2021年11月21日

2021.11.18 唐子〜寄居へのドライブ

本日も晴天とのことで友人のSさんとドライブへ出発。
まずは唐子中央公園へは下の道で約20km。小一時間で到着。周り一面の樹木が紅葉し始めていました。ここは実は打木村治著「天の園」の舞台となった地なのです。
「天の園」の簡単なあらすじは元々大家の娘さんだった「かつら」が結婚後夫に先立たれ実家に子供連れで戻ったことがはじまり。物語の主人公は「河北保」。当時でも東松山のはずれだった唐子は相当の田舎で自然いっぱい。彼は母の愛情をいっぱい受けながら、村人やその子供たちなどと大いに遊び、学んだ生活が実に懐かしく描かれています。
私も石川県ですが相当な田舎育ちですのでとてもよく情景がわかりました。
本書は1冊270頁で全6冊のシリーズ。おまけに続編「大地の園」へと成長記録が続いて描かれています。
結局は「保さん」成功物語ですが単純なあらすじではなく時代を充分感じさせますのでとてもお勧めの1冊です。
ということでこの書籍は私の愛読書になり、時々振返って読み直しております。

唐子中央公園駐車場は唐子地区体育館前にありました。
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公園内の「天の園」説明板。
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傍の唐子神社本殿。
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唐子神社神輿蔵
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唐子神社手水舎
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天の園石碑
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唐子中央公園周辺の紅葉
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次は寄居の埼玉県立川の博物館を訪問。上の道で約20km、1時間で到着。
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ここは埼玉県が、昭和58年から「埼玉の母なる川」荒川の総合調査を行い、その後10年余りの準備の後、平成9年に開館。その後平成18年にリニューアルし現在の「埼玉県立自然と川の博物館」となったとのことでした。会館の目的は「埼玉の母なる川−荒川−を中心とする河川や水と人々のくらしとのかかわりを楽しみながら学べる体験型博物館」ということですから本日も小学生のグループがいくつも訪れていました。

本館。
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館内の様子
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周辺の紅葉
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東秩父の精米水車
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皆野のコンニャク水車
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本館より荒川を見る
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本日は近頃になくのんびりドライブしました。それでも途中で歩き回ってから帰宅後、9000歩達成は満足!満足!
今後ものんびり体力維持を目指しながらゆったり、のんびり元気に過ごそうと思います。
posted by yunofumi at 13:17| ドタバタ日記

2021年11月17日

2021.11.12 2巡目第10回東京の新発見「渋谷区」

JR信濃町駅⇒慶應義塾大学病院⇒信濃町煉瓦館⇒聖徳記念絵画館⇒新国立競技場⇒オリンピックミュージアム⇒法雲山仙寿院⇒将棋会館⇒鳩森八幡神社⇒渋谷千駄ヶ谷郵便局⇒千駄ヶ谷児童遊園地⇒国立能楽堂⇒神宮北参道PREX⇒JPR千駄ヶ谷ビル⇒DAIKYOビル⇒山手線裏参道ガード⇒明治神宮崇敬会⇒北参道⇒明治神宮本殿⇒西参道⇒代々木ポニー公園・東京乗馬倶楽部⇒代々木倶楽部⇒国立オリンピック記念青少年総合センター⇒バス停代々木5丁目⇒代々木公園動物病院⇒春の小川歌碑⇒公衆トイレ⇒代々木公園西門⇒十四烈士之碑⇒日本初飛行の地⇒代々木公園渋谷門⇒NHK⇒二二六事件供養碑⇒国木田独歩住居跡⇒AMWAYビル⇒松濤界隈・戸栗美術館⇒JR渋谷駅

JR信濃町駅(しなのまちえき)は、信濃町にある中央本線の駅で中央・総武線各駅停車のみが停車。面白いと思ったのは駅舎が信濃町、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町に、四ツ谷駅寄りは南元町となっていることでした。

慶應義塾大学病院は明治25年北里柴三郎博士を所長とする伝染病研究所設立が最初。今では約1000床の大病院で特定機能病院となって先進的医療を開発し質の高い安全な医療を提供しているのです。

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信濃町煉瓦館は慶応義塾大学病院の敷地の一部、旧食養研究所跡に建てられたそうです。1995年と最近造られた建物だがデザインとレンガという素材が、レトロな雰囲気のビルです。設計者は清水建設の大山尚男氏。このビルに使われた煉瓦は韓国から輸入されたままのを使ったとのことでした。

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聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された、神宮外苑のシンボル。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の在世中の事蹟を伝える大壁画(縦3m横2.5〜2.7m)が、画題の年代順に展示されており、当時の出来事で時代の流れを感じながら見ることができます。
すぐそばにはなんじゃもんじゃ(ひとつばたご)がありました。
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なんじゃもんじゃの木はこちらで3代目。花の時期は4月で4枚の白い花びらの小さな花がびっしり咲きとてもきれいとのことでした。

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絵画館前の白松。松といえば黒松、赤松が普通ですが、絵画館正面の池の両側に三本ずつ植えられています。白松(シロマツ、ハクショウ)は中国では神聖な木とされ、王宮や墳墓、寺院などに植栽されているとのことです。樹皮は光沢のある淡灰色。葉は3本づつ付いており、縁起が良いということで拾って帰りました。

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御鷹の松は江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったという言い伝えがあります。家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたということです。時代が下ってからは「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称されるようになったようです。昭和54年8月に絵画館前庭西側の現在地に移設されたようです。

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新国立競技場は2020年東京オリンピック・パラリンピックにはオリンピックスタジアム(英: Olympic Stadium)の名称で、主会場として使用された。1958年(昭和33年)に開場した国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧・国立競技場)の老朽化対応で建てられた施設で、仮称は新国立競技場。2016年12月に着工し、2019年7月3日に開場後の正式名称が『国立競技場』となったのです。

日本オリンピックミュージアム。
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この建物自体は、岸記念体育会館から移転したスポーツ競技団体の事務室のほか、日本オリンピックミュージアム、会議室、記者クラブ、岸清一メモリアルルーム(14階大会議室) などが入っているようです。
本日は外にあるオリンピックマークなどを見ました。
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第11回札幌オリンピック聖火台
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第18回東京オリンピックの聖火台、
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オリンピックの父クーベルタン男爵像
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法雲山仙寿院は江戸時代、正保元年(1644年)に創建されたお寺。紀伊の太守・徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により、里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山としているとのことです。

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将棋会館。
将棋界は、江戸時代の約260年間、徳川幕府の庇護を受けて初代の大橋宗桂以来、 「家元制度」の元で三家(大橋家・大橋分家・伊藤家)より世襲の名人が出て、 伝統と歴史を積み重ねてきたようです。将棋会館1階の売店は色々なグッズであふれていました。現在は藤井聡太さんの大活躍で大いに盛り上がっているようです。

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鳩森八幡神社鳩森八幡神社は、御祭神に応神天皇・神功皇后をお祀りし、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を受けた神社。 境内には都の有形民俗文化財指定の築山富士があります。
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富士塚は寛政元年(1789)の築造で、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また冨士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませているとのことです。
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1986年日本将棋連盟の大山康晴十五世名人から王将の大駒が奉納されたことでできたのがこの将棋堂とのことでした。

さすが渋谷です。千駄ヶ谷郵便局そばにはこのようなマンホールがありました。
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国立能楽堂は、日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場。1983年8月竣工。設計は大江宏。591席。まだこの中でお能をみたことはありません。

神宮北参道から本殿、西参道を通りました。
本殿斜め前には夫婦楠があります。
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途中の並木も秋めいておりとてもきれいでした。
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東京乗馬倶楽部では優雅に乗馬を楽しむ方が見えました。
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代々木倶楽部は日本製鉄の福利厚生施設のようですが、一般人も利用できるようです。料理はどれも無難でリーズナブルの感じで、おいしかったです。
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これは、かなりの穴場で、知る人ぞ知る便利なレストランだと思いました。

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国立オリンピック記念青少年総合センターは第18回オリンピック競技大会(昭和39年)のレガシーとして設立された、青少年及び青少年教育指導者等の各種研修や文化・芸術、スポーツ、国際交流等、幅広い活動の場と機会を提供する国内最大の都市型青少年教育施設。渋谷・新宿からのアクセスがよく緑豊かな立地に、大小の研修室、ホール、体育館、プール、テニスコートや宿泊施設があるとのことでした。全国規模〜少人数の集会・講演会、サークル活動や部活動(スポーツ、音楽、演劇など)の練習、修学旅行の宿泊先、企業の社員研修等、さまざまな活動の場として、利用できるようです。

春の小川歌碑は代々木5丁目には歌碑が立っています。
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渋谷区を流れる宇田川(うだがわ)の上流、明治神宮・代々木公園の西縁、小田急線沿いを流れていたのが河骨川(こうほねがわ)で、戦前はのどかな農村風景が広がっており、国文学者・高野辰之は、春に花咲く河骨川を散策し、有名な『春の小川』を作詞、大正元年に発表、文部省唱歌となりました。

渋谷に出現した透明トイレ。世界的クリエイターが手掛けた「THE TOKYO TOIRET」プロジェクトの一環とのことです。
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代々木公園には西門から入り十四烈士之碑を見ました。
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十四烈士が所属していた大東塾(だいとうじゅく)は1939年(昭和14年)に影山正治が中心となって結成された右翼団体。終戦後の昭和25年に14人の方々が自決されたところのようです。

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日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・代々木公園)において明治43年12月11日〜20日に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功してのです。代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本初飛行の地としてこの日本航空発始之地記念碑が立っているのです。

代々木公園ではバラがきれいに咲いていました。
ケアフリーワンダー。
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パパメイアン。
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二二六事件供養碑。
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昭和11年2月26日〜2月29日、北一輝らの影響を受けた天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが起こしたクーデター未遂事件が有名な「二・二六事件」。二・二六事件慰霊碑は、昭和11年7月12日に東京陸軍刑務所敷地(現・東京都渋谷区宇田川町)で行なわれた銃殺のあった地に立っています。

松濤界隈は渋谷区の南西部に位置し、町域内の多くは住宅地となっています。東京都心を代表する高級住宅地の一つとしても知られています。「松濤」はかつてこの地に茶園「松濤園」があったことに因み、茶園の名が町名となっているとのことでした。

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戸栗美術館は、創設者戸栗亨が長年に渡り蒐集しました陶磁器を中心とする美術品を永久的に保存し、広く公開することを目的として1987年11月に鍋島家屋敷跡にあたる渋谷区松濤の地に開館。コレクションは伊万里、鍋島などの肥前磁器および中国・朝鮮などの東洋陶磁を主体として約7000点を所蔵し、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として活動し、年4回の企画展も開催しているとのことでした。

本日の渋谷界隈ウォーキングは10:00〜15:00まで晴天の空の元、講師大山先生、TD尾崎さん、参加者6名で優雅に25000歩は進みました。特に食事がのんびりした雰囲気でおいしくいただけたこともありがたかったです。コースが都心まっただ中でちょっとコロナ禍もある心配しましたが難なく終わりました。また今後のウォーキングを楽しみたいです。
posted by yunofumi at 19:22| あちこちウォーク

2021年11月14日

2021.11.7 さいたま彩発見ぶらり街あるき 吉川市

JR吉川美南駅⇒美南1・2丁目調整池⇒美南2丁目公園⇒美南中央公園⇒吉川中学校⇒高久大橋⇒けやき通り⇒蕎高神社⇒蜜厳院⇒観龍院⇒清浄寺⇒木売第2公園⇒JR吉川駅⇒天然温泉あゆみ⇒月の公園⇒智勝院⇒ますや⇒平沼信号⇒芳川神社⇒延命寺⇒さくら通り⇒まつざわ煎餅⇒かき川銘茶⇒甫中橋上第二大場川⇒鯰の里公園⇒鯰養殖場⇒JR吉川美南駅

JR吉川美南(よしかわみなみ)駅。
2012年(平成24年)に吉川駅と新三郷駅の中間で旧むさしの操車場跡地につくられた駅。
武蔵野線では、越谷レイクタウン駅開業以来4年振りの新駅開業となったとのこと。
駅周辺は今から開発が進みそう。そこに早々とイオンタウンができていました。また改札そばにはマスコットの「なまりん」がお出迎えをしていました。
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吉川市 (よしかわし)は、 埼玉県の南東部に位置する 市で 人口は約7万人。 東京都心から約20 km 、 江戸川 と 中川・元荒川 に挟まれた水と緑が豊かなまちとのこと。
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これは美南1・2丁目調整池。

利根川を水源とした豊かな稲作地帯である吉川美南周辺は、同時に、浸水被害にも悩まされてきたようです。埼玉県では被害を減らすため、吉川美南エリアに注ぐ水の大半を貯めて浸水を防ぐ調整池を、約20年かけて造り、5丁目の「吉川美南調整池」をつくり、この1・2丁目のこの池は、13万㎥超の貯水力を持ち、吉川美南エリアを浸水から守るようです。いずれにしても、池の周囲には遊歩道をつくり、水と緑の光景を楽しみながら散策のできるスポットとして街に潤いをもたらしているようでした。

美南2丁目公園。
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吉川美南駅から300mくらいの所にある公園。旧むさしの操車場があったことが分かるように貨車の制御弁やヤード輸送方式などが分かるようにしてありました。
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美南中央公園は、吉川駅南特定土地区画整理事業によって整備され、平成22年に開園した公園。公園には、多目的広場や健康遊具などを整え、中でも小高い丘からは、調整池や多目的広場などを見渡せ、眺望も楽しむことができます。隣接する緑地を合わせ、市内で一番広い公園とのことです。
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本日は近隣の消防関係者が集って救急などの訓練をしているようでした。
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蕎高神社(そばたかじんじゃ)は『風土記稿』に「蕎高明神社 村の鎮守なり、祭神は龍神、密蔵院持末社 八大龍王 稲荷 疱瘡神 庵 大日を安ず、密蔵院より庵主を置けり」とあるとのこと。神社の祭神の龍神は、水神信仰による祭祀をうかがわせています。また、密蔵院については末寺四か寺、門徒寺一二か寺を支配した大寺であったことを載せています。二郷半領に鎮座する蕎高神社を同書に拾うと、こちらとに保村と高富村に各一社があり、いずれも密蔵院支配下の寺が管理していることから、蕎高神社の勧請に密蔵院がかかわっていたことが推察できるようでした。

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真言宗系の寺院である密厳院は、正式には医王山錫杖寺。密厳院の創建年代は不詳のようですが、近隣に数多くの末寺門徒寺を擁する本寺格の寺院であったといい、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を拝領したということです。西新井組中川通四箇領八十八箇所57番、武蔵国三十三ヶ所霊場7番だそうです。また境内には八幡太郎義家と共に後三年の役(1087年)に奮戦した鎌倉権五郎景政の子孫一族の墓があるとのことでした。
庭の大イチョウは推定樹齢800年で埼玉県指定の天然記念物。
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清浄寺(しょうじょうじ))の開基西念法師は、源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州(長野県)高井郡井上城主井上盛長の子として生を受け、三郎貞親と名づけられました。貞親5歳の時、父盛長が奥州の乱で討ち死にし、また29歳の時に母と別れ世の無常を感じ、当時流刑地越後(新潟県)におられた親鸞聖人を訪ね門弟とり西念称したのです。西念は31歳の時、聖人と供に武蔵国足立郡野田(さいたま市)に西念寺起立。その後、二郷半木売川戸(吉川市木売)に西光院(現在の清浄寺)を起立。西光院には親鸞聖人もたびたび足を運ばれ、有縁の人々に説法され、寺の縁起には『参詣市の如く群集せり』と当時のことが記されているのです。
現在、清浄寺には西念が親鸞聖人から賜ったとされる親鸞聖人木像が本堂に安置されており「おむくさま」と呼ばれています。西念亡き後 三代目の西順が御木像の失われることを恐れ、御木像を埋め隠したのです。やがて世の中は落着き、第四代了西の時代になり、御木像を埋めたところがむくむくと動き出し、この御木像が出現したということで、いつの間にか「おむくさま」と呼ばれ、掘り出した跡は池をつくり「おむくの池」として現在も寺の門前に残っているのです。
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清浄寺にある宝塔。六角形の塔身石屋根は、鎌倉時代のこの種の石造物としては県内唯一のもの。塔身前面に西念法師と刻んでありました。 清浄寺はかつて西光院と称し、親鸞に命ぜられて西念法師が建てた寺と伝えらています。西念は信州高井の生まれで、親鸞の弟子二十四輩の一人。

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本堂の手前に立つ板碑。頭部は山形、下に二条線、身部は二重線の輪郭を巻き、碑面中央に「南无(無)佛」、下方に紀年銘と光明真言を刻む。「南无仏(なむぶつ)と」は、仏に対し心から帰依することをいうようです。

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1995年(平成7年)に設置された金色の鯰(なまず)はJR武蔵野線吉川駅前南口にありました。吉川市は鯰の里としてPRしていて、シンボル的モニュメントとなっているようです。

吉川駅そばにはラッピーランドという観光案内兼売店がありました。
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足元には「なまりん」のマンホールもありました。
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天然温泉あゆみはゆったりのんびり、天然かけ流しの温泉。源泉は43,6℃、泉質はナトリウム・塩化物強塩の中性。外には足湯もありました。

ますや。
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吉川は、江戸川と中川に囲まれた川の街のため、約400年の昔から川魚料理の伝統があるのです。「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」の言葉どおり、今でも割烹・料亭が数多く、伝統の味を伝えています。
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なまずは淡白でやわらかな味わいで、刺身でよし、焼いてよし、揚げてよしということでしたが私は今日だけで御馳走様の気分でした。私たちは「ますや」で食しましたが、吉川福寿家や料亭 糀家も有名だそうです。

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芳川神社 の創建は1187年(文治3年)鎌倉時代初期とのこと。時の武士団「吉川氏」が、諏訪神社として再興。現在の拝殿は、1850年(嘉永3年)に再建され、吉川の総鎮守として現在に至っているようです。

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真言宗智山派寺院の延命寺は、正式には寶光山地蔵院。延命寺は、1295年(永仁3年5)清仙が開山したようです。古河公方足利義氏逝去後に土着した西卜(戸張氏)が天正年間(1573-1593)に堂宇を再建して中興開基したのです。1648年(慶安元年)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、近郷に末寺・門徒寺22ヶ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ヶ寺と称されていました。西新井組中川通四箇領八十八箇所56番、武蔵国三十三ヶ所霊場初番です。

まつざわ煎餅。
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本日の埼玉の逸品として名物の「なまずせんべい」をいただきました。
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味は格段に普通でした。

鯰の里公園はちょっと見ただけでは普通の公園。災害に強いように色々工夫してあるようです。池が鯰の形でした。
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鯰養殖場。
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農事組合法人吉川受託協会が管理する鯰の養殖場です。平成8年(1996年)になまずの養殖が成功し今では吉川産なまずを生産・出荷しているのです。
網を上げてなまずを見せていただきました。ちょっと見はうなぎのようでしたが、うなぎよりは太めでした。
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本日はまたしても晴天!19℃とベストコンディションの中、23名は全員元気にウォーキング。23000歩といつもより多めの歩程でしたがここのところウォーキングが続きましたので次第に歩きなれてきたように思いました。また色々楽しみます。
posted by yunofumi at 11:16| あちこちウォーク

2021年11月13日

2021.11.4 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたり=前回の続きで同日午後の部

江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校・公立本所小学校跡・勝海舟居住地・江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒東京スカイツリー⇒JR錦糸町駅

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松根屋扇子(せんす)は大正初期に創業。問屋街浅草橋で、扇子・団扇を専門に取り扱っているとのこと。末広がりの扇子は、福を呼ぶ縁起物で各種お祝いや記念品にまたお祭りの大うちわ、芸事に使われる扇子をはじめ、庶民の夏の涼となる扇子・団扇等色々あるようです。

この近くには有名ブランドの人形店がありました。
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浅草見附け跡。
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神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が浅草見附と呼ばれ、1636年(寛永13年)に作られ江戸防衛の要だったのです。1657年(明暦3年)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出したことから、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近なのです。現在は橋のたもとに碑がありました。

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初音森は「江戸七森」に数えられており、多くの御神徳により1471年(文明3年)大田道灌公の寄進で社殿が建立され、田部氏が神主となって奉仕したのです。その頃は「美加度(ミカド)二社稲荷」等といわれたとのことです。すぐそばに資料館があり古い浅草御門の一部や古い神輿がありました。
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明暦の大火の碑。
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明暦の大火(めいれきのたいか)は、1657年(明暦3年旧暦1月18日から20日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだようです。その後、防災への取り組みが行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されこれが現在でも上野広小路などと地名としても残っているのです。

両国橋。
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明治のころ両国橋の西側で橋の北側を東西に流れる川は神田川。左下は外堀、日本橋川。橋の南側は、「千歳の渡し」となっていたようです。両国橋が架けられた年には2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)。「千住大橋」に続いて隅田川では二番目の橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。当初の名称は「大橋」。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれたのです。
江戸幕府は隅田川の架橋は千住大橋以外認めてきませんでしたが1657年(明暦3年)の明暦の大火の際、橋が無くて逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人の死傷者が出たことから事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断、架橋後は本所・深川方面の発展に大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担ったのでした。

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両国花火と百本杭は武線鉄橋あたりの隅田川の東側に打たれていた護岸のための杭。湾曲して激しい流れだった川筋を和らげ土手を保護する役目を負っていました。風光明媚な上、明治中期まで鯉の釣り場として有名でした。

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両国花火資料館(りょうごくはなびしりょうかん)は、東京都墨田区両国二丁目にある博物館。花火の歴史や技術に関する展示がある様子でした。初めて気が付きましたのでまた後日機会を見て訪れてみたいものです。

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回向院は、今からおよそ360年前の1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土となり、10万人以上の尊い人命が奪われたのです。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々だったので当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりということです。

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本所松坂町公園 は、区立公園。高家肝煎を引退した後に吉良義央が暮らした邸宅があった跡地。赤穂浪士によって吉良義央ら二十余人が討たれた「吉良邸討ち入り」の現場。近くには吉良邸表門、裏門の案内もありました。

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近所の大川屋で初めて吉良まんじゅうを購入しました。

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両国公園は勝海舟の生誕地。由来碑や案内図がありました。

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両国小学校の角地に芥川龍之介の文学碑があり、杜子春の一節が刻まれていました。

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榛稲荷神社(はじばみいなりじんじゃ)は、墨田区両国にある稲荷神社。榛稲荷神社の創建年代は不詳。江戸時代当地周辺には榛馬場と呼ばれた武術練習場があり、練習場の土手に榛の木が植えてあり、この榛の木の傍に祀られて榛稲荷神社と呼ばれていたということです。また江戸時代には、当地周辺に葛飾北斎や勝海舟などが居を構えていたとのことでした。

東京東信用金庫両国支店(ひがしん)
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こちらの銀行は建物の周囲に北斎の版画が所狭しと展示されていました。
一番面白いと思ったのはATMでした。
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八角部屋。
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八角親方は第61代横綱北勝海。現役時代は幕内優勝8回となかなか活躍した方。今は部屋に30人以上の現役力士を抱えている様子です。

野見宿弥神社。
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日本相撲協会が管理所属している神社。かつてこの地の東側に相撲の高砂部屋があり、1885年(明治18年)親方あった高砂浦五郎の尽力で、元津軽家上屋敷跡に相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのがはじまり。境内に歴代横綱の名前を刻んだ石碑が建っています。

公立本所小学校跡。
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こちらはもともと久保尊保(田安徳川家旧臣)が1871年(明治4年)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)があったようです。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となったのです。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けたので尾張学校とも呼ばれていたようです。このあたりには勝海舟も居住したことがあるようです。

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津軽稲荷神社は、墨田区錦糸にある稲荷神社。津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたということです。

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電波塔を含め周辺施設は「東京スカイツリータウン」として2012年5月22日にオープンした、地上デジタル放送などの電波を送信する世界一高い自立式電波塔。伝統的日本建築などに見られる「そり」や「むくり」を意識したデザインや、五重塔になぞらえた心柱制でできているのです。東武鉄道及び東武グループのシンボル的存在で高さは634m。

本日は10:00JR浅草橋東口スタート。講師は東京シティガイドの小川先生、TD井上さんのもとに8名が参加。最後まで晴天で風もなく20℃、気持ち良く2万歩をウォーキング。また途中講師が気を利かせて吉良まんじゅうと東あられをゲットし、お土産ができました。
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古地図歩きは今の街並みを見ながら、昔のお屋敷や道路を重ねて想像しながらのウォーキングですからそれなりに面白みがあります。このシリーズは全10回です。本日は3回目の参加ですからまだまだ先が楽しみなのです。
posted by yunofumi at 09:26| あちこちウォーク

2021年11月10日

2021.114 古地図めぐり 浅草橋・両国・錦糸町あたりー午前の部

JR浅草橋駅東口⇒銀杏岡八神社⇒柳橋2丁目⇒元祖つくだ煮鮒佐本店⇒須賀神社⇒閻魔同跡⇒須賀橋交番前信号⇒旧浅草蔵前町名案内板⇒天文台跡⇒蔵前1丁目信号⇒且R縣商店⇒かじ取稲荷神社⇒蔵前工業高校⇒東京都下水道局⇒浅草御蔵跡⇒すみだテラス⇒北斎首尾の松の碇舟椎木の夕蝉⇒首尾の松⇒くらまえ橋郵便局⇒御蔵前公園⇒榊神社⇒東京工業大学⇒江戸そば蕎麦手打處 ここまで午前の部

これより午後の部 江戸そば蕎麦手打處⇒松根屋せんす⇒人形専門店久月⇒吉徳の人形⇒鳴門鯛焼本舗⇒浅草見附け跡⇒旧浅草橋⇒両国郵便局⇒初音森神社⇒柳橋⇒明暦の大火石碑⇒両国橋⇒⇒山クジラ⇒両国花火資料館⇒回向院⇒吉良邸裏門⇒本所松坂町公園⇒吉良邸表門⇒大川屋⇒勝海舟公園⇒両国小学校・芥川龍之介文学碑⇒両緑敬神⇒椿稲荷神社・北斎居住地跡⇒東京東信用金庫両国支店(ひがしん)⇒江戸東京博物館⇒八角部屋⇒野見宿弥神社⇒松花橋跡⇒千歳橋跡⇒若葉橋跡⇒堅川中学校⇒効率本所小学校跡・勝海舟居住地⇒江東橋保育園⇒津軽稲荷神社⇒スカイツリー⇒JR錦糸町駅

ここではまず午前の部の記事を書くことにいたします。

JR浅草橋駅は台東区の駅で最も南にある駅でJR東日本の運転系統は中央・総武線各駅停車と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている駅。

銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)。
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浅草橋駅のすぐそばにありました。その昔、源義家公が奥州征伐の際にこの場所で休憩中に川上より銀杏の枝が流れてきたのでその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願したそうです。そして奥州平定の後再びこの地に帰った時、銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが1062年(康平5年)とのことでした。

元祖つくだ煮鮒佐本店。
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鮒佐は、1862年(文久2年)に創業。159年の伝統を持つ佃煮の製造・販売の老舗。 鮒佐の名は、創業者である初代 大野佐吉が、醤油で『鮒』を付け焼きした「鮒のすずめ焼」を商っていた事と、佐吉の名前の『佐』に由来するとのことで、いまでは『鮒佐』が『佃煮の元祖』といわれているようです。

須賀神社。
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ご祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)。創建は601年(推古天皇9年)とのこと。この当時、この辺りで疫病が流行し、困った人々が牛頭天王(ごずてんのう)に病気平癒を祈ったところ、疫病が快気したことで当地に祠が創建されたということでした。江戸時代には「祇園社」「蔵前牛頭天王」「団子天王」「笹団子天王」などと称され、明治時代に「須賀神社」へと改名されたのです。社殿は関東大震災と第二次世界大戦で焼失しその後再建され、現在の社殿は昭和36年に造営された鉄筋コンクリートのものとなります。

閻魔堂(えんまどう)跡。
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閻魔堂石碑は須賀神社のそば、江戸時代の華徳院のご本尊だった閻魔堂のことのようです。華徳院は今では杉並に移転したのでこの石碑が残っているようです。

天文台跡。
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浅草天文台跡は、1782年(天明2年)に牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された江戸幕府の役所機関「天文方」の施設「頒暦所御用屋敷」のことで、1869年(明治2年)に廃止されるまで、暦を作るための天体観測などが行われていた所。日本地図を徒歩で測量した伊能忠敬もここに通っていたということでした。

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楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)は江戸幕府米倉造営用の石材を船で運搬する際の遭難を避けることを祈願して創建された神社とのことです。

東京都下水道局がありました。ここには蔵前水の館という見学場所があるようですが今はコロナ禍で非公開でした。

浅草御蔵跡石碑。
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浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買い上げ 米などを収納・保管した江戸最大の米蔵。 その敷地は、今の蔵前橋を中心に柳橋 2 丁目4番から厩橋手前に至る一帯の約 12万uもの広さでした。酒田からの幕府直轄領の米もここに運ばれ たのです。 隅田川岸の北から順に一番掘りから八番堀まで串のように堀が掘られ、弘化年 間(1844〜48)には、67棟356戸前(とまえ)の蔵が立ち並び、30 〜40万石の米が出入りしていたということです。ここで収納された米は旗本・御家 人への支給米や、幕府の非常備蓄米で勘定奉行支配下にあったのです。 御蔵の8筋の掘割は大正初期まであったがその後、護岸工事のため埋められ、蔵前一帯に当時の面影はほとんど残っていないのです。

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隅田川テラスに設置された、北斎の「首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」。御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていたので、御蔵前は釣りの名所でもあったようです。
これが現在の「首尾の松」。
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榊神社【第六天榊神社】。
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景行天皇の御宇四十年(110)日本武尊が、勅命により東国の鎮定に下向の折この地に国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮としたとのこと。古来より「第六天神宮」と称され公武衆庶の崇敬を受けてきた。明治6年榊神社と改称したのです。
浅草文庫跡碑が榊神社の境内にありました。明治の初めには浅草文庫と言われる国立の図書館があり、当時の太政大臣三条実美の筆による浅草文庫の朱印が押された蔵書が公開されたていたのです。その書物は今、国立国会図書館等にあるようです。
またこの境内には「蔵前工業学園之蹟」と刻まれた大きな石碑と碑文の説明板がありました。
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この地は1881年(明治14年)に「東京職工学校」が開設され、1890年(明治23年)に「東京工業学校」、1901年(明治34年)には「東京高等工業学校」と改称した。1923年(大正12年)関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒区大岡山に移転。1929年(昭和4年)に現在の「東京工業大学」となったのです。

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江戸蕎麦手打處「あさだ」は創業 江戸安政元年。その昔、中野で穀物商を営んでいた 初代・浅田甚右衛門がこの地に手打蕎麦屋を開いて150余年で現在、江戸前の伝統技術と心意気を受け継ぎ続けて八代目となりました。蕎麦粉は、主に北海道・茨城・福井の純国産の蕎麦の実。新蕎麦の時期には一年分の玄蕎麦を仕入れ、真空保存で鮮度を維持するように努めています。あさだの蕎麦は、毎朝石臼で挽き立ての粉を用いた、「練り・延し・切り」の全ての行程を手作業で行う、つなぎを一切加えない手打ちの十割蕎麦。ということでおいしくいただきました。
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ということで本日の午前の部を終了。約1時間の食事の後、午後の部に再び出発しました。
次回の記事もお楽しみに!!
posted by yunofumi at 20:44| あちこちウォーク