2019年05月19日

2019.5.14  2巡目第2回 東京の新発見旅「江戸川区」

都営新宿線篠崎駅⇒篠崎文化プラザ⇒篠原風鈴本舗⇒春江の森公園⇒春江中学校⇒春花園・BONSAI美術館⇒一之江名主屋敷⇒椿西通り⇒江戸川椿郵便局⇒瑞江葬儀所⇒大雲寺⇒瑞江第二中学校⇒瑞江駅⇒ベルクオーレ(昼食)⇒都営新宿線瑞江駅--一之江駅⇒長勝寺⇒国柱会⇒感応寺⇒水神宮⇒村井染工場⇒一之江親水公園・境川⇒タワーホール船堀⇒都営新宿線船堀駅

都営新宿線は新宿から本八幡まで31駅、片道40分の路線。私自身はめったに乗車はなく、まして篠崎は初めてかも、という感じ。今朝はこの駅に10:00集合、牧先生、久森TDの付き添いで出発。
篠崎駅西口から引き続きすぐに篠崎文化プラザ到着。ここは江戸川区を紹介する施設で展示室・図書館・伝統工芸などなど幅広い活動をしているようでした。
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私は珍しいサラダ小松菜と小松菜うどんを早々にゲット。
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そもそも江戸川区とは東京都内では東部の高齢者と子供の多い、すなわちしっかり家族世帯で住んでいる方々が多いようです。特産は江戸川区が発祥の地として知られる小松菜。現在の江戸川区小松川で、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際、名が無かった菜が入った味噌汁を食し、「小松菜」と命名したことに由来しているとのことでした。また朝顔の栽培が盛んで、毎年7月に台東区入谷で開催される朝顔市に出荷される朝顔の6割〜7割は江戸川区産だそうです。地形としては江戸川区の西部(荒川両岸地域)は海抜ゼロメートル地帯。最も低いところでは東京湾の満潮時の海面より2メートルほど低い場所もあるようです。区の東部(千葉県寄りの江戸川沿い)は比較的海抜が高く、新中川以東且つ京葉道路以北は海抜1.5m〜3mほどで、特に小岩地域は比較的古くからの陸地で、貝塚も見つかっているとのこと。区の南部は大半の地域を埋立地が占め、埋立地の南部には葛西臨海公園、葛西臨海水族園があり、南端で東京湾に面しているとのことでした。

篠原風鈴本舗。
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篠原風鈴本舗会長の篠原儀治(篠原風鈴二代目)さんが昭和40年にこのガラス風鈴を江戸風鈴と名付けたとのことです。このガラス風鈴は手作りで絵や文字は内側から手書きしているのです。今日も工場で職人さんの作業を見せていただきました。
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春花園・BONSAI美術館。
ここは盆栽師16年前小林國雄さんが作り上げた世界。
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800坪の敷地内には所狭しと約1000盆の盆栽が並び、中には1億円真柏(ヒノキ)も見られました。
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谷やん池の中には大きな鯉、周囲には盆栽がいくつもあり見ていて楽しい。
奥には立派な建物があり春の間・花の間をはじめ最後の屋久杉の間ではしばし見とれてしまいました。
現在はおとづれる外人さんも多く、お弟子さんは100人も巣立っているようです。

一之江名主屋敷は、江戸時代のはじめにこの地で新田を開いた田島家の屋敷。一之江新田の名主を代々つとめてきたのです。現在の主屋は安永年間(1772年から1780年)の再建で、屋敷林や堀をめぐらした屋敷構えは、創建当初のようすがわかります。
屋敷入口の長屋門。
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主屋(おもや)は懐かしい土間やいろり、竈など見られました。
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屋敷林や濠、屋敷神も現存し、敷地の端に展示棟がありました。
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瑞江葬儀所(みずえそうぎしょ)とは、江戸川区春江町にある東京都が運営している都区内では唯一の公営の火葬場。葬儀用の式場はなく、火葬設備のみで1938年2月に使用が開始された。別名「瑞江斎場」。1975年に新施設操業開始。新施設では火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化、燃料のガス化、控室を個室化、火葬受付件数の設定をしたとのことです。

大雲寺(だいうんじ)は、江戸川区瑞江にある浄土宗の寺院。山号は長行山。院号は専称院。本尊は阿弥陀如来。歌舞伎俳優の墓が多いことから「役者寺(やくしゃでら)」といわれています。
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この寺は、もともと1619年(元和5年)梵誉の開山により蔵前に創建された寺で、その後本所(現在の墨田区押上)に移され、1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けたため、1931年(昭和5年)現在の場所へ移り再建されたのです。
歌舞伎役者としては)市村羽左衛門累代墓、坂東彦三郎累代墓、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺嶋家門弟一同建立碑、寺嶋家門弟代々墓、瀬川累代墓、松本家墓、中村勘三郎累代墓、三代中村勘三郎墓などを伺いお詣りしました。

ベルクオーレ(昼食)
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こちらはイタリアンのお店。はじめにパンがドンと1テーブルに一籠来ました。その後スパゲッティが大皿でドーン。4人で結局完食しました。

昼食後全歩程調整のため瑞江駅〜一之江駅を都営新宿線で移動。街歩きではよくあることです。
一之江駅からの歩道の路面にシラサギ、マッチ箱電車、トロリーバス、花菖蒲などが描かれた陶板がはめ込まれており楽しくウォーキングしました。

国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られています。
こちらは帝網道場(国柱会本部)。
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宮澤賢治辞世碑がありました。
 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのりの に棄てば うれしからまし」

感応寺(かんのうじ)。
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感應寺は1205年(元久2年)真言宗の僧・空念によって開かれた。しかし正応元年(1288年)各地を巡り日蓮の教えを説いていた僧侶、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となる日進が感應寺を訪れ、法論を決した末に改宗、日進が日蓮宗の感應寺として改めて開基したということで以来今日まで日蓮宗の寺院となっている。
1982年(昭和57年)「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定された感應寺の梵鐘は[44]、元禄11年(1698年)のちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次(通称「釜屋六右衛門」「釜六」)により鋳造された[18]。同梵鐘は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に江戸川区内で唯一戦時供出を免れ、区内に残っている梵鐘の中で最も古いとされる[3]。同梵鐘の高さは152cm、口径は77cm[44]。鐘を突く橦木には古来より最適とされる棕櫚の木を使用しているとのことです。建材に欅と吉野の桧を使用した鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて2008年(平成20年)に建立。特に屋根は大工職人の技の粋を集め、振隅、切裏甲、垂木は居定付きとし、精巧で優美なものに仕上ったのです。ということで屋根を支えている柱はそれぞれ3本見えました。

水神宮。
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江戸川区は大きな神社の境内社も含め、水神社(水神宮)が大変多いのが特徴とのことです。かつては田畑が多く、水路に恵まれていた一方で、水害も多かったものと推察され、水害を治めるために祀られたようです。

村井染工場。
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この会社は1936年(昭和11年)に東小松川で創業され、1939年(昭和14年)現在地に移転。目の前の一之江境川で洗いを行っていたのが、一之江境川が親水公園となってからは、井戸水を引いて工場内での作業となっているようです。今は浴衣から手拭いを多く作っているようでした。注文は主に日本橋界隈の問屋さんから、また芸能人や近隣の祭事用などの注文もあるようです。伝統的な手法を用いる手拭いは本来の使い道のほか、インテリアや小物として使われているとのことでした。

一之江境川親水公園(いちのえさかいがわしんすいこうえん)は江戸川区一之江1丁目、5丁目、6丁目、一之江町、二之江町、船堀7丁目付近を流れる一之江境川を利用した親水公園。
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野川の再生」をテーマとした公園で全長は3.2kmに及び、1995年(平成7年)より順次開園した。魚や昆虫、水生植物が生息できるように新中川の自然水を流している。ハゼ、スズキ、テナガエビなども見られ、冬から春にはカモが飛来、豊かな自然とふれあえる親水公園である。また約2800本の樹木が植えられソメイヨシノ、クスノキ、サツキ、アジサイなどが見られるのです。今日は生まれたばかりのカモの親子も見えました。
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タワーホール船堀は、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をコンセプトに造られ、平成11年3月のオープン以来、江戸川区のシンボルです。10階部分に展望台の船堀タワーがあり、360度の視界を楽しめました。
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本日は時々小雨でしたがまずまず無事にウォーキング終了です。
歩程約17000歩、約11km、参加者一同が無事に完歩できたことが一番良かったです。終了後、東海道53次などでご一緒だった顔なじみが5名もそろっていたので非常に懐かしくお茶をしてから解散しました。また次回もぜひお会いしたいものです。
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posted by yunofumi at 18:20| あちこちウォーク

2019年05月18日

2019.5.12さいたま彩発見ぶらり街あるき

第1回浦和区

JR浦和駅⇒西口⇒東口⇒岸町3丁目⇒浦和第一女子高校⇒調神社⇒高砂小学校⇒伊勢丹⇒うなぎ彦星⇒門前通り⇒玉蔵院⇒中央公園⇒浦和一女発祥の地⇒埼玉会館⇒埼玉県庁⇒さいたま市役所⇒浦和区役所⇒浦中発祥碑⇒常盤公園⇒浦和宿二・七市跡⇒市場通り⇒仲町公園・浦和本陣跡⇒浦和宿碑⇒浦和ロイヤルパインズホテル⇒酒井甚四郎商店(奈良漬)⇒須原屋⇒JR浦和駅

浦和は馴染みのある街ですが折角なので埼玉全部をめぐるシリーズということを耳にしたので第1回から参加しました。
浦和には浦和がつく駅が8つあります。@浦和駅A東浦和駅B西浦和駅C南浦和駅D北浦和駅E中浦和駅F武蔵浦和駅G浦和美園駅。これを歌い上げたのが山本リンダの「ねらいうち」の替え歌だそうです。今日の講師の喜多見先生はのっけから面白い紹介をされる方で1日楽しめそうな予感がしました。
浦和といえば浦和レッズの本拠地なので西口にはこのようにオブジェがありました。
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浦和駅は明治16年誕生ですが西口と東口がつながったのは2014年。平屋ばかりだった東口は今では商業施設のパルコやバスターミナルができて大いに賑わっています。
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岸町3丁目を過ぎると浦和第一女子高校です。明治33年設立。相変わらずの名門でスーパーサイエンスハイスクール指定校とのことです。
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そういえば埼玉は古くからの名門は今でも男女別学。ここは「いちじょ」とよばれています。卒業生には石井桃子、古谷範子、東海林のり子、青木裕子、北川玲子など多くの有名人がズラリ。
校地南側にはオーストラリア原産フトモモ科の暖地性植物のユーカリ樹があると紹介されました。本日は校地内に入れないのでよく見えませんでした。高さ13m、幹まわり0.98m、根まわり1.36m。大正8年に、昭和天皇成年式を記念して全県下に配布されたものの一つで、現存しているのはこれ1本のみになってしまっているとのことです。この周辺が、暖地系植物の北限として、学術的にも貴重な存在なのです。花は早春に咲き、葉を乾燥してユーカリ油の原料とする地域もあるようです。また、世界三大名木の一つとも言われています。

調神社(つきじんじゃ、つきのみやさま)。
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鳥居は2本の石柱があるのみ。これは調神社の七不思議の1つ。理由は伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるからと上に渡す柱がないのです。

その他の不思議は、境内に松の木が無い、御手洗池に住む片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケヤキがある、蠅がいない、蚊がいないこと。
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本殿.
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月と同じ読み、と云うことで月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神です。狛兎はもちろん、手水や社殿、御朱印帳まで兎だらけ!兎好きの間では兎スポットとしても有名だとか。
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引退した狛兎.
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高砂小学校は浦和最古の小学校で明治4年浦和郷学校として開校。明治5年には浦和小学校となった後、昭和22年に現在の高砂小学校となっています。
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表門のあたりは風格があり周囲を見ても何処かの御屋敷かと思いました。

伊勢丹とコルソという大きな商業施設の端に「ときわだんご」があります。明治8年開店のお店で美味しいので時々立ち寄っています。
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伊勢丹の前には浦和うなこちゃんも元気に愛嬌を振りまいています。
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埼玉県さいたま市浦和区のマスコットキャラクターでやなせたかしさんの作。さいたま観光大使です。

うらわ桜草通りを入った路地に「うなぎ彦星」がありました。やや小さいお店でしたがなかなか美味しい鰻重でした。
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浦和駅傍の旧中山道から玉蔵院への通り約60mを門前通りといいます。
玉蔵院は1780年真言宗の弘法大師が開山。正面にこんもり見えるのが枝垂れ桜で有名です。
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すぐ隣に地蔵堂があります。

浦和中央公園はもともと玉蔵院の敷地だったようです。昔は調神社の外には大きな公園がなく、健康増進や休憩スポット、非常時の避難場所として開設したとのことです。現在は常盤公園や別所沼公園が整備されています。

浦和一女発祥の地碑。
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浦和一女は、1900年(明治33年)に、その頃の埼玉県立浦和図書館があった浦和区高砂3丁目に「埼玉県高等女学校」として設立。その後、10年後の明治43年に今朝見た現在の浦和区岸町に移転しています。この場所(現在は取り壊して更地)の跡地に一女発祥の地の記念碑が建っていました。

埼玉会館は1926年(大正15年)に昭和天皇の「御成婚記念埼玉會館」として誕生。もともと1923年(大正12年)より計画されたのがその年の関東大震災で建設が延期されたのを渋沢栄一さんの尽力で急ピッチで出来上がったとのことです。設計は岡田信一郎で当時としては珍しいドイツパイロット歌劇場の様式だったとのことです。大ホールは1500人収容です。その後、1966年(昭和41年)に建て替えられ、現在に至り「埼玉会館」となったのです。当初から見ると約90年。「大正、昭和、平成」3つの時代を通し、常に文化の中核を担う拠点会館とし歴史を刻んでいるのです。
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埼玉県庁は当初、埼玉郡岩槻町(現在のさいたま市岩槻区)に置かれる予定だったのが、県庁としての業務を行える建築物がなかったため、北足立郡浦和宿の旧浦和県庁舎が使われたことがはじまり。1871年(明治4年)11月14日埼玉県が発足(埼玉郡・足立郡・葛飾郡)。翌月、旧浦和県庁舎に埼玉県庁を置いたのです。
1992年(平成4年)11月14日 - 埼玉県の愛称として「彩の国」が採用となっています。
現在の県庁の第一庁舎は1955年にできた建物のようです。道理で本当に古いのです。
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写真真ん中の埼玉県庁のプレートにあるのが「県章」。埼玉県名の由来である「幸魂(さきみたま)」の「魂」は、「玉」の意味でもあり、まが玉は、埼玉県にゆかりの深いものとなっているため「まが玉」を円形に配置したデザインで、「太陽」「発展」「情熱」「力強さ」を表しているとのことでした。 県旗は県章を白地に赤く染め抜いたもので、昭和39年に制定したことも伺いました。
彩の国さいたまの「彩」は、いろどりや美しさを表す言葉で、四季折々の色彩豊かな自然に恵まれ、産業、文化、学術などさまざまな分野で発展する多彩な国を表しているのです
なんとこれは全国から寄せられた21,275点の中から県の愛称として決まったということでした。また埼玉県の花は桜草で浦和市田島ヶ原の自生地は、今も昔ながらの面影を残しており、国の特別天然記念物に指定されているのです。

さいたま市は埼玉県の南東部にあり、県庁所在地。 2001年5月浦和市と大宮市と与野市が合併して発足。 2003年4月全国で 13番目の政令指定都市へ移行したので西区、北区、大宮区、見沼区、中央区、桜区、浦和区、南区、緑区の9区が誕生、市役所は浦和区にあるのです。 2005年岩槻市を編入して岩槻区が誕生し合計10区となったのです。従来の業務核都市としての位置づけと相まって首都圏の一翼を担い,工業団地,商業施設,住宅の進出が著しいのです。文化・スポーツ施設,公園・緑地も整備され,彩の国さいたま芸術劇場,埼玉スタジアム 2002などは市外、県外から集客を見込んで作られたようです。荒川河川敷に国の特別天然記念物である田島ヶ原サクラソウ自生地、与野には国の天然記念物の大カヤがあります。国指定史跡として見沼通船堀もあります。市域南東部は安行武南県立自然公園です。鉄道は JR東北新幹線、上越新幹線、東北本線、宇都宮線、高崎線、川越線、埼京線、武蔵野線、京浜東北線、東武鉄道野田線、埼玉高速鉄道、埼玉新都市交通線が、そして道路は東北自動車道、国道 16号線、17号線、122号線、463号線が通り、首都圏と東北地方、上信越を結ぶ交通の要衝でもるのです。人口 は約126万人と膨らむ一方のようです。
ということで今回のこのウォーキングツアーではまずさいたま市の10区完歩を目指すのです。

浦和区。
江戸時代に中山道は江戸と京都を結ぶ重要な道路として整備されていました。浦和は日本橋から三番目の宿駅で、本陣や問屋があり、宿場町として繁栄したのです。1871年(明治4年)に埼玉県が出来、宿場町として栄えていた浦和宿は、県庁所在地となり、また明治22年に浦和町となり、行政・教育・文化の上でも県中心地となったのです。1923年(大正12年)の関東大震災では、地震の災害が少なかったこと、首都圏から20kmの至便性などから、住宅地としての評価が高まり、多くの文化人が移り住み、特に「鎌倉文士と浦和画家」といわれ、多くの芸術家が活躍したのです。2001年(平成13年)にさいたま市が誕生し、2003年(平成15年)さいたま市が政令指定都市へ移行し、浦和区ができたのです。

埼玉サッカー発祥の地碑.
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埼玉は静岡、広島と並びサッカーの御三家と言われ、その歴史は古く、今から約100年前の明治41年に、埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)教諭の細木志朗氏が蹴球部をつくったことにより始められ、埼玉師範から多くの指導者が県内の学校に教師として赴任したことにより普及・発展を遂げたのです。 現在のさいたま市役所は、その埼玉師範跡地に建っており、正に埼玉のサッカー発祥の地なのです。このため埼玉サッカーの歴史と伝統を末永く後世に伝えるため、埼玉師範が全国大会で初優勝を果たしてから60周年目の平成9年に当時、浦和市役所だったこの地に記念碑ができたのです。

浦中発祥碑。
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さいたま市役所の西 100m。合同庁舎の東隣りに“埼玉県知事公館の前に 2人の学生服を着た生徒と「ここに浦中ありき」という文字を刻んだ石碑です。 ここは 県立浦和高校の前身 (旧制)浦和中学校が開校した場所なのです。浦和高校の現在の校舎はこれより北に約1.5kmの北浦和駅そばの浦和区領家5丁目にあります。

常盤公園は、浦和区常盤の浦和警察署の東方面にある公園。園内には、子供用の遊具や砂場、トイレなどもあり、都会の中の憩いの場という感じ。
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園内にはもともと浦和地方裁判所があったので入口には名残の赤レンガ堀や、市指定の天然記念物となっているキャラの木があります。
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童話碑もありました。
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浦和宿二・七市跡。
中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていたようです。始まりはどうやら戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいるとも伺いました。市神と定杭を残す市場跡は貴重らしいです。
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さらに数分歩くと常盤公園へ行く道があり、入口に野菜を売る「農婦の像」と市場通り説明碑がありました。
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仲町公園・浦和本陣跡。
旧中山道沿いの仲町交差点そばの路地を入るとすぐ仲町公園です。中には説明板がありました。江戸時代、日本橋から数えて3番目の宿場として栄えた所で、本陣や脇本陣、旅籠、高札場、問屋場などがあったようです。また説明板隣には、明治天皇行幸の際に行在所になったことも記念した碑が建っています。
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浦和宿碑が浦和ロイヤルパインズホテルそばの旧中山道にありました。
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浦和の奈良漬といえば酒井甚四郎商店の浦和漬。こちらは明治初年創業。
須原屋は明治9年、旧中山道沿いの現在地で創業した書店。此処に来るとあらゆる分野のものがあります。
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今日は21℃、晴、微風の中、気持ちよいウォーキングができました。参加者18名、講師喜多見先生、TD伊藤さん。スタート10:00〜14:30でまずはこの第1回「さいたま彩発見ぶらり街あるき」は無理のない日程で終了しました。自分の活動量計では16000歩、約8kmでした。今後はまずさいたま市浦和区の後9区、その後埼玉県内の市をくまなくウォーキング予定、全部で40回となるとのことです。埼玉県は全国でも一番「市」が多いそうですから先が長いですがボチボチ参加しようと思っています。何しろ埼玉県民となって40年以上ですが県内をよく知らないので良い機会だと考えたのです。ではまた皆さま、次回も楽しみましょう。
posted by yunofumi at 09:08| あちこちウォーク

2019年05月12日

2019.5.6 鉢形城を尋ねて

東武東上線寄居駅南口⇒栄町商店会⇒平安会館⇒朝日生命⇒セブンイレブン寄居駅南店⇒正喜橋・荒川⇒笹曲輪(ささくるわ)⇒伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)⇒田山花袋碑⇒二の曲輪⇒城山稲荷神社⇒三の曲輪⇒復元四阿(ふくげんあずまや)⇒石組排水溝⇒復元石積土塁⇒復元四脚門⇒深沢川⇒鉢形城歴史館⇒東武東上線寄居駅南口

偶然パンフレットで見つけた鉢形城です。鉢形城は日本の100名城のひとつと分かり興味がわいたのです。なんと埼玉県寄居町にあるので近いことからGW最終日に出かけてみました。
事前の情報としの見どころは荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあるお城で曲輪が連なる連廓式の平山城で縄張りや巧緻さは際立っているとのことでした。これは小田原合戦の時の前田・上杉・真田・本多氏などとの籠城戦で実証されているようです。
最初の築城は1476年(文明8年)長尾景春、その後北条氏邦がかかわっているようです。
またこの城では「曲輪」という言葉が使われていますがどうやらこれは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称のようで「郭」とも書くのです。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門をはじめ、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられているとのことです。まずは城のことを知らない私ですから徐々に理解したいと思っています。

以下は本日の記録です。
自宅を9時過ぎにスタート。東武東上線でまずは森林公園駅まで、その後乗り換え小川町で再度乗り換え、ようやく寄居駅に到着。はじめて寄居駅にやってきました。結局、列車の待ち合わせもあり、ほぼ90分で到着。
寄居駅南口にはタクシー数台と観光案内所が目につくだけ。すぐに道路幅は広く一直線に荒川にかかる正喜橋を目指しました。
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正喜橋は、荒川を渡る主要地方道飯能寄居線の橋とのこと。
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この橋は昭和46年にできた鋼3径間連続箱桁橋というそうで橋長145.90m、幅員7.50m、歩行者専用もありました。橋からの眺めが素晴らしかったです。
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玉淀河原の上にかかるこの橋の上流側には、鉢形城趾が近接しており、周辺では毎年5月には「寄居北條祭り」、8月には「寄居玉淀水天宮祭」が開催されるとのことでした。一方、下流には、大正14年にかけられた上路式トラス橋「東武東上線荒川橋りょう」があるとのこと。正喜橋上流の風景では右側の河原が「玉淀河原」で北條祭りや水天宮祭の会場となる場所。正喜橋を渡るとすぐ鉢形城公園になり、笹曲輪がありました。
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鉢形城址を紹介するパネルと鉢形城ジオラマがありました。
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これを少し上から見ると葉っぱのような形で攻めにくくなっていました。
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伝御殿曲輪(でんごてんぐるわ)の上に本曲輪があり、鉢形城址の案内がありました。
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御殿があったのです。

すぐ傍から見下ろすと荒川があり、この城がすぐ崖の所にあったことがわかりました。
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向こう側が玉淀といわれるところのようです。

田山花袋碑。
本曲輪 には田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ漢詩の碑がありました。刻まれた文字は武者小路実篤によるものでした。
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二の曲輪には濠と畝、土塁がありました
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城山稲荷神社は二の曲輪の傍でした。
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鳥居前の参道には桜が並木になっていました。

空濠もありました。
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三の曲輪に入ると復元四阿(あずまや)があり、これは休憩所のようでした。
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石組排水溝
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復元石積土塁
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二の曲輪の復元四脚門。
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これは鉢形城址の今ではシンボルです。

これより下に下ると深沢川があり、どうやら水が涌いているようで清らかな流れでした。
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そしてようやく鉢形城歴史館に着きました。ボランテァガイドの酒巻さんには笹曲輪からここまで案内していただき、大助かりでした。
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ここは平成16年10月に鉢形城公園の開園と同時にオープンしたようです。鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史なども含め映像を駆使して紹介していました。

こうして正味2時間ほどの鉢形城の見学をしました。本日は埼玉の奥に来ましたので涼しいかと思いましたがどうも24℃ほどあったみたいで晴天とはいえ夏かと思いました。でも天候に恵まれ、こうして歩き回れたことは幸せなことです。今後は再度訪れて理解を深めたいと思っています。ボランテァガイドに感謝!!
posted by yunofumi at 22:15| あちこちウォーク

2019年05月06日

2019.5.4 国分寺駅周辺ウォーク

天気予報で日中は晴天と聞き、以前から見たいと思っていた殿ヶ谷戸庭園を中心にお出かけしました。

JR国分寺駅南口⇒殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)⇒野川不動橋⇒石橋供養塔⇒緑橋⇒お鷹の道⇒史跡の駅おたかカフェ⇒旧本多家住宅長屋門・おたかの道湧水園⇒こくべジ⇒武蔵国分寺跡史料館・武蔵国分寺跡⇒国分寺⇒万葉植物園⇒国分寺楼門⇒国分寺仁王門⇒国分寺薬師堂⇒七重塔跡⇒JR国分寺駅

JR国分寺駅構内に国分寺市観光案内所がありましたのでパンフレットをいただきつつ観光のヒントをいただきました。そして駅からすぐの殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)に立ち寄りました。GW中とはいえ、ほどほどの込み具合、おまけに入場料は無料でした。
殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したとのことです。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に1979年(昭和54年)から有料庭園として公開されているとのことでした。
旧本館は展示室。殿ヶ谷戸庭園に関する様々な資料を展示・公開している建物なのですが、昭和9年に建築されたこの建物こそが、そもそも岩崎家の別邸として使用されていたものなのでした。
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白い煙突の下は室内に暖炉がありました。
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紅葉亭(こうようてい)は数寄屋造り風の茶室で今でも茶会などに利用されているようです。
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紅葉亭はちょうど崖の上にあり次郎弁天池をはじめ庭園を眺めるにはとても良い位置にありました。
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次郎池傍には湧水の源がありました。
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次郎池に沿って散策すると孟宗竹が連なっている竹の小径に出ました。筍が沢山顔を出しており成長した竹は身についていた皮を衣を脱ぎ捨てる如くに落としている様を初めて見ました。
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藤・山百合、カタクリなど様々な花を季節ごとに見られるようでした。
特にカタクリは花が終わり種子をとるために袋をかぶせてあり、珍しかったです。
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野川不動橋の傍に石橋供養塔がありました。
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石橋供養塔は、天保三年(1831)に造立されたとのこと。前にある不動橋は以前は石橋だったようです。石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味を持っているとのことでした。庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれていること、不動明王碑には 「不動明王」と刻まれているとのことでこの石にちなみ現在の橋の名を不動橋としたようです。

お鷹の道。
野川は国分寺市に湧き出て、世田谷区で多摩川に注いでいる川です。江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたのにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけているのです。現在約350mが遊歩道として整備 されています。四季折々の散策路として人気があり沿道には「カラー」の花が多くみられました。
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史跡の駅おたカフェは、国分寺市が特定非営利活動法人めぐるまち国分寺に委託て 資料館・庭園のチケット販売、史跡地域の総合案内等を行う施設。休憩や懇談の場として、また、史跡地域の魅力を発信する場になっています。ここでは、NPO地域交流センターが指定する 全国まちの駅、地域住民や来訪者が求める地域情報を提供する機能を備え、人と人の出会いと 交流を促進する空間施設としての認証を得ているようです。
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おたかの道湧水園はお鷹の道の北側にあります。園内北側は国分寺崖線にかかり、崖線一帯には湧水源など良好で豊かな自然環境が残されています。ちょっと遠めですがこの奥の穴ぐらから湧水がでています。
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おたかの道湧水園入口には国分寺市内でも貴重な、本多家の歴史的建造物の長屋門(江戸時代後期)と倉(明治時代)が残っていました。
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長屋門を入るとすぐ武蔵国分寺七重塔推定復元模型がありました。
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武蔵国分寺跡史料館はおたかの道湧水園内にあり、国分寺村名主だった本多家の屋敷跡です。中には史跡武蔵国分寺跡を見る・学ぶ・訪ねるをコンセプトにした資料が展示されていました。
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こくべジとは長い年月をかけ土とともに育ってきた国分寺の地場野菜のこと。きっかけは江戸時代の新田開発があった300年間大事に育てられてきた野菜を使ったプロジェクト。うどん屋さんで国分寺野菜7種の天ぷら冷やしうどんをいただきました。野菜は長芋・人参・うど・蕗・カブ・新茶葉・玉ねぎでどれも新鮮でとっても美味しかったです。

奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じたとのことです。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きいとのことです。
金堂跡、講堂間の通路など土台部分などがわかるようになっていました。
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現在の国分寺。
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「国分寺 万葉植物園」は、昭和25年から38年にかけて、以前の国分寺住職だった星野亮勝氏が、日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」に詠まれている植物を収集、当時の日本文化や風習を後世に伝える事を目的で国分寺の境内に造園されたとのことです。すべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌、詠み人が記された札が建てられていました。8,019uの園内には万葉関連の植物が約160種、その他に各植物約700種が植えられておりました。
入口傍のジャケツイバラ(マメ科)が咲き誇っていました。
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国分寺楼門は門国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものとのことです。
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国分寺仁王門は国分寺境内にあり、宝暦年間(1751年〜1764年)に建てられた八脚門とのことです。
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使用している木材の一部は建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されているようです。またもとは萱葺の屋根で、現在は瓦葺の入母屋造。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(向かって右・口を開けている)吽(向かって左・口を閉じている)の仁王像がみえました。

国分寺薬師堂は医王山縁起によると、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたということです。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものとのことでした。
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建物は単層寄棟造で、昔は萱葺屋根だったのを昭和60年に銅板葺の屋根にしたようです。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置されているとのことでしたが暗くて中の様子はよく見えませんでした。

長屋門傍で見た七重塔の実際の跡地が金堂や講堂跡から東へ約200mのところにありました。
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本日は殿ヶ谷戸庭園の見物と思っていましたがパンフレットから旧国分寺や現在の国分寺も見られそうということで歩き回りました。AM10:00すぎから正味3時間、晴天のさわやかな陽射しの中、24℃、微風はウォーキング日和でした。またGW中でのんびり17000歩のウォーキングを楽しく過ごしました。花々は色々咲いておりその都度楽しみましたがお鷹の道のカラーとジャケツイバラがとても印象的でした。またこの辺りは国分寺崖線を辿るウォーキングも可能かもしれないと感じました。またしらべて挑戦したいと思います。
posted by yunofumi at 20:30| あちこちウォーク