桶川市内を流れる川には荒川(あらかわ)、江川(えがわ)、鴨川(かもがわ)、芝川(しばかわ)、元荒川(もとあらかわ)、赤堀川(あかほりがわ)、高野戸川(たかやどがわ)、綾瀬川(あやせがわ)などがあります。また桶川の名前の由来(ゆらい)はいくつかあるようですが「沖側(おきがわ)」説で、「沖(おき)」を「広々とした田畑」の意とし、 その方向を意味する「沖側(おきがわ)」がなまって【おけがわ】になったのが有力。 ほかには、湿地(しっち)が多く、芝川や鴨川の水源(すいげん)があることから、「川が起(お)こる」意で「起き川(おきがわ)」とする説などがあるとのことです。
桶川市は25.26km2。昭和45年に県内31番目の市となったとのこと。もともとは69の宿場があった中山道の宿場町で紅花宿といわれた街。桶川宿は江戸から10里で6番目の宿場。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒を含め、347軒の家々があったといわれています。そういえば桶川宿本陣には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したとのことも聞きました。ちなみに埼玉県内の宿場は蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の9宿場がありました。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781年〜1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂」(おけがわえんじ)の名で全国に知られるようになりました。出羽国・最上地方では7月に紅花が収穫されますが、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができますので、「早庭(早場=はやば)もの」として重宝されたのです。幕末には出羽国に次ぐ産地になっていました。明治時代に化学染料の導入で、紅花産業は衰退、現在では『桶川祇園祭り』などに全盛期の繁栄を偲ぶのみとなっているのです。ちなみに、紅花の花を摘んで発酵、乾燥させたものが、紅色の染料、口紅になり、京、江戸などに運ばれたのです。そのため米は1反あたり平均2両で取引されましたが、紅花はその倍の4両にもなり、桶川の繁栄の土台となったのです。
桶川駅すぐそば若宮1-5にあるのが西口公園。ここには四つのテスト像がありこれは桶川ロータリークラブ設置で大切な約束が四つ書かれていました。
1真実かどうか 2みんなに公平か 3好意と友情を深めるか 4みんなのためになるかどうか
今から60年以上も前の大恐慌のさなか、一人のロータリアンが4項目からなる簡明な倫理指針を考案しこの指針は、窮地にあった彼の会社を救うのに役立ったとのことです。この指針が表現していた内容や信条はまた、ほかの多くの人たちに対しても、倫理的羅針盤を提供することになったのです。今日では、ロータリーの基本理念の一つとなっているとのことです。
また喜多見先生からは埼玉のミッドエリアを知ってほしいと「IKOKA」(いこか)を教えていただきました。 埼玉ミッドエリア「IKOKA」(いこか)は、埼玉県の中央に位置する4市1町(「I」=伊奈町、「K」=北本市、「O」=桶川市、「K」=鴻巣市、「A」=上尾市)からなる地域の総称(造語)で都心へのアクセスが良く、自然に恵まれ、住環境にも優れているため子育て世代の生活満足度が高く、住み替えを考えている人に注目のエリアなのです。
さいたま文学館は、文学に関する資料の収集、展示、調査研究や文学の振興を図るために、埼玉県によって設置された施設。開館は1997年(平成9年)。埼玉県に縁のある文学作品や文学者の作品や資料を収蔵するとともに文芸講演会なども行われているとのことです。桶川市民ホールと同じ建物にある複合施設で、一体的な運用ということでした。埼玉ゆかりの文学者として田山花袋や武者小路実篤は知っていましたが安藤鶴夫、長谷川かな女、永井荷風は知らなかったのでまた作品を見てみようと思いました。
桶川はさすがにベニ花の街。マンホールにも登場です。
武村旅館。
JR桶川駅東口から桶川駅通り商店会を進み5分ほど、中山道を右折したところに建つ登録有形文化財の旅館。明治時代に板橋宿から移転してきた旅館で、現在もビジネス旅館を営んでいるとのことでした。建物内部を見学することはできませんでしたが、1852年建築の木とブリキの外観と瓦屋根、格子窓の建物は歴史が感じられ趣がありました。旅館と書かれた大きな看板が目印でした。
べに花まんじゅうは良質な小麦から作られた小麦まんじゅうに、べに花の色素を練り込みほんのり黄色みがかった皮になっていました。 こしあんやつぶあんをその皮で包んでいます。本日は鰍ラにっこさんのお饅頭を本日の埼玉銘菓としていただきました。
島村家住宅土蔵。
武村旅館から旧中山道を北に150mほど行った右側にありました。ここも国登録有形文化財となっているとのことでした。島村家住宅土蔵は天保の頃の建物だそうです。中が資料館になっているようですが、今日は見られませんでした。
矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されているようです。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでおりまた紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねていました。現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかっているようです。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われており、周辺地域でも数少ない珍しい意匠だそうです。中山道に面したこの土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4年〜大正9年)が明治38年に建立。桁行五間、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねているようです。桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとのことでした。
小林家住宅はもと旅籠の建物を,材木商が幕末より店舗に用いてきたようです。切妻造,桟瓦葺,平入の2階建で,正面に下屋庇を設ける。2階の軒は出桁造で,2階開口部は横一杯に繊細な格子を建て込んでいます。街路に面して建っており,かつての宿場の面影が伝わっています。
桶川本陣遺構。
桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣。本陣とは、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿のこと。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが格式として認められていたようです。また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役としては脇本陣がありました。本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われたようです。桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期の頃。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっており。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めたようです。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めたのです。
中山道宿場館・桶川市観光協会。
桶川市の宿場情報や市内の史跡・観光情報の案内がありました。中山道情報コーナーでは、日本橋から大宮宿、桶川宿、埼玉県内の最後の宿場本庄宿まで、地図を用いて紹介。
中山道桶川宿散策コーナーでは、中山道 桶川宿周辺の文化財や史跡、寺社などスタッフ手作りのマップと写真で紹介。 かなり山盛りで色々おいてありました。
そうそう入口にあったべに花の鉢からギザギザのとげ葉は従来からの品種、丸葉は改良種とわかりました。
中山道桶川宿手洗い処の案内通りに入ると石碑「渋味」と書かれた「式紙塚顕彰碑」がありました。日本最初の女性農学博士で緑茶の「ビタミンC」や「カテキン」を発見した桶川生まれの辻村みちよの功績をたたえた顕彰碑です。
桶川稲荷神社は、嘉禄年間(1225-1227)に創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎したとのことでした。明治6年村社に列格、明治40年桶川宿に鎮座していた宿の鎮守神明社・字西ノ裏白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社を合祀、その後雷電社・浅間社・八雲社(市神)を合祀したようです。
稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いとのことです。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれているとのことです。
稲荷神社拝殿の正面には一対の大きな石燈籠がありました。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えており、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものとのことでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたとのことです。燈籠には紅花商人中として計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあるのです。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。これがきっかけで今また桶川をべに花盛り上げようと機運が高まってきているとのことでした。
平屋では昼食時にべに花まんじゅうもいただきました。
松山以奈り道(まつやまいなりみち)の道しるべは桶川小学校の敷地内にありました。これは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、1836年(天保7年)に建てられ、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印となったようです。このことがわかるのは、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれており、「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとても昔としてはユニークな道しるべなのです。
桶川の美少女 大工 岡野靖夫がコンクリを固めて作った手作りの作品とのことでちょっと怖いですね。
愛宕神社は百日咳の守護神といわれ、昔から婦女子の参拝が多く、庭に大きなイチョウがあり、その木の枝に、乳の形をしたものがあり、お参りすると乳が出るようになると言われていたようです。
川田谷の富士塚は地元では浅間様と呼ばれ、大正末年まで毎年7月1日の山開きの日には先達を中心に信者が集まったということでした。
桶川市歴史民俗資料館は、川田谷生涯学習センター内にある市立の博物館。桶川の歴史と文化を今に伝える文化財の収集・保管及び調査研究、さらには公開普及活動を実施する地域文化財保護拠点施設とのことで、本日は館長さんが説明をしてくださいました。
JR桶川駅から約3.5kmに位置する城山公園は、14世紀に築城された東西120m南北110mの平山城の「三ツ木城」の城跡横に造園された公園。「三ツ木城」は、太田氏岩槻城の支城のひとつとのことです。本日はそこまで見に行きませんでしたが、現在の城址はこんもりとした樹木に覆われ、小高い丘となっていて少しはお堀らしきものが見られる程度とのことでした。公園南側に約300本の桜が見られましたからきっと春のお花見に良いと思いました。
べに花畑。
昔、染料や口紅として使われたべに花は江戸時代の終わり頃、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」の名で全国的に有名でした。 現在、桶川市では、マスコットキャラクター『オケちゃん』をはじめ、「べに花」をシンボルとしたまちをづくりを行っているとのことです。昨年同様、コロナ禍でべにばな祭りは中止とのことです。そこで桶川市歴史民俗資料館そばのべにばな畑を見せていただいた後、お花を2枝お土産に本日の行程が終了となりました。お陰様で家族でべにばなを楽しみました。
本日は思いがけず青空の元、お馴染みの喜多見先生、TD林さんと19名の仲間が参加。AM10:00〜PM3:00前までのウォーキングで最後はバスで駅に戻り、ちょっと元気が回復して帰路につきました。気温も上昇、日差しが強く、約2万歩超はちょっときつかったです。本日のお土産だった「べに花まんじゅう」はちゃっかり昼食時にいただいてしまい、「べにばな」のみのお持ち帰りでした。でも家族には好評でヤレヤレでした。