埼玉という名前の由来のさきたま古墳のある行田です。室町時代に築城の忍城の城下町として発展し、今も足袋つくりの街なのです。
秩父鉄道行田市駅⇒栗代蔵⇒時田蔵⇒足袋とくらしの博物館⇒ぷらっとぎょうだ⇒高札場跡⇒武蔵野銀行⇒埼玉りそな銀行⇒行田郵便局⇒小川源蔵右衛門蔵・カネマル商店⇒行田八幡神社⇒そばてんぷら田丸屋⇒清善寺⇒十万石まんじゅう⇒水城公園⇒佐間天神社⇒天真山高源寺⇒行田佐間郵便局⇒県営行田佐間団地⇒イタリアン トラットリア ラノッキオ⇒日本航空館⇒元成田橋⇒埼玉県立さきたま史跡の博物館⇒前玉神社⇒金澤製菓⇒稲荷山古墳⇒古代蓮の里⇒JR行田駅
秩父鉄道は1899年(明治32年)、「上武鉄道株式会社」として設立。1901年(明治34年)熊谷〜寄居間(18.9キロ)が開業。1930年(昭和5年)、現在の秩父本線 羽生〜三峰口間全線が営業しています。1916年(大正5年)、現在の秩父市が名称変更となり社名も「秩父鉄道株式会社」に改称したとのことです。ということで2019年には創立120周年を迎えたのです。熊谷を過ぎると行田市駅でした。改札前には「足袋蔵のまち行田」の幕が掲げられていました。

栗代蔵は1906年(明治39年)建設の元栗原代八商店の土蔵造りの足袋蔵。現在はNPO運営の観光案内所兼まちづくり情報センターに活用されており、2階には日本遺産ガイダ ンスセンターもありました。

こちらは時田蔵。明治36年築と大正初期頃建設の2棟の土蔵造りの足袋蔵で、外観のみ見学可能。行田では珍しい表通りに面した袖蔵形式の土蔵で、日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にもなっています。

「足袋とくらしの博物館」は元、牧野本店の足袋工場。建物が使われなくなった後、2005年10月、工場の面影をほぼそのまま残した博物館として生まれ変わったのです。 博物館では展示物や元足袋職人さんによる実演を見学できます。

「ぷらっと♪ぎょうだ」は行田市の観光物産館で令和3年4月より観光物産館としてリニューアルオープン。店内は日本遺産に認定されている行田らしい和モダンな雰囲気でおしゃれなデザインの足袋やアフリカなどの海外のカラフルな生地を使用した南河原スリッパ等地場産品をはじめ、行田の地粉を使った「行田の餃子」、奈良漬、十万石まんじゅう、わたぼく牛乳など約50社350種類の商品が揃っていました。
2020年春よりコロナウィルスによる自粛生活が続いており行田八幡神社で「花手水」がはじまったとのことです。
今では地域全体で花手水を飾る「花手水week」が始まっており本日はあちらこちらできれいな花手水をみられました。


県道128号線の市役所前〜栄橋の860mの間に昔ながらの遊んでいる童の銅像がみられました。この間には電柱がなく、童の姿にちょっとほっこりしました。

高札場は江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所で、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げている所だったのです。

鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建の武蔵野銀行行田支店は1934年忍貯金銀行として建設。外壁はスクラッチタイル張とし,開口部周りやコーニスには装飾を施した「カストストン」が張ってありました。

小川源蔵右衛門蔵は酒屋の現役の石造蔵。昭和7年に建てられた商品倉庫。大谷石の壁面に取りつけられた看板と、軒の屋根瓦とのバランスが見事。現在はお隣でお店をやっていました。

行田八幡神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失しています。天文年中に、現在の地に移り、忍城主成田下総守長泰公が社殿を修補し城下総鎮守となったようです。現在の社殿は、皇紀2650年を記念して造営が進められ、平成元年11月の竣功、平成12年には参集殿が竣功したのです。

曹洞宗寺院の清善寺は、正式には平田山清善寺。清善寺は、1440年(永享12年)に当地の豪族成田刑部少輔顯忠(清善斎全中)により平田精舎として創建されたとのことです。成田刑部少輔顯忠は1519年(永正16年)に亡くなったのですが、時の城主成田氏15代親泰がその死を悼み、一寺を建立して平田山清善寺と称したということです。1533年(天文2年)成田氏16代長泰により再興、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎えて忍城内に開山したのです。慶長9年には寺領30石の御朱印状を拝領したと伺いました。

十万石まんじゅうの行田本店の建物は、国の登録有形文化財で、築100年で江戸様式蔵づくりです。平成29年には県内初、「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定され、行田の美味しいお菓子を目指し、「うまい、うますぎる『十万石まんじゅう』」をはじめ、安心安全な商品が色々あります。
秩父線行田市駅より徒歩4分 旧国道125号線沿いの本店には立ち寄れず、水城公園店で色々購入しました。
水城公園。
忍城そばのお堀の跡にかっては忍沼と呼ばれる大きな沼がありそこは埋め立てられて現在は市役所や市立体育館となったとのこと。そしてその末端が「水城公園」として昭和39年に開園したのです。広さ約10.3ha。桜が200本もあるとのことですから春は見事なことでしょう。公園入口に大正時代の建物が今、VertCafe(旧忍町信用組合店舗)となっていました。


佐間天神社(さまてんじんしゃ)の創建は、成田氏15代目忍城主成田親泰が、1491年(延徳3年)忍城築城の折、谷郷春日神社西を、城の外堀へ川の水を導水する際の取水口とし、天神坊を出口としたと伝えられています。その天神坊を「慈眼山安養院」とし、その守護神として天神社を勧請したのが始まりとのことでした。

天真山高源寺は、忍城主成田氏ゆかりのお寺。忍城水攻めの際、石田三成が忍城に総攻撃をかけたが守将正木丹波守利英公が撃退したそうです。正木丹波守利英公は、この戦いで命を落としたすべての侍や農民の菩提を弔うため、この寺を建立したとのことです。


昼食は「イタリアン トラットリア ラノッキオ」の行田古代米カレー、ミニサラダ、ゼリーフライのセット。古代米は古墳の形に盛り付けられておりちょっと面白い!ゼリーフライはちょっと見はコロッケと似ていますが、おからを主原料としてじゃがいもと野菜を入れたパン粉を使わない揚げ物。しっとりもちもちとした食感の美味しい一品でした。

武蔵用水路沿いの所にある埼玉スバルの「さきたまガーデン」内に「日本航空館」を設け、「一式戦闘機 隼」ほか中島飛行機が生みだした名機の模型展示、富士重工業製で初の国産ジェット練習機「T-1初鷹」の実機も一般公開しているとのことでした。

埼玉県立さきたま史跡の博物館はさきたま古墳公園(9基の大型古墳からなる埼玉古墳群(国の史跡)を整備した公園)内にある博物館で1969年(昭和44年)に開館したとのことです。展示施設は本館と将軍山古墳展示館からなっているとのこと。国宝展示室では「金錯銘鉄剣」(国宝)などのさきたま古墳群やその周辺の遺跡の出土品が展示されていましたが写真撮影は禁止でしたけれど実際に見て大いに感激しました。
博物館の前庭には埼玉県名由来の石碑がありました。

前玉神社(さきたまじんじゃ)はさきたま古墳群に隣接する神社です。その昔、「幸魂神社」と書いたようです。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱で、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られているとのことでした。


本殿

前玉神社本殿に登る階段をはさむように、1697年(元禄10年)に当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した燈籠がありました。高さは180p。この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれているとのことでした。


前玉神社門前には金澤製菓があり古墳最中の旗が出ていましたが今日は「元祖塩あん餅(塩あんびん)・元祖甘あん餅(あまあんびん)」をお土産にしました。

この後は古墳群公園をウォーキング。前方後円墳の二子山古墳、将軍山古墳を見た後、稲荷山古墳に行き、ここは上まで登れるようになっていました。
その後これより2kmの表示通りに歩け!歩け!で「古代蓮の里」に到着でした。

古代蓮の里はもともとこの地そばで偶然出土した蓮の種がそれも偶然開花し、発見されてできたようです。今では天然記念物「行田蓮」(古代蓮)は行田市のシンボルです。蓮の花は4日間の命ですがそれにしても見事に咲いていました。
古代蓮会館前には世界の蓮園があり42種、約12万株を見ました。

紅万々

剣舞蓮

誠蓮

また古代蓮会館の後ろには古代蓮池が広々とありそれは見事でした。

行田蓮が花盛りでした。


その後古代蓮会館の50m展望タワーに上り、眺望を堪能しました。蓮池の全体も見えましたがなんといっても広大な水田をキャンパスにした「田んぼアート」が見事でした。

今年は6月12日にボランティアも含め総勢377名で田植えをしたそうです。本年の令和3年度デザインテーマは『田んぼに甦るジャポニズム〜浮世絵と歌舞伎〜』。ちょうど今日は見ごろの時期だったようでとても堪能しました。そして来年も見に来たいと思いました。
こうして本日は古代蓮会館前15:49のバスでJR行田駅に戻り、解散でした。
本日は上福岡〜川越〜大宮〜熊谷〜秩父鉄道行田市駅までが遠かった!そして10:15小雨の中、講師の喜多見先生、TD小松さんと共に19名が出発。途中の写真はちょっと雨降りの為、余裕もなく、あまり満足しないものが多かったのです。それでも帰宅すれば24000歩でしたから、まずは満足した1日でした。しかしです。蓮の花を充分に楽しめなかったこと、忍城を垣間見たけれど写真を写せなかったことが「残念!」という気持ちが残った一日でもありました。ということで数日後の行田市再訪を試みることにしました。
2021.7.7 行田市再訪ドライブ
3日前の行田市ウォーキングは小雨の中でのウォーキング。本日は「晴天」ということで仕事をお休みし、行田市再訪のドライブです。
古代蓮の里⇒水城公園⇒十万石まんじゅう⇒行田市郷土博物館・忍城
「古代蓮の里」はとっても良かったです。展望タワーから見た蓮池や田んぼアートは本当に堪能しました。この日の蓮の写真は上記の7/4の記事の写真にしてあります。
行田市役所の駐車場に車を入れてから水城公園を散歩。芝生広場の反対側の池にラッキーなことにホテイアオイが咲いていました。


ホテイアオイは南米原産の外来種。非常に繁殖力が強い水草だそうで、あちこちで生態系を壊していて、世界中で問題になっているらしいです。日本では、「世界の外来侵入種ワースト100」などというありがたくない称号をいただいているようです。でも、花はきれいです。8月が最盛期と聞いていましたが、今回撮影できてラッキーでした。ホテイアオイの花は普段は葉の下にいて、咲くときに一日だけ顔を出すそうです。
街をウォーキング中に行田市ならではのマンホールも見つけました。

行田市産業文化会館のそばに貴婦人と呼ばれる「蒸気機関車C5726」が鎮座していました。

いよいよ忍城(おしじょう)に向かいました。
世間的には映画「のぼうの城」の舞台となったところです。
「忍城(おしじょう)」は、古く文明年間(1469〜1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされており、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられているようです。
1590年、豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で、石田三成らによる水攻めを受けたけれどこの水攻めは失敗に終わっており、このことから「浮き城の町 行田」とのキャッチフレーズとなって今に残っているようです。
この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれたけれど、明治6年に競売されて解体されてしまったそうです。その後、復元された御三階櫓は現在では資料館になっていて最上階の4階は展望台でした。郷土博物館から廊下で続いていました。
まずは忍城御三階櫓のきれいな姿を見ながら浮き城の径を行くと門がありそこから入りました。


とてもきれいな花手水がお出迎え。




行田市郷土博物館は、忍城(おしじょう)の本丸跡地に位置する博物館で住所が本丸になっていました。多くの実物資料が展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化が見られました。周辺は城址公園として整備され、自然に囲まれた憩いの場のようでした。
また博物館の中から御三階櫓につながっており、中を見ることができました。
こうしてようやく行田市見て歩きに満足した次第です。もちろん行田市郷土博物館では続日本の100名城スタンプをいただきました。ということで本日は約10000歩。どうやら日頃の歩数を達成し満足な1日となりました。