2018年02月28日

2018.2.28 高尾山10回目

今日で2月が終わりなので仕事をお休みし、高尾山に上りました。
約半年ぶりの高尾山です。本日は平日、夜には天候が崩れるとのことでしたから登山者は今までで一番少なく高尾山清滝駅は閑散としていました。
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周りの木々はまだ冬の様相。
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浄心門。
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神変堂。
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高尾山には色々な方々のお名前が掲示されております。今回は「高尾山健康登山の証百冊成満者」として154名の方のお名前を見つけました。「高尾山健康登山の証」は1回の登山につき1ページにスタンプをいただきます。21個のスタンプで1冊完成です。ということで私は本日で10個のスタンプがたまりました。
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薬王院飯縄権現堂。
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頂上が近づいた高尾山ビジターセンター傍の登山道にはまだ雪が見られました。
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ようやく山頂について記念撮影。
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参道途中には梅も開花していました。
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本日は一人で気ままに、体力の確認も兼ねて、ウォーキング感覚での山登りでした。下に降りて紅葉屋でとろろそばをいただき、温まりました。帰宅すると10000歩超でしたが久しぶりだったので苦手な上りもあり、少し草臥れました。今後も鍛錬が必要と実感しました。
posted by yunofumi at 22:38| あちこちウォーク

2018年02月25日

2018.2.17 横浜散策 第8回港北区

東急東横線大倉山駅⇒記念館坂⇒大倉山公園・大倉山記念館⇒エルム通り⇒大綱小学校4⇒大豆戸どろんこ保育園⇒港北スポーツセンター⇒大豆戸小学校⇒新横浜さわやか苑⇒大豆戸公園⇒ベガサス新横浜保育園⇒HANZOYA⇒横浜デジタルアーツ専門学校⇒岩崎学園⇒横浜アリーナ⇒プリンスペペ⇒新横浜グレースホテル・ぎん(昼食)⇒城南信用金庫⇒新横浜国際ホテル⇒新横浜駅前郵便局⇒呉竹鍼灸整専門学校⇒スタジアム通り⇒トラック総合会館⇒日産スタジアム⇒日産スタジアム前バス停留所⇒鶴見川流域センター⇒小机城址⇒医王山金剛寺⇒雲松院・旗本笠原家墓所⇒JR小机駅

記念館坂。
港北区大倉山2丁目と大曽根台1丁目の間にある坂で大倉山駅から東横線沿いに北に向かい,直角に曲がった後大倉山記念館に向かっています。かなりの急な坂で大倉山駅スタート直後だったのでややきつかったです。長さ380m、高低差36m、平均斜度5度とのことでした。
坂上には大倉山記念館があるのでこの名称となったようです。
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大倉山公園東急東横線大倉山駅の北西側の丘の上に、大倉山公園がありました。木々に包まれた丘の上に広場などを設けた公園で中心には大倉山記念館、北側の谷戸には梅林がありました。梅林には150本ほどの梅が咲き、本日から梅まつりとのことで人が多かったです。
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緑萼梅(リョクガクバイ)がありました。
これは日中友好の印として中国から各地に贈られているとのこと。葉は楕円形で、互い違いに生える(互生)。野梅系・青軸性の白い一重咲きの中大輪(花径25から30mm)。萼が黄緑色になるのが特徴とのことでした。
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公園入口にはハナミズキ、ツツジ、ヤマボウシなど季節季節でお花を楽しめそうです。

大倉山記念館。
実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(1882-1971)により1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建されたとのこと。1981年(昭和56年)横浜市が寄贈を受け、大改修のうえ建物の保存を図るとともに、1984年(昭和59年)横浜市大倉山記念館として生まれ変わったのです。
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建物は、1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として創建された。設計は、東京駅設計の辰野慎吾の一番弟子、長野宇平治。ギリシャ神殿様式のピロティー、昭和初期の雰囲気を残す第5集会室、神社建築の木組みを取り入れたホール、エントランスなど、映画やテレビのロケ地としても数多く活用されています。

東急東横線大倉山駅前の商店街は東へ向かえば「レモンロード」、西へ向かえば「エルム通」、「オリーブ通」、「つつみ通」と続き、それらが全体で「大倉山商店街」となっているのです。その中でも「エルム通」はギリシャ建築を彷彿とさせる意匠の建物が並び、その特徴的な佇まいから知名度も高く、「大倉山エルム通り」として広く知られているのです。
「大倉山エルム通り」には白い外壁の重厚な佇まいの建物が並んでおり、まるで古代ギリシャの神殿を思わせるような意匠の建物が並んでおり、全体が統一された印象になっていました。建物の白い外壁が陽光を照り返えすと、街路樹の緑がよく映えとてもきれいに見えます。それぞれの建物はそれほど規模の大きなものではなく、高層のビルなどもないから、通り全体が明るく開放的な感じです。美しい佇まいの街並みには電柱もなく、歩道には花々が置かれ、歩いていても気分がよくなります。
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大豆戸町(まめどちょう)という町名がありました。これは師岡熊野神社に大豆を奉納していたことに由来する地名だそうです。

横浜アリーナは、1989年4月に開業した多目的イベントホール。現・キリンホールディングスと横浜市、西武鉄道からの出資の第三セクター。アリーナ部分の最大面積8000 m2、最大収容人数は1万7000人で、コンサートやスポーツ、企業式典など、あらゆる用途に利用されています。
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こちらの街中ではこのマンホール蓋があちらこちらにありました。
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日産スタジアム。
7階建てで、公園駐車場が1階、ウォーミングアップルームやピット部分が2F、トラックやピッチのあるフィールド部分が3F、1階席が4F・5F、2階席が6・7階、と積み上げ式の建物。スタジアムの外周路は1周約930m。資源の有効利用のために大屋根部分に降った雨を芝生の散水やトイレの洗浄水に利用。また、水再生センターからの再生水をヒートポンプの熱源とし、さらにトイレの洗浄水に使用とのこと。
こちらは正面。大きすぎて全景を写せませんでした。
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鶴見川流域センター
鶴見川の源流は東京都町田市、河口は横浜市鶴見区の東京湾。鶴見川は町田市、横浜市青葉区、緑区、都筑区、港北区、鶴見区、川崎市幸区を流れる全長42.5km、流域面積235kmの一級河川。 このうち京浜河川事務所の直轄管理区間は、河口から第三京浜道路までの17.4km。支川の矢上川は、1.8km。支川の早淵川は、1.6km。支川の鳥山川は、1.9kmとのこと。流域の形が夢を食べるといわれる動物・バクに似ていることから「バクの川」ともよばれているとのこと。鶴見川は昔から大変な川で、市街化が進んで水害が起こりやすいのです。1980年昭和55(1980)年、保水・遊水機能の確保などを流域全体で進めていく「総合治水対策」の対象河川となり、緑地の保全や調整池の設置など、雨を一気に川へ流さないための流域対策と、ポンプ場の整備などの下水道対策と一体となって、河川の整備を進めてきました。
平成16(2004)年には、健全な水循環系を実現することで、治水・環境・利水など、鶴見川が抱える諸課題を総合的に解決するため、市民・市民団体・企業・行政等が一体となって行う「鶴見川流域水マスタープラン」が策定されました。
屋上では多目的遊水地を一望できました。越流堤、排水門、減勢池など遊水地の主要部を見て遊水地の仕組みの説明を職員さんから受けました。また、遊水地内にある日産スタジアムや周囲にある小机城址、小机城、遠方のランドマークタワーなども眺めることができました。
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白い枠があるのは新しくできた道路。その手前に一段低くなっているのが越流堤。そして細く見える水面が減勢池。これらは鶴見川が大雨で溢れてきた時、水をこちら側に流し、多い時は日産スタジアム1階までにも達するようです。

小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址は市民の森として、城の遺構が整備されつつあるようでした。
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小机城は、永享の乱(1438年 - 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとのことですが、正確にはいまだわかっていないようです。この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦で山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしたのです。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞したようです。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月かけて落城させたとのことです。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存されていました。その後北条氏綱の家臣の笠原信為が城主として配置され城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいたようです。最後は徳川家康の関東入府のときに廃城とされたとのことです。2017年(平成29年)、「続日本100名城」(125番)に選定されたため近頃訪れる人が多いとのことです。

雲松院・旗本笠原家墓所。
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雲松院は字愛宕下という所にありました。小机の城主笠原越前守信為が開基。信為が法名を乾徳寺雲松道慶と云うことで寺名がついたようです。
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笠原越前守信為はじめ一族のお墓が本堂の後の山の半腹にありました。

本日の講師浅井先生、TD田村さんのお世話で今日は参加者23人、朝自宅出発時は5℃くらい。でも日中は12℃くらいにまでなったようです。梅の花も咲き、とても良いウォーキングでした。鶴見川流域センター、日産スタジアムのことは特に印象深かったです。9:30〜16:00、1日の歩程約8kmはやや歩程が短かったのかもしれませんが、スタートすぐの大倉山への上り、終了間際の小机城址までの上りはちょっときつく十分歩いた!の気分でした。まだまだ続く横浜散策です。今後も楽しく、頑張ります。
posted by yunofumi at 21:35| あちこちウォーク

2018年02月12日

2018.2.10 山手線歴史探訪ウォーク 第6回

新宿駅〜渋谷駅
JR新宿駅・新南改札・ペンギン広場⇒高島屋新宿店⇒新宿4丁目交差点⇒天龍寺⇒雷電稲荷神社⇒伊勢丹新宿店⇒新宿3丁目交差点⇒追分だんご⇒東京メトロ新宿三丁目駅⇒末広通り⇒新宿末広亭⇒要通り共栄会⇒新宿柳通り⇒不動通り会⇒太宗寺⇒正官庄⇒四谷区民センター⇒玉川上水水番所跡⇒四谷大木戸跡碑⇒四谷四丁目交差点⇒内藤新宿開設300年記念碑⇒新宿御苑大木戸門⇒新宿1丁目⇒三遊亭圓朝旧居跡・花園公園⇒花園幼稚園・花園小学校⇒花園町親交会⇒成覚寺⇒正受院⇒玄海(昼食)⇒新宿御苑新宿門・千駄ヶ谷門⇒新井白石終焉の地⇒日本デザイン専門学校⇒JR中央緩行線御苑裏ガード⇒千駄ヶ谷大通⇒明治通り⇒山手線裏参道ガード⇒北参道⇒明治神宮⇒代々木公園原宿門・渋谷門⇒NHK⇒二・二六事件慰霊碑⇒神南小学校⇒紀伊国屋書店⇒JR渋谷駅ハチ公前改札口

JR新宿駅新南改札・ペンギン広場
新宿駅はJR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局が乗り入れる駅。2016年7月に新宿駅新南改札正面に新たな待ち合わせスポットとして「Suicaのペンギン広場」が登場。今回初めてじっくり見ました。待ち合わせ場所にはいいと思いました。
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天龍寺は、東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗の寺院。創建は1591年(天正19年)。
天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とのこと。法泉寺は徳川家康の側室だった西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春の菩提寺であり、西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移されたようです。この時、寺名を天龍寺と改めたのは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来するとか。
上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割をしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていたようです。天和3年、天和の大火により焼失し、現在地へ移転したのです。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来ます。
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雷電稲荷神社
天龍寺とともに遠江国から遷されて来たとか、平安時代に創建後、天正年間(1573〜1593年)に再建されたなどの説があるようです。もとは天龍寺の境内社。また、源義家が奥州征伐の途中、雷雨を避けてこの地で休んでいると、どこからか一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、たちまち雷雨が止み晴れ渡ったので、里人が雷電神社と呼んだという伝承もあると伺いました。
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「新宿元標ここが追分」と新宿三丁目交差点南東角の路面に大きく描かれていました。「追分」は街道の分岐点に見られる地名。現在の新宿三丁目交差点は、元々は甲州街道と青梅街道の分岐点であったことを示しています。平成11年3月制作とありました。
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追分だんご本舗は、1945年(昭和20年)に創業。1455年(康正元年)に、太田道灌が江戸城を築城中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、土着の名族から手つきの団子が献上され道灌は大いに喜び、その後も団子を所望したことがはじまり。後に、高井戸宿が甲州街道の始駅となり、また1698年(元禄11年)、内藤新宿が伝馬の宿駅となり、もとの柳茶屋は新宿追分に移転し、「追分だんご」と呼ばれるようになったようです。

新宿末広亭は、都内に4軒ある落語定席の一つ。落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗。1940年代後半浅草にあった「浅草末廣亭」は大旦那(北村)が開場したものとのこと。
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太宗寺(たいそうじ)。
1596年(慶長元年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身とのこと。1629年(寛永6年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、1668年(寛文8年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されたのです。
1691年(元禄4年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれたのです。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、1952年(昭和27年)から行われた区画整理で縮小されたのです。5代目当主正勝など3基の墓石が現存していました。
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境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がありました。
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また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきたことがわかりました。

玉川上水水番所跡。
玉川上水は多摩川の羽村の堰で取水し、四谷大木戸までは開渠、四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋などの水道管を地下に埋葬して通水したのです。水番所では番所人が水門の調節で水量の管理やゴミの除去を行っていたようです。この水道碑記(すいどういしぶみのき)は高さ460p、幅230p。完成は1895年(明治28年)ということです。
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四谷大木戸跡碑。
昭和34年地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑。
実際の四谷大木戸は現在の四谷4丁目交差点のあたりだったとのことです。
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内藤新宿開設300年記念碑。
新宿御苑の大木戸門を出てすぐのところにある記念碑。約300年前に、ここから新宿三丁目までの1kmに宿場が開設されたのです。
新宿一丁目の交差点は甲州道中最初の宿場・内藤新宿であった所。内藤家の甲州道中沿いの一部が用地として割かれ、宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになったようです。記念碑の説明では1698年(元禄11年)、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛らの願により、ここから新宿3丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設されたのです。この宿場は1718年(享保3年)に風紀紊乱の廉(かど)で一度廃止されたのが、54年後の1772年(明和9年)に再び再興されました。以降、甲州・青梅両街道が交差する交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に到っているのです。
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三遊亭圓朝旧居跡。(案内板のみ)
新宿区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所。屋敷地は、およそ1000u。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室だったようです。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたようです。円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を好んだのです。怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、円熟期だったのです。

成覚寺(じょうかくじ)。
1594年(文禄3年)の創建。江戸時代には、岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女・遊女たちの投げ込み寺だったようです。奉公途中に死んだ飯盛女は身に着けていたものを剥ぎ取られ、俵に詰められ、この寺に投げ込むように葬られたということです。成覚寺に葬られた人数は、2200〜3000人くらい、大変なのことです。
境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵(あさひじぞう)」などがありました。 また、黄表紙という新ジャンルを成立させた戯作者の恋川春町や、暦学者の塚本明毅のお墓もありました。

正受院(しょうじゅいん)。
1594年(文禄3年)、正受乘蓮和尚を開山として創建とのこと。正受院の奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めていたとのことです。
境内には1957年(昭和32年)建造の針塚と1963年(昭和38年)に造立された小見外次郎の胸像がありました。

玄海は昭和3年に創業以来80余年。水たき一筋のお店とのこと。私たちは親子御膳をいただきました。しかしこれでは食べすぎです。
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新宿御苑はもともと、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理となりその後の第二次世界大戦後は一般公開され、現在は環境省管轄の国民公園となっています。2006年(平成18年)には100周年を迎え、開園100周年事業として、絶滅危惧植物の保護センターを設置することが計画されています。
ここでは毎年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されます。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもあります。園の入り口は四つ(新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門)あります。大木戸門傍には旧大木戸門衛所がありました。
園内を散策しながらイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を見ました。
すでに寒桜が素晴らしく咲いておりました。
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旧御涼亭からの眺めは最高でした。
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新井白石終焉の地。(案内板のみ)
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出て塀沿いに案内がありました。新井白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、財政も含め政治改革を行った学者で後世は「正徳の治」と呼ばれました。でも行政の進め方があまりにも性急すぎたようで幕閣から「鬼」と呼ばれてとても嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定されたのです。白石はこの地で6年ほど暮らし多くの著書を残したようです。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社。初詣では例年日本一の参拝者数があります。今日は北参道から入り本殿にお参り後、南参道に抜けました。
ちょうど結婚式の行列に出会いました。

代々木公園はもともと大日本帝国陸軍の代々木練兵場があった場所。第二次世界大戦後にはワシントンハイツ、1964年(昭和39年)には東京オリンピックで代々木選手村となっていました。その後の1967年(昭和42年)に東京都の代々木公園として開園。敷地は540,529.00m2(およそ東京ドーム11個分)。
1964年第18回東京オリンピックでのオランダの選手宿舎が記念で残っております。
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ここには照憲皇太后の葬儀が行われた場所ということで記念碑がありました。
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代々木公園には原宿門、参宮橋門、西門、渋谷門がありいつも出入りできる感じです。

二・二六事件慰霊碑。
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ここは二・二六事件の首謀者たちが刑死した陸軍刑務所跡地。観音像と石柱とささやかな祭壇がありました。神南小学校の方に曲がると案内板があり以下の内容でした。
昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危うく難を免れた。
此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。

ここの所かなり寒い日が続いていましたが今日は9:30〜16:00のウォーキング、ほぼ晴天で気温12℃。歩程25000歩、約10kmを前回に引き続き岡本先生、TD長田さんと共に参加者26名が完歩。そういえばこの10回シリーズを本日で終了した方がおられました。何しろシリーズの場合は一度欠席すると次の機会にすぐ出会うのが難しいので数年かかる場合もあるようでした。いずれにしても自分も頑張らねばなりません。これから順次春めいてくるでしょうから大いに回を重ねるように心がけます。
posted by yunofumi at 23:49| あちこちウォーク

2018年02月10日

2018.2.6 南方熊楠生誕150周年記念企画展へ

本日は国立科学博物館へお出かけ。
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昨年の12/19〜本年3/4までの企画展に何としても伺いたいと思っていたので、本日は仕事をお休みしてお出かけしました。
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南方熊楠は100年生まれるのがはやかった!といわれている天才!
1867年(慶応3年)和歌山に生まれ、8歳の時にはすでに本草網目を筆写していたようです。
1884年(明治17年、17歳の時、今の東大予備門に入学したようです。同級生としては漱石や子規がいたようです。
2年ほどであっさりここを中退し米国へ。何しろ語学力が相当だったようでその後、ロンドンにもわたっています。
1900年(明治33年)に帰国後、熊野や那智などの隠花植物、変形菌などの収集や発見に没頭したようです。
今回の展示では長年学者と思われていた熊樟が実は自然を愛する科学者!と紹介していたようです。

しかしこの国立科学博物館はなんてすごい所なのでしょう。今まで数回訪れたことはありましたがこの展示の仕方も含め大いに感激しました。さすが国立!
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ということで半日どっぷり時間を費やす大いに楽しんで帰宅しました。高齢者の入館料が無料だったのもありがたかったです。
今後は月1で伺うかしら、と思いました。
posted by yunofumi at 21:17| ドタバタ日記