2022年05月20日

2022,5,12 神代植物公園から深大寺へドライブ

近頃はもう梅雨に入ったのではないかと思われるくらいの天候が続いていましたが、昨日と今日は全くのカラリとした晴天。ということで急遽、仕事をお休みしてドライブとしゃれこみました。本当に近頃はコロナ禍でもあり、うっかりまだまだお出かけできないからです。

神代植物公園はもともと都内の街路樹などを育てるために作られた都内で唯一の植物公園とのこと。現在では約4800種類、10万本の樹木と共にバラ園、つつじ園、ウメ園、ハギ園などをブロックに分けているので見た目もとてもきれいなのです。
さて、我が家から神代植物公園まで約26km、ということで順調に1時間ちょっとで第一駐車場に到着。本日は平日なのでガラガラと思っていたのですが、いやはや大勢の人人、人。駐車場に入るのに約10分。植物公園に入るのに30分弱、いやー驚きました。
IMG_4435no2.JPG
入口では入場料が500円と思っていたのがシニアは250円。ウ―ン、待ったかいがありました。
今に季節はバラ・サツキ・シャクヤクとお花が咲き乱れる時期なのです。
入口そばすぐにシャクヤク園。それは見事に咲き誇り、満開はもう過ぎたかとも思えましたがどうして、どうして、見事でした。
IMG_4454no2.JPG
「みらい」、「乗陀の楽」が特に見事でした。
IMG_4445no2.JPG

IMG_4449no2.JPG

その後バラ園へ。
IMG_4462no2.JPG

IMG_4469no2.JPG
本日はどれもほぼ満開!
白い「フレンチレース」、黄色い「サン・フレーマ」が特に見事でした。
IMG_4474no2.JPG

IMG_4476no2.JPG

全体を色々な角度で見て楽しみました。
IMG_4483no2.JPG

バラ園テラスで一休み後、雑木林をぬけて深大寺乾門から深大寺へ。
IMG_4491no2.JPG

深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町にある仏教寺院で天台宗別格本山で、山号は浮岳山とのこと。有名なのは日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」。隣接している東京都立神代植物公園はもともとは寺領であったようです。「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来しているということです。奈良時代の733年(天平5年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したとのことです。東京都では浅草の浅草寺(縁起によれば628年開基)に次ぐ古刹。
平安時代の859年、天台宗へ改宗。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建とのことでした。本尊は本堂に安置されている宝冠阿弥陀如来像。元三大師(がんざんだいし)像は秘仏とされているとのことでした。

深大寺本堂。
IMG_4499no2.JPG

釈迦堂。
IMG_4503no2.JPG

よくよくお参りして御朱印などをいただき、植物公園に戻りその後いつもは深大寺前や公園前でおそばをいただくのですが今日は尋常じゃない混み具合。そのままおとなしく退散し、自宅そばの「さかい珈琲」でいつものランチをいただき無事帰宅。
IMG_4521no2.JPG

IMG_4520no2.JPG
いやはや思った以上の人と車の波に酔いしれて1日となりました。
やはり籠ってばかりはいけないです。今後も時と場所を吟味しつつ有意義に遊ぶことを心がけます。
posted by yunofumi at 22:39| ドタバタ日記

2022年05月08日

2022.5.1 さいたま新発見 ぶらり街あるき 東松山市

東松山市は「花とウォーキングのまち」として長年売り出し中!
有名なのは国内一番の「スリーデーマーチ」。これは11月に行われる3日間のウォーキング大会で5km、10km、20km、30km、40km、50kmのコースがあります。私は本年参加すれば8回目となります。私はほとんど10kmコースばかりですがそれでも3日間連続で、しかも天候は晴ればかりではありませんからそれなりに大変なのです。
ということで本日は朝10:00曇天ですが喜多見先生、TD小松さんと共に22名が元気にスタートしました。

東武東上線東松山駅⇒箭弓稲荷神社⇒箭弓稲荷神社牡丹園⇒第250号踏切道⇒まるひろ東松山店⇒やきとりひびき⇒松葉町商栄会⇒東松山松葉町郵便局⇒松山陣屋跡⇒市立松山小学校⇒県立松山高校⇒日吉神社⇒小松原町⇒藤川(昼食)⇒加美町バス停⇒松山神社⇒上沼公園⇒八雲神社⇒松山町道路元標⇒津乃園⇒ウォーキングセンター⇒松山城跡⇒岩室観音⇒吉見百穴⇒吉見百穴バス停⇒東松山駅

東武東上線は池袋から寄居までの39駅あります。私は上福岡駅が地元でこれは各駅しか停車しません。隣のふじみ野駅や下りの方では川越駅が急行その他の列車が停車しますのでほどほどに便利な所に住んでいます。
東松山駅は1923年(大正12年)10月、東上線坂戸町 - 武州松山間開通の際に武州松山駅として開業。所在地が当時は比企郡松山町であり、愛媛県松山市の伊予鉄道松山駅(現・松山市駅]との混同を避けるため、武蔵国を意味する「武州」を冠したとのことです。1954年(昭和29年)10月東松山市発足により東松山駅に改称したようです。
IMG_4169no2.JPG
レンガ造りの町並みをイメージしたという東松山駅駅舎は東松山市がオランダヘルダーラント州・ナイメーヘン市と姉妹都市提携していることから、レンガ造りの町並みをイメージし、鐘の時計台はレンガの街並みに合う ナイメーヘン市のイメージでもあります。 

IMG_4175no2.JPG

すぐ目の前に大鳥居が出現。これですぐそばに箭弓稲荷神社があることが分かります。
IMG_4179no2.JPG

箭弓稲荷神社の創建は、712年(和銅5年)。平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきたので朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利したのです。その後頼信は、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、社殿の建て替えや野久稲荷を箭弓稲荷と改めたのです。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めているようです。
拝殿は、豪壮な権現造りで、1835年(天保6年)に造営されたもの。あらゆるところに彫刻が施され、目貫龍、三条小鍛冶、鳳凰などとても見ごたえがありました。
IMG_4189no2.JPG
境内には立派な神楽殿もあり本日は天岩戸が開かれる神楽が奉納されていました。
なお、境内のぼたん園では、藤やつつじが咲き、目を楽しませてくれました。
IMG_4227 no2.JPG

IMG_4235no2.JPG

IMG_4232no2.JPG

巨大御朱印スタンプがありました。
IMG_4262no2.JPG
絵馬はバットやホームベースの形がありました。
IMG_4254no2.JPG

IMG_4256no2.JPG

東松山市といえばやきとり。豚のカシラ肉を炭火でじっくり焼いたもので、辛味の効いた「みそだれ」をつけて食べるようです。東松山駅を中心に、約50軒のお店で食べることができ、子どもから大人まで、大人気の味覚とのことですが、特にビールとの相性は抜群だそうです。

IMG_4293no2.JPG
前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋。1749年(寛延2年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされ、前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難のため1767年(明和4年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移したのです。それから100年後の1867年(慶応3年)、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩。こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまい、これを管理するために、1867年(慶応3年)、前橋藩松山陣屋が置かれたのでした。
 
IMG_4305no2.JPG
埼玉県立松山高校は1922年設立の旧制中学を前身とする男子校。通称「松高(まつこう)」。文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール指定校で旧制松山中学校時代を含めた卒業生は2万人超。大正時代の旧校舎(旧埼玉県立松山中学校校舎)を移築した国の登録有形文化財である松山高校記念館がシンボルですが本日お化粧直しのためみられませんでした。

IMG_4322no2.JPG
日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展したようです。この神社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺も守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものでしょうといわれていようです。当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現状の日枝神社に改めたがしかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られているのです。

IMG_4337no2.JPG
和食のお店藤川で昼食。焼き鳥丼のようでしたが「山賊丼」というようです。かなりピリッと辛みが効いていました。
IMG_4338no2.JPG

IMG_4349no2.JPG
松山神社は元々、旧松山宿の総鎮守として、1063年(康平6年)に大宮氷川神社を勧請して創建したその後の改名なのです。境内には末社の大鳥神社・浅間神社があります。市街地に位置しながら、神社の周りにはカシ・モミ・イヌシデなどたくさんの樹木があり、これらの木々全体が松山神社の杜として市の名木に認定されています。拝殿には見事な彫刻が施されていました。

IMG_4351no2.JPG
近隣の上沼公園とともに散策の場として市民に親しまれています。

八雲神社の社殿は大きな覆いがありました。間口2.7m 奥行き3.6m単層切妻、正面軒は唐破風、その下が千鳥破風でした。そして周囲の彫刻は花鳥、竜、唐獅子など見事なのです。説明板によると安政6年に彫工飯田仙之助とその弟子たちで作成されたようでした。
IMG_4356no2.JPG

IMG_4364no2.JPG

IMG_4374no2.JPG
道路元標は道路の起点と終点を示すものです。東松山では道路元票が松山町と野本町でみつかっているようです。ここにあるのは本町1丁目にあったのを移設したとのことです。

IMG_4405no2.JPG
東松山市ウォーキングセンターは、歩く人たちの中心施設としての機能をもち、自然に対する理解を深めていただくためにつくられ、ウォーキングについての様々な活動をしているとのことです。「ふるさと自然のみち」や「ウォーキングトレイル」を活用しながら、自然について学ぶ機会を提供し、環境保全への理解を図ること、ウォーキングや自然学習のリーダーの育成と共に様々なイベントのプランがありました。さすが、スリ−デーマーチを長く開催している土地柄です。
そういえばスルーデーマーチは1978年(昭和53年)群馬県で第1回開催、その後第3回から東松山での開催となり、令和3年から、第44回はコロナ禍で限定的なものだったとのこと。どうやら本年の第45回は11月4・5・6日に記念大会として開催の準備がはじまっているとの情報もここで手にいれました。いつも参加する私は楽しみです。

IMG_4417no2.JPG
松山城跡は”松山合戦で知られる難攻不落の城の跡”です。松山城は比企丘陵の先端に建てられた平山城。ふもとを流れる市野川を天然の堀として利用し、その天然の要害から不落城とも言われていました。戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などの名将が激しい攻防を繰り広げたのです。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成されていたとのことです。
本日は午後かなりの雨が降り足元が危ないので見に行かずでした。

IMG_4416no2.JPG
岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音堂というのです。こちらは龍性院の境外仏堂とのこと。この観音のはじまりは弘仁年中(810〜824年)。松山城主が代々信仰し護持していましたが、1590年(天正18年)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失。現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものとのことです。
お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては大変めずらしいようです。

IMG_4420no2.JPG
吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定されています。吉見町を代表する史跡で、現在確認できる横穴の数は219基とのこと。各横穴は玄室・羨道の2部分からなり、その一部には天然記念物のヒカリゴケも自生していると伺いました。

本日は午後雨がかなり降り、松山城跡や吉見百穴は細かく見られませんでしたがお土産はしっかりとゲット。本日の埼玉の逸品は東松山の名菓富久屋の「松ぼっくり」。その他は百穴の高橋売店で購入。いずれにしても雨が降ると資料館も含め細かく見ることが出来ません。今年はまたスリーデーマーチで立ち寄ると思うのでまずは“良し”としました。
IMG_4422no2.JPG

今日はあいにく午後雨が降り、気温13℃と低め、ということで吉見百穴からバスで東松山駅まで出て東上線で帰宅。それでも2万歩の行程はまずまず。次は越谷市、幸手市、秩父市と予定を入れていますからまた頑張ります。
posted by yunofumi at 18:47| あちこちウォーク

2022年05月04日

2022.4.28 東京都写真美術館へ

今朝は次女の同級生だった本城直季さんの写真展を見に、恵比寿の東京都写真美術館にお出かけ。
本城直季さんは1978年東京生まれ。東京工芸大学芸術学部写真学科卒業、同大学院芸術学研究科メディアアート専攻修了でプロの写真家。大判カメラのアオリ(ティルト)を利用して擬似的に被写界深度の浅い写真を撮り、実際の風景や人物などをミニチュア・ジオラマのように見せる手法で知られるとのことです。私が良くこの方の写真を見たのはANAの機内誌「翼の王国」。北海道で仕事をしていた頃は飛行機に乗るたびの楽しみでした。
IMG_4157no2.JPG
そして本日は大きなプールや東京駅を上空からとった写真が特に面白かったです。
IMG_4147no2.JPG

IMG_4150no2.JPG
いつもどんな風にして撮るのかと考えるだけで面白いのです。

IMG_4158no2.JPG
さて次は銀座に移動し、千木良信之さんの追悼個展に伺いました。この方についてはよく知らないのですが今日は知人の紹介で銀座「シルクランド画廊」に伺いました。ほとんどが油絵で川越近辺の風景画もありました。ご紹介のはがきにあった「武蔵野の日の出」は懐かしい風景画でした。
この画廊が銀座駅そばでしたからこのあたりで一休み、とあたりを見回すと「銀座米料亭 八代目儀兵衛」が見えこちらで天婦羅セットのランチをいただきました。
IMG_4163no2.JPG

IMG_4161no2.JPG
お米にこだわっているお店のようでお焦げ付きで本当に白飯が美味しかったです。

本日は仕事をお休みし、目の保養ということで写真と絵画の鑑賞をしました。なかなかこのような時間は取れませんがなるべく平日にコロナ禍を避けてのんびりすることも必要と思っているからです。
今後も月に一度はこのように遊びたいと思っております。
posted by yunofumi at 22:17| ドタバタ日記

2022年05月03日

2022.4.24 さいたま彩発見ぶらり街あるき 春日部市

今朝は今にも雨が降り出しそうな空模様のもと、喜多見先生、TD増田さん、参加者22名と共に出発。

東武スカイツリーライン春日部駅東口⇒粕壁神明社⇒ぷらっとかすかべ⇒永嶋庄兵門商店⇒最勝院⇒古隅田川・大落古利根川⇒上喜蔵河岸跡・新町橋⇒浜島家住宅土蔵・高札場跡⇒新町橋西信号⇒かすかべ大通り⇒埼玉りそな銀行⇒問屋場跡⇒日光道中粕壁宿⇒田村荒物店⇒ミセと蔵⇒古利根公園橋⇒古利根きらめき通り⇒大落古利根川⇒碇神社・イヌグス⇒春日部商工会議所⇒匠大塚⇒利根川せんべい⇒文化会館前信号⇒脇本陣跡⇒東陽寺⇒一宮信号⇒八坂神社⇒郷土資料館⇒秋葉神社⇒暖歩(昼食)⇒春日部駅西口−電車―藤の牛島駅
⇒藤花園⇒藤の牛島駅

東武スカイツリーラインはもともと東武伊勢崎線というのです。2012年3月より、浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」という路線愛称名となっています。普段利用しない私などはよく理解できませんがとにかく今日はこのスカイツリーラインを利用。

IMG_3942no2.JPG
春日部駅は明治32年に「粕壁」駅として開業し、昭和24年に現在の駅名に改称。現在の東口駅舎と西口駅舎があまりに古くていよいよ大幅な改装・増築がされるようで駅舎には「鉄道の高架化が始まります」と表示がありました。完成すればまた街の様子が変わることでしょう。

IMG_3951no2.JPG
粕壁神明社は、天明年間の1781-1789と1765年(明和2年)に当地の豪族九法四郎兵衛が土中から神体を発掘。九法家の氏神として祀られていたものの、その後、九法家の廃絶により、名主の見川家の邸内の一部となったとのことです。宿場の守り神として信仰を集め、現在では、「疫病封じ」として始められた例祭と、「春日部のお酉様」とも称される新穀感謝祭が行われているようです。

IMG_3955no2.JPG
ぷらっとかすかべは市内の観光情報、市の特産品などの魅力的な情報を発信している所。この情報発信館は、「誰でもぷらっと気軽に立ち寄れる憩いのスペースであり、春日部の特産品やまちの情報などを全国に発信するプラットホームでもあってほしい」という願いが込められています。本日は特産品の「麦わら帽子、桐箪笥、押絵羽子板」などの展示が目立ちました。また首都圏外郭放水路の紹介もありました。これは地底50mを流れる世界最大級の地下放水路で、中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、洪水の一部をゆとりのある江戸川へと流すことができるようになっています。

IMG_3969no2.JPG
永嶋庄兵門商店は創業が慶長年間のお米屋さん。何しろ建物が立派でした。

IMG_3976no2.JPG
真言宗智山派寺院の最勝院(さいしょういん)は、華林山慈恩寺と号します。最勝院は、慈恩寺の僧「尊が、慈恩寺を退いて1504年(永正元年)当地に創建したと伝えられます。1649年(慶安元年)には寺領15石の御朱印状を幕府より受領、近郷に末寺を擁した本寺格の寺院でした。
本堂横には春日部重行公墳があり、明治時代には粕壁小学校や粕壁税務署などにも利用されたとのことです。
IMG_3980no2.JPG

IMG_3984no2.JPG
古隅田川と大落古利根川の合流地点。

IMG_3993no2.JPG
上喜蔵河岸跡・新町橋。
古利根川にかかる新町橋のたもとには、江戸時代、上喜蔵河岸(かみきぞうがし)という河岸場がありました。現在も長方形に整形された石を積む「切込みハギ」という工法による石垣が2〜3段、現地でみることができました。
IMG_3987no2.JPG

河岸場はこのほかに、碇神社(いかりじんじゃ)付近に下喜蔵河岸(しもきぞうがし)があったといわれ、いずれも江戸時代中ごろに粕壁宿の名主であった見川喜蔵(みかわきぞう)の名前が由来とされています。
粕壁宿は、このような河岸場を利用して、日光道中の陸路と古利根川の舟運の結節地として発達しました。
幕府により江戸川が開削、整備されると、江戸への物資の輸送には江戸川が使われるようになりました。古利根川は、流域の新田開発が進み、途中に溜井(ためい)などの利水施設が設けられたため、江戸へ直接、荷物を運ぶことが難しくなり、地域間の舟運路として使われました。

浜島家住宅土蔵・高札場跡は春日部駅東口より徒歩7分くらいのところ、旧日光街道脇の交差点、スポーツクラブの道を挟んだ反対側にあります。ここは、明治22年の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だったのです。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用されたとの事です。

IMG_4004no2.JPG
問屋場跡の案内板。
問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は1826年(文政9年)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。

日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし1716年(正徳6年)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。粕壁宿は、江戸時代1616年(元和2年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。1636年(寛永13年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

ミセと蔵の標識がありました。粕壁宿は江戸日本橋から4番目の宿場。宿場には本陣・脇本陣・旅籠・問屋場があり、粕壁は日光街道23宿の6番目の規模でした。粕壁の商家は間口が狭く、奥行きの長い敷地になっていました。街道に面しては「ミセ」、その奥には生活空間としての「オク」がありました。粕壁宿は古利根川に沿って蔵を連ね、船を乗り付けて荷物の上げ下げを下とのことです。

IMG_4015no2.JPG
古利根公園はまちの中心を流れる古利根川に架かる橋上の公園。川沿いの公園とは一味違った感じで古利根川の景観を楽しむことができる人気のスポットだそうです。また、日の入り後は中心にある「麦わら帽子をコンセプトとしたモニュメント」をライトアップしているようです。(点灯時間:日の入り〜午後10時)。この橋の上にも作家さんが作った作品がありました。

古利根きらめき通りウォーキングコースが設置されていました。
⓵古利根公園橋⓶春日橋⓷埼葛橋C八幡橋D牛島人道橋Eゆりのき橋F藤塚橋G古利根橋
このコース全体でトータル6.1km、約2時間とのこと。かなり気持ちよく走れそうです。

大落古利根川は南埼玉郡と北葛飾郡の郡境を画し、「古利根川」という名称が付されているようにかつては「利根川」の本流で、「大落」とは大きな農業排水路という意味とのことです。現在でも利根大堰からの水が埼玉用水、葛西用水路等を経由して流れ込んでいるのです。このため、4月〜10月は豊富に水が流れていますが、11月〜3月は大きく減少します。今では、大落古利根川は、古利根堰(越谷市・松伏町)の改築に伴い、古利根堰から東武野田線の鉄橋付近までの堤防補強工事が完成しています。近年、主に河川環境整備工事が実施され、平成16年度には、杉戸町、宮代町と連携し、階段護岸や遊歩道の設置を軸とした親水護岸の整備をしました。

IMG_4039no2.JPG
粕壁東2丁目、古利根川そばには碇神社とその境内にイヌグスの大木がありました
この地にはもともとは江戸時代の名主多田家屋敷稲荷があったようです。
IMG_4035no2.JPG
このイヌグスは根回り10m、樹高約12m、樹齢推定約600年(室町時代)で、イヌグスの生育の北限とされるとのことで埼玉県指定の天然記念物になっているとのことでした。

粕壁東2丁目の「匠大塚」は2015年大型家具店としての発祥の地だそうです。近年社内の色々が聞こえてきますが、店内の立派なことに驚きました。

IMG_4059no2.JPG
曹洞宗寺院の東陽寺は、医王山と号が記されていました。東陽寺の創建はどうやら文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したようですが、1624年(寛永元年)に焼失、1662年(寛文2年)にこの地に再建、僧熊巌が中興開山したということでした。江戸期には新西国三十三ヶ所30番目。松尾芭蕉に随行した曽良旅日記からの一文の碑がありました。
すぐそばには粕壁宿の市神として祀られた八坂神社がありました。春日部夏祭りの起源というお祭りがあるようです。

春日部市郷土資料館には春日部市の歴史特産物、日光道中模型などが示されており、なかなか見ごたえがありました。

IMG_4096no2.JPG
粕壁秋葉社は、春日部市中央にある神社。粕壁秋葉社の創建年代等は不詳とのこと。江戸時代に粕壁宿の名主であった多田次郎兵衛が邸内に建立したもので、火伏の神として崇敬されたということです。神社のあった場所は移ったようですがイチョウと松が合体した夫婦松は春日部駅の西口のすぐのところに石碑とともにありました。

IMG_4113no2.JPG
暖歩(だんぽ)は心と体を癒す、四季折々のお料理と美味しいお酒を提供する「季よせ料理」のお店。和食好きの私は美味しくいただきました。
IMG_4111no2.JPG

午後は単独で春日部駅西口にはふじ通りの藤が見られるようでしたがそれを見ずに、一路、藤の牛島駅に向かい、一駅で到着。途中では春の花があちこちで見られとても楽しかったです
牛島駅から約10分で藤花園に到着。
IMG_4120no2.JPG
藤棚の日当たりなども関係するようで、それぞれほぼ満開でしたが花の色や房の大きさも違って、とても堪能しました。
IMG_4131no2.JPG

今日の埼玉の逸品は味好堂の「春日部瓦せんべい」。帰宅後いただきましたが昔懐かしい味でした。
IMG_4138no2.JPG

本日は一日違いの曇天で19℃と少し涼しめでした。また予報では午後は雨と出ていましたが帰宅するまで雨に合わず、幸運な一日でした。美味しい昼食後は自分のわがままで御一行様から離団して藤の花を見に行きました。実は春日部市は日光街道ウォークも含め、数回訪れたことがあったからです。そして春日部駅は牛島駅の隣だとわかっていたのでちょうど藤の花が満開と思ったからです。案の定、藤の花はほぼ満開でとても見事だったので大満足でした。
さて次回は一週間後に東松山市ウォークです。有名な牡丹園はもう咲ききっているかもしれませんがまた大いに楽しみたいと思います。皆さん、また頑張りましょう!
posted by yunofumi at 22:23| あちこちウォーク