2021年05月14日

2021.5.9 さいたま彩発見ぶらり街あるき 久喜市

JR久喜駅⇒米津氏御陣山神社⇒天王院⇒八雲神社⇒光明寺⇒御嶽神社⇒甘棠院⇒甘棠院史跡公園⇒古久喜南歩道橋⇒東武伊勢180号踏切⇒葛西用水路⇒下河原橋⇒コスモスふれあいロード⇒上河原橋⇒河原神社⇒すぎのや本陣鷲宮店⇒東鷲宮駅入口信号・県道さいたま栗橋線⇒西大輪神社⇒霞ヶ関橋⇒郷土資料館⇒霊樹寺⇒大酉茶屋わしのみや⇒鷲宮神社・光天之池⇒東武伊勢崎線鷲宮駅

JR久喜駅。
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久喜市は「風の見える街」がキャッチフレーズのようです。駅前には風に吹かれている女性像のモニュメントがありました。
JR久喜駅にはJR東日本の東北本線と、東武鉄道の伊勢崎線の2路線が乗り入れており、また東武鉄道伊勢崎線の乗換駅でもあります。JRは1885年(明治18年)に開業、1899年(明治32年)には東武鉄道駅が開業とのことでした。歴史の長さにびっくりです。

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街のウォーキングが始まるとすぐ電柱がなく、路肩には大きなボックスがほとんど2個組で鎮座。側面には大きく「久喜の提燈祭り」とあり勇壮な神輿を担いでいる写真がありました。お祭りはこれから伺う天王様の行事で町を挙げての行事とのことでした。

御陣山神社。
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広い公園と小高い丘の上に神社がありました。わかっているだけで徳川16神将と言われた米津常春(よねきつつねはる)、米津家初代で2代目徳川秀忠に仕えた米津田政(よねきつたまさ)、米津家2代で大阪定番の大名だった米津田盛(よねきつたもり)、そして武蔵国久喜藩初代藩主米津 政武(よねきつ まさたけ)がここに陣屋を構えていたようです。

天王院。
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本山は山梨県に所在する広厳寺で、1523年(大永3年)に妙鑑によって開かれた曹洞宗の寺院。過去には境内にお籠堂が所在し、清久地区・江面地区などから老人が集い、飲み食いをして楽しむことも行われていたとのことです。

八雲神社。
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八雲神社は天王院の境内に所在する神社で旧久喜町の総鎮守。元は天王院の別院として祭られ「天王宮」と称されていたのが、明治初期の神仏分離によって1873年(明治6年)3月に祭神は天王院より氏子へ移され、その際「天王宮」より「八雲神社」へと改称されたようです。ということで7月12日・18日に行われる勇壮な久喜の提灯祭り・天王様はこの八雲神社の祭典なのです。

光明寺。
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薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)ともいうようです。光明寺に薬師如来がまつられたのは、今から約1300年前のこと。そのとき、この地に流行していた疫病を鎮めるために、徳の高い僧侶、行基が、久喜の地の一番の高台に薬師如来を安置し、疫病退散を祈願したのです。行基は、孫悟空が付き従った三蔵法師のモデル、中国の唐代の三蔵法師玄奘の愛弟子道昭の、そのまた愛弟子とのことです。彼の安置した薬師如来の霊験(れいけん)によって、疫病は無事おさまったと伝わっております。そこでこの地に光明寺が建てられたということでした。もちろん薬師瑠璃光如来は秘仏でしょうから見ることができませんでした。
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1873年(明治6年)に近代的な学校制度の導入と共に「久喜学校」が光明寺に開設され、1913年(大正2年)に小学校新築移転となるまで光明寺は久喜の人々の学び舎となっていたようです。
光明寺の墓所にある中島撫山の墓。
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幕末から明治期の教育者である中島撫山は、1873年(明治6年)に私塾「幸魂教舎」を開くなど、埼玉東部地域の教育に大きく貢献した方です。光明寺にあるのは撫山の神道式の墓で、撫山の妻子や兄弟とともに葬られているとのことでした。

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この御嶽神社(おんたけじんじゃ)は1887年(明治20年)に南埼玉郡久喜本町(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本字荒鎌)に祀られたのが始まりとのこと。
境内施設として本殿、鳥居、「御嶽教 寿幹教会 御嶽神社」と彫られた標柱、樫の木(御神木)、灯籠、狛犬が見られました。

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甘棠院(かんとういん)は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺(えんがくじ)派の寺院。甘棠院の総門を入ると、中門前面から院の東西に100m、南北に250mの空堀が見られました。1925年(大正14年)には「足利政氏館跡及び墓」として埼玉県指定史跡となったとのことでした。
足利政氏は、父の死後、明応6年(1497)古河公方と称しいったんは小山(栃木県小山市)に移ったあとここ甘棠院に隠居したということです。1519年(永正16年)館を寺院として永安山甘棠院と称し開山したとのことでした。
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甘棠院の境内に「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がありました(享禄4年は1531年)。

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甘棠院史跡公園は、甘棠院の北側にあった養護老人ホームの移転に伴って跡地を整備して作られた公園。園内には、戦国時代に活躍した足利政氏が隠退した館(甘棠院)から続く堀の一部が残っている他、雑木林や竹林、梅の古木などの自然がそのまま残っていました。竹藪には鷺が巣作りをしており優雅に飛んでいる様子も見られました。

鷲宮地区の中央を流れる葛西用水路沿いの両岸約10kmを整備し、春は「ポピー」、秋は「コスモス」が咲き誇るとのことでした。
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実際にはポピーはあと1週間ほどで満開かもしれなかったです。
途中の下河原橋、上河原橋を過ぎるあたりには「コスモスふれあいロード」の案内もありました。

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河原神社はJR東北本線『東鷲宮駅』から西へ300mに鎮座。県道3号を越え、「すぎのや」脇の路地を入り葛西用水沿いにあります。以前は白山神社といわれたようで、2000年代になると河原神社と表記されたようです。

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昼食は「すぎのや本陣鷲宮店」のレディスセットでした。イヤー!量が多くて満腹!!

西大輪神社(雷電神社)。
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御祭神は別雷之大神というようです。向かって左の石灯篭は文化12年の作とのこと。例祭日は7月25日ころの日曜日で獅子舞が有名。五穀豊穣と悪疫退散の願いが奉納されるようです。
海のない埼玉県ですが大落古利根川((おおおとしふるとねがわ)や会の川(あいのかわ)などがありそれらにより河畔砂丘ができたようです。久喜市には西大輪砂丘と高柳砂丘が形成されており、ここが西大輪砂丘だそうです。

郷土資料館。
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もともとは平成10年に鷲宮町立郷土資料館として開館。
平成22年に久喜市、菖蒲町、栗橋町及び鷲宮町の合併により、久喜市立郷土資料館となったとのことでした。歴史的資料の収集・保存や調査研究を生かした企画展・特別展や各種講座等が盛んに行われている様でした。

霊樹寺には、平安初期の一木造りの伝統を受け継いだ釈迦如来の案内がありましたが実物は見られませんでした。また参道の両側に本堂側から左右で16体の像がありました。
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鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称され天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神としているようです。
入口には大鳥居があったようですが老朽化で倒れたようで基礎だけが見られました。
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拝殿。
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本殿。
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拝殿手前には光天之池がありました。
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大酉茶屋田田(おおとりちゃやでんでん)。
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鷲野宮神社前の御休み処。京都で修業した店主が食材にもこだわり体と心に優しい食を提供しているようです。2007年12月2日にアニメ『らき☆すた』にて、旧・鷲宮町内が舞台モデルの一つとなったことが縁となり聖地といわれているようです。

本日はカラフルマンホールを2つ見ました。
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こちらは久喜駅西口にありました。久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは久喜市商工会マスコットキャラクター「来久ちゃん」です。「来久ちゃん」は関東一といわれる久喜の「提燈」と市の木「イチョウ」がモチーフ。「LIKE CHAN」とあるように「らいくちゃん」と読むらしいです。
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鷲宮神社そばの路上にありました。
こちらも久喜市の合併10周年を記念して製作された下水道マンホール蓋。描かれているのは「らき☆すた」の主要人物「柊つかさ」と双子の姉の「柊かがみ」。右下に刻まれている文字は「ⓒ美水かがみ/KADOKAWA」。『らき☆すた』は、美水かがみによる4コマ漫画とそれを元にしたゲーム、アニメ、小説作品で、柊姉妹の父親が宮司を務める「鷹宮神社」のモデルが「鷲宮神社」だそうです。

本日の喜多見先生からのおすすめ埼玉の逸品は島田菓子舗の「いがまんじゅう」。
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いがまんじゅうはこしあんの饅頭の周りに赤飯がまぶしてあるのが特徴で、赤飯をまぶした姿が栗のイガのように見えることから名づけられたと言うことです。

本日は喜多見先生・TD池谷さんの引率で18名が参加。天候はほぼ晴れでしたが昼食前後にパラパラ雨が降りちょっと慌てました。しかし全体的にはのんびりゆっくり約21000歩、約10kmを完歩できたことに感謝!感謝!!
今日は暑かったので郷土資料館の見学をほどほどにそばのコンビニに駆け込んで今年はじめてのガリガリ君を食しました。本当に暑さがすごかったのです。
本日のもう一つのびっくりはスタート前集合時に東海道五十三次でご一緒したNさんとバッタリ!思い起こせば東海道五十三次が2013年10月に完歩していますので、まったく懐かしい!!ということで解散後、久しぶりにお茶をし、またの再会を約束しました。またしても次回も楽しみなのです。
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posted by yunofumi at 15:25| あちこちウォーク

2021年05月05日

2021.5.2 さいたま彩発見ぶらり街あるき 草加市

草加市はすぐ隣がもう東京という位置にあります。本日は自宅から武蔵野線の乗り換え、その後東武スカイツリーラインで谷塚駅にやっと到着。思ったより住民も多い様子で町全体がきれいな感じでした。

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅⇒富士浅間神社⇒火あぶり地蔵尊⇒今様草加宿⇒浅古家地蔵堂⇒草加市役所⇒道標「葛西道」⇒八幡神社⇒藤城家住宅⇒草加駅⇒草加神社⇒氷川中公園⇒ARK PLAZA「夢や芭蕉亭」⇒大川本陣跡⇒清水本陣跡⇒おせん茶屋⇒草加市立歴史民俗資料館⇒東福寺⇒草加宿神明庵⇒神明宮⇒草加せんべい発祥の地「おせん公園」⇒札場河岸公園⇒草加松原⇒松原綾瀬川公園⇒草加市伝統産業展示室⇒松原大橋⇒獨協大学前(草加松原)駅

東武スカイツリーライン谷塚(やつか)駅。
この路線は以前、東武鉄道伊勢崎線といったのです。1925年(大正14年)開業の駅と伺ってびっくり。なぜってこの草加は日光街道の2番目の宿場ですから当然か!と納得。
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谷塚駅東口広場にハープ像がありました。草加市は1993年(平成5年)「音楽都市宣言」をし、音楽振興推進中だそうです。

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同じく谷塚駅東口広場にあるモニュメント。タイトルは「循環」で永遠に繰り返される自然の営みと人の営みを表しているそうです。

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富士浅間神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をお祀りしています。
現本殿は1842年(天保13年)に再建されたとのこと。本殿の建物は、前面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、随所に彫刻を配したものでした。手洗い石には几号(きごう)水準点がありました。
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几号(きごう)水準点とは明治初期に土地の高低測量を行うために設けられた基準となる測量点で、イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたのです。

冨士塚。
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富士山を信仰する人々の組織、冨士講は富士行ともいわれ富士登山の代わりに誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚としているのです。この富士塚は高さ約4m、横幅10.4m、奥行8.6mとのことです。

火あぶり地蔵尊。
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地蔵堂のある所は昔の処刑場跡だそうです。昔々、借金まみれの貧しい母娘がいてその母が病に倒れたことから娘としては大金持ちの奉公先に看病したいと申し出ても認められず、思い余って奉公先に火をつけたそうです。当時、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定っていましたので、娘はこの地で処刑されたのです。でも村人たちはこの哀れな罪人の霊を慰めるために処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養したとのことでした。

今様草加宿。
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江戸時代初期、日光街道2番目の宿場町として誕生した「草加宿」を旧街道の風情、街なみ、川なみが残っているうちに、再生していきたいと街づくり活動が行われているのです。写真左側が旧日光街道とのことです。

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草加市役所傍にある浅古家地蔵堂は別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたということで地蔵堂があるようです。

道標「葛西道」。
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ここは草加宿から葛西道が分岐していた場所。葛西道はここ草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道だということでした。

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八幡神社はほぼ草加市の市街地の中心部に社殿を構える神社。江戸時代の正徳年間に神主長太夫が、八幡の神体を稲荷社に合殿としたようです。
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社殿には、草加宿七福神の恵比寿が祀られまた、江戸時代に造られたという高さ83cmの大型の雌雄一対の獅子頭が社殿内に鎮座していました。

藤城家住宅。
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旧日光道中に面して建つ「店舗」は木造2階建ての桟瓦葺(さんがわらぶき)。2階部分は開口部を障子と雨戸、縦格子とする座敷で、1階部分は大きく持ち出した庇(ひさし)部分を巧みに店舗部分に取り込み、畳敷の張り出た売場は商家の佇まいそのものです。外観は主屋根の軒先の出桁造(だしげたづくり)と縦格子が往時の風格を伝えています。

おせんさん。
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日光街道沿いに栄えた草加宿の茶屋でおせんさんが当初はお団子を作って売っていたところお団子の次の新製品として武者修行の侍から教えられてお団子をつぶして天日で乾かし焼きもちを作ったのが草加せんべいの始まりだったようです。
そして今、草加駅東口に「おせんさん」が見られるのです。
さらにちょっと離れて草加せんべいをおいしそうに食べている「あこちゃん」がいます。
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実はすぐ近くに「アコス」という商業ビルがあり、それから命名したそうです。
像の作者は草加市生まれの彫刻家、麦倉忠彦氏とのことでした。

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草加神社(旧社名・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴きたことが元とのこと。享保2年神階正一位の宣旨を受け、明治6年村社に列し、同40年政令により草加町内の諸神社十一社を当社に合祀し、同42年社号を氷川神社改め、草加神社となりました。現本殿は天保年間の造営とのことです。その後定期的に本殿周囲の玉垣設置、手水舎、拝殿補修、拝殿屋根葺き替え、神輿倉の造営など行っているとのことです。本殿は二間社流造りで、多彩な彫刻がありました。

草加宿には2軒の本陣があったことから旧日光街道に面して大川本陣と清水本陣の石碑がありました。
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草加市立歴史民俗資料館。
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当館の建物は、2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録された歴史ある建物。もとは、1926年(大正15年)、草加小学校西校舎として、建築家・大川勇氏の設計により建てられた、埼玉県初の鉄筋コンクリート(RC)造校舎とのことです。その後草加小学校校舎としての利用は1979年(昭和54年)で終了し、その後現在の資料館になったとのことでした。
沢山の展示の中でも綾瀬川から出土した丸木船が印象的でした。本日は2階で端午の節句展が開催中でした。
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東福寺は草加宿の開宿に尽力した大川図書(おおかわずしょ)が1606年(慶長11年)に創建。本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物。山門や欄間に彫刻がありました。墓処には大川図書の墓がありました。

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草加宿神明庵は、旧日光街道沿いの古民家(旧久野家)を使った観光案内所のような施設でした。中に入ると暖かいお茶をいただきました。

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神明宮は1713年(正徳3年)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたということです。現在の社殿は1847年(弘化4年)に再建されたものだそうです。
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鳥居横の大きな石には几号(きごう)水準点が読み取れました。午前中に三田富士浅間神社の几号(きごう)水準点よりははっきり読み取れました。

おせん公園には河合曽良の像がありました。
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草加せんべい発祥の地「おせん公園」には自然石で作られた石碑がありました。
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伝右川を渡ると札場河岸公園です。ここは草加松原の南端にあたり、園内には芭蕉像、望楼、かっての河岸場、お休み処草加宿芭蕉庵がありました。
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珍しかったのは甚右衛門堰(じんざえもんぜき)。
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伝右川の2連アーチ型煉瓦造りの水門で明治7年に再構築されたとのことでした。

草加松原遊歩道は約1.5km、旧日光街道沿いに松が634本(むさし)植えられているのです。風景としてはとてもきれい。
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途中に太鼓の型で矢立橋と百代橋があり上からの松並木も見事なのです。
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松並木途中に小さなハープが飾られたハープ橋がありそれを渡ると松原綾瀬川公園に入り草加市伝統産業展示室「ぱりっせ」に到着です。
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ここは草加の3大地場産業の煎餅・ゆかた染・皮革の歴史や製造工程の紹介と製品販売をしていました。
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ウォーキングゴールは獨協大学前(草加松原)駅。東武スカイツリーラインの駅。元は東洋一のマンモス団地といわれた草加松原団地があったことから松原団地駅だったそうですが、1964年(昭和39年)そばに獨協医科大学ができたことから現在の「獨協大学前(草加松原)」に駅名が変更となったとのことです。

本日は喜多見先生・TD林さんの引率で18名が参加でした。今日は草加市の産物が草加せんべいはもちろん、本染めゆかた、皮革製品と改めて認識し、大いにうれしくなりました。ウォーキング中のルートだけでも十数軒の煎餅屋さんがありました。ちなみに市内では100軒以上ありそうでした。
喜多見先生おすすめのお土産はもちろん、「草加せんべい」。私は追加でお店ごとの味が違うということで詰め合わせも購入しました。
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今日一日のコースの中では昼食前後にパラパラ雨が降りましたが21000歩、約10kmはまずまずで終えられました。また次回もどんな街並みに出会うか楽しみにしています。
posted by yunofumi at 13:13| あちこちウォーク