また暑さが戻ってきた感じの今朝、埼玉から清澄白河までは池袋と大手町で2回乗り換え、約1時間10分で到着。乗り慣れてない半蔵門線ではキョロキョロするばかり。でも日本の乗り物はすごいですね。駅案内や乗り換えなどいまさらのように実感。
さて本日は藤原先生・TD松田さんの付き添いで18名が参加。行程のしおりでは歩程5km。とにかく暑さにめげず最後までがんばります。
東京メトロ清澄白河駅⇒清澄3丁目⇒本誓寺⇒清澄庭園⇒清澄公園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒深川江戸資料館⇒紀伊国屋文左衛門墓所⇒深川ふれあいセンター・曲亭馬琴誕生の地⇒海辺橋⇒採茶庵⇒深川2丁目⇒心行寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒富岡橋⇒赤札堂⇒門前仲町駅⇒辰巳新道⇒深川公園⇒大栄山・永代寺⇒成田山深川不動堂⇒富岡八幡宮⇒牡丹2丁目信号⇒関口橋⇒古石堀川親水公園・雀橋・牡丹園⇒古石場一丁目⇒妙栄稲荷第善神⇒越中島2丁目⇒東京海洋大学⇒明治天皇聖蹟の碑⇒築地本願寺佃分院⇒月島スぺインクラブ⇒東京メトロ月島駅
東京メトロ清澄白河駅(きよすみしらかわえき)は、都営地下鉄の大江戸線と、東京メトロの半蔵門線が乗り入れ、接続駅となっている所で、改札口がわかりにくいかしらとちょっと心配でしたが清澄通り改札口にとにかく無事に10:00前に到着できました。

浄土宗寺院の本誓寺(ほんせいじ)は当智山重願院というようです。小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より1595年(文禄4年)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったということです。1606年(慶長11年)馬喰町上町へ、1682年(天和2年)この地(深川大工町)に移転、1699年(元禄12年)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったようです。1873年(明治6年)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったのです。
本堂前に石造迦楼羅立像(せきぞうかるろうりゅうぞう)がありました。

迦楼羅は「インド神話の神鳥ガルーダ」に由来する「鳥頭人身に翼を持った異形の神」で、八部衆、あるいは千手観音の眷属である二十八部衆の一員とのこと。奈良・興福寺の迦楼羅像(脱活乾漆造)や京都・蓮華王院 三十三間堂の迦楼羅像(寄木造)が有名ですが、石造というのはとても珍しいとのことでした。そしてこの「石造迦楼羅立像」は、朝鮮・高麗時代の作と推定されているようです。像の石質は花崗岩で、丸彫りに近い浮彫りです。くちばしがあり、背には翼もありました。今まさに笛を吹こうとする一瞬の姿を切り取った造型で笛の音が聞こえてきそうでした。

清澄庭園は、江戸時代に大名の下屋敷だった一帯を三菱の創始者・岩崎彌太郎が取得し造園、1891年(明治24年)に社員の慰安や貴賓を招待するための「深川親睦園」として開園したのです。1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲では避難場所となるなど地域の歴史に深く関わり、現在も緑豊かな下町のオアシスとして親しまれている「回遊式林泉庭園」で、野鳥が遊ぶ「大泉水」の周りには、全国から取り寄せた名石や築山が配されているのです。

これは富士山を模していました。

藤原先生がおすきだという保津川石の水鉢です。

佐渡赤玉石はきれいな石でした。
清澄公園は、1977年(昭和52年)にできた開放されている公園。三菱財閥の創業家・岩崎家から深川親睦園、今の清澄庭園の西側半分を東京都が買い取り、整備後に開園した近隣住民の憩いの場となっている公園で庭園のすぐ横にありました。

霊厳寺(れいがんじ)は、白河一丁目にある浄土宗の寺院。山号は道本山。院号は東海院。ご本尊は阿弥陀如来とのことです。もともとは1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったとのことです。
1657年(明暦3年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったのです。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転したのです。こちらには11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓がありました。

江戸六地蔵の第5番が安置されていました。

ちょっと残念なことは深川江戸資料館は7月末まで改修工事のため休館でした。
江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門墓所。

紀州出身の紀伊国屋文左衛門(紀文)は、若くして江戸に出て材木業を営み、幕府と関わることで豪商となりました。後年は、富岡八幡宮一の鳥居付近(門前仲町1)に住み、1734年(享保19年)4月に66歳で没したといわれ、成等院に葬られました。墓は左隅にあり、正面の碑は、昭和33年(1958)に建てられたということです。
深川ふれあいセンター前に「曲亭馬琴誕生の地」の碑がありました。これは『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴誕生の地ということです。

『南総里見八犬伝』で有名な馬琴は、1767年(明和4年 )6月9日、深川浄心寺門前の松平信成邸内で生まれ、成人したのちは山東京伝に師事し、『椿説弓張月』をはじめ1,400余の著書を残したようです。1848年(嘉永元年)11月に82歳で死去し、文京区茗荷谷の深光寺に葬られているとのことでした。
記念碑として著書がモニュメントとしてありました。

採荼庵(さいとあん)は、江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋(こいや)、俳号を採荼庵、五雲亭(ごうんてい)などとし、隠居したのちは一元(いちげん)と名乗りました。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町1丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、『常盤屋句合』(ときわやくあわせ)『角田川紀行』(すみだがわきこう)などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても有名だそうです。
採荼庵があった場所については、杉風の娘婿である隨夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれているとのこと。平野町は、海辺橋南詰から万年町(まんねんちょう)2丁目(深川1-8)をはさんだ一画で現在の説明板が建っている海辺橋のたもとより140mほど南西に位置します。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採荼庵で過ごし、門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていったのです。
法乗院・深川えんま堂の平成元年に建立の閻魔大王座像は、寄木造で、高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tという巨大な閻魔様。名実ともに日本一の閻魔大王像になっています。
しかも、この閻魔大王像、コンピューターで制御。大王像の前に、「家内安全」、「交通安全」、「夫婦円満」、「合格祈願」、「ぼけ封じ」、「いじめ除け」など19のご祈願が別個に記された、賽銭の投入口が用意され、自らの希望するご祈願に賽銭を入れると、仏様の様々な説法が音声で流れるシステムでした。
閻魔大王の「除けと封じ」の力を生かしたものとかで、こちらも日本初のユニークな機能となっています。
本堂1階には、全16枚からなる『地獄・極楽図』が展示されています。

高野山真言宗寺院の永代寺は、大栄山金剛神院と号します。永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺、江戸六地蔵の一つとして栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。現在の永代寺は、明治29年に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたといいます。御府内八十八ヶ所霊場68番札所です。

成田山深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。古くより「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まり。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身とのことです。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念しているのです。

富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。通称を「深川八幡宮」ともいう。
江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。
また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

古石堀川親水公園は門前仲町駅」から石島橋を渡って徒歩5分の場所にある公園です。「牡丹町公園」と隣接して整備されています。「水辺の香り」をテーマにしている公園内には水路が流れ、夏場にはじゃぶじゃぶ池で水遊びも楽しめます。水路にはあさりやザリガニなども生息し、水辺の生き物を観察することもできます。バラ園や紫陽花なども美しく、季節の花々の鑑賞をしながらお散歩してみるのもおすすめです。

妙栄稲荷第善神は門前仲町駅から徒歩5分程度、江東区古石場1丁目の清澄通り近くに鎮座している稲荷神社です。江戸時代の寛永年間に松平越中守の屋敷内に安置されていて、関東大震災後の区画整理で現在の場所に遷座したそうです。わかりづらい場所にありますが、近くを通った際に参拝してみてはいかがでしょうか!

東京海洋大学は平成15年10月1日、東京商船大学と東京水産大学を統合して設置された大学。平成16年4月1日からは国立大学法人東京海洋大学として、「競争的環境下での個性輝く大学」を目指して教育・研究・社会連携を一層進めながら変革に取り組んでいるとのことです。


第一観測台と第二観測台は1903(明治36)年に建設された貴重な明治期の天文台建築。第一観測台は現存する日本最古のドーム屋根形状の天体観測室である(観象台、天文台、観測所、また第一観測台は赤道儀室、第二観測台は経緯儀室、子午儀室とも呼ばれた)

明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航されたそうです。
一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍したのです。なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。また、 明治9年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年に国民の祝日「海の日」となりました。現在の姿は平成25年12月より修復され平成27年3月に竣工したものです。
そばに明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)がありました。これは明治天皇が行幸で訪れた場所や建物。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定されたとのこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年に指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのことです。
築地本願寺は、浄土真宗のみ教えを伝え広める活動拠点として、東京に5つの分院があるようです。築地本願寺の墓所である和田堀廟所、関東大震災被災者追悼の場として開設された慈光院、都市開教の願いのもと開設された東久留米会館とあきる野本願寺、2020年4月新たに佃島分院です。本日傍を通った時はまだ外の整備をしていました。

月島スぺインクラブは艶やかさを纏った老舗スペイン料理店。本場さながらの情熱を体感できるように重厚な扉を開けると、天井高の巨大なスペイン空間がありました。エントランス前の1階中央は大理石の大型カウンター席、それを挟んで左右にフロア席、2階はスペインの美術品もみられるようでした。
まずは前菜です。

次はお魚料理。

次はお肉料理。

最後はデザート。

久しぶりのコース料理でした。おいしくてすっかりフアンになりました。また来たいです。
こうしてウォーキングを午前にし、その後昼食をのんびりいただき、午後3時に解散。
滅多に味わえないスペイン料理は案外口あたりがよく、十分満足しました。
クラブツーリズムのシリーズものにしては異色ですのでまた案内を見つけて参加したいと思いました。