2022年06月27日

2022.6.19 さいたま新発見 ぶらり街あるき 幸手市

幸手のはじまりはアイヌ語の乾いているの語源「さッテク」、倭建命(やまとたけるのみこと)が訪れた「薩天ヶ島」からなどがあるようです。古くは下総の国に属し、のちに大半が武蔵野国に編入され「田宮町」や「薩手」(幸手)といわれたのです。幸手宿は日光道が整備される前から利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道での人の往来が盛んで交通の要衝だったとのことです。特に中世では古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所だったのです。江戸時代になると日光街道が整備され、1616年(元和2年)に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿に発展。幸手宿は日光道だけではなく、将軍家の日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったのです。

東武日光線幸手駅⇒南3丁目⇒たいらや⇒石井酒造⇒幸手南住宅⇒上高野神社⇒東武丸山病院⇒幸手さくら団地⇒志手橋⇒神明神社⇒明治天皇行幸在所⇒幸手駅入口信号⇒ペットショップカトウ⇒担景寺⇒永文商店⇒割烹蒲焼義語家⇒本陣知久家跡⇒中央商店街ポケットパーク⇒山崎歯科クリニック⇒そば処大村庵⇒幸手小学校⇒関薬局⇒文具雲寿堂⇒日光御回り道⇒成田呉服店⇒荒宿信号⇒幸手基督教会⇒聖福寺⇒正福寺⇒幸手蔵賑窮餓之碑⇒石太菓子店⇒蓮沼⇒北2丁目陸橋⇒北側用水路⇒権現堂堤修復絵馬⇒熊野権現社⇒権現堂公園⇒八幡神社⇒北側用水路⇒幸手桜高校・橘守部翁遺跡碑⇒寶持寺⇒幸手中学校⇒田宮の雷電神社⇒妙観寺⇒幸宮神社⇒ときわや⇒幸手観音・講福寺⇒天神神社⇒グリーン歯科医院⇒東武日光線幸手駅

東武日光線幸手駅は1929年(昭和4年)4月に 東武日光線杉戸駅 - 新鹿沼駅間の開業と同時に開設された駅。2019年3月に 橋上駅舎と東西自由通路、西口駅前広場などが完成したとのことでとても新しくてきれいな駅でした。

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石井酒造梶B創業1840年(天保11年)。170年の歴史を誇る幸手の地酒 「 初緑 」や「豊明」が有名とのことです。

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上高野神社(かみたかのじんじゃ)は八坂神社を中心に合祀されたかつての上高野村の村社の一つ。もともと1909年(明治42年)10月の合祀では八坂神社の他、稲荷神社(4社)、神明社、胡録社、香取社、日枝社、愛宕社、羽黒社が集められたようです。1600年(慶長5年)創建の八坂神社の「天王様の祭り」では神輿が出るのです。境内社として天満宮、浅間社、第六天社が祀られていると伺いました。珍しいコンクリートの滑り台がありました。

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志手橋は県道65号 岩槻幸手線が、国道4号線の旧道へ合流する地点に架かる橋で昔から交通の要衝。歴史的には日光御成道と日光街道の追分に架かる橋なのでいわば日光街道の幸手宿(江戸から6番目の宿場)への入口とのこと。人の往来も多く、高札場も設けられていたようです。今はコンクリートですが元は木製、長さ30.6m、幅5.4mと大きな橋だったのです。よく見ると親柱の側面と下部には、レリーフ状の突起、親柱と欄干が57cm角で高さは2.2mだそうです。

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神明神社は1755年(宝暦5年)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社で、1873年(明治6年)4月より旧幸手町の村社の一つとなっていたようです。
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境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されているとのこと。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされているようです。
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拝殿前の狛犬は珍しいことに子犬ではなく牡丹の花を持っていました。
台座の銘は「大正十一年戌三月十七日 太々御神楽奏行 幸手太々講」とあり、伊勢参りをした五人の名が刻まれているのです。当時は盛んだった伊勢参りと田螺不動尊、信仰の形態も時代や医術の進歩と共に変わり、そのことを伝えるのは狛犬や石碑のみになってしまったようです。

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明治天皇行幸在所は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物のこと。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそぐわない」とみなされ1948年聖蹟の指定を一斉に解除されたようですが少しは聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合もあり、これもその一つのようです。

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永文商店は、明治36年に埼玉県幸手市で創業。以来100年以上にわたって食一筋に流通業を営んでおり、流通業の役割は、お客様が必要な物を、必要な時に、必要な量だけ提供することにあるので、プロの視点で商品を厳選する目利き力が、最も大切なことだということで、確かな原材料を使って、確かな製造方法で作った、品質の高いものばかりで商いをしているとうかがいました。
永文商店の壁面に芭蕉の旅姿がありました。お供は確か曽良ですね。
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本日はお休みだったお店の横にトロッコのレールが見えました。こちらのお店の「トロッコ」は、全長約40mのレールの上を、約1トンの商品を楽々と運搬するとのことです。戦前・戦中・戦後の激動の時代を乗り切って、今も現役で働いているようです。
何しろ街道沿いの商家は昔から、間口が狭く奥行が長い「ウナギの寝床型」が一般的。江戸時代から日光街道の宿場町である幸手の「永文商店」は、そのような店の一つだったのです。道に面して、一番手前が店舗、その次が住居、一番奥が倉庫という作りなので、商品の入出荷の運搬に活躍してきたのが「トロッコ」ということでした。

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割烹蒲焼義語家そばに本陣知久家跡の説明がありました。知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手でも最も重要な役割を果たした家柄だったようです。 明治3年に本陣が廃止されるまで代々幸手宿の繁栄に尽くしたのです。 明治6年に知久家の書院で小学校が開設され明治天皇が東北巡行の折には宿泊されたとも伺いました。

そば処大村庵紀の川で松花堂弁当の昼食をいただきました。
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日光御廻道とは、徳川将軍の日光社参の時、水害の難を避けるために幸手宿と栗橋宿までの迂回路を整備したもの。幸手・栗橋間の日光道中は2里3町(約8.2q)、しかしこの御廻道は3里(約11.8q)だったのです。道が整備されたとされる江戸後期は、将軍の日光社参はほとんど行われなくなったこともあり、実際に将軍が通行したことは一度もなかったようです。 

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聖福寺(しょうふくじ)は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)と称する浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作ということでした。徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩したようです。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
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勅使門の前に「御殿所勅使門」の石碑があり、菊のご紋の入った扉が付いていました。
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往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうですが、今は開いていました

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芭蕉と曽良の句碑がありました。
幸手を行ば栗橋の関(芭蕉)
松風をはさみ揃ゆる寺の門(曽良)

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正福寺(しょうふくじ)は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。こちらは、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、昔は四十九ヶ寺の末寺を持っていたようです。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っているのです。また、樹齢450年、根回り5mもある槙の大木が以前はあったようです。今は若木のみでした。
そして門前には巨大な石灯篭がありましたがいわれなどはわかりませんでした。
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幸手義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)は正福寺(しょうふくじ)の境内にありました。これは高さ173cm 横88cm 厚56cm 碑文面 「表 縦120.5cm 横76.5cm 裏 縦92.0cm 横77.0cm」。天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生し、翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てたのです。

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石太菓子店(いしたかしてん)は、江戸時代(文久年間)初代 中村石太郎により創業。以来伝統の味を守りつつ、幸手らしさにこだわった商品を提供しているのです。こちらで本日の埼玉の逸品「あじさい饅頭」をいただきました。とても穏やかな甘さで美味でした。

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北側用水路は埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)ともいわれているようです。埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑しているのです。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となるのです。

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熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもありもとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったようです。この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されているとのことです。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いているのです。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっているとのことです。また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものでもあるようです。 

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県営権現堂公園は、桜の名所として親しまれている幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して埼玉県が整備を進めているのです。 この公園は4つのゾーンで構成されており、そのうち多目的運動広場の1号公園と、歴史と文化と緑の3号公園、幸手権現堂桜堤の4号公園の3つのゾーンがあるとのことでした。
幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲くようで今は緑の森でした。また下方には曼殊沙華も季節になるとキレイとのことです。本日はJAのお店前から峠の茶屋を通りアジサイを色々見ました。アジサイ(紫陽花)は花の色は色々でしたが実は種類も多いそうです。白いのはアナベルでとてもきれい、そして紫などのガクアジサイも見られとても楽しかったです。
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内国府間八幡神社は、幸手市内中心部から権現堂堤の方に向かう途中。街はずれのような場所にある神社で、なにげなく寄ってみると鳥居から境内は余裕があるし、社殿とか意外に立派。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益もあるそうです。

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橘守部翁遺跡碑(たちばなもりおおういせきひ)。
守部は、天明元年(1781年)伊勢国小向村(三重県朝日町)に生まれ、17歳で江戸へ出て、国学研究を志し29歳の時に、内国府間村(現在の北二丁目)に転居。1829年(文政12年)に江戸へ戻るまでの20年間を幸手で過ごしました。 守部は、当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め、「天保の国学四大人」の1人に数えられるほど古典研究の著作を残しています。 守部の住居跡(県立幸手桜高校内)に「橘守部翁遺蹟碑」があります。また、幸手中学校・西中学校、幸手桜高の校章には「たちばな」が用いられ、守部の偉業を称えているのです。

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田宮の雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったとのことですが、明治維新後の1873年(明治6年)4月以後は村社に指定されているとのこと。本殿は1844年(天保15年)11月に上棟の再建が行われており、また1856年(安政3年)6月にも再建が行われているようです。雷電神社の由緒としては、「第11代垂仁天皇の10年のある日に天地が振動雷鳴し、水田中に身の丈7寸余りの黄金の御神像が天から降り、村民のだれもが驚いた。村民は一社を建立したが、当時周囲には水田が広がるのみで民家はなく、わずかに当神社が建つのみでした。ゆえに「水田の中にある社宮」ということから、世の人々はこの地一帯を「田宮」と呼んだ」というものだそうです。また、雷神は水との関わりが深いため、特に農民からの信仰を集めたのです。社殿の裏手に「瘤神社」・「疣権現」・「疱瘡宮」と彫られた石があるようで、皮膚病の人々の信仰が伝わっているようです。
このような狛犬は珍しかったです。
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幸宮神社は幸手市総鎮守。 創祀は不明。日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守として広く崇敬されたようです。 本殿は全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されており、信仰の深さがうかがわれるとのことでしたが本日はみられませんでした。 祭神は誉田別尊、経津主神、菅原道真公(ほんだわけのみこと、ふつぬしのかみ、すがわらみちざねこう、)神徳は文武両道、商売繁盛、除災招福などとのことでした。
彫り物が立派な本殿でした。
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割烹ときわやには日光社参の折に八代将軍徳川吉宗が、聖福寺で食べた昼食の献立を再現した「吉宗弁当」が提供されているとのことです。内容は「焼き豆腐・ヤマトイモ・レンコン煮しめ」など、かなりヘルシーなようです。また事前予約が必要のようですがちょっと食したいものです。

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天神神社はかつて裏町天神とも称されていたとのこと。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがあるようです。境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)が目につきました。

こうして午後は権現堂公園から何やかやと見分しながら約1時間30分で東武日光線幸手駅に到着。喜多見先生、佐藤TDの導きも良く24名は最後の紫陽花見物で大いに満足した1日となりました。日中は30℃、晴れとはいえ雲も時々かかり直射日光を遮ってくれたのは幸いでした。おかげで自宅につくと22000歩は大満足の歩程。さいたまウォークは本日で29回目、まだまだ続きますので今後も頑張ります。
posted by yunofumi at 14:08| あちこちウォーク

2022年06月12日

2022.6.5 さいたま新発見 ぶらり街あるき 越谷市

埼玉県内で最大の宿場だった越ケ谷宿。元荒川を挟んで南側が昔は越ケ谷町、北側は大沢町といったようです。ここは徳川家康がたびたび鷹狩で訪れた所でもあるようです。今は昔にも負けず大きな市になっており、人口約34万人、世帯数15万は県内でも有数の大きさ。ということでほぼ平坦な土地柄のようなので楽しみながらウォーキングできそうな予感がしていました。

東武スカイツリーライン北越谷駅⇒大沢香取神社⇒元荒川大沢橋⇒鍛冶倉⇒はかり屋⇒越谷本町⇒元荒川橋⇒越ヶ谷御殿跡⇒越谷元年板碑⇒御殿町自治会館⇒越谷アリタキ植物園⇒久伊豆神社⇒そば処久伊豆⇒東越谷4丁目信号⇒こしがや能楽堂⇒花田苑⇒越谷市立病院⇒大聖寺⇒虹だんご⇒元荒川土手⇒瓦曽根溜井⇒しらこばと橋⇒葛西用水⇒越谷市役所⇒がーやちゃん蔵屋敷⇒JR越谷駅

東武スカイツリーライン北越谷駅は東武鉄道の開通当初から設けられた駅の一つ。宿場町である南埼玉郡越ヶ谷町の最寄駅として、開業当初は越ヶ谷駅と名付けられたのです。1919年に、ここより南方に越ヶ谷駅(現在の越谷駅)の開業を迎えることを受けて名前を譲り、所在する町名(南埼玉郡大沢町)に従って武州大沢駅に改称、さらに、1954年に越ヶ谷町・大沢町などが合併し越谷町が発足した後、1956年に北越谷駅に改称されたのです。
開業時の駅舎は貴賓室があり、皇族が埼玉鴨場へ来場される時に利用されていたとのことです。その後、1962年に帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線との直通運転が開始されることを機に、この駅は東武鉄道初の橋上駅となり、西口が開設されました。連続立体交差事業により1999年には高架駅となり、2001年、当駅から越谷駅までが複々線化されたとのことでした。

大沢香取神社。
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香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社としています。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っているようです。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓され、元は低湿地だった土地である。
ちなみに香取神社は主に利根川・江戸川沿いを中心に分布。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布ということでした。
大沢香取神社の創建は永年間(1394〜1428年)とのこと。五穀豊穣や日常生活をお護りする神様として土地の方々から深い信仰を得ています。
大沢香取神社の本殿には彫物師浅草山谷町長谷川竹良の手による高砂の翁、大黒天、龍などが見られました
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旧日光街道越ケ谷宿の街並みは江戸時代に整備された宿場で江戸日本橋から数えて3つ目の宿場。
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街道沿いに「はかり屋」というお店が昔のままで営業していました。私たちはまだウォーキングを開始したばかりでしたが蒸し暑いので昔の味がしたアイスキャンディをいただきました。

越ヶ谷御殿跡。
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越ヶ谷御殿は徳川家康によって1604年(慶長9年)に設けられた御殿。御殿の建物に関する詳細は不明とのことですが広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されているとのことです。ここはもとは越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所だったのを、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれているのです。家康・秀忠などがしばしば訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残っているとのことです。
その後、越ヶ谷御殿は1657年(明暦3年)の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移され、その跡地は畑地として開発され、現在に至っているのです。

越谷元年板碑。
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建長元年の板碑は元荒川右岸の御殿町地内にありました。今から750年以上前の鎌倉時代の中頃、1249年(建長元年)の銘が刻まれています。市内最古で最大の板碑で、高さ155cm、幅56 cm。材質は平板に割れやすい緑泥片岩で、山形の頂部に二段の切り込み(二条線)があり、中心には阿弥陀尊をあらわす大きな梵字(キリーク)が刻まれていました。

越谷アリタキ植物園。
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越谷アリタキ植物園は、市に寄贈された故有瀧龍雄氏の植物園を整備し、新たに市の植物園として開園したものです。面積:約9000u、園内には市の天然記念物に指定されている北米原産の「ラクウショウ」をはじめ、幹周り4m以上もある巨樹「シナサワグルミ」や多種の「ツバキ」など、暖温帯性の樹木を中心に約320種、約1000本の樹木が植えられているとのことです。その他、希少な草花や野鳥、昆虫も観察することもできるということです。今日は立ち寄れませんがいつかまた来てみたいものです。

祖霊社。
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久伊豆神社の入り口にありました。ここには長年久伊豆神社を崇敬された、医師矢野太刀也氏の御霊を矢野太刀也大人命として祖霊社に合祀されているとのことです。

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久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)が主祭神。また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱が奉斎されています。創建の年代は不詳。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝っています。この神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされています。

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久伊豆神社の手水舎は1675年(延宝三年)に建てられたと伝えられるもので天井の龍の絵がすごかったです。

力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石。 三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物です。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されています。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

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家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、拝殿前の狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれているようです。

本堂裏には力石がぽつんとありました。
そういえば「越谷七不思議」のひとつということです。
ちなみにこの七不思議は@ぎょうだい様(蒲生茶屋通り)A白山神社の原貞掛け石塔(増林)B大祖模不動尊の亀碑(相模町)C稲荷神社「菅原荘」の石碑(新川町)D久伊豆神社本殿後ろの力石(越ケ谷)E会田金物店の壁画(越ケ谷本町)F聖徳寺と光明院の塩地蔵(北川崎)とわかりましたのでまた見に伺いたいものです。

そば処久伊豆。
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こしがや鴨ねぎ鍋が売りのお店でした。
鴨の脂がすごかったです。

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越谷市日本文化伝承の館 こしがや能楽堂目的は伝統芸術文化の振興と市民文化の向上のために建てられたとのことです。埼玉県内唯一の野外の能楽堂は総檜造り。建築面積は約1187u、能舞台には舞台が5.9m四方のほか、地謡座・後座・橋懸り、鏡の間・溜の間がありました。敷地内には能舞台のほか中庭、和室、大広間、応接室等がありました。能楽はもちろん日本舞踊や詩吟、茶道といった伝統芸術の拠点にもなっておりまた一般向けのイベント開催もあるとのことでした。
展示で能の面や衣装がありました。
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花田苑。
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こしがや能楽堂に隣接している廻遊式池泉式庭園。正門は市内の宇田家長屋門が復元されたもの。敷地内には茶室もありました。かつては畑地であったのが、区画整理事業と連動して計画が持ち上がり、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度にかけて整備されたようです。14,000本の樹木が植えられています。
長屋門です。
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アジサイなど色とりどりで花が咲いていました。
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大相模不動尊眞大山大聖寺は真言宗豊山派の寺で、本尊は不動明王。天平勝宝2年(750)に良弁僧正が開基した越谷最古の寺院。山門の「真大山」の額は老中松平定信の筆とされています。なお、「山門」や「北条氏繁掟書」、「徳川家康の夜具」、「タブノキ」は市指定文化財になっています。
今風のぴんころ地蔵がありました。
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素朴な「虹だんご」があり、お土産にゲットしました。

元荒川土手にでるとアジサイが見ごろでした。
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瓦曽根溜井(かわらそねいためい)。
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1600年頃に瓦曽根堰が元荒川に設置され溜井ができ、農業用水のための溜井として江戸期から利用されていたようです。西部の一部が埋め立てられ、越谷市役所などが建設されたようです(主に越ヶ谷4丁目にあたる部分)。葛西用水、谷古田用水、八条用水が分水しており、岸沿いに葛西親水緑道が整備され、花菖蒲やアジサイが植えられているのです。
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斜張橋は、しらこばと橋(平成6年竣工、長さ145m、 八潮越谷線)。橋名は越谷市の市の鳥である、しらこばとに 由来する。橋のデザインは、しらこばとが羽を広げた姿を イメージしてあるのだという。

花菖蒲がとてもきれいでした。
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「ガーヤちゃんの蔵屋敷」は、こしがやを「案内する」「食する」「持ち帰る」「体験する」をコンセプトとした、越谷の魅力を発信する観光物産拠点施設。越谷市だけではなく、近隣市町や阿波踊りで交流のある徳島市、日光街道の連携都市などの人気商品を販売し、広域的な観光PRを行います
店内では色々目移りしそうでしたが珍しい「苺カレー」もゲットしました。
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ということでお土産は大聖寺の境内にあった虹だんごの「焼き団子」。これは素朴で美味しかったです。また本日の逸品の「がーやちゃん煎餅」と「苺カレー」は今からいただくのが楽しみです。
今日はいつものように喜多見先生の先導、TDは池谷さん、参加者22名は楽しく参加。
越ケ谷の土地が元荒川や用水をふんだんに縦断しておりなるほど水郷の街でした。また今日は伺わなかった大林地区にある埼玉鴨場では,野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されているとのことでした。以前日光街道ウォークで前を通りましたので今もイメージが残っています。
posted by yunofumi at 11:11| あちこちウォーク