2019年07月15日

2019.7.12 市民大学ふじみ野 大人の社会見学 上下水道見学バスツアー

本日は埼玉県の施設、上下水道の施設見学です。

ふじみ野市立大井総合福祉センター⇒埼玉県大久保淨水場⇒下水道公社荒川右岸支社
⇒ ふじみ野市立大井総合福祉センター

埼玉県が行う水道用水供給事業は昭和39年に荒川、利根川水系を水源として当時、人口急増地域を給水区域とする事業に着手して昭和43年にこちらの大久保淨水場からの給水が開始したのがはじまりだとのことです。ここでは私達の町に送り出す県水が作られているのです。ちなみに前回の1回目の見学は地元に来た県水を如何に市町村で各家庭に届けているかを見たわけです。
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今は1日最大給水量130万㎥の国内でも最大級の浄水場だそうです。
こちらの水源は利根川水系では下保ダム、埼玉合口二期、八ツ場ダム、荒川水系では有間ダム、浦山ダム、荒川調整池、滝沢ダム、合角ダムだそうです。
会議室では大きなパネルが設置してあり、この浄水場の規模の概要を説明いただきました。
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取水からの流れは以下の通り。
取水口⇒沈砂池⇒着水井⇒急速攪拌池⇒フロック形成池⇒沈殿池⇒急速濾過池⇒浄水池⇒送水ポンプで供給先の市町村へ

沈殿池の内部の説明模型。
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濁った水に薬品を加えたら攪拌で徐々にフロックができて上澄みはきれいになってきました。
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前庭に飾ってあった送水管の色々。びっくりするほど大きいのがありました。
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次は下水を綺麗にしている下水道公社荒川右岸支社「新河岸川水循環センターの見学です。
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初めに講義を伺い、それから施設見学でした。
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私たちが1日に使う水の量は約218L。使われ方は風呂の水が最も多く次はトイレ、炊事、洗濯などです。
そうそう、下水が流れるのは汚水管と雨水管があること。汚水管は汚水を下水処理施設へ送り、雨水管は巷に降った雨水を集めて直接河川に放流するのです。
各家庭から使われた水は下水管を通って水循環センターに運ばれおよそ半日できれいな水になって川や海に放流されるとのことです。
主としての水部分は下水管⇒中継ポンプ場⇒沈殿池⇒揚水ポンプ⇒最初沈殿池⇒反応タンク⇒最終沈殿池⇒消毒槽⇒川や海へ。

下水の汚泥は最初沈殿池から取り出されて汚泥処理施設に行き、別処理とのことです。
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最初沈殿池の中はまだかなり汚い水でしたが匂いはそんなに強烈ではありませんでした。
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反応タンクでは空気を微生物に与え汚れを食べさせ塊としていました。
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その後は最終沈殿池で汚れ沈殿させ上澄みはかなり綺麗でした。
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この後は消毒して放流とのことでした。

埼玉県の下水道管は438km、すなわちこれは埼玉県庁から神戸市までの距離。また下水は自然に流していますが途中で中継ポンプ場で汲み上げまた流れていくのを利用しているとのこと。ということで中継ポンプ場は県内22カ所で直径約1.7mのポンプでくみ上げているようでした。このことは県内には9処理施設があり1日下水処理量は190万㎥、50mプール約750杯分、埼玉県内人口の約8割、約590万人の下水を処理していると教わりました。いやはやなかなか強烈な見学会で何も知らずに日々暮らしていられることにあらためて感謝。
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また県内にはマンホールは2311基あるそうでカラフルなマンホールカードがあるとのことで近頃このカード集めも人気があるとのことでした。
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見学を終わって感じたことは埼玉県っていい所!と改めて実感。数十年前たまたまふじみ野市の中古住宅購入をきっかけに埼玉県で居住を開始。子供もこの地で成長し、お陰様で一人前になりました。この先は老いに向かっている私ですが最後まできっとこの地で過ごすことでしょう。皆様、お世話になります。
posted by yunofumi at 10:22| ドタバタ日記

2019年07月13日

2019.7.11 2巡目第5回東京の新発見旅「新宿区」

梅雨明けはまだの時期ですが今日も街歩きに参加です。参加者22名、講師は若さハツラツ渡辺先生、TD反保さんと共に出発。空模様はまさに曇天、無風で21℃。ウォーキングにはまずまずの日和と思いつつ10:00出発。

副都心線西早稲田駅⇒新宿コズミックセンター前⇒新宿区立戸山シニア活動館⇒戸山公園・箱根山⇒放生寺⇒穴八幡神社⇒木組み博物館⇒ワセダグランド商店会⇒高田馬場跡・八幡鮨⇒堀部安兵衛之碑⇒早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館・会津八一記念博物館・大隈講堂⇒トラード早稲田⇒川田米店⇒天祖神社⇒鶴巻南公園⇒宗参寺⇒漱石山房記念館・漱石公園⇒大願寺⇒矢来公園・・杉田玄白生誕地之碑⇒矢来能楽堂⇒牛込北町信号⇒牛込中央通り商店会・細工町⇒リストランテ・カルミネ(昼食)⇒宮城道雄記念館⇒袋町⇒神楽坂加賀⇒善国寺⇒筑土八幡神社⇒新小川町⇒中之橋⇒凸版印刷梶E印刷博物館⇒有楽町線飯田橋

戸山公園は東京都立公園。敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれています。地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがっている広大な公園です。もともとは、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で、2代藩主徳川光友により、回遊式庭園として整備され、敷地内には箱根山に、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられています。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったようです。明治維新後、明治政府に渡り、跡地に1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されたとのことです。戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園したのでした。

箱根山は江戸時代に作られた築山で標高44.6mと山手線内では一番高い山なので戸山公園サービスセンターから登頂証明書をいただきました。
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穴八幡神社(あなはちまんじんじゃ)は蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている神社で旧称は高田八幡宮。社伝では1062年(康平5年)、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったというのがはじまり。 その後1636年(寛永13年)、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神としたのです。1641年(寛永18年)、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」というようになったのです。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としたとの話もあります。 歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納し、これより流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、竹千代君(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が行われたのです。
境内入り口には高田馬場流鏑馬像があります。
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木組み博物館は館長の谷川一雄さんが約40年間、数寄屋や社寺建築などの日本伝統木造建築の施工管理に携わってきた中で、伝統工法で建てようとする人の減少、作り手の後継者がいない、材料が枯渇してきているなど日本の伝統木造建築の文化継承を模索し、多くの方の支援でできた博物館だとのことです。展示は通り一遍ということではなく、日本の伝統木造建築の技術を伝える博物館展示型、体験型、参画型へ、そして木組みと共に左官、漆などの伝統技術や素材、道具も紹介していました。
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木の香りは心に癒しを与えてくれる空間でした。
              
堀部安兵衛之碑。
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堀部安兵衛は赤穂浪士で最強の剣豪。子供のころから親との縁が薄く一人で生き抜いてきた方のようですが例の赤穂浪士の一員だった堀部金丸との縁で自身も赤穂浪士となったようです。その後、例の松の廊下の事件があり吉良氏仇討ちに加勢したのです。

早稲田大学の坪内博士記念演劇博物館。
通称エンパクというそうで、1928年(昭和3年)に設立。坪内逍遙が開館式で「よき演劇をつくり出すには、内外古今の劇に関する資料を蒐集し、整理し、これを比較研究することによって基礎をつくる必要がある」と述べたと伝わっているようです。その志を受け継ぎ、今日に至るまで古今東西の貴重な資料を収集・保管・展示しており、収蔵品は百万点を超え、アジアで唯一の、そして世界でも有数の演劇専門総合博物館として、演劇関係者、愛好家、研究者にとても愛され、支えられてきたとのことです。
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坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)は小説家、評論家、翻訳家、劇作家で長く早大の教授もされていたようです。演劇博物館は坪内逍遙の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたと伺いました。私はこれまで数回、早大に伺っていますがどうしたことか一度も開館日に巡り合っていません。ということで本日も工事中!!残念でした。

会津八一記念博物館。
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東洋の古美術に関心が高かった会津八一が蒐集した品を中心に多くの収蔵品がありました。中国の秦漢時代の建築や墓室を飾った瓦当・画像塼54点、後漢〜唐時代の墓に副葬された武人・侍女・馬などの陶俑や、竈や井戸を模した明器395点、多様な図案や銘文を背面にあしらった銅鏡208点、金石資料の拓本532点などが挙げられるようです。展示の中では伺うたびにうっとり見とれるのは横山大観の「明暗」です。本日も見ることができて幸せでした。

大隈講堂(おおくまこうどう)は、早稲田大学早稲田キャンパスにあるチューダー・ゴシック様式の講堂。すぐ傍にある大隈重信像と並び早稲田大学を象徴する建築物です。
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ドラード早稲田は鶴巻町の有名デザイナー『梵寿綱(ボンジュコウ』建築のデザイナーズ分譲賃貸マンション。 早稲田エリアでは一際目立つこの建物、オートロック完備でとても人気のある物件だそうです。
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宗参寺は、1543年(天文12年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことがはじまりとのことでした。
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牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代に北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本だったそうです。 門扉にも紋所がくっきりでした。

漱石山房記念館は漱石が暮らし、執筆した空間を可視化するために記念館内に書斎・客間・ベランダ式回廊など「漱石山房」の一部を再現しています。文学館として初の本格的漱石記念館としての役割を果たすべく通常展のほか、特別展や講座・イベントを開催して漱石やその文学の世界を紹介していました。気軽に利用できるように明るい空間でした。
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ということでカフェで有名な銀座の「空也もなかセット」をいただき元気回復です。
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記念館の隣。漱石公園のあたりは、1907年(明治40年)〜1916年(大正5年)、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があった場所。今は通りに面して山房記念館、横から裏手にこの公園がとても綺麗になっていました。ここで漱石は、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆したのです。
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猫塚です。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたようです
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数年前に伺った時には建物は道草庵だけでしたが見違えるように整備されていました。

矢来公園(やらいこうえん)には複合遊具、グローブジャングル、動物などのスプリング遊具、砂場などがあり、またケヤキやスダジイなどの高木が木陰をつくっており、まずは安らぐ公園でした。ここ矢来町には江戸時代に小浜藩の下屋敷があり、屋敷内には江戸詰の藩士が居住し、「解体新書」を著した蘭学者杉田玄白は、この屋敷内で生まれたようです。公園内には杉田玄白、小浜藩邸跡記念碑がありました。
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矢来能楽堂(やらいのうがくどう)は観世九皐会所有の能楽堂。矢来観世家・観世九皐会の本拠地として活動の拠点となっているとのことです。1952年(昭和27年)に現在の舞台・建物が建てられ、現在東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古いとのことでした。
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リストランテ・カルミネ(昼食)
日本で初めてイタリアンレストランを開いたカルミネさんだそうです。店員さんもイタリアン人の方が沢山おられイタリア語?が飛び交っていました。パスタは日本では珍しく歯ごたえがあり、美味しく頂きました。
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善国寺(ぜんこくじ)は、神楽坂にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺。安土桃山時代の1595年(文禄4年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建。たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年(寛政5年)には現在地へ移転。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれています。また新宿山ノ手七福神の一つでもあります。
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印刷博物館(いんさつはくぶつかん)は、印刷に関する博物館。2000年に凸版印刷が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている所です。ミュージアムショップ、印刷関連図書専門のライブラリー、P&Pギャラリー、研修室(グーテンベルク・ルーム)、VRシアター(土日・土日に続く休日のみ)を併設しているとのことです。 駿河版銅活字(重要文化財)をはじめ印刷の歴史や社会的な背景、表現など印刷文化に関わる本全般を扱っていました。とても短時間では見ることができず、こちらも再訪が必要と思いました。
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本日の街歩きは若い渡辺先生の先導でしたから街並みを見ることを十分堪能しました。印象的は神楽坂界隈が面白かったです。結局最後の最後、印刷博物館を出るまで雨に合わず、快適でした。約11km、17000歩を本日も元気に過ごせたことに感謝!今後も地道に街歩きを楽しみたいと思っております。
posted by yunofumi at 12:21| あちこちウォーク

2019年07月10日

2019.7.7さいたま彩発見ぶらり街あるき

第3回岩槻区

東武野田線岩槻駅⇒東玉人形博物館⇒人形町通り⇒法林寺⇒八雲神社⇒浄国寺⇒人形歴史館・御成街道⇒岩槻郷土資料館・市宿通り⇒田中屋本店⇒東玉大正館⇒岩槻温泉ビル⇒ふな又(昼食)⇒岩槻藩遷喬館⇒裏小路公園⇒岩槻人形博物館⇒時の鐘⇒岩槻中学校⇒太田諏訪神社⇒市民会館いわつき⇒岩槻城址公園⇒マミーマート岩月店・ほんまる歯科⇒本丸自治会館⇒岩槻本丸郵便局⇒久伊豆神社⇒新正寺曲輪⇒本丸2丁目⇒岩槻本丸郵便局⇒浄安寺⇒大龍寺⇒大工町石柱⇒愛宕神社・岩槻城大構⇒東武野田線岩槻駅

昨夜からまだ梅雨の雨が続いています。しかし岩槻につくとほぼ雨は止んでおり、まずまずの気分で10:00出発。気温は19℃でやや肌寒でしたが元気に参加者16名は講師喜多見先生、TD岡さんとご一緒しました。

東武野田線は、大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て船橋市の船橋駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線。2014年4月1日より全線で「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line)の路線愛称です。路線距離は62.7km、駅数は35駅、当初は野田醤油を運ぶために設置された路線だったようです。私は本日、初めてこの路線に乗りました。
駅を出ると今日は朝顔市とのことですでに賑わっていました。ちなみに朝顔は入谷と同じだそうですがお値段は少々安価とのことで例年訪れる方も多いようでした。
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駅前に「ミミズク土偶」がありました。
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真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は、岩槻区城南3丁目の縄文時代後期から晩期の集落跡で、貝塚と泥炭層からなっていました。泥炭層は真福寺泥炭層遺跡とも呼ばれているとのことで、大宮台地の岩槻支台の標高10mから13mにあります。 大正末年に、縄文時代晩期の竪穴住居跡及び土偶、勾玉、打製・磨製石斧、石鏃、石棒、砥石、独鈷(どっこ)石、磨石、凹石、曲石、X字形石製品、耳飾り、土版、骨角器等とともに多数の土器などの遺物が出土、貝塚は・ヤマトシジミの主淡貝塚で、直径150mの馬蹄形、または円形に散在することもわかったようです。 また、この遺跡から出土した土器は、1934年(昭和9年)に山内清男さんにより真福寺泥炭層式と提唱され、関東地方における縄文時代晩期前半の標識的な土器であり、歴史的価値が高く、今は東京国立博物館にあり、こちらのものはレプリカとのことでした。

東玉人形博物館は岩槻駅前にありました。ここは東玉のすぐれたコレクションより生まれた「人形の博物館」です。その収蔵品は多彩で、御所人形、雛人形、羽子板、五月人形、衣装人形やあやつり、からくり人形、さらには現代作家名匠の逸品から海外の人形までが展示されていました。また、見学の出来る人形工房や和風小物の売店が併設されており、体験教室で実際に絵馬や人形等の製作体験ができるとのことでした。展示では江戸時代のお雛様のお顔がつやつやしていたのが印象的でした。

岩槻は人形の街ですから人形町通りには何軒も人形屋さんがありました。

法林寺は太田道灌公 ゆかりの曹洞宗のお寺。
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芳林寺は、曹洞宗のお寺で山号は大平山。静岡県藤枝市洞雲寺の末寺とのこと。本尊は釈迦如来。開山は覚翁文等で、この方は1595年(文禄4年)に没したようです。言い伝えでは、以前、他の場所にあったお寺が、1520年(永正17年)火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻にこれを移し、1523年(大永3年)春に再建したのです。たまたま資朝公の母が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していた方で、1567年(永禄10年)に逝去されたため、陽光院殿芳林妙春大姉と号し、その寺号を芳林寺に改めたといわれています。1591年(天正19年)高力清長が城主となった時、その荒廃を嘆き大修理を加え復旧、この後幾度か火災に遭い、2代目城主高力忠房が再び造営復旧したのです。さらにまた1811年(文化8年)焼失したため、1841年(天保12年)に本堂(間口9間・奥行5間)及び庫裡(間口12間・奥行5間)が再建されたのです。

境内にある太田道灌公騎馬像
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埼玉県庁が最初に設置されたのが芳林寺で門前にいきさつを記した石碑がありました。
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墓所には高力正長公御霊廟、太田道灌公御霊廟にお詣り。そのほか、田中保(たなかやすし)画伯のお墓もありました。この方は岩槻町出身。浦和画家の一人。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びたようです。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリで客死したのですが、近年、次第にその業績が知られるようになってきているとのことでした。

八雲神社。
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1560年、岩槻太田の家臣勝田佐渡守が当地に市を開設したときの市の守護神を祀った社。江戸時代には牛頭天王社と称されていたけれど明治になって八雲神社と改称したとのこと。今日はたまたま中まで見せていただきました。
本殿の彫り物が立派でした。
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参道は市宿通りにあり、8月に行われる岩槻まつりもこの神社の祭礼に起源があるとのことです。

浄国寺(じょうこくじ)は、浄土宗の寺院で、山号は仏眼山。院号は英隆院。本尊は阿弥陀如来。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基、清巌の開山により創建されたということです。早い時期から浄土宗の檀林が置かれ、江戸時代には浄土宗の触頭であったといわれています。
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岩槻郷土資料館は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署の建物で、岩槻の歴史について展示を行っていました。民具を中心とする民俗資料の収集、保存を目的とした資料館でした。さいたま市立博物館の分館とのことです。建物は2016年、国の登録有形文化財に登録されています。建物落成当時は現在の岩槻区域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だったそうです。

田中屋本店は江戸時代後期・嘉永年間の創業以来、ずっと岩槻で菓子屋を営んでおり、蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたもので、風格のあるたたずまいでした。
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名物は、岩槻城が白鶴城と呼ばれていたことにちなんだ、白鶴城印 栗最中。昔と変わらない手作りの味で、それぞれ小豆あん、白あん(栗入り)、ゆずあんがたっぷり入っているようです。ほかにも、濃厚な生のよもぎを練りこんだよもぎ団子や、代々受け継がれてきたタレが自慢の焼き団子なども人気があるとのことでした。

東玉大正館は中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例とのこと。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。今日は見られませんでしたが、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっていると伺いました。
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ふな又(鮒又)は100年以上の歴史ある日本料理の割烹旅館。江戸時代には城下町として、また将軍の日光東照宮参拝の通行路(日光街道)の宿場町としても栄えた岩槻で歴史を刻んできたとのことです。12代将軍家慶による、1843年(天保14年)の日光東照宮参拝の大名行列の様子を綴った文献に、当時のふな又も描かれているとのことでした。当時の当主は鮒屋又右衛門。
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昭和39年平成天皇ご夫妻が岩槻にお越しになった時、こちらで鰻重を召し上がったそうで、当時の食器が飾られていました。
またこちらは昭和の女優三宅邦子の実家とのこと。1916年、6人兄弟の末っ子として「ふな又」で誕生。埼玉県久喜高等女学校卒業後、松竹に入社。1934年に『夢のささやき』で映画デビューし、島津保次郎監督の『兄とその妹』、小津安二郎監督の『戸田家の兄弟』などに出演。それ以降、小津の作品に連続出演するようになり結局、彼女の出演した映画は200本近くあるようです。小津の死後は『サインはV』『たけくらべ』などテレビ出演もあったようです。1992年、急性心不全の為、東京・調布の自宅で死去。享年76歳。
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「岩槻藩遷喬館(いわつきせんきょうかん)」は、1799年(寛政11年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだまなんか)が開いた私塾で後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだそうです。1871年(明治4年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、1939年(昭和14年)に埼玉県の史跡に指定され、2003年(平成15年)から3年ほど解体修理・復原工事が行われ、埼玉県内では唯一現存する藩校の建物なのです。
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時の鐘は岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11年)当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置したとのこと。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕6時と正午の3回、美しい音色を響かせているとのことでした。
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太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を1623年(元和9年)に勧請奉斎したことがはじまりとのことでした。
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市民会館いわつきは各種イベントを始め、結婚式、披露宴、懇親会、講習会、研修会など市民のための施設。レストランでは埼玉B級グルメ優勝の元祖豆腐ラーメンを提供しているとのことで、ここでは食品サンプルをせめても、と眺めました。
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岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。ここは自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催されるとのことです。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれるとのことです。

人形塚
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岩槻城址公園内の人形塚前において毎年11月3日(祝)に、全国の人形愛好家の方々の、捨てるにしのびないという優しい気持ちに応えようと毎年「岩槻人形供養祭」が開催されるとのことです。当日は古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形が持ち寄られ、人形塚脇の黒門の周りに並べ、約20名の僧侶(岩槻仏教会)の読経のもとに参加者が焼香し、人形の持ち主は受付の際に渡される供養札を、天児(あまがつ・日本の人形の原形といわれ、子どもの健康と幸せを守るもの)に見守られながら、お焚き上げして冥福を祈るとのことです。

白鶴城(岩槻城)石碑。
岩槻城は、戦国時代に築かれた平山城で大宮台地岩槻支台上に立地し別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城などがあるようです。元荒川が婉曲している内側にあった岩槻城はつまりは沼地の中にあったようなのです。今、沼はもうなくて、町が広がっていました。
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一番目立ったのは園内の菖蒲池に架かる朱塗りの八ツ橋。
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そういえば岩槻の区の花は山吹だそうです。太田道灌に因んでいるようです。
岩槻城本丸の辺りは町名も本丸、そして本丸のあった場所には現在、スーパーマミーマート岩月店がありました。テナントとしてほんまる歯科もありました。記念碑があればよかったのに残念でした。

久伊豆神社。
岩槻城の総鎮守で、正式名称は、「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)。「久伊豆神社」があちらこちらにあるので「岩槻久伊豆神社」ともいうようです。主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命といえば、出雲大社の神様。”だいこくさま”とも呼ばれ、縁結びの御神徳として有名です。
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また神社の名称が、久(ク)伊(イ)豆(ズ)と読めることから勝負運に強い神社ともいわれ、「クイズ神社」としても親しまれているとのことです。
境内には929個の風鈴が境内につるされ、参拝者にさわやかな涼を届けていました。もうひとつ境内には孔雀小屋もありました。孔雀は、1938年(昭和13年年)に、朝香宮(あさかのみや)殿下が岩槻にご来臨の折に、白金宮殿で飼育していた孔雀三羽を奉納されたのが始まりで、現在は二十羽近くまで増えたそうです。孔雀の他に、鶏もいます。しかも放し飼い状態でした。

浄安寺(じょうあんじ)の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたということです。
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境内には児玉南柯の墓がありました。児玉南柯【1746年(延享3年)〜1830年(文政13年】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られたのです。
浄安寺の前に「武州鉄道の小径」と書かれた木板がありました。今は何の痕跡もない道ですが1924年〜1938年の短い期間、蓮田駅と神根駅を結んでいた鉄道跡だそうです。

曹洞宗寺院の大龍寺(だいりゅうじ)は、雲居山と号すとのことです。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したということでした。
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名前にちなんだ大きな龍の彫り物がびっくりするほど目立ちました。

愛宕神社の祭神は迦具土命で、境内には松尾神社(祭神 大山昨命・伊弉諾命・伊弉冉命)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)があるとのことでした。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育ての神で、近年は、進学・就職の神として信仰を集めているようです。創建は明らかではないようですが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されているとのことでした。
いい伝えでは、1457年(長禄元年)に大田資清(あるいは道灌?)が岩槻城を築くにあたり城廓として外堀と土塁(土居)を造った時、その傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えたことから、これは火防の神(愛宕大神)だろうということで土塁上に移し祀ったようです。その日が現在の7月24日であったところから、今でもこの日を祭礼日として祭典を行っているとのことです。
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室町時代に築城された岩槻城でこの愛宕神社はその岩槻城の土塁の上に鎮座しているということでこの場所を岩槻城大構というようです。神社横から見ると大構えがよくわかりました。

本日は小雨の中、岩槻の街を歩き回りました。足元にはカラフルなマンホールもありました。
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岩槻区はさいたま市の北東部で城下町・宿場町でもあり文化財や史跡も多そうでした。現在は人形の街なので人形に因んだ行事も多そうです。さいたま市内10区の中では最も広く、浦和区などから見れば自然の多い感じでした。はじめて乗った野田線も優雅な感じでしたからまた気候の良い時に、色々手に入ったガイドマップもとても分かりやすかったので再訪したいと思いました。
本日のウォーキング歩程約10km、約17000歩、15:30参加者全員元気に終了しました。
posted by yunofumi at 00:07| あちこちウォーク

2019年07月04日

2019.7.4 2巡目第4回東京の新発見旅「文京区」

今朝は自宅を出るときはバケツをひっくり返すような土砂降り。集合場所JR水道橋駅ではほぼ小雨。その中で10:00スタート。講師 國先生、TD山際さん。参加者は雨降りの影響で取り消し者続出のため結局15名。

JR水道橋駅西口⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望山台⇒源覚寺・こんにゃく閻魔⇒AOI NAPOLI(昼食)⇒慈眼寺⇒善光寺坂⇒傳通院⇒福寿幼稚園⇒メトロ後楽園駅

小石川後楽園は江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)。1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させたとのことでした。
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内庭。
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円月橋
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文京区役所展望山台。
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建物自体は文京シビックセンターというようです。この25階が展望台。だれでも自由に入れます。高さが142mで超高層と言う程のことはないけれど、近くに高い建物がないので非常に目立ちます。近くには、東京ドームシティや小石川後楽園などもあり、観光で訪れるにはよい所です。今日は雨模様でしたが案外によく見えました。

源覚寺は、380年余り前の寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創されています。この頃、「明暦の大火(1657年)」、「お薬園火事(1762年)」、「戸崎町火事(1774年)」、「富坂火事(1884年)」と、4度もの大火があったようですが幸いにも、ご本尊も閻魔さまもその都度、難を逃れることができたとのことです。あの太平洋戦争の東京大空襲でも本堂への延焼はなかったとのことです。
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ここは閻魔大王が有名です。
宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。そして満願の日に、老婆の目は治り、それ以来、大王の右目はつぶれて盲目となったのです。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それをお供えつづけたということでした。

AOI NAPOLI(青いナポリ)は文京区小石川のイタリアン&ピッツェリアのお店。
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私たちはパスタも珈琲を含めデザートも美味しくいただきました。そうそう、ウエディングやパーティもできるそうです。

善光寺坂は文京区小石川2丁目と3丁目のちょうど境目にあり、地下鉄春日駅・後楽園駅の側、富坂下交差点そばの路地を曲がった先の坂道。
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ここにある大きな椋の木(ムクノキ)の案内板がありました。この木は樹齢300年にもなるという大木で澤蔵司稲荷の魂が宿っているといわれているとのことです。
またこの椋の大木の前には、幸田露伴が住んだ「小石川蝸牛邸」があった所です。
幸田露伴が疎開した後、「小石川蝸牛邸」は空襲で焼失したのですが、露伴の娘である幸田文が同じ場所に家を建て、さらに娘の青木玉と暮らしたということで案内もあります。

傳通院は浄土宗の寺。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。徳川将軍家の菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれています。
山門
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本堂
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徳川家康の母、於大の方の墓
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その後、千姫、柴田錬三郎、浪越徳治郎等のお墓にお参りしました。

本日は汁真っ只中で特に九州地方は大変なことになっています。まずは雨にもめげずウォーキングツアーに参加しましたが足下が危なく午後はこの後小石川植物園などの予定でしたが私は2巡目ということもあり、途中でリタイアしました。
今後は天候も回復するでしょうからこれに懲りずにまたボチボチウォーキングに参加したいと思っております。
posted by yunofumi at 21:21| あちこちウォーク