2016年11月28日

2016.11.30 「富士山すそのウォーク」振り返り

数日前に1年7か月かかって「富士山すそのぐるり一周ウォーク」を無事終了しました。
下記は自分なりにまとめたものです。
今後、このようなウォーキングツアーに参加される場合、ご参考にしていただければ幸いです。
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〇私の参加状況から
・お天気に恵まれ土砂降りに会わず幸いでした。
・富士山が見えることが大きな喜びでした。
・大事をとって冬季は参加しませんでした。
・できるだけ第1回の方々とご一緒になるようにスケジュールを組むと一人参加でも顔なじみができるので楽しくなります。また講師の先生やCDさんとも顔なじみになります。
・都合で参加できない回がある場合はなるべく早く穴埋めをするとよいのです。

〇これから参加の方へ
・富士山すそのぐるり一周のコースは1回約10km、アップダウンはそれ程大きくなく、長距離を歩きなれてない場合には程よいコースです。
アップダウンが気になる場合はスタート地点、ゴール地点の標高をネットで事前に調べるとだいたい目途が立ちます。上記の17回のうち第5回が大変でした。
・真夏や冬は自分の体力に合わせて日程を選ぶとよいです。
 日常暮らしている場所に比べ、すそのの標高が高いので気温は低めです。よく100m上がると0.6℃下がると聞いています。
・体力に合わせてストックを持つと随分楽です。
・荷物には雨具を必ず入れます。ポンチョが軽くすっぽり被れるのでとても楽です。
・飲み物はスポーツドリンクが良く、暑い時期は500mlを2本準備しておくとよいです。
 自販機のない場所も多々あります。
・途中でのエネルギー補給のために一口羊羹や飴を持ちましょう。
・履物は履きなれた靴、スニーカーよりトレッキングシューズがおすすめです。
・回数を重ねるごとに脚力、筋肉がつきます。完歩された時は街道歩きをお勧めします。

では皆様、ウォーキングをお楽しみください。

posted by yunofumi at 22:18| あちこちウォーク

2016年11月27日

2016.11.20 第8回 富士山すそのウォーク

村山浅間神社〜山宮浅間神社〜北山本門寺

JRさいたま新都心駅→足柄SA→村山浅間神社⇒西見附⇒山宮浅間神社⇒浅間橋⇒山宮薬師寺⇒八幡神社⇒勝又製材⇒北山大橋⇒北山本門寺⇒富士山本宮浅間大社⇒花の湯→JRさいたま新都心駅

村山浅間神社のラザフォード・オールコックの碑をみたのは確か2015.10.25の第7回。その次の第8回としては川越発では日程調整ができず、本日のさいたま新都心発に参加したのです。
私の場合、第1回は2015.4.26で第17回の最終回は2016.8.28に仲間の方々とすでに終了していました。この間にはいくつかの穴空き状態がありコツコツ埋めし、本日、第8回で完歩ということなのです。本日は朝出発時から快晴でありがたい1日となりました。

足柄SA
朝出発時から晴天でバスの進行に合わせて富士山がくっきり!車窓の眺めも素晴らしい。
そして足柄SAの屋上、展望テラスからは見事な富士山が見えました。まさにこのシリーズツアー完歩にふさわしい眺めでした。感謝!
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村山浅間神社。
富士根本宮と号するとのこと。全国にある浅間神社のひとつで「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている寺社です。
はじまりは孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建。崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701年)に現在地へ遷座とのことでした。
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西見附。
国道469号を横断して小高くなっている方向に西見附の案内がありました。見附とは山中取締りのために、東西に見附を設けて不審者を取り締ったとのことです。
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山宮浅間神社は富士山を遥拝するための遥拝所がある寺社で社殿はありませんでした。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているとのことです。遥拝所は溶岩流の先端部に位置しており、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っていました。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いているのです。本日は木の間から太陽に光り輝く富士山が鎮座し、神々しいばかりでした。
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山宮浅間神社の創建年代は不詳とのことでしたが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土していることから、文献史料では16世紀から確認できるとのことでした。
世界遺産になったことから参道などが綺麗になっていました。
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北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つとのこと。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。
日蓮上人の一番弟子だった日興上人が1293年(永仁元年)にこの北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成したようです。
仁王門
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本堂
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境内は広く、開山堂、鐘楼堂、客殿、大庫裡などを外から見た後少し裏手に回り、開山にあたって日興上人がお題目を唱えながら植えた「題目杉」が7本の所3本だけ残っているのを見ました。

富士山本宮浅間大社。
806年(大同元年)平城天皇の命により坂上田村麻呂が社殿を造営し、山宮から遷座したのが始まり。富士山信仰とともに門前町がにぎわい、駿河の国の一ノ宮であり富士宮が大宮と呼ばれる元となったようです。全国に1300あまりある浅間神社の総本社とのことです。
楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。
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楼門の両サイドにある大きな絵馬は天皇・皇后の歌が掲げられているのです。

拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっており、正面は入母屋造、背面は切妻造で、正面に向拝が1間出ています。正面に扉があり、左右には蔀戸、正面左右には濡縁が見られました。
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脇から境内を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池がありました。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物の指定です。 清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社がありました。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあったようです。
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そして大鳥居の斜め前には富士山がくっきり。
ということで私の完歩記念の記念品贈呈と撮影をしていただきました。
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花の湯は日帰り温泉としては大きな施設。ナトリウム-塩化物泉で大浴場、露天風呂、檜風呂など至れり尽くせり。この富士山すそのウォークはその日の歩程終了後は必ず温泉で汗を流します。17回のシリージでは紅富士の湯、富士山溶岩泉水、須走天恵、御胎内温泉、ヘルシーパーク裾野、ゆらり、いずみの湯、ふじやま温泉、そして花の湯を利用しました。
いかに富士山の恩恵を受けているかがわかります。

本日ははじめての西講師と顔なじみの近江ツアーディレクターと共に参加者は36名でした。
ウォーキング途中ではタカサゴユリ、オオバヤシャブシ、ホトケノザ、クサギ、フヨウなど講師より解説をいただきながらの進行でした。
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そしてウォーキング途中はさまざまに雲で見え隠れする富士山を堪能した後、花の湯駐車場で本日最後の富士山を仰ぎ見ました。
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今日これまでのシリーズツアーでは富士山の形が見る位置で随分違うことも知りました。
本日のコースは緩やかな下り、歩程約20000歩は何の苦も無く終了でした。しかし、本日が日曜日で秋の行楽シーズン真っ只中、ということで渋滞を避け、高速道路はやめて、下の狭い道を飛ばしての帰路でした。しかし花の湯16:30出発、さいたま新都心22:00到着。それでも車中で爆睡した私たちに比べ、講師・CD・ドライバーは大変ご苦労様でした。本当にお世話になりました。皆様の今後のご活躍をお祈りし、感謝、感謝で終了!!ありがとうございました。
posted by yunofumi at 00:43| あちこちウォーク

2016年11月26日

2016.9.28 第13回 富士山すそのウォーク

割石峠〜精進湖民宿村

JR川越駅→談合坂SA→なるさわ道の駅→割石峠・喫茶パラマウントフジ・天徳宮入口⇒バス乗り場県境⇒国道139号⇒本栖ハイランド⇒林道逢坂線起点⇒林道竜ケ岳線起点⇒東海道自然歩道⇒ヴィラ本栖・本栖湖オートキャンプ場⇒本栖湖⇒湖仙壮(昼食)・与謝野晶子歌碑⇒食事処松風⇒渡辺氏屋敷跡⇒煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓⇒旧中道往還⇒本栖簡易郵便局⇒武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神⇒両替屋敷跡⇒町立上九一色中学校(廃校)⇒本栖城跡⇒富士山樹海・精進湖民宿村そば→いずみの湯→JR川越駅

天徳宮入口からすぐウォーキング開始。
ここ割石峠は静岡県と山梨県の県境。山梨県側は河口湖町上九一色村だった所。オーム真理教の施設があったところで少し変な感じ。国道139号から林道逢坂線起点を横目にズンズン進む。すっかり景色は秋!
本栖ハイランドの看板があった辺りは正月ころにはダイヤモンド富士のビューポイントだそうです。

青木ヶ原樹海の東海道自然歩道に入るとやはり溶岩がゴロゴロで足元注意でした。
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本栖湖が見えてほっと一息。
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本栖湖は富士五湖の中で最も水深が深く127m、透明度も高そうで水はきれい。面積4.7ku、周囲10.4km、湖面の標高は902m。もともと周囲23kmの「セの海」といわれた湖が800年(延暦19年)と864年(貞観6年)の噴火で西湖・精進湖・本栖湖になったそうです。したがってこの三つの湖面の海抜は今でも同じだそうです。

10分ほどで昼食場所の湖仙壮に到着。
昼食中に小雨がパラパラきたので雨具を装着で午後の部を開始。
本栖のあたりは甲斐から駿河への国境の宿場として賑わった時期もあったとのこと。武田家はここに国境警備隊を置き、隊長は渡邊囚獄門佑だったとのこと。そしてここが渡辺氏屋敷跡、煙硝屋敷跡・渡辺囚獄佑の墓など苔むしている所を見ました。栄華盛衰ですね。
またしばらく行くと武田信玄公石碑・阿弥陀仏石碑・道祖神などを集めてまつったお堂がありました。
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その後さらに両替屋敷跡、町立上九一色中学校(廃校)、本栖城跡はいずれも富士山樹海に呑まれている感じでした。
そしてようやく樹海を抜け精進湖民宿村そばに到着で本日はこれにて終了。

本日は落合講師と菊池ツアーディレクターと共に37名が参加。
落合先生の植物への造詣が深いのは相変わらず。
本日はヤマボウシ、ウリカエデ、レイジンソウ、イヌシベ、ミツバウツギなどなど。.
そうそうアケビが実をつけているのを初めてみました。
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朝出発時は曇り、午後一時小雨ながら18000歩を無事に終了。
富士山には吊るし雲やかさ雲がかかり裾野から中ほどまでは見えたのですが、少し残念。
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下界は32℃と後で知ったのですが私たちは25℃くらいの中をウォーキング。
これは標高が9000m辺りをウォーキングしていたお陰なのです。
本日は水曜日、夕方には川越到着でラッキーでした。
posted by yunofumi at 00:48| あちこちウォーク

2016年11月25日

2016.11.10 第8回東京の新発見旅「目黒区」

〜大円寺〜目黒不動〜天空公園〜旧前田侯爵邸〜

JR目黒駅中央改札⇒ホリプロビル⇒目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」⇒行人坂・目黒川架橋供養勢至菩薩石像⇒大圓寺・大黒天⇒目黒雅叙園⇒太鼓橋・目黒川⇒海福寺⇒五百羅漢寺⇒目黒比翼塚⇒目黒不動尊⇒甘藷先生墓所⇒大鳥神社⇒玉川屋・目黒仁王餅⇒目黒区民センター・目黒区美術館⇒田道庚申塔群・田道町会事務所⇒田道橋⇒庚申塔⇒目黒警察署⇒目黒区清掃事務所⇒目黒歴史資料館⇒東京共済病院⇒p樹橋⇒旧朝倉家住宅⇒猿楽神社・猿楽塚⇒デンマーク大使館⇒エジプト大使館⇒都立第一商高⇒西郷橋⇒目黒区立西郷山公園⇒菅刈公園・復元庭園⇒目黒橋⇒CROSS AIR TOWER・目黒天空庭園⇒東邦大大橋病院⇒目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」⇒警視庁第三機動隊⇒駒場東邦中学校・高等学校⇒御用屋敷跡案内板⇒朝日マンション駒場⇒目黒区立駒場野公園・水田の碑⇒駒場東大前1号踏切⇒駒場公園和館・旧前田邸・洋館・日本近代文学館⇒井の頭線駒場東大前駅

今日は目黒不動後に寄生虫博物館に立ち寄る予定でしたが休館日のため急遽、めぐろ歴史資料館に変更となりました。
それでもお天気なので元気に出発です。

目黒みどりの散歩道案内板「富士見茶屋と夕日の岡」
目黒駅から目黒川に向かって行人坂を下る途中にこの案内がありました。
この丘にはむかし富士見茶屋がありこの付近は富士山が見えたのです。江戸時代、富士見茶屋では大勢の参詣客や旅人がここで一服し、秀麗な富士の眺めを楽しみ、繁盛したいたのではないでしょうか。広重行人坂部分や富士見茶亭(長谷川雪旦画江戸名所図会)として絵があるそうです。

行人坂(ぎょうにんざか)は目黒駅から上大崎にまたがる坂。急な勾配の所で江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があります。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝として、富士見の名所としても知られおります。また、八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもあるのです。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像。
行人坂の案内板の横に勢至堂(せいしどう)があります。台座97cm、蓮華20cm、勢至菩薩52cmから成り、勢至菩薩は両手を合掌し、片膝を立てて座っておられました。台座の前面と両側面には、江戸時代中期の目黒川架橋に関する銘文が刻まれており、文からは、1704年(宝永元年)に僧西運が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の報謝を受け、これをもとに目黒川の両岸に石壁を造り、石製の太鼓橋を架けたことが示されているようです。
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大圓寺はもう数回伺っているお寺さん。ご本尊は釈迦如来。大黒天も祀られており、元祖山手七福神のひとつでもあります。また石仏群、生身釈迦如来立像、阿弥陀三尊などもあります。
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目黒雅叙園は結婚式場・レストラン・ホテルなどで有名な複合施設。
木造建築物にある百段階段を利用した百段ひな祭りを見に来たことがあります。
前庭に『お七の井戸』があります。八百屋八兵衛一家が大火に遭い、菩提寺に避難したときお七、16歳はその寺の小野吉三郎とであい恋に落ちたのです。そしてその後、好きな人にもう一度逢いたくて、家に火を放ったという悲しくて切ないラブストーリーなのです。幸い、小火ですんだのですが、付け火は当時の大罪であった為、お七は火あぶりの刑に処せられました。それから吉三郎はこの井戸で水垢離をしまた供養のために明王院(現在の目黒雅叙園)に常念仏堂を建立したとのことです。
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太鼓橋は1769年(明和6年)に完成し当時建設された当時としては珍しい石造りで長さ8間3尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)の「太鼓橋」の形状をしていたとのことです。
江戸時代の様子は歌川広重『江戸名所百景』(1857年)に描かれているとのことです。
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四脚門(しきゃくもん)は門の中央にある親柱2本の前後に2本ずつある4本の控え柱がある門。海福寺(かいふくじ)の赤い四脚門は、明治期に廃寺になった上落合の泰雲寺(たいうんじ)より明治後期に移築したものだそうです。
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海福寺の梵鐘は近世の中国風の鐘に似ながら、日本上代の鐘の形態を手本にした特異な考案で、江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ないものです。また、天和2年(1682)鋳造で梵鐘の裾がスカートのように波打っており、形状は端正で鋳技も精巧な優品とのことです。
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五百羅漢寺。
元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたお寺で五百体以上の群像が完成してからもう三百年以上たっています。しかし現存は305体とのことでした。天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄したようです。ということで今も将軍の腰掛石がありました。
そし、明治維新とともに寺は没落、二度移転後、明治41年に目黒のこの地に移っており昭和56年に今の近代的なお堂が完成し、「目黒のらかんさん」として今も親しまれているとのことでした。
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比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のこと。悲恋と共に伝わる例が多いとのこと。一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭ったモノも多く、古事記の時代から江戸時代のものまで各地に残ってるようです。これは目黒比翼塚といわれ、平井権八と遊女小紫の比翼塚です。
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目黒不動尊(滝泉寺)。
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808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗だったようです。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」も行われています。
入口にあるのは仁王門。三間一戸の朱塗りの楼門で、1962年(昭和37年)再建の鉄筋コンクリート造。
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水かけ不動明王。
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さらに野村宗十郎銅像、独鈷の滝、鷹居の松跡、銅造り役の行者像、前不動堂、勢至堂、銅造大日如来坐像など多くみるものがありました。

最後に本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に甘藷先生墓所として青木昆陽の墓が見られました。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたおり、実は昆陽が生前に立てさせたものということでした。
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大鳥神社は、大同元年(806)創建された区内最古の神社だといい、古江戸9社の一社に数えられ、目黒村の総鎮守社となっていたといいます。この神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことが始まったとのことで今での11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ねるので今日は準備に大わらわのようでした。
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切支丹灯篭はもと千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつての肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたもののようです。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものとのことでした。
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玉川屋・目黒仁王餅
第二次世界大戦で焼失した目黒不動尊は戦後まず本堂の再建に始まました。そして昭和29年玉川屋三代目小川雄一夫妻が仁王像を寄進を申し出、約6年で完成。そしてこの仁王様にちなんだのがこのお店の看板商品となったとのことです。
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけてありました。ほかにはバターどら焼き、熊手の舞などがみられました。
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田道庚申塔群(でんどうこうしんとうぐん)は、延宝(えんぽう)元年(1673年)の銘文のある地蔵1基、延宝(えんぽう)5年(1677年)から正徳(しょうとく)3年(1713年)の銘文のある庚申塔6基からなり、当時の民間信仰を今に伝えています。屋根が作られていて保存状態は良好、青面金剛(しょうめんこんごう)、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれに確認できました。庚申塔は、庚申待(こうしんまち)を3年かけて18回続けた後に、記念として建てたものです。庚申待(こうしんまち)とは、庚申の日には命が縮められないよう寝ないで過すという民間信仰なのです。江戸時代には、飲んだり食べたりしながら一晩中語りあかす集まりが盛んに行われていたようです。今ある庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊(めぐろふどうそん)への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所なのです。
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めぐろ歴史資料館。
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現在の目黒地域は、どのような地形や自然、地理的条件の中にあって、そこではどのように人びとの暮らしが営まれてきたのかなどを歴史がわかるようになっていました。
常設展示室では、旧石器時代から、中世、近世、近代、そして現代まで。企画展示室もその年4回ほどするようです。目黒の歴史を身近に感じました。

猿楽神社。
この場所にはもともと2基の古墳があったそうで、大型の古墳は猿楽塚で直径約20m、高さ約5mです。
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この土地の所有者は朝倉家は甲州武田家の家臣だった旧家とのこと。大正時代、古墳のひとつを壊したところ多数の武具が出土したのですがその後朝倉家当主や作業人が病気になったのです。そこで急いで武具を埋め猿楽神社を建立し現在の姿になっているとのことです。
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西郷山公園は江戸時代には豊後竹田城主・中川氏の抱え屋敷であったところ。明治時代には西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入したのですが西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されるようになったとのことです。
そうそう、ドラマの東京ラブストーリーのロケ地でもあったとうかがいました。
また西郷山公園とほぼ隣接で菅刈公園(すげかりこうえん)がありました、西郷隆盛の弟従道の、和洋折衷式の邸宅と、「東都一の名園」と謳われた庭園があった場所です。
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目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)は、首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した屋上庭園で2013年3月30日にオープンしたとのことです。ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11mから35m、延長距離は約400mで、平均勾配約6%のループ状。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じているようです。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられているそうです。全く不思議な感覚でした。
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目黒みどりの散歩道案内板「鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷」
江戸時代初期、鷹狩りの為の休憩所・街道筋の宿泊施設としての将軍家は御殿を作った場所なのです。

駒場野公園の辺りは、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていたとのことです。明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒により今でも行われているとのことです。駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園なのです。「水田の碑」と田んぼがありました。
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駒場公園は加賀百万石の旧前田邸の跡。前田侯爵が邸宅を構えたのはなんと昭和のはじめ。書院造りの和館、化粧煉瓦やタイル張りがある洋館、また公園内に日本近代文学館がありました。
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本日参加者は18名、牧講師と伊藤CDと共にウォーキングして約28000歩を元気に歩きました。天候は晴れ、16℃は気持ちよくご機嫌で15:30には終了できました。終点の井の頭駒場東大前駅は初めてでしたがゆっくりもせず電車に乗ってしまい、少し残念。こんな時は駅周辺をゆっくり自由に散策するとまた土地柄がわかるのです。まずはまたの機会をつくります。
posted by yunofumi at 00:02| あちこちウォーク

2016年11月22日

2016.11.17 さんさん会 横浜ウォーク

〜横浜三都物語と横浜港の歴史〜
JR根岸線桜木町駅南改札口⇒鉄道創業の地 記念碑⇒桜木町入口交差点⇒CROSS GATE⇒桜木町1丁目陸橋⇒日本丸交差点⇒港三号橋梁(旧大岡川橋梁)⇒NAVIOS YOKOHAMA4451⇒赤レンガ倉庫⇒横浜税関遺構⇒旧横浜港駅プラットホーム⇒海上保安庁工作船資料館⇒象の鼻テラス⇒横浜税関資料展示室⇒旧神奈川県産業組合館⇒開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構⇒横浜町会所跡・岡倉天心生誕之地⇒横浜市開港記念会館⇒県庁前交差点⇒みなとみらい線日本大通り駅⇒神奈川運上所跡⇒神奈川県庁⇒神奈川県庁分庁舎⇒横浜開港資料館・玉楠の木⇒横浜マリンクラブ海洋会横浜支部⇒大さん橋ふ頭ビル・大さん橋ホール屋上送迎デッキ⇒横浜水上警察署⇒インド水塔・公園・赤い靴はいてた女の子像・GADEN WATER像・かもめの水兵さん歌碑⇒氷川丸⇒リカルテ将軍記念碑⇒うちゅう保育園⇒ヘボン博士邸記念碑⇒元町貝塚⇒アメリカ山公園・山手町⇒横浜地方気象台⇒岩崎ミュージアム⇒山手警察署港の見える丘前交番⇒ホテルKKR PORTHILL YOKOHAMA(昼食)⇒港が見える丘公園⇒生麦事件犠牲者の墓⇒ウチキパン⇒元町中華駅

本日は以前東海道五十三次をご一緒した仲間とのウォーキング兼同窓会。浅井先生・CD向井田さんを含め22名が参加。お天気も気分良く、気分はサイコー!!

鉄道創業の地 記念碑が桜木町駅そばの広場にありました。
ここは日本で初の鉄道設置のため1870年(明治3年)この地にイギリスから資材を購入後、陸揚げされた場所。1872年(明治5年)ここに横浜駅(初代)を設置し、横浜・品川間の鉄道が開業。
1915年(大正4年)、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)を開業(旅客駅)。そのため横浜駅(初代)を桜木町駅に改称。1928年(昭和3年) 横浜駅がさらに北側、現在地に移転(3代目。東海道本線を現在のルートに変更。
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汽車道は桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用して1997年に開通したプロムナード。港湾環境整備施設(港湾緑地)として整備されており[1]、2002年に設定された散策コース「開港の道」の起点側でした。
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赤レンガ倉庫。
1859年(安政6年)黒船を率いてペリーが来航。日米和親条約、日米修好通商条約の締結を経て、江戸時代の長く続いた鎖国時代が終わりました。100 戸人口500人ほどの小さい村だった横浜村が開港の場所と定められ、横浜の都市としての歴史が始まったのです。
1896年(明治29年)に鉄さん橋(大さん橋の前身)が完成、1899年(明治32年)、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が開始。そしてその一環として保税倉庫として現在の横浜赤レンガ倉庫がつくられたとのことです。2 号倉庫は1907年(明治40年)に着工、1911年(明治44年)に竣工、設計者は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄 でした。開港当初の横浜には船舶が着くことのできる岸壁がなく、本格的な波止場を建設することが必要だったのです。
1号倉庫は1908年(明治41年)着工、1913年(大正2年)竣工。レンガはすべて国産品、2号倉庫だけで約318万個使用われたとのこと。その後、関東大震災、終戦、アメリカ接収、アメリカ軍港湾司令部としての利用などを経て1989年(平成元年)倉庫としての用途は廃止。2002年(平成14年)に保存し、活用工事が終了。1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設となったのです。
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赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」が朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑に埋もれていました。「旧税関事務所(右突堤中央事務所)」は、港湾施設の一つで、1914年(大正3年)に竣工し、船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行っていたとのことです。煉瓦造スレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物で、ガラス張りの天井ホールもあったとのことです。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失。昭和63年〜平成13年にかけて行われた「赤レンガパーク」の整備の際に発見され、現在は「旧税関事務所遺構」として保存されるとともに花壇として利用されているのです。
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旧横浜港駅プラットホームそばに以下の説明碑がありました。
「横浜港駅」は、1911年(明治44年)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、1920年(大正9年)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、1928年(昭和3年)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
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2001年(平成13年)、奄美大島沖で国籍不明の不審船が、自衛隊の航空機によって発見され、不審船はその後20時間ほど逃走を続け、最後には自沈という形で、証拠隠滅をはかったとのこと。この不審船を引き上げて展示してあるのが、赤レンガパークの奥にある、「海上保安資料館横浜館」。我が国の島国固有の事情と、海上保安の必要性を体感することができる施設でした。
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横浜税関資料展示室
横浜税関は、1934年竣工、「クイーン」の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気でした。庁舎(本関)の1階に税関資料室があり、横浜税関の歴史や役割、ホンモノ・ニセモノコーナー、ワシントン条約コーナー、密輸の手口など盛りだくさんの内容でした。
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「開通合名会社(日本商社)の煉瓦遺構」という以下のような解説板が傍にある煉瓦の塀がありました。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。 建物は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。2014年(平成26年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。 大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、1877年(明治10年)1月に創立された「開通社」の社名を1891年(明治24年)「開通合名会社」に改名。当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられるのです。 写真は明治38年(1905年)頃のものと推定とのことでした。
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横浜町会所跡
1874年(明治7年)、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設され、石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていとのことです。
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また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところとのことで、岡倉天心生誕之地の碑がありました。
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横浜市開港記念会館。
横浜の開港50周年を記念して市民の寄付金により建設され、大正6年に竣工。赤れんがの時計塔が特徴で、昭和34年から中区の公会堂として利用されているとのことです。
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神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が設けられ、 神奈川奉行の支配下にあったようです。1866年(慶応2年)類焼、翌年新築、横浜役所となり、1868年(明治元年)明治政府に移管され、1872年(明治5年)横浜税関に改められたのです。
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神奈川県庁は「キングの塔」の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎。表面に溝を刻んだスクラッチタイルと、独自の幾何学的な装飾模様が特色のライト様式。ライト様式とは旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、スクラッチタイルと大理石を用い、幾何学的な装飾模様が特色。昭和初期に大流行したのでした。
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正面玄関車寄せの柱に施された装飾や矢印の様な連続装飾など、ほとんどの模様が直線のみで構成されているアール・デコ風の装飾でした。玄関ホールには唐草文の極楽浄土で咲く宝相華という幻しの花がモチーフで見られ、また中央階段の球形照明はやはり宝相華のモチーフでした。

横浜開港資料館
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、日本の開国を約した日米和親条約が締結された地において開館。開国につづく開港により、横浜は日本の玄関、貿易都市として発展したことが多くの資料から見ることができます。
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横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれているとのこと。「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854年(嘉永7年)のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」などでも描かれています。
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象の鼻パーク(ぞうのはなパーク)は、波止場で明治中期の形状に復元して、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園したとのこと。
象の鼻には防波堤、開港波止場 、ピア象の鼻(桟橋)、開港の丘、象の鼻テラスなどがあり夜景も楽しめそうなスポットでした。
屋上送迎デッキからの眺めは素晴らしく、ここで本日の記念撮影!全員が笑顔いっぱい、元気いっぱいでした。
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山下公園にはインド水塔、赤い靴はいてた女の子像・かもめの水兵さん歌碑・リカルテ将軍記念碑・などがありました。

ヘボン博士邸記念碑
J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn:1815年3月13日〜1911年(明治44年)9月21日)はヘボン式ローマ字の考案者。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日し30年余りに亘って日本で活躍したのです。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここに移り、住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられ、その後山手に移ったようです。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸とのことです。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で1870年(明治3年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は1887年(明治20年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任したのでした。
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横浜地方気象台は1896年(明治29年)に、神奈川県測候所として、海岸通一丁目(山下公園付近)に設立。大正12年の関東大震災によって建物が焼失し、現在(山手町)の建物は昭和2年に建設され、その年11月より業務を開始しているとのことです。

港が見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘の公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。
本日も素晴らしい眺めでした。
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生麦事件犠牲者リチャードソンの墓
山手町の横浜外人墓地にありました。
生麦事件は1862年(文久2年)8月21日、鶴見の生麦で起こりました。島津久光の大名行列の一行が、下馬に応じず行列の中を逆走したイギリス人のリチャードソンを含む4人を斬りつけ死亡させた事件のことです。4人は、川崎大師へ乗馬で向かう途中だったのです。その後幕府は10万ポンドの賠償金を支払ったのです。しかし尊王攘夷運動の機運が高まっていた時だったので、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こっています。
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今日は素晴らしい日和の中、ワイワイとお話ししながらのウォーキングでした。
相変わらず速足の浅井先生でしたが気温18℃、無風でしたから少し汗ばむくらいのペース。約18000歩はちょうどよかったです。
お食事のメインはお好みで肉と魚に別れました。私のように魚を選んだのはほとんどアルコールがダメな人たちだったのも面白かったです。
本日は2次会を横浜中華街で行うプランでしたが私は自分の都合で参加できなかったのがちょっぴり残念!!
又の再会を約して、サヨナラしました。皆様!ではまたね!!
posted by yunofumi at 22:08| あちこちウォーク

2016年11月13日

2016.11.12江戸ぶらり古地図ウォーキング第4回深川

〜江戸勧進相撲発祥の地“富岡八幡宮”〜

東京メトロ門前仲町駅⇒永代寺⇒深川不動堂⇒富岡八幡宮・横綱力士碑・大関力士碑・伊能忠敬銅像・三等三角点⇒和倉橋⇒清澄通り・深川2丁目⇒葛西橋通り⇒陽岳寺⇒法乗院・深川えんま堂⇒心行寺⇒深川1丁目⇒採茶庵跡⇒海辺橋⇒都立清澄公園(昼食)⇒深川図書館⇒清澄防災倉庫⇒中村学園通り⇒清澄庭園⇒本誓寺・村田春海の墓⇒清澄児童遊園⇒江戸みやげ屋たかはし⇒霊厳寺⇒・勢至丸さま・銅造地蔵菩薩坐像・松平定信公の墓⇒出世不動尊⇒不動寺・三好1丁目⇒成等院・紀伊国屋文左衛門の墓⇒深川江戸資料館⇒東京メトロ清澄白河駅

深川不動堂は、千葉県にある大本山成田山新勝寺の東京別院。永く「深川のお不動様」と親しまれています。その開創は元禄16年で、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まりです。この御尊像不動明王は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂にある御本尊はその御分霊とのことです。本日も護摩法が行われており厳かな雰囲気でした。
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本堂左手からご本尊の真下を通る祈りの回廊があり、約1万体のクリスタル五輪塔が奉安されていました。
また2階に上がると四国八十八カ所霊場のお砂を納めた四国八十八カ所巡拝所がありました。

富岡八幡宮は1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されたとのこと。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて約60500坪の社有地になりました。今も「深川の八幡様」といわれ「江戸最大の八幡様」なのです。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神をことのほか尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新には朝廷が当宮を准勅祭社にし、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されたのです。本日は七五三の参拝が多くなるようでテントを張り、皆さんが万全の準備をされていました。
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富岡八幡宮にある横綱力士碑は歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰しています。12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、1900年(明治33年)に完成したとのことです。縦3.5m、厚さ1m、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並んでいます。
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歴代の大関力士を顕彰する大関力士碑(おおぜきりきしひ)もありました。
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また同じ境内ながら富岡八幡宮境内大鳥居横に江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁の銅像が平成13年に建立されています。製作は酒井道久、監修を忠敬翁より7代目の子孫伊能 洋さんがされたとのことです。
50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ伊能忠敬翁です。彼は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず当宮を参拝していたことからこの八幡宮に銅像が建てられたとのことでした。
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また、銅像の横に見えるのは新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」です。

油堀川に架かっていた和倉橋の親柱がありました。和倉橋は、震災復興橋梁のひとつとして、昭和4年(1929)7月に竣工。この親柱は、竣工当時のものとのことです。昭和50年、油堀川の埋め立てにより、橋は撤去され、親柱2基は現在地に移され、保存がはかられました。正面は3段にせり出すように形づくられ、両側面は、縦長に、ひとつは長く、ひとつは短く彫り込まれています。アールデコ調の直線を多用する、パターン化したデザインで、震災後の都市デザインの潮流をうかがうことができるようです。
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法乗院・深川えんま堂
日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5t、寄木造り)で平成元年 に今のゑんま座像が建立されたとのこと。
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本堂一階にある16枚の地獄・極楽図は、天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれた作でこの絵は、悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの必要性、御仏の慈愛、命の尊さを説いているとのことです。 冥途では、死後の人々は閻魔大王を中心に十人の王によって裁きを受けるのです。十王の本来の姿は菩薩ですが、裁判中は柔和な姿を隠して憤怒の身を現し、初七日から七十七日、一周忌、三周忌に至るまで、次々に亡者を受け取りその罪業を考査し未来に生まれるところを決めるのです。 御仏の教えの根本理念は、因果応報。悪行を積めば悪い結果に、善行はよい結果になるように、人間は生きている時の行いが全ての原因になるということでした。

採茶庵跡(さいとあんあと)
松尾芭蕉は、1689年(元禄2年3月27日)採茶庵から「おくの細道」の旅に出発しました。正確には(仙台藩の蔵屋敷があった仙台堀から船に乗り、隅田川をさかのぼって千住まで行ったのです。「おくの細道」の出発は船旅だったのです。採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であったとのこと。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた芭蕉庵を手放し、門人、杉山杉風に世話になったのです。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたとのことでした。 
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採茶庵跡のそばに海辺橋がありました。しかし芭蕉のころはまだ築かれていなかったとのことです。

清澄庭園(きよすみていえん)は、現在は都立庭園で、池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園。
この地はもともと元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったということです。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと思われます。1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成させたのです。その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園したのです。
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庭園内に芭蕉の古池の句碑もありました。
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清澄庭園の道路を挟んで対面にある、本誓寺の境内に江戸時代中期の国学者で歌人村田春海の墓があるとのことでした。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の権急に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられたとのこと。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸元由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれています。著書は 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数あるようです。

江戸みやげ屋たかはし
東京の下町、江東区深川地区内に位置する清澄白河は、清澄庭園や松尾芭蕉、また深川めしなどといった歴史あふれる町として知られる一方、隅田川と運河に囲まれた豊かな自然が残る都会のオアシスとして、人々や生き物たちの安らぎの地として親しまれています。今回は、江戸風情が残る街並み深川江戸資料館通りに面した、これぞ下町のみやげ屋!! といえる真心あふれる「江戸みやげ屋たかはし」を見つけました。
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霊厳寺(れいがんじ)
浄土宗の寺院で山号は道本山、院号は東海院、御本尊は阿弥陀如来。
1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建され、数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなったようです。1657年(明暦3年)の明暦の大火により霊巌寺も延焼。1658年(万治元年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転し現在に至っているようです。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉の老中で寛政の改革を行った松平定信の墓、今治藩主松平家や膳所藩主本多家などの多くの大名の墓があります。
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また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されていました。
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成等院は寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建、万治元年(1658)に現在地に移転してきたとのことです。境内に紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)の墓がありました。文左衛門は江戸時代、元禄期の商人です。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われたようです。紀伊国湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身で文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられています。晩年は浅草寺内で過ごしたのち1734年(享保19年)に死去したとされているとのことです。
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深川江戸資料館は江戸時代の深川へタイムスリップできる場所でした。館内は江戸時代の深川が再現されており、町並みや家屋、やぐらなどが見学できました。他にも展示室では深川江戸の歴史や文化に触れることが出来ました。
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横綱大鵬関の功績も一区画ありました。
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本日のウォーキングは阪急交通社トラピックスの日帰りツアー。
ガイディングレシーバー付きで講師説明があり、記録帳・缶バッジとお弁当付きで安価なのはちょっとよかったですが参加者総勢76人、2班に分けての行動でした4。
1日晴天で19℃、風なし、スタート9:30、ゴールは深川江戸資料館前到着までで、約12000歩は気持ちよかったです。そうそう昼食は清澄公園で深川めしの弁当でしたがこのようなやり方は雨天ではどうなのかな?とか、街中のウォーキングにしては人数が多くてどうなのかしら?とか余計な心配をしました。では本日も無事終了でありがとうございました。
posted by yunofumi at 22:27| あちこちウォーク

2016年11月12日

2016.11.10 第7回東京の新発見旅「文京区」

〜水道橋〜伝通院〜小石川植物園〜旧岩崎邸〜

JR水道橋駅西口改札⇒後楽園ブリッジ⇒東京ドームシティ⇒外堀通り⇒後楽橋交差点⇒小石川後楽園⇒文京区役所展望台⇒源覚寺・こんにゃくえんま⇒えんま通り商店街⇒六角堂調剤薬局⇒善光寺坂⇒慈眼寺・沢蔵司稲荷⇒善光寺坂ムクノキ・幸田氏宅⇒傳通院・於大の方墓⇒浪士隊結成の地・処静院跡⇒都立竹早高校⇒三百坂⇒千川通り⇒チャイルド本社
⇒小石川植物園⇒御殿坂⇒愛星幼稚園・小石川白山教会⇒龍野川信用金庫⇒東京富山会館⇒旧白山通り⇒白山下交差点⇒白山神社⇒東洋大学・井上圓了記念博物館⇒旧駒込東片方町案内板⇒白山上交差点⇒向丘2丁目交差点⇒魚邦(昼食)⇒栄松院・初代松本幸四郎の墓⇒清林寺⇒光源寺・明珍本家の墓・逢華梅⇒旧駒込蓬莱町案内板⇒駒込学園前交差点⇒向丘高齢者在宅サービスセンター⇒日本医科大学健診医療センター⇒夏目漱石旧居跡・日本医科大学橘桜会館⇒雄飛堂薬局⇒日本調剤根津薬局⇒根津裏門坂⇒根津神社⇒旧根津須賀町案内板⇒弥生坂⇒弥生2丁目⇒弥生式土器発掘ゆかりの地碑⇒東京大学弥生門⇒弥生美術館⇒竹久夢二美術館⇒暗闇坂⇒覚性寺⇒宗賢寺⇒日本退公連会館⇒旧岩崎邸⇒上野合同庁舎⇒上野公園⇒JR上野駅

水道橋駅から後楽園に向かうとき、神田川の向こうに青い橋が見えました。これが水道橋とのこと。
江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まり。はじめは現在よりやや下流に位置していたようです。『江戸図屏風』には江戸時代初期の水道橋が描かれており、橋の下側に描かれているのが懸樋だそうです。
従って水道橋の名は、この橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来しているということでしょう。
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小石川後楽園
江戸時代初期の1629年(寛永6年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷の庭として造り、二代藩主の光圀の代にようやく完成した庭園とのこと。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見から、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけたのです。
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広大な庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」。枝垂れ櫻や花しょうぶなどが見事とのこと。花の季節にまた伺いたいものです。
それにもまして水面に映る形が満月のように見える円月橋は素敵でした。
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文京区役所展望台(文京シビックセンター25階)25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されていました。無料でした。展望ラウンジの高さは、地上約105m、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がっていました。
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まるでジオラマのように見えました。

源覚寺は1624年(寛永元年)定誉随波上人により開創。その後1657年の明暦の大火、1762年お薬園大火、1774年戸崎町火事、1884年富坂火事などの火事に見舞われましたがご本尊、閻魔様ともども無事だったとのこと。また東京大空襲でも本堂は無事だったのです。
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源覚寺門前はこんにゃくえんま門前として江戸時代から賑わっているようです。

慈眼寺(じげんいん)・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)
伝通院の修行の場であった学寮の沢蔵司という修行僧が3年で浄土宗の奥義を極めたことから伝通院の住職郭山上人がこの沢蔵司稲荷を境内に祀り慈眼寺を別当院としたとのことです。
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沢蔵司は蕎麦が好物で門前の蕎麦屋さんで良く蕎麦を食べ、その日の売り上げにはムクの葉が入っていたとのこと。ということで傍の善光寺坂ムクノキには沢蔵司稲荷が宿っているといわれています。
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ムクノキのすぐ傍に幸田露伴の娘・幸田文(小説家)、孫の青木玉さんの住いがあるとのことでした。幸田文の作品は多く接しています。また青木玉の作品では「小石川の家」などを読んでいます。またさらにひ孫の青木奈緒さんも物書きとのことですからどこの家も血筋は続くのですね。

傳通院は正式には無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)といい普段は小石川伝通院ともいわれています。徳川将軍家の菩提寺で江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所とのこと。
室町時代の1415年(応永22年)に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創したのがはじまり。
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ここには家康の生母の於大の方、千姫(2代将軍秀忠の娘)の墓、孝子の墓(3代将軍家光に正室)がありました。
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また眠狂四郎で有名な歴史小説家柴田錬三郎の碑と墓もありました。
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浪士隊結成の地・処静院跡の案内が傳通院前にありました。
ここは新選組の元となった浪士隊の結成が処静院(しょじょういん)で行われとのこと。新選組のことはその後長い物語が知られています。

東京はいずこも坂が多いのです。ここで前述の善光寺坂以外の本日通った坂をあげてみましょう。

三百坂(さんびゃくざか)別名三貊坂(さんみゃくざか)は小石川3〜4丁目竹早高校傍を通り約250mの緩やかな坂。近くに松平播磨守の屋敷があったそうです。

御殿坂(ごてんさか)は白山2丁目と3丁目の間。案内板には御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂とあります。その昔この上に白山御殿があったから。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれとのことです。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園、その後、小石川養生所、今は東京大学の付属植物園となったのです。

弥生坂(やよいざか)(別名鉄砲坂)はかつて「向ヶ岡弥生町」といわれていたあたり。元和年間(1615〜24)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)や、小笠原信濃守の屋敷、加賀藩前田家の屋敷(現在の東京大学)があった。また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからということです。

暗闇坂(くらやみざか)は本郷7丁目と弥生2丁目の間にある坂。
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったようです。 この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
また傍には東大弥生門、弥生美術館、竹久夢二美術館があります。

小石川植物園は正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園。つまり植物学の研究・教育を目的とする東京大学の教育実習施設。よく知られている歴史は約320年前の貞享元年(1684)に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がこの前身ということです。面積は161,588m2(48,880坪)と広い。
ここは確か2010年だったでしょうか、ショクダイオオコンニャクの開花がニュースとなり」見に来た覚えがあります。
本日はヒッコリーの黄葉した姿が見事でした。
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浄土宗寺院の光源寺は、遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、1589年(天正17年)神田四軒町に創建、1648年(慶安元年)この地へ移転したとのこと。丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、大和国長谷寺の観音の写しという著名な観音像でしたが、太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。東京三十三観音霊場27番札所です。
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平安時代京都の甲冑師宗介の技術が優れていることから近衛天皇から明珍の姓が与えられこの寺には代々の方々のお墓があるようです。
樹齢300年の蓬莱梅(ほうらいばい)もありました。

日本医科大学橘桜会館の横に夏目漱石旧居跡の石碑がありました。
石碑は川端康成の筆でした。漱石は東大講師のころ約4年弱、この地に住み、「吾輩は猫である」を著したので、漱石文学の発祥地ともいえます。
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根津神社は昔、根津権現ともいわれていたようです。
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社。境内はツツジの名所として有名。近所に森鴎外や夏目漱石など日本を代表する文豪が住んでいたこともあり旧跡もあるようです。
現在の社殿は1706年(宝永3年)の創建。その前の年に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養嗣子に家宣(第6代将軍)が入ったため、元の屋敷地が献納され、「天下普請」と言われる大工事で社殿が造営されたようで、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされています。

表参道鳥居
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唐門
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社殿
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弥生式土器発掘ゆかりの地碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人が根津の貝塚から赤焼きのつぼを発見したのが始まりでこれが後に縄文式土器と異なるため発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられたのです。でも、「弥生式土器」の発見地は、都市化の講師ではっきりわからなくなり結局、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されたのでした。
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旧岩崎邸は1896年(明治9年)岩崎弥太郎の長男久弥の本邸として建てられたとのこと。元々は庭園を含め約15000坪で20棟の建物があったようです。
戦後GHQに接収後1952年(昭和27年)に返還、その後色々変遷があり現在は東京都が管理。洋館はジョサイア・コンドルの設計。この方は東京駅を設計した辰野金吾の先生。イギリスルネッサンス様式で贅を尽くした建物でした。
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ビリーヤード場はスイスの山小屋風でおしゃれ!!
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庭園は日本式の手水鉢、庭石もありながら洋式の芝庭もありました。
外に出て袖塀が印象的でした。袖塀にある岩崎家の家紋の「重ね三階菱」は現在の三菱の社章となっています。
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本日参加者は22名、はじめての渡辺講師と伊藤CDと共に順調に24000歩を元気に歩きました。
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天候は曇りでしたがよく持ちこたえてくれてよかったです。風は午後少し弱くなりましたが、気温13℃くらいで空気が冷たかった!やや寒いので参加者は今年始めての厚着でした。それでもいつものように16:00前には終了。上野駅の傍で温かい珈琲をまったり飲んでから電車に乗ったらポカポカで、ついつい乗り過ごし、予定より小一時間遅く帰宅。まずはご愛敬!!
このシリーズは既に知っている所もありますが思いがけず発見することもあり、かなり面白い!!今後も楽しめそうです。
posted by yunofumi at 23:40| あちこちウォーク

2016年11月08日

2016.11.6 第39回日本スリーデーマーチ3日目

都幾川・千年谷公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒鰍aOSCH⇒東松山ケーブルテレビ⇒唐子中央公園⇒天の園記念碑⇒市立南中学校(チェックポイント)⇒氷川社⇒ゴール(市立松山第一小学校)

唐子中央公園は6km地点にありました。ここは唐子市民活動センター(旧唐子公民館)の南側につくられた公園で、体育館、多目的広場、子供広場等が整備されており、広々とした公園なのです。本日は第39回唐子地区商工祭が開催中だったため豚汁・稲荷ずしをいただき小一時間休憩。野菜、果物など販売もあり、すっかりリラックスしました。

天の園記念碑
打木村治の作品「天の園」は、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全6部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われているとのことです。主人公の成長過程が学年ごとによくわかるようです。随分前に読んだような気もしますが再度読み直そうと記念碑を見ながら思いました。
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市立南中学校はノーベル物理学賞の梶田隆章先生の出身校とのことで校舎前には記念碑がありました。本日の実質歩程12kmということでここは9km地点のチェックポイント。後3kmの表示を見ながら元気を出してウォーキングをしました。
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本日は快晴、気温18℃ながらかなりの強風で体感温度は低かったです。多くの方は風を通さない防寒の衣類を着込み歩け!歩けでした。暑がりの私もさすがに風通さないベストを着用。唐子中央公園で小一時間の休憩とゴール前に来てお祭り騒ぎのアトラクションなどを大いに楽しみゴールには4時間で到達。

埼玉県警音楽隊のパレードの様子。
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松葉町のお囃子。
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ゲットしたお土産の色々。
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今回で3日間連続ウォーキングを5年間達成でき、大いに満足しました。
元気が何よりなのです。また来年も参加できるように頑張ります。
そうそう参加者集計を見ましたところ、1日目23225人、2日目30247人、3日目33678人、合計参加者延べ人数87150人とありました。傾向としては私のように10kmの参加者が一番多かったようです。道理で狭い道路ではラッシュアワーのような込み合い方でした。
無事に終了し、関係者の皆様、中学生のボランティアの方々もお疲れさまでした。お世話になりました。感謝!!
posted by yunofumi at 00:13| あちこちウォーク

2016年11月07日

2016.11.5 第39回日本スリーデーマーチ2日目

吉見百穴・森林公園ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒上沼公園⇒砂田第一公園⇒市野川⇒岩室観音堂⇒吉見百穴⇒常盤苑⇒東京農業大学第三高校・附属中学校⇒市民病院入口交差点⇒市の川小学校(チェックポイント)⇒JA埼玉中央本店⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート前に梶田先生のパネルと記念撮影
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岩室観音堂。
吉見百穴手前にありました。すぐ裏手に広がる山は、武州松山城の跡地で、松山城の搦め手の一部にも位置しているとのことです。右と左に岩穴があり仏様が多くあるとのことでした。今日は急ぐためあまり探検しませんでした。
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吉見百穴(よしみひゃくあな)は古墳時代後期の横穴墓群の遺跡。ここは凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡。穴の数は219個もありこのような遺跡としては日本一の規模だとのこと。穴の入り口は直径1m程度、でも内部はもう少し広くなっていることが多いとのことです。
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途中ののどかな風景。
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ゴール前のよさこい陣屋祭の様子。
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市の川小学校は本日の歩程が実質10kmながらチェックポイントが8kmのこの地点でしたからやや遠かった印象でした。でも朝はやや曇りでしたが途中から晴れたので気持ちよく楽しみながら約3時間、21000歩でゴールしました。
posted by yunofumi at 23:19| あちこちウォーク

2016.11.4 第39回日本スリーデーマーチ1日目

和紙の里・武蔵嵐山ルート
道順 スタート(市立松山第一小学校)⇒県立松山高校⇒みどりとふれあいの路⇒東武東上線森林公園駅南口⇒北口⇒みやこ橋⇒新郷公園(チェックポイント)⇒東松山工業団地⇒八雲神社⇒虎御石⇒箭弓稲荷神社⇒東上線アンダーパス⇒八幡神社松山陣屋鉄砲場跡⇒ゴール(市立松山第一小学校)

スタート付近の様子
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森林公園駅は2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎となっている。傍に森林公園があるので始発や終点駅でもある。朝夕は東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線・副都心線直通列車がまた2016年から元町・中華街からもメトロ車・東急車も乗り入れている。
森林公園は埼玉県比企郡滑川町と熊谷市(北口周辺のみ)にまたがる比企北丘陵にある国定武蔵丘陵の公園。国の明治百年記念事業の一環として1974年に開設された。広さは304haと広大で四季折々も楽しめますから埼玉県民は遠足をはじめ一度は訪れていると思います。

新郷公園は芝生も広々しており、テニスコート、トイレ、駐車場が完備しておりチェックポイントとしては最適。ここまでで4km地点なのでほっと一息。和やかに暖かいお茶の接待などあり、持参のおやつを食べてほっと一息しました。

箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)。
この神社は牡丹園で有名。はじまりは1923年(大正12年)に東武東上線坂戸・東松山間の延線竣功を祝し、東武鉄道初代社長・根津嘉一郎さんが牡丹並びに藤、松を奉納されたことだそうです。現在は約3500uの園内に、1300余株の牡丹があり、毎年4月中旬頃より、つつじや藤の花と合わせて見事なのです。

ステージでの歓迎の演奏の様子
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本日は快晴、気温18℃、微風。ウォーキング日和でした。実質歩程10km、約20000歩をスタートから終了まで約3時間を要しました。おやつを食べたり花々を楽しんだり、十分道草をしましたので元気なウォーキングができた1日でした。
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posted by yunofumi at 23:12| あちこちウォーク

2016年11月03日

2016.11.1 第6回東京の新発見旅「品川区」

〜品川駅〜旧東海道〜御殿山〜目黒川〜池田山〜

JR品川駅北口改札⇒品川セントラルガーデン⇒東京都交通局品川自動車営業所・北品川1丁目⇒八山通り栄歩道橋⇒東海道品川宿・北品川本通商店会⇒栄亀庵⇒問答河岸跡石碑⇒北品川郵便局⇒土蔵相模跡⇒藤沢宿の兄弟松⇒品海公園・坂下宿の御道松⇒一心寺⇒聖跡公園(本陣跡)⇒東海道北品川交差点⇒品川宿交流館⇒北馬場参道通り商店街⇒品川神社板垣退助の墓⇒御殿山ヴィラ⇒北品川社宅⇒権現坂⇒権現山公園・北品川3丁目⇒北品川郵政官舎⇒陸橋⇒御殿山庭園・御殿山の頂上⇒東京マリオットホテル⇒セルビア共和国大使館⇒原美術館⇒御殿山通り⇒翡翠原石館⇒御殿山の坂⇒居木橋(いるきばし)⇒イーストタワー⇒大崎ゲートシティ⇒O美術館⇒ザ・パークタワー・荘川桜⇒容器文化ミュージアム⇒大崎フォレスト⇒品川消防団地域活動センター⇒Dou Feel島津山・東五反田3丁目⇒島津山眼科⇒都営地下鉄五反田駅⇒東京デザインセンター⇒Repas de Naoshima(昼食)⇒五反田公園の桜並木⇒池田山地域安全センター⇒駐日ベラルーシ共和国大使館⇒ねむの木の庭⇒インドネシア大使館官邸⇒池田山公園⇒上大崎郵便官舎⇒本願寺⇒常光寺・福沢諭吉石碑⇒隆崇寺・伊東深水天井絵⇒子守地蔵・白金5丁目⇒国立科学博物館附属自然教育園・大蛇の松・館跡⇒JR目黒駅

品川セントラルガーデンは、品川駅東口地区再開発地区計画の開発区域のうち A1地区(品川インターシティ)、B1地区(品川グランドコモンズ)の建物の間に南北に広がる幅約45m、長さ約400m、面積約2haの広大な歩行者大空間の名称とのこと。久しくこちら側に来ていなかったので びっくりでした。
品川セントラルガーデンの基本テーマはみちもり広場で、「みち(道)空間」とは、人と人とが直面してコミュニケーションをとる広場型ではなく、そぞろ歩きの合間、買物の合間に好きな場所に立ち寄れる区間を意味し、「もり(杜)空間」とは、人と人とが自然を介して出会う心安まる空間を意味しているとのことでした。

東海道品川宿・北品川本通商店会。
品川宿は、江戸からでる様々な街道のうち最も重要視された東海道の1番目の宿場(1601年指定)である。目黒川を挟んだ南・北品川宿と享保期にできた歩行新宿(北品川)とで構成されており、宿場の家々は1600軒、住む人7000という活気ある土地柄でした。 また、北の吉原と比べ品川は南といわれた遊興の場所として有名。数年前に東海道五十三次を歩き終えた者としては懐かしく、相変わらず今でも、江戸時代と同じ道幅の所がありました。

問答河岸跡石碑。
無理問答(むりもんどう)は、言葉遊びの一種。
確か、問う側が「○○なのに××とはこれいかに」というと答え側が「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるという形。
このような無理問答は、江戸時代からあったとのこと。ここで1640年、徳川家光が附近にある東海寺_(品川区)を訪れた際、ここで沢庵和尚と問答をしたとのことです。
    家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
    沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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土蔵相模跡は、高杉晋作など幕末の志士たちの会合場所としてよく登場する妓楼とのこと。桜田門外の変で大老・井伊直弼を襲撃した浪士たちも、前夜ここに投宿し、浮き世で最後の宴を張ったと伺いました。

品海公園は八ツ山と目黒川の間の旧東海道に面した細長い公園。日本橋から二里の距離にあるので道標がありました。また、「品川宿の松」が植えられています。
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一心寺は、今から160年ほど前(安政2年1855年)に井伊直弼により開山したと伝えられています。明治初期に火災で消失した寺を再興した後、昭和になって「中僧正弘道大和尚」によって成田山分身の不動明王を本尊として興したことから通称は「品川成田不動尊」と言われているとのこと。そしてここは「東海七福神」の一寺としても有名。昭和7年に大東京市に品川が編入となったことで「一心寺」には、七福神の寿老人を祀ったのです。
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聖跡公園(本陣跡)
品川宿は江戸四宿のひとつ。東海道五十三次では一番目の宿場。ここは本陣があった所で品川三宿の中央部にあたり、東海道の参勤交代の大名、公家、門跡などが往来し大にぎわいだったようです。宿駅制度は1872年(明治5年)に廃止。ここは1868年(明治元年)明治天皇の行幸がありその時御在所となった場所なので聖跡公園となったのです。

品川宿交流館は、品川宿が所有する建物をこのまちで21年間まちづくり活動に取り組んでいる「旧東海道周辺まちづくり協議会」が管理、運営する施設で2009年(平成21年)にオープン。「旧東海道周辺まちづくり協議会」は「品川宿交流館」をまちづくりの拠点として、品川宿の情報発信基地として、地域住民と観光やビジネスで品川宿を訪れる人々が交流し、品川宿に新しい活力が生まれることを願い運営しているとのことです。また、この建物にあわせ周辺景観を整備し、品川宿らしい歴史性を感じる街並み作りはこちらのおかげのようです。
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品川神社
後鳥羽天皇の御世、1187年(文治3年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神、天比理乃 命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は品川神社と改めたのです。
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敷地内には富士山を見立てて作られた人工の山、高さ15mの「富士塚(ふじづか)」があります。日本では昔から富士山を登ると、ご利益(ごりやく:幸運・仏や神のもたらす恵み)を受けられると考えられてきましたが実際に富士山に登るのはとても大変などで富士塚が作られたのです。
富士塚を登れば、富士山を登ったのと同じご利益があるとのことです。
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品川神社の「双龍鳥居」がとても立派です。鳥居の右側には「昇り龍(のぼりりゅう)」、左側には「降り龍(おりりゅう)」が彫られています。日本には多くの神社がありますが、鳥居に龍が彫られている神社はっても珍しいでのす。巻きつくように彫られていました。
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品川神社境内裏手に、板垣退助の墓が夫人の墓と並んで建っていました。墓の傍に、遊説中に刺客に襲われた際に言ったと伝えられている有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」が刻まれた石碑もありました。板垣は、明治7年、日本で最初の政党である愛国公党を結成。日本に国会の開設を促し、自由民権運動の父と呼ばれる政治家。自由党(現/自由民主党)の初代総裁を務め、晩年は、社会事業にも尽くした方だそうです。
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原美術館は、私邸として1938年に建造された建物を改装し、1979年に現代美術専門館の草分け的存在として開館。年間5−6回の展覧会に加え、講演会、パフォーマンス等各種イベントを通して国内外の現代美術を紹介しているとのことです。入館者のみが利用できる中庭に面したカフェやミュージアムショップもある。
只今は篠山紀信展「快楽の館」が年明けまで開催中とのことでした。
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翡翠原石館
縄文時代から勾玉として珍重され、元祖パワーアイテムとも呼べそうな翡翠(ヒスイ)の原石を常時100個以上展示している個性的な博物館。館長の鶴見信行氏は自動車部品製造会社を経営する傍ら、約30年かけて翡翠を収集。世界有数の産地である新潟県糸魚川の翡翠を後世に残すべく、2004年に博物館をオープンさせたとのことでした。中をじっくりみたいものです。再訪を心にきざみました。
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容器文化ミュージアム。
東洋製罐グループ新本社ビル1Fに新設された、容器包装の文化を発信するミュージアムです。太古の昔から最新の容器包装まで、その歴史や技術・工夫を紹介していました。東洋製罐は1917年の創業以来、「包む」技術を通じて社会に貢献をしてきたとのことです。本施設は、資料館であり、ショールームであり、更には企業と市民の新たなコミュニケーションを生み出す場を目指した施設でした。
入口すぐにインバーテッドボディメーカーがありましたこれは。約100年前の自動製缶機とのことです。その優れた製缶能力により、缶容器製造の発展に大いに貢献したとのことでした。自動製缶機が開発されるまでは、中身を詰める缶詰会社の職人が手作業で缶を作っていたのです。
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ねむの木の庭はもともと皇后美智子の生家として知られる正田家の邸宅があった所。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した趣きのある建物だったが、故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納されたのです。建物の老朽化が激しく、建物は2002年(平成14年)に解体されたとのこと。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得し整備のうえ、2004年(平成16年)に「ねむの木の庭」として開園したのです。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因んでいるとのことでした。様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので特別広くはないのですが、皇后・美智子に因むバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられていました。
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池田山公園のあたりは江戸時代は岡山城主・池田氏の下屋敷があったところ。付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれていたとのことで、廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていたのです。戦後しばらく私人の邸宅があったが、品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備、1985年に区立公園として開園したのです。現在でも江戸時代の回遊式庭園が良好に整備・保存されており、一般公開もされています。
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常光寺には福沢諭吉先生永眠の地の石碑がありました」。
お墓は、もともとはこのお寺にあったのですが、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
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また常光寺には幼稚舎創立者の和田義郎碑もありました。
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隆崇寺は寛文9年(1669)に増上寺山内の山下谷に創建され、明治37年(1904)に伊皿子(港区)にあった長善寺を合わせて現在地に移ってきたとのこと。隣接地にあった善長寺は、寛永年間(1624〜44)に創建後、寛文8年(1668)からこの地にあったが、明治になって無住となっていたため、明治38年(1905)に隆崇院に合併されたのです。
深水一門の天井絵は1962年(昭和37年)竣工の本堂の天井に、日本画の巨匠伊東深水と、子息万耀、および一門の画家によって描かれた鮮やかな彩色の花の絵。天井の中央に深水の「牡丹唐獅子図」、周囲に大小各20面の花の絵を配置しており1967年(昭和42年)に完成と伺いました。
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国立科学博物館附属自然教育園は、大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地。白金台地は、洪積世(20〜50万年前)海食によって作られたようです。園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されています。
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平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと思われます。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明。白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。江戸時代になると、増上寺の管理下となったが、1664年(寛文4年)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残だろうと思われます。
昭和24年文部省の所管、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っているとのこと。
園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹、ススキやヨシの草はら、池や小川などがありました。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察もできるようです。
園内の植物には種名表示板や解説板が整備されており、工夫がされておりました。

本日参加者は17名、信野講師、伊藤CDで順調に2万歩を闊歩。天候は10:00出発時小雨でしたが1時間経過辺りからほぼ止みはじめ、午後は日差しもまぶしいくらいでした。いつものように16:00前には終了し、元気に帰宅しました。
そうそう、本日は以前、東海道五十三次でご一緒した方に久しぶりにお会いしました。懐かしく以前のウォーキング仲間のお話しでき、これも嬉しいことでした。また次回も頑張ります。
posted by yunofumi at 21:14| あちこちウォーク

2016年11月02日

2016.10.27 秩父三十四観音霊場巡り3日目

札所29-30-32-31-33-34

第29番 長泉院(ちょうせいいん)本尊・馬頭観音
ご詠歌 わけのぼり むすぶ笹の戸 おしひらき 仏をおがむ 身こそたのもし
参道入口には大きな枝垂れ櫻がありました。春は素晴らしいでしょうね。
堂内の板額の桜絵は葛飾北斎作とのことでした。
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第30番 法雲寺(ほううんじ)本尊・如意輪観世音
ご詠歌 いっしんに 南無観音と となうれば 慈悲ふか谷の ちかいたのもし
山の斜面に池や庭園となっており、その上に観音堂がありました。
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第32番 法性寺(ほうしょうじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 ねがわくは 般若の船に のりをえん いかなるつみも 浮かぶとぞきく
鐘楼門から79段の石段の上に間口13間の本堂、岩壁に観音堂がありました。
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第31番 観音院(かんのんいん)本尊・聖観世音
ご詠歌 みやま路を かきわけたずね ゆきみれば 鷲のいわやに ひびく滝つ瀬
山門に石造りの日本一の大きな仁王尊は4m。石段を296段上りようやく到着。10分間以上かかったような気がします。大岩壁の下に観音堂、その横に20mの聖浄の滝、麿崖仏は弘法大師の一夜爪彫りといわれているとのことでした。
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第33番 菊水寺(きくすいじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 春や夏 冬もさかりの 菊水寺 秋をながめに おくるとしつき
堂内に子がえしの絵図と孝行和讃の絵図がありました。
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第34番 水潜寺(すいせんじ)本尊・千手観世音
ご詠歌 よろずよの 願いをここに 納めおく 苔の下より いずる水かな
ここは日本百観音の結願寺とのこと。堂前に百観音お砂踏がありました。
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最後の札所で結願となる日を迎えました。朝は8:00にホテルを出発し、午後14:15にはすべて終了。天候は晴、微風ながら23℃。とても気持ちの良い1日でした。
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この3日間お世話になった先達は木村克さん、CDは藤井一郎さん。
先達さんは日頃の知識の集積も大変だろうし、また後を追いかけ参加者が行程を進めますので気苦労も多かったと思いました。CDさんは通常の添乗と違い、参加者の希望に沿ったご納経を代理でいただくわけですからこれも時間と体力勝負。お二人ともお疲れさまでした。
観音霊場巡りは、観音様が祀られているお寺を巡礼し、信仰を深めたり、お願い事をしたりすることだとのこと。お陰様で差し迫ったお願いがない私でしたが元気なうちに一度体験したいと思い参加したのです。自分としては真剣に参加されている方々には邪魔にならないように気を付けました。そして西国三十三所観音、坂東三十三所観音に秩父三十四所観音を合わせたものを日本百観音と呼ぶことも知りました。この百観音を一回りとして今回五回目を終了した方がおられたのには驚きました。約20年かかったそうです。結果的にお話からとても幸せな方と思いました。御利益ですね。
それとまた観音様を前に夫々のお堂前でお経本をもとに唱和しますがこれが難解!!最初は目もくらむばかり!途中から字が見えてもまともに声を出しての音読は難しく、ましてお経の内容はチンプンカンプン。これってかなりの勉強が必要とも理解しました。長年の家庭での習慣も大切そうでした。まずは色々考えさせられた2泊3日の旅でした。
無事に終えられたことをまずは感謝!感謝!ご朱印はじめお土産も一杯抱えて無事帰宅しました。皆様お世話になりました。
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posted by yunofumi at 22:00| ドタバタ日記

2016年11月01日

2016.10.26 秩父三十四観音霊場巡り2日目午後

札所巡り順16-17-14-13-12-26-27-28

第16番 西光寺(さいこうじ)本尊・千手観世音
ご詠歌 西光寺 ちかいを人に たずぬれば ついのすみかは 西とこそきけ
本堂にはお釈迦様の涅槃像の彫刻、回廊お堂には四国88か所のご本尊がありました。
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第17番 定林寺(じょうりんじ)本尊・十一面観世音
ご詠歌 あらましを 思い定めし 林寺 かねききあへず 夢ぞさめける
梵鐘は1758年(宝暦8年)の奉納で秩父三名鐘とのこと。札所巡りとしてはもともと一番寺だったとのこと。昔は林寺といい、秩父神社近くにあったようです。
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第14番 今宮坊(いまみやぼう)本尊・聖観世音
ご詠歌 昔より 立つとも知らぬ 今宮に まいるこころは 浄土なるらん
江戸時代には今宮坊は観音堂と今宮神社の別当だったとのこと。明治初年の神仏分離と修験道廃止で今のように別々になったのです。
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第13番 慈眼寺(じげんじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 御手に持つ はちすのははき 残りなく 浮世のちりを はけの下でら
札所1番と似た感じの観音堂でした。薬師堂は「め」にご利益があるとのことで目薬の木から作った「目茶」を買いました。
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第12番 野坂寺(のさかじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 おいの身に くるしきものは 野坂でら いま思いしれ のちの世のみち
御堂はとても綺麗で、天井にはこの寺院に咲く花80種、90枚の絵、25菩薩、34所墨絵額などとっても見ごたえがありました。
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第26番 円融寺(えんゆうじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 たずねいり むすぶ清水の 岩井堂 心のあかを すすがぬはなし
本堂は大きく間口8間あるとのことでした。
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第27番 大渕寺(だいえんじ)本尊・聖観世音
ご詠歌 夏山や しげきがもとの 露までも こころへだてぬ 月のかげもり
総檜造りの月影堂は平成8年に再建されたとのことでした。
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第28番 橋立寺(はしだてどう)本尊・馬頭観音
ご詠歌 霧の海 たち重なる 雲の波 たぐいあらじと わたる橋だて
高さ80mの岩壁の下に観音堂がありました。お茶屋さんの所には橋立鍾乳洞があるとのことでしたがゆっくりできず、見られませんでした。
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本日は朝8:00ホテルを出発、夕方早めの16:30には終了。
1日で16寺院を巡り約11000歩。少し離れた寺院もあり、バスの中での休憩もでき、元気に終了。感謝!!
posted by yunofumi at 19:04| ドタバタ日記