2019年10月30日

2019.10.26. 2巡目第8回東京の新発見旅「荒川区」

本日も晴天!東武東上線上福岡駅からJR南千住駅はかなり乗り替えながらで遠い!
でもいつもの通り早めに到着し、マクドナルドでお茶の後、集合!

JR南千住駅⇒両国回向院⇒コツ通り商店街⇒素盞雄神社⇒千住大橋⇒南千住熊野神社⇒天王公園⇒荒川ふるさと文化館・南千住図書館⇒円通寺⇒浄閑寺(投げ込み寺)⇒南千住商友会商店街⇒都電三ノ輪駅… 荒川2丁目駅⇒吉村昭文学館⇒荒川区防災センター⇒荒川警察署⇒常磐線第2三河島ガード⇒尾竹橋通り⇒ザ味元(昼食)⇒第二日暮里小学校⇒日暮里繊維問屋街⇒書道博物館・中村不折旧宅⇒子規庵⇒御隠殿跡⇒羽二重団子⇒善性寺⇒JR日暮里駅

JR南千住(みなみせんじゅ)駅には今回はJRで到着。見回せば東京地下鉄(東京メトロ)、首都圏新都市鉄道の駅がそれぞれに存在し、ちょっと複雑。歩行者は慣れているのかスイスイ歩行ですがこちらはちょっとウロウロ気味。

両国回向院(りょうごくえこういん)は荒川区南千住五丁目。正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院ともいわれます。 もともとは1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことがはじまり。
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安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎などのお墓をお参りした後、1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合ったことを記念した観臓記念碑(建立は1922年)を見ました。
また忘れてはいけない戦後の代表的な誘拐事件、「吉展ちゃん事件」の「吉展地蔵尊(よしのぶじぞうそん)」にも手を合わせました。

南千住コツ通り商店街はJR南千住駅の西側から千住大橋へ続く道で、由来は中世以来の地名「小塚原(こつかっぱら)」を略した説が有力なようです。江戸時代は日光道中の初宿、千住宿が置かれ、当時から多くの商店が軒を連ねていたとのこと。昔は延命地蔵尊の縁日で賑わったのが、今日では「ごりやく富くじ市」が開かれているとのことでした。

素盞雄神社(すさのうじんじゃ)の開祖となる黒珍(こくちん)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代795年(延暦14年)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、この神社がが御創建されたとのことです。
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千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川にかかる橋で、国道4号(日光街道)を通っています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行しています。
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最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない1594年(文禄3年)で、隅田川最初の橋です。当初の橋は現在より上流200mのところで、「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所とのこと。 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。

南千住熊野神社は、源義家が永承5年(1050)勧請したと伝えられているようです。北千住と南千住を結ぶ大橋を架けた文禄3年(1594)伊奈備前守がここに成就を祈願、残りの材木で社殿修理を行なったことから、橋の架け替えごとに祈願と社殿修理が慣例となっているということです。
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荒川ふるさと文化館は平成10年に、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館。南千住図書館と併設されていました。荒川ふるさと文化館では、荒川に関する考古・歴史・民俗資料を、荒川の通史に基づき展示公開しています。常設展示では荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などがありました。
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円通寺(えんつうじ)は、曹洞宗の寺院で山号は補陀山。本尊は聖観音菩薩。
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このお寺は、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝わっています。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行ったとのことです。 このことから、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もあるのです。
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浄閑寺(じょうかんじ)は浄土宗の寺院で山号は栄法山。吉原遊廓の近くにあることから遊女の投げ込み寺としても知られているようです。 地名の三ノ輪から「三ノ輪の浄閑寺」といわれることも多いようです。
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このお寺は1655年に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも早かったようです。この寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによるとのことでした。
永井荷風の文学碑・筆塚がありました。
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都電荒川線(あらかわせん)は、南千住の三ノ輪橋停留場から西早稲田一丁目の早稲田停留場までを結ぶ、路面電車。愛称は、東京さくらトラム、途中の停留所は30か所で路線距離は12.2km。今日は三ノ輪橋駅から荒川2丁目駅まで乗りました。
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吉村昭文学館。
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吉村昭さんは日暮里に生まれ、空襲で家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごした方です。学習院大学在学中に執筆活動を開始、昭和41年(1966)に「星への旅」で太宰賞を受賞、同年「戦艦武蔵」を発表し話題となりました。戦史・歴史・医学・動物など幅広い題材を扱い、入念な取材をもとにした作品を数多く描いているとのことです。このように様々なテーマを持つ吉村文学に親しむとともに、吉村文学を契機として更に広範な文学に親しみ、心を豊かにし、知的好奇心を満足させることができる空間を提供するということで南千住図書館と同居の形でこの文学館ができているようです。

ザ味元(ザミゥオン) は韓国料理のお店。普通はとても辛いようでしたので辛くないようにとカルビ定食を希望して美味しくいただきました。
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中央にあるのは4人前です。念のため、、、。

夕焼小焼(ゆうやけこやけ、夕焼け小焼け)は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけた童謡で1923年に『文化楽譜 あたらしい童謡・その一』に発表され、童謡としては最も広く親しまれている作品の一つです。
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作詞者の中村雨紅は、1916年に第二日暮里小学校の教師となり、1918年に日暮里町第三日暮里小学校へ転勤。第三日暮里小学校在職中に夕焼小焼の作詞が行われたため、現在の荒川区立第二日暮里小学校前に「夕焼け小焼けの記念碑」があるのです。ちなみに荒川区立第三日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念塔」が建立されているとのことでした。
この歌の情景は、雨紅の故郷八王子の恩方村の様子。彼の生家の近くにある「夕やけ小やけふれあいの里」前には「夕焼小焼」バス停が設置され、今でも高尾駅と陣馬高原下を結ぶ路線のバスが停車するとのことです。

日暮里繊維街は東日暮里3丁目から6丁目までの四町会にまたがり、日暮里中央通り(バス通り)を中心に両側約1kmにわたり80軒以上の生地織物の店が連なる繊維の街。繊維街には和装、洋装、紳士婦人服地、繊維製品から服飾関連の小物から付属品5に至るまで生地織物に関する全てのものを品揃し便利な街なのです。
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書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館。
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殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財が多くありました。

子規庵の建物は、もともとは旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋だったようです。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
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子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたとのことです。


御隠殿跡(ごいんでんあと)。
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輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯し「三山官領宮」とも呼ばれた方。その後、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承され、ここはこの輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所。 輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在されの時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用したようです。1868年(慶応4年)御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めてなくこの説明板のみでした。

羽二重団子(はぶたえだんご)はきめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来とのことで、そのまま名前となっているようです。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類がありました。
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今日は漱石もなかをお土産にしました。

日蓮宗寺院の善性寺は、関妙山といい長亨元年(1487)に創建、寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となったとのことです。
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今日は石橋湛山第55代総理大臣と第35代横綱双葉山のお墓を見ました。

日暮里駅前に太田道灌の鷹狩の姿の銅像がありました。鷹狩の途中雨に会い村娘に山吹を差し伸べられた逸話があり、そばには村娘の像もありました。
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日暮里の地名は「新堀村」からきているようですが“ひぐらしのさと”と読んだともいうことです。江戸時代の古地図には日暮里も新堀村も表記があり、日暮里は“あまりにも心地良い所で日が暮れるのを忘れてしまうほど一日を楽しむことができる里”という意味だそうです。

本日はAM10:00〜PM15:15まで歩程約10km約14000歩は青空の元、気温24℃でスムーズに終了。このシリーズは2巡目ですが本日のように前回には見なかった施設にもうかがえてなかなか有意義な1日となりました。帰りの道すがら吉村昭作品を近日中に図書館で見てみようと思いました。今日得た知識からまた違った見方ができるかもしれないという期待感がわいています。
posted by yunofumi at 21:26| あちこちウォーク

2019年10月21日

2019.10.20 さいたま彩発見ぶらり街あるき 第5回中央区

本日の気象予報では昨日とは打って変わり温かい一日となりそうとのこと。有難く思いつつ脱ぎ着しやすい服装でお出かけしました。講師喜多見先生、TD小松さんの元に参加者22名が集合した10:00にスタート。
本日の歩程説明で与野七福神巡りもするとのこと、また埼京線の説明が印象的でした。
以下、ウォーキングルートには七福神を巡った順番も数字で入れてみることにいたします。

JR埼京線南与野駅西口⇒鈴谷西公園⇒与野鈴谷郵便局⇒埼大通りのけやき並木⇒コメダ珈琲⇒妙行寺⇒金毘羅天⇒鈴谷西保育園⇒かやの木通り⇒鈴谷大堂@毘沙門天⇒与野西中学校⇒埼玉芸術劇場⇒円福寺A布袋尊⇒大木屋⇒圓乗院B大黒天⇒与野公園⇒天祖神社C寿老人⇒レストラン「シャルダンドヨノ」(昼食)⇒御嶽社D弁財天⇒大国社⇒あおいとり幼稚園⇒八王子神社⇒浅間神社⇒不動明王⇒円阿弥通り⇒氷川神社E福禄寿⇒長伝寺⇒うなぎの相川屋⇒おかずや⇒赤山通りの地蔵菩薩立像⇒一山神社F恵比寿神⇒蔵造り石川家⇒鴻沼川⇒JR埼京線与野本町駅

JR埼京線(さいきょうせん)は、都内品川区の大崎駅から新宿区の新宿駅、豊島区の池袋駅、北区の赤羽駅、さいたま市南区の武蔵浦和駅を経由し、大宮区の大宮駅までを直通運転している路線。実はこの路線はJR東日本の運転系統の通称で正式には大崎駅 - 新宿駅 - 池袋駅間は山手線(山手貨物線)、池袋駅 - 赤羽駅間は赤羽線、赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間は東北本線支線(別線)を走行していると初めて伺い、ちょっとびっくり。路線の開業は1985年、路線距離は約37km。もともとは東北新幹線高架を作るときに地元貢献でできたような、、、。なかなか複雑!!もっとも私はほとんど利用する機会がなかったのでこの話は聞いたこともなかったのです。

埼大通りのけやき並木。
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この並木がある国道463号線は埼玉県越谷市から、さいたま市、所沢市を経て、入間市へ至る総距離58kmの国道。北浦和駅入口交差点から所沢までの19.7kmのうち17kmにわたり、その数2417本の欅が植栽されており「日本一長いケヤキ並木」なので、「新・日本街路樹100景」にも選ばれているとのことです。
けやき(欅)はニレ科の落葉樹で春には新しい葉をつけ、うすい黄緑色の小さな花も付きます。「埼玉県の木、さいたま市の木」でもあり、あちらこちらで見られます。

妙行寺(みょうぎょうじ)は、日蓮宗の寺院で山号は東永山。旧本山は下総の大本山正中山法華経寺。もともとは鎌倉時代に創建された臨済宗寺院の東栄山心浄寺が起源。1408年(応永15年)に日英が日蓮宗に改めたとのこと。1649年(慶安2年)徳川家光から寺領10石の朱印を拝領。以後1860年(万延元年)まで計7通の朱印状が伝わっています。1773年(安永2年)火災で伽藍を焼失し、1778年(安永7年)諸堂を復興、山号を東栄山から東永山に改めた。現在の本堂は1930年(昭和5年)の火災焼失後、1935年(昭和10年)に再建されたものとのことでした。
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妙行寺に隣接して金毘羅天堂がありそばには「与野の大カヤ(榧)」(国の天然記念物)がそびえていました。通称、カヤの木の寺として知られています。
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この大カヤは平安時代中期の長元年間(1,028年〜1,037年)に植えたということで樹齢は1,000年以上。国の天然記念物に指定された1932年時点で大きさが樹高21.5m、根回り周囲13.5m、目通り周囲(目の高さでの幹周り)7.28m。今も樹勢は元気そのものですから、果たしてどこまで大きく成長しているのでしょう、ビックリ!
また、妙行寺境内の裏手には「妙行寺のモッコク」もありました。
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樹齢600年、幹回り3.5m、高さ7m。5年前には枯れ枝が目立っていたのですが庭師さんの頑張りで今は自らの力で蘇っているようです。

「正元二年銘の板石塔婆」
江戸時代の文化文政期に活躍した俳人・鈴木荘丹(すずきそうたん)(1732年から1815年)の墓です。
江戸の商家に生まれた荘丹は、儒学・医学・俳諧などを学び、医師として活躍していました。その後、松尾芭蕉の系統を引く雪中庵・大島寥太の門に入り、晩年は、与野に移り住み、近郷を巡って芭蕉の俳風の普及に努めました。墓石には、「秋の空こゝろ動す風もなし」と辞世の句が刻まれています。

稲垣田竜(いながきでんりゅう)の墓。
名主稲垣家に生まれ、江戸で剣術・柔術を修行する。後に幕臣の浅野北水について西洋流の天文学・暦学を学び名をはせた。帰郷後は家を継ぎ村政にあたる一方で文武両面で後進を指導したのです。

与野七福神の毘沙門天@鈴谷大堂。
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ここは真言宗智山派寺院の仏堂。創建年代等は不詳で、境内石碑によると「六地蔵の銘文から江戸時代前期の寛文7年(1667年)には存在していたことがわかるようです。

彩の国さいたま芸術劇場はさいたま市の複合舞台芸術施設。 管理者は埼玉県で1994年(平成6年)10月に開館。設計は 建築家の香山壽夫(香山アトリエ + 環境造形研究所)。
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彩の国シェイクスピア・シリーズ が 1998年より上演されており、芸術監督は演出家の蜷川幸雄から蜷川が2016年5月に他界した為、俳優・演出家の吉田鋼太郎を2代目芸術監督として迎え、ウィリアム・シェイクスピアの全戯曲37作品のうち第33弾よりシリーズ完結まで務めることが決定しているとのことです。
蜷川さんの記念品展示。
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本日は日曜日のため各ホールが使われており映像ホールで全体像を開設頂いた後、大稽古場を見せていただきました。

与野七福神の布袋尊A円福寺。
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真言宗智山派寺院の円福寺は、北明山と号します。円海(大永元年1521年寂)が創建、東光坊として創建、江戸幕府より寺領5石の朱印状を拝領したと伝えられています。境内の釈迦堂には木造釈迦如来坐像がるとのことです。北足立八十八ヵ所霊場15番でもあるとのことです。

大木屋は130年以上にわたり、当時と変わらない店構えで、呉服を中心に婦人用品などを取り扱うお店。
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宝永年間(1704〜1711年)から続く『与野夏祭り』の地元でもあることから、創業以来、祭りや神事に関連する布製品の品揃えも多彩で、特に近年は、初午や節句の際に祭壇に飾る木綿の五色布を扱う数少ない店として、市内に限らず、遠方からの注文にも対応しているとのことです。本日は日曜日のため休業となっていました。またあとで伺う予定の足の神社大国社に奉納するわらじも販売しているとのことでした。

与野七福神の大黒天B圓乗院。
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ここは真言宗智山派寺院で安養山西念寺と号します。円乗院は、畠山重忠が建久年間(1190-1199)道場村(現桜区道場)に創建、慶長年間(1596-1615)に当地へ移転、慶長19年(1614)には江戸幕府より寺領15石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁していたということです。北足立八十八ヵ所霊場初番札所でもあります。

与野公園は明治10年に開設された約51,000uの緑の公園。サクラとバラの名所として有名。 染井吉野の桜や約180種、3,000株のバラが見られます。本日は秋バラが綺麗でした。
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与野七福神の寿老人C天祖神社(てんそじんじゃ)。
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与野天祖神社は、与野公園の中にある神社。与野天祖神社の創建年代等は不詳のようですが、文政年間(1818-1830)の「与野町並絵図」に「神明山」と記載があり、江戸時代末期には祀られていたのではないかといわれています。明治8年天祖神社として与野町の村社に列格したようです。

レストラン「シャルダンドヨノ」。(旧店名シャンソニエ)
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建物が綺麗で店先にドラマ撮影で使われたことが紹介されていました。
メニューはかぼちゃのポタージュ、メカジキの香草パン粉焼き、アイスクリーム、珈琲で美味しくいただきました。
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与野七福神の弁財天D御嶽社。
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与野御嶽社は、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援していた名主の伊原平八が、明治初年前後に創建したということです。

与野大國社の創建年代等は不詳。実は円乗院の守り神として祀られたとも伝えられており、江戸期には蔵王権現社と称されておりその後、明治初期に大国社と改めたのではないかということです。
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樹木に覆われた直径20mにも満たない小さな丘の上まで鳥居をくぐり、10段程の階段を上がると、小さな本殿正面に、多くのわらじが奉納されていました。地元では「与野大権現」として知られており多くのわらじが奉納されていました。喜多見先生が私たちのツアーの無事を祈り大木屋さんから購入されたわらじを奉納してくださいました。
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新大宮バイパスから見えるように大きな看板が出ています。
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八王子神社。
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八王子神社の創建年代等は不詳ながら、『融通念仏縁起』(京都清涼寺所蔵)によれば、正嘉年間(1257-59)のころ「全国的に疫病が流行した時、与野郷のある名主が、念仏を修し、家内の老若男女もろともに疫病を免れた」といい、比叡山で守護神と祀っている八王子権現を当地に祀られたのではないかといわれています。江戸時代には八王子村の鎮守となり、明治6年村社に列格となったとのことです。
この神社の境内にで、与野浅間神社もありました。
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八王子神社、浅間神社をでてすぐ不動明王像がありました。
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両腕がなく、いわれもわからずお気の毒でした。

円阿弥(えんなみ)の辺りは江戸期より存在した武蔵国足立郡与野領に属する円阿弥村であったとのことです。地名の由来は戦国期に当地に居住していた岩槻城主太田氏房の家臣でもある領主の名前の円阿弥によるとのことでした。今はさいたま市の大宮台地上に位置しております。

与野七福神の福禄寿E氷川神社。
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大戸は、古くは与野郷に属し、与野市下落合から浦和市鹿手袋に広がっていた鴻沼(こうぬま)を望む平坦地にあり、地名の大戸はこの鴻沼への入口に由来するということでした。この神社は、大戸のほぼ中央に鎮座しているのです。

長伝寺の創建年代は不詳ながら、古くよりこの地に真言宗寺院として長伝寺があったといいます。後に芝増上寺12世となる観智国師が当寺を浄土宗に改めて開山、江戸期には幕府より寺領寄進の御朱印状を拝領していたとのことです。
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西沢曠野の墓や伊達政宗が寛政九年(1632年)政宗が臨済宗南禅寺の高僧以心崇伝(本光国師)に出した書状があると紹介されていました。
西沢曠野は、1743年(寛保3年)与野本町に生まれ、その後江戸に出て、儒学者細井平洲の門人となり、さらにその後与野に帰郷後、家業のかたわら漢学塾を開き近在の子弟教育にあたり、後世「与野聖人」と慕われたことでしられているようです。
長伝寺の本堂の欄干に龍がいました。この龍は雨続きの時、川の水を飲んで、水没しかけていた田や畔を救ったという言い伝えがあるそうです。
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赤山通りの石造地蔵菩薩立像。
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江戸時代後期(推定)。像高181.0cm。胸・胸部の損折は安政の大地震のものとのことです。

与野七福神の恵比寿神F一山神社(いっさんじんじゃ)
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一山神社は、与野の御嶽講(一心講)を建て直した一山を慕った講員が、八幡社の境内に御嶽大神を勧請、一山神社と称して嘉永年間(1848-53)に創建したということです。
一山は俗名を治兵衛といい、相模国津久井郡の出身で壮年になって藤原家(平八)の養子となったようです。信仰心厚く、御獄大神を尊信して御嶽講の行者となった一山はが一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、この地に霊場を設け、ついに数万の信者を擁するまでになったようです。ここは「柚子祭り」が有名だそうです。

本町通りに出ると数件蔵造りの家がありました。ここではバラの街中央区フェスタが今月開かれたそうです。

鴻沼川(こうぬまがわ)は、埼玉県さいたま市を流れる一級河川。荒川水系鴨川の支流で上流では霧敷川(きりしきがわ)、下流では鴻沼川、また鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)とも呼ばれているとのことでした。この川に沿って行くと本日のゴール与野本町駅でした。

本日はやや汗をかきながらの約10km弱のウォーキングでした。与野公園の金木犀や秋バラをはじめ思ったより見る所が多く、しかも七福神があることにはちょっとびっくり。お正月しか七福神は御開帳ではないので本日は見られませんでしたがいずれも近い寺社と分かりましたのでまた伺いたいと思いました。また中央区のご厚意で折り紙のバラ、講師陣からは片山食品のねぎみそ煎餅をお土産にいただきました。
ウォーキング歩程約10km約4時間弱、気温22℃は少々暑かったのですが、お陰様で22名が元気にゴールできたことがなによりでした。感謝!
posted by yunofumi at 22:38| あちこちウォーク

2019年10月06日

2019.10.5 しまなみ海道6島と小豆島巡り(3日目)

2019.10.5 しまなみ海道6島と小豆島巡り(3日目)
バンザーイ!今朝も晴天!元気に皆で今治国際ホテル8:15出発。

今治国際ホテル⇒来島海峡第二大橋⇒大島⇒伯方島⇒多田羅大橋⇒B生口島IC⇒耕三寺⇒平山郁夫美術館⇒生口島IC⇒多田羅大橋⇒大三島IC⇒C大三島・大山祇神社⇒伯方の塩工場見学⇒多田羅しまなみ道の駅⇒多田羅大橋⇒瀬戸内茶屋・汐の季(昼食)⇒D伯方島・船折の瀬戸⇒伯方島IC⇒大島大橋⇒来島海峡⇒E大島・亀老山(きろうさん)展望公園⇒来島海峡大橋⇒来島海峡IC⇒今治北IC⇒今治小松自動車道⇒東松山自動車道⇒今治湯の原IC⇒松山空港⇒羽田空港⇒自宅

来島海峡大橋は、愛媛県今治市、瀬戸内海の来島海峡を跨いで大島と四国を結ぶ長大橋で、来島海峡第一大橋、来島海峡第二大橋、来島海峡第三大橋の総称とのこと。本州四国連絡橋の尾道・今治ルートを構成する橋の1つ。 3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊りということでした。橋の姿は本当にきれいでした。

B生口島(いくちじま)は芸予諸島の一つでここは広島市の尾道市だそうです。東隣にあるのが尾道市の因島、北西隣が同じ尾道市の高根島。こちらには今回行きませんでした。西には今治市の大三島、南が今治市の伯方島。
生口島と因島に架かる多々羅大橋はこれまた綺麗。

耕三寺(こうさんじ)は、生口島にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は潮声山(潮聲山)。1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれているとのこと。耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三、のちの耕三寺耕三が1927年(昭和2年)故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始め、母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)に母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改め、同年から母への感謝の意を込めて、潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始したのです。その後30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成されたのです。
孝養門。
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五重塔。
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本堂。
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金剛館。
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平山郁夫美術館
日本画の巨匠、平山郁夫の故郷、瀬戸田町に開館。本画はもとより、院展出品作を中心とした大下図(本画と同じ寸法で作られる最終的な下絵)も展示。画伯の生い立ちや貴重な少年時代の絵画で書かれた日記なども紹介されていました。
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多田羅大橋。
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吊り橋の種類では斜張橋というそうで、全長1,480 m、中央支間長890 mの「しまなみ海道」の橋梁のひとつ。1999年5月供用開始。総工費約1,400億円。しまなみ海道にある一連の橋梁のうち本州(尾道)側から4番目にあり、ICでは生口島南ICと大三島ICの間にありました。 2014年現在、国内最長の斜張橋で、世界では第5位。瀬戸田PAから橋まで歩いて行くことができるとのことです。また遠方からの見物ポイントとしては、多々羅しまなみ公園・瀬戸田PA・立石展望台(大三島)・開山展望台(伯方島)から見ることができるのです。

C大三島(おおみしま)は今治市の芸予諸島の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、愛媛県の島の中では最大。大山祇神社がある「神の島」として知られています。 大三島は島とついていますが、地理上の島に由来するわけではなく、各地にある「三島」と由来を同じくするとのこと。かつて、三島神社の総本社である大山祇神社のことを「大三島」と呼び、後にそれが島全体を指す様になったとうかがいました。

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大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、今治市大三島町宮浦にある神社で式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社で全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社とのこと。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布しているとのことでした。 創建は第33代の推古天皇2年(594年)ということでした。
本殿。
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この神社では毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)で、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で相撲神事があるとのこと。「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つということで一人角力というそうです。

茶屋に行く途中に村上海賊の鶴姫像がありました。
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大山祇神社(そばの戸内茶屋・汐の季で昼食。鯛めしのはずが蛸めしでちょっとびっくり。こちらでは蛸も名物だそうですからそれなりに良かったですけど、、、。
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伯方の塩大三島工場見学。
伯方の塩の製造工程を映像や展示で紹介していました。お土産はしまなみセットを買いました。
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工場の周りを見ても塩田がなくオヤッと思ったのが最初のびっくり。説明から色々なことがわかりました。1971(昭和46年)「塩業近代化臨時措置法」により、日本では「イオン交換膜製塩」以外の方法で海水から直接「塩」を採ることが出来なくなったこと。そこで、専売公社から許された製塩法は、「メキシコ、オーストラリア」から輸入していた「原塩(天日塩田塩)」を利用する方法となったのでした。1997(平成9年)「塩専売法」の廃止で海水からの直接製塩が認められ、2002年(平成14年)からは塩の自由化により原料塩の産地を選択できるようになりこちらの会社ではメキシコまたはオーストラリアの天日塩田塩を日本の海水に溶かして、ろ過した後のきれいな塩水を原料にしているとのことでした。

多々羅しまなみ公園は大三島ICを降りるとすぐでした。世界有数の斜張橋「多々羅大橋」やすがすがしい瀬戸内海の景色を一望できるビューポイントとして人気をがあるとのこと。
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新鮮な魚介類・農作物を用いた料理のレストランや特産品センター、また地元で採れた新鮮な野菜・柑橘・海産物の販売をする農水産物直売所・上浦ふれあい屋台市がありました。

D伯方島の船折の瀬戸(ふなおりせと)
伯方島(はかたじま)と鵜島(うしま)の幅約300mの狭い海峡は、船折瀬戸(ふなおりせと)と呼ばれ、最大8ノット(時速15km)の潮流に向かって進む船舶の光景は珍しかったです。
船折瀬戸ということは狭い島と島の間を流れる潮流が船も折れるほどの激しさで昔の船乗りを苦しめたことから付けられたということでした。
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船折瀬戸に浮かぶ小さな島「鶏小島」は古墳遺跡があり、水軍の出城があった島です。金鶏伝説の地としても知られ、元旦の朝「東天紅」となく鶏の声を聞いた者に幸福が舞い降りると伝えられています。

E大島・亀老山(きろうさん)展望公園。
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ここは大島の南端にある亀老山の展望公園で約160段あまりの階段を上ると標高307.8mでしまなみ海道でも最高の眺望を有する絶景の展望台。西日本最高峰石鎚山(いしづちさん、いしづちやま)や来島海峡大橋が見られました。

松山空港に向かう途中では今治造船所も見られこの地方を支えている産業を垣間見た気がしました。
松山空港から羽田空港までは1時間30分弱。羽田空港ではちょうど川越行のリムジンバスに乗車できラッキー。本日はあちらこちらの見物でバス乗降が多くあり、自宅に帰ると15000歩。そしてお土産もそこそこゲットでき、とても楽しい旅行でした。そして旅行中に見聞きした「二十四の瞳(著:坪井栄)」と「村上海賊の娘(著:和田竜)」を再度読み直してみようと考えております。
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posted by yunofumi at 23:38| ドタバタ日記

2019年10月05日

2019.10.4.しまなみ海道6島と小豆島巡り(2日目)

今朝は快晴。8:30ベイリゾートホテルをバスで出発。

ベイリゾートホテル⇒寒霞渓(かんかけい) ⇒ロープウェイ(下りのみ)⇒土庄港⇒新岡山港⇒瀬戸大橋⇒福山IC⇒生島大橋⇒@向島⇒A因島⇒村上水城⇒生口橋⇒今治IC⇒今治国際ホテル

バスを降りて目の前の小豆島国際ホテルの横を通るとまずは蛭子神社がありました。
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そして進行方向正面左から」弁天島・中余島・小余島・大余島が見え、この四つの島の総称は余島ということでした。この連なる4つの島へは、1日2回の引き潮の時だけあらわれる砂浜の道が「エンジェルロード」といわれ、歩いて渡ることができるのです。いつのまにか弁天島と余島そして、このエンジェルロードで手をつないだカップルは幸せになれるという噂がクチコミで広がり、願いを書いた絵馬や貝殻を中余島の木々などに残していく人も増えているようでした。最近では、鈴木亜美さん主演のドラマTBS愛の劇場ラブレターの中で「秘密の島」として登場するなど、メディアで取り上げられる機会も多くなりロケ地を一目見ようと訪れる観光客も多くなっているようです。
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寒霞渓(かんかけい)。
瀬戸内海国立公園の中心地小豆島のほぼ中央にあるのが寒霞渓。島の最高峰星ヶ城と四方指の間にある渓谷でおよそ1300万年前の火山活動によってできた安山岩、集塊岩などの岩石が長い年月の地殻変動や侵食により、そそりたつ奇岩怪石の絶景をつくりあげた所。変化にとんだ渓谷は、日本三大渓谷美のひとつといわれているとのことです。
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ロープウェイで降りると上絢海橋があり、これも渓谷ということを実感させました。
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土庄港に戻ると二十四の瞳で知られる「平和の群像」がありました。
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傍にはオリーブの歌(作詞:河西慎太郎、作曲:服部良一)の歌碑がありました。
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堀本文次像。
小豆島のバスの元会長で小豆島の観光など色々に貢献された方とのことです。
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俳人尾崎放哉句上陸地石碑には「眼の前 魚がとんで見せる 島の夕陽に来て居る」と刻まれていました。

両備小豆島フェリーで土佐港から新岡山港に向かう海の様子。
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フェリーの船内。
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海と橋。
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橋を下から見る。
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今度は橋の上を走りながらの風景。
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瀬戸内しまなみ海道は、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ全長約60kmの自動車専用道路で西瀬戸自動車道、生口島道路、大島道路があります。西瀬戸自動車道は、瀬戸内沿岸西部の交通・輸送条件の改善、関連地域の産業の振興のほか、この道路が通る向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島、馬島等の総計約8万人の人口を有する島部地域の生活改善などにも大きな役割を果たしているとのことです。

村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1] で活動した水軍(海賊衆)。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれたとのことです。 因島水軍城(いんのしますいぐんじょう)は、因島にある村上水軍の資料館。この位置には過去に天守が存在していたことはなく、いわゆる城郭風建築物。城内には資料が一杯ありましたがそこへ行くまでに石段は140段。皆さんゆっくりでしたがほとんどの方が上りきりました。同じ敷地内には「尾道市因島史料館」もありましたがこちらは見ませんでした。
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今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(現在は愛媛県今治市通町三丁目)にあった日本の城。1953年(昭和28年)に愛媛県史跡になり別称「吹揚城(吹上城)」といわれているとのこと。夜ライトアップされていると伺い、散歩方々見てきました。
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1602年(慶長7年)、藤堂高虎によって築城が開始され、1604年(慶長9年)に完成。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城で日本100名城のひとつ。また日本三大水城の一つということです。
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今治(いまばり)国際ホテルは、今治造船株式会社の子会社で阪急阪神第一ホテルグループのひとつだそうです。地上23階(高さ101.7m)と、1996年現在で四国第4位(愛媛県内1位)の高さがあり、今治市においてはランドマークとなっているとのことです。
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食事はかなり豪華で美味しかったです。本日は27℃、一日中晴天の中、バスの乗降が多く9500歩は心地よい疲れとなり温泉に入った後はバタン、キュー。ではまた明日を楽しみに。オヤスミナサイ!!
posted by yunofumi at 02:16| ドタバタ日記

2019年10月04日

2019.10.3. しまなみ海道6島と小豆島巡り(1日目)

今朝より3日間の旅行で、1日目は小豆島、2日目は向島・因島、3日目は生口島・大三島・伯方島・大島を巡ります。瀬戸内海を見てみたいと長年思っていましたので今回のツアーを見つけ、チャンス!とばかりに参加したのです。
今朝は羽田空港8時過ぎに集合したのに台風の影響でフライトは9:50に。そして高松空港に11:30到着。雲がむくむく湧いている上空はそれなりに不思議な世界。久しぶりの空の旅を大いに楽しみました。

羽田空港⇒高松空港⇒高松港⇒内海フェリーで小豆島草壁港⇒小豆島オリーブ園⇒宝生院⇒醤の郷・タケサン⇒岬の分校・二十四の瞳館⇒ベイリゾートホテル小豆島

羽田空港からJAL477便でTD瓜生さん、38名の参加者とともに出発。台風が関東をかすめる状態でほぼ過ぎた後のフライト。曇りながら回復しつつある天候の中でしたからちょっと揺れました。しかし雲の状態は今まで見たのとは違い、かなりも面白かったです。
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高松空港からはすぐに「せとうち観光バス」で出発。このバスで3日間お世話になるとのことでした。ドライバー村上さん、ガイド林さん。
高松港からはフェリーでしたが波が静なはずのところ船体には雨・風が叩きつけ、お弁当を食べるだけの時間となりました。

小豆島の事前知識としては瀬戸内海・播磨灘にあって香川県小豆郡で小豆島町、土庄町の2町があるとのことこと、人口は3万人弱。気候が良いので都会から移住するにはよい所とおすすめがありました。産物として素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブが知られています。本日はこれらを見て歩きます。また小説『二十四の瞳』の作者壺井栄の故郷で映画のロケも現地で撮影されたようです。

小豆島草壁港に着くと曇り空ながらほぼ雨がやんでおり、まずは小豆島オリーブ園へ。
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小豆島に、オリーブの苗が持ち込まれたのは およそ100年前。試験的に国内3カ所で栽培が始まり、その中の1つが小豆島だったようです。1917年ころ植えられた原木が今も元気でした。
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段々畑にオリーブの木が植えられ、小さな実が今の時期は緑色、これが徐々に濃い紫から黒に代わるとのこと。園内にはイサムノグチの遊具彫刻もあり子供さんにも楽しめそうでした。
オリーブショップ売店でオリーブソフトや化粧品、石鹸などのオリーブ製品が並んでいました。

宝生院は四国88カ所霊場の54番札所。応神天皇のお手植えによるものという樹齢1500年以上の老巨樹の真柏(しんぱく)は、根元の周囲が16.6m、高さが20m。明治時代落雷の影響で中3方向に別れ、中は空洞になっているようです。見る方角や感性で「龍(竜)・象、海亀・人間・脳」とも見えるようです。
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醤の郷(ひしおのさと)。
醤油と佃煮の名産地としても知られる小豆島です。小豆島佃煮の父・武部吉次の信念と情熱を受け継ぎ、創業者直伝の技を守り抜いて、こだわりの醤油と佃煮をつくり続けているのが「一徳庵」だそうです。
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醤油づくりには国内産丸大豆・小麦と天日塩。佃煮づくりには厳選した四季折々の素材に、島醤油と醤(ひしお)もろみ。豊かな自然の恵みと匠の技が調和し、どこか懐かしく、深い味わいが生まれまると伺いました。
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武部吉次商店を興してから60年を迎えるにあたり、小豆島佃煮の父・武部吉次の雅号を冠した「タケサン記念館 小豆島佃煮の郷 一徳庵があるようです。一徳庵の建物は、武部吉次商店の創業当時に佃煮工場として使われていた建物を改装したもので戦前は醤油の 醸造蔵であったこともあり、小豆島の醤油と佃煮の歴史が凝縮した建物といえそうです。

岬の分校は明治35年に建てられ、明治43年から苗羽(のうま)小学校田浦分校として3教室を、昭和46年までの約70年間利用されていたとのこと。廃校後も校舎をそのまま保存し、当時のままの机、オルガン、子供たちの作品、黒板などがありました。
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ここは「二十四の瞳」の小説の舞台となり、昭和29年松竹映画「二十四の瞳」(監督:木下恵介/主演:高峰秀子)のロケに使用され、一躍有名になったのです。校庭を挟んで二十四の瞳館でお土産にオリーブオイルとオリーブグラッセを購入しました。

こうして1日の行程を終了。ベイリゾートホテル小豆島では部屋が9階で見晴らしが素晴らしかったです。気温24℃、歩程1万歩は程よく気持ちよく過ごせました。
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そうそう参加者38名はご夫婦、友人のグループが多く、一人参加は私ともう一人のみ、おかげですっかりお友達になりました。
posted by yunofumi at 21:29| ドタバタ日記