2017年10月05日

2017.10.1 山手線歴史探訪ウォーク 第1回

東京駅〜上野駅

東京駅日本橋口⇒TRST TOWER⇒江戸城外堀石垣⇒北町奉行所跡⇒呉服橋交差点⇒夢二・港屋ゆかりの地・みづほ住友信託銀行⇒一石橋・一石橋迷子しらせ石標⇒メトロ三越前駅⇒常盤橋⇒貨幣博物館⇒日本銀行⇒江戸桜通り⇒日本橋三越⇒COREDO室町1⇒室町2丁目交差点⇒奈良まほろば館⇒日本橋・道路元標⇒日本橋魚河岸跡⇒福徳神社⇒古河市兵衛石碑⇒第一三共梶ヒ小津和紙の起源案内板⇒史跡於竹大一如来井戸⇒えびす通り⇒宝田恵比寿神社⇒十思スクエア前⇒身延別院⇒十思公園・松陰供養石碑⇒メトロ小伝馬町駅⇒お玉ヶ池と手種所跡・お玉稲荷神社⇒メトロ岩本町駅⇒柳森神社⇒神田ふれあい橋・東北線柳原通ガード⇒萬世橋⇒千代田万世会館⇒昌平橋⇒JRお茶の水駅⇒お茶の水水源⇒御茶ノ水郵便局⇒東京ガーデンパレス・つきじ植むら(昼食)⇒日本薬科大学お茶の水はりきゅう専門学校⇒湯島聖堂⇒天堅屋⇒神田神社⇒清水坂下交差点⇒妻恋神社⇒三組坂上交差点⇒面羊会館⇒湯島天満宮⇒旧湯島切通坂町案内板⇒鱗祥院・春日局墓所⇒三菱史料館⇒講安寺⇒無縁坂⇒旧岩崎邸庭園⇒教証寺・柳瀬美伴墓⇒上野恩賜公園・不忍池⇒JR上野駅

江戸城外堀石垣
都内にはあちらこちらに遺跡のごとく石垣が残っていますが東京駅日本橋口のそばTRST TOWERの所にあり、プレートにその所以が記されています。
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石垣の続きに北町奉行所跡がありました。
江戸時代の奉行所は北と南の2カ所とのこと。町の奉行は町人の行政・裁判・警察の役割を担っていたようです。お芝居やTVで馴染みの「遠山の金さん」正式な名前は遠山景元(とうやまかげもと)はこの方と写真を見せられましたが目がやたらに鋭い、太ったおじさんでTVとは大違いでした。

夢二・港屋ゆかりの地
外堀通りの呉服橋交差点から、日本橋方向に少し入った左側、東京メトロ日本橋駅A1出口の近くに竹久夢二港屋ゆかりの地記念碑がありました。場所はみずほ信託銀行が入っている新呉服橋ビルディングの前。竹久夢二が自らのデザインによる版画や封筒やカードを売る店があったようで、商業美術史上重要な意味を持つ場所とのことでした。

一石橋迷子しらせ石標。
1857年建立された江戸時代の尋ね人探しの石標。
右側には「しらする方」、左側には「たずぬる方」とあり、張り紙をしたとのこと。此処のほか湯島と浅草寺にもあったようです。
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貨幣博物館は、日本銀行金融研究所内の2階フロアに設置されている博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館した。館内には日本の貨幣史、世界のさまざまな貨幣が見られます。1億円分の紙幣の重さを体験出来るのですがいつ来ても皆さん興味をもって持ち上げています。

日本銀行は1882年(明治15年)に設立。今でも日本で唯一の発券する銀行。本館はルネサンス様式の花崗岩造りで辰野金吾設計、6年かけて1896年(明治29年)完成。本日は耐震補強工事?か何かでパネルで遮蔽されていました。

日本橋は1590年(天承18年)徳川家康が江戸へ入城後、江戸の町が造成され、1604年(慶長9年)五街道の起点となった橋。現在の橋は1911年(明治44年)それまでの木橋から石橋に架け変えられたものですでに100年以上たっているのです。標柱や橋中央の「日本橋」の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆。橋中央には日本国道路原標が、また橋脇にはこれのレプリカがあります。

福徳神社(芽吹神社は)は旧福徳村の稲荷神社として奉斎され、平安時代前期の859年〜876年(貞観年間)には創建されていたとの推測があるようです。古くは源義家が深く崇敬、江戸城を築城した太田道灌もしばしば参詣したようです。そして江戸幕府開府以前に太田道灌が合祀され、その兜・矢・鏃などが奉納されたようです。また、徳川家康のよく参詣、二代将軍・徳川秀忠が1614年(慶長19年)の正月に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛し、この時に樹皮付きの椚(くぬぎ)製鳥居に若芽が萌え出ているのを見て「芽吹神社」との別称を命名したとのことです。1619(元和5)年2月に江戸城内から弁天宮が合祀されています。幕末期の多くの火災で被災、社殿・施設修復費用捻出のため、富くじ興行が許された社寺のひとつでもあった。
天保の改革、明治維新、関東大震災、東京大空襲など社殿の焼失などを繰り返し2014年(平成26年)にこの地に竣工されたのです。また、2016(平成28)年9月、境内東側に「福徳の森」ができました。
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古河市兵衛石碑がCOREDO室町2の裏手にありました。
古河市兵衛は古河財閥創始者。幼少時より丁稚奉公や行商を行いのちには小野組で生糸貿易に手腕をふるったとのこと。1874年(明治7年)の小野組破産後で独立し、翌年東京で古河本店を開設。渋沢栄一らの資金援助で鉱山経営を行い、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などを経営したことから鉱山王とも言われその後の古河財閥の基礎を築いたようです。しかし後には、足尾銅山の急激な発展で鉱毒事件が起きています。
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小津和紙の起源案内板
小津和紙は、1653年創業の老舗。和紙の専門店としては、日本で有数の規模を誇り、書道用の半紙から美術工芸用の高級手漉き和紙まで、全国各地のあらゆる和紙を取り揃えています。
今年からは和紙の文化を広く知ってもらおうと、手漉き和紙の体験もできる博物舗も併設されているようです。
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於竹大一如来井戸。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である。」とされたのがはじまり。この井戸は於竹が日頃使った所とのこと。於竹は行者の訪問後、亡くなりその後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養したのです。働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」への心づかいなどの話から「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を多くの人が参詣しまたブームにあやかり江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたとようです。また 回向院では数度にわたる羽黒山行者により、出開帳も行われたとのこと。 五代将軍 徳川綱吉の母「桂昌院」も於竹如来を信仰し於竹を歌に詠みまた、小林一茶の俳句や坪内逍遥の芝居でも上演されたとのこと。
奉公先の夫婦の菩提寺、親族の菩提寺、ゆかりの地である山形県羽黒山に於竹をまつる施設が、今も残っているとのことです。  羽黒山正善院には、於竹の奉公先夫婦によって作られ、後に江戸から移された於竹の等身大の大日如来が安置されているようです。また於竹大日如来のお墓は、東京都北区の善徳寺にあるとのことです。
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宝田恵比寿神社の創建は不詳。だが家康入城以前にすでに宝田村の鎮守さまだったとのこと。その後今の大伝馬町に遷座しここでは金銀為替、駅伝、水陸運輸などの役割を担い賑わったとのこと。今東京の風物市としての「べったら市」は商売繁盛の行事なのです。
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身延別院
この地は伝馬町牢屋敷跡。創建は明治16年。明治になって取り壊された伝馬町牢屋敷に身延山別院として多くの獄死者の霊を慰め理想の国土を、ということで現在に至っているようです。
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十思公園の辺りは伝馬町牢屋敷跡。在牢者は200〜400人、多い時は1000人もつながれていた場所。
安政の大獄で捉えられていた吉田松陰はここで刑死。供養石碑が公園の端にありました。
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お玉稲荷神社は「桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る神社。
[現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
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お玉ヶ池種痘所。
お玉が池のほとりに1858年(安政5年)伊東玄朴、大槻俊斎などの江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったとのことです。しかし半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移っったとのこと。しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えて現在の東京大学医学部につながったとのことです。

柳森神社は長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまりとのこと。1659年(万治2年)に神田川堀割の際に現在地に移転し柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所になったのです。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したもの。境内には13個の力石群がありました。
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お茶の水の碑
この辺りにあった高林寺に湧いていた水で将軍にお茶を差し上げた所。これが語源でお茶の水と地名が付いたようです。石碑は1957年(昭和32年)に建立。
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湯島聖堂。
徳川五代将軍綱吉により儒学振興のために1690年(元禄3年)に創建。その後幕府直轄の「昌平坂学問所となったのです。
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神田神社(神田明神)は730年(天平2年)創建。もとは日比谷入江そばの豊島郡柴崎村から駿河台へ、さらに現在地に移ったのです。江戸時代には江戸の総鎮守として将軍家の崇敬を受けたとのこと。祭礼は「天下祭り」と称され、日枝神社の「山王祭」と共に盛大なようです。社殿は権現造りで1934年(昭和9年)の再建、隋身門は1976年(昭和51年)に朱塗りの木造建築に再建されたものです。
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妻恋神社の創建は不詳とのことですが日本武尊が東征の時、三浦半島から房総へ渡る際に大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救いその後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したのです。そこでこの地の郷民達が尊の妃を慕われる心を哀れに思い尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝わっているとのことです。江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったと伝わっているようです。
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湯島天満宮(湯島天神)は458年(雄略天皇2年)に勅命で創建とのこと。神紋は「加賀梅鉢紋」。古来より江戸の代表的な天満宮。学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには受験生が合格祈願に訪れる。
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鱗祥院(りんしょういん)は、大奥に仕えた春日局の法号がそのまま寺院の名前になっています。中には春日局のお墓があります。この辺りは元々徳川家から賜った春日局のお屋敷があった場所なのです。
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春日局の墓のはまん中に穴が空いています。これは、春日局が、「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたものだのようです。

無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂。
坂の横にあった無縁寺(現在講安寺)が名前の由来と伝えられています。本日は逆に下りで歩きましたが不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登っており、東京大学に突き当たると理解しました。

旧岩崎邸庭園。
三菱の創始者岩崎弥太郎の長男、久弥の住宅として1896年(明治29年)に完成。
洋館などはニコライ堂の設計者でもあるイギリス人ジョサイヤ・コンドルの設計。
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今日は東京都民の日で大混雑のため建物外観と庭園のみを見て帰路へ。

本日は気持ちよく晴れた1日でした。微風が時々あり、25℃ではウォーキング中、少し汗ばむ程度で、歩程約12km、22000歩を終了。結局5時間はあっという間でした。
講師ははじめての井上先生、CDは阿部さん。ということで仲間30人は全員元気で終了できましたからこの10回コースも無事終了できるようにがんばります。
posted by yunofumi at 00:09| あちこちウォーク