漢訳は応供(おうぐ)。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味だそうです。日本三大羅漢の一つに数えられています。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、1782年(天明2年)から1825年(文政8年)の約50年間にわたり建立されたもの。十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座。笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っているのです。
川越城富士見櫓跡はかつて天守閣が無い川越城の天守閣の代わりとして、見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡地なのです。数少ない川越城の遺構として現存しています。跡地内には、御嶽神社、富士浅間神社、富士見稲荷神社が祀られています。
本日の埼玉の逸品はくらづくり本舗 の芋菓子 スィートポテト 。甘くてほくほく、いつも大好きなお菓子です。
この川越ウォークは実は22日にも催行されたとのことでした。何しろ日曜日の川越市内の混雑はよく知っていましたので本日の参加としたのです。今日は街歩きとしては程よい混雑でした。しかし朝自宅出発時の気温はマイナス、日中も4〜5℃くらいだったようですが日差しが十分あったのでおお助かりでした。
ウォーキングは雨や風が大敵です。しかしこのあたりの寒さは歩いていれば何とかなるのです。美味しい食事をいただきましたし、皆さん共々、上機嫌で終了。本日の参加者の中では私が一番自宅が近かったと思いますがそれでも2万歩超は久しぶり。夜はストレッチをしてバタンキューでした。皆様、また来月もお会いできますように!!